カ ノ ッ サ 像 転 換 の 可 能 性
'
井 上 雅 夫
三 前章
で見 たよ うに
︑ト リブ ール 会議 以前 に︑ フリ ート によ れば
︑か の三 人の 仲介 者の 調停 は成 功し
︑ハ イン リヒ と グ レゴ リウ スの 和解 への 協定 は成 立し てい た!
︒ ハイ ンリ ヒは
︑既 に夏 に悔 悛と グ レ ゴ リウ ス と の平 和 協 定の 締 結 の 用 意を 示し てお り︑ 注目 すべ きこ とは
︑王 はト リブ ール 会議 の時 には じめ て︑ 悔悛 や和 解へ の方 向に 強い られ たの で は なか った こと であ る"
︒ この 会議 も和 解の 方向 で終 了し たし
︑王 が会 議終 了 後 に シュ パ イ アー に 引 きこ も り
︑し ば ら くそ れも 六週 間ほ ども 悔悛 者の よう な生 活を した こと は︑ 右の 和解 の動 きに 応じ るも ので あり
︑逆 にこ の動 きを 立 証 する もの と言 えよ う#
︒ 反王 派諸 侯の 中で
︑穏 健派 が多 数派 を占 めて いた と見 られ
$
︑ト リブ ール 会議 も結 局こ の方 向 で動 く こ と にな
り%
︑ 実 際こ れが グレ ゴリ ウス との 和解 を打 ち出 した ハイ ンリ ヒの かの
﹁約 束﹂ によ って 明ら かに なる ので ある
︒た だこ の
﹁約 束﹂ は 既述 の よ うに
︑ハ イ ン リ ヒ自 身 に も行 動 の 自由 を 残 す 曖昧 な 表 現の 中 で 法王 と の 和 解を 約 束 し た も の で
︑ そ の具 体的 な和 解の 日時 や場 所を
︑少 なく とも 特に 急進 派に 対し ては 明ら か に し てい な か った と 考 えら れ る&
︒フ リ
― 521 ―
ー トは
︑か の和 解の 協定 では
︑平 和の ため の会 議の 日時 と場 所は 未定 であ っ た と して い る が!
︑ 一方 で 法 王の ド イ ツ へ の旅 の決 心は
︑既 に一
〇七 六年 九月 のウ ルム の会 議で 確定 して いた とし
"
︑既 述 の よ うに 法 王 はド イ ツ から の 使 者 が 来る 前 に
︑既 に その 旅 に 出発 し て いた か
︑準 備 を して い た と見 て い るの で あ る から
#
︑こ の 見 方が 正 し い のな ら
︑ 法 王は かの 会議 の日 時も 場所 は決 まっ てい たが ゆえ に︑ 会議 に向 けて 出発 した と見 られ るの であ る︒ いや たと え法 王 が 早く 出発 して いな くて も︑ 日時 や場 所が 決ま って いた であ ろう
︒ この 旅に 関連 して フリ ート は︑ グレ ゴリ ウス が﹁ ドイ ツの 忠実 な人 々﹂ に宛 てた 二通 の手 紙に 注目 して いる
︒そ の 一 つで 法王 は︑
﹁ 私は ロー マ人 たち の意 志や 意見 に反 し て⁝ あ なた 方 の 信仰 に 信 頼 し︑ あな た 方 の所 へ 旅 をし て い ま す
﹂と 述 べ︑ 旅 の途 中 で ある こ と を はっ き り と示 し て いる
︒$
も う 一 通 では 法 王 は︑
﹁私 は あ なた 方 の 所 へ行 く こ と を 決め た︒ 殆ど すべ ての 私の 忠告 者た ちの 意見 を無 視し て︑ 一月 八日 にマ ント ヴァ に着 くよ うに
︑私 の旅 を急 ぐこ と を 決め た︒ 私を 助け る力 のあ る人 々に
⁝私 を迎 える
⁝よ うに
⁝警 告し てく ださ い︒
⁝私 が王 の使 者と もっ た多 くの 重 要 な議 論⁝
﹂と 述べ
%
︑や はり 法王 が旅 の途 中か
︑準 備段 階で ある こと を示 して いる
︒ この 旅の 出発 日時 の問 題は
︑右 の二 通の 手紙 の発 送日 時の 問題 とも 係わ るこ とで ある が︑ この 点に は後 の議 論と の 関 連で ふれ てい きた い︒ そこ でま ず︑ この 旅の 目的 であ るド イツ での 会議 につ いて 見る と︑ フリ ート は︑ これ を王 と 法 王と 反王 派諸 侯全 体の 会議 と見 てい るが
&
︑反 王派 諸侯 とい って も︑ トリ ブ ー ル 会議 以 前 では
︑ま ず は 穏健 派 の 参 加 のみ 考え られ
︑急 進派 の参 加は まず 考え られ ない であ ろう
︒ この 平和 のた めの 全体 会議 の日 時と 場所 が︑ 公表 され てい ない が既 に実 際は 決め られ てい たと すれ ば︑ トリ ブー ル 会 議後 の後 述の 王と 反王 派の 両派 の使 者と 法王 との 交渉 内容 は︑ 何で あっ たの か改 めて 問わ れる ので ある
︒上 述の よ う に王 は︑ 和解 のた めの 日時 や場 所を 表向 き明 示し てい ない が︑ かの 全体 会議 の開 催に つい ては 王も 係わ り︑ その 開
カノッサ像転換の可能性' ― 522 ―
催 日時 や場 所に も既 に同 意し てい たと 見ら れる ので
︑こ の使 者の 交渉 対象 は︑ 日時 や場 所以 外の こと であ った と見 る べ きで あろ う︒ つま り王 のか の﹁ 約束
﹂で 表現 され てい る未 確定 部分 の解 決と いう より も︑ 別の こと であ った
!
︒ フラ ヴィ チュ カも 見る よう に︑ 王は ベル トル トら の幾 つか の史 料証 言か らす ると
︑ロ ーマ で法 王か ら赦 免を 受け る た めに イタ リア へ行 く願 いを いだ き︑ そし て使 者の トリ ーア 大司 教ウ ード を 通 し てロ ー マ でそ れ を 提出 さ せ た"
︒ 即 ち 王の 使者 の交 渉内 容は
︑ロ ーマ でか
︑あ るい は少 なく とも 王の 敵の いな いイ タリ アの どこ かで の︑ 赦免 の可 否と 法 王 に服 従す る可 否を
︑問 うた 可能 性が 高い ので ある
#
︒ これ はし かし
︑か の仲 介者 との 合意
︑協 定に 反す るも ので あり
$
︑少 なく とも ト リ ブ ール 会 議 の決 議 と は違 っ て い た%
︒王 がか の合 意︑ 協定 に反 して 別の 解決 を求 めた のは 何故 か︑ その 理由 の 一 つ とし て フ リー ト は︑ ド イツ で の 会 議 が反 王派 の圧 力の 下で 平和 の会 議で はな く︑ 王の 裁判 それ も弾 効︑ 訴訟 の裁 判の 会議 に変 わる こと を心 配し て︑ 王 は 法王 がド イツ へ来 る前 に︑ 法王 に会 うと いう 方向 への 進路 を決 めて い た か らと 見 て いる
&
︒こ の 解 釈に 従 う と︑ ト リ ブ ー ル会 議 以 前の 協 定 で は想 定 さ れて い な かっ た 新 た な事 態 へ の恐 れ か らの
︑王 の 新 た な反 応 と も言 え る の で あ る
︒王 は︑ トリ ブー ル会 議の 中で
︑急 進派 の影 響力 の可 能性
︑大 きさ を認 識し たと も言 える ので ある
︒ もっ とも 急進 派の 影響 力と いっ ても
︑ト リブ ール 会議 で彼 らが 新王 選挙 を断 念し たこ とか ら見 て︑ 必ず しも 強く な か った ので ある が︑ しか しこ の会 議の 結果 に不 満な 彼ら は︑ 会議 後に 会議 の決 定と は別 に独 自に
︑ハ イン リヒ が破 門 さ れて 一年 して 赦免 され ない 場合 は︑ 王と して 最早 認め ない こと を取 り決
め'
︑反 王 派 の使 者 が この 方 針 も含 め て 法 王 をド イツ の会 議に 招い たた め︑ 王は この 急進 派の 影響 の強 くな る会 議へ の可 能性 を恐 れて
︑独 自な 方向 を求 めた と も 言え るの であ る(
︒ もう 一つ の解 釈は
︑急 進派 の力 や動 きと は関 係な く
︑か の 平 和の 全 体 会議 の 前 に︑ 王は ま ず 法 王 との 和解 をし てお き︑ この 会議 を確 実に 彼に とっ て安 全な もの にし よう とし た可 能性 もあ ろう
︒し かし いず れに せ
― 523 ― カノッサ像転換の可能性)
よ
︑こ の王 の願 いは
︑法 王に よっ て却 下さ れた ので ある
︒ それ にし ても
︑予 定の 全体 会議 は︑ かの
﹁断 片﹂ の作 者が
︑王 は法 王の 前で 彼の 罪な り無 罪を 示し
︑有 罪で も悔 悛 と 償罪 の後 に赦 され ると 見て いた ので ある から
!
