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はじめに少子化による若年人口の減少と、その大学への影響が議論され始めてからすでに久しい。しかし、いまは少子化に具体的にどう対処するかが問われる段階に入っている。大学、とくに私立大学はいま「冬の時代」から「氷河期」へと進みつつあり、大学の経営破綻が現実問題になって
きている。新入生全員に入学金を全額免除にする大学も現れ2、また授 業料の値下げ競争もすでに始まっている3.中には「二○○四年には大 学倒産連鎖劇が始まる」と警鐘を鳴らす論者もいる4。二○○四年に受
験人口の急減が予想されていることがその理由である。こうした事態を受けて日本公認会計士協会は、昨年九月に小委員会を設け、学校法人の倒産や合併に伴う会計処理や法手続の研究を始めたとされる5。「金融
のつぎは大学」といわれる所以である。そして実際こうした見方塗装付けるかのように、文部省は経営破綻した大学の学生をどうするか、彼らの受け皿をめぐって具体的な対応策を検討し始めたとも言われる6.
大学経営破綻劇の予測が的中するかどうかは一応置くとしても、いまのまま行けば、近い将来、私立大学の中には経営難に陥るところも出てくる。恐らくそのことに異論を唱える大学関係者はいないであろう。大学の経営難、よh直裁的に言うと経営破綻は、直ちに教職員の雇用問題を惹起する。これまで大学の改革、あるいはその一環としての経営問題を論じ、大学関係者に警告を発する声があっても、大学教職員、とくに教員の雇用問題そのものに目を向ける者は多くなかった。しかし、もし言われるように大学の経営が危機的状況にあるとすれば、大学教職員の雇用問題も同じ状況にあるはずである。その兆候はすでに現れており、従オーストラリアの大学 「雇用環境の変化と大学教員」を考える前提作業としてI
来は広く慣例化されていた、国立大学教員の定年退官後の私立大学への
再就職が難しくなっていることもその一つである7.また、大学教員の雇 用リストラが、非常勤講師のリストラとしてすでに現れてきている8.
周知のように、近年、とくに一九九○年代に入ってからは、洋の東西を問わず世界中で規制緩和が進行し、それはもはや押しとどめ得ない流れとなっている。そのような中で働く人々の雇用環境も大きく変わってきた。オーストラリアでは大学がこのような規制緩和のターゲットにされ、いまでは規制緩和の象徴となったかの感もあるが、そうした中で大学教員の戯首も現実化してきている。本稿は、そのように大学を取り巻く環境が急変しつつあるオーストラリアを取り上げ、大学教員の雇用環境がどう変ってきているのかを概観し、日本の大学教員の雇用・労働問題を考える際の一材料を提供しようとするものである。筆者はいまこのような観点から、オーストラリアの大学について数編の小論を準備中であるが、本稿はその最初のもので、大学教員の雇用環境を検討するという視点から、オーストラリアの大学を一般的に概観したものである。1オーストラリアの教育制度まず初めに、本稿の議論の前提として、ごく簡単にオーストラリアの学校教育制度について見ておこう。オーストラリアの学校は小学校が六~七年制、中等学校は五-六年制となっている。日本的と言うと、中等教育は基本的に中高一貫教育である。また、通常、小学校入学前の一年間は、小学校に併設される幼稚園で小学校の準備教育を受ける。このうち義務教育は六歳から一五歳まで、すなわち日本でいうと幼稚園の年長 長峰登記夫
16
組から中学三年までである。初等・中等教育の年限が統一されていないのは、学校教育が州政府の管轄に属し、州によって修業年限も義務教育の年限も異なっていることによる。これに対して、中等教育以降の教育制度は、基本的に三年ないしは囚年制の総合大学と、通常TAFE(●。一一樹のC{曰の呂昌〔巴皆己。自警の『図月呂:)と呼ばれる高等技術学校、それに多くの専門学校等で構成されている。後述のように大学は基本的に州立で、同様にTAFEも州立であるが、専門学校はその殆どが私立である。大学については後述するとして、TAFEは全国に一○二校、六九二キャンパスを擁し、さら
に、職業教育訓練制度(弓。目・口巳囲ロ・畳ggg早目旨巴の下で公
認の職業資格授与が認められているTAFE以外の教育機関が全国で二、二一七校ある。これらTAFE等の職業資格コースで学んでいる学生の数は、毎年一二○万人に上る9。
一九八○年代後半以降、オーストラリアの大学教育は大衆化していったが、同時にこの時期は規制緩和が大きく進行した時代でもあった。その中で、オーストラリアの教育機関は教育を輸出産業と捉え、海外で積極的に営業活動を展開していった。その結果、一九八○年代後半から留学生は急増しはじめ、一九九八年度には一四七、一三○人に達している。これを機関別にみると、最も多かったのが大学等の高等教育機関で全体の五○%、つぎが職業教育機関の二五%で、それに語学学校等の一五%、小中高の九%とつづく。これら留学生の圧倒的多数(八三%)はインドネシア、マレーシア、シンガポール、香港等の東南アジア諸国を中心としたアジア地域からの留学生で、その他はヨーロッパが五%、アメリカ0 が三%等となっている1.ところで、従来、オーストラリアは先進国の中でも決して進学率が高い方ではなかった。しかし、大学が大衆化していったここ一○数年で進学率も大きく上昇した。たとえば高校進学については一二年(日本の高校三年)の在籍率を見てみると、一九八○年には該当年齢人口の三五%前後にすぎなかったものが、一九九一年には七七%へと大きく上昇した1。また、大学進学についても同じ状況が見てとれる。たとえば一九八二年 2大学発展の歴史つぎに、オーストラリアにおける、大学を中心とした高等教育機関の発展史を概観してみよう。オーストラリアに植民が開始されたのは、七五○余名の囚人を乗せた船がシドニー湾に上陸した一七八八年のことであった。それから六二年後の一八五○年、オーストラリアで最初の大学が設立された。いまのシドニー大学である。当時、イギリスやアメリカでは宗教的な争いが大学にまで波及し、宗教対立は時に大学に大きな混乱をもたらす原因となっていた。オーストラリアでも、シドニー大学設立以前の中高等教育原初期に、やはり宗教対立が原因で高等学校が閉鎖に追3 い込まれるという事態が生じていた1.そのような当時の英米や国内の事情から、オーストラリアでは政策的に宗教の影響を排する形で大学がつくられた。恐らくこのような歴史的経緯から、一九七六年時点においても、オーストラリアには「神学を主要な科目として設定している大学はなく、また、神学を専門とする教授4 はいない」lとされるほど、宗教から距離を置いた大学政策がとられてき5 た‐・同じアングロサクソン国家の大学でありながら、オーストラリアの大学は、この点でイギリスやアメリカの大学と大きく異なる。ところで、シドニー大学が設立された後、メルボルン大学二八五五年設立1以下同じ〉、アデレード大学二八七四年)、タスマニァ大学二八九○年)と大学は設立されていった。そのころ現在は州となっている各植民地は独立していたため、大学もそれぞれの植民地政府の管轄下に置かれていた。一九○一年、これらの植民地が統合してオーストラリア連邦が成立したことによって、それまで独立していた植民地は州となった。その後も一九一○年にはクィーンズランド大学が、そして一九一一年には西オーストラリア大学が設立された。西オーストラリア大学が設立された一九二年には現在のすべての州都に大学が設立され、これ に六五万人だった学位保有者の数は九五年には一三○万人へと倍増し、労働力人口に占める割合も、一九八二年の九%から九五年には一四%へ2 と大きく上昇している1。17
