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龍谷大學論集 476 - 005平林章仁「日下攷」

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Academic year: 2021

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龍 谷 大 学 論 集 七 六

下攷

は じ め に 周 知 の こ と だ が 、 ﹃古 事 記 ﹄ 序 文 (実 態 は 上 表 文 ) に は 、 ﹁ 帝 紀 と 本 辞 の 混 乱 を 憂 え た 天 武 天 皇 が そ の 削 偽 定 実 を 企 図 し 、 舎 人 の 稗 田 阿 礼 に 帝 皇 日 継 と 先 代 旧 辞 を 諦 み 習 わ せ た け れ ど も 、 天 皇 の 崩 御 で 中 断 し た 。 元 明 天 皇 の 和 鋼 三 年 (七 一 〇 ) に 都 が 平 城 宮 に 遷 り 、 天 皇 が 旧 辞 の 誤 杵 を 惜 し み 先 紀 の 謬 錯 を 正 そ う と し て 、 翌 和 銅 四 年 に 稗 田 阿 礼 の 訥 ん だ 勅 語 の 旧 辞 を 太 朝 臣 安 万 侶 に 撰 録 さ せ 、 和 銅 五 年 ( 七 一 二 ) に 完 成 し た ﹂ と あ る 。 こ の ﹃ 古 事 記 ﹄ ( 以 下 ﹃ 記 ﹄ 、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ は ﹃ 紀 ﹄ と 略 記 ) は 上 ・ 中 ・ 下 の 三 巻 か ら 成 る が 、 上 巻 は 神 々 を 主 人 公 に し た 神 話 で あ り 、 中 巻 の 神 武 天 皇 か ら 人 代 と な る が 伝 説 的 な 記 事 が 多 く 応 神 天 皇 に 及 ぶ 。 内 容 が 歴 史 書 的 な 記 述 に な る の は 下 巻 か ら で あ り 、 五 世 紀 前 葉 に 比 定 さ れ る 仁 徳 天 皇 か ら 五 九 二 年 十 二 月 に 即 位 す る 推 古 天 皇 ま で を 載 せ る 。 仁 徳 天 皇 を 下 巻 巻 頭 に 置 い た の は 、 こ こ か ら 新 し い 時 代 が 始 ま る と い う 歴 史 観 の 反 映 で あ ろ う 。 た だ し 、 説 話 や 歌 物 語 な ど の 旧 辞 的 な 記 事 は 顕 宗 天 皇 ま で で あ り 、 次 の 仁 賢 天 皇 か ら 推 古 天 皇 ま で は 帝 紀 (系 譜 ) 的 な 記 事 の み と な る が 、 仁 徳 天 皇 か ら 顕 宗 天 皇 の 代 は お お む ね 五 世 紀 代 に お さ ま る 。 . こ の 五 世 紀 は ま た 、 讃 . 珍 ・ 済 ・ 興 ・ 武 の い わ ゆ る ﹁ 倭 の 五 王 ﹂ が 中 国 ・ 南 朝 に 遣 使 朝 貢 を 繰 り 返 し た 積 極 外 交 の

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時 代 で あ る が 、 背 景 に は 東 ア ジ ア に お け る 国 際 的 緊 張 の 高 ま り が 存 在 し た 。 国 内 的 に は 、 各 地 で 大 規 模 な 前 方 後 円 墳 が 盛 ん に 築 造 さ れ 、 社 会 の 階 層 化 や 列 島 内 の 政 治 的 統 合 の 進 展 が 窺 わ れ る が 、 な か で も 王 陵 と 目 さ れ る 巨 大 古 墳 は 河 内 地 域 ( 大 阪 府 南 部 ) の 古 市 や 毛 受 ( 百 舌 鳥 ) の 地 に 集 中 し て 築 造 さ れ た 。 外 交 上 の 必 要 性 も あ っ て 河 内 が 五 世 紀 の 王 権 に は 重 要 な 地 域 基 盤 だ っ た こ と を 示 し て い る が 、 こ う し た こ と か ら 該 期 の 王 権 は ﹁ 河 内 王 朝 し と も 称 さ れ た 。 近 年 は 中 国 史 に い う 王 朝 と は 質 的 に 異 な る と の 批 判 か ら 、 こ れ を ﹁ 河 内 政 権 ﹂ と 記 す の が 一 般 で あ る が 、 こ の 時 代 に 畿 内 以 西 の 水 運 網 を 掌 握 し て 王 権 の 外 交 を 主 導 し 、 王 家 の 姻 族 か つ 執 政 官 ω と し て 強 大 な 権 勢 を 誇 っ た の が 、 大 和 葛 城 を 拠 地 と す る 葛 城 氏 で あ っ た 。 河 内 政 権 説 に は 、 河 内 を 基 盤 に 新 し く 発 祥 し た 王 権 と み る か 、 そ れ と も 大 和 を 本 拠 と す る 王 権 が 基 盤 を 河 内 に 拡 大 個 し た と 考 え る か な ど の 点 で 、 理 解 の 相 違 が あ る 。 王 統 の 交 替 は わ が 国 の 古 代 国 家 形 成 史 上 の 問 題 で も あ る が 、 こ れ は ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃ 紀 ﹄ の 所 伝 の 信 悪 性 と も 連 関 す る 。 ﹃記 ﹂ ・ ﹃紀 ﹂ は 儒 教 的 視 点 か ら 仁 徳 天 皇 を 広 く 徳 政 を 施 し た 聖 帝 と 描 き 、 孫 の 雄 略 天 皇 の 代 を 王 権 が 強 化 さ れ た 画 期 と 位 置 づ け る 。 五 世 紀 の 王 統 は 武 烈 天 皇 で 断 絶 し 、 六 世 紀 初 頭 に は 応 神 天 皇 五 世 孫 と い う 継 体 天 皇 が 迎 え ら れ る か ら 、 男 系 で は 王 統 交 替 が 明 白 で あ る 。 ﹃ 紀 ﹄ は 武 烈 天 皇 を 非 道 な 悪 政 を 重 ね た 暴 君 と 記 し て 王 統 断 絶 の 説 明 と す る も の の 、 そ の 記 事 の 信 懸 性 は 薄 弱 で あ る 。 当 時 の 王 家 の あ り 方 や 王 統 交 替 に か か わ る 問 題 に つ い て は 別 に 論 じ な け れ ば な ら な い が 、 こ こ で は 河 内 の ﹁ 日 下 ﹂ を め ぐ る 諸 問 題 か ら 、 未 だ 漠 と し て 全 体 像 が 明 瞭 で は な い 五 世 紀 史 の 一 端 の 再 構 成 を 試 み る と と も に 、 倭 国 王 家 に 関 わ る 日 神 信 仰 に つ い て も 、 若 干 の 見 通 し を 提 示 し た い 。

太 安 万 侶 の 意 図 日 下 孜 (平 林 )

七 七

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龍 谷 大 学 論 集 七 八 太 安 万 侶 は ﹃ 記 ﹄ を 撰 述 す る に あ た り 、 次 の よ う な 工 夫 、 配 慮 を お こ な っ た と 、 そ の 序 文 に 記 し て い る 。 然 れ ど も 、 上 古 の 時 、 言 意 並 び に 朴 に し て 、 文 を 敷 き 句 を 構 ふ る こ と 、 字 に 於 き て 即 ち 難 し 。 已 に 訓 に 因 り て 述 べ た る は 、 詞 心 に 逮 は ず 。 全 く 音 を 以 ち て 連 ね た る は 、 事 の 趣 更 に 長 し 。 是 を 以 ち て 今 、 或 は 一 句 の 中 に 、 音 訓 を 交 へ 用 ゐ 、 或 は 一 事 の 内 に 、 全 く 訓 を 以 ち て 録 し ぬ 。 即 ち 、 辞 理 の 見 え 巨 き は 、 注 を 以 ち て 明 ら か に し 、 意 況 の 解 り 易 き は 、 更 に 注 せ ず 。 亦 姓 に 於 き て 日 下 を 玖 沙 詞 と 謂 ひ 、 名 に 於 き て 帯 の 字 を 多 羅 斯 と 謂 ふ 、 此 く の 如 き 類 は 、 本 の 随 に 改 め ず 。 ⋮ ⋮ す な わ ち 、 ﹁ 上 古 に お い て は 言 葉 も 意 味 も 純 朴 で 飾 り 気 が な く 、 文 字 で 著 す の に 困 難 な こ と が あ る 。 す べ て 訓 を 用 い て 表 現 す れ ば 、 言 い た い こ と と 合 わ な い 場 合 が あ る 。 す べ て 音 を 用 い て 記 述 す れ ば 、 こ と さ ら 長 く な っ て し ま う 。 そ こ で 、 音 ・ 訓 を 交 え て 用 い 、 あ る 場 合 に は 訓 だ け で 記 す 。 意 味 の 理 解 し 難 い も の に は 注 を 付 す が 、 意 趣 の 明 解 な も の は 付 さ な い 。 ま た 、 姓 の 日 下 を ク サ カ 、 名 の 帯 を タ ラ シ と 訓 む 類 は 、 元 の ま ま に し て 改 め な い 。 ﹂ と の 方 針 で 筆 録 し た と い う 。 こ こ で 太 安 万 侶 が 列 記 し た 日 下 ・ 帯 が 、 古 代 の 王 族 に か か わ る も の で あ る こ と は 周 知 の と こ ろ だ が 、 従 前 は こ れ ら を 帝 皇 日 継 ・ 先 代 旧 辞 に あ っ た な か で 太 安 万 侶 が 読 み 易 い 表 記 に 改 め な か っ た も の の 例 示 ぐ ら い に し か 解 さ れ な か っ た 。 日 下 ・ 帯 は 音 、 訓 の い ず れ に て も ク サ カ ・ タ ラ シ と は 読 み 難 い が 、 な ぜ 太 安 万 侶 は こ う し た 難 解 な 表 記 を そ の ま ま 採 用 し た の で あ ろ う か 。 意 味 の 通 じ る こ と や 読 み 易 さ を 重 視 す る な ら ば 、 音 で あ れ 訓 で あ れ 、 ど う し て 新 し い 表 記 の 工 夫 を 施 さ な か っ た の か 不 思 議 で あ る 。 ち な み に 、 ﹃紀 ﹄ は ク サ カ を 草 香 、 タ ラ シ は 足 と 表 記 す る 。 些 か 穿 っ た 見 方 を す れ ば 、 日 下 ・ 帯 は 稗 田 阿 礼 の 諦 習 し た 天 武 朝 の 帝 紀 ・ 旧 辞 に す で に 存 在 し 、 稗 田 阿 礼 を 遡 る 古 い 表 記 で あ る に 留 ま ら ず 、 太 安 万 侶 に 改 め て は な ら な い と 強 く 思 わ せ た 、 謂 れ の あ る 表 記 で は な か っ た か 。 要 す る に 、 ﹃ 記 ﹄ 序 文 の 当 該 箇 所 は 、 帝 紀 ・ 旧 辞 以 来 の 古 く 難 解 な 表 記 で 改 め な か っ た も の を 単 に 例 示 し た 類 で は な く 、 そ う 記

