2013 (平成25)年9J11日 発 行 毎 月 1[bll日発行
1952(昭和27)年llH22日 第二種郵便物認可
第
7 3 1
号t え
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9 月
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本願寺の党鐘と教如上人
•
同 朋
さ 小
仏 教
文 山
化 研ヴh
九」
所
τ 7
研よL
'7'c 7し
1
顧1 文
はじめに
おはようございます︒愛知県のコ一河安城から参りました小山と申す者です︒よろしくお願いいたします︒日本
というわが国には全国津々浦々にいたるまで︑さまざまの宗旨や宗派の仏教寺院がございます︒そのなかにあっ
ぽんしょう
てただ一つ︑宗派を越えて共通するものが﹁党鐘﹂ではないかと思うのです︒いつもは何気なく素通りされる
方が多いと存じますが︑党鐘は意外に重要な仏教史の史料なのです︒
党鐘のことを﹁釣鐘﹂とも申しますが︑私の先生が日本中のお寺にある党鐘のうち︑十七世紀(一六
0 0年
代)
以前のものに絞って調べられたら五百一二十くらいありました︒党鐘に書いてある文字(銘文)には二通りあっ
へ こ い ん こ く よ う ち ゆ っ か ん
L
ゆ ち ゅ う ぞ う
て︑一つは凹んで書かれた﹁陰刻﹂︑もう一つは飛び出て書かれた﹁陽鋳﹂で︑願主や鋳造年時などが記されて
います︒陽鋳の文字は党鐘を造ったときのものですが︑陰刻はあとから彫ることもできます︒戦国時代では︑鐘
は戦争のときの合図に使うためにお寺から借り出されました︒時には返されなかったり︑敵方に渡さないように 地面のなかに埋めてしまったりする場合もあり︑最近になって茶畑から平安時代の党鐘が発掘されたことがあり ます︒そういうこともあったのですが︑党鐘というものは寺院になくてはならない︑仏教の象徴的な遺物として
残っているのです︒
東本願寺の賛鐘 真宗大谷派本山の東本願寺にはとてつもなく巨大な党鐘がございます︒今年の春︑大谷派の派祖であります第
ぴ 2 し
と も
2013 (平成25)年9J11日 発 行
十二代教如上人の四百回忌法要が勤まりましたが︑佐一舵(鉱匙堂
釣り鐘堂)から降ろされ︑現在修復中の阿弥陀堂に置かれた巨大な
鐘をご覧になられたでしょうか︒この鐘は東本願寺が別立されて間
四十七歳の教如上人を願主として成さもない慶長九年(一六O
四 ) ︑
れたものです︒
党鐘というのは金属製品ですから︑二疋の方向から四百年も撞き
続けますともう限度です︒私は党鐘のコピーを造り︑古い鐘は文化
財として保存することが望ましいと進言してまいりましたが︑篤信
の方が新しい鐘を寄付してくださいました︒
今︑いかなる党鐘もコンピューターで測量できますから︑表面の
装飾など凹凸を正確に図面化することが可能です︒図面通りの鋳型
を造り︑溶けた金属を流し込むと本物と同じ鐘ができるのです︒親
鷲聖人七百五十回御遠忌のときには︑こうして新しい党鐘を掛ける
東本願寺鐘 図 l 1914
•
ことができました︒東本願寺は四回も焼けておりますから︑党鐘も
かなり痛み音も悪かったのですが︑新鐘の音色は全然違いますね︒
鐘の音色もコンピューターで調整できますから︑今の党鐘は素晴ら
しい音が出ます︒
でも︑古い鐘と新しい鐘を比較したら︑不思議なことに違いが二
hリ
由旬
︑
A7
ぷ9
点ありました︒一点目は﹁竜頭﹂の様式です︒党鐘は最上部の竜
かさがた頭という︑二頭の竜の頭が﹁笠形﹂の部分をくわえた所に引っかけ
し ゅ も く っ き ざ っ
てつりさげ︑﹁撞木﹂という棒で﹁撞座﹂を撞くことで鳴るわけで
す︒﹁鐘が鳴るのか︑撞木が鳴るのか﹂と昔はよくいったものです
が︑撞木がよくないといい音が出ません︒鐘のためには柔らかい木
し ゅ ろ
がいいと椋欄の木を使うお寺がありますが︑柔らかい木では駄目で
す︒やはり堅い︑樺のような木がいい音が出ます︒
︻ 図 1}
が教如上人時代の東本願寺鐘です︒竜頭の方向が撞木と
直角に交わるようになっています︒この様式は古い時代にしかない
もので︑撞いたときに鐘が大きく揺れ︑竜頭が折れることもありま
す︒実際︑西本願寺鐘は折れてしまっています︒そういう党鐘が日
本にいくつかあります︒
今回︑新しく造られた党鐘は︑{図2
︼のような撞座と竜頭の方
向が平行する新しい様式で鋳造されました︒こうすれば確かに折れ
にくいのですが︑教如上人時代の鐘とは違っています︒それが一点
日で
す︒
(図
は小
山正
文﹁
東本
願寺
の金
工口
問﹂
﹁真
宗﹄
二点目は﹁乳﹂の数です︒乳とはお釈迦さまの頭髪みたいなブツ
ブツのことで﹁乳の間﹂に五段五列ずつ四カ所︑計百個あります︒
東本願寺鐘には更に﹁上帯﹂の上部四カ所に二個ずつ計八個︑合
•
一九
八四
年四
月号
より
)
2013(平成25)年9月1日 発 行
し ぴ も
3
と持 .
