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著者 桜井 芳郎

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(1)

江戸時代天領下における助郷の研究 : 特に武州多 摩郡関前村を中心として

著者 桜井 芳郎

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 8

ページ 49‑74

発行年 1956‑03

URL http://doi.org/10.15002/00010659

(2)

桜 井 芳 郎

江戸時代天領下における助郷の研究

│ │

特に武州多摩郡関前村を中心として

徳川封建社会における農民の生活︑特に農村のあり方は如何なるものがあったか︒については現在あらゆる角度から

研究されているのであって︑その一般的傾向も略察せられるのである︒謂わく幕末に近ずくにつれて︑幕府瓦解の要因

が愈々学みつつあったことである︒その一つが農村分解という拭うペからざる力となったことは勿論であるが︑その中で助郷村の圧迫から依ってくることが︑大きい'ことはいうまでもないであろう︒

そこで本論では五街道の一つ︑比較的大名通行の数少い甲州道中の一駅︑高井戸宿における助郷のありかたを見ながら︑右の次第を考察してみたいと思う︒

一 一

五間道の宿場及びこれに近接せる村々は︑年貢物成に代えて伝馬役︑歩行役等の人夫役を課せられた︒伝居間役︑歩行

役は特定数の人馬を用意して︑御朱印御証文を所持せる幕府の公用旅行者若しくは特権旅行者のために︑継立人馬を調

達し︑休泊︑川越の準備をなし︑幕府の御用状︑御用荷物等を逓送する義務がある︒而しだ・各宿場において準備す︐へき

人馬の数は︑街道によって定数があって︑東海道は毎宿人夫百人︑馬百疋︑中仙道は五十人五十疋︑他のコ一街道も夫々二十五人二十五

疋で

φ

った

然しこの定数のへ馬だけでは︑到底底止するところを知ら祉い交通の増加に応ずる事ができなかったから︑明暦以後

(3)

は漸く助郷の制度なるものが発達した︒

助郷というのは︑定数の人馬のみでは足らない駅宿に加勢するために︑課役に代えて特定数の人馬を調達すべき義務

を負わされた宿駅附近の郷村であって︑これには白井助郷と大助郷(加助郷)との区別があった︒芳助郷というのは︑平

常宿駅に対して予備人馬を補給する義務あるγもので︑宿駅近傍一︑二里の諸村に課されるものを主とし︑大助郷は臨時

の用に踊えたもので︑諸候の参親交替や番衆通行め大通行等ある際︑定助郷の不足を補うために出すもので︑五︑fハ 里

から

O

里内外の諸村から徴するのである︒﹁五駅便覧﹂享保六年の定めに︑

助合村へ人馬当之定は無ν之候得共︑大概百石に付︑三・四疋入日比五・六人迄は安助計‑一而相皆︑夫より多く入時は

大助村相触︑方宿エ寄不同之事︑

とみえている︒

助郷の負担は最初元雄七年(一六九四)には助郷高百石について馬二疋︑人足二人であり︑享保六年(一七二一)に

は右にみたように三・四疋︑五・六人となったが︑次第に増加し︑特に課役の性質上時を選ばず頻々であり︑人足に出

るものは青壮年であったかあ︑農繁期や凶作等にあっては農業に支障を来し︑村を疲弊させることも甚

L

い状態であっ

た︒そのため︑幕末にいたって人馬継立における宿駅助郷の地位は全く逆転し︑所役人馬十人のうち七︑八人は助郷人馬であったといわれるむまたこの間︑助郷課役の金銭代納が一般化して︑一種の租税となり︑助郷農民の経済生活を︑

いちじるしく圧迫し︑農村分解の一要因となった︒(﹁近世交通史研究﹂

l

黒羽兵次郎︒﹁近世交通史﹂

l

田村栄太郎

著︒﹁幕末の高井戸宿﹂

l

西郊文化第六輯)

一 一

次に当地方に関する助郷の状態を窺ってみよう︒先ず資料の関係で武州多摩郡関前村(現在東京都武蔵野市関前町﹀

を中心として述べてみると︑当村は甲州道中の一宿駅高井戸宿助郷村であった︒

高井戸宿は上・下二宿に分れて︑二宿で甲州道中の一宿と指定されていた︒甲州道中は他の四筒道と異って寒宿が多

いためか︑二村乃至数村で一宿分とされそしるものがある︒上下高井戸宿の他にも上鳥沢と下鳥沢︑上花咲と下花咲︑

中初狩と下初狩とは夫々二宿で一宿分︑国領・下布田・上布図・下石原・上石原の五宿三宿分になってレる︒一目立β

(4)

高井戸宿にあっては月のうち上の一五日は下高井戸宿︑下の一五日は︑上高井戸宿で勤めることになっ

1

いたようであ

る︒一色功一一旬︒元締年間内藤一新宿が開かれるまで︑高井戸宿は甲州道中の首駅として江戸日本橋に直通しており︑日本

橋より下高井戸宿へ四皇︑上高井戸宿へ四皇十二丁で︑その人馬駄賃が両宿高札に掲げられていた︒

高井戸宿の助郷高'は﹁五駅便覧﹂に一二︑二五四石四斗と見えるが︑一六保以降幕末の頃即ち文久元年(一八六一﹀の

上下高井戸両宿助郷三十五ケ村惣高九︑二五四石に減少している︒時晴⁝諸制明街道をさしはさんで南北二組にわかれ

ていた︒南粗しは高二︑六四三石で︑喜多見村・世田谷村・経堂村・用賀村・上野毛村・下野毛村・岡本村・大蔵村・鎌

田村・瀬田村・岩戸村・猪方村の十二ケ村であり︑北組高六︑六一一石は入間村・北足立村・佐須村・柴崎村・深大寺

村・大町村・金子村・矢ケ崎村・上給村・下染谷村・北野村・西窪村・吉祥寺村・私庵村・関村・上仙川村・中仙川村

下仙川村・野川村・上連雀村・下遼雀村・境村・関前村の二三ケ村であった︒この両粗の勤役は

vB

の中

の一

O

日は南

組︑前後の二

O

日は北粗で勤める定めであった︒一町一拡散官

武州多摩郡関前村はこの北組に属

L

ていて︑当村の名主井口忠左衛門はこの上下高井戸両宿助郷三五ケ村の惣代とな

って

町︑助郷村々に関係する種々の問題そ取まとめ︑歎願︑訴訟︑連判︑請書等々の代行していることが見うけられるの

であ

る︒

寛保三年(一七四三)︑時の将軍嵐山御成に付いての人馬投の儀で急御用としての廻状が関前村を含めて四ケ村へき

たことである︒

(1

その内容は各名主宛に︑日時︑場所︑人馬数などを間違いなく召連れ参上するように︒というのであるが︑それは将

軍御成りではあり︑人馬触には特に徹底を期さんがため︑再三の触達があったものと察せられる︒即ちこの急御用廻状は如上の点を︑更に念のために出されたものであろうかとも思われる︒叉四ケ村への廻状ということは︑四ケ村吉祥寺

