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那珂暴動と伊勢暴動 一地租改正反対一揆の評価をめぐって一

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一地租改正反対一揆の評価をめぐって一

大  江  志乃夫

木戸田四郎氏と私との最初の出会いは,1950年  その共通点と相違点を概観してみよう。

代の後半,ほぼ時期をおなじくして地租改正反対

       暴動発生地の地理的条件の共通性一揆の研究をおこなっていたころであり,当時木

戸田氏は那珂暴動を,私は伊勢暴動を,具体的な   那珂暴動の発生地は,上小瀬村を中心とする,

研究対象として取りくんでいた。そのころ二人の  那珂川の支流,緒川流域の標高50メートル以上の 話題にのぼったのは,茨城県真壁暴動を含むこれ  山間盆地である。伊勢暴動の発生地は,櫛田川の ら1876年(明治9)の地租改正一揆を,理論的に  下流とその分流の抜川にはさまれた,魚見村を中 どのように位置づけるかという問題であった。   心とするデルタ地帯の低湿地である。地図のうえ

地租改正反対一揆とはいうものの,一揆にたち  で見たところでは,それぞれの地理的条件は対照 あがった農民の中心的な要求は,一揆が起こった  的といってもよいほどの違いを見せている。

時期における改租事業の進捗状況とも関連して,   しかし,両者には大きな共通点があった。それ 地租改正過程にからむ要求であり,まだ地租改正  はいずれもが水害の常襲地帯であったことである。

の本質にせまる要求にまで至っていないのではな  蜂起に先だつ上小瀬村の歎願書は歎願の事情と要 いか,という疑問があった。この疑問に対して,  求を次のようにまとめている。

二人の結論は,やはり地租改正の本質を先取りし      歎願書

た一揆であり,地租改正そのものに反対する一揆      茨城県那珂郡上小瀬村一同 である,ということになったが,那珂暴動と伊勢   恭く呈書を茨城県権令中山信安閣下。

暴動とをつきあわせ,具体的に検討して結論づけ   抑当上小瀬村並に緒川沿岸一帯の諸村は,去る るという作業はおこなわれないままに,今日に至っ   明治五年七月十三日の洪水並翌明治六年九月十 た。       日暴風の為め,耕作物皆無に属し生活の度を失 たまたま1987年5月,私は,r三重県史資料編   へ困難罷在侯事は,当時村役人より御報告申上 近代1』の刊行を記念しての講演を三重県から依   侯通りに御座侯。然るに今回地租御更正により 頼され,長らく離れていた伊勢暴動の問題に立ち   全部一時金納御取立の御達を蒙,如何共窮迫罷 かえり,伊勢暴動と那珂暴動を総合的に比較検討   在侯。何となれば右凶作の結果,取入不十分且 する機会を持っことができた。ここでは,メモふ   つ物価低廉の為め金融行詰り難渋仕侯。就ては うの叙述ではあるが,その結果を一応報告してお   向三か年間年賦を以て御上納致侯様,御聞済之 きたいと思う。       義偏に奉懇願侯。尚右改正の際地価決定の基礎 茨城県の那珂暴動は12月8日の蜂起にはじまり,   基準たる種肥料及耕作費控除に違算も有之侯様 ほぼ13日までつづき,農民側に戦死5,死刑3,   聞及侯間,何卒再調か将た幾分の地租軽減の御 自殺2,懲役26の犠牲をだした。三重県の伊勢暴   恩典に奉浴度,不顧恐縮一同に代り奉歎願侯。

動は12月18日の蜂起にはじまり,ほぼ24日までつ   謹言。

づき,死者35,死刑1,懲役80の犠牲をだした。    明治九年十月 日 右村百八十六人

(2)

右村百八十六人惣代      場を以上納侯様,更に御改定被成下度侯」とあり,

大町 甚左衛門      両者の法規改正要求の焦点はちがっているが,と 小 林 彦衛門      もに地租改正関係法規め改正を要求していること 岡 崎 新 八      では一致している。

茨城県権令中山信安〈閣下〉      しかし,より大きな共通点は,歎願の動機であっ 他方,三重県飯野郡魚見村,保津村,新開村,  た。那珂の場合は,「当上小瀬村並に緒川沿岸一 久保村,松名瀬村の5か村の場合,「明治九年十  帯の諸村は,去る 明治五年七月十三日の洪水並 一月」(中旬と推定されている)の歎願書があり,  翌明治六年九月十日暴風の為め,耕作物皆無に属

