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雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

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(1)

象徴の神学(1)――W. パネンベルクの教会論――

著者 佐々木 勝彦

雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

号 15

ページ 49‑83

発行年 1984‑03‑26

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024368/

(2)

象徴の神学(I)

‑W.パネンベルクの教会論一

佐々木勝彦

I

われわれば先にパネンベルクの神学概念とキリスト論について論じ たが!),本論文では彼の教会論の内容を明らかにしてぷたい。パネンベ ルクの教会論を検討する資料としてば「教会の神学のための諸命 題」2), 「倫理と教会論」3)の教会論の部分などがあげられるが,本論文 ではまず般初にI神学と神の国j4)の「神の国と教会」の章を取りあげ て象たい。 というのは『教会の神学のための諸命題』の序文に「教会 論全体については『神学と神の国j (1969年)の「神の国と教会jの章 も参照されたい」5) との指摘がみられるとともに, これによってパネ ンベルクの教会論の概要を知ることができるからである。次に『教会 の神学のための諸命題」の内容を丁寧に跡づけ, さらにパネンベルク 自身が参照することを期待している論文の中から現在入手可能なもの を取りあげて,最後にパネンベルクの教会論の特色を一層明らかにす るために, J.モルトマンの教会論との対比を試錐る予定である。

II

「神の国と教会」ばもともと1967年にUnaSancta誌に発表された

(3)

論文で, 四節から構成されている。

宗教社会学者は教会と社会との関係を,世界と対立する教会,世俗的 世界の一部としての教会,世俗的世界を変革する橋頭塁としての教会 などとして論じているが. この関係には社会学的関心をこえた内容が 含まれている。パネンベルクによれば教会と世界との関係ば, あらゆ る教会理解にとって本質的な事柄である。 というのは,教会がイエス の使信に忠実であろうとするならば,教会の中心的関心は神の国にむ かうはずだからである6)。新しい神の民あるいは新しいイスラエルと いう教会の自己理解も,教会と神の国の関係からう象出されてくる世 界との関係を通してのみ,正しいものとなりうる。 イエスの告知する 神の国は世界と全人類の将来であり,普遍的な力である。従って教会 は,全人類の運命と歴史の目標を予見して表白するという普遍的使命 を担っている。またキリストとの交わりという観念ば,教会論にとっ て次のような意義をもっている。つまり到来しつつある神の国に関す るイエスの告知とキリスト称号は不可分であり, キリストとの交わり は神の国に対する献身を意味する。キリストの支配は神の国のための 道備えであり, キリストが支配しているところでは,神の国がすでに 明けそめつつある。人々が,到来しつつある神の国を自覚するように なって,その自覚にふさわしい生き方をするところでば, どこにおい てもキリストの支配が遂行される。 このことこそが,教会において生 起することが期待されている事柄である。 しかしながらキリストの支 配をこの世にある教会の存在と同一視してはならない。他の組織と同 様に,教会も自らの暫定的性格を回避することができないからである。

神の支配つまり主権ば, その力に服する人々の間に統一性をうみ出

−50−

(4)

象徴の神学( 1 ) 3

す。神の支配によってもたらされるこの統一性は, 正義と相互配慮に よって実現される統一性である。旧約聖書は,神の国は真の正義の国 であり,それによって人類の統一が実現されることを告知している。法 律的な諸形態によってこの究極的な正義をうみ、出すことはでき厳い。

もちろんだからと言って法律を蔑視することは,余りにも軽率な行為 である。 しかしながら法律だけで正義を確立することはやはりできな いのである。確かに法律は正義に奉仕するが, それが正義を基礎づけ るのではない。それゆえイエスは神の意志を愛によって説明したので ある。愛ば法的な形式の中に自らを開示して, しかもこの形式を生命 で満たし, そして真の正義を達成する。神の国は単なる形式主義的な 観念ではなく,人間の間における正義と愛の具体的な現実である。だ がこの正義と愛を個人主義的に理解してしまうならば, それは大きな 誤りである。正義と愛は第一義的には人間の相互作用の諸構造にかか わっている。 「明らかに神の国は全く政治的である。」7) しかもこの神 の国は,非陶酔的現実主義を惹起するという意味で政治的である。神 の国の将来性の光に照らし出されるとき,社会のあらゆる現在的な形 態はその暫定性を暴露する。 しかしこれでは政治的な実践ばすべて無 益になってしまうと考えている人があるとすれば, その人は,神の国 とは,今ここで, われわれの服従を要求している神の支配に他ならな いことを忘れているのである。政治的ならびに社会的形態の変革を評 価する尺度は愛にある。 イエスの教えにおL、ては,愛は正義の究極的 規範である。愛は歴史のプロセスの中で新たな形態の人類の統一をう 象出す現実である。 イエスは神の国を,創造的な愛によって既に現在 を規定しかつ変革する力として表明したし,今なお表明している8)。神

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の国ばイエスのラディカルな献身の故に,彼のうちに現在的になり,し かもそれは彼を通してすべての人間に対して現在的になっているので ある。

以上のような視点から教会の機能について考えるならば, それは予 備的な機能であると言うことができるであろう。つまり教会は,現在 の社会の諸点の政治形態が個人生活や集団生活に対していまだに究極 的な充足を与えていない事実を洞察する。 もしも現在の諸々の社会構 造が人間にとって十分なものであるならば,宗教や教会が存在する必 要はなくなるであろう。なぜならその場合には,神の国がその全き形 態において現存していることになるからである9)。従ってパネンベル クによればマルキシズムの誤謬ば, マルキシズムが宗教共同体の社会 的機能を特徴づけたその方法にあるのではなく,真にヒューマニス ティックな社会形態が確かに人間によって, しかも短期間のうちに達 成されると考えたことにある。真の人間性にとって大切なのば,人間 が神ではないことを承認することである。人間は自らの力について幻 想をいだくとき,彼は高められるどころか,反対に堕落してしまう。現 在の暫定的な状況においては, いかなる生活形態も絶対的かつ究極的 な仕方で人間性を実現することはできない。幻想にとらわれやすいわ れわれ人間は,社会生活や政治生活のもつこの限界を常に開示するよ