村・桧庵村・西久保村・関前村何れも近隣である故︑廻覧に便宜があること︒叉人馬触れの徹底を期す意味で各一村々

々に出すペきを︑四ケ村位にしたことは︑その手聞を省いたことにもなろう︒右の結果︑上下高井戸両宿助人馬触出しの村順が不同であることがわかり︑早速当局でそめ正常化に努力した︒依っ

て今回から改めて筆順の本末を判然とさせ︑各村の郷をも加筆するようにすること︒きすれば以後人馬め割賦も過不及

(5)

なく出来るのであるか‑らして︑左様心得る様にと︑延享元年(一七四四)に達している

O ( 2 )

これ以後出てくる文書の多くは︑この指示によって触出し︑村の郷名を附していることから︑さきの達しに対'して¥この度の方がよく実施されたのであろうか︒それに引続いて︑早速請書を差上げてレる︒即ち︑我々村々は前々より高井戸宿助郷に仰付られているが︑郷帳も無かったのを改められ︑今

回 ︑

稲生下野守︑水野対馬守両人の印形による・証文を拝見した︒それによると定めとふての宿高︑即ち︑一一五

疋に

二五

人'であって︑その外平生は百石について二疋宛︑高井戸宿より触次第勤めることに致します︒主ハの外特別の大通行にあっては︑百石当りの割合によって人馬を増すことにします︒尤もこの何れも宿役人︑助郷冶主連印の上で決定され ︑実行されるものであり︑この時になって不参加の者は曲事となふことを︑村々・名主・組頭一同は請証文を作って承知したのである︒

ところで延享五年(一七四八)五用︑

﹁人

馬相

勤候

定書

之事

﹂︑

(3

)

の中に︑具体的に人馬勤における人足︑馬︑才料︑名主の夫吠壱人一日の賃銭及び服装等宮規定している︒更に以上のようにして︑一応助郷人馬触出しは︑先規の通り代官によって行われ︑それについて備︑出銭ある‑一場合は︑村中立合を以‑て割合することの連判証文の請書をなしている︒す)叉寛延一

二年(

一七

O )

の﹁乍恐以書付奉御願上候﹂

0 ( 5

﹀をみると︑之等高井戸宿へ助入馬として差出した初めは︑宝永二年(一七

O

五)で甲府宰相(徳川綱重欺﹀の御家来衆が︑江戸表への引越し及び享保九年(一七二四)には同じく甲府勤番の引越に対する助郷人馬に差出した︒次いで元す

元年

(一

七一

三ハ)紀州侯の身延山語りの通行による人馬差出し等々︑叉延享元年(一七回目)道中奉行の村巡りのため︑上下高井戸両宿へ人馬勤に差出した︒ここにおいて当村は︑平生の往来にも入憶を高井戸宿に寄掛けていたので︑大変難儀をしたのである︒この故に︑今後は代官のお触れによって助人馬を差出すよう︐に︑改めて貰いたいとお願いをした︒因みに甲州道中は江戸白木橋を起点として︑江戸府内では︑内曲輪・八重州河岸通・外桜田・麹町通・四谷門・四谷伝馬町彊を経︑内藤新宿に至り︑これより府外に出て上下高井戸宿・布田五ケ宿・

府中

・八王子を経て甲府に達する三十四次でおって︑これから先韮崎・上諏訪を経て下諏訪で中仙道に合するようになっている︒甲府は幕府の甲州都代の所在地として重要地を占め︑更に信州伊那方面とも通心ていたから︑幕府役人や諸藩役人の交通に用いられていた︒よか

L

街道としては東海・中仙両道に比べて交通量も少く︑宿駅の設備も劣っていた︒甲州街道利用の諸大名も右両道に比べて少く︑参親交替に際しては東海道の一四

(6)

六家︑中仙道一二

O

家︑日光道中四家︑奥州道中三七家︑水戸道中二三家︑などに対して甲府道中は信州高嶋藩・岡高速

藩・同飯田蕃の三侯八万三千石に過ぎなかった︒一一側室にも係らず既にこの頃︑当上下高井戸宿助郷村々では︑相当

の負担であり難儀をしていたことが窺われる︒依ってこれ以上の課役は免除願うべく︑寛政十年(一七九八)に︑﹁差

上申御請書之事﹂

(6 )

の一札の中に次の様な趣旨内容を盛った形で願い出た︒即ち豊島郡一村︑多摩郡二ハケ村の村々

は︑他宿助郷と違レ︑高もたく平生から因っているところへもってきて︑年二百両増じたことは︑益よ難儀になってき

た︒そこで飯塚常之車代官支配の時︑高掛物としての菜種・大豆粕佐一

0

ヶ年間免除された︒本年(寛政十年)はその

年季明となるが︑現代官の野田文蔵に対して︑右の高掛りを今回より永久免除されるよう願い出た︒然るに永久免除は

難かしく︑次の一

0

ヶ年聞の免除となった︒関前村ではこの一

0

ヶ年免除の先規を﹁覚﹂にとり︑その特許ともいうべ

ぎ一

0

ヶ年免除の先規佐以て︑次の文政一一年(一八二八)から天保八年(一八三七)まで︑その年季明の︑天保九年

(一

三八)から弘化四年(一八四七)まゼ夫々一

0

ヶ年聞の免除を願い出て何れも聞届られている︒ここでは特に関

前村の特殊性を挙げていることは注意を要する︒このようにして︑助郷動を以て︑大きな楯にとり︑高掛り物その他の

課伎を免除又は軽減して貰うという︑歎願書や願書等を官に差出すことが盛んに行われた︒この事は単に当関前村のみ

ではなく︑各助郷村々夫々の特殊に応じて歎願し︑或る時は許可になり︑或る時比否となってしまったことが多々ある

ものと思われる︒四

時代は降って︑以上のような助郷村が︑幕末の多事多難と相侠って如何なる状態を来したかにつレての考察をしてみ

ると次の様である︒文久元年(一八六一)﹁取極儀定一札﹂では

(7

﹀甲州道中上下高井戸宿助郷南北両組の中︑北組て

三ケ村が相談し︑相

互に

この時局に対し鑑みて︑戒め合い助け合っていくならば︑官に歎願するにも好都合' で

ある

し︑

好結果を将来するとして︑取極議定を作成したのである︒即%︑近年甲州道中の諸家︑其の他の通行が急増してきたの

で︑かねてから人馬動方の相談を取きめ︑相互に心得て置かなければならないとして︑この際︑人馬の買い揚げ︑賃銭

の引き揚げ等によって︑勤を正しく守るように筒条書で認めたのであふ︒そしてこの議定書は各村々に持返り︑村役人

中より小前百姓一向に︑堅く守るよう心得を渡すことになった︒所請︑人馬賃銭の引揚げによって︑その動を帯りなく

(7)

