奈良教育大学学術リポジトリNEAR
『萬書郡山記』と武田阿波―史料紹介と若干の考察
―
著者 塩谷 行庸
雑誌名 高円史学
巻 24
ページ 29‑43
発行年 2008‑11‑30
その他のタイトル Yorozugaki‑Koriyama‑ki (萬書郡山記) and Takeda‑Awa (武田阿波)
URL http://hdl.handle.net/10105/8856
﹃高書郡山記﹄ と武田阿波 −史料紹介と若干の考察−
塩 谷
一丁/イ
一 は じ め に
γ土平成八年九月︑大和郡山市に︑近世から近代にかけての古文書約一二︑〇〇〇点と美術工芸品が寄贈された︒寄贈したの
︵ c こ
は︑同市北郡山町から東京への転居に伴って旧家を整理した豊田栄氏である︒豊田家は︑柳沢吉保の父安忠の代から柳沢家
に仕え︑鑓奉行︑旗奉行などを務めていた郡山藩譜代の中級武士の家柄である︒この ﹁豊田家文書﹂は大きく分けて三つに
分類できる︒一つ目は豊田家に代々伝わった御用日記︑抜書︑聞書に類するものである︒二つ目は家老を勤めた薮田家のも
︵
−
︑
の史料である︒三つ目は蒐集家であった薮田武称が江戸︑大坂の古書店で買い集めたと思われる史料であり︑これは多岐に
わたっている︒薮田家の文書がなぜ豊田家に残されていたのかを考察しておく︒豊田栄氏の父実氏の母方の祖父は︑家老職
Tュを勤めていた薮田武祢である︒郡山藩の家老は五軒屋敷に居住していた︒当然薮田家も五軒屋敷に居住していたのであろう︒
そこへ︑薮田武称の娘と豊田家の結婚に際し新居として薮田家の一部を宛てたために︑両家の文書が一緒になったものと思
1 ︑
・ ︑
・
われる︒薮田家とは︑柳沢家中第二位の俸禄︵三千石︶を持つ家で家老を勤めている︒もとは︑山田五郎右衛門垂守か甲府
いちのかみ城代を勤めた忠左衛門重之に婿入りしたことに始まる︒五郎右衛門重守の系統はのち︑市正を名乗り︑家老を勤めている︒
養父忠左衛門家は後の時代も城代を勤めている︒
二
﹃大
和郡
山市
史﹄
︑﹃
郡山
町史
﹄に
みる
武田
阿波
︑・ ト.
︑
本稿で史料紹介する﹁萬書郡山記﹂ には武田阿波に関する記述がある︒武田阿波は︑郡山藩において元禄期の松波勘十郎
に並ぶ藩政改革担当者として知られている︒﹃ふるさと大和郡山歴史事典﹄ において︑武田阿波の項で﹁もと山東新之丞ま
た要人ともいう︒柳沢藩寄合衆として四〇〇石︑享保十三年︵一七二八︶柳沢保誠︵里恭の兄︶ の推挙により家老となり︑
五軒屋敷に入り︑藩財政の建て直しに活躍した︒間もなく罪を得て同十六年六月家老職を免ぜられ︑同十八年六月死罪となっ
た︒このとき阿波とともに処分された者は︑もと寺社奉行の一色右平番頭の水嶋図書それに阿波の妻︑両人の子供などを合
わせて六人であった︒後年この阿波たちの霊を慰めるため︑土地の人たちの建てた両が五軒屋敷に今も残っている︒﹂と記
︵ 7
︶
されている︒また︑出自について﹁彼の前歴については本当のところ明白でない﹂と記しているものの別の箇所で﹁初代柳
沢吉保の時代から随身した諸士は知行高も多く︑譜代の重臣として要職に就く︒柳沢権太夫︵枯監禰︶・村田斎院︵粁隔絶︶・
根津文左衛門︵千三百石︶・柳沢矢柄︵紅析監石︶・柳沢市正︵宗田︶⁝︵中略︶⁝武田阿波︵虻軒甲⁝︵中略︶⁝などは
︵ 8
︶