うな制度を必要としている。それは究極的現実を指し示すことによっ て,われわれを現在の人間生活の欠陥や限界と対時させる制度である。

そして教会こそがこのような制度でなければならない。教会ばその宣 教に詣いて,歴史のただ中に働く神の啓示について,つまりイエスの 普遍的意義について告知する。 しかも教会は聖礼典によるイエスとの

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象徴の神学( 1 ) 5

交わり (sacramentalcommunity)'0) によって,現代人が人間性の究 極的成就という希望にあずかることができるようにする。教会は,神 の国が人類の歴史にもたらすはずの人間の究極的成就を告知する。 こ の意味で教会は,他の諸々の共同体や制度とともに存在する必然性を 担っている。 この教会の存在そのものが,既存の社会がもっている限 界をあらわにする。 もしもこの批判的であるとともに形成的な証言の 役割を見失うならば,教会は余分なものとなってしまうであろう。教 会は現在の社会形態や政治形態を真剣に受けとめて, それらを到来し つつある神の国の光に照らして評価しなければ雄らない。神の国のた めに行為することは社会のために行為することであり, そうすること によってわれわれは教会のために行為するのである。教会は国家的機 構と区別された特定の制度として存在することによって, 国家権力や 同時代の政治神話を非神話化する。教会は神の国の中に人類の未来の 成就があることを証言することによって,社会実践への想像力をかき たてて,社会変革のヴィジョンに生命を吹き込む。 しかし同時にわれ われは,教会は常に革命的でなければならないとの主張に巻きこまれ てばならない。教会は確かに変革に対して熱心でなければならないが,

変革ば進歩を意味することもあれば損失を意味することもあるからで ある。神の国の未来が開示する世界の救済を思い起こすならば,われ われは神の国のために社会的文化的遺産を蔑視する誘惑に打ち勝たな ければならないのである。

第三節は聖霊と復活,聖霊と癒し,代替不可能な社会的貢献などに ついて論じている。教会の使命朧,すべての人に, 到来しつつある神 の国のうちに約束されている究極的な生の成就に,今ここで,参与す

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る機会を提示することにある。教会は聖霊を注がれた存在として,予 見されている人間の生の全体性と完全性の徴候をう難出す。聖霊は全 能の神御自身であり,その息力剰造全体を貫いて吹いている。特に旧 約聖書では, それはあらゆる生命の源泉として理解されている。神の 将来は信仰と希望を通して今この世界全体を包括している。すべての 生の意味を黙たす新たな生命の御霊は,愛においてその働きの頂点に 達する。神の愛のみが,一般にあるものが存在する理由であり,将来 が現在に対して関係をもつ理由である。神の霊はわれわれの生の狭陰 なあり方を克服する。聖霊は愛の御霊である。 この愛が本当に浸透し ているかどうかということは,他者に対する一般的な関心によって識 別することができる。信仰と希望はわれわれの生を愛の冒険へと解放 する。創造的唯愛は, このもろく死すべき生に永遠の意味と喜びとの 閃きを浸透させる力をもっている。教会の使命は聖霊の自由を証しす ることにある。教会は,全被造物に生気を与える聖霊の記憶と,生命 の不条理,利己性,怠惰といったものを克服しようとする聖霊の使信 を担っている。御霊の自由があらわれるところでば,教会の内外を問 わず, どこでも生命に新しい統合がもたらされる。多くの欠陥にもか かわらず, キリストの教会は, なおも生命の御霊が恒久的に与えられ るとの約束を携えている。聖霊ばわれわれの統合されざる諸傾向に対 抗する。聖霊は生命の源泉であるとともに完成なのである。

神のみが.社会活動の全次元にわたって真に人間的な生の統合を可 能にする源泉である。教会はこの神の力にむかって献身する。教会ば,

専門分化を前提とする世俗文化の中に生きている者を彼の全体性に近 づけようとする。従って福祉施設,保育所,病院,学校といった活動

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象徴の神学(1) 7

は教会にとって副次的なものであり,教会は政治的共同体の代理者と してこのような活動に携わっているにすぎない。教会ば政治的共同体 をはげまして, このような責任を引き受けるように説得しなければな らない。教会の唯一の代替不可能な社会的貢献は,生の究極的神秘す なわち永遠なる神と歴史における神の目的に人々を直面させることに よって,生の人格的統合を確立することにある。完全な人間とば,わ れわれの生を越えた生の究極的神秘を覚知している人間のことであ る。人間ば自己の職業の特殊性を越えて思考しなければならず,人間 社会全体に対する神の包括的関心の中で, 自己の諸活動の位置を理解 しなければならない。安息日はこの意味で人間性賦与の機能を果して いる。安息日は, イエス・キリストにおいて開始し, その力によって 世界全体を変革するはずである生の究極的成就に対して関心を強くす る日である。教会ば, イエス・キリストを通して神がその被造物,特 に人間に対して示された終末論的完成の故に,全人類に代って神を賛 美する。キリスト者共同体の礼拝は代理的行為である。教会が他の組 織と区別あるいは分離されてあるのは, 自らのためではなく、世俗的 社会のためである。「世俗的社会が教会を必要としているのである。」'1)

教会が自らの課題に忠実であるとき,つまり神の現臨の中にある生の 全体性を証言するとき,世俗的社会ば自らを絶対化する過ちを犯すこ となく,存続することができる。教会ば社会のためにまた人類のため に, 区別された制度として存在しなければならないのである。

