講演会開催報告
「楚人冠の遺産と新聞の現在」 臼井 敏男 氏(元朝日新聞論説委員) 平成 30 年 9 月 8 日(土曜日) 生涯学習センター アビスタ ホール 以下は企画展「今に生きる楚人冠の新聞改革」の関連企画として実施した講演会の要旨である。要旨の作成は 杉村楚人冠記念館で行った。 ぼくは 2010 年まで朝日新聞で、取材記者やデスクとして働いた。デスクというのは、 机に座って記者に指示をしたり、原稿を直したりする。新聞づくりの仕事は主に記者とデス クの二つに分かれている。ぼくはおおむね社会部に所属していた。そのような関係で、杉村 楚人冠と調査部、記事審査部について話をしてほしいとの依頼を受けた。ぼくは楚人冠の『最 近新聞紙学』を学生の時に読んだ。新聞記者になりたいと思い、どんな仕事なのかを知るた めだ。当時はメディアを志す学生にとって、教科書のような本だった。記事審査部をつくっ たのが楚人冠であることは、現役の記者の時に知っていた。朝日新聞もいろいろな問題を起 こし、世間から批判されることがある。記事の質をどのようにして向上させるのか、という 問題のときに、楚人冠のつくった記事審査部が話題になったのだろう。そんなときに楚人冠 を知ったのだと思う。もちろん、ぼくが記者として働いたのは、楚人冠とは時代が異なり、 楚人冠を直接知ることはなかった。それでも、これからお話しする調査部については取材記 者として大変お世話になった。記事審査部については審査をされる側だった。そうした関係 がある。 まず、調査部についてお話ししたい。「調査」というのは、社内で記者が聞いてくること に対して、調査して答える、という意味だ。記者の質問の内容は、たとえば、あの事件の経 過はどうだったのか、過去にどんな記事を書いているのか、ということだ。外へ取材に行っ て調査をするのではない。切り抜きをつくって整理し、切り抜きをもとに記者の質問に答え るのだ。楚人冠はロンドン・タイムズでそういう部署を見たそうである。それまで朝日新聞 は、組織的に切り抜きを整理していなかった。ということは、過去のいきさつなどについて は記者が自分の記憶で書いたり、あるいは自分で保存していた切り抜きをもとに執筆したり していたと思われる。記者は担当が変わることもある。記憶は必ずしも正確ではない。切り 抜きを組織的に整理して、原稿を正確に書く。これが楚人冠の狙いだったと思う。 楚人冠は 1911(明治 44)年 5 月、まず索引部をつくった。索引部という名称は、同年 11 月に調査部に変わった。朝日新聞社社史編修室が 1969 年にまとめた『朝日新聞の九十年』 によると、調査部の仕事は「従来の索引」「図書」「新聞紙に関する研究」とある。切り抜き だけだった索引部に対し、調査部では、「図書」と「新聞紙に関する研究」という二つの仕事が加わったと思われる。ぼくが朝日新聞にいたころの調査部には、切り抜きのほかに、紙 面で使った写真があり、本や政府の官報、報告書などの資料も備わっていた。調査部はまる で小さな図書館のようだった。 切り抜きは、「テーマ」と「人物」に大きく分けられていた。テーマ別では、たとえば事 件は、殺人、テロ、強盗、性犯罪というように細かく分かれていく。大きな事件ならば、単 独で整理される。たとえばオウム真理教事件は、一つの事件としてまとめられていた。切り 抜きは、A5 判よりもちょっと小さい台紙に貼り付けられていた。大きい記事は折りたたん で貼り付ける。台紙は油紙のような、薄くて丈夫な紙だった。台紙は市販されているもので はなく、朝日新聞の子会社の印刷会社がつくっていたそうである。切り抜きを貼った台紙を クリップで留めて、切り抜きが増えていくとファイルにする。オウム真理教事件は何冊もの ファイルがあり、このファイルを見れば、事件の全体像が分かるようになっていた。 記者がテーマ別の切り抜きを一番使うのは、取材にあたって事前の調査をするときだ。事 件や出来事そのものについて知ることはもちろん、似たような事件や出来事が起きていない かを調べる。突発的な事件や事故の場合には、類似の事例を書く必要がある。そのときは調 査部に電話をして、切り抜きを出してもらう。調査部は取材記者にとって、なくてはならな いデータベースだった。 人物の切り抜きを調べるのは、その人を取材するのに先立って、今までどのような記事が 書かれているのかを確かめるケースが多い。人物の切り抜きを最も頼りにするのは死亡記事 を書くときだ。