荻原 耕平
心の山々への反転
リルケ『心の山々に置き去られ』と第
1
次世界大戦荻原 耕平
1
本論は、1914年
9
月に書かれたリルケのよく知られた詩、『心の山々に置き去ら れ』(Ausgesetzt auf den Bergen des Herzens)を再考する試みである。この詩に ついては、ほとんどその全体を把握することができないほどに、さまざまの論考で 触れられ、また直接この詩に的を絞った考察も数多くなされてきた1。そしてこれら の大部分が、テキストに書かれた内容について概念的に論及を重ねてきた歴史の現 れでもある。たとえばこの詩に出てくる「言葉の最後の村落」「感情の最後の農園」とは何を表象するのか、あるいは「知るということのない植物」が歌い、「知ること をはじめた」者が沈黙するとは何を意味するのか…、という式に、本文の内容につ
使用テキスト:Rainer Maria Rilke: Werke. Kommentierte Ausgabe in 4 Bänden.
Hg. v. Manfred Engel, Ulrich Fülleborn, Horst Nalewski, August Stahl.
Frankfurt a. M., Leipzig (Insel) 1996 (
以下KA).
1 そのなかで本論はおもに以下の研究を参照した。Otto Friedrich Bollnow: Rilke.
Stuttgart 1951. Friedrich Wilhelm Wodtke: Das Problem der Sprache beim späten Rilke (Original: 1956), In: Wege der Forschung; Bd. 638, Hg. v. Rüdiger Görner, Darmstadt 1986. Herbert Lehnart: Struktur und Sprachmagie. Zur Methode der Lyrik‑Interpretation, Stuttgart 1966. Herbert Penzl: Semantische Struktur in Rilkes »Ausgesetzt auf den Bergen des Herzens«, In: Austriaca, Hg.
v. Winfried Kudzus u. Heinrich C. Seeba, Tübingen 1975. Joachim W. Storck:
Poesie und Schweigen. Zum Enigmatischen in Rilkes später Lyrik, In: Blätter der Rilke Gesellschaft. Heft 10. Hg. v. Rilke-Gesellschaft 1983.
植和田光晴『R.M.リルケ 言語的転向の軌跡』朝日出版社 2001. Rüdiger Görner: »Denken des
Herzens« Zugänge zu einem Motiv in Rilkes Werk, In: Blätter der
Rilke-Gesellschaft. Bd.24. Hg. v. Rilke-Gesellschaft 2002.
心の山々への反転
いては、個別の語句についても、またテキストの全体についても、それなりに解釈 が積み重ねられてきている。
本論は、内容の理解はそれらの先行研究に負いつつ、新たに別の点からテキスト に近づきたいと思う。それは、この詩が書かれる直前に始まった第
1
次世界大戦と、それへのリルケの対応をまず確認したうえで、世界大戦のはじまりと、この詩との 関係を探ることである。時代と作品の接点を考えるとき、本論は、詩の内容よりは、
むしろテキストに使われるいくつかの特徴的な語や表現方法を媒介にしているが、
そのなかでも冒頭の
ausgesetzt
という単語に特別な注意を試みている。2
1914
年の夏に第1
次世界大戦が始まったとき、リルケはのちに『5つの歌』とし て発表された連作詩篇を書いた2。その第1
歌は次のように始まる。「いまはじめて 私はお前が起ちあがるのを見る、聞き知ってはいた遥かなる信じがたい戦争の神よ」3。戦争はこのように神話的形姿に取り込まれ、単一人格の振る舞いとしてイメージ されている。そして、現在の空間で、「どれが正しいのか分からないまま、百の声を 聴いていた青年」は、「唯一の呼び声」を耳にして「いまや解放されて」、歴史的な 連関に確定されて「大胆な未来」に達するといわれている4。
ここからはたとえば次の
2
つのことが読まれうるだろう。ひとつは「百の声」と「唯一の呼び声」の対比からくる「個別」と単一の「全体」という対立。もうひと つは「百」が正否の混迷した不確定な現在を象徴するのに対し、「唯一」が不安定な 現在を、過去(戦争の神)−現在(呼び声)−未来(大胆な未来)のように連結す ることで、クリアにすることである。それは、戦争を「聞き知ってはいた」既知の 形象に接続して、戦争の現在を、世界史的視点から歴史的に位置づけることを意味 する。同じ『5つの歌』に「恋人たちよ、いまや見者のように時代を語れ、盲目に、
2
『5
つの歌』(Fünf Gesänge)は 1914
年8
月2
日に書き始められ、8
月初旬のうち に書き終えられた。第1
次世界大戦は7
月28
日、オーストリア=ハンガリーとセ ルビアの間で最初の戦争が始まり、8月6
日までに、独、露、英、仏といった同盟 陣営、協商陣営の国々が互いに参戦している。極東では8
月23
日に日本がドイツ に対して宣戦布告しているので、8
月末には戦争が世界的規模にわたっていたこと になる。3
KAⅡ, S.106.
4
Ebd., S.106-107.