第四節は教会の構造変革について論じている。パネンベルクの言う 変革とは, キリスト教の伝統に含まれている権威主義的要素を変革す ることを意味する。われわれば信仰によって神の国に参与するとき.他

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の諸権威から解放される。われわれは信仰によって自由に判断するこ とができるようになる。到来しつつある神の国の使信は, いかなる批 判に対しても自らを開いている。しかし他方でわれわれは,宗教改革 以前の教会の権威主義的構造とさらにそれ以後十八世紀までの教会の 権威主義的構造にも, それなりの存在理由があったことを忘れてはな らない。古代や中世においては,学問的認識は一般的かつ無時間的命 題の領域に限定されると考えられていた。そのため歴史的諸事実の伝 達に関しては, 目撃者の証言に基礎づけられた伝統を信ずるかどうか ということだけが問題となった。すべては特殊な伝統あるいは現在い るその代表者の信愚性に依存していた。従ってキリスト教的伝統の同 一性と純粋性を保全するには. その伝達過程を取り締まる権威主義的 な構造が必要であったのである。近代に入ってこの状況は根本的に変 化してしまった。つまりキリスト教的伝統の起源であるイエス自身と の一致を検証する方法として,歴史学が登場してきた。今やイエスの使 信の内実とその妥当性ば, 自由な批判的研究によって確立されなけれ ばならない。牧師の任務は,教会共同体が可能な限り理性的で成熟し た方法によって判断できるように助けることにある。人々が思慮深く 聞くようにととのえられるとき,説教はもはや権威的な神の言葉では なく, キリスト教信仰の実質的真理を再定式化しようとする一つの試 みとなる。礼拝において大切なのば,伝統に対して鋭敏でありつつ,共 同体の自己理解とその希望についての理解にふさわしく, キリスト教 信仰の真理を定式化することである。このような礼拝をめざす教会は,

自らの組織の点でも階層的構造を変革しなければならない。 自由な合 意による自発的結社としての教会という考え方ば,宗教改革の原理で

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象徴の神学(1) 9

ある聖書の自己明蜥性を前提としており, キリスト教的自由に対する 洞察を表明している。しかしある人がキリスト者共同体に属するか否 かということは,単なる窓意的決断によって選択する事柄ではない。伝 統と環境が個人的決断に先行している。このことを無視するならば,わ れわれは, キリスト者共同体の見えざる教会といった抽象的形態に行 きつく他はなくなるであろう。監督制度や教皇制度ば, もしもその中 に見られる権威主義的要素を克服することができる唯らぱ, キリスト 教の統一に対して,またキリスト教的伝統との結びつきに対しても,積 極的な貢献をすることができるであろう。だがこのキリスト教的伝統 との同一性を權威主義的な仕方で理解するならば,再び,教理上の一 致こそがあらゆるキリスト教的統一の基本であるということになって しまうであろう。教理上の相違はむしろ交渉に対する誠実さを示して いる。教会統一の動機づけは, キリスト教の同一性を探究して再定式 化しようとすることからうまれてくる。教会がこの探究と再定式化に 取りくみ続けるのは,到来しつつある神の国の光の下では,すべての ものが自らの暫定性をさけることができないからである。教会の組織 と教理的展開ば将来の成就を指し示すことによって,現在の暫定性を 明らかにする。そしてこれば,次のような近代社会の根本的要請に対 する終末論的な解答となるであろう。つまりそれは多様性を排除する ことなく,統一性を達成して保持するという課題である。

111

「教会の神学のための諸命題」ば, 1968年から1969年にかけての講 義の内容を要約したものであるが, パネンベルクによればその草稿は

(11)

すでに1962年から1963年にかけて出来上っていた。I教会の神学のた めの諸命題」は「神の国と教会」と 「メシア共同体としての教会」の 二部から構成されている。第一部は教会論を展開する地平を明らかに することを,第二部は教会論固有の問題を論ずることをそれぞれ目的 としている。パネンベルクはこの後に第三部として, 神の選びの行為 という視点の下に教会の歴史を神学的に検討することを考えていた。

しかしそればI教会の神学のための諸命題」でば割愛されている。 こ の第三部の構想ば,歴史学的反省と組織神学的反省を結合しようとす るパネンベルクの基本的関心を示すものであり12).われわれにとって も研究意欲のそそられる課題である。 しかしながら本論文では割愛し て,別の機会に独立した形で展開したいと考えている。

『教会の神学のための諸命題」の「序」ば, いわゆる「序」というよ りも本論に入るべきものであり,本書を構成する149のテーゼの中の (1)と(2)から構成されている。

教会論は, そもそも教会は何のために必要なのかとの問いから出発 しなければならない。 さもなL、と教会論は,既存の教会制度を理想化 する過ちを犯すことになるであろう(1)'3)。教会の目的確歴史的にも内 容的にも神の国にある。 この神の国の思想は人間社会の完成という理 念を含んでおり,教会ば神の国を先取りするものとして社会全体にか かわらざるをえない。教会は, イエスの出現とその歴史の故に.社会 における人間の規定が先取りされた仕方で現存する場なのであjる(2)。

第一部「神の国と教会」は「法の支配としての神の国」 (第一章), 「律 法と福音」 (第二章), 「教会と国家」 (第三章)の三章から構成されて いる。

−58−

(12)