その本文は長文であるので紹介を省略するが,右  し生活の度を失へ困難罷在侯事」と明記してあり,

5か村兼務の戸長中川九左衛門(魚見村)が歎願  伊勢の場合も,「五か村之義者本年八月出水にて 書の奥書を書いている。その奥書は,この5か村  魚見村堤切込一円泥冠り侯故,至て悪米に相成侯 が歎願に踏みきった理由を明らかにしている。   に付,御法方直段迄ならず,他より一層現米下直

本年直違之儀者一般之難渋とは乍申,五か村之  にならでは羅売難出来」と明記してあった。両方 義者本年八月出水にて魚見村堤切込一円泥冠り  とも災害による凶作がその直接の動機であった。

侯故,至て悪米に相成侯に付,御法方直段迄な      暴動発生地の政治的条件の共通性

らず,他より一層現米下直にならでは耀売難出

来,依ては二重之直違にて殆困却仕侯。夫共御   次にあげられるのは,暴動発生地の政治的条件 照察奉願侯也。       の共通性である。那珂郡についていえば,茨城県 戸長 中川九左衛門    と新治県の常陸6郡とが合併され,新治県権令の この年は改租による新換算米価適用の最初の年  中山がそのまま新茨城県権令となったのは1875年 にあたっていた。従来の当該年の米価による換算   (明治8)5月7日であった。旧茨城県の場合,

石代納を廃し,過去5年間の平均米価を租米の金  1874年(明治7)6月13日に「地価取調心得書」

納額に換算することとされた。たまたまこの年は  が示達されたが,新治県と旧茨城県とが合併した 米価が暴落し,三重県の場合,換算米価石当り5  日である翌年5月7日付をもって,まったく新し 円15銭を適用すれば,実勢米価石当り約3円50銭  い「地租改正人民心得書」を制定示達した。合併 に比して約47パーセントの実質増税となった。歎  まえの新治県の「心得書」がどのような内容であっ 願書本文の願意は,「其の主意は,改租成規の如  たか分明でないが,旧茨城県に関するかぎり,か く五箇年平均相場にて,今年より貢納の儀は出来  なり大きな修正がおこなわれている。新旧「心得 がたし,且当配下の儀は,本年は別して水難に罹  書」の地価算定に関する部分を対照すると,次の

り,泥米に相成り,他村同様の代価にて売却し難  ようになる。

く,困苦少からず,依て米納か其の年平均相場に        地価取調心得書

て,貢納を願ふと云ふにあり」と要約されている   第二条 一 地価積り方は,従前直作小作地之 ように,収穫反米を地価に換算する際の換算米価    区別なく小作入付何程と致し地価積り来侯地 に対する反対であった。      は仕来に基き,右入付高之内より此後之地租 那珂郡農民の願意が「地価決定の基礎基準たる    (則地価之百分之三)村入用(則地租百分一 種肥料及耕作費控除に違算も有之侯様聞及侯間,    を目的とす)等を引去り,全く地主所得にな 何卒再調か将た幾分の地租軽減の御恩典に奉浴度」    るべき米金を其村従前売買仕来之利息割合を とあるのに対し,伊勢飯野郡農民の願意は「天下    以て現今互に売買すべき者と看倣し,見込の 一般之御改正御規則を僅五ケ村より歎願なすは誠    代価を記載せしむべし。

実不相済侯得共,……何分正米納歎又は年々の相     但一ケ年先の取上高を以て積り来侯土地は

(3)

第三条之振合を以積り方可致事。        論,是迄高割反別等致し来侯民費等都て右地 第三条一畑方永取之場所等は従前小作入付    価に割合侯儀に付,万一不直の撰方等有之侯 高は実地と適当不致分不少に付,右様之地は    ては果して幸不幸を生じ,往々人民の甘苦に 小作地と錐ども小作高に不拘直作之ものと見    関侯間,能々念入精敷取調,且つ田方に両毛 なし,壱ケ年取上惣数之内より種肥代を始此    するもの有りと錐も,本毛一作の収穫を十分 後之地租村入用等を引去り,其余第弐条之振    に書出し可申事。