︑こ の会 議は 王の 心配 する よ う な もの で は なく
︑平 和 の 会議 に な る は ずで あっ た︒ 従っ てこ の状 況の 中で
︑法 王が ロー マで の赦 免へ の王 の願 いを 認め なか った のも
︑か の協 定か らす れ ば 自然 なこ とで
"
︑特 に王 に敵 意を 示し たこ とに はな らな いの であ る#
︒ トリ ブー ル会 議後 に法 王に 送ら れた
︑王 と反 王派 諸侯
││ 以下 単に 諸侯 と表 示し て反 王派 諸侯 を指 す│
│の 両派 の 使 者に つい ては
︑そ れぞ れ別 々に 出さ れた のか
︑そ れと も両 派の 使者 が同 時に 一緒 に出 され たの かは はっ きり しな い が
︑彼 らが 同じ ころ に法 王の 前に 現わ れた こと は確 実で あろ
う$
︒こ の 時 に王 の か の﹁ 約束
﹂が
︑ト リ ー ア大 司 教 ウ ー ド に よっ て も たら さ れ た よう で あ る%
︒ こ の﹁ 約 束﹂ の 末 文 に つ い て の 偽 造 説 は
︑ベ ル ト ル ト の 記 述 に 由 来 す る が&
︑こ の よ うな 重 大 な事 を ラ ン ペル ト や ボニ ゾ ー︑ ブ ル ー ノ 等 の 誰 も
︑記 述 し て い な い 点 か ら 見 て も 疑 問 点 が 多 く
︑﹁ 約 束﹂ は問 題の 末文 を含 め︑ 全文 を本 物と 見て いい もの であ る'
︒ むし ろ両 派の 使者 と法 王と の交 渉で
︑特 に問 題と なる のは
︑か の全 体会 議の 日時 のこ とで ある
︒こ の日 時は
︑上 述 の よう にト リブ ール 会議 以前 の協 定で 決ま って いた と見 られ るが
︑ま だ公 表さ れて おら ず︑ 一般 に従 来の 説で は︑ ラ ン ペル トら の記 述か ら︑ 諸侯 側の 提案 とし て︑ その 使者 が法 王に 二月 二日 また は二 月初 めに アウ クス ブル クの 会議 に 来 る よ うに 求 め たと さ れ て きた の で ある
︒(
こ れ に 対し フ リ ー トは
︑﹁ 断 片﹂ の︑ 諸 侯の 使 者 は法 王 に 一 月六 日 に ア ウ クス ブル クに 来る よう に願 った とい う記 述に 着目 し)
︑ この 一月 六日 の日 付 は
︑ク ノ ーナ ウ の 研究 以 来 確実 と さ れ て きた 事柄 の順 序と は別 の順 序を 要求 する こと にな ると 主張 して いる
︒*
こ の 論 が 正し い の なら
︑今 日 の 通説 を 覆 す も ので あり
︑こ れは フリ ート 論の 最も 重要 な論 点の 一つ とな って いる ので ある
︒
カノッサ像転換の可能性+ ― 524 ―
もっ とも この 一月 六日 の﹁ 断片
﹂の 記述 には
︑既 にホ ルダ ー= エッ ガー さら に特 にボ イマ ンが 注目 し︑ 諸侯 は一 月 六 日に 法王 を招 待し たが
︑法 王と の交 渉の 中で 二月 二日 に四 週間 延期 され たと 見︑ これ が王 に諸 侯抜 きの 法王 との 単 独 和解 への 方向
︑カ ノッ サへ の道 を可 能に した と論 じて いる
!
︒し かし こ の 論 は︑ フラ ヴ ィ チュ カ の 反論 も あ り︑ そ の 後 余 り一 般 化 しな か っ た と言 え よ う"
︒ この 意 味 でフ リ ー ト が 改 め て
︑し か も ボ イ マ ン と は 違 う 理 由 づ け や 解 釈 で
︑こ の一 月六 日説 を唱 えた こと は︑ やは り注 目す べき こと であ った
︒#
現 に 最 近 出た シ ー ファ ー の 書物 な ど も︑ こ の フリ ート 説を 早く も採 用し てい るの であ る$
︒ フリ ート は︑ ボイ マン と違 って
︑﹁ 断 片﹂ の一 月六 日を
︑法 王 が 次に そ れ を二 月 二 日 に延 期 し た諸 侯 の 提案 と は 見 ず
︑こ の一 月六 日の 諸侯 の提 案に 先ん じて 出さ れ た法 王 の 日付 設 定︵ こ れは し か し なお 知 ら れて い な い︶ に よっ て
︑ 無 意味 なも のに され た諸 侯の 提案 と見 るの であ る%
︒ これ は少 し分 かり にく い 説 明 であ る が︑ フ リー ト の 見る 時 間 的 な 流れ の中 で︑ 具体 的に 見て いく と次 のよ うに なる
︒一 月六 日の 諸侯 側の 提案 が︑ 法王 の所 へ着 くの が十 一月 末で あ る が&
︑ この 提案 が法 王に 届く 前に
︑法 王は 上述 のド イツ への 旅を 通知 する 手 紙 を︑ ト リブ ー ル 会議 以 前 また は そ の 会 議中 に到 着す るよ うに 出し てお り︑ 従っ て諸 侯は 法王 がド イツ へ来 るこ とを 知っ た上 で︑ 右の 一月 六日 の提 案を し た とフ リ ー ト は見 て い る'
︒ しか し 一 方法 王 は
︑こ の 諸侯 の 提 案が 彼 に 届く 前 に
︑即 ち 一月 六 日 の期 日 を 知 らず に
︑ 既 に十 月の うち に さ ら に上 述 の 第二 の 手 紙を ド イ ツ へ出 し
︑こ こ で一 月 八 日に マ ン ト ヴァ へ 行 くこ と を 通 知し
た(
︒ こ れが 右の 先行 する 法王 の日 付設 定で あり
︑し かも これ がト リブ ール 会議 後 に 諸 侯側 に 届 いた た め)
︑ こ れを 知 ら ず に 出し た諸 侯の 一月 六日 の日 付が 空し いも のに なっ たと いう ので ある
︒こ の後 から 来た 一月 六日 の提 案に 対し
︑法 王 は そん なに 急い でい ず︑ おそ らく 意図 的に 引き 延ば しな がら
︑王 と諸 侯と の会 合の ため に︑ 二月 二日 を望 んだ と︑ フ リ ート は見 てい るの であ る*
︒
― 525 ― カノッサ像転換の可能性+
この フリ ート 説の 新し い点 は︑ これ まで の通 説と 正反 対に
︑法 王が 平和 をも たら す者 とし て行 く旅 への
︑彼 の自 発 的
︑積 極 的 な 意 志 を は っ き り と 強 調 し︑ さ ら に ア ウ ク ス ブ ル ク の 会 議 へ の イ ニ シ ャ チ ヴ を も 法 王 か ら 出 た も の と し!