象徴の神学( 1 ) 1l

神について論ずることは神の力,従ってその支配について論ずるこ とである(3)。聖書の神の支配は法の支配という特殊な性格をもって 鈴り,黙示文学とイエスにおいては, この支配に対する希望と宇宙的 な変革に対する待望が結合されている。 ここに見られるのは,現在の 諸条件の下では法を完全な仕方で実現することが不可能であるとの現 実的な理解である(4)。 ところが十八,十九世紀の神学は, この神の支 配を人間の当為の対象あるいは目標といった倫理的解釈に解消してし まった(5)。問題は, ユタ・ヤ・キリスト教的なこの希望が普遍妥当的 な意義をもっているのかどうかということにある(6)。法と宗教の関 連は人間の規定を媒介としている。現在の法秩序の権威は, それが人 間の究極的規定の成就を先取りしているかどうか,つまり人間の主観 性に先立って与えられている真理に導かれているかどうかにかかって いる(7)。 イエスは, 神の支配を新たに愛の概念から根拠づけること によって,法の意味を様々の人間的な固定化から解放した(10)。彼ば 愛こそが神の国の決定的な真理であると告知し,それによって神の支 配とは,支配者と被支配者の対立の止揚, そして何よりもまず神と人 間との対立の止揚であることを明らかにした。彼は,支配は原理的に 克服されたと告知している(11)。

第二章は「律法と福音」の関係について論じている。

律法と福音の関係を考える場合.まず留意しなければならないのは,

その律法が現実社会の法形態とかかわっていることである(12)。パウ ロの主張する福音による律法の克服という救済史的な概念は, 中世の 餓悔の問題#こ連続するような仕方でなされたルターの理解とは別のも のである(13)。 このような理解に対してば,律法からキリストへとい

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う方向転換に含まれている世界史的な地平をとり戻さなければならな い(16)。 この転換は, 人間の行為をそのつど一つの規範的可能性に固 定してしまおうとする律法の強情さから,愛の自由へと方向転換する ことを意味する。愛は,創造的な仕方で状況を克服する可能性をもつ

「多様性」を開示する(17)。愛は人間の法と違って, 人間とその特殊 な歴史的状況にかかわろうとする。愛は,歴史的な法関係が人間性に ふさわしいものとなるための具体的で, しかも根本的な基準をつくり 出す。愛は,人間の法がその一般性の要求の故に見落してL、る新たな 形成の可能性を発見する。愛はすべての律法を越えており,普遍的要 求から愛の創造的多様性を導き出すことはできない。愛ば律法のもつ 意図を成就する。 しかも愛は,場合によってば律法の形式を破壊する ことによって,律法の意図を成就する。 このことは自然法的な根本命 題にもあてはまるのである(マタイ20:1以下) (18)。

第三章ば「教会と国家」の関係について論じている。

イエスの使信によれば,人間の法共同体はまず一人一人の心の変化 とともに完成にむかうのであって,政治体制の変化によって直接完成 されることはない(19)。歴史的な観点から見るならば, いかなる政治 秩序も, またその秩序がもたらす法的諸関係も暫定的であり,従って 教会はその変革の可能性をしっかりととらえて妬かなければならない (20)。 ビザンティンの国家神学は, キリスト教が普遍的な平和秩序と いう理想を共有することができることを明らかにした点で正しかっ た。 しかしそれは皇帝を神支配のこの世的な実現者と考えてしまった ために,政治的秩序の暫定性に対する洞察を放棄してしまいしかも キリスト教の愛の思想が支配というものを止揚してしまっていること

(14)

象徴の神学(1 ) 13

を無視してしまった。 この二つの過ちの結果,帝国の政治的利害関係 とキリスト教が直結されて,教義の統一性を強化しようとする傾向が 助長されてしまった(21)。アウグスティヌスは,神の国の現在的形態 であるキリストの支配と教会を同一視することによって,確かに政治 的な諸制度とは違った教会の独自性を強調した。しかしその際彼は,人 類を包括する普遍的な平和秩序という政治的理想の神学的次元を過小 評価してしまい,政治的希望に対する教会の奉仕と教会それ自体の暫 定性をとらえそこなった。やがて教会は政治支配の形式をとった組織 となってしまった(22)。ルターは聖職者の統治と世俗的統治を区別し た。彼は暫定的な性格をもつ政治的諸秩序と教会との違いを明らかに した。だが彼は世俗的統治に関する理解を当時の領邦制度と結びつけ てしまい,古代教会と中世がもっていた国家理念のキリスト教的普遍 主義を見失ってしまった。国家権力を批判する視点ば, 神の法である 自然法に求められた。ルターの場合愛は,確かにキリスト者が世俗的 統治に参与する動機づけとなっているが, その法形態を変革する力と はなっていない。その結果ルターの意図に反して,政治的理念と制度 はますますキリスト教から離れて独立してしまった(23)。寛容の思想 を基礎づけているのば,魂の内面性に対する洞察ではなく,神学的認 識もあるいば教会の教理や生活形態も暫定性をまぬがれえないとの洞 察である。愛の宗教であるキリスト教が不寛容になってしまった背後 には, この暫定性の認識の喪失という問題がある。現代社会における 寛容ば.それが無秩序というみじめな結果に終らないようにするには,

社会を一つにする真理理解を必要としている。パネンベルクによれば,

キリスト教こそがこのような統一性を与える可能性をもっている。な

−61−

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ぜならキリスト教は確かに究極的真理の啓示に基づいているが, この 啓示の形態は暫定的なものとして理解されているからである(24)。寛 容に基礎づけられた社会は, この真理理解を促進する諸制度を必要と している(25)。その意味で近代の民主主義はキリスト教信仰を前提と していると言うことができる。つまりキリスト者は,信仰によって自 らの関心をキリストの愛に従属させることができるからである(26)。

民主主義社会の基盤は,国民の支配や多数者の支配にあるのではなく,

公共の福祉に対する感受性にある○ この公共の福祉は,流動的な多数 者の意志とは違った,神支配の現在的妥当性を意味する。民主主義は 一人一人の人間が神の意志と直結していることを前提としており,す ぐれた政治的教養を必要としている。政治家は自分のためではなく ,公 共の福祉のために一票でも多く獲得しようとしなければならない (27)。教会は, 国家の政治的諸制度とは違ったものとして,市民が個 別的で特殊な利益を公共の福祉つまり人間性のうちに組み入れるよう になることに貢献してきたし,今もなお貢獄している(29)。 この意味 で「教会の独自な宗教的礼拝生活こそが, まさに社会に対する教会の 最も重要な貢献なのである」'4) (30)。

