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釋 甫 − 古 文 字 研 究 に お け る 考 古 資 料 利 用 の 試 み ・ そ の 二 −

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(1)

釋甫−古文字研究における考古資料利用の試み・その二−

高久由美

On the Character "籃Fu" 

‑An Atempt to Utilize Archaeological Materials For Chinese Glyphology, II‑

Yumi Takaku

︵以下﹃説文﹄︶に至るまでの約千数百年の闘に︑.該字が︑字形︑字音︑

文獄に於ける﹁蓋﹂字について  青銅慕の器名として一般莚﹁篁﹂コ這﹂等と霧き轟るのは.灘のっいた長方形の淺い青銅器で︑器の焉途縁穏々梁と塾った穀勃を盛るためのものである︵濁一︶︒銘文中で捻︑器の名講ともて与後蓮するまう莚﹁匿﹂をは¢めとする侮種類もの字形演懇鯵ちれて袈蓼.乙多募文字慧文獄の籔字︑瑚字︑麺字に姥定さあてきた右 蓋字な︑﹃説文﹄で慧磐部麺毅あら姦. 五上哲部∵塞︑黍綾覆難毯.藻磐琶避霧舞︑欝桟.書亥蓋・藻鉱髭+写  ︵方矩選とあ参︑鐘隷黍稜などの穀勃を盛る庭あの舞影難誓ある乙之渉舞ξ姦る野字形麺鑓は︑嚢と選鑓議雛霧聲の形蓼字妥姦る.理難亥﹄蓑字勇象菰舞・吉文として江と夫莚鼠う疹覧字も畢穿ら轟て馨蓼・婁亥董譲表字茄誉霧として機能むて熱る.疹蒙﹁養﹂字の妾警コ誓とう婁亥5薮﹄字の糞募鱈表旨

は︑吉音慧猶ず轟も霧経蒙叢之鋸7ずう

(2)

