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マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚 書

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(1)

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚

その他のタイトル Notes on Marx's Economic Study in his Youthful Period (Paris, 1844.)

著者 重田 晃一

雑誌名 關西大學經済論集

巻 13

号 1‑2

ページ 147‑177

発行年 1963‑06‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15447

(2)

147 

J

逃すことのできない貴重な資料である︒

稿

資料的覚書

一九三二年にモスコーのマルクス・エンゲルス研究所によって刊行された﹃マルクス・エンゲルス全集﹄第一部第

三巻︵以下﹃全集﹄と略称する︶は︑第二部﹁抜幸ノートから︵︒ハリ︑一八四四年初頭ー一八四五年初頭︶﹂の一部として︑

( 1 )  

﹁経済学研究︵抜率︶﹂という標題の浩潮なノートを収録している︒

学の抜惹ノートの現存する主要な部分をはじめて公けにしたものであって︑

面影を直接に伝える資料として︑

ほぼ同じ頃このノートの主要な部分を利用しつつ執筆されたと考えられる﹃経済学

︵以下四四年﹃手稿﹄と略称する︶と並んで︑初期マルクスの経済思想に関心を有する研究者には絶対に見

それは全部で九冊のノートからなる施大なノートであるが︑

( 2 )  

て紹介すると︑つぎのとおりである︒ いまその全貌を﹃全集﹄第三巻の二つの目録を整理し マルクスの最初の本格的な経済学研究の それはマルクスが︒ハリ滞在中に書きとめた経済

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する

(3)

148 

の抜卒よりなっている︒ 商業および利益についての概論﹄︑④ジョン・ロー﹃通貨および商業に関する諸考察﹄ 念﹄④同﹃諸国民の通商関係について﹄︑⑥リカードゥ﹃原理﹄︵仏訳︶からの抜幸よりなっている︒ 業および農業の利益に関する公衆の失望︑

あるいはリスト博士の工業力哲学の吟味

1

附論 ︵仏訳︶からの抜率のみよりなっている︒ ︵仏訳︶からの抜幸よりなっている︒

ノート

l V

ーーー①クセノフォンの著作︵﹁スパルタ人の国制﹂︑ なっている︒

︵仏訳︶からの抜宰のみよりなっている︒ 関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

ノート

I

̲L

3セー﹃経済学概論﹄︑Rスカルベク﹃社会的富の理論﹄⑧セー﹃応用経済学全講﹄からの抜卒より

ノート11ー—①スミス『国富論』

ノートmー~①ルヴァスール『回想録』、③スミス『国富論』(仏訳)からの抜宰よりなっている。

②リカードゥ﹃経済学と課税の原理﹄

ノート>ーー・①マカロック﹃経済学の起源︑進歩︑

の本性︑耕作︑

ット・ドゥ・トラシィ﹃イデオロギー要論﹄︑⑧ジェームズ・ミル﹃綱要﹄

ノート

V I ーー①ローダーデール﹃公共の富の本性と原因に関する研究﹄

︵仏訳︶︑⑧ジェームズ・ミル﹃経済学綱要﹄

︵仏訳︶からの抜宰より

なり︑それに④エンゲルス﹃国民経済批判大綱﹄からの抜率が添えられている︒

固有の対象および重要性に関する講義﹄

R

ノート

V i l

ーー①シュッツ﹃国民経済学原理﹄︑②リスト﹃政治経済学の国民的体系﹄︑⑧オジァンダー﹃通商︑産

ユートピアからの祈

ノート圃ーー①ボアギュベール﹃フランス詳論﹄︑②同﹃富︑貨幣および貢納の本性に関する論究﹄︑⑧同﹃穀物

ノート

l X

ーービュレ﹃イギリスとフランスの労働者階級の窮乏について﹄からの抜率のみよりなっている︒

(4)

149 

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶

のはつぎの理由にもとづく︒ 野にまで拡げ︑ノートにその跡をとどめていなくとも︑

マルクス自身が目を通し研究した文献まで含めると︑危大な てドイツ社会民主党の文庫に一括保管されていたが︑後にアムステルダムの﹃社会史国際研究所﹄の所蔵するところとなり︑以後今日に至るまで同所に保蔵されている︒先年(‑九五七年︶研究所を訪ねられた杉原教授の調査されたところでは︑分類の仕方に若干のちがいがみられるものの︑

( 3 )  

つも見あたらなかったとのことである︒したがって︑前記の﹃全集﹄.の紹介はほぽ正確なものといってよいだろう︒

だが﹃全集﹄が紹介しているのは︑あくまでも現存しているかぎりでのノートにかぎられているのであって︑

について考察するように︑

たび問題の視野をひろげると︑なおそこにはいくつかの問題が浮び上ってくるはずである︒すなわち︑今日現存する

ノート以外に︑なお別の経済学に関するノートの存在していたことが当然に予想されるし︑事実︑後にそのいくつか

その蓋然性はきわめて高いようにおもわれる︒いわんや︑文献の対象を社会思想関係の分

数にのぼるものと想定される︒とすれば︑︒ハリ時代のマルクスの経済学研究の像を今日の時点で再構成しようとする

ばあい︑もとより資料の性質からいって現存のノートが中軸におかれるべきであるが︑

うな諸文献についても一定の考慮が払われなくてはならない︒なぜなら︑

マルクスの経済学研究の範囲をョリ正確に定めることができるばかりでなく︑

の評価にも一定の影響をおよぽすかもしれないからである︒また︑ それと並んで︑右に触れたよ

そうすることによって︑われわれは当時の

そのこと自身が︑ときによっては全体

ここで対象の範囲を社会思想の分野にまで拡げた

( 4 )  

すでに別の機会にも述べたように︑かれの遺した抜宰ノートと評註とを検討してみると︑それらの抜宰は︑対象と ﹃全集﹄が紹介したノート以外にはこの時代のノートは

これらのノートはー│いまなお未公表の部分も含めて

エンゲルス遺稿﹄

(5)

ISO 

( 1 ) K .   M a r x ,   O k o n o m i s c h e   S t

u d

i e

n  

( E x z e r p t e ) ,   A u s   d e n   E x z

e r

p t

h e

f t

e n

  ( P a r i s ,   A n f a n g

1  1 8 4 4    

A a f a n g   1 8 4 5 ) ,  

M a r x

‑ E n g e l s   G e s a m t a u s g a b e  

(以下MEGAと略称する)•

A b

t .

