アントナン・アルトーにおける
「 悪 J と「ユーモア」
佐 々 木 泰 幸
はじめに
アントナン・アルトーはごく若い時期から演劇活動に身を投じ,劇団を つくり,演劇論を書いた.演劇はアルトーの生涯を貫くテーマであり,思 考を促す「場」であった.実際の上演は精神病院への入院よりも前から途 絶えてしまったが,晩年にはラジオドラマを制作し,演劇への言及は止む ことはなかった.その演劇についての思考は,時に比輸に満ち,抽象性に 溢れ,演劇の外に出てしまうかに思われる.だがある意味でそのことは不 可避であったとも言える.すでにあった演劇の方法は決してアルト}を満 足させなかったし,演劇の概念は広げられるべきものであったからであ る.また,アルトーにとり,演劇は単に劇場で行われる表現手段のひとつ にとどまらず,生のありょうを探る手がかりになるものだ、った.アルトー は,演劇からさまざまな思考を取り出し,演劇にさまざまな概念を植えつ けるのだ.
本稿ではそうした,アルトーが演劇に関する思考の過程で見出し,展開 していった概念の一部,「悪」と「ユーモアjを取り上げる.「悪」はアル トーが精神的な危機をくぐり抜けた後の晩年にまで繰り返しノートにあら われる言葉であり,演劇の作用という点で重要な意味を持つものだと考え られる.「ユーモア」はアルトーの企図した演劇に不可欠な要素であり,
アルトーが表現の持つ力を感じる瞬間をとらえた語である.この二つの領 域に触れただけでアルトーの演劇の全体を見渡せるわけではもちろんない が,その一端に分け入る足がかりとなるよう,検討してみたい.
1. 悪
アルトーは演劇に「悪」を注入し,その力の発現を演劇自体において示 そうとした.演劇は悪に貫かれ,悪を抱き,それを見る者に与えるのであ る.
119
「悪」の恐怖を生み出す出現は「エレウシスの秘儀」でもその純粋な形を与 えられているが,それは,まさに啓示的で,あらゆる真の演劇が再発見すべき いくつかの古代の悲劇の暗黒の時代に呼応するものなのである• I)
フランス語の malという語は災い,労苦,痛み,病なとマの意味を持っ ている.そうした意味をふまえてここでは「悪」としておく.スピノザに よれば悪とは私たちが自分にとって有益ではないと判断するものであ る2)_一見したところアルトーの言う「悪」はそれとは別の水準の言葉に 見える.アルトーが演劇に「有益」であるとか「有用」であるなどの役割
を担わせることはないように思えるからだ.
アルトーの言う「悪」はいわゆる道徳的な規範に則った善と対置させら れるものではない.無論,たがいに相いれないという意味で対立はする が,「悪」は規範や図式を打ち壊し,粉砕してしまうのだ.その一例とし てベストという病がある.「演劇はベストと同じように悪の季節であり,
黒い力の勝利だ」3)と宣言される.アルトーはベストに人間の精神面への 影響を見出す.ベストにおかされた街は社会性が崩壊し,悪徳、が横行し,
人々は「富を略奪する」のだが,それがまったく「役に立たない」ことを 思い知る.その時,アルトーが演劇と同義であるとする「無益で無駄な行 為に人々を駆り立てる直接的無償性」に満たされるのである.この悪によ
る行為は何か「利益」ゃ「有用性」を獲得するためのものではない.不必 要で過剰な,ただそれまでに成立していたものを破壊するためだけの行為 としてあらわれる.この悪は反=善として,善を攻撃したりはしない.む しろそうした概念を無視するのである.「黒い力」は無目的に充溢し,至 る所で噴出するのだ.善と悪の並置,平等な対立の構図はやはり善の側に あり,その場合,悪はそこからはみ出し,外れていこうとするものにすぎ ない.だが「悪」の方ではその図式を拒むだろう.
「悪」はまず社会体やその秩序を維持するための法を無効にする.それ に「違反」することによってではなく,法の存在を無意味にするのであ る.アルトーが描写するベストに見舞われた街の人々は法を犯すことを目 的として行動するのではない.それは「生命力が極限まで反応した」結果 であり,そうして駆り立てられた行為を法の側が禁止していたにすぎな い.法は過剰を抑制するのである.法は生命や財産を保護することを標捺 するが,それがたとえ「生命」の側にあろうと限界や境界を越えようとす るものは禁じられる.実際には法は国家という「秩序」を維持するための 120
アントナン・アルトーにおける「悪」と「ユーモアJ
装置であり,その秩序を危うくする者を裁くためにあるからである.だが ペストや演劇はあらゆる境界線をかき消し,その外へと人を連れ出すの だ.