合を以更に至当之代価を見積可申立事。     旧「心得書」が,それぞれ個別の田畑1筆づっ 但永小作之地も入付高実地適当不致侯間,  について,実際の作益を調査し,その結果を地価 本文之振合を以取調可申立事。        算定の基準とするかのような印象を強くあたえる 内容であるのに対し,新「心得書」は種肥代「其 地租改正人民心得書         地耕作の難易及び水利の便否等」にかかわる費用 第六条 一 地価積方の儀は,直作小作の別な  の問題をすべて地位等級という相互比較の問題に く収穫の作益を見積り,正実の地価持主銘々  相対化し,実状から遊離した地価を上から一方的 より申立侯儀は勿論に侯得共、外詮議の次第  に押付けることを可能にした。

も有之侯間,地価調査便宜の為め田畑共村々   地租改正方針の大きな変更と受けとることがで 地味の厚薄収穫の多寡に依り三等に撰分け可  きる新「心得書」が示達された75年5月7日とい 申、然りと錐も其地耕作の難易及び水利の便  う日付は,9月20日に「明治九年を以各地方一般 否等に依りて人民の好悪も不勘,因て三等の  改正之期限と被相定侯」によって,「一層勉励速 区分のみにては適当不致分も可有之に付,尚  に卒業侯様可致」と改租事業のすみやかな達成が 亦分等の内上中下三段を設け,左の通都合九  達せられたことと考えあわせれば,遅きに失した 段に撰分け可申事。       ものといえよう。まして,新県権令は,旧新治県 上々  上中  上下       は別として,旧茨城県に関しては,地方の実状お 中上  中々  中下       よび改租事業の進行状況について十分把握してい 下上  下中  下々       なかった。特に旧茨城県下で実状を無視しての拙 畑方右に倣       速主義にもとずく改租事業の強行という方針が実 但地位区分は実地適当せしめん為め,三等  施に移されたものと,考えられる。

の内上中下の三段を設け九段に分つと錐も,   伊勢地方の場合も同様であった。旧三重県と度 地味の勝劣格別高下無之村々は強て九段に撰  会県とが合併されて新三重県が設置されたのは,

に不及其位置相当にて相止め可然、且つ右取  76年(明治9)4月であった。旧三重県の「地租 分け方は只一村落土地の厚薄を量侯迄に付,  改正人民心得書」が示達されたのは74年8月であ 他村へ比し申間敷事。       り,度会県の「地租改正人民心得書」が示達され 第七条 一 地味撰分方は各村正副戸長始め小  たのは同年11月であった。この3か月のずれは決

前一人別立会,田畑毎地収穫米麦小作米(豊  定的であった。

凶非常の年柄を除き普通の年柄を見積)共種   旧三重県の場合,75年9月に「地位収穫取調凡 肥し代等の諸費を引去らず,まったく一歳の  例」が達せられ,鎌止め令がだされている。つま 取揚げ高を書出し,其内にて第一多数なるを  り,75年秋の収穫を対象とする調査の段階にはいっ 以て其村上等の上と定め,其余準々等級を引  ていた。

下げ,衆議勘酌して此成則に拠り適当の段階   度会県の場合,改租事業は新三重県に合併当時

精密に取分け可申,然る上之を根拠として地  まだ丈量の段階にあり,事業はそのまま新三重県

価の高低を定め,以来年貢租元相立侯儀は勿  に引継がれた。合併の直後,県は旧度会県管下に

(4)

対し,「地租改正の義は不容易大事業に侯処,今  の方向である。同時に,運動の中心が小舟村から 般廃県相成侯に付,右調査向き逗澆侯様の義有之  上小瀬村に移っている。

侯ては不都合に侯条,総て元度会県達之通心得,   ちょうど真壁郡の農民たちが,11月27日から29 無遅緩整頓侯様厚く注意可致,此旨相達侯事」と,  日までの貢租二期一納の期限をひかえて,26日か 改租事業の促進をはかった。旧三重県管下に比し,  ら各村で減税要求の集会があいつぎ,12月1日に 旧度会県管下の改租事業は一年の遅れをしめして  は暴動化した。真壁暴動は最初の地租改正反対一 いた。ここでも拙速主義の方針のもとに地位収穫  揆であったため,政府および県の反応がかなり大 の査定作業が強行されつつあった。新三重県令が  袈裟であり,社会的な衝撃は大きかったが,一揆 旧三重県以来の岩村定高であり,旧度会県の実状  の規模・内容はその直後の那珂暴動,伊勢暴動に にうといまま改租事業の性急な達成にむかった点  くらべれば小さかった。弾圧による農民側の犠牲 も,旧茨城県のケースと類似している。      も,「逃殴律抗官司差人条抗拒して服せざる者に