 

I•

B d .  

3•

B e r l i n  

1 9 3 2 ,  

S .  

4 3 5   1 

5 8 3 .

  なお杉原・重田共訳のマルク

に︑今後のヨリ立ち入った研究の捨石の一っとしたい︒

これを資料的に整理してみたものである︒これによってさきの﹁訳者解説﹂の不備の一端を補うととも

西

された理論の核心をみごとに射抜いているという意味ではきわめて対象内在的であり客観的であるが︑

典哲学の研究と初期社会主義思想の研究という二つの研究の流れにほかならない︒

済学研究の周辺的情況の一っとして︑

同時に対象それ自体の展開から︑この展開の必然的な帰結としてそれの前提︵私的所有という前提︶に対立・矛盾する

帰結︵私的所有の否定︶を導き出そうという方法意識に終始貫かれているのであって︑その意味ではまた︑きわめて

主体的な抜率でもあった︒このように︑マルクスの経済学研究は︑そのそもそもの出発点においてすでにきわめて批

判的な研究であったわけである︒そしてこの批判的態度︑独自の方法意識の形成にあずかったものこそ︑あのドイツ古

ところでこれら二つの研究のう

ち︑前者との系譜的な関連については︑今日その大筋はほぼ明らかになっているものの︑後者との関連については︑

研究はやっとその緒についたというのが研究史の率直な現状ではあるまいか︒だとすれば︑パリ時代のマルクスの経

これらの諸文献についての研究情況をもできうるかぎり精密に洗っておくの

マルクスの︒ハリ時代の﹃経済学ノート﹄の訳業に参加する機会を与えられ︑その﹁訳

( 5 )  

者解説﹂でもパリ時代のマルクスの経済学研究の情況についていくらか言及しておいたけれども︑紙数の制約もあっ

て︑遂に筆を上述の問題にまでのばすことができなかった︒以下︑本稿は︑ ところで︑わたくしはさきに︑ も︑今日なお決して無意味な作業とはいえぬであろう︒

この問題に関する旧来の研究成果に教え

一 五

(6)

I  2 I 

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶ 右の﹃年譜﹄の叙述のうち︑ スミス︑リカードゥ︑

セ ー

ビュレ︑父ミル︑

デ ィ

いっている︒ ス﹃経済学ノート﹄(‑九六二年︑未来社刊︶は右の部分の評註部分を全訳し︑抜幸部分を抄訳したものである︒

( 2 )   V g

l .

,  

M E G A ,   A b t .  

I,

B

 

d .

  3 ,

S   .  

4 1 1   │ 

4 1

6 .

ーダーデール︑ッュッツ︑リスト︑オジアンダー︑ロー︑ピュレ︑クセノフォンからの部分は収録していない︒それぞれの   邦訳︑八ーニニベージ︒なお︑以下の抜幸ノートのうち︑﹃全集﹄第三巻はロ

ノートの作成の時期については︑﹁訳者解説﹂の一七五ー一八

0

ペ ー ジ を 参 照 の こ と ︒ ( 3 )

詳細は︑杉原・重田訳﹃マルクス経済学ノート﹄の﹁訳者補説﹂二三ーニ五ベージを参照のこと︒

( 4 )

前掲書︑﹁訳者解説﹂一八ニページ参照︒

( 5 ) 前 掲

﹁ 訳 者 解 説 ﹂

m の

1 ︑パリ時代のマルクスと経済学の研究﹂と﹁ 2 ︑ ﹃ 経 済 学 ノ ー ト ﹂ の 楷 成 と 作 成 の 時 期 ﹂ を さ す ︒

(以下『年譜』と略称する)は一八四四年三月頃—八月頃としてつぎのように

﹁マルクス︑自分のフランス革命の研究とエンゲルスの論文﹁国民経済学批判大綱﹂とにとくに剌激さ れて︑経済学の体系的研究に着手する︒八月下旬頃までに︑

ペ ク ー ル ︑ アダム・スミス︑リカードゥ︑

J.B

・ セ ー ︑ ビュレ︑さらにジェームズ・ミルの﹃綱要﹄︑

マカロックの﹃講義﹄︑

る﹂︒またその典拠として︑

かれらからの抜幸ノートが現存しているのだから問題はない︒また第四節の検討が明らかにするように︑シュルツ︑

ペクールに関しても︑同様の抜宰ノートが存在していたと想定してもほぽ間違いはない︒このようにして︑問題はお

M.E.L

研究所編﹃マルクス年譜﹄

スカルベク︑ その他︵イギリス人の著者のものはすべてフランス語で︶を読み︑

( 1 )  

﹃年譜﹄は﹃全集﹄第三巻四三五ページを指示している︒

一 五

マカロックに関しては︑

部分的に評註と抜幸を作成す

スカルベクの﹃理論﹄︑ シスモン

シュルツの﹃生産の運動﹄︑

(7)

152 

ところが︑前節でも紹介したように︑

れにエンゲルスからの抜率が添えられているにすぎない︒シスモンディのばあい︑もしそれからの抜率が存在したと

( 3 )  

すれば︑種々の事由から﹃経済学新原理﹄の抜幸であったと推定されるのだが︑それでは果してノート>の一部とし

てかつては﹃新原理﹄の抜宰が存在していたのが︑やがて時の経過とともに散逸してしまったのであろうか?