そしてさらに道徳や習慣も悪によって無化される.道徳、はまさに善と悪 という図式を前提とするものであり,習慣は反復によって生に対する最大 の変化である死を遠ざけ,「有益」なもののみを保存していくという点か ら「善」の側にあるからである.悪は恒常的で安定した状態を無秩序へと 突き落としてしまう.常態化した悪があったとしても,その悪にとっては それを打ち壊す者こそが悪となる.悪は常に破壊者であり,侵入者であ る.そしてそれには力の欠乏ではなく,過剰さが必要であろう.パタイユ は善=悪の対立を退け,道徳についてこう述べている.
私は,もはや善と悪を対立させるのではなく,〈道徳の頂点〉と〈衰退〉を 対立させようと思う.〈道徳の頂点〉は善とは異なる.〈衰退〉も悪とは何ら関 係がない.〈衰退〉の必然性は,逆に,善の諸様態を決定している.
頂点は,力の過剰と横溢に対応している.それは,悲劇的な激しさを最高度 へと導く.頂点は,度を越したエネルギーの消費に,存在の完全性への侵害に 結びつく.したがって頂点は,善よりも悪に近い.4)
パタイユ自ら言っているように,「頂点」はアルトーが演劇やベストに 見る「悪j と似ている.それは投げ上げられたものが描く一瞬の残像,大 地に安定させるために働く規範という重力を突き抜けようとする力の表れ であり,上昇と下降の,そして静止と運動の境界の点である.そしてこの 頂点は生からもたらされ,生を導く.パタイユはさらに言う.「(頂点は)
生が定義しうる,生自体にとっての魅力のもっとも高度な,もっとも強度 の魅力として(垣間見える).(それは)一種の,結果とは無関係な太陽の 輝き(である)」う).アルトーの「悪」もまた,ベストという死に瀕する病 によってもたらされながら,やはり生の力の噴出である.ベスト患者たち の熱狂の理由は「死が近いというだけでは充分でない」のである.アルト ーはこの「力の過剰」を精神にかかわる「伝染病」だと考えた.ベストも 演劇も「感染し」,「伝播する」のである.そして,この「生」とはやはり
「性」のことでもある.
アルトーは『チェンチ一族』をはじめとして近親相姦というテーマに強 いこだわりを見せた.言うまでもなくそれは社会的な最大のタブーの一つ 121
である.法律をも超え,ほとんどの文化に普遍的な禁止事項となってい る.アルトーは近親相姦に,そうした強力な抑制の力を破るほどの「力の 過剰」,性に関する太陽の輝きと爆発を見出すのだ(「演劇の中には,一種 の奇妙な太陽が輝いている」6)).その演劇における実例のひとつとしてア ルトーはフォードの『あわれ彼女は娼婦』をあげる.アルトーによればそ の登場人物は,その情熱によって「法律も道徳も,勇をふるって裁き手と して立ち上がった人も迷わせる,より大きな恐怖で恐怖を超え」てしまう のだ.彼らは運命に翻弄され,打ちひしがれるか弱い「悲劇」の主人公で はなく,「英雄的」で,末期のベスト患者のように「熱狂」の中で行動す る.おそらくアルトーは近親相姦という出来事自体に興味を覚えたわけで はなく,それをさせる狂気にも近い情熱の力の表出をとらえたかったの だ.劇作家や俳優,ベスト患者はサドの登場人物のように「理性の自律性 を打ち壊すため」に「自分たちの不正行為をその基準となる理性に帰す」
るわけではない7). たしかに理性の機能は停止しているのだが,それは目 的ではないし,そもそも「振舞い」に基準を設けることができない.サド の登場人物たちは「自由」のために理性によって理性を抹殺するのだが,
アルトーの演劇では,確かにその熱狂,ベストへと入っていき,そこに身 を置こうとする意志に理性はあるが,その中においては,個人のものたる 理性あるいは集団的理性も引き裂かれ,「伝染jの渦に巻きこまれる.そ こでは理性を前提とした「自由」はない.むしろその行為は個人の「意 志」かどうか明らかでないという点で「不自由」であるかもしれない.俳 優が演じるということ,それは十分に理性的な行為である.演劇をつくろ うとし,セリフを覚え,何度も練習を重ねる.上演中でさえ,自らをコン トロールするのだ.だがそれで、も,舞台にいったん上がれば「演じ」なけ ればならない.そして日常では決して口にしない言葉を発し,するはずの ない行為に及ぶのである.それは私たちすべてがすでに生まれてしまった というこの生の否応のなさと同じなのだが,その極端な形をベストや演劇 にアルトーは見出すのだ.すなわち悪は「残酷」の表現形態のひとつであ る.
しかし個人の「自我」に自由がないとしても,やはりこの「悪」はサド の登場人物同様「自由」へと向かう.
それ L奇妙な太陽]はペストの自由さに似ている.そこでは瀕死の人聞が一 歩一歩,一段一段,自分の役割を膨張させ,生き残った人間が徐々に巨大で過
アントナン・アルトーにおける「悪」と「ユーモァ」
度に緊張した存在になっていく.