和 鐘 図2 縦帯
通産
計百八の乳が付いていました︒人間には百八の煩悩があると申しま
して︑それで除夜の鐘も百八撞くのですが︑古い時代の党鐘では百
八というのはまずありませんが︑江戸時代になるとほとんどが百八
になりますから︑東本願寺鐘は百八の乳をもっ︑もっとも古い鐘な
のです︒ところが︑東本願寺の新しい鐘では五段五列計百個の配置
は同じですが︑上帝にあるはずの乳八個の配置が違っています︒そ
れが二点目の違いですが︑新鐘は音もよく形も原型に近い立派なも
のといえましょう︒
この東本願寺鐘は︑
日の大きさなのです︒一番大きなものは﹁国家安康﹂﹁君臣豊楽﹂
の銘文で有名な京都方広寺鐘ですが︑あの鐘は奈良東大寺の鐘をモ
デルにしてつくったものです︒実は豊臣秀吉が建立した方広寺その
一六
0 0
年代以前の党鐘としては日本で五番ものが東大寺をモデルにしたものなのです︒
•
二番目は東大寺鐘ですが︑ただし鎌倉時代に改修されているの
で︑もしかすると最初は方広寺を超える日本一の高きだったのかも
丹︑わさんさんじんじゃ
しれません︒三番目は山形県羽黒山の出羽つ一山神社鐘︑四番目が鎌
倉五山の円覚寺鐘︑その次が東本願寺鐘です︒この鐘が日本で五本
の指に入っているということは︑意外に大谷派宗門でも知られてい
ないように存じます︒
教如上人と賛鐘 ご承知のように︑東本願寺は慶長七年二六
O二)︑教如上人が徳
川家康から現在の土地をもらって別立されたものです︒京都に四
つ︑福井県に四つ︑滋賀県と三重県に一つずつ真宗十派の本山があ
り︑日蓮宗や禅宗︑浄土宗などとは違って︑派は分かれていても伝
えている宗祖親驚聖人の教えは別々のものではありません︒これは
真宗の大きな特色です︒他の仏教各派のように︑派が違うと教えま
で大きく違ってしまうということは︑真宗にはないのです︒家康か
ら認められ教如上人が東本願寺を別立されましたが︑教えについて
は西本願寺との大きな違いはなかったと思います︒
さて︑家康から士地の寄進を受けた翌年︑教知上人は早くも阿弥
陀堂を建立され︑翌々年の慶長九年には先ほどの究鐘が成ったので
す︒出発したての寺がこんな巨大な党鐘を造ったことに︑私は大い
に注目しなくてはならないと存じます︒当時まだ御影堂はなく︑阿
弥陀堂の前にあった鐘楼につりさげられた巨大な党鐘は︑とても目
立ったのではないでしょうか︒
4
この党鐘につきましては︑非常に詳細な記録が現在に残されてお
あ わ づ み
ります︒それは東本願寺の家臣であった粟津家に伝わっていた﹁御
堂日
記﹂
(﹁
新編
真宗
大系
﹄
一九﹁重要日記抜書﹂所収)という︑東本願
寺での行事の記録であります︒そこで早速︑教知上人四十六歳の慶
ぴ
長 八 年 二 六
O三)正月条から見てまいりますと︑正月十四日に摂
津大坂から東本願寺に党鐘を運び込み︑十七日の昼頃︑教知上人は
おおざか不在であったがその鐘を鐘楼にかけたとあります︒この﹁大坂﹂と
いうのは︑教如上人が文禄五年(慶長元一五九六)に大坂渡辺に建
立した﹁大谷本願寺﹂(現難波別院)のことです︒
し
ご承知のように教如上人は豊臣秀吉の命令で本願寺住職を辞めさ
せられましたが︑ご自身は本願寺住職の自覚を失うことなく布教を
やがて大坂城近くの渡辺に本願寺を建立しました︒その
続け
られ
︑ も
ときに造った党鐘を大坂からまだ鐘のなかった東本願寺へ運び︑新
鐘が完成するまで使用したものと思われます︒
そして鐘楼に鐘をかける様子を︑教如上人のお子さまである観如
上人がご覧になられ︑やがて戻られた教如上人もご覧になったと十
と
七日の一記録にあります︒この観如上人は本来ならば東本願寺第十三一
代となる方でしたが︑残念ながら十五歳で亡くなられました︒
2013 (平成25)sf 9 JJ 1 Il発行
同年十二月二十六日︑﹁御堂(阿弥陀堂)﹂前に鐘楼を新たに建立
