劇評 観劇片々(二〇〇六年十月〜〇七年九月)
著者 松井 哲朗
雑誌名 Probe
号 2
ページ 133‑146
発行年 2008‑02
URL http://id.nii.ac.jp/1136/00001340/
この一年間に観た舞台を振り返って、そこから何かを考え直すということをしなければならないのだが、今までは先を急ぐばかりで、ゆっくりとそういう作業をしたことがなかったので、具体的にどう処理すべきなのか、はたと困惑している。今年もこの一年間(〇六年十月~〇七年九月)に、約百四十本の舞台と幾らかの映画を観た。約というのは同じものを複数回観たり、観た映画の本数を正確に除いて勘定していないからだ。しかも東京やその他の各地で観た舞台や外国から来たものやら、商業演劇から地元の文化運動のもの、そしてサーカスやマッスルミュージカルなどというものまで、好奇心の赴くまま実に雑多で無節操な観劇体験である。しかしそれもステージ・パフォーマンスという一括りで紹介してみようと思ったが、すべての作品を書き出すのは物理的に無理なので、北海道で観たものに限定して自分が好きな舞台を選んでみることにしたい。また札幌や旭川でももちろん、そのほか各地でも僕の観られなかった舞台もたくさんあるし、しょせん恣意的で偏った観方になるのを承知の上でという前提で書いていくことにする。一つの劇団は原則として一つの舞台に限定しないと文字数の制限を越えるので、選別するのに時間が掛かった。この一文は、私が観劇の記録としている季刊『続・観劇片々』と いう演劇随想個人誌から抜粋して再構成したものであるが、これは札幌の劇団「シアター・ラグ・203」のホームページにコーナーを作って戴いて同じものを公開している。
〇六年十月一日に『マカレモノ』を観る。
原子力発電所の操業停止による補償金で暮らす金子たちは、その のまま少し調子の狂った日常が進められる。 らしい。このあたりサスペンス調の予感を期待させながら、謎は謎 われたという境遇だ。学生はその経緯についても何かを調べている 従業員の一人(谷川登)は、子供のころ親に虐待されて金子に拾 訪れて三日目から、この芝居が始まることになる。 ふれこみで、一人の若者・学生(岩田雄二)が訪れて、彼がここを そこへ新しいコミュニティの成立条件について論文を書くと言う 谷川登)はこれまた異常に従順だ。 知れない感じだし、突然異常な行動に出る。二人の従業員(岩尾亮・ 最初は極めて日常的なのだが、社長の金子(赤坂嘉謙)は得体が 囲気だ。どうもまともに仕事をしているような気配が感じられない。 がある桜地区に所在する金子リサイクル商会は、何やら怪しげな雰 道南のある架空の街の、川に囲まれた中州の土地、原子力発電所 回公演で、作・演出は岩尾亮である。 ff男盛りレコーズ第一
観劇片々(二〇〇六年十月~〇七年九月)
松井哲朗(演劇愛好家)
劇 評制度を巧く利用して碌に仕事もせず適当に暮らしているという社会的な矛盾と、しかし尚、放射能の被害に怯えて過敏になった神経による閉塞感と焦慮という物語だ。さらに児童虐待という、これも一つの大きな社会的テーマ。その二つのテーマを絡めて、緊迫した好舞台を展開する、金子と若者の刃傷事件という暴力沙汰の舞台表現が、実にリアリティに溢れ、刃物を振り回しての大立ち回りは緊迫し、彼らの持って行き場のない、どうしようもない感情の爆発は、最前列の客席に座った僕には、いつ僕に向かって来るのかも知れないという恐怖さえ覚えたほどであった。軽妙で重厚な社会派悲喜劇として、物語の進展といい舞台上で起きる現実感といい、全く目の離せない二時間であり、最も評価したい舞台の一つであった。