ここで言えるのは,すべての真の自由は暗いのであり,間違いなく性の自由 と混ざり合っているということである.そしてこの性の自由もまた,なぜかは よくわからないが,暗いのだ.8)
アルトーにとって自由であるのは個人ではなく,ベストであり,性なの だ.この自由は力と力の括抗,衝突から生まれ,「葛藤」の中へ導くもの である9).それは静的な停滞した世界には現われえず,予測不能な,流動 的な世界における変化としての自由である.だがそれは「日常jや「規 則jから見れば恐怖の対象であり,タブーとなるのだ.近親相姦も,本来 は生物的な理由による忌避なのかもしれないが,それを越えようとする性 の極端な力自体がタブーの対象となり,社会的な禁止の度合いは肥大して きたのだ.
こうした性の生み出す力に対してアルトーはのちに激しい憎しみと嫌悪 を示すことになる.それはキリスト教へと帰依した時期の一種の「錯乱」
と見えなくはないが,アルトーは一貫して性が身体に課す「不自由Jを告 発したのであり,「真の自由」10)への渇望という点ではぶれることがない.
アルトーは精神であれ身体であれ(こうした三分法すら斥けるだろうが),
それを縛りつけ,動きを止めようとするものに抵抗し続ける.その「束 縛Jが巧妙で目に見えないような形であればあるだけ,激しくアルトーは それを糾弾する.その対象が変わることは思考の変化とか矛盾というより
も,発見と言った方がいいかもしれない.アルトーの思考自体が思考に停 滞を許さないのである.
では演劇によって悪を示すことで何が起きるのか.アルト}はそれを
「浄化」だと言う.ベスト同様,患者たる観客は「狂気」に浸され,生命 の危機にさらされ,「あるがままの自分」を見,「病後」に全快する.アル トーが強調するように,演劇もベストも伝染性である.しかしそれは行為 の物まねをさせたり,すでに意識していた悪徳を誘発するようなものでは ない.それは人聞が獲得してきた,自らを律し,抑圧し,聞い,封じてき た柳を外し,人間として抱えている「生」を含めた諸々の力を解き放って
しまうのだ.
この「悪」による「浄化j という考えはアルトーの中に生き続け,十年 以上後の,演劇に関するテキストでは「治療」という観念に発展する.
123
魂は悪が自らの前で歌い,叫ぶのを目にし,それを聞きながら,実際に意識 の襲に悪が働きかけ得る誘惑を忘れ去ってしまう.魂は自分に毒を注ぎ,影響 を与えたであろうすべてのものが,見せかけだけ生を受け,舞台の上で死んで いくのを見るという,[悪の誘惑とは]逆の解放された感覚を覚えるのだ.
(…・・−)
演劇の魔術的な治療の力は,自我のあらゆる非難すべき感情を,被告人の行 列のように通過させてしまい,信頼の太陽の下と真実の配置の中で,そうした 感情を明らかにするところにあった.11)
たしかに舞台上で悪は「死ぬ」のだが,それは「善」に打ち倒されるわ けでも,再び抑圧のもとに押しこめられるのでもない.むしろ逆に,抑え こむ岩盤への反作用として高まっていた圧力が放出された結果,それは四 散し,熱は下がり,消失してしまう.悪とは何か,それはこの出口を失っ た力そのものである.だからこの力は一般的な意味での善でも悪でもな い.ただ強過ぎ,過剰なだけであり,制御が不可能な点で「悪」と呼び得 るのである.そして演劇はこの力を舞台の上,照明の下へと引っぱり出す ことができるとアルトーは言う.「悪Jが身を隠さず,観客の眼前に登場 すること,それが「治療」であると.たとえば「性」について,「リピド ー」といわれる欲望が無意識化に押しこまれた状態,それはまったく精神 分析的にではなくともアルトーは「治療」すべきだと言うだろう.無論そ れは身体と深く結びついた状態であり,「精神」というもののみを切り離 して病であると診断するようなことはないだろう.身体を含めて「治療」
が必要なのであり,だからこそ演劇でなくてはならないのだゆ.
人間は「悪の力」を封じ込めてきたが,それはむしろその力の肥大化を 招いた.そしてそれにはキリスト教も大きな役割を果たした. ドゥルーズ がニーチェについて述べているように,神への「負債」を持っているとい う意識こそが悪の意識=罪意識 mauvaiseconscienceなのだ13).この意 識は過剰な力とはまったく異質なものである.しかしそれらは人間の意 識,無意識のうちで引き剥がすことの困難な一体化したものとしてある.