するように教如上人が指図されたとあります︒ですから大鐘を造
り︑それをかける新しい鐘楼の準備に慶長八年の段階から入ってい
たことがいえるわけです︒
翌 慶 長 九 年 ご 六
O四)五月二十八日︑溶かした金属を地面のな
かに造った鋳型へ流し込み︑翌二十九日に早くもそれを掘り起こし
•
たとあります︒二十八日に金属を流し込んで︑翌日にもうあの大鐘
を掘り出すというのはちょっと早すぎると思︑つんですが︑二十八日
は宗祖ご命日ですから︑この日に合わせて準備を進めていたのでし
ト也︑つノO
六月三一日︑掘り出した党鐘を阿弥陀堂前へ引き︑六日に新たに建
立された鐘楼に新しいそれがかけられた︒その様子をご覧になった
ーレ
ゆ
JUノ¥観如上人が︑新鐘を撞きたいとおっしゃったので︑本式な撞木を設
置する前であったが撞いていた︑だいた︑と記されています︒そして
七日︑大津の御坊(現大津別院)にいっておられた教如上人が戻ら
れ正式な鐘の初撞きをされた︒つまり党鐘鋳造の願主である教如上
人が初めて撞かれたのです︒
教如上人時代の遺物
翌八日︑教如上人はこの党鐘に文字を彫り込ませます︒最初に申
し上げた陰刻という方法で文字を刻むのです︒さて︑﹁御堂日記﹄
に収録されている記事と東本願寺に伝わる現在の党鐘を比較します
と︑非常に興味深いことがわかります︒それは﹁鐘の両方に文字を
彫らせた﹂と﹃御堂日記﹄は記しているのですが︑どういうことか
とい
う点
です
︒
東本願寺鐘の﹁池の間﹂という部分に陽鋳という方法で飛び出る
ように﹁本願寺﹂﹁信浄院﹂﹁慶長九州一暦﹂﹁五月廿八日﹂の文字が
書かれています︒こんな巨大な党鐘なのに︑文字はわずか四行十七
文字しか書かれていません︒私としてはもっといろんなことを書い
•
2013(平成25)年9JJ1H発行
し び も
5
と‑
て欲しかったと思います︒なぜ少ないのかというと︑文字の上部に
二つの鳳風と二つの天女の文様が鋳込んであるからです︒
さて︑東本願寺鐘には︑撞木の当たるこカ所の﹁撞座﹂の下にも 文字が彫つであります︒﹁鐘両方に文字ほらせ﹂とは多分このこと を示すと考えられていました︒ところが昭和三十八年(一九六三) 頃︑本鐘の内側にも文字があることがわかりました︒すると﹁鐘両 方﹂とは鐘の外側と内側という意味かもしれませんが︑内側には
﹁慶長九附年五月廿八日大坂大工浄徳﹂と書かれていましたから︑
やはり﹁両方﹂というのは︑鐘のあちら側とこちら側という意味だ
と思います︒
て 制μ {乍
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鐘の外側︑
撞
座の }
縦 22 } 君
帯と鋳い の 物 も 下 師 じ
そこに何の文字が彫り込まれているかといえば︑
内側には上記のごとく﹁大坂大工浄 徳﹂と書いてあります︒当時の﹁大工﹂とは﹁大いなる工(たく み)﹂という技術者のことで大工・中工・小工とあり︑大工は技術
者の一番大将という意味です︒制作者の名前が三一カ所に書いてある
というのは︑日本でもこの東本願寺鐘だけです︒いかに浄徳が自信 を持ってこの党鐘を造ったかがよくわかります︒しかも法名で書か
あ び こ
れていますから︑おそらく真宗門徒だったのでしょう︒彼は我孫子
(大阪市住吉区)の職人で︑秀吉が大坂城の城下に集めた商工業者た
ちの一人であったと考えられます︒
もう一つ︑重視しなければならないことはこの党鐘が東本願寺の 境内で鋳造されたという事実です︒東本願寺の初代講師・恵空師が
筆写された﹃教如様之御時御寺内之図﹂(大谷大学博物館蔵)という︑
•
創建当時の東本願寺境内を描いた絵図面がありますが︑この図面の
つ き し よ う い あ と い け な り み ず
﹁ 撞 鐘 ヲ 鋳 タ ル 遮 池 ト 成 テ 水 タ マ リ テ
北西角に丸く囲みをして︑
