われわれは既に輿えられた梯会において︑人間生活0存立に関する山般的規定粛としての時間と基間を取上げる
ことたより︑人間生活が時所的制約に立つ具体的・現実的なるも0として理解せらるべきものたる所以を明㍉か匿
した︒⁝ それは生宙の出発点において︑何よりも兜ず肉体をもつ現実の活動者として︑換言すれば﹁生存﹂\のた
あ訂基線たるべき諸欲求むもつもqとして存立する︒かかる欲求は︑生清者の生命白体を維持し且つこれを限りな
く伸張せしめんとする生命そ①もの0属性紆隠ざすものである︒この基礎的欲求を充足するために︑人盗竺次的
覧春に必要なる目的物を獲得せんと
日軋物への欲求へと発展すると共に︑直接生存のため0目的物の敵将においても︑なお単純に生物的欲求を充足す
るⅤとどまらず︑そこに慣借的なるものを創造してゆくところに︑生活の意味的展開が認められる︒
生活が意味の表現であり慣値実現b過程である娘や︑人間生活は規範たる慣佑を中枢として︑種々なる生望息味
の側面が展開やられ︑人は藍たかかる生絹︵冬化的生活︶の発展と醇化0ために︑⊥切の努力を傾注するのである
が︑′かかる文化胡坐沼あるい絃また腰孟宗れる構紳盆暗わためたも.ほとんど例外なく何等かロ手段たるべき日
経臍及び琴臍亜清 経済及び経済生活
済 て︑経 大 ⊥晃
第二十苧巷∴賃■訟
仙r
二
軋物ン必要とする︒川 精神璧描と物財︵目的物︶′と警藤根本的なる考察鱒︑行諭の展開と共にその取上げらる
首姐当なる植野患いだすであろうが︑精神生活が目的物允る物財と不可分の関係常立つと観るわれわれ鱒理解
①基調絃︑実に﹁生汚﹂を以て︑馬匹観念世界のみ忙は存立し得ざるものとし︑これを地上に潜げる肉体的存在¢
活動表現に在るとなすところに存する︒この基本的認紘が︑何よりも先に生活の存立とそれの持続拡充¢食めの目
的物を不可炊的要件とする0である︒
贋く﹁磋済﹂一と言われると針︑その合著する意煉は必ずしも一義的ではない︒われわれは時に人間の個別的なる
活動について﹂これを経済として理解する︵経済行馬︶︒時にはかかる経済行啓の総体を以て経済と名づ触る︵メ
ンガー︶︒そ灯場合には︑意志的なる経済行為の綜合としてのノ叫般的なる現象が観察の対象に取上げられるであろ
ぅ.違済現象︶︒経済を客観的現象として把挺するときには︑
ことも可能と貪る︒
﹁経済﹂ロ意義がかくの如く多面的であるとしても﹂その基調が二販に人間の生酒に必要たる目的物との関聯愕依
屏し︑こ0甜聯0側面む取上げて︑われわれはこれを贋く湛準こして理解することにお︑いてはそ?軌む叫にする︒
一般た経済が︑先づ生活に必聾なる物資︵財︶の位相めるいは調達という角度かち解明せら経るQは︑これ
で臥・る︒けれども生活巨豪勢なる物資の獲得調達というヱとは︑むしろ﹁放生物的欲求に義礎をもつものであり︑
尊命庖維腐と拡充の食め0目的物鱒逼或は︑あらゆる生物王共通するもbであるから︑これのみをもつて階ちに人 間の簑覧誓﹁賢憲警透くすこと笑品る︒従って人間芸覧竃特に経済な場面が取
上げられる滋めには︑そ乞軋︑人間生活にとつて特質たるべき契機の存在が明らかにせられねぼならぬ︒われわれ
点これを︑次の三点において把挺し得ると考える︒
第一は︑生活の棋基たる人間生存を軋階数らしめる基本俵件としての︑目的物の必畢でわる︒ごれは既に指摘し
た如く︑生物的布各としての人間生活b存立打開する表的基礎傑作に外ならぬ︒すなわち現実の生命保持者たる
人間︵生活体︶が︑先ヂそ①有事を可能ならLむべき忍底で鷺︒生命侍は免ず何よりもーそゃ生命白虎あ癒持と
∵意義充発展とを嬰求する︒従つて叉こ・0目的0たあい必要跨る対象が欲求せられねば放らぬ︒衣食住はこのよう
な目的物0鰐﹁次郎必要性堅ボすものと言われよう︒
生命自称b内面的傾向が︑本凍触感潤長をそむ属性とするものである限り︑かかる生命を持続し発展せしめる匠
必要なる・條件として0日的物も︑無限に過食せられゆく傾向に在ること絃必然である︒この串実は個体としての人
間匡とど変らず﹁ゴツトルの考察虹従って人間共同生活を政会構成体として魂解する場合トおいてもまた同株であ
るヤ敵会構成体は能動的流劃体︵wirk昌d命Ein訂it︶ としてや翠蒲体でぁり︑流㌻酒動?持統計特性として生
活するも①であるとせられる以上︑ふかる構成撞もまたその持統と存立0た警ト︑必要なる目的物を限牒なく欲求
すべき本番的傾周に立つと観られぬばならぬ︒経路暗かくて︑生活の存立可能のため.り韮東的要求にその基調が桟
た㊨ることむ認あられる︒
琴・置︑然らばかくの如き寒本條件が︑持忙.経済という特質において理解せみる契椀は︑如何な.る研粧存する
巌︒われわれ渉ここで夙に経済学者鱒よつて別放せられてきた経済の基本事実を顧みなけれぼならぬであろう︒紆
富すれば︑欲求の顛限性に対する目的物の有限性の矛盾これであ