吉保以来の重臣である︒﹂と記している︒
︵g
︶
﹁重臣略譜﹂によると﹁二千石父山東小二即武田阿波﹂とあり︑﹁一︑享保十三戊申年御家老職一︑同十六辛亥年
故有而御役被召放 逼塞其後 近藤大学江御預ケ 父山東小一郎元禄二己巳年被召出﹂となっている︒元禄二︵一六八九︶
︵10︶年までの経歴はなるほど不明であるが︑川越時代から仕えていたことは間違いない︒﹁元禄三年分限帳﹂ では御鉄胞足軽頭
︑ u
に山東小市郎が見える︒また︑元禄七年の分限帳にも卸番頭三百石に山東小市郎が見える︒おそらくこれが﹁重臣略譜﹂ で
いう山東小一郎であろう︒享保四年と推定されている甲府在城時代には山東小市郎は寄合衆四百石となっている︒元禄七年
V 漸 爪
のものには︑甲府在城時代には大近習五百石として山東久左衛門が登場している︒山東久左衛門は御弓鉄砲方三百石になっ
︵ 1
3 ︶
ている︒享保九年の分限帳では山東要人の名で寺社奉行四百石に名を連ねている︒既述のとおり︑武田阿波は旧名を山東要
人ということはしられており︑少なくとも郡山への転封期には寺社奉行を任されるくらい昇進していたのである︒彼が一説
に言われているような浪人ではない︒
へ h
︑
さて︑この武田阿波の改革の内容であるが︑勝手賄いの緊縮︑家中扶持の借上︑厳しい年貢の取り立てが挙げられている︒
︵1
5︶
︵1
6︶
その結果︑﹁莫大な借財も三か年間にとにもかくにも償却﹂しているということである︒また︑大門相場という米相場の操
作による高値の米価政策も行った︒
三 ﹁萬書郡山記﹂ の内容について
豊田家文書の中に﹁萬書郡山記﹂という史料がある︒これは豊田家文書仮目録五〇四九号の史料である︒二十六ページに
わたる冊子である︒その内容は︑享保期なかでも国替期から享保一六 ︵一七三一︶年の藩政状況の記録である︒全文は以下
翻刻しているが︑その内容は次のとおりである︒
︑
﹁
︑
①まず山口八兵衛が改革にあたっている︒その際に︑
ア.謀判を家中に渡している︒
ィ.物成手形をつくり百姓に買わせているが︑年貢納入に際して使用できなくしている︒この結果︑年貢とは別枠で米
を藩に納入させている︒
ウ.家中への俸禄も八兵衛の判断で配分を決定している︒そのため︑藩内の流通にも影響を与えた︒
エ.八兵衛は︑自分に批判的な人や自分を取り立ててくれた柳沢権太夫を隠居︑減封にした︒
結果︑新助の代に徐々に減じられ︑享保一六︵一七三一︶年には召放たれた︒
②八兵衛の後をうけたのが武田阿波である︒
ア.阿波は八兵衛死の翌年に家老に取立てられている︒
ィ.阿波が寺社奉行をしていた当時の同僚が井の口与惣次で︑彼は隠居した︒理由は﹁阿波と同役だと将来が不安だか
ら﹂
で
ある
︒
③阿波の行った人事は︑甲州時代からの代官手代である山東九介を勘定役に︑また大坂出身の東清左衛門を郡代にした︒搾
取により︑伊勢国杖つき村では百姓四〇軒が潰れたことが公儀役人の耳に入り︑近江国では幕府の鉄砲師が取ケ高を下げて
ほしいと訴えている︒
④大門相場で成立した米価より十から二十匁高い設定で藩米を売ろうとした︒買わない者は籠舎又は追放にすると脅かした
ので損をして潰れた米屋が多くあった︒
⑤もと馬役であった安田極右衛門が調子のいいことを言って側用人になり︑女中の言いなりになり︑身分の貴賎を問わず召
抱え
た︒
