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清代外モンゴル, トシェート・ハン部 中右末旗の事例より

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(1)

論 説

牧地紛争の処理過程から見た

イヘシャビの遊牧形態

清代外モンゴル, トシェート・ハン部 中右末旗の事例より

朝 魯 孟 格 日 勒

(チョウルモングリル)

詳しい歴史記録を残す習慣があまりなかった北元時代以前の遊牧 社会に比して, 清朝支配下のモンゴル遊牧社会では, 文書行政が厳 密に整備されたために, 当時の様々な出来事を記録した公文書史料 が多数現存している。 そこで近年, これらの貴重な残存史料に基づ いて, モンゴル遊牧民の具体的な遊牧状況に関する詳細な研究が行 われつつある。 本稿は, そのような清代モンゴルのより具体的な遊 牧実態を解明しようとする研究の つである。

そもそも清朝の外 (ハルハ) モンゴル統治は, 盟旗制度という行 政機構のもとで実施され, 理藩院―地方駐防官の役所―盟―旗―佐 領という縦の階層構造を持つ行政機関の各々が, 明確に決められた 行政機能を有していた。 盟は最も基本的な行政単位である旗から構 成されており, 旗は箭丁 ( または ) 名を単位と する佐領から編成されていた。 盟には盟長, 副盟長ら, 旗には旗長 ( ), 協理台吉, 管旗章京, 梅倫章京 (副章京) ら各級の官員が 各々置かれ , 盟内, 旗内の事務を司っていた。 そして, 盟の上に 設置された地方駐防官の 人である庫倫 事大臣の主要な職掌は, 後述するイヘシャビと外モンゴル 盟のうちの東 盟(トシェート・

ハン部, セチェン・ハン部) との管理であった 。

旗の中では, 清朝政府が公式に認定した箭丁, 随丁 ( ), シャビ ( ) という 種の身分を有する平民が遊牧していた。 箭

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丁は清朝皇帝に, 随丁は特定のモンゴル王公貴族に対してそれぞれ 賦役を負い, いずれも比丁冊によって旗に登録されていた ものの, 両者の区別が時代や地域によって不明確な場合も多かった ため, 本稿では両者をまとめて平民, 一般平民と総称する。 一方, シャビ とはチベット仏教の転生活仏の隷属民であり, イヘシャビは外モン ゴル最高の活仏ジェブジョンダンバ・ホトグトの隷属民であった。

イヘシャビの始まりは, 清朝帰属前の崇徳 ( ) 年にトシェー ト・ハンであるゴンボドルジの息子ジャナバジャルが外モンゴルの 王公らによって初代のジェブジョンダンバ・ホトグトに推戴される 際に, 父のゴンボドルジが領民の一部をシャビとして贈与したこと にある。 この主従関係は, 上述した箭丁や随丁の分配とは異なり, 清朝帰属後も変化なく維持されていたものの, 後に多くのモンゴル 王公が配下の随丁の一部をイヘシャビとして寄進したり, 箭丁, 随 丁らの平民が自ら勝手にイヘシャビになったり, 平民が自分の奴隷 を献上したりしたことによって, 世紀から 世紀半ばにかけてイ ヘシャビの人口は増加する一方であったと言われている 。 イヘシャ ビは, 歴代のジェブジョンダンバ・ホトグトの家畜を放牧する等, その賦役を負っていた。 彼らはオトグ という最小行政単位に分割 され, 各オトグはジャイサンと呼ばれる官員によって管理されてい た。 イヘシャビは主に外モンゴルの東 盟に集中していた が, 行 政上盟長や旗長の管轄を受けずに, エルデニ・シャンジョドバと呼 ばれる高僧によって管理されていた。 エルデニ・シャンジョドバは ジェブジョンダンバ・ホトグトの代理人であって, 主に賦役の徴収, 裁判の審理や規定の制定等イヘシャビ関連の諸事務に携わり, 盟長 と同格の権力を有していた 。 また, エルデニ・シャンジョドバは ダーラマやジャイサンらの官員と共に, 庫倫 事大臣衙門の直轄下 にあるエルデニ・シャンジョドバ衙門を構成していた 。

以上のような 種類の遊牧民の遊牧状況に関して言うと, 盟旗制 度の一環として実施された盟や旗の境界画定, 例えば, 乾隆 ( ) 年の西 盟や乾隆 ( ) 年の東 盟の盟界画定, 嘉慶 ( ) 年のトシェート・ハン部内の旗界画定等に伴って, 盟や旗 牧

地 紛 争 の 処 理 過 程 か ら 見 た イ ヘ シ ャ ビ の 遊 牧 形 態 朝 魯 孟 格 日 勒

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の一般平民の越境遊牧が原則として禁じられた。 これに対して, イ ヘシャビについては, 乾隆 ( ) 年のシレー・ノール会盟で定 辺左副将軍, 盟盟長, 諸王公とダーラマらが, 「 (イヘ) シャビら は 盟の中で自由に遊牧せよ と決定した古い規定 [ ] がある上, … (イヘ)シャビらを (この)古い規定通りに, どの盟・

旗とも一緒に自由に遊牧させ, 従来のまま遊牧させよう [

] (

嘉慶 年 )」 と決定した上, 嘉慶 年にも 「ジェブジョ ンダンバ・ホトグトの (イヘ) シャビらをハルハの (牧地) 内で (旗 の平民と) 共に遊牧させよう」 と再び認定した (

嘉慶 年)。 また, 嘉慶 年にエルデニ・シャンジョドバ, ダーラマらが, 「これらの平民 (イヘシャビ) はかつてより牧地がな く, ハルハのハン, 王, ジャサグらの旗で遊牧してきた上, 後の乾 隆 年に勅によってハルハ 盟のハン, 王, 貝勒らがシレー・ノー ルの地で会盟して牧地の境界を協議した際, … ジェブジョンダン バ・ホトグトは我ら皆が崇拝している活仏である。 (ジェブジョンダ ンバ) ホトグトの (イヘ) シャビに昔から画定した牧地がないため, 以前のままに諸ジャサグの旗で遊牧せよ と決定して以来, …同じ ようにハルハ 盟のハン, 王, 公, ジャサグの旗で各々遊牧してき た」 と, イヘシャビの遊牧状況を庫倫 事大臣らに報告している ( 嘉慶 年)。 つまり, イヘシャビには 最初から特定の牧地が分配されておらず, 決まった牧地範囲内で遊 牧するという遊牧上の規制も見られないのである。

もちろん, 旗の箭丁, 随丁から転身したイヘシャビが, それまで 遊牧していた旗の牧地でそのまま続けて遊牧する等, イヘシャビの 牧地もある程度は慣習的に決まっていたはずである。 ただし一方で, 上記文書中の下線部に注目すると, 牧地境界画定前から存在してい た従来の古い規定に基づき, 「(イヘ) シャビらは 盟の中で自由に 遊牧せよ」 「(イヘ) シャビらを (この) 古い規定通りに, どの盟・

