ユニセフ募金の成功にみる「義理」としての「恩返 し」 : 日本学からのアプローチ
著者 安井 裕司
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 9
ページ 3‑29
発行年 2012‑03‑30
URL http://doi.org/10.15002/00022644
安 井 裕 司
1.はじめに
2001 年、ユニセフ募金を主催する財団法人・日本ユニセフ協会からユニセ フ(国連児童基金)1)本部への拠出金が初めて 100 億円を超え、103 億 5,100 万円を数えた。同協会は、以後、毎年 100 億円以上の拠出を続け、2010 年度 には 152 億円に至っている2)(表 1)。その貢献は大きく、2010 年における日 本ユニセフ協会からの拠出金はユニセフ本部の総収入の 5. 3%、民間部門から の収入に限定すれば 16.3%を占めている3)。
日本ユニセフ協会はユニセフ本部の直属の組織ではなく、世界 36 カ国にあ る国内委員会の一つという位置付けである。国内委員会とは各国においてユニ セフに対する民間協力のための窓口であり、法的には非政府組織(NGO)と され、ユニセフ、各国政府のどちらも直接的に管理・運営に携わっていない4)。 しかし、国内委員会はユニセフ本部によって承認される必要があり、募金等 の収入から 75%以上をユニセフに拠出しなければならない5)。
日本ユニセフ協会は一 NGO 団体であるが、ユニセフへの貢献度は日本政府 を凌ぐ勢いである。例えば、2010 年、日本ユニセフ協会からユニセフへの拠 出額(1 億 9,361 万米ドル)は日本政府からの拠出額(1 億 7,505 万米ドル)と 肩を並べている6)。2010 年においてユニセフは収入の 57%が各国政府からの 拠出金となっており、政府からの拠出金が大幅に民間からの寄付額を上回っ ている国が大半を占めている7)。そのような中、民間からの貢献が著しい日本 はユニークな存在であると言える。
時間軸で見ると、日本ユニセフ協会は 1992 年度から 2010 年度の 19 年間、
ユニセフ募金の成功にみる
「義理」としての「恩返し」
~日本学からのアプローチ~
【表 1】日本ユニセフ協会による対ユニセフ拠出金額の推移 (1998 ~ 2010 年度)
出典 「ユニセフへの拠出額と推移」日本ユニセフ協会 HP(www.unicef.or.jp.)
【表 2】日本ユニセフ協会への募金総額と 1 人当たりの国民所得(1985 ~ 2010 年度)
出典 日本ユニセフ協会、ユニセフ駐日事務所「ユニセフ年次報告」1986-2002、日本 ユニセフ協会 HP(www.unicef.or.jp.)、内閣府経済社会総合研究所『平成 23 年 国民経済計算年報』、2011 年)
ユニセフに対して総額 1,798 億 1,176 万円を拠出している8)。拠出金の増額は 同協会の収入増を反映しているが、2010 年度における収入の 93.3%は寄付金・
募金である9)。
特筆すべきことは、日本ユニセフ協会への寄付金・募金の増加が日本経済 の不況下において達成されていることであり(表 2)、また、現在、その寄付 金・募金の 83%が個人献金であることである10)。2005 年の調査によれば、ユ ニセフ募金への 1 人当たりの平均寄付額は 3,314 円であり、決して高額ではな い11)。
つまり、1990 年代のバブル経済崩壊後、国民の平均所得が下がる中12)、多 くの日本人が日本ユニセフ協会への募金を続けてきたのである。そこには日 本人が経済的に豊かになったという理由以外の何かがあると考えるべきであ ろう。
本稿では、その要因を戦後の日本人の「恩」と「義理」意識の中に見出したい。
後述する通り、第二次世界大戦後、多くの日本の子供たちが学校給食を通じ てユニセフ(もしくは「アジア救援公認団体(ララ)」13))の援助を受けた経 験があり、四半世紀から半世紀後、少なからずの(元)子供たちがその「恩返し」
をしたい、もしくは「恩返し」すべきであるとし、日本ユニセフ協会が主催 するユニセフ募金に積極的に賛同していると仮定できるのである。
2.日本学における「恩返し」(「恩」と「義理」)
多くの日本人がなぜユニセフ募金に賛同するかを考察する手がかりとして、
まず日本学、日本人論において「恩」や「恩返し」がどのように論じられて きたのかを確認する。ここでは、「恩返し」を「恩」に対する「義理」(「恩返 し」=「義理」)と認識し、「恩」と「義理」研究を辿っていきたい14)。
2.1.「義理」=「好意に対する返し」、「義理」=対面的「意地」論
「義理」「恩」の研究は第二次世界大戦前にまで遡る。初めて「好意」に対す る返しを「義理」として研究対象としたのは桜井庄太郎と姫岡勤である。桜 井は『日本封建社会意識論』(1939 年)、姫岡は「義理の観念とその社会的基礎」
『社会学研究』第 1 輯(1944 年)にて、物の「贈与」や「好意」を受けると、「義 理」という観念を抱くとした15)。
しかし、両者は「義理」が発生する条件において見解が異なる。桜井は、「好意」
=「恩」とは見なしていない。「恩」は当事者の所属階級を異にする、あるい は階級的に著しい上下関係がある場合に生み出されるとし、「好意」に対する
「義理」は当事者が同じ階級であった場合に生じると限定している(特に日本 においては江戸時代の町人文化にその典型例を見出す)。つまり、同じ階級の 場合の「好意」は「恩」と区別され、ここでは「恩」が「恩返し」を伴わな いものとされてしまう。
一方、姫岡勤は、同じく封建社会において「好意」に対する「義理」が生ま れるとしながらも、同質な農民社会のみならず、上下関係のある武士間にも「好 意」に対する「義理」が生じるとしている16)。それでも、両者は(「恩返し」
とは表現しないが)封建社会を「義理」の前提とし、同一階級内においては「好 意」に対する「義理」が成立するという点では共通していた17)。
「義理」の研究史において、「義理」は「恩」の延長上に描かれる以前も研 究の対象となっていた。単独で「義理」が考察されていた際、「義理」は対外 的で功利的な配慮・念慮とされており、また、「義理」とは自分自身の「意地」
であり18)、「自己の対面を保持するための念」19)とされていた。ここで強調さ れるのは、三者の関係性である。例えば、下出隼吉は「義理に関する一考察」
(1925 年)の中で「義理」を、甲乙の関係性のみならず、自己および乙以外の 第三者をも考慮にいれた世間的な意識であるとしている20)。この対面意識は、
後に「恩」、「義理」を成立させる「恥」と関連して認識されるようになる。
2.2.「恩」→「恩返し」(=「義理」)論
より明確に「恩」と「義理」(「恩返し」)の関係を論じているのはルース・
ベネディクトである。ベネディクトは『菊と刀』(1946 年)において「恩」の 反対概念を「義務」と「義理」であると位置付け、「義務」は上下関係から成 立し、「義務」としての「恩返し」は量的にも時間的にも無制限であるとする。
一方、「義理」は平等関係もしくは対等関係から成立し、「義理」としての「恩 返し」は量的にも時間的にも制限されたものとした。更に「義理」に関しては、
(1)世間に対する「義理」(2)名に対する「義理」というように二分している。
前者は契約関係の履行であり、それをしなければ世間で「恥」をかくものと され、後者は名誉に対するものとし、誰かに侮辱を受けた際その汚名を雪ぐ ものとしている21)。
ベネディクトの説は、(1)世間に関する「義理」は、「恩返し」を重視する桜井・
姫岡説と(2)名に対する「義理」は、対面を重視する先行研究と重なる。
2.3.「恩返し」の社会的条件
「義理」を「好意」もしくは「恩」に対する「返し」と認識すると、次にそ の社会的条件が問われることになる。