通常︑経済生栴○ための対象たる目的物を財どして理解するとき︑かかる財が欲求と共に限りなく存在し得る場
合む特に非経済財︵自由財︶として区別して︑われわれの経済行為0対象から除外する︒それが縫済行為の対象と
/
なるの絞︑特定なる状態においてである︒㈲
窟臍及び怒番生活
四 夢二十こい怨 箪仙批
鮎蔽憫長社内鱒的額面とする生命の番舞に依存する生酒夜︑′そのために必要なる目的物を等しく無限に欲求す
る︒若しかくの如き臼的物がその野鳥畳とにぉいて︑何等の犠牲の鹿供もなく常に限りなく存在すると仮定すれば
々こには経済として取上げらるべき生活側面は本兼存在L得ないのである︒かかる場合には︑人は目的物①獲得調
達に率いて︑何等の配慮も努力も必要とせず︑ただ飽くまでも生物本能の赴くがままに目的物の寄発む焉し得るか
らである︒
若し山切の生碕必螢財が自由財となつた場合む想定するときは︑・われわれ\は今短の人間の理解力に診いて︑︑そこ
掟なお具しで人間生清自体が存立し得るや否やに炭塵きむ得ない︒薯上その場合にむ敵忠人問生括ありとすれば︑
それは今日の人長の理解とは会く平面を易にする次元におふてのみ理解さるべ普種類のものであり︑今日の知性匹
もとづく人間生活の塩解とは本質的に興るべきものであろう︒その時にぉいてこそ︑われわれは文字通りの意味に
おいてのユトーピア0出現を想い得る︒けれどもかかるユトーピア濫おいて︑今日まで人間生活として仙切の意味
を有してきた人間の営為とその成果とが︑具して如何なる意義む持ちつづけるかは想像に苦しむ所であか㌢.極言
す
向としてもちながら︑現実匠は有限にして不完全怠る肉恥的存在の中佐のみ︑生命が体現せられざるを得ないとい
う人間集荷にまつわる必然性が横たわる①ではないであろうか︒人間①日常行焉におぼる規範とLて0諸々の徳性
の如き㌣かかる基底と蝕関係たり得るであろうか︒この基底に係わらしめずLて︑われわれほ努力・勤勉︒節制
等の如き日常生活に体験せられる徳性は固より︑更に逸んで宗教的要求の如きに奉るまで軋も理解し得るであろう
か︒
生清Q棋本的親晃が︑本諌右に述べるが如きものであることかそわれわれの生活には根底忙恕.いて矛盾の存在
することが認められ︑そうして︼切0人間晴助は実にこ0矛盾を契機として発現することむ知らねばならぬっ
生商するものはその本兼的欲求として︑触⁝限の伸長を内に職する︒ここに欲望匿おける無限性0棋基が認められ
ねば私らぬ︒かかる欲求は︑数と畳と〇二面忙患いて考察せられるであろう︒固より叫定つ時点においては︑欲望
漉をの満足点を発見するであろう︒けれども本釆無限伸長を契機とする生活体は︑常任新た叶右欲望0反萎むもち
むの意味で欲望は無限であると親られねばならぬ︒更にま変数畳に患いての満足は︑質への輪換へと途を拓ぐであ
ちう†質へ0欲望追求について︑われわれが何等かめ限界汝想定するこ七は経とんど不可能と言わねぼならぬ︒こ
の事実はわれわれか嘗つて取上げたる﹁差別への畢求﹂の問題に関聯せしめるとき︑仙暦の深い盛解が興えられる
せあろう︒∽ ﹁差別への費求﹂がその究梅にぉいて個性自体の性格を形成するものであり︑そこぬ軋た人間努力の
限りなき持続の契機を謎めるとき︑欲望の無限性の根塞が人間本質に係わるものなることを知るのである︒そうし
でとの欲望無限性が質的なるものへと靂展してゆく所に︑実転入間生特における文化の形成とその不断の展開とが ノ ものではないで掛ろう︒偶人の資質・鹿茸︒道徳心等が︑寡慾・惜鱒︒密費等を生活態度として表現することは應 理解せられ脅われわれが︑輿知られたる文化財のうちに常に満足と極限とを見い出し得すして︑絶えまたき弁証 漁的な遊動過程を継続してゆく所以のものも︑実にこの本渡的なる欲望無限性の根基に存すると貫い得るであろ えノ0
欲皆の無限性に関する命題軋対して小説実の個人に関して底必ずLも戯らずとの抗議は︑問題を正しく理解する
々見るところである︒汐れどもこ①ことは︑生命の本瀕的なる額限伸長の傾向従ってまた欲撃の無限性と矛盾する
ものではない︒欲望無限性の命題は︑生活自体に内在的豊苧わば自然的︒先天的傾向を示すもαであるのに対し︑
庶病態度に翠ける琴慾︒節度等の課題は︑生清0慣偲的なる営薦の問題として︑その中回教異にするものだからで
\
五 経済及び′磋折盆消
/ 第二十三稽 第咄睨
\
L︑ 爪ノ
ぁる︒あ牢かも琴本主義つ経済体制匿おける企菜む特色づけるのに︑営利追求を以てその性磯となすとき︑之に対
して魂実個芸全霊還必ずしも利恵にのみ払われるものではなく︑反つて博愛仁慈芸の在るこ
することが失当であるのと同然である︒問題は個人む特殊なる性向︒賛性に凝る盲は貪くて︑こ野望琴本主義放
る掩刺そ①もの0特質に係わる冨偽る︒欲望醸限他の理解もこれと同様で為 る︒何びとも或る偶人の自殺行為を
以て二疲的傾向として①生命p鰊限伸長怯む否定することは許されぬであろう︒