アルトーは一時期,性というものが人間の身体を不自由にし,植をはめて いるとして攻撃するが,その後,この「悪の意識Jとは,性に対して誤っ た認識をさせるものとして対決するようになる.それにともない,アルト ーの神に対する態度も変化を示す.キリスト教に帰依したと言っていたア ルトーは次第に,神の無限の力能を神本来のものとしながら,神がそこか
アントナン・アルトーにおける「悪」と「ユーモア」
ら離れてしまったと指摘する(「〈神の原理〉は決してそこに入るべきでは なかったにもかかわらず,有限の中に導かれた」14)).アルトーが最晩年に なって告発するのは,神を利用し,「有限性」に引きずり降ろし,その名 のもとで「悪」を裁こうとするものである(「その「悪jを浄化するため に降りてくるという仕事をしたことは,神にとって必要であるどころか,
逆に完全に有害なものだ、ったのだ」15)).演劇において悪は裁かれるものと してあるのではない.過剰な力は「日常」にとっては不要で、あり,「わる い」ものであるだろう.しかしそれは人間が本来抱え,生と源泉を共にす るものだ.アルトーはそれを抑圧したり,切り取ったり,判決を下したり はしない.溢れ出る力への態度として,それを見ょうと,それを見せよう とする.その力はベストと同じようにそれぞれの人聞を飲みこみ,焼き尽 くそうとするだろう.それに抗うのではなく,そこに身を委ね,身体をく ぐらせること.そうしてアルトーの言う「浄化」がなされるのだろう.
アルトーにとって演劇のみならず,表現行為のすべてが生きるというこ とから分離して存在することはない.「治療」も,停滞し,淀み,死に近 づいていく生を拒み,生き直すための劇薬であり,手術 operationであ る.アルトーは言う.「メキシコには(……)芸術は存在せず,事物は何 かしら役に立つ.そして世界は永遠の熱狂のうちにある」附.アルトーは 自らの生と身体にかかわらない表現行為を認めない.「独立した純粋芸術」
など存在しないのだ.その意味でアルトーはプラグマテイストであった.
演劇は実践するためにあり,「役に立つ」のである.だがこの有用性は,
利便的なものでも,次の有用 性につながっていくものでもなく,ただ,こ の生を全的にくつがえし,塗りかえるものとしてある.ここで演劇は矛盾 したかのような二面性を抱えるように見える.有用なものを越えた悪を体 現し,同時に有用性をそなえてしまうことになるのだ.
悪が「無益」なものだとすると,それは生にとって無益なものであり,
生を脅かすものだと言えるだろう.どのような生であれ,揺るがされ,危 機にさらされるという点で,暴力,裏切り,虚偽,無関心が,その生にと っての悪と呼ばれるだろう.その意味で死は悪の極みに思えるが,正確に 言えば,生が永久に停止した状態であり,結果にすぎない死自体は悪では なく,死へと向かわせようとするものこそ悪である.したがって,死をも たらす病malは悪malに他ならない.しかし病であるベストがもたらす のは「死か極端な浄化」のいずれかである.この「極端な浄化」は,死か ら生を復活させ,新たな力を吹きこむものであろう.やはりベスト=演劇 12ラ
は相反する二つの結果をもたらし得るのだろうか.この浄化による新たな 生は,ある種の「死」なしにはあり得ない.死ぬのは古い生物組織であ り,意識であり,過去である.浄化はひとつの死を内包した生を導くの だ.
ここにいたり,アルトーの「悪」は,スピノザの「善」あるいは「実在 性」と重なりを見せ始める. ドゥルーズによれば,スピノザの「わるい」
こととは,死のように構成関係を壊し,変容を迫るものであるが,そうし た受動的変容が,能動的変容に転換する可能性もあるというのだ17). ベ ストは外部からやってくる.その意味で受動的変容であり,そのまま死に 至ることもある.しかしそれをくぐり抜けた身体の「浄化」は,もはや身 体自らの「能動的な」変容であり,「活動力の増大」ではないだろうか.
疫病の嵐の中で,あるいは成就し得ない欲望に突き動かされて「無償性」
に駆り立てられる人たちは,死に際して失うものがない.おそらく「本質 の自発的な変容」がそこには起きているのだ.演劇が「精神を狂気に招
き,その活力を強めるJ18)時,精神は「喜び」に満たされるだろう.
だが,そこに至る過程で悪はいったん生を死に近づけ,おびやかす.
「おびやかし」とは,そのものに触れ,作用することであり,距離をとり,
静観することではない.病巣を切除するために肉体を切り開くことも,猛 毒にもなり得る劇薬を投与することも,生へのおび、やかしであり,「治療」
自体は悪だとも言える.そしてその結果は未知であり,生か死かは未確定 なまま治療は実行される.その点で演劇の実践は一種の賭けであり,投企 である.それは「死か浄化か」の未来という暗い深淵へ身を投げ,落下し 始める際の「頂点」という一瞬を具現化するものだと言えるかもしれな
しミ
2. ユーモア
アルトーは『演劇とその分身』の中で何度か「ユーモア」という言葉を 使っている.アルトーの書き記したものを難解だと考えたり,彼を精神病 者だとみなす人には,それがそぐわない言葉だと感じられるかもしれな い.しかしそれならば,平易であったり,身近であったり,「まっとう な」精神を持ったりすることがユーモアに通じるのだろうか.おそらくそ うではないだろう.ただし,アルトーの言う「ユーモアJが固有の意味を
持つことも確かなようである.
