論 説
清朝治下モンゴル社会における
ソムをめぐって
ハルハ・トシェートハン部左翼後旗を 事例として
中 村 篤 志
序 論
清朝藩部統治の特質の一つは、 在地の統属関係・社会編成を改編 せず基本的に在地支配者層に統治を委ねる一方、 皇帝を頂点とする 集権的な軍事・行政の指揮系統をいわば統治の楔として社会に打ち 込んだ点にあるとされる(1)。 このいわば間接統治と集権的統治の 併存は、 満洲宗室に比肩する高位の王公が多数存在し、 軍事的にも 早くから満洲の同盟相手であったモンゴルにおいて一層顕著に看取 できよう。
清朝はモンゴル既存の支配氏族 (主にボルジギン氏。 タイジ、 ) に対し、 満洲宗室と同等の王公爵位と、 爵位に応じた属民 (随丁、
) の所有を認めるなどその特権的地位を保証した(2)。 基本 行政単位である旗 (ホショー、 ) の長 (ジャサク、 扎薩克、 ) には主に氏族中の有力タイジを任じ、 旗の行政全般を委ねると共に ジャサク職の事実上の世襲を許した。 清朝がかくもモンゴルを厚遇 した理由は、 清初の満蒙の軍事同盟に遡る。 モンゴルが満洲を軍事 的に支える構図は、 国初来の基本構造であった(3)。
しかし、 モンゴルの軍事力を維持するためには、 日常的な動員・
訓練体制、 指揮命令系統などを整備する必要がある。 そこで清朝は 満洲の八旗制度になぞらえて、 モンゴル各旗にソム (佐領、 ) を設置した。 ソムは兵丁 (箭丁、 ) 150人から構成される軍事 組織であり、 制度上ソムは旗の官員に管理され、 タイジはソムとの
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統属関係を断たれた形になっている(4)。
従来の研究では、 このソムは、 八旗制下の佐領同様、 軍事面以外 に経済的・社会的にも結びついた基層組織と理解され、 清一代を通 じ旗内で自立性を高めていくソムと、 旧来からの統属関係を維持せ んとするタイジという対立構図を研究の前提に置いていた(5)。
これに対し、 タイジが旗内において各々の血統分枝毎に形成した 集団 「バグ ( )」 に注目した研究が近年発表されている(6)。 なか でもハルハ・セツェンハン部中末旗 (以下、 中末旗) を分析した岡 洋樹氏は、 同旗ではバグが旗官員の枢要ポストやソムの箭丁を分有 することなどから、 バグが単にタイジの親族集団であるにとどまら ず、 ソムも含め旗社会全体を分割統治する基礎単位として機能して いたとする。 一方ソムについて岡氏は、 「満洲がモンゴル社会に打 ち込んだ満洲的社会編成原理に基づく楔」 と評するが、 清朝への軍 事的任務を負担する限定的機能しか持たず、 日常生活ではタイジ (バグ) の属下にあったとする(7)。
しかし中末旗の事例では、 その軍事的任務もバグ単位で負担が配 分されており、 ソム固有の役割や機能は確認できない。 日常タイジ の属下にあり、 特に負担すべき固有の義務も無いのであれば、 ソム は単なる帳簿上の存在に過ぎない すなわち、 ソムはモンゴル統 治の楔たり得ないことを意味する。 清朝モンゴル統治の意義を考え る上でも、 旗レベルでの実証研究によって、 ソムの機能と社会的位 置付けを解明する必要があろう(8)。
そこで本論では、 主にハルハ・トシェートハン部左翼後旗 (以下、
左翼後旗) に焦点を当てる。 該旗は、 先行研究において、 タイジと ソムの対立を象徴する事例とされてきたアシグ章京の訴訟が起きた 旗であり、 中末旗と同様に比丁冊・アルバ分配冊が存在する他、 戸 口家畜冊や証書・訴訟文書など多様な史料が存在する(9)。 本論で はこれら多様な史料を用いソムを巡る如上の問題にアプローチする。
第1章 アルバをめぐる訴訟と当時の社会状況
まず清朝編纂法典でソムがいかに規定されているかを確認する。
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ソムは4年に一度戸籍改め (比丁) を受け、 60歳以下18歳以上の壮 丁が比丁冊 ( ) に登録され清朝に報告される(10)。 1ソムは箭丁150丁から成り、 3分の1の50丁は武装した兵丁 (「披 甲」 「馬甲」) として有事の際の出征義務を負う。 この兵丁50人は平 時においても武具一式を完備することが義務付けられ、 毎年会盟に 赴き盟長・副将軍らから武具の査閲と軍事訓練を受ける規定であっ た(11)。 その他、 駅站や国境の哨台 ( 倫、 )、 屯田や牧廠など 清朝が設けた軍事施設にも兵丁が派遣された(12)。 また先述の如く ソムは各官員によって統制され、 旗内のタイジとの関係については 何ら規定がない。 法典を見る限り、 ソムはタイジの管轄を離れ、 比 丁冊を通じて清朝中央に直接管理される軍事組織と定義できるので ある。
では実際はどうであったのだろうか。 比丁冊と実際の旗民数との 乖離について、 筆者は別稿で検討したことがあり、 左翼後旗では比 丁冊に登録された箭丁・随丁以外に多数の未登録者が存在した事実 を明らかにした。 例えば左翼後旗の道光15 (1835) 年比丁冊では随 丁834人、 箭丁600人 (該旗は4ソム) なのに対し、 同年の戸口家畜 冊ではタイジの随丁とその他 「アルバト( 、 属民)」(13)が計2 915 戸12 059人、 4ソムの箭丁とその他 「ソムのアラド (民)」 が計2 477 戸10 013人記録されている(14)。 つまり比丁冊にはソム所属民の一 部が箭丁として (タイジの属民の一部が随丁として) 登録されていた に過ぎず、 清朝はその背後の母集団について全く把握していなかっ たことになる(15)。
次に軍事的義務はどうであろうか。 当時の旗民が負った諸義務 アルバ ( ) は、 大きく主人タイジへの個人的な家畜提供や 労働奉仕である私的アルバと、 統治機構の維持・管理に関わる公的 アルバ、 他に仏教信仰に関するアルバに大別できる(16)。 本論で主 に論じる公的アルバはさらに二分でき、 ひとつは清朝の軍政に関わ るアルバで、 上述のソムが負うべき定期訓練や武具整備、 駅站や哨 台、 各地の屯田や牧廠などへの人員や食料等の供出がそれに該当す る。 もうひとつは、 一般行政に関わるアルバで、 法典上規定は無い
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がアルバ分配冊などに見出せる。 例えば旗衙門の維持費 (駐在官吏・
書記への食費など)、 ジャサクの北京・熱河朝覲や、 旗から各地衙門 へ派遣する使者への随行および家畜の供出などである。 これら公的 アルバは総じて人員の駐屯や派遣といった徭役を軸に構成されてい た点に特徴があると言えよう。
また公的アルバの負担者は、 法典上明記していない場合もあるが、