       比擬」,つまり官吏に暴行した罪で,19人が懲役蜂起前の活動と指導者

80日ないし60日に処せられたが,「石代貢納に該 那珂暴動には,一揆を計画し組織し実行に移し  り苦情を唱ひ狸りに衆を聚め訟を構ふ科」では10 た本橋治左衛門という明確な指導者がいた。本橋  人が贈罪金3円ないし1円50銭を課せられただけ は,在野の知識人である士族出身の鈴木教善と連  であった。

名で76年4月に中山権令に建白書をだしている。   那珂暴動発生地付近の貢租二期一納の期限は12 建白書提出に先だって出身村の那珂郡小舟村民の  月7日から11日までであり,6日には各村で延期 同意をえるために農民集会を開いたが,弾圧を恐  歎願の集会が開かれた。なかでも小祝村の集会が れた農民の同意をえられず,2人だけで提出する  最大のものであったが,本橋らはこの集会を強訴

ことにしたという。建白書の提出は,中山権令が  にもっていこうとして成功しなかった。集会に参 地租改正のことで那珂郡高部村に出張し,12か村  加した農民のあいだにも,集会が官の説得に応じ の村役人,地租改正担当者が集められていた席上  て解散したことに不満をもつものが少なくなかっ でおこなわれたが,本橋,鈴木はこれら村役人ら  た。8日にいたって,上小瀬村にはいってきた巡 のまえで中山に所信をのべた。中山は建白書をそ  査の言葉として集会参加者の捕縛という話が流れ,

の場で却下した。       指導部は巡査を殺して一揆にたちあがることを決 建白書の内容は,どちらかといえば維新以来の  意した。

政府の政策を批判したもので具体性にとぼしく,   この過程における歎願運動の要求が冒頭にしめ 読んだ印象としては農民の立場というより志士的  した歎願書である。那珂暴動の場合,蜂起のかな な初期民権家の立場に近い。中山の建白書却下の  り以前から,本橋が組織活動をつづけており,そ あと,鈴木は元老院への建白運動に転じ,本橋は  の方針もたんなる合法的な歎願運動の組織にとど 農民を糾合しての強訴を計画し,その実行にむけ  まらず,最終的には強訴という行動形態にいたる て組織活動を開始した。士族教養人の鈴木と,農  目標をたてていた。

民本橋との路線の相違といえるであろう。     伊勢暴動の指導者は中川九左衛門とされている。

本橋は,9月ごろまでには上小瀬村,小舟村2  中川が魚見村以下5か村の戸長として5か村組頭 か村10人の指導部の組織に成功した。11月ごろと  13名の署名をえて,歎願書を第八区長桑原常蔵あ 思われる「明治九年減税歎願書連名簿」の署名は  てに提出したのは,11月中旬(日不明)であった。

小舟村6人,上小瀬村13人,氷の沢村3人,野沢  中川は若くして父親のあとをついで魚見村以下27 村2人の,計4か村24人となっている。この歎願  か村(高9585石余)の大里正(大庄屋)となり,

運動は,強訴の方向ではなく,合法的な大衆運動  旧制度廃止によって魚見村以下5か村の戸長となっ

(5)

た。したがって,ほかの戸長とはちがい,その   この情勢を見た中川は,戸長会の席で桑原に対

「言動は戸長間に重をなし,郷党又,九左衛門を  し,もはや自分の力で農民を抑えることができな 敬慕すること,慈父に接するが如し」と伝えられ  いとして,再歎願を主張した。区長はこの要求を ている。旧度会県の戸長は民選戸長であり,5か  こばみ,組頭たちを集あて農民を解散させるよう 村の戸長を兼務していたことが,この伝えの傍証  求めた。魚見村の行動を知った他の4か村も行動 となっている。       を開始し,さらに暗くなってから,周辺多くの村々