旗とも一緒に自由に遊牧させ, 従来のまま遊牧させよう」 といった 東 洋 学 報

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イヘシャビの遊牧形態が追認されている。 この事実は, 盟, 旗の牧 地境界に制約されない, 盟諸旗におけるイヘシャビの自由遊牧が 乾隆 年, ひいては嘉慶 年の牧地画定後にも変化なく, そのまま 盟諸旗によって認められていたことを示していよう。 例えば, 嘉 慶 ( ) 年にトシェート・ハン部中旗, セチェン・ハン部中末 次旗が越境してきたイヘシャビらを追い出した際, 庫倫 事大臣は,

「(イヘ) シャビらの平民を (旗の) 牧地から追い出してはいけない。

従来通りに各ジャサグ旗の平民の牧地で仲良く遊牧させよう」 と両 盟長に通達している ( [ ] 嘉慶 年)。 実際の遊牧状 況を見ると, 「(トシェート・ハン部中右旗の) 南部でジャイサンであ るジグメド, チェワンジャブ, ゴンチョグのオトグの平民 (イヘシャ ビ)が時々遊牧している ( 嘉慶 年)」,

「バトムンフ・オトグ所属のイヘシャビは, 夏秋にはセチェン・ハ ン部右翼中前旗の東部で旗の平民と共に遊牧しているが, 冬には牧 草地の良い場所を選んで移動・遊牧していた(

道光 [ ] 年)」 というように, 彼らは確かに良い牧地を優 先的に選んで盟旗の境界を越えて遊牧する等, ある程度の自由が認 められていたことがわかる。 ただ, 世紀前半頃まで確認できるこ の自由遊牧権が現実にどの程度の範囲にまで及んでいたのかを実証 することは現段階ではなお困難であるため, 本稿ではその遊牧権を

「イヘシャビが本来持っていた比較的自由度の高い遊牧権や制約の 少ない遊牧権」 として措定する。

先行研究である , ,

, においても, 上

記乾隆 年の決定を根拠にして, イヘシャビは 盟諸旗の牧地で清 代を通じて常に自由に遊牧していた, という基本的な見解が論述さ

れてきた。 また, , は,

具体的な時期こそ明記していないものの, イヘシャビの自由な遊牧 権を象徴する言葉として, 「活仏の (イヘ) シャビには牧地がない, カモシカには生息地がない」 といった諺まで流行していたことを提 示している。 しかしながら, 如上の諸研究は, 清代外モンゴルにお 牧

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ける法律上の規定や慣用句等の社会的通念をそのまま提示したもの であり, 実証性に乏しい。

実際に, モンゴル国立中央文書館所蔵の公文書史料をうかがうと, 例えば, 乾隆 年にトシェート・ハン部左翼右末旗では, 自旗と接 するハラチン駅站 との境界におけるオボー 設置や左翼後旗へ の牧地分配等の諸事情で牧地不足の状況に陥っていたため, 旗の平 民が該旗で遊牧していたイヘシャビの家畜を捕らえて彼らを追い出 そうとする等, 両者間で牧地を巡る紛争が生じている (

乾隆 年, 乾隆 年)。 また, 後の嘉慶 年にトシェート・ハン部諸旗の境界が画定された際, 当 該部の左翼左中末旗, 右翼右旗は, イヘシャビが自旗の一般平民と 共に遊牧することを承諾するという文書の提出に抵抗している (

嘉慶 年)。 このように, 乾隆 年や嘉慶 年に盟や旗の牧地境界が画定されていく情勢下で, イヘシャビの持 つ比較的自由度の高い遊牧権は, 次第に旗の一般平民の反感を煽る ものとなりつつあった。

また, 前述のように乾隆年間 ( 年) から道光年間 ( 年)にかけてイヘシャビの人口が大幅に増大したこと や道光, 同治年間 ( 年) に盟や旗の境界が徐々に明確に画定されて いったこと 等を踏まえると, 道光, 同治年間に入る頃にはイヘ シャビの持つ自由度の高い遊牧権に対する旗の一般平民の反発が一 段と表面化し, 両者間の牧地紛争が深刻化すると共に, 従来通りの イヘシャビの遊牧権も徐々に問題視され始めたであろうことが容易 に想定できる。 もともと, 清朝による盟や旗の境界画定政策そのも のが, イヘシャビの持つ自由度の高い遊牧権と根本的に矛盾してい たわけであるから, 盟諸旗の牧地におけるこのイヘシャビの遊牧 権が容易に維持されていたとは考え難いであろう。 従って, 「清代 のイヘシャビは盟や旗の枠組みに制約されずに自由に遊牧していた」

という従来の見解への再考, 及びイヘシャビの遊牧実態に対する実 証研究が求められよう。

そこで, 本稿ではモンゴル国立中央文書館所蔵の公文書史料等を 東 洋 学 報

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基に, 嘉慶 年における牧地 冊へのイヘシャビのオトグ名登録の 経緯とその後のイヘシャビの遊牧状況等を概観した上で, 道光 ( ) 年頃から光緒 ( ) 年にかけて外モンゴルのトシェート・

ハン部中右末旗 で実際に発生した旗内の一般平民とイヘシャビ との大規模な牧地紛争の事例を中心に取り上げ, その紛争の発生, 処理過程 を詳細に検討することによって, イヘシャビの遊牧状 況の実態を明らかにする。 これを通して, 清代外モンゴルの最高活 仏たるジェブジョンダンバ・ホトグトの隷属民であるイヘシャビと いう特殊な身分集団と盟旗制度との相互関係の一端を提示したい。

本紛争事例を取り上げるのは, 特に大規模で長期にわたっており, 残された大量の史料からその経緯を的確に見極めることができる典 型的な事件である上, この事件が直接のきっかけとなってイヘシャ ビの持つ比較的自由度の高い遊牧権が縮小していくからである。 な お, トシェート・ハン部中右旗, 左翼右末旗やセチェン・ハン部右 翼中前旗における一般平民とイヘシャビとの牧地紛争事例等々をも 適宜利用する。

嘉慶 ( )年の牧地 冊へのオトグ名登録

本稿の主な考察対象となるのは, もとはジャサグト・ハン部のジャ サグト・ハン旗等より寄進されてイヘシャビとなった人々から編成 され, 嘉慶 年以前にトシェート・ハン部中右末旗に移動して遊牧 を始めたダムディン・オトグである。 後述するように, このダムディ ン・オトグの遊牧が, 後年の道光, 咸豊年間から始まる同旗におけ る一般平民とイヘシャビとの牧地紛争の争点となるが, 本章におい ては, まずその前史・淵源としての嘉慶 年の牧地 冊におけるイ ヘシャビのオトグ名登録とその問題点について検討したい。 そもそ も嘉慶 年における牧地 冊へのイヘシャビのオトグ名登録は, 兵 部が法典中の牧地図編纂のために下した命令 によるものであり, 外モンゴル 盟各旗のほか, イヘシャビの遊牧状況等の報告も必要

となっていた ( 嘉慶 年)。

トシェート・ハン部諸旗が各々の牧地境界の状況等を記録した嘉 牧

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慶 年の文書においては, 左翼後旗, 左翼中左旗による 「わが旗か らジェブジョンダンバ・ホトグトに (イヘ) シャビとして進呈した…

のオトグやバグの平民が(旗の平民と共に) 遊牧しています」 と, 左 翼左中末旗, 中左翼末旗, 右翼左末旗による 「(イヘシャビ)長…の 平民が昔(イヘシャビになる前) からわが旗の牧地で遊牧しています」