アリ﹂と書き込まれています︒党鐘のことを﹁撞鐘﹂ともいいます
が︑この鐘は浄徳が大坂より﹁出吹き(出職)﹂︑つまり出張して境
内で造ったことがわかります︒この場所は現在の内事門のあたりだ と思われますが︑鐘を掘り出した跡が池になるほどの大きな穴を掘 ったのでしょう︒多分︑発掘すれば巨大な鐘を鋳造した遺構が出て
くると思います︒
このように︑東本願寺の党鐘は現物と文献と絵図面︑この三者が ぴったり一致している非常に貴重なものなのです︒東本願寺鐘はそ の後︑四度の火災に遭いながらも受け継がれ︑唯一の教如上人時代
の遺物として私たちの前に厳然として残されているわけです︒
四 大 坂 本 願 寺 の 賛 鐘 東本願寺の党鐘についてうかがっただけでも︑教如上人という方
の器量の大きさがよくわかると存じます︒教如上人という方は身の
丈六尺(約一八
om ) もある体格の持ち主で︑信長・秀吉・家康な どが目まぐるしく登場してきた時代に戦国大名と堂々と渡り合える だけの体貌の持ち主だったのです︒この方がお勤めの調声をされた ら堂内の隅々にまで聞こえたのではないか︑私はそんな気がしま す︒あの巨大な党鐘からも教如上人という人物の大きさ︑心身共に
すごい人間であったことがわかってまいります︒
では︑教如上人が東本願寺を別立する前の本願寺の党鐘はどうだ
った
ので
しょ
︑っ
か︒
6
大坂(石山)本願寺時代の第十代証如上人は︑ご自身で日記を付
てんぷんけておりまして︑現在では﹃天文日記﹂として国の重要文化財に指
定されており︑西本願寺に所蔵されています︒そこに本願寺の党鐘
のことが次のように出てきます︒証如上人三十二歳の天文十六年
(一五四七)十一月︑京都太秦の広隆寺から二百三十貫文で買い取っ
び た鐘を大坂本願寺に運び込み︑二十九日に鐘楼にかけたとありま
す︒そして天文十九年(一五五
O) 五月︑阿弥陀堂前に鐘楼を新た
に建立し︑広隆寺から買い取ったその鐘をかけたとあるのです︒
この鐘は永万元年(一一六五)に造られたものですから国の重要
し
文化財に指定されており︑日本でもかなり大きい部類に属します︒
元広隆寺鐘の西本願寺鐘は︑竜頭が取れていますので正確な高さは
わかりませんが︑かなりの大鐘を大坂本願寺は買ったわけです︒当
時の本願寺はかつてない全盛時代です︒それなのに︑なぜ古鐘を買
ったのでしょうか︒また︑広隆寺はなぜ鐘を売却したのでしょう も と
か︒その事情はわかっておりません︒
第十一代顕如上人の時代︑大坂本願寺は織田信長に攻められます
らいさんようが︑江戸時代の頼山陽(一七八
01
一八
一一
一一
一)
の有
名な
漢詩
﹁抜
き難
2013C'f成25)年 9Jl 1日 発 行
南無六字の城﹂にある通りなかなか落城しませんでした︒しか
し︑ついに正親町天皇の仲裁で信長と講和し︑大坂の寺地を明け渡
し︑その後は紀伊鷺森︑和泉貝塚︑摂津天満と転々とし︑やがて秀
古から現在の西本願寺地を与えられ京都へ一民ってまいります︒その
時党鐘も一緒に京都へ運ばれ︑以来四百年以上も西本願寺で使われ
ましたが︑東本願寺鐘と同じく宗祖七百五十回忌のときに新鐘と交
し
•
替して降ろされ︑現在は西本願寺境内の安穏堂前に置かれていま
このように︑現在では東西両本願寺とも︑かつて鐘楼にかかって す ︒
いた究鐘を間近で拝見することができます︒
さて︑それでは広隆寺から党鐘を買うまで大坂本願寺には党鐘が
なかったのでしょうか︒実はあったのです︒そのことも﹃天文日
記﹄に書かれていまして︑報思講のときに鐘を撞いたという記録が
あります︒しかし︑詳しいことはわかりません︒
さ ん ば じ よ う せ ん
ところで︑本願寺派に﹁三番の定専坊﹂(大阪市東淀川区)という
寺院がございます︒大変由緒のある古寺で︑第八代蓮如上人のお弟
じようけん子さんとして有名な﹁さんばの浄賢﹂(﹁蓮如上人御一代記聞書﹄三O