出来るよう︑道中奉行へ再三願い出て︑今回漸く叶えられた次第である︒即ち︑人足は壱人に付銭二百五十文︑馬壱疋

に付銭六百文宛とし︑他の筒条も夫々その様に洛うて取極めたので︑よく心得べきであるとしている︒

然るに今度は上下高井戸宿の宿方で︑悲鳴を挙げ出した︒早速︑再度二三ケ村北組の村役人は︑その事情をよ︿極め

た結果︑次のような内容の歎願書を︑道中奉行所に差出したのであった︒(日)

( 1 )

近年︑西国・中国筋諸大名・家中衆D当道中通行による人馬動方が困窮したこと︒

( 2 )

武蔵野新田の地味悪しくして︑開発当初より夫金養料を官から受けていたこと︒

( 3 U

苗類の値上げは︑近年特に急増し︑年来の四倍強となったこと︒

( ⁝ 4 )

連年不作にして︑年貢の不納が続いたこと︒

( 5

﹀そのため︑雑穀・諸色の益よ高値となってきたこと︒

( 一

8 )

馬持百姓の飼料等の高値に付︑馬持の減退したこと︒

( 7 )

前述の議定による︑人馬賃銭の引き揚げも︑物価高値に付︑意味をなさなくなったこと︒

( 8 )

馬持は夫だ後日を案じて︑飼鳥を売払ってしまったこと︒

(g

u

拠ろなく︑二駄三駄曳を小車を求め︑駄賃による日雇いや︑その日の幽かな営みをするようになったこと︒

ハ叩)諸作︑蒔仕附や苗類の買入れ不行届のため︑秋作の実のりは成らなくなったこと︒

(円)眼前の村柄の立直りが見えないこと︒(ロ)小前百姓は︑如上の状態にある村柄にあって退転し︑このままでは亡村となる始末であること@

(悶)その上︑鷹場の御用・諸色は繁く︑叉近年厳重を極めてきたこと︒等々︑

そこで次の様な要旨の歎願書を作成したのである︒

( 1

﹀今後︑御朱印・御証文の御用荷物の他は︑三駄積の小車による継立を許可して貰いたいこと︒

2

)

西国・中国筋の諸大名・諸家中衆の当道中の通行を止めてほしいこと︒

3

)

このようなことからして︑御伝馬・人馬の動方を減じて頂きたいこと等を述べているのであって︑

問題が大きく︑近世農村生括を脅かしていたかが窺われるのである︒ 如何に此の

(8)

五ケ村

九ケ村

四十ケ村

二十二ケ村

五十

一ケ

二十五ケ村

次い

で︑

いる

ο(9

)

今回︑特に注目する点は動方に慎重を極めたものであって︑その中でも︑﹁

:・

助郷

高百

石 エ

一 付馬四疋ッ︑此分人足八

人ニ

替?

:一

h﹂とあり︑叉別紙議定にも︑﹁:・人足諸才領井助郷惣代板橋出動賃銀之義助郷惣代者一日人足三人分︑馬壱疋同断︑才領一日入足弐人分︑人足壱入者一日銀天分ツ︑︑村夫人足ハ人足質問断一式々﹂︒とあって︑夫々特別の助郷の人足賃銭を定めている︒

更に和宮様御下向に付︑如何程の人馬が使役されたかは︑甚だ興味ある問題であろう︒今設に犬凡︑その概略を述べると︑次の通りである' ︒

﹁和宮様御下向ニ付

中山道板橋宿江加助郷一条請向之写﹂ この年十一足︑和宮様淘降下による板橋加功郷人馬動方を仰付けられたことにより︑早速議定一札虐作って

和 宮 様

御下向之箭宿継人馬多入間左之村々中山道板橋宿迄当分助郷申付候条問屋方ぷ相触次第人馬遅参不致無滞差出相勤可申候尤当時年季休役中之八訂茂今般御用ヱ限リ是叉可相勤もの也

再 開 九 月 廿 五 日

隠 紋 御 印 武 州 新 同 州 豊 同 州 足 同 州 埼

同州多

同 州 荏

原 摩 玉 立 島 座 郡 郡 郡 郡 郡 郡

(9)

同 同

樹 築 橘 都

郡 郡

十二ケ村三ケ村

(武州多摩郡井口家文書)

チf'l州

右の文書中で板橋宿へ加助郷された村は都合一六七ケ村という規模の大主ぃ︑近郷村︑々の総動員である︒それがたとえ休役中であるにも係らず︑動員され動方されだ点に注目すべきである︒

初てミれら村・三大々の石高によりて︑人馬人足の平均割付をなし︑更に動方請印と共に︑その徹底方動員を計ってい

﹁和宮様御下向エ付御当日御継立入馬仕訳帳﹂(叩)によると︑実際には前述の動員村数よりも遥かに多くの村々が︑加 る ︒

助郷されていることがわかる︒左に表示してみると︑

多 豊 足 新 豊 宿 摩 嶋 立 座 嶋 郡 郡 郡 郡 郡

矢 代

y 々 道 小 板 口 木 合 樽 橋 惣

村 村 村 村 宿

十 十 十 ヰす

六 三 豆 七 三

ケ ク ケ ケ ケ村 村 村 村 村

埼 多 足 豊 多 宿 玉 摩 立 嶋 摩 郡 郡 郡 郡 郡 小 関 玄 元 鷺

林 前 審 郷 宮

村 村 村 村 村

十 十 十 八 二 五 一 七 九 村 村 村 村 村 村

(井口家文書)

控 一

人際の割当人足動員数はどうか︑右表中の多摩郡関前村惣代三十五ケ村を挙げてみると︑これは甲州道中の上下高井

戸両宿加助郷南北三十五ケ村の意であって︑当関前村名主井口忠左衛門がその惣代役であったことがわかる︒今その助

郷村

々の

村名・村

高・人 足・馬等を表にして︑次に掲げてみる︒

(10)

北 足 立 村 深 大 寺 村 大 町 村 金 子 村 北 野 村 西 吉 祥 寺 村

世田ヶ谷村

高(石)

一 四 七 五 八 二 二 三 一 四 一 八 一 一 二

三 一 二 二 八 七

0 0

九 九 二 三 二 五 三 一 一 四 四 六 八 七

O

O

三 八 七 二 四 五

O

三 三 五 九

人足

(人

三 九 六 ‑ ! 二 九 四 四 八 四 九 二八 二 三 五 )

O

O

O

四 四 四 七 三 八 六 八 八 八 五 四 五

馬(疋)

一 四 七 五

O

八 二 二 四 二

O

四 一 八

O

ー‑'二

大 蔵 村

r.. 

