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茨城県の地租改正と一揆に関する一考察大 槻  功*

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茨城県の地租改正と一揆に関する一考察

大 槻  功*

(1993年10月18日受理)

On the Tisokaisei(Land tax Reform)

and Ikki(riot)in Ibaraki Prefecture

Isao OTSUKI*

(Received October 18,1993)

は じ め に

茨城県の地租改正研究は,1876(明治9)年の一連の地租改正反対一揆の最初のものとされる真壁・

那珂の一揆の場であっただけにかなり多くの蓄積がある。しかし,一揆に焦点が当てられてきたた め,地租改正事業それ自体の研究は必ずしも十分ではない1)。また,この2つの一揆の性格についても,

茨城県の地租改正反対一揆について最初の学問的位置付けを行った木戸田四郎氏が地租改正反対一 揆とすることを巡ってその見解を変えられた2)ように,必ずしも一・致した見解が成立しているとは言 い難い。

そこで,あらためて茨城県の地租改正の全過程を,ほぼ同一の体制で実施された関東地方の他府 県と比較しながら考察すると,次のような疑問が浮び上がる。

第一に,何故関東地方の中で茨城県にだけ一揆が発生したのか,ということである。茨城県は旧 来の租税負担が関東地方では重く,地租改正の結果軽減される可能性が最も高いことは周知であっ た。また,水戸藩は天保の改革を実行し,土地保有と貢租負担の不合理が比較的是正されていた。に もかかわらず,地租改正で負担が増加すると目されていた他の府県で一揆が発生せず,茨城県での み発生したことは,究明すべき課題である。

第二に,何故関東地方の他の府県では地租改正に対する反対運動や一揆があまり起らなかったの か,という疑問である。関東地方の地租改正は種々の困難があって難行が予想され,地租改正事務 局(以下,「事務局」と略記する)では特別の体制を取って進めたが,地価の決定は関東地方全般にわ たる「地位等級制度」として知られる独特の方式によって統一して行われた。この方式の特徴は,地 価算定作業の中心が地位等級の査定に置かれ,実際の負担が最後の収穫iの査定と地価の決定という 段階まで農民の目に見えてこないという点にある。そして,地租改正の結果大部分の府県において かなりの増租となった。この結果は予想されていたとはいえ,収穫の査定や地価の決定という最終

*茨城大学教育学部社会科教育講座経済学研究室(〒310水戸市文京2丁目1番1号)。

(2)

段階で,他の府県では何故大きな抵抗が行われなかったのかという疑問を起こさざるを得ない。一 揆の発生した茨城県は逆に一部を除き地租軽減になった。それに付随して,茨城県での地価決定に 一揆が影響したかどうかが問われなければならない。

以下,関東地方の他の府県の地租改正にも触れながら,茨城県の地租改正の実施過程において従 来あまり注意を払われてこなかったと思われる幾つかの間題を考察したい。

一壬申地券発行について

従来,茨城県では壬申地券発行と地租改正の着手との関係が明確に意識されていたとは言い難い3)。

それは,地券交付の作業がある程度進められ,その史料が残っているからであろう4)。しかし,壬申 地券は水戸の市街地および旧印旛県(後千葉県)管轄の北総各郡にだけ一般的に発行され,県全体と

しては,壬申地券は一般には発行されなかったのである。

1873(明治6)年6月5日付「茨城県伺大意」5>によれば「当県地券渡方之儀追々村々ヨリ下調帳差出 検査之上渡方取計候共悉皆渡済ノ儀ハ年末ニモ可至右渡済迄之虞諸公費石高二課シ候分・…従前之 通仮二石高割二取計置・…尤貫属受領地井市中沽券状之向ハ不遠渡済ニモ至リ可申候…・」とあり,

これに対する指令は「書面公費割賦方之儀…一時申出之通取計置候儀ハ聞届候條券状調方精々取 急可成早々渡済之上一般之公平ヲ得候様注意可致候事」であり,地券発行がなされたようである。し かし,同年9月8日「新治県伺大意」6)によれば「・…(地券渡方之手続一引用者)…・総計八万町歩 余之大場故追々成功延期二至漸即今地引絵図地引帳等取調出来調査済之分券状所載中二在之・…是 迄之調方ヲ以悉皆地券状相渡再ヒ改正反別裏書等取計候テハニ重之手数二付直二御改正之廉二取調 方申渡候義二御座候」に対して,「・…直二改正法之手続ヲ以取調方申渡候趣者聞置候」と地券の交 付を中止して地租改正に着手するよう指令されている。同じような事情にあった茨城県でも,1874年 5月17日付で「兼て相達置候地券調之儀今般更に地租改正に着手可及に就ては…・先般相達置候取調 方は鄭重之姿に付見合せ」との県達7)が出され,地券発行を中止して地租改正の作業に入った。後述 のように,茨城県の地租改正の着手は1874年4月の地券掛廃止・地租改正総代の任命であるから,そ の間地券調査はかなり進行したものの,地券発行には至らなかったのである。さらに,それを裏付 けるのが,1876年4月5日付「茨城県伺大意」8)である。同伺は,絶家の地所への地券発行の際縁籍者 が地券を受けている場合の取扱に関するものであるが,その文面のなかに「管下北総各郡ノ内最前 地券調之節・…調帳差出券諦ヲ受候者モ有之…・常州村々等一般最前ノ地券発行無之二付…・」と あり,旧茨城県と旧新治県では(1885年5月7日に,旧新治県の一部を千葉県に編入のうえ両県は合併 し,旧千葉県の一部を編入して,新茨城県となった),一般に壬申地券が発行されなかったことを述 べている。

もっとも,地所の売買に際しては発行された9)。また,先に見た1873年6月5日付「茨城県伺」にあ るように「貫属受領地井市中沽券状」は壬申地券が発行された。1875年9月の水戸上下市に対する1875 年9月の地租改正実施の布達1ωには,「過般詮券税御発行之節其市街実地調査既二分一税施行相成居\」

と水戸市街に実地調査と納税(地券発行)が実施されていたことが書かれている。城下町や貫属受領

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地は,従来土地所有権が明確でなく,課税もなかったため,徴税のため地券交付が急がれたのであ

る。

このように,壬申地券の発行を経験しなかったのは,関東地方では茨城県あみであったように思 われる。栃木県のうち,旧栃木県では1873年6月3日に一部の土地を除いて「管内全般の一般地券は 交付ずみ」との届を出している。ωまた旧宇都宮県でも「明治七年五月三十一日に…・沽券地・合併 村々伺中・裁判関係地を除いた一般には終了した」とされている 2)。群馬県では「壬申地券は群馬県 では九年以後の新たな地券の交付と引換えに,県庁に収公されることになり,十二年までに七万○