桜井と姫岡が施された「好意」に対する「返し」(「義理」)を同一階級内で 行われるとしたことは既にみたが、両者は「義理」を封建社会、もしくは未 開の社会の中に限定したため、社会の変動に際する「恩」と「義理」の関係 には注目しなかった。
中根千枝は、子供が独立する前の親子関係や、インドの上位から下位カース トへの施しにおいて「義理」は存在せず、よりもてる者からもてない者への「贈 与」に際して「義理」は生じないとする22)。しかし、逆に言えば、子供の成 長や社会変動は、当初「義理」が介在しないとされた関係を変えてしまう可 能性がある。つまり、「義理」として返すべき「恩」と(まだ)返さなくても よい「恩」の分岐点は、「施恩者」と「受恩者」の関係性次第となる。
ここでは、「恩」が施されて「義理」となる条件は、同一階級であるないに かかわらず、「恩」が施された状況よりも施した者(もしくは集団)と施され た者(集団)の社会的な格差が小さい、もしくは小さくなったケースというこ とになる。より下位に存在し、「恩」を施された者が、後に社会的な変動を経て、
「恩」を施した者に近付いた、もしくは並んだ際、施された当初は返さなくて もよい「恩」が、後に「恩」を返すべき「義理」を伴ってくるのである。
しかしながら、川島武宜は 1951 年に東京都内の農村を調査し、成長しても 子は親に「恩」を感じないという結論を導いている。彼らは生活の苦難を共 にしており、その近過ぎる関係において「恩義」は生じない。例外的に都市 の富裕層においては親が子供に一般の家庭よりも多くの「恩恵」を与えるこ
とによって「恩義」が生まれているとする23)。
「施恩者」と「受恩者」の格差が大き過ぎても小さ過ぎても「恩返し」には 発展しないとすれば、その分岐点をどこに引くべきであろうか。ベネディク トはまず、「恩返し」を「恩を返す方」の認識(見地)によると言う24)。当然、
認識は個々によって異なるが、ベネディクトは「義理」に「世間」という第 三の存在を登場させることで、「義理」に「恥」を連動させる25)。つまり、関 係性の変化によって「世間」が、「受恩者」に「恩返し」の「義理」を果たす ことを求める状況に至ったにもかかわらず、「受恩者」が「施恩者」へ「恩返し」
を行わなかった場合、「受恩者」は「義理」を知らぬ人間とされ、自らの体面 を保つことができないのである。
中根は「恩」と「義理」の関係を第三者の役割を強調し、「A が B にもの を与えるという当然の義務がなく、また B にそれを受ける当然の権利がなく、
たまたま A が B に与えたものが B にとって非常にプラスであり、その重要性 が第三者に十分に認識できるほどの意味をもつという条件に支えられたとき に、義理という表現による人間関係が設定される」26)と定義する。
しかし、第三者が認識できる程度に、この「施恩者」と「受恩者」との社 会的関係性が変化するまでに、相当の時間が必要なケースも考えられる。場 合によっては、「施恩者」が既に存在しない可能性もあるであろう。
ベネディクトは親子関係を例に、子供が未成年であった場合、親から子への
「恩」があっても子に「恩返し」の「義理」は生じず、「恩返し」はあくまでも、
子が成人して経済的に独立し親の立場に立った際に「義務」となるとしている。
そして、子供の頃に親から受けた「恩」に対する「恩返し」は、自分の親で はなく、自分の子を対象とするとしている27)。
ここでは子供に対する「恩返し」を比喩的に把握し、「身代わり」と認識す る。本来、「恩返し」は、「受恩者」から「施恩者」へ向けられるものであるが、
何らかの理由で「施恩者」へ「恩返し」ができない、もしくはその必要がなく、
そこに「施恩者」の「身代わり」が以前の「受恩者」と同様の弱い(子供のよ うな)立場で存在している場合、「身代わり」への「恩返し」は成立する。この「恩 返し」は、「身代わり」に対し、「受恩者」が、かつて自分に対しての「施恩者」
と同じような立場に至った際に初めて可能となるのである。
2.4.「義理=恩返し」は特殊か、普遍か
このような「義理」=「恩返し」の感情は日本人だけに見られる特別な思 考なのだろうか。ここではまず、それが日本人の特性であるとする説から再 考したい。
「義理」を特に日本的なものとする考え方も、近代化によって「義理」が消 えていくとする見方と、永続性を主張する見方に分かれる。
前者の例を挙げれば、ベネディクトは「義理」を「世界の文化のうちに見 いだす、あらゆる風変りな道徳義務の範疇の中でも、最も珍しいものの一つ」
と著しながらも28)、同時に、第二次世界大戦後、日本文化の土台であった「階 級制度・秩序」が崩壊し、日本人は戦前と同様の行動様式が維持できず、「義理」
等の日本人の特性も消滅するだろうと見ていた29)。後者の例としては有賀喜 左衛門の研究がある。有賀は「義理」を日本の近世封建社会に限定されたも のとせず、歴史的には古代から今日まで、社会的範囲おいては家制度、部落 組織から近代の国家、企業組織を貫く日本人の生活規範であるとした30)。 しかし、このような「義理」の日本特殊論に対して批判は多い。ロナルド・ドー アは英国人にも同様の感情、行動が存在するとし31)、桜井庄太郎はマルセイ・
モースの「贈与論」に引用された北欧の伝説やアメリカ・インディアンの贈 与交換であるポトラッチの中に「義理」との類似点を指摘している32)。源了 圓は桜井説の延長上に、北米インディアンのみならず日本の農村慣行の「ゆ い」、中国の冊封体制も「好意」に対する返しとしての「義理」と類似すると いう33)。川島武宜は、「義理」は西ヨーロッパや米国においては存在しないが、
アジア社会に存在する可能性があることを指摘している34)。
「義理」を日本人の特性としない場合、その多くは日本の後進性に「義理」(も しくは、「義理」に相当するもの)の原因を見出そうとしている。例えばドー アは 1958 年において日本の「義理」関係が英国よりも濃密である理由として 社会保障制度の未発達と家計に余裕がないことを挙げ、それらの発展によっ て「義理」の比重は下がるとしている35)。「ポトラッチ=義理」説を採る桜井 はポトラッチを「要するにそれは未開社会で広く行われている贈答・交換に 関する習俗である」36)としている。このように「義理」を封建社会に結び付 けて考えた場合、経済発展による近代化、国際化は社会構造の変化をもたらし、
日本において「恩」や「義理」が希薄化することになる37)。
封建社会説を肯定、否定するにかかわらず 1950 ~ 60 年代において「義理」は、
日本人の関係性を規定する社会規範として少なからず機能していたことに異 論はなかった38)。しかし、封建社会説を採るならば、経済成長を成し遂げた 1970 年代以降、「義理」は衰退しなければならないことになる39)。確かに戦後 の近代化によって共同体が崩壊し、「義理」や「恩返し」が廃れたとする見解 は少なくない40)。しかし、一方では経済大国化したにもかかわらず、「義理」
が未だに日本人の規範として機能しているという見解もある41)。
1977 年に行われた日本人とフィリピン人を対象にした「義理」に関する調 査では、日本人のほうが義理的要素を多く持っており42)、1983 年の日本、ハ ワイ、グアムでの調査では、7 項目の内 5 項目において日本人が他よりも「義 理」を重んじるという結果が出ている43)。また、2011 年 3 月 11 日に発生し た東日本大震災後、被災地に関係がある人物や組織が被災地への支援を表現 する際、「恩返し」はキーワードの一つとなっている。このような点から、日 本人は戦後、近代的な行動規範を採取すると共に、「義理」などの伝統的規範 をも維持しており、「義理」だけに焦点を当てれば、戦後一貫して安定してい たという見解44)は肯定されることになる。
