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(1)

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 : 和歌山藩家老三浦家と石橋生菴

著者 西岡 直樹

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 63‑83

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027765

(2)

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 : 和歌山藩家老三浦家と石橋生菴

著者 西岡,直樹

雑誌名 文化學年報

号 63

ページ 63‑83

発行年 2014‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027765

(3)

一 七 世 紀 後 半 に お け る 一 下 級 武 士 の 芸 能 享 受 の 位 相

│ 和 歌山 藩 家 老三 浦 家 と石 橋 生 菴│

西 岡 直 樹

は じ め に 日本

の 芸 能 のあ ゆ み を︑ 芸能 を

﹁享 受 する

見 る

︑ 聴 く

︑ 楽 し む

︶ 人 びと の 視 座 から 描 く とき

︑ど の よ うな 姿 が み え てく るの だろ うか

!

︒ 本稿 は︑ 一七 世紀 後半 に和 歌山 とい う地 方城 下町 で生 活し た︑ ある 下級 武士 の日 記を 素材 とし て︑ 彼や 彼の 周辺 の 下 級武 士や 上級 武士 たち は︑ どの よう な芸 能を

︑ど のよ うに 享受 した のか を跡 づけ よう とす る︒ これ は︑ 芸能 の享 受に 関す る一 種の ケー スス タデ ィだ が︑ この 事例 から

︑一 七世 紀後 半と いう 時点 にお ける

﹁日 本 の 芸能 とそ の享 受の あり かた の特 質﹂ の一 端を 浮か びあ がら せる こと をめ ざす

"

― 63 ―

(4)

一︑ 和 歌 山藩 陪 臣 石橋 生 菴 とそ の 日 記﹃ 家 乗

﹄ 本稿

で素 材と する 日記 を書 いた のは

︑石 橋生 菴と いう 人物 であ る!

︒ 寛永 一九 年︵ 一 六 四 二

︶ に 生ま れ︑ 元禄 一四 年

︵ 一 七

〇 一

︶ に 没 した

︒徳 川 幕 府 の御 三 家 の一 つ

︑和 歌 山藩 の 家 老 三浦 氏 に 仕 え た

︒俸 禄 は

︑二 十 石 三 人 扶 持 と 少 な く

︑下 級武 士で あっ た︒ 彼は

﹁儒 医﹂ を主 な職 務と した

︒儒 医と は︑ 主君 で ある 三 浦 氏の 側 近 くに 仕 え て︑ 書 物を 主 君 に読 み 聞 か せた り

︑ 医 療を 担当 した り︑ 宴席 に同 席す る職 務で ある

︒特 に﹁ 歴史

﹂上 に事 績を のこ した 人物 では ない

︒基 本的 には

︑城 下 町 和歌 山で 一生 を送 った が︑ 主君 の江 戸屋 敷詰 めに お供 して

︑八 回三 千日 近く を江 戸で 過ご して いる

︒ 彼の 主君 三浦 氏は

︑和 歌山 藩の 家臣 団の うち でも

︑第 三位 に位 置す る家 老で あっ た︒ 禄高 は一 万五 千石 であ り︑ 他 藩 であ れば

﹁大 名﹂ に匹 敵す る上 級武 士で ある

︒こ のよ うな 主君 の側 近く に仕 えた ため

︑生 菴の 日記 には

︑本 人自 身 の 芸能 享受 だけ でな く︑ この 上級 武士 の芸 能享 受の 記録 も書 き留 めら れた

︒ 彼の 日記 は﹃ 家乗

﹄と いう

"

︒万 治三 年︵ 一 六 六

︶ 十 九 歳の 時 か ら少 し 丁 寧な 日 記 を 書き 始 め︑ 寛 文三 年

︵ 一 六 六 三

︶ 二 十二 歳の 三月 から

﹁大 事な こと は漏 らさ ず書 き留 める

﹂と いう 態度 で日 記を 書き 留 め るよ う に なっ た

︒元 禄 一

〇 年︵ 一 六 九 七

︶ 五 十六 歳ま で の 日記 が 遺 さ れて い る︒ 日 記の 内 容 は︑ 生菴 本 人 の 日常 生 活 だけ で な く︑ 石橋 家 の 出 来 事と

︑主 君で ある 三浦 家の 出来 事な どを 記録 した もの であ る︒ 当初 は少 なく とも 十九 冊書 かれ てい たら しい が︑ 現 在 は二 冊︵ 四 十 歳 後 半

〜 四 十 二 歳

︑ 五 十 二 歳 後 半

〜 五 十 三 歳 分

︶ が所 在不 明と なっ てい る︒

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 64 ―

(5)

二︑

﹃ 家 乗﹄ に 書 き留 め ら れた 芸 能 記事

│ そ の全 体 像 と芸 能 享 受の 裾 野 まず

︑日 記に 書き 留め られ た芸 能記 事の 全 体 像を 概 観 する

︒︿ 表 1﹀ は︑ 彼の 日 記 に 書き 留 め られ た 芸 能記 事 の 回 数 を︑ 記事 の形 式別

︑芸 能の 種別

︑体 験契 機別 ごと に︑ 年次 的に 集計 した もの であ る!

﹁ 記事 の 形 式別

﹂と は

︑本 表 の 左 半 分・ 右 半 分 に 区 分 し て 数 値 化 し た も の で

︑生 菴 が 実 際 に 芸 能 を 見 物 し た 記 事

︵﹁ 見 物

本 表 の 左 半 分

︶ か

見 物 せ ず

︶ 情 報と し て 入 手し た 記 事︵﹁ 情 報

本 表 の 右 半 分

︶ か によ っ て︑ 区 別し て い る

︒ 表 から 明ら かな よう に︑ 彼が 日記 に書 き留 めた 芸能 は︑ 実際 に見 物し た記 事だ けで はな い︒ 合計 欄に ある 通り

︑見 物 三 百三 十六 回︑ 情報 三百 五十 六回 の記 事が ある

︒別 の言 い方 をす れば

︑彼 の周 辺に は︑ これ だけ の芸 能に 関す る情 報 が 溢れ てい るの であ る︒ 例え ば︑ 歌舞 伎が どこ かで 上演 され れば

︑印 刷さ れた 番付 が配 られ

︑興 行開 始を 告げ る口 頭の 情報 が回 り︑ また 興 行 中の 役者 の評 判や 役者 を称 える 印刷 物が 飛び 交う

︒能 でも

︑町 中で 勧進 能興 行が おこ なわ れる とな れば

︑そ の番 組 が 城下 町の 各所 に張 り出 され

︑ま た印 刷物 が配 られ る︒ この よう に︑ 近世 を生 きた 人 びと が

﹁芸 能 に接 す る﹂ と いう こ と は︑ た だ﹁ 見物 す る﹂ だ けで な く︑

﹁ さま ざ ま な 情 報を 得る

﹂と いう 幅広 い裾 野を もっ てい た︒ ちな みに

︑こ の集 計で は

︑彼 が 目を 通 す 書物

︵ の う ち の

︑ 芸 能 に 関 わ る 書 目

︶ や 入手 した 落書 など に芸 能を 下敷 きと する もの があ って も︑ 採っ て い な い︒ これ ら を 含め れ ば︑ そ の裾 野 は な お 拡が って いる