第二部「メシア共同体としての教会」は五章から構成されて鐙り,各 章の表題は次の通りである。第四章「教会の根拠としてのキリストと の交わり」,第五章「個々のキリスト者における聖霊の働き」 第六章

「キリストとの交わりの制度的な伝達(恩寵手段)」,第七章「キリスト との交わりの人格的伝達と教会の統一(職制論)」 第八章「人間形成 に対する教会の貢献」。

第四章「教会の根拠としてのキリストとの交わり」は, 「信仰者の交

一62

(16)

象徴の神学(1) 15

わりとキリストとの交わり」 (第一節), 「教会の交わりにおける個人」

(第二節), 「聖霊」 (第三節)の三節から構成されている。

教会の本質はイエス・キリストとの交わりにあり,信仰者相互の交 わりは各人のイエス・キリストとの交わりによって媒介されている (32)。 イエスとの交わりを基礎づけるのは教理上の一致ではなく, イ エスに対する信仰告白である(33)。 イエスに対する告白はイエスの出 来事に対する告白である。その出来事は神の支配(将来)に関する出 来事である。それは来たりつつある神の支配が現在すでに実現し始め ているとのイエスの使信が,彼の歴史によって確証された出来事であ る。そればイエスとともにあらわれた愛によって真の法をうみ出す出 来事である。そしてこの出来事はすべての人間に妥当するのである (34, 35)。

信仰者とキリストとの交わりは, イエスの歴史と意義に関する伝承 によって, それゆえ教会によって媒介されている(37)。教会はこの伝 承を媒介する場合.すでに伝承された事柄の真理性を前提としている が,われわれば伝達するたびごとにその伝承の真理性を新たに確認し なければならない。信仰者はそうすることによってはじめて教会に対 して自由をもつことができるようになる。即ち一人一人が伝承された イエスの出来事と直接出会うことができるようになる(38)。信仰者の 万人祭司性という宗教改革の命題は,信仰者とキリストとのこの直接 的な関連を表わしている(39)。 しかしながらキリストとのこの直接的 な関連ば, イエスとの敬度な私的関係を意味するものではない。キリ スト者はむしろ神の支配についてのイエスの使信によって,再びこの 世へと, そして人類に奉仕するキリスト者の交わりへとさしむけられ

−63−

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ているのである(40)。

神の霊とは旧約聖書によればまず第一に, それ以外の仕方では到達 できない認識の可能根拠といったものではなく,生命一般の根拠であ る。聖霊を生命の根源と言う場合,他方であらゆる生命にぷられるエ クスタティックな性格のことが考えられている。生けるものはすべて,

自己自身を越えて行くという仕方に:おいての桑,成就された生命を見 出すことができる。 この成就された生命にば,全生命の神的根源であ る聖霊が臨在している(41)。新約聖書はイエスの復活についての使信 を,終末時に注がれる聖霊についての使信と結びつけている。われわ れの現在の生ば,すでに存在している形態に固執することによって,い つも自らの神的根源から分離して,死にとらわれている。それに対し てイエスの復活のうちにあらわれた新しい生命は, この根源と結びつ いたままであり,従って不滅である。パウロは復活者と聖霊をぼとん ど区別しなかったし,事実イエスの復活についての使信も聖霊に満た されている(42)。 イエスの復活についての使信が信仰において受容さ れるところでは, それとともにその復活を満たしている聖霊も受容さ れる。聖霊は, それによって復活の使信がはじめて説得力をもつよう になる何か補足的なものではない。むしろこの使信それ自体に内在し ている聖霊が聴き手を啓発するのである(43)。

第五章ば「個々のキリスト者における聖霊の働き」について論じて いる。

イエス.キリストと個人の結合は聖霊の交わりとして表現すること ができる。それはキリストの使信に対する信仰から生じ,希望と愛の 性格をもっている(44)。信頼という信仰の行為は,芸術的なインスピ

−64−

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象徴の神学( I ) 17

レーションや自由の体験のようなすべての霊的経験のエクスタティ ッ クな本質に対応している(45)。宗教改革は,信仰とばイエス・キリス トのうちに啓示された神に対して信頼をもって自らを放棄することで あることを洞察した(46)。キリスト教伝承に対する啓蒙主義の理性的 批判によって.神学はいわゆる信仰的主観主義に後退してしまった。し かし信仰は人間の業ではなく神の業であり, 自らが信頼しているもの を知らなければならない(47)。信頼の行為の根拠を知るかわりに「服 従」 (ブルトマン)や「承認」 (バルト)をもち出すならば, その信仰 ば権威信仰となってしまうであろう。信仰理解に鈴ける決断の契機だ けを強調するならば, それも一種の非合理的主観主義に陥ってしまう であろう(48)。信仰の構造は, その対象と根拠の構造に対応して,先 取り的な構造となっている。 この世の救済はまだ普遍的な仕方では表 われていなく,従ってこの出来事についての知解(Kenntnisnahme) はいわゆる知識(Wissen)をこえて信仰へと通じている(50)。信仰の 根拠と対象につし、ての認識(Erkenntnis)の確実性と,信仰の確実性 を混同してばならない。 このような認識はいつも近似値的であり,せ いぜい蓋然性に到達しうるにすぎない。信仰の確実性はむしろその確 実性をもたらす内容にある(51)。われわれは自己放棄としての信仰に よって自己自身を越えて, 次のような希望にあずかる。それは自己自 身から解放されて,人間の目標である神の事柄を待ち望む希望である (52)。希望は既存のものを越えて行く。希望は,−既存のものの潜 勢力と潜在力(E.ブロッホ)とは区別された−期待されたものがあ らかじめ現在の中にあらわれているという仕方でのみ,既存のものに 基づくことができる(53)。人間学的に見るならば希望の根源は,人間

