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パーリ学仏教文化学 (31) - 004井上 ウィマラ「律蔵における看病実践から医療者の 燃えつき防止プログラムG.R.A.C.E. へ」

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[論文]

律蔵における看病実践から医療者の

燃えつき防止プログラム G.R.A.C.E. へ

井上ウィマラ

Practice of Taking Care of the Sick in Vinaya,

and Modern G.R.A.C.E. Program to Prevent Burnout Syndrome

Among Clinical Practitioners

Inoue, Vimala

Practice of taking care of the sick among ordained practitioners during the Buddha’s time seems to have carried critical importance. Therefore, five conditions of a good caregiver for the sick and five conditions of a difficult patient to take care are elaborated in Vinaya. This paper surveys the context as to why the practice of nursing had such an importance in Buddhist practice from the standpoint of mindfulness meditation and modern clinical education in nursing. The author will share the insights obtained from university education of spiritual care about the third condition of a good care giver for the sick (giving care with loving kindness, not from an expectation of something); the awareness of the unconscious motivation to become a care giver will support him/her to survive and attain emotional maturation through the difficulties of clinical practice.

Roshi Joan Halifax created the G.R.A.C.E. program in order to prevent burnout syndrome in terminal care, with her students who practice Buddhist meditations and also are educators in the medical environment. We will examine this G.R.A.C.E. program from the perspective of traditional understanding of Buddhist meditation practice: mindfulness (sati-paṭṭhāna), the three steps of learning (sīla, samādhi, paññā) and the four boundless hearts (appamaññā). Especially in the analysis of the near-enemy and far-enemy of four boundless hearts explained in Visuddhimagga, the emotional maturation of

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medical practitioners in the clinical human relationship will be examined from the standpoint of integration of ambivalence psychoanalytically.

Towards the end of this paper, readers will hopefully have some better understanding about how ancient meditation practices had a fundamental impact on the humane maturational process and how we can improve modern medical practice and education by utilizing those ancient experiential wisdoms.

キーワード:看病,マインドフルネス,慈悲,燃え尽き防止,G.R.A.C.E.

はじめに

 本稿では,律蔵「大品」に述べられている出家修行者の相互的看病実践の あり様を紹介して間主観的(1)な瞑想実践という視点から考察した上で,現代 医療の臨床現場における燃えつき防止のために開発された G.R.A.C.E. プロ グラムを紹介し,伝統的仏教の視点から比較考察してみたい。  第1章では,律蔵に伝えられている看取りを含めた看病が自他を見つめる マインドフルネス瞑想の実践に相応しい臨床現場であることを確認したうえ で,経典の教えを大学教育において応用する試みの中で見えてきた洞察を紹 介する。  第2章では,ジョアン・ハリファックス老師が終末期患者の看取りに携 わる医療者の燃えつき防止のために開発した,5つのステップからなる G.R.A.C.E. プログラムを紹介し,マインドフルネス瞑想,慈悲さらに戒定慧 の視点から分析する。  こうした考察から,ブッダの教えを現代社会に活かすためのポイントにつ いて考察する材料を提供することができれば幸いである。

1.1.1 律蔵における看病実践の記述から

 ブッダは律蔵「大品」の師弟関係における義務の中で,もしもどちらか が病気になった時には命終まで世話すべきこと([Vinaya I: 50, 53] yāvajīvaṁ upaṭṭhāpetabbo)を説いている。また衣に関する章では,共同生活の義務を

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果たさず素行が悪かったために誰からも看病してもらえなかった比丘の事例 において,出家修行者たちは,病気の時に世話してくれる家族から離れて いるのだから,どのような状況でもお互いに看病し合うべきであると説い た上で,「私の世話をしたいと思うのであれば,病者の世話をすべきである ([Vinaya op.cit: 302] yo bhikkhave maṁ upaṭṭhaheyya so gilānaṁ upaṭṭhheyya)」

と教えた(2)  こうした経緯から出家者がお互いに看病しあうことは修行生活の重要な構 成要素になっていったようで,その後には「世話しにくい病者の5条件」, 「よき看護者たりうる5条件」などが挙げられている(3)

1.1.2 世話しにくい病者の5条件

[Vinaya op.cit: 302]