荻原 耕平
太古の精神から」5と書かれたように。
世界史的視点では、個人の運命は背景に退き、かわって国家や民族を単位とした、
いわば集合的な人格の生長・栄枯盛衰がもっぱらその視野に入る。そこから眺めた とき、いま・このとき起こっている戦争をまえに、個人の運命というものは後退し て、いわば人類共通の命運として、民族の命運として戦争は把握されようとしてい た。そして新しい世界戦争の時代にあっては、別の理由からも、個人という観念は 無意味になろうとしていたのである。総力戦の時代が幕を上げたこのとき、大量破 壊兵器が投入されたこのとき、ホフマンスタールがのちに述べたように、戦争が始 まってすぐ、個人的営為からは英雄性が剥奪され、旧来の英雄は塹壕を掘る工兵と 等置された。「個人は個人の自己感情が壊滅するに至るまで、集団によってイロニー 化された」6。前線と銃後という区分が失効して、国民の全体が戦争に等しく関与す ることを余儀なくされたこのときにあって、また、国家間の戦争が、世界戦争にま で拡大されたこのときにあって、「百の声」のそれぞれがもつ個別のリアリティーは 無意味なものと感じられる。しかし、それは、この戦争の初期にあっては、喜びと 感じられていたようである。
1881
年生まれのツヴァイクは、32
歳のときに経験した第1
次世界大戦開戦直後 の市民の様相、出征する兵士たちを送り出すウィーンの熱狂を、次のように回想し ている。真実に敬意を払うために、私は告白しなければならないが、この最初の群集の 出発には、逃れることが困難であるような、何か偉大なもの、魅惑的なもの、
それどころか誘惑的なものさえ含まれていた。そして、戦争に対するあらゆる 憎しみと嫌悪にもかかわらず、私は、この最初の日々の思い出を、自分の生涯 において見失いたくないのである。何千、何十万の人々は、平和のときにおい てこそ、もっと感じておくべきであったことを、これまでにない程に感じてい たのであった。すなわち彼らがひとつの全体であることを。ひとつの二百万の 都市、ほぼ五千万のひとつの国は、この瞬間に、自分たちは世界史を、けっし て二度とはめぐって来ない瞬間を、ともに体験しているのだということ、各人 はその微小な自我をこの燃え立っている群集のなかに投げうち、そこであらゆ
5
Ebd., S.107.
6
Hugo von Hofmannsthal: Gesammelte Werke. Bd.9. Frankfurt a.M.(Fischer)
1979, S.138.
心の山々への反転
る利己心から自己を浄化するよう呼びかけられているのだということを感じた のであった。(…)各個人がその自我の高揚を体験し、彼はもはや以前の孤立し た人間ではなく、彼は群集のなかに加わったのであり、彼は民族であり、それ まで注意を払われることのなかった彼の人格は、ひとつの意味を獲得したので あった。7
個が全体のなかで解消することを積極的に受け入れて、共同体の集合的な意志へ と喜んで身を任せたこの瞬間に、リルケの詩もまた、前述のとおり、全体と個別と いう主題で対応していた。全体とそこにのみ込まれた個人の関係を『5 つの歌』は 次のように書いていたのである。「共通の心臓から私の心臓は鼓動を打っている。そ して共通の口が私の口を開かせている」8。
それからおよそひと月後の
1914
年9
月17
日に、リルケが、これから出征してい こうとする若い友人(タンクマル・フォン・ミュンヒハウゼン, 1893-1979)に宛て た書簡が残っている。そのなかで彼は、『5つの歌』を書き写して同封した手紙が、行き違いで届かなかったことを知らせたうえで、『5つの歌』についての自己批評を 試みている。
これらの詩をもう一度書き写すべきかどうかよく考え、そうしないことに決め ました。というのは、これらの詩は
8
月のごく最初の数日間に生まれたものだ からです(あの日々はいまどこに存在するのでしょう?)。あのとき私たちはみ な、突然生まれて突然に開かれた共通の心のなかへと突き進んでいきました。―いま、私たちは再びそれぞれの個人であるのですが、私たちはおそらく反 対のことをやり抜け、それに耐えなくてはなりません。すなわち、全体の心か ら、放棄されて見捨てられた名もない自分の心への反転をです。親愛なる友よ、
私たちみなの状態はなんと等しいことだろうかと考えて、私は満たされそして 揺り動かされるのです。―戦場で休みなく馬上の人になっているあなたも、
この地で休まるところのない私たちも。というのは、存在の深奥にあらゆる生 と死の苦しみがあるときに、見かけの安全など何になるでしょうか?9
7
Stefan Zweig: Die Welt von Gestern. Frankfurt a.M.(Fischer) 1970, S.258.
8
KAⅡ, S.108.
9
An Thankmar von Münchhausen, 17.09.1914;
Rainer Maria Rilke: Briefwechsel mit Thankmar von Münchhausen 1913 -
1925. Hg. v. Joachim W. Storck. Frankfurt a.M., Leipzig (Insel) 2004 (以下 TM),
荻原 耕平
ここで、『5つの歌』のはじまりを支配した「全体」という主題は撤回され、それ 以後に求めるべきものは「個別」であるのだとはっきり語られている。リルケの評 伝を書いたレップマンに従えば、「戦争の数年間がもたらす損失という点で、真に問 題なのは民族ではなく個人である」ことを確認していたからである10。この書簡で は、そのことが、「全体の心」から「放棄されて見捨てられた名もない自分の心への 反転」と書かれている。これは、その内容も、また表現も、『5つの歌』の第
3
歌に「共通の心臓から私の心臓は鼓動を打っている」と書かれた部分に正確に対応して いる。
①
aus dem gemeinsamen Herzen schlägt das meine den Schlag,
共通の心臓から私の心臓は鼓動を打っている。(『5つの歌』)②
den Rückschlag aus dem allgemeinen Herzen, in das aufgegebene in das verlassene namenlose eigene Herz.