六八一枚が収公された。九年以後の地券が一三七万余枚交付されたのと比べると少ないので全部の 耕地については発行できなかったことが分る」というので,一部で発行されなかったものの発行そ のものは行われていだ3)。埼玉県においては,旧埼玉県・旧入間県とも交付状況ははかばかしくない

ものの発行している14)。千葉県でも,旧印旛県下の松戸市では壬申地券が発行されたことが確認さ れ15),また前述のように茨城県の旧印旛県管轄地では発行されているので発行は明らかである。神奈 川県のうち,旧足柄県は1873年11月には10分の9に発行し終わり,旧神奈川県でも同年春に約40パー セントに下付済との報告をしているのでかなり発行が進んだと思われる16)。東京府の場合,三多摩地 方は当時神奈川県下であったし,旧東京府は市街地と同時にいち早く地券発行が進められたので,耕 地にも発行されたと思われる。

壬申地券の発行は,地租改正の「不可欠の前提となり基礎となった」17)ものであるが,「数百年検 地帳の拘束をうけた農村の空気を一新し,農民の政府に対する信望を高め,改租の大業に対する支 持と協力を求めるにあった。・…改租の着手に対し・…不穏な情勢は起らず,私有地の調査したが って隠田の改出も支障なく行なわれ,地券制度そのものに対し,農民が歓呼して迎えたわけでない にせよ,反対は少しもなく,地券の信用はきわめて厚かったのである。かくて地券は計画通り発行 され,改租の基礎となった。」18)とされているように,とくに農民の意識を変える上で重要な意義を 持っていた。従って壬申地券の発行されなかった旧新治・茨城両県の管轄下にあった地域の農民は,

地租改正において発行される地券の持つ土地私有権の体化という意義について理解が浅く,地租改 正事業そのものにも理解が浅かったことが予想される19)。一揆が発生した真壁・那珂の両郡もそのよ

うな地域であった。

二茨城県地租改正の時期区分

茨城県における地租改正事業の進行状況については,既にかなり明らかにされている2°)ので,従 来あまり明らかでなかった1876年以後の地位等級の確i定と収穫iの割当ての時期21)に重点をおいて,主

として県の令達類を指標にした簡単な時期区分を行っておこう。なお,これらの令達類はほとんど 前掲のr茨城県史料近代政治社会編1』に収録されているので,以下同書よりの引用は()内にペー

ジのみを記することで示す。

[準備期]壬申地券発行と区別される本来の地租改正事業は,茨城県においては1874(明治7)年4月 7日の「地券掛御免地租改正総代申付」の県達(324ペー一ジ)で始まった22)。その後「地租改正施行規則」

「地価取調心得書」(ともに1874年6月13日付,242〜252ページ),「地面丈量之手順」(1875年3月付,257

(4)

〜258ページ),「地租改正二付人民心得書」,「地価調帳雛形」(1875年5月7日付,258〜265ページ)な どが公布され,その趣旨徹底のために官員が管内を巡回した。この時期を準備期とみることができ

る。

[実地丈量期]壬申地券発行が中止された後も実地丈量事業が継続されていた地域もあった23)が,

全県で本格的に実地丈量に取掛かったのは1875年8月15日付の「実地丈量の心得」(270ページ)が公布 され,9月20日付で「地租改正ハ来ル明治九年ヲ以各地方一般改正期限」として調査を促す第二百二 十八号布達が出されたころからである。これから,地域によって差があるが1876年夏までが実地丈 量の実施期である。

[地位等級調査期]地位等級調査というのは,地価の決定に先立ち田畑宅地それぞれに等級を付け,

それぞれの等級に応じた収穫を決め,それに米価を掛けるなど一定の計算を施して地価を算出しよ うとする方法である。このような方法は地租改正の実施中各地で工夫され導入されてきた24}が,茨 城県は地租改正が難行する関東地方を対象に1876年3月2日に事務局が決めた「関東八州地租改正着 手ノ順序」で示された方式にしたがい,7月26日付で事務局の決済を得た「茨城県地位等級及ヒ収穫 地価調査順序」(277〜279ページ)で具体化して実施した。

この方法は,関東地方を一括して国(州)の地位等級を決め,各県においては郡・区・村の地位 等級を土地所有者から選挙された総代の投票により定める。一方,20前後の村々をまとめて組合村と し,その中の1村を模範村に選び,その村の耕宅地の地位等級を各村の代表が審議して決定し,これ に照らして各村の地位等級を決定する。すべての地位等級が定まった後,各国(州)の収穫見込を 州位に応じて決め,その見込が達成されるよう各郡・各村の反当平均収穫iをそれぞれの郡位・区位・

村位に対応して決め,それを各耕地の地位等級に割り当てる。それに基づき各耕地の面積に応じた 収穫と,別に定めた米価・利子率を所定の計算式にあてはめて地価とを算定するというものである。

この方法の特徴は,第一に,地位等級は当事者である農民の代表の投票によって決定するところに ある。地位等級は他の耕地や他の町村と比較で定められるので,低い地租を求める農民の要求は,土 地所有者相互の対立によってかえって妥当な地位等級をもたらし,高い等級に対する反抗も各州・各 郡の対立の中に解消され納得せざるを得ないことになる。第二の特徴は,地位等級に対する収穫の 割当ては,一方的に地租改正の当局者によって行われることである。事務局は各国の収穫見込を高 く設定することによって,地位等級ごとの反当収穫を高めに決め,高い地価を得ることができ,地 租も高く定まるのである。この2つの特徴を組合わせることにより,重い地租負担を平等に分かち合

う体制が作られた25)。

さて,茨城県では前述の「地租改正人民心得書」の第六条に,「田畑共村々地味ノ厚薄収穫ノ多寡 二依リ三等二撰分ケ可軋然リト錐モ其地耕作ノ難易及ヒ水利ノ便否等二依リテ人民ノ好悪モ不勘 因テ三等ノ区分ノミニテハ適当不致分モ可有之二付尚亦分等ノ内上中下三段ヲ設ケ左之通都合九段 二撰分ケ可申事」(259ページ)とあったので,実地丈量が進行中の1876年4月21日付「地主総代設置」

の布達(326ページ)で「調査精密地位収穫ヲ議定スルノ際ニヲイテモ各地ノ比準公平ナラシムルノー一 助」にするため各小区に地主総代を設置した。「地租改正人民心得書」の方法は,各村内単独で9段 階までの地位等級を付するというもので,他村との比較などが規定されていないが,この地主惣代 は各地の地位等級を比較することを目的にしており,関東地方共通の地位等級制度実施の先駆をな すものであった26)。そして,前述の「茨城県地位等級及ヒ収穫i地価調査順序」は,1876年8月26日付