五︑聖典九二一頁)のお寺です︒ここにひとつの古鐘があります︒
残念ながら文字が一切入っておりませんが︑なぜ古いとわかるかと
いえば︑東本願寺鐘と同じように撞座と竜頭が直角になっている様
式だからです︒定専坊では︑この鐘は元大坂本願寺の鐘であったと
伝えています︒広隆寺の鐘と比べるとやや小さいのですが︑小さか
ったから大きな鐘を探して買い換えたといえなくもないでしょう︒
いずれにしても︑定専坊の鐘も本願寺とゆかりのある鐘ではないか
と思われてなりません︒
五 山科本願寺の賛鐘
京都の東西両本願寺に党鐘があり︑その前の大坂本願寺にもそれ
がありました︒では︑もうひとつ前の山科本願寺ではどうだつたの
•
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‑
でしょうか︒山科本願寺を建立された蓮如上人のお手紙には︑党鐘
のことは一切出てきません︒でも︑蓮如上人十男の実悟(一四九二
1一五八三)という︑蓮如上人のお子さんのなかで最も長生きされ
やまL
な ご ほ う の こ と な ら び に そ の じ だ い の こ と は ん が ん
た方が書かれた﹁山科御坊事井其時代事﹂(一五七五年)と﹃本願
寺作
法之
次第
﹄(
﹁実
悟記
﹄一
五八
O年)には︑蓮如上人時代の山科本
願寺でも鐘が撞かれたとありますから︑山科にもそれがあったわけ
です︒すると︑大坂本願寺で党鐘が備えられたのは︑その山科本願
寺時代を受け継いでいったということだろうと思います︒
一方︑﹁太鼓楼﹂という真宗独特の建築があります︒現在の東本
願寺にはありませんが︑西本願寺には左端の方に鐘楼があって︑右
端に大きな太鼓楼が残っています︒この太鼓楼についても山科本願
寺の古い記録には二カ所の太鼓楼できちんとそろえて鳴らし︑時間
を知らせていたとありますから︑非常に早くから本願寺にあったよ
び し 、
も
うです︒今のような騒音のない時代では︑党鐘よりも太鼓の音がよ
く聞こえたそうです︒関西方面の真宗寺院にはわりと太鼓楼が残っ
ており︑長浜別院の太鼓楼などは結構古いと思います︒
と
...Jー‑ J
、
大 火
ロ
E本願寺の党鐘
このように大坂でも山科でも本願寺には太鼓楼や鐘楼があったこ
では一番最初の︑京都東山にあった第三代覚如上とがわかります︒
7
人時代の本願寺(大谷本願寺︑現浄土宗崇泰院地)の場合はどうでし
︑っぶゆょうか︒その地には現在も蓮如上人産湯の井戸が残っており︑大体
の面積もわかっていますが︑とても狭い場所で︑巨大な御堂を建て
•
ることなどはできなかったはずですから︑初期の本願寺に鐘楼があ
ったとはとても思えませんでした︒
げんせいしようところが︑アメリカのシアトル美術館に所蔵されている﹃源誓上
に ん え
﹁ ん
人絵伝﹄(﹃真宗重宝緊英﹄第十巻所収)に大谷本願寺が画かれていた
のです︒絵相を見ますと︑一番上に﹁薬師堂﹂︑次に﹁御墓﹂︑その
こえいとう
左に﹁御影堂﹂と書いてあり︑これは真宗の﹁御影堂﹂のことと考
えられます︒しかも六角形に描かれていますから︑私たちが見慣れ
ている﹁親驚伝絵﹄(﹃御伝紗﹂)の大谷廟堂のことだとわかります︒
そして仕切られた塀の向こう側のお堂の前に人がいっぱい集まり︑
何かめでたいことがおこなわれているように見えます︒
しかし︑薬師堂は真宗とは関係ないはずです︒それで私はあれこ
お お ば
れ調べた結果︑元は相模国大庭(神奈川県藤沢市)にある天台宗薬
げんせい師寺の別当(住職)だった光寂房源誓(一二六四1
一三
六 O)
という
方が︑親驚聖人の孫弟子にあたる武蔵国荒木(埼玉県行田市)の光
げんかい信房源海(生没年不詳)のお弟子になって︑真宗に帰入し得度を受
ける場面を描いたものであることがわかりました︒
そして源誓はこの薬師寺を拠点にして甲斐国(山梨県)で真宗の