11月24日に県庁で各区区長例会が開かれた。こ  も行動しはじめ,ぞくぞくと早馬瀬河原に集合し の席上,旧三重県管下の各区長から県令に対して,  はじめた。その夜,飯野郡第八区42か村の戸長連 本年貢金上納に農民が難渋しているとの上申があっ  印の歎願書が成立し,さらに巡査との小競合いか たが,桑原はこの絶好の機会を見すごし,持参し  ら暴動化するにいたるのであるが,この間,この ていた歎願書を県令に提出しなかった。12月8日  大集会をリードした指導部のような存在を見るこ の第八区戸長例会の席で,桑原区長は歎願書を中  とができない。

川戸長にさし戻した。中川はこれを不満として区   伊勢暴動の場合,民選戸長として農民を代表す 長の不誠意をなじり,区長と激論となった。しか  るとともに末端と行政責任者でもある中川九左衛 し,中川は村に帰って農民たちに,区長が歎願書  門は,農民の要求を官に取りつぐ役割を忠実に果 を手元に留めおいて官に達しなかったことを説明  たしたが,同時に官の立場に立って農民たちを説 し,軽挙盲動をいましめたが,農民たちの一部は  得する努力をおこたらなかった。その意味では官 逆に戸長の誠意に疑惑をもち,不穏の空気がみな  と民との接点に位置する調停者であり,とても一

ぎった。       揆の指導者ということができる存在ではない。最 18日,区長は戸長たちを集め,本年の仮租額お  初に全村民を動員する計画をたてて,これを実行 よび預米方法を説示した。預米とは,とりあえず  に移したグループが存在したことは確実であるが,

貢納金の一部を玄米で代納し村々に積みおき,米  その実体はもうひとつはっきりしない。したがっ 価上昇をまって現金化して納付する方法であり,  て暴動すなわち実力闘争への転化は,那珂暴動と 11月24日の区長例会の席上で岩村県令がしめした  ちがって偶発的である。

緊急の措置であった。各戸長はこれに賛成したが,   伊勢暴動は一揆にいたる過程をつうじて統一的 中川だけは米価が上昇する保障がないとして反対  な指導者がなく,農民の要求をまとめて官に取次 した。このとき,すでに中川への信頼に疑問を感  ぐ役割をはたした中川戸長と,農民を行動に組織 じていた一部農民によって組織された魚見村の農  した指導グループとはまったく別の存在であった。

民たちは,村を押しだし,中川のあとを追った。  しかし,広範な地域にわたる農民の信頼が厚い中 村民の動員は計画的であった。那珂暴動とちがっ  川戸長の存在なくしては,農民は動かなかったで て,この大衆動員計画が組織的な計画であったか  あろうし,中川戸長の調停者的行動に疑問をもち,

どうかは分らない。また動員計画の指導部と中川  大衆行動による要求貫徹をはかるグループの存在 九左衛門はまったく関係がない。中川庄次郎の家  なしには大衆蜂起はありえなかった。

で村人動員の相談が午前8時ごろおこなわれ,4   その意味では,中川九左衛門が一揆の首謀者と 人の村民が全村民の会所寺への集合をふれ歩き,  見なされた理由のひとつとして,「九左衛門の人 会所寺に集合した村民に弁当持参で櫛田川の早馬  望あるを悪用し,保津村(現機殿村)奥田仙蔵 瀬河河原集合を指示し,早馬瀬河原への集合が終   (事件後懲役二年)なる者,九左衛門宅出入中川 わったのが午前11時ごろであったというから,非  庄助(懲役十年牢死す)中川庄次郎(懲役十年)

常に迅速な動員であった。咄嵯の思いつきで実行  の両名を巧に使嚇し,中川戸長の命の如く詐称せ

できる大衆動員ではない。       しめ,衆を集めたるため主魁者との誤解を受くる

(6)

に至る」というr伊勢暴動顯末記』の記述は,一  では,「地租改正村位二等下げ」は「田畠宅地位 面の真実をいいあてている。      とも二等下げ」となっており,「学校教員の給料

       官費の事」がなく,「右三条」となっている。那珂暴動の局地性と伊勢暴動の拡散性

伊勢暴動の場合,ここではじめて地租改正その 那珂暴動と伊勢暴動の発展の局面を比較すると  ものに対する要求が明確なかたちをとって表現さ き,那珂暴動のひろがりがせいぜい那珂郡のいわ  れたのであるが,その要求は,地位等級の一律二 ゆる山方の村々とそこから水戸に至る経路の村々  等下げの要求であった。農民が蜂起したとき,旧 に局限されたのに対し,伊勢暴動のひろがりは旧  度会県下では,ちょうどほぼ丈量を終え,「九年 度会県管下一帯はもとより,三重県全般から,さ  改正の積り収穫は,九分九厘まで承諾せしと錐も,