(5)

「国郡区村等級見込投票の県達」(279〜288ページ)によって管内に公布され実施に入った。したがっ て,この時から地位等級調査が開始されたとみてよい。

茨城県の地位等級調査は,郡位の等級調査(投票)で始まった。郡位の比較投票は1876年9月15日を 期限に実施されたが,その投票は順調に進まなかったため10月17日まで期限を延長したことがわか

っている(282ページ)。次に,10月2日付の「地主総代選挙心得書」(327〜328ページ)および翌3日付 の「地位等級調査心得書」(285〜289ページ)によって,(1)地主惣代の選挙,(2)組合村の模範村策定,

(3)模範村地位等級調査(4)組合村各村一等地比較村位調査,(5)各村内等級調査,という組合村段 階での調査方法が示され,10月7日ころの組合村の決定通知と各村での地主惣代の選挙によって開始 された。

組合村段階の等級調査の進行状況は地域によって異なると思われるが,多くの地域で未だ完了し ていない,1877年2月24日付「甲乙模範組合地位比較表調査順序」(292〜294ページ)によって,(6)隣 接組合村等級比較が命じられた。これによって,一旦決定した組合村内の地位等級が再調整される ことになる。こうして,各郡内でおおよその地位等級が定まった後,7月4日付「各郡等級連絡調査順 序」(299ページ)によって,(7)各郡等級比較がさらに行われることになった。

この間,各組合村は,調査とそれを不十分とする官員の指示による訂正・追加調査,あるいは実 地調査に没頭し27>,しかも,他の組合村や他郡の隣接村との比較上から等級の訂正要求に応じること が求められた。この過程でさまざまな問題が起ったがその全容は明らかでない28)。

ところが,こうして決定した地位等級は,事務局から示された収穫i目的を実現するために,さら に「精選調査」の名で再検討を命ぜられるのである。

[収穫目的の決定と収穫の配賦]後述のように1877年8月〜10月に事務局で開かれた関東府県長官 会議において,各府県の平均収穫目的が決定された。各府県はこの平均収穫iを目的に各郡各村の平 均収穫を配賦し,それを人民に押し付ける作業に入った。

この会議の結果をうけて,茨城県では1877年10月24日付けで茨城県第三課々長心得樺山資雄から 権令大書記官宛の「改租収穫其他調査之儀」と題する文書(299〜300ページ)で,具体的な収穫i割当 て作業の方法が検討された。即ち,「今般地租改正事務局二於テ関東府県官会議ノ末当県全管内平均 壱反当リノ収量議定相成候二付而ハ左二撮録スル条々ノ要領ヲ熟議シ調査ノ方向ヲーニシ各人民ヲ シテ改租ノ公平ナルニ甘服セシメ候様審査致シ度因テ御決判ヲ乞フ」たのである。具体的な収穫の 決定方法は,次のように提案されている。

まず,「各郡共上等地及末等地全管連結シタル等級二就キ実際成立スヘキ地位ノ等級ヲ議シ其穫量 ヲ議定」し(第一条),次いで「各郡収量議定スル以上二於テハ右収量毎村へ配賦スルヲ議定」(第二 条)する。そして,「毎村へ収量ヲ配賦セシ以上地位等級精撰方ヲ議定」(第三条)と各村の等級に具体 的に収穫を決定させるのである。同時に,「全管田畑最上等地収量弐石五升末等地同三斗以下等外ト シ故二全管内等級一等ヨリ十二等以内二止メ以下等外四等迄ヲ極度トシ其開差等内より等外へ移ル 五升以下順次五升劣リヲ以テ調査スヘキ事」(第五条)や「利子ハ渾テ六朱ヲ用ユルヲ法トス,然レ共 極不便ナル山間ノ村落等実況止ムヲ得サル事故アル部分二於テハ些少斜酌アルヘキ事」(第八条)など,

具体的な収穫・地価の決定に関わる注意事項が定められた。ここで「前条ノ目的ハ各主務ノ担当員 腹案二供スベキモノナレハ全管等級確定シー般人民ヨリ収穫申立検査二臨ム場合二至ル迄ハ他二漏 泄セサルヲ要ス」(第十一条)と,最終段階まで具体的な収穫目的を秘密にすることも定められている。

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これに基づき10月30日付けで「各郡最上最下平均収穫概量見込表」が達せられた(301〜302ページ)。

これは先の「改租収穫其他調査之儀」に附属していた「常総両国々郡位井平均上州各目的表」(300〜

301ページ)を,各郡の最上村と最下村の平均収穫の目的へと具体化したものである謝。同日「地位等 級精選調査申合書」が示され,続いて,11月5日付「一般地位等級精選」を命ずる達が出された(305 ページ)。これは,「今般全連絡ノ地位等級二於テ多少ノ伸縮ヲ生シ」たためとされているが,既に 見たように,収穫目的を具体化し押し付けるための作業であった(そのため同達は「検査済否ヲ不問」

と決定済の等級も白紙に戻すことを命じている)。この調査は,勝田市では翌1878年1月18日に終わ り3°),水戸市域の場合も1月中にほぼ終了した3D。

こうして,2月8〜12日には「改租地位等級精撰概成二付」収穫地価の決定についての会議が開催さ れ32),個々の耕地の収穫と地価の決定に関する具体的な手続きについて達示案の決定や申合せがなさ れた(305〜309ページ)。こうして,決定した各郡の収穫と村位・村内各地位に応じて収穫と地価を 確定する収穫地価調査に入ることとなった。

[収穫i地価調査と地券発行期]決定された平均収穫とそれに基づく地価の概数は,1878年3月9日か ら県令が各地に巡回出張して,毎村の一等地の収穫について示達し,受書を提出させることになっ た(314ページ)33)。4月15日にはほぽそれが完了したようで,地価地租取調帳の調整と進達を命ずる通 達が発せられ,同時に模範組合村が廃止されて仕上げに入った(318〜322ページ)。

8月12日には改租竣行新税施行が布達され(360ページ),9月23日には地券の交付を開始する布達が 出され(360ページ),ここに,耕宅地の地租改正は終了するのである。

[山林原野地祖改正調査期と地租改正の終了]1879年10月から山林原野の地租改正が開始され,1881 年6月に終了する34)。この経過については本稿の趣旨を外れるので,省略する。そして,1882年2月6

日の県の地租改正課廃止の県達が出され(373ページ),地租改正はすべて終わった。

三一揆の時期と性格

上に見たように茨城県の地租改正事業は,実地丈量は着手が遅れたものの比較的順調に進んだが,

その後の地位等級調査期に,次々と調査方法の変更や調査結果の再検討が起って,手間取っている 事がわかる。そして一揆が発生したのはこの地位等級調査期である。この時期区分を踏まえて2つの 一揆の性格を再検討してみよう。