教えを広めますが︑どういう広げ方をしたのかというと︑御絵伝を
し ぴ も
と
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れならば︑覚如上人時代に真宗で党鐘が造られていたということを
•
二十三幅もつくって︑それを使って目で見て耳で聞く﹁絵解き﹂と
いうわかりやすい布教をおこなったのです︒描かれた絵相について
ただ説明するのではなく︑今でいうと講談とか︑浪曲︑落語などの
ような節をつけ︑皆さんを泣かせ︑笑わせながら語り伝えるので
せ い し よ う な ご ん
す︒清少納言という平安時代の女流歌人が﹃枕草子﹄のなかで︑
お坊さんは男前で美声でなければいけないと書いていますが︑源誓
はこの両方を備えていた人なのでしょう︒だから布教すると大勢の
人が集まってきたのでした︒
その源誓は覚如上人をバックアップして︑大谷本願寺に御影堂と
ともに阿弥陀堂をつくることに協力します︒覚知上人は足利尊氏に
よって焼かれた本願寺を再建したとき︑御影堂の真ん中にご本尊を
置いて︑右側に親鷲聖人の影像を置こうとしたら︑聖人の直弟子た
ちに反対され実現しませんでした︒しかし︑第四代金口如上人の時代
こ う ご ん ち ょ く が ん
に本願寺は︑後光厳天皇によって﹁勅願寺﹂となります(一三五七
年)︒するとお寺にご本尊がないといけないということで︑今度は
反対されないよう別にお堂を建てることを考えたわけです︒これを
聞いた源誓は︑今の神奈川・東京・山梨にわたる門徒たちに頼んで
寄付を集め協力しました︒かくして︑本願寺はここに両堂がそろう
わけです︒西本願寺も東本願寺も︑真宗の本山にはどこも阿弥陀堂
と御影堂という︑二つのお堂があります︒その姿が﹁源誓上人絵
はか ま﹂
L
しき
伝﹄に描かれていると私は思い︑さらによく見ますと袴腰式の鐘
楼が描いてあるのです︒ということは一三
0 0
年代前半︑本願寺の寺号を名のった頃には党鐘があったということになりましょう︒そ 証明しなくてはなりません︒
そこで調べてみますと︑覚如上人が五十二歳︑源誓一が五十八歳の
一三二ご︑大谷派西念寺(茨城県坂東市)の前身元応三年(元亨元
寺院とされている下総国(千葉県)聖徳寺において﹁一向専修之輩﹂
が﹁奉加衆﹂︑つまり真宗門徒がお金を出す人となり︑覚証という
方が大勧進としてお金を集め︑党鐘を造ったという記録(﹁下総聖徳
寺鐘銘﹂)がありました︒同寺を聞いた西念は親鷺聖人のお弟子で
すから︑聖人の孫弟子時代になると︑真宗門徒の道場でも鐘をかけ
るだけの土壌とお金を集める力があったということになりましょ
う︒勧進沙門というお金を集めるお坊さんは︑特定の大金持ちから
もらうのではなく︑大勢の人から一紙半銭を集めるのが勧進の目的
でした︒聖徳寺鐘のためのお金を出してくれた人々こそが真宗門徒
であったのです︒
おわりに
真宗の党鐘の歴史というのは︑意外に古いということを私は申し
上げたいのです︒私たちは今︑何気なく真宗各派の本山や寺々の鐘
楼の前を通り過ぎてしまいますが︑足を止めてその党鐘に日を向け
ると︑また変わった真宗の歴史を見つめ直すことができるのではな
いかと思います︒
西本願寺︑東本願寺︑大阪の難波別院︑定専坊と︑本願寺ゆかり
の四鐘のうちコ一鐘までが︑現在下に降ろされています︒造ってから
四百年以上経過していますからね︒ぜひこの機会にそれらを訪ねて
•
し び も
と
•
ご 覧 い た だ く と
︑ 私 た ち に 念 仏 の 苦 難 の 歴 史 を 語 っ て く れ る も の と 2013 (平成25)年9月1円 発 行
思 い ま す
︒ 以 上
︑ 教 如 上 人 四 百 回 忌 に あ た り
︑ 本 願 寺 の 党 鐘 を め ぐ るお話をさせていただきました︒どうも︑失礼いたしました︒
9
「 山 一
