• 検索結果がありません。

田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 (調査報告 61-2)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 (調査報告 61-2)"

Copied!
44
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

調査報告六十一’二 国文学研究資料館の一九八一年度目録によると、高山市郷土館には、以下の竹取物語関係書籍が所蔵されている。

物語皿︵外︶竹取翁物語解︵内︶竹取翁物語解文政十三年刊六冊三五○コマ

物語躯︵外︶竹とり物語︵内︶竹とり物語正保三年板本二冊六八コマ

物語銘︵外︶竹取物語解追考写一冊五七コマ

物概塑︵外︶竹取翁物語解︵内︶竹取翁物語解写六冊三三○コマ

物語弱︵外︶竹取物語解︵内︶竹取翁物語解写一冊二○コマ

物語恥︵外︶竹採物語︵内︶竹とりの翁の物語写一冊五三コマ

物綱”︵外︶竹とりの翁の物語︵扉︶竹採物冊校訂写一冊六三コ↓、

物語認︵外︶竹取物語解︵内︶竹取翁物語解写一冊二四コマ

物語羽︵外︶竹取物語解中害︵内︶竹取翁物語解写一冊三八コマ

田中大秀﹃竹販翁物語解﹄開板への階梯

山崎正

(2)

もとより、田中大秀の竹取物語研究といえば、﹃竹取翁物語解﹄ということになるが、この解及び解に関わる一群の竹取 物語とは別に、全丁に亘って大秀の注がびっしりと書き込まれている竹取物語︵物語躯︶がある。これは、正保三年板本 の本文廷かなり手を加え、上部空白箇所を中心に空白という空白や付妻までして語句の注釈を書き込んだものであ↓弓一 ・二丁分を適当な区切れまで示すと、

①②③

いまはむかし竹とりのおきなといふもの有けり野山にましりてたけをとりつ上よろつの事につかひけり名をばさかき

○④③

の象やつことなんいひける其竹の中にもとひかる竹︹なん︺一すちありけりあやしかりてよりて見るにつ入の中ひか りたりそれを見れは三すんはかりなる人いとうつくしうてゐたりおきな云やうわれ朝こと夕ことに見るたけの中にお

⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫

はするにてしりぬ子になり給ふへき人なめりとて手にうち入て家へもち︹て︺きいめの女にあつ︵一丁表︶ 八頭注V①只むかしといふ詞なるのみ②まじるは野山へ行かよふをいふ③世をわたるいとなゑにせし也④あやしきば 恒のありさまにあらぬ事をいふを本にてこLはいぶかしがる意不審に思ふ也⑤見えすきたる也⑥しりぬはしりぬといふ也 ⑦竹取翁が子に成り給ふべき因縁としりたりと也⑧なめりなるらんなりといふ程の詞にて察したる意ある詞也⑨うちは発 物語髄 物語調 物語詔 物語犯 物語弧 物語鋤 〆 、 へ へ 一 、 へ へ 外 外 外 外 外 外 一〆…ー……… 竹取翁物語解目録︵内︶竹取翁物語解目録

竹取翁歌解︵内︶竹取翁歌解

竹取物語解副巻

竹取物語抄大秀補註 竹取物語抄

竹取翁物語解︵内︶竹取翁物語解

刊 天 天 写 写 写 明 明 四 四 刊 刊 一冊一四﹃一マ ー冊二一コ↓、 一冊五九﹁一マ ニ冊一五四﹃二、 二冊一三七コマ 一冊三○コ↓、 唾三○コ↓、 ︵注一部表記は改めた︶ 9 0 −

(3)

六 十 一 一 二 田 中 大 秀 『 竹 取 翁 物 語 解 』 開 板 へ の 階 梯 語にて常にいふうちすてうちわすれなといふうちと同じくこ上はた上手に入れてといふ事也⑪持来りぬるなり⑪竹取翁が 妻女をさす也⑫あつけては妻の女に引受させて也○なんはぞといふ詞に似てやすめ詞也○とりつ上は取てといふに同じ

①②

けてやしなはすうつくしき事かきりなしいとおさなけれははこにいれてやしなふ竹とりのおきな︹竹とるに︺此子・を

③④⑤⑥⑦⑧

見つけてのち取にふしをへたて皇よことにこかねある竹をみつくる事かさなりぬかくておきなやうJf、ゆたかになり

⑨⑩⑪

ゆく此ちこやしなふほとにすぐ,I、とおほきになりまさりくる﹀三月はかりになる程によきほとなる人になりぬれは

、⑬

かみあけ︹なと︺さうそくなとせくさうしてかゑあけ﹀させきちやうの内よりも出さすいつきかしつきやしなふ編に

⑭⑮

此ちこのかたちのけそうなる事世になく屋の内は︵一丁裏︶ 八頭注V①やしなはすはやしなはしむといふ詞にて即そだてさす也②ちいさき也③此子を我が子にして後はといふ事也 ヲリフシ イヂニチプッカ ④ふしは時節の節にて竹の縁語也ふしをへたてLといふは一日おき二日おきに金ある竹を見つけし也 八付妻Vふしは竹のふしにてあらんかさあらてはよ毎の義聞えかたきやうに覚ゆ⑤よは竹のふしとふしとの間をいひごとには 一テ三 一つくりかへしに也⑥たびかさなりぬる也⑦さてといふにおなじ⑧やう,I\は次第,ノ、に也⑨ちごは乳のみ児い ふを本にてこ上は童女をさす⑪すこやかなる也無事無難なる意也⑪十五六歳に成たるへし⑫別に記す⑬いつくは よきが上にもよかれ,j、と大事にかけてそたつる也⑭うつくしやかなる也⑮世にたぐひなき也 ① くらきところ囹なくひかりゑちたりおきなこ上ちあ︹しくくる︺しき時も此子をみれはくるしき事もやぶ︹ぬ︺ばら だ其しき事もなくなくさゑけりおきなたけをとる事ひさしくなりいきほひまうのものに成︿さかへ﹀にけり此子いと おほきに成ぬれは名をみむろといんへのあきたをよひてつけさすあきたなょ竹のかくやひめとつけつく侍る﹀ 八頭注V①月の光の如く明らかに家の内のてりたる也②なぐさむは翁か心のなぐさむ也此子を見んは病気もなほりはらだちも やみて心なぎたる也③ひさしくなりは年をへて也④いき低いまうのものに成たるとはいよいよ富貴繁昌の家となりたる義也 ︵注︶正保三年板本を白塗して消した所を︹︺で示した。○○八△△Vは、正保三年板本に白塗した上で、大秀が校訂した

②③

(4)

とあって、以下の本文にも窓意的な改変か見られる。この本文改変には、他本を以ての校合などはされていない。また、 注も語句の意味に関わるものばかりである。該本の購入時期や大秀が注記した年月は不明であるが、本文に対する態度や 注の内容から推して、かなり早い段階の物と推測される。やはり、大秀の竹取物語注釈の始発は、天明四年︵一七八四︶ 刊行の小山儀の注解に入江昌喜の頭注を加えた﹃竹取物語抄﹄に、大秀が補注を加えた﹃竹取物語抄大秀補註﹄︵物語調・ 以下﹃大秀補註﹂と記す︶であろう。︸ご︸には入江昌喜の序文の後鳫大秀の補注の序が書き加えられている。これ庭は、 小山儀わかくてよくもかくまてくはしくは引書たるされとなほ其詞の説におきてはをさなき事おぽかり又入江昌善か 頭書も少しはまされりと桑ゆれと猶なつめることきこともましれりおのれ先つとし此物語のうつし巻をえつそば家々 ヲ・一ゾメウツシ一画キ 匡蔵たる古き写本ともをくさ,I、つとへてわきにつけたりにていとJ1、よるしかくて此抄にそのよしとおもふをかい 才チ そへ文章の脱たらんとおもふ事おもひよれる詞の例注のあやまれりとゑゆるなとおもふま皇に害そへてゑむとてはつ かに書付なめしはたさて打やりおきしをこその初秋越中富山左脇大彦君物し給ひて物語のついてに見せまゐらせけれ ばこれとく物せよなおこたりそいそきをへたらんにはとくゑせてょなとの給ひ契り給へれは又さらにおもひおこして かくはかきそへつるなん猶とし月ふるま上におもひよれる事もあらはかいそへてむかし

文化九月正月田中大秀

と、大秀の竹取物語研究の経緯が記されている。これによると、﹁此物語のうつし巻をえつそは家々に蔵たる古き写本と もをくさノーつとへてわきにつけたりにていとj∼よろし﹂という写本を入手し、それをもって﹃竹取物語抄﹄に書き込 朶をしたというのである。その竹取物語が、﹃竹取物語﹄︵物語翌、現在高山本と称される大秀所持源常言害写本である。 箇所を○○と示し、もとの正保三年板本を八△△Vと示した。大秀が正保三年板本に加えた箇所を○○○回○○と、。 をもって示した。 − 9 2 −

(5)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 文化七年正月成身院良賢法印と寛文三稔印本を以読合之ことノ、く未を以害入印の字を付正月廿日再読合畢 湯津木香木園主田中大秀︵花押︶ と、文化三年︵一八○六︶に大秀の門人となった良賢法印と、既に所持していた寛文三年板本をもって校合したことが記 されている。この寛文三年板本は現在確認はしていない。本文は、前記した正保三年板本と同じであるが、この正保三年 ここには、 ル諺めって、 該本の奥付には、 此古写本に後の校合本は蜂津跨癖巍本疹樗本同藷銅校睡ロ本古写本 右の朱耆は安永二年武村美伎といふ人の普通板本又一古写本も心して校合せしもの也 亦墨書は城戸千楯ぬしか所持本をもて校合せし物也その本は林鮒主の蔵本の古写本上田百樹か所蔵の安永中に平信 之校合本また抄本抄のイ本等也