さでぉくの妬き欲望の無限性に対し︑これむ充足して生酒の実現を図らんとするため・には︑そのために必要なる
目的物即ち手段が限りなく要求せられねぼならない︒然るにかかる欲求へ′0首的物は一連常その貫と畳にぉいて限
定せられている0が現実である︒ノ人が何等ひ努力濁犠牲も沸わずして︑必常とする目的物を限りなく享受し得るこ
と抵寧ろ例外であり︑姦しかかる状態ありとすれぽ︑そこ五は謂う朗の経済は本来存在し得孜いのである︒
人がその生宿営薦0ために必穿とする欲望の充足に対して︑要求せられる目的物が質蟄的に阪宋せられて居る現
実貰いてー始めて経済と貫完る生活①側面が成立する降車る︒経済生活の根本的理解は︑如何なる場合にも︑
ガ ヱ0路頭的事実に俵存すると言われよう︒ウエーバトはこれを説いて言う︑﹃最も観念的な欲望の硲足にぉけると ・■
同株に︑・貰わ・れ
謬grenN訂it︶と質的不足︵d甘琶彗ati克己nz鼓ngli辞打eit︶とに衝き当ること︑これが充足①ため払は︑計画
的配慮と労働すなわち自然との闘寧と人間同志の結合とが必畢であること︑このことが甚だ不正確な表現ではある
が︑︑われわれが最厨義にぉいて﹁祀会経済的﹂と放する二別の現象佗結びついている根本的事実なのである﹄と⁝
メンガーはこの根本的事実を吏に精哲に規定する︒すなわち人0欲望は衝動に依存し︑筒動はまた人の東低に断
とづく︒従つて欲望の満足は︑人が﹁生き且つ栄えること﹂敬意醸するも①であり︑をのための配慮は生命及び棺
\ヽ \
祉に対する配慮と同義で一ある︒さればかくの如き配慮は︑われわれの努力の申にて最も盈要なものせあり︑詔仙二
好の勢力の前提となり基礎と打るもひである沌それは欲望畝拓足せLめるむのを︑そ①支配下に海とうとする努力 ︑
⑳ 忙よつて表現せられる①である︒いま︑人がその欲望温足甲ため疫必要とする財の数螢を需求︵謬da丘と名づ 伊るとき︐かかる需求が人の支配し得べき財0数量よク大lなる場合が生する︒そめ場合に︑人は如何なる態密むと るであろうか︒
人蜂その場合︑かくQ如皆数量関係貯在る財ゐ如何なる部分畳をもその支配下に置かんと努ガし︑その部分畳ゐ
● 有用属性む鮭持せんと努力し︑不十分なる財?支配畳を以て満足せしむべき詔欲望に︑つき︑その間の悪質性敬此奴 して敢掩速鋸祀努力し︑そうして紡鹿匿お小こ︑かかる財の興えられたる部分畳を合規約に使用Lて最大可能の致 果敢牧め︑曇た最小可能の数盈む以て這芯成果を待んと努力するのである︑︒かくの如き目的打向けられた人間行 為の癒怜を︑メソ∴刀−隠﹁人間の湛済﹂と名づける︒即
これを褒する町人閉会活における痙済.なる蓼実は︑孟におれて人間良縁自徐に内草する欲望①無限性と︑他面
に隠之を充足すべき目的物︵手段︶望僧院性︵晩発性︶とが交錯する点に立って︑人間がこの相零れざる現実に︑
合瞥的判断匿基づく行償決定宥として立ち現われる所笹始あて認あられるのである︒
第三聖経済は全体関聯性に立つ理解たるQ病質をもつ︒個別的なる崖済活動か︑版襟には罫独酌︒断片的なる
閲聯轟き存在で扮孜くて︑ひと一つの生活体の秩序と流山ある全体的経済生活に係つてのみ意昧をもつもので・めると
き︑かかる経済荷劫り船体が窺済として理解せられるのである︒前述の如く︑メンガーが経済をもつて︑持定の眉
的檻向炒られたる﹁人間行馬の総体﹂と言い︑あるいは﹁重体の目的に従属するところの経済行動0刷体﹂ ︵高田
保罵博士︶と称せられる所以は︑異にこ甲全体閑嚇性を意味するものと貰われるであろう︒
/
経済及′び擢終盤活
入 夢二十三食 酢﹁睨
山腰にあれわれが何等か一定の目的を設定する占き︑︑これ敏速成するため﹁必嬰琴鳥手段︒方法む﹁技術﹂と
して理解する︒ゴ吋/トルによれば︑∴技術は目的への忙しき方法0術ハdie搾unstd禁reCht昌宅eg伶S琶βNweck︶
畔地ならぬ︒∽ 輿えられ食え二二軍目的が現実化せられるためには︑そD具現のための計慮と実践がなければな
らぬ︒若し人が合速的なる判断に基づく行馬着である限り︑人は能う限り汲小の梯牡を彿うこと檻よつて︑同仙目
的を達成すべを過程を選択するであろう︒所謂﹁最小労費の原則﹂匠外ならぬ︒目的と手段とのかくの如き関係に
率いて︑技衝.甲意義が理解せられる0である︒
才 之に対して経済ほ︑手段と0関係匿おいてQ目的の設定それ自体を意味する︒欲望の無限性換言すれば晋図する
目的の質盟約触限定と︑手段0限定性との交錯点に立ち︑有限なる即ち血走なる手段によつて︑無限定なる緒目的
が制約せられる関係において経済はそ0経済たる意表教示すQである︒ここでも人が合理的をる判断に基づく行
盛者である限り︑血先の限億せられたる手段によつて︑.可及的最大の欲望充足歓実現せしめんとし︑最良の成果を
盤得せんと配慮するに相違ない︒所謂﹁政大勢展の原則﹂︑匠外ならぬ︒