2.5. 近代化と「義理=恩返し」
経済大国となった日本において「義理」が希薄化しない現状をどのように 理解すべきであろうか。日本の経済発展と「恩」と「義理」の関係を把握す るには日本の近代化のプロセスを考察する必要がある。
ジェームズ・ストックウィンは日本の経済大国化に関して、単純に「伝統」
対「近代」の対立とみなすべきではなく、家族主義的集団が政治組織や職場 における忠誠及び活動の対象として重要であり、経済のダイナミズムに疑い もなく関係しているとする45)。また、ロバート・ベラーは江戸において「恩」
―「恩返し」を一般的義務と挙げ46)、「徳川時代に存続したと考えられる中心 価値体系は近代においておそらく、一層協力かつ合理化された形で決定的に 存在した」47)とする。
ベラーやストックウィンのみならず、多くの日本学研究者が明治以降の日
本の近代化、国際化は江戸時代以前に形成された日本人の特性が作用したこ とを認めている48)。「義理」や「恩返し」は、変形しながら多くの日本人の中 に存在し続け、近代化によって希薄化するどころか、むしろ近代化の一要因 とされるのである。しかし、その結果をより肯定的に、もしくはより否定的 に判断するかはそれぞれの論者の視点によることになる。
現在においても日本の労働者の意識の一部が「恩」や「義理」に縛られており、
それらが経済大国を支える一方で、同時に過労死、過労自殺の問題等を引き 起していると指摘されている49)。しかし、ユニセフに関してはこのような日 本人の特性がプラスに働いていると言える。もし、ユニセフ募金が「義理」や「恩 返し」という日本人の特性を基礎として成功しているとすれば、世界の子供 たちのために活動するユニセフは日本人のそのような「人情」が支えている ことになるのである。
3.ララ物資とユニセフ援助:「恩返し」としてのユニセフ・ボランティア
前章で見てきた日本学上の「義理」と「恩返し」を持って、どのようにユ ニセフ募金を解釈できるのか、その史的背景から振り返っていきたい。
第二次世界大戦後、敗戦国として経済的に疲弊していた日本に対し、1946 年 11 月、米国の宗教団体や日系人団体が中心となって結成した「アジア救援 公認団体」(ララ)から脱脂粉乳等の食糧、衣服、医薬品、靴、石鹸、原反、
綿などの無償援助(ララ物資)が届いた50)。ララ物資は 1952 年 6 月まで配給 され、その総額は当時の金額で 400 億円に上り、約 1400 万人(日本の人口の 約 15%)がその恩恵を受けたとされる51)。
ユニセフは、1946 年に第二次世界大戦で被災した子供たちへの緊急援助を 目的として第 1 回国連総会にて設立され、3 年後の 1949 年に駐日代表部を開き、
日本でも活動を開始した。1949 年から 13 年間に渡って学校給食への脱脂粉乳 の供給を中心に52)、総額 1800 万ドル(65 億円)の援助を展開する53)。 学校給食への脱脂粉乳の提供は 1946 年からララによって始められているが、
ララは子供への援助に限定しておらず、1946 年における対象は、実施小学校 数 276 校、児童数 25 万 1629 人(実施人員比率 22%)留まっていた。ユニセ
フが援助を開始する前年の 1948 年において、6,958 校、児童数 526 万 1,192 人(実 施率 61%)まで上昇していたが、ララからの援助は 1952 年に打ち切られてし まう。1949 年 10 月以来、ユニセフは脱脂粉乳の提供を子供への配給に限定し、
更に国庫補助による脱脂粉乳の購入を促し、1952 年 4 月に実施される小学児 童に対する脱脂粉乳の完全給食化に貢献することになる54)。
日本ユニセフ協会の誕生はこれらのユニセフからの初期援助に対する市民 からの「お礼」の気持ちと行動がきっかけとなっている。ユニセフ駐日代表部 が日本において援助活動を開始すると直ぐに、全国から礼状が届けられ、1949 年 8 月、ユニセフ駐日代表部は日本国連連合協会を介して、一般事務を補助 するために日本人女性ボランティアを募集する。数ヶ月に渡る奉仕活動の後、
彼女たちは 1950 年 2 月 1 日に任意団体として日本ユニセフ協会を設立し、ユ ニセフへの協力活動を継続することになる。
初代ユニセフ協会専務理事・松岡暁美は団体設立のきっかけに関して、松 岡がユニセフ駐日代表マルガリタ・ストレーラーにユニセフの援助に対し感 謝の言葉を述べると、ストレーラーが「松岡さん、お礼など言われるほどの ことではないのです。国連が、このユニセフを作った訳は、本当に戦争によっ て迷惑したのはお母さんと、世界の子どもですから、為すべきことをしている ので御礼を言われるべき筋合いのものではありません」と答え、松岡はその言 葉に感動し、日本もユニセフに協力しなければいけないと決意したという55)。 任意団体設立後もユニセフの日本への援助が継続されており、日本ユニセフ 協会のユニセフへの具体的な協力としては日本におけるユニセフの援助プロ グラムのサポートであった(例えば、日本ユニセフ協会は、1954 年、ユニセ フによる奄美大島の児童へのミルク給食の提供に全面協力している)。つまり、
この段階ではユニセフから「恩」を受け続けている状況であり、日本ユニセ フ協会を設立したボランティアたちの「恩返し」は量的にも時間的にも限定 されるものではなく、自分たちの活動そのものだったと言える。
一方、ユニセフよりも先駆けて日本に援助したララにも、同じように市民 から多くの感謝の手紙が届いている56)。国会でも 1947 年 7 月 31 日の衆議院 本会議にてララに対して、また、1949 年 4 月 28 日の衆議院本会議においてラ ラにおいて中心的役割を担ったハワイ並びに北南米の在留邦人に対して、満
場一致で感謝決議を可決している57)。
しかしながら、ララとユニセフではその後の展開が大きく異なる。前述の ようにユニセフが現在、抜群の知名度を誇っているのに対し、金額にしてユ ニセフの約 6 倍も多く貢献したララについては、一般には殆ど知られていない。
ララの貢献が今日、語り継がれていない一要因として、ララの構成団体の一 つであった日本難民救済会が、日系米国人団体であり、ララの援助の約 2 割が 南北アメリカに滞在する日系人からの寄付であったことが挙げられる58)。日 本難民救済会の中心人物であった日系人ジャーナリスト・浅野七之助が記した 救済会趣意書によれば、日系人の自分たちが援助するのは「義務」であるとし、
それは戦時中、強制収容所で受領した日本からの慰問品(醤油、味噌、薬品、
書籍、娯楽品等)に「感激した思い」へのお礼であるする59)。
一方、GHQ 統治下の日本ではララが「日系人の祖国愛の賜物」である側面 は特に宣伝されておらず、人々は漠然と「米国人からの温かい贈り物」とし て認識していた60)。つまり、「受恩者」である日本の市民の立場から、「施恩者」
が誰であるのかが曖昧になっていたのである。更に「恩」を施す日系人側も、
むしろ「施恩者」ではなく、「報恩者」として自己認識をしていた。皮肉なこ とに日系人が中心となり、戦後直後の日本の窮状を救ったララの援助に対し ては、「恩」-「恩返し」の関係が成立し難い状況であったのである。「施恩 者」の曖昧性は、多かれ少なかれユニセフにも当てはまる。ユニセフの脱脂 粉乳給食に際しても、時に「敵国の食べ物を子供たちに与えるとはけしからん」
という抗議があり、その説明を「外国からの贈り物」に留めた教員もいたと いう61)。
しかしながら、現在、ララとユニセフの知名度が大きく異なる最大の理由は、
ララには日本ユニセフ協会のような支援団体がなく、後世にその貢献度が十分 に伝わらなかったからであろう。逆にユニセフは、ボランティアたちの無限の