かにそうおもわれるふしがある︒以下そのような事実を想定せしめるようないくつかの資料を挙げてみると︑つぎの

とおりである︒

西

のずからつぎの二点に絞られる︒日シスモンディからの抜率は果して作成されたのか︑口﹁その他﹂の経済学の文献

としてどのような種類の文献が考えられるのか?

本稿の註

( 1

)

でも述べたように︑﹃年譜﹄はシスモンディからの抜率が作成されたことについては︑これといった

典拠を示していない︒あるいは︑

それは﹃全集﹄第三巻のノート>についてのつぎの紹介によったのかもしれない︒

デステュット・ドゥ・トラシィ︒

レ ︑

' ノ

̀  

つぎのような記述がみられる︒

ベンサム﹃刑罰と報償の理論﹄︒デュモン編︑第三版︑第二巻︑︒ハリ︑ シスモンディ・説明等

( E

c l

a i

r c

i s

s e

m e

n t

s e t c . )

︒ただしこの部分は抹殺されている︒

( 2 )  

口プレヴォのミル論︒

G

i b b o n s ︺ ゜

そこでは﹁表題はつぎのとおりである﹂として︑

一 五

ノート>は実際には︑マカロック︑トラシィ︑父ミルからの抜率よりなり︑そ

(8)

153 

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶

位をかなり適確につかんでいたことを理解できる︒また︑

点は重田︶︒

リカードゥは土地所有にたいし︑ 部分的な対立にすぎぬことを述べて︑さらにつぎのようにいっている︒﹁そのようにアダム・スミスはときおり資本

家にたいし︑デステュット・ドゥ・トラシィは両替商にたいし︑シモン・ドゥ・シスモンディは工場制度にたいし︑

( 7 )  

ほとんどすべての近代の経済学者は非工業的資本家にたいして論争する⁝⁝﹂

さて︑右にあげた資料のうち︑国と同︑とくに同によって︑われわれは︑

たものをそのまま利用することが多いが︑

⑳ 

その点で日と口の資料︑とりわけ日でのシスモンディからの引用はわれわ 民的経済学の諸流派の対立は︑

マルクスが引用をするばあい︑ プルードン﹂

一般にノートに一度抜幸し マルクスがシスモンディの経済学史上の地

︵ 傍

の﹁批判的傍註第一﹂で︑マルクスは市

﹃経済学・哲学手稿﹄はその第一手稿の﹁資本の利潤﹂の﹁四︑資本の蓄積と資本家たちのあいだの競争﹂の

項で︑﹁リカードゥにとっては人間たちは無であり︑生産物が一切である﹂といいつつ︑これをリカードゥの﹃経済学と

課税の原理﹄からの引用によって立証するとともに︑リカードゥのこの見解にたいするシスモンディの批判を﹃経済

( 4 )  

学新原理﹄からの引用によって紹介している︒

右の日でのリカードゥからの引用は︑リカードゥからの抜幸ノートにあり︑それにつづく評註では引用のかた

( 5 )  

ちでではないが︑シスモンディの右のリカードゥ批判の要旨が紹介されている︒

国同じ手稿は第二手稿﹁私的所有の関係﹂での資本家の前近代的土地所有者との対立的発生について述べた箇所

( 6 )

で︑前者にたいする批判者として︑﹁重農主義者のベルガッス﹂などとともにシスモンディの名を挙げている︒

︵四四年九月│+︱月執筆︶の第四章の﹁4

一見きわめて本質的対立のようにみえるけれども結局︑私的所有を前提とした上での

一 五

(9)

I  54 

目録も示すように︑マルクスの経済学研究は︑英語の文献が直接に読めるようになったこともあいまって︑

になって一段と拡充され︑深化している︒だがそれにもかかわらず︑シスモンディに関しては﹃研究﹄しかとりあげ

られた形跡の残っていないのは︑果してなにを物語るのであろうか︒

むろん︑断定にはなお慎重な検討を要するけれども︑われわれはこれまでに挙げた諸事実から︑ビュレの著作その. さいの抜き書きで今日に伝えられているのは︑

いても︑同様のことを推測できないであろうか︒

西

れの注意をひく︒かくてわれわれは︑右の諸事実からきわめて簡単に︑

定することが可能にみえるかもしれない︒だが実は︑四四年﹃手稿﹄の英訳者ミリガンも指摘しているように︑

シスモンディに関する抜芋ノートの存在を想

モンディからの引用は︑リカードゥからの引用とともにビュレの﹃イギリスとフランスの労働者階級の窮乏につい

( 8 )  

て﹄からの孫引である︒では当時のマルクスはビュレその他からシスモンディに関する知識をえたにすぎないのか?