J

人足

(人

) 一 七 一 三 九 五 五 二 二 一 六 九 三 八 一 四 八 三 七 二 二 八 五 一 八 六 一 八 三 二 二 七 一 一 一 九 一

﹂ 六 六 七 二 ハ 三 九 八 八 七 六 二 一 五

六ニ

五一五

一 九 九

・ 五 二 二

OO

ごニ 二

一 二

OO

六六 二 九 五 六 四 二 三 八 五 三 九 ︑

二五

石一 こ ︑

O

三五

人 馬(疋)

(井口家文書に拠る)

一 二 三 三 六 一

0 0

O

一 三 一 二 一 一

0

一 疋

右表勘案の結果︑凡そ石高凹・五石に付一

人の人足であり︑同じく

一一回石に付馬壱疋の割合となる︒このように毘

大な人馬の動員がなされたわけで︑右助郷村三十五ケ

村のそれ

は︑笑に高九︑二五回石︑人足二︑

O

三五人︑馬八

一疋

(11)

Jうのであって︑これを前記板橋宿加助郷一二八ケ村に換算してみると︑略︑高井戸宿南北助郷三十五ケ村の六倍の

石高にして

五五

︑五二回石︒人足一

二 ︑

一二

O

人︒馬四八六疋となり︑これが中仙道中板橋宿一駅のみであり︑中仙道

六七宿あるからして︑さきの板橋宿動員数の凡そ六十七倍となる︒以て如何にこの度の和宮御下向のよってくる︑助郷

動員が毘大且前例のない事件であるということが出来るのである︒ー倫この度の助郷動員を一村内では︑如何なる状態となるかを見ょう︒

武州多摩郡関前村の文久度における軒数は︑凡そ五四軒で︑石高は二三八石であった︒右の石高に対する割当人足は

五三人である・からして︑路︑当村各戸総出で勤方をせねばならぬ勘定となる︒その上︑馬二疋の動員である︒馬壱疋に

付いて人足馬士二人つくとして︑結局︑人日比都合五七人ということになり︑少くとも各軒別に一人は動員され︑倫この

度の加助郷に二回宛出勤するものも出てくるわけである︒叉当村名主は︑甲州道中上下高井戸宿助郷三五ケ村惣代と七

て︑宰配することになっているので︑その分が更に加担されなければならない︒一農村にとってみても︑容易ならざる

事態というべきであろう︒

次いで元治元年(一八六回)八且︑

海道の交通は繁くなってきた︒即ち︑

動員されたのである︒

﹁品

川宿

t雇人馬一件歎願品々控﹂ 史上著者なる将軍家茂の長州征伐々ある︒この布令と共に︑甲州道中は勿論︑東次の様な蝕警が元治元年十且廿九日に︑東海道品川宿への加助郷が︑これら一円

(井

口家

文書

﹀ 今般

御進発ニ付御用継立を始御供役々多人数通行東海道品川宿継立人馬不足ニ付同宿役役人共ぷ対談次第御進発御用之継

立エ限リ相当之賃銭請取之人馬無滞差出御差支不相戎様遂一示談可取斗もの也

子 十 周 廿 九 日

イ左出 渡雲 印 印

(両人道中奉行所)

(12)

として︑次の村々が御定助郷の触出となった︒

花 原 則 郁

三十

九ケ村

多 摩 郡 九 十 一 ケ 村 豊 島 郡 七 ケ 村 都 合 百 三 十 七 ケ 村

角川崎宿より触流し村数は百二十八ケ村となっており朗幹味略品川宿助郷触出し村数と同様に近いことがわかるし︑

今回の助郷動員は前回の和宮様御降下の際における助郷動員に次ぐ隠大なものであること︒

そこで早速甲州道中上下高井戸両宿定助郷三十五ケ村中の北組二十三ケ村は︑今回の品川宿助郷人馬の免除願をべ道

中奉行所に村役人連印のもとに差出したのである︒(日)

その要旨とするところ次の様である︒

1

)

当北組村々は︑御鷹場内であって︑御成御用人足が最近繁く︑叉厳しさを増したこと︒

2

)

武蔵野新田村・々としては︑一帯に薄地であって︑作柄は悪しく︑連年の不作が崇って︑小前百姓は塗炭の苦し

みをじていること︒

( 3

﹀甲州道中の交通が頻繁となり︑そのための助郷伝馬投郎過震になってきたこと︒

4

)

御栗林御用地内にして︑根附・世話の御用役が増してきたこと︒

5

)

之に加うるに︑文久元年の和宮様押下向の節)村を挙げて之に勤方をしたこと︒

8

)

更に本年は︑品川宿迄︑是叉加助郷に出るということは︑何んとしても難渋に付︑御免除願いたいこと︒

等々であって︑如何に加助郷の依ってくる村全体に及ぼす︑影響の大なるかを物語るものである︒

この歎願書は結局︑国家有事の際であり︑容易ならざる事として聞届られなかったのそこで一応は引下るのが常道で

あろうが︑何んとしても今度許りは是が非でも免除願うべく︑多数の村々でいけなければ︑小数の村でそれこそ個々の

事由

を述

︑ヘ

て認

めて貰おうと執拘に︑官に対し願い出た︒所謂︑今後共東海道筋当分助郷御免除願書(日)を再度︑道中

奉行所へ差出したのであった︒それには︑前述の如く︑各個々の村の特殊事情を述べて︑その真意を是非聞届けて貰う

同 同 武

1

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M

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(13)

ぺく︑武州多摩郡関前村外︑上連雀村・柴崎村・下仙川村・井口新田・野崎新田の六ケ村は︑夫々自分の村の事由を述 べ免除願うべく︑関前村名主井口忠左衛門を惣代役と立てて︑歎願書なる一連の長文ーを託したのである1この事からし

てみても︑当時如何に村々が切実に塗炭の苦しみを嘗めえいたかが促けるのであるが︑今︑その要旨を箇条書で一万し︑

一層の深味をみよう︒然し乍ら︑六ケ村全部は到底長文すぎるので多摩郡関前村一村のみの要旨そ筒条警にして掲げる

ごと

とす

る︒

( 1 )

当村高二三八石四斗八升九ム口の中︑二一二八石は︑甲州道中上下高井戸両宿定助郷であること︒

2

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然るに︑今回川崎宿投入の改高当村は︑四三四石余となってしる︒このうち︑新田一九四石六斗五升三合を込