全体の心から、放棄されて見捨てられた名もない自分の心への反転。
(前掲書簡)
②のテキストで「反転」は原語で
Rückschlag
と書かれている。これはすなわちdas Zurückschlagen
ということだから、Herz
「心臓」と関連させればHerz -
schlag(en)、器官としての心臓の鼓動という意味系列で 2
つのテキストはまず結ばれる。こうして②のテキストでは、(『5 つの歌』に書かれたように、個人が全体の 心臓を打つことから)個別の心臓による鼓動の打ち返し=全体の心から個別の心へ と反転すること、という意味が認められる。
同時に
Rückschlag
という語は、そもそも、「反転攻勢」とか「反撃」といった意味で使われるので、ここからは軍事的な気分を読み込むことができるのではない か?
この年の夏、リルケは、慢性的な体調不良を転地療養によって改善しようと、ミ ュンヘン郊外の温泉保養地イルシェンハウゼンに滞在していた。そこからこの手紙 は発信されている。従軍する将校と温泉保養地にいる詩人は、見かけこそ違え、同
S.34.
10
Wolfgang Leppmann: Rilke. Sein Leben, seine Welt, sein Werk. München
(Piper) 1996 (1. Auflage 1981), S.355.
心の山々への反転
じく「生と死の苦しみ」のなかにいる状態において、まったく変わるところがない のだと書くことは、これから前線に送られるかもしれない年若い友人に贈る言葉と して、普通にいけば理解しがたいものがある。そうだとすれば、このような思考を 可能にするために、言葉のトリックといわずとも、語の選択として、叙述の戦略と して、何らかの飛躍がレトリックとしてあってしかるべき、と想像できる。ここで
「反転攻勢」Rückschlag という軍事的なほのめかしを含んだ語彙が使われている ことが、この場合、言葉の飛躍的用法にあたる。この語を使うことによって、兵士 ならぬ詩人もまた、その状況説明を軍事的なトポスによって行うことができるよう になる。それは、この一語を書簡の中心におき、ここに述べられる主題をこの一語 に収斂させることによって、書簡の発信者と受信者の間に口を開けている状況の違 いや空間的な相違性を、一挙に解消する試みである。しかし、こうした発想はこの 書簡のなかで、リルケが作り出したものではない。これには別の文脈がある。上の 書簡にリルケは以下のように続けた。
ルー(アンドレアス=ザロメ:筆者注)を除いて、このことを理解してくれる ひとを私は見出しません。一昨日届いた彼女の手紙のなかには、幾行かの予感 に満ちた洞察があり、いま、私はそれをたよりに先へ進んでいこう、いや、手 探りしていこうと試みています。11
これはおそらく、いわれている「一昨日届いた」手紙で、ザロメが書いた次のよ うな言葉を念頭に置いていると思われる。リルケは彼女に「私はここ何年かの間に 死んでいった人々のことを、そして、このひとたちが世界のいまの情勢を、もはや この世界から見る必要がないのだということを、繰り返し考えています」12と書い たのだが、彼女はこの言葉に強い共感をおぼえたと断ったうえで、次のようにいっ ている。
しかし、ひとは背を向けてはいけないのです。何もかもが不可能というわけで はないのでしょうから。つまり、ひとは前へ進み、そして学ぶことを続けるの です。苦しみながら、そしてこの昼にも夜に対しても、また、それらが教えて
11
TM, S.35.
12
An Lou Andreas-Salomé, 09.09.1914;
Rainer Maria Rilke/Lou Andreas-Salomé, Briefwechsel. Hg. v. Ernst Pfeiffer.
Frankfurt a.M. (Insel) 1988, S.354.
荻原 耕平
くれるべきものに対しても従順になって。そして倦むことなく、戦場にいるの と同じように、ほとんど眠ることを忘れるのです。13
ここでザロメは、直喩として単刀直入に「戦場」
Schlachtfeld
という語を使ったが、2
つの書簡のつながりから、このような単語に導かれて、リルケは、自らをあたか も戦場にあるかのような比喩的な状況に置こうとしたのだ、と考えられる。背景を 重ね合わせると、ここにはSchlachtfeld - Rückschlag
という戦争を強く意識する語 の連携を見出すことができるのである。というわけで、ここで使われた
Rückschlag
という語には、ダブルイメージが含 まれているといえる。ひとつは共同体のもつ全体性・集合性に支配された心から個 別の心への「反転」という主題。ふたつめは、その主題がまとうものとしての、世 界大戦という歴史的な状況に裏打ちされた「反転攻勢」という軍事的な気分である。この手紙が書かれて
3
日が経った1914
年9
月20
日、リルケはひとつの詩を書き つけていた。『心の山々に置き去られ』。この詩のなかで、「全体」から離れて、「個 別」的な「心」に直面して、そこで途方にくれている個人の状況が主題化されてい ること。そして「心」が「山々」として空間化されることによって、そこは、実際 にひとが身を置くことが可能になり、「心」という内面的なものへの記述が、そこに 置かれた主体の身体的な実感へとずらされた結果、詩的主体が従軍兵と立場を共有 できるような仕組みになっている点で、前述の書簡がもつダブルイメージとの間に 何らかのつながりを読むことができるのではないだろうか?3
『心の山々に置き去られ』の全文は以下のようである。
1 Ausgesetzt auf den Bergen des Herzens. Siehe, wie klein dort, 2 siehe: die letzte Ortschaft der Worte, und höher,
3 aber wie klein auch, noch ein letztes 4 Gehöft von Gefühl. Erkennst du’s?
5 Ausgesetzt auf den Bergen des Herzens. Steingrund 6 unter den Händen. Hier blüht wohl
13
An Rilke, 12.09.1914; Ebd., S.363.
心の山々への反転
7 einiges auf ; aus stummen Absturz
8 blüht ein unwissendes Kraut singend hervor.
9 Aber der Wissende? Ach, der zu wissen begann
10 und schweigt nun, ausgesetzt auf den Bergen des Herzens.
