第二次大隈内閣の施政-4-著者
松岡 八郎
著者別名
H. Matsuoka
雑誌名
東洋法学
巻
27
号
2
ページ
1-23
発行年
1984-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003598/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja第二次大隈内閣の施政
(四)松 岡
二 前期の施政︵続ぎ︶ ︵1︶ これまで述べてきたように、大正三年︵一九一四年︶二月ごろにおける大隈内閣の当面する施政上の重要問題と しては、第一に内政上の問題として、第三五議会の開会を間近に控え、陸軍の二個師団増設間題やそれと関連する衆 議院解敵問題があり、第二に外交上の問題として、青島陥落を﹁サイコ鴇ジカル・モーメント﹂として決定された帝 国主義的な対中国交渉の訓令案を今後いかに具体化していくのかの問題があった。 このように内政上の重要問題として大隈内閣は、元老の意向にもとづぎ、すでに大正四年度予算案に増師予算を計上 することを決定しており、もし絶対過半数の勢力を有する野党政友会が、第三五議会においてこれを否決するときには、 衆議院の解散をも辞さない意思を有しており、さらにはその解散によって政友会の勢力を殺ごうとすら考えていた。 こうして増師問題をめぐって、第三五議会においては、大隈内閣と政友会とは正面衝突するのではないかと予想さ東洋法学 一
第二次大隈内閣の施政 二 れており、増師予算の成立が危ぶまれる状況にあった。だがこのような状況のもとでも、元老山県有朋およびその配 下の陸軍は、明治末期の第二次西園寺内閣以来の懸案事項であった増師をこの際なんとか実現させたいという強い意 向をもっていた。したがって、由県および陸軍と政友会総裁原敬との間で種々折衝が重ねられ、すでに述べたように、 二月初めごろにおいては、山県は、増師を第三五議会で成立させ、その後解散されるのがもっとも好ましいが、そ れでは政友会縫原が受け入れるはずはなく、さりとて増師の不成立によって解敵されると、政友会が増師反対に硬化 するのは確実であると考えていた。また原は、政友会が議会で増師に反対すれば解散されるのは確実であり、それは 大隈内閣のもとで衆議院議員総選挙が行われることになって、政友会にとってはぎわめて不利であり、それでは解散 を避けようとすれば、増師について妥協しなければならない。しかも増師を承認しても解敵にならぬとはかぎらない と考えていた。要するに、山県は増師も解散も欲していたのであり、原は大隈内閣のもとでの増師を好まず、また当 然解散も好まなかったのである。だがしかし、山県および陸軍と原とは、ともに両者の折衝によってなんとか事態を 打開しようとは考えていたといってよいであろう。こうして第三五議会を間近に控えて、増師問題をめぐって、大隈 内閣日同志会、山県および陸軍、原紅政友会、好意的中立の立場に立つ国民党などの間で種々の駆け引きが行われる ことになる。 当時、わが国の経済状態は、大正初頭以来の悲観的不況状況のもとで、世界大戦が勃発してわが国は参戦したが、 当初は前途の見通しもたたず、むしろ対外為替取引の中絶、翼1駆ッパ諸国への輸出入杜絶、航路不安などによって、 ︵2︶ この不況が一層激化して株式相場も暴落となり、一時は恐慌状態となる有様であった。
このような経済状態のもとにおいて、大隈内閣は、元老の要請とさぎに決定した防務会議の承認とにしたがって、 陸軍の二個師団増設計画および海軍の八・八艦隊への前提としての八・四艦隊建造計画とを組み入れた大正四年度予 算案を編成し、その成立を期していたが、殊に増師は、前述のような経済不況下の世上ではとかく評判の悪い予算で あった。したがって与党同志会においても、野党時代から唱え続けてきた緊縮財政の主張からいっても、また経済不 況からいっても、この予算の計上には少なからず当惑し、この増師問題を論ずることをことさら回避する有様であっ ︵3︶ たが、大正三年二一月三日、第三五議会を直前に控えて開かれた同党の大会での宣言においても、大隈内閣を支持す る立場を明確に示すことは勿論、従来からの政費節減の主張を強調してはいるが、陸海軍備の充実、特に増師につい ては積極的な賛成の意思を表明してはいなかった。 大隈内閣に対して好意的中立の態度をとってきた国民党は、総理犬養毅が多年にわたって唱えてきた﹁経済的軍備 ︵4︶ ︵5︶ 論﹂の見地から、増師に対していち早く反対の態度を明らかにしていたが、一二月四日の同党の大会における決議で も、﹁一、国防の根本を定め、諸般の武備を整頓し、国民皆兵の主義を遂行する為め、二個師団増設を排斥すべし﹂ として、断乎として増師に反対する意思を示したのであった。 ところが、大隈内閣反対の立場に立つ野党政友会では、前述のように山県および陸軍と原との間で折衝が行われて、 山県が増師の実現を熱心に望んでいるのに対して、原は増師を承認するのと引き換えに、大隈内閣を退陣させようと ︵6︶ はかり、二月四日の山県との会談以後も、田中義一、後藤新平、高橋是清などと協議し、山県をして議会を解散せ ずして内閣を総辞職に追い込むように画策していた。したがって原は、増師に対する政友会の態度を容易に明らかに