によって高等教育の基盤が全国的に整備されることになった。これらの大学は現在もオーストラリアを代表する大学となっている。さらに、第二次世界大戦後になってから多くの大学が設立されるが、その代表的な大学は終戦直後につくられた。教育よりも研究に重点を置いて首都キャンベラに設立され、今なおオーストラリアで唯一の国立大学となっているオーストラリア国立大学(’九四六年)や、高等工業学
校(百畳白冨◎閂円冒・一・四)を母胎とするシドニーのニューサウスウェ
ールズ大学(四九年)である。一九五○年代に入って戦後の経済復興が進むと、国民の間に高等教育への需要が増してくる。そこで当時のメンジーズ首相がイギリス人のマレー卿(の埒【囚昏冨(日昌)を委員長に諮問
委員会を作った。「マレー委員会」と呼ばれたこの委員会は、一九五七年に報告書を出し、その中で連邦政府による大幅な財政負担の拡大と、それに基づいた大学教育の拡充を政府に答申した。マレー報告は基本的に政府に受け入れられ、これを境に連邦政府の大学財政負担が本格化し、同時にそれに基づいて大学も設立されていった。モナッシュ大学二九五八年)やラ・トローブ大学、マッコーリー大学(いずれも六四年)、ニューキャッスル大学(六五年)、フリンダース大学(六六年)等はこの時期につくられた大学である。この過程で経済がいっそうの好況を呈するのに伴って、産業現場では技術者の不足が深刻化していく。そして、それが大学に対する技術教育、あるいは技術者養成への要望となっていった。この問題を検討するために再び諮問委員会が組織された。それが「マーティン委員会」である。一九六五年、マーティン委員会は報告書を出して、その後のオーストラリアの大学のあるべき姿、未来像を描いた。ここで同委員会は、大学は必要以上に応用科学や技術教育、職業教育に踏み込むべきではなく、また、産業界は大学にこのようなことを望むべきでもない。むしる大学は伝統的な理論・理念教育に自らの使命を限定すべきだと勧告した。そして増す一方の応用科学、技術教育への需要には、大学とは別の機関が当たるべきだとして、大学とその他の機関による高等教育二元制(亘冒具
、房蔚旦を主張することになった。このとき大学以外の機関として考え られたのが高等工業学校と教員養成カレッジ(忌四o冨勗一○○房、①の)である。これらの機関が後に高等教育カレッジ(○.旨、の⑩a雪]ご目81図巨‐
89コ1以下「CAE」と略、工として拡大し、その後一九八○年代半ばまでの一時期、それは大学とともに高等教育の一翼を担うことになった。一方、高等教育二元制の下でも大学は増設され、一九六○年代末までに九大学、七○年代末までに七大学が新設され、大学教育もいっそう拡充されていった。グリフィス大学二九七一年)やマードック大学(七五年)等がこの時期に設立された大学である。これら戦後期に設立された大学は、それまでの伝統的な大学と異なって、産業界の要請に応え、あるいは教員の養成や再教育等、財政負担をする州政府の要請に柔軟に応じる政策を採ったことから、当時「サービス・ステーション」大6 学と椰楡されたりもした1。しかし、}」れらの新設大学が応用科学や技術教育を行うと同時に、CAEも既存の大学教育(学位授与)へと自らの役割を拡大していった。そうした中で大学とCAEの区別が暖昧になり、教育内容も重複し、高等教育機関としての非効率が指摘されるようになった。他方、後述のように、一九七四年、連邦政府は高等教育財政をほぼ全面的に引き受けることになったのであるが、それ以降、連邦政府にとって教育予算は大きな負担になっていった。この間、学生数は二五%増えたにもかかわらず、大学予算は八%削減されたという事実がそのことを7 物語っている1。}」うした中で一九八一年、当時のフレーザー首相の下でCAE組織の合理化がなされ、小規模カレッジの統合と、教員養成を中心としたカレッジの多目的CAEへの転換が進められた。しかし問題はこれで解決せず、こうした流れは一九八○年代後半の労働党政権によるさらなる合理化構想へと引き継がれていく。それが、当時の雇用教育訓練大臣ドーキンズが策定したいわゆるドーキンズ・プランである。一九八七年、このドーキンズ・プランに基づいて高等教育二元制は廃止され、大学一元制が復活することになった。これによってCAEは統廃合され、あるいは吸収合併されて大学に昇格し、それによって多くの新しい大学18
表1.オーストラリアの大学の設立年と設立数 が誕生することになったものである。この段階でCAEは全国で四七校、8 一一○万九千人の学生存擁していたI。このような高等教育組織再編の過程で、一九八七~八九年の三年間に七大学、九○~九四年には各年三大学ずつ計一二大学が次々と新設されていった。これによってオーストラリアでも本格的な大学大衆化時代の幕が開かれることになった。この時期に設立された大学にはシドニーエ科大学や西シドニー大学等があるが、その他、クイーンズランド州や北部準州等の遠隔の地方都市にも大学がつくられていった。また、一九八七年には、当時オーストラリアでは著名な実業家であったアラン・ポンド氏によって、オーストラリアで初めての私立大学(ポンド大学)が、そして一九九二年には第二の私立大学(ノートルダム大学)が設立された。表1は、現在までのオーストラリアの大学の設立年と設立数につい9 て示したものであるl・後述のように、こうして進められた一九八○年代後半以降の大学改革は、その後の大学教職員の雇用・労働条件に大きな 影響を及ぼすことになった。現在、連邦政府による大学関連の高等教育財政支出は二九九八年
高等教育財政支出法」(閏召円囲巨8画・コョ目&。、シR」9m)に基づい
てなされているが、この法律によって三年ごとに予算配分を受けている総合大学([百mの9三目目&野、扇日の加盟校)が一一一六校、連邦政府からの補助金で運営されているカレッジが五校印その他政府から補助金を受
けていない純粋な私立大学が二校ある2。この一一一六校には国立大学が一校(オーストラリア国立大学)含まれている。こうして現在オーストラリアの高等教育機関は、国立大学一校、州立大学三五校、私立大学二校、その他五校の計四三校で構成されている。3大学財政前述のように、一つの国立大学と二つの私立大学を除くと、オーストラリアの大学はすべて州立である。それは、大学を含む教育機関への行資料出所:DepartmentofEmployment,Education,
TrainingandYouthAffairs(DEETYA),HIgher EduCapOnjnAusZmlja,AGPS,1996を元に作成。
注:私立2校を含む。ただし、グリニッジ大学は含 まない。大学名が入っている8大学は、いわゆる G8(Groupof8)と呼ばれるオーストラリアで も中心的な研究重点大学である。
大学の設立年 大学の設立数
-1945 1850
55 74 87 90 97 1910 11