「恩返し」としての日本ユニセフ協会の設立とその活動の継続が、戦後直後の
「施恩者」として国連やユニセフを意識させ、将来、募金という形で日本の市 民からの「恩返し」に結び付くことになる。
その上、日本ユニセフ協会はララからの援助への「恩返し」の受け皿にもな る。同協会が一般市民からの寄付で成功を収める 90 年代以降、「米国からの救
援物資と言われていたような記憶があるが、ユニセフだったのかもしれない」、
もしくは、「米国から援助物資を貰ったけど、ユニセフに協力しよう」とユニ セフ募金に賛同する人が出てくるのである62)。
4. 財団法人・日本ユニセフ協会の成立と募金活動の開始:「恩返し」
と国連加盟
1955 年 5 月 30 日に日本ユニセフ協会は、元外務大臣・元参議院議長の佐藤 尚武を初代日本ユニセフ協会会長に迎え、任意団体から財団法人へと変わる。
この財団法人化に関しては、日本の国連加盟(1956 年)が秒読み段階となっ ていたこともあり、対外的には国連における「信用確保」という意味合いがあっ たという63)。国際舞台への復帰に際して、日本は被援助国から援助国への転 換を図り、ユニセフから施された「恩」をアジアやアフリカの途上国を介して ユニセフへ「返そう」としたのである64)。佐藤尚武・日本ユニセフ協会会長 はその点を明確にし、「ユニセフはその事業開始以来、日本の児童や母親達の ために支出した金額は莫大にのぼる。その外、ユニセフから日本に贈られた 粉乳は五百万ポンドに達し、これが日本の母子の食料となり栄養の補充となっ たのである。(中略)われわれ日本人もこの重要なユニセフの事業に一層協力 したいものである。日本人ユニセフ協会もできる限り国内の児童の福祉に対 しこれが向上に努力すると同時に、世界の子供達のためにも協力するように したい」65)と述べている。
日本ユニセフ協会が行うアジア・アフリカへの援助とは具体的には募金活 動であった。1956 年 5 月 5 日には第 1 回ユニセフ協力募金を実施し、正式に 独自の募金活動を展開する。募金は主に小学校、中学校、高校を中心に行われ、
その方法は、文部省管理局から各都道府県教育委員会、小学校長会、中学校 長会、日教組、全国教育委員会連絡協議会等に通達されるというトップダウ ン形式であった66)。第 1 回のユニセフ募金は 3,976 校が参加し、総額 1,251 万 746 円が集まり67)、その半額をユニセフ本部へ拠出し、残された半額は日本国 内における児童支援、災害地域の給食費援助などに回されていた68)。 このようにして始まったユニセフ募金であるが、興味深いことに、当時、ま
だ日本はユニセフ本部からの脱脂粉乳の供与が続いており69)、日本ユニセフ 協会が募金をユニセフ本部に拠出する一方で、1959 年に至っても日本政府は、
ユニセフへ 600 万ポンド以上の脱脂粉乳や医療器具の無償援助の継続を求めて いるのである70)。一見矛盾するような、援助を受けながらの募金活動の決行 をどのように理解すべきであろうか。先に述べたように財団法人化の際に言わ れた「信用確保」の表明と共に、国際舞台に復帰する日本としての「意地」があっ たとは考えられないだろうか。
佐藤尚武会長は、1933 年の国際連盟脱退時に外交官として立ち会っており、
1956 年、日本の国連加盟時には感激を隠さず、「しかし、それは夢ではなく、
現実だった。私は、あの輝かしい日本のみ旗を仰ぎ見て強い教えを受けた。(中 略)全く対等の位置に掲げられたきょうのみ旗こそ、まさに日本の行く手を はっきりとわれわれ国民に示してくれるその尊いみ旗として、私は胸いっぱ いの感謝の念をささげて拝んだのであった」71)と記している。
国連加盟によって「対等」となった日本は名目だけでも「恩返し」を始めな くてはならなかったと考えられるのである。当然、「恩返し」の感情は大多数 の国民に共有されておらず、学校を中心とした募金活動は「上から」通達され、
教育の一環とされていた72)。
1960 年代後半から 70 年代、貿易黒字国となり GNP 世界第 2 位に躍り出た 日本は援助大国への道を進むことになる。1974 年に日本ユニセフ協会とフジ テレビは、「アジア・アフリカの恵まれない子供たちを救おう」と訴え、募金 活動「ユニセフ・チャリティ・キャンペーン」を展開する。初めてメディアを 活用した募金の呼びかけは成功し、1 年間で 5,525 万 198 円を集め、以後、同 活動は継続されることになる。しかし、その時でさえ、少なからずの国民が豊 かさを実感しておらず、フジテレビ会長の日枝久によれば、当時、日本の子 供も苦しんでいるのになぜ外国の子供のための募金なのかという批判があっ たという73)。
5. ユニセフ議員連盟の設立と「ユニセフ・ミルク世代」:政治家の「恩 返し」
ユニセフからの援助が終焉する 1962 年、厚生、文部大臣を務めた橋本龍伍 の妻・橋本正が日本ユニセフ協会の理事に就任し、1966 年に専務理事に昇格 する。龍伍は 1962 年に亡くなるが、長男・龍太郎が 1963 年に衆議院議員に当 選し、70 年代後半から厚生、運輸、大蔵大臣を歴任する。正は 1991 年に退任 するまでの約 20 年間、献身的にユニセフ活動に没頭し、時に龍太郎を中心と する人脈もユニセフのために活用する74)。また、党派を超えて多くの政治家 たちが積極的にユニセフに協力していくことになる。
ユニセフの名前を一挙に全国区にすることになった 1979 年の国際児童年に おいて、日本ユニセフ協会は、募金活動、チャリティー・コンサート、学校や 諸団体をバン型自動車で訪問するキャラバン隊の派遣などのイベントを企画・
実行する。同年の大晦日には有名人による街頭募金活動が催され、総理大臣・
中曽根康弘、総務長官・小渕恵三などの政治家も駆けつけ、発展途上国への 募金を呼びかけた。後に首相となる小渕恵三はユニセフに関して「我が国は、
戦後間もない時期、学校給食の「粉ミルク」や毛布、医療器具等、ユニセフか ら多大な支援を頂きました。(中略)我が国は、自らがユニセフから受けた支 援に感謝すると共に、ユニセフを通じた人道援助、開発援助を実施することで、
途上国を含めた国際社会にその恩返しをしていくことは、ひいては世界の平 和と繁栄に大きく貢献するものであり、非常に重要なものであると認識して おります」75)と述べている。
自民党議員ばかりではなく、1988 年 8 月に衆議院議員・伊東正義を代表と する超党派(自民党、社会党、公明党、民社党)のユニセフ議員連盟が設立され、
政治家のユニセフへのサポートがより明確になる。以降、政府からのユニセ フへの拠出金確保などに貢献することになるが、ユニセフへの支援の根拠と しては、かつての受けた「恩」に対して「恩返し」すべきであるという理由 が全面に押し出される。
現ユニセフ議員連盟会長・谷垣禎一(1945 年生まれ)は第 116 回国会衆議 院予算委員会(1989 年 10 月 17 日)において以下のように述べ、自ら「ユニ
セフ・ミルク世代」であることを強調する。
「それで、日本も戦後食糧難に直面しておりますときに、昭和二十四年から昭 和三十七年まで、ユニセフから脱脂粉乳の提供を受けまして、私どももその 脱脂粉乳を飲みながら大きくなった世代でございまして、今やこの予算委員会 を拝見しましてもかなりユニセフの脱脂粉乳を飲んで育った世代がメンバー としてもう参加をしている、こういう時代になってきております。それで、我 が国が経済大国、援助大国となった今日、ユニセフを通じまして、食糧難等 に悩む途上国の児童の救済とか、あるいは婦女子の保健衛生向上などに大い に貢献すべきではないかというふうに私は思うのです」76)。
谷垣の主張は例外的ではなく、援助大国になった日本を動かす「ミルク世代」