11 Da geht wohl, heilen Bewußtseins,
12 manches umher, manches gesicherte Bergtier, 13 wechselt und weilt. Und der große geborgene Vogel 14 kreist um der Gipfel reine Verweigerung. -Aber 15 ungeborgen, hier auf den Bergen des Herzens....
14心の山々に置き去られ。見よ、なんと小さくあそこに、
見よ、言葉の最後の村落がある、そしてそこより高くに、
しかし、やはりなんと小さく、感情の 最後の農園がある。お前はそれが分かるか?
心の山々に置き去られ。両手の下は
石の多い地面。ここではおそらく開花するだろう いくつかのものが。沈黙した斜面から
知るということのない植物が歌いながら咲き出している。
しかし知っているものは?ああ、彼は知ることをはじめて、
そしていま沈黙している、心の山々に置き去られ。
あそこではおそらく歩むだろう、破れのない意識をもち、
いくつものものが、いくつもの安全になった山の動物が、
行き交いそして立ちどまっている。そして、大きな守られた鳥が 山々の頂きの純粋拒否をめぐって旋回している。―しかし 守られることなく、ここ心の山々に・・・・
「心の山々」は、絶対的な孤立と疎外の地帯であり、同時にまた、言葉や感情の 限界領域でもある。ひとの住む地域から遠く離れて、荒涼として、ここではある種 の動物・植物がかろうじて生息するに過ぎない。上空には山々の頂を大きな鳥が旋 回しているという。しかし、それらは「心の山々」の風景・書割りであって、いま・
ここの状況とは、このような「心の山々」の上に、ひとが置き去りにされ、守られ
14
KAⅡ, S.115-116.
荻原 耕平
ることなく、ひとりであることである。このとき詩の核心をその冒頭で規定してい
る語が
ausgesetzt
という過去分詞であるわけだが、これはいったいどのような意味をもつ言葉なのだろうか。正確に理解するために、グリム・ドイツ語辞典やパウル・
ドイツ語辞典をもとに、この語を検討してみることにしよう。
グリム・ドイツ語辞典によれば、
aussetzenとは、その第 1
の語義としてaus einem ort an den anderen setzen「ある場所からそことは別の場所へ置く」という意味を
もつ。bäume, pflanzen aussetzen
という用例の場合、意味は「移植する」versetzen
ということになる。あるいはein Kind aussetzen
という用例があがっているが、そ の場合は「子供を家から戸外へと出す」という説明になる15。また、パウル・ドイ ツ語辞典によると、この語は上記の意味に加えて、18c中期からは、もともとは外 来語であった動詞exponieren
に影響付けられているという16。exponierenは、そ もそも「危険に対して遮蔽物なくさらす」ことをいい、その過去分詞のexponiert
となると、「剥き出しの、遮蔽物のない」という意味をあらわす。このように、aussetzen
がもつ「外に、剥き出しにして、出す・置く」といった基本のニュアンスを確認したうえで、同じ辞典でさらに記述を追うと、「3格目的語と密接に結びつ いて」と注記され、
etwas (jemand, sich) der Luft, der Gefahr, der Beschädigung, der Verachtung, dem Hasse aussetzen
という用例が記されている。外気などの自 然現象に向かって遮蔽物なく露出されることは、人間の自己保存本能からいって、不安を呼び起こすものであることは言うまでもない。そういったイメージが「危険」
「損傷」「侮蔑」「憎悪」といった、いずれも否定的な意味をもつ言葉との結合へと、
この動詞を招きよせているのであろう。以上を総合すると、aussetzen の代表的な 語義は、
(ⅰ)何らかの場所へ運んで、そこに放置する。
例:jmdn. auf einer einsamen Insel aussetzen(ひとを孤島に置き去りにする)
(ⅱ)ひとやものを、何ごとかによって危険にさらしたり、保護なく何かの前にい させるように行うこと。あるいは、ひとをある困難な状況へと引き渡すこと。
例:jmdn. dem Verdacht, dem Vorwurf, der Gefahr, dem Risiko aussetzen
15
J. Grimm/W. Grimm: Deutsches Wörterbuch. 33. Bde. München (DTV) 1984, Bd.1, S. 970.
16
H. Paul: Deutsches Wörterbuch. 5. Aufl. Tübingen 1966, S.63.
心の山々への反転
(ひとを嫌疑、非難、危険、リスクにさらす)17 の
2
つにまとめることができる。リルケのテキストに戻ることにしよう。リルケのテキストで、aussetzenは、前 置詞
auf
以下、3格の前置詞目的語とともに使われている。この前置詞句を、単に 主語のいる場所を示すととるだけでなく、aussetzenという動詞の作用の結果をも 含みこんでいると考えるならば、既に引用したグリム・ドイツ語辞典の第1
の語義 にあるように、aussetzenはversetzen
といった意味である。つまり、この詩の場 合、ある場所から移し置かれた過程を経たうえで、いま現在、auf 以下に示されて いる場所、すなわち「心の山々」の上に、ひとり放置されて存在する、ということ である。したがって冒頭のAusgesetzt auf den Bergen des Herzens.という詩句は
まず第1
に「心の山々に置き去られ。」という意味になってくる。概ねこのように この詩のキーワードは理解され、詩の基調が形づくられる。(1)書かれない動作主・書かれない目的語
Ausgesetzt auf den Bergen des Herzens.