といった記載がある ( 嘉慶 年)。 こ こでいう 「イヘシャビ長」 とはオトグの管理者たるジャイサンのこ とであり, ジャイサンは各オトグ所属のイヘシャビの中から任命さ れる。 そもそもオトグはイヘシャビの人口増加に伴って, 管理上の 便宜を図るために設置された組織であり, 通常様々な旗から献上さ れたイヘシャビによって構成されるが, 嘉慶 年のトシェート・ハ ン部諸旗における牧地 冊へのオトグ名登録は, 各自の旗からイヘ シャビとして献上された平民の所属するオトグ名のみに限定される 傾向が見られる。 そのうち, 中右末旗の場合, 「ジェブジョンダン バ・ホトグトの (イヘ) シャビ長であるソノムチェレン, チェレン ドルジらのオトグの諸平民 (イヘシャビ) が(旗の平民と) 共に遊牧 して住んでいます ( 嘉慶 年)」 と報 告しているが, ダムディン・オトグの名が見受けられない。 これを, 咸豊 ( ) 年の 「(イへシャビ) 長ダムディンのオトグは, 以前 ジャサグト・ハンらの諸旗から (イへ)シャビとなった平民である。

… (嘉慶 年に) 諸旗長が旗の牧地 冊を作成して (理藩院に) 報告 する際, ただ各々の管轄する旗から (イヘ) シャビになった平民の (イヘシャビ) 長の名前を書いたに過ぎず, 共に遊牧するほかの諸オ トグの(イヘシャビ) 長の名を書くことはなかった (

咸豊 [ ] 年)」 というエルデニ・シャンジョドバで あるロブサンバルジルらからトシェート・ハン部盟長ら宛の報告と 関連付けると, やはり嘉慶 年の中右末旗の登録も, 自らの旗より 献上したイヘシャビのオトグ名のみに留まったと考えられる。

一方, ダムディン・オトグの登録状況をエルデニ・シャンジョド バの報告文書から見ると, 「ジェブジョンダンバ・ホトグトの (イ ヘ) シャビ長であるセンゲドンドブ, ジャミヤン (嘉慶 年時点にお

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けるダムディン・オトグのイヘシャビ長), …これら オトグの バグ の平民は, トシェート・ハン部の (輔国) 公オイドブチワン (右翼 右末旗), ジャサグ・チェワンドルジ (右翼右旗), イダムジャブ (右 翼左末旗), グルジャブ(右翼左後旗), チャバグジャブ(右翼右末次旗), (和碩親) 王チェデンドルジ(右翼左旗) の 旗の牧地グイ [ ], … 等々の地で遊牧している ( 嘉慶 年)」 と記されている。 すなわち, ダムディン・オトグの遊牧範囲は右翼 右末旗等 旗の牧地となっており, 中右末旗は言及されていない。

このエルデニ・シャンジョドバの報告は, 「我らの (イヘ) シャビ の平民には特定の牧地や規定 [ ] というものが一切ありませ ん。 ただ, 我々の (イヘ) シャビの平民が現在ハルハのハン, 王, ジャサグの諸旗の中で遊牧している(そのイヘシャビ) 長らの名前と, どの旗の牧地, どのような名前の牧地であるかのみを (文書の) 最

後に別紙に書いて, 同封しました ( 嘉

慶 年)」 と書かれている通り, イヘシャビの嘉慶 年時点での遊 牧・分布状況に基づくものであった。 とは言え, エルデニ・シャン ジョドバの報告については, 中右末旗によって登録されたソノムチェ レン, チェレンドルジの オトグの名が見当たらない等, そのオト グ数はトシェート・ハン部諸旗が登録した計 オトグより遥かに少

ない オトグに止まっており ( 嘉慶

年, 嘉慶 年), エルデニ・シャン

ジョドバ側によるオトグ名登録も精密さに欠けた大まかなものに過 ぎなかったと考えられる。 最終的に, 上記 旗中の右翼右末旗のみ が牧地 冊へのダムディン・オトグの記入を容認し (

嘉慶 年), ほかの 旗は記入を避けている。 こ れも前記の自旗から献上したイヘシャビのオトグ名のみを登録する というトシェート・ハン部諸旗における牧地登録傾向に準じたもの だと思われる。

このように, 諸旗とエルデニ・シャンジョドバとによる報告の通 り, 嘉慶 年時点でダムディン・オトグは中右末旗の牧地 冊に登 録されてはいなかった。 これは, 後述する中右末旗の牧地紛争, と 牧

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りわけ咸豊年間以降の紛争処理過程で盟旗側が, 他旗から献上され たイヘシャビのオトグを追い出すための論拠, すなわちエルデニ・

シャンジョドバの主張に対抗する盾となるわけである。 この未登録 問題がトシェート・ハン部諸旗に広く存在していたことの背景には, 本稿の で既述したように, 嘉慶 年のトシェート・ハン部諸旗の 牧地境界画定に伴って生じたイヘシャビの遊牧に対する各旗の抵抗 感があったと考えられる。 例えば, ちょうどその嘉慶 年にトシェー ト・ハン部の左翼後旗, 右翼右旗, 左翼左中末旗, 左翼右末旗の平 民が, イヘシャビの家畜を取り上げて彼らを各々の牧地から追い出 した時, 左翼右末旗の旗長は, 「旗の平民は (イヘ) シャビたちの ように, どこにも誰の牧地にも (ほかに) 共に遊牧する牧地があり ません。 (もしも我々) 皆が越境したら, 明確に定めた (処罰する) 法律がある上, …」 と申し立てている (

嘉慶 年, 年月日不明)。 また, 左翼後旗

は, 「現在 (我々は) 牧地 (境界) を越えてはいけない上に, これか ら毎年 (イヘ) シャビの平民が遊牧に来たら, 旗の平民が本当に不 利になるだけではなく, …」 と盟長らに不服を訴えている (

嘉慶 [ ] 年, 嘉慶

年)。 このように牧地境界画定によって露わになった諸旗の不満が, 結果的に他旗から献上されたイヘシャビの自旗牧地 冊への登録を 拒否するという行為に繋がったわけである。 ただ, オトグ名の登録 にしろ, トシェート・ハン部諸旗の牧地境界画定にしろ, あくまで 牧地図編纂のために行われたものであって, 各旗が未登録のイヘシャ ビの遊牧を容認しないという, イヘシャビの遊牧形態を巡る規定が 決定されたわけではなかったし, 既述の通り嘉慶 年時点でもイヘ シャビが盟, 旗の境界を越えて自由に遊牧するという従来の遊牧形 態そのものは再び容認・維持されたのであった。