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第二次大隈内閣の施政 四 ︵7︶ しようとはせず、二一月三臼に開催された政友会の大会での演説においても、外交、財政、行政、経済的不況などの 諸問題に関しては種々論じてはいるが、増師問題については、﹁其他国防問題の如きもありますが、是れは十分なる 調査を遂げて相当なる処置を致して宜しい。一昨年来の行懸りの問題としては大層なる声を揚げて居るのであります けれども、問題自体は、外交一たび過まつて国家全体を非常なる場合に遭遇せしむるなど申すが如き大問題とも思へ ぬのでありますが、兎にも角にも此問題は十分なる調査を致して相当の解決を致せば宜しいのである。﹂と述べてい ︵8︶ るにすぎず、また大会の宣言においても、﹁国防間題ノ如キハ時運ノ趨勢二鑑ミ考査審究以テ至当ノ措置ヲ採ルヘキ ナリ﹂として、具体的な態度を示さなかったのである。だが大隈内閣に対しては、勿論、﹁内外ノ政務其ノ宜ヲ失シ﹂ として反対の姿勢を採っていたことはいうまでもなく、また党内においては、増師反対の論議が盛んに行われていた。 このように第三五議会開会を目前にして、各政党は増師についてそれぞれの思惑や政略にもとづいて行動していた が、内閣の側においては勿論増師の成立を期しており、このために大浦兼武農商務大臣の指揮のもとで、衆議院に絶 ︵9︶ ︵憩︶ 対多数の勢力を有する政友会の切り崩し工作鷲買収を開始していた。当時、衆議院の勢力分野は、野党政友会は二〇 二名、与党同志会は九五名、準与党中正会は三六名、好意的中立である国民党は三四名、無所属は二二名であり、与 党は野党に対抗する勢力をもたず、さらにもし増師問題について、政友会と国民党とが反対の立場で提携するとぎに は、増師の成立は危ぶまれる状況にあり、したがって衆議院の解散は免がれがたいのではないかと思われていた。 ︵U︶ ︵捻︶ 第三五議会は二再五日に召集されて、七日には開会され、八日には大隈首相が施政方針演説を行ったが、大隈は その演説において国防の充実を強調し、﹁国防の施設に関しましては、政府は嚢に防務会議を設け、慎重なる講究を
経まして、国防充実の方針を定め、敢に今期議会に提案する事といたしました。﹂と述べて、増師をもって内閣の基 本的施策としたのであった。つぎに加藤外相が世界大戦参戦後における対ドイッおよび対中国についての外交経過に ︵1 3︶ ︵錘︶ 関して演説し、続いて若槻蔵相が大正四年度予算案および財政計画について演説したが、その予算案においてもっと も注目された増師に関する費用としては、大正四年度には経常費二四万円、脇時費四七万円を計上し、今後七力年の 間に臨時費として総額一二〇〇万円を要し、その増師の完成後には経常費として年五〇〇万円を必要とするとしたの ︵15︶ であるQこうして増師問題は第三五議会における最大の争点となっていった。 ︵焔︶ 議会が始まると、内閣側では、大浦によって前述のように政友会の切り崩し工作が行われて、政友会を擾乱し、増 ︵算︶ 師賛成の勢力を増大しようとするとともに、他方では大隈の増師貫徹の高姿勢が野党を挑発して、解散に追い込もう としていたが、政友会側では、党員の間に次第に増師反対の方針に旗幟を鮮明にすべしとする主張が盛んとなってき ︵娼︶ た。原は﹁今日其方針を明白にするも利益なし、暫く此儘になし置くべし﹂と述べ、﹁政府は我党の旗幟鮮明ならざ ︵廻︶ るに付如何なる時機に如何なる案を提出せんも知れず大に惑ひたるも、我真相を得ざるに苦み居るものの如し﹂とし て、党員に自重を求めるとともに、なお依然として、増師に対する態度を明白にすることをしなかった。また内閣の 側においては、政友会に対する切り崩し工作について内部に批判が起こったが、﹁此内閣は増師の為めに存立するも ︵2 のにて増師を見合すは即ち内閣を破るものなり、﹂との決意のもとで、切り崩し工作のみならず、この内閣と政友会 との対決状況を打開する方策として、大隈首相、加藤外相、大浦農商務相が原総裁と会見すべきであるとの意見もあ ︵21︶ ったが、大隈の反対のために実現せず、かくて内閣と原蕪政友会との直接にして公然たる折衝は行われることがでぎ
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第二次大隈内閣の施政 山 ノ\ なかった。 転︵22︶ だがこの間、原は後藤新平や田中義一などを通じて、小田原︵古稀庵︶滞在中の山県と接触を保っていたが、山県 は、事態は次第に内閣と政友会とが衝突して、政友会が増師反対の態度を採らざるをえなくなり、したがって衆議院 が解散されるのは不可避ではないかと思われる状況となりつつあると考え、できれば増師を含む予算案を可決して後 ︵23︶ に、政友会が内閣不信任案を提出して、衆議院を解散することとしたらどうかと望んでいるようであった。これに対 して原は、なお山県と直接会談して折衝を試みようとして、田中をして山県の帰京を促していたが、山県は、﹁自分 帰京せば政府解散を奏上せし場合に之を差止むる事を原より請求するならんが、如此は元老として憲法政治已来出来 得ず、﹂として、上京を引ぎ延ばしており、また﹁原が増師間題に付苦心の跡は宣言にも演説にも現はれ居れども、 ︵2 4︶ 遂に反対に巻込まるべし﹂と悲観的な考えに傾いていた。 ︵25︶ だがしかし、政友会との妥協すなわち解散の回避によって増師を実現しようとしていた田中は、熱心に山県と原と の間を斡旋し、﹁増師成立の見込あるとぎは一般的不信任の如き場合の外他の問題にて解敵せんとする場合は陸相之 ︵2 6︶ に同意せざる事、又増師に︵政友会がー筆者注︶反対するも他日成立の見込確実なる場合にも其解散に反対する事等﹂ の覚書を岡陸相と陸軍幹部との間で取り交わそうとしていた。 ところが↓二月一六日には原と田中とが会見したが、田中が、﹁山県は後藤が屡々解散を止むる事を云ふは原と相 談の上と思ふ、故に帰京せば原より此事を迫らるべし、又各方面よりの情報によれば政友会は到底増師反対になる べしと思ふに付、過日田中より陸相に注告せし事︵前述の覚書ー筆者注︶を取消すべし、田中取消出来ざれば山県