真壁郡の一揆の前提になる請願運動が真壁郡一帯に広まっていったのは1876(明治9)年11月27日こ うからであるが,一揆の中心地の1つであった伊佐々村では11月17日に地主総代選挙が行なわれてい るので,地位等級調査に着手したばかりで,まだ模範村の設定も行なわれていない時期であった35)。

那珂郡でも,一一揆の起った12月は,地位等級調査の準備として惣代選出が行われ始めている時期で あったが,一揆の準備は同年の4月から開始され,8・9月には実行の準備に着手していた36)。したがっ て,両一揆とも,地租改正事業は実地丈量を終了したばかりで,丈量による面積の増大があって地 租の増加が予想されるにしても,最終的な地租負担の見通しが明らかでない時期であった。

茨城県地租改正において最も難行したのは,地価確定の前段に当る地位等級調査の段階であった。

ここでは,組合村調査の過程では村民や各村の相互の間で,その後の各組合村比較や各郡比較の過

(7)

程では各組合村や各郡相互の間で,利害の対立が起ることになる。もしこのような時期であれば,一 揆の形態や参加者の結合は異なっていたと思われる37)が,実際に一揆が発生したのはそれ以前であ った。そのことを反映して,一揆の要求の中心は1876年の貢租納入と諸負担の軽減であり,直接地 租改正に関わる要求は付随的なものであった38)。また,2つの一揆の発生地域の状況も一揆の発生事 情も大きく異なっていた。

真壁一揆の起った地方は桜川沿岸の水田と畑の混在する比較的生産力が高い田畑作地帯で,綿作 など小商品生産が進み,また郡内有数の市街地である真壁町に隣接していた39)。ここで一揆が発生し た直接の原因は,県当局の強圧的な対応であった4°)。一方,那珂一揆の発生した地域は,耕地に乏し い山間部で,生産力が低く市場にも遠い。富裕な農民が営む紙漉きが最大の産業であっだD。ここで の一揆は,尊擁運動的伝統と結合した一部農民の計画的な新政反対運動の強訴であっだ2)。

したがって,一揆発生の時期と要求内容から,木戸田氏は「明治9年一揆は地租改正反対を主たる 目的とするものではなく,それ以前の,しかし,それは地租改正=高率貨幣地代収取の機構を必然 的に生み出しつつあった,維新政府の政策に反対する一揆と考えるのである♂3)」と主張されたので

ある。

しかし,茨城県の一揆と地租改正事業は密接に関連がある。真壁一揆の前段階の請願集会が真壁 郡内各地で持たれたのは,地租改正の丈量の経費が嵩んだ上さらに地位等級調査が命じられたこと が石代納貢租の重さを感じさせたたあであり,警官の強圧的な対応も改正事業の進捗状況の遅れに 対する過剰な反応と考えられる。那珂一揆においても,首謀者は権令の改正事業督促の巡回時に提 出した建白書が拒否されたため,武装請願を企てるに至ったという。また,1876年の貢租の納入困難 は,進行しつつある地租改正の経費負担とともに,地租改正による増税を予想させることによって 農民の不安を強め44},各地に不穏な動きを招き,性格の異なる2つの一揆を連続させたと思われる。茨 城県は一般に壬申地券の発行を経験していないことも,このような不安を強めたと思われる。

木戸田氏が見解を変えられたのは,これらの点を考慮されたからであろう。氏は前掲「幕末維新 期の一揆」において,地租改正の実施過程における一揆を地租改正初期のものと地価決定あるいは 反当収量決定の時期におけるものと二期に区分し,前者では「改正費用の負担増加を,その他の諸 賦課,たとえば学校賦課金・土木費等とともに反対した」とされ,後者は「高額地租に正面から反 対する。」とされたうえ,茨城県の2つの一揆をその第一期のものとされた㈲のである。

茨城県の一揆は,真壁から那珂へ飛火した外周辺に拡大することなかったが,より地租改正事業 が進んでいた三重県では周辺地域へ次々と拡大して,ついに地租の2分5厘への切下げにつながった ことは衆知のことである。三重県で一揆が最初に発生した旧度会県では,激発の事情はほぼ真壁一 揆と同様であったが,地位等級が確定して収穫反米の査定にまで地租改正事業が進んでいたため,一 揆の嘆願の第1に田畑等級の引下げの要求が出されていた。さらに既に地租改正がほぼ完成していた 旧三重県に拡がった時には,地租改正で官側の押付け反米に同意した小区役員や改租関係役人に対 する攻撃として木戸田氏のいう第二期の一揆へと発展していったのである46)。

三重県の一揆のこのような広がりをみると,茨城県の一揆が真壁と那珂以外の土地に拡大するこ となく終わったことの根拠が問題となろう。

前掲r勝田市史 近代・現代編1』は,那珂一揆に参加した村々は海抜50メートル以上の山方の 村々であったとして,その特徴は生産力が低く,特に種肥料や労力などの費用が掛るため15パーセ

(8)

ントという地価算出における種費代の控除比率に不満が大きかったと述べている。これに対して,勝 田地域の位置する含まれる那珂郡野方地方が一揆に参加しなかったのは,種肥代の不満が少なかっ たからであり,那珂郡の山方と同じ条件の久慈郡の山方の村々が一揆に参加しなかったのは,久慈 郡の方が耕地の条件が良く生産力差が小さかったからだとされている47)。

また,真壁一揆について分析された斎藤氏は,一揆が波及しなかった真壁郡内の台地上の村につ いて,農業が自給的であり地主小作分解が激しかったとされ,一揆の発生した地域との商品経済の 発展度の違いを指摘している48)。しかし,当時この地方では大豆や小麦,小豆等もかなり商品化が進 んでいたので,商品生産の発展度がそんなに差があったとは思われない。ところで,真壁郡と隣…り 合った結城郡では,村役人たちが貢租の上納について下妻支庁の県官に相談し,県官から県権令に 掛合い,県の許可は得られなかったものの,なんらかの方法で県官が数ヶ村の貢納額の引直しを行

った。このことが一揆の激発を防いだという49

これらから見る限り,当時の茨城県は一般的には大規模な一揆が発生する状況ではなく,特殊な 伝統に根差した那珂郡の蜂起があったため,大規模化したと考えるほうが妥当である。

地租改正反対の一揆が拡大するとすれば,より明確に地租改正による増租が予想される関東地方 の他の府県にであったのではないか。それが見られなかったのは,関東地方特有の地位等級制度の 下では,最終的な地租増徴の見通しが立たない地位等級調査の段階では,相互の対立が表面に出て 一致した運動が起りにくいからだと思われる。

