奈良教育大学学術リポジトリNEAR
図像テキストの意義と可能性
著者 小野 擴男
雑誌名 教育実践研究指導センター研究紀要
巻 8
ページ 57‑69
発行年 1999‑03‑31
その他のタイトル On the Method to read and to teach lcon Text
URL http://hdl.handle.net/10105/4235
小 野 摸 男
(奈良教育大学教育方法学研究室)
On the Method to read and to teachlcon Text
Hiroo ONO
(DepartmentofEducationalMethod,NaraUniversityofEdcation)
要旨:「図像テキスト」(ikonischeTexte)を授業で使用することの意味とその使用方法につい てG.G.ヒラーの論述に従いながら明らかにした。区卜像テキストは非文字的なテキストで、例え ば漫画や劇画に代表されるように、今日の日常生活において至る所に見られるものである。教材 として図像的なものは具体と抽象とを媒介するものとして捉えられたり、また日常生活で自然に 学ばれるのであるから、それ自体学校で取り立てて学ぶべきものではないとも考えられがちであ
る。しかし「図像」はただ、抽象(概念)を学び取る際の媒介材でもなければ、日常生活の中で
「自然」にその構造が学び取られるというものでもない。学校で図像テキストは文字教材や数理 教材と同様の考え方で取り扱われる必要がある。
キーワード:図像テキスト、メディア はじめに
今日一般にテキスト・教材はどのように取り扱われているのか。とりわけ「図像」は教材とし てどのような位置づけを与えられているのだろうか。それらは、一般的には生活経験や異体的事 象と概念や抽象的思考とを媒介するものとして位置づけられることが多い。しかし図像あるいは 映像といったものはそうした媒介機能を担うだけではなく、例えば「写真は知覚化されると同時 に言語化される」1)といわれるように、それ自体が一つの「言語」でもある。更に次のようにも いわれる。「写真は文字のかわりになるほど、すばらしい能力を持っています。…ほんのちょっ と説明さえつけくわえれば、・‥読み方も易しくなり、万国万人に共通して、文字以上の働きをし ます」2)と。そういう視点で図像教材を捉えてみるならば、それは子どもたちの新たな学習可能 性を引き出しうる教授媒体なのである。
以下では、ヒラーの論述3)に従いっつ、まず教授メディア利用の今日的課題を述べ、次に「図 像テキスト」の教授学的な意義とその授業事例について考察する。
1.教授メディアの活用
今日メディアや教材は教師にどのようなものとして捉えられているのだろうか。
教師は教科書を折衷的に役立てる偶然的な刺激の集積とみなしている。また彼らは様々な教材、
教師用参考書、手引き書、授業モデル、メディア、事例集から独自の融合物を作り出し、次いで
小野接男
作業帳、OHPシート、テスト等に置き換え、年月を積み重ねてそれを改変してはいる。けれど もこうしたことはしばしば趣味的レベルにとどまり、教授学的な媒体の質を認識し判断できる教 育を受けたわけではない。実際彼らにはそうしたことについての判断力に欠けている場合が多い。
日々の教育実践において欠くことのできない教育におけるメディアの問題が、末だ必ずしも十分 に論議されておらず、また教師教育において教授されていないのが現状ではないだろうか。
1.1教授学における媒体(メディア)とは
日常語的に「媒体」(Medium)という概念は何かの媒介者、何かを媒介するという意味であ る。従って今日媒体は「情報の運搬者あるいは仲介者」を意味する。コミュニケーションモデル にあっては、送信者は受信者にある特定のコミュニケーションの文脈において機能する情報を伝 えるためにメディアを利用する。従って教授学的媒体にあっても、問題となるのは教授・学習の 文脈において機能する、そこに蓄えられた情報である。そこで重要なことは教授学的メディアを 他のメディアから区別する指示的・教授的関心である。だから教授学的媒体というのは、教授と 学習のコミュニケーション関係において、ひとっあるいは多数であっても、正確に規定された機 能をもっ情報の「担体」(tr丘ger)である。さらに、