この詩句の特色を考えてみると、いくつかのことに気づく。たとえば、この詩句
は第
1、5、10
行の3
回にわたって出現し、最終行でも変更を加えられて繰り返される、この詩のキーセンテンスであること。述語動詞を欠く不完全文であること。
- - - - のアソナンス効果が顕著であること。ほかには、この過去分詞句に
はその動作主が明示されていないことなどがある。このなかで、動作主の不在とい う現象は、詩の全体の気分を導く重要な要素であるように思われる。詩的主体は被 動作者として、「心の山々」の上へと放置される。自分の意志でそうなったわけでは なくて、自分の外部にある何らかの動作主によって、そのようにされるということ になる。このとき、動作主が書かれていないことで、ひとり「心の山々」に置き去 りにされたという状況の事実性が強化されることになる。動作主の不在により、こ の状況をつくった、たとえばその原因や目的を示すような、前後のつながりが消え てしまう。ただでさえ、ここに置き去られ、放置されることは、それまで生きてい
17 これらの記述は
Duden: Das Bedeutungswörterbuch. 3. Aufl. Mannheim 2002,
S.162.に従った。
荻原 耕平
た空間からひとが断絶される、つまり、それまでの時間的・空間的関連から遮断さ れることを意味する。加えて動作主が書かれないことで、目的語と主語の関係にあ る主体と動作主との関係が消失してしまうのだから、ここには
2
重の切断があるの だといえる。こうして主体の意識はただ「置き去られた」という現在にだけ集中す ることになる。ここには、「どこから」追い出されて「どこへ」向かうか、というよ うな前後の時間関係に基づく現状把握がなく、ただ絶対的な現在性のなかへと投げ 込まれているという事実だけが残る。同じように「テキストに書かれない何か」という点から見たとき、このテキスト に特徴的な統語構造として動詞
wissen
の用法がある。動詞wissen
は本文中2
度に わたって使われるが(9行)、いずれも目的語・目的文を欠いている。あるいは補語 を欠いている。意味のレベルでいえば、この目的語あるいは補語の不在は、「何を」知っているのかという情報の欠如である。wissen と対になって使われている
unwissen(8
行)も同様である。「知ることのない植物」が、いったい「何を」知らないのか、これが書かれていない。これにより知っている内容よりも、「知ってい る」という動詞のあらわす事実性だけが焦点化される。それは不分明なまま漠然と してはいるが、しかし絶対的に「何かを」「知っている」という感覚である。テキス
ト中
wissen
への補足として、何らかの目的語が置かれるかわりに、動詞wissen
それ自体を目的語化するように、「知ることをはじめた」
zu wissen begann
とだけ、かろうじていわれていることは、ここで使われている
wissen
の絶対的性格を物語 るものといえよう。その絶対性の大きさが、主語とwissen
の間の時間的な前後の つながりを奪って、つねに「いま」であり、はじまりであるかのような、こうした 表現を強いているのだ。受動態における動作主の欠如、能動態における目的語や補語の欠如、これらの現 象は、現在の状況を、動詞が示す動作の事実性・現在性に縛り付けて、絶対的なも のとして提示する。主体からは時間的な前後関係が取り払われて、「いま」という絶 対的極小点に、何ひとつもたず局在させられることになる。
さらに加えるなら、受動態における動作主の欠如、能動態における目的語・補語 の欠如とは、テキストの内部における事実上の沈黙として、テキストの第
10
行で いう「沈黙」を反映しているということもできる。この「沈黙」はある種の文肢の 不在という点でそうであるわけだが、さらに別の形式でテキストのなかに出現する ことになる。心の山々への反転
(2)受動表現がもたらす主体の沈黙
ausgesetzt
という受動的表現によって、詩の基調が決められてしまったことは、その後の詩的主体の性格に影響を与えることになる。主体は、自分をめぐる行為の 支配者であることから、行為の受容体へと転化してしまう。こうして、テキストの なかからは主体としての
ich
が消えていくのである。この詩においては、書かれた 内容から想定される(心理的な)詩的主体としてのich「私」が、テキストの表層
ではおそらく意識的に回避されている。それにかわって、2
人称に対する命令文(1・2
行)と疑問文(4 行)による呼びかけがあり、はじめて間接的に詩的主体としての
ich「私」が指示される。ほかには、
「私」の事実上の言い換えとしての「知っている者」「知ることをはじめた者」における
der
(9行)があり、これらが本文中で 詩的主体と同一だと考えられるすべてである。こうして、意味的な(隠された)詩 的主体であるich「私」が、テキスト表層上で命令文や疑問文を繰り出す語り手と
ずらされているのだが、ここから明らかになることは、以下のようなことである。語り手と心理的主体のずれは、テキスト上に
2
つの役割、メッセージの発信者と 受信者を並存させる、ある分裂状況をつくっている。この詩において、発信者から、受信者である本来的な主体に対して、命令文と疑問文の形で強迫的な声が発せられ る。「置き去られた」受容体としての主体は、テキスト上では、語り手−それは 主体自身の内側からの声かも知れないし、あるいは、言語化されていない「置き去 る」動作主としての「何か」からの声かも知れないが−、いずれにせよ、詩的主 体の外側に設定された場所から主体へと迫ってくる声を聞く者として現れる。みず から何ごとかを「語る者」である
ich
から、テキストの表層から消え去り、沈黙し て「聞く者」としてのich
への転換。こうして詩的主体は無力化して、その主体的 な機能が弱体化するのである。主体の意識に出てくるこの無力感は、「心の山々」の 上にひとり放置されているという状況が誘い出す自我の喪失感とかさなって、危う さや危険という印象を派生させることになる。そしてこの「危険」というイメージ は、aussetzenということば自体に、実はもともと含まれているものでもある。(3)置き去られることから生まれる危険
置き去られたというここでの状況は、山々の上に−ひとり−置き去りにされる、
という
3
つの要素のいずれもがもつ危険性によって、aussetzenの語義(ⅱ)と強 力に結びつくことになる。(ⅱ)の語義とは、ひとを、(生命に係わるものを含む)荻原 耕平
何らかの危険にさらすことをいった。つまり、冒頭の詩句は、「心の山々に−ひとり
−置き去りにされた」という文字通りの外示的な意味に加えて、言外に、「危険」に
「さらされている」という共示的意味を含みこむのである。この第
2
のイメージは、テキストの第
15
行で使われた「守られることなく」ungeborgen
のような語、ある いは動物や鳥の特性としていわれた「安全になった」gesichert(12 行)、「守られ た」geborgen(13行)のような語との対比で、強化されることになる。このように
ausgesetzt
という語が「危険にさらされている」という意味のひろが りで捉えられるとき、Ausgesetzt auf den Bergen des Herzens.という詩句は、 3
格 の目的語と結合して「〜4を〜3にさらす」としてのaussetzen
の通例からすれば、3
格の間接目的語が存在していないという形式としてテキストの表層に出てくるこ とになる。さらされている「何か」がここで与えられずに、ただその事実だけが予 感されるということ、これはこの詩句がそなえることができる幅と深さを拡大させ る要素である。比較のために、ここでは、aussetzen(ここではausgesetzt)の一
般的な用例として、同じくリルケの作品から詩句を引いてみよう。1913
年に書かれ た『スペイン三部曲』(Die spanische Trilogie)の第2
番からの引用である18。Warum muß einer dastehn wie ein Hirt, so ausgesetzt dem Übermaß von Einfluß, beteiligt so an diesem Raum voll Vorgang, daß er gelehnt an einen Baum der Landschaft sein Schicksal hätte, ohne mehr zu handeln.