Pañcahi bhikkhave aṅgehi samannāgato gilāno dupaṭṭhāko hoti: asappāyakārī hoti, sappāye mattaṁ na jānāti, bhesajjaṁ na paṭisevitā hoti, atthakāmassa gilānupaṭṭhākassa yathābhūtaṁ ābādaṁ nāvikattā hoti abhikkamantaṁ vā abhikkamatīti paṭikkamantaṁ vā paṭikkamatīti ṭhitaṁ vā ṭhito ti, uppannānaṁ sārīrikānaṁ vedanānaṁ dukkhānaṁ tibbānaṁ kharānaṁ kaṭukānaṁ asātānaṁ amanāpānaṁ pāṇaharānaṁ anadhivāsakajātiko hoti. Imehi kho bhikkhave pañcahi aṅgehi samannāgato gilāno dupaṭṭhāko hoti.

 比丘たちよ,5条件を備えた病者は看病しにくい。病気によくないことを する。よいことにおいて適量を知らない。薬を服用しない。ためを思って看 病してくれる人に,悪化している時には悪化していると,軽減している時に は軽減していると,変化ない時には変化ないと,ありのままに病状を明らか にしない。身体に生じてきた苦しく鋭く荒く辛く嫌な好ましくないいのちを 奪い去るような痛みに耐えられない性質である。比丘たちよ,これらの5条 件を備えた病者は看病しにくい。 臨床的な観点からみると,①病気によくないことをする患者の場合には,病

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状を理解しているか,自殺念慮はないかを確かめ,どのような疾病利得(4) あるかなどをも考察する必要がある。②よいことだからと言ってやりすぎて しまう患者の場合には,病気や死に対する過度な不安がないかを尋ねなが ら,適度を知るための身体感覚が持てるように支援する。③薬を服用してく れない患者の場合には,副作用を恐れていないか確かめたうえで,患者の心 の薬になっているものは何か(5)を探りながら,その人の信念体系について推 察してみる。④病状について素直にコミュニケーションしてくれない患者の 場合には,「あなたが話してくれると,私がうれしい」というメッセージを 伝えながら,一定の距離を保って関わり続け,素直になれない背景にある生 育歴について想像してみる。⑤痛みに耐えられない患者の場合には,どのよ うに痛いのかについて語ってもらったうえで,痛みから気をそらすために熱 中できることを探してみたり(6),身体的な痛みに付随する心理的な痛みにつ いても観察できるように促してみたりする(7)。こうした工夫が役に立つこと が多い(8)

1.1.3 よき看病者たりうる5条件

[Vinaya op.cit: 303]

Pañcahi bhikkhave aṅgehi samannāgato gilānupaṭṭhāko alaṁ gilānaṁ upaṭṭhātuṁ: paṭibalo hoti bhesajjaṁ saṁvidhātuṁ, sappāyāsappāyaṁ jānāti asappāyaṁ apanāmeti sappāyaṁ upanāmeti, mettacitto gilānaṁ upaṭṭhāti no āmisantaro, ajegucchi hoti uccāraṁ vā passāvaṁ vā khelaṁ vā vantaṁ vā nīhātuṁ, paṭibalo hoti gilānaṁ kālena kālaṁ dhammiyā kathāya sandassetuṁ samādapetuṁ samuttejetuṁ sampahaṁsetuṁ. Imehi kho bhikkhave pañcahi aṅgehi samannāgato gilānupaṭṭhako alaṁ gilānaṁ upaṭṭhātun ti.

 比丘たちよ,5条件を備えた看病者は病者を世話するにふさわしい。薬を 提供することができる。適不適を知り,不適なことを退け快方に向かわせ る。何かを得ようとしてではなく,慈しみの心で病者を世話する。大小便や 唾や嘔吐物を取り除くことを厭わない。時を見て病者に法にかなった話をし