消極的に規定すると、録音テープ、粘土、チョーク、録音機、OHP、ビデオカメラといたも のはなお教授学的媒体ではない。というのも対応する一義的な機能をもって「充電」されないか
らである。
積極的に規定すれば、写真、漫画、テキストは教授学的媒体となる。ただし、それらが教授・
学習過程において指示的・教授的機能を明確に満たす必要がある。
教師に注目すれば、教授学的媒体を選択し作り出す教師は、教授・学習過程におけるその可能 な機能を正確に規定できなくてはならない。情報論的に定式化すれば、媒体に書き込まれたある いは書き込まれるべき教授学的機能を確かにコード化できなくてはならないのである。
通常、教授・学習の媒体は授業にかかわる専門家たちによって案出され、時としては専門科学 者とともに最適化され、次いでグラフィックデザイナー、ジャーナリスト、編集者及び演出家、
つまりは媒体の芸術的・技術的専門家と共同で作り出されなくてはならない。出来上がったもの にはただ単に中立的な情報が盛り込まれているのではなく、それらは特定の教授・学習過程を視 野に入れて、選択され強調され精選されている。ただ、こうした操作は、特定の意図に役立とう とする操作的なサインの付加として捉えてはならない。そこでは一般的な情報が方向性、叙述関 心、教授学的な意図性に深く貫かれて位置づけられている。最終的に形成されたものは高度に人 為的な産物であり、その価値は細部に至るまでの記述的分析において開示されることになる。
そうした記述的な分析において−その媒体を授業に位置づけようとする人がやらなくてはなら ないのだけれども一媒体に埋め込まれた、「冷凍された」といってもよい意図が解読される。注 意深く教材を解読するならば、計画者と開発者が教授学的な潜在力という点から、メディアの中 に埋め込んだものが未発見のままとなるということはない。その教材の多寡や難易が明らかにさ れ、解読されるべき興味深い問いが立てられる。このようなメディア解読に対して教師が教育さ れていなければ、優れた媒体も全く用いられないか誤用されることになる。媒体の形成に高度な 質的基準を設定したとしても、教師がそのコードを解読する力がない場合、それは意味を成さな
い。
1.2教授学的な媒体分析・開発の基本視点
上述の教授学的媒体に関する一般論を基礎として、その分析・開発のための基本視点をヒラー は以下の3点でまとめている4)。
1.分析の多次元性
授業での方向づけや活動の刺激を与える教授学的な媒体を読み解くことは、一つの解釈学的な 過程である。それは考古学の行為とも似ている。というのもその成果は、分析者の学殖と文化的 な経験に極めて依存するものであるからである。分析者は、意味づけの可能性を明らかにするた めに、その分析対象に文化史や芸術史において形成された捉え方をまず当てはめてみなくてはな
らない。
また分析者は「市井の人」の日常において平均的に用いられる受容図式、つまり認識や意味形 式の広がりについても知らなくてはならない。そのことによって、彼はあれやこれやの提示形式 が日常一般にもたらすものが何であるかを論ずることができるのでる。
さらに彼は学校史的に形成されてきた提示、叙述、受容の図式を知らなくてはならない。その ことによって、どのような方向性や強さにおいて教師と生徒がその媒体に対して意識づけられて いるかを把握できる。
2.単一的な機能ではなく多重的な価値
様々な媒体、つまりは事象、事物関連、課題の提示を支援するような媒体、教授・学習過程を 刺激し統御し統制し確実なものとするような媒体を見つけだすために、上記の分析方法に習熟す ればするほど、教授学的媒体は、ますます多重価値的であり多重機能的に用いられることが明瞭 となる。そもそも教授・学習過程の特定の箇所で、狭く限定されてしか設定できないような媒体 は極めて少ない。圧倒的に多、くの媒体は、様々な多義的関係の中に存在し、様々な目的に対して 有意義に設定しうる。全く異なった文化的な文脈で、同一の媒体が一つの生産的な授業過程に位 置づきうるのである。
