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「アラブの春」後の体制移行 -イエメンを事例として-

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(1)

ソシオサイエンス Vol. 20 2014年3月

Ⅰ 「アラブの春」と体制移行

2011年に発生した反体制デモを端緒として政 権交代が起こったアラブ諸国(チュニジア,エ ジプト,リビア,イエメン)(1)では,その後の 体制移行にさまざまなヴァリエーションが生ま れている。本論文では,その一つであるイエメ ン共和国を取り上げ,その特徴を論じたい。

まず以下Ⅱでは,「アラブの春」を経て,イ エメンがどのような移行プランを進めているか 概観する。そして,反体制デモの参加者らが提 案した別の移行プランと比較を行い,現在実施 されている移行プランがどのようにそれと異な るのかを明らかにする。その上で,移行プロセ スの制度的原型を2006年から始まる与野党間 の協議に求めた。イエメンの移行プロセスは,

「アラブの春」とは直接関係なく積み上げられ た与野党間協議から転用されたものである。

そしてⅢにおいて,その転用を可能にさせた 最大の要因として,諸外国による正当性の付与 と財政支援を挙げる。現在,イエメンに関心を 持つ国とは,イエメンに潜伏するテロ組織に標 的にされている国家(欧米とサウジアラビア)

に他ならない。これら諸国は,イエメンの安定

に死活的な利害を見出しており,安全保障とい うレンズを通してイエメンを見ている。彼らの 投じる支援が移行プロセスをどのように下支え しているか財政面から記述した。

さらにⅣでは,移行プロセスの展開を可能と している国内的な要因として,野党の旧体制と の距離と,副大統領の存在との2つを挙げる。

与野党による移行プロセスの共同実施が可能な のは,野党が体制と完全に対立する存在ではな かったからである。また,旧体制で序列第二位 にもかかわらず象徴的な存在でしかなかった副 大統領は,唯一の大統領権限の合法的継承者と して安定的な政権移譲を実現する媒介となった。

イエメンにおける「アラブの春」の騒乱にお いて,政党も政党間協議もごく周辺的なもので あった。2011年に脚光を浴びたのは,大統領,

その親族が牛耳る治安部隊,反体制デモ,部族 民兵,離反部隊,それにテロ組織である。しか し,移行プロセスは与野党間の合意という形で 設計され,与野党幹部が舵取りをしている。そ の方式とは,大規模な国民的会議の開催を通じ た合意形成である。これはサーレハ前政権が80 年代に通った道であり,新旧の政治状況が交錯 する中で新体制が胎動している。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程3年 論 文

「アラブの春」後の体制移行

-イエメンを事例として-

川 嶋 淳 司

(2)

Ⅱ 制度的原型としての与野党協議

1 移行プロセスの概要

イエメンの移行プロセスとは,2011年11月に 署名された合意(後述する湾岸協力会議イニシ アティブおよび実施メカニズム)に基づいて実 施される,イエメン新憲法の制定を中軸とし た移行過程を指す。2011年11月23日,アリー・

アブドッラー・サーレハ大統領(

President Ali Abdullah Saleh

,在任1978-2012)(2)は,免責特 権と引き換えに退陣に合意する文書に署名し た。サウジアラビアのアブドッラー国王がリヤ ドにて署名式典を主催し,イエメンからの参加 者のほか,国連特使,安保理常任理事国からの 代表,

GCC

諸国の代表など多くの関係者が臨 席した。サーレハ大統領が署名した文書は「湾 岸協力会議イニシアティブ」(

Gulf Cooperation Council Initiative

,略称

GCCI

)と呼ばれる。こ れは2011年春に

GCC

が示した仲介案である。

これに加えて,別の文書も署名された。それ は,

GCCI

の実施を確約するためのもので,詳 細な作業工程に実施期限を付して記した文書で ある。この正式名は「湾岸協力会議イニシア ティブのための時限つき実施メカニズム」(

The Fixed-term Implementation Mechanism for Gulf Cooperation Council Initiative

)という(3)。以下 では「実施メカニズム」と呼ぶ。イエメンの移 行プロセスは

GCCI

および実施メカニズムに基 づいて行われる。本論では,この移行プロセス を「

GCCI

プロセス」と総称したい(4)

GCCI

プロセスの主眼は,新しい憲法を制定 し,それに基づく政治体制を2年間強の時期 で構築することにある。同プロセス全体の行 程は,大きく2段階に分かれる。第一段階は

GCCI

の署名(即時発効)からサーレハ大統領 の後継となる大統領が就任するまでの期間であ り,第二段階は新しい大統領の就任から2年間 を指す。

第一段階は,

GCCI

の署名からサーレハ大統 領の次の大統領が着任するまでの期間である。

その間,与野党が半分ずつ閣僚ポストを分け 合う挙国一致内閣の設置と,大統領選挙の前倒 し実施の2つを定めている。もともと大統領選 挙は,サーレハ大統領の二期目の任期が切れる 2013年に行われる予定であった。これが

GCCI

により前倒しで実施された。

2012年1月には,サーレハ大統領に対する 法的・司法上の免責特権を与える法律が

GCCI

に基づいて成立する(5)。2月には大統領選挙が 行われ,当時のアブドゥラッボ・マンスール・

ハーディー副大統領(

Abdorabbuh Mansur Hadi

が当選した。

GCCI

の実施メカニズムには,与 野党がハーディー副大統領を唯一の統一候補と して出馬させるという規定があるため(6),事実 上の信任投票であった。この新大統領の就任ま でが

GCCI

プロセスの第一段階である。

ハーディー新大統領の就任からの2年間が

GCCI

プロセスの第二段階にあたる。いよいよ 新しい憲法の制定に向けた議論が始まる。具 体 的 に は, 国 民 対 話 会 議(

National Dialogue Conference

,略称

NDC

)と呼ばれる大会合を 開催し,新憲法の骨子および国内の政治問題

(サアダ問題および南部問題)(7)の解決方法に ついて合意を形成する。

これらの諸問題を話し合った後,挙国一致政 府は

NDC

閉会後から6カ月以内に憲法起草委 員会を設置し,同委員会は設置から3カ月以内 に新憲法の起草を完了する。この改憲案は国民

(3)

審査にかけられ,正式に採択された後,議会は 新憲法に基づいて選挙法案を提出する。また同 様に選挙管理委員会が設置され,投票人名簿の 更新が行われる。この新しい選挙制度のもとで 総選挙および大統領選挙を実施し,これにより 選出された国会議員は選挙前に可決した選挙法 の再審議を行う。新たな大統領の任命をもち

GCCI

プロセスの第二段階は終わり,移行プロ セス自体も終了する。

2 採用されなかった移行プラン

GCCI

と実施メカニズム文書は,仲介者であ る湾岸諸国等の立会いの下,サーレハ大統領と イエメン与野党により調印された。その内容は,

無罪放免と引き換えにサーレハ大統領は元首の 座を退き,副大統領が新しい大統領となり,与 野党が一致して新しい政治体制を築くというも のだ。「アラブの春」の主役であった反体制デ モ参加者は,移行プロセスの形成に直接関わる ことがなかった。そればかりか,

GCCI

プロセ スにおけるデモ参加者の役割は極めて限定的で ある[

Durac

2012

:

173]。以下では,反体制デ モの参加者が提案した移行プランと比較するこ とで,

GCCI

プロセスの特徴を考えたい。

その移行プランとは,「変革のための革命青 年 調 整 会 議 」(

The Coordinating Council of the Youth Revolution of Change

, 略 称

CCYRC

) が 発表したものである。

CCYRC

は,各州の反 体制デモ参加者らが組織した連合団体であ る(8)

CCYRC

のメンバーは「タナウウィア」

tanawwu

‘)と言う愛称を好んで使う。アラビ ア語で「多種多様」という意味と,「転換」と いう2つの意味を持っている単語である。組織 名としてのタナウウィアは「多種連合」とでも

訳せようか。

この多種連合は,2011年4月12日付けで独自 の移行プランを発表する[

CCYRC

2011]。多 種連合のプランは反体制デモ参加者らによる議 論を通じて生まれた。彼らによれば,100名以 上の若者や市民団体関係者らが4週間かけて 議論を重ねた集大成が同提案であるという(9)

GCCI

が外国による仲介案であるのに対し,多 種連合のプランは草の根からの提案である。そ の工程は以下のようなものであった。

(1)大統領の近親縁者全てを軍人・文官を問わ ず幹部職から排除する。

(筆者作成)

【合意上の工程】 【実際の動き】

14年 大統領および総選挙 投票者名簿の作成 選挙管理委員会の設置

新たな選挙法案を 国会より提出

←新憲法採択の 3か月以内 国民投票

憲法委による憲法起草

(3か月以内)

憲法委員会の設置

NDC閉幕後から 6か月以内に。

2013 MAR 18- 国民対話会議(NDC) 国民対話会議の開始

(6か月間) 2013 JAN 18

事務局長が決定 2012 JUL 14

対話準備委が発足 早期の大統領選 2012 FEB 21

ハーディーが大統領に

免責決議 2012 JAN 21

国会にて成立 挙国一致政府の設置 2011 DEC 7

バーシンドワ内閣

20111123日に署名・発効 図表1 GCCIプロセスの概要

(4)

(2)革命の目標を達するための全決定を発布す る「暫定大統領会議」(

Transitional Presidential Council

,略称

TPC

)を設置する。5名の文民 からなり,革命派青年指導者および国民的勢 力による了承をもって人選を行う。旧体制を 代表する者は選考の対象から外す。

TPC

ンバーは,移行期間から第一回目となる選挙 において大統領職および首相職に立候補する ことができない。

(3)

TPC

は6ヶ月間の移行期間の開始を宣言 する。同時に,現行憲法の停止,議会・諮問 議会・地方評議会の解散を行う。

(4)

TPC

は,移行期間の開始から1ヶ月以内 にテクノクラートにより構成される「暫定内 閣」(

Transitional Cabinet

)を任命する。

(5)

TPC

および暫定内閣を監視する「暫定国 家評議会」(

Transitional National Board

,略称

TNB

)が設置される。

TNB

は南部問題,サア ダ問題の解決方法を提示し,選挙管理委員会 および憲法起草委員会の設置・人選を行う。

(6)憲法起草委員会は設置から3カ月以内に新 憲法を起草し,国民審査に付す。

(7)諸々の機構改革(司法機関の独立。情報 省,人権省,治安機関の廃止。国軍は内務省 傘下に統一・再編。共和国防衛隊は国軍に吸 収併合)。

(8)法的手続き(不正な役人の訴追,横領され た公共資財の回収,平和的デモへの武装弾圧 に関与した者の法的責任の追及,被害者遺族 への補償)。

GCCI

プロセスとの共通点として,移行プロ セスが新しい憲法を作る過程である点を挙げた い。憲政の立て直しとしての移行案という点が

一致している。

しかし,やはり相違が際立っている。重要な 4点を指摘したい。まず,もっとも異なる点は,

サーレハ大統領と近親縁者の処遇である。多種 連合のプランでは,大統領と親族は即時に要職 から排除され,デモに対する弾圧の法的な責任 を追及される。他方,

GCCI

は一定期間の後に サーレハ大統領が辞職することとなっており,

その見返りとして法的な免責特権が与えられる。

二つ目は,移行プロセスにおいて反体制デモ に参加した若者らが大きな権限を持つ点であ る。「暫定大統領会議」(

TPC

)のメンバーと なるには,彼らの了承がなければいけない。

三つ目は,旧体制の秩序を温存するか否かの 程度である。多種連合のプランでは,議会・諮 問議会・地方評議会を解散し,情報省・人権省・

治安機関は廃止する。

GCCI

では現行の公的制 度で廃止されるものは何も規定されていない。

最後に,移行プロセスを執行する立場の中立 性を担保しようとする狙いが多種連合のプラン には感じられる。分権的な制度設計,テクノク ラートによる組閣が規定され,それに

TPC

ンバーに対する次回の選挙における立候補が制 限されている。

上記4点が違いである。しかし,

GCCI

プロ セスと多種連合プランの最大の相違は,前者が 実際に採用・実行され,後者は無視された点で ある。この違いを生んだ背景は,以下Ⅲで改め て取り上げたい。多種連合は,上記の提案をア ラビア語ではなく英語で発表した。彼らは,誰 がイエメンの未来に最も影響力を及ぼしうるか 心得ていたのである。いずれにせよ,

GCCI

実施メカニズムは反体制デモ参加者により形成 されたものではない。それでは,この移行プロ

(5)

セスはどこからやってきたのだろうか。

GCCI

プロセスの制度的原型は,2011年以前より積み 上げられてきた与野党協議の内容に見出すこと ができる。

3 与野党間の長い対話

2011年2月,国内で反体制デモの拡大する 中, サ ー レ ハ 大 統 領(当 時 ) が 4 点 の 提 案 を 行 い, そ れ に 野 党 連 合

JMP

Joint Meeting Parties

,「政党合同会議」)(10)が応答するという やりとりがあった。まだ反体制デモが始まった ばかりの初期のころである。2月2日,サーレ ハ大統領が提示した内容とは,(1)「4人委員 会」の協議再開,(2)憲法改正の凍結,(3)

選挙人登録の開始,(4)大統領任期の延長・

世襲・白紙化それぞれの否定,の4点であっ た(11)

現行のイエメン憲法は,大統領任期を7年と し三選を禁じている。サーレハ大統領は,2期 目の任期が終了する2013年に退陣するはずで あった。しかし,2012年末,同大統領の続投を 可能にするための改憲案が議会に提出された

また,サーレハ大統領は1990年のイエメン共 和国誕生当時から元首を務めているにもかかわ らず,1999年からの任期を第1期目としてカウ ントしている。これは,憲法の規定する大統領 下限年齢(40歳)に長男アフマドが達するまで の時間稼ぎであると考えられていた[

Phillips

図表2 GCCI に先行する与野党協議の概要

名前 日付 主な内容 署名者

基本合意 2006年 6月18日

同年9月の大統領選・地方選の選挙実施に関する合意。

公正で透明性の高い選挙実施のため,野党側からの選 管メンバーへの参加・選挙人登録・公共メディアの中 立・公職者の中立・政府支出の中立・軍部および治安 部隊の中立など12項目に関して合意した。