より直接取消すべしと申越たるに付、田中は岡に之を取消したり、又山県は田中より如何に説くも山県は望なしとて ︵2 7︶ 断念し居れり遺憾の次第なり﹂と述べて、山県および軍部と原口政友会とが妥協し、解散を回避して増師を成立させ ようとする方策が絶望的であるとしたσであった。これに対して原は、﹁先達︵二月四日i筆者注︶山県と会見の 際増師問題は何とかして解決せんと欲す、但し政府が解散を唱ふるに付故障あり等の事情を告げ置ぎたるが、其解決 せんと欲すと云ひたる責任を重じて大会の演説も宣言も知れる通になし置き、尚ほ院内総務等に質問も控させ又今日 まで余の所見を発表せざるなり、然るに山県は余の言を疑ひ今日まで上京面会する事を避くるは何の為めかと責め、 又山県が陸軍側を戒しめ山県自身も陸軍側も原総裁にのみ内談する事となすべしと告げたる由内談ありしに拘らず、 陸軍側は種々の術策を弄し謂れなき情報を信じて大局を誤るに非らずや、今日と雛ども増師解決出来ざるに非らず、 去りながら今となりては何か他に不信任等の間題を増師の解決と同時に党議を決せざるべからず、即ち一方を押へ一 方を揚るに非らざれば此大勢を挽回すること能はず、而して此儘にて二十日過ともならばもはや増師反対の一方に傾 くの外なき大勢なり、此時に至りて余独り心配するも寸効なし、又政府は無理押に増師案を通過せしむるも其結果は 政友会は長く増師反対の往掛りを生ずべく、政府は常に武装せざれぼ国防問題を解決すること能はざるに至るべし、 ︵2 是れ国家の為めに甚だ憂ふべき次第ならずや﹂と述べて、これ蜜での山県および陸軍の動静を強く非難するとともに、 時間的にはぎわめて余裕はないが、まだ解決の道が全く閉ざされてしまったわけではないことを強調して、もしこの まま大隈内閣が増師案を強行し、それに政友会が反対して、衆議院が解敵に追い込まれていくならば、増師間題は将 来にわたって禍根を残すこととなるであろうと説いたのであった。このような原の説得に対して田中は、是非山県と 東洋法学 七
第二次大隈内閣の施政 八 会見して欲しいと述べたが、原は﹁余が政友会の総裁たり、山県公は元老たり、此面会其ものが既に内外に対して必 要なり、山県公帰京して余と会見せば政府破壊の陰謀にても之あるが如く政府は嫌疑するならんも知れざれども、夫 ︵29︶ れ丈け党の内外には必要なり﹂として、公然と会見すべきことを主張し、さらに﹁山県が解散を止むるに政府より上 奏の際に元老より旨を出す如ぎ事は不可能なりと云ふは勿論なり、故に如此上奏の出来ざる様になさんには、先達内 話の通岡陸相の行動によるの外なし、我党議は二十五六日には通常なれば決定すべき順序なれば、其決定の際に増師 を賛成せば同時に他の問題にて政府を責むる事となるべぎに付、其節政府が解散をなすと云ふ事にては勝敗の念に駆 られて猛然として増師反対に転ずるは当然の勢なるが、国防問題を政争の具となして国内を騒がすは国家の利益なら ︵30︶ ずと思ふ、去りながら山県は傍観し、余の苦心も水泡に帰せぼ、遺憾ながら政界は成往に放任するの外なし﹂と強く 述べて、山県が賛成しない、衆議院解散についての上奏を元老が差し止めるという方法ではなくて、岡陸相が閣議で 解散の決定に反対するという方法によって、解散を回避するよりほかに方法がなく、また政友会は二五.六譲ごろに 決定されるべき党議において、増師賛成の決定をなす予定であり、そうすれば政友会が政府反対を行うとしても、増 師以外の他の問題によって行うこととなるであろうが、この場合にもし内閣が解敵を行うということになれば、政友 会はまたもや増師反対に当然転ずることになるであろうから、増師は不成立となり、国防問題が政争の具に供される ことになるであろう、このような憂うべき状況のもとで、山県がこのまま傍観して過ごすならば、事態は成り行ぎの ままに任せるほかないであろうと切言したのである。田中は原の言葉に感動して、﹁明朝小田原に往ぎ山県に帰京す ︵綴︶ る様に説くべし、夫れにても聞き入れざれば自分は手を引くの外なし﹂と述べたのであった。
︵訟︶ 翌一七日、田中は山県と面談し.その言葉を小泉策太郎を通じて原に伝えてきたが、それは﹁山県目下病臥中にて ︵33︶ 帰京出来ず、若し来訪しくるるならば病床にて会見した﹂︶﹂という会見の申し入れであった。原は﹁斯くては余一存 ︵誕︶ には取極めがたし、小田原に往くは人の視聴を引く事に付明日総務等と協議の上になすべし﹂と答え、一八日には総 務を集めて協議し、その結果、翌一九日には原が小田原に山県を訪問して会談することとなった。 一九日の山県と原の会談においては、まず原は、大隈内閣による議員の買収や衆議院を解散すべしとする威嚇によ って、政友会が非常に硬化し、増師反対の方向に傾いて、内閣と政友会との対立の収拾が次第に困難となりつつある ことを説明したが、山県も﹁自分此間に仲裁の労を取らんとするも、実は現内閣中大浦を除くの外に話の出来る者な ︵35︶ し﹂﹁如此次第なれば如何ともなすべぎ様なし﹂と述べて、事態の解決が困難であるとした。そこでさらに原は﹁此 時局に際しては増師を撤回するか政府を取換るか又は他の問題を以て増師案と転換するか此等の方法を取るの外なけ ︵36︶ れども、蓋し何れも行はれざるべし﹂と山県の考えを打診したのに対して、山県も増師の撤回は到底不可能であると ︵37︶ し、むしろ政友会が﹁増師賛成を断行しては如何﹂と反論してぎたが、原は﹁夫れは少数︵政友会内部の賛成者が少 ︵3 数であるという意味であろう1筆者注︶にて時局を救ふ事とはならず﹂として賛成しなかった。このように種々意見 ︵39︶ が交換された後に、原は﹁増師は一ケ年延期となして此際削除する事を提議し﹂たところ、山県は﹁政友会の態度を 明らかにする為めに明かに決議文にてもあり又明年度に於て今年遅れたる分を繰上るときは夫れにて可ならん、目下 ︵40︶ 又其已上の考案もなからん﹂として賛成するにいたった。ついで原はこの提議を陸軍に伝えることを求め、山県はそ れを承諾するとともに、﹁但現当局には如何に思ふや受合は出来ぬ次第なり﹂との条件を付したのである。こうして 東洋法学 九