アントナン・アルトーにおける「悪Jと「ユーモア」
ただし問題は,舞台上に直接,形而上学的観念を導き入れることからではな く,そうした観念のまわりに,誘惑のようなもの,大気中の呼びかけのような ものをつくりだすことから生じるのである.そして,無秩序を伴うユーモア と,象徴主義やイメージを持つ詩とが,基本概念として,形而上学的観念の誘 惑を導き入れる方法を与えてくれるのだ.19)
アルトーは演劇の創造に際して,「ユーモァ」を「詩」と並べて必要不 可欠なものであると宣言する.アルトーにとって「ユーモァ」は神経を弛 緩させたり,思考を停止させるものではなく,まったく逆に,受け取る側 に大きな力を加え,経験のない感覚と思考を引き出すもののようである.
そしてユーモアは無秩序を引き連れ,見る者を混乱に陥れる.「詩」と同 様に,言語をゆがめ,引き裂き,熱しながら新たなものとしてっくり直す のである.たしかにユーモアは単に感情や人間の性格を表す語ではない.
それは精神の形,意志的な態度であり,その具体化は表現行為であると言 える 20).当然だがユーモアは笑いと同義ではない.笑いは反応であり,
反射である.さらに,ユーモアと笑いは不可分のものでさえない.人はま ったくユーモアのないところで笑うことも,笑いを引き起こさないユーモ アを示すこともあり得る.もちろんこの二つは密接な関係を持っていて,
パタイユの「笑い」についての考察は,アルトーの「ユーモア」について のそれと重なる面を示すだろう.パタイユは,たとえば笑いは「安定した 秩序の内にある(ような)世界から,不意に我々の確信が覆されるような 世界へ急激に移行する」と起こるのだと言っている.しかし,その「移 行」がすべて「笑い」に結びっくわけではないとただし書きをつけてい る.アルトーはこの「移行」を表現として自らっくりだそうと望んだのだ ろう.パタイユの説明では,大地震が起こって人々が笑い出すわけで、はな いとしているが,アルトーは大地震さえ演劇(あるいは映画)で引き起こ し,それをユーモアと呼んだかもしれない.パタイユはそこから笑いを
「非=知」の問題と結びつけていくが,あくまでもそれは「笑い」,つまり 何かを受け取る側の反応の問題として提出される.一貫して自らの「体 験」を思考するのだ.しかしアルトーは創出されるものとしてのユーモア
という語に着目するのである.
humour (ユーモア)という単語は,英語に由来するが,それ以前から フランス語にある humeur(気分,気質)という言葉と語源を共有して いる.英語において humourはそもそも体液という意味を持ち,そこか 127
ら気質という意味に用いられたのだが, 16世紀のイギリス,特に,アル トーも好んだエリザベス朝演劇の作者たちによって濫用され,「非常識な すり減らしの結果,あらゆる意味上の安定を失っ」たために,「ユーモア」
はまさに無意味=ナンセンスとなり,そうした意味上の空白に新たな意味 が植えつけられたということだ21).語源辞典の教えるところでは,「気 質」から「機嫌」,そこに「機嫌をとる」という用法が加わり,演劇にお ける「おどけ役者Jhumoristとなって,そこからいわゆる「ユーモァ」の 語義が生まれるのである.いずれにせよその語義発生に演劇が大きく関与 したことは興味深い.ユーモアは演劇的な概念として生まれてきたのだ.
アルトーがルイス・キャロルの翻訳に取り組んだことは,ユーモアとナ ンセンスの近親性を示すかもしれない.アルトー自身はナンセンスという 語は用いていないが,キャロルのテキストに語の意味の解体や音声上の傷 のようなものを見出していたように思われる.
私はまた,ハンプテイ・ダンプテイの翻訳における別の表現について考えま したが,カバン語 porte‑manteauに関する文章すべてが唖然とするような現 在性から現れたのです.そしてルイス・キャロルの本が再び売れるという考え をあなたが持ったことを私は理解しました.彼固有の詩と信じられないような 不調和音,無秩序との聞の関係こそ,まったく純粋なユーモアなのです.そし てそれは実際に我今が体験する出来事であるのです.22)
のちになってアルトーは,キャロルの作品を好きだ、ったことなどない しそれは表層の言語であり,そこには魂がないと否定するお).しかし,
キャロルの書いたものの何事かが一時的にせよアルトーの意識に引っかか ったことは事実であり,「表層」的であれ,アルトーのめざした「反文法 的試み」に近づく道に見えたはずである. ドゥルーズに従えば,物に直接 関わる指示というユーモアによって語の意味は破壊され,私たちは底なし まで落とされてしまう 24).キャロルが非身体的な表面へ,アルトーが身体 的な深層へ分化するとしても,無一意味=ナンセンスの亀裂が一瞬二人を 結びつけるのだ.それはカバン語という例にもあらわれる.