︑こ れま で見 た和 解へ の方 向を 一層 はっ きり とさ せて いる こと であ る
︒こ う し てフ リ ー トは
︑カ ノ ッ サ事 件 よ り 後 の時 点で 記述 して いる ラン ペル ト等 のド イツ の記 述者
︵ 年代 記者
︶た ちは
︑原 因と 結果 を取 り違 え︑ 質的 な逆 転と と も に時 間的 な逆 転も して いる と注 目す べき 論を 出し てい る︒ 即ち
︑ド イツ の記 述者 によ って
︑法 王が 諸侯 の招 待を 受 け るこ とに なっ たが
︑事 実は 逆で
︑法 王が 提案 し︑ 諸侯 がこ れを 受け た と 論 じて い る"
︒ フ リー ト は︑ こ のよ う な 逆 の 結論 にな った 一つ の理 由は
︑上 述の 問題 の法 王の 二つ の手 紙を 伝え る﹃ 法王 グレ ゴリ ウス 七世 伝﹄ が︑ この 手紙 を 諸 侯側 の招 待に 対す る法 王の 回答 とし て引 用し
︑﹁ こ の誤 っ た 結論
﹂に 今 日 まで の 研 究 も従 っ て いる 点 に ある と 批 判 し てい るの であ る#
︒ 次に フリ ート が﹁ 断片
﹂の 一月 六日 説の 正し さ│
│時 間的 に無 理が ない 点│
│を 裏付 ける もの とし て︑ 既述 のよ う に 諸侯 の使 者が 法王 の所 に来 た時 に︑ 法王 が既 に旅 に出 発し てい たか
︑そ の準 備を して いた と見 る点 も︑ これ まで の 研 究に ない 新し い見 方で ある
$
︒フ リー トは さら に︑ 法王 が諸 侯に 伝 え た よう に
︑彼 が 一月 八 日 の﹁ 約二 十 日
﹂前 に は ロン バル ディ ア に 到 着し て い たと い う 記述 に も 着 目し
%
︑法 王 は 既に 十 二 月二 十 日 頃 にそ こ に 到着 し て い たこ と
︑ こ れは 一月 六日 にア ウク スブ ルク へ行 くの に可 能な 時点 であ り︑ 諸侯 側の 一月 六日 の提 案は
︑無 理な もの では なか っ た と主 張し てい るの であ る&
︒ この フリ ート の一 連の 考察 は確 かに 注目 すべ きも ので
︑種 々な 点で 従来 にな い新 しい 視点 を示 して いる が︑ しか し こ の一 月六 日説 には
︑既 にボ イマ ン説 を批 判し たフ ラヴ ィチ ュカ の論 がな お 当 て はま る 所 があ る の であ
る'
︒フ リ ー ト が︑ 王も 一月 六日 の期 日に 合意 して いた と見 るの も問 題で ある が(
︑ フラ ヴ ィ チ ュカ も 論 じる よ う に︑ 一月 六 日 と
カノッサ像転換の可能性) ― 526 ―
い う差 し迫 った 日時 が問 題に なっ てい る時 に︑ 王が ロー マか イタ リア のど こか で法 王に 会う とい う彼 の希 望を
︑使 者 の ウー ドの 交渉 の成 功に のみ おき
︑シ ュパ イア ーで 待機 して いた こと は
︑ま ず く 賢明 で は ない こ と であ っ た!
︒さ ら に フラ ヴィ チュ カは
︑法 王が ドイ ツに 帰る 使者 とと もに
︑十 一月 末に ドイ ツへ 向け て出 発し てい たの なら
︑王 は六 週 間 もシ ュパ イア ーで 待ち
︑法 王の 拒否 の返 事を 受け 取っ たあ とで 出発 した こと を︑ もっ と以 前に しな かっ たこ とは 全 く 理解 でき ない
︑む しろ 王は 諸侯 の期 日提 案が 決し てそ んな に短 いも ので なか った こと
︑従 って この 間に ロー マ行 へ の 必 要 な時 間 的 余裕 が あ る こと を 計 算し え た にち が い な いと
見"
︑結 局 この 一 月 六 日︵Epiphania
︶ は︑
﹁ 断 片﹂ の 写 し 手が 原本 の二 月二 日︵Hypante
︶ を書 き誤 った もの とし
︑二 月二 日が 本来 の提 案で あっ たと 推論 して いる
︒#
これ を少 し詳 しく 時間 的な 流れ で見 ると
︑ト リブ ール 会議 が終 わっ たの が十 一月 初め であ り︑ 使者 がそ のこ ろ出 発 し たと して も︑ 当時 の旅 の速 さか ら見 て︑ 早く て三 週間 後︑ 十一 月二 十二
〜二 十三 日頃 にロ ーマ に着 く︒ 法王 との 協 議 の時 間を 考え ると
︑使 者が ドイ ツへ 帰る のは
︑早 くて 十一 月二 十五 日頃
︑そ して 三週 間後 の十 二月 十六 日頃 ドイ ツ へ 帰る こと にな る︒ この 時点 では じめ て法 王か らの 回答 が分 かる ので ある
︒王 は実 際︑ この あと 十二 月二 十日 頃に シ ュ パイ アー から イタ リア へ出 発し た$
︒ 一方
︑一 月六 日の 期日 に法 王が 同 意 し た場 合
︑そ れ に間 に 合 うよ う に
︑北 伊 に 少な くと も十 二月 十三
〜十 五日 に法 王を 迎え る諸 侯か らの 護衛 が着 く必 要が あり
︑こ の護 衛は 十一 月二 十日 頃に 出 し てい なけ れば なら ない
%
︒こ れだ と法 王か らの 回答 を待 つ前 とな り疑 問が 多く
︑事 実そ の動 きは なか った
&
︒ 一方
︑法 王に して も︑ たと え一 月六 日の 期日 を受 けた 場合 も問 題が 多い
︒確 かに 既述 のよ うに フリ ート は︑ 法王 は ド イツ から の使 者が 来る 前に 出発 し︑ 一月 八日 の二 十日 前に 北伊 にい たの で︑ 一月 六日 は計 算上 可能 な時 点と して い る
︒し か し 一月 八 日 の二 十 日 前 に北 伊 に 来た 法 王 がす ぐ に ア ウク ス ブ ルク へ 出 発し て も
︑二 十 日間 掛 か っ て 一 月 八 日
︑何 らか の手 段で 早く 着い ても 一月 六日 はぎ りぎ り間 に合 う程 度で ある
︒し かも 例年 にな い厳 寒の 真冬 の劣 悪な 条
― 527 ― カノッサ像転換の可能性'
件 の中 で!