逆にいうと、一義的に直線的に教授学的メディアが機能すればするほど、それは教育的な潜在 力を失うことになる。つまり、ただ一つの目的にかなった媒体は、遊びのない性急なものであり、
できるだけ早くそれを片づけてしまおうとするものとなる。そうしたことが生起する授業空間は、
安らいで滞在できるところに旅立っまでの待合室となる。単一機能的な媒体を設定する者は、次 のことに驚いてはならない。本当の生活は後からやって来るのであり、この前段階は耐えるべき
ものに過ぎないとして、生徒たちが授業や学校を一時収容所と受け取ることを。
3.分析と開発の相互作用
授業を、個々の生徒とその日常性との極めて直接的な相互作用関係として構成しようとする者 は、自ら教授学的媒体を開発したりあるいは一般化された教材をより的確に用いなくてはならな い。自らで開発しようとする者は、それに先だって既存の教材の分析や解釈や実践的検証を必要 とする。そのことがまた、絶えずより良い、好ましい事物との対決を目指してのメディア開発能 力を促進する。逆にまた教授学的媒体を自ら開発することで「外からの開発」をよりよく位置づ けることができる。獲得された教材は自己の教授行為の中に組み込まれ、簡潔なカタログとして 引き出される。更にその後の経験や考察に基づいて、時に応じた教材を開発し最適なものとする ことができる。
小野撞男
2.図像テキストの意義
図像的なものを列挙してみれば、それがわれわれの生活や認識活動に深くかかわっていること を発見する。
道のスケッチや地理的関係の地図形式での表記、方向づけや制御のための絵文字、時間的経緯 を明確に示すところの総譜、流れ図、運行図、処方箋図、更にはスケッチ、工作図、設計図面、
分析やデータのグラフィック形式での記録、あるいは絵や記号や漫画やコラージュ等を用いての 関心や態度の伝達と創出及び好みや感覚や感情の開発等々。
このような図像や記号は懇意的な構成物ではなく、その「文法」に従って意味を表示する。規 則に従って図像や記号群を読みとり、自らそれを駆使する力を獲得しなくてはならない。現代の 文化に確かに参与しようとするのなら、ことばの領域と同様に図像的な叙述形式の領域において、
語彙、文法、レトッリク、スタイル、「文学」史に関する確立した知見が獲得されなくてはなら ないのである。
「ところで」とヒラーはいう。「文字テキストの優位と図像への無関心?によって、通常の授 業でとりわけ不利益をこうむっているのは誰か。」それは結局のところ文字文化にあまり親しん でこなかった子どもたちではないか。決して少数派ではない彼らは普通学校でしばしば困難を感
じているといってよい。解読し解釈しなくてはならないほとんどの重要な内容は、文字テキスト という媒体で表示されているからである。子どもたちの経験や断片的な知識は、授業で役立てよ
うとするならば、まずは文字テキストにおいて表現されなくてはならない。歴史や社会科学的教 科のみならず、自然科学的教科においても、また事物科においても、最終的にはたいてい読書力 が問題となっているのが現実である。
言うまでもなく文字テキストの難しさは、まず、語を構成するすべての文字素(Graphem)
が正しく解読され,規則をふまえて読み取らなくてはならない。文章の意味を理解するには、す べての単語を正しく読みとり、文章の最後に至るまでその可能な意味を記憶し、多義的な文脈と 関わって解読すべきことを総合しなくてはならないのである。何らかの理由から、テキストを読 み解くことが困難であるにもかかわらず、まずはそのことを克服しなくてはならない子どもたち は、いっそうハンディを抱えている。本質的なことがまさしく文字テキストの形式で提示され、
重要な問題の手引きをほとんどもっぱら文字で処理する学校において、生徒たちの無視できない 部分が、権利を有しているはずのその教育から閉め出される。
こうした問題意識に基づきヒラーは「図像テキスト」の意義をさらに以下のように考察する。
2.1ドイツ教授学における「図像テキスト」