四 関東長官会議と平均収穫の配賦

先に触れたように,茨城県の地租改正をめぐる従来の研究は一揆以後の地位等級調査の状況や収 穫iと地価の確定段階についてはあまり詳しく触れられていない。特に見落されているのは1877(明治 10)年11月からの再調査の位置付けである。ここでは,同一歩調で進んだ関東地方の進行状況を概括

しながら,茨城県の進行状況と結果について検討しよう。

関東地方の府県は,地租改正事業の進行状況はまちまちであったが,1876年3月2日に「関東八州地 租改正着手の順序」が策定されてからは,同一歩調を取ることになった。そして,7月26日付けで模 範組合村制度を具体化した「茨城県地位等級及ヒ収穫地価調査順序」が決済されてからは,これを 基準に各府県で具体化5°)し,地位等級調査→収穫地価の調査を行うこととなった。各府県は8月〜10 月にそれぞれの規則を定あて実施に取り掛かった51)。同年10月には事務局の責任者であった松方正義 が担当者になり,7日から6県を巡回出張して実地踏査と進行の督促に当った52)。

こうして各府県とも等級調査に着手したが,その直後に一揆が発生したのである。この段階での 反対運動は,先の茨城県におけるものの外記録されていない。地位等級調査は,特に村毎の比較が 始まる1876年に入ってから多くの問題が起り53),難行したが,1877年夏ころまでに,ほぼ完了してい

た。

しかし,各等級への収穫の割り当てと地価の確定は茨城県と同様11月以降に遅れるのであるが,そ れは,先述のように事務局から関東地方の各府県への平均収穫i目的が割当てられ,この収穫平均を

(9)

目的に各郡各村の平均収穫を決定しようとしたからであるQ一般に関東府県官会議と呼ばれている この会議について,有尾敬重は次のように述べている5%

西南戦争の方も落着したので,一府六県の知事を召集して,諸般の材料を以て取調たる額を示 し,之を施行しなさいと云ふ様に協議されたものでありますが,然う云ふ多数を一席に集めたこ とでありますから議論が八釜敷く,然う云ふ額は実際に行へないと云って中々聞き入れませんで した。殊に関東は税率が二箇半になっても尚ほ増税が甚だし,千葉県茨城県は夫れ程でもありま せんが,外の県は頗る相違が多く,就中埼玉県は尤も甚だしいと云ふので,知事は全国公平劃一・

にする御趣意であるけれども,之を一時に施行する事は如何ともやり兼ねると云ふ様なことを陳 述しまして,容易に承知しなかったので,一週間くらい熟考の時を与へ,一方地租改正局の方で も再考致しました結果,他の租税の減ずる所と違つて斯う云ふ地租の増す地方にあっては一時に 真正にやる事も出来兼ぬる事情もあると認め,且つ知事も聯合して甚斗酌を迫られたので,已むな く前に提出しました額より,畑に限り,三分乃至五分を減じた慮を以て査定額とし,更に協議に 上せて漸く決着しました。然し引受をした上は実行は総て自分等に任せて改正局の出張員は差出

しなき様にして頂き度いと云ふ事になりました。改正局の方でも総額に於て増減を生ぜざれば其 目的は達するので有りますから其額を県知事に任せられまして,知事が背負つて一般を纏めたの で有ます。

この会議の時期について,従来まちまちに記述されている。前述の「有尾敬重略歴」では「十一 年八月二至リ漸ク…・関東ノ各地方長官ヲ東京二召集シ」55 と書かれているので,一年の誤りがある とみれば1877年8月ということになる。また,r公爵松方正義伝』では松方正義が9月以降主催したと している56)。また,耕宅地の地租改正完了を報告する1978年8月3日付「茨城県伺」では「客年九月中 各府県官御局会同の際本県の反額御決議に付」と,9月としている。57)

ところで,r栃木県史』では,栃木県で地租改正に従事した県官の記録からこの会議の状況が述べ られている58)。これによるとこの会議の経過は次のようである。8月に関東1府6県の長官が事務局へ 召集され,協議に入った。栃木県では県令が9月3日上京して収穫見込を訂正して,上申した。その 後,事務局は「各県連合ヲ嫌ヒ,毎日或ハ隔日二別招シ」59)て個別に各府県の見込額を否定して局側 の目的額を示し,受諾を迫った。栃木県令は9月10日,14日,19日の3度呼出されて強く受諾を迫られ 極力抵抗したが,19日に事務局が提案した妥協案を結局認めざるを得ないだろう(9月24日現在)。

なお,r公爵松方正義伝』に1876(明治9)年9月21日と同年10月9日のものとして収録されている大 久保利通宛ての書簡は,その内容を上の経過と照らし合せると,1年後の関東地方長官会議の経過報 告と思われる6°)。そうだとすると,後者には「関八州県令一同へ大蔵卿より収穫一條,達方相成候庭,

皆同御請相成候内,例之埼玉,栃木両県少々ぐつ〃〃陳述有之候得共,明日確と可申立との事に御 座候。・一・断然今日迄相済候段も相達置候間,右様御承知可被下候」とあるので,10月8日に全体会 議が開催され,9日に終わる予定であるということになる。

以上から,関東長官会議とされていたものは,8月下旬から10月初旬までの間,事務局と各府県と の間で断続的にもたれた折衝と会議を総称するものであったということになる。

この会議における事務局と府県の収穫見込の内容と結果は,表1のようである6%この結果を見る と,事務局は有尾の先の記述とは異なり,それぞれの府県で田畑とも相当の増減を行っている。た とえば,栃木県,茨城県の決定収穫は田畑とも両者の見込より引下げとなり,埼玉県では田は両見

(10)

表1 関東各府県反当収穫比較

(単位:石)

東     京 神  奈  川 埼     玉 群     馬 砺     木 茨      城 予      葉

田   畑 田   畑 田   畑 田    畑 田    畑 田    畑 田    畑

局見込(A) 1.354  1.1392 1.3153 LO168 1.317  1,144 1.3005  1.006 1.1126  0.9534 1.042  0.9278 1つ18  0£25

府県見込 1.3038 1.048 1.250  0.900 1.168  1.186 1.09415 0.90888 0.971  0.860 1。043  0.941 0.943  0850 決 定(B) 1300  LO85 1.262  0.968 1.264  1.089 1.248  0.958 LO68  0.908 1000  0.884 0.977  0.881 増減率(BIA) 96ρ   95.2 959   95.2 960  95.2 96.0   95.2 96D   95.2 96.0   953 90.1   95.2