19なぜ、ひとりの者は、牧人のように立っていなければならないのだろうか、
影響の過剰にかくもさらされて、
出来事に満ちたこの空間に引き込まれ、
風景のなかの一本の樹木にもたれて、
運命をもつほどに、もはや行動することなく。
18
Ulrich K. Goldsmith: Rainer Maria Rilke. A Verse Concordance to his Complete Lyrical Poetry. Leeds 1980.
によれば、リルケの詩作品中aussetzen
およびその派生語が使われるのは、『心の山々に置き去られ』とその草稿を除けば、『スペイン三部曲』におけるこの箇所がただひとつである。
19
KAⅡ, S.43.
心の山々への反転
ここで
2
行目にausgesetzt dem Übermaß von Einfluß,「影響の過剰にかくもさ
らされて」と書かれている。3格目的語が明示され、完備された分詞句として、「何 に」さらされているのかが、はっきり分かるようになっている。この引用文は長い センテンスではあるが、完全文として、文肢が適切に連結されており、5 脚の弱強 格(ヤンブス)=Blankversによる一糸みだれぬ韻律の歩みともあいまって、いわ ば古典的格調を備えて、整然とした印象を与える。これは「さらされて」いるとい う事態に対して、自己の置かれた状況が整理され、言語的に分節されて、自己の意 識がほころびなく統一的に把握されていること、また身体感覚的にいえば、方向感 覚がしっかり定まっていることを物語る。これに対して、『心の山々で置き去られ』では、ausgesetzt という語だけが何も もたずにひとり置かれることによって、「置き去られる」に加えて、「さらされてい る」という事実だけがある。「誰」によって「置き去られ」たか、これが与えられな いのと同様に、「何に」対して「さらされて」いるのか分からないままである。そし て、この「何に」が、ひとが安んじて身を委ねるような種類のものではなく、逆に 危険性の高いもの、ひとに不安を呼び起こすようなものであることは、既に
aussetzen
の語義的な説明で見たとおりである。ここでさらされている「何か」が、aussetzen
の「さらされている」の意味系列では、何も書かれずに空白であることで、「さらされている」事態が、視界をふさがれて、周囲が見えないような、方向感 覚を奪われたような、極度の危険と不安の状態として感じられるようになる。つま り「いま・ここ」が相対化の不可能な場として出現することになる。韻律の点でも、
その印象は強化されている。この詩句を含む冒頭の詩行の韻律は、強弱弱格(ダク テュロス)と強弱格(トロヘーウス)の混合からなる
6
脚の変則的なヘクサメータ ーと見ることができる。しかも、HerzensとSiehe
の間で文章が切れていることか ら、ここに句切れを置く必要があるため、詩句は規則どおりの進行を妨げられて、滞る感じが残る。ヘクサメーターはペンタメーターに連結されることによって、デ ィスティヒョンとして悲歌に用いられる韻律である。実際、この詩では第
8
行、第12
行が変則的なペンタメーターになっており、全体としては、変調をきたした悲歌 形式と考えてよいと思われる20。つまり、この点でも、明快な韻律構造をもつ『ス20 実際、この詩に対してリルケは、テキストの末尾に「悲歌のなかから」という但 し書きを添えていた。つまりこのテキストは、既に
1912
年から着手されていた『ド ゥイノの悲歌』に収められるべきものとして、この時点では考えられていたのであ る。荻原 耕平
ペイン三部曲』とは次元を異にした風景がひろがっていると見るべきだろう。
このように、冒頭の詩句が「危険」という意識を孕むことで、ausgesetztという 語は、前掲書間の
Rückschlag、あるいはザロメの Schlachtfeld
といった語ととも に、軍事的な気分を共有することになる。「置き去られた」というイメージと軍事的 な気分のつながりには、傍証として、リルケの次の詩句を参照できる。「心の山々に 置き去られ」の2
日後に書かれた作品に、姉妹編ともいえるだろう、「彼の心の山々 で格闘する置き去られた者へと、もう一度、谷々の香りがやって来た」Einmal noch kam zu dem Ausgesetzten,/der auf seines Herzens Bergen ringt,/Duft der
Täler
21.のように始まるものがある。ここでは「格闘する」ringen
という語が使われているのだが、こうした用例から、リルケのテキストのなかに、「置き去られた」
者という主題と、戦闘的・格闘的状況との結びつきを窺うことはあながち無理なこ とではないだろう。
(4)「心の山々」という表象がもつ空間性の意味
前掲書簡に見られる軍事的気分とこの詩との関係を見るうえで、
ausgesetzt
とい う語からは間接的に、そしてungeborgen
のような語からは直接的に連想される「危 険」というイメージのほかに、この詩で、「心」が「山々」と結ばれて空間的に表象 されたことの意味は大きい。「戦場」とか「反転攻勢」といった軍事的な語彙による 比喩的発想を前提にして、「心」といった極度に内面的なモチーフを採り上げるとす るならば、それは戦場と空間性を分けもつような何らかの現実的風景、空間的形姿 としてイメージされなければならないと考えるのは、ごく自然であろう。そして、こうした空間化・風景化という印象をひときわ強化する表現がこの詩には存在して いる。それは、Bergen des Herzens(1・5・10・15行)、Ortschaft der Worte(2 行)、