⑥権右衛門は水嶋図書と謀り︑譜代の家臣の俸禄を減らし︑自分たちとそわない者を難癖をつけて召放ったうえで先代本多
の浪人を抱え︑自分たちが家老になろうとした︒しかし︑水嶋は隠居させられ︑酒井飛騨ついで近藤大学へお預けになった︒
この間に中西友右衛門を召放った︒
⑦堺の商人やあやつり芝居の木戸番などを召抱え︑殿様に取り入った︒また︑賄賂の横行や進退を失うものもでた︒
⑧以上のような状況を整理するために︑享保十六年十月九日に江戸住みの大目付赤井理兵衛が国許へ下り︑豊原丹下を家老
にした上で豊原によって安田︑東︑小鳴らを召放った上で︑武田阿波を逼塞させた︒平岡宇右衛門の屋敷で申し開きをさせ
た上で近藤大学へ阿波の子安芸を飯塚造酒之丞へ預け︑それぞれ名も変えさせた︒萩沢矢柄を家老にした︒
この史料の記述方針が阿彼らを完全に﹁悪﹂阿波らに反発するものを﹁善﹂としてとらえた書き方をしているので︑すべ
てを真実と考えることは難しいであろう︒しかし︑武田阿彼らによる改革とそれに反発する人々との間に﹁何らかの﹂政争
があったのは間違いない︒また︑記述の始まりが郡山への転封期に始まり︑阿波らの一件処理で終わっているので︑記述さ
︵ 建︶
れたのは享保十六年からさほど遠くない時期に記述されたと患われる︒また︑内容から上層藩士でなければ知りえないこと
︵ 1
9 ︶
もあるので︑それなりの地位にあった人物の記録であろう︒最後に署名のある﹁佐藤氏﹂が誰なのか不明である︒享保九年︑
明和の分限帳を見る限りでは上層藩士に佐藤なる人物は見当たらない︒また︑この史料がどのようにして豊田家文書に入り
込んだのかも不明である︒
さらに︑内容においても人物名などで誤記か恩い違いとみられるものがある︒例えば︑史料中薮田市正は隠居後﹁白扇﹂
︵ 加
︶
︵ 2 1
︶
と号したとしているが実際は﹁白鴎﹂と号している︒また︑﹁酒井飛騨﹂がでてくるが分限帳からみると酒井姓は寄合の酒
井内膳︑番頭の酒井外記の二名存在している︒さらに︑﹁豊原丹下﹂とあるが︑このような人物はいない︒おそらく︑豊原
飛騨と根津丹下を混同していると思われる︒平岡宇右衛門とあるのは︑癌城代の平岡将監であろう︒役職においても︑同様
である︒武田阿波が寺社奉行時の同僚が﹁井の□与惣次﹂となっているが︑分限帳では大目付である︒寺社奉行は大山五左
衛門であり︑阿波と与惣次が同僚であるのは享保四︵一七一九︶年ごろの弓鉄胞方のときである︒道鏡を登用した天皇が称
徳でなく皇極になっている︒
また農民の困窮に関する箇所でも﹁勢州杖つき村﹂︑﹁江州御公儀鉄砲師居住仕候村﹂があがっている︒近江国の鉄砲とい
︵ 2 し
うと国友村であろう︒しかし伊勢国の郡山藩領に﹁杖つき村﹂はない︒だが︑東海道の四日市宿と石薬師宿の間に﹁杖衝坂﹂
㌫ど
という倭建命にまつわる遺跡がある︒おそらくこの周辺のどこかの村を指しているものと思われる︒近江国友村も伊勢四日市宿も享保九年に郡山藩領になっている︒
このようにいくつかの問題点はあるが︑武田阿波のころに起こった ﹁何らかの﹂政争を推測するに足る史料であろう︒後
段では︑有時村での貝殻の話を例にとり阿波らの抗争を評している︒
武田阿波の改革は︑前述のように﹃郡山町史﹄︑﹃大和郡山市史﹄において記述されているが︑その明確な典拠がとなる原
史料が示されていないため不詳と言わざるをえない︒しかし︑現時点では︑管見の限りにおいてはこの史料しか確認できな