第二次大隈内閣の施政 一〇 増師を一力年延期し衆議院の解散を避けようということで両者の合意が成立し、この妥協の線で事態の収拾がはから れていくことになった。 このような山県と原との間における妥協工作が行われていたのとは異なって、もう一つの調停工作が行われていた。 それは財界によるものであったが、財界の長老渋沢栄一が二〇日に原を訪ねて、コ昨日大隈にも面会して目下財政 経済困難の際に付、此際解散の事ありては経済界益々困難なるべきに付、何とか円満なる解決を望むと申出置ぎたる ︵魂︶ 趣にて、余︵原ー筆者注︶にも同様の事﹂を述べたが、原は﹁至極同感にて円満なる解決を希望す、但し如何にせば ︵42﹀ 其結果を得べきやは政府に於て考慮すべき事﹂であると答え、内閣側の考慮を要望した。また同じ日、安川敬一郎 ︵明治鉱業社長︶が原を訪問して、原と大隈との会談について内意を打診したが、安川が﹁増師問題には触れざる事 ︵43︶ を予約の上にて会見を望む様の語気に付、条件付にて面会し胸襟を開らぎて懇談すると云ふ事も妙ならずや﹂と原は 述べて、会談が行われる見込みが立たなかった。一ご一日にはまた安川が訪ね、安川と相談した渋沢も訪問し、渋沢が ﹁今度は大隈と会見を望む事を云ふに付、余毫も異議なし、互に懇談して幸に一致点を発見せば国家の為めなりと云 ふを以てせしに、渋沢も此会見に於て増師に言及せざる様に云ふに付、余は夫れは妙な話なり、筍も胸襟を開らきて 国事を相談するに、予め此事は云ふ勿れと云ふが如ぎ事あるべぎ筈なし、増師も何も持出して而して協議せば始めて ︵44︶ 彼我の意思も通じ得べし﹂と原が説いたので、渋沢もこれを了承したのであった。こうして渋沢は、翌二三日には二 回にわたって大隈を訪問して懇談し、原との会見を要誇したが、大隈は﹁立憲的内閣員として、その主義、政綱を一 郷してまでも、調停案に賛同する事は、この際堪え難き次第である。従つて原君との会見は無用だ。のみならず、そ
れがために外部の誤解を招くかも知れない。が、原君及びその与党が真実に心から挙国一致を希ひ、和衷協同を熱求 ︵菊︶ するなら、又進んで胸襟を開いて談じ合ふこともあらう。けれども今はその時期ではない﹂と答えて、原との会談を 拒否したので、財界首脳者たちによる調停工作は成功しなかった。 こうして原は、前述の山県との妥協の線にしたがって行動していくことになる。原は二〇日には、﹁院内総務等を 集めて我党の態度を決するに付、増師は一年延期となすべし、一年と云ふは意味なぎ様なれども欧洲の戦乱も一ケ年 中には終るべく、終らずとも其実験によりて得たる計画を立つる事を得べきに付、其事に決定すべしと告げたり、但 山県と会見の内容に就きては単に十分に意見を述べて誤解なぎ様になせりと云ひたるのみにて内容を告げず、又議会 ︵媚︶ 解散の事に関しては十中九までは解敵なかるべしと思ふ、去りながら当局者の為す事は保証し得べぎ事に非らず﹂と 述べて、出県との妥協にもとづいて増師を一年延期し、解散を避ける方向へ党幹部たちの意思を導き、さらに翌二一 ︵々︶ 鷺には党員たちの意思をその方向へ向ける努力が行われたのであった。また同じ二一日には水野錬太郎を使者として 山県のもとに送り、書面にて﹁増師問題は他の問題と転換せんと考へたるも行はれず、已むを得ず一年延期に決定す ︵娼︶ べし、而して此決定は明β又は明後日に於てすべぎに付其筋にも此趣旨通報ありたし﹂と申し送り、山県もこれを承 諾したのである。このように増師一年延期説によって、原が事態を打開しようとしたとき、大きな手違いが生じた。 ﹁昨夜︵一二日ー筆者注︶水野と相談の上兼て山県と協議せし通大島陸軍次官を招ぎ我党の趣旨︵一年延期説i筆者 注︶を告ぐる事となすに付、今朝岡陸相に水野面会して次官来訪する様に申談せるに、意外にも岡は次官を送る事を 躊躇せし由、水野帰り内話に付、余思ふに如此意思の疎通なくては岡より大隈等に洩らして却て面倒を醸さんも知れ 東洋法学 二
第二次大隈内閣の施政 一二 ずと考へ、水野より電話にて岡に其申込を取消さしめたり、而して此事を本日書面を以て山県に通じ、尚ほ党議決定 の上は兎に角其趣旨は次官に通ずべきも、斯くては万事翻齪すべく、又政府は議会を解散する決意と聞けば、増師問 題は知らず識らず政争の具となるべしと申送りたるに、山県は大臣右の事とは知らず、次官に会見せよと申送りたり、 事蝕に至る遺憾の次第なること申越せり、次官に直接申送りて宜しき筈なりしも、次官は大臣の許可なくして来らざ るべしと考へ岡に申送りたるが、岡は更に事情を解せざるものの如くなりき。次官を招き我党の方針を告ぐるときは、 次官は其趣旨を以て参謀本部始め陸軍幹部の議を纏め、増師一年延期にて折合はしむる計画にて、此計画は田中義一、 山県と内談の結果に出たるものなり、余と山県の間には単に我党の方針を陸軍次官に告げ置く事を約せしものなるも、 事情は如此又山県は一ケ年延期にて差支なぎ事を明言せしに付其処置を取り居たる事は疑なけれども、岡陸相には山 県之を俗吏なりとて其秘密を告げず、幹部の輿論にて岡を圧伏する考なりし様なるも、岡は大隈等に囚はれて何事も ︵萄︶ なし得ざるものの如し。﹂右のように、原の妥協工作も山県と岡との間の意思の疎通が行われなかったために手違を ︵5 0︶ 生じ、成功しなかった。 だが原はこの一年延期説をいまさら撤回することはせず、これを政友会の党議とすべく、二三日には党の政務調査 会と予算委員会との連合会が開かれて大正四年度の予算を討議し、原は一年延期説を勧告して、全員異議なくこれに ︵瓢︶ 決定し、ついで代議士会に移り、原が同様の趣旨を演説して、一年延期説を党議として決議したのである。 こうして、これまで増師についての態度を保留してきた政友会は、二一月≡二日にいたって、公式に一年延期説を もってその態度を決定し、したがって大正四年度予算に内閣が増師予算を計上することには当然反対することとなっ