嘉慶 ( )年以降の遊牧状況と

嘉慶 ( )年の新規定制定

嘉慶 年のオトグ名登録を機に, イヘシャビの遊牧には変化の兆

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しが現れつつあった。 嘉慶 ( ) 年にエルデニ・シャンジョド バのロブサンゴンチョグが, 「近年以来, トシェート・ハン部の (輔国) 公チェワンドルジ (の右翼右旗), ジャサグ・オルジンジャブ (の左翼右末旗), セチェン・ハン部の副将軍(多羅) 貝勒ナムジルド ルジ (の右翼中旗), サイン・ノヤン部のウールド (固山) 貝子チャ バグジル (のウールド旗) らのいくつかの旗における一部の台吉, 平民たちが牧地を争い, 旱魃, 大雪に見舞われて移動した (イヘ) シャビを追い出し, …現在, 各々の管轄する旗から献上した (イヘ) シャビの平民以外, 他の旗から (イヘ) シャビにした (平民) を (自 旗の牧地へ) 近づかせないという (状況) もある。」 と庫倫 事大臣 らに伝達している ( [ ] 嘉慶 年)。 嘉慶 年においても, 既に牧地 冊における登録の有無を巡る旗の平民とイヘシャビとの 牧地紛争が頻発していたことが見て取れる。 無論, 既述の通り旗の 平民から転身したイヘシャビは, 転身後も, それまでの出身旗の牧 地で遊牧するのが普通であったため, 旗の一般平民たちからは, そ の旗の出身者でない他旗出身のイヘシャビの遊牧が侵入と見なされ, 抵抗にあう場合が多かった。 その際, 嘉慶 年の各旗の牧地 冊に おけるイヘシャビのオトグ名登録の欠如が, 彼らを牧地内から追い 出すための根拠となったわけである。

この牧地紛争を終息させるために, 嘉慶 年に, 「今後ジェブジョ ンダンバ・ホトグトの(イヘ) シャビの諸オトグの平民 (イヘシャビ) をそのまま昔の住んできた地で遊牧させよ。 時折旱魃大雪に見舞わ れて, (イヘ) シャビの平民を (ほかの) 旗の牧地へ移動させて一時 遊牧させることがあれば, 事件を発生させないように短期的に遊牧 させ, 暖かい時期を見極めて以前住んでいた牧地へ (イヘシャビを) 直ちに帰らせよ」 といった新規定が庫倫 事大臣らによって正式に

決定された( 嘉慶 年, [ ] 嘉

慶 年)。 この規定だけを見ると, イヘシャビは普段嘉慶 年に登 録された各旗の牧地で遊牧し, 他旗での放牧が災害時のみに限定さ れたようである。 しかし, 嘉慶 年の諸旗におけるオトグ名の未登 録問題や, 嘉慶 年のトシェート・ハン部諸旗の境界画定は, 一部 牧

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の旗では牧地図提出のために名目上決定されたに過ぎず, 実際の境 界のオボーが設置されなかったということ を踏まえると, 嘉慶 年以降も諸旗の境界自体がさほど明瞭でなく, イヘシャビの遊牧 を特定の旗内に制約することも徹底されてはいなかったと考えられ る。 例えば, 「我々の前任のジャサグ, (輔国) 公ソノムジャブの時 (嘉慶 年に, 中右末) 旗の牧地 (境界) を画定した後, 当該旗の牧地 の中心であり, 我々の父, 祖父の時から越冬し, (かつ) 管轄の (輔 国) 公殿の馬, 家畜を遊牧するアブタル [ ] …等の地で (イヘ シャビ) 長ダムディン・オトグらの (イヘ) シャビの諸平民が勝手 に遊牧していたのを, 道光年間からそれらの (イヘ) シャビの平民 を…仲良く遊牧させるようにして… (

年月日不明)」 といった中右末旗の平民ワンチンによる供述がある。

要するに, 中右末旗においては, 嘉慶 年のトシェート・ハン部諸 旗の牧地境界画定に伴って, ダムディン・オトグのイヘシャビの遊 牧に対する旗の平民による抵抗が生じたものの, 当時はまだこの問 題が議論されるまでには至らず, 当該オトグのイヘシャビは嘉慶 年以降道光年間にかけても中右末旗で遊牧していたことが確認でき る。 また, 前述のようにトシェート・ハン部左翼右末旗では, 嘉慶 年に未登録のイヘシャビの旗内における遊牧を巡って牧地紛争が 発生したが, 結局未登録のイヘシャビは道光 ( ) 年の時点に おいてもなお当該旗内で遊牧していた (

道光 年)。 こうして, 嘉慶年間以降も有名無実に近い新規定の下, イヘシャビは未登録のまま外モンゴル諸旗の牧地で従来通りに遊牧 していたのである。

中右末旗における牧地紛争の勃発

まず, 本牧地紛争勃発前のトシェート・ハン部中右末旗の状況を 確認したい。 そもそも, 道光 ( ) 年頃に理藩院が, 「モンゴ ルの諸旗は, 裁定した牧地における各々の境界地域に幾つかのオボー を建て印章付きの文書を作成して 子に記録し, 管轄のジャサグは (牧地状況を) 毎年 回調査して誓約書を理藩院に提出・報告せよ。

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仮に, 独断で (境界を) 越えた侵入者がおれば, 法律に則って処罰 せよ」 といった布告をモンゴル地域に下している (

道光 [ ] 年)。 実際, 咸豊 ( ) 年と同 ( ) 年に中右末旗の印務を管理している協理台吉ナムジルドルジが,

「以前盟長の指示に従って本旗の牧地境界を調査し (たところ), オ ボーの標識を建てた境界より外側, 内側へ越えて, 牧地を争う等の 事件はない」 と盟長の印務を管理する副盟長バルダルドルジに報告

している ( 咸豊 年,

咸豊 年)。 これは, 上記道光 年頃の規定に従って実行した 調査に関する報告だと思われる。 道光末期と咸豊初頭の中右末旗に おいては, その牧地境界が既に明確に画定され, 越境遊牧が厳しく 監視されていたことが看取できる。 その一方で, 中右末旗における イヘシャビは, 徐々に人口が増加し, 旗の大半の牧地に散らばって 遊牧するようになっていた ( 咸豊 [ ] 年)。 このイヘシャビ増加の理由に関しては, 箭丁や随丁の貧しさ から脱出して自分勝手に自由で豊かなイヘシャビとなった人たちの 存在, イヘシャビの増加を図ったエルデニ・シャンジョドバ衙門の 措置等々が指摘されている が, その更なる実証・検討が求めら れるであろう。 このような状況下で, 中右末旗におけるイヘシャビ の遊牧が問題視されるようになる。

道光 年頃に中右末旗旗長ダシドルジは, 「(イヘ) シャビには特 別に与えた牧地がないとはいえ, 冊 [ ] のある つのオトグ の多くの平民と共に (旗の平民が) 遊牧し, 昔分配した (わが旗の) 極少な牧地の大半 (の地域) で 冊のない大勢のオトグが勝手に遊 牧し, …」 と盟長チェレンドルジに訴えている (

年月日未記載, 道光 年)。 「

冊のある」 「 冊のない」 というのは, 該旗の牧地 冊にそのオト グ名が登録されているか否かを示す表現であり, 本稿の にて考察 したように嘉慶 年に実施されたオトグ名登録は, 遊牧しているイ ヘシャビの全てのオトグ名を明記するに至るものではなかった。 要 するに, この未登録のオトグのイヘシャビによる遊牧が中右末旗の 牧

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反発を煽ることとなった。 具体的には道光 年頃から同旗の平民は, 未登録のオトグのイヘシャビを外来者と見なし, ダムディン・オト グをはじめ, チェレンドルジ・オトグ, ジルガル・オトグ, ブレン・