︑ こと は計 算通 り運 ぶと は限 らず
︑運 んだ とし ても 時間 的に ぎり ぎ り で 余り に も 無理 が あ り︑ 全体 会 議 の よ うな 重要 なも のに
︑こ んな 余裕 のな い日 程が 予定 され てい たこ とは やは り疑 問で ある
︒ いや フラ ヴィ チュ カが 可能 な時 間と 見る
︑よ り遅 い二 月二 日の 期日 でも
︑諸 侯側 が法 王の 回答 を待 って 準備 した と す るな ら︑ 諸侯 の護 衛が 北伊 に着 くの は一 月八 日前 後で あり
︑こ の時 点か らア ウク スブ ルク へ出 発し ても
︑二 月二 日 は ぎり ぎり で︑ やは り無 理が ある
"
︒こ れは あく まで 計算 上の こと であ り
︑実 際 は もっ と 掛 かり う る ので あ る
︒こ の よ うに 考え ると
︑問 題の 会議 の本 来の 期日 は︑ 二月 二日 どこ ろか
︑も っと 余裕 をも って 考え られ てい たと 見る べき な の であ る︒ 法王 が︑ もと もと 想定 して いた 平和 のた めの 全体 会議 の予 定は
︑二 月二 日で はな く︑ さら に後 の時 点︑ お そ らく 二月 半ば 頃で あっ たと 見ら れる ので ある
︒と する と二 月二 日は 従来 の説 のよ うに 諸侯 側の 提案 であ り︑ この 提 案 を二 月 半 ば を考 え て いた 法 王 が︑ 諸侯 の 使 者 との 交 渉 で譲 歩 し て受 け た た めに
#
︑上 記 の 手紙 の よ う に︑
﹁一 月 八 日
﹂の ため に﹁ 急い だ﹂ ので ある
︒﹁ 急 いだ
﹂と いう のも
︑法 王 が 期日 を 早 める よ う に 変更 さ せ られ た こ とを 暗 示 し て いる し︑ 右の 手紙 もフ リー トの 新説 と違 い︑ 使者 との 交渉 後の もの と見 る べ き であ ろ う$
︒ 王 が六 週 間 も待 機 し た の も︑ 二月 半ば の会 議を 考え てい たか らで あり
︑王 の法 王と の単 独和 解の 願い も︑ 二月 二日 まし て一 月六 日の 会議 の 予 定な ら︑ 王は そん なに のん びり とは 構え てい られ なか った はず であ る︒ ま た諸 侯 側 の王 の 破 門の 一 年 条 件も
︑二 月 半 ばで 破 門 か ら一 年 で あり
︑こ の 時 点で こ そ 意 味を も っ て く る の で あ る
︒諸 侯が この 条件 を出 した のも
︑本 来は 二月 半ば の会 議予 定で あっ たこ とを 示し てい る︒ 二月 二日 や︑ まし て一 月 六 日の 会議 なら
︑こ の条 件は まだ 発効 せず に意 味が なく
︑王 への 強力 な圧 力に はな らな いの であ る︒ 二月 半ば の会 議 の 場合 に出 てく るこ の圧 力は
︑逆 にし かし 王に 法王 との 単独 和解
│赦 免の 獲得 へと 急が せる こと にな り︑ 今度 はこ の 単 独和 解を 防ぐ ため に︑ 諸侯 は二 月二 日に 会議 を早 める 提案 をし たの であ る︒ 実際 の経 過を 見て も︑ 王は 一月 二十 日
カノッサ像転換の可能性% ― 528 ―
頃 に北 伊に 来た ので ある から
"
︑法 王が 予定 通り に一 月八 日に 出発 して い た の なら
︑王 は 法 王に 会 え ず︑ カノ ッ サ 事 件 も起 こり えな かっ たの であ る#
︒ 王の 行動 も︑ 少な くと もイ タリ アへ 出発 す る 直 前ま で は︑ 二 月半 ば の 会議 を 考 え て のも ので あり
︑二 月二 日に 早め られ たこ とを 知っ た時 点で は︑ 法王 に会 う可 能性 は不 確実 にな って いた ので ある
︒ 以上 のよ うに 見る と︑
﹁ 断片
﹂の 一月 六日 の記 述を
︑フ ラ ヴ ィチ ュ カ のよ う に
︑写 し 手の 誤 り と見 る の かど う か は と もか く︑ その まま 事実 とし て認 める こと は出 来な いの であ る︒ 上述 の法 王 の 旅 の通 知 の 手紙
も$
︑フ リ ート の よ う に トリ ブー ル会 議中 には 知ら れ︑ 法王 は旅 の途 上と 認識 され てい たと 見る のは
︑ロ ーマ での 赦免 を求 める 王の 行動 と は 矛 盾 し て お り︑ 旅 の 途 上 を 示 す こ の 手 紙 は︑ 一 月 八 日 の 日 付 を 含 む も う 一 通 の 手 紙 よ り む し ろ 後 の も の で あ ろ う%
こ ︒ れ まで 見た フリ ート 説が
︑従 来の 説に 対し 様々 な 問題 点 を 明ら か に した こ と は 確か で あ る︒ 彼の 説 に は しか し
︑ 特 に右 の二 通の 手紙 の日 付や 一月 六日 の論 に見 るよ うに なお 問題 があ り︑ 十分 立証 され たも のと は言 えな いが
︑法 王 の 平和 の全 体会 議へ の意 図を はっ きり させ た点 は重 要で ある
︒二 月二 日の 日付 は諸 侯の 提案 であ って も︑ 二月 半ば を 考 える 法王 との 活発 な厳 しい 交渉 の結 果と 見る なら
︑こ こに も法 王の 平和 会議 への 強い 意欲 を見 るこ とは
︑フ リー ト の よう な論 を立 てな くて も︑ 十分 に可 能な こと であ ろう
︒
! 注
J.F.S.162.Anm.51.
ボ ス ホ ー フ も
︑ ト リ ブ ー ル 会 議 前 に 司 教 の 多 く が ハ イ ン リ ヒ に 忠 実 で あ っ た こ と
︑ 和 解 を め ざ す よ り 穏 や か な 多 数 派 へ の 党 派 形 成 が あ っ た こ と を 認 め て い る
︒
E.Boshof,HeinrichIV.HerrscheraneinerZeitenwende.
︵1979
︶.S.75.
― 529 ― カノッサ像転換の可能性&
!J.F.S.179.H.E.J.Cowdrey,op.cit.,p.151.
"
カ ウ ド リ ー も
︑ 王 の 唯 一 の 関 心 は 今 や 法 王 と 和 解 す る こ と で あ っ た と 見
︑ シ ュ パ イ ア ー で の 悔 悛 者 の 生 活 や
︑ こ の 年 の 七 月 か ら 翌 年 の 二 月 に か け て
︑ 王 の 文 書 が 欠 け て い る こ と は
︑ 王 が 公 的 活 動 を 控 え て い た こ と を 示 す も の と し て 注 目 し て い る
︒
ibid,p.153.
ロ ビ ン ソ ン も
︑ こ の 秋 の 間 に ク リ ュ ニ ー 院 長 の ユ ー グ が 王 の 所 へ 来 た こ と は
︑ 王 と の 和 解 に 関 係 し
︑ こ の 目 的 の た め に 翌 年 の 一 月 に カ ノ ッ サ で も 活 動 し た こ と に 注 目 し て い る
︒
I.S.Robinson,op.cit.,p.158−159.BE.S.126−127.
同 様 な 見 方 を ク ノ ー ナ ウ も し て い る
︒
M.v.K.II.S.739−740.
#E.lieSaieD.,citop.,hofBosS.75.E.h.iceinrH.,citop.,hofBosr,
︵1987
︶S.227.I.S.Robinson,op.cit.,p.157−158.
本 稿
︑)
︑ 二 十 五 ペ ー ジ
︒ な お
︑ か の ト リ ブ ー ル 会 議 以 前 に 成 立 し て い た 和 解 の 協 定 に
︑ 既 に 反 王 派 諸 侯 の 中 の 穏 健 派 が 参 加 し て い た か ど う か は は っ き り し な い
︒ も し 彼 ら が 参 加 し て い な い の な ら
︑ こ の ト リ ブ ー ル 会 議 で 法 王 の 使 者 が 彼 ら と 交 渉 し
︑ 彼 ら を か の 協 定 に 参 加 さ せ た と 見 ら れ る
︒
$ ち な み に
︑ 反 王 派 の 中 で 穏 健 派 が 多 数 派 で あ っ た と す る な ら
︑ ト リ ブ ー ル 会 議 も 従 来 言 わ れ て い る ほ ど
︑ そ も そ も 新 王 選 挙 が 主 な 目 的 で あ っ た の か ど う か も 問 題 に な ろ う
︒
%hofS.h.iceinrH.,citop.,BosH.E.p.152..,citop.ey,CowdrJ.E.74.
&
J.F.S.176,178,196.
フ リ ー ト は
︑ こ の 会 議 は は じ め 曖 昧 に ド イ ツ で 行 わ れ る と さ れ て い た が
︑ 反 王 派 諸 侯 の 圧 力 に よ っ て ア ウ ク ス ブ ル ク に 変 え ら れ た と 見 て い る
︒
ibid,S.178,181−182,196.
ロ ビ ン ソ ン は
︑ ト リ ブ ー ル 会 議 終 了 前 に 諸 侯 は
︑ 王 よ り さ ら な る 譲 歩
│
│ 即 ち 二 月 二 日 に ア ウ ク ス ブ ル ク で 法 王 の 裁 定 を 受 け る と い う
│
│ を 得 た と し
︑ ア ル ト マ ン も
︑ 王 は ア ウ ク ス ブ ル ク の 会 議 へ の 出 席 を 約 束 し た と す る
︒
I.S.Robinson,op.cit.,p.157.G.Althoff,op.cit.,S.150.
'J.F.S.165,173.Anm.75.
(J.F.S.162.Anm.51,174,181.
パ ウ ル の
﹃ 法 王 グ レ ゴ リ ウ ス 七 世 伝
﹄ は
︑ 諸 侯 の 使 者 が 来 た 時 に は
︑ 法 王 は 既 に 出 発 し て い た か
︑ そ の 準 備 を し て い た と 記 述 し て い る が
︑ フ リ ー ト は こ の 記 述 が こ れ ま で 正 当 に 評 価 さ れ て い な か っ た と 批 判 し て
カノッサ像転換の可能性* ― 530 ―
い る
︒
J.F.S.193−194.PaulvonBernried,VitaGregoriiVIIpapae.