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さ な け れ ば な ら な い と い う 太 安 万 侶 の 歴 史 意 識 、 ㈲ 歴 史 観 を 反 映 し た も の で あ っ た と 考 え ら れ る 。 帯 と は 何 か そ れ な ら ば 、 太 安 万 侶 は ど う し て 日 下 と 帯 の 表 記 を 改 め て は な ら な い と 考 え た の で あ ろ う か 。 帯 の 名 で 壁 頭 に 想 起 さ れ る の は 、 七 世 紀 前 葉 に 魏 徴 ら が 撰 述 し た ﹃ 晴 書 ﹄ 倭 国 伝 の 記 事 で あ る 。 開 皇 二 十 年 、 倭 王 あ り 、 姓 は 阿 毎 、 字 は 多 利 思 比 孤 、 阿 輩 鶏 弥 と 号 す 。 使 を 遣 わ し て 闘 に 詣 る 。 上 、 所 司 を し て そ の 風 俗 を 訪 わ し む 。 使 者 言 う 、 ﹁ 倭 王 は 天 を 以 て 兄 と な し 、 日 を 以 て 弟 と な す 。 天 未 だ 明 け ざ る 時 、 出 で て 政 を 聴 き 凱 鉄 し て 坐 し 、 日 出 ず れ ば 便 ち 理 務 を 停 め 、 い う 我 が 弟 に 委 ね ん と ﹂ と 。 高 祖 い わ く 、 ﹁ こ れ 大 い に 義 理 な し ﹂ と 。 こ こ に お い て 訓 え て こ れ を 改 め し む 。 王 の 妻 は 鶏 弥 と 号 す 。 後 宮 に 女 六 、 七 百 人 あ り 。 太 子 を 名 づ け て 利 歌 彌 多 弗 利 と な す 。 開 皇 二 十 年 ( 六 〇 〇 ) は 推 古 天 皇 八 年 だ が ﹃ 紀 ﹄ に 対 応 す る 記 事 が な く 、 遣 階 使 の 初 見 が 推 古 天 皇 紀 十 五 年 ( 大 業 三 / 六 〇 七 ) 七 月 庚 戌 条 の 小 野 妹 子 の 派 遣 で あ る 。 こ の こ と か ら 開 皇 二 十 年 の 派 遣 主 体 を め ぐ り 疑 問 も あ ろ う が 、 以 下 の 理 由 か ら 倭 国 王 権 (推 古 天 皇 の 朝 廷 ) と み な し て よ い と 考 え る 。 ㈲ ま ず 、 鈴 木 靖 民 氏 は 推 古 朝 政 治 の 分 析 か ら ﹁推 古 十 一 年 の 小 墾 田 宮 の 造 営 や 冠 位 十 二 階 の 制 定 、 翌 十 二 年 の 憲 法 十 七 条 の 作 定 や 朝 礼 の 改 正 な ど は 、 開 皇 二 十 年 の 遣 階 使 の 影 響 下 に な さ れ た 礼 的 秩 序 社 会 形 成 に 向 け て の 諸 政 策 で あ っ た 。 階 へ の 国 書 の 内 容 ・ 書 式 か ら 、 推 古 朝 は 仏 教 的 世 界 観 と 儒 教 的 秩 序 の 複 合 に 基 を お く 国 家 を め ざ し て い た ﹂ と 述 べ 、 開 皇 二 十 年 の 遣 階 使 も 肯 定 的 に 捉 え て い る 。 ま た 、 開 皇 二 十 年 の 遣 晴 使 が 階 の 第 一 次 高 句 麗 遠 征 の 二 年 後 で あ る ⑥ こ と か ら 、 そ の 背 景 に 高 句 麗 問 題 が 存 在 し た と み ら れ て い る の も 参 考 に な る 。 ﹁ 階 書 ﹄ 倭 国 伝 の 件 が 孤 立 的 な 記 事 で な い こ と か ら も 、 開 皇 二 十 年 の 遣 階 使 に つ い て は 鈴 木 氏 説 が 妥 当 と 考 え ら れ 日 下 孜 (平 林 ) 七 九

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龍 谷 大 学 論 集 八 〇 る が 、 右 に み え る ﹁ 倭 王 あ り 、 姓 は 阿 毎 、 字 は 多 利 思 比 孤 、 阿 輩 鶏 弥 と 号 す ﹂ を め ぐ っ て も 議 論 が あ る 。 ま ず 、 ﹁ 阿 切 輩 鶏 弥 ﹂ に つ い て は 、 ﹁ オ ホ キ ミ ﹂ と 訓 ん で 大 王 の こ と と す る 説 が あ る 。 い っ ぼ う 、 唐 の 張 楚 金 が 著 し た ﹁ 翰 苑 ﹄ = 一 三 や 杜 佑 の ﹃ 通 典 ﹄ 一 八 五 に ﹁ 阿 輩 鶏 弥 、 華 言 天 児 也 ﹂ と あ る こ と な ⑧ ど か ら 、 ﹁ ア メ キ ミ ( も し く は ア マ キ ミ ) ﹂ と 訓 み ﹁ 天 の 子 ﹂ と 解 す る 説 も 有 力 で あ る 。 い ず れ と も 判 じ 難 い 情 況 と 目 さ れ る が 、 ﹁ 王 ﹂ に つ い て の 古 訓 を 挙 げ る ま で も な く 天 皇 以 外 の 王 族 も ﹁ オ ホ キ ミ ﹂ と 呼 ば れ る こ と が あ っ た こ と か ら 、 大 王 の 表 記 は と も か く ﹁ オ ホ キ ミ ﹂ の 呼 称 が 倭 国 王 に 限 定 で き な い こ と を 考 慮 す れ ば 、 後 説 が 妥 当 と 考 え ら れ る 。 な お 、 高 祖 に ﹁ こ れ 大 い に 義 理 な し ﹂ と 言 わ せ た 、 ﹁ 倭 王 は 天 を 以 て 兄 と な し 、 日 を 以 て 弟 と な す 。 天 未 だ 明 け ざ る 時 、 出 で て 政 を 聴 き 珈 鉄 し て 坐 し 、 日 出 ず れ ば 便 ち 理 務 を 停 め 、 い う 我 が 弟 に 委 ね ん と ﹂ と い う 部 分 に つ い て は 、 倭 王 即 ち 天 と い う 思 想 を 前 提 に 、 倭 王 が 夜 明 け 前 に 執 務 す る こ と に つ い て 、 日 が 昇 れ 働 ば 星 が 見 え な く な る 天 と 日 に つ い て の 観 念 を 兄 弟 の 関 係 に 擬 え て 説 明 し た も の と す る 解 釈 が 参 考 に な る 。 つ ぎ に 、 ﹁ 姓 は 阿 毎 、 字 は 多 利 思 比 孤 ﹂ と 記 す の は 、 ﹁ ア メ タ ラ シ ピ コ ﹂ と い う 倭 の 一 語 を 晴 側 が 姓 ・ 字 と 誤 解 し た ㈹ こ と に よ る 記 述 で あ り 、 ﹁ 阿 毎 多 利 思 比 孤 ﹂ は 倭 国 王 の 通 称 と す る 井 上 光 貞 氏 説 が 妥 当 と 考 え ら れ る 。 こ の ア メ タ ラ on シ ピ コ を 天 か ら 降 臨 し た お 方 と 解 す る む き も あ る が 、 そ れ で は 息 長 帯 比 売 (﹃ 紀 ﹂ で は 気 長 足 姫 尊 / 神 功 皇 后 ) の 名 に つ い て 理 解 が 不 能 と な る 。 ア メ ( ア マ ) タ ラ シ の 語 意 に つ い て は 、 天 智 天 皇 不 予 の 際 に 大 后 倭 姫 王 が 詠 ん だ と い う 、 ﹃ 万 葉 集 ﹄ 巻 第 二 所 載 の ﹁ 天 の 原 振 り 放 け 見 れ ば 大 王 の 御 壽 は 長 く 天 足 ら し た り (天 足 有 ) ﹂ ( 一 四 七 ) と い う 和 歌 も o勿 参 考 に な る 。 し た が っ て 、 こ れ は 天 の 威 力 や 生 命 力 の 満 ち 足 り た 男 子 の 謂 と 解 す べ き で あ り 、 倭 国 王 の 称 号 と し て 用 ㎝ い ら れ る と と も に 王 名 ( 認 号 ) と し て 用 い ら れ る こ と も あ っ た と 考 え ら れ る 。 た だ し 、 ア メ タ ラ シ ピ コ を 倭 国 王 の 称 号 と 解 し て も 、 開 皇 二 十 年 (六 〇 〇 ) は 推 古 天 皇 八 年 で あ り 、 ﹃ 紀 ﹄ に も 遣 晴 使 の 記 録 が 残 る 大 業 三 年 (六 〇 七 ) は 推 古 天 皇 十 五 年 で あ っ て 、 い ず れ も 女 王 の 治 下 に あ り 男 王 治 下 で は な い と い

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う 問 題 が 残 る 。 ま し て や 、 大 業 三 年 の 場 合 は 、 ﹁ そ の 王 多 利 思 比 孤 、 使 を 遣 わ し て 朝 貢 す ﹂ と 、 固 有 名 詞 的 な 書 き 振 り で あ る 。 そ こ で 、 ア メ タ ラ シ ピ コ を 聖 徳 太 子 (塵 戸 皇 子 ) 、 ﹁ 利 歌 彌 多 弗 利 ﹂ ( 語 頭 の 利 は 和 の 誤 記 で ワ カ ミ タ フ リ ) は 長 屋 王 家 木 簡 に 見 え る ﹁ 若 翁 ﹂ 、 源 氏 物 語 の ﹁ わ か む ど ほ り ﹂ に つ な が る ﹁ 若 王 ﹂ の 謂 で は な く 、 タ フ リ は 田 村 で 00 あ っ て 田 村 皇 子 (後 の 静 明 天 皇 ) を さ す と 固 有 名 詞 に 結 び つ け て 解 す る む き も あ る 。 し か し 、 ワ カ ミ タ フ リ を 即 位 前 の 静 明 に あ て る こ と に は 無 理 が あ り 、 の ち の 天 皇 号 が 男 ・ 女 王 を 問 わ ず 用 い ら れ た よ う に ア メ タ ラ シ ピ コ も 倭 国 王 の 、 09 ﹁ 利 歌 彌 多 弗 利 ﹂ は 太 子 ・ 長 子 の 通 称 名 と 解 し て 問 題 な い と 考 え る 。 古 代 に ア メ な る 語 の 有 し た 意 味 に つ い て は 、 ア メ ノ シ タ (天 下 ) と い う 語 の 用 法 の 分 析 か ら 、 王 権 の 神 聖 化 の 表 現 o励 と す る 遠 山 一 郎 氏 の 説 が 参 考 に な る 。 ち な み に 、 康 戸 皇 子 と 嶋 大 臣 (蘇 我 馬 子 ) に よ る 天 皇 記 ・ 国 記 な ど の 編 纂 は 推 古 天 皇 二 十 八 年 (六 二 〇 ) の こ と で あ り 、 そ れ 以 前 の 帝 紀 ・ 旧 辞 に 倭 国 王 ら の 名 が ど の よ う に 記 さ れ て い た か 明 瞭 で は な い が 、 ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃紀 ﹄ に お い て タ ラ シ を 名 に 負 う 天 皇 ・ 皇 后 に は 、 い わ ゆ る 閾 史 八 代 に 含 ま れ る 孝 安 天 皇 ( ヤ マ ト タ ラ シ ピ コ ク ニ オ シ ヒ ト ) を 初 め 、 景 行 天 皇 ( オ オ タ ラ シ ピ コ オ シ ロ ワ ケ ) ・ 成 務 天 皇 ( ワ カ タ ラ シ ピ コ ) ・ 仲 哀 天 皇 ( タ ラ シ ナ カ ツ ピ コ ) ・ 神 功 皇 后 oη ( オ キ ナ ガ タ ラ シ ヒ メ ) の 一 群 と 、 七 世 紀 前 半 の 静 明 天 皇 ( オ キ ナ ガ タ ラ シ ヒ ヒ ロ ヌ カ ) ・ 皇 極 天 皇 (重 詐 し て 斉 明 天 皇 / ア メ ト ヨ タ カ ラ イ カ シ ヒ タ ラ シ ヒ メ ) が い る 。 前 者 の 一 群 は 実 在 性 や 所 伝 の 信 愚 性 に 問 題 の 多 い 天 皇 ・ 皇 后 で あ る が 、 ﹃ 記 ﹄ が 記 載 す る の は 推 古 朝 ま で で あ る か ら 、 太 安 万 侶 の 意 識 の 中 に あ っ た の は 前 者 で あ ろ う 。 な お 、 そ の 他 に 孝 安 天 皇 の 同 母 弟 の 天 押 帯 日 子 命 ( 天 足 彦 押 人 命 / 春 日 臣 を は じ め と す る 和 珂 氏 系 諸 氏 の 祖 ) 、 孝 安 天 皇 ・ 天 押 帯 日 子 命 兄 弟 の 母 で あ る 尾 張 連 の 遠 祖 瀬 津 世 襲 の 妹 世 襲 足 媛 ( ﹃ 記 ﹄ は 余 曾 多 本 毘 売 命 と 記 し タ ラ シ を 含 ま な い ) 、 雄 略 天 皇 と 葛 城 詞 良 比 売 (韓 媛 ) の 間 に 生 ま れ た 若 帯 日 売 命 (稚 足 姫 皇 女 ) ら が み え る 。 タ ラ シ は 主 に 天 皇 や 皇 后 、 一 部 の 王 族 の 名 に 用 い ら れ 、 天 智 ・ 天 武 ・ 持 統 各 天 皇 に と っ て は 直 接 的 な 祖 と 位 置 づ け 日 下 孜 (平 林 ) 八 一