シドニー大学 メルボルン大学 アデレード大学 1 1 1 クィーンズランド大学 西オーストラリア大学
8
1946-1969 46 49 54 58 61 64 65 66
オーストラリア国立大学 ニューサウスウェールズ大学 1 モナッシュ大学
1 2 1 1
9
19701979 70 71 74 75 78
1 1 2 2 1
7
1980-1989
1990 87 88 89 90 91 92 94
2 2 3 4 3 2 3
7
2 1
計 43
19
グラフ1.大学の財源別収入比率 100%
80%
□その他
圃事業収入・寄付等 Z学生納付金 団州政府補助金
Ⅲ連邦政府補助金 60%
40%
20%
0% 19391951 1961197119811987199019961997
資料出所:1996年まではTomKarmel,H)7ancingHJghe「EUUcビItionmAustmliaJAcaSe studリノPr巳par℃。b「ZfielhtBmam7副CbnねIFnceRedemngT19malyEtmcatiOn,
DepartmentofEducation,TrainmgandYOuthAifajrs(DErYA),Jme,1999の資料に、
また'997年についてはDETYA,SeIec妃。H(glierEduca的nHhaJ7ceStatiSlJbs,I99Z
Decemberl998の資料に基づく。
政上の管轄権は州政府に属する、とする憲法上の規定に基づいている。それにしたがって財政負担も、歴史的には主に州政府が負ってきた。これは、オーストラリアでは植民地がそれぞれ独立体としてスタートしたこと、その影響もあって連邦が成立してから今日に至るまで州政府の独立性がきわめて強いこと、大学はこれら植民地、州政府によって専権的に領域内の住民教育を目的に設立・運営されてきたこと、等の影響によるものである。グラフ1からも明らかなように、戦前、大学財政はその半分近くを州政府が負担し、その他の多くは授業料等の学生納付金や大学による事業収入、寄付金等で賄われていた。第二次世界大戦後になってもしばらくの間、大学財政は依然として主に州政府が負っていた。ところが大学が拡充し始めた戦後、とくに一九五七年のマレー報告以降、連邦政府も本格的に財政負担をするようになり、それにつれて学生負担は次第に軽減されていった。こうした事態は「完全雇用」状態が実現した一九六○年代までの経済好調期、あるいは戦後の福祉国家政策の絶頂期をとおして実現されていった。こうした中で州政府と連邦政府はそれぞれ一定比率で大学財政を分担するようになり、たとえば一九七三
年には、資本的経費(○畳旦勺『○四四日己の)については州政府と連邦政 府がそれぞれ同率で、また、経常費(○己の国画呂○国『后)については州
2 政府の一に対して連邦政府が一・八五を負担していた2.こうした中、一九七二年一二月、連邦で二三年ぶりに政権に就いたゴフ・ウィットラム率いる労働党は、ただちに大幅な教育制度の改革に着手した。そしてこの改革の過程をとおして、連邦政府はよりいっそう高等教育への関与を強めていくことになった。その結果、一九七四年一月以降、管轄は州政府に止まり、実際の配分事務も州の大蔵省を通じてなされたにもかかわらず、大学教育に関する財政負担はほぼ全面的に連邦政府が負うようになった。こうして一九八一年には、大学財政の九割前後を連邦政府が負担するようになっていた。オーストラリアの大学は、現在もその殆どが法制度的には州立であるにもかかわらず、近年、規制緩和政策等をとおして、連邦政府が大学の命運を左右するほどの大きな影響力を行使できるのはこのためである。20
一九九七年度の大学収入は総額で八二億一、七六四万ドル(単位は豪ドル-以下同じ)であった。その内訳をみると連邦政府の補助が五四%で過半を占めているが、それ以外は授業料等の学生納付金一五%、通常へツクス(国警の『図巨8号。○。。且す目。ご砕冨日の出向○の)と呼ばれる連邦政府による長期貸付制度の返却分が一五%、大学による投資・事業収入が四%、寄付金等が一%、州政府補助金が一%、その他が一○%3 となっている2。グラフ1は過去の財源別大学収入の推移を示したものであるが、ここから二つの特徴が明らかになる。すなわち一つは、一九八○年代に入って以降、大学予算の圧倒的部分を占めてきた連邦政府の補助金が、一九八七年を境に急速に減少してきたこと、とくに一九九六年から九七年にかけては単年度で大幅な削減がなされたことであり、もう一つは、それに代わって学生納付金が大学収入のますます大きな部分を占めるようになってきたことである。しかし、それでも諸外国と比較すると、オーストラリアの大学予算に占める政府補助金の比率はなお高水準にあるといってよい。連邦政府が負担している大学教育費をGDP比でみると、オーストラリアはOECD加盟諸国の中でも合衆国に次いで二
番目に高くなっている型。
ここで、近年とくに重要性を増してきた授業料と長期貸付制度(HECs)について簡単に触れておこう。まず、授業料は卒業後の一般的な推定収入に応じて額が決められているとされ、その額は文系(看護を含む)の三、四○九ドルから、理系(経済・経営を含む)の四、八五五ドルが医歯系(法律を含む)の五、六八二ドルとなっている。学生はこれを一括納入するかHECsを利用して長期返済することになる。HEcsを利用して授業料を返還する場合、各年の返還額は、卒業後の収入の多寡によって年収の三%から六%までとなっている。ただし、年収が一一5 |、一一一一二四ドル以下の場合は返還を猶予される2.これを大卒初任給の平均約三万ドルを基準にした場合、たとえば授業料を全額HECsに依存したと仮定すると、単純計算で返還には文系で約一○年、理系で一四
年、医歯系で一七年要することになる。 4オーストラリアの大学生すでに見たように、戦後、オーストラリアの大学教育はしだいに拡充され、とくに一九八○年代末以降の大学大衆化状況のなかで大学数は急増していった。その結果、第二次世界大戦終結時には八校にすぎなかった大学の数が、一九七五年には二三校に、そして現在は四三校に増加している。それに伴って学生数も増え、在籍者数は一九四九年の三万二千人から一九七五年には二七万七千人へと増加し、一九九九年には六八万6 六千人に達している2。CAEの統廃合を伴う大学改革が始まったのは一九八○年代後半以降のことであるが、その第一期が一段落したのは一九八九年のことであった。この改革の波はそれ以後も九○年代を通して現在まで続いているが、一九九六年の自由Ⅱ国民党政権の誕生までがこの時期の改革第二期である。改革第一期が一段落した一九八九年以降現在までの学生数の伸びについては、グラフ2が示すとおりである。’九九○年代半ばまでの大学新設ラッシュが終わった現在でも学生は増えつづけ、その数はここ三年間でも一九九六~九十七年、九七~九十八年、九八~九九年にそれぞれ一一一・九%、二・○%、二・一%づつ伸びている。この二○年間に学生数は二倍以上に増えた幻。