寛政十二年夏四月九日佐野春樹記之

寛政十二年夏四月三日夜燈下一間校畢

古林氏所蔵古写本校上田氏所蔵校合本

抄抄抄イ同し

右以藤原秀雅大人所蔵之本謄写畢 享和二年夏四月十三日正五位下主計助源朝臣常言︵花押︶ て、この校合本が、大秀の本文校訂に与えた影響は大きく、この奥書の後に、朱筆で大秀の注記が付されている。 今 抄 古 林氏所蔵古写本 抄

普通又板本圧

(6)

板本は前記した如く、所為に白塗によって手を加えてしまっており、校合には使用できなかったものと推量される。さて、 この高山本であるが、佐野春樹の区別する朱墨の別はない。現在の朱は、寛文三年板本との校合と﹁印﹂の印に、校異本 文の可否と句読、そして少ないが大秀の注釈が朱書きされている。この良賢法印との共同作業が後の本文校訂に大きな意 味を持つものと思われる。﹃大秀補註﹄の序にあるように、大秀は抄を底本として、これに高山本を以て本文校訂を行っ た。﹃大秀補註﹄には、巻末付載の摂陽言林柳原積王圃蔵板和書目録の終り余白に、大秀の朱筆で﹁庚午春花菱堂﹂と吾 かれ、大秀存命中の庚午年は文化七年︵一八一○︶のみで、この年の春、即ち、正月の良賢法印との寛文三年板本校合後 間近に該本を購入し、早い段階でこの書き込みが行われたものと推定される。花菱堂は暴雨近世書林板元総覧﹄による と、京都の銭屋利兵衛のことで、この前後からの関係から、後述する最初の﹁解﹂である﹃竹採物語校訂﹄︵物語”︶と ﹃竹取物語解﹄︵物語妬・以下﹃解﹄あと表記する︶の二冊を出版する発売元の一書犀となったものであろう。﹃大秀補註﹄に ﹃竹取物語解﹄︵ は、﹃解﹄妬で、 古ことなと引いて入注さくなとは 竹とりの翁のものかたりは諸の物語のいてきばしめの祖としもいひて殊にふるくめてたきを□さとしふ染つくれる人 □あさりの随筆也 もなくて年経にけるを契沖阿闇梨の河社に天笠もろこしの書ともかつj、引出られけるを始にてくたりj、をわけて こまやかにときその上ち難波人といふ人 注さくしたるは天明の比小山儀口か抄の象なん有けるそも〃I、此物語よた上一わたりふかき心もいれでよ桑見むには 、、、、 大坂の人といふ いとやすくわかれて間ゆるやうなるを言の義なとくはしく心得んとていくたひもかへさひ読あらはへむとすれは中々 にいかにそや覚ゆるくまノーおほく出来てまとはしうの象なん成ゆくめるさるは此耆もとより詞をいたくはふきたる

さまなるうへに写巻のほとにぬるへし

に脱たる○誤れる○はた世々をふるま上に数そはりたれはなりけりかく先つとし小山か抄におのれいさ上かおもひよ

事所たるに△

オヰいにし年の国主に△その抄見せけれは

れる事ともかつノー書くはへたりしを去年の初秋越中富山左脇大彦とふらひ来てそれなほくはしうして見せてよなと しつるに其淡とふらひ来たるスリマキなから そLのかすにことし・江戸人巨勢健冬はた印本の世にことなる一巻をもて来てそれよみかむかへかたみに言のこ上ろ − 9 4 −

(7)

六 十 一 一 二 田 中 大 秀 『 竹 取 翁 物 語 解 』 開 板 へ の 階 梯 八頭注V﹁大平云詞ヲハブキタルースアラス古文ノ自然也﹂ と大秀の注釈と健冬所持の古活字本との異同とを加えたとあるが、現在の﹃大秀補註﹄には健冬の解釈他多くの注解が加 わっている。またここには、随所に、抄の竹取物語本文への校訂が見られる。ちなみに、先に挙げた正保板本︵物語翌 と同一箇所を、抄の注を除いて挙げると、

八枠外V竹と入謹警簔黄裁︶

ふ可諸本普真写イ写ナシさかき写榊古

いまはむかしたけとりの翁といへるもの有けり野山にましりて竹をとりつ上よろつのことにつかひけり名をはさるき

可ママ可

○丸イナシ可ナリ写る非と交非と交非

の象やつことなんいひけるその竹の中にもとひかる竹なん一すち有けりあやしかりてよりて見るにつ且の中ひかり 写の活 たりそれを見れは三寸許なる人いとうつくしうてゐたり 八頭注Vさるきは讃岐公佐伯窪宿祢ナト云姓氏録ニミュコレラノ誤ナリ佐街貴山公桑やつこ丸ト下二見1コ上モまる脱ダル歎ま しりて古今春下いさけふは春の山へにましりなん暮なはなけの花の陰かは後撰春雨のふらは野山にましりなん梅の花笠有といふ

○○○

なり竹なん一すち有ける竹一すち有けり右いつれにてもよるし本行のまLにてはてにをはと上のはず三寸許なる入今昔物語 にも三寸許なる人とあり写本活本のとあるはよからす 杖ナシ非 おきな云やうわれ朝こと夕ことにみる竹の中におはするにてしりぬ子になり給ふへき人なン︵朱︶めりとて手にうち入て

におうなこ

イ︸一古交︵朱︶オウナ交︵朱︶イこ可

家へもちてきいめの女にあづけてやしなはすうつくしきことかぎりなしいとをさなければ箱に入てやしなふ 八頭注V家にトアル方マサレリ下一一もちて来ぬトアレハナリ家へトイヘハもちてゆくトアルヘキナリにの方マサレリ︽以下朱書︾ [磨] 槇庁呂云上二竹ヲトリテ万ノTニッカフトアルナレハ篭ノ方マサレリ大秀云おうなとあるかた可然又篭といはんより箱といふ方 なん文化九年十二月

つたへもよ象見ん

論つらひなとしつるにをちノr、わきまへえたるを猶世にひろくほとこらして此物語このみらん人にしめさまほしくて

(8)

につかはしき也竹をとるにといふことかさなりて聞くるし一ツハ可削サレト故ヨリ有ナルヘシ 可︵朱︶ をイ写事非︵朱︶ たけとりの翁竹とるに此子を承つけてのちに竹とるにふしをへだて上よことにこがれある竹を桑つくる事かさなりぬ 古ナシ非 かくて翁やう〃I、ゆたかになりゆく此ちごやしなふほどにすぐノl、とおぼきになりまさる三月はかりになるほとによ さイそく枝︵朱︶イせ︵朱︶イナシ きほどなる人になりぬれは髪あげなどそう○てか象あげ○させ○きちやうのうちよりも出さず イもきす︵朱︶

させもきすちやうの真[松]

八頭注Vもきす後拾遺賀人の裳着侍けるによめる清原元輔住吉のうらの玉もを結上てなきさの枩の陰をこそみめ抄に云童女の裳着 は男の元服のことし始て髪そき裳きる事也もきすは裳若すなりあるかたまされり︵朱︶すぐノ、大秀云註頭耆︵筆者注:・小山 儀注・入江昌喜頭注︶圧一一非ナリすぐノー︿進ノ甚シキ意ナリ今スクノ、トノヒルナト云ト同シ詞也宇治拾遺三廿七雀ヲ飼取二側 よりもするノ、と生たちていみしう大に成たりコノスルノ、モ同シ意ナリ古事記傅舟ニノ舟八丁さL波路を須久々点とわがいま せはや﹂俗言にずかノ、と卜云下にて滞らす速に行さま也とてこ入を引てコノスク・ノーハ速に成長するさま也と云しき狭衣に火の 光みゆる方へすぐノーとおはすれととあり源語桐壺にすかj、ともえ参給はい也けりコノすかj\も同意也 真写一一ナシ いつきかしづきやしなふほどに此ちごのかたちけそうなる事世になくやのうちはくらきところなくひかりゑちたり 八頭注Vちことはいまた乳をのむほとの子をいふなれとこ坐はさにはあらすこ上抄にといふほとのこと上心得へし とあり、語句の注釈も正保板本︵物語響に付されたものに比べ、飛躍的に進歩している。﹁たけとりの翁といへるもの有 けり﹂の﹁いへるもの﹂については、苦慮したようで、﹃竹採物語﹄︵物語ざにも、 古本ナシ普ナシ︵朱︶ 竹とりの翁の物語真軍ノシ︵朱︶ 可︵朱︶ いへる抄 いまはむかし竹とりのおきなといふものありけり 印普真︵朱︶ と校異が記されるが、以下には真︵健冬所持本︶も普︵普通板本︶も無いが、﹁いへる抄﹂に付けられた朱の﹁可﹂は、その 下に未で﹁非﹂とあって、迷いがあったことが窺われる。この﹃大秀補註﹂には正保板本︵物語磐吉き入れに見られた 9 6 −

(9)