らに愛知・岐阜・堺(奈良)の各県の一部にまで  利子の歩合,猶取調中にて,新租未だ確定の場に およんだ。もっともこの波及は同時に闘争の分散  至らざる」段階にあった。

であった。       那珂暴動の地租改正に対する要求は,「地価決 蜂起した農民が統一的な集団として結集し統一  定の基礎基準たる種肥料及耕作費控除に違算も有 的な要求をかかげたのは,魚見村など飯野郡一円  之侯様聞及侯間,何卒再調か将た幾分の地租軽減 の農民集団だけであった。ほかに一志郡の農民が  の御恩典に奉浴度」という内容であった。ここで 統一的な集団に結集したが,統一的な要求をかか  は,種肥料および耕作費控除に焦点がむけられて げるにはいたらなかった。むしろ,一志郡の農民  いる。なお真壁暴動では,地租改正の制度そのも はその一部が過早に小部隊で県庁所在地の津に侵  のに対する直接の要求は表明されていない。

入しようとして士族徴募隊にはばまれ,目標を失っ   このちがいはどこに起因するのであろうか。ひ て集団をかたちつくったまま動きがとれなくなり,  とつには,茨城県では「心得書」の改定により,

鎮圧されるにいたったというのがより真相に近い  種肥代などの実額算定の方針が相対的な地位等級 であろう。      の比較問題にすりかえられたという印象を,農民 万を越えるという飯野郡の農民は19日の夜のう  たちに強くあたえた点を否定できない。もうひと ちに商業都市松阪を完全に制圧し,20日に海会寺  つには,那珂暴動の場合,暴動参加村が主として 野に集結し,戸長層をして改めて一揆の要求をま  那珂郡の山方,海抜50メートル以上の等高線でか とめあげさせている。       こまれた土地に位置する村々であり,緒川流域の

歎願之大意       水害常襲地帯に属していたことが指摘される。

第八区飯野郡 四拾弐ケ村     この点については,すでに74年11月,那珂・久 一 地租改正村位二等下げ。      慈・多賀三郡の地租改正総代連名の「上陳書」に 一 石代之儀取消し上納之義該年之平均を以上  おいて,「差向取調の収穫は,水旱変災の浅深を 納仕侯歎,或は正米納歎。         量り前後豊凶を考察し,収量の多寡を平均し毎地 一 諸県税廃止。      見積可指出侯様仕度,又代価計算の義は御管内東 一学校教員の給料官費の事。        西南売却地之遠近運輸之難易により高低懸隔も有 右○条願之趣特別之御詮議を以て御聞届被成下  之侯間,兎角其最寄々々区分し,数年の平均相場 度,一同奉歎願侯。      を以取調可然奉存侯」と主張しているように,珂 明治九年十二月二十日       北(県北)と呼ばれる地域に特有の悪条件を具体

右四拾弐ケ村 総百姓共   的に考慮することを求めていた。

三重県令岩村定高殿      さらに,那珂暴動後の77年3月,久慈郡村総代

この「歎願之大意」はr伊勢暴動顯末記』所載  が連名で,「久慈郡等級調査再検視要請願書」を

のものであるが,魚見村組頭長谷川庄兵衛家文書  提出し,そのなかで「地味の厚薄収量之多寡に随

(7)

い階級に分け順序を経て租額を製する事勿論なり  保の検地が実際に地租改正を先取りしたかたちと と錐,強て地之優劣をのみ以て論じ難く,水旱之  なっている,というより,地租改正の結果むしろ 損害運搬の便否,耕伝之難易,用水之有無,凶漱  地租が軽減されるという効果をしめしたのであっ 之浅深をも揆り,堤防井堰修繕之為莫大之金穀を  た。このことは,逆に水戸藩天保の検地の結果が 費消するもの勘考掛酌して相立侯儀は素より論を  大幅な耕地の増歩と増税をもたらし,地租改正の 侯ず」,と主張している。       先取り的な意味を持ったということをしめすもの