この過程で一九七二年一一一月に政権に就いた労働党は、一九七四年から授業料の徴収を廃止して高等教育の完全無倣化を実現し、大学教育の平等化と大衆化を押し進めた。このときの労働党政権は授業料の全廃・大学教育の無倣化に止まらず、生活費の一部援助や、地方出身者には年三回の帰省旅費を支給するなど学生の支援策を打ち出し、大学教育の平等化を推進していった。そして政権担当一年目の記者会見で、当時のウィットラム首相は、「労働党政権一年の最大の功績は教育改革にある」と高らかに宣言した。それに伴って連邦政府の教育予算も増え、この一年で倍増することになった型その後、大学への進学率も上昇し、学部
学生の該当年齢人口(一七~一一一一歳)に占める割合が、一九七五年には一○%に満たなかったものが、一九九五年には年齢層によって一七~’八%から二○数%まで上昇した夢一九九六年のOECD統計によれ
ば、オーストラリアの一七~三四歳の年齢層で高等教育を受けている者21
グラフ2.学生数と女子比率
000000 000000 000000
叩、卸麺伽麺
繍漣釧朴90,OOO BOOOOO 70,000
60,000 500000 40,000
30,000 20,000 100000
豚ワアワワ刀女子学生 mmwm男子学生 一一留学生
輯釧朴髄
200.000 1000000
0
19891990199119921993199419951996199719981999
資料出所:DepaltmentofEducation,TminingandYOuthAlfairs(DErYA),Smden応(丹巴lmlinaJyノ
I999JS巳jbctBdHHgdierEblucatimSm応bbs》Augustl999から作成。
◆女子学生が学生の過半数を占め、社会人学生の比率も高いオーストラリアの大学の特徴の一つとして、女子学生が多いことがあげられる。シドニー大学とメルボルン大学が設立された当時、女子の大学入学は認められていなかった。しかし、その後メルボルン大学では一八七四年、シドニー大学では一八八一年に女子にも大学の門戸が開かれることになった。その後設立された大学では、最初から女子に対する差別的な入学制限は設けられなかった。ところが、入学制限は撤廃されたにもかかわらず、女子学生の数はなかなか増えていかなかった。第二次世界大戦後も状況は同じで、女子学生の数はかなり緩慢な伸びを示すだけであったが、’九六○年代半ば以降になって徐々に増えはじめた。一九四九年には二一%に過ぎなかった大学生全体に占める女子の比率は、大学が拡充し、また学生運動やフェミニズム運動が活発になっていく一九六○年代後半から着実に上昇していった。そして女子学生の伸びで一画期をなすのは一九七二~七三年で、これは一九七二年に政権に返り咲いた労働党が、ウィットラム首相の下で人種差別撤廃や白豪主義の終焉を唱え、教育分野でも斬新な政策を打ち出していった時期でもあった。一九七二年に二九・九%だった女子比率は、翌七三年には三六・一%へと六・二ポイントの大幅な上昇を遂げ、その後も女子比率は着実に上昇をつづけた。そして一九八七年、ついに女子
1 学生がオーストラリアの大学生の過半数をこえるに至ったのである3.一九八○年代初頭以降の一○数年でみても、男子学生が約一・六倍増だったのに対して、女子学生は二・二倍以上に増加した。女子学生の数は一九八○年代終盤以降の大学大衆化時代にも伸びつづけ、一九九九年には女子学生が学生全体の五五%に達している(グラフ2参照)。こうした中で、たとえば社会科学系では伝統的に女子が少なかった法学部でも、現在は女子が全学生の過半数(五二%)を占めるに至っている。こ の割合は一五%に達し、OECD加盟国二四カ国のうち三位、大学だけ0 に限定しても一○%で七位であった3。}」うしてオーストラリアの大学教育は、かつてのエリート教育から大衆化に向けて大きく転換していった。
22
の比率はとくにフルタイム学生の中で高いことを考えると、女子比率は、高校新卒の若い学生たちの中でよ旦局くなるものと推測される。ただし、学位が上になるほど女子比率が低くなる傾向にあることにも注意が必要である。たとえば学部学生ではすでに女子が五五%を占めているのに対し、大学院のコースワークによる修士・博士課程では四八%、同じく論2 文による研究課程では四一一%と次第に低くなっている(一九九五年)3.社会人学生が多いこともオーストラリアの大学の特徴である。学生を年齢別にみると最も多いのが二○~一一四歳層で三二・七%、ついで一九歳以下の二七・○%、これに一一一○歳以上の一一六・八%と二五~二九歳層の一三・五%がつづく。二五歳以上が全学生の四割以上を占め、これに二○~二四歳層に含まれている社会人を考慮に入れると、オーストラリアの大学生のかなりの者が社会人であると推測される(数値は一九九八年)。これはパートタイム学生が多いことと軌を一にする。フルタイム学生は全体の五九%にとどまり、残りはパートタイム学生三七%〉と通信教育等の学生二四%)ということになる(一九九九年)。これらの比率は過去二○年間ほとんど変化していない。
◆急増する海外からの留学生日本の大学と比較してあげられるもう一つの特徴は、留学生が多いことである。連邦政府が大学予算を削減し、財政自立を求めるようになるにつれて、とくに近年は、留学生は収入源として大きな重要性を持つようになってきた。留学生には国内生とは別枠の高額の授業料(通常九千ドルから一万二千ドルくらい)が課されているからである。各大学はこぞって留学生獲得のための営業活動を展開し、海外にキャンパスを設置したり、あるいは現地の大学と提携して学生を集め、それによって自主財源の獲得に奔走するようになった。そうした中、一九九八年には政府の輸出奨励賞に教育部門が加えられ、最優秀賞に伝統校の一つ王立メル
ボルン工科大学(RMIT)が選ばれた餡この年に、この大学では授 業料等学生納付金による留学生からの収入が、大学総収入の一一○%を占 めるまでになったとされる夢もはや留学生抜きでこの大学の存在は考え
5オーストラリアの大学教員つぎに、オーストラリアの大学教員について見てみよう。一九八○年代後半以降の大学改革に伴ってオーストラリアの大学の大衆化が進行したが、それに連れて大学の数は倍増し、同時に学生の数も一貫して増えつづけた。今なお学生数が増えつづけていることについては、すでに見たとおりである。他方、自由党と国民党による保守連立政権が復活した一九九六年以降、連邦政府は急速な規制緩和政策を押し進めてきた。その一環として大学への補助金は削減され、それは教職員の雇用・労働条件にも大きな影響を及ぼしてきた。ここでは、このような状況下における大学教職員の、中心的には本稿の対象である教員の労働力構成等について概略的な把握を試みる。まず、教職員全体の労働力状況について見てみよう。これに関する政府統計は基本的に教員と職員を区別していない。それを前提としつつ、これによってオーストラリアの大学教職員の労働力構成を見てみると、およそつぎの通りである。一九九九年の教職員総数は七六、○四○人、このうち教員は一一一二、四○六人(四二・六%)、職員は四一一一、六一一一四人(五七・四%)であった。教員については後述するとして、一九九八年の職員の男女別構成を見てみると、男性の一七、二一一一人(三九・五%)に られないまでになっている。こうした活動の結果、ここ数年の間に海外、主にアジアの留学生市場は急成長を遂げ、それにつれて留学生の数も急増してきた。それはグラフ2が示す通りである。一九八九年に二万一千人余りだった留学生の数は、九四年には四万人台までほぼ倍増し、その後はさらに加速して増加の一途をたどっていった。そして一九九九年には八万三千人に上り、一○年前の四倍、学生全体(六八万六千人)の一二%を占めるまでになった。これはアメリカの大学生全体に占める留学生比率(三%)よりもはるかに高く、人口比で見ると、オーストラリアは他のどの英語圏諸国よ5 りも多くの留学生を受け入れている}」とになる3.これら留学生の多くがアジア諸国からの留学生であることについては、すでに触れた。23
