心ってどこにあるの?: 心はどこにでもないのにど こにでもある
著者 柴田 正良
著者別表示 Shibata Masayoshi
雑誌名 Dream Navi
巻 12
ページ 71
発行年 2012‑10‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/34620
第
18
回り想像したりすることばかりが心を構
成するのではない︵だから原始的な
﹁心﹂は存在する︶︒指先の痛みはどこ
にあるか︒もちろん指先にある︒ある
人は︑心は脳の中にあると言う︒しか
し指先の痛みは頭の中にはない︵頭に
あったらそれは頭痛である︶︒心が脳
にあると言う人はきっと︑心の働きに
神経の働きが不可欠だと言いたいのだ
ろう︒だがもしそうなら︑脳のある場
所にこだわることはない︒必要なら心
の位置づけを末梢神経にまで広げても
よいだろう︒
指先には神経が通っていて︑指先が
痛むには機構上その神経が不可欠だ︒
ならば心は︑諸神経が輪郭づける人型
の範囲に広がっているのだろうか︒
事情は多分もう少し複雑だ︒指先が
床の1m上空にあるとする︒そのとき︑
指の神経も床上1mのところにある︒
だが︑その指先が痛むとして︑その痛
みは床の1m上空にあるだろうか︒床
上1mが痛いだろうか︒腕をぐるぐる
回すとしよう︒すると指先は円運動を
する︒指の神経も爪も︒だがそのとき
痛みは回るだろうか︒さらに痛い指を
口にくわえる︒指は口の中だ︒だが口 の中は痛いだろうか︒指先の痛みは歯
痛や口内炎の痛みに近づくだろうか︒
私の指先は︑部屋の空間の誰が見て
も分かる位置を占めている︒そして私
の指の痛みは︑明らかに指先にある︒
にもかかわらず︑痛みは室内の空間に
おなじみの仕方で位置づけられていな
いように見える︒私たちは﹁床の1m
上空に痛みがある﹂とも﹁床の1m上
空には痛みがない﹂とも言わない︒痛
みの場所はそもそもそうした言葉では
語られない︒心は指先やつま先まで
﹁広がり﹂をもつにしても︑その広が
りが︑空間を公共的に語る﹁1m上
空﹂といった言葉でそのまま輪郭づけ
られることはないだろう︒
心はここやそこにある︒そしてある
意味ちょっとした広がりをもつ︒しか
しその広がりを精確に語る言葉はまだ
ないかもしれない︒
子どもが抱く素朴な疑問
に は
︑ 実 は
︑哲 学 の 本質がぎ
ゅっ と詰ま
って い ま す
︒ 親も答える
の が難し
い
︒そ ん な
「難問
」に︑
毎回
2名 の 哲学者が真剣
に お答えしま
す
︒
心はどこにもないのに どこにでもある
居場所を探している心とは
なんだろう? 考えたり︑
見たり︑感じたりするもの
だ︒心は人それぞれがもつのだから︑
身体のどこかに宿っているに違いない︒
昔は︑心臓にあると思われていたけれ
ど︑今では脳にあると言われている︒
でも︑脳にあると言っても︑ぼくら
の脳を解剖したって︑そこに見つかる
のはニューロンと呼ばれる神経組織
や︑血管や血液だけだろう︒バッハを
聴いているとき︑チェンバロの﹁音﹂
は脳の中でまったく鳴っていない︒青
い海を見ているときも︑脳は少しも
﹁青く﹂染まらない︒
心の一番大事な特徴は︑心とはぼく
のすべての経験のただ一人の主人公で
あるということだ︒ぼくの心は︑ぼく
の経験する内容だけからできている︒
他人にはわからない︑ぼくだけがもつ
経験を﹁一人称的経験﹂と言ったりす
る︒﹁三人称的﹂に接近可能な︑他人
と共有できる世界の知識は︑この﹁一
人称的経験﹂を通してしか得られな
い︒ぼくの心だけが感ずる︑あの空の
︿輝き方﹀は一人称的経験だ︒それに
対して︑﹁あの空が輝いていること﹂ は︑他人とも共有できる︑﹁三人称的﹂
に接近可能な世界の状態である︒
さて︑心がどこにもないというのは︑