旗の平民層のうち随丁は専らタイジに供応する身分である以上、 残 るソム所属民が負担する原則であったと思われ、 後述の如く、 実際 の訴状にもしばしば援用されている。 しかし、 訴訟文書には、 一方 でこの原則が形骸化し、 実社会では箭丁・随丁の区別無く旗民全体 で公的アルバを負担していたとの言説も多々見られる。
このような原則と実態の乖離を争った事例として従来研究で注目 されてきたのが、 乾隆53 (1788) 年、 左翼後旗のソム章京アシグが 起こした訴訟である(17)。 アシグが盟に提出した訴状では、 本来ソ ムが清朝のアルバを負担する組織であるとの原則を盾に、 以下の如 くジャサクらによる私的アルバ徴収を糾弾した。
「 ソムの民は、 聖主 (皇帝) のアルバ以外にアルバを負担しな い と言われているのは、 何であるのか。 そうであるのに我等 の旗のアルバを更に増やしているものは何であるのか。 (これ は) 多くの旗の決まり ( ) であるのか。 我らの旗の決まり がこの様であるのか。(括弧内筆者。 以下同)」 (
1967 11 12)(18)
ここでアシグが告発したアルバとは、 3年毎10頭に1頭の割合で 徴収されるタタリ ( )、 往来の使者・官員らの食用に供される シュース ( 。 該旗では毎年羊565頭を徴収していた) の他、 燃料と なる牛糞集め、 荷積み、 ジャサク個人の家畜管理等の労働奉仕であ る。 これらはいずれも制度上規定が無く、 旗内で長年慣例化してい た徴収のようである。 注目すべきは、 アシグ自身が盟に訴え出る前 段階で、 ジャサクに以下のような妥協案を提示している点である。
「 大型家畜からのタタリは従来通り納めよう。 羊から取るシュー スとタタリは、 2つのうち1つを引き受けても良い と申し出 清
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たが、 全く受け入れられなかった」 (同上 12)
つまりアシグの狙いはソムのアルバ負担量の軽減にあり、 ソムの 制度的自立やジャサクの私的徴収自体の違法性などは、 盟に訴え出 る段階で後付けされた言説だったと言える。 実際、 左翼後旗では身 分によるアルバ負担の区別は曖昧であったようである。 その根拠と なるのが、 モンゴル国立歴史中央文書館に存在するアシグ訴状に対 するジャサク側の反論と盟の判決文である。
ジャサクは、 アシグが訴えた私的徴収が先祖の代からの 「決まり ( )」 であり、 徴収時にはソムだけでなく自己の随丁やタイジの 属民からも均しく徴収してきたと反論し、 旗の貧困者救済や外地か らの使者や伝令へ供するための徴収だと主張する (M10 1 633 168 )。 双方の主張を受け裁定に当たった盟では、 まずタタリについては ジャサクの徴収権を認めるものの、 シュースの羊565頭については
「ジャサク自身の随丁がいるのであり、 旗のソムの民から徴収した のは全く不適切」 であると批判した。 しかし、 そのすぐ後段では、
ジャサクの主張に沿った以下のような裁定を下す。
「とはいえ…貝子 (ジャサク・デチンランピル) 自身の随丁は、 ソ ムの民と同じく様々なアルバを均等に負担し合っていると言う ので、 貝子がこのように使用する羊を徴収する処が (他に) 見 あたらない。 随丁がソムの民の代わりに (公的) アルバを出す のはソムの民にとっても益ある事なので、 比較考量し、 貝子の 使用する羊を旗および自身の随丁、 旗の民( )、 四十僧戸(19) らから適切に取るならば、 不可とするいわれはない。 …毎年の 需要を考え、 (シュースの) 羊360頭は昔通り旗の民・自身の随 丁・四十僧戸から適切に使用させよう。」 (M10 1 638 72 ) 残る労働奉仕については 「貝子自身の随丁が大勢いる」 ことを理 由に 「以後旗からは、 貝子の大事のアルバ ( ) があ る場合は使役するとして、 つまらない些事 (
) に使役するのは止める」 よう決定した (同上73 )。
以上から、 左翼後旗では公的私的の別無く、 全アルバをタイジの 属民も含めた旗の平民全体で負担し合う慣行があり(20)、 原告のア
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シグも裁定する盟もかかる現状を前提にしていたのである。 盟の判 決ではシュースの一半と労働奉仕が停止されているが、 これはアシ グの当初の妥協案に近い判決であり、 その点では彼の提訴は十分成 果を上げたと言えよう(21)。
訴訟において身分による負担アルバの区別を持ち出すことは、 何 もソム側にだけ有利に働くとは限らない。 全アルバを全旗民が負担 し合っていたとすれば、 タイジにとっても制度上負ういわれのない 公的アルバを負担していたことになる。 実際、 左翼後旗の以下の訴 訟では、 タイジが公的アルバの免除を訴え争っている。 この訴訟は 最終的に理藩院が裁定に当たっており、 清朝中央の問題意識がわか る点でも注目される。
訴訟は、 嘉慶初 (1796)年に左翼後旗のタイジ・ガルサンポンツァ グらが起こしたもので、 ホブドの屯田へ派遣されたことなどに反発 し、 今後は公的アルバへのタイジ派遣を止め、 ソムにだけ負担させ るよう訴えている。 訴訟を受けた盟は翌年 「もしも、 彼ら (タイジ) をアルバに行かせずソムの民だけで行かせれば、 まさに力が不足す る。 彼らにそのまま旧来どおりアルバを出させる」 よう理藩院に具 申する (M10 1 824 16 )。 アシグの訴訟と同じく、 ここでも盟は旗 民全体でのアルバ負担を前提として処理に当たっている。 これに対 し理藩院の回答は以下の如くであった。
「これらアルバには道理として ( ) ソムの民を行かせるべ きである。 ソムの民に貧しく力のない者がいるからと言って、
管轄のタイジ達から、 能力を考慮して数人を出し交替でアルバ に行かせるというのは全く許されない。 …以後、 ソムの民が出 せるようになればタイジ達が出すことは停止する。 そうならず に、 貧しい (ソムの) 民が本当に力足りずアルバを出すに至ら ないならば、 さらに管轄のタイジ達のなかから能力を考慮し均 分して出す( ) ように。」 (同上16 ) 冒頭理藩院は身分別負担の原則を確認し、 タイジへの賦課はあく まで臨時措置とすべきだと言うものの、 具体的な制限・年限などは 示しておらず事実上黙認した形になっている。 これを受け盟でも以 清
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下の如く玉虫色の通達を旗に送った。
「(理藩院の決定は) タイジ達のアルバ負担を完全に無くしたの ではないようだが、 どのようなアルバを出すかを明確に決めて はいないようだ。 全てのアルバを常にソムの民から出させれば 貴いアルバ ( ) を遅らせることになる。 のみならず、
ソムの民をアルバによって徹底的に衰弱させたならば後に回復 できなくなる。 どの旗のどのソムも欠損するのは確実であろう。