−65

(19)

が自らの既存の実在性を越えて,将来の本質実現にむかって開かれて いることにある○人間にそなわっているこの要求は,将来(救済)が 約束にみちた仕方であらかじめ表われることを経験することによっ て, はじめて録たされるのである(54)。

自然的・社会的悪が完全に取り除かれることのない現状においては,

人間の個人的・社会的規定の統一性も達成されないままである。個人 にとって現存在の全体性は,ただ死を越えた将来からだけ期待される。

人間の本質実現は,死を越えた共通の将来としてのみ考えることがで きる(55)。 しかしながら死を越えた人間存在の完成に対する終末論的 希望は, 内世界的希望を排除するものではなく, むしろそれを惹起す る力をもっている。われわれの生活は,究極的成就に対する希望によっ てはじめて意味深いものとなる。終末論的希望は現在の生活に光を投 げかけ, しかも同時に諸点の希望の絶対化を防止する(56)。希望と祈 りば対になっている。 というのは希望ば,神の将来の力つまり既存の ものに対抗する将来の力に基づいているからである。祈りは,神御自 身の到来を待ち望む終末論的希望の光の中で,現実の具体的な困窮が 克服されることを願うからである。 しかもその場合祈りと,祈り求め ているものをとらえようとする活動とは決して矛盾しない。祈りにお し、て大切なのば, 自らの存在それ自体が, まだ実現されていない祈り 求められるべきものであることを明らかにすることである。人間の自 己実現ば,希望の内容を明らかにすることによって可能となるのであ る(57)。

愛のファンタジーとその創造的な力は希望からうまれてくる。他者 への希望を失ってしまった愛は,単なる慈善になり下ってしまう。反

−66−

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対に愛を失ってしまった希望ば利己主義に陥り,むなしい願いに終っ てしまう(58)。愛は神御自身の力であり,個人の限界を越えさせる神 の現実である。 この愛への参与は信仰と希望によって可能となる。神 に信頼し,神の将来を持ち望む者は, 高められて,神の業に参与する ようになる。人間ばまさにこのようにして自己自身を獲得する。人間 の現存在の全体性は,愛のうちに生きることによって実現されるので ある(59)。愛は愛される者との一致を求め続けるだけでなく, それが 賜物である限り.愛される者を解放する。 これが愛における創造的契 機である(60)。アガペーとエロースといった具合に, キリスト教の愛 を特別なものとして他の愛から区別するならば,すべてのものを包括 して貫徹する愛の神性を見失ってしまうであろう。すべての生命現象 の中に,その生命を可能にしている神の愛を認識しなければならない。

神の愛のこの普遍的現実とキリスト教の愛の違いは,後者が愛の倒錯 を克服していることにある。 この克服は, 人間を自らの関心から解放

して神の業に参与させる信仰と希望によって可能となる(61)。

宗教改革の義認の教理は,神の霊の働きによってひきおこされた信 仰者と神との結合を問題としている。キリストに対する信仰によって 神と結ばれた者は,神の前に義とされている(62)。キリストとの交わ りは信仰によっての象可能となる(63)。 この義認信仰に朧,神との直 接的な出会いの思想が含まれており, ここからキリスト教伝承の伝達 過程を批判する視座がうまれてくる。事実それは近代の権威批判と自 律の思想の極めて重要な源泉となっている(64)。ルターの場合, キリ ストの義が信仰者に帰属するという教理は, キリストとの交わりの思 想に基づいている。信仰に基づくこの交わりばキリストがもっている

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すべてのもの つまりその義と聖をキリスト者にもたらす(66)。宗教 改革者の義認の教理は, それをキリスト教の救済理解の歴史の中でと

らえるならば,中世の餓悔の教理と対決するものであり, この意味で 餓悔の教理に拘束されたままである。神との交わりを主に法関係とし てとらえることば決して自明なことではない。ユダヤ教の律法伝承と イエスとの衝突は,神関係を法的にとらえることが不適切であること を示唆している。 しかしながらこの批半llは, 神との交わりばイエス.

キリストを通して自らを啓示する神への信仰によってのゑ可能とな る との宗教改革の根本思想におよぶものではない(66)。周知の如く,

敬塵主義は神関係のこの法的な理解を強く批判した。彼らは法関係に 伴う外面性を批判して,神と人間との倫理的な関係を主張した。彼ら ば宗教改革の信仰理解に含まれていた個人と神との直接的な関係, ま た伝統的な教理に対する自律性,特に法的な表象に対する自律性を主 張した。だが彼らはその内面性の強調の故に,やはり宗教改革の根本 思想であるextranosinChristoの思想を見失って.悔い改めの問題 にあまりに一面的に固執してしまった。従って今日の神学は、 そこに おいて罪責体験の隠された意味が新たに解明されるような救済理解を 展開しなければならないのである(67)。

第六章「キリストとの交わりの制度的媒介(恩寵の手段)」は, 「告 知」 (第一節), 「礼拝と聖餐」 (第二節), 「洗礼」 (第三節), 「サクラメ

ントと恩寵」 (第四節)の四節から構成されてし、る。

告知の必然性は. イエスの歴史がもっている普遍的意義から生じて くる。それは一方で究極性のうちに, つまりイエスの教えの終末論的 な性格のうちに,他方でその教えがイエスの死人からのよみがえりに

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よって確証されていることのうちに根拠づけられている。 しかもこの イエスの普遍的意義は, くり返し新たに定式化される必要がある。な ぜなら人間の経験と現実理解は絶えず変化するからである(69)。キリ