︒彼 らは

︑﹁ 見 物す る﹂ のと ほぼ 同じ 量以 上の

﹁情 報﹂ を通 じて も︑

﹁芸 能に 接し て﹂ いた ので ある

︒ では

︑そ のよ うな 情報 の入 手や 実際 の 見 物に よ っ て︑ 彼ら は ど の よう な 芸 能に 接 し たの だ ろ う か︒

︿表 1﹀ の﹁ 芸

― 65 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(6)

〈表

1〉『家乗』に書き留められた芸能記事

0 0 0 0 0 0 0 4 1 3 0 0 0 0 0 0 1 0 3 8 3 5 5 9 1 6 9 15 9 2 5 31 16 20 9 29 33 10 52 23 情報

0 0 0 0 0 0 0 4 1 3 0 0 0 0 0 0 0 0 3 3 1 2 2 6 0 4 5 3 0 1 1 25 5 7 2 18 21 5 38 9

2

2

1 1 1

1

12 1 1

6 5

7

1

1

3

1

7 2

2 1

1

1

2

2

1

1

3

2

1 7 5

5

1

1

1 1 2

1

2

1

1

5 1

1

3

1

3 5 3

1 4 3 3 1 5 3 3 16 8 見物

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 5 2 3 3 3 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 12 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 4 12 9 1 4 6 11 13 7 11 11 4 2 10

1

1 2 1

1 2 1 1 1 2

2

3

1 3

1 3 6 5

4 2

2 2 1 3 1 2

1

1 1 1 3

8 11 4 1

2

1

1 1

1

3 1

4 2 2 2 2

1 2

1

1

2 2 1

3 2

4 2 2

6 5

2

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 西暦 1642 1643 1644 1645 1646 1647 1648 1649 1650 1651 1652 1653 1654 1655 1656 1657 1658 1659 1660 1661 1662 1663 1664 1665 1666 1667 1668 1669 1670 1671 1672 1673 1674 1675 1676 1677 1678 1679 1680 1681 1682 1683 和年号 寛永19 20 正保元 2 3 4 慶安元 2 3 4 承応元 2 3 明暦元 2 3 万治元 2 3 寛文元 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 延宝元 2 3 4 5 6 7 8 天和元 2 3

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 66 ―

(7)

能 の種 別﹂ 欄を ご覧 いた だき た い

︒芸 能の 種別 は︑ 記載 頻度 数 の 高 い も の の み 項 目 を 立 て た

︒ 略 記 号 は

︑﹇ 備 考﹈ 3に 示 し た 通 り︒ 能狂 言︑ 歌舞 伎︑ 浄瑠 璃︑ 平 家 語 り︑ 幸 若 舞︑ カ ラ ク リ 芝 居

︑放 下︑ 角力 の八 つが

︑彼 の 日 記に 書き 留め られ た回 数の 多 い 芸能 であ る︒

﹁ 他﹂ 欄 に は

︑こ れ ら 以 外 の 芸 能を すべ て算 入し てい る︒ 見 物 で 三 十 七 回︑ 情 報 で 五 十 八 回

︒﹁ 語 る﹂ 系統 の芸 能を 始め

﹁歌 う

﹂﹁ 話 す

﹂﹁ 踊 る﹂

﹁ 弾 く

﹁打 つ

﹂な ど︑ さ ま ざ ま な 系 統 の 芸 能 が あ る!

︒ 一 回 と か 二 回 と か︑ 記載 頻度 数が 少な いと い

15 33 37 26 24 34 29 26 37 17

18 47 37 692

[備考]

1.本表は、石橋生菴の日記『家乗』に書き留められた芸能記事の回数を、記事の形式別、芸能の種別、体験契機別 ごとに、年次的に数量化したものである。

回数は、同一の日時・場所で2つ以上の芸能に接した場合、それぞれの芸能種別に1回として算入している。し たがって、上記の回数は必ずしも日数を意味しない。

2.記事の形式別とは、本表の左半分・右半分に区分して数値化したもので、生菴が実際に芸能を見物した記事(「見 物」=本表の左半分)か、(見物せず)情報として入手した記事(「情報」=本表の右半分)かによって、区別した。

3.芸能の種別は、記載頻度数の高いもののみ項目を立て(下記の略記号)、それ以外の諸芸能についてはすべて

「他」に算入した。

能…能・狂言、猿楽(申楽)、能、仕舞、謡、囃(拍子)、狂言など 歌…歌舞伎、物真似狂言、狂言尽、芝居など

淨…淨瑠璃、淨瑠璃歌、説経淨瑠璃、淨瑠璃操、操、傀儡など 演…演史、平曲、平家など

舞…幸若舞、幸若、舞、舞曲など カ…カラクリ、竹田芝居など 放…放下、籠抜、幻術、軽業など 角…角力、相撲、相撲芝居など

ただし、これらの芸能には2つ以上が合体して興行を行うもの、互いに融合し合う芸態をもつものも多く、本表 の区別はあくまで便宜的なものであり、1つの目安にすぎない。

4.体験契機別とは、各芸能種別欄内の左・右に区分して数値化したもので、生菴が三浦家邸内や三浦家家臣の公務 として芸能に接する場合(公務=各芸能種別欄の左)と、余暇などを利用して個人的に見物した場合(公務外=各 芸能種別欄の右)とによって、区別した。

4 19 18 11 10 14 8 9 20 11

7 24 32 356 1 2 3 1

1 3

1 1 5 58 1 4 5 2

1 13 5

10 10 1

1

1

3 10 1 1

1

2 1 12 9 4 1

1 8 3

2 5

57 1 1

6 12 37 2 15 6 6 8 8 2 5 8 7

4 5 10 149 7 6 7 1 3 3 3 0 6 1

0 19 1 94 336 4 8 12 14 11 17 18 17 11 5

11 4 4 242 2 1 1

1 2

4

4

17 37 1

1

2 1 1

3

1 1 20 1 1

2 9 1

3 1

7 1

5 1 10 13 1

1

1

3 1 4 3 1

2 36 1

2

34 3 40 3

1

1 2

37 1 2 6 1 1

1 1

5

25 36 1 2 2

2 1

1 1 11 2 2

1 1

1

4

24 27 3 1

1

1

8 132 2 7 8 9 9 13 12 15 5 5

8 2 2 124 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56

1684 1685 1686 1687 1688 1689 1690 1691 1692 1693 1694 1695 1696 1697 貞享元

2 3 4 元禄元 2 3 4 5 6 7 8 9 10

― 67 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(8)