とはいえタイジ達がアルバを大量に出すのはやはり不適切 ( ) なので、 旗のタイジ達や彼らのアルバトさらにソム の民の家畜を調査し、 アルバをどのように均しく適切にする ( ) かを旗で決定し協議し処理するように」
(同上16 17 )
結局、 左翼後旗では従来通りタイジも含め旗民全体に賦課する決 定を下す (同上17 )。 すなわち、 理藩院・盟とも関心は専ら公的ア ルバの円滑な遂行にあり、 制度上の負担原則が実社会では貫徹でき ていないことは充分認識していた。 結果社会では、 ソムが制度外の 私的徴収や使役を被ることもあれば、 逆にタイジも公的アルバを負 いソムを保護することもあったのである。
であるならば、 改めてソムに課された特定の任務 (すなわちソム の存在意義) とは何であったのだろうか。 次に左翼後旗のアルバ分 配冊から実際のアルバ負担状況を検討する。
第2章 アルバ分配冊にみるソムの機能
ハルハに課せられた公的アルバはまず部 (盟)(22)に分配される。
その際作成されたハルハ四部のアルバ分配冊には、 各部の 「ソムの 箭丁の多寡を計って (
マ マ
)」 分配したと ある(23)。 箭丁数に応じてアルバを分配するとの原則は、 旗レベル でも存在した可能性がある。 岡氏によれば、 中末旗では属下に最も 多い箭丁を抱えるズーン・バグが全5バグ中最も多くのアルバを負 担するなど、 各バグの負担量は各バグ属下の箭丁数に比例している という(24)。
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ただし、 実際の負担アルバは単純に数量化できない側面もある。
先述の如く公的アルバには外地への派遣や駐屯など多様な徭役が存 在した。 旗民にとって遠地で任に当たる徭役はとりわけ負担感が大 きかったと考えられる(25)。 そこで本章では、 特に徭役負担に注目 し左翼後旗におけるソムの負担アルバを考察する。
左翼後旗のアルバ分配冊は、 乾隆25 (1760) 〜60 (1795) 年の間に 計17冊残存するが、 ここでは通年のアルバ分配記事が揃い、 特にア シグ訴訟と年代の近い乾隆47 (1782) 年冊を中心に、 筆者が調査収 集した乾隆25、 40、 41、 46、 47年の分配冊(26)を検討する。 次頁に 乾隆47年冊の分配アルバの概要・負担者を表掲した。
中末旗分配冊との大きな違いは、 第一に、 ソムがタイジとは別の 徴収単位として登場する点である。 例えば各年次の分配冊にはタイ ジ・ソム含め総計170前後の負担者を横軸に記した大がかりな分配 表 (以下、 総表と呼ぶ。 表中の№1、 7、 12、 25に相当) が存在するが、
冒頭タイジ・官員の個人名 (まれに 「タイジ某々達」 と複数) が続き、
最後にソムが 「章京某のソム」 などと書かれ、 別個の徴収単位とし て記される。 総表以外の徴収記事でもソムとタイジは別個に記され る。 例えば表№2 「印務処に起居する書記の従卒 ( )」 を割り 当てる記事では、 初めの二ヶ月を 「章京オルジンのソム」 に、 以後
「エルフ・アハイ」、 「ゾリグト・タイジ」 「サンピル・ダイチン」
「ヒヤナル ( 、 護衛)」(27)「バンジョール・タイジ」 の各 「ヘセ グ( 、 集団)」(28)に割り当てている。
相違点の第二は、 タイジのバグ組織が殆ど登場しない点である。
唯一、 各年次の分配冊冒頭に 「旗のあらゆるアルバを割り当て、 伝 達・供出させる ( ) タイジ・ダルガ ( 、 長) 達」 という記事があり(29)、 そこに 「7タイジ」 「5タイジ」 といった バグ名が確認できる。 しかし、 同一バグのタイジ達が別々の伝達単 位に属していたり、 ソムとタイジの集団が別に記載されている(30) ことから、 アルバの供出と伝達事務においてもバグの機能は明確で はなく、 ソムも独立した一単位集団として機能していたと考えられ る。
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三 五 八 表】乾隆47年アルバ分配冊概要
№ 主な内容 負担者
1 総表】ソム哨台、 牧廠、 仏事、 屯田等 旗民全体
2 印務処に起居する書記の従卒 タイジ (主)、 ヒヤ 3 北京派遣官吏の従卒・家畜等提供 ソムのみ
4 ハラチン駅站への家畜等提供 ソム (主・人)、 タイジ 5 フレー理事官への家畜等提供 ソムのみ
6 (№3の追加分) ソムのみ
7 総表】ナーダム、 熱河朝覲、 駅站ほか 旗民全体 8 ハルハ20駅站駅丁2戸の交替 ソム、 ヒヤ
9 商人への借金 ソムのみ
10 フレー以北駅站への家畜提供 タイジ、 ソム 11 ハラチン駅站巡邏兵4名の交替 ソム (主)、 タイジ 12 総表】ハラチン駅站、 閲兵、 借金返済、 仏事等 旗民全体
13 ハルハ20駅站への家畜提供、 駅丁交替 ソム (主)、 ヒヤ、 四十僧戸 14 フレー駐在の伝令を派遣 ソムのみ
15 ホブド屯田兵4戸派遣 ソム (主)、 四十僧戸 16 ソム駅站駅丁2名の交替 タイジ、 ソム 17 フレー以南駅站駅丁2戸の交替、 家畜提供 ソムのみ
18 駅站、 仏事への食糧等提供 ソム、 タイジ、 四十僧戸 19 フレー派遣官吏の従卒・食糧等提供 ソム (人)、 タイジ (物) 20 盗人護送 (フレー) タイジのみ
21 盗人護送 (ウリヤスタイ) タイジ (主)、 ソム 22 盟の祭事への食糧等提供 タイジ (主)、 ソム 23 ハラチン駅站の駅丁交替、 食糧提供 タイジ (主)、 ソム
24 駅站戸1名の交替 ソムのみ
25 総表】仏事、 ハラチン駅站、 ソム駅站等 旗民全体 26 ハラチン駅站の巡邏兵2名の交替 ソムのみ 27 盟長衙門駐在協理への従卒・食糧等提供 タイジのみ 28 ハラチン駅站への食糧等提供 ソム、 四十僧戸 29 フレー駅站への食糧提供 タイジ、 四十僧戸、 官員 30 ウリヤスタイ派遣書記への従卒・食糧等 タイジのみ
総表 :全旗民を対象とする分配表。
(主):アルバの大部分を負担。
(人):従卒・現地までの送迎など人的負担。
(物):家畜・物資の供出など物的負担。
ゴチック:タイジ以外、 主にソムが負担。
ではソムの負担内容を具体的に検討する。 まず法典上ソムの義務 と明記された会盟での武具査閲 ( ) を検討する。 会盟 に赴く兵丁数は各年次で異なるが、 例えば乾隆25年冊では155名中 ソムからは50名 (10 )、 同41年冊で171名中70名 (5 )、 同46年冊で 194名中107名 (1 )、 同47年冊で98名中54名 (18 ) と、 ソムの負担 割合は全体の半分程度である(31)。 軍政の根幹に係る日常的な軍事 力の維持管理においても、 実際はソム単独ではなくタイジ側の協力 を仰いでいたことになる。