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龍 谷 大 学 論 集 八 二 ら れ る 静 明 ・ 皇 極 両 天 皇 の 和 風 謹 号 に 含 ま れ る 重 要 な 語 で あ っ た こ と は 確 か で あ る が 、 ﹃ 記 ﹄ は 箭 明 天 皇 以 降 を 記 載 対 象 と し な い の だ か ら 、 太 安 万 侶 が こ の 語 で 強 く 意 識 し た の は 推 古 天 皇 以 前 で あ っ た と み ら れ る 。 そ の 実 在 や 所 伝 内 容 の 信 愚 性 は さ て お き 、 タ ラ シ は 倭 国 王 の 称 号 で あ る と と も に 王 名 ( の 一 部 ) と し て 採 り 入 れ ら れ た 、 王 統 系 譜 史 上 重 要 な 語 と す る 通 念 が 存 在 し 、 稗 田 阿 礼 の 諦 習 し た 天 武 朝 の 帝 紀 ・ 旧 辞 に も す で に タ ラ シ を 含 む 王 名 が 帯 を 用 い て 記 さ れ て い た か ら 、 太 安 万 侶 は そ の 伝 統 的 表 記 を 墨 守 し た の で あ る 。 タ ラ シ の 語 に 帯 の 字 が あ て ら れ た 事 情 は 分 明 で な い が 、 帯 が 右 に 述 べ た 点 に お い て 他 の 文 字 に 改 め て は な ら な い と 意 識 さ れ た 古 来 の 表 記 で あ っ た と す れ ば 、 日 下 に つ い て も 同 様 に 王 名 と か か わ っ て 、 そ の 背 景 に ま で 踏 み 込 ん だ 分 析 が 必 要 と 考 え る 。

神 武 天 皇 と 日 下 ﹃記 ﹄ 本 文 で 日 下 の 用 字 の 初 見 は 、 神 話 的 色 彩 の 濃 厚 な 初 代 天 皇 神 武 の 東 遷 伝 承 中 の 地 名 と し て の 使 用 で あ る 。 神 武 天 皇 東 遷 伝 承 に つ い て は 周 知 の よ う に 多 く の 先 行 研 究 が あ り 、 後 世 の 何 ら か の 画 期 的 な 出 来 事 、 と く に 継 体 天 皇 即 oo 位 や 壬 申 の 乱 な ど の 投 影 と す る も の か ら 全 く の 虚 構 と す る も の ま で そ の 理 解 も 多 様 で あ っ て 、 い ま は そ の 一 々 に 触 れ る こ と は 出 来 な い が 、 日 下 に つ い て 考 え る 上 で そ の 所 伝 を 見 逃 す こ と は で き な い 。 そ の 前 に 触 れ て お か な け れ ば な ら な い の は 、 神 武 天 皇 東 遷 の 出 発 地 が 日 向 で あ る こ と で あ る 。 こ の 日 向 を 九 州 南 部 の そ れ で は な く 、 東 に 向 か い 太 陽 の よ く 照 射 す る 地 を 指 す 一 般 名 詞 と 解 す る む き も あ る が 、 そ の 記 載 内 容 か ら み て 九 州 南 部 の 日 向 が 想 定 さ れ て い る こ と は 間 違 い な い 。 景 行 天 皇 紀 十 七 年 三 月 己 酉 条 の 、 こ の 地 に 巡 狩 し た 天 皇 が ﹁ 是 の 国 は 直 に 日 の 出 つ る 方 に 向 け り ﹂ と 言 っ て ﹁ 日 向 ﹂ と 名 づ け た と の 所 伝 は 到 底 史 実 と は み ら れ な い が 、 日 向 が 日 に 向 か う 耀 光 に 満 ち 溢 れ た 土 地 で 、 日 神 の 庇 護 を 受 け る 子 孫 の 発 祥 地 に 相 応 し い 、 日 神 信 仰 の 聖 地 と し て 選 ば れ て い る こ

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と は 間 違 い な い が 、 そ れ が 空 想 さ れ た 地 で は な く 存 在 す る 九 州 南 部 の 日 向 と 設 定 さ れ て い る こ と に は 、 そ れ 相 当 の 理 由 が あ っ た の で は な い か と 想 定 さ れ る 。 ち な み に 、 ﹃ 日 向 国 風 土 記 ﹄ 逸 文 ( ﹃釈 日 本 紀 ﹄ 巻 第 八 所 引 ) に も 、 同 様 な 所 伝 が み え る 。 さ て 、 東 遷 の 一 団 は 日 向 か ら 大 阪 湾 ま で は ほ と ん ど 障 碍 な く 進 み 、 河 内 湖 東 岸 に 到 着 し た 。 今 の 大 阪 平 野 の 上 町 丘 陵 よ り 東 側 一 帯 は 、 古 墳 時 代 前 半 頃 ま で は 満 潮 時 に 海 水 が 浸 入 す る 汽 水 湖 だ っ た と 想 定 さ れ る 河 内 湖 が 広 が っ て い た 。 古 墳 時 代 中 頃 に は 淀 川 や 大 和 川 の 堆 積 物 で 河 内 湖 は 陸 化 が 進 ん で 西 半 部 に 縮 小 し 、 東 半 部 に は 湿 地 ・ 湿 原 が 広 が っ て ⑫∞ 河 内 湖 か ら 続 く 新 開 池 や 深 野 池 と な っ て い た よ う で あ る 。 さ て 、 神 武 天 皇 が 生 駒 山 麓 の 日 下 (河 内 国 河 内 郡 日 下 郷 / ⑫o . 大 阪 府 東 大 阪 市 日 下 町 ) の 蓼 津 に 上 陸 し 山 越 え で 大 和 に 入 ろ う と し た 際 に 、 大 き な 障 壁 が 立 ち は だ か っ た 。 少 し 長 く な る が 、 ﹃ 記 ﹄ の 関 連 記 事 を 左 に 引 用 し よ う 。 故 、 其 の 国 よ り 上 り 行 で ま し し 時 、 浪 速 の 渡 を 経 て 、 青 雲 の 白 肩 津 に 泊 て た ま ひ き 。 此 の 時 、 登 美 能 那 賀 須 泥 毘 古 ︿ 割 注 略 ﹀ 軍 を 興 し て 待 ち 向 へ て 戦 ひ き 。 爾 に 御 船 に 入 れ た る 楯 を 取 り て 下 り 立 ち た ま ひ き 。 故 、 其 地 を 号 け て 楯 津 と 謂 ひ き 。 今 者 に 日 下 の 蓼 津 と 云 う 。 是 に 登 美 毘 古 と 戦 ひ た ま ひ し 時 、 五 瀬 命 、 御 手 に 登 美 毘 古 が 痛 矢 串 を 負 ひ た ま ひ き 。 故 爾 に 詔 り た ま ひ し く 、 ﹁ 吾 は 日 神 の 御 子 と 為 て 、 日 に 向 ひ て 戦 ふ こ と 良 か ら ず 。 故 、 賎 し き 奴 が 痛 手 を 負 ひ ぬ 。 今 者 よ り 行 き 廻 り て 、 背 に 日 を 負 ひ て 撃 た む 。 ﹂ と 期 り た ま ひ て 、 南 の 方 よ り 廻 り 幸 で ま し し 時 、 血 沼 海 に 到 り て 、 其 の 御 手 の 血 を 洗 ひ た ま ひ き 。 故 、 血 沼 海 と は 謂 ふ な り 。 ⋮ ⋮ 結 局 、 神 武 天 皇 の 弟 ・ 五 瀬 命 は こ れ が も と で 命 を 落 と す わ け だ が 、 物 語 の 大 筋 で は ﹃紀 ﹄ も 等 し い 。 周 知 の こ と だ が 、 こ の 記 事 に は 日 神 の 御 子 ( 子 孫 ) が 日 下 の 地 で 、 日 つ ま り 東 に 向 か っ て 戦 う の は 正 し い 方 法 で は な く 、 日 の 威 力 を 背 に 受 け て 東 か ら 西 に 向 け て 戦 え ば 勝 利 を 得 る こ と が 出 来 る 、 と い う 観 念 が 色 濃 く 表 明 さ れ て い る 。 こ れ ほ ど 日 神 の 商 で あ る こ と や 、 そ の 加 護 の こ と が 方 位 と か か わ っ て 明 快 に 語 ら れ て い る 箇 所 が 、 ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃ 紀 ﹄ に お い て 他 に あ ろ う か 。 日 下 孜 (平 林 ) 八 三

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龍 谷 大 学 論 集 八 四 こ の こ と は 、 日 下 が あ る 時 期 、 日 神 信 仰 や そ の 祭 儀 に か か わ る 神 聖 な 場 所 と 観 念 さ れ て い た こ と を 示 し て い る と 解 さ れ る 。 ち な み に 、 神 武 天 皇 が こ こ 河 内 湖 東 岸 の 日 下 か ら 生 駒 山 を 越 え 、 東 に 向 か っ て は 大 和 に 入 る こ と が で き ず 、 熊 野 を 迂 回 し て 日 を 背 に す る こ と で 漸 く そ れ を 果 し 得 た と い う の は 、 彼 が 日 神 の 喬 と し て の 正 統 性 が 問 わ れ て い る と み る こ と も で き る 。 神 武 天 皇 は 日 神 を 奉 祀 す る 新 参 者 と し て 描 か れ て い る が 、 そ こ に 幾 許 か の 歴 史 上 の 出 来 事 の 投 影 を 読 み 取 る こ と が で き る か 否 か は 、 微 妙 な と こ ろ で あ ろ う 。 ク サ カ の 表 記 ﹁ 帯 ﹂ の 表 記 の 宗 教 的 背 景 は 分 明 で な い が 、 ﹁ 日 下 ﹂ が 日 神 信 仰 に 関 わ る 、 漢 字 の 表 意 性 を 重 視 し た 用 字 ( 表 記 ) で あ る こ と は 間 違 い な い 。 地 名 日 下 に つ い て は 右 の ほ か 、 垂 仁 天 皇 記 に 御 子 の 印 色 入 日 子 命 が 血 沼 池 ( 和 泉 国 日 根 郡 / 泉 佐 野 市 ) ・ 狭 山 池 (河 内 国 丹 比 郡 狭 山 郷 / 大 阪 狭 山 市 ) と ﹁ 日 下 之 高 津 池 ﹂ を 築 造 し た と あ る 。 垂 仁 天 皇 紀 三 十 五 年 九 月 条 で は 五 十 覆 敷 命 が 茅 淳 池 と 高 石 池 を 作 る と あ る こ と か ら 、 こ れ を 和 泉 国 大 鳥 郡 日 下 部 郷 (堺 市 南 部 か ら 高 石 市 辺 り ) に 求 め ら れ ¢お る 高 石 池 に あ て る む き も あ る が 、 こ の 比 定 は 後 述 す る 日 下 部 の 設 置 時 期 か ら も 疑 問 で あ る と 考 え る 。 と こ ろ で 、 ﹃ 紀 ﹄ は 神 武 天 皇 の 上 陸 地 点 を ﹁ 河 内 国 草 香 邑 青 雲 白 肩 之 津 ﹂ と 殆 ん ど ﹃ 記 ﹄ と 同 様 に 記 し な が ら 、 ク サ カ の み は 用 字 を 違 え ﹁ 草 香 ﹂ と 表 記 し て い る 。 す な わ ち 、 ﹃ 紀 ﹄ は 訓 音 混 合 だ が 読 み や す い ﹁ 草 香 ﹂ と 表 記 し て お り 、 例 外 を 除 い て ク サ カ は 草 香 と 表 記 す る 原 則 で あ っ た 。 そ の 唯 一 の 例 外 は 、 顕 宗 天 皇 即 位 前 紀 の 難 に 遭 遇 し た 仁 賢 ・ 顕 宗 兄 弟 を 救 助 し た と い う ﹁ 日 下 部 連 使 主 ﹂ で あ る が 、 こ れ は ﹃ 紀 ﹄ 筆 録 者 の 原 史 料 表 記 の 変 換 漏 れ で あ ろ う 。 ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ 和 銅 六 年 ( 七 = 二 ) 五 月 甲 子 条 に 載 る 官 命 に 基 づ い て 撰 述 さ れ た 、 い わ ゆ る 風 土 記 で は ﹃ 紀 ﹄ 以 前 の