だがなお考慮に値いするつぎの事実がある︒

ノート>の表題にしるされた著作の中で今日みあたらぬ抜幸に︑いま一っベンサムの﹃刑罰と報償の理論﹄か

らの抜率がある︒だがそのベンサムの著作に﹃聖家族﹄のマルクスは四箇所で言及し︑その一箇所ではかなり長文の

( 9 )  

引用を添えている︒この事実は︑すでに述べた引用をするばあいのマルクスの流儀とむすびつけて考えると︑ベンサ

ムの上述の著作からの抜率が﹃聖家族﹄執筆の頃までに作成されていたことを強く推定させる︒とすれば︑

の表紙に記されていながら︑しかも抜率の今日に伝えられていない残りの︱つであるシスモンディの﹃新原理﹄につ

後にプリュッセル時代︵四五年二月ー四八年二月︶にマルクスはシスモンディ研究にとりかかっているが︑

( 1 0 )  

﹃経済学研究﹄全二巻からの抜宰だけである︒この時代のノートの

ノート>

この時代

(10)

1 1 1 ・ 1 1  

マ ル ク ス の ︒ ハ

9

時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶

他が機縁になって︑

一 五 五

ノート>作成に前後してシスモンディの﹃新原理﹄が読まれ︑恐らく抜率がつくられたとの推定

(1

)M

EL

研究所編︑岡崎・渡辺訳﹃マルクス年譜﹄二九ページ︒なお﹃年譜﹄の指示する﹃全集﹄第三巻四三五ページとは︑

﹁経済学研究﹂という文字のみが記された抜幸ゾートの表紙の部分である︒

( 2 )  

M E G A ,   A b t .

 

I

B d

.  

3 , S   .  

4 1

1 .

  邦訳︑九ページ︒

なお邦訳の訳註に記されているように︑﹁説明等﹂とは︑シスモンディの﹃新原理﹄第二阪の附録につけられた論文のこと

をさすようにおもわれる︒

( 3 ) . 註

( 2 )

の推定や︑ーー後にみるように 1 プリュッセル時代にはシスモンディの﹃経済学研究﹄からの抜幸のみが作成さ

れている事実などを考え合わせると︑本文の推定がでてくる︒

( 4 )

  V g

l . ,  

K .  

M a r x ,   O k o n o m i s c h   ,  p h i l o s o p h i s c h e   M

a n

u s

k r

i p

t e

,   a u s e   d m   J a

h r

e  

1 8 4 4 ,   M

E G A , b   A

t .

 

I

B d

.  

3 , S   .  

63 

. I i i ;  

訳 ︑

︵四四年﹃手稿﹄の邦訳は数種あるが︑以下︑国民文庫阪のページ数のみ示す︶六九ー七

0

ペ ー ジ ︒ ( 5 )   V g l . ,   e

b e

n d

a ,

S   .   5 1

4   │ 

5 1

5 .

  邦訳︑五八ー六

0

ペ ー ジ ︒

( 6 )

  V g

l . ,  

e b

e n

d a

,  

S .

1  

0 1

.   邦

訳 ︑

︱ 二 六 ' し ・

︱ 二 七 ペ ー ジ

︒ ( 7 ) M a r z ,

E

g e l s Werke•

B d

.  

2 ,

S   .  

3 4

.   邦訳︑大月阪﹃全集﹄︑第二巻︵以下

W e r k e

の邦訳ページ数はこの書のものを示す

︶三 0

ペ ー ジ ︒ ( 8 )   V g l .

K .

,  

 

Marx•EComs

n i c   a n d   P h i l o s o p h i c a l  

M a

n u

s c

r i

p t

s   o f  

1 8 4 4 ,   Mo  g 

o w

,   p

4 .  

9 ,

f o  

o t n o t e   ミリガンも指摘しているように︑リカードゥ︑シスモンディからの引用文のみならず︑その他の部分もピュレからの抜幸 であって︑念のためにピュレの原典と対照してみょう︒ピュレでは﹁諸国民はただ生産の仕事湯であり︑人間は消費し生産

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

するための一つの機械である︒人間の生命は一つの資本である

o

'すべてが考量されあるいは計算される︒そして経済法 │

則は盲目的に世界を支配する﹂︵

p .

6)  (傍点は重田︶とあり︑それへの註として﹁リカードゥにとっては人間は無であり ︑︑︑︑︑︑︑︑

⁝⁝﹂という一節とリカードゥ︑シスモンディからの引用とが添えられている︒したがって︑傍点の部分を除き︑本文と註

を組立てることができないであろうか︒

(11)

156 

が︑それらの中から目ぽしいものを挙示してみると︑ り︑以下それの基礎になる若干の資料を提出してみたい︒

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

の一部とを一っにあわせて︑マルクスは﹃手稿﹄の本文に組み入れたのである︒

( 9 )   V g l . , M   a r x ‑

E n

g e

l s

  W e r k e ,

B  

d .

  2

,   S .   1 3 9   1 

1 4 1 ,   1 8 9 ,   1 9 9 , 0   2 5 .

 

却ガ訳

i

︑一三

tI

︱ 四

I O

︑ 一 八 十

︷ ヽ

なお引用の添えられているのは︑

s .

1 4 1   (

一 四

0 ページ︶である︒

( 1 0 )   V g l . ,   M E G A ,   A

b t .  

I

B d

.   6

,   S .

  614

6 1 5 .

なお︑マルクス﹃饂

i

5

学 1ノート﹂の﹁訳者解説﹂一九七ー一九八ページを参照︒

さて︑年譜が﹁⁝⁝マカロックの﹃講義﹄その他を読み⁝・:﹂というばあい︑

しようとしていたかは必ずしも明らかでない︒われわれはその一っとしてマルサスの﹃人口論﹄を想定するものであ

周知のように︑エンゲルスが﹁国民経済学批判大綱﹂の中で批判を集中した対象の︱つは︑

( 1 )  

あった︒経済学の研究をはじめるにあたって﹁大綱﹂から﹁とくに刺戟された﹂といわれるマルクスが︑その点を見

落したとはとうてい考えられない︒事実︑

( 2 )  

めて鋭い批判を提起している︒だがそこでひきあいに出されているのは父ミルであって︑ ﹃経済学・哲学手稿﹄は国民経済学の人口論にたいする短くはあるがきわ

点︑本稿の主題にとっては余り役に立たない︒このようにマルクスが直接マルサスに言及した資料はきわめて少ない

つぎのとおりである︒

︒ハリ時代のリカードゥ﹃原理﹄からの抜率ノートのうち︑地代論からの抜卒箇所の中で︑

( 3 )  