次に、 同じく軍政に関わる駅站や哨台など軍事施設への兵丁派遣 について検討する。 これら外地派遣者について、 各年次の分配冊で は派遣者の一部交替記事のみが載っており、 その全体像は不明な点 が多い。 唯一乾隆41年冊には 「旗から多種のアルバに派遣されてい る戸数」 (同4 。 以下 「駐屯者表」) という記事があり、 それに依れ ばホブド屯田に30戸、 哨台に90戸、 駅站に44戸、 各牧廠に計9戸、
ウリヤスタイに14戸で合計187戸が外地に駐屯している(32)。 この内まず駅站から見てみる。 左翼後旗には、 張家口とウリヤス タイを結ぶ駅站 (「アルタイ路軍台」) のうち、 張家口からハルヌドま での通称 「ハラチン駅站」 が通っていた(33)が、 旗からは旗内もし くは近隣の第30站ボルオボー ( ) や第38站サクスルガ ( ) 等に巡邏兵と補助戸を供出している(34)。 巡邏兵は、 表
№26で交替要員2名がソムから出ているが、 表№11では4名中3名 がタイジの属民であり、 乾隆46年冊でも交替の8名全てがタイジの 属民である(同25 ) 他、 補助戸も交替4名を皆タイジから出す例が ある (表№23)。 駅站への家畜等の提供も、 ソムが負担する事例 (表
№23、 28)とタイジが負担する事例 (表№25) があり、 総じてタイジ・
ソム双方が負担し合っていたと言える。
一方、 同じ 「アルタイ路軍台」 でもハルヌドから先ウリヤスタイ に至る 「ハルハ20駅站」 ではタイジの協力は殆ど見られない。 西隣 サインノヨン部領内の第7站ウブルジャルガラント ( ) や第16站シャルガルジョート ( ) には、 駅丁の交替2戸を ソムとヒヤが受け持ち (表№8)、 供出家畜もソムが主に負担してい 清
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る (表№13)。 他年次でも駅馬8頭、 牛羊50頭近くをほぼソムだけで 負担する例 (乾隆41年冊25 、 30 ) などがあり、 旗外のより遠方の (すなわちより負担が重い) 駅站をソムが担っていた可能性がある。
この傾向は他の駅站でも見られる。 例えば、 ウリヤスタイからフ レーを経て黒龍江省衙門に繋がる 「ソム駅站」 の駅丁 (表№25、 乾 隆41年冊14 ) や、 ハラチン駅站からフレーを経由しキャフタへ繋が る駅站の駅丁 (表№17。 乾隆25年冊14 、 同41年冊12 、 同46年冊23 ) な ど旗外遠方の駅丁は皆ソムが負担する。 これに対し旗内に設けられ た駅站の駅丁は全てタイジの属民が担い(乾隆40年冊2 、 同41年冊14 )、 家畜もタイジが供出する (乾隆41年冊12 、 25 )。 以上から、 旗外遠 方の (負担のより重い) 駅站はソムがより多く負担する原則が存在し たと考えられる。
しかし、 哨台のアルバは遠地にも関わらずタイジ側も多くを負担 していた。 哨台には、 ホブド西北方に設置された 「ソム哨台」 とハ ル ハ 北 方 に 設 置 さ れ た ロ シ ア 方 面 の 「 ゲ ル 哨 台 」 が あ り(35)、 駐屯者表ではソム哨台に51戸、 ゲル哨台に39戸が派遣され ている。 「ソム哨台」 は一年交替のアルバだったようで、 各年次の 分配冊に50名前後の交替記事が見える。 各年次の派遣総数とその内 ソムから供出された数は、 乾隆36年冊では全51名中18名、 同41年冊 で全51名中16名、 同46年冊では全43名中20名、 同47年冊では全44名 中10名であり、 ソムの負担は全体の半数に満たない。 過半をタイジ 側が担っていたと言える。 「ゲル哨台」 は、 文字通りゲルごと (家 族ごと) 移住する長期のアルバのようで、 分配冊には部分的な交替 記事しかない。 例えば乾隆40年冊には19戸の交替記事があるが、 確 認できる範囲でタイジが7戸を供出しており(36)、 やはりタイジ側 も半分近く負担していたようである。
以上のように、 主要な公的アルバはタイジとソムが協力して負担 する体制であり、 前章の訴訟文書で見た言説は社会実態と一致した ものと言える。 では本当にソム固有の負担は無いのであろうか。 分 配冊をさらに詳しく分析すると、 その大部分をソムだけで負担した アルバの存在が確認できる。 それは駅站・哨台など外地に駐屯する
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官兵への物資等の移送、 派遣官員への随行(従卒) などである。
例えば乾隆47年冊では、 上述のホブド屯田やハラチン駅站、 ソム 駅站への駅馬や家畜などの移送 (表№1、 4、 25)、 北京やフレーへ 派遣された旗官員への随行や物資運搬(表№3、 14、 19、 25)、 フレー 理事官への提供家畜の移送 (表№5) などは全てソムから人員を供出 している。 タイジ側が移送・随行を担う例は盟の祭事への参加 (表
№22) や盗人の護送 (表№20)、 目的不明な書記の派遣(表№30)(37)に 限られる。 他にフレー近くの駅站への家畜移送 (表№10、 №29) に もタイジが人員を派遣しているが、 いずれも旗官員やソムと共に分 担した事例である。
他年次でもこの傾向は同様で、 乾隆25年冊では、 ゲル哨台や各地 の牧廠へ送る家畜の移送 (3 ) や、 理事官への提供家畜の移送をソ ムが担い、 乾隆40年冊では、 ジャサクのフレー出張に伴う物資 (2 ) やホブド牧廠、 フレー以北の駅站への家畜移送 (4 ) を、 乾隆41年 冊では、 ホブド屯田、 フレー以北の駅站、 ソム駅站への家畜移送 (12 ・15 ・24 ) を、 乾隆46年冊では、 ホブド・ウリヤスタイ牧廠 への家畜移送 (2 )、 盟長衙門詰めの伝令とその必要物資の移送 (16 )、 ゲル哨台・各地駅站への家畜移送 (18 ) を全てソムのみで負担 している。 これに対し、 物資移送をタイジ側が担った事例は、 フレー 以南の駅站への家畜移送で3例確認できる (乾隆41年冊14 ・27 、 同 46年冊8 。 乾隆40年冊ではソムが専ら担う (5 )) のみである。
以上、 主立った公的アルバは、 ソムとタイジが協力して遂行する 体制であったが、 遠隔地への物資移送や使者への随行など公的アル バに付随する特定の徭役についてはソムが大部分を負担しており、
ソム独自の役割が設定されていたと結論づけられる。
第3章 証書にみるソムの位置付け
以上の考察が妥当であるならば、 アルバ分配冊以外の史料からも、
ソムをかかる公的アルバを負担する集団とする時人の認識が読み取 れるはずである。 左翼後旗には、 旗民が財産分与や家奴の身分解放 を巡る本人の意志や当事者間の合意などを書き記し、 証拠として旗 清
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衙門に提出した証書類が存在する(38)。 以下にこれら証書の分析か ら、 当該社会におけるソムの位置付けを考察する。