限定せられたる手段によつて︑無限定の目的達成が企図せられるとき︑そこには︑種々なる目的閤0選択が行わ
れねばならぬ︒かくの如き選択決定が︑目的達成のため匿必要とせられる手段︵首約物︶と0関係匿恐いて観察せ
も
生活自体の規範たる慣値に外ならぬ︒かく.の如き磯範たる債倖の体系は︑序階的に秩序づけられ且つそれぞれの生
活側面にお宅︑その特殊なる分野忙関する体系む形成するであろう︒入が日常の生活営篤において︑その行馬を
決先し実践に移しゆくと室︑かかる生活実戯む具体化してゆくものは一個別的事態忙処して0人の慣侶判断であ
る︒倫理的・宗教的・実的・利害関係的・階級的等そ心他あらゆる合理的並に非合理的基準が皆導者とし濫作用す
る︒′従つて︑かかる諸目的の設定は落ち忙経済む意味するものではない︒それが経済関係としての側面を表現する
に至るのは︑目的の設定と実践の決定にぉい.て︑必要とせられる手段との関係軋嚢つて把捉せられる場合である︒
療訝多様なる慣値基準に藤合して生活ひ具体的設計が形成せられるときに︑そ0実現のための不可快なる手殴が限
′簸せられて居りー想定又は意図せられたる諸目的の﹁切をそのま患に具現し得なぃ立場に立つとき︑ここに手段の
由定性に
さて︑手段0限定性による目的の制約が行われねぼならぬと針︑このことは︑凌休閑聯の組野に立ってのみ可能
なことである︒個別的な目的と︑それ咤対する手段との技術的関係にぉいでは︑その決定は許されな㌔ 血つの目
的が許容さるべきか︑或い挽これを地襲断念すべきかの決定は︑諸目的に対する金手段0閑聯においてのみ可能な
ことである︒若しかくの如き全体関聯怯む均衡ど名づけるならば︑経済は諸員的の均衡的決定にむ0意味をもつと
替わねばならぬ︒山人の母親が滴場において︑∴初め0計画/に絃存しなかつた新たなる叫つの目的に遭遇した之き︑
例えば菜しい玩具を見い出して幼児の看びのため町購入を肇慮するとき︑彼女のこ0新たなる目的設定を塘等した
ものは︑経済ではなくて︑母の予町村す聖情愛というが如をものであつたであろう︒けれども︑この設定せられた
る目的0達成に対して︑彼女は二面の考慮踪直面せねばならぬ︒第叫にはこの玩具む入手する資力の問題である︒
来し彼女が他の目的骨髄来するときは︑これ檻支沸い得る嚢カを所持するとすれば︑この日的に関する限・ク︑それ
政敵術的・には達成可絹なる目的と普nい得る︒けれども第二にこの玩具0入手によつて︑地秦せられた他の何れかの
目的か達成不可能となるとき︑彼女は他の諸目的を無視Lてその購入む決定することは許されない︒疲女0支配し
偽る会費カが緒目的に対する全体関聯的考慮にぉいて∵初めてその取捨選択が決定せられねばならぬ︒それはとり
\1且11
も患おさノ腐全体関聯においての均衡的考慮である︒一つQ目的設定が︑それ自体として箪独に成立することを許さ
協
九 鮮臍及び経済生活
/
\
山○ 第二十三巷′第仙把
れずして︑全体関聯にぉいて始めてその存立が考慮せられる関係にぉいて︑経路空風表が存するのである︒ゴツト
ルによつて︑経済がひとつの全体を形成する敢会構成榛として把捉せられ︑休儲的生起が欲求と調達との持洗的調
和の精神笹患いて︑意味ある全体む形成するところに庄済の理解を凍められることも亦経済の全体関野性として取
上げ濁るであろう︒個別経済として0家計や企亮についてと同祓に︑これ嘗を構成風位として形成せられる結合経
済についても︑この関係は等しく認められる︒この場合にぉいては︑個別経済阜のものの在り方が︑1図民経済の金
棒閑聯性において植協て理解せられることになる︒
さればま琴ガイケンは言う﹁各企菜及諒各家計がそ0戚成部分たるに過ぎない所の︑経済の政会的全過程恕亦統
サ由過程である︒多種多様の欲望充足のため0生産化凝Ⅴ︒生産の時間的構成︒分配過程・這技術心利用及び経済
Q場所的秩序は︑ひとつに凝結する︒すべては眼前り財貨挟芝草私服するため些発露する︒さればわれわれは︑個
ヽヽヽヽヽ 々人の日常経済生酒−を理解するため好も︑この全体の関聯を追求する①である﹂と︒
上釆偲べるところによつて︑われわれは経済望息羞に関する最も基永的なる規定を明らかならしめ得たと信ず
る︒経済は欲望の無限性と手段0限定性①交錯する点にその表現¢﹁場﹂むもち︑而も全体図聯性に立っての計旛︑
的行為で曹ぺそこから結合的全体としての経済現象が構成せられる︒
かくて如何なる目的Q達成追求であれ︑そめために限定せられたる手段を要求し︑しかもかかる手段む︑生活の
全体図聯低空且って合理的割当を行う必袋疫迫られるとき︑乾こ掟は必然に経済たる側面が見い出されると言わね
喋.野らない︒従つて︑そQ手段が有形たると無形たると榛︑本質的には間腐たり得ない︒一般転任済及び経済生宙
の理解忙患いては財と0閑聯が先ず敬上げられ︑財には有形財・無形財の別あることが明らかにせられ︑而も無形