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成 立 と み ら れ る ﹃ 播 磨 国 風 土 記 ﹄ 美 嚢 郡 志 深 里 条 に 、 先 の ﹁ 日 下 部 連 使 主 ﹂ が ﹁早 部 連 意 美 ﹂ と み え 、 同 じ く 揖 保 郡 に も ﹁ 早 部 里 ﹂ の 地 名 が あ り ﹁ 人 の 姓 に 因 り て 名 と 為 す ﹂ と あ る 。 ﹃ 紀 ﹄ 以 降 の 成 立 だ が 、 ﹃豊 後 国 風 土 記 ﹄ 日 田 郡 靱 編 郷 (大 分 県 日 田 市 の 東 南 部 ) 条 に は 磯 城 嶋 宮 御 宇 天 国 排 開 広 庭 天 皇 (欽 明 ) の 世 に 早 部 君 の 祖 、 邑 阿 自 が 靱 部 と し て 供 奉 し た と あ り 、 天 平 九 年 (七 三 七 ﹀ の ﹁ 豊 後 国 正 税 帳 ﹂ ( ﹃ 寧 楽 遺 文 ﹄ 上 巻 、 二 六 七 頁 ) の 日 田 郡 と 目 さ れ る 箇 所 に は ﹁ 大 領 日 下 部 連 吉 嶋 し ﹁ 小 領 日 下 部 君 大 国 ﹂ ﹁ 主 帳 日 下 部 君 ﹂ ら の 名 が み え 、 彼 ら は 日 田 郡 の 郡 領 氏 族 で あ っ た 。 さ ら に 、 ﹃ 肥 前 国 風 土 記 ﹄ 松 浦 郡 鏡 渡 (佐 賀 県 唐 津 市 松 浦 川 河 口 ) 条 に も 、 檜 隈 瞳 入 野 宮 御 宇 武 少 広 国 押 楯 天 皇 (宣 化 ) の 世 に 大 伴 狭 手 彦 連 が 任 那 ・ 百 済 に 派 遣 さ れ る 途 中 に 、 妻 と し た 弟 日 姫 子 に ﹁ 早 部 君 等 が 祖 な り ﹂ の 分 註 が 施 さ れ て い る 。 ﹃ 万 葉 集 ﹄ 巻 第 五 の 山 上 憶 良 の 歌 ( 八 六 八 ∼ 八 七 〇 ) に み え る 松 浦 佐 用 比 売 伝 説 と し て 知 ら れ る 所 伝 で も あ る が 、 宣 化 天 皇 紀 二 年 十 月 壬 辰 条 に は 大 伴 金 村 大 連 の 子 の 狭 手 彦 を 任 那 ・ 百 済 に 派 遣 し た と み え る だ け で あ る 。 続 く ﹃ 肥 前 国 風 土 記 ﹄ 松 浦 郡 賀 周 里 条 に も 、 纏 向 日 代 宮 御 宇 天 皇 ( 景 行 ) が 巡 狩 の 際 に 陪 従 の 大 屋 田 子 を 遣 わ し て 土 蜘 蛛 を 謙 滅 し た と あ る が 、 大 屋 田 子 に も ﹁ 早 部 君 等 が 祖 な り ﹂ と の 分 註 が あ る 。 大 屋 田 子 を 景 行 朝 の 人 と す る の は 景 行 天 皇 紀 と 同 工 異 曲 だ が 、 早 部 君 の 祖 と い う 松 浦 郡 の 弟 日 姫 子 や 日 田 郡 靱 編 郷 の 邑 阿 自 が 、 六 世 紀 中 葉 頃 の 宣 化 朝 や 欽 明 朝 の 人 物 と 伝 え ら れ る こ と は 、 日 下 部 の 設 置 時 期 を 考 察 す る う え で 示 唆 的 で あ る 。 こ の 早 は い わ ゆ る 国 字 で 二 字 以 上 の 文 字 列 が 一 字 の よ う に 書 か れ る 合 字 で あ る が 、 藤 原 宮 木 簡 (奈 良 県 教 育 委 員 会 ﹃ 藤 原 宮 ﹄ 三 頁 、 一 九 六 九 年 ) や 大 宝 二 年 ( 七 〇 二 ) の ﹁ 御 野 国 味 蜂 間 郡 春 部 里 戸 籍 ﹂ ( ﹃ 大 日 本 古 文 書 ﹄ 一 、 四 頁 ) ⑳ に み え る か ら 、 比 較 的 早 く か ら 用 い ら れ て い た 。 草 香 と 表 記 し た ﹃ 紀 ﹄ の よ う に 別 の 文 字 を 採 用 す る 手 も あ っ た ろ う oo が 、 早 に は 日 下 の 表 記 へ の 強 い 拘 り が 窺 わ れ る 。 井 上 辰 雄 氏 が 集 成 さ れ た 古 代 史 料 に み え る ク サ カ ベ は ﹁ 紀 ﹄ 以 外 す べ て が 日 下 部 で あ り 、 出 土 木 簡 (奈 良 文 化 財 研 究 所 木 簡 デ ー タ ベ ー ス ) の 表 記 で も 同 様 で 、 明 日 香 村 石 神 遺 跡 の 東 西 大 溝 S D 四 〇 八 九 か ら ﹁ 日 下 五 十 戸 人 ﹂ ( ﹃ 尾 張 国 風 土 記 ﹄ 逸 文 の 日 下 部 郷 、 ﹃ 倭 名 類 聚 抄 ﹄ 尾 張 国 愛 智 郡 日 部 郷 に あ 日 下 孜 (平 林 ) 八 五

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龍 谷 大 学 論 集 八 六 た る ) と 記 さ れ た 天 武 天 皇 一 〇 年 (六 八 一 ) ∼ 一 二 年 以 前 の 木 簡 が 出 土 し て い る こ と は 、 日 下 が 早 く に 定 着 し た 伝 統 的 表 記 で あ っ た こ と を 示 し て い る 。 こ の こ と は 反 面 、 ﹃ 紀 ﹄ の 草 香 の 表 記 が 新 し い 特 別 な も の で あ る こ と を 意 味 し 、 ﹃紀 ﹄ が ク サ カ に こ の 表 記 を 採 用 し た 思 想 的 背 景 こ そ 問 わ れ な け れ ば な ら な い 。 た だ 、 こ れ に は ﹃ 紀 ﹂ が 有 す る 日 神 信 仰 に 関 わ る 思 想 性 の 分 析 も 必 要 な こ と か ら 稿 を 新 た に す る 必 要 が あ る が 、 風 が 草 の 強 い 薫 を 運 ん で く る の は 初 夏 の 太 陽 活 動 の 最 も 活 発 な 時 期 で あ る こ と を 思 え ば 、 こ の 用 字 も 意 味 な く 撰 ば れ た も の で は な い と も 考 え ら れ る 。 ﹃ 記 ﹄ に お け る ﹁ 日 ﹂ を ふ く 神 名 と 人 名 一 〇 三 例 を 分 析 し た 川 副 武 胤 氏 は 、 そ こ に 絶 対 的 な 一 貫 し た 法 則 は な い が 、 ¢o な お 神 (霊 ) 性 へ の 顕 著 な 傾 向 を 看 取 す る こ と が 出 来 る と 述 ぺ て い る の も 参 考 に な る が 、 太 安 万 侶 が 拘 っ た よ う に 、 日 下 の 表 記 に は 古 い 謂 れ が あ っ た に 違 い な い ・ 日 下 の 表 記 の 起 源 に つ い て は ・ 西 宮 罠 駈 が ・ は つ せ か す か と ぶ と り ひ の し た ﹁ 長 谷 の 泊 瀬 ・ 春 日 の 津 鹿 ・ 飛 鳥 の 明 日 香 ﹂ な ど と 同 様 な ﹁ 日 下 の 草 香 ﹂ の 如 き 枕 詞 的 修 辞 句 が あ っ て 、 そ れ が 地 名 の 訓 を 獲 得 し て し ま っ た の で は な い か 。 当 地 か ら す れ ば 山 麓 か ら 太 陽 が 出 る の を 仰 ぎ 、 大 和 か ら は 太 陽 の 下 る と こ ろ に あ た る か ら 、 こ の よ う な 枕 詞 的 修 辞 法 を 生 み 出 し た の で は な い か 。 ク サ カ の 地 名 の 意 味 は 、 松 岡 静 雄 氏 の ﹁ 草 盧 ﹂ 説 (松 岡 静 雄 ﹃ 新 編 日 本 古 語 辞 典 ﹄ 二 〇 三 頁 、 刀 江 書 院 、 一 九 三 七 年 ⋮ 平 林 ) が も っ と も 素 直 に 受 容 せ ら れ る 。 と 述 べ る 。 ㈱ 一 方 、 井 上 辰 雄 氏 は 、 ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃ 紀 ﹄ や ﹃古 語 拾 遺 ﹄ の 記 事 を 引 用 し て 物 部 氏 系 の 古 伝 承 を 織 り 交 ぜ 平 安 時 代 初 期 に 撰 述 さ れ た と み ら れ る ﹃ 先 代 旧 事 本 紀 ﹄ ﹁ 天 孫 本 紀 ﹂ に 、 ﹁ 物 部 氏 の 祖 神 の 天 照 国 照 彦 火 明 櫛 玉 饒 速 日 尊 が 天 磐 船 に 乗 っ て 河 内 国 河 上 障 峯 (北 河 内 郡 磐 船 村 / 交 野 市 の 磐 船 神 社 あ た り ) に 降 臨 し た と あ り 、 そ の 日 神 が 天 降 り し た 山 の 麓 で あ る か ら 日 下 の 字 が あ て ら れ る よ う に な っ た の で は な い か ﹂ と 物 部 氏 と の 関 連 を 説 く 。 日 下 と 磐 船 神 社 の 間 は 十 数 キ 。 と 少 し 距 離 が あ る の が 問 題 だ が 、 生 駒 山 西 麓 の 河 内 国 若 江 郡 ・ 渋 川 郡 は 物 部 氏 の 本 拠 地 で あ っ た か ら 、 物 部 氏 と の

