はじめに
本論文のタイトルを見て、完全にその内容を予測できる人はいないであろ う。アダム・スミスについては、恐らくは歴史上最も有名な経済学者であろ うからとりあえず説明の必要はないであろう。
これに対して、正司考祺(または考棋)については、残念ながらその名を 聞いたことのある人の方が少ないだろう。江戸時代後期から末期にかけて、
佐賀藩内は有田の地において多くの著作をものした町人学者である。しかし、
その夥しい著述は版木に起こされることはなく、友人の間や弟子内において 回し読みされたり、書き写されたりして流布したようである。尤も、明治期 以降、一部の著作は商人の修身の書として出版もされたようであるが。
孝祺については状況がそのようであったから、その弟子筋に影響力にある 学者になった者もおらず、また孝祺自身、幼い頃からの書物を通じた独学に よってその広範な知識と見識とを身に付けたようであって、人脈的にその思 想的系譜を追うことはできない。
この点、古典派経済学がイギリスの19世紀を通じて発展し、現代にまで繋 がる学問としての経済学にその礎を与えたアダム・スミスとは比較のしよう
正司考祺とアダム・スミス
山 崎 好 裕 *
*福岡大学経済学部
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もないように思われるかもしれない。そして、敢えてこの比較を行おうとす る本論文について、お国自慢的に興味本位の著述をしたためる好事家の手に よるものと、決めてかかろうとするかもしれない。そうした読者に対しては、
アダム・スミスの名が、正司考祺の著作と研究史1を精査するうちに自然と 筆者の脳裏に浮かんできたものであること、その名が浮かんだ後も、努めて 孝祺を等身大で客観的に扱うよう自身に戒めながら考察を行ってきたことを、
予め報告しておきたい。
そもそも、筆者が正司考祺の名を知ったのは全くの偶然であった。佐賀城 址に歴史博物館として本丸御殿が竣工して間もなく訪れた折、確か主著の
『経済問答秘録』の1巻が陳列してあったのだった。故あってのことだった のか心惹かれ、こうした小論を著すことになったが、その目的は二つあると 思っている。
一つは、紋切り型に地方儒者の著作として、あるいは、未成熟な市民社会 を針穴から瞥見するような論考として切り捨てられてきた孝祺の思想を、可 能な限りそのオリジナリティを生かして、現代的視点から再評価することで ある。もちろん、それだけならばアダム・スミスとの比較を敢えて持ち出す 必然性はない。そこで、二つ目の目的が出てくる。
それは、アダム・スミス自身の思想の別側面、少なくとも、これまで冗漫 な記述として分析の対象から省かれてきた部分についての見直しを、孝祺思 想から逆照射することで行うということに他ならない。
1 正司考祺思想の学問的な研究はそれほど多くはなく、しかも戦前に遡るも のを含めた何点かのみである。もっともまとまっているのは、松好〔1932〕
であるが、商業観に絞ったものには東〔1951〕がある。
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1.正司考祺の背景と生涯
正司考祺は寛政5年(1793年)9月に佐賀藩有田の皿山に、商家の息子と して生まれた。先祖を遡れば出雲の尼子氏に至ると言われ、同氏滅亡後肥後 を経て武雄西山村に移り、その後同地に定住した。商売は絵筆の販売であり、
曽祖父にあたる源七郎がこの商いを始めた。考祺は父正七郎の次男であった が、幼い頃から商才に長けていると見込まれたのか、兄の儀六郎は炭焼きと なり考祺が家業を継いだ。彼は幼名を米十といい、長じては正治(または庄 治)と名乗った。号には考祺の他、住居近い大谷に因んだ碩渓や南鴃がある。
そもそも藩の他国向け主要移出品である陶器の里であった有田で、色絵の 絵付けに使う絵筆を商っていることは地の利を得たものであったろう。それ に考祺の才も加わって家業は多いに栄えた。さらにそれらの金銭を元に金貸 業にも進出した考祺は巨万の富をなしたと伝えられる。