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て指導し,やる気を起こさせ,奮い立たせ,喜ばせることができる。比丘た ちよ,これら5条件を備えた看病者は病者の世話をするにふさわしい。  これらの5条件は,③慈しみを要として,前半の①薬を与えることと②快 方に向かわせることは治療(cure)の要素,後半の④嘔吐物の処理と⑤法に かなった寄り添いはケア(care)の要素から構成されている。臨床現場では, 大小便などの物理的排泄物に加えて「怒り」や「不安」などの心理的表現に 対する対応を厭わないことも求められ,そのためには転移・逆転移(9)に関す る理解が必要になる。「法にかなった話」とは真理に関する談話のことであ り,現在では告知に関する取り組みに通じるものがあろう。病名,病状,予 後などを告げるだけではなく,その後のケアをチームとして取り組んでゆく 実践が大切になる。看病という臨床現場では,思いやりを中心に治療とケア がバランスよく行われることの重要性が洞察されていたのである(10)  こうした看病の臨床現場においては,相手のことを観察するだけではな く,自分自身の状態を正しく知ることが重要になる。相手を治療したりケア したりしようとしている自分自身の状態を知ることができないと,無意識的 な感情によって治療やケアの行為が歪められてしまう可能性が高いからであ る。「相手のために」という言い訳の下に,自らの無意識的欲求を満たすた めに相手を利用してしまうことが少なくない。現代の看護現場や看護教育に おいて反省的実践(Reflective Practice)(11)の重要性が説かれるようになった のはそのためであろう(12)  呼吸や姿勢などの身体的状態(kāya),身体感覚(vedanā),感情(citta), 思考や身心相関現象(dhamma)などについて,自らを見つめ,他者を見つ め,自他を繰り返し見つめるマインドフルネス瞑想は,こうした看病の臨床 現場において極めて重要な役割を果たすと同時に,看病体験そのものがマ インドフルネス瞑想の格好の実践現場たり得たであろうことは[井上 2013] において既に論じたとおりである。看病は,相手のことを思いやる慈しみに 基づいて,治療とケアという具体的な行為の中で自他を如実知見してゆく瞑 想的実践となりうるのである。それ故にブッダは「私の世話をしたいと思う

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のであれば,病者の世話をするべきである」と教えたのであろう。誰もが ブッダに憧れ,その教えに身をささげようと思い決めて家族を離れて出家し たのである。そのブッダが病気になったら,誰もが大切にお世話させて頂き たいと思うであろう。それと同じような気持ちで病気になった出家修行仲間 を看病しなさいというブッダの教えには,巡礼の旅に倒れた病者の中に神を 見て(13),その看病を通して神に仕える実践とした原始ホスピス運動の歴史 に通じるものがあるように思われる。

1.2 無意識的に期待していることを自覚化する

 1.1.3で取り上げた「よき看病者たる5条件」の第3条件「何かを得よう としてではなく,慈しみの心で病者を世話する」に関連して,筆者が大学に おけるスピリチュアルケア教育の中で得た洞察を紹介してみたい。ここで 「何かを得ようとして」というのは,看病する病者の死後に譲り受けること が期待される衣・鉢等の個人的な所有物のことである(14)。現代の医療現場 では,物質的な見返りを求めるというよりは,患者からの感謝や敬意等の心 理的な見返りを求めていることに気づかないでいることが,燃えつきなどの 問題の原因の一つになっている。マインドフルネス瞑想の視点から見るなら ば,自分がどのような見返りを求めて看護の場で働いているのか,さらには 看護職に就こうと思った動機は何であったのかについて深く考えてみること が重要になる。  そこで,大学でスピリチュアルケアを学ぶ社会人グループに対して,上記 の5条件について内容を説明したうえで,「どのような見返り(無意識的な 期待感)を求めて,この職業に就こうと思ったか?」という質問を投げか け,その答えを模造紙に寄せ書きしてもらった。出来上がった寄せ書きをみ んなで眺めながら,そこから何が読み取れるかに関して議論(15)した。こう した考察の結果として,マズローの欲求の五段階説における第4段階の「承 認欲求」に関連する期待感がほとんどであることが浮かび上がってきた。看 病という対人援助職に駆り立てる動機には,「感謝されたい」,「認めてもら

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いたい」という感情的欲求が強いようである(16)  看護という職業に就く動機となった自らの無意識的な期待感について自覚 しておくことは,患者から感謝や承認を得られない時にも無理して頑張り過 ぎることなく,患者から感謝や承認が得られた時には心から喜んで満たされ てゆくことによって,職業を通して深い情動的成熟を達成してゆくために極 めて大切な要素となる。こうした成熟が達成された時に初めて,自然に「何 かを求めるのではなく,慈しみの心から」ケアし看病することが可能になる のであろう。経典の教えは,こうした成長過程を見渡した視点から説かれて いることを忘れてはならない。

2.1 医療者の燃えつき防止プログラム G.R.A.C.E.