GPC,JMP,野党国民評議 会,アラブ・バアス社会主義 民族党,イエメン統一同盟

対話文書 2007年 6月16日

議会を代表する与野党間の対話を実施するための規則 に関する合意。対話の内容(2006年6月の基本合意で 合意したもの,EU選挙監視団の勧告,地方行政改革,

人権と自由,経済政策,政治紛争と社会問題,94年内 戦の戦災問題),対話の基本方針と規則,広報の規則,

事務委員会の設置詳細の5点について記している。

GPC,イスラーハ党,イエ メン社会主義党,ナセル人 民統一組織,アラブ・バア ス社会主義民族党

アデン会議録 2007年 11月8日

アデンで11月2-8日に開催された5党間での協議の 議事録。政治制度改革のための改憲,選管・選挙方式・

地方行政に関する幹事長レベルでの課題の特定化,経 済問題,政治紛争の被害,94年内戦の戦災,時限付き の改革実施プラン,対話の継続などを定めた。

GPC,イスラーハ党,イエ メン社会主義党,ナセル人 民統一組織,アラブ・バア ス社会主義民族党

2月合意 2009年 2月23日

諸改革の協議のため議員任期を2年間延長した与野党 間の合意。これにより2009年の議会選挙は2011年に延 期されることとなった。諸改革とは,(1)選挙制度お よび選挙制度(比例制の導入)発展のための改憲,(2)

選挙法の改革,(3)選管の再設置,の3点を指す。

GPC,イスラーハ党,イエ メン社会主義党,ナセル人 民統一組織,アラブ・バア ス社会主義民族党

共同議事録 2010年 7月17日

2009年の2月合意を実施するためにGPCとJMPの二 者間で署名された文書。包括的国民対話会議のための 準備委員会(200人委員会)の設置,対話の実施タイム テーブル,規則などに関する合意。

GPC,JMP(イスラーハ党,

イエメン社会主義党,ナセ ル人民統一組織,アラブ・

バアス社会主義民族党)

(各報道・発表を基に筆者作成)

(6)

2011

:

96]。こうしたことから,同大統領には続 投ないしは世襲の意思があるものと理解されて いた。これを大統領自らが否定したのが上記

(2)と(4)であった。

(3)の選挙人登録の問題は,2006年の大統 領選挙にさかのぼる。2006年9月の投票日を 数か月前にひかえて,透明性の高い公正な選 挙実施のために与野党は合意文書を取り交わ した。政権与党側の「国民全体会議」(

General People

s Congress

,略称

GPC

)が国家の人的・

物的資源を不当に使用しないための約束だった が,これらの多くは守られなかった。

EU

の選挙 監視団が発表した報告書は,同選挙をイエメン 民主化の進展における画期的な契機と評価しつ つも,最終結果の正確さについて信憑性を持つ ことは不可能であり,結果を出すプロセスは信頼 性に欠けると結論付けた。それは,選挙期間中 において,国家の公的資財が現職者に利するよ うに不当に用いられていたからであり,国家機関

(特に警察と軍隊)は現職政権に対する圧倒的な 支持を打ち出し,それらを正す立場の選挙管理 委員会の内部には政権寄りの党派性が観察され たからであった[

EUEOM

2006

:

1

-

3]。

これに加えて,有権者名簿が体制側により作 成されており公平性・透明性に欠ける点,また 長い間更新されておらず選挙権を有する年齢に 最近達した若者がリストから漏れている可能性 が高い点が問題視された。この選挙人リストを きちんと更新することを約したのが上記(3)

の大統領提案であった。

2006年以降,選挙制度を含めた様々な政治改 革協議を与野党は断続的に行う。こうした議論 の中で誕生したのが,サーレハ大統領の言及し た(1)の「4人委員会」である。これは,与

野党が2011年以前に合意していた「国民対話会 議」の開催準備を総監督する委員会を指す。正 式名称は「国民対話開催準備のための共同委 員会議長府」である。ハーディー副大統領(当 時),アブドゥルカリーム・アル=イリヤーニー 大統領顧問,イスラーハ党のアブドゥルワハー ブ・アル=アーニシー幹事長,ヤーシーン・ノ ウマーン社会党書記長の4名がメンバーであ ることから,その名がついた。「国民対話会議」

開催準備の作業自体は,200名からなる共同準 備委員会(正式名称「国民対話開催準備のため の共同委員会」(12),通称「200人委員会」)が行 うため,それを監督する上位機関という位置づ けである。分かりやすく言うと,「4人委員会」

の監督のもとに「200人委員会」が「国民対話 会議」の開催準備を行うという合意であった。

それが2011年以前に与野党間で存在した。

2011年2月2日のサーレハ提案を受けて,同 月13日に野党連合

JMP

は声明を発し,移行プ ランを提示した(13)。かいつまんで言うと,「4 人委員会」を中心として,大規模な国民的会議

(国民対話会議)を実施し,包括的な改革案を 作成し,挙国一致政府が同改革案に沿って憲法 および選挙法の改正を行い,総選挙を実施する というものである。具体的な手順は以下の通り である。

(1)共同準備委員会(200人委員会)は,4人 委員会からの原案提出を受け,議題ごとに設 置される専門部会(政治・経済・社会・その 他)の作業日程を実施期限つきで定める。

(2)旧南イエメン諸州との連絡委員会を設置 し,南部運動が国民対話に参加するように調 整する。また,在外の反政府勢力およびホー

(7)

シー派の参加も実現させる。

(3)専門部会が「包括的改革政策案」を期限 以内に作成する。専門部会での議論が紛糾し た際には,新たに設置される30名からなる委 員会と4人委員会とで仲裁を行う。

(4)200人委員会にて「包括的改革政策案」の 審議を行い,国民対話会議(

NDC

)を招集 する。

(5)

NDC

では,改革案の採択,その実施工程 表の作成,挙国一致政府の設置を採択する。

(6)改革政策に必要な改憲案を挙国一致政府 が議会に提出,国民審査に付した後,それに 基づいて選挙法も改正する。

(7)新しい選挙法に基づく総選挙の実施。

国民対話の実施・挙国一致政府の設置・憲法 および選挙法の改正・総選挙の実施といった構 想は,

GCCI

プロセスの原型をなしている。さ らに,国民対話会議を実施するための仕組み

(4人委員会や200人委員会)は,2011年以前の 時点で与野党間の合意があった。

GCCI

プロセ スでは,与野党協議で生まれた「4人委員会」

メンバーが最重要ポストを占めている。

しかし,この構想にはサーレハ大統領の退陣 は含まれていない。また,国民対話会議への青 年層の参加に関する規定もない。2011年までの 与野党協議と

GCCI

プロセスとの差は,2011年 2月以降の与野党間の交渉ないし外国の仲介に より加えられたものであろう。特に,3月18日 にサヌアの反体制デモが大規模な武力弾圧を受 けた事件を契機に,サーレハ政権への国際的な 批判が高まり,4月以降は同大統領の退陣が本 格的に模索された。反体制の機運の高まりを受 けて,大統領の続投が政治的な安定をもたら

さないと広く認識されたからである。それが

GCCI

の第一段階を形成する。さらに第二段階 においても,与野党以外のアクターの参加が強 力に拡大されている。これは移行プロセスに安 定性と正当性をもたらそうとする諸外国の意思 を反映したものであると思われる。