0..'̲'..0一 . . . . ̲ . . . 一 山 一 ‑ ・ ・ ・ ー ・ ・ ・ 目
〈高倉会館彼岸会仏教講座のご案内〉
(金)朝6時30分から7時40分まで
9月20日
高間 重光
教学研究所所員
「真宗の本尊」
(土)朝7時から 8時 10分まで
9月21日
正寿
大谷大学准教授 藤原
「栄養としての真宗」
(お やま
しょ
︑っ ぷん )
二
O
二二年五月二十六日高倉会館日曜講演抄録
*開催時刻が異なりますので御注意ください。
高倉会館
下京区高倉通り六条上る (地下鉄)五条駅下車南東 (市パス)烏丸六条下車東 場]
[会
真宗大谷派(東本願寺)
[主 催]
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高間重光) 先日のことですが︑ご門徒宅で入仏法要のお勤めをしている時に︑ふと浮かんできたことがあります︒
新しいお仏壇に初めてご本尊をお迎えしてのお勤めですので︑
お内仏もまばゆいばかりのお荘厳でした︒お内仏の荘厳は︑本願
念仏の教えとその伝統の︑形としての表現です︒そしてそのお内
仏の前で︑﹁阿弥陀経﹄をお勤めしました︒釈尊の説法である経
典は︑本願念仏の教えの言葉としての表現です︒
仏教における仏事・法事は︑宗派を問わず基本的には︑ご本尊
を中心としたお内仏のお荘厳の前で︑経典がお勤めされるわけで
す︒これは何だろう︑そこにどういう意義があるのだろう︑改め
てそう思いました︒仏事は︑形としての教えの表現︑そして言葉
としての教えの表現です︒するとそこには︑釈尊の説法の会座が
再現されているという意義があるのではないのか︒そういう思い
が浮かんできました︒日本に仏教が伝来してから千五百年︑私た
ち仏教徒は綿々と仏事・法事を勤め︑釈尊の説法の会座を再現
し︑仏法を護り伝えてきたと舌守えるのではないでしょうか︒
仏事・法事の主催者を﹁施主﹂と呼びます︒施主とは︑誰に何
を施す人なのでしょうか︒今の事から舌ヲんば︑その場にお参りさ
れた方々に︑釈尊の説法の会座という仏縁を施しておられるとい
うことでしょう︒私たち仏教徒にそのような自覚があったかどう
かは別として︑仏事・法事をお勤めするところに︑そのような意
義があったのではないか︑ということに思い至ったことです︒
(教学研究所所員
し び も
と
2013(、ド成25)年9)j1日 発 行 可Ei ハU
﹁伝親驚聖人筆﹂とする六字名号と十字名号が
二一帽づっ︑高山教区内の四か寺に伝来する︒六字
名号には﹁善信(花押)﹂とあり十字名号にはな い︒署名・花押︑書体も聖人真筆ではない︒それ
らの寺院は御旧蹟でもなく伝来は不明である︒
以前︑これと同様の六字名号を新潟県と富山県 の御旧蹟寺院で見た︒富山の寺院では︑転宗した 際聖人から授与されたものと伝えていた︒﹁伝聖 人筆﹂とする同じ書体の六字と十字の名号が︑岐 阜(飛騨)︑新潟︑富山の寺院に伝来することか ら︑もっと広範囲で多数存在する可能性があり︑
製作された場所や意図がずっと気になっていた︒
近頃知人が︑先祖の高山の豪商に伝わった﹁親 驚 聖 人 筆
﹂ 六 字 名 号 と
﹁ 由 緒 書
﹂ を 見 せ て く れ た︒名号には﹁善信(花押)﹂とあり︑先の﹁伝
聖人筆﹂の六字名号と全く同じである︒﹁由緒書﹂
に は 次 の よ う に 記 さ れ て い た
︒
﹁ 延 享 三 二 七 四 六)年に︑信濃国戸隠山の修験者から十字・九字
・六字三幅の名号を譲ってもらった︒その後︑宝
暦十三(一七六三)年七月二十九日に名号の極め 書きを頼んだ︒十字・九字・六字の名号は︑安貞
一一(一一一一一八)年秋︑五十六歳の聖人が戸隠山に
参龍して奉納したもので︑六字は聖人が六角堂へ
参龍した時︑感得した名号である︒近年︑一μ
隠山 の宝庫から三幅が発見されたので︑東本願寺門跡
教学
研究
所嘱