オトグのイヘシャビの馬を侵入の担保として捕らえ, 彼らを牧地か ら追い出そうとし始めた( 年月日未記載, 道光 年)。 こうして, 旗内の一般平民 とイヘシャビとの間で牧地を巡る紛争が発生したのである。 また道 光 ( ) 年, 同 ( ) 年にも同様な紛争がトシェート・ハ ン部左翼右末旗で相次いで生じていた (

道光 年, 道光 年)。 つまりそれ までは, 未登録のイヘシャビの遊牧も黙認されてきたが, 旗の牧地 境界の明確な画定やイヘシャビの人口増加等によって牧地不足に陥っ た旗の平民が, 未登録のまま遊牧しているという当時の実状を意図 的に持ち出して, 未登録のイヘシャビを旗内からしめ出そうとした のだと思われる。

かくして, 嘉慶年間に一旦収まった牧地紛争が道光, 咸豊年間に なって再燃したわけであるが, その背後には既述のようなイヘシャ ビの人口増加や旗の境界画定の明確化等々といった状況が潜んでい た。 まさに 氏が, 「ジェブジョンダンバ・ホトグトの 平民 (イヘシャビ) の数が増えつつあったにもかかわらず, 管轄す る (イヘ) シャビを遊牧させる特定の牧地がなかったことは, モン ゴル社会の牧地問題の興味深い点となる」 と指摘した通り, イヘ シャビの従来の遊牧が当時の外モンゴルにおける一つの社会問題と なりつつあった。 これが中右末旗の牧地紛争をはじめとする諸紛争 によって表面化してきた。

紛争処理を巡る双方の交渉・対立

既述したように, 中右末旗の平民は自分の牧地へ侵入して遊牧し たダムディン・オトグのイヘシャビらの馬を捕らえて彼らを牧地か ら追い出すが, 具体的に言うと, 咸豊 ( ) 年秋頃からジャイ サンであるダムディンから馬 頭を, イヘシャビのサムダン, ハル

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ジンから各馬 頭を捕らえた上, サムダンのゲルを潰している。 そ して, 追い出されたサムダンらは, 侵入した牧地から去ったことで 馬を返還してもらったものの, 引き続き移動して同じ中右末旗の旗 長ネーダンスレンの営地へ入って遊牧したため, 再び該旗の平民に 馬を奪われることとなった 。 それにもかかわらず, イヘシャビ・

サムダンが旗長ネーダンスレンの営地から移動しなかったことによっ て, 本牧地紛争の処理が開始されるわけである。 その際, ダムディ ン・オトグに所属するイヘシャビの放牧状況と, 侵入に対する担保 としての家畜略奪とを巡って処理が行われるが, 後者に関しては既 に拙稿朝魯孟格日勒 にて考察したので, 本稿では該オトグの イヘシャビの遊牧に対する処理状況のみを取り上げて検討したい。

本牧地紛争は, 最初は庫倫 事大臣へ報告されたが, 彼はその処 理には直接関与せず, 盟長とエルデニ・シャンジョドバ双方の調整

によって紛争の終息を図ろうとした ( 同

治 [ ] 年)。 そこで, 盟長とエルデニ・シャンジョドバのもと で, 牧地紛争処理が遂行されることになった。 咸豊 ( ) 年と 同 ( ) 年にトシェート・ハン部とエルデニ・シャンジョドバ 衙門から各々派遣された副章京ナムジルジュルムド, 管旗章京ダラ イ, 頭等台吉バトトゥルゲチとジャイサンらが, 回にわたる協議 を行ったが, いずれも中右末旗におけるイヘシャビの従来通りの放 牧を強く主張するエルデニ・シャンジョドバ側の反発によって, 合

意には至らなかった ( 咸豊 年,

咸豊 年, 咸豊 年)。

ヶ月後の咸豊 年 月に盟長とエルデニ・シャンジョドバが文書 でやり取りを行い, 自ら本牧地紛争の解決策を探り始める (

咸豊 年) が, ダムディン・オトグの名が嘉慶 ( ) 年にどの旗の牧地 冊に記載されたのかを巡って, 紛争 処理が展開されていく ( 咸豊 年)。

翌咸豊 ( ) 年に盟長チェレンドルジらは, 「ダムディン・オ トグの平民 (イヘシャビ) は… 冊 (に名の) ある (輔国) 公ダシド ルジの (右翼右末) 旗の牧地で遊牧すべきことが明らかとなった」

牧 地 紛 争 の 処 理 過 程 か ら 見 た イ ヘ シ ャ ビ の 遊 牧 形 態 朝 魯 孟 格 日 勒

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と言って, ダムディン・オトグのイヘシャビを未登録の者と見なし, 他旗への移動を主張している ( 咸豊 年)。 これに対してエルデニ・シャンジョドバは, 嘉慶 年のオトグ名の 未登録問題はダムディン・オトグだけでなく, 全てのイヘシャビの 遊牧状態をも危うくさせることに繋がるため, 同様な反発の拡大を 危惧してダムディン・オトグの他旗への移動に懸命に反対している ( 咸豊 年)。 こうして, 牧地問題を巡る 両者間の対立が増す中, 咸豊 年 月にエルデニ・シャンジョドバ は, 「(盟長らが) …仮に, 古きことを変え, 彼らの平民 (イヘシャ ビ) を必ずほかの地で遊牧させよう と言っても, 我らの (エルデ ニ・シャンジョドバ) 側は到底従うことができないので, … (

咸豊 [ ] 年)」 と盟長チェレンドルジに伝 達している。 管轄下のイヘシャビが遊牧している現在の牧地をいか に確保するかということこそが, 今や最優先課題にほかならない状 況であった。 また, ダムディン・オトグのイヘシャビとは別に, 同 治元 ( ) 年にはチョイジョン・オトグのバボードルジらのイヘ シャビも中右末旗の平民グルバルによって該旗の牧地から追い出さ

れるという事態が発生している ( 同治元

年)。 中右末旗において, 牧地を巡る一般平民とイヘシャビとの衝 突が徐々に拡大し, イヘシャビの放牧が一層困難な状態に追い込ま れるようになったのである。 この深刻な状況に神経を尖らせたエル デニ・シャンジョドバは, 両者間で相次いで発生した牧地紛争の早 期解決を試みた。

相前後して発生したこれら 件の牧地紛争に対して, 同治 ( ) 年に双方の官員が協議したものの, エルデニ・シャンジョドバ衙門 の官員が, イヘシャビを長らく住んできた中右末旗で遊牧させる方 向で双方とも合意して庫倫 事大臣らに報告すべきだ, と主張した ため, 両者の協議は成立しなかった ( 同 治 年)。 その直後にも, エルデニ・シャンジョドバの印務を管理 しているダーラマ・ロブサンイシらが, 「彼ら (イヘシャビ) を昔の ままに遊牧させ, 処理して (庫倫 事大臣らに) 報告すれば, どうで

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あろう ( 同治 年)」 と盟長の印務を管 理している副盟長チェレンドルジに尋ねている。 ここから, 牧地紛 争の深刻化やイヘシャビの牧地喪失を危惧したエルデニ・シャンジョ ドバ側の様子がうかがえる。 しかし, 同年秋頃本牧地紛争の状況が, 盟長の印務を管理している副盟長チェレンドルジによって庫倫 事 大臣らに報告された ( 同治 [ ] 年)。