◆大学教員の労働力構成オーストラリアの大学教員は通常つぎの者で構成されている。すなわ
ち教授、助教授、上級講師、講師、チュ1夕1百(旨己であるyしか
し、一九八○年代後半以降の大学改革の過程で、多くの大学ではチューターという呼称は使用されなくなった。代わってチューターは「講師レベルA」(通称はアソシエート・レクチャラー)となり、従来の講師は「講師レベルB」としてこれと区別されるのが一般的である。また、基本的には授業を持たない研究員や、図書館やコンピューター関連の部署で働く一部の専門職者も統計上は教員(“8号目・の白$に数えられている。したがって以下で「講師以下職」等として言及する場合、それにはチューター、講師レベルAおよび講義を担当しない研究員等で職階上これら二者に相当する者が含まれることになる。ここで日本の大学との違いについて、とりあえず次の一点だけを指摘しておこう。それはオーストラリアの大学には講義を持たない研究員(恩の①貝ゴ。二一百8・の目、の国己が非常に多いということである。これは、オーストラリアでは大学を研究重点大学(恩の①貝盲目蔚旦gとその他の教育中心の大学に二分化し、研究費の大部分が事実上はこれらの研究重点大学に配分されていることと関係があると思われる。事実、先に表1でG8として示した主要八大学は大学全体の研究費の七○%を消費し甲また、研究員の多くはこれら研究重点大学に集中している。その
結果、これら八大学では研究員が教員の三分の一以上を占めるまでにな 対して女性は一一六、三八八人(六○・五%)と、女性比率の高さが際立っている。また、近年の職員数の変化について見てみると、一九九六年ヰピークに大きく減少している。一九九七年は一、三六六人(一一一・○%)、九八年は四七八人二・一%)の減少であった。翌九九年には再び微増(二五人’○・一%)しているものの、一九九六年以降人員削減が進行している。この三年間の人員削減率は、教員がトータルで一一.八%だったのに対し、職員のそれは四・○%であった。教員に比べて職員の削減6 がより急速であった}」とがわかる3。表2.職位別オーストラリアの大学教員数(1989~99年)
資料出所:DEIYAStudents(B1eljmina1JZ)I”2S巳jectedHZgherEUumtiOnShmi「S画応lYbs AUgustl999から作成.
注:1.1997~99年の二段目の数字は前年と比較した場合の増減数と増減比を示す。
2.1989年の二段目と99年の三段目のカッコ内数値は、職位別教員比率を示す。
年 助教授以上
(レベルD&E)
上級講師 (レベルC)
講師 (レベルB)
講師以下 (レベルA)
計
1989 4,517
(17 1%)
6,753 (25 6%)
10,246 (38 8%)
4,886 (18 5%)
26,402 (100.0%)
1990 4 761 ( 943 11 219 5 302 28,225
1991 ■山$ 210 7 128 12 014 5 414 29,766
1992 ■し』 411 7 606 12 228 5 939 31 184
1993 5 630 7 916 12 170 6 345 32 061
1994 5,875 7 918 12 067 6 335 32 195
1995 6,010 8 020 12 073 6 717 32 820
1996 6,201 8 124 12 066 6 922 33 313
1997 6,399
+198(+3.29M)
8,176 +52(+0.6%)
11,890 -176(-1.5%)
6
-158(-2
7鋼 “1
-84(-0.3%) 33,2291998 (
+90(+】
489
4%)
[ -129(-1
047 6%)
11,464 -426(-3.6%)
6 -101(-1
663
5%)
32,663 -566(-1.7%)
1999 〔
+137(+2 (2C
626
1%)
4%)
〔 +67(+0
(25
1% 18 4J
0%)
11,302 -162(-1.4%)
(34.9%)
6,364 -299(4.5%)
(19.6%)
32,406 -257(-0.8%)
(100.0)
24
9 っている3。しかも、一」れらの研究員にテニュァが与えられることは殆ど0 ない4.彼らの世界は文字通り実力・業績主義の世界だといってよいであろう。大学をこのように研究重点大学とそうでない大学に分ける政策は、ドーキンズ・プランに基づいた大学の合理化と大衆化の過程で出てきたもので、オーストラリアではそれほど古いものではない。このように、研究員の多さがオーストラリアの大学の一特徴をなしているが、一九九九年、これらの者を含めたオーストラリアの大学教員の総数は三二、四○六人であった。これらの大学教員を職位別にみたのが
表2である。これによると助教授以上が六、六二六人(二○%)、上級講
師八、一一四人(二五%)、講師一一、一一一○二人(一一一五%)、講師以下が六、一一一六四人(二○%)であった4.この表から、とりあえず次の一一一つの事実が明らかになる。まず第一は、それまで一貫して増えつづけてきた大学教員の数が、’九九六年を境に減少し始めたということである。全体では一九九七年に○・三%、九八年に一・七%、九九年に○・八%、トータルでこの三年間に二・八%オーストラリアの大学教員の数が減少したということである。つぎに第二に、この減h方を職位別に見てみると、この間の変化がより明瞭になる。つまり、全体的に教員数は減っているにもかかわらず、助教授・教授は依然として増えつづけ、上級講師も横ばい状態にあるの
に対し、講師と講師以下職が大幅に減っているということである。この三年間における講師と講師以下職の減少率は、講師が六・五%、講師以下職は八・三%という大幅なものであった。このようにこれらの職位の減少率はきわめて高く、この間の人員削減は、これら講師及び講師以下職等の下位職弁中心になされてきたことがわかる。つぎに第三は、講師が減って、助教授・教授と講師以下職が増えているという、この間の職位別構成の変化に関係している。すなわち、かつては教員全体の四○%以上券占め、一九八九年でもなお三九%存占めて いた講師は、九九年には三五%まで減少し、逆に、八九年にはそれぞれ