だれだれが亡くなった、と役所や会社、大学などから通知が新聞社に届く。 あるいは記者が、亡くなったことをつかむ。亡くなった人について全く知らない記者が書か なければならないこともある。そういうときに人物の切り抜きは欠かせない。 今、調査部という名称はない。メディア開発部(DB 編集)という名前になっている。DB はデータベースの意味だ。名称の変更と同時に仕事の内容も変わった。データベースをつく ることが、主な仕事になったのだ。人物の切り抜きをやめたが 2003 年。テーマ別の切り抜 きも 2006 年に終えた。切り抜きをやめたのは、「データベースで代用できる」というのが 理由だった。 ぼくも 1990 年代から、切り抜きをあまり使わなくなっていた。データベースは自分のパ ソコンで検索できる。使い勝手がいい。記事のデータベースが充実してくると、切り抜きが 不要になるのは必然だった。 切り抜きからデータベースに替わって、使う人も変わった。切り抜きは社内向けだった。 切り抜きは、なくしてしまうと代わりがない。持ち出し禁止だった。データベースは社外で も契約すれば使えるようになった。たとえば、朝日新聞デジタルを契約すれば、過去 1 年 分の記事を検索できる。朝日新聞の記事データベース「聞蔵」は図書館や大学などを対象に
している。データベースが社外でも使えるのは、楚人冠の時代と大きく変わったところでは ある。それでも、新聞記事を組織的に整理する、という楚人冠の発想は今も生きていると思う。 縮刷版も 1919(大正 8)年に楚人冠がつくったものだ。新聞は日々の出来事を記録する と同時に、歴史を刻む。だから残さなければいけない、と楚人冠は考えた。ところが、新聞 紙は保存に向かない。新聞紙はあまりいい紙を使っていないからだ。古新聞を見ていただけ ればお分かりいただけると思う。そこで縮刷版には保存に耐える紙を使った。 切り抜きやデータベースで調べることができるのは時間の縦軸である。縮刷版はそのとき に何が起きているのかを横軸で調べることができる。ぼくは「ニッポン人脈記」シリーズの「反 逆の時を生きて」で、1968 年から 1969 年にかけての学生運動を取材した。そのときに縮 刷版がずいぶん役に立った。ある出来事が起きた同じ日に何があったのか。たとえば、東大 で大規模な学生集会が催された日に、日大や早大では何が起きていたのか、政府はそのとき 何をしていたのか、と調べることができたのは、縮刷版だからこそだった。その時代を調べ たいときには、縮刷版を見ると、いろいろなことが分かる。広告が載っているのもいい。映 画の広告に目を奪われて、仕事がなかなかはかどらないこともあった。どんな広告が出てい たのかを見ることで、時代の雰囲気を知ることができる。 次に記事審査部についてお話をしたい。設立は 1922( 大正 11) 年。記事審査部は、当事 者からの苦情や、記事が間違っているという読者からの指摘を受けて、専門的に調査して回 答する部署である。それまでは、記事を書いた記者、あるいは記者の所属する部門が対応し ていたと思われる。その場合、どういう対応になるのか。記者とすれば間違いを認めたくな い。所属する部門としても、できるだけ訂正をしたくない。それが人情である。しかし、そ うすると、ミスがトラブルになってしまう。楚人冠は「誤報の放置は新聞紙と公衆との間の 感情を疎隔してしまう」という趣旨のことを言っている。実際に誤報を放置していた状況が あったのだろうと思う。ミスを犯したにもかかわらず、認めないと、新聞に対する読者の不 満や不信が募る。それではいけないということで、取材する部門とは別に記事審査部をつくっ た。最近、世間では第三者委員会が頻繁に登場する。第三者委員会は、企業や団体が不祥事 を起こしたときに、つくられる。当事者が対応しても信用してもらえないから、第三者委員 会に調べてもらう、というのが狙いだ。取材した記者や取材した部門ではなく、独立した部 門が苦情を受け付けるという点で、楚人冠がつくった記事審査部は今でいえば第三者委員会 にあたる。記事審査部が取材部門に対し、この記事はほんとうに正しいのか、取材のいきさ つはどうか、と説明を求める。間違いがあれば、お詫びや訂正をする。記事に間違いがなけ れば、要求を拒絶する。これは、当時としては新しい発想だった。 今回の企画展(注 杉村楚人冠記念館企画展「今に生きる楚人冠の新聞改革」 平成 30 年 7 月 18 日~ 10 月 8 日開催)に、記事審査部が具体的にどのような判断をしたのかが展