︵ontI.etaViumnorRomacumifiPhg..cheriattW.MJ.v.1862
︶
│ 以 下PB と 略 す
│S.522.
M.v.K.II.S.737−738.
本 稿
︑+
︑ 十 一 ペ ー ジ
︒
!EP.No.18.J.F.S.173.
"
EP.No.17.J.F.S.181.H.Beumann,op.cit.,S.44.
#J.F.S.162.Anm.51,178.
$ 筆 者 は 以 前 こ の 点 で
︑ 会 議 の 日 時 や 場 所 の 決 定 が
︑ そ の 後 の 交 渉 に 掛 か っ て い た と 見 て い た
︒ 前 掲 拙 稿
︑﹁ ハ イ ン リ ヒ 四 世 と ト リ ブ ー ル 会 議
﹂︑ ,︑ 五 ペ ー ジ
︒
I.S.Robinson,op.cit.,p.157−158.
%hesanosCaundriburTnscE.wiZ,chkaitsawHl.
︵HistorischesJahrbuch.94.1974
.522.SBeumann,op.cit.,.45.S.740.BE.S.120−123.PB.SH.II.on,I.v..Mp.159..,citop.K.nsRobiS. ︶45.40,36,29,S.
ベ ル ト ル ト は
︑ 王 が ロ ー マ で の 和 解 を 強 く 願 っ て い た こ と を 伝 え て い る
︒
&
J.F.S.162,165,176.
' フ リ ー ト は ま た
︑ 王 は
﹁ 約 束
﹂ の 曖 昧 な 表 現 の 中 で
︑ 既 に 彼 の 親 戚 の 者 た ち と の 取 り 決 め で
︑ 法 王 が ド イ ツ へ 来 る 前 に 法 王 と 会 う 方 向 を 考 え て い た と も 見 て い る が
︑ こ れ な ら 王 の 親 戚 即 ち 仲 介 者 た ち も
︑ か の 合 意 と は 別 の こ と を 考 え て い た こ と に な り
︑ こ れ で は フ リ ー ト の い う 王
﹁ 自 身 の 独 自 な 解 決
﹂ と も 言 え な い の で あ る
︒ こ こ で フ リ ー ト が
︑ 仲 介 者 も 合 意 し て い た と 見 る の は 問 題 で あ ろ う
︒
J.F.S.186.E.Hlawitschka,op.cit.,S.40,45.Anm.77.
(
﹁ 断 片
﹂ も
︑ 王 は
﹁ 共 通 の 決 議 を 変 え て
⁝ ひ そ か に
﹂ と 批 判 し て い る
︒FR.S.189.H.Beumann,op.cit.,S.45.
)J.F.S.181−182,182.Anm.100,186,196.
フ リ ー ト は ま た
︑ こ の 圧 力 が 法 王 と 会 う 場 所 が
︑ ド イ ツ の 代 わ り に ア ウ ク ス ブ ル ク に 変 更 さ れ た こ と に 反 映 し て い る か も し れ な い と も 見 て い る
︒ ク ノ ー ナ ウ は
︑ 王 は 自 ら の 件 を 彼 と 法 王 の 間 で の み 解 決 す る と い う こ と を
︑ も っ ぱ ら 目 標 に し て い た と 見 て い る
︒
M.v.K.II.S.735.
*op.S.r,lieSaieD.,cit,MhofBosE.S.734.II.K.v..229.
― 531 ― カノッサ像転換の可能性,
! ロ ビ ン ソ ン も
︑ 王 を イ タ リ ア へ 行 か せ た の は
︑ 急 進 派 の こ の 破 門 か ら
﹁ 一 年 以 内
﹂ の 赦 免 と い う 最 後 通 牒 で あ っ た と 見 て い る
︒ ク ノ ー ナ ウ も
︑ 諸 侯 の 独 自 な 取 り 決 め で 王 は 急 い だ と 見
︑ 逆 に 王 は
︑ 法 王 と の 和 が 諸 侯 と 法 王 と の つ な が り を 妨 げ る 唯 一 の 手 段 と 見 て い た こ と
︑ 王 の こ の 計 画 の 実 行 は
︑ 諸 侯 の 計 算 を 壊 す も の で あ っ た に 違 い な い と 述 べ て い る
︒
I.S.Robinson,op.cit.,p.163.M.v.K.II.S.735,740,752.
"
J.F.S.163.I.S.Robinson,op.cit.,p.157.FR.S.189.
#E.Boshof,op.cit.,DieSalier.S.229.
ロ ビ ン ソ ン の よ う に
︑ 法 王 は
﹁ 急 進 派 の 計 画 を 支 持 す る こ と を 決 め た
﹂ と 見 る の は 問 題 で あ る が
︑ 彼 が
︑ 法 王 に と っ て 王 と 急 進 派 と の 間 を 仲 裁 す る 誘 い に 抵 抗 で き な か っ た と 見 て い る 面 は あ っ た で あ ろ う
︒ こ の 場 合 な ら
︑ 平 和 会 議 の 目 的 に 合 っ て い る の で あ る
︒
I.S.Robinson,op.cit.,p.159.
$ ボ イ マ ン な ど は
︑ 法 王 は 一 方 で 日 付 を 一 月 六 日 か ら 二 月 二 日 に 延 期 す る こ と で
︑ 王 に 好 意 を 与 え た と 見 て い る の で あ る
︒
H.Beumann,op.cit.,S.45,47.
後 注
︑)
︑* 参 照
︒
% フ リ ー ト は
︑ 王 と 諸 侯 が そ れ ぞ れ 使 者 を 送 り
︑ 彼 ら が 同 時 に あ る 知 ら れ な い 場 所 で 法 王 の 前 に 現 わ れ た と 見
︑ フ ラ ヴ ィ チ ュ カ は
︑ 両 派 の 使 者 が 同 時 に 行 っ た と 見 て い る
︒
J.F.S.162.M.v.K.II.S.734,737.E.Hlawitschka,op.cit.,S.34,38.
&
ibid,S.29,38.H.E.J.Cowdrey,op.cit.,p.153.
フ ラ ヴ ィ チ ュ カ が
︑ こ の ウ ー ド を 王 の 利 益 代 表 者
︑ 王 の 使 者 と す る の に 対 し
︑ カ ウ ド リ ー は
︑ 仲 介 派 と し
︑ こ の
﹁ 約 束
﹂ が 仲 介 派 の ウ ー ド に よ っ て ロ ー マ に 送 ら れ た こ と は
︑ 王 の も う 一 つ の 回 復 力 の し る し と 見 て い る
︒ な お
︑ ボ ニ ゾ ー は
︑ ウ ー ド を 諸 侯 の 使 者 と し
︑ ブ ル ー ノ は
︑﹁ 約 束
﹂ は ウ ー ド で は な く
︑ 諸 侯 の 使 者 が 送 っ た と し て い る
︒ ボ イ マ ン も 言 う よ う に
︑ ウ ー ド は 仲 介 派 と し て
︑ 王 の た め に 行 動 し た と い う の が 事 実 に 近 い と 思 わ れ る
︒
Bonizo,op.cit.,S.671.B.R.c.88.S.328−329.H.Beumann,op.cit.,S.39.
' ベ ル ト ル ト に よ る と
︑ 王 は
﹁ 約 束
﹂ を 諸 侯 の 前 で 封 印 さ せ た が
︑ そ の 後 こ れ を 秘 か に 変 え
︑ こ れ を ウ ー ド を 通 し て 法 王 に 提 出 す る た め に ロ ー マ に 送 っ た
︒ ウ ー ド は こ れ を 法 王 に 渡 し た が
︑ こ れ が 朗 読 さ れ た 時
︑ 諸 侯 の 使 者 は
︑ そ の 内 容 が 封 印 さ れ た も の と 違 う こ と に 気 付 き
︑ 偽 物 で あ る と 抗 議 し た
︒
BE.S.120−121.