託研
究員
日 日 之
に上覧のため上洛する途次商家に逗留した︒主が
w御閉山様の真筆を拝見することは﹂倍縁浅か
らず
H随喜感嘆ふかく仏祖の大悲善巧の恵と 感じ譲渡を願い出た︒すると戸隠山行勝院は
w辞
退なく譲書を相添︑授与した﹂とある︒﹁伝聖人 筆﹂名号の出処が戸隠山の修験者と判明した︒飛 騨の二か寺の十字名号は︑この商家から出たもの かもしれない︒また他に九字名号が存在する可能
性もある︒
贋作の﹁聖人筆﹂名号が出回るのにはいろんな 要件がある︒いわゆる﹁聖人御旧蹟﹂には︑聖人 の 遺 品 が 伝 来 し て い る は ず
︑ と い う 先 入 観 が あ る︒当時︑ほとんどの真宗の僧侶・門徒は聖人真
筆を知らない︒﹁善信(花押)﹂があれば︑偽物と
いう疑念をもたない︒聖人が越後に流罪中︑北信 濃や善光寺へ参龍したという伝承が既にあり︑そ れ を 背 景 と し て
︑ 戸 隠 山 で は
﹁ 親 驚 聖 人 真 筆 名 号﹂を創出し︑出開帳をしながら広範囲に売り歩
いた︒ターゲットは真宗寺院や篤信の豪商であっ
た︒門徒︑特に篤信の門徒は疑うより先に合掌礼 拝の対象としたため︑このような門徒の崇敬の念 を利用したのである︒売り渡した後は︑冥加の無
い者には拝ませないよう秘蔵させたようである︒
真宗門徒は︑親驚聖人を﹁御開山様﹂と称して 崇敬し︑﹁正信伺﹂や﹁和讃﹂などの聖教に念仏 の教えを深く戴く伝統に生きている︒加えて遺品 (聖教・名号などの手跡)に生前の聖人の聞思の 姿や息吹を感じ取る情も抱いたと思う︒﹁伝聖人 筆﹂名号の真偽は重要である︒しかし︑本願念仏 の教えを相続している門徒にとって︑﹁善信(花 押)﹂は︑真筆か否かを超え︑本願念仏の確かさ
を証すものとして受けとめられてきたのである︒ 高倉会館今後の予定
V日曜講演企開会午前九時三十分)
九月一日﹁凡夫にたまわる仏道﹂
長浜教区満立土寸黒田
九月八日﹁福祉・医療における宗教の必要性﹂長浜教区持専土寸笠原
九月十五日﹁善財童子の南遊﹂
同朋大学大学院教授中村九月二十二日(休会)
九月
二十
九日
﹁つ
みき
え︑
ざれ
ば︑
往生はかなうべからざるかo﹂ 高 山 教 区 不 遠 寺 四 衛 亮 名 古 屋 教 区 恵 林 土 寸 荒 山 信 東 京 大 学 教 授 蓑 輪 顕 量
進 俊 典 薫
十月六日
十月十三日+月二十日(休会
十月二十七日大谷大学名誉教授
大 竹
鑑
V高倉会館同朋の会企
九月十八日(水)午後六時三十分より
場 所 高 倉 会 館 講師蓑輪秀邦(高倉会館長・教学研究所長) テ キ ス ト 嘆 仏 偽 会 費 一 回 五 百
* 円
・
* お問い合わせ先
﹃ともしび﹂の内各︑﹁高合会館同朋の会﹂について
教学研究所O
七 五 三 七 一 八 七 五
O﹃ともしび﹄の申し込み・支払い・発送について東本願手出版部O
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)年
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種 郵 便 物 認 可
編集
. . 宗 大 谷 派 教 学
発行
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望市大谷派宗務所代表研 究 所 里雄 康青 山
一部
一 O O円 . 一 花 振 込 先
年間
三一
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(送
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東 本 願 寺 出 版 部
口座
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