史上有田皿山を見舞った災厄のなかで最悪のものと今も語り伝えられる文 政11年(1828年)の大火のとき、孝祺は35歳のはずだが既に十分な蓄財が あったようで、質草として預かっていた着物を救援のために拠出するととも に、精米3、4俵で粥を炊き、2日間に渡って近在の被災者に供したという。
米は友人、知人にも送られ、総額は300両に達したと家伝には記されている。
幼い頃から学を好み、独学で近隣を代表する在野の儒者として知られるよ うになった孝祺が、矢継ぎ早に著作を著し始めたのもこの頃からである。当 時の40近い年齢と言えば隠居していてもおかしくない年頃であるから、家業 の跡取りにも目処が付き、半ば隠居をして著述と後進の育成に時間を費やす 決意をしたのかもしれない。次章でその思想の詳細を見る『経済問答秘録』
全30巻は天保2年(1831年)に一気に著された厖大な著述である。現存する 23巻を筆者は繰り返し精読したが、孝祺という特異な知性の発するエネル ギーに終始圧倒される思いであった。その著述は博覧強記にして、筆の赴く 正司考祺とアダム・スミス(山崎) −197−
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まま漢籍から日本古典や史書に及ぶ。こうした未整理で怒涛のような記法は アマチュア学者にはありがちだが、そう言って打ち捨ててはおかせない引き 締めや閃きが随所に散りばめられていた。孝祺自身が私塾を開いたとも伝え られ、『秘録』では学校論にも2巻をあてている。このため、近世教育史か らの研究もある孝祺である。また、儒家としての立場から仏教と僧侶の堕落 を、口を極めて批判していることも夙に有名である。しかし、今回読んでみ て、孝祺の有職故実や海外事情についての知識もそれ相当のものであると感 じた。尊皇思想の盛んだった北部九州という位置、長崎街道との密接な関係 を踏まえ、有田への国学・洋学の普及といった近世知性史からの正司考祺研 究もこれから必要と思った次第である。
現在の正司家に伝わる文書類にも現存しない『倹法富強録』はもちろん筆 者も未見であるが、翌天保3年の著作であり、タイトルからして『秘録』の 政策論のみをまとめたものと推定される。同書は孝祺との間にかねてから親 交のあった多久在住の儒学者・草場佩川を通じ、佐賀城下の藩校弘道館教 授・古賀穀堂に献じられた。佐賀藩の親類同格の地位にある名門・多久竜造 寺氏の知行地である多久では、領内に聖廟を建てるなどして厚く儒教を奉じ たので多くの優れた儒者を輩出していた。他方、学者・古賀穀堂は佐賀藩史 上名高い改革派政治家でもある。極度の財政難に起因する藩政危機の只中、
天保元年(1830年)に第10代藩主に就任した鍋島直正は藩校弘道館出身の少 壮気鋭の藩士で側近を固め、いわゆる天保改革に着手する。勢い藩校教授の 穀堂が直正のブレーンということになった。穀堂は前藩主・斉直にも『学政 管見』と題する改革案を呈していたが、直正には『済急封事』を呈しこれが その後藩政改革のプログラムとなっていく。後の洋式軍隊と近代工業の幼生 的発展につながったこの改革の開始と孝祺が著述を開始した時期とはぴった りと重なっており、有田の地にまで広がった藩政改革の興奮が伝わってくる ようである。
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その後の著作『東遊百絶』1巻と『豹皮録』100巻は、天保4年(1833年)、
天保6年(1835年)までは矢継ぎ早に著される。しかし、次の大著『武家七 徳』は弘化2年(1845年)と、10年を措いての著述となった。この沈黙の背 景と推測されるのが、天保改革が急進化して有田皿山の地域経済を揺さぶる に至ったことである。
直正は藩の蔵入米の減少を招いている農村疲弊の原因を、地主の土地集中 にために潰れ百姓が増えていることに見て取り、天保13年(1842年)、小作 料である加地子米を猶予する法令を発布した。しかし、翌年には皿山代官所 管内に関して、加地子米は免除ではなく3分の1への軽減へと措置を後退さ せたのである。これは有田・伊万里の商人地主たちが同時に藩の奨励特産品 である陶器の生産者であり、彼らの反発が無視できなかったからであろう。
だが、この緩和措置は早くも翌年には再反転される。それどころか嘉永5年