いため︑内容に関して検討の余地はあるものの若干の考察を加えた上で翻刻するものである︒この史料が︑武田阿波の改革
研究の一助になれば幸いである︒
﹇ 註 ﹈
︵1︶甲府市教育委員会﹁大和郡山市所蔵資料調査報告書﹂
︵2︶ ︵財︶柳沢文庫 米田弘義民作成の資料および︑柳沢史料集成 第二巻﹃分限帳 上﹄ による︒
︵3︶大和郡山市教育委員会の服部伊久男氏のご教示による︒
︵4︶ 五軒屋敷は現︑大和郡山市北郡山町に位置し︑大和郡山城ホールから市役所にかけての地域である︒
︵5
︶
﹁重
臣略
譜﹂
︵柳
沢史
料集
成
第二
巻﹃
分限
帳
上﹄
︶
︵6︶松波勘十郎については︑林基﹃松波勘十郎捜索一〜二六﹄ ︵茨城県史研究二九〜七四号︑一九七四〜一九九五︶︑拙稿﹃郡山藩の年
貢動向と松波勘十郎の改革﹄︵﹃高円史学﹄一二号一九九六︶を参照されたい︒
︵7
︶﹃
大和
郡山
市史
﹄
︵8
︶﹃
大和
郡山
市史
﹄
︵9
︶
﹁重
臣略
譜﹂
︵
柳沢
史料
集成
第
二巻
﹃分
限帳
上
﹄︶
︵10︶﹁元禄三年分限帳﹂︵柳沢史料集成 第二巻﹃分限帳 上﹄︶
︵11︶﹁元禄七年分限帳﹂︵柳沢史料集成 第二巻﹃分限帳 上﹄︶
︵12︶﹁甲府在城之節分限帳︵柳沢史料集成 第二巻﹃分限帳 上﹄︶﹂
︵13︶﹁享保九年分限帳﹂︵柳沢史料集成 第二巻﹃分限帳 上﹄︶
︵u
︶﹃
郡山
町史
﹄﹃
大和
郡山
市史
﹄
︵1
5︶
﹃大
和郡
山市
史﹄
︵1 6︶
﹃郡 山町 史﹄
﹃大 和郡 山市 史﹄
︵17︶山口八兵衛は︑甲府時代にも郡代として朝穂ぜきの建設に当たっており︑成果を挙げている︒このことは小学生の教材としても取
り上げられている︒山梨県総合教育センターのホームページの中で山梨県北巨摩視聴覚教育研究会による教材化 ︵http.ヽwww.
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\−
nd
e壇
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︶を
紹介
して
いる
︑な
ど︒
︵18︶前述のとおり︑享保一八年に武田阿波は死罪になっているか︑このことは記述されていない︒
︵1 9︶ ﹁ 享保 九年 分限 帳﹂
︑﹁ 明和 分限 帳﹂ ︵ 柳沢 史料 集成 第 二巻
﹃分 限帳 上
﹄︶
︵2 0︶
﹁重 臣略 譜﹂ ︵ 柳沢 史料 集成 第 二巻
﹃分 限帳 上
﹄︶
︵21︶﹁享保九年分限帳﹂︵柳沢史料集成 第二巻﹃分限帳 上﹄︶
︵22︶﹃古代地名大辞典﹄︵︵財︶角川文化振興財団編︶
︵2 3︶
﹃日 本歴 史地 名体 系﹄
︵平 凡社
︶
﹇凡
例﹈
︵1︶旧字体は新字体に改め︑変体仮名は通常の仮名遣いに改めた︒
︵2︶また虫損による難読部分はその文字数分を開け﹁虫損﹂とした︒また︑難読ながら推測して読んだ箇所は﹁カ﹂とした︒
︵3︶翻刻に当たって︑適宜読点を加え改行を行った︒
︵4︶一部に近世封建制的身分差別にもとづく名称が見られるが︑学術的研究のための史料翻刻という本稿の性格上︑原文のままとした︒
萬 書 郡 山 記
されハ︑大和国郡山乃刺史膏甲斐の国に存りし時︑一家老曽根権太夫様に柳沢の家族を賜︑柳沢権太夫と言一生無事にして