サスがリカードゥとミルとが着手した地代論を初めて提出した﹂︑との評註を添えている︒

マルサスではなく︑

マルサスの人口法則で

一九九︑二 0 五 ペ ー ジ ︒

この﹁その他﹂によってなにを指示

一 五 六

(12)

157 

マ ル ク ス の ︒ ハ

9

時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶

さて︑右の日l回の資料によって︑われわれは︑

してローダーデールと並んで︑

マルクスが人口法則をも含めてマルサスの経済学説にかなり通じ ﹁人口がたえず生活資料を上回る傾向にある

'

マカロックの﹃経済学の起源︑進歩︑固有の対象および重要性に関する講義﹄からの抜率の一部に︑労賃の理

論をマルサス人口論とむすびつけて説いた箇所が見られるが︑すぐその後にマルクスは︑

( 4 )  

理論の土台は︑マカロック氏によって是認されている﹂︑との評註を入れている︒

ボアギュベール﹃富・貨幣および貢納の本質に関する論究﹄からの抜率に添えられた評註の一部は︑商品の一

般的過剰生産を否認するセーと対比しつつマルサスによる過剰生産の肯定を指摘しているが︑その中で︑

( 5 )  

わち人間の過剰生産を仮定するマルサス﹂︑という評言がみえる︒

) に

四四年﹃手稿﹄はその第三手稿の﹁欲望︑生産および分業﹂の項の一節で︑

を奨励して節約を呪胆する分派と節約を奨励してぜいたくを呪阻する分派との対立に言及し︑前者の立場の代表者と

( 6 )  

マルサスの名を挙げている︒

ルーゲ批判の論稿「論文『プロイセン国王と社会改革ー—ープロイセン人』にたいする批判的論評』(四四年七

烈に批判しつつ︑ イギリス議会の救貧法についての見解|—イギリスの極貧状態の主因としての救貧法

この見解とワークハウスの設置との間にどのような関連があるかを指摘しているが︑その中で︑

ルクスはマルサスの人口法則に言及してつぎの引用をおこなっている︒

以上︑慈善は︱つの愚行であり︑貧困を公けに奨励することである︒だから国家にできることは︑貧困を成行にまか

( 7 )  

せて︑せいぜい貧困者の死をたやすくさせることだけである﹂︒

ていたことを容易に読みとれるであろう︒国の資料に関していうと︑その中の引用文が﹃人口論﹄第三篇第五︑六︑ ﹁国民経済学﹂内部でのぜいた<

つまりマルサス

(13)

I  ! l   8 

孫引した形跡はきわめて濃厚である︒だがマルクスの引用文の後半の出所が明らかにされぬかぎり︑問題はなお残さ なるほど︑ミークの指摘するように︑マルクスがその引用文の前半をビュレの右に引用した文章の傍点の部分から いして︒ハンを与えたいとおもうなら︑あまりに多くのことをしなければならないだろう︒それについて十分な富があ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑るかどうか︑いったい誰れが知っているだろう︒人口にはたえず生存手段をこえる傾向があるので︑慈善は狂気であ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑り︑貧困にたいして興えられる公的奨励である﹄︒たしかに︑われわれが説明しょうとしている法則はこの理論を正

( 1 0 )  

当なものとは認めない︒しかし︑⁝⁝﹂︵傍点は重田︶︒ ﹃各人はこの世界において︑自他にたいして︑

ぎる人々にたいしてそれがどんなに悪かろうとも︑どれほどのことが請合えよう︒もし餓えに叫ぶ人々のすべてにた たいして厳格に適用してきた︒すなわち︑ ﹁ひとは︑残酷だという非難をものともしない勇気をもって︑ ら引用すると︑

西

七章の﹁救貧法について﹂や︑第四篇でのそれの系論にあたる救貧法批判の部分と内容的にむすびついていることは明

( 8 )  

らかである︒だがマルクスは引用の出所を示していず︑﹃人口論﹄にもそのまま該当する文章は見出されない︒

R.L

・ミークは編著﹃マルクス・エンゲルス﹁マルサス論﹂﹄の中で﹁批判的論評﹂の一部を収録しているが︑右の引用文

﹁この引用文の最初の句についてはビュレの前掲書︵﹃窮乏について﹄をさすー重田︶第一巻一五ニページを

右のミークの指示する箇所は︑ビュレ﹃窮乏について﹄の第一篇第五章︵﹁イギリスにおける窮乏の存在と発展﹂︶第

二節﹁改正法︵一八三四年の

I

重田︶以後の窮乏﹂の一節であって︑ミークの註が指摘している箇所をビュレの原典か

つぎのとおりである︒

( 9 )  

みよ﹂といっている︒

つまりこの世にあまり多す マルサスによって指示された過激な薬を貧困状態に

(14)

1.59 

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶

れているといわなくてはならない︒とはいえ︑以上の事実を考えると︑国の資料によってただちにマルクスがマルサス﹃人口論﹄に直接触れていたことを立証するのは︑少なくともきわめて困難であろう︒だが︑

第三巻の中に見られるつぎの事実をこれまでに挙示した資料と重ね合わせて考えると︑なおそこには考慮に値いする

﹃剰余価値学説史﹄はその第三巻第一九章﹁トーマス・ロバート・マルサス﹂の第一四節で︑

から三つのパラグラフを引用している︒それはHィギリスの小屋住農に牝牛を恵与する計画に反対した部分︑口﹁上

層階級および下層階級は必要であるばかりでなく︑そのうえきわめて有益である﹂ことを主張した部分︑国上述の点に

ついての将来の最高の期待ー│総人口の中で中産階級の人口数が増加し︑プロレタリア階級が相対的にその数を減ず

(11) ること│ーを述べた部分を﹃人口論﹄からぬきだしたものである︒マルクスが﹃剰余価値学説史﹄で﹃人口論﹄を利

用するばあいーーただし第一巻では言及されていないーー︑かれは原則として英語原典の第一版もしくは第五版を利

用している︒ところが︑右にあげた部分にかぎって︑編輯者の手になる文献索引の註記によれば︑かれは英語原典第

( 1 2 )  