(1852年)になると、藩は皿山代官所管内の土地を全て一旦取り上げ、あら ためて30町以上の地主に6町、それ未満の地主には元の所有面積の2割5分 だけを再配分し、残りは全て現在の耕作者の所有とした。これが土地藩有分 給令と呼ばれる、江戸期稀に見るラディカルな均田政策の断行であった。孝 祺は、個人の利益追求とその結果である貧富の格差を是認する立場から、早 くも『秘録』の段階で均田政策に反対していた2。
この土地藩有分給令の前年に著されたのが、私たちが第3章で詳細に見る
『家職要道』10巻である。孝祺は齢58となっていた。『要道』に至ると孝祺 の筆は円熟の域に達し、平明な文体で商人の心得と哲学を誰にも分かりやす く書き切っている。筆者は『武家七徳』を読んだときにも、初期の作品には なかったまとまりと読みやすさを感じたが、『要道』では独自の作風は完成 を見ていると言っていいだろう。
2 この論点を主題とした考祺研究に三溝〔1986〕がある。
正司考祺とアダム・スミス(山崎) −199−
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その後、『天明録』5巻を安政3年(1856年)に著した孝祺は、その翌年 没した。享年64歳、明治維新の10年前のことである。
2.『経済問答秘録』あるいは「倹約」の思想
前章で述べたように筆者の推測が正しければ、正司孝祺の代表作と言って いい『経済問答秘録』は、鍋島直正=古賀穀堂コンビによる佐賀藩政改革開 始の報を聞き、これまでの読書や儒者仲間との交わりから得た厖大な知識を、
惜しげもなく一気に吐き出したかのような著作である。『秘録』の冒頭近い、
おそらく最も引用されることの多い下りにこうある。
今世間に貨殖興利を以て経済と云は謬也今の経済と云は、俗に所謂世 知方上首の方便者也庶人の一家を富すは随分可なり蓋国天下を治るに至 ては、終には災害を招く媒酌也経済と云は仁義を以て国家を治る事也3
経済を経世済民の略とし治世者の心掛けや統治技法とすることが当時の儒 者一般が広く持っていた見解であるというのは、江戸期の経緯思想史に若干 なりとも知識のあるものであれば常識であり、ここにも孝祺の独創性は全く 見当たらないと判断されるであろう。だが、筆者はそれを逆手に取って独自 の主張に換骨奪胎していくのが孝祺のユニークさであると見ている。そうし た一種ポストモダン的な脱構築の戦略を私たちは今後随所に見出すことにな るのだが、ここでも経済を利益追求と見做すことが個人の家を富ませること につながると、一旦肯定的な評価を与えているのである。
もちろん、その後孝祺は、国家経済全体を考え運営していくときは異なる
3 瀧本〔1916
a
〕6ページ。−200−
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のであると述べる。孝祺の使う国家の語は、文字通りお家としての藩政を指 すと考えていい。国としての家と個人の家では経済運営の手法や経済学が異 なる。現代でも経済学は、個々の家計や企業の合理的行動を数学的に扱うミ クロ経済学と、一国経済のパフォーマンスや経済変動を集計的に扱い経済政 策の効果を評価するマクロ経済学とに分かれる。成り立つ法則が両者で異な るからである。たとえば、貯蓄の奨励は個々の家計を富ませるかもしれない が、一国経済を貧しくさせることがある。20世紀を代表する経済学者ケイン ズは、ミクロの知識をマクロに類推させることを合成の誤謬と呼んだ。それ はまるで、この引用での正司孝祺の口ぶりそのものである。
経済学の起こりが、いかにして国を富ませるかという政策関心にあること は洋の東西を問わない。アダム・スミスは恐らく故あって意図的にその語を 避けたのだが、スミスが明らかに体系を引き継いだと考えられるジェーム ズ・ステュアートの大著では、その後長く経済学を表す用語として用いられ たポリティカル・エコノミーが使われている。この語は、古代ギリシャで貴 族市民の農場経営の手法を意味し、富裕術の意味を持っていたエコノミーに 国家を意味するポリティカルを加えて、絶対王政成立期に作られた。いかに して国家財政を豊かにするかを考える術としてである。幕藩時代の日本でも そうだが、この時期の思考では治世者の家政と政府財政の区別がないだけで なく、それらと独立な一国経済の概念が明確ではなかったため、経済学の役 割は漠然と国を富ませることとされた。