六 十 一 一 二 田 中 大 秀 『 竹 取 翁 物 語 解 」 開 板 へ の 梯 階 写爲本︿京都御園主計助常言ノ蔵タリヶル本ナリ寛政十二年四月古写本一一佐野春樹ト云人城戸千楯力本林鮒主力古写 本上田百樹ヵ校本普通本此抄本等マテ書入シ本ナリ 於是文化九年壬申八月四日ヨリ始メテ江戸人槇麻呂巨勢朝臣維昔ト右三本ヲ校合シ脱文脱字ヲ考解ノ諸説ヲ上ケテ十

三日二到テ読終香木園田中大秀︵花押︶

とあって、文化九年︵一八一二︶八月四日から一三日にかけて行った健冬所持の古活字本との校合と知られる。この健冬 所持本は、﹃竹取物語抄﹄︵物語蓮に浄書されたような形で﹁冬﹂として槇麻呂所持本との六二箇所の校異が記されてい ︵1人︶ る。これを、新井信之氏の﹃竹取物語の研究本文編﹄古活字版十行本と比較すると、

冬︵抄の本文に対して︶古活字十行甲本

1なりぬいきほひ猛のものに成にけり写活冬成ぬいきほひまうのものに成にけり

強引な改変は少なく、﹃竹採物語﹄︵物語どの良賢法印との寛文三年板本との対校作業や、健冬所持の古活字本との校合 作業を基礎に、明確な注釈と、根拠となる用例を上げての校訂となっている。この校異については、﹃大秀補註﹄の補註 の序の終りに次のような本文校異に関わる貼り紙がある。ここには、 真槇麻呂蔵本一冊上巻下巻ノ境ナシ四十一紙片面十一行内題ナシ囲ナシ普通本ヨリハ大キナリ害モ古風ト見1奥書年 号書建ノ名ナシ越中高岡鈴彦ノ蔵ヲ請得タリトソ此本卜写本トョリ合せり末一一テハタカヒタルこと多シ別本ナリ 普普通本二冊一一ワヵチテ上巻片面十一行囲アリ内題アリ上︿たけとり物語トシテ上ノ字ナシ末ニー上終トアリ 下下トァリ末一ス題ナシ加賀金沢富田権佐蔵本︿奥一一茨城多左衛門板トァリ後二切入ダル名ナリ大秀 カモタル︿同板一一テ奥二寛文三稔癸卯仲秋吉辰尾平兵衛開板トァリ是モ切入タルナリ抄本卜大概同シケレどもまたカモタル︿同板一三 タカヒタルことモヲ ノ

(10)

1 9 1 8 1 7 1 6 1 5 1 4 1 3 1 2 1 1 1 0 9 8 7 6 5 4 3 2 つけつ や象の夜にいて上も穴をくしりかいまみ ひとりは中納言いその上のもろたり よひいて上 のたまへと

したかはすなんあるとすくす

わか子の こ上ら大きさ 女は男に逢ことをす 出来て しらす いはんかたなく むくつけ上なる の上 あるときには 辰のとき 1ど1﹂シご いはノミ 冬、ナシ 匡 匁﹃ 冬写 辱 欠﹃ ■ ﹃ 1 1 9 匁身艸 冬印 欠﹃ 冬写 冬印 冬写印アリ 冬写非 冬写 冬写 冬写 冬写 冬写 写冬 写冬 つけつ や柔の夜に出てもあなをぐちりかひまゑ 中納言いそのか柔のもろたり よひ出て の給へと

したかはすなんあるすくす

我子の こ入らおほきさ 女は男にあふことをす 出きて しらす としき いはん方なく むくつけけなる ナシ ある時には たつの時 いはく − 9 8 −

(11)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 3 7 3 6 3 5 3 4 3 3 3 2 3 1 3 0 2 9 2 8 2 7 2 6 2 5 2 4 2 3 2 2 2 1 2 0 花の木 出たり きのふなん都に たち とのたまふ 出来たり たまはらん 給はる かの唐にをる ︵ふみ︶を もちて むかしの世にも とそ有ける のたまひて とりいてLそへて 色々に八物語調﹁にイ﹂V 間毎に八物語詔まごとに真 めは象す 冬 冬 冬 冬 冬 冬 冬 冬 冬 冬 冬 写 父﹃ナシ 父﹃ 久、 父、ナシ 父﹃ 欠、 冬印 華の木 出たる 昨日なむ都に ⋮⋮まうて との給 出きたり たまはん た、まはる 彼唐にをる 文を もちて 昔の世にも とそありける の給ひて より出てそへて 色々 誠 め見す

(12)

5 5 5 4 5 3 5 2 5 1 5 0 4 9 4 8 4 7 4 6 4 5 4 4 4 3 4 2 4 1 4 0 3 9 3 8 揖取のいはく いるを 玉を 玉やとりて もるたり・は とはせ給ふ 返事を かの司の 二十人の人の あらこに八物語詔真︸一ノ誤ナリV 給はんなん まことに 冬のナシ八物語詔真ナシ可V 翁につけていはく いたりて を・は おやをはしめて 公羽こは 匁 冬 父 一 匁 一 父 一、菌、∼、、 冬 欠 一 匁 匁 一 冬 楽 楽 寒 寒 冬 父 父、 、 、 ョ 、 ∼ 、 、 竜 、 、 ∼ 、 、 ● 改’ 一/ ●プ・ン ぬるを 玉を 玉や取て まろたかの 問せ給ふ 返事を 彼つかさの 廿人の人の あらたに 給はんなん 誠 ︵ある人︶の 翁につけていはく 至りて ⋮⋮をゑて 親をばしめて 公羽こは かちとりのいはく lOO

(13)

六 十 一 一 二 田 中 大 秀 『 竹 取 翁 物 語 解 』 開 板 へ の 階 梯

弱姫のいはく冬姫のいばく

印ありとも冬ありとも

詔入来は冬人こは

弱まからんするも冬まからんするも

帥子のとき冬ねの時

田なりにたり冬活成にたり

鑓ぬきおくきぬに冬ぬきをくぎぬに

︵2︶ となり、新井氏や田中剛直氏の﹃竹取物語の研究﹄によると、冬健所持本は古活字十一行甲本と考えられる。﹃大秀補註﹄ には、より多くの異同が記されている。この﹃大秀補註﹄は、大秀が本文に高山本による校異を付し、補注を付けた形で 出版するつもりであったことは、抄の原表紙を変え、原題祭に﹁大秀補註﹂と書き加え、﹁竹取物語抄大秀補註﹂とする の象ならず、扉には、次の下段の如き書き込象によって窺われる。

竹取物語抄

原 本

大阪小山儀澤

同入江昌善頭註

飛騨田中大秀補註

竹取物語抄

越中弘中重義再評

江門巨勢維昔

書 き 込 象

(14)

そし一﹄、序文には前掲の如く﹃大秀補註﹄の出版を目指した経緯が書き加えられており、﹃竹取物語抄﹄に加筆しての出 版を考えたのであろうと推測される。しかしながら、﹃大秀補註﹄は開板には至らなかった。この﹃大秀補註一一には、多 くの書き込みと、幾枚かの記録年月日を記した貼り紙か見られる。その一つに、上の三十丁裏三一丁表には、 五穀イ ○古國をたちて大秀按二抄二古国︿此国也トイヘリ此国ヲこぐにトハ云へき言一一アラズ此国ノ意一一トラ︿の字脱タ リトスヘシ此国ヲ立テハ御子二従ヒテ蓬莱二至りシ丁ヲ云歎ト間﹃一し托サニァラズ偽言二五百日ト云二蓬莱一一至リテ ・スカナハ 四百余日一一帰着スト云大ヤウカナヘドコ上︿其偽ヲアラハス丁ヲ云処ナレハ不し合マタ一本二五穀をたちてトイヘル コ、ク モコュニョシナシ是ハ仮字二こ入くト有シ故一一古国字音トモ五穀トモ誤レルナリ必誤字脱字アルヘシ故按二こ坐ろを ノ方 くだきてナリろヲくニアャマリをノ下ノくヲ脱シ支︵キ︶ヲ知︵チ︶’一誤レルナリ呂︵ロ︶ト久︵ク︶支︵キ︶ト知 ナリ [ママ・ひ] ○けこ︿家子ト心得レハ安クワカル些也伊勢物語酔率一手つからいひかりとりてけこのうつはものに盛けるをゑてト イヘルけこモ同シ万葉にいさ子とも又いさやこらナト小児女ノ事ならて已二従ヘル家人ヲ云ナリ家ノ子ノ古言ナルヘ シ已力里ノ語二家内ノ人ヲ数ブルー彼力家︿何人けど誰ヵ内ハいくたりけこナト云ナリ又延テけいごトモ云今ハ其家 ノ主従托数フル’一云距モト︿家ノ子ノ可ニテ此けこト同シ家︿字音子︿訓ナレハ別二義アルヵ按二家ヲやかやけト云 たまヘナト有ヘキ処ナリ給はりぬるト云ハ受ル人一一付テ云詞ナリサレハ給はりてト云へシ賜りて卜云方甚↓、サレリ俗 ○これをたまひて大秀云たまひてト云︿物ヲ授ル人ノ方一一付テ云詞ナリサレハこ上︿給ひてぱ給ひてょたまひなは 後一一叉按一一たびてナルヘシたびてハタマハリテノ約ダル言 一一云はこれを申給てト云意 又たびては両通ノ詞也タマヒテノッメ民ナル也二月七日再按 ○わるきけこに按二わかちて家子にノ誤ナリちトろト似タリ知卜支上二云ルヵ如ク互二誤しり支ノ下二てヲ脱セル ︵チ︶字体ヨク似リ − 1 0 2 −