GCCI

プロ セスで開催される国民対話会議では「グッド・

ガバナンス」や「移行期の正義」という分科会 が設置されたが,こうした単語は多くのイエメ ン人にとって聞きなれないものであった(14)

Ⅲ 正当性と資源

1 安全保障レンズ

イエメンの不安定化を深く深く懸念する国々 とは,イエメンに潜伏するテロ組織に狙われる 国々に他ならない。アメリカであり,欧州諸国 である。これらの諸国にとり,イエメンは「テ ロとの戦い」の現場だ。90年以降に発生した一 連の事件は,こうした国々の懸念を雄弁に裏付 ける(15)。特に,2009年12月の米国行き民間航空 機での自爆テロ未遂事件は衝撃であった。もし テロ計画が完遂されていれば,クリスマス・イ ブの日に300名近くを乗せた飛行機が爆破され るという悲劇が起こっていた。米国人の多くは 2001年の同時多発テロを思い起こした。米国の イエメンにおけるテロ対策はこれを機に一層強 化された。

「アラブの春」において他のアラブ諸国には 国務省が対応にあたったのに対して,イエメン の対応はブレナン大統領補佐官(当時)が行っ たという事実からも,米国の対イエメン外交の 最重要課題はテロ対策であることが分かる[松 本2013

:

93]。在イエメン米国大使の人事もそ

(8)

れを裏付ける。2007年から10年までの米国の前 任大使は,文化広報畑の人物であった。2010年 に新たに就任した大使は,テロ対策調整室の幹 部職を前任し,これまでにイスラマバード,リ ヤド,ペシャワール,エルサレムなどに赴任し てきた人物である。米国がどのようにイエメン を見ているかを示す一端である。

テロの標的は欧米だけではない。サウジアラ ビアも同様にイエメンの治安に気をもんでい る。特に2009年にサウジ王族メンバーのムハン マド内務副大臣(当時。2012年11月より内務大 臣)がアル=カーイダ分子による暗殺未遂事件 に遭うと懸念は一層深刻化した。欧米とサウジ にとってイエメンは安全保障というレンズを通 して見る対象である。

2011年の当初,欧米はサーレハ政権の存続を 念頭に置いていたようである。少なくともサー レハ退陣を初めから支持してはいない。という のも,サーレハ政権は欧米が進める「テロとの 戦い」の良き協力者であったからである。しか し,サーレハ政権が暴力で反体制デモの封じ込 めに着手すると,国内の状況は悪化しテロ分子 を利する結果となる。加えて,米国がテロ対策 のために供与した最新兵器がデモ弾圧に使われ ている疑いが高まった。ここに,サーレハ大統 領の誤算があった。国内の治安状況が危うくな ればなるほど,欧米は自分にイエメンの統治を 託すだろうと見誤った。2011年3月,アル=

カーイダ分子として刑務所に収監されていた 70名が釈放され,野に放たれた[

Phillips

2011

:

139]。これは欧米諸国の逆鱗に触れた。

欧米諸国とサウジは,

GCCI

署名の実現に おいて大きな役割を果たした[川嶋2012

:

65]。

湾岸諸国が仲介案を示し,国連の安保理決議が

イエメンに署名を迫った。こうした諸外国の行 動の背景には,イエメンがテロリストの潜伏先 となりテロ攻撃の発信地と化すことに対する懸 念がある。

GCCI

に署名が行われ移行プロセス が始まった後も,欧米やサウジはイエメン暫定 政府に対する政治的な支持と経済的な支援を惜 しまない。また,ドナー会議や国際会合にてイ エメン暫定政権への支持を繰り返し表明する。

これら諸外国が望むのは,イエメンに安定をも たらすことができ,かつテロ対策に協力的な イエメン政府の存在である。先に見た

CCYRC

(多種連合)の移行プランは,既存の政治に新 しい風を送り込む画期的な提案ではあった。し かし,安定化・実現可能性という観点から見る と疑問が残る。ブルッキングス研究所(ドー ハ・センター)のイブラヒーム・シャルキーヤ

Ibrahim Sharqieh

)は,

GCCI

を「平和と正義 のトレード・オフ関係」であると特徴づけてい る[

Sharqieh

2013

:

5]。イエメンの移行プロセ スは,スポンサーである国際社会(主に欧米と サウジアラビア)の安全保障という関心に強く 規定されている。

2 安定的移行の対価

GCCI

における国民対話会議(

NDC

)は2 つの顔を持っている。同会議の目的は,全ての 政治勢力の参加のもと,新しいイエメン政治体 制づくりのために合意を形成することである。

暴力ではなく対話による政治だ。しかし,もう 一つ重要なのは,巨大な公共事業としての顔で ある。開催に伴って多くの人材が高額で雇用 され,多くの物品が購入される。言い換えれ ば,多くの者が職を得て,企業は多くの売り上 げを計上する一大イベントである。以下では,

(9)

NDC

の準備委員会が作成した予算案(16)をも とに,同会議の開催が莫大な雇用と需要を生み 出すこと,その政治的な意味を考える。

国民対話準備委員会が発表した予算案の総額 は85億イエメン・リアル(

YR

)である(17)。日 本円でおよそ37億円である。あくまで予算案で あるので,最終的にどのような支出が行われる のかは不明である。またドナー諸国からの支援 を期待して多めの予算案を組んでいることも考 慮しなくてはならない。しかし,この予算案か らは,国民対話会議をどのような仕組みで開催 したいのかという主催者側の意図を読み取るこ とができる。ここでは(1)代表参加者への謝 金,(2)事務局長ポストの待遇,(3)開催に 伴う雇用の3点に注目したい。

(1)予算案のうち

NDC

の開催費用が7割 と最も大きな割合を占めている。そのうちの 半分以上は,

NDC

への代表参加者565名への 謝金と手当だ。6か月の開催期間中,

NDC

代表参加者は,平均して一人当たり約38万円

(866

,

450

YR

)を毎月受け取る(18)。これは,日 本の現金給与平均(316

,

792円)よりも高い[厚 生労働省2012

,

69]。イエメン共和国は「アラ ブ諸国の中で最も開発の遅れた最貧国」である

[外務省国際協力局2012

,

280]。開催期間の6 か月間で,各代表参加者は計200万円以上もの 報酬を得る予算案が組まれている(19)

(2)

NDC

開催の裏方として事務局が設置さ れる。この事務局長の月給は134万

YR

であり,

同額の手当が別に支給されるため,日本円に換 算すると月額報酬は約118万円になる。それを 計11か月(開催準備期間の2か月,開催期間の 6か月,開催後フォローアップの3か月)受 け取る。つまり,予算案通りにいけば,

NDC

を終えると1

,

300万円近くの報酬を得る。2013 年1月の大統領令により,この事務局長ポス トに任命されたのがアフマド・アウド・ビン・

ムバーラク博士(

Dr. Ahmed Aud Bin Mubarak

である。同氏は1968年のアデン生まれで,「イ エメンの春」において実際にデモを行った若者 らと直接的な関わりのある人物だ(20)