高とされてレる︒

新田の儀は検地以来︑年貢割附も別々にして︑養料金割渡しが無い時は相続出来難い土地柄であること︒

徳川八代将軍吉宗の台命による︑十町余の反歩が御栗林となり︑粟笑そ上納させられること︒叉それに要する

諸人足も彩しいこと︒

当村は叉御鷹場内にて︑御成御用御場静︑勢子・九日比・鷹餌の虫類等々の徴逮で︑既に当村内は取り尽

L

︑こ

のため︑二︑三里の外まで尋ね掠方をしなければならないこと︒

玉川御上水取入口︑羽村の水元押見分御用︑普語奉行・問心衆の通行は︑繁くして当村はモの継立場として︑

その賄料知莫大となり︑明和八年(一七七一)には︑これら賄料を隣村二・三ケ村で助合せ償うこととなっ

た慶応元年(一八六五)五月中︑将軍御進発に際しては︑村高新田込高四三四石余め中︑九分通り馬一二七石余の分を割渡し︑品川宿へ増助郷仰付けられたこと︒

去る

三用︑王子滝野川村地内へ反射炉附産水車佐作ったが︑当村地内キ川堀用水縁の土地築きに対する︑普請

奉行・勘定奉行及びその家中衆の御見八貯があり︑新規堀割普請っ普請場の勘定役・大砲方反射炉掛りその他の

掛り符人衆の千川堀筋の見分

︒ 山

川六里の道法の水路御見分廻り投入品問中の︑当村へ時々一再々の休泊︑荷物継立

を始め諸賄レを負担したこと︒

3

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( 4 )  

( 5

6

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( 8 )  

(14)

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(叩

)

武蔵野新田は殆んど皆畑にて︑薄地の土地柄引九何れの宿方へも︑助郷は勤めることが出来ぬこと︒

当村太田は︑従来の定加助郷で大へん難儀している︒よって人馬平均割談判中︑折柄︑西国・中国筋の諸大名

家中衆が多人数運行が繁しく︑上下高井戸両宿の継立も摘々︐増し︑難渋も嵩んできたこと︒

古今稀れなる諸色高値となり︑蒔作付の苗類肥物は施入出来ず︑小前百姓はその日の夫食にも事欠く仕末であ

ヲ匂

こと

馬持は売払い︑質地差入れ︑地借融通も次第に困難になってきたこと︒

以後継立は三駄積の小車を許可されたいことっ道中通行の中止願は難かしく︑踊主嵩んできたこと︒

元治元年(一八六回)十一月中︑甲府表へ犬拍及び玉鉄砲︑甲府勤番警衛の投方︑掛り投入衆中供揃い多人数に及び︑この人足勤九千余人3八王子千人隊衆等冷其外諸荷物の遺払をし牝こと︒十一月廿二日より晦日盗︑定助郷一同十五才以上六十才以下︑残らず宿方へ詰切り︑昼夜の差別なく継立をし

たこ

と︒

慶応元年四月中︑八王子千人衆大勢目黒の駒場で︑御成調練の度々住返したこと︒

同年五周八日ヱり十日夜造︑右千人衆・御頭衆犬勢が御進発供御用として遁行︑前同様人馬詰切昼夜継立︑この人足五千人余勤めたこと︒

同年十二月廿三日より廿六日迄︑甲府警衛御用火砲・弾薬等々多数︑是叉助郷人篤詩句昼夜継立︑この遣払い人足五千人余り勤めたこと︒

臨時の継立によって︑悉く之等村々が疲弊困慣がその極に達したことυ

当村四十一軒で人数一九五人の中︑村役人・僧︑老幼・病身・女・地所奉公人を除くと︑定助郷に勤める壮青年は︑僅に十八大に馬壱疋とてもないこと︒

右様の大通行の節は︑人馬差支えるため手空きの村々の代助郷により︑休校を願い出たわけである︒

中古る慶応元年四月︑定助郷の中︑多摩郡吉祥寺村八七四石は︑千駄ヶ谷煙硝蔵警衝に当り︑その故を以て助郷免

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由︒

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(15)

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ペ幻)叉惣助郷の余荷は勤込になるため︑繭々極窮に陥っていたこと︒

以上のような種代の悪条件を理由として︑川崎宿への人馬勤は出来かねるし︑叉出来る力も無い次第である︒何れに

しても当村は上下を問わず難渋しているので︑表記の東海道筋当分の間助郷の免除︑を願ったわけである︒筒︑関前村に

引続いて上連雀村・柴崎村・下仙川村・野崎村・井口新田の各村々も︑夫々の角度から免除され得る条件を︑一切漏ら

さず歎願しているのである︒

以上の経緯によって︑天領下における甲州道中高井戸宿︑助郷村と工ての一農村をとりまく︑之等助郷の奈辺なるか

が︑略︑察せられるのであって︑この事が他の宿助郷村におい♂も言えるのではなかろうか︒叉徳川封建時代金期をd遇して共通していることは︑何事においても出発当初の趣旨は順調だし︑結構であるもの知幕末へくると暫時︑責租・物

価の高値・土地の薄帯が累積し︑中でもこの助郷の負担過重こそは︑最小自治体としての村負担能力め︑最安︑極限を突破していく傾向が顕著に現われたことは大きく注目すべきである︒

資料・註(武州多摩郡関前村井口忠左衛門所蔵﹀

一 託

( 1 )

急御用廻状ハ覚保三年歎)

( 2 )

差上申御誇室田之事延亨元年

(3

﹀人馬相勤侯定書之事延亭五年

( 4 )

連判詩書之事覚延二年

(5

﹀乍恐以書付奉御願上侯寛延三年

( 6 )

差上申御誇書之事寛政十年

( 7 )

取極議定一札之事交久元年

( 8 )

御伝馬人馬滅γ

勤 歎 願 書 控 文 久 元 年

9

V 和宮様御下向ニ付文久元年板橋加助郷人馬動方議定

(m

v 和宮様御下向ニ付御当日御継立人馬仕訳帳板橋宿交久元年 (日)乍怒以書付奉歎願候元治元年

(16)

(昭)東海道筋当分助郷御免除原 資料武州多摩郡関前井口家文書

急御用

( 1 )

廻状吉祥寺村納

明後十八日臨時嵐山へ御成候問先達書付相渡通人足馬制限並場所共‑一無間違召連可被参候以上

亥ノ(寛保三年歎)伊奈半左衛門内

三 月 十 六 日

中刻 惣代願書之盤慶応二年

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民E

藤 左 衛 門 平

川 藤 左 衛 門 印 横 井 太 介 印 高 野 新 八 回 小 林 藤 五 郎 印 村 田 村 田

右 名 主 中

追而此廻状次第相廻し尤村下一一印形いたし留ぷ可相返候以上

関 西 松 音 久 祥 前 庵

保 寺 (2

上下高井戸宿助人馬触出し之村順不同一一而再三におよか候村方茂有之侯一一付今般改之上再以触之村方者筆順之末相立三度一一お

よか侯分敷置を加助人馬触出γ村之郷を記し為持置関宿人馬‑一て不足之節者凶帳面ヲ以不向無之様助人馬相触度ニ宿役人助郷名

主印形致し百石当りも甲乙無之可差出侯其度之御代官所在可申出者也右村方不順無之様割合可申候若費之人馬触出し狼成仰付於

有 之 者 可 為 曲 事 候 以 上 延 亨 元 子 年 水 対 馬 印

稲下野御印

ノ、

(17)