一七%、一八%だった助教授以上層と講師以下職層は、九九年にはいずれも二○%に増えている。ここから、かつては大学教員の最大グループ ◆大学教員の雇用の安定性つぎに、大学教員の雇用の内実について見てみよう。オーストラリアで初めて大学が設立されてから、第二次世界大戦後に至るまで、大学教員の雇用条件の決定を目的に法律が制定されたことはなく、また、それに代わる規則が定められることもなかった。大学自治や学問の自由保障の一環として、大学教員の採用や雇用条件は各大学の自主的判断に委ねられていたからである。したがって、同じ高等教育機関でも性格を異にするCAEは別にして、大学教員の採用や雇用条件を法的に規制するものとしては、コモンロー上の雇用契約と慣行がその中心にあった。このような環境の中で、従来、オーストラリアの大学教員の雇用はきわめて安定し、原則的に六五歳の定年まで彼らの雇用は「保障」されていたといってよい。通常、大学で雇用「保障」の度合いを示す指標の一2 つとされるものにテニュァ(万冒忌)がある4.チューターや講師等の下位職で入職し、その後の業績が認められてテニュァが付与された場合、
その教員については原則としてそれ以降の業績評価は免除され、他方では、それが大学教員の自由な意見表明や、ひいては学問の自由を保障する一手段と考えられてきたものである。オーストラリアの大学教員の雇用はこのテニュアを基本に成り立ち、教員に対して幅広くテニュァを与えるというのが従来の一般的な慣行であった。その結果が六五歳の定年までの雇用「保障」となったものである。ここではひとたび講師として採用
されると、勤続年数に従って上級講師までの昇進はほぼ自動的になされ3 ていたといってよい4。しかしながらそのような中で、上級講師から助教授への昇進では厳しい業績・人物評価がなされ、また、教授職については殆どが公募による外部からの採用が原則とされ、内部昇進は限られた場合にしかみられな かったことも事実である鰹。このように、テーーュアを持っているかどうか
が、大学教員の雇用保障の程度を示す一つの指標となってきた。ただし、 であった中間層の講師が減って、これが助教授・教授等の上位職と講師以下職等の下位職に分化する傾向がみてとれる。25
◆テニュァ保有率の低下と有期雇用・パート化の進行以上見たような安定的なオーストラリアの大学教員の雇用は、一九八○年代後半以降の大学改革の中で大きく変わっていった。そのことを確認するために、つぎに、オーストラリアの大学教員のテニュア保有率の現状と近年の変化を検討し、つづいて有期雇用やパートタイムの実態についても見てみよう。まず、近年のテニュァ保有状況を見てみると表3のとおりである。テニュァを持っている教員〈扇。目昌一の国曰8昌国目)『)の比率は、一九九
7 六年度で全体の五六%、有期契約者(」冒旨已扇目8具国呂)1が四二%4,8 その他(・夢の[訂目8コ目:」が二%となっている4。先にみた一九八○年代初頭の数値と比べると、テニュア保有率が大幅に低下しているのがわかる。全体で八○%近くに達していたテニュァ保有率は、その後一○数年を経て六○%を大きく割り込むまでに低下した。こうした状況は職位別の変化を見てみるとより明瞭になる。従来は、実質的に殆ど(九九%)がテニュァを得ていた助教授・教授ですら、いまでは保有率が八○%以下にまで低下している。これは上級講師についても同様である。 判例や労使関係委員会の出す裁定では、テニュアは単なる大学内での雇用慣行に過ぎず、雇用「保障」という意味で、何らかの特別な法的拘束5 力を持つものではないと解されている4.このような観点から、過去におけるオーストラリアの大学教員のテニュァ保有状況を見てみると、講師以上のポスト、つまりは大学教員の圧倒的大多数がテニュァを得ていたといってよい。たとえば一九八二年時点における職位別のテニュァ保有(訂目忌e率をみると、助教授以上が九八・七%、上級講師で九八・一%と非常に高く、講師でも八○・四%とかなりの水準に達していた。また、チューター等の講師以下職でも、6 一一○%近くがテニュァを与えられるという状況にあった4。こうして博士課程の大学院生が多くを占めるチューターを除くと、テニュア保有率はきわめて高く、教員全体でも八割近くがテニュァを得るという状況にあった。
表3 雇用契約形態別大学教員数と棡成比(1996年)
資料出所:ClareBurton,GenderEquib'jnAustrnlianUhilノ巴面b'StajHZ]giDEErYA1997の189頁にある表1-4
から作成。
注:1[]内の数字は各職位内の雇用契約形態別構成比を、()内の数字は各雇用契約形態内の職位間構成比
を示す。
2.テニュアはtenumbleの、有期契約はlimitedtermcontractの訳。
助教授以上 (レベルD&E)
上級講師 (レベルC)
講師 (レベルB)
講師以下 (レベルA)
計
計 6,201
[100.0] (18.6)
8,124 [100.0] (24.4)
12,067 [100.0] (36.2)
6,922 [100.0] (20.8)
33,314 [100.0] (100.0)
テニュァ 4,869
[78.5] (26.1)
6,416 [79.0] (34.4)
6,622 [5409] (35.5)
752 [10.9] (4.0)
18,659 [56.0]!(100.0)
有期契約 1,301
[21.0] (9.3)
1,635 [20.1] (11.7)
5,269 [43.7] (37.6)
5,823 [84.1] (41.5)
14,028 [42.1] (100.0)
その他 31
[0.5] (4.9)
73
[0.9] (11.6)
176 [1.5] (28.1)
347 [5.0] (55.3)
627 [1.9] (100.0)
26
また、かっては八○%台だった講師のテニュア保有率は、五五%まで二○数ポイントも低下した。さらに、講師以下職になると、かつて二○%近くあったテニュア比率は一○%台へとほぼ半減している。一方、このようにテニュァ比率が低下した分、有期契約が増加した。有期契約比率は全体で四二%に上り、助教授・教授でも二○%を超えるまでになって9 いる4。このようなテニュア比率の低下、有期雇用の増大という一般的な傾向については、若干の補足が必要であろう。|つは、先に述べたように、研究員がかなりの比率を占める研究重点大学では、これら研究員はテニュアを与えられることは殆どないことから、実際に授業を担当する教員のテニュア比率はそれだけ高くなるであろう、ということである。もう一つは、いま見たテニュア比率は一九九六年時点でのものだということである。大学教職員の雇用に最も大きな変化が生じたのは、一九九六年の政権交代で保守政権が成立して以降のことであり、その後の規制緩和政策と大学予算の大幅削減こそ、大学教職員の雇用に影響をもたらした最大の原因だったからである。大学が人件費の節約を目的に、政策的にテニュアを減らして有期雇用やパート・カジュアルを多用するようになったのは、一九九六年以降のことである。したがって、それ以降、テニュァ比率は低下しているのではないかと推測される、ということである。先のテニュア比率を見るとき、これら二つの相反する要因を考慮する必要があろう。つぎに、フルタイムとパートタイムについても簡単に見てみよう。オーストラリア政府の統計はこれにフルタイムとフラクショナル・フルタイム(印、日自己国昌とヨの1以下、FFTと略す)という概念を使っている0 が、後者は一般的にパートタイムと呼ばれているものである5.これについて現状を見たのが表4である。ここから明らかなように、フルタイムが