「図像テキスト」を用いての授業の構想は、ドイツにおいて今日はじめて問題とされているわ けではない。一連の「図像」教材を用いての授業構想は、K.ギールとヒラーとが中心となって プログラムを開発した多視点的授業において提示され、それら教材はその授業構想とともに1971−
1976年にかけてロイトリンゲン教育大学のCIEL研究グループの研究成果として公刊された。そ
れは戦後のドイツ教授学史上はじめて、圧倒的に図像テキストを授業過程の基礎に据えた授業プ
ランであった。それらの図像による叙述は、美的な挿し絵的なものではなく、他の多くの授業教
材に見られるような動機づけを高める糖衣でもなく、またどうでもよい薬味でもなかった。逆で
あった。主要な論議は、複雑で多様に関連しあった図像教材を介して行われたのである。
図像的な形式の教授学的な意味を備えた更なる展開は、その絵を描いたセコンの風刺画ととも に、P.フレイレの意識的な識字教育についての理論的な研究によって活気づけられた。ドイツ語 の授業にアイデア豊かな多くの作品を描いたR.シューベルトのちからを得て、優れた図像テキ ストをもつ宗教授業が成立した。図像教授学の様々な問題設定についてはクリーゲン、パルプファ スそしてオットーなどの理論的・授業実践的研究が多くの刺激を与えるものであった。ヒラー自 身もこの間いくつかの研究・実践を発表してきた。
そのような先行研究・実践に学びながらヒラーは図像テキストの意義を以下の7つの命題とし てまとめている5)。
2.2図像テキストの特質:7つのテーゼ 1.記号やシンボルによる定式化(普遍性)
図像はその叙述を記号やシンボル言語で定式化するために、固有の文化に制約されることはな い。だからその事象についての国際的でまさに地球的な意志疎通を可能とする。図像で提示され た事柄について、それぞれの言語でまた方言で表現され解釈される。図像によって生徒たちは、
提示された事柄の中心的な視点へ直接導かれる。図像テキストは無言であるとともに多国語的で あるので、多文化的に共存している学習グループにおいて要求度の高いテーマを論ずるのに極め て適している。
2.「地図的構造」の中での個性的解釈
有意味な記号や複合的記号の「地図的構造」(topografischesGefiige)において問題を図像・
シンボル的に提示することは、拘束的で複雑な読みの技術に生徒を縛りつけるものではない。生 徒はそれを様々な方向性と意味水準において読み解くことができる。開かれていながら同時に秩 序立た複合性は様々な質をもった視覚的イメージを呼び起こす。より多くの解釈の可能性が開か れる。「読者」は、文字的な提示よりも早く、提示された事態に様々な視角から個性的に接近で
きるのである。
同程度の複雑な文字テキストは、書き言葉のテキストの解読に優れていない読書力の弱い者に は一般的に理解が難しい。書き言葉に精通していない者が書くことを通して、自らの考えを示す ということは、さらに期待しがたい。
3.「核心」把握の容易さ
生徒が図像教材によって問題の「核心」をまず把握すれば、次に、十分には末だ習得していな い言語で、自らそれを定式化する事が容易となる。まず問題を把担すること、次いでそれを言語 化すること、それが未だ書き言葉に弱い生徒たちに適した順序であろう。というのも彼らは「事 物」への直接的な近接を達成することで、読みの技術の困難性から解放されて、最初から内容面 での関与が可能となる。そうした媒体を用いることによって、わずかばかりの語と単純な文章に よって、つまりは日常語で、複雑な事実関係を定式化することができる。的確な解釈は複雑な文 章構造を必要とはしない。言語(最初は口語、後に文語)は内容的な把握の手段であり、「事物」
が埋め込まれている媒体でもなければ、誰がどの程度そのことについて理解するかを決定する媒
体でもない。
小野摸男
4.明晰な「言語」性
図像テキストはその要素の単純な確認に尽きるものではない。文字によって教育され、文字テ キストで訓練を受けてきた教師が次のように述べることは稀ではない。図像テキストではすぐ限 界に突き当たり、そこを越えるには文字テキストが必要となる。像を介して以上に言葉は綿密な コミュニケーションを導き出せるのである。こうした考えは、学校や大学の書き言葉文化の優位 性からもたらされたものである。図像テキストに関する「非識字者」が確かめられなくてはなら ない。単なる一例だが、あらゆる商業デザイナーはそうした偏見を簡単に克服している。つまり 彼らのデザインは一つの「言語」たり得ているのである。