た。しかも原と山県および陸軍との間の妥協が失敗に終わったい蜜、政友会と政府との正面衝突は避けがたい状況と なった。 ︵52︶ 当時、衆議院予算委員会はすでに二一月二日以来開催されており、大正四年度予算の審議が行われていたが、二 四臼の最後の予算委員会にいたって、衆議院において多数を有する政友会の前記の態度決定の方針が貫徹されて、8 参政官、副参政官新設にともなう経費を削除し、口文部省所管の水産講習所および伝染病研究所移管にともなう経費 を削除し、匂内務省所管の地方行政監察制度新設にともなう経費を削除し、陸軍省所管の二個師団増設の計画を否認 ︵53︶ し、海軍省所管の駆逐艦八隻、潜航艇二隻の建設を否認する決議をしようとしたのである。 ︵舅︶ このとき大隈首相は、予算を成立させようとする固い決意のもとで、﹁各分科の審査経過によると、全部政府に反 対せられてゐる。殊にわが帝国にとつて最重要な陸海軍の経費を削除されたのは本大臣が深く遺憾とするところであ る。今日は国家多事で、帝国政府が世界の強大な国に対して戦を宣して、未だその戦果を収め得ない秋である。この 時、分科に於ては、政府の重要な施設を悉く否決された。而もその否決は、或は政府不信任の意に出づるやうに思は れる。本大臣は、諸君が静思して本会に於て、全部復活せしめられんことを望みたい。政府は国家が当に為すべぎ責 任上、予算を提出した。これを削除することは、政府は断乎として反対いたさねばならぬ。忠誠な諸君は必ず和衷協 同して、斯の如ぎ適当なる費用は必ず本会で御同意になることを信じて疑はぬ。﹂と述べ、さらに﹁もし諸君にして どうしても反省せられずに、飽迄陸海軍その他の経費を削除さるるならば、本大臣は吾人の憲法上に与へられた権能 ︵55︶ によつて、断然たる処置に出づるであろう﹂と威嚇したのである。だがこのような大隈の懇請と威嚇とを交じえた演
東洋法学
第二次大隈内閣の施政 一四 説にもかかわらず、予算委員会は前記四件の削除を決定したが、翌二五日にはその削除を含む予算修正案が衆議院本 会議に上程されることになった。 政友会においては、すでにその党員に対する内閣の買収工作によって、内部に多少の動揺が起こっていたが、いよ いよ予算問題が最終段階に立ち至ったので、党内の結束を強化するため、二四日には政府によって買収された白川友 ︵56︶ 一ら五名を除名することとし、また二五日には本会議開催直前に代議士会を開き、原総裁より﹁政府誠意なきに付我 ︵57︶ 党は党議決定通勇往湛進すべし﹂と激励したのであった。だが同じとぎ、誘惑された議員一八名が脱党して﹁大正倶 ︵58︶ 楽部﹂を結成するにいたった。 こうして本会議が開かれると、予算委員長大岡育造︵政友会︶より、政府提出予算に対する前記のような削除を含 む予算委員会での決定が報告され、そのなかで、﹁国防問題に関し、予算委員会に於ける多数の主張は、国防は国家 百年の大計なり。必ずしも拙速を貴ばず。今や西欧の天地に空前の大戦乱あり。宜しく時局の推移に留意し、其の実 験的教訓と国際的変化とに参稽し、能く内外の情勢に順応し、堅実なる計画に立つべし。依て此の際当局者をして活 ける事実を根拠とし、更に十二分の調査を遂げしめ、其の成案を基礎として、次年度に審議決定するを至当とすと謂 ︵59︶ ふに在りたり﹂と述べて、政友会の党議として決定した増師一年延期説をもって、予算委員会の決定としたのである。 ︵6 0︶ これに対して若槻蔵相は、﹁政府は到底之に同意する能はず。﹂として政府の原案に賛成するように求めた。 ついで国民党総理犬養毅は予算修正案を提出し、その修正理由を述べたが、﹁其中重立ッタル修正ノ箇条ノ一番ヤ カマシイ間題ニナッテ居リマスモノハ、即チニ箇師団増加ノ経費デアリマス。︵中略︶此問題二対シテハ相当ノ尊敬
ヲ以テ私ハ受取ツテ、決シテ之ヲ藩閥ノ問題デアル、感情ノ問題デアル、争奪ノ間題デアル、トハ私ハ認メテ居ナイα ソレ故二極メテ御互二冷静ノ頭デ研究致シタイト云フコトガ一ッ、モウ一ッ述ベテ置キタイノハ、唯今委員長カラ報 告サレマシタ削除ハ、私ノスル削除トハ意味ガ違フノデアリマス。委員長ノ報告サレマシタ意味カラ云ヒマスルト、 次年度ヲ待ッテ是ガ始末ヲスル、即チ研究スルガ為二次年度二之ヲ送ラレル趣意ト承ハル。私共ハ次年度デハナイ、 ︵駁︶ 今日是ハ不必要トシテ削ルト云フコトデアル。﹂と説明して、すでに一二月四日の国民党大会において決定した決議 の線にそって、政友会とは異なった立場から、増師に反対したのであった。 ︵62︶ 続いて討論が行われ、最後に大隈首相が演説して、﹁今日の陸海軍は大拡張するのではない。或点からいふと、現 下の欠陥を補ひ、同時に多少これを補充する、充実するといふに過ぎぬ。誠にその少額、よく陸海軍大臣がいはれる 最少限度と認むる二箇師団、これも二年三年で出来上るのを財政の調和を保つため余儀なく六年に延ばした。海軍に 於ける八隻の駆逐艦、二隻の潜航艇も、これは急いだら一年で出来るのを財政の都合で二年に延ばした。決して財政 に累を及ぼすやうなものではない。そしていろいろ経済的拡張などといふ名案があるか知れぬが、さういふ理想はい つ実現し得るか知れぬ。実現しない中に国家は国際間の侮を受け、不測の変がその間に生ずる。そこで国防は一聞も 緩うすべからず、治にゐて乱を忘れず、今日大平を装ふとも、いつ何が来るか知れぬ、不測の間に変が生ずる。舷に 於て東洋の平和を保つため、国際間に国の地位を保つため、相当の威厳と名誉と信用を保つべき力は一日も忽にする ︵63︶ ことは出来ぬ。これについては私は陸海軍即ち国防の計画を破る如き削減は甚だ以て遺憾とするのである﹂と述べ、 政府原案に賛成を求めた。 東洋法 学 一五