スト教伝承は. イエスの歴史の普遍的意義を強調するか, それともそ の意義が各個人と出会う側面を強調するかによって,二つの違った形 をとる。一方は教理の形成として,他方は説教や牧会として具体化す る(71)。告知の場合には. イエスの歴史と現在との間にある歴史的差 異をはっきりと自覚しておかなければならない。告知の課題は,特別 な関心をもつその時々の状況(現在)をイエスの歴史や人格との歴史 的関連に引き入れることにある。従って大切なのは,歴史的差異をと びこえることではなく, この差異を見すえつつ. イエスが現在に対し てもっている意義を展開することである(72)。

礼拝は. 日常生活の中では隠されたままである現存在の深L、次元を 黙想させる役割を担っている。とL、うのは日常生活(役割諸活動.気 晴しなと')は,人間存在が必要としている意味の全体性を部分的に患 たしてくれるにすぎないからである(73)。礼拝の礼典形態は, イエス においてまた彼を通して,人間に対する神の支配が終末論的に,今,成 就していることを「象徴している。」'5) この意味で,礼拝に参加する者 は神の臨在とその支配を経験する。 この経験によって人々味日常生活 から離れようとするのではなく, むしろ日常生活に対しても及んでい る神の支配を知るようになる(74)。キリスト教の礼拝の本質ば,唯一 回的な仕方で聖餐に集中して表われてくる(75)。聖餐は, イエスの招 きに基づくイエスとの交わりを媒介するものである。従ってこの聖餐 ばもともとイエス御自身が定められたものなのかと'うかとの問いは,

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決定的な意味をもっている(76)。しかしイエスとの交わりの食事を歴 史的に考察する際に,われわれは最後の晩餐の記事だけを思い起こし てはならない。 イエスが自分の弟子たちのみならず,取税人,罪人ら と共に食事をしたことは,歴史学的にも確かなことである。 このイエ スとの食卓の交わりⅢ6)は,将来起こるはずのメシアとの交わりを先取 りしており,最後の晩餐と同じ意味をもっている(77)。股後の晩餐の 記事に見られる解釈の言葉ば, まず第一に,共に食事をすることをイ エス御自身との交わりとして考えており,犠性の表象を用いた解釈は 第二義的なものである(78)。確かに「体と血」という言葉それ自体は 象徴的な意味をもっているが,共に食事をする際に問題となっている のばイエスとの現実的な交わりである。それはわれわれが自らの死を 越えて復活者の栄光に参与することを保証する交わりである(79)。 し かしこの食卓の交わりは復活者の生命に直結しているわけではない。

むしろそれは,十字架の死にむかって歩んでいるイエスと結びついて いる。そしてこのイエスとの交わりが,将来, イエスの復活の新しい 生命にあずかることができるとの希望をひきおこすのである(80)。交 わりは, イエスの招きに対して信仰をもって応答することによって実 現する。 この交わりは, イエスが取税人や罪人と共に食事をされた記 事が示しているように. イエスの弟子たちを越えてすべての人々に開 かれている。地上のイエスとの交わりは信頼の交わりと呼ぶことがで きる。そしてわれわればこの信頼によってイエスと出会うのである (81)。告知と食卓の交わりの違いは救済内容のとらえ方にではなく,そ の内容の伝え方にある。告知を受け入れることは本質的に理解の出来 事である。 ところがイエスとの食卓の交わりは.救済はあらゆる概念

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象徴の神学( 1 ) 23

を越えていることを直接的な仕方で明らかにしている。従ってキリス ト教信仰の本質ば, イエスとの食卓の交わりのうちに独特な仕方であ らわされていると言うことができる(82)。われわれは常に他者と共に イエスとの食卓の交わりにあずかるのであり, その限りで聖餐は教会 の本質が何であるかを示している(83)。聖餐にあずかる者はイエスの 愛のうちにとどまっている。 しかし自らの行為によってイエスとの交 わりを破る者にとっては,食卓の交わりは審きとなる(84)。 イエス御 自身の招きは無限の開放性をもっており, この招きこそがイエスとの 食卓の交わりの根拠である。それゆえ聖餐の式典を司るものは, この イエスの招きを伝達するにすぎない。司式者がこの招きを制限するこ とは許されない。問題の中心は,教会がそれを執行するかどうかにで はなく ,聖餐にあるからである。特に聖餐に関する理解の相違を理由 に, あるいは教理や教会の秩序に関する相違を理由に,聖餐にあずか ることを拒絶してはならない。教会史上の象ならず現代においても象 られる破門の行為は,聖餐の本質と矛盾してし、ると言わざるをえない (85)。共同の聖餐は, あらゆる相違をこえたキリスト者の統一を明ら かにし, しかもそれを根拠づける(86)。 イエスの招きに従って, 聖餐 に参加することによって彼との交わりを切に望む者は,誰でも食卓の 交わりにあずかることができる。それを拒絶することができるのは,聖 餐によって媒介されるイエスとの交わりに入ろうとする意志が,全く 見られない場合だけである(87)。

第三節は「洗礼」について論じている。聖餐と違って洗礼は,歴史 上のイエス御自身によって制定されたと言うわけにはいかない。確か にキリスト教の洗礼執行はもともとヨハネの洗礼に起因している。 し