 ジョアン・ハリファックス老師は医療人類学の博士号を持ちシャーマニズ ムに関する著作もある。韓国禅の嵩山禅師との出会いを機縁として仏教瞑想 に深く関わるようになり,ニューヨークで禅ピースメーカーズを主催する バーニー・グラスマン老師のものとで印可を受けた。その後,エンゲイジ ド・ブディズムの創始者であるティク・ナット・ハン禅師からも法灯を受け 継ぎ,ダライ・ラマからも親しく教えを受けチベット仏教についても多くの 学びを続けてきた。アメリカの公民権運動やベトナム反戦運動という時代の 流れの中で生きてきた社会活動家としての一面を持ち合わせる老師は,菩提 心を生きることを社会活動のなかに具現してきた現代の菩薩と呼んでもよい 存在である。  そのハリファックス老師のほぼ半世紀にわたるライフワークが看取りの実 践であり,その活動は「死にゆく人と共にあること(Being with Dying)(17)

という1週間の接心型の研修会に結実している。この BWD に基づいて,終 末期ケアに携わる医療者の燃えつき防止を目的として2泊3日のプログラム として開発されたのが G.R.A.C.E. である(18)。G.R.A.C.E. とは,マインドフ

ルネス瞑想と慈悲瞑想を臨床現場に応用するための5つのステップの頭文字 から作られた名称である。5ステップとは以下の通りである。

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① G: gathering attention. 注意を集中して心を落ち着ける。

② R: recalling intention. 意図を思い出すことで倫理的な基盤を養う。 ③ A: attuning to self, then others. 身体,情動,思考のレベルで自分に波長を

合わせ(何が起こっているのかを自覚し)て,それから他者に波長を合わ せる。

④ C: considering what will serve? 直観的な速い思考,論理的な熟慮を働かせ て何が役に立つかを考察する。

⑤ E: engaging, enacting, ending. 関わり,行為し,終結して次に備える。  研修会でこれらのステップを説明する際には,脳科学的なデータが用いら れて仏教用語は一切用いられていないが,実際には伝統的仏教の戒定慧の三 学を現代の医療現場で実践しやすいように工夫したものであることは老師自 身が認めている。

2.2 G.R.A.C.E. の考察

 ここでは,最初に②の「意図を思い出すこと」と戒との関係について考察 してみたい。戒(sīla)の原義には生活習慣という意味がある。「∼すべきで ない」とか「∼すべきである」と外在化され条文として制定された戒律条項 に対して,その瞬間における意図を思い出してみることは,自分の習慣化さ れた価値観を自覚して,その行為の背景にある無意識的な意図を意識化する ことによって内発的な倫理感を育成するために役立つ。  燃えつきを引き起こす原因の一つは,その職業を選んだ無意識的な動機に ついて無自覚であるためについつい無理をしてしまうことである。ブッダが 戒律について議論する際には必ず当事者の意図を問うて確認していたことを 考え合わせると,G.R.A.C.E. の第2ステップは,戒の精神を現代的に再構築 するための要となっていることが理解されよう。また,その職業を選んだ意 図をそのたびに思い出してみること(recalling)は,その職業が天職(calling) であることを思い出すことに導いてくれる。これは,職業において出会う困 難を学びの場として成長してゆくために必要なプロセスでもある。