県立女子短期大学研究紀要 第39号 2002

圖一季良父匿

 實際の青銅器は長方形の盛食器

であることからすれば︑﹃説文﹄に

ある﹁黍稜園器也﹂という説解と

は︑器形が一致しない︒これが軍

なる傳窩の誤りなのか︑別の理由

によるものなのか︑後で詳述する

必要がある︒

 胡字は︑﹃左傳﹄哀公十一年に

  仲尼日:胡犠之事︑則嘗學之突︒

  甲兵之事︑未之聞也︒

とあり︑篁と連なって﹁胡篁﹂と

して用いられる︒杜預注には

  胡笹︑禮器名︒夏日胡︑周日蟹︒

とあり︑胡と甕を禮器の名である

とし︑夏では胡といい︑周では盛

と・いうとして︑胡と釜を王朝間で

の異なった名構とする︒この説は︑

現在の中國考古學の知識からすれば肯定しがたいものだが︑胡という器が

墓と蛇稻される代表的な禮器と見倣されていたということは︑﹃左傳﹄杜

預注の解縄から窺い知れる︒玉に杁う瑚宇もあり︑﹃禮記﹄明堂位に

  四代之器:有虞氏之雨敦︑夏后氏之四髄︑股之六瑚︑周之八笹︒

とあり︑ここでは﹁敦﹂﹁瑳﹂﹁瑚﹂﹁盛﹂と拉稽される四種類の器名のひ

とつとして現れる︒鄭玄は

  皆黍穫器︒制之異同未聞︒

と注しており︑黍稜を盛るための器と説明している馳は﹃説文﹄蟹字の説

解と︸致するが︑器形についての言及はない︒字音の貼では︑胡︑瑚とも

に籔宇と同じく魚韻に属す字である︒ 林巳奈夫氏は︑青銅器の名稔としては︑古文字の隷定ではなく文獣上の

文字を當てるのが適當であるとの考えから︑文献中でその用途が多く記さ れていることを理由に﹁篁﹂字を器名として選揮している露︸︒ 以上の検討から︑文献上では蓋︑医︑胡︑瑚と栂される器物があり︑いずれも同音もしくは音が近い文宇であるということもわかつた︒ただ一鮎問題になるのが︑﹃説文﹄説解には﹁鐘︑黍穫翻器也﹂とされるのに封して︑實際の考古遺物は長方形の器であり︑形状が説解と一致しない︒よつて︑以下では︑董︑医︑胡︑瑚を同一器物の名と見倣すことの可否について︑從來の研究を参照しつつ︑現在までの出土文物と照らし合わせなポら︑検討することとする︒二 管銅器銘文中に現れる器の名稻 この文献上の器物と︑實隙の出土遺物を照合するため︑銘文中で器名を自名する長方形の有脚青銅器には︑以下のものがある︒      ミ  ①號弔︵叔︶乍︵作︶弔︵叔︶股穀尊匿︵號叔匿﹃集成﹄四四九八︶          號叔︑叔般穀の尊匡を作る︒  ②季良父乍︵作︶宗娯倹︵膜︶置︵季良父置﹃集成﹄四五六三.六四︶       ミ    季良父︑宗娯の腰置を作る︒  ③楚王會肯乍︵作︶鋳鎖固︵楚王會肯匿﹃集成﹄四五四九〜四五五一︶         ミ    楚王含肯︑金匿を作鍔す︒  ④仲其父乍︵作︶旛固︵仲其父置﹃集成﹄四四八二︶        ミ    仲其父︑旅匿を作る︒  ⑤鋳子叔黒匝肇乍︵作︶貿固︵鋳子叔黒匝置﹃集成﹄四五七〇︶       ミ    鋳子叔黒匝肇︑寳匿を作る︒  ⑥螂子牧揮其吉金︑用鋳其回︵螂子匿﹃集成﹄四六=ハ︶    郷子赦︑その吉金を揮ぴて︑用てその園を鋳せり︒  ⑦孫弔︵叔︶左揮其吉金︑自乍︵作V懸︵孫叔左窺﹃集成﹄四六一九︶    孫叔左︑その吉金を揮ぴて︑自ら鰯固を作る︒  ⑧曾子ロ自乍︵作︶簸固︵曾子ロ区蓋﹃集成﹄四五八八︶    曾子ロ︑自ら盤を作る︒

(3)

  ⑨叔朕揮其吉金︑自乍︿作﹀薦匿︵叔朕匿﹃集成﹄四六二〇ー二︶

    叔朕︑その吉金を揮びて︑自ら薦匿を作る︒

  ⑩曾子邊之藤︵曾子邊匿﹃集成﹄四四八八・八九︶    曾子邊の罐

などがあり︑﹁尊匿﹂︑﹁腹置﹂︑﹁金匿﹂︑﹁旅匿﹂︑﹁寳匿﹂︑﹁匿﹂︑﹁瞬匿﹂︑

﹁飢匿﹂︑﹁薦置﹂︑﹁行匿﹂などと稻されている︒これらの銅器は西周中後

期から職國時代まで通行した長方形の盛食器である︒器形はいずれも有脚

で長方形をしており︑修口で雨耳をともなっている︒

 次に︑これら自名器の中で金文の置字がどのような字形であらわれるか︑

主なものを例畢して示し︑器名として用いられている字形のヴァリエーシ

ヨンを検討する︒

    號叔匿﹃集成﹄四四九八

而瞳季良釜﹃集成﹄四五六三・六四

巳大度匿﹃集成﹄四四七六琶

    商丘弔匿﹃集成﹄四五五七〜五九

歴椴都公匿蓋﹃蔑﹄四六・・

曜ロ仲其釜﹃集成﹄四四八二

睡書釜﹃集成﹄四五七二

履賎魯士置﹃集成﹄四五;Σδ

楚王含肯匿﹃集成﹄四五四九〜四五五一.