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㈲ 関 連 に つ い て は 留 意 し な け れ ば な ら な い 。 物 部 氏 の 祖 神 饒 速 日 尊 と 日 神 崇 拝 の 関 係 は 、 佐 伯 有 清 氏 が 紹 介 さ れ た 因 幡 国 法 美 郡 (鳥 取 県 岩 美 郡 ) の 郡 領 氏 族 で あ っ た 伊 福 部 臣 氏 の 古 系 譜 ﹁ 因 幡 国 伊 福 部 臣 古 志 ﹂ に も 、 櫛 玉 神 饒 速 日 命 が ﹁ 天 磐 船 に 乗 り 、 天 よ り 下 り 降 り る 。 虚 空 に 浮 び て 、 遙 か に 日 の 下 を 見 る に 、 国 有 り 。 因 り て 日 本 と 名 つ く 。 見 る 所 の 国 、 正 に 日 の 出 に 当 れ り 。 故 、 葦 原 中 国 を 、 更 、 日 本 の 国 と 名 つ く ﹂ と あ っ て 国 号 の 起 源 に お よ ぶ が 、 今 は 指 摘 に 留 め る 。 G∞ な お 、 大 和 岩 雄 氏 は 、 ﹁ ク サ カ の ﹁ カ ﹂ は 処 を 意 味 す る 接 尾 語 、 ﹁ ク サ ﹂ は 外 部 か ら 寄 り 付 く 強 力 な 呪 力 の こ と で 、 死 と 再 生 を 繰 り 返 す 太 陽 に 生 成 と 衰 亡 の 二 面 性 を 持 つ ﹁ ク サ ﹂ の イ メ ー ジ が 重 ね ら れ て 日 下 と 表 記 さ れ た ﹂ と す る が 、 な ぜ 日 下 の み に そ れ が 適 用 さ れ た の か 説 明 は な い 。 こ の よ う に 諸 説 分 立 し 、 ク サ カ を 日 下 と 表 記 し た 理 由 は 明 瞭 で な い 。 関 連 史 料 が 僅 少 な こ と も あ っ て 諸 説 の 当 否 を 判 ず る こ と は 困 難 だ が 、 日 下 の 表 記 が こ の 地 に お け る 日 神 崇 拝 に 由 来 す る こ と は 、 次 述 す る 日 下 を 名 に 負 う 王 族 の 所 伝 か ら も 確 か で あ る と 考 え る 。 日 下 兄 妹 の 悲 劇 ﹃ 記 ﹂ 序 文 で 日 下 を ﹁ 姓 に 於 き て 日 下 ﹂ 、 す な わ ち 人 の 名 と し て い る 王 族 は 、 波 多 毘 能 大 郎 子 ・ 波 多 毘 能 若 郎 女 Go (長 日 比 売 命 ) の 亦 名 で あ る い う 、 大 日 下 王 ・ 若 日 下 王 の 兄 妹 の み で あ り 、 太 安 万 侶 が い う 人 物 は こ の 兄 妹 を 措 い て 他 に な い 。 兄 妹 の 父 は 仁 徳 天 皇 、 母 は 日 向 の 諸 県 君 牛 諸 ( ﹃ 紀 ﹄ で は 諸 県 君 牛 諸 井 あ る い は 諸 県 君 牛 ) の 娘 の 髪 長 比 売 と 伝 え 、 母 系 に お い て 日 向 系 の 王 族 で あ る 。 仁 徳 天 皇 と 髪 長 比 売 の 結 ば れ る 事 情 に つ い て は 後 述 す る が 、 大 日 下 王 ・ 若 日 下 王 兄 妹 の 生 涯 は 悲 劇 に 終 わ っ た と 伝 え ら れ る 。 な お 、 髪 長 比 売 の 出 た 諸 県 君 の 拠 地 で あ る 日 向 諸 県 地 域 は 、 令 制 下 の 郡 域 は 今 の 宮 崎 県 宮 崎 市 ( 旧 倉 岡 村 ) ・ 東 諸 日 下 放 (平 林 ) 八 七

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龍 谷 大 学 論 集 八 八 県 郡 ・ 西 諸 県 郡 ・ 小 林 市 ・ え び の 市 ・ 北 諸 県 郡 ・ 都 城 市 、 さ ら に 鹿 児 島 県 曾 於 郡 志 布 志 町 ・ 松 山 町 ・ 有 明 町 ・ 大 隅 働 町 ・ 財 部 町 ・ 末 吉 町 と 、 熊 襲 の 襲 11 噌 嚇 あ る い は 大 隅 隼 人 の 拠 地 を も 包 含 す る 広 大 な 地 域 に お よ ん で い た 。 明 治 十 二 年 に 東 ・ 西 ・ 南 ・ 北 諸 県 郡 に 四 分 割 し た の も 、 領 域 の 広 大 さ か ら み て 頷 け よ う 。 さ て 、 ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃ 紀 ﹄ に よ れ ば 、 五 世 紀 の 王 位 は 仁 徳 天 皇 の あ と 、 そ の 子 の 履 中 ・ 反 正 ・ 允 恭 天 皇 と 継 承 す る 。 続 い て 允 恭 天 皇 の 子 の 安 康 ・ 雄 略 天 皇 の 兄 弟 が 即 位 す る が 、 事 は そ の 時 に 起 こ っ た と い う 。 ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃ 紀 ﹄ の 間 で は 所 伝 内 容 に 若 干 の 違 い が あ る が 、 記 事 全 文 の 掲 載 は 冗 長 に な る の で ﹃ 記 ﹄ の 所 伝 概 要 か ら 事 件 の 展 開 を 追 っ て み よ う 。 安 康 天 皇 は 弟 の 大 長 谷 王 子 (後 の 雄 略 天 皇 ) の 妃 に 若 日 下 王 を 迎 え よ う と し て 、 坂 本 臣 ら の 祖 で あ る 根 臣 を 大 日 下 王 の も と に 派 遣 し た 。 大 日 下 王 は 求 婚 受 諾 の 礼 物 と し て 押 木 の 玉 級 を 安 康 天 皇 に 奉 献 し た が 、 見 事 な 玉 綬 に 目 が く ら ん だ 根 臣 は 大 日 下 王 が 拒 否 し た と 読 言 し た 。 そ れ を 信 じ た 安 康 天 皇 は 怒 っ て 大 日 下 王 を 殺 害 し 、 彼 の 妻 で あ る 長 田 大 郎 女 を 奪 い 皇 后 と し た 。 そ の 後 、 安 康 天 皇 が 神 淋 で 昼 寝 を し て い た 際 、 大 后 の 長 田 大 郎 女 に ﹁ 目 弱 王 が 成 人 し て 大 日 下 王 殺 害 の 事 実 を 知 っ た な ら 、 逆 心 を 懐 く の で は な い か ﹂ と 、 つ い 本 音 を 漏 ら し た 。 御 殿 の 下 で そ れ を 漏 れ 聞 い た 目 弱 王 は 寝 て い た 安 康 天 皇 を 殺 害 し 、 都 夫 良 意 富 美 の 家 に 逃 げ 込 ん だ 。 事 を 知 っ た 大 長 谷 王 は 、 目 弱 王 の 行 為 を 放 置 し た 自 分 の 二 人 の 兄 、 境 黒 日 子 王 と 八 瓜 白 日 子 王 を 殺 害 し 、 さ ら に 軍 を 発 し て 目 弱 王 が 逃 げ 込 ん だ 都 夫 良 意 富 美 の 家 を 取 り 囲 ん だ 。 都 夫 良 意 富 美 は 賊 罪 と し て 、 娘 の 詞 良 比 売 に 五 処 の 屯 宅 -分 註 に ﹁ 謂 は ゆ る 五 村 の 屯 宅 は 、 今 の 葛 城 の 五 村 の 苑 人 な り ﹂ と あ る ー を 副 え て 献 上 し た が 許 さ れ ず 、 二 人 は 自 害 し て 果 て た 。 い わ ゆ る 葛 城 氏 滅 亡 事 件 に 連 な る わ け だ が 、 結 果 、 雄 略 天 皇 は 大 日 下 王 の 妹 で あ る 若 日 下 王 と 、 都 夫 良 意 富 美 の 娘 で あ る 詞 良 比 費 を 自 分 の キ サ キ と す る 。 た だ 若 日 下 王 に は 子 が な く 、 詞 良 比 齎 は 白 髪 命 (清 寧 天 皇 ) と 若 帯 日 売 命 を 儲 け た 。 要 す る に 、 雄 略 天 皇 は 日 下 と 葛 城 の 二 人 の 女 性 を キ サ キ と し た こ と で 、 王 位 に 即 く こ と が 出 来 た と も い え よ う 。

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さ ら に 、 雄 略 天 皇 紀 十 四 年 四 月 甲 午 条 に は そ の 後 日 課 が 記 さ れ て い て 、 坂 本 臣 の 祖 で あ る 根 使 主 (根 臣 ) の 悪 行 が 発 覚 し て 殺 さ れ 、 そ の 子 孫 の 半 ば を 大 草 香 部 民 と し て 皇 后 草 香 幡 俊 皇 女 ( 若 日 下 王 ) に 封 じ 、 残 り を 茅 淳 県 主 に 賜 わ っ て 負 嚢 者 と し た 。 ま た 、 大 草 香 皇 子 (大 日 下 王 ) に 殉 じ た 難 波 吉 士 日 香 香 の 子 孫 に は 大 草 香 部 吉 士 を 賜 姓 し た 、 と 大 草 香 部 の 設 置 事 情 を 伝 え る 。 こ れ に よ れ ば 、 大 草 香 部 は 大 草 香 皇 子 の 死 後 に 設 置 さ れ た こ と に な る が 、 名 代 の 設 置 に つ い て は 後 述 す る 。 ち な み に 、 葛 城 詞 良 比 費 が も う け た 若 帯 日 売 命 を 雄 略 天 皇 紀 元 年 三 月 是 月 条 は 稚 足 姫 皇 女 (更 の 名 は 拷 幡 姫 皇 女 ) と 表 記 し 、 彼 女 は ﹁ 伊 勢 大 神 の 祠 に 侍 ﹂ る 、 い わ ゆ る 伊 勢 斎 宮 と し て 派 遣 さ れ た と あ る 。 同 じ く 三 年 四 月 条 は 、 彼 女 の 更 の 名 、 拷 幡 姫 皇 女 を 主 人 公 と す る 不 可 解 な 物 語 を 伝 え る が 、 次 は そ の 要 旨 で あ る 。 阿 閉 臣 国 見 が 、 湯 人 の 塵 城 部 連 武 彦 が 拷 幡 姫 皇 女 を 孕 ま せ た と 譜 言 し た 。 天 皇 は 使 者 を 派 遣 し て 拷 幡 姫 皇 女 を 詰 問 す る が 、 皇 女 は 否 定 し ﹁神 鏡 ﹂ を 持 っ て 五 十 鈴 河 上 に 行 き 、 鏡 を 埋 め て 自 経 し た 。 天 皇 は 姿 の 見 え な く な っ た 皇 女 を 求 め 、 闇 夜 に あ ち こ ち 探 し て 回 っ た 。 河 上 に 蛇 の よ う な 虹 の あ が っ た 場 所 を 掘 っ た と こ ろ 、 神 鏡 と 皇 女 の 屍 が 出 て き た の で 腹 を 割 い た 。 す る と 水 の 中 に 石 が あ っ て 、 塵 城 部 連 武 彦 の 疑 い が 晴 れ た 。 何 と も 不 思 議 な 内 容 で あ る だ け で な く 、 王 家 の 日 神 祭 祀 ・ 伊 勢 神 宮 の 創 祀 を 考 え る う え で 示 唆 深 い 所 伝 で あ る が 、 今 は 指 摘 に 留 め よ う 。 雄 略 天 皇 の 若 日 下 王 妻 問 い に つ い て は 次 述 す る が 、 目 弱 王 関 連 の 所 伝 で ﹁ 紀 ﹄ が ﹃ 記 ﹄ と 異 な る 主 な 点 は 、 ﹁ 記 ﹄ で は 系 譜 上 の 位 置 が 詳 か で な い 大 草 香 皇 子 の 妻 、 す な わ ち 眉 輪 王 の 母 で あ る 長 田 大 娘 皇 女 (中 蕎 姫 皇 女 あ る い は 中 磯 皇 女 と も ) を 履 中 天 皇 と 草 香 幡 峻 皇 女 の 間 の 生 ま れ と す る こ と 、 葛 城 円 大 臣 (都 夫 良 意 富 美 ) が 贈 罪 に 差 し 出 し た の が 娘 の 韓 媛 と 葛 城 宅 七 区 で あ る こ と 、 眉 輪 王 (目 弱 王 ) が 葛 城 円 大 臣 ・ 坂 合 黒 彦 皇 子 と と も に 幡 殺 さ れ た と 伝 え る こ と な ど で 、 差 異 は 小 さ い も の の 触 れ な け れ ば な ら な い 若 干 の 問 題 も あ る 。 日 下 孜 (平 林 ) 八 九