五版をもとにプレヴォのおこなったフランス語訳改訂第三版︵パリ一八三六年刊︶を利用しているのである︒

ではなぜこの部分にかぎってマルクスはフランス語訳を利用したのか?・文献索引その他によってもその理由は明ら

ートも示すように︑ かでない︒だが今日︑少なくともつぎのことだけは明らかである︒すなわち︑ブリュッセル時代の経済学に関するノ

( 1 3 )  

この時代になるとマルクスは英語の文献は英語原典で読みはじめている︒したがって︑『人口論』のフランス語訳ー~それも第五版のーーを積極的に必要としたのは。ハリ時代にかぎられるようにおもわれ

る︒またそれと並んで︑われわれはつぎの事実に注目しなくてはならない︒同じ﹃剰余価値学説史﹄第三巻第二十章 推定が生ずるようにおもわれる︒

マルサス﹃人口論﹄

(15)

160 

抜率ノートを利用した形跡がきわめて濃厚である︒だとすれば︑﹃人口論﹄のフランス語訳からの引用のばあいにも

西

﹃経済学網要﹄から引用するばあい︑

( 1 4 )  

る︒しかも別の機会に考証しておいたように︑種々の理由から推して︑フランス語訳からの引用はすべて︒ハリ時代の

同様のことが推定できないであろうか?わたくしにはそのような想像が棄てきれないのである︒

さて︑﹃年譜﹄のいう﹁その他﹂の経済学者としてただちに想い浮ぶものにさらにケネーがある︒

A

・コルニュの﹃カ

ール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルス﹄第二巻はこの点に触れて︑つぎのようにいっている︒﹁⁝⁝この研究

︵︒ハリ時代の経済学研究︶は︑ボアギュベールとケネーからはじまって︑アダム・スミスとリカードゥをこえてジャン

( 1 5 )  

・バティスト・セーにまでおよぶ国民経済学の発展を包括している﹂

ここでコルニュがなにを根拠にケネーを数え入れたかは︑必ずしもつまびらかでない︒おもうに︑かれは﹃経済学・

( 1 6 )  

哲学手稿﹄の第三手稿の中に見出されるただ︱つの︑だがきわめて注目すぺきケネーヘのあの言及ーー'重商主義︑重農

学派︑古典派という経済学の歴史的展開と私的所有の主体的本質としての労働一般の析出との連繋の指摘ーー・とむす

抱くものにとっては看過すべからざる一論点であるけれども︑ びつけつつ︑右の叙述をおこなったものと解される︒たしかに﹃手稿﹄のこの箇所は︑若きマルクスの経済思想に関心を

( 1 7 )  

マカロックの﹃講義﹄をとおして

ケネーにかなり通じていたとおもわれるマルクスにとっては︑以上の経路をへて獲得した知識とかれ独自の方法とを

結合することによって︑案外容易に上述のケネー評価を導き出しえたのではあるかいか︒事実︑プリュッセル時代の

経済学に関する読書ノートは︑この時代にケネーの﹁自然法﹂と﹁経済表﹂とがデール編﹃重農主義者﹄第一部︵︒ハリ一

( 1 8 )  

八四六年︶によって読まれたことを伝えている︒したがって︑コルニュの記述には︑なお検討の余地が残されているとい

2

ジェームズ・ミル﹂は︑

英語原典と並んでフランス語訳を利用してい

(16)

I  6  I 

マ ル ク ス の ︒ ハ

9

時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶

わなくてはならない︒

一 六

( 1 )

iJ

の点については︑杉原四郎﹃ミルとマルクス﹄四六ー五三︒ヘージを参照︒

'

( 2 )   Vgl••

K .  

M a r x ,   M

a n

u s

k r

i p

t e

,   M E G A ,   A b

t .

 

I

B d .  

3 ,   S .  

132•

1 3 5 .

  邦訳︑一七ニー一七三︑一七七ページ︒なお父ミルに

言及しているのは

s . q 2

 

(邦訳一七三ページ︶においててある︒

( 3 )

  V g

l . ,   M E G A ,   A b t .  

I,  

B d .   3 ,   S . 4   9 9

0

.   邦訳︑四九ページ

( 4 )  

Vgl••

e b

e n

d a

,  

S .   5 5 2

.   邦訳︑ーニ八ー︱二九ページ︒

( 5 )   V g l .

,   ebenda~,

S .   5 7 8 .  

邦訳︑一五五ページ︒

( 6 )  

V g l . ,  

K .  

M a r x ,   M

a n

u s

k r

i p

t e

,   M E G A , b   A t .

 

I,

B

 

d .   3 ,   S . 1   3 0

.   邦訳︑一七 0

ペ ー ジ ︒ ( 7 )  

Marx•Egels

W e

r k

e ,

B   d .   1 ,  

3 9 8 .

  邦訳︑大月阪﹃全集﹄第一巻︑四三五ページ︒

( 8 )

吉田秀夫訳︑﹃各阪対照︑マルサス︑人口論﹄その他によって検索してみたが︑遂に見出すことができなかった︒

( 9 )  

R .

  L .   M e e k   ( e d . ) M ,   a r x   a n d   E n g e l s   q n  

M a

l t

h u

s ,

  L o n d o n ,  

1 9 5 3 ,  

p .  