傘塞古 鍔公置蓋﹃集成﹄四五七四 塵動繋盤

號叔匿︑

史免匿﹃集成﹄四五七九匡匿﹃三代﹄一〇・二五獣叔置﹃集成﹄四五五二総猛伯公父匿﹃集成﹄四六二八

西替匿﹃集成﹄四五〇三

    季良父匿のように︑麗に杁い古に杁う字形が最も多い︒また︑大廣置︑楚王・茜肯匿の如く︑にに杁う字形もある︒古字は甫字と同じく魚韻

に属し︑ここでは音符として機能していると考えられる︒雨器はともに戦

國時代後期の楚國の青銅器である︒商丘弔匿は故に杁い嘱財に作る︒都公

置は古に双い金に杁い歴駈.に作る︒いずれも古字または故字が音符として

機能しているといえる︒また︑都公置2磁隊は︑古字を音符とし︑金字と

霞字が意符としている︒これに封して︑仲其父匿の魑は音符が省略され︑

霞字と金字だけが残ったものであろう︒

 また︑﹃説文﹄簑字の古文・医字と同じく︑夫聲に双う字形もあり︑季

官父匿の器名は︑畠苞白に双い麗に双いさらに夫聲に双い磁聡と作る︒該

字に現れる構成要素窓については︑もとは器物の蓋と器の象形を表し

ており︑害の初文であると考えられている︒災害・害悪の意殊は後の派生

義である︒魯士匿の履篭にあるように︑象と作る場合もあり︑害の中

央に音符として五字が挿入される︒また︑鋳公猛蓋のように覆を省賂して︑

▲ま古と作る字形もある︒

 幾種類もある字形については︑陳乗新によって提示された説弱が現時灘

で最も妥當である^︑︾︒それによれば︑この型式の器の初文は︑﹁害﹂であ

り︑それは器物の象形であるという説である︒?ま箏︑鋳公匿の△書

の如く作るのが最も古い字形ということになる︒匿はし蒙しば同形の器蓋

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県立女子短期大学研究紀要 第39号 2002

によって構成される︒他の字形は﹁害﹈に音符や意符を付加して派生した

ものであるという︒自名器には︑本字として﹁害﹂が用いられる以外︑音

符として﹁古﹂﹁故﹂﹁夫﹂﹁五﹂字が用いられている︒それとともに︑器

形を示すために﹁麗﹂に杁い︑材質を示すために﹁金﹂に杁う字形もあり︑

これらの要素が複数組み合わせられる場合もある︒

 史免匿や匡匿の場合は︑当と霞に杁い塵︑匡と作る︒﹃説文﹄では︑

該字は篁字とは匠別され︑口部に収められ︑

  匿︑飯器︑筥也︒杁︹圭聲︵去王切︶

とある︒該字は古音は渓紐陽韻に属し︑胡字が属す魚部とは陰陽封轄の關

係にある︒獣叔置は麗と蘇に杁い蓼と作るが︑蘇の左労‡←は金の倒

形で︑右労‡小は当の倒形であろう︒

 西替匿や伯公父匿の如く︑音符は古聲に杁い︑意符は匠ではなく金︑皿

に杁い︑縫歴︑証饗︑慰と作る字形もある︒金に杁うのは器物の物理的

性質をあらわし︑皿に杁うのは器形をあらわしているのであろう︒白公父

置は︑一九七七年に陳西省扶風縣黄堆公社雲塘から出土し︑形制︑紋様と

銘文の書瞳から西周後期に属すと見られている^と︒西替匿は︑一九五八年

に江蘇省郵縣劉林村の墓葬から出土した戦國銅器のうちの一件で︑銘文と

器形︑紋様から︑楚國文物の特徴が指摘されている^︒一︒

三 文獄上の名稻と青銅器の比定

 文獣上の名稻と青銅器の比定は︑宋代にまで湖る︒宋代著録の濫膓とも

いえる呂大臨﹃考古圖﹄に︑史黎匿という青銅器が記録されている§︵圖

二①︶︒器形は︑右に掲げた貌弔匿︑季良父置︑楚王會肯匿などと同じく︑

脚と左右に耳のついた長方形の盛食器である︒銘文には﹁史黎乍︵作︶鐸﹂

とある︵圖二②︶︒呂大臨は︑器名を曙を直接楷書に轄窩して﹁匿﹂と

した︒これに封して︑醇尚功は︑銘文中に現れる曝を文献中の﹁篁﹂と

結びつけた︒﹃考古圖﹄の五〇年絵り後に︑酵氏は﹃歴代鐘鼎葬器款識法 蒙艦︑

圖二① 史黎篤器影  圖二②

史黎篁銘文

帖﹄に同じ青銅器を著録し︑器名を﹁史黎篁﹂とした§︒他にも多数収め

られた︑曝︑などを銘文中に自名する青銅器はいずれも﹁篁﹂と稔され︑

小蒙は篁と作り︑箔文は塵と作るのだと説明されている︒院元も﹁篁﹂

を踏襲し︑更にこれが︑文献中の﹁胡﹂と﹁瑚﹂の異名であると説いた︵︒︸︒

このように︑﹃説文﹄篁字と長方形の有脚青銅器の比定は︑醇尚功以降の

金石學者によって︑連綿と踏襲され績けてきた︒

(5)

  