隠居し過大と号病死︑北山筋下積翠寺村増福山興因禅寺に葬︑二家老薮田市正︑是も柳沢を賜柳沢市正と言︑然るに大殿よ
り末女おます殿といふ御息女を娘に給りぬ︑然所に桜井又右衛門と言ふ者︑市正に請追従しておます殿︒事よせ︑殿様の金
銀を市正方へ運ふ︑市正ハもと奈次浪人にて侍れとも︑己を行に恥有事を忘れ欲にハ引く世のならひ是非なき事や︑時惟享
保九辰の年殿様和州郡山へ御所替の節引越路用に指詰まり︑依之首尾あしく巳春隠居し白扇と号︑依之子権太夫家老職発向
﹁力﹂するといヘビも恩案袋にて廉なる放︑山口八兵衛と言者本伊豆の国にて御公儀の御代官を勤候田夫野人の者を︑権太夫取持
を以郡代に言付︑かれに恩按あり︑拾五万石の家老を勤︑殿様の御不勝手に付︑八兵衛謀判を多くの家中へ渡す︑物成手形
をこしらへ︑百姓に責︑百姓貫取御代官所へ持参し年貢に上納せんといヘビも︑兼て代官に示合札米にてハ上納不成︑正米
にて上納可仕と言ふて︑不取上︑此故に百姓めいわくなりといへとも上と下との夏なれは是非なくから手形をにぎり難儀す
る︑其外︑八兵衛百姓を取しぼり︑家中物成給金もかれがはからいにて不渡︑依之町人も商責なく困窮し其上百姓町人をな
づけ寄賄音物を取︑ひいきへんばをし己にへつらふ者にハ山こし追渡︑己にへつらはさる者にハ五年も七年も不渡故︑家中
挙て困窮する︑如此取行たる天罰にや︑又ハ如様成事を心苦に恩ひけるにや︑食をとめのとはたをはしうの死たりとも言又
へ 虫 掴 ︺
死たりと言てけたひをして︑己ハ大坂へ欠落したるとも何の実︑何の虚を言ふ□口を不知︑八兵衛如此の悪人の者故︑前方
lカに登成し同役権太夫にさゝへ隠居いたさせ︑其外賢なる者ハ理いふ者をハ権太夫にさとへ隠居させ︑或ハ録をへらし或ハ役
を取上ケ席を押下け或ハ扶持をはなし様々悪事をする︑此因果故にや跡次山口新助家督候節ハ︑権太夫発向の事なれハ四百
五捨石を百石滅し三百五拾石にて立︑一年程後︑弐百石減︑享保十六亥十一月︑披召呼被仰渡旨ハ︑養父八兵衛事段キ不届
の勤方に有之候︑依之八兵衛存命にも候は1急度御仕置二可披仰付いへとも相果候上ハ是非なし︑依之七捨石御慈悲の筋を
以被下候︑錐有仕合と可奉存候由︑御仰渡其後十二月廿日︑此又被召呼新助事七拾石披召上︑今日中二御領分立退候様二被
仰渡候︑誠に人罰失はつも有ものにて候︑八兵衛相異翌年︑権太夫らハ相談相手なき故︑山東久左衛門と言ふ者を権太夫取
持にて家老にし︑武田阿波と名のらせ候︑かくて権太夫かくの病煩病死︑跡目ハ︑殿様の三男勝熊殿といふを養子にし︑後
伊勢殿と言︑病死︑権太夫断絶候︑かくて武田阿波︑前方寺社奉行を動ける時︑井のロ与惣次といふ人と同役を勤候所に︑
﹁ カ
﹂
与惣次賢なる人にて兎角此悪人と同役勤候而ハ行すえ難にあいんと思る隠居する︑此時古最早悪人を挙世所知也︑か様成悪
人を家老に披仰付候放︑心有人キハ掬ハ行すえ如何様成事にやなるらんと肝をひやし候所に︑山東九介と言ふ者を勘定役に
取立︑間もなく勘定奉行にする︑かれハ本甲州△代官手代を勤申着切の様成者也︑かれを阿波か相談相手にし掬又東清左衛
門と言者︑大坂の者を︑取立郡代にし百姓を取しぼり家中を困窮いたさせ候放︑勢州杖つき村の百姓進退を潰し四拾軒家を
こぼち候︑東海道のはた故︑折節御公儀御目付衆御通り披成御覧被成御尋被成候へハ︑百姓申上様は︑夏ハ松平甲斐守様御