6 7

.   `邦訳︑八 0

ペ ー ジ ︒ ( 1 0 ) E .     Buret•

D e   l a  

m i

s e

r e

s   d

e s

  c l a s s e   l a b o r i e u s e s   e n   A

n g

l e

t e

r r

e   e t   e n   F r a n c e ,   P a r i s  

1840•

p .  

1 5 2 .

  なお︑この

S l 用文は

マルサス﹃人口論﹄には見出されぬようにおもわれる︒

( 1 1 )

K .

 

 

M a

r x ,  

T h

e o

r i

e n

e r d e n   M

e h

r w

e r

t ,

  3 

T e i ! . ,  

B e

r l

i n

  1

9 6 2 ,   S .  

57  │ 

5 8 .  

( 1 2 )   Vgl••

e b

e n

d a

,  

S .

  5

5 0 ,   6 4

7 '

648

••

( 1 3 )  

V g l . ,   M E G A , b   A

t .

 

I•

B d .  

6 ,   S .  

5 9 7   1 

6 1 8 .

  5 ノート﹄の﹁訳者解説﹂一九七ーニ︱︱ページを参照︒ なおマルクス﹃江

8泣

J

( 1 4 )

前掲訳書のミル﹃網要﹄からの抜幸の邦訳のさい︑訳註の中でこの点の考証をしておいた︒

( 1 5 ) A   .   Cornu•

K a r l   M a r x   u n d   F r i e d r i c h   Engels•

B d

.  

2 ,

B e  

r l i n

  1

9 6 2 , S   .   1 1 8 .  

( 1 6 ) Vgl••  

K .  

Marx•

M a

n u

s k

r i

p t

e ,

  M E G A ,   A b t .  

I•

B d .  

3 ,

  S

.  

1 0 9 .  

~/訳、一三八ページ。

( 1 7 )  

V g l . ,   M E G A , b   A

t .

 

I

B d .  

3 ,   S .   5 5 1 .

  訳︑ーニ七ページ︒ ~

( 1 8 )   V g l . ,   M E G A ,   A

b t

.  

I•

B d

.  

6 , S   .  

612•

6 1 3 .  

なお︑マルクス﹃経済学ノート﹄ ﹁訳者解説﹂ニ︱ 0 ペ ー ジ 参 照 ︒

(17)

162 

作成された著作の中にシュルツ︑ 生計の諸問題の解決﹄ ビュレ﹃イギリスとフランスの労働者階級の窮乏について﹄

マルクスによって読まれ︑かつ抜宰の

0

年刊︶︑ペクール﹃社会的および政治的経済学

西

﹃経済学・哲学手稿﹄はその第一手稿の﹁労賃﹂と﹁資本利潤﹂の項で︑シュルツ﹃生産の運動﹄

︵一八四二年刊︶からいくつかの引用をおこなっている︒また﹁労賃﹂の項には︑ルードンの﹃人口および

( 1 )  

︵一八四二年刊︶からの引用が含まれている︒

さて︑右の事実は︑これをすでに言及したマルクスの引用の流儀にむすびつけて考えると︑シュルツ︑ペクール︑

ルードンからの抜率が、その他の抜率と並んで作成されていたー~ビュレからの抜率は現存するのだからその点では

問題は存しない—ーことをかなり確実に推測せしめる。『マルクス年譜』が、

ペクールの前述の著作を数え入れたー│﹃年譜﹄はルードンの著作には言及してい

ないーー'のも︑恐らくは右の事実に依拠してのことであったとおもわれる︒

シュルツ︑ビュレ︑ペクール︑ルードンからの抜率が存在していたか否かについては︑これ以上論ずべ

き資料はない︒ただペクールの﹃新理論﹄を除くと︑わたくしは最近それぞれの著作を参照する機会をえたので︑

ルクスによる引用部分その他について若干気付いたことを以下に記しておこう︒

一八四三年に刊行されたシュルツの﹃生産の運動﹄は︑同時に﹁国家と社会の新科学の基礎づけに寄せての歴史的

統計的研究﹂という副題をもつ総計一七九ページの書物であって︑必ずしも大部の著作とはいえない︒それは﹁物質的

( s .  

10

7 4 )

「精神的生産ー~歴史的考察」

( s .

 

7

5

1 2 1 )

﹁精神的生産││統計的考察﹄

( s .  

1 2 2

1 7 8 )

一 六 ︱

(18)

163 

ここに﹁精神的生産﹂とは︑マルクスの﹃ドイツ・イデオロギー﹄にいう精神的生産の語にほぽ照応するかに考えられ︑

いわゆる上部構造の諸問題が主として考察の対象にされている︒したがって︑

から印象を受けるような単なる経済学の書物ではなく︑経済生活からはじまって上部構造の問題をも含む︑いわば人

類の歴史的社会的発展の諸問題について論究した書物である︒

﹃手稿﹄で強調されている箇所││'印刷されたものではゲシュペ

( 2 )  

ルトーーーはすべて﹃生産の運動﹄でゲシュペルトの箇所である︒換言すればマルクス自身がとくに強調するためにア

ンダーラインを入れた箇所は存在しない︒またマルクスは⁝⁝などの記号で示すことなく無断で若干の文章を省略し

( 3 )  

ているが︑このようなやり方はバリ時代の抜宰ノートに特に顕著に見られる事態であり︑以上の事実は引用が抜宰ノ

ートからの転用であるとの想定を︑したがって抜宰ノートの存在という仮定をある程度傍証するようにおもわれる︒

シュルツの﹃生産の運動﹄がやや小型の著作であるのに比して︑ビュレの﹃イギリスとフランスの労働者階級の窮

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚書︵璽田︶

かれは第一巻から抜き書きをしているが︑

一 六

この書物は﹃生産の運動﹄という主題

乏について﹄は上下二巻にわかれ︑上巻四四0

( V I I I ,

4 3 2 )