差上

申御

請幸

一国

之事

一︑拙者共村々前々ぷ高井戸宿助郷一六彼仰付所助郷村郷帳茂無之不同成義有之侯一一付猶叉出度御改之上稲生下野守様水野対馬守様

御速印之御証交を以被仰付候所口御郷帳之趣拝見奉畏候自今御定之宿高弐拾五疋弐捨五大相立候外者平生百石弐疋当り之積りを以

高井戸宿人馬相触次第無滞御伝馬役相勤可申候其外格別之大通行之人馬割増等有之候節者百石当日之割合之上届人馬差出シ可申候

尤其度々宿役人助郷名主印形致置可申侯然上者致不参御伝馬御用相滞候ハハ御吟味之上如何様之曲事‑一茂可被仰付侯為御誇助郷村

々名︑王組頭速判在交差上申候以上

延享元年子八月

( 5 )

話人馬相勤候定書之事

︑ 人 足 壱 人 但 一 日 賃 銭 百 五 拾 交

右賃銭之内ニ而才覚仕候品裳笠割籍小遣等自分人用ニ而相勤申侯

︑ 馬 壱 疋 但 一 日 賃 銭 三 百 五 拾 交

右賃銭之入‑一而才覚仕候品裳笠割錯小遣等弁飼馬桶等自分入用二而相勤可申候

て 才 料 壱 人 但 一 日 賃 銭 弐 百 五 拾 文

右賃銭之内ニ而才覚仕候品笠ムロ羽割籍股引やたて小遣等自分入用‑一而相勤可申候

︑ 名 主 壱 人 但 一 日 遣 銭 三 百 五 拾 文

右遺銭之内‑一而才覚仕候品笠合羽股引草鮭懸半てん羽織やたて割錆わん壱兵小遣等自分入周一一而相勤可申侯

右給物之分井馬飼領賄方λO指出し可被申候動方之儀随分大切

‑ 一 仕

御用無滞御役人弁名主才料御差図次第急度相勤可申候以上

延 享 五 年 辰 五 月 才 料 藤 右 衛 門 印

伝 主 平 助 回 人 足 圧 門 印 人 足 平 門 田 人 足 金 門 印 人 足 小 衛 印 伝 主 杢 門 印 馬 馬

右 衛 左 衛 右 兵 衛 右 衛

(18)

多 聾

共村後以年指出‑、 d震人官様ー、

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摩 嶋

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(19)

六六 日飯塚常之丞様御支配之節高掛D菜種大豆免除相顔去ル申ぷ去巴迄拾ヶ年免除彼仰付当午年季明ケニ付石高掛D永久免除被仰付旨

奉願上侯処永久免除之儀ハ難被仰付旨被仰渡御吟味之上当午ぷ卯迄拾ヶ年免除に付被成下候処今般御伺之通

η J菜種大豆当午ぷ卯迄

拾ヶ年免除御下知相済候段被仰渡一同難有承知仕候依之御誇臼形差上候如件

寛政十牛年十一月

野 田 文 蔵

御 様

役 所

( 7 )

取極議定

一札 之事

甲州道中上下高井戸宿定助郷北組弐拾三ケ村之義近年諸家様方其外共追え御通行相増候‑一付兼而人馬動方等取極可致心得之処尚

今般紀伊様御家中衆去申ぷ巴迄拾ク年之間二・三・囚弁入・九月年々六ヶ月

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一日人足三十八人馬拾三疋融通遺之義道中御奉

行所様御聞届之旨宿々ぷ御誇書差上候義一一付而ハ助郷村々之義是迄之通相心得人馬速不参叉者買上等いたし候雨戸継立御用御差変

‑一 付巳 来買 揚賃 銭引 上候 戸山 人馬 正勤 一一 可相 成義 一一 付今 般右 之通

Dケ条ヲ以説定取扱申候

一︑人馬買上賃銭之義人足壱人z付銭弐百五拾文馬壱疋ニ付銭六百文宛御役所迄巳来差出可申候事

附且也迄ハ助郷人馬宿江買上銭相渡叉者買上銭ヲ以人足同士相対一一而宿人馬等相雇候様有之間取違御座候間右者以来聞キ相成不

畠・

候事

一︑村々触当人馬之内壱人壱疋成共不参致可もの有之候村万江ム早速人足便ヲ以其村方役人江申遺為返怠其当人ぷ人足壱人二付金

壱朱馬壱疋ニ付金弐朱ヅツ村役人ぷ取替差出可申事

附差懸B急触村之義九人馬関ニム口急候場も有之候閉路不足之義ハ無不及事

一︑ 人馬

動方平均勘定之義人足之義ハ是迄之通壱人ハ壱人馬壱疋者壱疋弐ト五厘之割合ヲ以己来平均

勘定

一一

相成

可申候事一︑留人馬之義村々ニ寄難渋申候村方有之義候得共右者御継荷物迄貫目叉者当日差懸D御先触有之候分一一差支候関村々一同留人馬

之義難渋不申無差支相勤可申侯事

附御継立刻限後レ夜中

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相成

候共是叉前同様相勤候事

て大通行二而助郷人馬惣触ニ相候上猶

紀伊様御定中人馬融通遺急御通行御先触等有之候九九前触当之外人馬再触状差出候共触当通無遅滞急度人馬差出可申候事

(20)

一︑宿諸人馬触等之義二刻限付状‑一認メ差出侯間村々=而も割付ヲ以申侯継立刻限通日無相違人馬詰致可申侯事

右之通ヨ今般村々役人一同立会取極候処相違無之依而老村立役人中ぷ小前一同江堅ク相心得侯処申渡毎村銘々小前連印議定取極置

旦往還諸継荷物附卸取扱方等迄厚相心得廉答間違無之様是叉申渡取究置可申候依之左之通D議定違印致置侯処為後日の如件

甲州道中上下高井戸宿

定助郷

北組弐拾三ケ村

役人達印 文久元酉年三月四日

( 8 )  