( ク ノ ー ナ ウ や ロ ビ ン ソ ン は 偽 造 説 で あ る が
︑ フ リ ー ト は
︑ ベ ル ト ル ト の 記 述 は 王 の
﹁ 約 束
﹂ を 中 傷 す る た め の も の と 見
︑ グ
カノッサ像転換の可能性+ ― 532 ―
レ ゴ リ ウ ス に も 偽 造 を 認 め る 発 言 の な い こ と な ど か ら 偽 造 説 を 否 定 し て い る
︒ ボ イ マ ン も
︑ こ れ を 本 物 と 見 て い る
︒
M.v.K.II.S.733−734.I.S.Robinson,op.cit.,p.158.J.F.S.176,176.Anm.81.H.Beumann,op.cit.,S.40,43.
H.E.J.Cowdrey,op.cit.,p.152−153.FR.S.189.
!74.Heinrich.,S.I.citS.Robinson,op.cit.,.,op.LA.−S.390−391.BE.S.122123.,BR.S.330−331.E.Boshofp.159.
"
FR.S.189.J.F.S.186.
#J.F.S.173.Anm.75.
$H..42,S.,citop.nn,umaBe.193.O.S.,citop.r,gger-EdeHol45.
ボ イ マ ン は
︑ 法 王 は 王 の ロ ー マ で の 赦 免 の 願 い を 拒 否 し
︑ こ の 点 で 諸 侯 の 意 に そ っ た が
︑ 一 方 王 の 諸 目 標 を 知 る 中 で 日 付 の 延 期 に よ っ て 王 に 好 意 を 与 え た と 見 て い る
︒
ibid,S.42.
ボ イ マ ン は
︑ こ の 延 期 を カ ノ ッ サ 行 へ の ど う し て も 必 要 な 前 提 条 件 と し
︑ 逆 に 諸 侯 に と っ て こ の 延 期 は 重 大 な 結 果 を 招 く も の だ っ た と 論 じ て い る
︒
%E.Hlawitschka,op.cit.,S.44−45.
も っ と も ツ ィ マ ー マ ン も
︑ ボ イ マ ン 論 に 近 く
︑ こ の 協 定 は 諸 侯 の 計 画 を あ る 程 度 混 乱 さ せ た と し
︑ こ れ は 法 王 の 王 へ の 立 場 を よ り 肯 定 的 に 見 せ る し
︑ 王 の 立 場 は 普 通 見 ら れ て い る よ り も 有 利 で あ る こ と を 示 し
︑ こ れ で も っ て 王 の カ ノ ッ サ で の 悔 悛 も
︑ 別 の 光 の 中 で 見 ら れ る と 論 じ て い る
︒
H.Zimmermann,op.cit.,S.125,125.Anm.245.
ヴ ァ イ ン フ ル タ ー は
︑ 一 月 六 日 が 二 月 二 日 に 延 期 さ れ た が
︑ 誰 が 延 期 し た の か は
︑ は っ き り し な い と 見 て い る
︒ こ の 点 に は ボ イ マ ン も 言 及 し て い る が
︑ 彼 は そ の 結 論 か ら し て 法 王 と 見 て い る よ う で あ る
︒
S.Weinfurter,op.cit.,Canossa.S.145.H.Beumann,op.cit.,S.45.
&
フ リ ー ト は
︑ ヴ ォ ル ム ス 会 議 と カ ノ ッ サ 事 件 の 間 の 諸 事 件 の こ れ ま で の 組 み 立 て が
︑ こ の
﹁ 断 片
﹂ な し に 行 わ れ た の で
︑ そ の 根 本 に お い て 修 正 さ れ ね ば な ら な い と 主 張 し て い る
︒
J.F.S.143.Anm.53.
'enstituveIndunrmrefoKirchR.VII.orregGstPapieffer,Schrstreit.
︵2010
︶S.60.
(J.F.S.163.Anm.53.
)J.F.S.173.Anm.74.
― 533 ― カノッサ像転換の可能性*
!EP.No.18.J.F.S.174.Anm.76.
ク ノ ー ナ ウ を は じ め 従 来 は
︑ こ の 手 紙 を 十 二 月 頃 に 出 さ れ た も の と 見 て き た が
︑ フ リ ー ト は
︑ 一 月 六 日 の 諸 侯 の 提 案 は
︑ 法 王 の こ の 手 紙 で の 最 初 の 旅 の 通 知 に 反 応 し た も の と 見
︑ そ の 内 容 を
﹁ 断 片
﹂ が 伝 え て い る と 主 張 し て い る
︒
M.v.K.II.S.737.Anm.195.J.F.S.173.
"
EP.No.17.
フ リ ー ト は こ の 手 紙 の 中 の 一 月 八 日 の 日 付 か ら
︑ 諸 侯 の 一 月 六 日 の 提 案 よ り あ と に
︑ こ の 手 紙 が 諸 侯 側 に 着 い た と 見 て い る
︒ 彼 は ま た
︑ こ の 手 紙 を 諸 侯 宛 の も の と 見
︑ 法 王 が 一 月 八 日 に 待 つ 相 手 は
︑ 諸 侯 の 護 衛 と 解 釈 し て い る
︒
J.F.S.173.Anm.74,75.164,171.Anm.30.I.S.Robinson,op.cit.,p.160.H.Beumann,op.cit.,S.39.
#J.F.S.172.Anm.72.
$J.F.S.174.Anm.77.
フ リ ー ト は
︑ 二 月 二 日 が 法 王 の 提 案 で あ る こ と は
︑ 一 月 八 日 に マ ン ト ヴ ァ で 護 衛 を 待 つ 日 付 か ら 立 証 さ れ る と 見
︑ 一 月 八 日 の 日 付 を 出 し た 時 に
︑ 手 紙 の 使 者 は 口 頭 で 二 月 二 日 の 期 日 を 伝 え た と 推 論 し て い る
︒ フ リ ー ト は
︑ 二 月 二 日 を 法 王 の 提 案 と 見 る こ と は
︑ ベ ル ト ル ト の 記 述 か ら 確 認 さ れ る と し
︑ ベ ル ト ル ト の 示 す
︑ 二 月 二 日 を 表 すYpapanti
と い う ギ リ シ ャ 語 の 中 に
︑ グ レ ゴ リ ウ ス の こ の 言 葉 に 一 致 す る 使 者 へ の 伝 言 の 反 映 を 見 出 し う る か も し れ な い と 論 じ て い る
︒ と い う の も
︑ こ の 言 葉 は ロ ー マ で 西 方 の 教 会 の ど こ よ り も 知 ら れ て い た か ら
︑ と フ リ ー ト は 主 張 し て い る 194.173.77.76,Anm.174.74,Anm.173,S.F.J. ︒BE.123.−.122S
%J.F.S.172.
フ リ ー ト は
︑ こ の 関 連 で 問 題 の 法 王 の 手 紙 の 中 で の
︑ 法 王 の 殉 教 の 覚 悟 な ど の 強 い 意 欲 に も 注 目 し て い る
︒
&
J.F.S.174,185,196.
フ リ ー ト は
︑ 王 の 親 戚
︑ 友 人 ら の イ ニ シ ャ チ ヴ と 法 王 の 同 意 が
︑ 反 王 派 の イ ニ シ ャ チ ヴ に 変 わ っ た と も 表 現 し て い る
︒ 'J.F.S.196.PB.S.522.
( フ リ ー ト は
︑ 一 月 六 日 の 提 案 は
﹁ 断 片
﹂ の 作 者 が
︑ 法 王 が 既 に 旅 へ の 出 発 ま た は 準 備 し て い た と 考 え て い た こ と を 示 す と 見 て い る の で あ る
︒
J.F.S.173.Anm.75,174.Anm.76.
カノッサ像転換の可能性) ― 534 ―
"
Reg.IV.12.
法 王 は 諸 侯 に
︑﹁ 私 は
︑ 大 公 の 一 人 が 峠 で 私 と 会 う こ と に な っ て い た 期 日 の 二 十 日 ほ ど 前 に
︑ ロ ン バ ル デ ィ ア に 入 っ た
﹂ と 語 っ て い る
︒
# フ リ ー ト は
︑ こ の
﹁ 二 十 日
﹂ の 数 字 は
︑ 確 実 な も の と 見 な け れ ば な ら な い と し
︑ ク ノ ー ナ ウ は こ れ に 十 分 注 意 を 払 っ て い な か っ た と 批 判 し て い る
︒ も っ と も ク ノ ー ナ ウ も
︑ 法 王 の こ の 記 述 に 言 及 し て い る が
︑ 法 王 が 一 月 八 日 に 着 く た め に
︑ ア ペ ニ ン を 越 え た の は 一 月 初 め と し て い る
︒
J.F.S.170.Anm.69,171.Anm.70,194.