まずソム所属民が証書を提出する際、 自らを 「章京某のソムの 某」(39)、 「章京 (或いは驍騎校) 某のヘセグの某」(40)と名乗る事例が 頻出することから、 ソムがタイジのバグ組織とは別に、 社会内で自 他を識別する帰属単位であったことが確認できる。 旗衙門でも、 戸 口家畜冊やアルバ分配冊でソムを一単位集団として記載している以 上、 ソム所属民の戸籍を把握していたと考えられる。 証書で特にソ ムの戸籍が問題となるのは、 ソム所属民による家奴解放事例におい てである。
事例を検討する前に、 当時の家奴について述べておく。 家奴は、
法典上でも名称が様々で、 家奴化や身分解放の要件についても不明 な点が多い(41)。 実際の証書では、 戦争捕虜や売買、 罪の代償や婚 資などで来た者や、 私生児などが家奴となっている。 証書中、 家奴 の身分解放が 「骨を白くする ( )」 と表現されること からも、 家奴は平民より一等低い身分であり社会的蔑視が存在した と推測される。 旗衙門でもその主従関係や身分関係は把握していた ようであり、 比丁冊や戸口家畜冊にも家奴は記載されている(42)。 ただし後述の如く、 主人と生計を異にして主人より裕福な家奴がお り、 主人の一存で平民身分への解放が可能となるなど実際の関係は 多様で流動的である。
では以下に事例を検討する。 まず証書中、 ソム所属民が自らの家 奴を解放する行為は単に 「ソムに出す ( )」 と表現 される場合が多い(43)。 結論から言って、 この 「ソムに出す」 とは、
解放家奴をソムのアルバ負担者としてソムの戸籍に登録し直す行為 だったと考えられるが、 以下順を追って確認していく。
以下の証書は、 家奴ドンドクがソム所属民である主人ナワーンか らの解放を訴えたのに対し、 ジャサクらはそれを許可しなかったも のの、 最後は主人自らが解放に同意したとする内容である。
「章京ゲンデンのソム (所属) のゲルン・ナワーンが、 ノヨン (ジャサク) 及び集会 ( ) の協理・官員殿に差し上げた。
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確認申し上げる件。 私の家奴 ( ) ドンドクは、 昔私 の父が養った子供 ( ) である。 (ドンドクが) 私はあの 者達の家奴 ( ) としてやっていくつもりはない。 ソムに出 てアルバを負担 ( ) していきたい と不平を訴えた件 で、 ノヨン始め官員らは皆ドンドクが元々私の父が買ってきた 家奴 ( ) だと言う理由で 勝手にソムに入ってはな らない。 今まで通り (家奴として) やっていくように と命じ た。 (しかし) ドンドクと我々は以前から実の兄弟のようにやっ てきたことを思い、 今後は、 ドンドクと私 (ナワーン) 二人で、
一つのアルバを共にする兄弟として共にソムのアルバを負担し ていき、 もしドンドクが亡くなれば、 その時は彼の財産を我ら 弟達が受け継ぐことにしよう。 このようにドンドクと円満に話 し合い決定し、 乾隆53年12月23日確認申し上げた。」 №213 (70
、 N88、 二木 30)
主人・家奴双方とも 「ソムに出る (入る)」 ことが具体的に 「ソ ムのアルバを負担」 する立場への移行として認識されている。 これ は単に証書上の定型表現ではなく、 実際にアルバ負担者の変更を帳 簿で把握していた事実が次の証書から確認できる。 この証書は、 主 人ガルサンの元から離れたいと訴えた家奴ポンツァグの処遇を巡り、
最終的にガルサンがソムへの解放を許可する内容である。
「…私 (ガルサン) の家奴 ( ) ポンツァグが横暴にも 私の下より出ると言い、 印務を司る協理ゲレグ、 タイジ・チメ ド、 章京 (ソム章京) ツェベグらに訴えた件で、 … (ポンツァ グの) 実母の尼僧デルゲルはソムの人間で、 生きていけるだけ の家畜を持っているので、 ポンツァグを母親と共に暮らさせソ ムに出そう と言い報告した。 そのとおりに、 章京ツェベグに ポンツァグを渡しソムに出した事を印務処の 冊 (
) に記録したのであるが、 今章京ツェベグ、 書記 ガルサン達が後日確認する文書を差し上げた。 後日取り戻そう としても一切取り合わないこととした。 嘉慶4 (1799) 年12月 28日。」(M17 1 159 6)
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ここで言う印務処 (旗衙門) の 冊とは、 戸口家畜冊のような旗 独自の戸籍台帳と考えられる。 恐らく、 ガルサン戸下の家奴だった ポンツァグを平民として、 ソム属下の尼僧デルゲル戸下に記録し直 したと考えられる。 最終的にソム章京が確認していることからも、
ソム所属民の移動は当該ソム内で細かく把握されていたと考えられ る。
また解放家奴をソムに入れる理由として、 家奴の実母の財産状況 が良好である点が挙げられているのは注目に値する。 戸籍移動に際 し財産状況が問題とされるのは、 ソムのアルバ負担と密接に絡んで いるからである。 これを次の証書から確認する。
証書はソム所属民の僧バルジルが寺院での宗教活動に専念するた め、 自分の家奴ジグメを解放しソムに入れ、 自らのアルバを肩代わ りさせようとする内容である。 前掲例のように、 旗民の財産問題は しばしばジャサク以下官員を交えた 「集会 ( 又は )」 の 場で合意形成が図られていた(44)。 大部分の証書にはその結論しか 書かれないが、 この証書ではソム登録を巡る集会でのやり取りが記 されている。
「…私 (バルジル) 自身のアルバ徴収対象の家畜 ( ) は駱駝4頭・羊50頭余りで、 私の家奴 ( ) ジグメの 家畜は駱駝7頭・羊100頭余りである。 さらに私バルジルが自 分の家畜から駱駝1頭、 羊10頭を(ジグメの家畜に) 加え、 私の 代わりにジグメをソムに出し箭丁としてアルバを負担させたい。
私は寺院で読経したいと申し上げたところ、 ノヨン (ジャサク) 始め集会の官員全員がこれを是とし このバルジルのアルバを 負担する家畜はそれほど多くはないが、 その中から家奴( ) ジグメに家畜を与えたのに加え、 ジグメの家畜は相当多い。 よっ てバルジルの代わりにジグメがアルバを負担して良い。 バルジ ルは僧であり寺院で仏像を描き経を読みたいというは大変宜し い。 バルジルの申し出通りにし、 この旨を管轄のソムの章京ジャ ンバラに伝え、 僧バルジルの足して与えた駱駝・羊とジグメ自 身の家畜で、 ソムにおいてアルバを負担させるように と言っ
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たのを、 後日の確認の文書を差し上げた。 乾隆54年7月14日。」
№225 (74 、 N93、 二木 31)
ここでも身分・所属変更がソム章京に伝達されており、 旗とソム 双方がアルバ負担者の変更とその財産状況を細かく把握していたこ とが伺える。 前掲2例の証書と異なるのは、 主人が解放家奴に自己 のアルバを肩代わりさせようと願い出た点である。 それゆえか、 旗 側は解放家奴にソムのアルバに堪える経済力があるかを確認してお り、 ソム全体のアルバ負担能力の維持に関心を払っていたと言え る(45)。