う こと は︑ 逆に 言え ば︑ 本稿 で主 に取 り上 げる 芸能 以外 にも

︑生 菴は

︑こ れら の数 値程 度の 種類 のさ まざ まな 芸能 に 接 して いた とい うこ とに なる

︒日 本の 芸能 は︑ 実に 多様 なの であ る︒ しか も﹁ 日本 の芸 能と その 享受 のあ りか た﹂ の特 質と して

︑も う一 つ大 切な こと は︑ 彼が 接し たこ れら のさ まざ ま な 芸能 は︑ 近世 に新 たな 成立 した 芸能 ばか りで はな い︑ とい うこ とで ある

︒能 狂言

︑平 家語 り︑ 幸若 舞︑ 放下

︑角 力 な どの よう に︑ 古代 や中 世に 成立 して

︑そ の後 さま ざま に変 容し なが ら︑ 近世 にま で生 き延 び︑ しか も近 世を 生き た 人 びと に楽 しま れた 芸能 も多 いの であ る︒ 三︑

和 歌 山藩 家 老 三浦 家 の 芸能 享 受

│そ の 全 体像 と 享 受の あ り かた 以上

︑彼 の日 記に 書き 留め られ た芸 能記 事の 全体 像を みた

︒こ こか らは

︑彼 らが 実際 に見 物し た芸 能に つい て︑ み て いく

︿ 表1

﹀で は︑

﹁見 物﹂ のそ れぞ れの 芸能 種別 欄を

︑二 つに 分け て数 値化 して いる

︒こ れは

︑彼 が芸 能を 見物 した 契 機

︵﹁ 体 験 契 機

﹂︶ を︑ 彼が 三浦 家邸 内や 三浦 家家 臣の 公務 とし て芸 能に 接す る場 合︵ 公 務

各 芸 能 種 別 欄 の 左

︶ と

︑余 暇 な どを 利用 して 個人 的に 見物 した 場 合︵ 公 務 外

各 芸 能 種 別 欄 の 右

︶ とに よ っ て︑ 区 別し た も ので あ る︒ 前 述し た よ う に

︑生 菴は 主君 の側 近く に仕 えた ため

︑主 君の 芸能 見物 に同 席す るこ とが 多い

︒つ まり

︑こ の左 の欄 の多 くは

︑生 菴 が 公務 とし て見 物し た芸 能で ある と同 時に

︑主 君︵

上 級 武 士

︶ が 見物 した 芸能 とい うこ とに なる

︒ 主君 が芸 能見 物す る機 会は

︑三 浦家 邸内 に芸 能者 を招 く場 合と

︑外 出し て見 物す る場 合が ある が︑ 前者 が圧 倒的 に 多 い︒ その 三浦 家で 芸能 が上 演さ れる 契機 は︑

!

な んら かの 公私 の﹁ 行事

﹂に 際 し て︵ 例 え ば

︑ 正 月 の

﹁ 謡 初 め

﹂︑ 藩 主

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 68 ―

(9)

が 無 事 江 戸 か ら 和 歌 山 に 帰 還 し た 祝 賀

︑ 三 浦 家 で 家 族 の 結 婚 が 決 ま っ た 祝 賀

︑ 花 見 の 宴 な ど

︑︶

!

和 歌 山藩 家臣 団の 同僚 や 親 族 な ど へ の

﹁饗 応

接 待

︶ と し て

"

家 族 た ち へ の﹁ お 慰 み﹂

気 晴 ら し

︶ と し て︑

#

芸 能 者 自 ら が 訪 問 し た︵﹁ 伺 候

﹂︶ 際

︑の 四つ を主 とす る$

︒ この うち

︑三 浦家 では

!

の接 待の 際の 芸能 上演 が際 立っ て多 い︒ で は︑ それ ら の 契機 に

︑彼 ら 上級 武 士 は どの よ う な芸 能 を 見 物し た の だろ う か︒

︿ 表1

﹀の 最 下欄 の 合 計 数

︵ の そ れ ぞ れ 左 の 数 値

︶ を ご 覧い た だ きた い

︒能

百 二 十 四 回︑ 歌 舞 伎

三 回︑ 浄 瑠 璃

十 一 回

︑演 史

三 十 七 回

︑幸 若

三 十四 回と つづ く︒ 能・ 平家 語り

・幸 若舞 の上 演が 群を 抜い てい る︒ これ らの 三つ の芸 能は

︑近 世に おい て武 家が 公 的な 儀 式 を行 う 際 に上 演 さ れ るこ と が 多く

︑﹁ 式 楽﹂ と も呼 ば れ た

﹁武 家の 芸能

﹂だ った

︒幕 府や 各藩 の 藩主 た ち の 中に は

︑そ の ため に こ れ らの 芸 能 者た ち へ﹁ 扶 持﹂

手 当

︶ を 支 給 す る者 も多 かっ た︒ 特に 能︵ こ れ に は

︑ 仕 舞 を 伴 わ な い 謡

︑ 伴 奏 の み 演 奏 す る 囃 な ど を 含 む が

︶ は︑ 幕 府や 各 藩 の城 中 や 武 家 屋敷 にお いて 圧倒 的な 上演 回数 を示 し︑ 能役 者は 幕藩 領主 たち に厚 遇さ れて いた

%

︒ では

︑こ のよ うな

﹁武 家の 芸能

﹂を

︑彼 ら上 級武 士は どの よう に享 受し たの か︒ 儀式 の一 つの パー トと して 上演 さ れ る の だか ら

︑﹁ 形 骸化

﹂し て い た ので は な いか

︑芸 能 と して の 生 命 力を 失 っ たの で は な い か︑ と い う 理 解 も あ る

︒ 三 浦家 での 享受 のあ りか たを

﹇史 料a

︑b

﹈か ら確 認す る&

﹇史 料a

﹈ 五 日写 俳諧 蒙求 了 晩 公饗 応安 倍長 徳院 三木 山菴 焉垣 屋正 木両 氏来 焉 幸若 庄大 夫同 弥兵 衛来

舞 大塔 宮熊 野 落

客 退後 復 命両 人使 舞湊 川合 戦 '

﹇史 料b

― 69 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(10)

十 三日

晩 公 拉岳 野氏 大崎 氏焉

正 木氏 真鍋 氏斎 藤氏 堀内 氏吉 川氏 荒川 氏来 臨之

藤 五郎 勘十 郎十 左衛 門宗 介 庄 三郎 来 幾都 演史 曲月 見与 土佐 房也

上 客退 後有 囃 曲二 人静 盛久 也

巳 時出 而亥 時帰 新堀 芝居 賜晴 天三 十日 又馬 子中 賜五 日云

!