カバン語はキャロルがっくりだした,二つの語が混合して一語となる言 葉のことである.「ハンプテイ・ダンプティ」の中では,たとえば slithy
という語が, lithe(敏捷な)と slimy(薄い,弱い)というこつの意味を 持っと説明される.そこでは既知の単語が部分的にむき出しになりながら 128
アントナン・アルトーにおける「悪」と「ユーモアj
つなぎ合わされているような印象を受ける.溶け合うような滑らかさはな く,それぞれの色を保ちながら混じり合っているかのようだ.しかし,ア ルトーが「現在性」を見出したのは,カバン語が単なるかけ言葉として三 重の意味を持っていたためではないだろう. ドゥルーズはカバン語の機能 は分岐であると述べているお).カバン語においては,複数の語からなる 多義的な単一性の調和が生まれるというより,ひとつの語が折れ曲がり,
裂け,枝分かれしていくのである.そうした屈曲や切断が,単語の中のみ ならず,区や節,文単位にまで及ぶならば,それはひとつの言語自体に起 こり得ると言える.意味はいわば宙づりにされるが,空白で、はなく,むし ろ複数の意味が揺らぎ,固定されることを拒む流動性の中を滑り,漂うの である.ユーモアはそのうわすべり,不安定から生まれる.ユーモアは固 定されてあるはずのものがずらされ,別の意味に出会い,衝突して現れる のだ.おそらくこの「ずれ」の度合いによって「笑い」が起こる分岐点,
「ユーモア」と称せられる臨界点が決定される.カバン語は既存の言語機 能を完全に消滅させることなく「ずらす」ものだ、ったのだ.
しかしながらアルトーはキャロルのユーモアに満足し得なかった.キャ ロルの作品は「文体の技巧」に過ぎず,「表層の」詩であり,「心から外れ て,苦しみと心のすすり泣きから外れた」26)詩であったからだ.この場合
「心」 C<XUf ( =心臓)は文字通り身体と分かちがたく,「身体を滅ぼして
しまう精神」とは区別されるものだ.しかしキャロルには「息」と「音」
と「叫び」が,つまり身体が欠けていた27). アルトーにとってユーモア は,詩と同様に身体の運動を通して獲得されるものだ、った.それは実践さ れることであって,説明される,すなわち他の語に置き換えるべきもので はなかった.
ある時,アルトーのもとに一人のジャーナリストが訪ねてきて「ブラッ クユーモアの定義」を質問した.アルトーは質問には答えず,ジャーナリ ストを放っておいた.ジャーナリストが待っている間,アルトーは親しか ったポール・テブナンとしゃべり,ノートに何事かを書きつけ,食事をし た.長い沈黙があり,アルトーは大きなナイフを取り出し,切っ先を自分 の頭の上に押し当て,何分かした後に突然ナイフを自分の前のテーブルに 突き立てて言った.「あなた,ブラックユーモアの定義をきかれたが,さ あ,これがブラックユーモアというやつですよ」.ジャーナリストは逃げ 出した.彼は身をもってブラックユーモアを知ったのだ.
アルトーが「ブラック」ユーモアを特別視したという痕跡はない.おそ 129
らくアルトーはユーモアに「ブラック」という区別は認めなかっただろ う.一般にブラックユーモアとは絶望や死,あるいは差別などタブーとさ れるものを扱っておかしみを引き出すものとされる.「笑い」からは遠い と思われる状況やテーマの中に「ずれ」を持ち込むことでおかしさを生み 出し,さらに笑いを禁止しようとする硬直性がいっそう笑いを引き出して しまう.あるいはそれが本当に「笑えない」ユーモアとなることもあるだ ろう.アルトーは演劇において積極的にそうした題材(死,絶望,近親相 姦等々)を取り上げようとする.そこに含まれるユーモアの要素は結果的 にブラックユーモアとなるだろう.しかしアルトーはことさらにブラック ユーモアを創り出そうとしたわけではない.演劇に無秩序を導入するため にあらゆる対象や主題を用いようとするだけなのだ.先のエピソードから わかるように,アルトーはブラックユーモアに関して無知で、も無意識でも なかった.だが演劇が含むべきユーモアが「ブラック」であるかどうかは 社会通念や道徳観が決めることである.アルトーはそうしたものを乗り越 える力や生命を表現しようとはしたであろうが,乗り越えることそのもの を目的とはしなかった.アルトーはジャーナリストに問われたから,それ を「上演」してみせたのである.
アルトーはユーモアの実例としてマルクス兄弟の映画をあげて,彼らに ついての短文を記しでさえいる.アルトーによれば,彼らの「けだもの組 合」は「シュルレアリスムと呼ばれ得る精神の特徴を持った状態,その明 確な段階」28)であるというのだ.だがマルクス兄弟がエンターテイメント として映画を撮っていたのは言うまでもない.彼らはアメリカのショービ ジネス界にいたのであり,フランスのシュルレアリスムとはほぼ何の関係 もない29).一体どこが「シュルレアリスム」であるのか.