このバルジルのように解放の代償として自らのアルバを家奴に肩 代わりさせる事例は他にも見られる(46)。 その際、 アルバの中でも 特に徭役を肩代わりさせる事例が存在する。 以下の証書は、 ソム所 属民のドルジが養子(47)ダライらをソムに登録し徭役の肩代わりを 願う内容である。
「…私 (ドルジ) の祖父タガンヒが養子ダライに女性・ゲル・私 財・家畜を与えて以後、 私の代に至るまで、 兄弟同様にダライ の息子ドンロブが我々の体のアルバ (徭役、 ) を負 担してきた。 私は家畜のアルバを負担してきた。 今私ドルジは 年老い、 ただ一人のラマの子供 (実子) は徭役を負担する力が ないので、 ダライを (ダライの) 子のドンロブ、 ツェレンドル ジと共にソムの箭丁となすことを確認し、 昔どおり体のアルバ を負担していくように。 後日私の親戚らがダライ・ドンロブ達 をあれこれ言い争ういわれはないことを併せて確認・報告し、
このために確認差し上げた。 嘉慶3 (1798) 年12月25日。」 (M 17 1 183 3)
アルバを 「身体 (徭役)」 と 「家畜」 に分け、 特に徭役の免除を 願い出る事例は他にも見られる(48)。 養子ダライは当初から徭役を 負わせる目的で貰われてきたとも考えられよう。 また実子には徭役 を負担する力がないと殊更書いてあるのは、 前の証書と同様、 旗が 関係者のアルバ負担能力を審査したためと考えられる。 つまりソム のアルバの中でも特に徭役負担から逃れることが当事者達の重要な 清
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関心事だったと言える。
結 語
本論で得られた知見は以下のとおりである。
制度上、 ソムは清朝中央に管理され主に兵役などの軍事的義務を 負う組織と定義されるが、 実際清朝が比丁冊で管理していた人数は ソムの一部に過ぎなかった。 また先行研究でソムの自立化の証左と されてきた左翼後旗ソム章京アシグの訴えは、 元々ソム全体の徴収 量を問題化したものであった。 そもそも該旗では、 ソムがジャサク らの私的アルバを負担する一方、 タイジも公的アルバを負担するな ど、 身分の別なく旗民全体で公私のアルバを負担し合う状況にあっ た。 盟や理藩院もこの状況を認知していたが、 公的アルバの完遂を 優先し身分による負担アルバの峻別には消極的だった。
しかし、 該旗のアルバ分配冊を分析すると、 ソムは独立の徴税単 位として機能しており、 特に派遣使者への随行や外地駐屯者への物 資運搬などはソムが専ら負担しており、 ソムに課せられた固有の役 割も確認できた。 また証書の分析から、 ソム所属民の身分異動は帳 簿で管理され、 旗衙門も解放家奴の経済状況を審査するなどソム全 体のアルバ負担能力維持に注意を払っていた。 ソム所属民になるこ とはソムのアルバ負担者となることと同義であり、 アルバの中でも 特に徭役から逃れることが時人の関心事であったと言える。
以上の知見からいかなる論点が抽出できるだろうか。 そもそもソ ムの制度的枠組みがこのように有名無実化したのは、 いついかなる 契機に依るのだろうか。 なお慎重な議論を要するが、 ハルハでは乾 隆22 (1757) 年のアマルサナーの乱鎮圧まで常に戦時体制にあった 点は考慮すべきであろう。 左翼後旗の乾隆25年アルバ分配冊では、
通常の駅站・哨台など以外に、 カザフへの出征兵士69名、 ウリヤス タイの駐屯兵44名、 同牧廠に18名が派遣され、 ソム哨台にも22名多 く派遣されている (同1 ―8 )。 前出乾隆41年冊の外地駐屯者 (187戸) と比べ倍近い人数を、 それも前線に送っていたことになり、 当初か らソムだけでは負担しきれなかった可能性もある。 別に、 乾隆53年
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の左翼後旗の訴訟では、 ジャサクが、
「昔よりこの方、 我々のアルバ供出の慣習というのは…誰でも 豊富な家畜を持つ者に武器を作らせ…どのソムであれ、 協力し た族中タイジ、 所属タイジ(49)の者がアルバに行くときには そのソムの箭丁 という名前でやってきた慣習なのである。」
(M10 1 633 169 )
と述べており、 早くから、 タイジが箭丁と偽ってまでアルバ遂行に 協力していた事実は、 今後ソムとタイジの関係を考える上でも示唆 的である。
また改めて本論冒頭の課題に立ち戻れば、 左翼後旗では、 旗衙門 がソム所属民の異動や経済状況を細かく把握しソムに特定の徭役を 担わせるなど、 中末旗と比較してソムの独立性が強く看取された。
しかし、 本来ソムが負うべき主要な公的アルバはタイジも協力する 体制であり、 何より重要な点は、 このような体制は法典上どこにも 規定が無い、 あくまで左翼後旗独自の動員体制に過ぎないという点 である(50)。
すなわち、 清朝が設計したソムを介した人身把握・軍事力維持の システムは実社会で殆ど実効性を持っておらず、 ソムを 「モンゴル を統御するために打ち込んだ楔」 とする先行研究の理解は再検討を 要すると言えよう。 そして、 かかるなし崩し的な現地の状況を清朝 中央が別段問題視していない点も注目される。 清朝は、 モンゴル王 公による既存の支配秩序を解体せず、 しかし、 自らが設けた軍政組 織にも依らず、 一体何を介してモンゴルを統治していたのだろうか。
それでもモンゴルを統御し続けたメカニズムの解明こそ次の検討課 題となろう。 課題はなお多岐にわたるが此処で擱筆したい。
註
(1) 岡洋樹 清代モンゴル盟旗制度の研究 東方書店、 2007、 274 (た だし最新の同 「清代モンゴルの社会・行政統治構造理解をめぐる試論」
早稲田大学モンゴル研究所編 モンゴル史研究〜現状と展望 明石書店、
2011、 264 272では、 清朝制度を軍事的義務と紛争処理を王公に負わ 清
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せる 「責任体制」とも定義している)。 杉山清彦 「大清帝国のマンチュリ ア統治と帝国統合の構造」 左近幸村 (編著) 近代東北アジアの誕生〜跨 境史への試み 北海道大学出版会、 2008、 257 263。 また楠木氏も清 朝のイデオロギーを支える具体的制度として、 満洲の八旗制とモンゴル の旗制の一体性・連続性を論じる ( 清初対モンゴル政策史の研究 汲古 書院、 2009)。
(2) 以下の清朝制度の概要は岡前掲書の他、 田山茂 清代に於ける蒙古 の社会制度 文京書院、 1954、 矢野仁一 近代蒙古史研究 弘文堂書房、
1925、 趙雲田 清代蒙古政教制度 中華書局、 1989、 ソノムダグバ ( )
( − ) など。