収穫の低いところでは,たんに収穫が低いだけ  でもあった。

でなく,耕作地の立地条件のわるさゆえに,種肥

ま と め 代および耕作費が普通以上にかかるのであり,そ

の実態を無視して収穫量に一律の種肥代率(1割   以上に見てきたように,那珂暴動と伊勢暴動と 5分)を乗じて地位等級をきめられたのでは,と  は,その発生地の外見上の地理的条件,暴動にい ても実状に合わなかった。総代たちは,このこと  たる指導者および事前の組織活動,蜂起農民の地 を問題にしているのであった。まして,那珂郡の  租改正そのものに対する要求の内容,一揆のひろ 山方地域は,これら久慈郡の村々より条件がわる  がりとまとまりなど,多くの点においても対照的 かった。ここに,地位等級よりも種肥代および耕  ともいうべき現象的な相違点をしめしている。

作費の具体額を問題にした根拠があった。      しかし,このような相違点は,それぞれが直面 三重県の櫛田川デルタ地帯の条件も,その点で  した具体的状況のあらわれ方の相違にもとずくも は那珂郡の山方地域とおなじ条件であった。しか  のであり,蜂起を必然にした政治的条件および一 し,飯野郡農民多数の関心の所在はちがっていた。  揆の発生地が蜂起せざるをえなかった条件は驚く 稲作の生産力が高い広大な伊勢平野の一部を構成  べきほどの共通性をしめしている。しかも,それ する水田地帯に属する地域の農民にとって,共通  それの直面した情勢の相違のなかで制度化された の利益は地位等級の引下げにあった。現に,地租  地租改正そのものに対して,その本質に立ちいっ 改正の結果,三重県は「地価は全国第九位の高率  た統一的要求を提起したこと,特に那珂暴動が種 なる結果を見る」にいたった,といわれた。同時  肥代および耕作費の問題に焦点をしぼり,伊勢暴 に,このちがいが,那珂暴動のひろがりが局地的  動が地位等級の問題に焦点をしぼり,本質的な問 な蜂起にとどまったひとつの理由でもあったし,  題を端的で具体的な要求に一本化して農民の統一 逆に伊勢暴動がたちまちにして県外にまで拡大す  的要求にまとめあげていった点では,まったく共

る大暴動に発展したひとつの理由でもあろう。   通している。

しかし,那珂暴動の局地性の原因は,そのこと   それだけに,那珂暴動と伊勢暴動にとどまらず,

が主たる原因であったとは考えられない。先の  全国どこの地で同種の農民蜂起が起こっても不思

「地租改正総代上陳書」は,「旧水戸藩之外は数  議ではない情勢が存在していたことを,この二つ 百年検地の改無之侯故,図籍錯乱して基本を失い,  の一揆の共通性が証明しているものということが 地勢沿革して畝反の伸縮貢租の甘苛無き事能わず,  できる。政府がこれらの一揆に直面して,急拠,

自然地価の昂低をなし地味の肥痩収穫の多寡,其  地租を地価の100分の3から100分のa5に改め

実を得ざるに至る,其改正の法又不容易侯得共,  たのも,こうした情勢を見抜いてのことであった

旧水戸の儀は天保度検地も有之侯て経界も正く相  と考えてよいであろう。しかも,政府は,地価決

立侯間,其品位差等を斜酌して取調侯はゴ公平適  定という地租改正の根本にかかわる那珂・伊勢双

当の真価を確定可仕哉」とのべている。      方の一揆の要求の的をはずし,政府の裁量で決定

実は,おなじ那珂郡の海抜50メートルの等高線  することができる地租率を減少する(すなわち逆

より低い野方地域および水田地域では,水戸藩天  にいつでもその増加が可能である)というかたち

(8)

での減税をおこなったのである。         参照文献

76年に起こった各地の地租改正反対一揆の個別   r茨城県史料近代政治社会編1』1974年,茨城県 研究を深める仕事も重要であるが,地租改正反対   高橋裕文r那珂郡農民一揆』上下,1980年,筑波書林 一揆全体を統一的に理解することによって,地租   r伊勢暴動顯末記』1981年復刻,三重県図書館協会 改正の本質にせまる考察はより一層必要であると   r三重県史資料i編近代1政治・行政1』1987年,三 考え,とりあえず以上の比較検討をおこなってみ   重県

た。若い研究者であった時代の先輩木戸田氏との   大江志乃夫r明治国家の成立』1959年,ミネルヴァ書 討論を思いだしつつ,この小論をまとめた次第で   房

ある。

参照

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