NDC

主催するハーディー暫定政権からみれば,反体 制デモを支えた人々の参加がない対話は大きく 正当性を欠く。

NDC

の成功はドナー諸国の強 力な欲求であり圧力である。

CCYRC

(多種連 合)の顔役であるアフマド・ムバーラク博士の 事務局長ポストへの就任は,ハーディー政権に とっていかなる対価を伴っても実現したかった ものであっただろう。ましてや,その対価をド ナー諸国が負担してくれるのであればなおさら である。1

,

300万円の提示報酬の意味である。

(3)また,事務局長ポストには高給以外に も重要な特権がある。それは,

NDC

開催に伴っ て雇用される大量の事務局スタッフの人事権で ある。予算案によれば,251名が雇用される。そ の雇いあげ予算枠は約5億円(11億

YR

)に上 る。ムバーラク博士の事務局長への就任は,そ れらの雇用枠が2011年の反体制デモに参加した 若者に優先的に振り分けられる可能性を示す。

2011年の反体制デモの背景には,若者層の高い 失業率があった。彼らは,移行プロセスが既存 の与野党を中心として進んで行ってしまうこと にいら立ちを覚えている。国民対話会議に割り 当てられた発言の場は不当に少ないと感じてい る。事務局の雇用枠は,そうした不満を埋め合 わせる働きをしよう。雇用ポストは,イエメン の実体経済より高額に設定されている。また事 務局職員には各種の研修が用意されている。政

(10)

治的な意思決定においては限定的役回りのみで ある代わりに,事務局スタッフとして若者を高 待遇で雇いあげる。既成与野党が対話を通じて

「民主的」に国民的選択を形成する見返りとし て,「イエメンの春」の立役者には職を与える。

予算案から透けて見える構図である(21)

Ⅳ 体制移行を支える国内アクター

1 野党と体制の「特別な関係」

与野党協議を原型とする移行プランに,欧 米・湾岸諸国が正当性を外から付与して財政支 援を行う。このようにして

GCCI

プロセスは展 開している。しかし,この移行を支えるイエメ ン国内の要因として,野党の立ち位置,さらに 副大統領の存在を挙げたい。

エジプトやチュニジアと異なり,イエメンで は野党が弾圧や非合法化を受けてこなかった。

野党連合

JMP

内の最大勢力であるイスラーハ 党は,「実はサーレハ政権や与党

GPC

に敵対 する勢力とは言いがたい」[松本2011

:

30]。例 として,2006年の大統領選で野党連合の重鎮が 堂々とサーレハ大統領への支持を表明したこと が挙げられる。こうした関係が,与野党が移行 プロセスを共同実施するという形を可能にさせ た。今回の反体制デモの政治的発言力の増大 は,既存の与野党共通の脅威である。与野党間 の亀裂よりも,既存政治勢力と新興勢力との亀 裂が鮮明であった。2011年当初より,サーレハ 政権は,反体制デモを野党の扇動であると称 し,与野党の対立構図に現実を押し込めようと し続けた。野党は遅れて街頭での反体制デモに 参加したにもかかわらずである。ノーベル平和 賞を受賞したイエメン人活動家タワックル・カ

ルマン女史は,反体制デモを率い始めた当初,

所属するイスラーハ党の幹部から体制打倒を掲 げないよう求められたと述べている(2012年8 月14日付けマアリブ・プレス紙(

Mareb Press

))。

また野党連合は2011年2月に提案した移行案に デモ参加者(特に若者)を入れていない。

2 合意可能な暫定統治者

イエメンの移行プロセスにおいて特徴的なの は,旧体制にて副大統領だった人物が暫定的で あれ国家元首を務めていることである。現在,

ハーディー大統領は,

GCCI

プロセスで発生す る決定や法令を国家元首の名のもとに公布する ことで法的根拠を与える役割を担う。

ハーディー大統領は,1994年からサーレハ政 権の副大統領を務めてきた旧南イエメン地域出 身の人物である。また与党

GPC

の筆頭副党首 兼幹事長でもある。もともとは旧南イエメンの 軍人幹部であったが,1986年にアデンで起こっ た政治紛争により彼の属する派閥が失脚し,一 派とともに旧北イエメンに亡命した。その後,

旧北イエメンの与党

GPC

に合流する。94年の イエメン内戦の際には,サーレハ率いる統一維 持派の勝利に大きく貢献したとして国防大臣か ら副大統領に抜擢された。

ただし,大統領に次ぐ要職にありながら,実 際の政治運営への関与は皆無に等しかった。む しろ彼の役目は,旧北イエメン出身のサーレハ 大統領と旧南イエメン出身のハーディー副大統 領という構図を維持することで,イエメン共和 国に旧南北間の平等という象徴的な意味合いを もたらす程度であった。2012年2月19日付けア ル=アラビーヤ紙(

Al-Arabiya

)も,副大統領 時代のハーディーに関し,大衆的ないし部族的

(11)

な支持基盤もなく,イエメン政治において主要 な役割を担ったことのない人物と紹介する。

しかし,副大統領が唯一の合法的な大統領職 の継承者である点は重要だ。

GCCI

プロセスが 開始した際,副大統領だったハーディーは,ま ずサーレハから大統領権限を委譲される形で臨 時大統領となり,そして2012年2月の大統領選 挙において正式に大統領に選出された。ハー ディー副大統領の存在なくしては,合法的な権 限の移行は実現しなかった。

合法的な大統領職の継承者でありながら,政 治運営の外側にいたために「手の汚れていな い」副大統領の存在が,既存の政治体制を温存 したまま安定的な移行を行うことを容易にして いる。2011年に政権が崩壊したアラブ諸国家は いずれも共和制の権威主義体制であり,大統領 職の権限が強い。一般的に移行期には,この最 高職をめぐる各勢力間の「総取り」合戦が熾烈 化しやすいと推論できる。強大な権限だけでな く,暫定移行期に影響力を持つことで自らに 有利な新体制づくりを行いうるからだ。例え ば,ムバーラク退陣後のエジプトにおける,軍 部とムスリム同胞団との元首職争いを想起され たい。ハーディー副大統領の存在はこれを防い だ。前政権下で象徴的な役回りしか与えられて こなかったハーディー副大統領は,政治的基盤 に乏しく,誰も大統領への就任を反対・警戒す ることのない人物であった。

この政治状況は,1978年のサーレハ大統領の 誕生に似ている。イエメン研究者のステファ ン・デイは,30代前半のサーレハが大統領職に 登りつめ,政権を維持できた理由の一つとして 70年代当時の「利害関係のバランス」があっ たと指摘する[

Day

2012

:

89]。旧北イエメンは

1962年の共和革命の後,北部の有力部族長と,

中部・沿岸部に住む有力商人層とが政治的協定 を結ぶことで,共和国政府を成り立たせてい た。サーレハ青年は,北部の最有力部族のごく ごく支流に出自を持つ無名の軍人であった。し かし,この青年に士官学校の学費を援助し,赴 任地タイズにて人脈を拡大させたのは,中部イ エメンで商売を営む有力層であった(中には旧 南イエメンから移住した富裕商人もいた)。