御伝馬人馬減し勤歎願書控

甲州道中

上下高井戸宿定助郷北組

弐拾三ケ村惣代之内

関前忠左衛門取持

乍恐以書付奉歎願侯

甲州道中上高井宵下高井戸両宿定助郷之内御料私領銘ぞ弐拾三ケ村役人惣代武州多摩郡関前村名主忠左衛門外壱人奉申土俵右弐

ケ宿定助郷高九千弐拾石右之内高弐千六百三拾七石ハ同郡世田ヶ谷村外拾壱ケ村ニ而南組与唱高六千三百八拾三石ハ私共弐拾三ケ

村ニ而北組与唱承諾之上月々日数九日者南組日数二十一日者北組与御伝馬役引分ケ相勤来候処去ル文化度宿方難渋一一付御定

馬之内余荷相勤呉候様助郷江相頼︑︑︑候其節双方相談之上宿物立直D候迄御定人馬式袷五人弐拾五疋之内六人三疋八疋図引去残弐拾

九人弐拾弐疋内拾弐人八疋宿方‑一而立払七人拾四疋助郷エ而余荷相勤被在候処天保九成年中源谷遠江守様道中御奉行御勤役中右余

荷休役奉額上同十三寅年正月より御定人馬不残宿方一一而立払罷在候処弘化二巳年年四月中久須美佐渡守様道中御奉行御勤役之節同

年五月ぷ去申四月迄中拾五ヶ年之間御定人馬之内四人四疋ハ上保谷村外六ケ村江増助郷七人拾疋ハ助郷村々江余荷動被仰付去申年

四月中年季明ニ一相成侯得共今以宿方相続仕法不相定難渋之旨申しニ付宿助郷之間物難獣止猶叉同九月︐d来ル成四月迄中拾ヶ年之間

馬拾疋助郷ニ而余荷可遺旨聞呉いたし御国恩を相弁相対ヲ以余荷之儀取極メ尤助郷村々連友之難渋余荷ニ付今般ヲ限以来助郷迄余

荷動申入間敷候答設定為取替御継立御差支無之様大切一一相勤罷在候然ル処去申年九月中紀州御役人中様方御通行被遊侯一一付文政

(21)

六八

十二丑年九月中拾ヶ年季彼仰付候振ムロを以改而当申ぷ来ル己迄拾ヶ年之間二・三・四並八・九・十月都合六ヶ月者一日人足三拾

八人馬拾三疋之積人馬融通遺之儀御開届一一相成宿ぷ御詩書奉差上候段承知仕元来私共弐拾三ケ村之義ハ

御鷹場村々ニ而

御成御用駒場原御場持井勢子御用人足高田中野筋御場搾御用人足御道具持出シ持返御焚出し御賦人足両御丸様御小納戸御広敷御膳

所御用杉之葉松桃之葉接虫海老蔓虫松虫鈴虫其ノ外虫類採草類御用御上納彼仰付来侯処近年別而右諸御用相増其上御上納口問向持方御撰立厳重ニ相成右品々先々︐

AO

村々軒別二一収集方市触来候処追々御場内ニ右口間取尽し払底‑一相成御場外弐塁三里相隔侯場所迄

一同相郡ユ罷越持立仕御鷹野御役所迄御上納被仰付石持送D御用人足等感敷右様品々重々役相勤其上西国中国筋御大名薩州様

態本様福岡様柳川様芸州様長州様因州様雲州様佐賀様岡山様津山様福井様久留米様平宵様秋月様淀様小城様箆嶋様岡山新田様其外

諸御中衆先前当道中御通行ニ無之処近年多分御往返有之亦増助郷人馬勤方相筈困窮‑一陥加之北組私共弐拾一子グ村者武蔵野新田続至

而地味悪敷薄地団地少難渋之土地物諸作物別而薗肥等養入不用候而ハ収納無之殊一一御府内手懸之場所一一而下菌等相用候もの稀‑一有

之大体糖灰メ粕魁油絞粕等専一之菌類一一相用候儀之処近年追々右口問々直段引上ケ以前之四倍増之相場‑一相成侯一一付連年作附菌養方

不行届殊更引続不湯産物諸作損毛務敷年貢弁納難渋之役柄雑穀者舎高価‑一相成泰三小順口品払底故之義一一而銘々当春村々雑穀夫金

融通

いた

しム

口目

D仕侯処麦作取入迄日数三十日余も引足不申当日営兼侯もの不少殊一一近年馬持百姓追々相減候一一付御伝馬人馬動

方差支助郷一同別段議定取極等いたし侯得共猶当節諸色高直之場一一至日漣も麦得大豆等馬飼料一一可相成候程之品笑以可買求手当無

之馬持百姓ハ馬飼相成侯而ハ銘々後日を案夫々所持‑一飼馬兎払無拠弐駄翠三駄曳等之小車ヲ相求駄賃稼或ハ日雇口子稼等之価を以

当日幽一一一軸営いたし逼迫困窮之中当諸作蒔仕附菌類買入不行届自然秋作塾笑不相成候ハ眼前村柄立直日一候義ハ勿論馬持育姓相続可出来形無御座必至与当惑之余日北組私共村々一同相談仕侯処一一麻上下高井戸両宿前後宿江ハ道筋平地流川無之往還‑

一付御朱回御

証文御乗掛御荷物之外駄荷御荷物継立方二入駄三駄積之小車補翠御継立可仕外手段無之左侯ハハ少々人馬之助一一も相成附卸等弁利宜敷是ハ前類紀州御役人中様御通行人馬融通遺被仰付宿方御定人馬之内余荷年季中努以西国中国筋御大名著家様方御家中衆多分

之御通行ニ付御伝馬動方而己二打込大小之百姓農事相続相成兼候程之儀法侭‑一而ハ可及潰退転様成行不懸亡村之基与一同深グ相歎心痛罷在何共欽敷家存侯閣不顧恐多御愁訴奉申上侯何卒以

御憐感前室田極窮重々役難渋之始末御賢察被成下西国中国筋諸家御大名様方御家来衆当道中御通行不被物之分以来小車ヲ以御継立栢成侯様被仰付被下置度車中願上侯

右願之通御簡済被成下置侯ハハ村々一同相助広大之 遊上下高井戸両宿馬附御荷

(22)

御慈悲与難有仕ムロ奉存候以上

州 道 中 上 高 井 戸 宿 下 高 井 戸 宿

右両宿定助郷之内

竹垣三右衛門御代官所

武 州 多 摩 郡 御代官所

村越豊

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助知行所

伊賀者給地

飯高主計知行所

石 谷 帯 万

中川主税知行所

佐橋満三郎

関 前 村

1 1 1  

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上 松 酋 境 下 大 中 野

連 仙町 川l

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村 村 村 村 村 村 村 村

給 庵 窪

(23)

文久元酉年四月

同 州 同

佐橋満三郎知行所

同 州 同 郡

竹蹟三右衛門御代官所

同 州 豊 嶋 郡 関 右弐拾三ケ村役人惣代 村 右 上 仙 川 村 年 寄 忠 関 前 村 名 主 忠

道中

御 奉 行 所 様

F

(9

和宮様御下向ニ付

板橋加助郷人馬動方議定

文久元子年十一月

議定一札之事

民度中山道笛

和宮様御下向ニ付板橋宿迄当分加助郷被仰付

一︑同承知事中長候依而考右宿ぷ人馬触当次第無遅不参村役人附添急度差出可申侯事

一︑人足馬土之もの共喧嘩口論ハ不及申惣而物騒敷義聞而為致申間敷侯事

て御荷物大切=仕御宰領衆中之従下旬一一不敬我卒成義是叉聞而仕間敷候様其村々役人共ぷ堅グ可申候事

一︑助郷村々一同申合楽一一陸敷世話いたしムロ御用御差支無之様精々可申付侯事

一︑助郷高百石ニ付馬四疋ツツ此分人足八人‑一替リ十二日夕板橋宿揃十三日動御用相済侯上無刻札引戻し同所江相揃猶叉十三日詰

之分江加日差当可致侯事 多摩郡関前村同新田

(24)