(3) 代表的専著として楠木前掲書の他、 杜家驥 清朝満蒙聯姻研究 人 民出版社、 。
(4) 旗にはジャサク以下、 協理タイジ ( )、 管旗章京 ( )、 管旗副章京 (梅倫章京、 )、 参領 ( ) が、
ソムにはソム章京 ( ) 以下、 驍騎校 ( )、 領催 ( )、
十戸長 ( ) が設けられ、 協理タイジ以外平民が就任で きる ( 光緒大清会典 巻 旗籍清吏司、 理藩院則例 巻6設官など)。
実際管旗副章京以下は平民出身者が多い (岡前掲書 )。
(5) 註 (2) 所引の各書の他、 ナツァグドルジ ( )
( )
1963。 同
1 9 7 2 。 同
1978。 田村英男 「蒙古社会の構成的基礎単位としての 蘇木〜伊克昭盟準 爾旗河套地 (河北) を中心として」 満鉄調査月報 22−2、 1942、 64〜114。 小貫雅男 「近代への胎動〜モンゴル東部の一 地方、 ト・ワン・ホショーの場合」 歴史科学 90、 1982、 1 28。 二木 博史 「ホショー内における平民の貢祖・賦役負担〜清代ハルハ・モンゴ ルの場合」 内陸アジア史研究 1、 1984、 30 31など。
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(6) 岡前掲書の他、 拙稿 「清代モンゴルの比丁冊に見るタイジの血統分 枝集団」 集刊東洋学 90、 2003、 1 21。 同 「清代モンゴル旗社会にお けるタイジの血統分枝と属民所有」 山形大学歴史・地理・人類学論集 6、 2005、 27 45。 なおこの分枝集団はオトグ ( ) とも呼ばれる (岡前掲書 126) が、 使い分けは不明な点もあり、 本論で論じる左翼後 旗ではバグの用例が圧倒的に多い。 本論では便宜上バグで統一する。
(7) 岡前掲書 271 275。
(8) かかる問題提起は拙稿 「書評:岡洋樹著 清代モンゴル盟旗制度の 研究 」 東洋史研究 68 3、 2009、 141 151でも論じている。 併せて参 照されたい。
(9) 詳細は後述。 左翼後旗比丁冊については前掲拙稿参照。
(10) 理藩院則例 巻9比丁などの規定では3年一次編審とあるが、 現存 する各旗の比丁冊は4年毎に作成されている。 前掲拙稿2003論文註 (9) 及び岡前掲書 110。
(11) 理藩院則例 巻9比丁、 巻29軍政、 光緒大清会典事例 巻981理藩 院・兵制・簡閲など。
(12) 理藩院則例 巻31 33郵政、 巻34辺禁、 烏里雅蘇台志略 、 科布多 政務総冊 。
(13) アルバ (後掲註 (16) 参照) を納める者の意で主人に対する属民一 般を指す。 ここでは法定の随丁以外のタイジの属民を指す。
(14) 戸口家畜冊及び統計については拙稿 「19世紀ハルハ・モンゴル旗社 会の統計史料〜トシェート・ハン部左翼後旗の 戸口家畜冊 について」
内陸アジア史研究 18、 2003、 63 73参照。
(15) これは男丁以外に閑散や子女も含め戸構成員全体の情報を記す八旗 の戸口冊 (承志 ダイチン・グルンとその時代〜帝国の形成と八旗社会 名古屋大学出版会、 2009、 282 388) に比べ好対照と言えよう。
(16) アルバは元々主君への奉仕全般を指す言葉である。 清代の清朝統治 にかかる公的なアルバは、 史料上も 「御上のアルバ ( )」
「本当のアルバ ( )」 などと呼ばれ、 私的アルバとは区別され る。 分類については、 ナサンバルジル ( )
( − )
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の他、 岡前掲書 、 ナツァグドルジ前掲 著書、 参照。
( ) 二木前掲論文の他 Ⅱ
1968 229 230な ど。 岡氏は以下に挙げるアシグの主張は現実のアルバ負担状況と乖離し ていたとするが詳論はしていない (岡前掲書 149)。
(18) 訴訟原文はモンゴル国立歴史中央文書館M10 1 635 40 42 。 以下M で始まる記号は全て同館の保管番号である。 同館史料は概ね衙門毎に保 管されており、 M10はトシェートハン部盟長衙門を指す。 目録などの情 報は二木博史 「モンゴル国立中央文書館所蔵の清代文書史料―フォンド 目録」 史資料ハブ:地域文化研究 №1、 2003、 136 147参照。
(19) 。 清朝は旗のラマ数を40戸に制限し比丁冊に登録させた (実際のラマ数は遙かに多い)。 左翼後旗では、 四十僧戸もひとつの賦課 単位として記される。
(20) この慣行は他旗でも確認できる。 例えば 37 38では 「御上の諸々のアルバ ( ) や、 管轄の公 (ジャサク) ノヨンらからの日常の些少なアルバ、 ノヨンらが私用で遠地 近地に赴く際の必要品を始め、 旗のタイジ・ソム・随丁等を全く区別せ ず均分し、 お前が俺がなどと言わず不平無くアルバを捧げてきて」 とあ る。
(21) ジャサクのタタリ徴収の根拠となった乾隆48年諭旨や、 アシグ訴訟 の背景については、 拙稿
18(39)
2006 191 194で展望したことがある。
(22) ハルハでは四部四盟で基本的に部と盟は一致する。
(23) ( 四部アルバ均分冊 )
1962 5。
(24) 岡前掲書 151 152。
(25) ポズドネェフ (東亜同文会編纂局訳) 蒙古及蒙古人 東亜同文会編 纂局、 1908、 30に、 清末の中左翼末旗で 「納税の資格ある人民の過半は
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常に巡邏駅逓の勤務に服し」 たとある。 マイスキーもボグドハーン政権 期に駅站のアルバが相当な苦痛だったとする (南満洲鉄道株式会社庶務 部調査課編 外蒙共和国 上編1927、 364)。 左翼後旗アルバ分配冊でも、
駅站戸には 「駅馬4頭の他、 牛10頭・羊50頭以上の豊富に家畜を有する者」
(乾隆46年冊24 ) などの条件があり、 重い経済的負担を伴うアルバだっ たと考えられる。
(26) 各年次の保管番号は各々M17 (左翼後旗衙門) 1 6、 19、 20、 24、 26。
乾隆48年以降60年までの分配冊はない。
(27) ヒヤは王公の属官で、 ジャサクの属民中から選ばれる ( 光緒大清会 典事例 巻992理藩院・儀制・王公府属官員)。 左翼後旗では 「ヒヤナル・
バグ」 という集団を形成していた。 拙稿 「財産関係文書を通じてみた清 代モンゴル旗社会の社会関係」 集刊東洋学 87、 2002、 註23参照。
(28) 同9 。 ヒヤナル以外は皆タイジである。 ヘセグとは単位集団・下位 集団を指す一般名詞で、 タイジ以外にソム章京・驍騎校の個人名を冠し たヘセグが確認できる (前掲註 (6) 拙稿2003論文註 (26) 参照)。
(29) この伝達単位の記事は乾隆25、 40、 46年冊を除き大体の分配冊にあ る。
(30) 左翼後旗には 「7タイジ」 「5タイジ」 などの規模の大きいバグと、