ワ葎鋪﹃集成﹄里ハ八四

圃三杜嬬鋪器影

  放自痕乍︵作︶笛︑其萬年永箕     ︵微伯漢笛︶

  妹酪乍︵作︶甫︒       蘇酪甫︶

  曾中︵仲︶旅父自乍︵作︶賓甫︒     ︵曾仲艀父甫︶

  魯大司徒厚氏元作膳薩︑其眉壽萬年無彊︑子一一孫冒一永費用之︒

      ︵魯大司徒厚氏厘︶

 このうち︑最も時代の早いものは︑西周中期の微伯癖箭で︑一九七六年に映西省扶風縣荘白村から出土した一群の客藏青銅器の︸つで︑鰻掘報告

では痕豆と名づけられている︻︑じ︒唐蘭は︑微伯痩箭の圓形の豆に似た器

形と﹃説文﹄説解に云う﹁篁︑黍稜圓器也﹂を結びつけ︑該器を籔と呼ぶ

べきであると主張している︵一圃︸︒

 麻瀦甫は︑河南省三門峡市上村嶺號國墓地からの出土品である︵圓三︶︒

一九五五年から五六年にかけておこなわれた號掘の結果︑號太子などの二

三四座の墓葬が髄掘され︑.そのうち三八座から青銅器

が出土し︑蘇警甫は第一八

二〇號墓から出土した葦︒

墓地の年代は︑随葬遣物の

編年から西周後期に厩すと

されたが︑最近は︑近年の

考古號掘を踏まえ︑時代を

もう少し下ちせて西周末か

ら春秋初めへともってくる

説が提言されているぎ︒

髄掘報告では該器を豆とし

て記録しており︑四字の銘

文を﹁蘇酪乍用﹂としてい

るが︑第四字は甫字と繹す

べきである︒拓本は不鮮明

撫

VUI肩班念

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県立女子短期大学研究紀要 第39号 2002

だが︑由﹄団と判別できる︒曾仲艀父甫の該を参考にしながら閥を補えば︑

Ψ陶となろう︒おそらく別銃時に鉄損したものと思われる︒

 曾仲艀父甫は一九六六年に湖北省京山縣榮河匠蘇家瀧から出土した︒合

計九七件の青銅器が壁見され︑うち十件は有銘青銅器であった︒これらの

青銅器は︑ダムの建設中に獲見されたものであるが︑器制や紋様︑組合の

鮎で︑上村嶺號國墓地からの出土品と近いとされており︑西周後期から春

秋時代前期の器であるとされる︻..︸︒獲掘報告はやはり該器を豆として記

録している︒

 魯大司徒厚氏匝も春秋時代で︑一九三二年に︑魯大司徒元匝とともに山

東省曲阜林前村から出土した︒容庚は器名を厚氏元豆として︑春秋戦國期

としている含.冒︒林巳奈夫氏もほぼ同じで︑一定の時期だけに行われた豆

の異名として器種名には採用せず︑豆に分類し︑篁は文献の胡や瑚の異名

で︑長方形の盛食器名としている言噌一︒容氏や林氏のように︑豆の別構と

して器名に拘わらず豆類に分類するという封威は︑器種分類という観鮎に

立った研究として︑一雁納得のいくものであるが︑文字畢的観鮎からすれ

ば︑まだ不十分である︒﹃説文﹄の﹁簑︑黍稜圓器也﹂と結びつけた唐氏

の説が妥當と思える︒

 近年︑唐氏の説の傍謹となる青銅器が出土した︒ 九七七年に︑陳西省

扶風縣黄堆公社雲塘から出士した白公父匿がそれで︑器蓋一揃になってお

り︑各々の形制︑大小︑紋様︑銘文いずれも器蓋同じであった︵圏五︶︒

形制︑紋様と銘文の書隆から西周後期に属すと見られているn輔.▼︒銘文に

は︑

  白︵伯︶大︵太︶師小子白︵伯︶公父乍︵作︶讐⁝

とあり︑器名を自名する︒用いられている字形は︑

繋伯公釜・・畿・・六・不二

  F蛭伯公父塞﹃叢﹄四六・不

とあり︑器名を稻す置字は﹁古﹂を音符とし︑器を示すために﹁金﹂と﹁皿﹂ に杁っている︒これは︑

﹃説文﹄皿部に収めら

れる盛字と封癒するも

ので︑﹃説文﹄には︑

五篇上皿部 墓︑

 器也︒杁皿杁缶古聲

 ︵公戸切︶

とある︒高明氏は︑藍

字こそが︑瑚の本字で

あり︑董はこれとは別

の圓形器の名であると

いう結論に達した雷︒︸︒

唐氏の説との一致をみ

たわけである︒文字學

的には︑唐氏︑高氏の

これらの説を是とすぺ

きである︒

 ゴ.