はユニセフや国連機関への「恩返し」を積極的に展開するようになる77)。ユ ニセフ議員連盟の会員であり、後に首相となる安倍晋三(1954 年生まれ)も ユニセフの援助で日本が助けられたとした上で、「世界の好意によって、日本 は豊かになれた。しかも、世界の中でも一握りの、豊かな国の一つに仲間入 りできましたから、今度は日本の番。そういう役割をはたさなければいけな いんですね」78)と語っている。
しかしながら、「ミルク世代」の政治家の「恩返し」は日本の経済成長が前 提となっていた。1990 年代のバブル崩壊は財政赤字の増大は国連支援の財源 となる ODA 予算の大幅なカットを余儀なくさせ、「恩返し」の声はトーンダ ウンしていくのである。そのような時に更に「恩返し」を強調したのがユニ セフ親善大使である黒柳徹子である。
6.ユニセフ親善大使・黒柳徹子とユニセフへの「恩返し」
1984 年、タレントの黒柳徹子がユニセフ本部から親善大使を任命され、ユ ニセフはマスコミに日常的に取り上げられる存在となっていく。黒柳は自ら の番組にてユニセフへの寄付を定期的に募り、黒柳を通じてのユニセフへ の募金総額は 2011 年 4 月 30 日の段階において 48 億 1,499 万 9,700 円(件数 362,303)79)に至る。
ユニセフ親善大使として黒柳は一貫して自分の子供時代の思い出を語り、ユ
ニセフの日本への援助を「恩」と捉え、世界の恵まれない子供達への「恩返 し」を呼びかけている。例えば、法政大学での講演(1990 年 8 月 11 日)にて
「今のアフリカの子供たちの写真をご覧になるとみなさん、かわいそうと思わ れるかもしれませんが、戦争が終わった時は私たちもあんなふうでした。み んな骨と皮のようでしたし、栄養失調でお腹が出っぱっていて、履くものも なくて、裸足で、着るものも私、洋服一枚しか持っていなかったですからね。
今のアフリカの子供たちの状態が、今から四十五年前の日本の子供だとお思い になればいいんですが、そういう状態の時に、世界中の子供たちに、国連から、
食べ物をどんどん送ったんです」80)と話している。
自らの子供時代とアフリカ子供を同一視する黒柳のユニセフへの「恩返し」
は、有限ではなく、政治家の「恩返し」以上にプライオリティが高くなる。
バブル経済崩壊後の 1997 年、日本政府がユニセフへの政府拠出金を 41%削 減しようとした際、黒柳は「忘れないでユニセフへの恩」(朝日新聞 1997 年 12 月 16 日)と題し、「政府には、ユニセフが日本によって特別な国連機関で あることを忘れないで、とお願いしたい。ユニセフは日本に対する定期的な 援助を行った唯一の国連機関。終戦直後の一九四八年から六二年まで、日本 の子どもたちに粉ミルクなど、当時のお金で六十五億円相当の援助物資を送っ てくれた。日本が現在のような経済大国になるなど想像もしないで、何の見 返りも考えず、日本の子どものことを考えてくれた」と政府に再考を求めた。
黒柳の必死の訴えにもかかわらず、日本の ODA 予算は 1997 年をピークに 下がり続け、2007 年は 80 年代後半の水準にまで落ちこむ81)。ユニセフへの政 府拠出金も 1997 年の 2,800 万米ドルから減少し、2006 年には 2,050 万米ドル となる82)。
しかしながら、黒柳のアピールは政治家よりもむしろ国民に届いたかのよ うに、黒柳の個人募金、また日本ユニセフ協会への個人からの募金は増え続 けていくのである。
7.ダイレクトメールによる募金の成功:個人からの「恩返し」
1991 年に日本ユニセフ協会・専務理事に就任した東郷良尚は組織の抜本的
な改革を敢行する。民間企業出身の東郷は、日本ユニセフ協会に民間的経営 を導入し、政治家主導から脱却する。その改革プロジェクトの最大の成果は 募金の増加であった。1992 年度において約 35 億円だった募金総額は 2000 年 度には約 121 億円に上昇するのである。後に東郷はその成功の理由をダイレク トメール・キャンペーンにあったと話している83)。
ダイレクトメールは日本ユニセフ協会が日本語で準備し、ユニセフ事務総 長の手紙を同封した後、ユニセフ本部のある米国から日本に郵送される。ダ イレクトメール自体は珍しいものではないが、事務総長の手紙を添えて米国 から郵送する国内委員会は日本ユニセフ協会以外にはないという84)。そのダ イレクトメールには、戦後、ユニセフが日本において展開した脱脂粉乳等の 援助活動が記されており85)、日本人の情に訴えている。この方法に対しては そこまでするのかという批判もあったが86)、結果的に個人からの寄付が飛躍 的に増加し、2010 年度には同協会の募金総額の 83%を占めている。
ダイレクトメールによって、募金のターゲットは企業や学校から個人へシ フトした。不況の 90 年代以降のユニセフ募金を支えたのは組織ではなく、個 人であり、ここにおいてユニセフ募金はトップダウンからボトムアップの形 態に変化したのである。
しかし、日本ユニセフ協会の躍進は例外的である。経済企画庁の調査によ れば、日本ユニセフ協会が募金額を増加させた 90 年代、世帯別寄付の総額は、
阪神大震災が発生した 95 年を除いて横ばいである87)。戸別献金が 7 割以上を 占める共同募金(赤い羽根・歳末たすけあい)は88)、その募金総額を 1995 年 度の 265 億 7,935 万円を頂点とし、2010 年度には 197 億 1,091 万円まで落とし ている89)。
共同募金の特徴は自治会、町内会を中心とした集金システムにあったが、自 治会は単身者や共働き家族増加によって参加率が低下している(『国民生活白 書』によると 1968 年において、自治会や町内会の会合に「だいたい参加する」
が町村部で 70.2%、都市部で 49.1%であったが、2007 年において町内会・自 治会に「月 1 日程度あるいはそれ以上の頻度で参加している」と回答した人 の割合は 12.7%に留まっている)90)。
更に共同募金の主力は戸別訪問であり、そのためにボランティアを募ってい
るが、2000 年に行われた共同募金の調査によると、ボランティア参加者の年 齢は、最大層が 60-69 歳(31.4%)、次が 70 歳以上(23.3%)と 60 歳以上で計 55%となり、その高齢化が問題になっている91)。彼らのボランティア参加の 理由としては、自分の所属団体が配分を受けたから(47.6%)、周囲の人、関 係者に頼まれたから(26%)と、いわゆる「義理」である92)。寄付をする側も、
その理由を問われると、38%が「近所の人が集めにきたから」と答えており、
1 位の「毎年のことだから」(39.7%)に肉薄している93)。しかし、このボラ ンティアによる個別訪問はある種の強制力を募金者に覚えさせるケースが多 くなっている94)。このように共同募金は昔ながらの「義理」に支えられてき たが、地域社会の変化によって自治会や町内会の「世間」においてその「義理」
が働かなくなっているのである。
このように共同体意識が希薄化していく中で、日本ユニセフ協会がダイレ クトメールを用いて個人に訴えたことは、社会の変化に的確に対応した戦略 であったと言える。
それでは誰がユニセフのダイレクトメールに答えたのであろうか。共同募 金による 2005 年の調査(2,052 人対象)によると、この 1 年にユニセフに募金 したことがあると答えた人は全体の 8.0%(165 人)であり、その内 60 歳以上 と 40-49 歳が共に 28.5%(47 人)でトップに並び、次に 50-59 歳が 24.2%(40 人)
と続いている95)。同調査はダイレクトメールがきっかけで募金したかどうか を問いていないが、この 40 歳以上の多くが 1962 年まで続いたユニセフの脱脂 粉乳等の援助を受けた年齢層と重複していることは看過できない。