(15)

田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 六 十 一 一 二 指し、両幸 れる。こ︵ 貼り紙に、 れる。この時期を明確にすることはできないが、健冬は文化九年︵一八一二︶に大秀に入門し、また同書の上十八丁裏の 指し、両者が同意したということで、﹃大秀補註﹄の再検討が大秀・重義・健冬の三人によってなされていたことが知ら て、﹁此所皆同意ナリ維重﹂と弘中重義によって付加されているが、﹁維重﹂は、維昔すなわち巨勢健冬と弘中重義とを る。また、大秀自身も序文に記した文化九年︵一八一二︶正月以降も抄への補注の仕事を続けていた↑︸とが知られ、加え とあって、文化八年︵一八一二の秋以降、抄への補注を完全なものにするべく注釈作業を継続していたことが窺われ ︵ママ︶ 惟昔考重義同意文化九年申七月六日巳刻 うスル ひかりのうするかと此うするいかLうつるかツトスト連ひか失るこテハモトヒヵリノァル鉢一一テァレハ可叶白山に逢 テヒカリノウツル卜云ナルヘシ とあり、序文末の本文校異の貼り紙の﹁文化九年壬申八月四日ヨリ始メテ江戸人槇麻呂巨勢朝臣維昔ト右三本ヲ校合シ脱 へ︿雪読売悪軸恥ちやかこノやヲ署キ加ヲ韓シテけこ卜云フカやけくいね︵稲︶こゑ︵声︶なへ︵苗︶ナト云如ク居ダル 詞やかくいなたねこわつくるなはしろナト下へシ上ク時ウッレル詞ナリサレト此物語モたかとりト云ヘキヲたけとり ︵ママ︶ トイヘハ即やけ子の唇鍬依テ﹁|上くわかちて家子圧ニトラセント云事ナルヘシ抄一一けこ︿飯櫃ナリ録ヲ玉ヒテ韻子ノ [トキ] 料一一七ソトナルヘシト云ヘルハッキナシ伊勢物語モ關疑抄に家子トイヘルョクキ﹁三古意一一箇子饅子ノ意ニトル寸︿ [トキ] 又下二うつはもの卜云ヒテハ重タルャウニ聞エテ間ヨカラヌコ入チス家子トスル寸︿子上モ勢語モサマタヶナ解ヤス シ 文化八年辛未十一月

此所皆同意ナリ維重

月廿九日 大秀考

(16)

文脱字ヲ考解ノ諸説ヲ上ケテ十三日一一到テ読終﹂というのからも、文化九年︵一八一二︶正月に大秀の手によって補注が 一応完成したものの、さらなる完成を目指して抄への補注作業は続けられていた。こうして、本文や注釈の研究を続け、 質量ともに抄との差異が大きくなるとともに、抄の補注ということでは飽き足らなくなったのではなかろうか。 文化七年︵一八一○︶正月の成身院の良賢との寛文三年板本との第一次の校合に続いて、文化九年︵一八一二︶八月四日 から一三日の健冬との第二次の校合を行い、それをまとめたものが、﹃竹とりの翁の物語田中大秀訂正﹄︵物語ごと、 高山本の内題を外題にしたものであろう。これには、現在は扉としてあるが、原表紙であったかと思われる厚手の用紙中 央に大きく﹃竹採物語校訂﹄︵以下この名称による︶とある。この奥付は、﹁文化九年八月飛騨Ⅲ中大秀校訂﹂となっている。 これと対にして考えられるものが、﹃解﹄詣で、外題として﹁竹取物語解田中大秀註﹂とあり、﹃竹採物語校訂﹄の扉と 同紙に内題として﹁竹取物語解﹂とある。序文には﹁文化九年十二月﹂とあり、本文には﹁竹取物語解巻上飛騨田中 大秀著﹂とあり﹁著﹂は﹁解﹂を白塗訂正して上書きしたものである。上巻末にあたる五二丁裏に﹁文化九年壬申年十一 月意冨︵花押︶﹂とあり、八二丁裏には﹁十二月九日書於保︵花押︶﹂とあって、文化九年︵一八一二︶十二月に完 成した最初の大秀の﹁竹取物語校訂本文﹂と﹁竹取物語解﹂であろう。この﹃解﹄妬には、この写しと考えられる﹃竹取 物語解﹄︵物語詔・以下﹃解﹄鯛と表記する︶がある。︸一れには序文がなく本文だけであるが、﹃解﹄おを本居大平に送るにあ たって、大秀自身が手元に置くために用意したものであろうか。両者には目移りからと思われる一部の前後する所はある ものの、丁付から字配りまで同様である。この﹃解﹄鋸と﹃解﹄詔の先後関係は、﹃解﹄妬の一部の訂正が﹃解﹄詔では 修正済染の形となっていること、﹃解一あの一三丁裏の鈴木眼の書き入れと同箇所の﹃解﹄詔には﹁眼云此説愚意不問ノ事 ステ’一イヘリ﹂とあって、﹃解﹄坊が先行するということは明白であろう。ただ、この﹃解﹄詔の巻末には、大秀の字 − 1 0 4 −

(17)

六 十 一 一 二 田 中 大 秀 『 竹 取 翁 物 語 解 』 開 板 へ の 階 梯 で 、 ごある。 湯津香木園蔵板 製本弘所 香木園著述書目録 帝記正訓コノ書︿師ノ神代正語ノ後ヲ継タルニテ即古事記書紀古語拾遺霊異記等ノ古書ヨリ皇代ノ可ヲ古言 ヲ以テ正語ヨリモ委クセル吉ナリ訓あらためひらかなもて 竹取物語解未明I卯弼搬出簾力著や心伽イァリ 多本ヲ合テ校訂ノ本文一冊一一解二冊コトノーク本文ノ丁数ニ引合委シク注釈セリ後に此物語に似 つきたる古事ともを附録トセリ 住吉物語コノ害︿住吉物語ノ本書なるへし古本飛騨国ニアリシヲ誤脱字多キヲ普通印本ヲ以テ校訂シタル本 ナリ旧本︿奇数三十四首アルヲ此本ハ六十四首アリ海内一本ナレ︿飛騨本卜称ス 多賀城碑考壺碑卜多賀城碑卜別ナル可ヲ弁シ碑文ヲ悉ク古書ヲ引テ注ス

養老美泉録佐加由久春二一法の玉眞緒之芒四まくらの月神楽弓解主さきつ上ら

一桂葉集催馬楽牙解二桂園文集飛騨史傳飛騨雑記細江集

京都 江戸 大坂 飛騨 銭屋利兵衛 須原屋茂兵衛 奈良屋長兵衛 鍵屋與六

(18)

そして、︸﹂れを追いかけるように﹃竹取物語追考﹄︵物語詔・以下﹃追考﹄と表記する︶の添削を本居大平と鈴木脹に依頼 した。﹃追考﹄の成立は不明であるが、二九丁裏に﹁文化十一年三月尽再考終﹂とあることから、この年月に近い頃であ ろう。表紙裏に﹁御序文御製作奉希候此追考御添削被下候は上京都柳馬場三条上所飛騨屋多助方へ御出し可下候﹂とあっ て、序文製作と添削を依頼し、済桑次第京都柳馬場三条上所飛騨屋多助に渡されるよう願い出ている。この﹃追考﹄の中 には﹃解﹄あの本文第一丁が囲みと﹁竹取物語解﹂という柱をもつ次の版下見本の一葉か収められている。 此格好よるし玉のおくし玉勝間ナド格好よしすへて鈴屋著述ノ板行ぶりにしたかふへし︵赤・大平︶ このかこひ今少し廣き方よろしき鍬︵墨・大秀︶

竹取物語解巻上

飛騨田中大秀著

屈閨一今︿むかしすへて物語といふもの︿過にしことおくれ てまねふ事なれ︿此ものかたりを始にて世々の物語ふみ 今の世のさとひ物語にいたりてもむかし,I∼とかたりいつる OO なんふるきならひける○たけとりの翁といふもの 有けり抄いへる伊勢物語にむかし紀ノ有常といふ人有けり 大和物語に右馬允藤原千兼といふ人の妻に俊子といふ 人なん有けるひえの山に念覺といふ法師のなとあり皆 U竹取物語解上 ○ − 1 0 6