財といえども究極にぉいては有形財と閲癖恕有すべきこと︑或いは一定の貨幣慣嘩躍よる大きさ上して表現せられ
ること碇よつそ経済の対象と宕られ渇のである︒けれども経済の基調が上述するが勃きものであるとすれぼ︑手
︑段たる計的物が何で訝るかは︑経済望墨自体に鳳何等紺係するところではないのである︒知新なる手段であれ︑
−飲望充足町村配して限定せられたる関係軋立つ広と躍よつて︑そこに重体関聯的なる計恩を馨求せられるときには
ここに経済の事実が存立すると言われねぼならぬ︒一般監苧われる時間の経済はその山例である︒刑 或いは叉訝
れわれが種々なる労抜作東に対して︑労力を充当せねぼならぬとき︑限定せられたる目已?全労力老兵恵る.諸作業
笹対して︑如何躍合埋酌に割当てねばならぬかの配慮佐立つとき︑重しく経済の関係が捉えられるのである︒経済
の意義に関するかく?如き基本的理解からヾ次の二つ0盈要なる事項が明白となる︒
そ讐は︑経済と経済生活との級別である︒叫般に経済生活は宗教生活︒疎治生蘭ナ文化生活等稜々なる儀括側
面爪二つとして取上げられる︒かかる場合檻患いての経済生活は︑壷楕に必要なる物資︵目的物︶の鎗得調達に閲
す︑る脚側面歓形成すると観られる︒換言すれぼ︑祀余生招にぉいて︑物資の′痙得調達というひとつの関係領域を抽 つ 出し︑この生活側面む経濱生満と規定するⅥである︒汐だし乙の関係領域匿おいては︑上述したる経済という事実
がr蒜警義的のものとして要請せられるからであ/る︒これ町村Lわれゎれの埋解にお汐る経済の囲係は︑ひと針
所謂経済生活ぬ限定せられるも①で抵ない︒宗教︒政治︒宰化等諸他の生活風おいてもJそれぞれの生活において
そこで0良明を達成するために筍く為何等かの手段が必要とせられる限塞かかる手段む目的藩威のために充当し
よう主㌻れば︑合理的なる全体圃聯的配慮が要求せられるであろう︒その限りにおげて︑そこには経済の関係が必
飾に結びつぐことむ知らねぽならぬ①である︒更正二歩を進めれば︑現実なる生活の実践において︑手段の媒介を
もたざる生旛表現は︑ほとんど考え得ないところである︒純粋に観念のみの生活︑純粋なる精神生活というが如き
ものが如何なるものであり得べきかは︑われわれの想定む起えるも\のと言わねぼならぬ︒信仰による悟丁度の境地
山叫 擢済及び縫搾′魚拓
璧宇三舎 笥表 芸 を香淀するも筈隠ないけれども︑それが生満とし芸意味をもつのは︑肉体の保持者にぉいて現実の態度歓決意
させる時にばてである︒われわれ匠よる登準じ理解がー肉体的なる地上宝ハ休的人間においてりみ可能なること・を
予定する罵り︑生柄はその根底において肉体なる手段を予定しているのである︒手段なき生括ほ二般にはほとん
ど考え得ざる桝であ・ク︑こ0よう窒息昧濫おいて種々なる生沼側面は︑そ0表現に当つて経済山形式に従う︑ことを
説められぬぼならぬことになる︒﹁生活望改硯形式としての経準﹂という課旛が︑改めて問わるべき契機をここに
於衣せしめる︒
そ〇二は︑経済が全体閑櫛他に於て理解亘らるべきことより︑これが癖に経済生活なる生活側面に限定して考察
せられる場合に︑そQ領域における経済的活動並忙経済的現象が︑そ?本質む理解せられるに当り︑迩除関聯的に
めみ可儲であること望遠である︒経済活動藍たはそ0現象0水質鑑理解せんとするとき︑これを全体の関聯より
遊離して理解せんとすることは︑経済が本木全体関聯性を予定するものである限り安当ではない︒全体と空尉聯た
′患いて有すべき位遷∵換言すれば全体を應放するために有すべき﹁終夜らき﹂即ち撤鏑の理解にぬヤて︑細めて毯
々なる形感の経済生宿が︑そ0本質把振を可摘ならしめられると言わねぼならぬ︒本質追求佐あたっての概緒論的
理解の契機が︑ここに伏在する︒
︵1︶ 拙棺﹁生活の現実態に関する基本的考察﹂本誌第こ十谷野︒三祝
︑〜 八.エ ′P貴君s2nundGrundb2gri芳d2ニ宗宮g−−∽・甲みプットルは騒紡が単に衣食住のための配慮東とど祭らヂ︑
椅紳生活例えば紳串Kも関聯すること︑即ち数台を療て宗教家を扶持せねぼならず︑教会や借着国体の行革には支出を負
租せねぼならぬ如く︑事術的︒知的︒敢炎的等あらゆる人間の聾求・に経済の支援の必嬰なことを指摘する︒
丸谷琵滞﹁経済生清の本質及現象形態﹂ニ四1ニ五菜
︑経 済 生 活
経済の基本観念が上述するが如をものであるとすれぼ︑′空清にぉいてかくの如き関係む表現する側面は︑これ甘
済く経済生活として理解せられることは︑論理的には正当であると言わねばならぬ︒日梗とする究極低値が如何な ︵サり︶C・Men薫いG2nds紆2d2rぎ芹swir−s計ftsぎre﹀の・琵㍗
︵安井琢磨訳︑メンガ1﹁絃臍革原理﹂五入寛以下︶
︵4︶ 前出拙禍︵勢三節﹁差別への蓼求﹂︶ ′′
︵5︶M●竜e訂rいG2いヨme訂Aufs紆e2≒ノ宗sensの藍落ぎ2︸S﹂票G邑ずa・〇・S・?し?にょれぼ1