「ハナ」 などの小規模バグが存在した。 詳細は前掲註 (6) 拙稿。 この伝 達記事では小規模バグ名が登場しない他、 例えば 「協理ゲレグらの7タ イジ」 と 「7タイジのツェレンジャブら」 が各々別のバグのタイジ達と 一単位を形成する例 (乾隆47年冊2 ) や異なるバグ同士で一単位を形成 する例がある。
(31) 該旗には4ソムあるので本来赴くべきは200名のはずだが、 詳細は不 明である。
(32) この内タイジ自身が派遣されているのは哨台の一戸のみで、 残りは 平民である。 平民がソム所属民かタイジの属民かは記載がない。
(33) 以下、 駅站については 光緒大清会典事例 巻658兵部・郵政・置駅 四、 理藩院則例 巻31郵政上の他、 ナサンバルジル前掲書 51 87、 金 峰
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1981 220 289を参照。
(34) 各站には官員数名と兵丁18丁に加え、 巡邏兵 ( ) 11丁、 補助 戸 ( ) 7〜11人が置かれるが、 ハラチン駅站の場合、 兵丁は内 蒙古諸部が担い巡邏兵と補助戸はハルハが担った (ナサンバルジル前掲 書 54 56)。 各駅站の人数および各部の担当は 四部アルバ均分冊 25 26を参照。
(35) 哨台についてはナサンバルジル前掲書の他、 近年ではジグメットド
ルジ ( )
2006がある。
(36) 同7 10 。 冊が途中で欠損しているため完全な分配結果は不明。
(37) 「用務で派遣した 」 とあるのみで詳細は不明。
(38) 先行研究として、 主に乾隆期の証書255件を製本した 冊 (M17 1 2。
以下、 乾隆期 冊) から107件を抜粋した モンゴル人の遺産相続権
( 4 6 1972) や、
家奴解放案件30件を訳出・分析した二木博史 「清代ハルハ・モンゴルの 奴隷解放文書について」 島田正郎博士頌寿記念論集 東洋法史の探究 汲古書院、 1987、 21 43がある。 乾隆期 冊以外にもほぼ清代を通じ残 存している。 乾隆期 冊所収史料は通し№と葉数及び前掲 遺産相続権 所収史料には同書中の通し番号を 「N」 で、 二木氏訳出の史料は該当頁 数を記した。 詳細は拙稿 「モンゴル国立歴史中央文書館所蔵の財産関係 文書〜清代ハルハ・トシェート=ハン部左翼後旗の文書について」 歴史 98、 2002、 123 142参照。
(39) 乾隆期 冊だけで№165 (55 、 N70)、 №174 (58 、 N74、 二木 28)、
№213 (70 、 N88、 二木 30)、 №225 (74 、 N93、 二木 31)、 №236 (78 、 N98、 二木 32)、 №243 (81 、 N100)、 №253 (86 、 N106) と ある。
(40) 乾隆期 冊だけで№134 (43 )、 №185 (61 、 N81)、 №217 (71 )、
№226 (74 、 N94、 二木 32) とある。
(41) 二木前掲論文の他、 同 Ⅲ
5 (26) 1994が
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ある。 法典や証書では奴婢 ( )、 家人 ( )、 フブード ( )、 メデル ( ) などと書かれるが、 法典では 比較的 「家奴 ( )」 が多用されることから便宜上家奴で統一す る。
(42) 比丁冊では家奴は独立した項目で書かれている。 戸口家畜冊では、
家奴が戸主として書かれる例が散見できる (二木前掲論文 58) が数は 非常に少ない (例えば嘉慶24年戸口冊では14例)。 実際の証書にはこれら 冊に記載の無い家奴が多く登場するので、 恐らく、 主人と戸を別にし て独立生計を営む家奴は少数であり、 多くは主人家族と同居して労働し ていたと考えられる。 旗衙門は主戸の戸口・家畜数を把握する過程でこ れら同居家奴の状況を把握していたと思われる。
(43) 乾隆期 冊のソム所属民の家奴解放案件全15件中10件にこの表現が 確認できる。
(44) 詳細は前掲註 (27) 拙稿参照。
(45) バルジルは箭丁であり、 家奴が箭丁身分を継承したため厳密な財産 状況の審査を要した可能性もある。 ただし証書で箭丁と書かれる例自体 が少なく、 箭丁と非箭丁の格差までは読み取れない。 今後の課題である。
いずれにせよかかる財産状況の審査はソムへの編入事例でのみ確認でき、
タイジ属民の事例では確認できない。
(46) 解放理由の多くは日頃の献身や主人の温情などだが、 「身の代 ( )」 の家畜を授受する事例もある (二木前掲註 (38) 論文 37 38)。
アルバ (特に徭役) の肩代わりも主人にとって大きなメリットであった と思われる。
(47) 養子はそれだけで家奴とはならないが、 本件末尾の親族からの介入 を懸念する文言は、 家奴解放事例にも頻出する表現であり、 家奴に近い 状況にあったと思われる。 法典上、 ジャサクへ報告すれば嗣子と認めら れソムへ編入される ( 理藩院則例 巻9比丁・修改抱養異姓人為嗣)。
(48) №145 (48 、 N56、 二木 26。 この文書は前掲註 (27) 拙稿 9でも 論じたことがある)。 №153 (51 、 N63)。 №226 (74 、 N94、 二木 32)。
(49) タイジ身分は、 チンギスハーンの直系子孫である 「族中タイジ ( )」 と、 諸弟の子孫である 「所属タイジ ( )」 に分か 清
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れる ( 理藩院則例 巻3・続纂・図什業図汗車臣汗二部落所属台吉帰入 比丁年分承襲)。 左翼後旗の所属タイジは、 チンギスハーンの弟ブフベル グテイの子孫で、 アバガに連なる血統である。 所属タイジの処遇は左翼 後旗の社会構造を考える上で不可避の問題であるが、 紙幅の都合上別稿 で論じることとしたい。
(50) 従って旗によってソムに与えた機能が異なっていた可能性もある。
管見の限りハルハでは、 左翼後旗同様ソムが独立した賦課単位になって いる旗が他にも存在する。 例えばトシェートハン部中右旗の乾隆22〜46 年のアルバ分配冊 (M15 1 2 2 ) ではタイジのバグとソムが別々の徴税 単位であり、 左翼後旗同様、 外地への物資移送をほぼ全てソムが負う。
セチェンハン部中右旗では、 ソムも含め旗全体が4バグに大別されてい るが、 ソムはバグとは別に一徴税単位となっている (M37 1 514)。 また 内モンゴル諸部との比較も大きな論点となろう。
付記】本研究は、 文部科学省科学研究費補助金 (若手研究B:22720262) の助成を受けたものである。
(山形大学准教授) 東
洋
学
報
第 九 十 三 巻
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