出典:局見込と府県見込は,大隅重信文書A2006。決定額は前掲r栃木県史 史料編近現代四』258ページ。

表2 関東各府県地租見込額比較       (単位:円,%)

地   目 旧貢租 事 務 局 見 込 府  県  見  込 改   正   結   果

(A)

地 租 額

@(B)

増 減

a/AA/B

地租額

@(C)

増 減

b/AC/8

地租額

@(D)

増   減 c/AD/BD/C

田畑 233,466

S0,883

230,540 W0,689

99 101 P97 51

233,663 V8,130

100 101 P91 97

221,590

Va464 95 96 95 P94 98 102

尿 宅地 30,674 34,659 113 42,179 138 122

274,349 341,903 125 80 346,452 126 101 343,233 125100 99

663,612 489,123 74 136 465,063 70 95 46&778 71 96 101

底 畑 129,766 330,780 255 39 292,806 226 89 308β20 238 93 105

宅 地 72,016 42,486 59 77,196 107 182

市街地 20,754 12,834 62 27,172 131 212

793β78 912,673 115 87 813,189 102 89 881,966 111 97 108 1,192,777 1,154,196 97 103 1,023,981 86 89 1,102,196 92 95 108  畑

賴n

203,709 463,318 P45,010

227 44 483,363

P10,027

237104

@ 76

440,767 P54,862

216 95 91

@ 107 141

1,396,486 1,762,524 126 79 1,61τ371 ll6 92 1,697,826 122 96 105

736,805 517,874 70 142 436,902 59 84 500ユ95 68 97 114

馬 畑 174,710 328,693 188 53 29α848 170 90 312,069 179 95 105

宅 地 95,633 92,758 97 94,185 98 102

県 計 911,514 942,200 103 97 826,509 91 88 906,449 99 96 110

栃木県  田

@畑

賴n

@計

646,357 P37,741 V84,098

625,144 Q22,081 W7,098 X34,323

97 103 P61 62 P19 84

549,155 P95,815 W9,789 W34,759

85 88 P42 88

@ 103

P06 89

602,960 Q04,158 W0β29 W8τ447

93 96 110 P48 92 93

@ 92 89

P13 95 106

1,202,873 973,ll8 81 124 973,865 81 100 925,528 77 95 95

 畑

﨟@地

184,038 303,496 P04,881

165 61 307,814

P04,881

167 101

@ 100

287,732 P04,206

156 95 93

@ 99 99

1,386,911 1,381,495 100 100 1,386,560 100 100 1,317,466 95 95 95 1,576,990 1,216,935 77 130 1,127,281 71 93 1,165,704 74 96 103  畑

賴n

232,279 257,809 X3,476

ll1 90 236,640

X1,302

102 92

@ 98

244,053 X8,306

105 95 103

@ 105 108

1β09,269 1,56&220 87 115 1,455,223 80 93 1,508,063 83 96 104

6,252,880 5,206,930 83 120 4.809β10 77 92 4,986,951 80 96 104

1,103,125 1,986,866 180 56 1,891,417 171 95 1,8π063 170 94 99

宅 地 628,788 565,902 90 651,263 104 115

市街地 20,754 12β34 62 2τ172 131 212

計田畑計 7β56,006 V,356,006

7.843β38 V,193,795

107 94 X8 102

7,280,063 U,701,327

99 93 X1 93

7,542,450 U,864,014

103 96 104 X3 95 102

*_.Yの数字は74,709であるが過小に過ぎるので同表の差引き増減から逆算して訂正した。

備考:旧貢租は1873〜1875年平均とされている。また,改正結果の地租は税率百分の三である。

出典:旧貢租は大隈重信文書A2024,府県見込と事務局見込は同A2047。改正地租は「地租改正報告書」

(大蔵省編r明治前期財政経済史料集成第七巻』改造社,1933年,所収)より。

(11)

込の中間に定まったが,畑は両者の見込よりも引下げられた,などである。

このような,収穫目的の内容と変化はどのような意味を持つのであろうか。地租の増減の見込を 示す表2は,事務局が作成した比較表をもとに作成したものである62)。事務局の地租の見込(以下,事 務局見込とする)は,合計の欄で明らかなように関東地方全体で田畑のみでほぼ旧貢租が確保できる

ように設定されたことが明らかである。これに対して府県長官の主張(以下,府県見込とする)は,市 街地を加えてほぽ旧貢租に相当する額であった。地租改正の結果による地租は,3パーセントの旧地 租率では田畑のみでは旧貢租をやや下回っているが,宅地をあわせた合計では旧貢租額を上回り,事 務局見込と府県見込のほぼ中間という結果になっている。

これを府県別にやや詳しく見よう。旧貢租との比較では,事務局見込と旧貢租(B/Aの欄)は,田で はほとんど減少しない東京,埼玉,栃木を除いて他の4県はかなり減少し,畑は11パーセントの増加 に過ぎない千葉県を除いて65パーセント(茨城県)〜155パーセント(神奈川県)の増租となっている。

また,府県見込でも田と畑の見通しの傾向は同じである。府県見込と事務局見込の比較では(C/B欄),

茨城県と東京府がほとんど事務局見込と一致するが,他の県はおおむね事務局見込よりかなり下回 っている。次に,改正結果と府県長官見込との比率(D/C)は,府県によって田畑の増加・減少が交錯 しており,必ずしも一致しない。一方,事務局見込との比率(D/B)は,田と畑との数字が非常に近い。

この結果から,地租改正の最終結果は,府県の見込に沿ってではなく,結局事務局の主張を元にそ れを若干割引いたものがほぼ貫徹したといえる。

ここで,特異なのは茨城県の場合である。表1,表2ともに事務局の見込と県の見込がほとんど一 致しているにも関わらず,決定された平均収穫と地租はそれらを下回っているのである。先に見た 栃木県の県官の史料は「各府県ノ呈出セシ額等夫々問合」た結果として府県見込と局見込の数字の 一覧を掲載しているが,それによると茨城県の県見込の数字は田が1石1斗,畑が9斗で表1にある数 字と異なり,さらにこの数字の下に「此条注目スベシ,之ガ為二大ナル難論ヲ醸生スルアリ」と朱 書している63)。ここで「論難ヲ醸生スル」とは栃木県が平均収穫の引下げを要求した際事務局は,

隣県の茨城県の高い収穫i見込を根拠に否定したのであろう。しかし,茨城県の決定された平均収穫 は栃木県の調べた県見込をも下回っている。他の府県の収穫や地租を引下げた結果,それらとの釣

り合い上事前の見込よりも引下げられたとも考えられるが,県の見込が栃木県の調べた数字と大き く異なって事務局の見込に余りにも一致していることは不自然である。今後の検討が必要であるが,