﹁われわれが駆望するものと︑それ芸能なるものとの間には︑異本的な矛盾が激化される︒それは欲求と封建との問の
永久的な緊張すなわち処分し得るものの映乏に基因するものである︒放忙︑それほまた調達をめぐつての欲求の関学の凝 ヽヽヽヽヽヽヽ 塵である︒けだしわれわれの実際附戯空でさえも1親本的には決して限定さかるものでは甘いからである︒それは願茎が
際限ない︵mass−①S︶というのではない︒畢に殿望︵彗ぎ︶としては︑限界といぅ︒とを願る︒とのない〆﹂であ野︑ ヽヽ すなわち≡
うに外ならぬことである㍉言こではJ苦ロenのUnbe篭蔓許什と長㌢膚nの厨琶註eitとの矛眉の現実が猟綱
せられる︒
﹂︵6︶ C.Me感erいa.a.〇こS\山岨﹀S・畠1・諒 ︵安井訳三〇︑四九−煮○京︶
︵7︶ GO邑いぞa・〇こS・︼?−︼料
︵8︶ 尋.Euckcn山DieG岩邑agen許・Z警i計a−∝粁OnOmieVS・べ︵戯訊﹁開民磋臍学の基本閻題﹂十十1十二貢︶
櫨済及び鮫済度活
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一四 第二十三巷 第.側壁
るものであれ︑それの実現のために目的と手段との関係が必要條件と甘られ︑これむ全体囲聯的に決定すべき必然
性に迫られるとき︑かかる生活b側面は即ち経済生偏\に外ならぬのである︒
ただ︑通常︑かくの如き生活側面の汲も明白忙して且つ盈要なるものは︑山般に生活に必要なる有形財及び有形
財との関係を保つ無形財む対象とし七把拇せられるノが故に︑経済生滝は物財む対象とする生活側面として吸上げら
れる①であ誉従つて義には︑生括に必要なる目的物の生産︒流通及び消費を目的とする生活側面を経済生活と
して理解することは︑二願許さるべき所であろう︒雄
経済生澹が︑かくの如き意味にぉいて0生絹側面と域鱒せられるとき︑先ず最初打明らかにせ︑らるべきことは︑
それがひとつの生括として理解せられていることである︒生活の意義が既に論究せられた所にょつて︑慣鰭の実現
に在りとせられるとき︑経済生清が生活として存立する限り︑等しくそ0領域にぉいてp慣借の実現がなけれぼな
らぬ︒換言すれば︑経済生清として叫應独立に観察せられ牒ひと?む生活分野に患いて︑経済生酒葵現わだめの経
済活動が︑その領域において意味を負荷するものでなけれぼならぬ︒厳に言襲を換えれぼ︑経済餐活という自己完
了的領域が取上げられる限・り︑その領域においての人間活動すなわち経済活動を︑指導し統括するための規範たる
ぺきも0が存在して︑それが経済生活の中枢とLてこ0生活分野に統叫的秩序を輿えるもじでなげれば魔らぬひで
ある︒然らざる限り︑経済生活として自己完了的な計生活分野む想定することは不可能だからでる︒
経済隼活に関するか■かる規範む仙般的に定立せんとすれば︑経済的低値或いは経済的浮草帽祉というが如き理念
によつて家現せられる0が通常である︒けれども恩に級済的偵憶乃至は厚生ということ自体は︑山個0儲念たるに
とど怠り︑異体酌内容む示す軋みで′ほない︒これに対して現実的なる内容別約む輿えるも㊥は︑二卒の歴数的怒る
傑件においての諸関係に外ならぬ︒例えばこれを︑魚水の生産となし︑或いは平等なる分配となすが如き︑更匡或
いは経済風位①括勤基準を営利追求と見るが如き︑これ等は何れも叫定の催件下における具体的規範ひ双発と見ら
れる虻かかる具体的規範や妥当性については︑轟に﹁生活規範の問題﹂として考察する所があつ牽放吟ここで絃之
を摺蟄︑ともかくも嘉基準ひ定立があり﹂それに係わら七められて経済滑劫並にその綜合たる経済現象が意味の
表現として理解せられる限・ク︑われわハれはこの生括領域む︑経済生括せして蘭他の生酒と対比し得るこどに怒るの
で香る︒勘
経済生活は人間生括竺側面を︑観察のために思惟的擁作によつて取上げたものである︒これを叫應諸他む生活
側面よ.り切り離して︑自己完了的領域として観察するところ檻経済笹括の分野が形成せ1られるのである︒けれども
かぐの如沓生活の二側面む抽出することによつて二應自己完了的な分野計構成し︑そこにおける生酒関′併を観察
することについては︑十分なる警戒と用意とを以てなされれ虻ならぬ︒何となれぼ︑後に↓生活0不可分性﹂とし
て辞野鶴る如く︑巷括自体略本来会叫不可分のものであり︑譜多の生活の総和として合尽せられる針芸はないか
らである︒従つて︑経済生活がひとつの自己完了的分野として取上げられる場合にも︑それほ思惟による仙鯨0理
解であつて︑現実に嘩警宗がそ鱒他0謹直議と並列′いて或い埜肌後して存在するものと解されてはならぬ︒至
なみ人間埜宿敵︑特定関係0契礫により抽象して構成せられたる領域が︑経済生瀬左して炬観察対象を形成すかの
である︒ゴアトルによつ蓋ハ同生活が不可分の凝議とせられる所以もこごに奉る芸あり︑最鴻憤霊感られね も ぼならぬ点である︒