(19)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 このような状況から、大平の許から﹃竹採物語校訂﹄と﹃解﹄妬が返却されたら出版する予定であったことが窺われる。 しかしながら、大平から返却された﹃竹採物語校訂﹄の扉の裏には、 注解ノ語ハイカャウトモ書へシ雅一一アラセンョリハ正シク俗ニチカク害へシ給ふ申御ナト坐かくへし︵赤色︶ 給ふ候ふナトハ正シク給ふ候ふトカク鰍たまふさふらふトカク鰍に定ムヘシ︿候﹀︿給﹀ナト︿アマリ署過タリ御ヲ ︿御﹀トカカヶトモ︿御﹀ナトュカヶル可ナヶレハ︿御﹀︿給﹀ナトモカクマシキ也鈴屋文集|一モ︿給﹀ふトカ上レ タレ圧イカ坐也︿給﹀ふト云字︿或人︿玉ふノ唇也トイヘリ大平ふるき世ノカヶルモノニ︿給﹀ふトカヶルヲ見タリ 伝テたまト書例二たまふノ唇ナラント思ヘリ或︿給ふヨリ給ふトカキ給ふトカク丁カト云人アレド猶たまふノ片ナラ ント思へリコレハイマタ定メテハ云力タキ可ナレハマヅ慥二給ふトカクゾョキ︵黄色︶ 申すトカクガョカルへシ外ニカキヤウナシ八申Vハアマリ暑也︵赤色︶ 申卜云字モ暑過タリサレト申トカ異ンモァマリ正シ過タリョク考フヘシまうしたまふナトュカ上ン︿難ナカルヘシフ ルキカキブリヲョク見考フヘシ︵黄色︶ 物語ふみナトハ﹃一トヤウナルカキサマ ハ甚ワロキ可也 スヘテ歌モ文モ古雅一一シテョ、、、ヤスク書へシオチクホノ板本ノカナヶシカラズコトャウ’一テ見ルニワロシ此竹取ナト ハ甚正シキョキ物語ナレハカキブリモョク正シク書ヘキ也抄本ノヵキャウモ今少シ雅過テワロシ菅笠日記ノヵキャウ モ今少シ過タリ古雅一一シテ正シク書へシ俗ニナラヌャウヲ第一二思フヘシ︿御御申侍候ふ給ふ奉﹀ナトスヰブン正シ ク雅一一カクヘシ︵注⋮八Vの中は、崩字︶ と、大平の注が書き込まれ、﹃解﹄弱の扉にも、 本文ノ平假字二て二天トカ上レタルハワロキ丁也てト書ハョシ天トカクハワロシ○かなノ文字ニァマリ字ノ大小ノナ キャウニ害へシカナハ人ノ物イフャウナ物也字クハリモ心得アルヘキ寸也︿シメノ所ハァマリ大小モ見エネ庄後二︿

(20)

︿聿冒クモョシー とあり、本文にも、 よりところ てんもろこしにあやしくめつらかなる事とも八大平V 此物語は天ちく唐に書ともを集とりてつくれりすへての分のさまを染るに佛書によりたる物にて凡彼經ともの序正流 通といふことをおもひてつくりなせるやうにゑゆかくや姫の人となれるまて序分なり五人の人々に得かたきもの染ん 御心よせ といへるより帝の恋せさせ給ふまて正宗分と象へし天にのほれる虚流通分也はしめに實摸閣径庭より得かたきを得ん 、、 といへるは詩経史記月宮殿のことは起世経竜城録なとをおもへる也けり 八頭注V脹云全部四段一一ワカッベシイトカシコウ遊ツイテ一段五人ノ人点ノ事かひありとはいひけるマテ一段帝ノ御心はせ玉ふ一 段天にのぼる一段也物語携ノ事︿師ノ玉小櫛二論シ置レタリコュニモサイハマホシ此一條ノ御説服く味キナク覚エ侍り ふみの名八大秀V誇牽考 かきたる 落窪物語源氏物語なとむねとしていふ人の名もて付たれは是も蓬生の巻に見えたることくかくや姫の物語とこそ名津 くへけれと絵合の巻に竹とりの翁としもいへれははやくより翁のかたを名にはおひけんかし河社に竹とりの名は万葉

る六百番歌合に

集十六の巻なる竹取翁によれりといへりさも有へし○顕昭法師多迦とりとょめるを判者難せられたり大和物語なる吾を ばれた たかとりとかける本も有をとりて契沖はかよはしてもくるしからぬにやといへり猶抄の頭書にもあげつらへりふるく 多気とりとよひ来たりたれは今はたけとりとょむをとれり ハ書クモヨシ平假字ノ内一天なりト書ソョキ縣居大人鈴屋大人モ平かなの内へ也トヵ上レタレ圧大平︿シヵセズ ウチ竹翁野山萬ナト︿少シク大二書へしイッレ鈴屋集ノ古今遠鏡ナトノ書サ↓、ヲ見合スヘシ也と云字︿片假字ノ内ニ 今ハむかし竹とりの翁といふもの有けり野山にまじりて竹をとりつ基萬のことに︵以上赤色︶ナトャウニ害へしソノ 大一一大小アリ︵以下黄色︶ − 1 0 8 −

(21)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への梯階 こは なり 爲本といへるは佐野春樹といふ人寛政十二に校合したる本なり搾詳蝿窄誰凹輌適たる本それに校合したる本ともは林鮒主か

持持板[等]

所蔵の古写本上田百樹か所蔵の安永中平信之と校合の本活字本小山か抄本普通印本ホを合たるよし奥に記せりかれ今 も 鈴屋八書き込みV 我師鈴屋大人の源氏物語のちうさく八書き込朶V の 玉の小櫛にたかいつよにつくれりとはさたかにしられねともいたくふるきものともみえす延喜よりはこなたのものと 竹取物語は

物語ゑはてはとか上れたる

そ見えたると師はいはれきされと源氏に巨勢相覧か画に詞は紀貫之かけりのかけるよしみゆれは延喜のさきより有しも

彼物語は作主せ

のなるへしっくり物語なれはか上はるへき事にはあらさめれと紫式部のいたく心しらひしつる物なれはつれj、草に

主のぬしぬし

いへる小野道風かかける朗詠集野たくひにはあらてふるくよりもてあそひて時代も似つかはしけれは相覧。貫之。な

られたるへぎされと

とのものせるとはいへるなるへし○彼經︿高野大師の将来れりといへは大同の比よりは後なるへしまた此物語に富士 の烟いまたたえぬよしなれは古今序にふしの烟も今はた入すなりにければとあれは是も延喜よりふるき證とすへけれ

なともたしかなる

と彼烟後にもあるはたち或はたえ○しつる事あれは證ともしかたし 彼 ○写本としるせるは写本の本行なり 八頭注大平Vこは橋本稲彦の傳へたる本なりトシテワリ書ノ注ニセズト引シ具けて本文トスヘシ

傍鮒主

○古本とは写本の脇に古としるせるにて林氏か本也

傍百樹

○古本とは校本の尋也写本の脇に校としるせるにて上田氏か本也 フミノナ 八頭注V脹云書名としるすへき歎 校合異本 つくれる時世繪合十二ォ

(22)

傍 ○活本とは写本の脇に活としるせるEそ活板の本也

板本をせり板

普通印本と抄本と大かた同しけれは抄とのみしるす印本に異なる事あるときの天

まつ多本につれと方まされるはとりてけおろかなる八大平Vいかに

今校訂せる本多くは抄にしたかひて異本の異本のょきは改めつ改めつ又おのかみしかき心もて補もはふきもあらため

そやおふけな八大平V

もしつるはいと.j∼かしこく罪得ましきわさなれと思よれるはえすてやらてなんすへて補もし唇もし改もしつるは本 にしるしをつけて此解にこと/、くことわれりされは返さはとく本の侭にかへしっへし 八頭注大平V短心ナト云︿短才ナト云ヨリ云了ナルヘヶレ圧.堅く何トナクおろかなる心卜云ソョキナニトナリヒゲ’一ナル也かし 八頭注大平V脇卜云可傍トカ上ン方普通ナルヤウ’一覚1脇トイヘル例モアル鰍老フヘシ ○交も唇字ニセズト正シク何ハカリノタガヒ圧ミエズ板にゑれるナトモイヒスリマキナトモ云テ既二板本卜云名月鈴屋ノ 著書二イハレタレハタ上一一板本ト云ゾ通例ナルヘキ 此本今は 口健冬身まかりて後津の国西宮

板中川惟幾か博もたりとそ板

健冬所蔵の古印本一冊○四十一紙半面十一行囲なし普通印本よりは大なり書体古風あり奥書時年板主名なし此本と写 本と大かた同し末にては異こと︲あり写本と同しきは此本を 古板本 ○冬としるして写本をあけす○類癖檮類従第 れ 内題は抄本健冬か本のなきにより写本にははしめに竹とりの翁 普板 の物語と有印本にはたけとり物語と有竹とりのとはいはてはよからす故標題陰写本猩よりつ 枕冊子にあやしういせの物語なるやとて云々 是は返事をいそぐ処にて彼物語に長岡の母のもとより 業平は朝臣ほとみの事とて御文有といふ事をかくいへる也 八頭注大平V冬トシルス可少シイカュナレ圧外二思ヒアタリナシ古板トシルサンモ古卜云一本アレハソレトマカハシカラン 普板本 ○印とはしるしつ 凡例 − 1 1 0 −

(23)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 八頭注大秀V○注釈の例證に引たるうつほ物語栄花物語源氏物語なと巻の名あるは源氏の栄花のなとはしるさす直に吹上巻あかし 巻なとしるすへし是らは巻の名とも人もよくしてまかはてなり ○抄の説ひか事多しすへてあけつらはす此解の説を引合て考さとるへし 八貼り紙大秀V○いふいはくの類再考 こくモァマリ也罪得なましモコ上一ス不叶コレモワサトヒケシテ云詞ナレハおふけなきわさ卜云ソョキ 傍 ○異本によりて改つる補つるは脇に○点をくはふ

傍ふ

○私に改つる補つるは脇に●点をくはへて甫としるせるは補字の唇にておきのふしるし也支としるせるに改字の 唇にてあらためたるしるし也 八頭注大平V補モ改モ署字︸スセズト正シク書タランモワッラハシクモアラシ