領分にて候か︑年々御取ケ高被成其外色1御非分とも御坐候故困窮仕︑せんなく家を責梯何分へも立退可申︑と申上候へハ︑
︵虫 泡︶
御目付衆二条へ︑此段被仰遣候由︑江州にて御公儀御鉄胞師居住仕候村御座候︑依之□□者共へ御鉄胞弐百挺打指上候様被
仰付候所︑鉄砲師共困窮仕候間︑御免披下候様にと御訴訟申上候︑是も勢州同前の事之由︑郡山米相場ハ︑柳町大門前にて
前1台相極り候︑誓ハ壱石一−付銀三拾四五匁いたし候直段を︑阿波かりよう見にて御蔵前にてハ四拾七八匁ム五拾弐三匁に
直段を立責候故高直なる由︑買不申候へハ︑町の米屋共︒押て責米屋共買不責申候へハ籠舎いたさせ︑其上追放可致と申二
付︑米屋共見る!1石を抱て渕二人ことく買い手ハ牢舎追放こにあいん事をかなしみ︑買取大分の損をして町中米屋共困窮
ノノ︵虫損︶し進退を潰し候者あまた有之候︑○安田権右衛門と言者︑前馬役にて有之候か治民守護ハ登賢□□民国同ハ好倭人の由︑誠
︵虫 撫︶
成哉かくな追□□軽薄者御意に入︑馬役をゆるされ︑郡屋方の御側御用大枚成︑色々軽薄追従を言女中をなづけ何成共女中
共が届のま1にいたし候故︑女中も此権右衛門ならてハ世ハたたぬ事と用候故︑百何人とかそへ難キ女を抱︑昼夜の飴世歓
楽嶋原芦原のよそおい︑秦の始皇の三千人の后もかく哉覧と被寄候︑遊女自拍子のことく︑星の数々な︑︑︑居て金鏡をついや
す事さなから水をつかふに事ならす傾城の分立とも可謂︑依之かの女中か気二人たる者をハ︑乞食非人又えた成ともかれを
御抱披下候へと言へハ︑早速召出五捨石百石或ハ五人扶持拾人ふち給︑大小姓︑松の間︑書院語に披召出そこはくのついえ
言葉にものへかたし
権右衛門と水嶋図書と言者示合︑上総江戸川越甲州△供して釆ル者にハ物成給金も不渡困窮させ︑或ハ権右衛門か気︒不入
者にハむしつを言かけ扶持をはなし様々の悪れんことハにつくしかたし︑其上阿波と水嶋と示合︑前々よりつき来候普代の
者とハ不残扶持をはなし︑先代本田浪人を抱己ホ家老に可成とたくミ相談︑示台所に江戸より阿波か方へ達し候水嶋か状に
て哉あらハれ候放︑水嶋か郡山へ帰早速御側御用大役披召上︑三百石の内弐百石被召上︑水嶋ハ隠居被仰付倖百石二被仰付
候得共︑大々敷たくミ故又百石も被召上︑酒井飛騨に御預被成候︑其後又近藤大学二御預被成候︑此時中西友右衛門も御暇
︵虫 渦︶
被下候︑又堺町津の国産藤兵衛と言て金山寺味噌を責候者有被召出︑水野半右衛門と名乗十人扶持取又本ハロロ敷平者を勤
候︑安井彦八と言者︑いにLへ江戸神明前にてあやつり芝居の木戸番をしたる者を取立︑医者にて前田都南と名乗らせ百石
給り候︑此者三味線を引︑上るりを語とらはなかを御意に入毎夜上るりをかたらせ候︑追従のあまりに津国屋藤兵衛と都南
と京都大坂へ行︑野郎を壱入貢出安藤宮内と名付︑つれ来り御目にかけ候へハ弐百石給候問︑江戸参勤西丸はたかの野郎に
御側御用人に被仰付︑衣類大小袴上下武目一ハ馬々追仕立供人廿壱人つれさせ道中被召達候︑又阿波の追従に津国や藤兵衛をか
一カ﹂たらい︑京都△十六七の女子をつれ寄候かれも丸はたかの者共︑阿波か屋敷へ呼︑俄に梅花の油を付すき立はう!1まゆに
うすけセうやらしつかいせLをミ候ハ1︑せはほくろ口へにはう紅さ1せ︑衣類︑セうぞく︑足袋︑帯︑くし︑かうがいも
なけれハ︑阿波か方より当座かし︑籾主君を阿波か屋敷へ卸渡し御目にかけ候へは見る古はやく執着し︑即座に部屋と名を