Gehöft von Gefühl
(4行)、といった詩句である。後ろの2
つには、「心の山々」の内部での相関的位置関係を規定する語として使われている、dort(1行)、höher
(2 行)を付け加えることができる。これらは、それぞれ、心、言葉、感情、とい う内部世界のものを、山々、村落、農園という外部世界に存在するものへと接続し て、空間化を果たしている表現だが、この語法は、概念的なものに基づく暗喩とし てよりも、音声による結びつきによって、内部世界と外部世界の同一化を目論んで いるように思われる。
21
KAⅡ, S.117.
心の山々への反転
位置 外部世界 内部世界
①
Bergen [] Herzens []
②
dort [
] Ortschaft [
] Worte [
]
③
höher [] Gehöft [] Gefühl []
①②は語頭子音の変化による結合である。①の
Bergen
とHerzen
は擬似的な完全 押韻を形成する関係であり、②の語群であるdort
、Ortschaft
、Worte
の3
語は[]
を完全に共有する。③の語群は語幹母音の変更による結合である。空間的な位置関
係を示す
höher
が、強勢の置かれた[]
音でGehöft
を導き、ともに2
音節で長さの等しい
Gehöft
とGefühl
は、まず[]
音を共有したうえで、それぞれが、ともに無声摩擦音である[]、
[]でつづき、その後ろに、ともに強勢つきの前舌円唇音[][]
をもつ22。これらの音声的結合によって、外部世界のものは、テキストの順時進行 に添って、内部世界のものを誘導し、内部世界は外部世界へと転化するようにでき ている。この効果は、同じテキスト上で多用されているアリテラシオン・アソナン スによる結合を、遥に超え出た語の類縁性を生み出すものと見ることができる。同 一音素(群)の反復により、言説が形式と意味の両面で強化されるからである。こ れらは、詩の内部での言説空間を外部から保証するものとして、とりわけ重要であ る。語のもつ音声面での物質性によって、言説に一定の客観性を受け持たせる作用 がはたらくからである。こうした操作を積み重ねることで、「心」の外部空間化は執 拗に執り行われる。
ところで山岳風景として表象された「心」は主体の視界にはどのように写ってい るのだろうか?テキスト中、風景や場所を具体的にイメージさせる点景として、次 のようなものが書かれているが、このとき、名詞と冠詞の組み合わせにある特徴が 見出せる。
① die letzte Ortschaft der Worte
② ein letztes Gehöft von Gefühl
③ Steingrund unter den Händen
④ (aus) stummen Absturz
22 発音記号は
Duden: Das Aussprachewörterbuch. 6. Aufl. Mannheim 2005.によ
る。荻原 耕平
⑤ (um) der Gipfel reine Verweigerung
①②は、それぞれに冠詞類がつけられており、特定化を受け、また指示関係が確 定されているのだが、「心の山々」の上からすれば、もはや下方に位置する、ひとの 居住区域であろう「村落」や「農場」は、そもそも「心の山々」の山岳風景には属 してはいない。
③④は、物理的な位置として、主体の近くに存在していると思われる。この山岳 風景のなかで、詩的主体が自分のいま現在の所在を把握しようとして、指標となる べきものであろう。しかしこれらの事物は、いずれも無冠詞である。ために抽象度 が高まり、一様に事物性・具体性を薄められて、一般化を果たしている。一般状況 化されることによって、語の指向対象は特定性と局在性をもつかわりに、任意性と ひろがりを帯びてくる。こうした事物に囲まれている主体の相対的位置関係はクリ アに、たとえば何かと何かに囲まれて、というように特定されることがなく、定か ならぬ「いま・ここ」に囲いこまれていることを物語る。
⑤は①②と似た用法であるといえる。「頂」には冠詞が付され、主体の意識のな かで、上方に見上げるこれだけは、その位置をはっきり見定めている。
上
der Gipfel reine Verweigerung
いま・ここ
Steingrund unter den Händen, stummer Absturz
下ein letztes Gehöft von Gefühl
die letzte Ortschaft der Worte
上方と下方に、特定化・個別化された事物が配置されて、「いま・ここ」だけが、
不明瞭かつ無時間的な場として、主体の視野にひろがっていることがよく分かる。
上方の「頂」は「純粋拒絶」であるのだから目的地としては行き止まりに等しく、
なおさら「心の山々」へと至った「いま・ここ」で進退窮まらざるを得ない状況が 明瞭である。このように「心の山々」の上では、方向感覚をさだめるべきものが決 定的に欠如しているということができる。もちろん心の「山々」とは暗喩表現であ って現実の山々ではない。したがって、「心」それ自体に向き合わされて、詩的主体 がそこで方向感覚を失っていることを意味するのは言うまでもない。