それで『秘録』の場合だが、国の富裕化の手段としてこれらの記述が散見 される。
斯る国家無益の者は、皆職に就ざる者なり富国強兵を求んと欲せば、
先無職・遊芸の者を誡めよ4
4 瀧本〔1916
a
〕212ページ。正司考祺とアダム・スミス(山崎) −201−
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国を富驍にせんと欲せば、民の暇隙なき様にすべし5
眼前の小利に迷ひ、人の労苦を思はざるは、忠恕の心無き故なり6
アダム・スミスは『諸国民の富』の冒頭近くで、国民の富がその国民自身 の年々の労働が生み出す生活必需品の総体であることを述べる。これは財貨 そのものが富であると信じられた時代にあって衝撃的な論述であったと想像 されるが、労働だけが価値を生み出すということの高らかな宣言であった。
先の引用箇所は、正司孝祺が労働価値説のエッセンスに到達していたこと の証左である。孝祺は国家富強のためには、民衆が弛まず労働できる環境を 為政者が保証することが先ずは肝要と説いているからである。最後の引用文 では、『家職要道』に至って孝祺思想の中心概念として成熟してくる「忠 恕」の語を用いて、労せずして利を得ようとする小賢しさを戒めている。
それでは孝祺は、自らの生業である商業が無為徒食のセクターとして不当 に貶められていることについてどう考えていたのであろうか。研究者のなか には、『秘録』が商業擁護論を全面的に展開していないことを訝しむ向きも あるようである。しかし、筆者の見解は、孝祺が士農工商の封建的秩序を前 提にそれを機能的階級分業と捉え返し、しっかりと商人を経済的不可欠性の 下に位置付けているというものである。引用文を見よう。
士は三民の養ふ所なり故に三民を宝と云ふ7
5 瀧本〔1916
a〕319ページ。
6 瀧本〔1916
a〕250ページ。
7 瀧本〔1916
a
〕222ページ。−202−
( 8 )
四民各其職有り制度にもとらず其自職を勤るを人道とす大和久く武家 も至極の閑暇ゆへか、自職を廃て卑劣の商職を営むは、国家混乱の本な り8
最初の引用の三民は農工商であるが、いずれ劣らず国家経済を支える要で あることを確認している。次の引用はよく正司孝祺の専売批判論とされる箇 所からのものであるが、この文章の後に藩による木綿専売を批判する記述が 続く9。ここで孝祺の筆は躍り、皮肉も交えて感情も顕わな叙述になってい る。士は士、農は農、工は工、商は商とその本文に邁進する最も国家経済繁 栄つながるのだ。階級混濁は国家経済の効率を悪化させ、その衰退を導くも のである。アダム・スミスと言えば分業論と言われるくらいであるが、孝祺 は工場内分業論こそ展開しなかったものの、スミスにも見られる社会的分業 論を国家経済と結びつけて論じた江戸期に稀有の思想家と言うことができる。
このように孝祺の専売批判は有田がその産地である、藩の特産品である陶 器専売に向けられたものではなかった。むしろ江戸期に藩の版図を超えて広 範に国内市場を形成していたのは、これらの特産品以外にはなかったのであ る。佐賀藩でも国内向けには大阪に、海外交易に向けては長崎に陶器流通の ための藩士を常置していたが、その効率性を孝祺も否定する必要はなかった のかも知れない。
その産品生産と交易について、正司孝祺はなかなか巧妙な比喩を用いて次 のように述べている。
8 瀧本〔1916
b〕183ページ。
9 考祺の専売論批判を扱った研究に堀江〔1930〕や堀江〔1933〕の145ページ の記述がある。堀江の見解に対する批判として、藤田〔1966〕の156ページ の記述がある。
正司考祺とアダム・スミス(山崎) −203−
( 9 )
抑も産物を仕立るは、其価銀を自国にうつさんが為ならん然れば其財 を自国に永く留むべき工夫こそ専一なり其留むべき工夫を為さず、唯産 物のみ欲するは壊堤を修復せず、天に雨を乞ふが如し其財を留る工夫と 云は他なし唯上下共に倹約に在り10