☆

著二・:

二 .瑛﹂︑°

・・ρ

蝶㌧ゾ.﹂.・;・r

レ鉱しL卜塗ドぼー﹂︑

囲五 白公父匿器影

 長方形の盛食器である匿については︑本宇が﹁害﹂と作る以外︑音符と

して﹁古﹂﹁故﹂﹁夫﹂﹁五﹂が添加されているが︑實際に﹁甫﹂が音符と

して添加された字形は全く無い︒これに反して豆と似た器制の圓形器には

﹁甫﹂が音符としてあらわれているという事實︑また︑器形が﹃説文﹄説

解の﹁蓋︑黍稜圓器也﹂という説明と合致するという鮎から︑器名として

の篁は︑胡や瑚とは異なる器種の文獣での名稻と考えるのが妥當であろう︒

 董と魎の混乱が生じた原因は︑實際にこれらの青銅禮器が用いられてい

た時代と︑許愼が﹃説文﹄を編纂した時代では︑用いられていた青銅器の

種類も形も相當婆化しており︑漢代では︑鐘︑鼎︑権量のほかは︑實際に

用いられていた禮器の種類が激減したという事情が背景にあるということ

も指摘しておかねばならない︒

(7)

四 甲骨文に於ける麗字

 前節においては︑金文資料を中心として︑長方形の有脚盛食青銅器と︑

その器名を表す字形の關係について検討した︒その結果︑鰯︵號叔置︶︑

艀哩︵季良父匿︶のように︑琶に杁い古に杁う字形や︑巳︵大廣匿︶︑

陀⑨︵楚王含肯置︶の如く︑﹇に杁う字形の例から︑金文では︑器形を示

すために﹁麗﹂﹁︹﹂という要素が用いられているこ士が看取できた︒本

節では︑これらの要素の祖形と考えられる︑甲骨文に現れる巴︑一﹂の諸

字について検討する︒

﹃説文﹄には︑匡字の籏文の字形として︑麗字が収められており︑

 12下匡部匡︵説c︒8①︶﹁﹁︺︑受物之器︒象形︒凡匡之属皆杁︹︒讃若方︒

  麗︑摘文匡﹂︵府良切︶

とあり︑説解では小蒙︹は物を受ける器形の象形字とされる︒これが︑

前節で論じてきた箆字の構成要素﹁麗﹂﹁匡﹂と考えられる︒

 王國維は︑

  古金文杁匡之字往往杁Fb作︒股虚卜辞有﹃コ字︒として︑金文の⊆を構成要素とする文字は︑しばしば箔文と同形の麗に杁

う鮎を指摘した上で︑匡字が甲骨文では一しに作るものがある鮎を指摘す

る︵︒︾︒甲骨文における匡字は︑王氏が指摘するとおり︑翻 ︵甲二〇九

四︶︑﹃﹂﹈︵甲二六六七︶︑凹 ︵存一七七〇︶︑肉 ︵観一四︶︑り ︵粋

一二〇︶のように作る︒また︑この他に︑︹︑︵郷初下四〇・一一︶︑

﹁一 ︵珠六二八︶のように輩線で匡と作る字形も虹行して用いられてい

る︒ト辞には

  ①庚子卜︑貞:里︵侑︶製干南室?  ︵甲二〇九四︶⁝第一期

  ②午卜︑ロ貞:告齪干丁︑三牛?  ︵甲二一二七︶⁝第一期

  ③..其弗賓三口︑日養? ︵鄭初下四〇・=︶⁝第三期

  ④⁝卜貞:其蜜︵侑︶三齪母家︒ロ牢  ︵粋一二〇︶⁝第四期       さ  ⑤戊戌貞:里︵侑︶コロ︑三牛?   ︵甲二六六七︶⁝第四期  ⑥丙申卜︑出︵侑︶一一﹁口二示?     ︵珠六二八︶⁝第四期とある︒甲骨文では︑祭祀の封象となる祖先である上甲は一田 ︵俄一・七︶と作るが︑これに樹して報乙︑報丙︑報丁は︹︵後一・八・剛○︶︑