心の山々への反転
4
これまで明らかになったのは以下の
4
点である。(ⅰ)受動態の動作主や動詞の目的語や補語が書かれないことにより、主体の意識 が局所的現在に囲繞される。
(ⅱ)詩的主体は沈黙し、語りかける声にさらされている。
(ⅲ)ひとり「置き去られる」ことの危険が、戦場での危険と気分的に通低する。
(ⅳ)「心」が「山々」として空間的に表象される。主体には方向感覚の動揺がある。
(ⅰ)(ⅱ)は受動的な表現による詩的主体の主体性の弱体化を、(ⅲ)(ⅳ)は 戦争をそれぞれ意識させる要素である。これらは別々の事柄ではなく、「危険」とい うテーマにより密接に結びつくものである。すなわち、「心の山々」という空間で、
局所的現在のなかに囲繞されて方向感覚を喪失してしまう「危険」である。そして これらのいっさいを集約的に表しているのが
ausgesetzt
という語である。「心の 山々」へと放置されるという極端な個別的性格と、危険への直面というふたつの要 素を結びつけるものとして、この詩で使われたausgesetzt
という語ほど適切なもの はないと考えられる。原型のaussetzen
はすでに述べたように、ある場所から別の 場所へ置く、というのが原義である。つまりこれは場所の移行をいうわけである。この場所の移し換えというイメージは、実は既に見た書簡でいわれた
Rückschlag
(= Zurückschlagen)に通低している。Rückschlagという語で志向されていたの は、「全体」の心から「個別」の心への反転という移動運動であった。ausgesetzt という語が示していたのは、不在の動作主により主体が被る動作、すなわち「心の 山々」へと連れてこられ、そこに置き去られることである。こうして
2
つの語は「移 動」という志向性で結びつく。同時に「反転攻勢」とか「反撃」という意味でのRückschlag
がもつ軍事的な気分は、ausgesetztの「(危険に)さらされる」という含意と、心の山々に「置き去られる」の空間的表象がもつ戦場の空間性との類似性 によって保存されている。つまり、Rückschlag という語がもっていたダブルイメ ージは、この詩のキーワードともいうべき語
ausgesetzt
に忠実に継承されているの である。ただしこのダブルイメージは、書簡から詩へと移行したとき、重大な変更を加え られている。それは主体の能動性が受動性へと変更されたことである。
Rückschlag
(= Zurückschlagen)の主体的に決意して敢行する能動性は、
ausgesetzt
の受動的荻原 耕平
表現に転化したのである。ここで、書簡と詩と
2
つのテキストを接続して考えてみ れば、書簡でいう「反転」とは、それに先立つ『5つの歌』のなかに確かにあった「全体」性の称揚から、自分を押し出すことであり、「反転」のもつ移動の志向性は、
詩において、ついに主体を「心の山々」の上へと追いつめて、そこでは詩的主体と
「心」が、分離した
2
つのものとして把握されることにより、「心」とさえ一体化 できないような主体は無力になって、そのとき主体の主体的機能=能動性は消えて、受動的表現への転化が行われるのである。主体はそれまでのいっさいの関係性から、
つまり時間性・空間性から切り離されて、局所的な「いま」へと投げ出される。し かもそれさえ、語りかける声によって受動的に告げ知らされている。こうして「危 険」が、「いま・ここ」に囲みこまれてつながりを見失う、方向感覚の喪失として、
端的に現れるのである。そして「ausgesetzt」が表出する
2
つの受動性、「心の山々」へと「置き去られ」たこと、そして危険に「さらされて」いることは、世界戦争と いう巨大な歴史的事件に投げ込まれて、危険に直面してしまっている市民の感覚を はるかに映す、時代の感覚でもあるのだろう。
こうした点で、『心の山々に置き去られ』は、ザロメのいうところの「戦場」と、
あるいはリルケ自身の書簡中の言葉「心への反転」と軌を一にして、その軍事的な 気分に裏打ちされた語法によって、作品そのものが明らかに外示するメッセージの 周囲に、
1914
年の秋という特別な時代性への配慮を、明らかに付着させているので はないだろうか?この詩が書かれた
1914
年9
月20
日というとき、たとえば実際に従軍もしていた トラークルが最後の詩『グローデク』を書き上げ、この戦争がもたらした新しい戦 場と兵士たちの姿を言語化していたのとちょうど同じころ23、『心の山々に置き去ら れ』といった極度に内面的な詩作品を書くことは、一見、時代状況を超越した振る まいに映らなくもない。しかし、ここに見られる一種の反動にこそ、時代と作品を 結ぶ通路があったと考えるべきである。戦争がもつ、そして何より第1
次世界大戦 において強くはたらいた、全体性・集団性の力学に批判的に対峙して、そこで壊滅 しようとしている個別的な「心」へと戻ったこと。いくつかの語句に見られる軍事 的な身振りへの意識。「心の山々」の上で、主体が無力化・孤絶化して生じる語りの パトス。これらの点で、「心の山々」の内部空間は、あたかも、世界大戦がいままさ に進行している外部空間と並行するかのような印象を与えるのである。こうして、23 インスブルック版トラークル全集によれば、『グローデク』は
1914
年9
月10
日 から10
月6
日の間に書かれたと推定されている。心の山々への反転
『心の山々に置き去られ』には、第