5.「文法」とレトリック
他のあらゆるテキストの場合と同様図像テキストの場合も、それらは互いに作用し合う関係に ある。いわば「図像的レトリック」という伝統の中にある。そうしたテキストを作成したり解釈 しようとする者は、「引用し、ほのめかし、結びっけ、構成しながら」一連のテキストの流れの 中で作業する。だから学校は生徒たちに文字テキストと同程度に図像テキストを理解し意味づけ 更には作成できるようにしなくてはならない。具体的には図像の初歩的「読み」「書き」の授業 が慎重に構成されなくてはならない。文字テキストの学習と同様、その「読み」「書き」を生徒 たちに教えてやる必要がある。
6.文字テキストとの豊かな協同性
文字テキストと図像テキストの関係が新たに規定されなくてはならない。いわば文字テキスト を越えて将来的には図像テキストだけで重要なテーマや内容への接近をはかろうとするというこ とではない。しかしそのことは、図像的な提示形式を単なる補助的手段、つまりは具体的な関連 から文字シンボル(抽象)への媒介物とするものではない。
重要なことは図像と文字テキストを結びつけることで、これまで十分には展開されなかった叙 述体系を生み出すということ。単に教授学的な具体から抽象への「乗り込み」の定式化において 特色づけられるものではなく、事物の関連に分け入り、それを明確に捉えるための道具として役 立つということ。図像テキストから文字的テキストを構成したり、あるいはそこに計算問題の解 を求めるということ。そうした叙述体系によって授業の成果を確かめたり、学習の進歩(認識や 判断力)をいっそうよく検証することができる。
7.授業を変革するものとして
通常の学校でつまずきハンディをもつ子どもたちにこそ、授業の科学は挑むべきである。知的
な弱さや社会経済的なハンディを説明し、こうした生徒は「強制された植民政策」の犠牲者であ
ると述べることは、彼らの否定的な学校歴を説明するものであるかもしれない。しかしそのよう
に説明したとして、それは教授学的な立ち後れ、あるいは彼らに通した認識過程を促進すること
のない授業を提供している学校の無力さを釈明するものではない。図像テキストあるいは生活に
とって意味ある授業内容を提示する図的シンボリックな形式は、こうしたことを将来的に変革す
る重要な手段となろう。
3.風刺画を用いての授業の構想
以下ではヒラーの実施した「図像テキスト」(風刺画)を用いた授業事例6)をみておく。
一連の風刺画は、子どもたちも関わりをもつ社会問題に対する批判的視点を得さそうとすると きには有効性をもっものである。風刺画は現実の単なる模写ではなく(多くの授業はしばしばそ うしたものとなっている)また説明や解釈でもなく、最初から子どもたちに批判的な省察や判断 をせまる。7枚の風刺画は以下のものである。
1)Entwrzelung
Derwill gar nicht weg.Der geht nicht
freiwillig.Derwirdherausgerissdn.‥
(Johannes)
3)WegweiserBrot
.,.Diegehn Brotverdienen.
(Carmen)
2)DorfimRiicke
..seine Erinnerrungen,die tragt
ermit sich rum…
(Mario)
4)DM/YU
,.Das soll zelgen,WaS er denkt:
ImKopfhaterGekdund Herahat er
seinLand… (Johannes)
小野接男
5)SchwielenhAnde
…Ersagt mit den Hande:,Guck,
datiberau warich ...
(Kenan)
6)Fingerschnipser
...einRausschmeiβer
(Salvatore)
締 盲.′
姦。.各
4、. もJ
轟
7)Raus!