.恥︵甲二六九三︶︑mコ ︵俄一八・一一︶と作る︒王國維は︑﹃史記﹄の報乙︑報丙︑報丁と甲骨文との封慮を指摘した上で︑ 田︑叡コの

構成要素としてのロ︑匡について︑

  田︹田乱コ所以杁口駄﹁署︑或取匡主及郊宗石室之義︒

  然不可得考 ︒

として︑祭祀の封象となる上甲︑報乙︑報丙︑報丁らの位牌と匡︑即ち位

牌を収める箱を取って︑郊宗の石室にもたらす意味をあらわすという考え

を示している︒厘は﹃説文﹄十二篇下に部に

  厘︑宗廟盛主器也︒﹃周禮﹄日:祭祀共厘主︒︵都寒切︶とあるように︑主︑即ち祖先の位牌を盛る器である︒郊宗の石室とは如何

なる場所であるかについて具腔的な考謹はしていない︹.︾︒傅斯年は一田

が口に杁うのは︑位牌を室内の中央に設置したためであり︑引﹂が︹に

杁うのは︑支配を室内の勇邊に設置したためであろうという説を示す§︒

董作賓も王國維の郊宗石室と同意見だが︑さらにこれを石室の側視形であ

るとの説を示しているが遣構・遺物を具膿的に示してはいない︵銘︺︒これ

らの説はいずれもロ︑コ︑コを︑祖先への祭祀をとりおこなう場所と關連

させて理解しているといえる︒唐蘭もこれらの説と同じ考えであり︑さら

に︑匡を文獣に見える肪祭︑報祭に比定する^縛幽︸︒唐氏は︑石室は創室で︑

石寵としている^誤︾︒肪は﹃説文﹄累字の或盟で︑説解に

 一篇上示部 票︑門内祭先祖︒所以傍復︒杁示彰聲︒﹃詩﹄日:祝祭子

  票︒肪︑票或杁方︵補盲切︶とあり︑門内でおこなう祖先への祭祀とされる︒﹃魯語﹄ではこの祭祀を

報と構し︑

  上甲微能帥契者也︑商人報焉︒

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県立女子短期大学研究紀要 第39号 2002

としている︒楊樹達もOとコはいずれも同じく方字であるとし︑唐氏と同

じく︑これを文獣の訪字に比定し︑ロとコはいずれもそれぞれの祖先の廟

をあらわす目印とする奮︒このように︑ロ︑コ︑コを︑祖先への祭祀を

とりおこなう場所に關する概念をあらわすものとする考えに封して︑葉玉

森の如く︑王國維の哩主の説を肯定しながらも︑それを敷衛し︑ロ︑コは

位牌を盛る容器の象形と見倣す説も行われている§︒金祖同も同じく匡

の象形と考え︑コは位牌を受ける器の側視形であるとする§︒李孝定も

同じく︑ロ︑コ︑コの本義を﹃説文﹄匡字の説解にある如く﹁受物之器﹂

とし︑厘の象形とした︒祭祀の場所とする説も︑位牌のいれものとする説

も︑それぞれ具髄的な遺構・遺物を提示しておらず︑どちらが正しいとも

言い難い︒石璋如は︑段癒の建築遣趾の基礎部分から︑これこそが三報二

示の祭祀が行われた場所と推定する^博︒澗ロ︑コ︑コの字形の説明として

は初めての具髄性を伴った説として︑高い蓋然性を示しているといえよう︒

 諸家が共通して指摘するように︑ロ︑コ︑コで示される祭祀を︑文献上

の訪祭に比定することは間違いないであろう︒前引の粋一二〇︑鄭初下四

〇・一一︑珠六二八のト辞にあるように︑報乙︑報丙︑報丁は合わせて﹁三

︹﹂とも稻される︒このうち︑③郷初下四〇・一一のト辞は︑合集二七〇

八四であるが︑﹃合集繹文﹄には︑

  ⁝其弗賓三報日︑其汎﹇用﹈︒大吉

とある︒しかし︑卜辞は匡と日の間で句讃し︑﹁三匡を賓するに︑日それ

償するなからんか﹂のように解すべきである︒卜辞の後半は﹁日﹂﹁其﹂﹁爲﹂

という語順であるから︑﹁日﹂が主語で︑﹁其﹂は前出の三口を指す目的語

で︑﹁禰﹂は三匡を目的語とする動詞であることがわかる︒三匡に封する

祭祀をとりおこなうにあたり︑太陽は貸をすることがないだろうかという

問いである︒子省吾は︑爲字の周園の数鮎を滴る血の象形と見倣し︑貸は

姐の象形と見倣し︑該字を﹃説文﹄五上血部の畿の初文として︑畿字説解

に言う﹁以血有所割塗祭也﹂により︑几上に血を薦める祭りであるとする

^︑︒9︒島邦男も干省吾の説を是としている^︑︒.︾︒

 金文では︑乃孫作且己鼎の銘文に︑ 乃孫乍︵作︶且︵祖︶己宗賓︒山唖m凄︒︹宥

とあり︑作器者名である﹇宥として︑口巳が用いられている

考父癸鼎も同じく⊆巧によって製作された器である︒

郵.・

︐歌璽一

に宥乍父癸葬︒

圖六

︵岡六︶︒⊆

圖七

銘文では︑作器者名である︹考として︑弔9が用いられている︵圖七︶︒

これらは般器であるが︑第四期・第五期の甲骨文と比較して︑説文籍文︐﹃bに近づきつつある字形といえる︒

おわりに

以上︑西周時代から春秋職國時代に用いられた長方形の盛食器﹁鐘﹂に

ついて︑文獄上の名構と︑器銘中での字形を整理したことにより︑﹁篁﹂

(9)