旗の牧地 冊へのイヘシャビの再登録

中右末旗における平民とイヘシャビとの牧地紛争状況の報告を受 けた庫倫 事大臣らは, 「この種の事件中では, 牧地を争った件が モンゴル人の生計に関わっていることが最も重要であり, 軽々しく 処理してはならない」 と指示し, 嘉慶 ( ) 年に諸オトグ名を 記録・上呈した牧地 冊を各旗が各々提示するよう, トシェート・

ハン部盟長の印務を管理している副盟長バルダルドルジに通達して いる ( 同治 年)。 結局, ダムディン・

オトグ等の名前が旗の 冊に記入されているか否かを基準にして本 牧地紛争の処理が試みられた。 これを皮切りに中右末旗をはじめ, 諸オトグが集中している東 盟のトシェート・ハン部とセチェン・

ハン部の諸旗も, 嘉慶 年段階において各旗内で遊牧し登録されて いたオトグ名を調査し始めた。

この調査に先立って, トシェート・ハン部盟長が当該盟の諸旗に おけるオトグの分布状況をエルデニ・シャンジョドバに確認したと ころ, エルデニ・シャンジョドバは嘉慶 年の登録状況に関係なく, 同治 ( ) 年時点において各旗で遊牧しているイヘシャビの全 オトグ名をそのまま旗の 冊に書き入れた統計を東 盟の諸旗に伝

達した ( 同治 年,

同治 [ ] 年, 同治 年)。

つまり, 未登録分や増加分のイヘシャビを諸旗に受容させ, そのオ トグ名を旗の 冊に新たに登録させることによって, イヘシャビの 牧地を確保しようとしたわけである。 これに対して盟長らは, 「(エ ルデニ・シャンジョドバは) 以前嘉慶 年にジャサグ旗の牧地 冊に 牧

地 紛 争 の 処 理 過 程 か ら 見 た イ ヘ シ ャ ビ の 遊 牧 形 態 朝 魯 孟 格 日 勒

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書き入れた方法で決定せず, 逆に現在あちこちで勝手に遊牧してい る状況を以前から遊牧してきたことにして, 一方的に (牧地を) 奪 う気がある上, 本来は昔から 冊に書かれた (イヘシャビ) 長の現 任の長の名前を 冊に書き入れるべきであるにもかかわらず, 現在 証拠を持って (エルデニ・シャンジョドバに) 返信することができな いため, 昔から遊牧しているとは (諸旗の牧地) 冊に書き入れら れていなかった (イヘ) シャビの平民が, この間彼らの諸旗へどう やって移動して来て遊牧した (かということや), 現在管轄の諸旗が (今まで書き入れられていなかったイヘシャビを) 牧地図・ 冊に喜んで 書き入れるか否か等を調査して…」 と述べ, その流入状況と登録へ

の賛否を諸旗に求めている ( 同治 年,

同治 年)。 盟側では, 行政上の管 轄の違いによってイヘシャビの戸籍等が正確に把握できていなかっ たことが見て取れる。 これは, 普段からイヘシャビの遊牧が盟側に よって抑制・監視されてはいなかったことを暗示していると思われ る。

そして, 東 盟各旗の対応を見ると, トシェート・ハン部の中右 末旗, 左翼左中末旗, 中右旗, 右翼左後旗, 右翼左末旗, 中旗, 右 翼右末旗, 中左翼末旗とセチェン・ハン部の左翼後旗, 左翼中旗, 中後旗等々の諸旗は, 「これら多くのオトグの平民(イヘシャビ) が, 実際にどの旗に 冊があって遊牧しているのか, いつどうやって (我々の旗に) 来て住んだのか, 我らの所では精査する手掛かりがな い」 と現状を訴えつつ, 未登録のイヘシャビの牧地 冊への新たな 記入に一斉に反発している 。 このように, エルデニ・シャンジョ ドバが懸念した通り, 中右末旗の牧地紛争を機に, イヘシャビの従 来の遊牧状況に対する各旗の抵抗が次第に東部外モンゴル全域へと 波及したのである。

如上の諸旗の対応に対して, エルデニ・シャンジョドバは同治 年に, 「我らのジェブジョンダンバ・ホトグトの平民には昔から特 別に割り当てられた牧地がない。 …我らのシャビの オトグにおけ る平民が, 以前より 旗の牧地で全員遊牧しきれた例は少ない。

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オトグの平民がいくつかの旗の牧地にまたがって遊牧してきた例が 大多数である。 最初から今まで (イヘシャビを) つの地方に集合・

遊牧させたことがない。 …」 と指摘しながら, 各旗で遊牧している イヘシャビの諸オトグを当該旗の牧地 冊にそのまま登録するよう,

両盟長に再度求めた ( 同治 年)。

その結果, セチェン・ハン部右翼後旗, 中前旗, 左翼右旗, 中左翼 前旗, 中右翼後旗, 左翼左旗, 右翼中前旗, 右翼中左旗, 左翼後旗, 左翼後末旗, 中末旗, 中末次旗等々の一部の旗は, 未登録の諸オト グを各々の牧地 冊に新たに書き入れたのである 。 一方, 冊 への追加登録に反対する同部セチェン・ハン旗, 中後旗, 右翼前旗 も現れ, その状況が同部盟長トグトフトゥル, 副盟長エルデニトグ タガルによって庫倫 事大臣らに報告された(

同治 年)。 そこで, 同治 年に庫倫 事大臣らは以下のよう な決定を両盟長らに通達している。

以前嘉慶 年にハルハの盟内諸旗の牧地を画定する際に定めた 冊があると言っても, それ以降 (イヘシャビの) 人口が増加 したことと, また多数の所から (イヘ) シャビと (して寄進) し た例がすこぶる多くて, 永遠に 冊に基づいてやっていくこと はできない。 旗 (やイヘ) シャビの平民が家畜を放牧して公務, 個人の生計を立てるのは皆同じである。 …これを管轄する両盟 の盟長 (和碩親)王チェレンドルジ, トグトフトゥルらに急きょ 命じて送り, 各々の盟の彼らの幾つかの旗に厳正に通知して命 じ, 各旗の牧地で長年遊牧している (イヘ) シャビの平民が, 昔から (諸旗の牧地) 冊に (名が) あるか否かを考慮せずその まま 冊に入れ, その旗の地図, 冊を至急遅れずに完成させ て, 報告してほしい( 同治 年)。 最終的に, 嘉慶年間以来のイヘシャビ人口の急増を理由として, 過去の登録の有無を問わずに, 各旗内で遊牧している全てのイヘシャ ビを牧地 冊へ新たに登録するという規定が布告された。 これに則っ て, 従来反発していたセチェン・ハン部セチェン・ハン旗等の諸旗 でも, 各々遊牧している未登録のイヘシャビのオトグが新たに登録 牧

地 紛 争 の 処 理 過 程 か ら 見 た イ ヘ シ ャ ビ の 遊 牧 形 態 朝 魯 孟 格 日 勒

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されていった ( 同治 年,

同治 年)。 また, トシェート・ハン部諸旗における 登録も同治 ( ) 年までに次第に進行し, 結局中右末旗には未 登録のオトグを含めた計 個のオトグが書き込まれた (