マリ☆ナイト003『夜の水』は、コンテンポラリィダンスである。構成・演出は、福村慎里子(マリ改め)。十月六日。劈頭、真っ暗な舞台、無音の中、上手袖から一筋の光を受けて真っ赤な毛糸玉が転がり出る。その糸を踏むように女(福村慎里子)が出る。舞台中央に来た女は、その糸と戯れるような手遊びのような踊りのような動きと、昔の女の子の手遊びである綾とり遊びのような動きをしばらく愉しむように踊る、というよりも遊ぶような感じは幼女のイメージか?やがて、濃いグリーンの絵の具を持った男(杉吉貢)が出て、女の腕に葉脈のような絵柄を描き込む。それは葉脈であると同時に人体模型の静脈の様でもある。やがて女は、黒くて薄い衣装を徐々に脱いでいくと、それに従って裸体の背中から太腿・臀部と全身に、葉脈であり静脈でもある濃 緑の模様が次々にゆっくりと描かれていく。時々、背景の紗幕を通して赤い糸を林のように張る別の男(柳川友希)が透かして見える。舞台上の赤い毛糸と、背景に時々見えるその赤い太い糸は、動脈の象徴なのだろうか?全身にグリーン模様の描き込みが終わると男は突然、今度は真っ赤な絵の具を含ませた太筆で、女の肩先から斜めに脇腹に掛けてバッサリと切り込む。それはまさにバッサリと一太刀を浴びせ、血を噴出させたような感じだ。だがそれは女の死であると同時に、女の心臓から肺にかけての大動脈を創生したというような、矛盾したというか、人間の死から生へと逆転する一瞬のイメージでもあった。それまで、むしろ受動的で動きも小さく少なかった女が、その瞬間から大音響のロックのリズムに乗って生まれ変わったように全身全舞台を使って踊り狂う。それは生命の再生であり生の歓喜なのか?今回の舞台は、前回の『マリ☆ナイト』と一見同じように見えながら、今度の舞台ではほとんど直接的なセックスのイメージは感じられない。静と動、死と生の対比という感覚が、グリーンと赤の象徴で浮き上がったという印象であった。
さて次は現代における集団組織の喜劇化である。ヨーロッパ企画『ブルーバーズ・ブリーダーズ』十月二十一日、作・演出は上田誠。なぜか世間に青い鳥ブームが巻き起こった。すかさずある広告代理店がブロジェクトを組んで山奥へ青い鳥捕獲隊十一名を繰り出す。正規の捕獲隊五人(石田剛太・酒井善史・土佐和成・松田暢子・山脇唯)の他、医療と食料の後方支援バイトの女の子が二人(西村直子・富永茜)、管理職が二人(部長の諏訪雅・マネジャーの中川晴樹)、
技術職の下請けが二人(永野宗典・本多力)。しかも隊員の内の二人はプロジェクトリーダーとサブリーダーという中間管理職だ。このメンバー構成からして既に、皮肉を込めて組織というものの何物かを連想させる。つまり、そのプロジェクトの本来の目的と離れた部分に、肥大化した組織のための組織を作り上げて、無駄な仕事を増やして、一種の官僚組織ともいうべきものを養っていく。彼らは、青い鳥捕獲という第一目的から外れて、余分で無駄な仕事を巡って、自分勝手なてんやわんやの大騒動が同時多発的に、エネルギッシュにしかも連続して息をつかせず繰り広げられる。無目的・無秩序化された集団は、歯車の狂った社会構造と、無茶苦茶な人間関係をシンボライズして、大笑いの内に苦笑いがふっと湧き出る。客観的にはバカな奴らだと笑ってみていられるが、自分たちがそうはならない、今の社会はそうではないと断言できないのが苦さを感じるところだ……そしてラストシーンは、青い鳥捕獲という誤報というか、期待ででっち上げられた偽情報によって駆けつけた社員たち(札幌在住の俳優たち三人)を追いかけるように、「無能のくせに独裁者である」とこの捕獲隊員たちに悪し様に罵られていた、当の社長がヘリコプターで来るシーン。ただしこの肝心のバカ社長は現れず、空から轟音と共にヘリコプターの脚と縄梯子が降りて来るだけというバカバカしいというか人を喰ったというか如何にも演劇的で象徴的な場面ではあったけど……面白かった……ヨーロッパ企画という劇団名には、何かヨーロッパに関するテーマを思わせて、全く関係のない話をするのもとぼけていて面白い。 近松で死ぬ気で遊ぶ『遊戯祭