90 年代以降、ユニセフ募金への賛同者が各マスコミに取り上げられること が増えている。例えば、主婦・柳島秀子(47 歳)はユニセフへ献金すること で脱脂粉乳を頂いた「恩返し」を、と呼び掛け(読売新聞、1990 年 12 月 20 日、
東京朝刊)、石川県の折井泰昌(56 歳)は脱脂粉乳の味が忘れられないとユニ セフ「友の会」を設立して、募金活動に邁進する(朝日新聞、1997 年 7 月 1 日、
石川版)。還暦を迎えた大阪府の柏原代志子は募金を通じてユニセフに「恩返 し」をすることを決意し(産経新聞、1999 年 12 月 29 日、東京朝刊)、小学校 の教師をしていた富崎鈴代(61 歳)は、ユニセフの脱脂粉乳に育てられたこ とを思い出し、佐賀のユニセフ「友の会」の設立に参加する(読売新聞、2004
年 8 月 16 日、西部版)。愛知県の菅市子(65 歳)は脱脂粉乳が苦手だったが、
感謝を込めて募金に参加している(毎日新聞、2005 年 10 月 24 日、東京朝刊)。
募金に賛同した全ての「ユニセフ・ミルク世代」の動機が「恩返し」であっ たとは断言できないが、一定数が脱脂粉乳と募金への参加(「恩返し」)を結び 付けているのは事実であろう。地域社会の共同体意識が希薄化する中、ダイ レクトメールは一定の世代の共同体験に訴え、成果を収めたと言える。
8.結論
最後に、日本ユニセフ協会の「恩返し」の歴史を 2 章でみた日本学におけ る「恩」と「義理」=「恩返し」論から再考察したい。
日本ユニセフ協会は、戦後、日本の子供たちに施されたユニセフからの「恩」
に報いるために女性ボランティアによる任意団体として出発した。ユニセフ の見返りを求めない援助に対し、女性ボランティアたちは「恩」を感じ、ユ ニセフ協会の設立に至るのである。
しかし、当時、ユニセフが代表する先進国と日本には歴然とした経済格差 があり、「義理」としての「恩返し」が可能となる平等関係が成立していなかっ た。つまり、ボランティアのユニセフへの「恩返し」は、甲(「施恩者」)、乙(「受 恩者」)が平等関係になることで生み出される「義理」には該当しないのであ る。ここでの「恩」とは、ベネディクトや桜井が言及した上下関係に渡る「恩」
であり、「恩返し」は援助額等の数量で測れるものではなく、量的にも時間的 にも無制限である。それは自分たちの人生をかけての「恩返し」であり、任 意団体を設立してユニセフ運動を永続化させるという形をとるのである。
1950 年- 80 年代、日本ユニセフ協会の指導者や政治家が「恩返し」の表明 し、国民にユニセフへの協力を促すが、それは先の女性ボランティアによる「恩 返し」とは異なる。
1955 年、国連加盟を直前にして日本ユニセフ協会は財団法人化され、ユニ セフ運動は国家的なプロジェクトとなる。具体的には、初めて募金をユニセフ 本部へ拠出し、「恩返し」を始めるが、当時、ユニセフから日本への援助が継 続中であり、先進国と経済的に対等な関係ではなかった。それにもかかわらず、
「恩返し」を敢行しなければならなかったのは、日本ユニセフ協会が募金は国 連における「信用確保」と記した通り、国家の体面や面目に対する「義理」だっ たと考えられる。また、国際舞台への復帰は、国際社会を下出や中根が説く ところの第三者(世間)とし、日本とユニセフとの関係を見ることも可能で あろう。
ユニセフ議員連盟に代表される「ユニセフ・ミルク世代」の政治家たちの「恩 返し」は、彼らが「経済大国となった日本」を強調するように、日本がユニセ フを支援する先進国と同等以上の立場になり、「恩返し」をしなければならな い状況の出現によって生じる。つまり、同階級・同階層・同グループにおける「義 理」の論理が働き、「恩返し」しなければ体面を汚すことになる。その特徴は、
彼らの「恩返し」が、ベネディクトが描く有限とされる契約的な「義理」に 近く、そこには「恩返し」を無制限な活動や運動に転嫁する考えはない。故に、
政府が財政難に直面した際、ユニセフへの政府拠出金を容赦なく削減するの である。
一方、ユニセフ親善大使の黒柳徹子は、日本ユニセフ協会を設立した女性 ボランティア同様に「恩返し」を有限とは考えておらず、「恩返し」を自らが 主体となる援助運動の継続に置いている。また、「恩返し」の対象は、明確に 世界の貧困地域の子供たちに向けられており、彼らの惨状は黒柳自らの子供 時代に同一視されている。つまり、黒柳が子供時代に受けたユニセフの「恩」
に対する「恩返し」は、現在、世界の貧困地域の子供たちを対象とすることで、
彼女自身が、戦後直後のユニセフ同様の「施恩者」にもなっている。そして、
「施恩」を止めることは、自らがユニセフから受けた「恩」を否定することに 繋がる。不況であっても、世界のどこかに恵まれない子供たちが存在する限り、
黒柳にはユニセフへの「恩返し」=「施恩」が滞ることは許されないのである。
黒柳の「恩返し」は、90 年代以降のダイレクトメールに答えてユニセフ募 金に賛同した中高年以上の一般市民の「恩返し」と重なる。もちろん、彼ら にとっても戦後の日本の経済的成長が行動の根底にあることは事実であろう。
脱脂粉乳を飲んでいた頃の自分と比較し、現在、総体的に「豊かさ」を享受 しているという認識に立っていると仮定できる。しかし、日本ユニセフ協会 への寄付は 90 年代の不況下に増加しており、必ずしも経済的「豊かさ」だけ
に起因することではない。子供の頃の脱脂粉乳の味を思い浮かべながら、経 済的に厳しい状況の中でも、ユニセフ募金に協力(「義理」を果た)している 人も少なくない捉えるべきであろう。
近年のユニセフ募金の成功は、何よりも一般市民(中高年層)に支持の裾 野を広げ、個人献金の比率を高めたことにある。その背景には、第二次世界 大戦後のユニセフによる脱脂粉乳等の援助を多くの人々が記憶していた(少 なくとも思い出すことができた)ことにある。更に、1979 年の国際児童年の 成功や親善大使・黒柳徹子などの活躍により、現在、貧困に苛む途上国の子 供たちの姿が広く国内に伝わり、それが、1990 年代の日本ユニセフ協会の積 極的な活動によって、昔の思い出と結合した可能性が高い。
もし、上記の仮説が正しければ、日本ユニセフ協会の成功は、(西)欧米的 な公共性を基本とした寄付文化の定着とは異なり、「ユニセフ・ミルク世代」
に限定される個々人の経験と「義理」としての「恩返し」を尊ぶ日本人の特性 に依存していることになり、次世代への継承が問われることになるであろう。
注
1) 1946 年「国際連合国際児童緊急基金」(United Nations International Children’s Emergency Fund) と し て 設 立 さ れ、1953 年「 国 際 連 合 児 童 基 金 」(United Nations Children’s Fund)へ改称。略称は一貫してユニセフ(UNICEF)。
2) 日本ユニセフ協会『日本ユニセフ協会年次報告 2010』、2011 年、24 頁。
3) UNICEF, Annual Report 2010, June 2011. p.43,46. 日本ユニセフ協会『日本ユニ セフ協会年次報告 2010』における拠出金の 152 億円は年度であり、UNICEF の
Annual Report 2010は西暦年の総額。ここでは 2010 年(西暦)の日本ユニセフ協
会の拠出額(193,605,000 ドル)を使って計算した。
4) UNICEF ‘About UNICEF: Structure and contact information’
http://www.unicef.org/about/structure/index_natcoms.html(2011 年 12 月 10 日).