前半部だけを読むと、移出黒字を人為的に確保しようとする重商主義的な 政策提案が暗示されているように想像するかも知れない。だが、よく確認す れば、アダム・スミス的な自由貿易の積極的な主張とは言えないものの、市 場の拡大によって産品の生産を促そうとする貿易志向的な政策が否定されて いないことが分かる。そして、産品の市場取引によって得た利益をよく国内 に留め置く最善の方策として顕揚されるのが、直正らによる天保改革でもそ の旗印として掲げられた「倹約」なのであった。
正直「倹約」というと伝統的な儒教倫理から来る封建的な価値観であり、
需要を抑制することで経済にはマイナスに働くと考えられるかもしれない。
だが、孝祺はここでも「倹約」を見事に脱構築して見せる。孝祺は他の箇所 で繰り返し、「倹約」とは余剰をいかに無駄なく利用するかという問題だと いう趣旨の叙述を行っている。純益は余剰の最たるものであるが、これを浪 費することなく有効に用いるとは、いわゆる再投資による資本蓄積の勧めに 他ならない。孝祺は己の思想体系全体を通じて、このように新しい意味での
「倹約」を中心とした経済発展促進策を主張したのである。
3.『家職要道』あるいは「忠恕」の思想
『家職要道』は正司考祺の円熟期の思想を示す代表作と言って間違いない。
10 瀧本〔1916
a
〕257ページ。−204−
( 10 )
その叙述は『秘録』のような学問書の体裁は取っていないが、年月が熟成さ せた考祺思想が随所に芳香を放つような著作である。尤も自分が反対を続け た均田政策が、かつてはその自分が期待をかけたはずの藩主直正による天保 改革の急進化のなかで実行に移された後であるから、芳香のなかに一抹の苦 みも感じることができる。その分、経世論を離れた純然たる商人哲学が縦横 に展開されているとも言えるのである。
先ず考祺は、商売を行って財をなそうと思うものは勤勉が第一であるとし、
次のように述べる。
家を起すものは皆朝起きし、貧しく成る者は皆朝寝すべし11
人に大金を借て商売せる者は、諸国を巡るに肩輿よりゆくが如く、其 実地を踏ざる故、険隘阻沢の艱難を知らず故に倹約の事も薄く能持しが たし12
勤勉こそ、イギリスにおける古典派経済学の草創期、ジェームズ・ステュ アートからアダム・スミスに引き継がれた精神の中心であった。ちなみに現 代の英語で産業を表すインダストリーの語は、本来勤勉を意味する。
自ら少ない資本から始め、経験を積みながら「倹約」に相務めることで資 本蓄積を一層進めていくことができる。既に見たように考祺にとって「倹 約」とは資本蓄積の促進のことであった。最初から楽をして資金を得たもの は「倹約」の効用も分からないので、資本蓄積は行き詰まることになるので ある。
アダム・スミスが批判した重商主義時代の特権貿易商人たちは、株式発行
11 瀧本〔1916
c〕249ページ。
12 瀧本〔1916
c
〕122ページ。正司考祺とアダム・スミス(山崎) −205−
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によって一気に資本を集め、冒険的航海を敢行することで一攫千金を目指し ていた。考祺においても、自らを含む叩き上げの自由商人の立場から、そう した大商人のあり方が批判されているのである。利益は行きつ戻りつの過程 のうちに、平均的に正常利潤として獲得されなくてはならない。
蓋損利の二つは、陰陽の如き者にて、利あれば損あり利有りとも悦ぶ べからず損有りとも憂るべからず13
誠に「倹約」こそ考祺思想において初期の『秘録』と晩年の『要道』とを つなぐ重要概念に他ならない。考祺は『要道』において「倹約」概念をさま ざまな角度から分析している。
倹約と吝嗇とは、我と人との違ひなり倹約は我一人の事なり人に致せ ば吝嗇となる也14
倹約を借福といふ奢れば必ず天の造物を費すゆへ、天地の恵みを受て 福を得ず15
先の引用で考祺は、単なる「吝嗇」と比較することで、資本蓄積の促進を 意味する「倹約」の積極性を示している。実にマルクスの言うとおり、資本 を増殖させない守銭奴は頭のおかしくなった資本家に他ならない。
後者では、浪費の社会的弊害として資源の枯渇が指摘されている。逆に効 率的資本再投下である「倹約」は資源の配分と利用を効率化する「借福」の
13 瀧本〔1916
c〕128ページ。