一揆の起った茨城県の地租を減少させるという点で何等かの同意が事務局と茨城県との間でなされ,

その上で茨城県の見込を他の府県の牽制のために作意を施したのではないかという疑問が残る。

さて,以上のように関東地方では茨城県と千葉県を除いて大幅な増租となった。しかも,この旧 貢租は1873〜1875年平均であるが,関東地方は,廃藩置県後いわゆる畑の安石代の廃止が実施され,

畑の貢租は幕藩体制期に比して既に大幅に増加していた6%にもかかわらず,収穫と地価の決定に対 して大規模な反対運動が起っていないのは,何故であろうか。

改正地価が決定されていく時期には,既に地租率が2.5パーセントに引下げられていたため,埼玉 県と東京府以外は実質的に減租になったこと,特に田の地租が旧貢租に比べてかなり大幅な減租に なったことは,当時の農民に大きな減税感を与えたと考えられる。さらに,西南戦争後のインフレ 期に当って比較的米価が高く重税感が薄れたことも,同じ意味を持った。

さらに,関東長官会議において事務局が一定の範囲ではあるが柔軟に対応したことも見逃せない。

(12)

収穫目的の一定の引下げを認めたこと,有尾の引用にあるように県長官の自由な対応を認めたこと や,算定の基礎になる米価を県内で一律にはしなかったこと65)などがそうである。これらの結果,農 民は,絶対額はともかく相対的に公平な負担であると納得せざるを得なかったと思われる。

終りに

こうして,最難関とされていた関東地方の地租改正は,一時的な物価高騰という偶然の助けもあ って完了したが,そこには,大きな矛盾が隠されていた。それを述べて次稿の課題としよう。

第一は米価の問題である。地価算定の基準となった米価は,群馬県や埼玉県秩父地方など田が少 なく米の消費地であるような地方は著しく米価が高く,反対に田が多く米の移出地であるような地 方は米価が低い66)。したがって各府県への平均収穫の割り当てが公平であったとしても,地価と地租 には大幅な差が生じることになる。しかし,その後米の流通の急速な変化により米価の平準化は進 み,地価の不公平が問題化する。この点は後に全国的に大きな問題になり,初期議会において地価 修正を要求する大きな根拠となったが,この矛盾は,関東地方では1884年の群馬事件,秩父事件と なって表れた。これらの激化諸事件の主要な発火点が,関東地方でとりわけ改正米価が高かった群 馬県と埼玉県秩父地方であったことは象徴的である。

第二に,茨城県の地租改正の結果の特異さも重要である。茨城県には壬申地券の未発行という事 実に表れているように農民の理解の低さと,測量や事務能力の不足があり,一揆が起ったこともあ ってかなりの不正確さを残して地租改正を終った。その結果,茨城県では1887年からの地押調査が 大規模に行われ67),そこで大幅な面積と地租の増加があったこと68)がこれを裏付ける。

第三に,農民の諸階層による地租改正の影響の違いの問題である。本稿では,あまり地主的土地 所有が展開していない茨城県を中心に検討してきたため,この問題を論じなかった。しかし,1876年 の一揆や1884年の激化諸事件において,明らかに階層によって異なる対応が見られる。関東地方の 地租改正の方法が,それぞれの階層にどのような意味を持ったかを検討する必要がある。

1)近現代の茨城県の農業史についての総括的な文献である茨城県農業史研究会編r茨城県農業史 第一 巻』(茨城県農業史編さん会,1963年)や,詳細に史料を収録した茨城県史編さん近代史第1部会編r茨城 県史料 近代政治社会編1』(茨城県,1974年)の「解説」では,1877年以降の経過はほとんど触れられ ていない。県内の市史等でも,後に述べるように一部を除いて同様である。

2)木戸田氏は「明治九年の農民一揆」(堀江・遠山編r自由民権期の研究 第一巻』有斐閣,1959年初版 刊行)において,1876年の那珂郡の一揆が本来の意味での地租改正反対一揆ではないとの見解を示され た。その後,氏は「維新期の農民一揆」(r岩波講座日本歴史 近代2』,岩波書店,1962年)において「一 揆の起った時期の国内情勢を考える時,茨城一揆は改租事業と密接に関係している。又,私自身,その 後の調査で茨城一揆と改租事業の関連も明らかにすることができたので,ここでは旧い主張を修正する。」

とされた。

(13)

3)前掲「茨城県農業史 第一巻』では,壬申地券の発行は「明治七年(一八七四年)四月には,ほぽ完了 の見通しがついたらしく」(62ページ)と述べ,壬申地券の交付を経て地租改正事業に着手したかのよう に記述している。また,前掲r茨城県史料 近代政治社会編1』でも地券発行についてはあいまいな記 述をし,茨城県史編集委員会編r茨城県史 近現代編』(茨城県,1984年)においては「地券調査を中止

して実地現反別の調査のみを行うよう通達され」(32ページ)と,通達の紹介という形で述べているに とどまる。

全国的な状況を分析している福島正夫r地租改正の研究』(有斐閣,初版1967年,増訂初版1970年)や丹 羽邦男r明治維新の土地変革』(御茶の水書房1962年)では,壬申地券が交付されなかった県として新 治県があげられている(福島前掲書,増訂初版247ページ,丹羽前掲書298ページ)が,旧茨城県について は触れられていない。

4)地券調査掛が任命され,また久慈郡小目村の「地価取調帳」が残されている。前掲r茨城県農業史 第一巻』56〜58ページ。

5)地租改正資料刊行会編『明治初年地租改正基礎資料 上巻』(有斐閣,1953年,以下『基礎資料上』と 略記する)248ページ。

6)同前,316ページ。

7)前掲r茨城県史料 近代政治社会編1』240ページ。なお,同年10月3日付「茨城県伺」には「当県地 券調査ノ儀ハ地租改正公布二因調査半途ニシテ直チニ改正之調二着手仕候」とある(前掲r基礎資料上』

548ページ)。

8)地租改正資料刊行会編r明治初年地租改正基礎資料 下巻』(有斐閣,1957年,以下r基礎資料下』と 略記する)1577ページ

9)注7)の伺では「地所売買二限地券渡方願出候分ハ夫々検査情実相違無之ハ券澄授与御成期之通面地価 二応シ印税取立来候」と述べている。

10)題欠(r地租改正留』(水戸市,三田寺弘氏所蔵)。なお,水戸市街地への地券交付については水戸市 史編さん近現代専門部会編r水戸市史 下巻(一)』(水戸市,1993年)140ページを参照。