当時,旧北イエメンでは大統領職者の暗殺と クーデターが続いた。再び元首職が空席になる と見るや有力商人層はサーレハ青年を首都サヌ アに送り込んだ。タイズ州の商人層は,彼らの 経済的利益を拡大できるビジネス・パートナー を欲しており,サーレハへの全面的な財政支援 を約すかわりに,元首になるよう打診したので ある。一方,北部の部族長らも,自分たちの支 流部族に属する若い大統領の誕生を脅威とみな さなかった。いつでもコントロールできる存在 として,影響力の拡大に利用できる人物と考え たからである[

Day

2012

:

90

-

94]。北部の部族 出身でありながら,中部の商人層の支援を受け る無名の大統領は,有力な政治アクターの誰か らも警戒されなかった。

サーレハ政権がそれから30年余も続くと予 想した者はほとんどいない[

Day

2012

:

93

;

佐藤 2012

:

2]。サーレハ大統領が2012年に退陣した 後,再び政治基盤の弱い人物が登場した。

3 政党による「会議」政治

GCCI

プロセスでの国民対話会議(

NDC

は, 数 度 の 延 期 を 経 て2013年 3 月 に 開 会 し た(22)。開催直前の大統領令にて代表参加者565 名が公表された。国民対話会議の全体会合は

(12)

「総会」と呼ばれ,制度全体としての国民対話 会議の一部分をなす。この総会は会期6か月の 間に3回(開会・中間・閉幕総会)開催される。

その合間に9つの分科会でテーマ別の議論を行 う。

NDC

の制度的構造は,会議そのものとい うよりも,国民対話を実施するための関連機関 を含む大きな制度である(23)

NDC

で形成された合意は憲法の根幹となり,

それに基づいて選挙が行われ,議会や政府が設 置される。

NDC

は「全ての政治勢力」が参加 することになっている。これらの参加者には,

義務として「国民対話会議の決定を順守する」

旨が定められている。このように

NDC

が今後 のイエメン政治体制に与える影響はかなり大き く重要である。ここに「対話」という形式の政 治性が顔を出す。対話形式は選挙よりも恣意的 な要素が入りやすい。誰が対話に参加できるの か,話し合いをどのように結果に落とし込むの か,という点において主催側の裁量権が広い。

与野党幹部が

GCCI

プロセスにおいて中心的 な役割を演じてきたと繰り返し指摘してきた。

この移行プロセスが政党間による合意と実施を 中心に展開してきた陰で,政党が活躍するはず の議会政治の機能は弱められている。

NDC

その主催者を次の選挙において有利に導くだろ う。「全政治勢力」が選挙前に話し合って決め た内容を選挙公約として掲げれば向かうところ 敵なしだからである。議会で政策を戦わせ,選 挙において政党が国民の支持を競う。これが議 会政治の風景である。

GCCI

プロセスでは,議 会の代わりに,政党が国民的「会議」を行い,

国民の「総意」をまとめ上げたうえで選挙を実 施する。議会政治ではなく会議政治である。

この会議政治は,サーレハ大統領が80年代に

政権基盤を固めた方法と重なる。与党の名は,

「国民全体会議」(

GPC

)である。もともとは 国家の原則となる憲章を採択するために召集さ れた会議であった。憲章の採択後は,それを実 施・監督する目的で常設機関となった。今回の

NDC

も憲法という国家の大方針を定める会議 であるという意味で状況が類似している。

他にも共通点がある。制度を書いた人物であ る。国民対話会議の準備委員長を務め,

NDC

内部規則のとりまとめを行ったのは,アブドゥ ルカリーム・アル=イリヤーニー大統領顧問

(4人委員会メンバー)だ。同顧問は

GPC

の創 立以来の制度設計者とされる[

Burrowes

2010

:

195

-

196]。政党が禁止されていた旧北イエメン 時代,サーレハ政権は

GPC

という唯一公認の 政治組織(事実上の一党独裁)を利用して,政 敵を取り込み大衆への支持を拡大させた。

NDC

は,与党が長らく親しんできた制度に 基づいた体裁をとっているように見える。与党 は,どの参加者よりも「会議」運営のノウハウ を持っている点で有利である。さらに,会議運 営の要職も最終決定権も与党が握る。

NDC

議長と副議長は,それぞれハーディー大統領

(与党の筆頭副党首兼幹事長)とイリヤーニー 大統領顧問(次席副党首)が務める(24)

GCCI

プロセスの山場である

NDC

は,打倒された政 権を支えてきた与党のトップ2と3が取り仕切 る。

Ⅴ 結び

「アラブの春」後の体制移行という観点から イエメンを事例として提示する。これが本稿の 課題であった。イエメンの事例では,治安問題

(13)

に主要な関心をもつドナー諸国による正当性と 資源の付与を受けて,与野党協議が移行プロセ スへと転用された点を指摘した。この移行プロ セスが実現可能となった背景として,野党が旧 体制と協力可能な関係にあった点,合意可能な 暫定統治者の存在(当時のハーディー副大統 領)により「総取り」をめぐる政争を避けられ た点の2つが特徴的である。また,イエメンを 安全保障の問題として認識させるような治安状 況(テロの跋扈)は,欧米とサウジの行動を理 解するうえで非常に重要である。

大掴みに言えば,イエメンの移行プロセスに は,体制移行プランに転用可能なシナリオ(与 野党協議),それを支援するスポンサー(欧米 とサウジ),そしてシナリオの実施を可能にす る特別なキャスト(野党と副大統領)が存在し ていた。言い換えれば,台本・出資者・役者が 図らずも揃っていた。

こうした説明モデルは,イエメンの移行プロ セスを理解するためばかりでなく,他の政権交 代が起こったアラブ諸国(チュニジア,エジプ ト,リビア)との比較においても示唆に富むと 思われる。本論文では比較分析に十分な紙幅を 割けなかったので,これは今後の課題とした い。体制移行という局面において,移行プロセ スの制度的原型を「アラブの春」以前に求めた 点に本研究の意義が認められよう。

その他の課題として,イエメンの与野党協議 が移行プランへと転用されたという指摘をイエ メン政治動態の全体像に関係づける作業が挙げ られる。とりわけ「政-軍関係」,イスラーム 主義勢力の動向は多くの議論を喚起している

[池内2012

; Knights

2013

; ICG

2013]。

付記

匿名の査読者から貴重なご指導を得たところ 記して謝す。なお本研究は2013年度ヤングリー ダー研究奨励による成果の一部である。

〔投稿受理日2013.8.23/掲載決定日2014.1.23〕

(1)カタルにおいて2013年6月25日に新首長が即位 した。しかし,これは反体制デモの発生を受けて の政権交代ではないので本論では直接取り上げな い。

(2)イエメン・アラブ共和国(旧北イエメン)の元 首としては1978年から1990年まで,1990年の旧南北 イエメン統一により誕生したイエメン共和国の元 首としては1990年から2012年まで大統領を務めた。

(3)移行プロセスの詳細を定めているのは,実施メ カニズム文書である。2011年11月23日付け『イエ メン国営サバ通信』(Saba News Agency)によれば,

イエメン与党および野党,それに仲介役を果たし たGCC側の3当事者が署名を行った。具体的な署 名者は,与党「国民全体会議」(GPC)側からは,

アブドゥルカリーム・アル=イリヤーニー次席副 党首,アマトラッザーク・アリー・ハマド幹事長 補(女性部門担当),アフマド・ビン・ダグル幹事 長補(文化・広報担当),カーシム・サラーム「ア ラブ・バアス社会主義民族党」幹事長,それに与 党所属のアブーバクル・キルビー外相であった。