付︑御名乗吾里の里の字を給りお里と名を付︑其の夜すくに城内へ引取︑寵愛限りもなかり海老同穴のかたらいもかくやと
恩るしられたり︑昔を閲に︑呉王へ西施を送りLも陶朱公がはかり事︑魯国の季頂子へ斉大女楽を送りLも斉人のむほんの
支度也︑後キ聞ハかの女子ハ︑京のひでんじといふミこなりとかや︑是皆阿波のむほんの心也︑此事江戸御前様披及聞召︑
﹁ カ
﹂
安藤宮内と言者︑終に不間者にて候︑尤里と言女子も被召置候由︑それハ女子の事我も女の事なれハしっとし可披恩召候問︑
︵ 虫 槻
︶
︵ 虫 損
︶
其分に候︑安宮内ハ如何様成者の子大小斗□御側にハ披召仕候哉︑是非のわけ承度ロとたくミかけて被仰候へハ︑殿様一
言の御あいさつも不被成候由︑依之早速宮内ハ郡山へ被通︑不日に御扶持召はなされ候︑伝聞むかし皇極天皇ハ道鏡と言下
肺を寵愛し給ふといへとも︑久敷キ昔の事なれハ名にのみ聞て目には見す︑依之安田権右衛門︑東活左衛門ハ先達而御扶持
をはなされ候︑しかのミならす︑阿波と水嶋と山藤九助と相談にて先代浪人をなづけ寄相済可達と申︑浪人又ハ町人或ハ日
用取諸職人追相済可遥由申︑賄音物を取五人扶持十人扶持或ハ百石弐百石取し者も有︑或ハ大分金銀を遥不済者の内進退を
失候者︑京大坂南都郡山の内数しらす有之候︑又家中にて役替致候人々の方より為祝義金杯阿波か方へ達し候へハ︑家来万
古手紙に御金遣候故︑阿波か方へ中間候へハ恭由︑私万古進候様にとの事に候己上と書留候︑是ハ尤の厄事なり︑手紙の末︑
進而書二各様御役替の節ハどなた様方も銀壱枚ツ1被遣候と書を申候故︑何も難止壱枚道候由︑如此家中古も取町人又ハ浪
︵ 難 説
︶
︵ 難 読
︶
人職人日用取追取候故︑大分金銀を取たくわえ南都領にて田地八町四方貫置︑京都に□□□ロロ仮に□□□買置候由︑町
説︒申候実不実ハ不知候︑かくて去年享保十六頭年十月九日︑しかも蒙子の日なりLが︑殿様在江戸に披成御座候放︑江戸
御屋敷より︑大目付赤井理兵衛と言人︑早速にて釆先豊原丹下と言人.一五百石役料都合千石にて家老職被仰付候︑此役にて
安田権右衛門︑東清左衛門︑小嶋三右衛門三人扶持召はなされ候︑同日晩方︑阿波登城仕候様に召状参候へハ︑推量いたし
参兼候へとも又の召にて登城いたし候へハ被仰渡趣︑其方事存入有之間︑家老職被召上御役料被召上︑其上丹下と屋敷居替
逼塞仕候様こと披仰渡候故︑十月九日古十月十二日追ひっそくにて罷在候所︑十二日︑平岡字右衛門屋敷へよばれ御口上の
趣︑其方事百姓を困窮いたさせ其上先代浪人を取持召抱させ候段不屈千万逆意の致方と被仰渡時︑阿波答︑百姓ハ御為にと
言わけせんとす︑浪人ハ如何と不審閑かたく二言も 不申前披仰渡様ハ段1不屈に何て︑近藤大学へ御預二成座敷牢に罷在
候︑一子安垂飯塚造酒之丞へ御預右同断︑十二月十五日本籠合の節︑阿波を新之丞︑安肇ヲ為之丞と改︑獄屋へ入止候故に
ぉ里も御暇被下︑前田都南も御扶持召はなされ︑津の国屋藤兵衛︑山中玄悦是ハ本本多能登守様にて施薬院を勤といへとも︑一
かゆうろたへなる哉覧︑能登守様などの名君に勤候者か済ハ候へも済ミもセてお里かおぢ分二言立︑弐百石取先主の御名追 41
︵ 虫 姐
︶
けがしたると恥をかき扶持にはなされつしかきなべて帰□口□り︑山東九介︑亥十二月中旬比より戸〆︑子三月六日御扶持