14 瀧本〔1916
c〕168ページ。
15 瀧本〔1916
a
〕174ページ。−206−
( 12 )
プロセスでもあるのだ。
アダム・スミスは当時のイギリスを前提に地主、資本家、労働者からなる 階級社会を是認した。だが彼の活写する近代は、人々が自由に交易し合う一 種の商人共同体である。士農工商の効率的階級分業を唱えた考祺も究極のと ころ商人共同体をイメージしていたと感じさせる下りがある。
天下の財は孰の家に止ると其究りはなく、招く処に来るものゆへ、其 取るべき業を致せば、何時も手に入る事は、士農工商の差別なし16
こうした商人共同体では貨幣が留まることなく流通して、必要な資源を配 分し所得をもたらす。必要なのはそうした共同体に参加し、なすべきことを なすことである。そのなすべきこととは何か。考祺は次のように述べる。
金は唯求る法を勤ると勤ざるに在り其勤る法と云は、忠恕と云一字を 守て、人の家も我家として、同じ様に隔てなく思ひやるを恕と云べし17
実を言えば筆者は、この下りを読んだときに初めて正司考祺とアダム・ス ミスを重ねて考えた。「忠恕」の思想を考祺は明確にスミスの共感と同じも のとして用いていたからである。元々「忠」は真心を、「恕」は思いやりを 示す。人々の心から自然に湧き出る相手を思いやる気持ちは、アダム・スミ スが社会の紐帯として『道徳感情論』で展開した共感と相違するところはな い。驚くべきことに考祺は、その「忠恕」を商人道の根底に置いたのである。
正司考祺は、アダム・スミスとは逆に『諸国民の富』からスタートし最後に
『道徳感情論』に至ったように、筆者には思われる。
16 瀧本〔1916
c〕264ページ。
17 瀧本〔1916
c
〕265ページ。正司考祺とアダム・スミス(山崎) −207−
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おわりに
本論文では正司考祺の多くの著作のうち『経済問答秘録』と『家職要道』
について、それらのエッセンスを辿ることで、分業論、市場論、共感論など、
100年の時間差を通じてアダム・スミスと切り結ぶ論点が散見されることを 確認してきた。私たちはこのことから何を知ることができるであろうか。三 つの論点を確認しておこう。
先ずは、アダム・スミス問題と類比される正司考祺問題の存在である。ア ダム・スミス問題とは、そもそもドイツでの経済思想史研究のなかで言われ るようになったものだが、『道徳感情論』での他者への共感的配慮を強調す るスミスと『諸国民の富』での私欲と競争を強調するスミスとの間に、果た して連続性があるのだろうかという問題提起のことである。もちろん断絶を 言う論者もいるが、筆者の見解は連続性があるということである。
孝祺の場合も、経済を利益追求とせず仁義を以って国を治めることである と言う『秘録』と、喜々として実体験に基づく商人論を語り利益獲得の方法 を説く『要道』の間にはかなりの懸隔があると感じずにはおれないであろう。
これを以って正司考祺問題ととりあえず名付けておく。
アダム・スミスの場合、『道徳感情論』でも共感は自己愛を中心として同 心円上に弱まりながら広がっていく。そして、この共感こそが経済社会を生 み出す紐帯である。共感は『諸国民の富』では交換性向に名と姿を変えて現 れる、というのが筆者の考えである。競争社会においても、共感は私的利益 の追求の背後で木霊のように鳴り響いている。だから、スミスの競争は決し て相手を殲滅するそれではなく、スポーツにおけるフェアプレーを思わせる それである。
正司考祺問題は、ある意味それよりも単純に、一先ずは両書の目的の違い で説明できる。文体からも両書の違いは明らかである。『秘録』が藩政を担
−208−
( 14 )
う士族とその思想的背骨である儒者を対象に専ら漢文読み下し調で書かれて いるのに対し、『要道』はほぼ口語体で自身と同じ商人かその道での成功を 志す者を対象に書かれている。目的の違いは当然叙述の違いを引き起こすで あろう。
だが、一貫した思想を展開すべき学者として、両書の叙述に齟齬を来すの はいただけない。筆者の見解はここでも連続説であり、既に本論文でスミス の共感に擬えた「忠恕」が両書を貫いて響いていると解釈している。『秘 録』では直接的に「忠恕」が主題化されているわけではないが、その理由は 場合によっては主君である藩主が当事者となるためであって、だからこそ