同治 年, 同治

年)。

今回の登録は, 各旗の内部で暮らすイヘシャビの遊牧を公的に許 可し, イヘシャビを旗内の牧地で一般平民と共に遊牧させるといっ たイヘシャビの権利を認める処置であった反面, イヘシャビが従来 有していた自由度の高い遊牧権が漸次制限されていくという意味合 いをも持つと考えられる。 例えば, 庫倫 事大臣らは, 「(イヘ) シャ ビの平民がいい加減なことをして, 旱魃, 大雪に見舞われなかった 時にも, 昔から慣れ親しんだ旗の牧地から移動して (勝手に) 他旗 の牧地を選んで遊牧し, もめごとを起こすに至ってはいけない (

同治 年)」 とエルデニ・シャンジョド バに指示し, 既述した嘉慶 ( ) 年の規定の遵守を再度求めて いる。 要するに, 旗の牧地 冊へのイヘシャビの新たな正式登録は, イヘシャビが従来持っていた自由度の高い遊牧権が特定の旗の枠内 へと制限されていくという意味を有している。 それは嘉慶 年の規 定の履行をより徹底させるという形で現れており, 一定の実効性を 有するものであった。 例えば, 光緒 ( ) 年にトシェート・ハ ン部中旗が大雪に見舞われたため, 当該旗の牧地 冊に登録された バドマ・オトグとチェレンドンドブ・オトグを雪の少ない当該盟の 中右旗, 中右末旗へ移動・遊牧させることが, エルデニ・シャンジョ ドバによって盟長に要請された結果, 嘉慶 年の規定に準じて両オ

トグの越旗遊牧が認可されている ( 光緒

年, 光緒 年)。

牧地紛争の終息

同治 ( ) 年の新規定のもとで, 中右末旗の平民とイヘシャ ビとの牧地紛争はその収束を迎えつつあったが, イヘシャビの侵入

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に対する担保として家畜を略奪した件で旗の平民をどう処罰するか という問題を巡って, 双方間で妥協が成立せず, その処理はなお長 引いた。 その後, 盟長とエルデニ・シャンジョドバが処理のために 官員を相次いで派遣し, 光緒 ( ) 年にトシェート・ハン部の 副章京ナムジルジュルムドとエルデニ・シャンジョドバ衙門の官員 らとの間の協議で, 双方がようやく合意した。 すなわち, それまで 中右末旗におけるダムディン・オトグの放牧に断固として反対して きた盟長らは, 庫倫 事大臣の決定した同治 年の新規定に準拠し て, 旗内におけるダムディン・オトグのイヘシャビの放牧を認可し たのである ( 光緒 年)。 かくして, 旗の 一般平民と同様に, イヘシャビも特定の旗の牧地で遊牧できるよう にその旗の牧地 冊に新たに登録するという方法によって, 当時広 まっていた中右末旗をはじめとする諸旗における一般平民とイヘシャ ビとの牧地紛争が概ね解決・収束された。

ところが, 新規定に伴う遊牧が旗の平民の牧地範囲をより縮小さ せたためか, その後も両者間の牧地紛争が東 盟の所々で見受けら れる。 例えば, 光緒 ( ) 年の同部中旗, 光緒 ( ) 年の セチェン・ハン部右翼中前旗等々の平民が, 各旗の牧地 冊に登録 されたイヘシャビを牧地から追い出して, 担保として家畜を取り上

げている ( 光緒 年,

光緒 年, 光緒 年,

光緒 [ ] 年)。 ただ最終的には, いずれの牧地紛 争も同治 年の新規定に準じて, 登録された各々の旗におけるイヘ シャビの遊牧が容認される形で直ちに調整が図られている (

光緒 [ ] 年)。 従って, 同治 年の新規定 はその後の牧地紛争処理の つの基準となり, 紛争の拡大や深刻化 を食い止めたと考えられる。 同時に, イヘシャビの遊牧活動は, 一 般平民と同様に, 原則として特定の旗内へと制限されていったので ある。 これは, 同治 年の新規定がある程度実行されていた帰結と も考えられる。 なお, イヘシャビのオトグが諸旗の牧地 冊に登録 されたとはいえ, 光緒 ( ) 年に盟旗の牧地図を提出する際に 牧

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トシェート・ハン部盟長がイヘシャビの統計状況をエルデニ・シャ ンジョドバに確認したこと等からも明白なように, イヘシャビに対 する管轄・支配の権限が盟・旗の印務処へと移管されたというわけ ではなく, 管轄権は清末に至るまで依然としてジェブジョンダンバ・

ホトグトにあった。

以上で検証してきた清代外モンゴルにおけるイヘシャビの遊牧実 態を総括すると, 以下の通りである。

イヘシャビの牧地問題が本格的に顕在化したのは, トシェート・

ハン部中右末旗の平民が, 未登録のイヘシャビが旗内で遊牧してい るという嘉慶 ( ) 年以降の実態を道光 ( ) 年頃から意 図的に持ち出して, 未登録のイヘシャビを牧地から追い払ったこと から生じた両者間の牧地紛争によるものであった。 そもそも嘉慶 年のオトグ名登記は兵部による牧地図編纂のために実施されたもの であって, 各自の旗からイヘシャビとして献上された平民が所属す るオトグ名のみの登録に留まったり, 嘉慶 年時点におけるイヘシャ ビの分布・遊牧状況を根拠に登録したりする等, 諸旗とエルデニ・

シャンジョドバとの間で登録上における意図の相違が存在していた。

その諸旗における未登録状況を生み出したのは, 嘉慶 年のトシェー ト・ハン部諸旗の牧地境界画定に伴って生じたイヘシャビのもつ比 較的自由度の高い遊牧権に対する旗の王公や平民らの反発にほかな らない。 これは, 盟旗制度の一環として実施された盟や旗の境界画 定政策と, それに相反するイヘシャビの持つ制約の少ない遊牧権と の間で生じた産物であると考えられる。 嘉慶年間における平民とイ ヘシャビとの間の牧地紛争は, イヘシャビによる他旗への移動遊牧 が災害時のみに容認されるという嘉慶 ( ) 年の新規定の制定 を導くことになった。 要するに, イヘシャビが従来から有してきた 自由度の高い遊牧権にも嘉慶年間より変化の兆しが現れつつあった と考えられる。

かくしてイヘシャビが有する自由度の高い遊牧権は徐々に揺るぎ 東 洋 学 報

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始めた。 これに拍車をかけたのが, 嘉慶年間以降のイヘシャビの人 口急増や道光, 同治年間以降の盟旗の牧地境界の明確化といった内 的外的要因であった。 この問題は, トシェート・ハン部中右末旗の 牧地紛争をはじめとする諸紛争によって顕在化した。 結果的に, イ ヘシャビの自由度の高い遊牧が再び問題視され始め, 旗側との調整 が図られることとなった。 その際, 盟や旗同士の牧地紛争が牧地の 再分配や境界の画定によって終結したのとは異なって, 特定の牧地 分配がないという状況下で, 盟旗の牧地の内部においてイヘシャビ と平民を如何に融合的に遊牧させるかが, その紛争処理の焦点となっ たのである。