5) 日本ユニセフ協会『日本ユニセフ協会年次報告 2010』、2011 年、23 頁。
6) UNICEF, Annual Report 2010, pp.43-46.
7) Ibid.
8) 日本ユニセフ協会『日本ユニセフ協会年次報告 2005』、2006 年、4 頁;『日本ユニ セフ協会年次報告 2008』、2009 年、5 頁;『日本ユニセフ協会年次報告 2009』、2010 年、
5 頁;『日本ユニセフ協会年次報告 2010』、2011 年、24 頁。
9) 2010 年度、日本ユニセフ協会の収入は 183 億 9,761 万円。内、寄付金・募金・グリー ティングカード募金は 182 億 6,562 万円(日本ユニセフ協会『日本ユニセフ協会年 次報告 2010』、24 頁)。
10) 2010 年度の総募金額の内、個人からの献金は約 144 億 2,273 万円となっている(日 本ユニセフ協会『日本ユニセフ協会年次報告 2010』、54 頁)。
11) 同調査のサンプルは 165 人に過ぎないが、他の募金団体と比較しても平均額は特に 多くはない(中央共同募金会『共同募金と募金ボランティアに関する意識調査(第 3 次)』2006 年、41 頁)。
12) 国民一人当たりの国民所得は 1996 年 3,014,000 円であったのに対し、日本ユニセフ 協会からユニセフ本部への拠出金が 100 億円を超えた翌年の 2002 年には 2,790,000 円まで落ち込んでいる(内閣府経済社会総合研究所『平成 18 年国民経済計算年報』、
2006 年、50 頁)。
13) 正式名「Licensed Agencies for Relief in Asia」、後述するように、1946 年、米国 の日系人団体、宗教団体が中心となって結成した対日援助団体。
14) 研究史としては源了圓『義理と人情』、中公新書、1969 年;『義理』、三省堂、1996 年、
参照。
15) 桜井庄太郎『日本封建社会意識論』刀江書院、1939 年。姫岡勤「義理の観念とそ の社会的基礎」『社会学研究』第 1 輯、1944 年。
16) 姫岡勤、前掲論文、170-182 頁。
17) 源了圓『義理』、12 頁。
18) 津田左右吉『津田左右吉全集』第三巻、岩波書店、1963 年- 66 年、327 頁。
19) 福場保州「「義理」に就いての一、二の考察」『社会学雑誌』第 37 号、1927 年、33
- 50 頁。
20) 下出隼吉「義理に関する一考察」『下出隼吉遺稿』、下出民義、1932 年、168 - 173 頁。
21) ルース・ベネディクト『菊と刀』(長谷川松治訳)、社会思想社、1967 年、135 - 137 頁。
Benedict, Ruth. The Chrysanthemum and the Sword: Pattern of Japanese Culture, Boston: Houghton Mifflin, 1946, p.116.
22) 中根千枝「義理人情の普遍性と特殊性」『Energy』17 号、1968 年、3 頁。
23) 川島武宜「恩の意識と実態」『中央公論』第 66 号(3)、1951 年 3 月、120 - 122 頁。
24) ベネディクト、前掲書、136 頁。
25) ルース・ベネディクトと「恥」に関しては星野勉「『菊と刀』にみる「恥の文化」」『国 際日本学』第 4 号、法政大学国際日本学研究センター、19 - 37 頁、2007 年 3 月参照。
26) 中根千枝、前掲論文。
27) ベネディクト、前掲書、118 頁。Benedict, Ruth. op. cit., p.102.
28) ベネディクト、前掲書、155 頁。
29) 星野勉、前掲論文、37 頁。
30) 有賀喜左衛門『有賀喜左衛門著作集Ⅳ』、未来社、1967 年、187 - 211 頁。
31) ロナルド・ドーア『都市の日本人』(青井和夫・塚本哲人訳)、岩波書店、1962 年、197-198 頁。Dore, Ronald. City life in Japan: a study of a Tokyo ward, London:
Routledge & K. Paul, 1958, p.254.
32) 桜井庄太郎『恩と義理 : 社会学的研究』、アサヒ社、1961 年、96 - 101 頁。
33) 例えば、源了圓『義理』、63 頁。
34) 川島武宜「義理」『思想』、327 号、1951 年、22 頁。
35) ドーア、前掲書、204 - 206 頁。Dore, Ronald. op. cit., pp.258-259.
36) 桜井庄太郎、前掲書、99 頁。
37) 姫岡勤、前掲論文、163 頁。川島武宜、前掲論文、22 頁。
38) 「恩」や「義理」を封建社会の規範とみなす論者も戦後の日本において「恩」や「義 理」の存在を認めている(例えば、川島、前掲論文、22 頁)。
39) 金屋平三「義理の諸形態―義理人情論ノート1-」『人文研究』、大阪市立大学文学 部、40(9)、1988 年、619 - 620 頁。
40) 例えば、森実「義理・人情を支えた共同体の崩壊がモラルを崩壊させた」『現代教 育科学』43(8)、2000 年 8 月、32 - 34 頁。黄文雄「日本人の価値観再考(1)義 理人情の考現学」『日本文化』、拓殖大学日本文化研究所、11、2003 年 1 月、25 -
35 頁。
41) 例えば、浜口恵俊『「日本らしさ」の再発見』、講談社、1988 年、181 頁。正村俊之『秘 密と恥』、勁草書房、1995 年、70 頁。
42) 井上佳朗「日本人と「フィリピン人」の義理人情比較」日本人研究会編『日本人研 究 No.5(特集 : 日本人の対外国態度)』、至誠堂、1977 年。
43) 石井敏「日本、ハワイ、グアムの義理人情の比較研究」『大妻女子大学文学部紀要』
18、1986 年 3 月、55 頁。
44) 井上佳朗「社会意識の変遷-義理人情の計量的測定を通して」『人文科学論集』、鹿 児島大学法文学部 36、1992 年 10 月、51 - 55 頁。
45) Stockwin, James. Japan: Divided Politics in a Growth Economy, New York: Norton, 1975, p.273.
46) ロバート・ベラー『徳川時代の宗教』(池田昭訳)岩波書店、1996 年、67 頁。
Bellah, Robert. Tokugawa Religion: the Culture Roots of Modern Japan, New York:
Free Press.1957, p.21.
47) ベラー、前掲書、355 - 356 頁。Bellah, op.cit., p.188.