感済生晴が一監呂完了的な統一ある生活領域として観察せられると嘗︑盛忙も述べるが如くそこには先ず何等
かD経済的倍偲を規範とする︑経済治効の王体が存在しなければならぬ︒︑すなわち経済生活り主体による活動が︑
そこ紅何等かの意味を表現するもロでなければなちぬ旬かかる意味を職能給的立場に労い七本質的に把捉せんとす
山五 統漁及び縫済度満
第こ十三巷 第叫取 ハ
ることは︑われわれbやがてこれを展的せんとする企凰に属する︒それに先立ちここでは経済政治0構由正ついて
の分析が兜す輿えられねばならぬであろう︒
現実に一切の生活の中枢に立つも0は︑生命むもつ個々人であること墜一員うまでもない︒けれども共同生活忙在
っては︑かかる個体がそれぞれ箇独に存在するも0ではなくて︑贋狭綴々の共同生括の形成において︑現実0生活
が可能ならしめられるこせは︑生晴0解明についで既に明らかにした所である︒㈱
経済生活についても︑この事実には変・りはない︒日常経済生活ゐ分卸を二樵茅れだけに限定して観るとき︑経済
活動0個別的逮行な究極に実践するも0は︑個別的なる経済省には相違ないけれども︑かかる経臍括勤者は⁝般に
は︑箪独①偶人として布衣するものではなくて︑経済領域忙おける叫党活動0笹絶として関係づけられているので
あるごJこにわれわれは経済活動め事体として︑或いは叫般的経済現象を形成すべ尊称成箪位としての経営体む認
めることに放る︒川
﹁ 個人中洞発行薦d如きは︑なかんずく個人箪独的な性格0著しい場合として観られるかも知れれ︒寄実ひ去り0人
がその許され得る限界の内で︑如何なる滑費選択む行うかは原則として塗く彼の自由に属する︒けれどもその﹁許
され得る限界﹂q内でという阻捉そのも0が︑眈に鹿高かかる消費自由の根低に存在する−乾酢約聖不唆するであ
ろう︒これを新約するものは︑叡が家の生活む構成する鵬成員であることの事実である︒換言すれば︑彼の自由な
る消費政︑家の生宿という全件関聯︵共同︶によつて制約せられた限りにぉいての可能性である︒個人の自由なる
経済活動といえども︑かくの如き個人を包括すべ資産常麻によつての制約に忠炬て0み正しき理解む得ることにな
るであろう︒
かくて︑経済生括の主体として︑兜ず経済描動の意志的なる行動者としての経営体が取上げられねばならぬ︒経
営待はそれ自体共同生活とし宅わ生命むもつた布衣である︒腐って経営体抵仙定の目的をもち︑
るた吟の意志的なる活動体忙外ならぬ︒
経済活動償放ける療も本源的なる曝営体として畢ず認められるべきもの︑は︑言う藍でもなぐ個々人の生括の基盤
た計べ濱家の生括躍外ならぬ︒経済活動の単倣として瀦の生活を取上げるとき︑通常これを家計或い低家政︵詳串
詳記e粁○−de3nOmy︶と林する︒これは入間の生存という自然的︒′本源的なる尊実に基づくものであり︑こ F巴t︶
こでの経噂生酒絶入問白件の存立の基調む形成するものと見られる︒
象の経験生活は︑かくて人の生活蟹∨盲休に木原的に根ざして成立するものであるが故に︑およそ人間魚沼の鹿
る所においては︑家Q経済生活は必然に成立すると言わぬぽ寧らず︑盟匿叉︑かぐの如き家の経済生活歓構成箪位
として形成せられる綜合的なる圃民経済生宿も︑従って叉木濾的なるものとして把挺せらるべきことは︑ゴットル
笹依っても指摘せられる所である︒われわれはこの点檻ぉいて︑・なぉ若干の▲考寧乾展開し得るであろう︒家の経済
酎活及び闊民経済生括が︑かくて︑その成立妊患いて人間の共同生活に内簡約なる関係璧且つもので鱒る限り︑経
済体制の如何に係わるものではないのである︒資本主義体制たると赦会蓋試俺別たるとを問わず∵観象ゐ成立夏鳥
る限りーそれと共に園民経済生汚は不可快のものであり︑その構成箪位たる家の経済生括もまた同校で参る︒いう
草でもなく経済体調の差輿は︑家の経緯並びに観民経済の表現形讐様式を異ならしめるごとは当然であ告通常
貰戯れる如く︑資本主義荘済体割0基調がー自由競軍に依る市場体系として表現せられるのに対して︑敢会主義俺
剖絶海いては︑いゎゆる経済の無政府性は排除せられて何等かの中央指導経済が主導性な把る︒をこには表現せら
象の経済生清についても︑この差異軋また当然であるd資本盆 れる形態の著しや差異が認掛られるであろう遥
栽経済体制下に記笠はー家の経済生括按家族成員の職業を通じて︑数寄の鼠位としての作用を有する︒従って︑
毛 経済及び忽済鎮宿
叫凡 第こ十三巷 欝一班
そこには原則として家①窪済生活の存強がJ家族の共同たる象の生活中白毒性に係り︑東同約能力の蚊除榛家の存
立そのものを脅威するに至るであろう︒貧富の差や失業や生活窮乏等は︑かか乳場合め現象形態に外計らぬ?之匿
反tて中央指導的経済体制下にぉいては︑分配に恕ける平等原則が主導性むもつであろう︒さすれぼ︑自由競額ぬ
基因する経済生活の不平等と不安定は︑原理的には存在し得跨いことになる?