M.v.K.II.S.739,747−748.Anm.5.
H.E.J.Cowdrey,op.cit.,p.154.H.Zimmermann,op.cit.,S.29,29.Anm.48,31.
$ フ リ ー ト 自 身 は
︑ フ ラ ヴ ィ チ ュ カ の 論 を 批 判 し て い る が
︑ こ の 批 判 の 論 拠 は 十 分 確 実 な も の と は 言 え な い
︒
J.F.S.174.Anm.77,163−164,164.Anm.53,166.Anm.59,174.Anm.77,195−196,196.Anm.128.
%J.F.S.173.
フ リ ー ト も
︑ 一 方 で
︑ 諸 侯 の 一 月 六 日 の 希 望 に 対 し
︑ 王 は 急 激 な 行 動 に 急 き 立 て ら れ た と 見 て い る の で あ る か ら
︑ こ の 一 月 六 日 へ の 王 の 合 意 は 考 え に く い
︒
J.F.S.186.
&
E.Hlawitschka,op.cit.,S.36.Anm.47,41,41.Anm.67,42.
フ ラ ヴ ィ チ ュ カ は
︑ 王 は こ の 一 月 六 日 の 諸 侯 の 提 案 を 知 っ て い た と 見 て い る
︒ 'ibid,S.41−42.
( 原 本 の 残 っ て い な い
﹁ 断 片
﹂ は 写 本 で あ り
︑ こ の 写 し 手 が 十 分 ギ リ シ ャ 語 に 通 じ て い な い た め に
︑ 原 本 に あ っ た と 見 ら れ る 二 月 二 日 を 表 す ギ リ シ ャ 語 のHypante
を
︑Epiphania
︵ 一 月 六 日
︶ の 誤 り と 見 て
︑ こ れ に 変 え た と フ ラ ヴ ィ チ ュ カ は 論 じ て い る
︒ な お 彼 は
︑ こ の 本 来 のHypante
の 可 能 性 を
︑ ベ ル ト ル ト の 記 述 す るYpapanti
か ら 推 論 し て い る
︒ こ の 論 に
︑ テ レ ン バ ハ も 同 意 し て い る
︒
ibid,S.44.BE.S.122−123.G.Tellenbach,op.cit.,DieWestliche.S.192.Anm.59.I.S.Robinson,op.cit.,p.157.fn.71.
前 注
︑! 参 照
︒ ).S.F.J.393.−.392SLA.S.741.II.K.v.ME.39.−38.34,S.,citop.,chkaitsawHl186.
フ リ ー ト は
︑ 王 は 十 二 月 半 ば 頃 に 出 発 し た と 見 て い る
︒
― 535 ― カノッサ像転換の可能性*
"
E.Hlawitschka,op.cit.,S.39−40.J.F.S.170.Anm.69.
フ ラ ヴ ィ チ ュ カ は
︑ マ ン ト ヴ ァ か ら ア ウ ク ス ブ ル ク ま で 二 十 四
︑ 五 日
︑ 三 週 間 半 掛 か る と 見
︑ フ リ ー ト も 同 区 間
︑ 約 五 三
〇 キ ロ を 最 短 で 約 二 十 日 間 と 見 て い る
︒
# 諸 侯 が 護 衛 を 出 す の を 止 め た の は
︑ 王 が 出 発 し た の を 知 っ て か ら で あ っ た
︒
E.Hlawitschka,op.cit.,S.40.Anm.65.BE.S.125−126.
$ こ の 年 が 異 例 に 寒 い 冬 で あ っ た こ と は
︑ ラ ン ペ ル ト を は じ め と し て 当 時 の 年 代 記 が 一 致 し て 伝 え ら れ て い る
︒
LA.S.394−395.BE.S.118−119.DonizonisVita.
│ 以 下DO と 略 す
│op.cit.,II.S.382.
%E.Hlawitschka,op.cit.,S.40−41.
フ リ ー ト は
︑ 遅 く て 一 月 十 三 日 に マ ン ト ヴ ァ を 出 発 し
︑ 二 月 一 日 に ア ウ ク ス ブ ル ク に 着 く と 見 る が
︑ こ れ は 最 も 短 く 計 算 し た 場 合 と し て い る の で あ る
︒
J.F.S.170.Anm.69.
&
EP.No.17.
ボ イ マ ン は
︑﹁ 後 の 日 付
﹂ を 法 王 の 提 案 と し て
︑ こ れ が
﹁ ぎ り ぎ り の 譲 歩
﹂ と し て い る が
︑ む し ろ 諸 侯 の よ り 早 い 日 付 に 譲 歩 し た と 見 る べ き で あ ろ う
︒﹁ 後 の 日 付
﹂ な ら
﹁ 急 い だ
﹂ と は 言 わ な い で あ ろ う
︒
H.Beumann,op.cit.,S.42.
'J.F.S.181.H.Beumann,op.cit.,S.39,44.
フ リ ー ト は
︑ こ の 手 紙 で 言 及 さ れ て い る 王 の 使 者 と の 交 渉 を ず っ と 以 前 の も の と 見 て い る が
︑ こ の 交 渉 は
︑ 王 の ロ ー マ で の 赦 免 の 問 題 と と も に
︑ こ の 時 諸 侯 か ら 出 て い る 日 付 の 変 更 の 問 題 も 議 論 さ れ た と 見 る べ き で
︑ 王 側 は 法 王 と 同 様 に 二 月 半 ば を 考 え て い た と 言 え よ う
︒ な お ボ イ マ ン は
︑ 諸 侯 の 使 者 が こ の 手 紙 を も ち 帰 っ た と 見 て い る
︒ (J.F.S.187−188.
次 章
︑ 注!
︑ 参 照
︒ ) 法 王 は
︑ 護 衛 が 来 な か っ た の で
︑ 王 に 彼 の 所 へ 来 る チ ャ ン ス を 与 え た
︑ と 彼 自 身 が 諸 侯 に 報 告 し て い る
︒
Reg.IV.12.H.Beumann,op.cit.,S.42.
*EP.No.18.
+ 王 や 諸 侯 の 使 者 が 出 発 す る 時 に
︑ 法 王 は 既 に 旅 の 途 上 な ら 彼 ら が 法 王 と ど こ で 会 え る の か
︑ 不 確 実 な も の に な っ た で あ ろ う
︒ ボ イ マ ン は
︑ 旅 の 通 知 の 手 紙 を
︑ も う 一 通 の 手 紙 の 一 般 に 向 け た 宣 伝 用 の も の と 見 て い る
︒H.Beumann,op.cit.,S.40.
カノッサ像転換の可能性, ― 536 ―
四 ハイ
ンリ ヒと の和 をめ ざし て旅 を続 ける グレ ゴリ ウス は︑ 北伊 で諸 侯か らの 護衛 を待 つ中 で︑ 王が イタ リア に来 た と の知 らせ を︑ おそ らく ポー 川を 越え る前 に受 け︑ トス カナ 女伯 マテ イル デ の 城 であ る カ ノッ サ に 避難 し た!