アルトーにとってシュルレアリスムとは何であったか,彼はこう述べて いる.
私にとってシュルレアリスムは新たな魔術に他ならなかった.魂が通常隠し ているものを,その表面に浮かび上がらせるための,想像力,夢といったあら ゆる強い無意識の解放は,外観の諸段階や意味作用の価値,創出されたものの 象徴的意義に根強い変容を必然的にもたらすに違いない.具体的なものは,そ の衣や皮をまったく変え,もはや同じ心的行為に適用されることはない.向こ う側の世界,目に見えぬものが現実を追い払うのだ.世界はもう持ちこたえら
アントナン・アルトーにおける「悪」と「ユーモァ」
れない.30)
隠されているものを明るみに出すこと.そしてそれは「現実」だとされ ていた世界を変容させてしまう.「具体的なもの」がその意味を異質なも のにして現れる時,シュルレアリスムと認められるのだろう.それはマル クス兄弟の映画の中では言語や行為のレベルでも見ることができるし,さ らに,臼常存在する「もの」の意味も変化させられてしまう.その役割を 主に担うのは,言葉を発さず,文盲であるという設定のハーポである.そ の設定のために,彼はさまざまな束縛から切り離され,あらゆるものを
「自由に」見て,触れることになる.ハーポはものの新たな使用法を発見 し(税関のスタンプを人間の頭部に押す,馬車の車輪をルーレットにする 等),ものを過剰に出現させることによって有用性を無化する(服の中か ら数百のナイフが出てくる, トランプゲームで閉じカードを無尽蔵に持っ ている等).そこでは「なぜ」ゃ「どうやって」といった論理的筋道に関 する疑問は消し去られてしまう.オリヴイエ・モンジャンが言うように,
ハーボにとって法外な値のついた絵画と贋作(映画の中では贋作にも傑作 と駄作の二種類あるのだが)の区別はなく,「すべてはまがい物であり,
真の価値など存在しない」のだ31). ある目的のためにあるはずの存在意 義も,物語の中での論理的必然性もはく奪され,「もの」は裸のまま,異 様な物質として私たちの前に現れるのである.
また,この「具体的なもの」は個々の物体にとどまらず,人間の存在や 関係,あるいはその「場」をも含む.たとえばグルーチョは初対面の,唖 然としている女性の手をとり,突如踊り出す.無論,筋には無関係であ り,何の必然性もない.ミュージカル映画においても,日常の中に突然ダ ンスや歌が出現することはある.しかしそれは,そのダンスを観客に見せ るという目的が明白に存在している.グル}チョのダンスはその技術や美 的表現を見せるためのものではないし,笑いさえ期待していないのではな いかという疑念をも抱かせる.見る側は,何の理由も目的もなく人間たち が踊る,あたかもグルーチョのほとんど意味をなさない会話の延長のよう なダンスを,パートナーの女性同様わけのわからないまま眺めるしかな い.アルトーはこうしたダンスについて,「詩的で、おそらく革命的なもの のすべてを示してい」て,「詩的精神はそれが働く時,沸騰する一種のア ナーキーに,詩による現実の完全な解体に向かう」と評している 32)̲
しかし,グルーチョのダンスは,ハーポの美女との追いかけっこに比べ 131
れば,映画のテンポ,その時間の流れの中にあるかに見える.ハーポの追 跡は何の脈絡もなく突然開始される.説明もセリフも,女性に向けられた カメラのカットもない.なぜその女性が選ばれたのか,そしてなぜ逃げな くてはならないのか,彼女自身もわからないまま(仮になぜ逃げているか 問うたならば,追いかけてきたからだと答えるだろう),逃走しなくては ならないのだ.ハーポの追いかけっこはほぼ映画の中の「異物Jであり,
本来の映画とは別の時間を生み出させる.「現実の時間」は文字通り「追 い払われる」のである.そしてその時間の中で,スクリーンに映る運動の 奇妙さ,ほほいかなる説明も拒むような「おかしさ」に,見る側は痘撃す るしかない.こうしてユーモアは,横隔膜のみならず,思考をも痘筆させ 得るのである.
アルトーがマルクス兄弟の名を出すのはやはり『演劇とその分身』の中 であり、演劇論の中でである。アルトーは文学や映画,いたるところにユ ーモアを見出した.そしてそうしたユーモアを演劇の中に導き入れようと する.ユーモアは無秩序をもたらすものであり,演劇はユーモアによって 切り裂かれ、解体に瀕するかもしれない.しかしそれは演劇がそれまで持 たなかった力を得るための過程であるだろう.その時ユーモアはジャンル を横断し,境界を貫通し,演劇の中に苧まれ,演劇の古い皮を破って観客 の前に姿を現すのだ.