...WieBacksteine... (Andres)
…WennSiegehen,dannistDertschlandkaputt (Detlef)
1奄毎
3.1授業の構想
「授業のねらい」
一子どもたちにモチーフとしては同じである生の写真と風刺画との違いを明らかにさせる。
一風刺画を子どもに再生させることで、そこにシンボルがどのように用いられているかを理解さ せる。
−風刺画の内容と意図とを簡潔に示す文章(詩)を読ませ風刺画の「言語」機能を考えさせる。
「教材」
①7枚の風刺画(前員)と1枚の写真 1)ギリシャ:根こそぎ
2)トルコ:村を背負って 3)ユーゴ:パンの道標
4)ユーゴ:亘酎まマルク/こころはユーゴ 5)ユーゴ:「タコ」だらけの手
6)ユーゴ:爪弾き
7)トルコ:出て行け?!1
8)道路工事の作業員の実際の写真(略):朝はドイツ、夕べはトルコ
②風刺画についての詩
③1枚の学習シート(略)
「授業計画」
第1ステップ:「子どもたちが風刺画に慣れ、テーマをつかむ」
発問「見慣れない7枚の絵の提示。一人ひとり良くみてまだお互いにしゃべらない。これら の絵はどんなテーマを問題にしているのか。テレビ、新聞、街角、学校、家庭で話さ れているテーマでもある。」
指示「作業用紙の1行目に子どもが(7つの風刺画を貫く)テーマを書く。」
(風刺画の最初の理解)
反応予想「外国人労働者/外国人(ドイツにおける)が問題となっている」
指示「どんな絵を見たか、見出し語あるいは簡単な絵で学習シートに書く。」
第2ステップ:「風刺画を自分で略記してみる」(風刺画の再生)
<教師の解釈>(下図は教師による風刺画のポイント)
蘭蘭固画
趣協同
小野摸男
指示「こうした絵のことを風刺画といい、そのいくつかはすぐ理解できる。どれがいちばん 印象的だったか。学習シートの枠の中にそれと分かるように書く。」(2−3分後)
指示「描いた風刺画を黒板に措かせる。(風刺画を正確に写し取ることではなく、その風刺 画のもっとも重要なものを欠落させないことがポイント)」
指示「(黒板の絵を参照可。)もう一度やってみたい者は2つ目の枠を使って措く。」
第3ステップ:「風刺画について書かれた詩についての対話」
指示「これらの風刺画について論議したい。風刺画について書かれている文章を手がかりと する(それを板書)。」
留意点:対話の目標は、それぞれの風刺画においてこれらの文の正しさを実感すること。場 合によっては表面的には見えなかったことを黒板や学習シートに赤で書き込む。さ
らには文章が書かれている色で当該の風刺画を囲む。
第4ステップ:「写真と風刺画の比較」
発問「比較してみるとよい写真と風刺画がある。何か気がつくことは?この写真の特色は何 か、問題となっていることは何か。」
反応予想「道路工事をしている外国人労働者の写真」
反応予想「頑はDマルク/こころはユーゴ」
<可能な発間>
「この二つは何故対応するのか。」
「この二つが同じことを示しているとどうしていえるのか。」
「違いはどこか。」
「風刺画家は何を捨て、彼にとって重要なものは何で、何を残したか?」
「何がつけ加えられたか、そして何故?」
<対話のポイント>
「ヘルメット+スコップ+作業用長靴=建築労働者/清掃作業員」
「大きな頑/大きな手/小さな体=底辺の人、『全面的には受け入れられていない』」
第5ステップ:「風刺画によって新たな思考を呼び起こす(内容解釈の試み)」
発問「こうした風刺画から考えるべきことは何だろう。」
<教師の解釈>
1)根こそぎ:慣れ親しんだ所から立ち去ることはできるかもしれないが、人はその生活を 失う危険性のあることに気をっけなくてはならない。引き抜かれた植物は簡単に根づく
ものではない。
3)パンの道標:旅立ってきたところには何もない。未来がない。彼らは生き延びたいのだ。
5)「タコ」だらけの手:彼らはたらい回しにされている。そこで懸命に働かなくてはなら ない、その都市の名前を正しく書くことすら学ぶことができない。
6)爪弾き:彼らをうっとうしい蝿のように扱かっている。
7)出て行け?!l:そうなればドイツ人にもとっくに共和国はなくっている。彼らがみん な出て行けば共和国をもはや兄いだすことができない。
第6ステップ:「日常よく見かける図像は?」
発問「写真と風刺画のどちらが多くを語っていますか?われわれが見かけるのは、風刺画よ り(カラー)写真の方が多い。どう考えればよいだろうか。」
3.2授業評価
部分的に述べられている授業記録は省略するが、実験授業をおこなった授業者のヒラーは、授 業を省みて次のように述べている。
実験授業が示したことは風刺画という媒体は子どもたちを沈黙させるものではない。それは逆 であって、子どもたちに自分の考えを活発に発言させる。ハンディをもった子どもたちはさまざ まな意見を述べることを不得意としているのであるが、それは言葉(言語)の問題と密接に関か わるものである。生徒たちは、ここでは的を射た多くの意見を出すことができた。このことは教 師と子どものやりとりを量的な分析ではなく、風刺画の解釈を行った中核的な、例えば、次のよ