その現象形態は如何ともあれ︑叉その体制ゐ如何を問わず︑家の経済生活及び圃民経済生括が︑人間共同生活と
共に本源的存在たること忙狩いては︑等しくこれを認めぬぼならぬ︒若し更匿われわれ甲生酒現実が醇化L︑掛鼎
経済Q十分なぁ統二放序針出現せしめるに至れ曙∵そこぬ衰人類を共同生活?草体としての世界経済生括が︑等し
く本源的放るものとして認識せられ得ることになるで敵ろう︒ただ由在ゐ段階に潜いては︑かかる構想拭生活規葵
との問転未だ著しい距離を有するもQで参り︑国際経済Q緒関係を抱じて部分的匿表現せられているに過ぎぬこと
は︑われわれの体験するが如くである︒囲 然るに他面にぉいてほ︑経済盆暗の主体たる経営体ぬついて︑経済体調匿内在的なる関聯に立ち︑特定の経済体
制に於てのみ存立を可能とせられ︑体制の変化と共に等しく変化又は消滅すべき経済局位が認められる︒資本真鶴
経済に卑ける企発はその昔しい例でりる︒企業は小粒紅︑営利原則によつて指導せられる経済①経営体として理解
せられる︒かかる特定侶的の設定虻よつて構成せられたる所謂目的構成体は︑家の経済生括0如く人間隼活に本濾
的なるものとは︑その碑砥に患いて相違すると見られよう︒前者は体制とその蓮命を共にすろ約束に思ぅに如し︑ 後者は経済体制の如何に拘らず轟立すべきものである︒ひとり企糞忙限らず︑われわれはかかる性格紆もつ経済
活動の諒位として︑なお軽々なる経営体む取上げることができる︒蒸発組合或いはまた協同組合等00形態は︑非営
利的なる公共的阪則に基づく組織体として取上げられる︒他面にはまた営利︑重義◎独占的支配の鞘展としての金光
の合同・聯合の如普形潜も認められる︒ノこれ等幾多の経済括動の風位たる経営体は︑いすれも経済体制眉体の単に
威−屈の契椀を輿えられるものであり︑従って体制の推移は等しく経営体白体の存立に係わるせ苗なけれぼなら
隠︒1この場合︑特定任済体制の改廃が︑そこ・に存在した格定の経営体む消滅せしめるに至るとき︑問題は︑従来そ
の巌常体によつて遂行せられたる経済的任務すなわち放餞が︑如何なる影車むうけるかに在る︒ここに経済生活の
本質とその表現形式︵現象形態︶の関係が発生してぐる︒国民経済生活が本源的顕る成立に係るも①であり︑その
体制の如何に摘むず︑従って叉その現象形態の如何に拘ちザ存立すべきものたる限り︑かかる組軟体系む可能なら
しむべきための諸種のはたら督︵蹴能︶は︑必然にまた存在しなけれぼならず︑イ従つてその形態ゐ何たるを問わず
かか倉本頗的稀成0ために係わるべき﹁はたらき﹂は︑その特定経営体の拘漉せしめられたる後といえども︑何等
かむ形式によつて達成せられねばならぬ0である︒ここに経済生酒の本質に画する課題が家老する︒職能給的本質
観髄﹂かかる立脚点を予め用意するものである︒
経済清朝の︑蓋体たるべき諸税の経営体の意志的治効は︑相富に交錯し︑r相殺し︑協調し︑矛盾しっつ︑重体とし
での﹂偶の綜合的現象敷構成することになる︒ことに重体としてゐ整還濱現象或いは国民経済現象が浮び上あの
である︒かぺの如嘗綜合せられたる全体として︑われわれはまた経済生括を取上げ得るであろう︒かかる全体とし
ての綜合たる経済生括に患いては︑その全体的なる徽序︒組織・体制がそQ性格を著しく浮び上らせる︒これは人
間祀ム蔓清見は国民生活の経済的側面として取上げられ鷲
さて︑かくの如く︑経済生活の主体忙よる活動の綜合としての全体的庄済生措︑すなわち全体としての経済①儲
㌧\ 蓮見は分野を野上げるとき︑そこではしひとつの萄機体約考察がある程度において許されることむ謎め得る︒敢会有
機体況がそのままに妥当するものと言い得ないことは︑敢会を構成する諸括動単位︵生活体︶が︑政会む形成した 二九 経験及び経済産清
こ5 東二十三番′欝叫取
後に在つても叫薗にぉいて白主的︒主体的存在である寄冥より明白である︒経済生活の綜合的秩序についても亦同
校である︒熱しながら周時に他面にぉぃて︑その綜合歓全体的秩序の関聯として杷返するとき︑有擬刊関係の存在 が或る紐皮監頼められ得ペきこぅも亦虚心監日定されねばな診ぬ︒香︑かかる有擁的関聯による結合によつて︑初
めて全件的琉﹂が出廟することを恩わねぼならす︑全簡約関聯は高かかる有蝉的関係に於て表現せられるとも言
い得るのである㍉
全体経済生酒の関聯が︑例えば酪民経済生活或や路﹂舷¢敵会読療養諒とんて︑有磯的関係0結合の観点より取
上げられるとき︑かかる全体関聯は更に内部的に特殊なる分野によつて構成せられて居るととを知るのである︒こ
′ れを大きく分ければ︑生産と湾費の分野として認められるであろう︒更に細分すれ・ば︑生産と消費とを適合せしむ 尊 べき流通の分野が浮び上る︒全体経済は︑かくの如き生産¢流通¢拘資の諸分野の綜合として成文すると観られ る︒これ等ゐ細分せられたる各分野は︑一膝またそれぞれ独自の分野として観察卦れ得るであ︑ろう︒現実にはすべ
てが同時的園聯にぉいで︑経済生活そのものが途行せられてゆくの押勝るが﹂これを観察の対象として取上げる場
合に絃︑かくの如き特殊計る諸分野の構成として分析する壬どは︑思惟的操作として許され得ることである︒
現実の経済坐括に在っては︑かかる経済生鰭の諸分野が︑対立並存的把存在するものではなくて︑同聖泣営騰
が鮫々なる経準胎動の表現にぉいて各線の分野に閑聯懲もち︑そとにそれぞれの分野敬形成することにたる︒/家b
経済生活軋︑労働刀を供給する源泉として生産分野に関係すると共些∵竿琴せられ允る財貨申究襖的到達点として
消費分野を栴威する︒同時に藍た︑その消費財の需要者として市場体系担関係するとき︑ここに流通分野との甜聯
を萌することになるであろう︒
綜合されたる経済生椅或いは図民経済の全体は︑かくてこれを大局的に蘭挺するとき︑東極匿おいて生産と消費
ノ
︵2︶
︷3︶
︵4︶