﹇ 史料 a﹈ は︑ 主君

﹁ 公

﹂︶ が安 倍長 徳院 など を﹁ 饗応

﹂し た際 の記 事で ある

︒接 待と して

︑幸 若舞

﹁大 塔宮 熊 野 落

﹂が 上演 され た︒ そこ で客 は帰 るの だが

︑主 君は その 後に

︑自 らの 楽し みと して

︑も う一 曲﹁ 湊川 合戦

﹂を リク エ ス トし てい る︒ これ らの 曲は

お そ ら く 主 君 か ら 借 覧 し た

﹃︶ 太平 記﹄ を題 材に した

﹁新 曲﹂ だっ た︒

﹇ 史料 b﹈ も︑ やは り接 待の 席 で︑ 幾都 に よ って 平 曲﹁ 月 見﹂

﹁土 佐 房

﹂が 語 られ た わ けだ が

︑﹁ 上 客﹂ が帰 っ た 後 で

︑宴 席に 同席 して いた 和歌 山藩 お抱 えの 能役 者た ちに 囃﹁ 二人 静﹂

﹁ 盛久

﹂を 演じ させ てい る︒ この よう に︑ 彼ら 三浦 家の 主君 やそ の 来客 た ち は︑

﹁武 家 の 芸能

﹂と い わ れ る能 や 幸 若舞

︑平 曲 な どを

︑単 な る 儀 式 に付 属す るも のと して

︑言 い換 えれ ば﹁ 厳粛 な︵ 場 合 に よ っ て は 和 ら い だ

︶ 雰 囲 気﹂ を つく る 演 出と し て 形式 的 に 利 用 した だけ なの では なく

︑彼 ら自 身が これ らの 芸能 を︑ 自分 たち の公 務の 疲れ や緊 張を 解き ほぐ すも のと して も︑ 求 め たの だっ た︒ その よう にし て利 用し

︑ま た自 ら求 めた 結果 が︑ 三浦 家で の群 を抜 く上 演回 数と なっ て︑ あら われ た の であ る︒ 以上

︑上 級武 士と

﹁武 家の 芸能

﹂の 関係 をみ た︒ では

︑彼 ら上 級武 士た ちは

︑歌 舞伎 や人 形浄 瑠璃 など

︑都 市で 興 行 され てい る芸 能︵ 以 下

︑﹁ 町 方 の 芸 能

﹂ と 呼 ぶ

︶ に 興味 を示 さ な かっ た の か︒

︿表 1﹀ の 最下 欄 の 合 計数

︵ の そ れ ぞ れ 左 の 数 値

︶ を み る と︑ 歌 舞 伎

三 回︑ 浄 瑠 璃

十 一 回︑ カ ラ ク リ

三 回

︑放 下

三 回 で あ る︒ 特 に︑ こ の 時 期 の 三 都

︵ 京

︑ 江 戸

︑ 大 坂

︶ で 多く の観 客を 集め てい た歌 舞伎 の見 物回 数が 少な い︒

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 70 ―

(11)

これ には

︑上 級武 士の

﹁好 み﹂ の問 題以 上に

︑幕 府や 各藩 によ る見 物 規 制 の問 題 が 関係 す る!

︒ 幕 府は

︑承 応 元 年

︵ 一 六 五 二

︶ の﹁ 若 衆 歌 舞 伎

﹂の 禁 止 以 降

︑明 暦 元 年

︵ 一 六 五 五

︶ か ら 元 禄 二 年︵ 一 六 八 九

︶ に か け て︵ 特 に

︑ 寛 文 元 年

︵ 一 六 六 一

︶〜 寛 文 一 一 年

︵ 一 六 七 一

︶ に 六 回

︑︶ 武 家屋 敷 で の 歌舞 伎 上 演や 武 士 と役 者 と の 接触 を 禁 止す る 趣 旨の 触 れ を 頻 発し てい た︒ 和歌 山藩 でも

︑家 中の 武士 が城 下町 和歌 山の 芝居 興行 地へ 行 く こ とを 度 々 禁じ て い る"

︒ 理由 は 次 節 で 少し 触れ るが

︑﹁ 風 俗を 乱す

﹂た めと する

︒こ のよ う な 規制 の 下 では

︑和 歌 山 藩 の重 鎮 で ある 家 老 とし て は

︑三 浦 家 邸内 に歌 舞伎 役者 を呼 ぶこ とは なか なか 難し い︒ し かし

︑再 度

︿表 1﹀ をご 覧 い ただ き た い︒

﹁ 芸能 の 種 別﹂ 欄の 歌 舞 伎に は

︑寛 文 一

〇 年 に 二 回

︑延 宝 二 年

︵ 一 六 七 四

︶ に一 回 の 見物 記 事 が ある

︒前 者 は︑ 江 戸 藩 邸 の 三 浦 家 屋 敷

︑後 者 は 和 歌 山 の 三 浦 家 別 荘 で の 上 演 で あ る︒ 特 に

︑江 戸 藩 邸で の 上 演時 期 は︑ 幕 府 が各 藩 の 江戸 屋 敷 での 役 者 と の接 触 禁 止を 集 中 的に 発 布 し つづ け た 期 間 に あ た る

︒幕 府の 度重 なる 規制 にも かか わら ず︑ 彼ら は屋 敷内 で歌 舞伎 を見 物し た︒ ちな みに

︑近 年︑ 各藩 江戸 屋敷 の諸 記 録 にも とづ く歌 舞伎 上演 研究 が進 んで いる が#

︑ それ らに よれ ば︑ 三浦 家で の 二 回 は他 の 諸 藩に 比 べ て︑ むし ろ 少 な い 頻度 とい えよ う︒ また

︑﹁ 町 方の 芸能

﹂見 物記 事の うち には

︑三 浦家 邸内 に 呼 ばず

︑生 菴 な どの 家 臣 を 和歌 山 の 芝居 興 行 地に 派 遣 し て 見物 させ た場 合も ある

︒例 えば

︑延 宝六 年の 浄瑠 璃一 回︑ カラ クリ 一回 もそ の一 例だ が︑ 同じ 興行 地に 二つ の芸 団 が 人気 を競 って いた ため

︑そ の現 地取 材を させ てい る︒ この よう に︑ 上級 武士 たち は︑

﹁ 武家 の 芸能

﹂を 繰 り 返し 享 受 し なが ら

︑﹁ 町 方の 芸 能﹂ を も自 分 た ち の﹁ 楽し み

﹂ に 取り 込も うと して いた ので ある

― 71 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(12)

四︑ 石 橋 生菴 の 芸 能享 受

│ その 全 体 像と 享 受 のあ り か た 次に

︑生 菴が 余暇 など を利 用し て︑ 個人 的に 見物 した 芸能 をみ てい く︒ 彼が 芸能 に個 人的 に接 する 機会 は︑

!