「忠」の字を用いない「仁義」の語が採用されているのであろう。しかし、
その内実において、為政者が思いやりを以って藩経済を振興する施策に励む のも、商人が真心を以って社会のためにフェアな商いに励むのも変わりがな い、という思想にこそ正司の真骨頂があることは間違いない。
第一の論点が長くなったが、続いて第二の論点に移ろう。この論点は第三 のそれに連なっていく。それはアダム・スミス思想の時代的普遍性というこ とである。アダム・スミスはそれがあまりのビッグネームであるが故に、そ の思想の先進性、革命性が強調され過ぎた嫌いがある。近年では、『諸国民 の富』が当時の諸思想の単なる寄せ集めであるという主張をする研究書も出 版されているし、スミスは恐らく故意にその名を伏せているが、重商主義者 のジェームズ・ステュアートの著作こそが同書の元本であるという主張は、
筆者を含めて複数の論者が行っている。尤も、ここで言いたい普遍性とはス ミス思想のオリジナリティに関わる問題でなく、それが洋の東西を問わず近 世末期に現れるべき諸要素を多分に含んでいるということである。
だから、織豊時代に見られた近代的発展が徳川幕藩体制の下人為的に押し 留められ、封建的諸制度に浸潤するような特異なかたちながら貨幣経済が相 当程度の発展を遂げた江戸時代末期に、アダム・スミス型の思想が自生的に 正司考祺とアダム・スミス(山崎) −209−
( 15 )
成長するのは決して奇異なことではない。そして、その担い手となったのは、
儒者としての正当な修練を積んだ専門学者ではなく、自らが商人であった正 司考祺であったという事実も十分に頷けるものである。
ここに示唆されているのは、アダム・スミス思想を自由商人の思想として 読解し直す可能性である。これが第三の論点となる。アダム・スミスは重商 主義思想に対して激しい批判を行ったが、それはもちろん商業全般に向けら れたものではない。スミスが攻撃した相手は、政府による外国貿易独占とそ の権益に結び付いた専売商人であった。この点、孝祺の専売制批判の趣旨と 変わるところはない。
それに、スミスは巷間誤解されているように産業家が主人公となる、産業 革命以降の工場制機械工業の時代を知らない。スミスが見たのは、商人資本 が地域農民と結び付いた問屋制家内工業か、それの発展形である工場制手工 業、つまりマニュファクチャーである。その担い手たちは色濃く商人として の性格を残していたであろうし、『諸国民の富』には肉屋、パン屋などの自 営業者や小商人そのものも数多く登場する。であるから、スミスが著述にあ たって想定していたのは、特定の歴史的性格を持たない抽象的な市民一般で はなく、スミスの時代に生き生きと活動していた自由商人たちではなかった のか。正司考祺からの逆照射で映し出されてくるのは、そうしたプレモダン の商人思想家としての、新しいスミス像かもしれないのである。
参考文献
東晋太郎「正司孝祺の商業論」関西学院大学『商学研究』第1巻、1951年、
305‐17ページ。
瀧本誠一(編)『日本経済叢書』第22巻、1916年。
瀧本誠一(編)『日本経済叢書』第23巻、1916年。
瀧本誠一(編)『日本経済叢書』第24巻、1916年。
藤田貞一郎『近世経済思想の研究−「国益」思想と幕藩体制』吉川弘文館、
1966年。
−210−
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堀江保蔵「正司孝祺の専売反対論」京都帝国大学経済学会『経済論叢』第31 巻第5号、1930年、146‐150ページ。
堀江保蔵『我国近世の専売制度』日本評論社、1933年。
松好貞夫「正司孝祺の経済思想」『経済史研究』第37巻、1932年、108‐24ペー ジ。
三溝博之「近世の均田思想と町人学者正司孝棋」国学院大学『経済学研究』
第17輯、1986年、49‐66ページ。
正司考祺とアダム・スミス(山崎) −211−
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