そこで, 取り入れられたのは, 未登録分や増加分のイヘシャビを 諸旗に受容させ, そのオトグ名を旗の 冊に新たに登録させること によって, イヘシャビの牧地確保を図ろうとする方策であった。 と ころが, これは容易に受け入れられるどころか, 東 盟諸旗におけ るイヘシャビの遊牧権に対する平民の反発が一層エスカレートし, 両者間の牧地紛争が東部外モンゴル全域へ拡大していった。 最終的 に, エルデニ・シャンジョドバの再三の要求と同治 ( ) 年の 庫倫 事大臣による新規定を皮切りにして, 東 盟の諸旗において, 嘉慶 年の未登録分や増加分の全てのオトグ名が各々の旗の牧地 冊に新たに登録されていったわけである。 これによって, 登録され た各旗におけるイヘシャビの遊牧権が確保・容認され, トシェート・

ハン部中右末旗の平民とイヘシャビとの間の諸紛争が終息すると同 時に, 同様な牧地紛争の拡大や深刻化に歯止めがかかったと言って よい。

その一方で, イヘシャビの遊牧範囲は一般平民と同様に, 原則と して特定の旗内へと制限されていったのである。 つまり, イヘシャ ビは, 「外モンゴル最高の活仏たるジェブジョンダンバ・ホトグト の隷属民であるイヘシャビは, ハルハ 盟のどこで遊牧してもかま わない」 と言われてきた自由な遊牧権を, 嘉慶 年から同治 年に かけて徐々に喪失していったことがわかる。 これは, 盟旗制度の一 環として実施された盟旗の牧地境界画定が道光, 同治年間になって 牧

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外モンゴルへ浸透・定着していったことの所産であり, 牧地分配の ないイヘシャビも原則としてその制約を受け, 牧地問題の面におい て盟・旗制の枠内に組み込まれていったと考えられる。 本稿におい ては, 「イヘシャビが常にハルハ 盟諸旗の牧地で自由に遊牧して きた」 という従来の通説の持つ大きな限界を指摘しておきたい。

参考文献 和文文献

岡洋樹 「ハルハ・モンゴルにおける清朝の盟旗制支配の成立過程 牧地の問題を中心として 」 史学雑誌

同 清代モンゴル盟旗制度の研究 東方書店 田山茂 清代における蒙古の社会制度 文京書院

朝魯孟格日勒 「清代外モンゴルのトシェート・ハン部内におけ る牧地紛争処理 嘉慶 ( ) 年から同治 ( ) 年におけるトシェー ト・ハン旗と左翼後旗との境界画定の経緯 (上・下)」 日本モンゴ

ル学会紀要 ,

同 「清代外モンゴルにおける牧地紛争の発生形態 中部二盟の諸事 例を中心に 」 内陸アジア史研究

同 「清代外モンゴルにおけるトシェート・ハン部, サイン・ノヤン部 間の牧地紛争処理 乾隆 ( ) 年から道光 ( ) 年にかけて の境界画定の経緯 」 東北アジア研究

同 「清代外モンゴルのセチェン・ハン部における盟界画定の経緯 牧地紛争に関する公文書を手掛かりに 」 史林

キリル文字蒙文文献

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中文文献

包桂芹編 清代蒙古官吏伝 北京:民族出版社

章伯鋒 清代各地将軍都統大臣等年表 ( ) 北京:中華書局

盟長や旗長の大部分は, チンギス・ハーンやその弟の血統を継ぐ名門 の在来モンゴル遊牧貴族であり, 清朝によって爵位が与えられた者の中 から任命された。 和碩親王, 多羅郡王, 多羅貝勒, 固山貝子, 鎮国公, 輔国公及び 等から 等までの台吉といった爵位があり, その地位の世 襲が認可されていた。 また, 外モンゴル地域ではハンという旧来の称号 も残された。

参照。

. また, 箭丁は旗, 盟, 理藩院を介して清朝皇 帝への賦役義務を負っていたため, 旗長やその配下の官員たちの完全な 管理下にあったと言われる。

, , 岡

参照。 公文書史料の中では, 後述するイヘシャビも 「 」 と記載される 牧

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ことがあり, それを平民と訳した。

参照。

オトグはその管理者であるジャイサンや遊牧地域の名前で呼称される のが普通であった。 参照。

, 参照。

, 参照。

参照。

モンゴル国立中央文書館の文書番号である。 なお, 引用史料中の ( ) 及び下線はそれぞれ補足及び強調のために引用者が付け加えたものであ る。 以下同様。

モンゴル国立中央図書館の文書番号である。 以下同様。

駅站とは, 清朝が整備した通信・交通組織のことである。 当該駅站は, 本稿末尾の地図上に記したトシェート・ハン部左翼後旗の北部に位置す る。

ここでは, 盟や旗の境界線を示すために丘の上等に点線状に設置され た高い石積みのことを指す。 普通, 隣接する両旗による 対のオボーが 境界線を挟んですぐ両側に建てられる。

参照。

拙稿朝魯孟格日勒 , 同 , 同 参照。

本稿末尾の地図を参照。

清代外モンゴルにおける旗の一般平民とイヘシャビとの牧地紛争処理 に関しても, では, イヘシャビによる 盟諸旗の牧地に おける自由な遊牧の規定や, 外モンゴル最高の活仏ジェブジョンダンバ・

ホトグトの存在等の事情で, イヘシャビを旗の平民と共存する形で遊牧

させる方策が採用されていたと述べ, では, 紛

争の最終処理は, 旗内の牧地におけるイヘシャビと平民の共存を求める

に止まっていたと記述している。 では, 旗

の牧地を二分して平民とイヘシャビを遊牧させるといった紛争対策がし ばしば用いられていた, と略述されている。

「我らの (兵) 部は, (皇帝の) 命令に従い, 法典 [ ] を編 纂するため, その法典中の地域の地図 (という) 項目に, 全外藩の山,

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草原, 辺境地を全て必ず精査し, 地図を書き終えた上, 上奏した (説明) 文を編集し調べた後, 上奏して上 (皇帝) がご覧になるように用意させ る。 …直ちに管轄のハルハ諸旗の牧地の境界を画定したオボーを調査し, 四方八方の地域に関する漢語の詳細な 冊を作成した上, 保管した諸旗 の牧地が書かれた地図を 通 (写し) 書いて作成して (兵) 部に提出し,

(法典) 編集のための証拠とせよ。 ( 嘉慶

[ ] 年)」。

拙稿朝魯孟格日勒 。 参照。

。 拙稿朝魯孟格日勒 。

同治 ( ) 年, 同治 年,

同治 年, 同治 年,

同治 年,

同治 年, 同治 年,

同治 年,

同治 年, 同治 年。

同治 年,

同治 年, 同治 年,

同治 年, 同治 年,

同治 年,

同治 年, 同治 年,

同治 年, 同治 年,

同治 年, 同治

年。

[付記] 本稿は日本学術振興会平成 年度科学研究費補助金 (特別研究員奨 励費) 及び平成 〜 年度科学研究費補助金 (若手研究 , 課題番号 「

」) による研究成果の一部である。

(神戸大学大学院国際文化学研究科国際文化学研究推進センター・研究員) 牧

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嘉慶

同治

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参照

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