七七%と圧倒的に多く、ついで時間単位で雇われ、したがって賃金も時 間単位で計算されるカジュアル(8巴巨)が一六%、残りがFFT(パ ート)で七%となっている5.これで見るとフルタイム比率の高さが目立 つが、ここでいうフルタイムが日本の専任を意味するものでないことに注
勤務時間形態別教員数とその割合(1998年)
従来、最初は研究助手やチューターとして大学教員のキャリアを開始し、そこでの経験と実績をもとにパートやフルタイムでの有期契約の講師に昇格し、やがてはテニュァを得るというのが、オーストラリアの大学教員の一般的なキャリア形成の仕方であった。パートの一大供給源は大学院生で、しかも入職口としてのチューターの採用は学部長の裁量でなされることが多く、カジュアル
やパートの場合は特にそうであった夢ただ、日本の大学と比べると、オ
ーストラリアの大学には永年非常勤的な性格の講師たちはきわめて希である。非常勤講師の多くを大学院生に依存する体制はいまも依然として残っているが、しかし、彼らにいま述べたような形でのキャリア昇進を提供できる状況はすでにない。従来であればテニュァを得て当然と思われる講師たちが、いまは有期契約の講師として契約更新を繰り返すケースが増えている。むしろその方が一般的といってよいかも知れない。政府の予算削減によって、大学が部分的な独立採算を余儀なくされたことから、大 学側が非常勤や有期契約を増やしてテニュアを減らし、それによって人
表4
資料出所:DETYA1UmversityStaifl989tol9981,
HigherEducationSeries,ReportNo.35,June l999の付属資料から作成。
注:1.教員数はFTE(Fnll-tjmeEquivalence)
を示す。
2.一般的にいうパートだと考えればよい。
意が必要である。それには多くのフルタイムの有期契約者(日本の任期制教員)が含まれているからである。すでに表3でも見たように、これら有期契約者は教員全体の四○%以上に上っている。また、オーストラリアのパート(FFT)は雇用・労働条件の設定・保護という点で日本の非常勤とは根本的に異なり、保護の水準が非常に高い。したがって日本の非常勤に近いのはカジュアルだけ2 といってよい5。
教員数 割合(%)
フルタイム 27,557 76.4
FFT(パート) 2,592 7.2
カジュアル 5,911 16.4
計 36,060 100.0
27
◆大学教員の三分の一以上は女性日本の大学の教員構成と比較するとき、オーストラリアの大学がもつ最も大きな特徴の一つは、女性教員の多さ、その比率の高さであろう。オーストラリアの現状をみる前に、参考までに海外諸国の状況を見ておこう。日独英仏中の五カ国比較で、高等教育機関の教員に占める女性比率を見てみると、日本一四・六%二九九六年)、ドイツ一八・○%(九一年、ただし旧西独)、イギリス二一一一・六%(九三年)、アメリカ二八・七%(八七年)、フランス二九・一%(九三年)、中国一二二・一%5 (九四年)であった5.一」れに対し、オーストラリアの大学では全教員の三五%を女性が占めている。これらの国々と比較してもかなりの高水準
にあるといってよい夢しかし、同時に、この比率は職位によって大きく
異なっているのも事実である。講師以下職で女性はすでに過半数を超えているものの、その比率は上位職にいくにしたがって低下する。たとえば講師ではなお四三%の高率を維持しているが、上級講師になると二七%、7 そして助教授以上では一五%と次第に低くなっていく二・。女性比率の低さという点に関して言えば、それは理事(勺8気、:夛自‐8旨1や副学長(急・閃写98臣・『)等の上級管理職にも当てはまる詔。
しかし興味深いことに、これら副学長や理事に占める女性比率は、助教授・教授のそれよりも高い。各大学のホームページで副学長について見てみたところ、女性が副学長の大学はアデレード大学、マッコーリー大学、西シドニー大学、ニューイングランド大学、エディス・コーワン大学であったが、連邦副学長会によるとその比率は一六%で、また、理事9 についてはこれよりもずっと高く一一六%となっている5.これらを前提にすると、海外諸国と比較しても、オーストラリアの大学教員に占める女性比率は、かなりの水準に達していると言ってもよいであろう。 件費の節約を図るような人事政策を採るようになってきたからである。連邦高等教育教職員組合(三目目巴忌冨ご巴巨○目・コロョ目)や大学院
生の団体がこうした事態に関心を寄せ始めたのは、当然のことだったといってよいであろう鼎
終わりに以上見てきたように、オーストラリアの大学教員の雇用は、通俗的な意味での終身雇用という点から言えば、日本の大学と同じく終身雇用的であった。いや、かつては講師以上の九○%近く、全教員でみても八○%近くがテニュァを得ていたこと、しかもこれが非常勤も含めた全体の数字であったことからすれば、膨大な数の非常勤講師に依存し、彼らの存在なしにはその存立が考えられない日本の大学とは比較にならないほど、雇用保障が確保されていたといってよい。違いは、オーストラリ しかし、以前からこのような状態が実現されていたのではない。先に見たように、歴史的にみれば、オーストラリアの大学で女性に対する差別的な入学制限が撤廃されたのは、かなり早い時期であった。しかし第二次世界大戦後になっても女性教員の数は少なく、一九六○年代以降の大学拡充期に入ってからでも状況に大きな変化は見られなかった。そのような中で、女性の教授、学部長が登場するには今世紀半ばまで待たなければならず、一九七四年になっても、全国で九三九人いた教授のうち
女性はわずか一三人(一・四%)という少なさであった印。このような状
況を考えると、一九八○年代以降の変化には実に目覚ましいものがあった、といってよい。それでは、教員に占める女性比率がこのように大きく上昇したのは何故であろうか。その理由としては、①全体的に女子学生が増え、大学教員予備軍の母集団に占める女性の比率が上昇したこと、それを背景に、②一九八○年代に連邦政府の政策に基づいて大学が禰極的差別是正策(アファーマテイブ・アクション)を講じ、それが着実に効果を上げてきたこと、等が考えられる。後者に関していうと、その結果として、多くの大学では今でも着実に女性比率は上昇しており、それは全国的な傾向となっている。現在、講師以下職で女性はすでに過半数を超え、講師でも四割以上を占めるに至っていること、そしてこれらの者がやがては助教授、教授へと昇進していくと予想されること等を考えると、やがて上位職でも女性が相当の比率を占めるようになるものと推測される6。28
アでは、助教授から教授への昇進で厳しい業績評価に基づいた競争原理が作用していたこと、また、このように雇用保障が確かであるにもかかわ2 らず、教員の移動率が高かったという点にある6。ところが、このようなオーストラリアの大学教員の雇用環境は、いま大きく変わりつつある。|方では教員のテニュァ保有率が大幅に低下し、他方では有期雇用やカジュアル、パートが増加した。これは大学がそのような人事・雇用政策をとり、それによって人件費の節約を図ろうとした結果である。こうした状況の下で大学教員を対象とした人員削減も進められ、一九九七年以降それは統計数値にも現れるようになった。その過程で、この人員削減は定年退職等による自然減によるものだけでなく、
最近は余剰教員の強制解雇までが現実化してきたP