術とみえて必可削ところは引

○諸本にあ巾十kγ$や匪器たる砒此解に出して、ⅢU如此囲をかく ○詞かさなりて間くるしく術とみゆる物から猶えけつらぬは左に〃点をくはふ

やほゆる傍た

○誤字と象ゆれと猶えあらためすてかくもあらんとおもふは脇に片假名を付て訓をのみあらさむ ○脱字脱文と見えておきなひかたきは行中に識としるす抄本と他本といつれよけんとおもふはいさ些かもまさ りたらんとおもふ方を本に出して解にのゑ他本をあく諸本々つなぐ誤れりとゑゆるはことわらぬも有へし ○すへて字形の似たる或は音かょひなとして書写の誤れる例ともことノ、く師の玉の小櫛の四の巻の末に出せり 此物語も彼小櫛をとりてときわくへし ○河社また抄また同頭書なとに引たる書とも用あるはゑなとりつ河社に云抄に云なと記せり出耆ちかきはしるさ 入江昌善といふ人の書加へたる也 す抄の頭書は小山雌か

(24)

とあって、これによって、文化十年︵一八一三︶六月に健冬の書によっての﹃竹取物語校訂﹄の版下を企てたことと、そ れがなんらかの理由で、中止されたことが知られる。その理由の一つは、大平と服の大量の添削に答えなければならず、 それなりの時間を要したこと、もう一つは建冬の早世によるものであろう。健冬の没年獣、高山市郷土館の和部髄﹁詠草﹂、 表紙E﹁詠草飛騨田中大秀﹂とある書籍の十八丁表に﹁槇葉集践案大秀﹂があり、十九丁表から﹁愼葉集の厳︲一,二 題した以下の一文がある。これを翻刻すると、 緑蔭巨勢健冬またの名は槇麿ぷつから江戸人との象いひてつはらかには家をも名をもあらはさてある人のしひてとひ けれはむさしのにおふるうけらのうけき身のもとのねさしをたれかしるへきとてなん有ける歌は新古今集のふりをま 一プ なひ書は芳宜園の翁にならへりとそいふひとり霞の関を立いてLそこはかとなく象やひたる人をとふらひつ上虚々に ひよられつることをも害加へなとして何くれと事しげくて漸に十二年の夏より板にゑらすへく清書しつ 此ちうさくよいにし九年のしはす一わたり書をへつるを本居翁の許に紀伊国につかはしてゑせまゐらせて彼翁のおも ﹃解﹄弱の序文奥付の後の空白に、改めて、 と、文化十二︵一八一五︶年夏に再び解の出版を志したことが知られる。それ以前に、﹃竹取物語校訂一には、 ↓つ尻ノ◎ ている。そして、解の本文﹄﹄も、随所に大平と眼の注が付けられており、そのままの出版は断念せざるを得なかったのだ と、序から、﹁よりところ﹂﹁ふみの名﹂﹁つくれる時世﹂﹁校合異本﹂﹁凡例﹂のそれぞれにも細かな注書きがほどこされ 同 ○師といふは本居軍旅木人なりおのれ此解かく書あらはして今本居大平翁にゑせ 十年末用江序臣勢 文化九年十二月 健冬零 − 1 1 2 −

(25)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 と、健冬没時は文化十一年︵一八一四︶三月三日と知られる。仙冬は文化十二年︵一八一五︶夏の解清書時には既に没し ており、そのため当初本文は健冬の害でと予定していたものが中止となったのであろう。それがこの墨の抹消線による、、、 七ケチではなかろうか。余談だが、健冬の早世は本文版下の作成ばかりでなく、﹃追考﹂の十丁裏に、 口古 ○そばつら冬抄さはひら健冬申一一ハカクラクノ初瀬ノ山ノソハヘラヲコ、二一句ワスレタリマキシクレナヰト云吾六帖一一 来にけれはわか桂のもとに遊へる人々にもいさなはしめ又竹取物語の注釈害あらはすをりにて其文ょ桑あはさせなと とし加賀國にものしけるとき越中國富山里にてはしめてあひて秋のころは必と契おきけるに七月の末つかたとふらひ とLまりては歌のこ上ろをときそとし筆の道ををしへ導ひきなとこ上らの國をゆきめくりけるにおのれいにし壬申の [磨] せしをこそのきさらきいまた都も見す紀伊国本居大人をとふらはん須rあかしなと名たLる海邊も行てみん夏は又か へり来て又こLもとにて伊勢物語のちうさく書あらはしてんなといひ契りて大秀かしれるみやひをたちの許には文そ へて出た入せけるに川上雄亨主のもとに津のくに武廊の里に久しくと上まりて夏の末つかた福はらの津にうつりその 冬は淡路国にもわたりて有けるかこの春又福ばらの津にかへり来て十日はかりわつらひて三月三日といふにょはひは 舟あまり二つにてなんむなしくなりぬると間こそかなしけれうちはへたる病は有けれと今しはしたになからへたらま しかは吾も手もいやまさりて人にもちひらる上人ともなりぬへかりしものをとおもへはいとJ1、あたらしなんかくて 此一巻はありしよに霞注⋮二巻ニテ︸一﹂三巻ニテ八ママ土﹄欠V巻ノ数二言改ムヘ乙よめる歌作れる文の黒つからかきあ つめたる冊子の有けるを見いて上川上主そのころえりいてのへついて給ひて板にはえらせ給つるになん名におふ緑の 蔭かはるへからす槇のはのちりうせぬ千年の後のかたみとなし給へる此主のふかきめくみをしら露のはかなくきこえ しその玉も嬉しと思はさらめやよるこはしと思はさ異らめやかくいふは文化の十とせあまり一とせといふ年の長月飛 騨のくに高山人田中大秀

(26)

有シャウニ覚﹁一卜云ダル|ヨリテ六帖ヲ見レ圧トミ’一不見出候﹁一レニョレハソハヘラソヘくつノ誤一一テそはツラナ メレハ古本つらトアル’一ヨルヘク存候ソハッラト云證アラハ耆入可被下奉希候 とあり、﹃大秀補註﹄の上の二九丁表の上部余白には﹁槇丸云六帖﹂とあって、健冬存命ならば古今六帖から探し得たも のであろう。勿論、大平は、上部余白に、 第五帖かくらくのとませの山をすそへらととよすめ神のまきしくれなゐスソトイヘ︿裾ヒラノ意ヵ山のかたは らヲそはト云山のそはみちそはったひナト云可古キ歌二多アリ柴人のかょふそは道ナト云歌モァリシャゥ也コト ノ、ク今闇記セス古歌ヲ夫木六帖其外西行俊頼ナトノ歌一一アルヘシ こうして、本文校訂はそのままに、解の改訂作業は、文化十二年︵一八一五︶夏に開始されたものの、その清書された 解は不明であるが、﹃竹採物語校訂﹄と、﹃解﹄器と﹃解﹄詔と﹃追考﹄の﹁解﹂からなるものとで出版を目指したこと は、﹃解﹄妬の序文と、﹃解﹄詔の奥付と、香木園著述害目録によって知られよう。﹁製本弘所﹂とある﹁飛騨鍵屋與六﹂ ︵nJ︶ からは後に﹃養老美泉辮﹄を出す。京都の﹁銭屋利兵衛﹂のことは、本居宣長の﹁享和元年辛酉入京日記﹂によると、 ○三月廿八日夜明けたち出晴天坂下にやとる

○廿九日朝雨天上山迄ふる後︿曇草津にゃとる

○晦日曇ウス晴石山一一詣八シ過頃蹴上ケニ著城戸千楯銭屋利兵衛出迎

とあって、大秀は享和元年︵一八○二の四月十三日に鈴屋に入門しており、宣長の許で知ったものかと想像される。須 ︵4︶ 原屋については、元田脩氏によると、文化五年︵一八○八︶に祖父飛騨郡代長谷川庄五郎忠崇の飛州志十二冊のうち四冊 を須原屋左助に写させていること、文化七年︵一八一○︶所蔵の住に吉物語の古写本に印本を以て校訂して出版を勧めて と答えている。 − 1 1 4 −

(27)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯 いることが知られる。このような関係から須原屋一統の総本家の須原屋茂兵衛を選んだものであろう。大坂の奈良屋長兵 衛は、大坂本町の書建葛城氏で、﹃竹採物語校訂﹄の奥付に﹁文政二年二月大坂書睦葛城氏にて一写本を買得て三月十三 ︵5︶ 日一校畢﹂とあり、大野政雄氏の年表によると、この時別に落窪物語注釈一巻と曽根好忠集を購入し、文政四年︵一八二 二にはこの葛城長兵衛の依頼を受けて落窪物語解を著述し始めている。又、﹁香木園著述害目録﹂には、文化十一年︵一 八一四︶の成立とされる﹁養老美泉録﹂や﹁神楽奇解まさきつら﹂を始めとして、それ以前の作品が並べられている。こ こに﹁養老美泉録﹂が挙げられているが、文化十二年︵一八一五︶の﹁養老美泉辨﹂が挙げられていないことから、文化 十一年︵一八一四︶に、本文一冊と解上下二冊の三冊での開板を目指していたと考えられる。そして、延期になった﹁解﹂ ではあるが、やはり文化年間での出版を目指していたことが、表紙裏に﹁文化十三年十一月九日始﹂と記す﹃竹取物語解 中害﹄︵物語羽・以下﹃中耆﹄と表記する︶によって知られる。この最初の部分を翻刻すると、