ぼくの一人称的経験が︑三人称的に確
認可能な世界のどこにも︑それどころ
か︑なんとぼくの脳の中にさえもな
い︑ということである︒ためしに今度
は︑バッハを聴いているきみの脳の中
を覗いてみよう︒このとき︑きみです
ら自分の脳の中に見つけるのは︑きみ
が一人称的に経験する︿音の感覚﹀そ
のものではなく︑三人称的に観察でき
るきみの脳の神経活動にすぎない︒さ
て︑客観的世界というのは三人称的に
共有された世界のことだから︑一人称
的な心はその世界のどこにも居場所が
ないことになる︒いつかきみが感じた
未来へのかすかな不安が︑三人称的世
界のどこにも存在していないように︒
でも︑ぼくの心の一人称的な経験内
容って︑なんだろう? それは他人が
わからなくても︑自分にはよくわか
る︒いま感じている寒さだし︑空に見
えている飛行船だし︑さっきのきみの
脳の中身だ︒あれ︑なあんだ︒それは
結局︑三人称的世界そのものじゃない
か︒一人称的な心は三人称的な世界の どこにも存在しないのに︑ぼくには︑
心の経験内容が三人称的世界の中身に
なっている︒そして︑心とはそれが経
験する内容に他ならないなら︑心は世
界のいたるところに存在していること
になるだろう︒なぜって︑ぼくの経験
のすべてが世界なのだし︑ぼくが経験
できない世界は︿無﹀だからだ︒
それじゃ︑世界は心がつくったの
か? いや︑それも違う︒きみの脳の
側頭葉の辺りに障害が起きると︑忘れ
ていた歌が突然聞こえてくるなど︑き
みの一人称的経験はいやでも変化する︒
だから︑一人称的経験はある意味で三
人称的世界からつくられる︒このこん
がらがった事態をどう理解したらいい
のだろう︒残念だけど︑簡単な答えは
ない︒ぼくらはようやく︑心や脳や経
験や世界についての︑存在論という哲
学の入り口に立ったところなのだ︒
柏端 達也先生
1965年名古屋市に生まれ る。名古屋市立守山小学 校、守山中学校、名古屋 市立菊里高等学校、大阪 大学を卒業。現在、慶應 義塾大学文学部教授。著 書に『自己欺瞞と自己犠 牲』(勁草書房)、『行為 と出来事の存在論』(勁 草書房)。
柴田 正良先生
1953年大分県生まれ。東 京都清瀬市立芝山小学 校、同市立第二中学校、
東京都立東久留米高校、
千葉大学を卒業後、名古 屋大学大学院博士課程を 満期退学。現在、金沢大 学人文学類教授。著書に
『ロボットの心』(講談社 現代新書)がある。
心 っ
て ど こ に あ る
の ?
イラスト/いとう瞳
と言えるものはある︒これ
は間違いない︒自分に心が
あると思っていたがそれは
間違いだった⁝⁝ということはありえ
ない︒心無しに思い違えることなど不
可能なのだから︒すくなくとも︑ひと
つの心がここ
0
にある︒そしてあなたの 0
心がそ
こ 0
にある︒ 0
ひとつの心がここにあるとして︑そ
れはここからどれくらいの範囲に広が
って
いる
のだ
ろう
か︒
無限
にで
はな
い︒
それは時間的に限定されている︒私の
心は百年前には︵当然︶無かったし︑
百年後には︵残念ながら︶無いだろう︒
空間的にも限界がある︒確かに人は遠
くの星に思いを馳せられる︒その星の
様子を想像することさえできる︒その
ときに︑たとえば﹁私の意識はアルデ
バラ
ンに
飛ん
でい
る﹂
と言
うの
もよ
い︒
だがそれは︑私の心が触手のように伸
び︑数十光年離れた巨大な赤い星に実
際に到達しているという意味ではない︒
とはいえ︑心は広がりのない点のよ
うなものではない︒空間的にも︒
指先の痛みについて考えてみよう︒
痛みのことを考えるのは︑痛みもまた
心の重要な構成要素だからだ︒思った
心の精確な輪郭は どうなっているのか
今 心
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