︒し か し この 王が やっ て来 たこ とは
︑法 王に とっ ては 不意 打ち とい うよ りも
︑あ る程 度は 予想 して いた もの であ り︑ 驚く も の では なか った であ ろう
"
︒ 当時 一〇 七六 年か ら一
〇七 七年 にか けて の冬 は︑ 既述 のよ うに 例年 にな い寒 さで
︑カ ノッ サ城 の周 辺に もお そら く 雪 が 見 られ る 中 で起 こ っ た のが
︑カ ノ ッ サ事 件 で あっ た
︒こ れ に つい て は 一般 に
︑一
〇 七七 年 一 月 二 十 五 日 か ら 王 は
︑カ ノッ サ城 の門 の前 で三 日間 悔悛 行為 をし たあ と︑ 法王 より 破門 を解 か れ た と叙 述 さ れて い る#
︒ こ の事 件 に つ い ては
︑ラ ンペ ルト の年 代記 が最 も詳 しく 劇的 に伝 えて おり
︑近 代か ら今 日ま での この 事件 の叙 述も
︑一 般に これ に 従 って いる
$
︒し かし 当時 の他 の諸 史料 は︑ 必ず しも ラン ペル トと 一致 せず
︑彼 の記 述の 正否 は確 実で はな い%
︒ まず カノ ッサ 事件 が起 こっ た日 とさ れる 一月 二十 五日 につ いて は︑ この 日が パウ ロの 回心 の日 であ った こと や︑ こ の 事件 のき っか けと なっ た前 年の ヴォ ルム ス会 議が 一月 二十 四日 で︑ この 日が 丸一 年経 った 日で もあ り︑ 単な る普 通 の 日で はな く︑ 悔悛 にふ さわ しい 日と して 選ば れた 可能 性が 高い ので あ る&
︒こ の 点か ら も この 日 は︑ 一 般に 見 ら れ て いる ほど
︑王 が追 い詰 めら れて 無計 画に 闇雲 にカ ノッ サ城 にや って 来た 偶然 の日 では なく
︑交 渉の 結果 か︑ 王側 の 冷 静に 計算 され た日 であ った こと を予 想さ せる もの であ る'
︒ 一月 二十 五日 は確 実と して も︑ 次に 問題 なの は﹁ 三日 間﹂ の解 釈で ある
︒ラ ンペ ルト は︑ 丸三 日間 の悔 悛と し︑ 四
― 537 ― カノッサ像転換の可能性(
日 目の 一月 二十 八日 に赦 され たと 見て いる
!
︒法 王自 身の 諸 侯 へ の報 告 で は︑ 王は
﹁三 日 間︑ 城 の前 で
﹂と 述 べ︑ ベ ル ト ル トも
︑﹁ 三 日 目ま で
⁝留 ま っ た﹂ とし て お り︑ これ を 三 日目 に 赦 さ れた と す ると
︑一 月 二 十 七 日 に な る"
︒ た だ 王の カノ ッサ での 誓い の文 書の 日付 が︑ 一月 二十 八日 であ り︑ 一般 にこ の日 が赦 免の 日と 見ら れて きた
#
︒
﹁ 丸三 日
﹂か ど うか 明 ら かで な い が︑ ツ ィマ ー マ ンは
︑三 日 間 の悔 悛 は 十 分証 せ ら れる と 見 てい
る$
︒し か し ド ニ ゾ ーだ けは
︑こ の三 日間 の悔 悛に ふれ ず︑ 三日 間の 交渉 とし てい る%
︒ さら に ド ニ ゾー は
︑王 は 一月 二 十 五日 に 法 王 の 前に 来て 赦免 され たと し︑ 一日 で悔 悛が 終わ った かの よう な印 象を 与 え て いる
&
︒ド ニ ゾ ーの 場 合︑ 一 月二 十 五 日 が 悔悛 の開 始日 とと もに
︑赦 免さ れた 日と もな って いる ので ある
︒ フリ ート はこ のド ニゾ ーの 記述 に注 目し
︑従 来の 説と 違い
︑一 月二 十五 日を 赦免 の日 とし
︑三 日間 の悔 悛を ドニ ゾ ー は 見 落 し た と し て︑ 悔 悛 の 開 始 日 を 一 月 二 十 三 日 と し
︑さ ら に そ れ 以 前 に 三 日 間 の 交 渉 が あ っ た と 解 釈 し て い る'
︒フ リ ー トは
︑一 月 二 十五 日 を 赦 免の 日 と する こ と の方 が
︑﹁ パ ウ ロ回 心 の 日﹂ とし て よ りふ さ わ し い と し︑ 従 来 の 一 月二 十 八 日説 は
︑上 述 の よう に 王 の誓 い の 文書 の 日 付 に由 来 し︑ こ の文 書 に 関連 す る 法 王の 諸 侯 へ の 報 告 に は
︑赦 免の 日と して 言及 され てい ない と指 摘し てい る(
︒ この 全く 新し い説 を既 述 の シ ーフ ァ ー の著 書 も 早く も 取 り 上 げ︑ 一月 二十 五日 を赦 免の 日と して 記述 して いる
)
︒ こ の日 時 の 問題 と と もに
︑悔 悛 前 の 事前 の 交 渉の 有 無 も︑ 史 料に よ っ て異 な っ てい る 問 題 で あ る︒ 王 の 悔 悛 行 為 が
︑事 前の 交渉 なし の突 発的 なも ので
︑法 王に とっ て予 期し ない 驚か すも のだ った のか
︑そ れと も交 渉の 結果 の行 動 で
︑法 王の 指示 によ るも のな のか によ って も*
︑ カノ ッサ 事件 への 評価 も変 わっ てく るの であ る︒ ラン ペル トに よる と︑ 王は マテ ィル デや ユー グら を︑ 法王 の所 へ﹁ 願い と約 束﹂ をも って 行か せ︑ 法王 から の赦 免 を 願っ た︒ これ に対 し法 王は
︑﹁ 長 く抵 抗し た﹂ が︑ 仲介 者た ちの 意見 に負 けて 王の 悔悛 行為 を許 した
︒そ こで 王は
︑
カノッサ像転換の可能性+ ― 538 ―
﹁命 ぜ られ た よ うに
﹂や っ て 来 たと
︑カ ノ ッ サの 行 為 が︑ 事前 の 交 渉 の結 果 で あっ た こ とを 示 し て いる
!
︒こ れ に 対 し ブル ーノ らは
︑交 渉に つい てふ れて いな い︒ この 両者 の中 間に ある のが ベル トル トで
︑王 がマ ティ ルデ らの 交渉 を 求 め︑ 彼ら が長 く話 し合 った が︑ 王は
﹁予 想外 に﹂
︑ 法王 から の﹁ 回答 や招 待を 受け 取る こと なく 大急 ぎで
﹂︑ やっ て 来 て悔 悛し たと 伝え
︑交 渉途 中で 王が 勝手 に悔 悛を 行っ た印 象を 与え て い る"
︒ 法 王の 諸 侯 への 報 告 では
︑カ ノ ッ サ 事 件よ りず っと 以前 の時 点で
︑王 の使 者と の交 渉が あっ たこ とを 記し てい るが
︑カ ノッ サ城 へは 王は 突然 やっ て来 た 感 じで あり
︑こ の王 の姿 に同 情し た人 々の
﹁懇 願に 負け て⁝ 破門 を解 いた
﹂と 述べ
︑悔 悛が 事前 の交 渉の 結果 では な か った かの よう な印 象を 与え てい る#
︒ ラン ペル トの 記述 に対 し︑ この 法王 の報 告と の決 定的 な違 いは
︑法 王が 交渉 なし の王 の悔 悛に 驚き
︑や むを 得ず 赦 免 した とい う点 で ある
︒$
こ の 両 者 の中 間 に︑
﹁ 交渉 途 中 に突 然
﹂と い うベ ル ト ル トの 記 述 があ
る%
︒ブ ル ー ノら は
︑ 交 渉に 確か にふ れて いな いが
︑交 渉を はっ きり 否定 する 記述 もし てい ない
︒法 王の 報告 は︑ 多分 に諸 侯そ れも 急進 派 を 意識 した もの で︑ 王と のカ ノッ サで の和 が︑ いか にも 法 王に と っ てや む を 得な い 緊 急 の処 置 で あっ た か を 強調 し
︑ 自 己弁 護し てい る感 が強 く︑ 事実 を伝 えて いる のか どう かは 疑問 であ る&
︒ 上述 の一 月二 十五 日の 日付 の件 から 見て も︑ 後述 の﹁ 誓い
﹂の 文書 も︑ 交渉 なし に俄 に作 られ たよ うな もの では な い こと から して も︑ また はっ きり 交渉 を否 定し た史 料も ない 中で
︑さ らに これ まで の和 解へ の全 体会 議の 動き など か ら 見て も︑ カノ ッサ で事 前の 交渉 があ った と見 るの が︑ より 事実 に近 い で あ ろう
'
︒即 ち
︑カ ノ ッサ で の 王と 法 王 の 会 見は
︑協 定に 基づ いて 行わ れた と見 られ るの であ る(
︒ 交渉 の中 心に マテ ィ ル デ やユ ー グ らが い て︑ 王 のた め に 精 力 的に 尽力 した こと も)
︑ ずっ と以 前か らの 仲介 者の 動き とも 連動 した もの と 見 る べき で
︑こ の こと も 事 前の 交 渉 を 傍 証す るも ので あろ う︒
― 539 ― カノッサ像転換の可能性*