竹取翁物語解飛騨高山田中大秀撰

一鬮口M鬮一今はむかしすへて物語といふものは過にしことをおくれてまねふことなれは此物語を始て世々の物語ふみ ○○ 今世のさとひ物語にいたりてもむかしノ、と語あるなんふるきならひなりける○竹とりの翁といふもの有けり抄に あるはわるし いへるとあれと伊勢物語にむかし紀有常といふ人有けり大和物語に右馬允藤はらの千兼といふ人の妻に俊子といふ り 山野に入るをいへり とあって、 集春下 春の野に交南わかなつゑくる人もありやと古今簔秤にいさけふは春の山邊にまりしなん云 極嬬吟溶剰雪嶬沙石集善のなとにも有 これと比較するため﹃解﹄あの同一部分を翻刻すると、 1,︾、ノ︲・〃L﹂と1引勾1ノイールユヨニ同刈﹃’二︼仁、仰V・﹂ql︲7歩 人なん有けるなとあり皆此てう な北はル箙1季もの斗聖申本に牛?F竿fリア○野山 山野に入るをいへり にましりて新撰万葉に駒なへてめも なと蟇にも物語にも多き詞なり りしなん云々猶後撰匿源氏物語擁挙銚

(28)

野山にましりて古今春下澤唯いさけふは春の山邊にましりなんくれなはなけの花の陰かは後撰春上に轌誕蛇峨春 雨のふらは野山にましりなん梅の花かさ有といふなり とある。’一こで[ⅡUをもって記した目.|川同M川一・|悶悶旧一は、後からの書き込象である。︾﹂の﹃解﹄妬の上部余白には、 [ママ] 契沖川社にいはく竹取の名は万葉集十六に昔有老翁号日竹取翁也と有によれる鍬といへりさも有へし/忠こそ廿三ウ 山はやしにましるものは/椎本/沙石集 とあり、﹃解﹄あと同一の﹃解﹄肥の上部余白には、 六帖春の題新万駒なへてめもはるの坐にましりなんわかなつみつる人も有やと/椎奔八確琴嗜増蝶牽遼側剛釧 ク︵朱︶ しり侍らんもいかなる木の本をかはたのむへく侍らん/沙石集一ノ十五昔三井寺山門ノ為二焼ハラハレテ云々寺僧モ 山野ニマシハリ人モナキ寺一一成一一ヶリ/忠こそ廿三ウ忠こそ法しに成給ばんとする処身をくたきて山林にましり給人 なんうら山しく覚ゆる云々山林にましるものは云々 とある。﹃解﹄妬・﹃解﹄犯に引かれた古今集と後撰集は、上文に翻刻したように既に﹃大秀補註﹄の上部余白に朱筆で害 飛騨田中大秀著八白塗補修上字﹁著﹂下字﹁解﹂V |師幽圏今はむかしすへて物語といふものは過にしことをおくれてまねふことなれは此ものかたりをはしめにて世々 の物語ふぷ今世のさとひ物語にいたりてもむかし,I、とかたり出るなんふるきならひ也ける

○○諸ノ

|ヨ|判Ⅱ山 たけとりの翁といふもの有けり抄いへる伊勢物語にむかし紀有常といふ人有けり大和物語に右馬允藤原 千兼といふ人の妻に俊子といふ人なん有けるひえの山に念覺といふ法師のなとあり皆このてうなれはとい 竹取翁物語解巻上 |;,| ふものとあるをとりつ 野山にましりて古今春下 − 1 1 6 −

(29)

六 十 一 一 二 田 中 大 秀 『 竹 取 翁 物 語 解 』 開 板 へ の 階 梯 とあることでの推測だが、吉田千足は、元田脩三氏によると、文化十三年︵一八一六︶E、﹁尾州名古屋藩士吉田專七郎 ︵6︶ 千足入門寄宿、翌年十二月十五日退去す。︵名簿、門人録︶﹂とあって、大野正雄氏の﹁荏野門人録﹂によると文化十三年七 月十四日の入門でであって、この時から翌年十二月十五日までの寄宿中に﹁解﹂の改訂作業に関わったものと推測され る。そのあたりの注を﹃解﹄妬と﹃解﹄詔に見ると、 ・補 こと其ひもせず事ともせすにても聞えたれと家人の返答せぬ事なれは物もいはすという意なるへしこと入はぬもの いはいといふ古言なり古事記に本牟智和気御子もの入たまはいことを然是御子八挙髪至子心前真事登波受万葉にこ と坐はい木すらことLひのともしきこら かれており、﹃大秀補註﹄︵物語調︶︲←﹃解﹄︵物語班・物語記︶←﹃中書﹄︵物語羽︶という展開は明らかである。しかしなが ら、﹃中言﹄の作業は﹃竹採物語校訂﹄の七葉までの本文に対する﹁解﹂の部分の一解﹄妬・﹃解﹄詔を書き直したものと 推定される。以下こうした作品として残っているものは、﹃竹取翁物語解﹄︵物語型・以下﹃解﹄型と表記する︶の六冊本の みである。しかし、文化十三・四年︵一八一六・一八一七︶頃にも竹取物語解に関わっていたと推定される痕跡がある。 それは、﹃大秀補註﹄の本文六丁裏に、 ひ歎︵大秀︶ 家の人どもにものをたにいはんとていひかくれどもこと上もせず 八頭注書き込みV家人ナトノ前ニテハかくや姫ヲ見テモ逢可,ナラネハもしや人音モセヌ所二居タラハフト姫ノ来タラン坪一一アカラ サマニタ’一逢也トカクレ居テモシルシナシト云意ナリ ハ上部余白書き込みVこと上もせす大秀云力クテモキコュレ圧若クハことどひもせす云禽物云ハズと云丁力千足云こと上はこた への如露ナル寺ヘシ ﹃解﹄鋸上部余白赤色字Vことt︽ひ補非也

(30)

八﹃解﹄粥上部余白V匪云此二条共二非ナルヘシ 八﹃解﹄霞上部余白大秀墨V千足云こたへもせすとありしを誤れるなるへしといへるいとよし とあって、﹃大秀補註﹄や一唱解﹄妬に書き込みを続けていたことが知られる。千足の足跡は﹃大秀補註﹄にしか確認され ず、﹃竹採物語校訂﹄・﹃解﹄お・﹃解﹄詔・﹃追考﹄の披見が許されなかったのか、後述するが、足立稲直には、﹃解﹄あの 二二丁表の鈴木眼の考察に対して﹁印云此御説奉感﹂とあるような書き入れを始めとして、三十箇所に亘って注記がある が、これに比べて不思議な気がする。 ﹃解一理には、作業に関わる年月日が分かるだけでも、 文政九年霜月廿六日︵首巻二丁表︶ 以上乙酉三月朔長瀬俊香卜校了︵一巻一四丁裏上部余白︶八乙酉三月は文政八年︵一八二五︶三月のことV 文政七年甲申十月十六日以上四十三葉畢荏野翁︵一巻四一丁裏︶ 佛鉢の段七葉十一月十八日註畢︵二巻七丁表︶ 玉の枝のくたり解三十九張文政八年乙酉正月七日注咄大秀︵二巻四六丁裏︶ 文政八乙酉年三月廿七日於荏野書畢り火鼠の姿の段十四葉田中大秀稿︵三巻一六丁裏︶ 丙戌従九月廿五日至十月十日竜の玉廿七葉稿成大秀︵三巻四三丁表八裏表紙表V︶八丙戌は文政九年V 丙戌従十月十一日至廿一日十三日より十五日まて休鶇の子安貝十九葉稿成︵花押︶︵四巻一九丁裏︶ [紙] 丙戊十月廿五日廿九日十一月一日二日三日四日霜月四日解畢御狩りの行幸廿一帝大秀︵四巻四十丁表︶

十一月九日始︵五巻一丁表︶十二日︵五巻二丁表︶

118

(31)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階梯

十六日︵五巻一七丁表︶十七日︵五巻一九丁表︶

十八日暁七シ始︵五巻二三丁裏︶十八日夜︵五巻二六丁裏︶

十九日︵五巻二九丁表︶廿日︵五巻三二丁表︶

廿一日廿二日︵五巻三七丁表︶ 文政九年丙戌十一月廿三日解畢天の羽衣四十二葉田中大秀︵五巻四二丁表︶ と、多くの注記かある。これによると、大秀の書で文政七年︵一八二四︶十月に一巻が、文政八年︵一八二五︶正月に二 巻、三月に三巻の火鼠の棗の段、文政九年︵一八二六︶九月に三巻の竜の玉の段が、十月には四巻の燕の子安貝の段が、 十一月四日には巻四の御狩りの行幸の段が、十一月二三日には五巻が出来上がって、文政九年︵一八二六︶十一月二六日 には自序をものしている。長瀬俊香の校正は一箇所しか知られないが、五ヶ月遅れで巻一の三分の一が行われている。こ うして、出版される﹃竹取翁物語解﹄の原稿が出来上がった。﹃解﹂型の本文冒頭は、 竹取翁物語解

一赫映姫おいたち一飛騨高山田中大秀著

。0 000 0 今︿むかし竹取おきなといふもの有けり野山にましりてたけとりつ上萬の事につかひけり名をはさぬきのゑや つこまるとなむいひける とは ○今ハむかし﹂すへて鷲胆と云もの︿過にしことをおくれてまねぶ魂なれ︿此物語を始て世々の物語蕊今の世の さとひ物語にいたりてもむかし〃I、と語いつるなんふるきならひなりける 八上部余白書き込象Vむかしとは遠くもあれ近くもあれ過去し前を云言なり日本紀に性歳古語拾遺に久代なと書