第二次大隈内閣の施政 一六 こうして討論が終結して、採決の結果、第一に、予算中、最重要問題であった増師については、賛成者一四八に対 ︵艇︶ する反対者二二二をもって否決された。第二に、軍艦建造については、国民党の賛成があって反対者一七七に対する ︵65︶ 賛成者一八四をもって政府案を可決した。第三に、参政官、副参政官の設置は否決され、第四に、地方行政監察官制度 の新設は否決され、第五に、水産講習所および伝染病研究所の移管も否決され、その他については、政府案が可決さ れた。このよう犀国民党の賛成によって建艦計画は可決されたものの、内閣と政友会との対決問題であった増師が否 ︵66︶ 決された結果、大隈内閣は右のような採決の直後、衆議院を解散したのである。 ︵67︶ 内閣は直ちに解散の理由を公表して、衆議院における多数党である政友会が、﹁国政を挙げて政争の犠牲と為し、 一に其の私を遂げんとするもの﹂であって、﹁現内閣は此の如きを目して真に国民多数の意思を代表せるものと認む ること能はず。﹂と述べて、政府をして衆議院を解散せしめたのは、政友会の党略的行動の結果であるとし、政友会 ︵6 8︶ に責任を負わしめたのであった。ごれに対して政友会は、二六日には前代議士会を開き、原総裁が演説して、この内 閣の解散理由に反駁を加え、﹁此解敵は甚だ無意味なるもの、無意昧と申すよりは寧ろ立憲的行動にあらず﹂とし、 政友会が党争を事としてぎたと内閣は批判するが、それは事実と異なり、内閣の側こそ、﹁臨時議会以来、常に我党 に対しては挑戦的の態度を採て﹂ぎたのであり、﹁或人は議会の解散は政府成立当初よりの目的であると申して﹂お り、したがってこの解散は理由のない解散であると反論している。このように解散が行われて、第三五議会は終了し、 衆議院議員総選挙は大正四年三月二五βに挙行されることに決定した。 以上述べてぎたように、なんとか増師を実現せしめたいとする山県および陸軍と、衆議院の解散は政友会にとって
不利であり、増師問題を利用して解散を避けようとする原との間で、妥協工作が行われ、それが増師一年延期説をも って収拾されようとしたのであったが、陸軍側の手違いによって成功せず、その結果、内閣と政友会との対決となり、 元老井上の強い後援もあり、また増師について妥協しないという圃い決意を有していた大隈によって、衆議院を解敵 に追い込むことにより政友会の勢力を殺ごうとする強行策が行われ、それが貫徹されて遂に衆議院解敵となったので あるが、これは明らかに大隈内閣による政友会追い落し策が成功したといってよいであろう。だが大隈内閣も増師の 成立には勿論失敗したのである。かくてこの解散は、政友会側にはその勢力が減殺される可能性の強い事態を生みだ したのであり、大隈内閣側には増師不成立という結果をもたらしたのであった。したがってこの両者の勝敗を決する ものは、いうまでもなく総選挙であり、それ故、大隈内閣雛与党同志会側も野党政友会側もともに懸命にこの選挙を 戦うことになるのである。 ︵王︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ 拙稿 ﹁第二次大隈内閣の施政し ωおよび⑥ ﹁東洋法学﹂︵東洋大学法学会︶ 二五巻二号および二六巻一号 参照。 大久保利謙 ﹁日本全史﹂ 憩 近代皿︵東京大学出版会︶ 一〇九頁参照。 大津淳一郎 ﹁大日本憲政史﹂︵宝文館︶ 七巻 三七五ー八頁 参照。 この論議の要点は、軍備と財政・経済との問には調和が保たれねばならないとし、その見地から現存の師団を半減し、 二年の在営年限を一年に短縮すべきである、ということであった。岡義武﹁臼本近代史大系﹂ 五巻転換期の大正︵東 京大学出版会︶ 三五ー六頁参照。 鷲尾義直﹁犬養木堂伝﹂︵東洋経済新報社︶中巻二五八ー九頁参照。大津淳一郎前掲七巻三七三f五頁参 照。 東洋法学 一七
︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵紛︶ ︵H︶ ︵鎗︶ ︵13︶ ︵廻︶ ︵猫︶ ︵16︶ 第二次大隈内閣の施政 ノ\ ﹁政友会は第二次西園寺内閣当時に示した如く、元来増師論者である。然れども今之に賛成せんか、徒に功を大隈内閣 に収めしむるのみである。之に反して之を阻止せんか、大隈内閣は倒潰を免れない。﹂ 林田亀太郎 ﹁日本政党史﹂︵大日 本雄弁会講談社︶ 下巻 一三九!二三〇頁 参照。 小林雄吾 ﹁立憲政友会史﹂︵立憲政友会史出版局︶ 照巻 原総裁時代 六四ー八頁 参照。 ﹁立憲政友会史﹂ 四巻 六八−九頁 参照。 原奎一郎編 ﹁原敬日記﹂︵福村鐵版株式会社︶ 四巻 大正三年一二月四日 および 同月五日 参照。 ﹁立憲政友会史﹂ 四巻 七三頁 参照。 従来、通常議会は二一月末に開院式が行われ、翌年一月にいたって、初めて議事を開くのを例としていたが、大隈首相 はその習慣を改め、二一月初旬に議事を開く新例を開いた。