友 人や 三浦 家家 臣な どの 屋敷 で︑ 彼ら が招 いた 芸能 を見 る︑

"

参 詣を 目的 と し て寺 院や 神社 へ行 き︑ その 境内 の興 行を 見る

#

芸能 見物 を目 的と して

︑芝 居興 行地 など へ行 く︑ の三 つを 主と す る

︒特 に︑

#

"

が 多い

︿ 表1

﹀の 最下 欄の 合計 数を ご覧 いた だき たい

︒ま ず︑

﹁見 物﹂ の総 合計 は︑ 全体 で 三 百三 十 六 回の う ち︑ 公 務︵ 左

つ ま り

︑ 主 君 の 見 物 数

二 百四 十 二 回︑ 公務 外

︵ 右

生 菴 の 個 人 的 な 見 物 数

九 十四 回 で ある

︒上 級 武 士 と下 級 武 士 で は︑ 芸能 を享 受で きる 頻度 にお いて

︑大 きな 差が ある こと が判 る︒ では

︑そ れら を機 会と して

︑彼 はど のよ うな 芸能 を見 物し たの だろ うか

︒再 び最 下欄 の合 計数 の﹁ 芸能 の種 別﹂ 欄

︵ の そ れ ぞ れ 右

︶ を みる と︑ 能

八回

︑歌 舞 伎

二 十四 回

︑浄 瑠 璃

二十 五 回︑ 平 曲

三回

︑幸 若

二 回︑ カ ラ クリ

三 回︑ 放下

十 回︑ 角力

二 回で ある

︒歌 舞伎

︑人 形浄 瑠璃 の見 物が 群を 抜い てい る︒ これ は︑

﹁ 生菴 が武 家屋 敷の 中で

﹃武 家 の 芸能

﹄に 数 多 く接 し て い るか ら

︑公 務 を離 れ た﹃ 余 暇﹄ には

﹃町 方 の 芸 能

﹄を 見 物 した

﹂と い う こと で は な い︒

︿表 1﹀ の﹁ 年 次別 集 計﹂ 欄 に目 を 移 す と︑ 日 記 に 書 き 留 め ら れ た 範 囲 で

︑ 彼 が 初 めて 芸 能 に接 し た の は明 暦 四 年︵ 一 六 五 八

︶ 十 七 歳の 能 だ が︑ 以後 彼 が 三浦 家 へ 出 仕 を 果 た す 寛 文 七 年 ま で

︑ つ ま り 二十 歳 か ら二 十 六 歳 とい う 出 仕 前 に 見 物 し た 芸 能 は

︑ほ と ん ど 全 て 歌 舞 伎 と 浄 瑠 璃︵ 特 に

︑ 歌 舞 伎

︶ だ っ た

︒ 上 級武 士と

︑下 級武 士︵ の 息 子

︶ で は︑ 日頃 接す る芸 能が 違う ので ある

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 72 ―

(13)

では

︑彼 は︑ この 時期 の歌 舞伎 をど のよ うに 享受 した のだ ろう か︒ その 享受 のあ りか たを

﹇史 料c

〜e

﹈で 確認 す る

﹇ ︒ 史 料c

﹈ 七 日携 阿宣 終日 観大 和屋 権十 郎歌 舞于 弱浦

少 年有 田川 幸左 衛門 玉沢 主計 佐伯 蔵之 丞 狂言 師又 市九 郎兵 衛九 兵 衛 弥五 兵衛 又三 郎等

而 盡 矢文 満 仲 月 見山 姥

錦 売 知 略恋 手 習

桜 重 切 兼衆 道

智 略 尼 等之 曲 昼 逢 北川 氏 弥 平 而 同皈 路休 妹背 山!

﹇史 料d

﹈ 十 三 日 又 逍 遥 于 弱 浦 観 歌 舞 曲 有 丹 波

!

島 原

阿 漕

鉢 木 贋 医 等 余 如 前 逢 数 之 助 而 同 皈 路

田 川幸 左衛 門者 容皃 端厳 而志 意間 雅也

歳 可十 六七 而芸 能傑 出于 妓中

寔 此地 所不 見而 他方 所未 伝也

推 而 称 天下 之優 童誰 謂非 其人 乎哉

是 故無 僧無 俗無 長無 少莫 不歎 之賛 之宜 哉 使一 蔽見 者忘 寝食 喪素 志矣

粤 好 事 之黄 茅者 往々 賦詩 詠歌 而使 膾炙 于人 口 嗚呼 汚漫 不経 之言 雖可 憎之 斥之

姑 記所 聞之 一二 于此

聊 備間 中 之 一笑 而巳 寄 躍子

田 上春 来花 正開

川 流帯

"

映 歌台

幸 通一 帖欲 攘悶

左 右舞 容允 可欸 田 川辺

杜 若

振 袖 田 川

又 来年

幸 左衛 門弱

題 幸左 衛門

長 袖軽 裾紫 与紅

声 清容 美説 何窮

幾 人移 意舞 台上

相 見断 腸微 笑中

― 73 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(14)

浦 有

田川

幸左 衛門

!

﹇史 料e

﹈ 七 日晩 雨 今日 与阿 宣及 星野 左 五兵 衛 観 歌 舞妓 于 明 光浦

躍 子 有 山本 金 太 夫 花村 志 津 満

花野 上 三 之丞 上 田 浅 之 丞

者 而 盡善 知鳥 花月 小六 替柴 垣多 社詣 等之 曲"