の器形については︑二種類の器形の異なる青銅器に封して﹁篁﹂の名稔が

用いられていたことが指摘できた︒長方形の盛食器である置については︑

本字が﹁害﹂と作る以外︑音符として﹁古﹂﹁故﹂﹁夫﹂﹁五﹂が添加され

ているが︑實際に﹁甫﹂が音符として添加された字形は全く無い︒これに

反して豆と似た器制の圓形器には﹁甫﹂が音符としてあらわれているとい

う事實︑また︑器形が﹃説文﹄説解の﹁篁︑黍稜圓器也﹂という説明と合

致するという鮎から︑器名としての篁は︑胡や瑚とは異なる器種の文献で

の名稔と考えるのが妥當であろう︒構成要素としては︑本字として﹁害﹂

が用いられる以外︑音符として﹁古﹂﹁故﹂

る︒それとともに︑器形を示すために﹁麗﹂

る﹁麗﹂は︑甲骨文に祖形が認められ︑ロ︑

をとりおこなう場所として現れており︑ロ︑

獣上の訪祭に比定されるとみてよい︒﹁囲﹂

文字の意符として西周後期から戦國時代まで広範に用いられ︑﹃説文﹄

おいては箔文として吸収されるに至っている︒

注

﹁夫﹂﹁五﹂字が用いられてい

に杁う︒器形を表す部分であ

コ︑コの形で︑祖先への祭祀

コ︑コで示される祭祀は︑文

は青銅器銘文中で器名を現す

       に

ω高久由美﹁輝段ー古文宇研究に於ける考古資料利用の試み﹂﹃中國古代の文字

 と文化﹄汲古書院︑一九九九年︒

②林巳奈夫﹃般周時代青銅器の研究ー股周青銅器綜覧・訟よ一九八四年︑五一

 頁︒

③陳乗新﹁害即胡篁之胡本字説﹂﹃考古興文物﹄一九九〇年第一期︒

④周原考古隊﹁周原出土伯公父蜜﹂﹃文物﹄一九八二年第六期︒

⑤南京惇物院二九五九年冬徐州地旺考古調査﹂﹃考古﹄一九六〇年第三期︒

㈲考古三・四九︒

ω歴代一五・一四三︒ ㈲積古七・二︒⑨考古三・五一︒

00

代一五・一四三︒

ω映西周原考古隊﹁陳西扶風荘白一號西周青銅器容臓稜掘簡報﹂﹃文物﹄一九七

 八年第三期︒

㈹唐蘭﹁略論西周微史家族害藏銅器群的重要意義﹂﹃文物﹄一九七八年第三期︒

㈲中國科學院考古研究所﹃上村嶺監國墓地﹄三九頁︵圏三六−二︶︑田版六二i

 一︑ 一九五九年︒

ω機掘報告では︑随葬遺物の編年から︑該墓地を西周後期と断代したが︑最近の

 研究では墓地の年代を若干下らせる意見もあり︑例えば︑王世民・陳公柔・張長

 壽﹃西周青銅器分期断代研究﹄︵一九九九年︑文物出版社︶では︑墓地の年代は

 西周末から春秋初めに腐すとしている︒

㈲湖北省博物館﹁湖北京山稜現曾國銅器﹂﹃文物﹄禰九七二年第二期︒

⑯通考三七〇頁;圖三九九︒

αの

ム巳奈夫﹃般周時代青銅器の研究ー股周青銅器綜覧・一1﹄一九八四年・五一

 頁︒

㈲周原考古隊﹁周原出土伯公父蓋﹂﹃文物﹄一九八二年第六期︒

㈲高明﹁藍︑篁考緋﹂﹃文物﹄一九八二年第六期︒