大隈侯八十五年史編纂会編 ﹁大隈侯八十五年史﹂ 三巻 二 〇一頁 参照。 ﹁大隈侯八十五年史﹂ 三巻 二〇一ー三頁 参照。大津淳一郎 前掲 七巻 三八Oー一頁 参照。 大津淳一郎 前掲 七巻 三八一ー三頁 参照。 大津淳一郎前掲七巻三八三!八頁参照。 ﹁立憲政友会史﹂ 四巻 七九ー八○頁 参照。大津淳一郎 前掲 七巻 四〇五頁 参照。 ﹁深更川原茂輔来訪、政府は買収を始め、江木内閣書記官長、下岡内務次官等其掛にて大浦農相之が指揮をなし居れり、 貴族院議員佐々田懇が周旋人となり木挽町の待合にて関信之助、小山田信蔵、太田直治、板倉中、岩岡伊代治︵此一人は 周原が入れ置ぎたる者︶会合したるも未だ確定には至らず、板倉は二十万円を講求すべしと云ひ十五万円十万円と云ふが 如き請求も匪々にて交渉纏らずと聞けり、故に政府と衝突せぽ可成速かなるを要すと云へり︵昨夜松本剛吉来訪大浦は買 収七名は確かなり、都合よければ二十名を得べしと云ひたるも之が為めならん︶。﹂﹁原敬目記﹂四巻 大正三年二一月四 日 参照。﹁政府は議員買収に力を入れ居るやにて、板倉中再び来訪、大浦より頻りに面会を求め来るも未だ赴かずと云 ひたるが、板倉の行動も悔しけれども政府は解散六ケしければ此手に出づるの外なかるべし、彼等の小策は毎度此類の外
(17 ) ︵娼︶ ︵19︶ ︵20︶ ︵蟹︶ なし。﹂﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年二一月五日 参照。﹁松本剛吉来訪、大浦は意気揚らず買収も遅緩なり、又金談を大 隈にも加藤にもなす事出来ざる次第にて金もなし身体も弱り居ると云へり、多分事実と思はる。﹂﹁原敬日記﹂ 四巻 大 正三年二一月七β 参照。﹁政友会内の軟派にて二十余名連印せりとか云ふ者の代表老白川友一︵謀主︶、根岸君太郎、丸 尾光春、光森徳治等来訪、色々の説を述べたるも、結局政府と衝突を避けたしとの趣旨に付、余彼等に対し余も無事を望 めども不名誉を忍んで無事を計る訳には往かず、解散もなく不面目もなく而して政府を倒す事に付苦心申なりなどと云つ て帰せり、彼等も笑つて去りたるも、彼等は政府と通じ居るものと思はるるに付、夜鎌田勝太郎を招き同県の関係より白 籍等を説諭する事を嘱託せり︵幹都には除名論もありたれども暫く兇合せたり︶。﹂﹁原敬疑記﹂ 四巻 大正三年二一月一 〇臼 参照。 たとえば大隈は、その施政方針演説に対して質問した中正会員林毅陸を政友会員と誤認し、林が増師反対の意見を述べ たことについて、その意見を感情論であると罵っている。﹁大隈侯八十五年史﹂ 三巻 二〇三頁 参照。﹁原敬日記﹂ 四 巻 大正三年一二月一〇日参照Q ﹁原敬目記﹂ 四巻 大正三年一二月一〇臼 参照。 ﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年二一月二一臼 参照。 ﹁原敬臼記﹂ 四巻 大正三年二一月コニ日 参照。 ﹁深更福井三郎より電話にて、大浦が加藤に相談し、加藤は余︵原!筆者注︶と交際あるに付喜びたり、依て大浦より 大隈に話魅しに、大隈は今朝岡崎の使なりとて大隈に面会したる者あり、原に親しく面会して時局を談ぜば円満に解決す べしと云ふに付、大隈は自分は妥協は大嫌ひなり、馬鹿を云ふなと叱つて帰せりと﹂ ﹁原敬臼記﹂ 四巻 大正三年一二 月一四日 参照。﹁福井三郎来訪、大浦云ふに、加藤も余︵原︶の心事を諒解し、此際円満に解決せん事を望み、其結果大 浦より大隈に説きたるに、大隈は過日大礼使予算に関し両院議長と会見せしに、奥議長︵衆議院!筆者注︶は大隈に此際 原に面会して時局を円満に解決しては如何と云ふに付一言にして之を退けたり、﹂﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年二一月一 六日 参照。
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︵22︶ ︵23︶ ︵璽︶ ︵25︶ 第二次大隈内閣の施政 二〇 ﹁時に田中は歩兵工旅団長にして、軍務の中心に遠ざかつてゐる。二師団問題で躍つたことが崇つて、由本内閣時代に 左遷され、鮫竜池中に蟄して、本省の当局者に不平でもあつたし、私の所懐に岡感でもあつて、意見容易に合致して溝渠 埋め立て工作を試みることになつた、その時分には、原さんと私との言路も開けてゐて、容易く私の進雷を納れられたか ら、四谷の拙宅で橋渡しをして、二人を逢はせたのが、やがて田中が原内閣の陸軍大臣となり、後年政友会の総裁となる 機縁ともなつた、﹂ 小泉策太郎 ﹁懐往時談﹂︵中央公論社︶ 一六四頁 参照。 ﹁高橋是溝方にて後藤新平に会見せり、後藤は去三日出県に面会せしに山県は後藤が奔走するは政府にても疑ひ又政友 会にても疑ひ居る由︵政友会養々無根なり︶、又政友会より三十名斗り買収せらるべしと云つて反抗六ケしき様に云ひ居 り、又山県は予算案通過せしめたる後に不儒任案を提出して議会を解散する事を望み居るらしく見ゆ、右様に付到底議会を 解敵せしめざる様になす事不可能なり、此上は遂に元老も併せて攻撃するの外なからんと養つて全く諸事望みなく、自分 の任務も終りなる様に云ふに付、余は山県帰京せば一回会見し、今回政府の処置此儘にては遂に議会は一転して増師攻撃 となるを免がれざるべしとの趣旨を告げ置くべしと云ひたれば.後藤は山県に会見するも益なかるべく、却て政府に便宜 を与ふる結果とならんとて余の面会に不同意らしかりしも、結局尚ほ努力を互に試みて成功せざれば遂に元老も併せて攻 撃するの外なかるべしと云ふに一致せり。