﹇ 史料 c﹈ は︑ 寛文 三年 二十 二歳 の四 月 七 日に

﹁お せ ん﹂ と いう 女 性 と︑ 和 歌山 の 興 行地

﹁弱 浦

﹂で 見 物し た 記 事 で

︑﹇ 史 料d

﹈は その 六日 後に 再び 見物 した 記事

︒﹇ 史料 e﹈ は︑ その 翌年 四月 七日 にや はり

﹁お せん

﹂た ちと 今度 は

﹁明 光浦

﹂で 見物 した 記事 であ る︒ 生菴 は︑ それ ぞれ の見 物記 事に

︑見 物 場所

︑出 演 役 者︑ 上演 演 目 を丁 寧 に 書 き連 ね て いる

︒注 目 し た いの は

︑﹇ 史 料 c﹈ で︑

﹁ 盡﹂

狂 言 尽

︶ の あ と に 続く 上 演 演目 の 三 か所 に

﹁幸

﹂と い う 文字 を 小 書き し て いる こ と で ある

︒﹁ 幸

﹂ と は︑ 出演 役者 列記 の最 初に 書き 留め た﹁ 田川 幸左 衛門

﹂と いう

﹁少 年﹂ 役者

︒彼 は︑ この 役者 が出 演し た演 目に だ け

︑目 印を つけ た︒ そし てそ の六 日後 の﹇ 史料 d﹈ では

︑そ の田 川幸 左 衛門 へ の 感嘆 を 文 字に し て い る︒

﹁田 川 幸 左衛 門 は 容貌 が 整 っ て いて

︑お ごそ かで

︑心 は雅 やか

︒歳 は十 六︑ 七で

︑芸 は際 立っ てい る︒ この 地で 見た こと もな く︑ 聞い たこ とも な い ほど で︑ 日本 一の 美し い少 年︒ だか ら皆 が褒 めた たえ

︑ち ょっ と見 ただ けで 寝食 も忘 れ︑ 心を 奪わ れて しま う﹂ と 記 し︑ つづ いて 生菴 の手 元に 集ま った

︑こ の少 年を 賞美 した 漢詩 文や 歌を 書き 写し てい る︒ 一年 後の

﹇史 料e

﹈で も︑ この 時は 田川 幸左 衛門 と は別 の 芸 団だ っ た が︑ やは り 彼 は 少年 役 者 二名 に 小 書 きし て

﹁共 に美 しい

︒十 四︑ 五歳 くら い﹂ と書 き留 めた

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 74 ―

(15)

この よう に︑ 生菴 は少 年役 者︵﹁ 若 衆

﹂ と い う

︶ の 姿か たち や所 作の 放つ

﹁美 しさ

﹂に 心を 奪わ れて いる ので ある

︒ この 時期 の歌 舞伎 は︑

﹁ 若衆 歌舞 伎﹂ を禁 止 さ れて

︑い わ ゆ る﹁ 野郎 歌 舞 伎﹂ の 時代 に 入 って い た が︑ まだ 若 衆 の 容 色を 売り 物に する 芸団 も 多 かっ た

︒﹇ 史 料f

︑g

﹈は

︑こ の 時期 の

﹁町 方

﹂で 出 版さ れ て いた

︑野 郎 歌 舞伎 の 評 判 記 であ る︒

﹇史 料f

こ れ か らか う

!

" .

西 の 方の

.

大 夫 さ ま の風 あ り

.

舞 臺つ き し とや か に に して か の 有 度 濱 に︒ あ ま く た り し 人 の

.

舞 のす がた かと をも はる

.

い つ比 にか

.

や つこ の

.

ちや の湯 にあ ひて かう だい すこ しそ こね て

.

あり しを

.

黒 谷や

.

お しこ うぢ の

.

やき 物師 かつ くろ ふと の

.

取さ た也

.

此 ほど は

.

よき つる につ きて

.

さ つま の山 のや う な る

.

仕合 有と いふ 吉 野櫻 花色

.

田 夫終 勿

.

看潔 清容

.

織 得錦 城海 き みゆ へに たつ るあ た名 もい かゝ せん よし やよ し田 に身 をの がる とも

!

﹇史 料g

﹈ 能 書也

︑つ めひ らき 勿躰

︑一 座彌 良の 手本 也︑ 但わ きよ ろし から ねば

︑お ちか 頭と 成の たぐ ひか

︑此 人去 施主 に 頭 指と 中指 にて 釜火 箸や うの なり して みせ られ けり

︑一 座の 僧法 師な どみ て︑ 印を むす はる 哉︑ 劔印 には 中ひ ら け りと

︑い ゑり いか やう の相 圖か きゝ たき 事こ そ︑ 御茶 ひろ しと いふ もの は實 には なし たる にて

︑御 茶せ ばし と い ふも のは

︑す また にぞ 有け るい と不 審也

︑異 見を 丹前 唇と いふ

︑是 や作 のあ つき とい ふな るへ し"

― 75 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(16)

﹇ 史料 f﹈ の吉 田伊 織評 では

︑﹁ 舞台 での 演技 がし とや かで

︑天 女み たい

︒以 前は

︑性 器を 痛め てい たよ うだ が︑ 今 は 治っ た︒ いい パト ロン がつ いた らし い﹂ とい う評 とと もに

︑生 菴が 書き 写し たと 同様 な漢 詩文 や歌 が掲 げら れて い る

︒﹇ 史 料g

﹈の 玉江 三四 郎評 でも

︑﹁ 書が 巧く

︑舞 台の 演技 もよ い︒

﹂﹁ こ の人 の性 器は 広い

︒こ れを

﹃狭 い﹄ とい う 人 は床 入り で騙 され てい るの だ﹂ と評 され る︒ 野郎 評判 記で は︑ この よう な役 者の 容色 やし ぐさ

︑床 入り の巧 拙な ど に 関す る評 判が 散見 する

︒ この よう に︑ 生菴 が少 年役 者に む けた

︿感 じ か た﹀ は︑ 町方 で 出 版さ れ

︑受 け 入 れら れ て いた ら し い︿ 感 じか た

﹀ と 重な り合 って いた

︒そ れは 生菴 だけ では ない

︒例 えば

︑延 宝六 年︵ 一 六 七 八

︶ に 出さ れ た藩 政 批 判の 落 書︵ 匿 名 に よ る 公 開 さ れ た 風 刺

・ 批 判

︶ では

︑芝 居 興 行地 通 い す る武 士

︑自 分 の屋 敷 に 歌舞 伎 子︵ 若 衆

︶ を 呼ぶ 武 士︑ 若 衆の 取 り 合 い で喧 嘩す る武 士が 数多 くい るこ とを 批判 して いる

!