ヒロが出演。 のドンデンの面白さを買う。その他に女子学生の婚約者で渡邉ヨシ 近松の作品とそれぞれの立場をくっつける物語の構成と、ラスト の印象しかないであろう。 超えるインパクトが欲しかった。このままでは洒落た風俗劇として 舞台装置の簡素で要を得た設えは面白かったが、演技の様式性を あぁそうなんだと全てが了解される。 と二役をやるのと、それを仕組んだ妻の強かさが最後に分かって、 皮剥がしと判るドンデン返しが面白い。雇われた弁護士が死んだ夫 最後に、この一件は妻が弁護士と仕組んだ愛人候補たちの化けの も欲に絡んで盲目になったという解釈ができないでもないが…… 現実的には、遺言の信憑性を疑問視しないのが不思議だが、それ り広げられる。 学研究者(梅津学)までホモを名乗って、2億円の争奪バトルが繰 藤夏紀)、介護していたお手伝いさん(石川藍)、同僚のアメリカ文 妻(知北梨沙)の前で、妻の妹(吉江和子)、近松研究の女子学生(谷 を遺贈するという遺言書をもって現れる。 弁護士(温水元・二役)が、故人が残した最愛の人に二億円の遺産 近松研究の大学教授(温水元)の死後四十九日。身内の法要に突然、 脚本・演出は弦巻啓太。 番面白く、最優秀賞作品になった、『死にたいやつら』十一月一日、 06』からは、現代化が巧くいって一
イレブン☆ナイン第三回公演の『イージー☆ライアー』は十一月十四日。作は納谷真大、演出は久保隆徳。誰でも緊急の場合、とっさに嘘を吐くことがある。それがとりあえず事態の混乱を回避する有効な手段となる場合もあるからだ。
結婚式前日に、昔の男(大山茂樹)が尋ねて来て男二人が鉢合わせし、とっさに今の男(水津聡)を兄だと偽り、昔の男を弟だとその場凌ぎの嘘をつき逃げだす女(松本りき)。その場に残った男二人は、それぞれ互いに義理の兄であり弟であることを了解して、何の疑問も持たずに危ない橋を渡る。男を選べない優柔不断というか、どちらの男にも未練たらたらな、この女の精神の象徴として、冒頭で結婚式場の支配人(久保隆徳)を相手に、披露宴の料理選びが出来ない女の滑稽さが描かれる。この自分の意思で物事を選べない女の悲劇が、終始一貫この芝居のテーマか?こんなどうしようもないバカ女に惚れた男に同情出来ないやと思ったけど、観ている内にリアリティを感じ出したから芝居は不思議だ。これはこの役を演じる女にリアリティがなければタダのバカ女になって成り立たない芝居だ。観ている内に何故だか哀しくなる芝居だ。笑っている内に自分を省みて哀しくなる芝居だ。苦味の強いコメディである。ラストは、夫に裏切られた女の親友(久保明子)と新しい男のために彼女を諦めた昔の男の、傷付いた者同士のブランコのシーンが幻想のようで美しかった。視覚的には確かに美しいが、長く垂れ下がったブランコの紐の描き出す幾何学模様が、如何にも人工的なのが観客に媚びているようで少し気になった。これで無事にトップシーンに戻って、ハッピィエンドかなと思ったのに、最後に幸せを摑んだと思った女の元へ、ずっと昔の外人の男が尋ねて来るという振出へ戻ったような衝撃的な終わり方であった。ただしこの外人は登場しません、玄関に現れたという女の驚きのリアクションで幕というわけです。一見その筋風の隣家の男(六条寿倖)が、コメディリリーフとし て要所要所に登場し、盛んに怖がらせ笑わせていた。
さて次は私小説的戯曲か?『サボテンの体温』劇工舎ルートは十一月十九日。作は赤玉文太。演出は高田学。煮詰まった流行作家・南條雅人(伊藤裕幸)の書斎へ次々に現れる編集者・竹上(松下音次郎)や、中園(中村ミハル)たち。作家は逃げ回る。そのドタバタのあとアシスタントと称する女・吾妻(我妻志保)が現れる。彼女は作家の電子器具つまりパソコン関係の技術のサポーターであるというのだ。ところが実はこの女性は、この作家のゴーストライターだったのだ。作家が煮詰まった時、偶然、彼女が趣味で書いて居た原稿が編集者の眼に止まり流行作家・南條雅人の名前で売り出し大いに売れて以来、ゴーストライターになったのだった。離婚の書類を取りに来た南條の妻・幸江(小川恵理)は、そのことを知っていた。敏腕編集者である妻は、その後の作家の作品にうさん臭さを感じていたのだ。作家本人も当然悩んで逃避していたのだった。作家は俄然、パソコンを投げ捨てて原稿用紙と万年筆を広げて熱い熱情をぶつける。書棚の上のサボテンは、かつて妻が贈った刺のある植物だったのだ。それを眺める二人で幕……この作品を書いた作者の私小説的な芝居だが、これは芸術作品だけの問題じゃなく、人間の生きるすべての場面に起こり得る精神の岐路を表現している話として面白く魅せた。惜しむらくは作家が新しい決意を示す時、いきなり原稿用紙に向かって万年筆を走らせる場面だ。こんなにいきなり原稿が書けるの