附リ人馬触之分前度触来日侯筈一一付馬触之義難斗侯事

一︑吉助加助郷共高官石二付御当人足弐拾弐人馬壱疋ヴツハ前の日十三日夕七ツ時板橋宿差当十五日御用勤之事一︑高井戸宿助郷村々壱ケ村ニ付険壱本宛目印ニ建其機ヲ不離深層可申侯事

一︑人足馬士弁当飼料等之義ハ其村限D銘々持参為致縦令四五

ニ相

成侯共飯湯不致様村役人共厚世話可致侯事

右之条々急度相守可申侯若相背侯もの有之侯ハハ何様一一も御申笠被成候共一一言申閣敷侯依而連印如件

文 久 元 子 年 寸 一 月 九 日 高 井 戸 宿 助 郷

村 々 役 人 連 印

前中略

先般和

宮 様御下匂ニ付御当日御継立人馬遺払高御取調二

一 付

書面之通リ奉書上候処相違無御座侯尤御家来末々之御方迄何‑一而も御非分成

義無之人馬継立方其外費相立不申宿助郷共一同難有仕合奉存

候依

之申上候以上

竹垣三右衛門御代官所

武州豊嶋郡板橋宿問屋同

年 寄 年 寄

右宿助郷四拾九ケ村惣代

竹垣三右衛門御代官所

武州多摩郡下鷺宮村

名 主

( 叩

和宮様御下向エ付御当日

御継立人馬仕訳帳

宿

左 衛 門 喜 平 次 市 郎 左 衛 門

£土,

.~コ

(25)

右宿定加助郷七ケ村惣代

米津翁助領方

武州新座郡小樽村

右宿新助郷七ケ村惣代

小林藤之助御代官所

武州

曲目

且嶋

郡元

郷村

同拾五ケ村惣代

竹垣三右衛門御代官所

武州足立郡道合村

同拾壱ケ村惣代

竹垣三右衛門御代官所

武州足立郡玄蕃村

同三拾三ケ村惣代

小林藤之助御代官所

同州豊嶋郡代々木村

同三拾五ケ村惣代

竹垣三右衛門御代官所

問州多摩郡関前村

主 寄

文 鉄

左 右

E

門 衛

(26)

同三拾六ケ村惣代

同御代官所

問州問郡矢之口村

同弐姶弐ケ村惣代

同御代官所

同州埼玉郡小林村

伝 之

道中御取締掛F

御役人中様 同三ケ村惣代

竹垣三右衛門御代官所

武州豊嶋郡上板橋宿

百姓代

六 郎 左 衛 門

前分

( 口 ) 乍 恐 以 書 付 奉 歎 願 侯

武州多摩一郡左之村々役人共奉申上候私共村々之義者甲州道中上下高井戸両宿江先々ぷ定助郷相勤来候村方一一而北組与唱ひ候村々‑一御座候処右村々之儀者

御鷹場二而御成御用御場持御用人足御道具持出し持返し御賦御茶番御用人足御鷹野御役所御用虫類採草類松杉桃之葉御用持立持送D人足御提飼御用非常兵線御焚出し御用人足其外御家様御家来様方御通行多御変革其外所々御国御用御役人様方殊一一当節者猶以甲州辺江鉄砲押移右追付御防禦御用として

御室役様御役hk様方御通行昼夜格外之人馬触当高一一相成農業営方ニ而も差支実以高井戸宿江助郷相動候斗一一而も相勤兼法侭‑一而者

御伝馬御用而巴‑一打込住々百姓潰及退転候外いたし方無之一体麻疹巴来村々人少‑一一相成不夫耳薄地難渋之村々一二問諸作物肥類養之

力二町収納仕候村々之所近年古来稀之菌物高直‑一而近々作付‑一疲レ諸物収納薄‑一一相成候段馬持百姓相滅シ候‑一付既‑一去ル酉年中酒

井隠岐守様道中御奉行所御勤役中馬附荷物之分弐駄積三駄積之大七直ヲ以御総立被仰付度奉歎願候処顎之通リ被仰付御継立相勤候

(27)

種之村々旦左之村々之内一一市覚東村野崎村之義者前同様御鷹場御用其外相勤侯処今砂内藤新宿ぷ助郷差村被仰付関前新国境新田井口新田三ケ村之義者武蔵野新回二御座候処向新田之内‑一

而も外新田与違ひ是叉同様御鷲場御用者勿論御栗林御用者根附村々にて別段御用相勤府中御前栽御用等品々別紙高害帳︑江も訳書

仕侯通之村々

今般御進発御用物を姶御役々様方御多人数御通行被遊侯一一付口問川宿江雇人馬相当之賃銭請取右宿役人共江可及対談旨御触書之趣承知奉

畏侯得共前段奉申上侯通リ之村々ニ付此上品川宿江雇人馬及対談侯而も品川高井一戸両宿御継立一追々相心高候而者御用御差支可相

成奉恐入侯義ニ付不顔恐多比段奉歎願侯何卒以

淘慈悲前段始末御賢察被成下置品川宿江雇人馬差出候儀御免除被成下置度奉額上侯以上

元 治 元 子 年 十 一 月 松 村 忠 四 郎 御 代 官 所

武州多摩郡北野村

兼 帯 名 主 清 右 衛 門

外弐拾三ケ村連名ハ略﹀

(M東海道筋当分助郷御免除願

惣代願書之控多摩郡関前村 慶 応 二 寅 年 外 五 ケ 村 惣 代 右 関 前 忠 左

乍恐以書付奉歎願侯

甲州道中

上下

高井

一円

両宿

定助郷武州多摩郡関前村上連雀村柴崎村下仙川村井同郡井口新田野崎村右六ケ村小前役人惣代関前村名

主忠左衛門奉申上侯近来御用御旅行弁務通行共差遣人

馬不

足‑

一付

関前

村者東海道川崎宿立会之内因之分引者残七拾人八拾疋之三ト

通日上連雀村柴崎村下仙川村三ケ村者同道中口問川宿当分助郷諸引残高三ト通D野崎村者向宿迄村高五ト通D井口新田者同道中保土

ヶ谷宿当分助郷お高五ト通H猶口問川宿迄五ト通当寅二月ぷ相勤旨御印状頂戴拝見奉恐縮村々難渋困窮有今般之儀

一一

候得

共別

村高懸D重々役之次第逸々左‑一奉申上候(以下略)

参照

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