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龍 谷 大 学 論 集 九 〇 目 弱 王 と 日 下 の 女 性 ま ず 、 ﹃ 紀 ﹄ の 伝 え る 眉 輪 王 の 祖 母 ( 履 中 天 皇 の 皇 后 ) 草 香 幡 稜 皇 女 の 問 題 で あ る が 、 彼 女 は 出 自 記 事 が な く 雄 略 天 皇 の 皇 后 で 大 草 香 皇 子 の 妹 の 草 香 幡 峻 皇 女 ( ﹃ 記 ﹄ の 若 日 下 王 11 波 多 毘 能 若 郎 女 ) と 同 名 で あ っ て 、 両 者 が 同 名 異 人 な の か 同 一 人 物 な の か 定 か で は な い 。 類 似 の 問 題 と し て 、 ﹃ 記 ﹄ は 大 日 下 王 の 妻 で あ る 長 田 大 郎 女 の 出 自 を 示 さ な い が 、 允 恭 天 皇 と 忍 坂 大 中 姫 の 間 に 生 ま れ た 長 田 大 郎 女 ( ﹃ 紀 ﹄ で は 名 形 大 娘 皇 女 ) と い う 同 名 の 皇 女 が み え 、 こ れ も 両 者 が 同 名 異 人 な の か 同 一 人 物 な の か 判 然 と し な い 。 さ ら に 、 も し 後 者 の 二 人 が 同 一 人 物 な ら ば 、 安 康 天 皇 は 大 日 下 王 を 殺 害 し て 掠 奪 し た 長 田 大 郎 女 と 両 親 が 同 じ だ か ら 近 親 相 姦 と な っ て 禁 忌 に 抵 触 す る こ と に な る 。 二 組 の 同 じ 名 を 持 つ 女 性 は 、 と も に 同 名 異 人 な の か 、 同 一 人 物 だ が 系 譜 に 混 乱 が あ る か 、 も し く は 後 世 の 作 偽 が 加 G⑳ わ っ て い る の か 、 一 連 の 物 語 の 信 懸 性 と と も に 議 論 の あ る と こ ろ だ が 、 関 連 史 料 が ほ と ん ど な い な か で 判 断 を 下 す の は 容 易 で な い 。 さ ら に 、 ﹁ 眉 輪 王 は 葛 城 氏 と の 系 譜 関 係 を 持 た な い こ と か ら 、 葛 城 円 大 臣 殺 害 に よ る 葛 城 氏 本 宗 の 滅 亡 と 所 領 献 上 は 眉 輪 王 の 事 件 は ま っ た く 無 関 係 で あ り 、 二 世 王 で あ る 顕 宗 ・ 仁 賢 両 天 皇 の 即 位 を 正 当 化 す る た め の 虚 構 ﹂ と す る 大 ⑬む 橋 信 彌 氏 の 説 も あ る 。 大 橋 氏 は 、 ﹁ 雄 略 天 皇 を 大 悪 天 皇 と し 、 雄 略 天 皇 に 殺 さ れ る 顕 宗 ・ 仁 賢 両 天 皇 の 父 市 辺 押 磐 皇 子 を 聖 人 と し て 顕 彰 す る 立 場 か ら 為 さ れ た 。 実 際 は 、 葛 城 氏 に 擁 立 さ れ た 市 辺 押 磐 皇 子 が 安 康 天 皇 を 殺 害 し 、 雄 略 天 皇 が 市 辺 押 磐 皇 子 を 打 倒 し た 事 実 を 隠 蔽 す る た め に 眉 輪 王 の 事 件 を 虚 構 し た ﹂ の で あ る と 説 く 。 し か し 、 眉 輪 王 の 事 件 が 虚 構 な ら 、 ど う し て こ の よ う な 複 雑 な 構 成 に な っ て い る の だ ろ う か 。 虚 構 の 物 語 を 意 図 的 に 創 作 す る の な ら 、 も っ と 単 純 で 明 解 な 構 成 に し た ほ う が 、 意 図 す る と こ ろ を よ り 確 実 に 示 す こ と が 出 来 る は ず で あ る 。 ま た 、 雄 略 天 皇 が 市 辺 押 磐 皇 子 を 殺 害 し た こ と は ﹃ 記 ﹄ ﹃紀 ﹄ と も に 伝 え て い る か ら 、 何 を 隠 蔽 す る 必 要 が あ っ た の か も 判 然 と し な い 。 ﹃ 紀 ﹄ よ り 成 立 の 早 い ﹃ 播 磨 国 風 土 記 ﹄ に お い て も 、 ﹁ 市 辺 押 磐 皇 子 に よ る 安 康 天 皇 殺 害 ﹂ を

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思 わ せ る 記 述 な な い 。 さ ら に 、 顕 宗 ・ 仁 賢 両 天 皇 の 即 位 を 意 図 的 に 正 当 化 し よ う と す れ ば 、 彼 ら が 播 磨 の 縮 見 屯 倉 で 見 出 さ れ る 物 語 な ど 不 要 で あ り 、 ま た 雄 略 天 皇 を 故 意 に 大 悪 天 皇 と 記 し た い の な ら 、 眉 輪 王 の 事 件 を 創 作 し な く と も 幾 ら で も 手 法 が あ っ た こ と は 武 烈 天 皇 紀 か ら も 明 白 で あ る 。 加 え て 、 雄 略 天 皇 紀 四 年 二 月 条 に は ﹁ 有 徳 天 皇 也 ﹂ と 相 反 す る 評 価 記 事 も あ り 、 ﹃ 紀 ﹄ に お け る 雄 略 天 皇 像 が 必 ず し も ﹁ 大 悪 天 皇 ﹂ 観 で 貫 か れ て い る わ け で は な い 。 ま た 、 大 日 下 王 ・ 目 弱 王 殺 害 か ら 若 日 下 王 奪 取 に 至 る 物 語 を 名 代 の 名 か ら の 連 想 、 ﹁ 日 ﹂ に 関 連 付 け て 構 想 さ れ た 09 も の と す る 説 も あ る が 、 名 代 の 名 を 負 う 王 族 が 先 に あ っ て 名 代 が 設 定 さ れ る わ け で 、 そ の 逆 で は な い 。 さ ら に 、 ﹁ 近 親 相 姦 を 隠 蔽 す る た め に ﹃ 紀 ﹄ は 中 蕎 姫 皇 女 (中 磯 皇 女 ) な る 人 物 を 創 作 、 加 上 し た ﹂ と み る む き も あ る 施 、 そ れ な ら ば 長 田 大 郎 女 の 系 譜 を 付 け 替 え る だ け で 事 が す む わ け で 、 や は り 簡 単 に は 否 定 で き な い だ ろ う 。 系 oη 譜 論 か ら ﹁ 眉 輪 王 の よ る 安 康 天 皇 殺 害 は 、 実 は 雄 略 天 皇 に よ る 安 康 天 皇 殺 害 で あ っ た ﹂ と の 想 定 も あ る が 、 天 皇 殺 害 と い う 重 大 事 件 の 首 謀 者 を 軽 々 と 改 変 で き た の で あ れ ば 、 行 き 着 く と こ ろ 古 代 の 歴 史 書 は 如 何 様 に も 改 変 ・ 創 作 す る こ と が 可 能 だ っ た こ と に な っ て し ま い 、 歴 史 書 と し て の 権 威 を 維 持 す る こ と は で き な く な ろ う 。 そ の 他 、 ﹁ 天 皇 の 皇 女 婚 は 大 后 成 立 と 絡 ん で 継 体 天 皇 以 降 の 新 し い 時 代 に 集 中 的 に 要 請 さ れ た 形 態 で あ り 、 八 田 皇 女 ・ 草 香 幡 稜 皇 女 . 長 田 大 郎 女 ・ 中 蓄 姫 皇 女 ・ 若 日 下 王 (草 香 幡 峻 皇 女 ) ら の 皇 女 婚 は 、 そ う し た 意 識 を 反 映 し て 王 統 譜 整 備 作 業 の 中 で 生 o⑩ み 出 さ れ た も の で あ る ﹂ と の 説 も あ る が 、 そ う し た 意 識 だ け で 支 配 層 に も 共 有 さ れ て い た と 思 わ れ る 王 統 譜 を 安 易 に 書 き 換 え る こ と が 出 来 た の か 、 そ の 必 要 性 が ど こ に あ っ た の か 、 そ の こ と で 誰 が ど の よ う な 利 益 を 受 け る の か な ど 分 明 で は な く 、 従 い が た い 。 古 代 に は 王 族 内 部 で 名 前 ( の 一 部 ) が 継 承 さ れ る こ と は 、 珍 し い こ と で は な い 。 伝 承 過 程 で の 錯 簡 、 混 乱 は 否 定 で き ず 十 全 の 信 頼 性 を 寄 せ る こ と は で き な い も の の 、 五 世 紀 以 降 の 天 皇 や 王 族 に つ い て は 、 七 世 紀 中 葉 以 降 の 歴 史 書 の 編 纂 過 程 で 意 図 的 に 天 皇 や 王 族 を 創 作 し て 王 族 系 譜 を 捏 造 す る こ と は 、 辛 亥 年 11 四 七 一 年 に あ て ら れ る 埼 玉 県 行 田 市 日 下 致 (平 林 ) 九 一