11)栃木県史編さん委員会r栃木県史 通史編7』(栃木県,1982年)83ページ。

12)同前,83ページ。        、

13)群馬県史編さん委員会r群馬県史 通史編8』(群馬県,1989年)69ページ。

14)『新編埼玉県史 通史編5』(埼玉県,1988年)154ページ。なお,1874年3月8日付「埼玉県伺」への指令 で「一般地券渡済不相成シテ改正致着手儀二候ハ・」(前掲r基礎資料上』450ページ)とあるので,中途 で打ち切られたものと思われる。

15)松戸市史編さん委員会編r松戸市史 下巻(一)』(松戸市,1964年)274ページ。

16)『神奈川県史 通史編6』(神奈川県,1981年)131ページ。

17)福島前掲書,207ページ。

18)同前,238ページ。また,地押丈量において人民の反対が少なく,「むしろ人民は,相当積極的に測量 事業を行なったものとみられる」として,その原因を「所有権保障をうたう地券制度の利用が予想以上

に農民心理をうが」ったからとしている(同書335〜336ページ)。

19)1873年後半発行と推定される茨城県の「地券のさとし」(234ページ)では,「地券は税金増加の品と申 なし地価書出すにも高価なれハ〈税金の多分を恐れしめ安価なれば・…編集者による補足〉官より之買上 と疑はしめ穏田ハ益々隠すを是とし広きは反て狭に紛らしめ候も有之」と疑問があることを述べている。

もっとも,茨城県の「地巻のさとし」は,1873年11月に「租税寮改正局日報」に全文が登載された大 分県の「地券のさとし」(前掲r基礎資料上』122〜123ページ)から実情に合せて取捨選択して作成さ れており,この文章も一致する。しかし,茨城県においても共通の事情があったとすると,任申地券の 発行が実施されなかった以上,このような疑念を払拭しないまま地租改正に臨んだことになる。

20)前掲r茨城県農業史 第一巻』第一編第二章第一節が概括しており,前掲『茨城県史料 近代政治社 会編1』に多くの史料が収録されている。また同書の「解説」も参考になる。

(14)

21)「茨城県の地租改正は,明治九年をもって一応の終了をみた」としているものがある。(常陸太田市史 編さん委員会編r常陸太田市史 通吏編下』常陸太田市,1983年,70ページ)。もっとも,比較的最 近発行された市吏では,地価の決定段階について述べてものも少なくない。例えば,勝田市史編さん委 員会編r勝田市史 近代・現代編1』(勝田市,1979年)や,結城市史編さん委員会r結城市吏 第六 巻』(1982年結城市)など。筆者が執筆したr水戸市史 下巻(一)』(1993年,水戸市長)第一章第 五節でも,水戸市におけるこの経過を紹介している。

22)茨城県の地租改正は,r府県地租改正紀要』の記述にしたがって1873年8月に開始されたとしている。

その根拠はわからないが,地租改正法が管内に布達されたのが9月8日付の第二百八十号布達(237〜

238ページ)であるので,それ以前に着手したとは思われない。なお,前掲『茨城県農業史 第一巻』

には真壁郡の布達写の中に「地租改正之儀に付…・明二日(8月一引用者)午前第八時田村戸長宅へ・…

御出頭」とあることから「地租改正について,なんらかの指令が,すでに八月一日になされていると考 えられる」としているが,時間的にみてありえないので,8月1日というのは誤記でなければ旧暦では ないかと思われる(新暦では9月中旬にあたる)。

23)前掲r勝田市史 近代・現代編1』,62〜64ページ。

24)これについては,福島前掲書,357〜369ページ,および佐々木寛司「日本資本主義と明治維新』(文 献出版,1988年)320〜343ページを見よ。

25)佐々木氏は,模範組合村方式へと具体化された地位等級制度(模範等級村方式)について,rr旧貢租 額の維持』という改租理念を,上から押し付けてゆく方法的基盤が確立」し,「これ(相互の権衛を図 ること一引用者)の一層の重視によって,『地租負担の公平』も可能とされた」とされている。(408ペー ジ)。この方式が最も困難とされた関東地方で生みだされたことは,「旧貢租額の維持」のためには「地 租負担の公平」が欠かせないものであったことを意味する。

26)後述の「地主総代撰挙心得書」は町村にも地主総代を設置するものであり,小区への地主総代設置を さらに発展させたものであるが,「専ら一町村の地位等級其他調査」にあたるとされている。

27)前掲r勝田市吏 近代・現代編1』では,この時期の人民惣代の行動を表にして掲げている。これに よると,1877年2月4日に模範村の調査が始まってから2月に6日間,3月に27日間,4月に24日間,

5月・6月・7月にそれぞれ6・5・9日間の行動が記録されている(68〜69ページ)。

28)前掲『水戸市史 下巻(一)』では,比較上命ぜられた等級の引上げに対する抗議を紹介した(223

〜225ページ)。

29)例えば,全管で田畑とも1等の豊田郡は,平均収穫目的が田1石1斗4升9合,畑1石8升5合とされ ていたが,最上村の田は1石4斗(4等),畑は1石4斗(2等),最下村の田は4斗(6等),畑は5斗(5 等)とされている。等級毎の面積がある程度判明しているので,このような具体化が可能であった。

30)前掲r勝田市史 近代・現代編1』72ページ。総代は11月29日の開始から1月18日まで連日出勤 している(69〜70ページ)。

31)前掲r水戸市史 下巻(一)』226ページ。

32)場所,参加者等はわからないが,内容から見ると県庁で地租改正事務従事者が協議したものと思われる。

33)3月9日に太田村で開催された集会の様子が,『茨城新報』1878年3月19日に掲載されている。ここ は「全管最上位ノ部分」であったにもかかわらず,旧税(1872〜1875年の4ケ年の石代平均)より減 租となり,歓迎されたようである。同紙の3月15日には民権家として知られる増淵徴が「如何ンセン 旧来関八州ノ地租ハ最モ薄欽ナリシニョリ現二地租改正二就テ州毎二巨多ノ増税ヲ生シ就中吾県ノ如キ ハ数万石ノ巨額ヲ増発セラル〜二至リ加之費用ノ嵩畳スルモ尚ホ未ダ整頓二至ラス人民ハ朝喋暮哺只々 巨額費用二苦シムヲ談ス鳴呼愁嘆ノ至リナラスヤ」と増租を懸念する奇書を寄せていた(560〜561ペー ジ)から,意外の結果として受け止められた。

34)これについては,さしあたり前掲「茨城県史料近代政治社会編1』の解説を参照。

35)斎藤茂「地租改正反対真壁一揆」(植田敏雄編『茨城百姓一揆』風涛社,1974年)200ページ。

36)木戸田前掲「明治九年の農民一揆」55ページ。

参照

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