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 注意を集中して心を落ち着かせる最初のステップである①Gでは,臨床現 場で長時間の瞑想を行うことはできないので,深呼吸や歩行やストレッチな どのような身体動作を含めて,短時間のうちに心の切り替えや集中を行う必 要がある。これはいわば瞬間リフレッシュ法であり,日常の単純な動作の中 で思い込みの渦から脱出して心を落ち着ける脱中心化の作業ができるように 習慣化しておくことが求められる。  医療現場で診断や治療を行う際には,まず患者という他者のことに心を向 けるように教えられるのが常なのだが,その前に自分自身の状況をチェック してみることは,自他に対するマインドフルネスの実践そのものであり,よ り良い診断や治療を提供するために極めて有用なステップである。第3のス テップAで自他にチューニングする際には,身体,情動,思考という3つの レベルに分けて観察してみる。これは5蘊に関するマインドフルネスの実践 に相当する。  ステップ④Cで,何がその人や家族やスタッフたちのために本当に役立つ かを考えるためには,瞬時に働く経験知に依拠するだけではなく,ある程度 の時間をかけて熟考したり,身体感覚に根差した直観智を生かしたりするこ とも必要になる。「これが正解だ」という興奮が強い時には,落ち着いて謙 虚になることを忘れてはならない。患者や家族の立場だけではなく,スタッ フや病院側の諸事情を含めて論理的に考えることが必要である。患者や家族 について考える場合には,家系図からの情報なども有用な手掛かりとなる。  こうした内的準備作業をした上で最後のステップ⑤Eを実践する。実際に 行動し最善を尽くしたら,その結果にとらわれすぎることなく一区切りし て,次に備える。そのためには,自分は完璧ではありえないということを思 い出し,完璧でない自分を許す作業が大切になる。無常や無我や空の理解 は,最善を尽くしながらこだわりなく次に進んでゆかねばならない臨床現場 において,完璧でない自分を許して結果にこだわりすぎず,次に待っている 目の前の出会いを大切にし続けてゆくための貴重な支援となる。  このような行動パターンを臨床実践の中で養ってゆくことが G.R.A.C.E. の

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中核である。G.R.A.C.E. の各ステップと伝統的な三学との相関関係を図示す ると以下のようになる。 三学の視点から見た G.R.A.C.E. G.R.A.C.E. のステップ 三学の視点から G 注意を集中する 定:心を集中させて落ち着ける R 意図を思い出す 戒:その瞬間の行動の動機を自覚化する A 自・他に調律する 定と慧: マインドフルネスの実践として自他に心を向ける C 何が役立つか考える 慧:経験知や直観智,論理的思考を総動員する E 関わり,行動,終結 戒定慧:関係性の中で定と慧を習慣化する

2.3 慈しみとアンビバレンスの統合

 G.R.A.C.E. プログラムの研修会では簡単な慈しみの瞑想が行われるが,臨 床現場では自他の様々な感情や思考に注意を向けて観察するAのステップ と,実際に対象と関わるEのステップにおける行動の中で,アンビバレント な感情や思考を統合する営み(19)を通して「慈しみ」という思いやりが育成 されてゆく。これは,『清浄道論』において論じられている四無量心の近い 敵(āsannapaccatthiko)と遠い敵(dūrapaccatthiko)という概念 [Visuddhimagga 1975: 319] を,臨床の現場においてマインドフルに統合してゆく日常的な思 いやりの瞑想実践であると考えてよいであろう。  ここでは,アンビバレンスの統合という視点からまとめた四無量心の近い 敵と遠い敵に関する筆者による解釈の表を以下に示しておく。 思いやりとアンビバレンスの統合 似て非なるもの(近い敵) 思いやり(四無量心) 正反対のもの(遠い敵) 愛欲 慈しみ(慈:mettā) 怒り,憎しみ,敵意 センチメンタリズム 痛みへの共感(悲:karuṇā) 非難,中傷 過剰な同一化,有頂天 喜びへの共感(喜:muditā) 嫉妬 無関心,無視 平静に見守る(捨:upekkhā) 執着  愛欲(愛情)には所有欲が潜んでおり,相手が自分の思い通りに動いてく