⑳王國維﹁史癌篇疏鐙﹂二四四〇頁︑﹃王観堂先生全集隔第七班︒台北・文華出

 版公司刊︑一九六八年︒

⑳王國維﹃俄壽堂所蔵股虚文字考輝﹄五葉︑一九一七年︒

②傳斯年﹁新獲卜僻窩本後記鍛﹂﹃安陽壁掘報告﹄第=期︑一九三〇年︒

㈲董作賓﹃般暦略﹄六・九九︑一九四五年︒

鋤唐蘭﹃天壊閣甲骨文存考響鰻 一九三九年︒

㈲唐蘭﹁懐鉛鑓録︵績ご﹃考古學社社刊﹄第六期︑一九三七年︒

㈲楊樹達﹃積微居甲文説﹄上・二七頁︑ 一九五四年︒

伽奎森﹃般馨契煎編築響丁二九葉・一九三四年・

㈱金祖同﹃股契遺珠緯文﹄三葉︑ 一九三九年︒

㈲石璋如﹁股代地上建築復原第四例ー甲六基証爽三報二示﹂﹃中央研究院第二届

(10)

 圃際漢學倉論文集﹄歴史・考古組︑一九八九年︒

㈹干省吾﹃隻劒移般契餅枝績編﹄二四葉︑一九四一年︒

㈹島邦男﹃股塵卜辞研究﹄三〇四頁︑一九五八年︒ 圖五 ﹃陳西﹄︵三︶M九四

田六 ﹃集成﹄M二四一一= 圓七  ﹃集成﹄恥二一三二

県立女子短期大学研究紀要 第39号 2002

引用甲骨文・金文關係著録略號表

 ︵甲骨文V

後

郵初

粋

珠

甲

存

︵金文﹀ 合

考古歴代

積古

通考 陳西

集成

羅振玉﹃股盧書契後編﹄一九=ハ年︒

王國維﹃畿壽堂所藏般厳文字﹄一九一七年︒

黄溶﹃郷中片羽初集﹄一九三五年︒ 郭沫若﹃股契粋編﹄ 一九三七年︒ 金祖同﹃股契遺珠﹄一九三九年︒

董作賓﹃小屯・股虚文字甲編﹄一九四八年︒

胡厚宣﹃甲骨績存﹄一九五五年︒

中國社會科學院歴史研究所編﹃甲骨文合集﹄一九七八〜八二年︒

呂大臨﹃考古圖﹄一〇巻︑一〇九二年︹自序﹈︒

薄尚功﹃歴代鐘鼎葬器款識法帖﹄二〇巻︑一一四四年︒

院元﹃積古齋鐘鼎葬器款識﹄一〇巻︑一八〇四年︒

容庚﹃商周葬器通考﹄一九四一年︒

陳西省考古研究所等編﹃陳西出土商周青銅器﹄全四冊︑一九八〇年︒

中國社會科學院考古研究所編﹃股周金文集成﹄一九八四年〜九四年︒

挿圖出虚一覧

 固一 ﹃通考﹄︵下︶圖三五四

 圓二 ①②﹃考古﹄三・四九

 圓三 ﹃考古﹄三・五一

 圖四  ﹃上村嶺駐國墓地﹄圖版六ニー一

参照

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︵人 事︶ ﹁第二十一巻 第十號  三四九 第百二十九號 一九.. ︵會 皆︶ ︵震 告︶

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

例えば「今昔物語集』本朝部・巻二十四は、各種技術讃を扱う中に、〈文学説話〉を収めている。1段~笏段は各種技術説

一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」