おわりに
「悪」であれ「ユーモァ」であれ,それらは特殊なものではなく,日常 にも用いられる単語である.しかしアルトーはそれらの言葉に強い負荷を かける.幾重にも意味を折り畳み,固有の密度を持つ語に変性させてしま うのだ.アルトーの演劇論では,そうした,一種の概念の創造が頻繁に行 われている.受け取る側はそこで立ち止まらざるを得ないし,すでにあっ た演劇という概念の再検討を余儀なくされる.その意味でアルトーの書い たものを読むという行為は,アルトーが目指した上演に立ち会うことに近 い.読者は観客と同じように,試され,変質を強いられるのである.
しかし「悪」も「ユーモア」もアルトーの演劇観の中では重要な要素で あるが,それらは概念であり,現実の演劇が生まれる前の萌芽、卵細胞の ようなものであるとも言える.実際の舞台,上演に際して,どのような方 法論をアルトーが用いたか,どのように具体化しようとしたかは,また別 の視点からの分析が必要となるだろう.その点については,今後の課題と 132
アントナン・アルトーにおける「悪」と「ユーモアJ
したい.
註
1) Antonin Artaud, CEuvres, Gallimard, 2004, p.ラ20.(以下伍uvresと表 記する).
2) スピノザ『エチカJ畠中尚志訳,岩波文庫,第 4部序言.
3) CEuvres, p.う20.
4) Georges Btaille, CEuvres Completes Vl Gallimard, 1973, p. 42. う
) Ibid., p. 49. 6)仁Euvres,p.ラ20.
7) Pierre Klossowski, Sade mon prochain, precede de ≪ Le philosophe sdlerat ≫,Edition du Seuil, 1967, p. 21.
8) CEuvres, p.う20.
9) 「つまり,演劇はペストと同様さまざまな力の呼びかけであり,精神を,実 例によってそれら力の葛藤の源へと導くものだ」.Idem.
10) 「人間に器官なき身体を作ってやるなら,人聞をそのあらゆる自働性から解 放して真の自由にもどしてやることになるだろう」.CEuvres, p. 1654. 宇野 邦一訳『神の裁きと訣別するため』河出文庫, 2006年, O頁.
11) CEuvres, p. 967 et p. 968.
12) アルトーは 194う年の演劇に関するテキスト(「フランスの聖なる原理への 回帰」)でこう述べている.「フロイトが〈リピドー〉を発明したわけではな く,中世においてすでに知られたことであったが,それは象徴的な意味のもと でさまざまな数えきれぬ名で呼ばれていた. 〈精神分析学〉においてリピ ドーはひとつの状態である.それは暗示やイメージによってしか言い表せない 力を持つ身体機能や器官の状態であり,実を言えば,それは器官ではなく,
我々の性的無意識が未分化な場所で織り上げる横糸の感情的な種,もしくは澱 であり,過度に抑圧された結び目なのだJ.CEuvres, p. 968.
13) Gilles Deleuze, Critiques et Cliniques, 1993, Les editions de minuit, Chapitre XVαPour en finir avec le jugement ≫.
14) ≪Le Cholera de Dieu ≫, CEuvres, p. 972. 1)ラ Idem.
16) 伍uvres,p.ラ08.
17) Gilles Deleuze,争inoza: philosophie pratique,豆ditionsdu mnuit, 1981, p. 61.
18) CEuvres, p.う21. 19) 伍uvres,p.うう9.
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20) プチ・ロベールによればユーモアは「滑稽で、おかしな見方が引き出されるよ うに現実を描くような精神の形」と定義されている.
21) cf. Jonathan Pollock, Le rire du Momo Antonin Artaud et la litterature anglo‑americaine, Editions Kime, 2002, p. 12.
22) Antonin Artaud, Nouveaux Ecrits de Rodez, Gallimard, 1977, p. 6.う 23) cf. Lettre de Rodez du 22 septembre 194う主HenriParisot, CEuvres,
pp. 1013‑1016.
24) cf. Gilles Deleuze, Logique du senιLes豆ditionsdu Minuit, 1969, pp. 183‑18.う
25) Ibid., p. 6.う 26) 伍uvres,p. 1012.
27) cf. Deleuze, Logique du senιpp. 118‑121. 28) CEuvres, p.ラ90.
29) 植草甚ーもやはり『マルクス兄弟のおかしな世界l.(ポール・D・ジンマー マン著,中原弓彦,永井淳訳,品文社, 1973年)の前書きでマルクス兄弟の 映画とシュルレアリスムを結びつけているが,それによれば,グルーチョの登 場によって現れる「変てこな世界」(植草)がシュルレアリスム的なのだと述 べている.
30) CEuvres, p. 238.
31) Olivier Mongin, Eclat de Rire, Seu,日2002,p. 129. 32) CEuvres, p.ラ91.
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