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れないと,その思いは一瞬のうちに憎悪の念に反転しまう。「愛憎こもごも」, 「愛憎相半ばする」と言われるが,親子や夫婦関係などの絆(20)が結ばれる時 には必ずこうした相反する感情が混合して存在している。逆から見るなら ば,怒りや憎しみの背後には愛情や相手のことを自分なりに思う気持ちがあ るのであって,無関心な相手にはそうした激しい感情を抱くことはない。仏 教でいう中道の実践的思想は,そうした相反する感情体験を統合してゆくこ とのできる人格的な基盤を養ってゆく体験につながってゆく(21)  自らの痛みに心を開いて体験できないと,他者の痛みに心を開いて向かい 合うことは困難になる。相手の痛みや苦しみに過剰な感傷的反応をしてしま うのは,相手の痛みに共感して心が開いてしまう痛みからの防衛反応である ことが少なくない。自分が作り上げた物語の中でセンチメンタルになること によって,本当の痛みを感じないでいることができるからである。自他の痛 みに心を開いて受けとめ,その痛みや苦しみが癒えることを心から願うこと が「痛みへの共感(karuṇā)」となる。相手の痛みや苦しみに対して,その 原因などを指摘して非難してしまうことも痛みに心を開くことからの防衛反 応である。  相手の喜びを,比較して自己満足のための物語に取り込んでしまうことな く,そのまま生きる力となるように喜びを共にすることが「喜びへの共感 (muditā)」の本質である。子どもが良い点を取った時にだけ褒めてあげるこ とは,親の自己満足のために子供を支配することになる。何点であっても, できたところや頑張ったところを認めてあげることが子どもの心の支えにな る。嫉妬や妬みは,相手の喜びや幸せに対するきわめて人間的な反応なの だが,そこに潜む怒りをしっかりと感じ取って,その怒りのエネルギーを, 「自分もこんなことができるようになりたい」という希望のために向きを変 えてあげることがマインドフルネスの大切な実践になる(22)。喜びへの共感 は,社会的な関係を円満にしてゆく潤滑油となる。  無視や無関心には,平静さに似た冷ややかな静けさはあるが,そこには対 象を拒む冷たい怒りが潜んでいる。「平静な見守り(upekkhā)」には,来る

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者は拒まず去る者は追わずに,ありのままに見守る心のぬくもりがある。  『清浄道論』には,四無量心を子育てのステージに例えた次のような記述 がある。

[Visuddhimagga op.cit: 321]

Yasmā ca yathā mātā dahara-gilāna-yobbanapatta-sakiccapasutesu catūsuputtesu daharassa abhivuḍḍhikāmā hoti, gilānassa gelaññāpanayanakāmā, yobbanapattassa yobbannasampattiyā ciraṭṭhitikāmā, saciccapasuttassa kismiñci pariyāye avyāvaṭā hoti, tathā appamaññāvihārikena pi sabbasattesu mettādivasena bhāvitabbaṃ.  母親は,息子が小さな時,病気になった時,青年期を迎えた時,自分の仕 事に熱中している時という4段階において,小さな時には成長を願い,病気 になった時には病気が平癒することを願い,青年期には青年に達して得られ る善きものが長く続くように願い,自分の仕事に熱中している時にはどのよ うな仕方でも手出しをしないようにするものである。そのように,無量心に 住する者は生きとし生けるものに対して慈しみなどの心の持ち方を実践すべ きである。  四無量心の解説に,近い敵と遠い敵という相反する感情状態が説かれてい ること,慈悲喜捨という4つの心の持ち方が子育ての4つのステージに合わ せた親の心の持ちように例えられていることを考え合わせると,人が育って いくときに必要な心のむけ方が詳しく観察されていたことが伺える。そし て,その時々の状況によってアンビバレントな気持ちに分裂して現れる情動 エネルギーを統合してゆくマインドフルな姿勢が,四無量心という人間の 器となって成就してゆくことが実践的に体感されていたことが推測される。 ブッダが出家修行者としての師弟関係の理想を,お互いに尊敬しあい世話し 合う親子に例えた理由もそこに見て取れるのではないだろうか。   こ の よ う に 伝 統 的 仏 教 の 伝 え る 情 報 を 再 解 釈 す る こ と に よ っ て, G.R.A.C.E. プログラムはマインドフルネスと四無量心の教えを,多忙を極め る現代の医療現場においても実践できるように再構築し,臨床現場での人間 関係における感情的成熟に導くことによって燃え尽きを防止するためのプロ