はなされ候︑先年萩沢矢柄と言人千五百石給家老職を勤られ候︑此人ハ賢なる人なりLを︑新之丞其覧をにくミ権太夫と示
︵難 琵︶
合隠居させ候︑悟敷人也︑後御暇を取関東へ帰られ候︑矢柄か家人森治右衛門︑益澤少左衛門︑伊口勘兵衛何も見限り︑御
暇をもらひ皆1古郷へ帰られ候︑江戸御崖舗にて老中役を勤られ候村井小平次と言人︑是こそ大賢なる人也︑しかとて善キ
︵虫 娘︶
人は御意に不大役筋も跡へなる故︑御暇を取立退候︑掬々おしき事也︑祝舵か倭有て宗□□□子いんハ此家に在らん事成か
たし夏に大和の国生駒山の者ハ山中なれハ見ぬ事も多かりけるにや︑有時村の子共︑員からを一ツ見付よろこひ家に持て帰り母
に見せ是ハ何といふものそととふ︑母申様︑是ハ赤貝と言ふ物也といふ︑父か言︑いや!\赤貝にハあらす是ハさねなかの
むきミ員也といふ︑然所へ東となりのおかた来り︑いや7〜lさねなかにあらすさるぼり也といふ︑西となりの高ミ見て︑さ るはりにもあらすあさり貝といふもの也と言︑東となりのおは1の言様︑いや!\あさりと言ふものにもあらす是ハばかが いと言ふ也と言︑向のおやぢいや!1ばかかいにもあらす是ハきちがいと言ふ物也と言ふて此論はてす︑此故にとう!1和
へ 難 浣 ︶
尚□□□存てあるへしと何も寺へ行︑和尚様見せ何もか様に申候か︑実ハ何と申員にて候やととふ︑和尚の言︑大方ハはる
かいかきちかいの内にてあらんと申されたと也︑無道の国に居てハ行すえおはつかなくてこしおれ二言つくねたり︑
なき道にまよふ大和の行
すえハくらかり峠の雪の夕暮
﹁ カ
﹂
是皆殿様ふくべのあとさき知ぬから︑如此よし大名ハはがなるもいくらも有もの也︑それは鋪さがいにしヘムの伝なれハ︑
ヨ ク
︵ 臓 読
−
能守るによりて国治る〜なり上りの家老ハ元御用取なと故︑恥をしらす︑或ハ物成を家中へは不渡おのれら□みに山こし
追わけ取故か様になり乗る也︑是皆歎心より起ル也︑下痛かた〜前かた新之丞ひっそくの内より大学へ御預の内まて落事
張文ふじゆくさいもん謡狂寄詩苛色々の事紙につまりて三百枚も可有之候間︑あまり大分なれハしるさす新之丞か様に成候
へハ家中町人殊の外悦此上ハ能可成候と悦申いへ共御冬御物成給金渡り候時︑又郡代古木丈太夫と言やつ家老と一味して物
成残り高にて割候へハ︑家老郡代ハ山越追取つめ候故︑己ホが取候事不成二付て高して刻候ゆへ小身なる者めいわくするな
り︑依之誰人かしたりけん宇右衛門が門へ張紙するその苛に︑
雨ふりて地かたまらんと思いLに
阿波雪き立て通のわるさよ
とかく郡山の家中にてハ悪人たゆると心へハ︑うぢのごとくわき出︑悪人不可有尺︑知候︑穴笑止なり於笑止也︑
扶持にはなれしの事
前方何拾何百石と言事を知す︑去年十月九日古大凡七拾人斗も可有之候と被存候︑戸〆二成候者︑但シ青竹四本ツーこて大
門こぐちともこ竹木取〆候 山東九介︑岡田二郎兵衛︑金銀勘定相届勘定済候ハ〜︑埼可明裁︑山田十左衛門金銀勘定︑
相木部内記同断︑届石川辺平︑但十左右衛門郎是勘定町中ム取集我用二道と聞かれハ窺舎也︑宿妻子ハ足軽番ヲスル︑○鈴
木出雲家老職被召上役料同断︑閉門十二月始より二月追候
佐藤氏
︵付
記︶
史料調査にあたって︑大和郡山市教育委員会の服部伊久男氏には大変お世話になった︒また︑在学中より︑怠惰な私を叱咤し︑公
私共にお世話をおかけしている本城先生に深謝します︒
︵奈良県立高円高等学校教諭︶