(32)

とあつ一︸、文政十三年に出版された解とは異なるcそして、高山市郷土館蔵﹃竹取翁物語解﹂︵物語妬︶には、竹取物語本 文と解とを合わせた文政十三年版の形態の版下見本が綴じられている。なるべくその形に忠実に翻刻すると、 |竹取翁物語解巻第一 今はむかし竹取翁といふもの有けり野山にましりて たけをとりつ里萬のことにつかひけり名をばさぬきの 一柔やつこまるとなむいひける 又常に陦昔の字を用たり字書に字陦は曇也左傳註二曠昔猶前日也昔は左傳疏拠レ今而称二上世謂之昔者也と見えた る今はむかしと云万葉廿二韓り行時象ることに心いたく牟可之の人しおもほゆるかもとよめり ○ ○竹とりの翁といふもの﹂伊勢物語にむかし紀有常といふ人有けり大和物語に右馬允藤原千兼といふ人の妻に俊子

る例にょるへし古今擁

といふ人なん有けるなとあり抄本にのゑいへるとあるはわろし○野山にましりて新撰万葉唇蛎駒なへてめもはる

の野に交南わかなっ染くる人もありやと購舞古今駿婁鴎物蕊巻沙石基翰寧鰐多く例ある詞なり○菌

こと︲/、 懐不挙︿抄本 の事に﹂類従本牡紗#肚唯したかひつ宇治拾遺物語蕊震蕗亭に此米をよるっにっかふにた聖同し多さに一一とあ れは万にといふこと諸本になきもよかるへし 八上部余白書き込糸V謁鋒識卸可引是竹の在所にて其竹とるとて間の節に入交りてある也

||⋮|’

飛騨高山田中大秀著 − 1 2 0 −

(33)

六十一一二田中大秀『竹取翁物語解』開板への階悌 とあって、﹃解﹄鯉の書き込桑が本文化されているものの、文政十三年︵一八三○︶の板本ともまた異なる。大秀の序文 も、文字遣いは別にして八箇所ほどの変更がされており、本文にも多くの変更を見る。大平の文政十一年︵一八二八︶十 一月一日の序文も﹃竹取物語解副巻﹄︵物語認・以下﹃副巻﹄と表記する︶に﹁藤垣内翁序文草稿﹂として草稿原稿が四編と 大平の訂正の手紙が一通貼られており、完成までには時間を要したものと思われる。この﹃副巻﹄には、呑木園原稿用紙 ○竹取翁物語解巻一 サヰコト れ過去し前を云言なり。 [最] 一ノ巻敢初四葉未刻 葉万捲にうつりゆく時みる毎に心いたく牟何之の人し思ほゆ

ルナリハヒノノ

るかもとあり○竹取翁﹂︿竹を採て物造を世業とすれば世人竹取

ヨピモノ

翁と呼つる由なり○といふ者ありけり

涛字躍瀧蕊蕊霊潅剛雲醍嶢蕊謬硫称二を用たり

チウノ

ス・へスギ’一[事]

○今はむかし凡て物語と云物︿過去し更をおくれてまねぶもの

ノサトムカシ

なれは此物語を始て世炎の物語ぶ桑今世の哩び物語に至ても昔 力タリイッ ナラヒ 昔と談出るなむ古き効なりけるむかしとは遠くもあれ近くもあ ムカシ 安閑紀に性歳。 ムカシ 古語拾遺に久代など書。常に ’

(34)

に庚寅春日の奥付を有する服の訓点付きの賊文﹁鈴木脹翁肱文訓点﹂も収められている。もとより大秀書とある大秀の版 下原稿は整版時になくなる・か、﹃解﹄型と文政十三年板本との隔絶は、本文と解とを一緒にした﹃解﹄別が板本の解の草 稿であって、想像ではあるが、版下原稿の元となった﹁解﹂原稿の存在も思われてならない。 こうし一︲’’一犬秀補註﹄から十五年をかけ開板に菫で漕ぎ着けたもので、校正にも細心の注意を払っていたことが﹃竹取 物語解﹄︵物語唾によって知られる。ここには、二八葉の誤りのある解の本文印刷と、前述した本文同頭の版下見本一葉 が収められている。簡単に表示すると、

1−巻十二︵表白紙裏のみ印刷︶u一巻廿八虹三巻廿二

2三巻十一岨一巻三十四理三巻廿三

3−巻廿七喝一巻四十五認三巻廿四

4−巻八M一巻四十六型一巻十七

5−巻廿三喝一巻四十七お一巻十八

6−巻五略一巻四十八妬一巻十九

7−巻六r一巻三十三”一巻三十七

8−巻廿五肥一巻三十五詔一巻三十八

9−巻廿六四一巻三十六”一巻三十九

,一巻廿七卯一巻冒頭版下見本八”・錫頁に翻刻V

がある。このうち一・二を例示すると一巻廿七丁裏には﹁り○物もくはずは末鰯zに天皇姫﹂とあり、文政十三年板本で は鰯鰯の箇所誘翻とされ、一巻三十三にがは、上部余白に、 − 1 2 2 −

(35)

六 十 一 一 二 田 中 大 秀 『 竹 取 翁 物 語 解 』 開 板 へ の 階 梯 と奥付されるように、文政十三年︵一八三○︶春名古屋の松屋善兵衛の元から発兒された。そして、翌年の天保二年︵一 八三一︶初夏には、松屋善兵衛を中心に、須原屋伊八、河内屋喜兵衛、植村藤右衛門、河内屋太助と、江戸・大阪・京都 以下○印四枚刻人相止メル事 とあって、横を猫に彫り誤ったことと、彫りを残しを指摘している。このような校正を経て解の出版は、

クワウ

i

尾張桐園蔵板 文政十三年 庚寅春發党 尾州名古屋本町十丁目

製本所松屋善兵衛

尾張桐園蔵板 天保二年 辛 卯 初夏 發免 江戸下谷池之端 須原屋伊八 京堀川通高辻上ル 植村藤右衛門 大坂心斎橋北久太郎町 河内屋喜兵衛回

同唐物町

河内屋太助 尾州名古屋本町十丁目 松屋善兵衛回

(36)

まで販売している。なお、国文当 古屋本町十一丁目萬屋東平﹂, 善兵衛﹂板の後刷りと思われる。 こうして出版された解だが、一[ 白 に 、 とあるものや、巻五の四十丁裏の上部余白に、 大鏡五正義孝少将賀縁阿者利の夢に見えし処に阿者利君はなと心ちよけ迄ておはする母上は君をこそ兄君よりは忌し う恋聞え給ふめれと聞えけれは甚あたはぬさまのけしきにて吾云々とあり是も遺言に母上に我死はへりいともとかく 古何夜蘇志麻加久理和乎祢佐婆志理之便欲相晤恐人知之避自遊場蔭松下携手低膝陳懐吐憤既釈故恋之積疹 伊夜是留之阿是乃古麻郡に由布悉弓一些和乎布利弥由母阿是古志麻波母嬢子報歌日宇志乎永波多上牟止伊閉止奈西乃 嬢女並形容端正光華郷里相聞名声同存望念自愛心滅経月累日擢歌之会俗云宇太我岐又云加我毘也避遁相遇干時郎子日 常陸風土記に香嶋郡童子女松原古有年少憧子注俗云加味乃乎止古加味乃乎止寶男称那須寒田之郎子女号海上安是之 と常陸風土記を引き、巻一の廿八丁五行・六行の間に貼り紙をして 四ノ十四丁右同廿五丁右同五十四丁右五ノ十六丁右可考合 とする。また、巻五の十六裏.十七表の間に十六表の﹁御使つかはせ給ふは﹂に加えたものと思われる貼り紙に、 ヲロカ、、、テタマッリキ四十二ノ十二右 雄署天皇葛木一言主神に物献ラス処に云々以拝獣と古事記傳に獄︿百官より献ルにはあらす天皇の獣給ふ由なり然 るを献給とは不し訓は古語のなり凡て古語には奉といふに賜ふを連ねて云る事なし必賜ふと云へきにもた上奉ると云 る例なり 国文学研究資料館の初雁文庫には、﹁尾州名古屋本町十丁目松屋善兵衛﹂の部分が﹁尾州名 平﹂とある﹃竹取翁物語解﹄が所蔵されている。↑一の板は摩滅や匡郭の切除が見られ、﹁松屋 高山市郷土館所蔵の﹃竹取翁物語解﹄︵物語型︶の文政十三年版には、首巻廿丁表の上部余 − 1 2 4 −

参照

関連したドキュメント

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

 点出二含ハ合嵩二紬肌テ ︵回報︶       ︑

Potentilla freyniana was specific in present taxonomic group by high distri - bututional rate of dry matter into subterranean stem and stolons.. The distributional

﹂卵性隻胎卜二卵性隻胎トノ鑑別 ︵第一同報告︶

61歳一一70St,71歳一80歳,81歳一90歳ノ年齢別 ノ8組二分チ,更二男女別二分類シ限局性緻密

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

油症体格中等︑落丁稽ζ不遜︑胸腹部内臓器二千攣ヲ認メズ.

この点、東レ本社についての 2019 年度及び 2020