また野党側からは,ムハンマド・サーリム・バー シンドワ(現在の挙国一致政府の首相),ヤーシー ン・ノウマーン社会党書記長(兼JMP最高評議会 の議長),イスラーハ党のアブドゥルワハーブ・ア ル=アーニシー幹事長,ハサン・ズィード・ハッ ク党幹事長,また独立系反政府派を代表してサク ル・アル=ワジーフ議員が署名を行った。その他,

仲介役を担ったGCC側を代表する形で,GCC閣 僚級評議会議長を務めるアブドッラー・アール・

ナヒヤーンUAE外相が,またザイヤーニーGCC 事務局長が名を連ねている。こうしてみると,イ エメン側の署名者のほとんどが既存の政党幹部で あることが分かる。政党に所属していない2名

(バーシンドワとワジーフ)も元GPC所属の政治 家である。つまり,イエメンの移行プロセスは与

(14)

野党が執行役を担っていることが分かる。

(4)2つの文書の邦訳および英訳は[川嶋2012; ICG 2012]を参照。だたし,実施メカニズムの条項 19-ⅵに邦訳されている「公正な分配」(p.75)は 誤 訳 で あ る の で,「移 行 期 の 正 義 」(al-‘adāla al- intiqālīya)に読み替えられたい。

(5)2012年1月21日付け『イエメン国営サバ通信』

によれば同法律は,(1)サーレハ大統領に対する 法的および司法上の完全な免責,(2)テロ行為を 除く,国家機関において責任ある職務者が行った 政治的要因によるサーレハ政権下での公的な行為 に対する司法上の免責,の2つを定めている。テ ロ行為に関する罪を除く免責とあるのは,2011年 6月に発生したサーレハ大統領への暗殺未遂に関 わった者に免責特権が及ぶことに反対した同大統 領の意向が反映したものと報じられている[Harazi 2012]。

(6)実施メカニズムの第3部20のⅲには次のような 規定がある。「本合意の双方当事者は,早期大統領 選挙において,合意に基づく統一候補であるアブ ドゥラッボ・マンスール・ハーディー副大統領以 外の候補を推薦したり,出馬させたりしない」。

(7)サアダ問題とは,ホーシー派と呼ばれる反政府 勢力が北部の山岳地域で2004年より散発的に政府 と武装闘争を続けている問題である。もうひとつ の南部問題とは,旧南イエメン地域を中心として 2007年から本格化した反体制運動である。この運 動は南部運動と総称される。

(8)ただし,CCYRCが反体制デモ全体を代表して いるわけではない。むしろ若年層を中心メンバー として,反体制デモに参加する各個人・組織間の 調整や意見集約を行った点が重要である。また GCCIプロセスが進展する現在でもフェイスブッ クやツイッター上で活発に情報を発信している。

2011年にイエメンで発生した反体制デモは当初,

ごく少数の若者によるものから始まる。これに,

経済的苦境にあえぐ一般大衆(特に若者),ホー シー派や南部運動(注7を参照),野党,部族民 兵,離反部隊が加わって拡大した。これらの勢力 はサーレハ退陣を求める点で一致していたものの,

決して一枚岩ではない。さらにホーシー派や南部 運動はそれぞれの反体制運動に与えられた総称で あり,個々に一体性があるものではない。CCYRC が反体制デモをどれだけ代表しうるかを示す資料

は乏しい。また治安上の理由から,同組織の幹部 リストは公開されていない(そのようなものの存 在自体も不明)。

(9)2011年4月はGCCがイエメン仲介工作を本格 化させた時期と重なる。声明にあるように,同プ ランは4週間にわたる議論の成果である。これが 発表された4月12日から4週間をカレンダー上さ かのぼってみると3月15日である。なぜ,この日 に話し合いが始まったのだろうか。その前日14日,

バハレーンでは反体制デモがサウジを中心とする GCC軍の介入を受け,翌15日にバハレーンでは 非常事態宣言が発令された。イエメンの反体制デ モは,現状の変更を許さないサウジの決意を目の 当たりにした。サウジは亡命したチュニジアのベ ン・アリ大統領を受け入れた国でもある。サウジ が「イエメンの春」の仲介役に立てば,そうした 保守的な態度を反映した結末をもたらすのは必至 である。多種連合の移行プラン提案はこうした懸 念と危機感から生まれた。同プラン作成の議論に は,首都サヌアだけでなく,アデン,タイズ,ハ ドラマウトなどの各州からの参加も得た。

(10)JMPは野党5党からなる連合体で,2003年の 総選挙のため前年に共闘することに同意し,現行 の体制が整った。もっとも強固な基盤を持つの は,イスラム主義政党のイスラーハ党(Yemeni

Islah Party,「イエメン改革連合」)である。また,

旧南イエメンの支配政党であったイエメン社会党

(Yemeni Socialist Party,略称YSP)も政治的なプレ ゼンスを有しており,JMPの最高意思決定機関の 長を同党書記長が兼任している。

(11)2012年1月23日付け『9月26日紙』(26 September News)に声明の全文が掲載されている。

http://www.26sep.net/content.php?lng=arabic&id=330

(2012年2月28日閲覧)

(12)「200人委員会」のアラビア語表記はal-Lijna al- Mushtaraka li-l-I‘dād wa al-Tahyi’a li-l-Ḥiwār al-Waṭanī

(英訳Joint Committee for Preparation for the National Dialogue)。2010年7月17日付けムアタマル紙(almotamar.

net)が全文を掲載している「共同議事録」文書に記 載がある。「4人委員会」は,上記委員会の議長府

(Hay’a al-Ri’āsa / Presidential Body)にあたる。い ずれも公的な政府機関というわけではなく,した がって設置法令なども存在しない。

http://www.almotamar.net/news/82558.htm(2013年7

(15)

月24日閲覧)

(13)2011年2月15日付けでイスラーハ党の公式ホー ムページにて公開されたJMP声明より。

http://www.al-islah.net/print.aspx?pagename=gen&pageid

=12229(2011年2月23日閲覧)

(14)2011年の反体制デモ,それ以前の与野党協議に おいても,これらの言葉は主要な政治イシューで はなかった。また地元メディアでも取り上げられ た形跡は見当たらない。筆者は2008年から10年ま で現地に滞在したが,これらの言葉を現地のアラ ビア語で聞いたことはない。

(15)1992年のアデンでのホテルへの爆撃,2000年の アデン港での米駆逐艦コール号爆破事件,2002年 のムカッラ沖でのフランス船籍タンカー爆破事件,

2007年のマアリブ州でのスペイン人観光客への自 爆テロ,2008年のハドラマウト州でのベルギー人 観光客への銃撃,また同年には,在イエメン米国 大使館への迫撃砲攻撃,サヌアの外国人住宅地へ の迫撃砲攻撃,欧米系石油会社や税関庁舎への爆 破攻撃が続き,米国大使館が再びテロ攻撃を受け た。2009年,イエメンとサウジのアル=カーイダ 分子が合流した「アラビア半島のアル=カーイダ」