﹂﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年一二月五臼参照。 ﹁原敬臼記﹂ 照巻 大正三年二一月六日 参照。 北岡伸一 ﹁日本陸軍と大陸政策﹂︵東京大学出版会︶ 二八三頁参照。﹁田中は他臼の発展を期する為めにもあらんが、 今は殆んど政友会員の如き情況なりと小泉内話せり。﹂ ﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年一二月六露 参照。 ︵26︶ ︵27︶ ︵28︶ ︵2 9︶ ︵30︶ ﹁原敬目記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬目記﹂ ﹁原敬日記﹂ 四巻 四巻 四巻 四巻 、四巻 大正三年一二月六日 参照。 大正三年二一月一六臼参照。 大正三年二一月一六翼 参照。 大正三年一二月一六日 参照。 大正三年二一月一六日 参照。
︵謎︶ ﹁原敬β記﹂ 四巻 大正三年一二月一六日 参照。 ︵認︶ ﹁田中は屡々余に面会して意見を交換するも、鼠下旅団長にて此種の問題に公然加るを得ず、故に実際は兎に角、山県 に対しても余と直接面談せず小泉を経由する様に云ひ居るに付小泉に伝言し来れるなり﹂﹁原敬臼記﹂ 四巻 大正三年一 二月一七日 参照。
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︵妬︶ ﹁原敬臼記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬臼記﹂ ﹁原敬β記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬目記﹂ ﹁原敬日記﹂ ﹁原敬β記﹂四四四照屡耳四四四四四四四
巻巻巻巻巻巻巻巻巻巻巻巻
大正三年一二月一七臼 大正三年一二月一七臼 大正三年二一月一九冒 大正三年一二月一九日 大正三年一二月一九目 大正三年二一月一九湾 大正三年二一月一九日 大正三年二一月一九日 大正三年[二月二〇日 大正三年二一月二〇日 大正三年二一月二〇霞 大正三年一二月一ご一臼 三巻 二〇五頁 参照。 参照。 参照Q 参照。 参照Q 参照。 参照。 参照。 参照。 参照。 参照。 参照。原はこの調停工作を ﹁大隈侯八十五年史﹂ 参照。大隈は徹底的に立憲的寅任を重んじて、 ば、断乎として衆議院を解散し、国民の信任を問う覚悟をもっていたといわれている。 ﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年一二月二〇β参照。当時、院内総務であったのは、元田肇、大岡育造、岡崎邦輔、床次 竹二郎であった。﹁立憲政友会史﹂四巻 六九頁参照。また当日、原は﹁時事新報、国民新聞、中央、毎夕等の新聞記 者を招ぎ、山県と会見して我党の立場を明にする事を公表したり、此事は山県と打合せ置き、秘して誤聞を生ずる事を欲東洋法 学
﹁到底効なかるべし﹂と予想していた。 政友会が増師案を否決するなら︵47︶ ︵狢︶ ︵49︶ ︵50︶ ︵駁︶ ︵5 2︶ ︵5 3︶ ︵弱︶ 第二次大隈内閣の施政 二二 せざるにより余より公表せり﹂ ﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年一二月一二臼 参照。 ﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年一二月二二日 参照。 ﹁原敬臼記﹂ 四巻大正三年二一月一ご一臼参照。 大島次官は二八貸に原を訪ね、﹁大島陸軍次官来訪、過日余が書状を水野に持たせ送りたるとき山県より来書の次第あ り、電話あるべしと考へたるに付大隈に其事を内話せしに、大隈は目下余地なきも面会差支なき旨を云ふに付其考なりし に、水野が岡陸相に次官の来訪を話せしとぎ陸相は大島に許可を与へず、遂に来訪せざりし事を陳謝せり﹂ ﹁原敬露記﹂ 四巻 大正三年二一月二八β 参照。三〇日、原は山県を訪問したが、﹁山県は其手違なるに至れる遺憾の事情を物語り たり、岡陸相の処置甚だ当を得ず、彼より進んでも会見すべきに、次官の往訪を止めたるが如きは問題に忠実なるものに 非らず、大に叱責壁しに、彼は憤りたる様子にて無言なるに至れりと云へり、又次官訪問せば増師の必要を説くべく、而 して君より政友会の方針を聞きたらば次官より参謀本部其他に相談し、協議の結果延期を諾して無事に時局を収めん考な りしに、岡の処置当を失し遺憾の事をなせりと雪へり﹂ ﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年コ一月三〇日 参照Q ﹁原敬日記﹂ 四巻 大正三年二一月二三日 参照。その一年延期の理由とするところは、﹁今や欧洲の戦乱は酬にして 其結果軍政上大に革新を要すべぎもの少しとせざるべし、加之列強形勢の変化は我邦四囲の状況に重大なる変化を及ぽす や必せり、而して増師の事仮りに将来に於ても変更なしとするも、二個師団の継続費は七ケ年に互り而して其師団編成全 部完了は十数年の後に於て始めて終りを告ぐるものなれば欧洲戦乱の経験を待ちて取捨決定するの余地なきの理断じてあ らざるなり。﹂ということであった。﹁立憲政友会史﹂ 四巻 八一頁 参照。前田蓮由 ﹁歴代内閣物語﹂︵時事通信社︶ ︵下︶一〇九ー二〇頁参照G 大津淳一郎 前掲 七巻 四〇六ー八頁 参照。 大津淳一郎 前掲 七巻 四〇八頁 参照。 この固い決意の背後には、元老特に井上馨の支持があった。大正三年二一月二四日付の井上馨宛の望月小太郎書簡。山
︵弱︶ ︵56︶ ︵5 7︶ ︵58︶ ︵59︶ ︵60︶ ︵61︶ ︵6 2︶ ︵63︶ ︵劔︶