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グラムになっていることが読み取れる。

おわりに

 あわただしい医療の臨床現場で燃えつき防止のための5つのステップとし てまとめられた G.R.A.C.E. プログラムは,マインドフルネスや慈しみといっ た仏教瞑想のエッセンスを現代社会に手渡してゆくための巧みな方便である と言えよう(23)。G.R.A.C.E. は,医療現場における燃えつき防止だけではな く,教育をはじめとする感情労働(24)を伴う幅広い領域において人間関係を 学びの場として共に成長してゆくための貴重な指針となることが期待され る。今回は G.R.A.C.E. 研修会において使われている脳科学的なデータを紹 介する余裕はなかったが,そうした科学的なデータに代わる日本独自の文化 的な要素についての考察(25)を今後の課題としてゆきたい。 注 ⑴ 間主観性は,E. フッサールの現象学における用語であり,相互主観性とも呼ば れる。自我あるいは主観は個人的存在の中だけでは成立しうるものではなく,他者 との相互関係の中で育まれてくるという考え方。最近では,自他の分化に先立って 存在する心身の基底的構造について用いられ,精神分析や発達心理学では間主観 性,社会心理学などの分野では相互主観性と呼ばれることが多い。 ⑵ この逸話が「薬に関する章(Bhesajja-vagga)」ではなく「衣に関する章(Cīvara-vagga)」で取り上げられている理由は,看病は人間関係に関するものであり,死亡 時における衣鉢の相続を含めて,人間関係という文脈の中で考察するためには薬に 関する章より衣に関する章の方がふさわしいという編集の判断があったと思われ る。[佐々木 1999: 173‒176]における「衣を中心とした僧団内経済」という視点を 参照するならば,衣を基にした人間関係という文脈の中で看病という相互扶助の実 践について述べることの妥当性が了解される。 ⑶ 死の看取りを含めた比丘たちの看病実践に関しては[鈴木健太 2009: 31‒52]に 総合的にまとめられている。鈴木は諸伝統の文献に読み取れる看病の実践から死 生観の抽出を試みて,「自身の死を間近に控えた生は,ギリギリまで自分自身を高 めることのできる時間であり,状態である」と捉え,看病する立場においては「死 を間近に控えた他者の生を支えることと自分自身を高めることが両立しうる」と述

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べている。しかし,看病の具体的な構成要素に関する臨床的な考察はなされていな い。本発表では,マインドフルネス瞑想における間主観的観察の視点から看病とい う営みの互恵性を確認し,四無量心におけるアンビバレンスの統合という視点が医 療現場における燃えつきを予防するためにどのように役立ちうるかについて考えて みたい。 ⑷ 病気になることで得られる利益のこと。例えば,病気になると家族にやさしくし てもらえることなど。 ⑸ 主治医の顔を見たり,待合室で知り合いと話をしたりすることが患者の薬になっ ている面もある。M. バリントが全人的医療を提唱して,「全身の皮膚の穴を通して 患者の話を聴く」ことが患者の一番の薬(支え)になることを述べているのもこの ことに相当する。これらはプラシーボ効果の視点からも吟味する必要があるが,こ うした側面が自然治癒力を発動させることを看過してはならない。 ⑹ 集中力を養成する要素であり,止観の止の養成に相当する。 ⑺ 洞察力を養成する要素であり,止観の観の養成に相当する。 ⑻ 仏教瞑想における止観,すなわち集中力と洞察力を巧みに使いこなして,時には (何か別なことに集中することで)痛みから気をそらしたり,条件が整った時には 痛みをしっかりと見つめて(痛みに対する心の反応を含めて)洞察したりしながら 痛みに対応してゆけるように支援してゆくことが望ましい。こうした止観の要素の 現代的な看護の臨床への応用に関しては,[井上 2010: 52‒63]を参照のこと。 ⑼ 自分の中にある感情などを相手に投影して相手のものだと認識してしまうことを 転移と呼ぶ。精神分析においては,患者がかつて両親などに対して抱いていた感情 などを治療者に向けることを転移と呼び,この転移を利用して治療が進められる。 これに対して,患者との関係性から治療者に起こってくる感情などを逆転移と呼 ぶ。逆転移に巻き込まれると治療関係が破綻するが,逆転移を上手に利用すると患 者理解を深めることができる。 ⑽ 仏教的な「よき看護者としての5条件」について,現代における治療(cure)と ケア(care),それらをつなぐ思いやり(慈悲)という視点から再解釈する試みの 詳細は,[井上 前掲書: 40‒51]を参照のこと。 ⑾ 反省的実践は,ジョン・デューイの「反省的思考(reflective thinking)」「反省的 探究(reflective inquiry)」という考えに基づいてドナルド・ショーンが「反省的実 践家(reflective practitioner)」として提案した,「専門家とは何か?」に関するモデ ルである。専門家は対人関係における行為の中で省察し思考する能力を身につけて いるものであるが,そのように身体化された臨床的な智のあり方を自覚することが ポイントになる。 ⑿ [バーンズ,バルマン 2005: 5, 55]を参照。自己への気づきによって反省的看護