(Al-Qaeda in the Arabian Peninsula,略称AQAP)の 結成がネット上で宣言されると,同年には,ハド ラマウト州とサヌア市内で連続テロ事件が発生し た。また同年末には,アメリカ航空機の爆破未遂 事件が発覚し,イエメンでAQAPにより訓練を受 けたとされるナイジェリア人が逮捕された。2010 年も,サヌアにて英国大使館車列への自爆未遂,

英国大使館職員への自爆攻撃,米国向け貨物の中 に爆発物が発見されるといった事案が発生してい る。

(16)国民対話会議の準備委員会がハーディー大統領 に提出した「最終報告書」には別添資料No.9とし て予算案が添付されている。同報告書の全文は,

NDC公式ホームページにて閲覧可。

http://www.ndc.ye/ndcdoc/Final_Report_of_the_

Technical_Committee.pdf (2013年8月23日閲覧)

(17)予算案の大まかな内訳は,人件費が5億円(全 体の13%),事務支出が1.7億円(5%),国民対話 会議の開催費が25.7億円(69%),備品調達費が1.5 億円(4%),予備費が3.4億円(9%)である。

(18)謝金として全員に毎月47.3万YRが支払われる。

およそ20万円である。これに加えて,日割り手当

が支給される。この手当は滞在費,食費,交通費 を含む。手当は参加者ごとに算出されるので一概 には言えないが,平均すると一人当たり39万YRを 毎月受け取る計算になる。

(19)NDCの開催現場では一日当たり100-180米ド ルを受け取っているようである[Wazir 2013: 8]。

また2013年7月26日付けムアタマル紙はNDCの中 間決済資料を掲載している。

(20)反体制デモの拠点となった各州の「広場」が連 合して結成した団体「タナウウィア」(多種連合)

にて顧問職を務める。経営管理学を専攻する学者 であり,2002年からサヌア大学において教鞭をとっ ている。40代の若き改革派イエメン知識人の代表 である。

(21)その他,暫定政府に協力する報道関係者のた めの費用負担として440人分の謝金が計上されて いる。政府が派遣する警備要員として1.5万名分の 手当が予算案に入っている。また車両20台,コン ピューターが138台,携帯電話が225台などの「必 要調達備品」がリストアップされている。購入予 定の鉛筆の本数まで記されている。これらの物品 調達の発注先が公正な入札により選ばれるのか否 かは明らかにされていない。また,これらの車両 やコンピューターがNDCの終了する6か月後にど こに行くかは不明である。イスや机の家具類だけ でも5.5億YR(2,400万円相当)分がイエメン民間 市場から調達される計画である。イエメンの新し い政治体制の在り方について,対話が国民の総意 を醸成できるかは分からないが,大量の雇用と需 要を喚起することは間違いない。

(22)大量の体制離反者を生む契機となった2011年の

「3月18日事件」にあわせた開催日である。これ は,私兵に変装した治安当局が非武装のデモ参加 者を銃撃し,大量の死傷者を出した事件である。

(23)この制度の詳細は,国民対話準備委員会の「最 終報告書」に詳しい。制度全体としての国民対話 会議は,(1)総会,(2)議長府,(3)調停委員 会,(4)分科会,(5)基準規律委員会,(6)事 務局の6つの機関で構成される。各機関の概要は 以下の通り。

(1)総会

国民対話を行う会議の名称であり,制度内に おける最高機関に位置づけられる。全員で565名 のメンバーからなる。興味深いのは,反体制デ

(16)

モは「青年・女性・NGO」に分散しているとい う点である。これらの3カテゴリーでは,国民 対話会議の準備委員会に対して参加応募を行い 選ばれた者がNDCに出られる。そのうち,2011 年のデモにて何らかの活動を行ったか否かを問 われるのは「青年」のカテゴリーのみである。

また,準備委員会がどのような基準で応募者の 中からNDC代表参加者を選んでいるのかは全 くのブラックボックスである。これについては,

反体制デモに参加した若者らから批判が出た。

総会の任務は,議長の選出・正副事務局長の 承認・アジェンダ案の決定・分科会の設置・分 科会に対する意見および提案の提示・分科会に よる結論の採択・調停委員会からの報告書の審 議・専門家への諮問・適切と認める場合の声明 や公示の発出・最終決定および最終報告書の決 議の10である。

(2)議長府

議長府は,国民対話会議議長,5名の副議長,

報告担当官,2名の報告担当補からなる。その 任務は,総会の議事進行・総会のアジェンダお よび進行案の作成・国内外での国民対話会議の 代表・参加者に彼らの責務と義務を周知するこ と・国民対話の原則や手続きの実行・分科会や 省員会の設置の監督・分科会活動の監督・事務 局の支援と監督の8つである。

(3)調停委員会

同委員会は,意見の相違がみられた際に対立 当事者らが合意可能な解決方法を生むよう調整 する役割を担う。また,新憲法による国家制度 が完成する時まで,国民対話の決定が順守され ているか監督する。(ア)議長府メンバーと(イ)

分科会議長と(ウ)対話準備委員長が(準備委 内での調整の上で)任命する複数のメンバー,

という3ブロックからの人選により構成される。

調停委員会メンバーは,少なくとも半数が旧南 イエメンの者でなければならず,全体の3割以 上を女性が占めなくてはならない。初回会合に て委員長,2名の副委員長,報告担当者を合意 により選出する。

(4)分科会

議題ごとに9つの分科会が設置される(南部 問題,サアダ問題,国家利益と「移行期の正義」,

国家体制づくり(含む新憲法),グッド・ガバナ

ンス,国軍と治安組織の再編原則,機関権限の 分立,人権と自由,開発)。担当する議題に関 する結果を総会に提出する。各分科会には,参 加勢力の全てが含まれていなければならない。

各参加勢力は,分科会メンバーの候補者リスト を議長府に提出する。議長府は,各分科会メン バーが30名以上となるように候補者の振り分け を行う。分科会には,分科会議長,2名の副議 長,報告担当者の4名からなる議長班が構成さ れる。それには,旧南イエメンの者ないし女性 が含まれなくてはならない。議長班メンバーは,

分科会メンバー間の合意により選出される。南 部問題に関する分科会は,議長ないし筆頭副議 長のいずれかが旧南イエメンの者でなければな らない。またメンバーの半数は旧南イエメンの 者とし,そのうち75%は南部運動からの参加者 とする。

(5)基準規律委員会

国民対話会議の規則が破られた際の解決を担 当する。司法と行政を専門とする善良な人物7 名により構成される。国民対話の参加者以外の 中から対話準備委がメンバー候補を選出する。

同候補リストは,議長府の初回会合にて承認さ れる。

(6)事務局

対話準備委がメンバー候補を選出し,第1回 総会にて承認される。事務局長,2名の副議長 を筆頭とする。事務局長は旧南イエメンの者が 務める。国民対話会議の実施に伴う事務を全て 所掌する。

(24)副議長には,その他にも,イスラーハ党のアブ ドゥルワハーブ・アル=アーニシー幹事長,ヤー シーン・ノウマーン社会党書記長など5名がおり,

副議長が計6名の体制となっている(2013年3月 18日付け『イエメン国営サバ通信』)。

参考文献

〈日本語文献〉

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参照

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