︒先 程触 れた 和歌 山藩 の 芝 居 見物 規 制 は︑ この よ う に感 じ る 武 士 たち を前 提に 発布 され てい たの であ る︒ ただ

︑一 つだ け注 意し なく ては なら ない こと があ る︒ 再び

﹇史 料d

﹈を ご覧 いた だき たい

︒彼 は︑ 後段 で田 川幸 左 衛 門を 賞美 する 詩文 や歌 を書 き写 す際 に︑ その 直前 に 次 の文 を 書 き留 め て い る︒

﹁嗚 呼 汚 漫不 経 之 言雖 可 憎 之 斥之 姑 記所 聞之 一二 于此

聊 備間 中 之一 笑 而 巳﹂ であ る

︒﹁ あ あ︑ 以下 の 詩 文 は︑ 汚ら し い︑ 逸 脱し た 言 葉だ

︒こ ん な 言 葉 は憎 むべ きで

︑排 斥す るべ きだ

︒け れど も︑ 暇 なと き の 無駄 話 に 備え て 書 き 写し て お く﹂

︒生 菴 は︑ 自 分が 少 年 役 者 に夢 中に なっ てい ても

︑こ のよ うな 前文 を付 けな いと

︑こ れら の詩 文を 書き 写せ なか った

︒ それ が︑

﹁ 武士 の家 に生 まれ た 者 の自 覚

﹂な の か︑ 彼が こ の 時 期漢 学︵ 中 国 の 思 想

・ 文 学

︶ を 学 んで い た こと か ら 生 ま れた

﹁知 識人 とし ての 矜持

﹂な のか は︑ 判ら ない

"

︒た だ︑ ここ に︑ 歌舞 伎 を 見 物す る こ と︑ 役者 を 憧 憬す る こ と へ の﹁ 屈託

﹂が ある こと だけ は間 違い ない

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 76 ―

(17)

再び

︿表 1﹀ の﹁ 年次 別集 計﹂ 欄を ご覧 いた だき たい

︒各

﹁芸 能の 種別

﹂欄 の右 欄を 追う と︑ 生菴 は︑ 寛文 七年 の 出 仕以 後︑ 多忙 な公 務の ため

︑私 的な 芸能 見物 の機 会を もて なか った こと が判 る︒ よう やく 職務 に余 裕が でき た延 宝 八 年以 降︑ 再び 私的 な芸 能見 物の 機会 をも つよ うに なっ た彼 が︑ その 余暇 時間 に見 物し つづ けた のは

︑や はり 歌舞 伎 と 浄瑠 璃だ った

︒歌 舞伎 は︑ この 頃に は︑ 次第 に役 者の 演技

﹁ 芸

﹂︶ や戯 曲の 構 成︵

﹁ 仕 組

﹂︶ の魅 力 で 見せ る も の へ と 展 開し て い くわ け だ が︑ 生 菴は

︑こ の よ うな

﹁屈 託

﹂を 抱 きな が ら も︑ 終 始︑ 歌舞 伎 を 見 物 し つ づ け た の で あ る

︒ 最後 に︑ 生菴 の﹁ 武家 の芸 能﹂ 見物 に触 れる

︒︿ 表 1﹀ の最 下 段の 合 計 数の 芸 能 種 別︵ そ れ ぞ れ の 右

︶ を み る と︑ 能

八 回︑ 平曲

三 回

︑幸 若

二 回で あ る︒ こ れら は

︑平 曲 の 三回 と 十 七歳 の 能 を 除 い て

︑す べ て 江 戸 で の 体 験 だ っ た

︒能 は︑ 藩主 の家 中披 露能 と︑ 勧進 能︑ そし て喜 多家 宝生 家な ど能 役者 邸で の見 物︒ 平家 語り は三 回と も︑ 寺院 で 催 され た追 善供 養︵﹁ 頓 写

﹂ と 呼 ば れ る

︑ 経 典 を 大 勢 で 書 写 す る 行 事

︶ の際 の見 物︒ 幸若 舞の 二回 は︑ とも に神 社境 内 で の 小 屋掛 け興 行の 見物 であ る︒ 能役 者邸 内で の稽 古能 は生 菴が 知人 に連 れら れて 接し たも のだ が︑ これ ら以 外が

︑下 級 武 士が 接す るこ との でき た︑ 数少 ない 見 物機 会 だ った と い えよ う

︒も ち ろ ん︑

﹁公 的 な 文化

﹂と し て の能

・謡 文 化 の 裾 野 は 広い が!

︑ 江 戸で も

︑ま し て や 和 歌 山 の 都 市 住 民 に は︑

﹁武 家 の 芸 能﹂ を 実 際 に 見 物 す る 機 会 は︑

﹁ 町 方 の 芸 能

﹂の よう には 開か れて いな かっ たの であ る︒ 五︑

貞 享 三年 城 下 町和 歌 山 の芸 能 享 受 ここ

まで

︑和 歌山 藩家 老三 浦家 と生 菴の 芸 能享 受 の 全体 像 を 捉え る た め に︑ 和歌 山 と 江戸 と い う﹁ 地 域の 差

﹂を

― 77 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(18)