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龍 谷 大 学 論 集 九 二 稲 荷 山 古 墳 出 土 の 鉄 剣 金 象 嵌 銘 系 譜 の 存 在 か ら み て も 困 難 で は な か っ た か と 考 え る 。 し か し 、 ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃紀 ﹄ の 王 族 系 譜 そ の も の が 、 傍 証 す る 外 国 文 献 や 金 石 文 な ど が 存 在 し な い 限 り 、 実 実 の 確 認 は 容 易 で な い 。 履 中 天 皇 の 皇 后 ( 眉 輪 王 の 祖 母 ) 草 香 幡 稜 皇 女 は 、 ﹃ 記 ﹄ に 応 神 天 皇 の キ サ キ の 日 向 泉 長 比 売 が 儲 け た と あ る ﹁ 幡 日 之 若 郎 女 ﹂ の こ と で は な い か と 考 え ら れ る 。 泉 長 比 売 と 幡 日 之 若 郎 女 に つ い て は 、 髪 長 媛 と 草 香 幡 峻 皇 女 (若 日 下 ㈹ 王 ) の 所 伝 が 紛 れ て 混 入 し た 可 能 性 も あ る が 、 史 実 関 係 と は 別 に 日 向 泉 長 比 売 と 幡 日 之 若 郎 女 も 日 向 系 集 団 に 縁 り の 人 物 と し て 河 内 日 下 に 住 み 、 幡 日 之 若 郎 女 が ク サ カ ノ ハ タ ヒ の 名 で 伝 え ら れ る こ と が あ っ た と の 想 定 も 可 能 で あ る 。 ㈲ ち な み に 、 ハ タ ヒ と い う 名 に は 、 機 を 織 る 女 性 、 と く に 神 衣 を 織 る 巫 女 的 女 性 の 姿 が 投 影 し て い る 。 す な わ ち 履 中 天 皇 は 、 応 神 天 皇 と 日 向 泉 長 媛 の 間 に 生 ま れ た 草 香 幡 稜 皇 女 (幡 日 之 若 郎 女 ) を 皇 后 と し て 中 蓄 姫 皇 女 (長 田 大 郎 女 ) を 儲 け 、 安 康 天 皇 は 大 草 香 皇 子 と の 間 に 眉 輪 王 を 生 ん だ 中 帯 姫 皇 女 を 奪 っ て 皇 后 と し た 。 さ ら に 、 弟 の 雄 略 天 皇 は 葛 城 円 大 臣 の 娘 の 韓 媛 を 獲 得 す る と と も に 仁 徳 天 皇 と 日 向 の 諸 県 君 髪 長 媛 の 間 に 生 ま れ た 草 香 幡 峻 皇 女 ( 若 日 下 王 ) を 皇 后 と す る こ と に よ っ て 王 位 に つ く こ と が 出 来 た と い う の が 、 一 連 の 所 伝 の 根 幹 で あ ろ う 。 要 す る に 、 履 中 ・ 安 康 ・ 雄 略 天 皇 ら が 即 位 す る に は 、 葛 城 氏 の 女 性 を キ サ キ と す る と と も に 、 日 向 縁 り の キ サ キ の 儲 け た 河 内 日 下 の 女 性 の 獲 得 が 等 し く 重 要 と 観 念 さ れ て い た と 考 え ら れ る 。 い ず れ に し て も 、 眉 輪 王 は 父 系 だ け で な く 、 母 系 に お い て も ﹁ 日 下 ﹂ に 遡 源 す る が 、 彼 が 雄 略 天 皇 に 滅 ぼ さ れ る 理 由 の 一 つ は 、 こ こ に あ っ た の で は な い か と 考 え ら れ る 。 眉 輪 王 の 事 件 に つ い て は 、 込 み 入 っ た 系 譜 上 の 問 題 点 も あ っ て 、 そ の 統 一 的 な 理 解 に 困 惑 し て き た と こ ろ で あ る 。 権 力 闘 争 の 原 因 は 複 合 的 で 単 純 に 割 り 切 れ な い が 、 今 こ れ を 王 ㈹ 統 系 譜 に 限 っ て い え ば 、 母 系 が 日 向 系 の 日 下 宮 王 家 (後 述 ) と 葛 城 氏 の 連 合 、 対 す る 非 日 下 宮 王 家 ・ 非 葛 城 氏 連 合 の 抗 争 と 捉 え れ ば 、 前 後 を も 含 め て 事 の 流 れ が 比 較 的 容 易 か つ 整 合 的 に 理 解 さ れ 、 五 世 紀 史 へ の 位 置 付 け も 明 確 に な る と 考 え る 。

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ち な み に 、 草 香 幡 峻 皇 女 は 日 下 幡 稜 皇 女 で あ る か ら 、 そ れ は 日 下 宮 で 機 を 織 る 皇 女 、 す な わ ち 日 神 祭 祀 の 聖 地 で 日 神 の た め に 機 を 織 る 皇 女 で あ り 、 こ れ は 斎 服 殿 ( 忌 服 屋 ) で 神 衣 を 織 る 天 照 大 神 を 想 起 さ せ る 。 筆 者 は 先 に 、 天 照 大 ㈲ 神 の 天 石 窟 神 話 に は 、 太 陽 神 信 仰 に 馬 匹 文 化 と 蚕 織 文 化 が 習 合 し て い る と 述 べ た が 、 後 述 す る よ う に 日 下 を 舞 台 と す る 所 伝 や 遺 跡 に こ の 三 要 素 が 揃 っ て み ら れ る の も 、 倭 国 王 家 の 祖 神 神 話 の 形 成 を 考 え る 上 で 示 唆 的 で あ る 。 日 下 の 直 越 日 下 が 日 神 信 仰 に 関 わ る 聖 地 で あ っ た 情 況 は 、 雄 略 天 皇 が 若 日 下 王 を 妻 問 う 場 面 で も 語 ら れ て い る 。 そ れ は 目 弱 王 事 件 の 続 篇 と も い う べ き 所 伝 だ が 、 長 い 記 事 の 引 用 は 煩 珀 に な る の で 、 こ れ も そ の 概 要 を 記 そ う 。 大 后 と な る 若 日 下 王 が 未 だ 日 下 に 居 た と き 、 雄 略 天 皇 が 日 下 の 直 越 の 道 よ り 河 内 に や っ て 来 た 。 山 の 上 か ら 国 内 を 見 た と こ ろ 、 志 幾 大 県 主 が 天 皇 に 似 せ て 家 を 堅 魚 木 で 飾 っ て い た の で 、 分 に 過 ぎ る と し て 家 を 焼 こ う と し た 。 志 幾 大 県 主 は 賊 罪 に 、 白 犬 に 布 を 掛 け 鈴 を 着 け て 献 上 し た 。 雄 略 天 皇 は こ の 白 犬 を 妻 問 い の 品 物 と し て 贈 っ た と こ ろ 、 若 日 下 王 は ﹁ 日 に 背 き て 幸 行 で ま し し 事 、 甚 恐 し 。 故 、 己 れ 直 に 参 上 り て 仕 へ 奉 ら む 。 ﹂ と 天 皇 に 申 し 上 げ た 。 そ こ で 天 皇 は 、 日 下 辺 の (久 佐 加 辮 能 ) 此 方 の 山 と 畳 薦 平 群 の 山 の 此 方 此 方 の 山 の 峡 に 立 ち 栄 ゆ る 葉 廣 熊 白 梼 ⋮ ⋮ ㈲ と 歌 で 応 じ た 。 国 見 的 構 想 の 物 語 で あ る が 、 雄 略 天 皇 は 日 下 の 直 越 を 、 神 武 天 皇 の 上 陸 と は 反 対 に 東 か ら 西 に む か っ て 、 す な わ ち 背 後 に 日 神 の 霊 威 を 受 け て 河 内 日 下 の 若 日 下 王 を 訪 問 し た の で 、 首 尾 よ く 彼 女 を 大 后 と し て 迎 え る こ と が 出 来 た と い う 。 日 下 の 若 日 下 王 へ の 妻 問 い を 成 就 さ せ る に は 、 日 神 の 霊 威 を 受 け る 必 要 が あ っ た と い う こ と で も あ る 。 日 下 放 (平 林 ) 九 三

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龍 谷 大 学 論 集 九 四 ㈲ 日 下 の 直 越 と は 、 生 駒 山 を 越 え て 直 線 的 に 河 内 日 下 と 大 和 を 結 ぶ 、 日 下 川 に 沿 っ た ほ ぼ 直 線 の 捷 路 と み ら れ る が 、 ﹃ 万 葉 集 ﹄ 巻 第 六 に は 天 平 五 年 に 神 社 忌 寸 老 麿 の そ れ を 詠 ん だ 歌 (七 三 三 ) が 載 る か ら 奈 良 時 代 に も 利 用 さ れ て い た 。 ㈲ お そ ら く 、 河 内 湖 が 広 が っ て い た 時 代 に そ の 東 岸 、 生 駒 山 西 麓 を 南 北 に 結 ぶ 延 暦 三 年 ( 七 八 四 ) 以 降 の 南 海 道 の 前 身 と な る ﹁ 河 内 山 辺 の 道 ﹂ と も 称 す べ き 古 道 が 通 じ 、 北 は 淀 川 中 流 左 岸 辺 り か ら 日 下 を 経 由 し て 紀 伊 に 到 る が 、 目 弱 王 事 件 の 背 景 を 思 え ば 大 和 川 支 流 の 石 川 に 沿 っ て 南 下 し 、 二 上 ・ 葛 城 ・ 金 剛 山 間 の 竹 内 峠 や 水 越 峠 を 越 え て 大 和 葛 城 と も 結 ば れ て い た と 想 定 さ れ る 。 す な わ ち 、 日 下 は 河 内 湖 東 岸 の 要 津 で あ っ た だ け で な く 、 生 駒 山 西 麓 の 東 西 ・ 南 北 の 陸 路 も 交 差 す る 水 陸 交 通 の 要 衝 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 ㈱ ち な み に 、 雄 略 天 皇 記 の 物 語 で は 、 若 日 下 王 が 日 向 諸 県 出 身 の 母 髪 長 媛 と と も に 日 下 に 居 た と い う こ と だ ろ う が 、 右 の 歌 謡 で 河 内 日 下 と 大 和 平 群 が 山 の 表 裏 一 体 的 な 地 域 と 詠 ま れ て い る こ と に も 留 意 さ れ る が 、 な お 後 述 す る 。 い ず れ に し て も 、 物 語 の 内 容 は 正 反 対 で あ る が 神 武 天 皇 の 場 合 と 同 じ く 、 こ の 所 伝 の 背 景 に 河 内 日 下 に お け る 日 神 信 仰 が 色 濃 く 投 影 さ れ て い る こ と は 明 瞭 で あ る 。 詳 し く は 別 稿 ( ﹁ 日 の 御 子 孜 ﹂ ) で 述 べ る 予 定 だ が 、 雄 略 天 皇 記 で 若 日 下 王 が 三 重 采 女 に 続 い て 雄 略 天 皇 を ﹁ 日 の 御 子 ﹂ と 称 え る 歌 謡 を 献 じ た と 伝 え る こ と に 、 相 通 じ る 思 想 的 背 景 を 窺 う こ と が で き る 。 す な わ ち 、 河 内 日 下 が 日 神 信 仰 の 聖 地 と し て 観 念 さ れ て い た こ と は 確 か で あ る が 、 東 の 山 際 か ら 太 陽 が 昇 る 場 所 は 日 下 の 地 に 限 る わ け で は な い か ら 、 河 内 日 下 を 日 神 信 仰 の 聖 地 と す る 観 念 が ど の よ う に 成 立 し た の か 、 地 理 的 位 置 だ け で は な く そ の 歴 史 的 背 景 の 考 察 が 必 要 で あ る 。 な お 、 雄 略 天 皇 記 に は あ と 一 首 、 日 下 の 地 名 が 詠 み こ ま れ た 歌 謡 が 載 録 さ れ て い る 。 そ れ は 引 田 部 赤 猪 子 の 物 語 に お け る 志 都 歌 四 首 の な か の 、 ﹁ 日 下 江 の (久 佐 迦 延 能 ) 入 江 の 蓮 花 蓮 身 の 盛 り 人 羨 し き う か も ﹂ と い う 歌 だ が 、 日 下 が 蓮 の 生 い 茂 る 入 江 状 の 、 河 内 湖 岸 の 地 で あ っ た こ と が 窺 わ れ る 。