48) マルウス .B. ジャンセン編『日本における近代化の問題』(細谷千博編訳)岩波書 店、1968 年。Jansen, Marius. Changing Japanese Attitudes toward Modernization Princeton, N.J. : Princeton University Press , 1965. ジョン・W・ホール、マルウ ス .B. ジャンセン編『徳川社会と近代化』(宮本又次・新保博訳)、ミネルヴァ書房、
1973 年。Hall, John. and Jansen, Marius. (eds.) Studies in the Institutional History of Early Modern Japan, Princeton, N.J. : Princeton University Press, 1968. 等の議論を 参照。
49) 大野正和『過労死・過労自殺の心理と職場』青弓社、2003 年、104 - 111 頁。
50) 厚生省社会局『ララ救援物資について』、1951 年、7 頁。
51) 飯野正子『もう一つの日米関係史』有斐閣、2000 年、148 - 149 頁。全国社会福 祉協議会九十年通史編纂委員会編『全国社会福祉協議会九十年通史 : 慈善から福祉 へ』、全国社会福祉協議会、2003 年、167 頁。
52) 1952 年に文部省が行ったユニセフからの脱脂粉乳援助に関する調査によれば、ユ ニセフ脱脂粉乳が提供された小学校と提供されない小学校では多くの項目におい て体力的な格差がみられる(文部省初等中等教育局『ユニセフ粉乳給食の効果に関 する調査報告』、1952 年 3 月)。
53) ユニセフから日本への援助に関しては、ユニセフ駐日代表事務所、ユニセフ GCO 駐日事務所、日本ユニセフ協会『日本とユニセフ』1986 年、3 頁。ユニセフ駐日代 表事務所、日本ユニセフ協会『子供のためのパートナーシップ:日本とユニセフの 協力 50 年』1999 年、9 頁。日本ユニセフ協会社史刊行会編『子供たちの笑顔のために:
ユニセフと歩んだ 50 年』出版文化社、2005 年、43 頁。
54) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、30 - 45 頁。
55) 日本ユニセフ協会『ユニセフニュース』第 16 号、1961 年 6 月 26 日、5 頁。
56) 長江好道『日系人の夜明け』岩手日報社、1987 年、143 - 144 頁。
57) 国立国会図書館「官報号外:第一回国会衆議院会議録第 20 号、1947 年 8 月 1 日」『1 国会衆議院会議録』、1947 年、232-236 頁;「官報号外:第五回国会衆議院会議録第 23 号、1949 年 4 月 29 日」『5 国会衆議院会議録』、1949 年、288 頁。
58) 飯野正子、前掲書、152 頁。
59) 同上、154 頁。
60) 長江好道、前掲書、165 - 166 頁。
61) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、43 頁。
62) 三重県の主婦、川村不美子(56 歳)は、子供の頃配給された米国からのボタンや 鉛筆などの援助は覚えていたが、給食で飲んでいた脱脂粉乳がどこから来たのかは
はっきり記憶になかった。ユニセフからのダイレクトメールで「ああ、そうだった のか」とユニセフ援助だと考え、「恩返し」のためにユニセフへ寄付することを決 める(朝日新聞 2002 年 6 月 27 日、家庭欄、名古屋版)。
63) 日本ユニセフ協会「概観」『昭和 31 年度事業報告書』、1956 年。
64) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、45 頁。
65) 日本ユニセフ協会『ユニセフニュース』第 1 号、1957 年 5 月 15 日、3 頁。佐藤は「善 意をお返ししなければならない」と述べていたという(日本ユニセフ協会社史刊行 会編、前掲書、56 頁)。
66) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、54 頁。
67) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、63 頁。
68) 日本ユニセフ協会『ユニセフニュース』第 1 号、1957 年 5 月 15 日、3 頁。
69) 当時、奄美大島と十島村の 7 万人に対して脱脂粉乳の供与が行われていた(日本ユ ニセフ協会『ユニセフニュース』第 2 号、1957 年 8 月 15 日、3 頁)。
70) 日本ユニセフ協会『ユニセフニュース』第 8 号、1959 年 9 月 10 日、3 頁。
71) 佐藤尚武『回顧八十年』、時事通信社、1963 年、536-537 頁。
72) しかし、ユニセフ募金を介在し、日本人同士おける「恩返し」は存在していた。福 岡県八女郡光友中学校の生徒会は日本ユニセフ協会に手紙を出し、第二回ユニセフ 募金に参加した理由を 1953 年の水害の際、救援物資が届いたことに対して、その 時の「うれしい気持ち」を忘れないためにと記している(『ユニセフニュース』第 2 号、
1957 年 8 月 15 日 4 頁)。
73) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、75 頁。
74) 龍太郎は正に頼まれ、予算編成の際、大蔵省に一緒に陳情に行ったという(ユニセ フ駐日事務所・日本ユニセフ協会、前掲書、10 頁)。
75) ユニセフ駐日代表事務所・日本ユニセフ協会、前掲書、4 頁。
76) 衆議院事務局「第 116 回国会衆議院・予算委員会議録第 5 号」『116 国会衆議院委 員会議録 3』、大蔵省印刷局、1990 年 1 月、11 頁。
77) 「ユニセフ・ミルク世代」は谷垣だけではなく、ユニセフ事務総長のキャロル・ベ ラミーは日本の VIP が自らを「ユニセフ・ミルク世代」と自己紹介するのを何度 か耳にしていると書いている(ユニセフ駐日代表事務所・日本ユニセフ協会、前掲 書、5 頁)。
78) アグネス・チャン他『戦争と平和』オリコン・エンタテイメント、2003 年、191 頁。
79) 黒柳徹子「トットチャンネル」http://www.inv.co.jp/~tagawa/totto/hope.html (2011 年 12 月 10 日)。黒柳はユニセフ本部の親善大使であり、日本ユニセフ協会とは直 接的に関係がなく、黒柳への募金は日本ユニセフ協会の募金額には計上されていな い。
80) 黒柳徹子「トットちゃんとユニセフ」法政平和大学編『法政平和大学講義録』4 第
Ⅷ期、法政平和大学、1990 年、6 頁。
81) 外務省「国際協力政府開発援助 ODA ホームページ」、
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/yosan.html (2011 年 12 月 10 日)
82) 外務省『我が国の政府開発援助の実施状況(1997 年度)に関する年次報告』、1998 年 9 月、158 頁。外務省『政府開発援助(ODA)白書 2007 年版』、2007 年 12 月、
246 頁。
83) 樺島秀吉「東郷良尚:日本の寄付文化を変える男」『AERA』 2005 年 5 月 30 日、66 頁。
84) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、148 頁。
85) 朝日新聞 2002 年 6 月 27 日、家庭欄、名古屋版。
86) 日本ユニセフ協会社史刊行会編、前掲書、143 - 144 頁。
87) 経済企画庁編『平成 12 年度版国民生活白書』、大蔵省印刷局、2000 年 11 月、196 頁。
88) 共同募金「昭和 22 年度~平成 21 年度 一般募金・募金方法別実績額及び構成率の
推 移 」http://www.akaihane.or.jp/about/history/pdf/toukei_rekinen_bokin02.pdf
(2011 年 12 月 10 日)。
89) 中央共同募金「昭和 22 年度~平成 21 年度 一般募金・歳末たすけあい募金の目標 額と実績額の推移」http://www.akaihane.or.jp/about/history/pdf/toukei_rekinen_
bokin01.pdf ;「平成 23 年度(第 65 回)共同募金運動実施概要」http://www.
akaihane.or.jp/pdf/20111003kyoubojisshigaiyou.pdf(2011 年 12 月 10 日)。
90) 内閣府『平成 19 年版国民生活白書』、2007 年 6 月、80 頁。
91) 中央共同募金会『共同募金の募金ボランティアに関する意識調査』2001 年 3 月、7 頁。
92) 同上、18 頁。
93) 中央共同募金会『共同募金と募金ボランティアに関する意識調査(第 3 次)』、2006 年 2 月、54 頁。
94) 募金参加者を対象にした調査では、「よいことをしたような気分でさわやか」(39%)
が一番多いが、次に「どのように使われているのか疑問」(26%)、「強制感を感じた」
(11%)と続き、「強制感を感じた」と答えた 80%が個別訪問を挙げている(同上、
89 頁)。
95) 同上、36 - 37 頁。回答人数は 60 歳以上(775 人)、50-59 歳(422 人)、40-49 歳(318 人)と年齢によって異なることに留意する必要があるが、ユニセフ募金を中心に再 計算した。