示されている。一つは、詐欺をした、として逮捕されたケースだ。新聞には詐欺容疑で逮捕 されたと載った。その人が釈放されて、「記事を取り消せ」と言ってきた。記事審査部が取 材記者に問い合わせて調べた。すると、この人は不起訴処分になってはいるものの、実は微 罪で不起訴処分だったことが分かった。不起訴処分には、「全く嫌疑がない」「嫌疑はあるが、 証拠が十分でない」「罪を犯しているが、起訴するほどのことではない」というようにいく つかの種類がある。三つ目が起訴猶予だ。この詐欺のケースは起訴猶予だった。「記事を取 り消せ」との要求を拒絶した。 もう一つのケースは、放火犯と報道された人からの抗議である。確かにこの人は取り調べ を受けた。しかし、逮捕されないで、釈放されている。記事審査部が調べると、逮捕の予定 稿を間違えて載せたと分かった。新聞社は予定稿をつくることがある。特に選挙の場合、だ れが当選するか分からないので、締め切りに間に合わせるために、たくさん予定稿をつくる。 これを間違えて載せると、大変なことになってしまう。今回の放火のケースでは、逮捕され ることを見越して、予定稿をつくっていた。予定稿をそのまま載せてしまったので、釈放さ れたのに逮捕の記事が出てしまった。お詫びと訂正をした。こういう仕事をするのが楚人冠 時代の記事審査部だった。 現在、朝日新聞社には記事審査室という部門があるものの、役割は楚人冠の時代とは違っ ている。楚人冠の時代は外部の苦情や指摘に対応していたのに対し、現在の記事審査室は社 内向けの組織だ。具体的には毎日、記事審査リポートをつくり、取材部門にメールで送る。 その日の紙面について、いい記事や悪い記事、わかりにくい表現、あるいは他紙と比べてど うか、ということを指摘するのだ。朝日新聞で池上彰さんが「新聞ななめ読み」という連載 をしている。そこで池上さんは、朝日新聞の記事の良し悪しや他紙との比較をしている。記 事審査リポートは、池上さんの「新聞ななめ読み」を社内向けにしたようなものだ。目的は 紙面の質を良くすることだ。これは楚人冠の時代と変わらない。取材部門から独立した第三 者の目、という性格も同じだ。 記事審査室のメンバーは 9 人、そのうち 2 人は OB。朝 4 時とか 5 時に起きて、各紙を読 み比べる。平日は毎日 11 時、記事審査室の会合を開いて意見を出し合い、午後 2 時までに 取材部門へ記事審査室としてのリポートを送信する。取材部門はリポートの指摘を読んで、 翌日以降の紙面に生かすことが期待されている。ぼくが記者時代には、記事審査リポートの 鋭い指摘にいつも一喜一憂したものだ。 では、楚人冠時代の記事審査部の外向きの仕事はどうなったのか。今は広報部が当事者か らの苦情や読者の指摘を受け付けている。それを取材部門に伝えて調査を求め、協議して対 応を決める。広報部は紙面の質の向上を図る一方で、危機管理部門でもある。ミスは放って おくと、トラブルになる。トラブルを放置すると、新聞の致命的な傷になりかねない。外部
とのトラブルを未然に防ぐのが広報部の役割だ。楚人冠の記事審査部の役割は広報部が受け 継いでいると言える。 第三者委員会として、朝日新聞には「報道と人権委員会」がある。委員は外部の 3 人で、 メディア出身者、法曹界出身者、学者で構成される。朝日新聞の取材や報道によって人権 を侵害された、という訴えを扱う。広報部の対応では解決しない、という場合に備えて、 2001 年に設けられた。きっかけは、1990 年代から犯罪や事故の被害者に対する取材が「人 権侵害だ」として問題になったことだ。「報道と人権委員会」は、訴えがあれば、当事者に 事情を聴くなどして審理し、見解をまとめる。紙面で公表することもある。 もう一つ、パブリックエディターの制度が 2015 年にできた。メンバーは社外 3 人、社内 1 人。読者の声や社外の評価を踏まえて報道を点検し、取材部門に説明や改善を求めている、 と紙面で紹介されている。パブリックエディターができたのは、ぼくが朝日新聞を退職した あとだ。発足のいきさつを、ぼくは知らない。たぶん、前年に慰安婦や原発の報道で記事を 取り消したことがきっかけだと思われる。 取材部門から独立した組織で外部からの訴えに耳を傾けようとして、楚人冠がつくった記 事審査部。その発想は現在、広報部、「報道と人権委員会」、パブリックエディターに引き継 がれ、窓口は広くなっている。