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実践に必要な自分の感情の分析が可能になると説かれている。 ⒀ 平安時代に始まった文殊会の伝統を鎌倉時代に復興させて貧者や病者への救済活 動を行った忍性も,病者の中に文殊菩薩を見て救済に従事したと言われている。時 代や宗教の枠を超えて,他者への奉仕を通して修行することの中核がここに見て取 れるのではないかと思われる。 ⒁ [佐々木 1999: 180‒181]を参照のこと。前述した「衣を中心とした僧団内経済」 という視点に基づいて考察されている。 ⒂ 議論の参考として[窪寺・井上 2009: 22‒24]のエリクソンのライフサイクル論 とマズローの欲求の五段階説に関する図と概説を資料として使った。 ⒃ この点に関しては[武井 2001: 200‒204]の「看護師のパーソナリティと共依存」 とアダルト・チルドレンの視点を参照のこと。 ⒄ 詳しくは[ハリファックス 2015]を参照のこと。また BWD 研修プログラムの 具体的な内容についての報告としては[永沢 2016]を参照のこと。 ⒅ ジョアン・ハリファックス老師(ウパーヤ禅センター),緩和ケア医のアンソ ニー・バック教授(ワシントン大学),看護師のシンダ・ラシュトン教授(ジョン ズ・ホプキンス大学)を招聘して2015年4月,奈良県長弓寺において G.R.A.C.E. の 研修会が開かれた。その詳細に関しては[井上 2015: 44‒92]を参照のこと。 ⒆ 愛憎のように反対感情が併存する状態を心理学ではアンビバレンスと呼ぶ。仏教 の「中道」の教えは,心理学でいうアンビバレントな感情を統合する作業に相当す るものととらえると,伝統仏教と現代の臨床現場をつなぎやすくなる。[井上 2012: 12‒13]を参照。 ⒇ 死別体験などによってこの絆が切れた時,人は悲嘆の感情を体験する。この悲し みの体験を通して,出会いの意味を見いだして,自分なりの仕方で別離の悲しみを 受容してゆく過程がグリーフ・ワーク(悲嘆の仕事)と呼ばれる。 中道とアンビバレンスの統合に関しては,[井上 2012: 12‒13]を参照のこと。 このように思考のエネルギーの向きを変えてあげることが,八正道の正思惟 (sammā-saṅkappa)にあたる。 G.R.A.C.E. の効果検証に関しては,調査の質問項目が作成された段階であり,こ れから実際の調査の結果が待たれる状況である。 感情労働とは,例えばスチュワーデスなどのように,自らの感情を制御して相手 に感情的満足を与えることが労働の大きな要素となっているもの。詳しくは[武井 2001: 40‒42]を参照のこと。 ハリファックス老師自身が,研修会において日本の文化に合った普及法が開発さ れてゆくことを希望していた。[井上 2015: 44‒92]を参照のこと。

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引用参考文献 井上ウィマラ 2010『看護と生老病死:仏教心理で困難な事例を読み解く』三輪書店  pp. 44‒50, 52‒63. 井上ウィマラ 2012「中道」『仏教心理学キーワード事典』春秋社 井上ウィマラ 2013「Satipaṭṭhāna Sutta における『内・外』について」『パーリ学仏教 文化学』第27号 パーリ学仏教文化学会 井上ウィマラ 2015「G.R.A.C.E. プログラム2015 in 奈良:ターミナルケアでの燃え つき防止のために──実践ワークショップレポート」『サンガジャパン』21号 サ ンガ 窪寺俊之・井上ウィマラ 2009『スピリチュアルケアへのガイド』青海社 佐々木閑 1999『出家とは何か』大蔵出版 サラ・バーンズ,クリス・バルマン 2005『看護における反省的実践』ゆるみ出版 鈴木健太 2009「『律蔵』看病人法に見る死生観」『日本佛教年報』75号 pp. 31‒52. 武井麻子 2001『感情と看護』医学書院 永沢哲 2016「医療従事者のための仏教と医療の統合プログラム『BWD』を概観す る」『別冊サンガジャパン3マインドフルネス』サンガ J. ハリファックス 2015『死にゆく人と共にあること』春秋社 Buddhaghosa Visuddhimagga. 1975 Pali Text Society. Vinaya I. 1929 Pali Text Society.

参照

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