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景 行 天 皇 と 日 向 の 女 性 大 日 下 王 ・ 若 日 下 王 か ら 目 弱 王 に い た る 物 語 の 問 題 を 解 く 鍵 は 、 河 内 日 下 に あ る と 考 え ら れ る が 、 そ れ と 同 時 に 見 逃 せ な い の は 女 系 を 辿 れ ば 九 州 の 日 向 出 身 の 女 性 に 遡 る こ と で あ る 。 す な わ ち 、 河 内 日 下 が 九 州 の 日 向 と 強 く 結 び つ い た 土 地 で あ り 、 そ の こ と が 日 下 の 人 文 的 特 色 に も 影 響 し て い る の で は な い か と 予 察 さ れ る 。 以 下 に 述 べ る よ う に 、 ﹃ 記 ﹄ ・ ﹃ 紀 ﹄ で 大 和 か ら は 僻 遠 の 地 と み ら れ た 日 向 か ら キ サ キ を 迎 え て い る の は 景 行 ・ 応 神 ・ 仁 徳 の 三 天 皇 の み で あ ㈲ り 、 事 実 関 係 は 別 に し て も 異 例 の こ と と い え る 。 具 体 的 に 記 せ ば 、 ﹃ 記 ﹄ に よ る と 景 行 天 皇 は 日 向 の 美 波 迦 斯 毘 売 を キ サ キ と し て 日 向 国 造 の 祖 で あ る 豊 国 別 王 を 儲 け た と 伝 え る が 、 詳 し い 事 情 は 語 ら な い 。 一 方 、 数 多 く の キ サ キ を 持 ち 八 十 人 も の 御 子 を 儲 け た と 記 す ﹃紀 ﹄ で は 、 景 行 天 皇 紀 四 年 二 月 甲 子 条 に 日 向 髪 長 大 田 根 を キ サ キ と し 、 彼 女 は 日 向 襲 津 彦 皇 子 ( 長 門 国 阿 武 郡 を 本 貫 と す る 阿 牟 君 氏 の 始 祖 ) を 生 ん だ と あ る 。 ま た 、 日 本 武 尊 が 南 九 州 の 熊 襲 征 討 を 進 め る の に 先 立 っ て 景 行 天 皇 自 ら が 巡 狩 ・ 西 征 を 行 な い 、 周 芳 (山 口 県 東 部 ) か ら 碩 田 (大 分 県 ) を 経 て 、 日 向 国 の 高 屋 宮 ( 天 孫 降 臨 神 話 で 神 武 天 皇 の 祖 父 、 彦 火 火 出 見 尊 を 高 屋 山 上 陵 に 葬 っ た と 伝 え る 神 話 上 の 霊 地 ) を 拠 地 に し て 熊 襲 を 征 圧 し た と 記 す 。 十 三 年 五 月 条 に は こ の 高 屋 宮 に 滞 在 中 、 天 皇 は そ の 国 の 佳 人 で あ る 御 刀 媛 を 召 し て キ サ キ と し 、 日 向 国 造 の 始 祖 で あ る 豊 国 別 皇 子 を 儲 け た と あ る 。 御 刀 媛 は ﹃ 記 ﹄ の 美 波 迦 斯 毘 売 に あ た る が 、 景 行 天 皇 は 日 向 髪 長 大 田 根 と 御 刀 媛 と い う 二 人 の 日 向 の 女 性 を キ サ キ に し た と 伝 え る 。 さ ら に 景 行 天 皇 紀 十 七 年 三 月 己 酉 条 で は 、 天 皇 は 子 湯 県 ( 日 向 国 児 湯 郡 / 宮 崎 県 西 都 市 か ら 都 農 町 辺 り ) に 行 幸 し ﹁ 是 の 国 は 直 に 日 の 出 つ る 方 に 向 け り ﹂ と 言 っ て ﹁ 日 向 ﹂ と 名 づ け た と 記 し 、 続 く 十 八 年 三 月 条 に は 夷 守 (諸 県 郡 夷 守 駅 / 宮 崎 県 小 林 市 ) の 石 瀬 河 辺 に 諸 県 君 泉 媛 が 一 族 を 集 め て 天 皇 に 大 御 食 を 献 上 し た と あ っ て 、 諸 県 君 の 服 属 を 伝 え る 。 そ し て 熊 県 (肥 後 国 球 磨 郡 ) ・ 火 国 八 代 県 ( 肥 後 国 八 代 郡 ) ・ 阿 蘇 国 ( 肥 後 国 阿 蘇 郡 ) な ど を 巡 り 、 十 九 年 九 月 日 下 孜 (平 林 ) 九 五

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龍 谷 大 学 論 集 九 六 癸 卯 条 で や っ と 日 向 か ら 帰 還 し た と い う 。 そ れ に 続 く 二 十 年 二 月 甲 申 条 で は 、 五 百 野 皇 女 を 遣 わ し て 天 照 大 神 を 祭 ら せ た 、 い わ ゆ る 伊 勢 斎 宮 に 任 じ た と あ り 、 事 実 関 係 と は 別 に 景 行 天 皇 の 日 向 巡 幸 と 伊 勢 斎 宮 の 派 遣 が 有 機 的 に 関 連 す る と の 考 え に 基 づ い た 編 纂 方 針 が 読 み 取 れ る 。 別 稿 に 述 べ る が 、 ﹃ 記 ﹄ で 最 初 に ﹁ 日 の 御 子 ﹂ と 称 え ら れ る の が 倭 建 命 で あ る こ と や 、 同 じ く ワ カ タ ケ ル の 名 を 負 う 雄 略 天 皇 が 日 下 の 直 越 を 通 っ て 若 日 下 王 を 妻 問 い 、 三 重 采 女 が 落 葉 の 入 っ た 蓋 を 雄 略 天 皇 に 捧 げ た 不 注 意 を 、 倭 建 命 の 父 景 行 天 皇 の 纏 向 日 代 宮 を 褒 め 称 え る 内 容 の 歌 謡 で 謝 罪 し 、 か つ そ の 歌 謡 中 に も ﹁ 日 の 御 子 ﹂ の 句 が み え る こ と な ど も 、 同 様 に 王 家 の 日 神 信 仰 に 関 連 づ け て 理 解 で き よ う 。 ち な み に 、 ワ カ タ ケ ル は 先 に (大 ) タ ケ ル が 存 在 し て 後 に 成 立 す る 名 で あ る 。 ワ カ タ ケ ル の 時 に は 既 に 何 ら か の (大 ) タ ケ ル 伝 承 が 存 在 し た 可 能 性 が 高 い が 、 ヤ マ ト タ ケ ル と い う 名 は 熊 曾 建 (景 行 天 皇 記 ) あ る い は 熊 襲 の 川 上 桑 帥 ( 景 行 天 皇 紀 二 十 七 年 十 二 月 条 ) か ら 献 上 さ れ た も の で 、 南 九 州 に 由 来 す る と 伝 え る こ と に も 留 意 さ れ る 。 な お 、 日 向 の 地 で 日 神 信 仰 が 盛 ん で あ っ た と 思 わ れ る 所 伝 が 、 ﹃ 播 磨 国 風 土 記 ﹄ 賀 毛 郡 条 に も み え る 。 猪 養 野 右 、 猪 飼 と 号 く る は 、 難 波 の 高 津 の 宮 に 御 宇 し め し し 天 皇 の み 世 、 日 向 の 肥 人 、 朝 戸 君 、 天 照 大 神 の 坐 せ る 舟 の 於 に 、 猪 を 持 ち 参 来 て 、 進 り き 。 ⋮ ⋮ ﹃ 播 磨 国 風 土 記 ﹄ 賀 毛 郡 の ほ か に 肥 人 の 史 料 は 、 ﹃ 万 葉 集 ﹄ 巻 第 十 一 の 二 四 九 六 番 歌 、 ﹃ 令 集 解 ﹂ 巻 十 三 賦 役 令 辺 遠 国 条 ﹁ 古 記 ﹂ に 夷 人 雑 類 と し て ﹁ 毛 人 、 肥 人 、 阿 麻 弥 人 等 類 ﹂ 、 天 平 五 年 ( 七 三 三 ) の ﹃右 京 計 帳 ﹄ 椋 垣 伊 美 吉 意 伎 麻 呂 の 寄 口 に ﹁ 阿 太 肥 人 床 持 売 ﹂ ( ﹃ 寧 楽 遺 文 ﹄ 上 巻 、 一 四 三 頁 ) 、 ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ 文 武 天 皇 四 年 六 月 庚 辰 条 に 薩 末 比 売 ら の 寛 国 使 刑 部 真 木 劇 劫 に 従 っ た ﹁ 肥 人 ﹂ 、 鎌 倉 時 代 後 期 の 成 立 と み ら れ る ﹃本 朝 書 籍 目 録 ﹄ ( ﹃ 群 書 類 従 ﹄ 二 十 八 ) の 伍⑳ ﹁ 肥 人 書 。 五 巻 。 ﹂ な ど が み え る に す ぎ な い 。 ﹁ 肥 人 ﹂ の 訓 や 隼 人 と と の 関 係 に つ い て は 諸 説 あ っ て 定 か で は な く 、 中 偽D 村 明 蔵 氏 は ﹁ 肥 人 は 隼 人 と 文 化 的 共 通 性 を 持 ち 特 に 阿 多 隼 人 と 親 密 な 関 係 に あ っ た 海 人 的 集 団 で あ る ﹂ と 説 く 。 こ の

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働 日 向 の 肥 人 朝 戸 君 が 日 神 ( 天 照 大 神 V の 祭 祀 に お い て 犠 牲 に す る の で あ ろ う 猪 を 載 せ て や っ て 来 た と い う 、 賀 毛 郡 猪 養 野 は 兵 庫 県 小 野 市 東 南 部 辺 り に あ て ら れ る が 、 こ こ が 髪 長 媛 の 父 日 向 諸 県 君 牛 の 上 陸 し た と い う 加 古 川 の 、 中 流 左 岸 で あ る の も 偶 然 と は 思 わ れ な い 。

日 向 と 平 群 と こ ろ で 、 周 知 の よ う に ﹃ 記 ﹄ は 熊 襲 征 討 を 含 む 景 行 天 皇 の 九 州 巡 狩 諏 を 記 さ な い が 、 ﹃ 紀 ﹄ の そ れ は 巡 狩 の 経 路 や 内 容 か ら 当 該 所 伝 は ヤ マ ト タ ケ ル 西 征 伝 承 よ り 後 の 新 し い 成 立 で あ り 、 白 村 江 の 戦 い に む け て 斉 明 天 皇 が 筑 紫 に 行 60 幸 し た の を 契 機 に 纏 め ら れ た の で は な い か と の 見 方 も あ る 。 な お 、 紙 幅 の 都 合 も あ っ て 各 所 伝 個 別 の 検 討 は 割 愛 す る が 、 景 行 天 皇 紀 十 七 年 三 月 己 酉 条 の 日 向 子 湯 県 巡 狩 の 際 に 、 天 皇 が ﹁ 命 の 全 け む 人 は 畳 薦 平 群 の 山 の 白 橿 が 枝 を 轡 華 に 播 せ 此 の 子 ﹂ な ど 三 首 の 思 邦 歌 を 詠 ん だ と あ る 。 こ れ は 本 来 、 大 和 平 群 山 の 山 遊 び 行 事 で 歌 わ れ た 国 讃 め 歌 で あ り 、 ﹃ 記 ﹂ で は 死 期 を 迎 え た 倭 建 命 の 望 郷 歌 と し て 位 置 づ け て い る 。 九 三 〇 年 代 に 源 順 が 編 纂 し た ﹃ 倭 名 類 聚 抄 ﹄ は 十 世 紀 前 葉 の 全 国 の 国 ・ 郡 ・ 郷 名 を 載 録 し て い る が 、 日 向 国 児 湯 郡 に 平 群 郷 (宮 崎 県 西 都 市 平 郡 ) が み え る こ と に 注 目 さ れ 舳 ・ 屡 名 類 聚 抄 ﹄ に お い て ・ 大 和 国 以 外 で ﹁ 平 群 ﹂ の 地 名 が 知 ら れ る の は 、 筑 前 国 早 良 郡 平 群 郷 (同 郡 に は 額 田 や 曾 我 な ど 畿 内 氏 族 に 関 わ る 郷 名 も み え る ) と 安 房 国 平 群 郡 (千 葉 県 安 房 郡 ﹀ だ け で あ る 。 今 で は そ れ ら 地 名 の 起 源 を 探 る の は 困 難 だ が 、 か な り 限 ら れ た 地 名 で あ る こ と か ら 、 お そ ら く は 大 和 国 平 群 郡 を 本 貫 と す る 平 群 臣 氏 に 深 い 縁 り の あ っ た 地 名 だ と 推 察 さ れ 葡 ・ さ ら に ・ ﹃ 記 ﹄ と は 異 な っ て こ こ に 配 置 し た の は 、 ﹃ 紀 ﹄ 編 纂 事 業 の 開 始 と み ら れ 天 武 天 皇 紀 十 年 三 月 丙 戌 条 の 川 嶋 皇 子 以 下 十 二 名 に ﹁ 帝 紀 及 び 上 古 の 諸 事 を 記 し 定 め し め ﹂ た 際 、 中 臣 連 大 嶋 と 平 群 臣 子 首 が ﹁ 親 ら 筆 と 執 り て 以 て 録 ﹂ し た と 日 下 孜 (平 林 ) 九 七

参照

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