このような雇用環境の変化をもたらした要因は様々であるが、まず第一に、それが一九八○年代後半から始まった労働党政権下の大学改革を一大契機としていること、第二に、一九九六年の政権交代で保守連合が政権に就いたが、規制緩和政策のモデルヶースとして大学をターゲットに定め、政策を遂行してきたこと、第三に、そしてこれがより直接的な影響を与えたのであるが、規制緩和の一環として連邦政府が大学予算を大幅に削減し、大学側もそれに基づいた雇用・人事政策を推進してきたこと、等であった。テニュア比率の低下や有期雇用化、パート化の進行といった事態はすでに労働党政権下で生じていたが、雇用削減が具体化したのは一九九六年の政権交代に伴う政策転換以降のことである。こうしてオーストラリアの大学教員の雇用環境は、ここ一○年余りの間に犬蛇足ながら、最後に少しだけアメリカに言及しておく。日本で比較に出されるのは常にアメリカだからである。アメリカの大学では一般商品市場と同じく、大学教員の労働市場でも厳しい競争原理が支配し、助教授
から準教授への昇進、準教授から教授への昇進時点で厳しい業絞評価が
なされ、テニュアを持っているのは準教授、教授を中心とした一部の教員だけで、それ以外の者はテニュア穫得を目指して熾烈な競争を繰り広げる。その中でなされる厳しい業績評価がアメリカの高い学問水準の維 きな変貌を遂げた。 持を可能にしていると言われてきた。しかし、このような理解がどこまで事実を伝えているかについては、疑問がないわけではない。近年の統計でもアメリカの大学教員のテニュァ保有率はきわめて高いからである。アメリカの大学教授のテニュァ保有率は、教授で九七%、準教授で八五%ときわめて高く、助教授では一六%と下がるが、教員全体では六四%に上る。しかも将来のテニュア付与を見込んだ採用になるとその比率は格段に上昇し、教授で九九%、準教授で九七%、助教授でも八六%、インストラクターですら三五%に上り、全体でも八八%の高率に達する(数値はいずれも一九九五年)。しかもこの比率は近年上昇傾向にあるとされる鼎もっとも、テニュア見込みで採用されたが実際にはテ
ニュアが与えられなかった、という者がどれくらいいるのかは明らかでない。それにしても、低賃金でしかも雇用の不安定な非常勤講師が日本でいかに多いかを考えると、雇用「保障」という点からして、アメリカの大学は日本とは比較すべくもない。また、こうしたアメリカの状況は、規制緩和の流れの中で、近年テニュァ保有率が一貫して低下しているオーストラリアとも好対照をなす。大学という狭い場面のこととはいえ、かつて手厚く労働者の雇用保誠を制度化してきたオーストラリアの大学で雇用が急速に不安定化し、市場原理万能のアメリカで雇用保護が進行しつつあるという逆説には興味深いものがある。日本の大学教員の雇用弁考える場合、これら二国の事情は十分参考になるものと考えられる。1、本稿は、一九九九年春の社会政策学会第九八回大会において、自由論題の一部として行った報告{教育の規制緩和と大学教員の労使関係l大学教員の解雇が現実化しているオーストラリアを一例としてI」)の内容を拡大し、その一部として独立させたものである。その中で本稿は序章に相当する部分を扱ったものである。大学の雇用環境の変化と解雇が現実化 注
29
している具体的な状況については、近く発表予定の「雇用環境の変化と大学教員」〈法政大学法学部「法学志林」)第九七巻三号、二○○○年一一一月刊行予定〉を参照されたい。2、一九九九年二月二○日付朝日新聞記事「受験生諸君入学金ダダ」)。3、経済企画庁経済研究所は、私立大学では授業料四割値下げ時代が来るという試算をしている(山口栄二「私立大授業料四割値下げ時代到来?」「週刊朝日」一九九九年二月一二日号)。4、中村忠一「二○○○年度版危ない大学」一二五館、一九九九年、第一一章。5、伊東謙治「二○○四年、地方私大が続々倒産!」「週刊読売」二○○○年二月二七日号。6、山口栄二「破綻大学学生のための受け皿機関榊想」「週刊朝日」一九九九年一二月二四日号。7、山口栄二「えっ!あの東大教授に退官後、再就職の口がない」週刊朝日一九九九年二月二六日号。8、山口栄二「大学非常勤講師のリストラ地獄」「週刊朝日」二○○○年二月二日号。9、シ息耳昌目図巨8画・ロ巨后日呂・ロ巴タロニ陣ご号ヨニロ、ご里寅】邉溪弓』C陣曽‐圏・技術教育や噸業教育に関する日本語の資料としては、やや古いが河村正彦「オーストラリア-高等技術教育のめざましい発展」海外教育問題研究会編「現代海外教育シリーズ三職業・労働教育」ぎようせい、一九八一年がある。、、前掲AEI資料。u、□のご胃目の具C{国昌一C竜目の具固目の畳○コ目ロ日田目后e胃己珸忘号ご巴騨省目目聾5口菖自思召q陣昔日耳冒粁・貝ンの鼠]患いも.]$・胆、□のご閏目の昌・『両目○畳・P向日ロ一・百]の。(目目コヨ頤目9K.巨昼量芭厨e両国ヨら・要晋の『目巨8号ご営舎、園冒シロ勺の》]g①七・画・週、白岩一彦「オーストラリアの高等教育」「レファレンス」第四六二号、一九八九年七月、二一頁。皿、文部大臣官房調査統計課編訳「オーストラリアの教育」文部省(日本 政府)、’九七九年、六七頁。妬、最近、チャールズ・スタート大学は募集人員三○○名で国内最大の神学部を設立し、学生募集を開始した。しかし、神学部の学生数は過去五年間で九四人から一八九人に増加したとするものの、四、○○○人前後いるとされる神学生の殆どは民間のカレッジの学生だとされる(ご自困困言筐(の『》一(西ご穴の①ロ、酋昏閉昏の。一・四1②①の一》。]のシ巨骨昌目・画]目の]$P)。胆、一言うまでもなく「サービス・ステーション」は日本のガソリンスタンドのことである。ここでは文字通り産業界や政府の要請に応えてサービスを提供する基地という意味と、日本の駅弁大学券兼ねた意味合いで使われていた。これについては以下を参照のこと。ど自国胃・貨饅爵ごq・「圭吊吋昌自国昔日号。、(冒すaご己急風□で『の冊・言の一宮色目の.ご函PC宮ご后『]P冒己目]且冤弓・函g俸圏、.Ⅳ、ロ豊丘三島・巳・一両の§房冒、夢の目一息「⑪身。の弓のの。]の己『・量の『C『亘瞥の『のg8丘・貝。]のど】骨農目奥己の1目8-.詮]&田旨負召国陣冒8,冨頁三○・四.言]』『』§・肥、この間における高等教育制度改革の概略については、マホニーの前掲論文を参照されたい。四、おそらく設立の起源をいつに求めるか等の歴史的な経緯から、大学によっては資料によって設立年が異なる場合がある。また、そもそも資料によって大学の数が遮っている。ここでは前掲の雇用教育訓練省(DEETYA)一九九六年の資料を利用した。別、連邦大学副学長会声巨骨昌目急86声目、巴・厨-0.日目牙の‐雲「○○)の資料では、連邦政府が財政補助している公立大学は三六となっている(シごC○一巨己ご;ご園nF]彊鱒ど]骨昌目ご己冨風丘のの一』①$)。これには、ここで触れたカレッジが含まれていないものと思われる。皿、ここでいう私立大学二校の中には一九九九年一月、ノーフォーク島で設立された通信教育中心のグリニッチ大学は含まれていない。規制緩和の流れの中で私立大学の設立を奨励し、これを「認可」したとされる連邦政府と、カリキュラム内容からして「大学」の設置基準に達しないとして政府の「認可」に墨を唱える連邦副学長会が対立しているSCB弓『Eご瞬俸