︑下巻四九七ページ

( 4 9 2 v ,

)

︑合計九三七ページに

( 4 )  

達する大著である︒マルクスはこのビュレの著作から︒ハリ時代とブリュッセル時代との二回にわたって抜幸を作成し

( 5 )  

﹃全集﹄第三巻の﹁抜宰された著作のリスト﹂や後の考察がその一端を明らかにするように︑パリ時代には

( 6 )  

これに反して︑ブリュッセル時代に関しては明確なことはわからない︒た

だ︒ハリ時代の以上の事実と︑﹃全集﹄第六巻の抜率と評註についての簡単な紹介とからこの時代には第二巻に相当する さて︑四四年﹃手稿﹄でのマルクスの引用についてこれを原典と対照してみると︑まず︑引用の範囲が最初の﹁物︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑質的生産﹂の章にかぎられているのが注目される︒ ︱つの章からなり︑冒頭に﹁序文﹂

( s .  

│ 

9)

がおかれ︑また末尾には﹁補遣と補正﹂

( s .  

1 7 9 )

が添えられている︒

(19)

164 

された著作ではなく︑それぞれ﹁パリ︑ でのケイ博士︵サー・

J.P

﹃手稿﹄でのリカードゥ︑シスモンディからの引用がビュレからの孫引であったこと︑また﹁批判的論評﹂でのマルサスへの言及がビュレに依拠している疑いの濃いことなどから推察できよう︒そのさいにも引証したミークは︑さらに︑同じ﹁批判的論評﹂

策﹂への若干の言及と短い引用が︑ ﹁イギリスにおける最近の教育振興

( 7 )  

これまたビュレの﹃窮乏について﹄を利用したものであることを註記している︒ま

たそこで詳述されているイギリスの貧民委員会に関する知識も︑ミークも指摘しているように︑ビュレの同じ著作か

( 8 )

9 )  

ら知識の供給を仰いだことはほぼ確実である︒

一八四二年に︒ハリで公刊されたルードンの﹃人口および生計の諸問題の解決﹄は︑総計一︳︱‑︱‑六ページにおよぶかなり

大部の書物である︒﹁一医師に提出された一連の書簡﹂という副題も示すように︑それは特定の篇別構成によって構成

一八四二年0

0日︒親愛なる同僚﹂という書き出しではじまる合計十二通 経済学史上の知識について︑ 西

部分から抜き書きが作成されたものと推定される︒

ところで︑パリ時代の抜幸部分も︑本稿第一節の註

(2

)

で指摘しておいたように全集がこれを収録していないの

で︑その詳細はたしかめえない︒ただ四四年﹃手稿﹄の引用部分を原典と対照してみると︑引用は主としてこの著作の

序文から採られているものの

( p .

6

7 "

42

4 4 ,

49  │ 

5 0 ,  

52  │  53

6 2 , 6 3 ,  

68  1 

6 9 ,  

8 2 )  

からも引用されており

( p .

3 6 2 )

︑またすぐあとで触れるように︑

ビュレのこの著作の他の箇所を若干利用しているから︑抜幸はビュレの著作第一巻のかなり広範囲の部分に及んでい

るものとおもわれる︒

マルクスがビュレの﹃窮乏について﹄に若干負うところがあった点については︑四四年 ルーゲ批判の論稿﹁批判的論評﹂でもマルクスは ︑第一巻の末尾に近い第二篇第二章

(20)

165 

マルクスのパリ時代の経済学研究に関する資料的覚書︵重田︶

シュルツの﹃生産の運動﹄とバリ時代のマルクスとの関係については︑わたくしの知るかぎり︑これまで論じられ が多いようにおもわれる︒

﹁搾取説はサン・シモン主義 の書簡を日付順に配列したという体裁をとっている︒四四年﹃手稿﹄が言及し︑一部引用しているのは︑四月五日の日付を打たれた第十一書簡のうち︑ローマとギリシァにおける売春にひきつづいてロンドンと︒ハリにおけるそれを述べた

﹃手稿﹄の引用は原文にきわめて忠実である︒ただ引用文では一箇所強調を示す箇所ー│'印刷された

(10) ものではゲシュペルトーがあるけれども︑ルードンの原著には存在せず︑マルクスによる強調を示すものと考えら

さて︑ペクールに関していうと︑たとえば﹁コンスクン・ペクールにおいては︑初期フランス社会主義にあったい

( 1 1 )  

きいきとした独創的な精神がまったく消えうせている﹂というガローディの評価と︑

者︑並びにとりわけ今日ほとんど知られていないペクールによって非常に体系的に論じられている︒かれはかれの同

( 1 2 )  

時代の社会主義の間でその思想の力と明晰さの点で傑出していた﹂というツガン・バラノフスキーの評価との対立に

端的に示されるように︑なお今後の研究にまつところが多い︒ビュレに関してもそうであって︑かれの﹃窮乏につい

て﹄とエンゲルスの﹃イギリスにおける労働者階級の状態﹄その他との関係についてはこれまで若干論じられてきた

( 1 3 )

1 4

)  

けれども︑前者とパリ時代のマルクスとの関係についてはほとんど究められていない︒だがこれまでに明らかにした

いくつかの考証からもある程度推測されるように︑当時のマルクスがビュレのこの著作から汲み取ったものは案外に

多いのではあるまいか︒コルニュは︑四四年﹃手稿﹄での労賃の問題の検討にさいしてマルクスがビュレ︑ペクール

( 1 5 )  

などの﹁社会政策家や社会主義の様々の著作﹂に依拠していることに注目しているが︑今後の研究に示唆するところ

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