うな発言から確信できるのである。
・それぞれ絵を取り上げ自分の解釈を述べる時の生徒の発言で、
「その意味は・‥」「…といったことが示されている。」「それは…を言おうとしている。」
・「風刺画は立場をとる。批判し、判断を下す。」(ステップ3の場面と係わって)
教師「よく考えて下さい、絵は誰に向けられたものか。」
生徒「外国人に対して!…違う?」
教師「言い方を変えます。誰がいったいこの風刺画を描いたと患いますか。」
生徒「ドイツ人、外国人。ドイツ人と外国人が一緒に。」
教師「そうだといいね。」
言語的表現力を形成するための基礎が風刺画を読み取ることのなかにある。子どもたちは読み
の技術の困難さから解放されていた。風刺画を概観し、目で全体を捉えることができ、最初から
苦労して一語一語を読み取る必要がない。個々の絵の要素ないし構造を論述する、つまりは「図
小野摸男
像テキスト」を手がかりとして作業することができる。しかも解釈はたえずテキストと関連して おり、描かれたものから離れて勝手気ままなことが言われることはなかった。
「図像テキスト」は、文字的なものの総合を必要とする文字読解努力を軽減し、図像が表して いることの内容解釈へと直接的に道を開く。「図像テキスト」のメッカージが、自分の言葉で把 握しうることに気づくや否や、緊張した授業対話が生ずる。提示された風刺画のメッセージや呼 びかけは、ときとして教師ならびに子どもの生活現実に対する異なる関係をみせつける。そのこ とは、「爪弾き」の風刺画と関わって職を失うことの不安を明確にするために教師が次のように 問うとき、劇的に明らかにもされた。「失業ということを知っている?」それに対してある生徒 が叫んだのである。「はい、ぼくの父親。」生徒たちに笑い声が起こり、実験授業を計画した者た ちは困惑した。
的確な解釈に、複雑な構文が必ずしも必要ではない。わずかばかりの日常語と構造的に単純な 文章によって、複雑な関係が定式化しうるのである。
おわりに
以上「図像テキスト」の問題をヒラーの理論・実践例をとおしてみてきた。ヒラー自身も言及 しているところであるが、こうした図像テキストの扱いはP.フレイレのブラジルにおける識字 教育の方法とおおいに重なるところがある7)。フレイレが識字教育で問題としたことは、「既成 の識字テキストを満たしている疎遠な言葉の機械的暗記」ではなく、「民衆の言語」の獲得とい うことであった。そうした言語(テーマ)は、まず絵よってコード化して提示され、それをめぐっ て共同的・対話的学習が展開される。
ヒラーの場合、識字教育ではないが、その対象となった生徒は外国人労働者の子弟を含む、ど ちらかといえば未だドイツ語を不得意とする者たちであり、「図像」というコードを用いること によって、学習者が直面している問題状況に鋭く切り込み、それを契機に更なる学習を押し進め ようとしている。そうした教材を用いることで学習者及び授業の新たな可能性が示唆されている。
「図像テキスト」のもつこうした可能性について今後さらに考えていきたい。
注及び参考文献
1)R.バルト、沢崎訳『第三の意味一映像と演劇と音楽と−』みすず書房1984年 P.18 2)名取洋之助『写真の読み方』岩波新書1963年 P.ii
3)G.G.Hiller:Lehren undlernen mit Bilder−Mediendidaktishe Erwagungen zu Formen der ikonischenReparsentationimSachunterricht.InL Duncker,W.Popp(Hrsg.),Kind undSache−ZurpadagogischenGrundlegungdesSachunterrichts.Juventa1994,S・257−
273
G.G.Hiller: Die in der Fremde arbeiten… −Unterricht mit Karikaturen von
Arbeitsmlgranten.In G.G.Hiller,Ausbruch aus dem Bildungskeller−P丘dagogische Provokation.Langenau−Ulm1989(Dritte1994)S.109−121
4)G.G.Hi11er(1994)S.264−265 5)Ebenda,S.260−262
6)G.G.Hiller(1989)S.109−121。この授業は、ロイトリンゲンの促進学校の9学年の生徒た
ち13名を対象として実験的に行われた。
7)P.フレイレ、小沢他訳『被抑圧者の教育学』亜紀書房1979年 P.109−155