特 に区 別せ ず論 じて き た︒ 最 後に

︑貞 享 三 年︵ 一 六 八 六

︶ と い う一 年 間 を例 に し て︑ 城 下町 和 歌 山の 芸 能 享受 の あ り か たを 整理 する

︿ 表2

﹀を ご覧 いた だき たい

︒﹇ 備考

﹈2 に示 した よう に︑ 各﹁ 一日

﹂欄 を三 つに 分け

︑左 に﹁ 公務

︑お よび 公務 と し ての 芸能 見物

﹂︑ 中 に生 菴の

﹁余 暇時 間に おけ る芸 能見 物︑ およ び入 手し た芸 能情 報﹂

︑右 に生 菴の

﹁そ の他 の余 暇 時 間の 過ご しか た﹂ を配 した

︒そ れぞ れの 記号 につ いて は︑

﹇ 備考

﹈3 に示 した 通り

︒ まず

︑各

﹁一 日﹂ 欄の 左と 中の アル ファ ベッ ト記 号︵

芸 能

︶ を 追う と︑ 主君

上 級 武 士

︶ と 生菴

下 級 武 士

︶ で は

︑芸 能見 物の 頻度 に差 があ るこ とが 判る

︒つ づい て同 じ左 と中 のア ルフ ァベ ット のN とJ の記 号を 追う と︑ N

︵﹁ 武 家 の 芸 能

﹂︶ 見 物が 一年 間に 片寄 りな く散 らば るの に対 して

︑J

浄 瑠璃

︵﹁ 町 方 の 芸 能

﹂︶ 見 物 は八 月 末 から 一

〇 月 初 旬 に 集中 す る︒ 最 後に

︑各

﹁一 日

﹂欄 の 中 と右 を 追 うと

︑生 菴 の 余暇 時 間 の 中 で 頻 度 の 高 い︑ A

友 人 と の 歓 談 や

︑P

詩 文 づ くり

︑B

書 物 に 関す る 交 流 が一 年 間 通じ て 行 われ る の に 対し て

︑浄 瑠 璃見 物 は 一 か 月 半 に 集 中 す る

︒ この よう な特 徴が あら われ るの は︑ 武家 屋敷 の中 で催 され る芸 能が

︑各 地の 城下 町で も江 戸で も︑ その 基本 的な 上 演 の 枠 組み は 変 わら な い の に対 し て︑

﹁ 町方 の 芸 能﹂ の場 合

︑和 歌 山 と 江 戸︵ お よ び 京 都

・ 大 坂

︒ 三 都

︶ と で は︑ そ の 興 行の あり かた が大 きく 異な るた めで ある

︒ 三都 の芝 居町 では

︑﹁ 町 方の 芸能

﹂が 一年 中興 行さ れ て いる

︒言 い 換 えれ ば

︑城 下 町 和歌 山 で 生菴 が 自 らの 心 を や す らげ る時 間と して

︑友 との 歓談 や詩 文づ くり や書 物を めぐ る交 遊の 機会 を一 年中 もて たの と同 様に

︑芸 能を 享受 す る 側の

﹁主 体的 な選 択﹂ で︑ 見物 した い時 に見 物し たい 芸能 に接 する こと がで きる

︒そ れに 対し て︑ 城下 町和 歌山 で は

︑京 都や 大坂 など の旅 回り 芸団 が巡 業し て くる か

︑和 歌 山の 興 行 師が 芸 団 を 招い て 興 行す る か︑ で な けれ ば

︑﹁ 町

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 78 ―

(19)

〈表

2〉

日常生活(公務・余暇)に占める芸能享受の位置−貞享

3

年(1686)和歌山

12

[備考]

1.本表は、貞享3年(1686)を例として、石橋生菴の城下町和歌山での日常生活(公務・余暇)に占める芸能享受 の位置を示そうとしたものである。

2.各1日欄のうち、左に「生菴の公務、および公務としての芸能見物」、中に「余暇時間のうちの芸能見物、および 入手した芸能情報」、右に「その他の余暇時間の過ごしかた」を配した。

3.各1日欄における記号は、以下の通り。

[各欄左]○…「至公門」

(生菴が日記に用いた記号。その日に三浦家屋敷へ出仕したことを示す。ただし、三浦邸外での公務に は記号を用いない)

!…1日に2度「至公門」(1日に「○」が2つ)

◇…公務(日記に「○」を打たないが、記事内容から推定できる日)

忌・病・休…三浦家、およびその他邸外へ公務として出仕しなかった日 N…能(囃),J…浄瑠璃,S…角力,E…その他の芸能

G…饗応の席に芸能者伺候,K…寺社での開帳

(なお、芸能見物をした日については、上記のアルファベット記号を優先し、○!◇の記号は省略した。)

[各欄中]N…能(猿楽,仕舞、能),J…浄瑠璃,S…角力,E…その他の芸能

大文字は、余暇時間(公務以外)での芸能見物。小文字は、生菴が当日入手した芸能情報。

[各欄右]P…賦詩(主に、漢詩文を完成した日),H…俳諧発句

B…書物に関する友人・本屋との交流(本を借りる、還す、買うなど)

R…読書(主に、1冊の書物を読了した日)

A…「遊于○○氏」(友人・知人宅などでの歓談),I…囲碁 Y…遊山(小旅行),K…寺社での開帳見物

11

○ BP

○ P

10 Jj

○J

○ A

○ B

BR

○ R

○ B 9

○j

○J

!j

!

EJ

!

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!jA

○ P 病j

○J

○jeB

○j

Je

○j

8

!

○ B

○ A

◇ H

○ B

◇ PH

◇ B

○ P

!

○EJ 7

○ P

!

○ K

○n

! 6

○ B

○ A

BR

○ B

○ A

○ BP

○ A

◇ A

5

○ B

○ B PB

○ B

4

!n

○n

nB

○nA

○ P

◇ P

○ P 3

○ B

○ B

3

○ A

○ P

○ A

◇ P

○ P

○ B

○ A

○e

○ B

○ K

KP

2

○ A

◇n

○ P 1

○ P

○ A YP

○ B

AB

◇ A

○ A

朔日 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

― 79 ― 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相

(20)

方 の芸 能﹂ は上 演さ れな い︒ それ は︑ 多く ても 一年 に二

︑三 回で あり

︑何 年も 途絶 える こと もあ る︒ だか らこ そ︑

︿ 表2

﹀の よう に︑ 生菴 たち は芸 団が 興行 に 来 れば

︑一 か 月 半の 間 に 五 度も 見 物 する ほ ど に熱 中 す る し

︑多 くの 情報 が和 歌山 を駆 け巡 る︒ これ が︑ 城下 町和 歌山 の芸 能享 受の あり かた だっ た︒ お

わ り に 以上

︑下 級武 士と 上級 武士

︑﹁ 武 家の 芸能

﹂と

﹁町 方 の 芸能

﹂を 対 比 軸に し て

︑一 七 世紀 後 半 にお け る 芸能 と そ の 享 受の あり かた を跡 づけ てき た︒ ここ には

︑城 下町 和歌 山と 江戸 を往 還し た生 菴の 目や 耳を 通し た 芸能 の 姿 し かな い

︒三 都 や城 下 町︵ つ ま り

︑ 都 市

︶ か ら︑ 農山 漁村 に目 を移 せば

︑そ こに は中 世か ら引 き続 く田 楽な どの 農耕 に関 わる 芸能

︑神 事芸 能︑ さら には 祭礼 期 間 の踊 りや 唄︑ 門付 けの 芸能 者た ちな どに 接し

︑ま た自 らも 参加 する 人び との 姿が

︑都 市よ り鮮 明に 浮か んで くる だ ろ う︒ これ らの 人び とを 含み 込ん だ﹁ 全体 像﹂ こそ が︑ 一七 世紀 後半 とい う時 点で の﹁ 大き な見 取り 図﹂ とい うこ と に なる

︒ また

︑こ のの ち一 八世 紀か ら一 九世 紀に かけ て︑ 城下 町の 芝居 興行 でも

︑一 年中

﹁町 方の 芸能

﹂が 上演 され

︑享 受 す る側 の選 択幅 をひ ろげ る都 市が 次第 に多 くな る︒ 農山 漁村 にも

︑歌 舞伎

・浄 瑠璃 など が﹁ 買芝 居﹂ や﹁ 地芝 居﹂ の 形 をと って

︑盛 んに 受け 入れ られ るよ う にな る

︒三 都 でも

︑寄 席 の 芸能 見 物 な ども 加 わ り︑

﹁町 方 の 芸能

﹂は さ ら に 豊 かに 展開 する

︒そ の一 方で

︑﹁ 武 家の 芸能

﹂の うち

︑特 に 平 家語 り や 幸若 舞 見 物 の姿 は 一 層影 を ひ そめ て い く︒ さ ら に︑ 一九 世紀 後半 にな れば

︑芸 能も その 享受 のあ りか たも

︑﹁ 近 代化

﹂と いう

︑新 たな 試練 を迎 える こと とな る︒

一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ― 80 ―

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