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かしそれを復活者と結びつけて理解しようとする場合には,次のこと が考えられている。つまり教会の執行する洗礼と,復活の出来事によっ て根拠づけられたキリスト教の伝道活動との内容的関連, あるいはさ らにさかのぼってイエス御自身がヨハネから受洗したこととの内容的 関連が考えられている(88)。派遣の使信の意図は. その聴き手を高挙 者の支配に服させて,信仰によって彼らをイエス・キリストと結びつ けることにある。従って洗礼によって受洗者がイエスとイエスの神に 完全に委ねられることは.派遣の使信の意図に対応している(89)。 こ の所有権の移転が決定的に行われるという意味での洗礼は, その本質 からして一回限りの繰り返しえないものである(90)。洗礼の移譲行為 は.イエスと結びついた受洗者の生命の全体性を先取りしており,従っ て洗礼行為の決定的意味ば信仰の決断の行為を越えている(91)。 イエ スへの決定的な移譲は水に沈むことによって完了するとの説明は, 本 質的なものでばない。 しかしながらそれを古くさい解釈として片づけ ることはできない。 というのはそれは象徴的な仕方で多くのことを 語っているだけでなく, イエス御自身が洗礼者ヨハネから受洗したこ ととの関連をしっかりと保持してL、るからである(92)。 もしも洗礼と いう行為を, それによって自動的に救済が起こることであると考えて いるとすれば, それは大きな誤りである。洗礼は単に認識論的な機能 をもっているだけでなく,現実的な機能をもっている。洗礼は客観的 な規定(Bestimmung)を措定する。 この規定ば確かに各人が自らの態 度を通して自らの規定として承認すべきものであるが, それはもとも と客観的な規定なのである(93)。 イエスに所有権を移譲することは,

神からの分離状態(罪)が根絶されることに他ならない。受洗者の生

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命の全体性を先取りする洗礼行為は, このことをこの生命の客観的規 定として表現してし、る。受洗者ばもちろん自らの生活全体を通してこ の事態を後から実行して行かなければならない。このようにする時に のみ,われわれは自分がすでに受けた洗礼の有効性について語ること ができる(94)。洗礼は受洗者の確認に先行している。幼児洗礼はこの ことを極めて鋭く明示している。幼児洗礼ば先行しつつある神の恵み の徴である。 この幼児洗礼は.両親などが責任をもって子供のキリス ト教教育を遂行することが現実に期待される場合にのみ,意味豊かな ものとなるのである(95)。

聖餐と洗礼をサクラメントと呼ぶ場合,われわれはsacramentum (mysterion)という術語が黙示文学に由来していることに留意しなけ ればならない。それは終末時に明らかにされる神の救済行為を指し示 す言葉である。それはキリストにのみ関連するのではなく, 救済史上 の重要な出来事をも含んでL、る(エペソ3:3以下参照)。神の救済計画 の概念は,教会の外側で起こる出来事をも含んでおり,われわればこ の多義的な術語を避けた方が賢明である(98)。従ってサクラメントと 呼ばれる行為の数をめ<・って論争することも無意味である(99)。サク ラメントの概念によって表現しようとしていた神の恩寵とば, イエス の歴史の中に神御自身が啓示されるという仕方で起こった救済の行為 を意味する(101)。 イエスを通して啓示された愛なる神は創造者であ り,すべての被造物はこの神の愛を通して自らの生命を襲得する。従っ て恩寵の概念ば罪人の救いに限定されるものではなく, いわゆる「自 然的」生命にも全く同じように妥当する。 自然と恩寵の対立を主張す ることができるのは,次のような場合だけである。つまりそれは自然

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的存在が自らの「抽象的な構造」'7)あるいは自らの自己主張的な傾向 の中で自立してしまい, 自らの存在の可能性がその中で展開される偶 然的な歴史性を否定してしまう場合である(102)。

第七章「キリストとの交わりの人格的伝達と教会の統一(職制論)」

は「伝承と告知の職制」 (第一節), 「職制と派遣」 (第二節), 「教会の 職制の基準」(第三節), 「教会の指導的職制の歴史的変遷と最高位の職 制の問題」(第四節), 「キリスト者の統一の表現としての教会の指導的 職制」 (第五節), 「教会の指導的職制への任命(按手礼)」 (第六節)の 六節から構成されている。各節の内容ば次の通りである。

イエスとの出会いがうまれるには, イエスの直弟子たちの時代は別 として,他者の媒介を必要とする(103)。 この媒介は一回限りの伝達 という機能だけでなく, イエスに関する意識を継続的に形成する機能 を担ってL,る(103)。

第二節は「職制と派遣」の関係について論じている。キリスト教の 職制とその特色は共同体が自由に作り出すものではなく, それば終末 論的共同体としての教会の派遣に基づいている(107)。 しかもこの派 遣はイエスの躍史の終末論的意味,つまりイエスの復活において明ら かになった意味に基づいてL、る。教会の派遣はイエス御自身の派遣に 参与している。 しかしその場合, イエスの派遣の唯一回性が教会の存 続によってそこなわれてしまうということはない。なぜなら教会の存 続は, イエス御自身が告知の内容となるという仕方で起こっているか らである。同じように使徒の派遣の唯一回性も,教会の存続によって そこなわれてしまうということばない。なぜならすべての職制を基礎 づけているのは復活者による使徒の派遣だからである(108)。キリス

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卜の三職能つまり預言者,祭司,王としての職能に応じて,教会の職 制を細分化することはできない。キリスト論の研究が明らかにしてい るところによれば181,歴史上のイエスの派遣あるいは職能について語 ることができるのば,彼の神支配の告知との関連を考慮するときだけ である。 イエスの派遣は使徒と教会によって継承されている。 しかし 教会の職制は同じような仕方で高挙者の王としての職能と, イエスの 死の祭司的意味にあずかっているわけではない。 この両者に端L、て必 要なのは継承ではなく ,信仰をもって受け入れることである(109)。教 会が自らの派遣に忠実であるかどうかを,職制の数や特色によってば かることはできない。教会の職制の形態ば, 自らの派遣に基づいて,そ の時々の必要に応じて変化することがある(110)。使徒継承の思想は,

まず第一に教会の一定の職制に関連してL,るものではない。それは教 会全体にかかわっている。 L,かなる職制も,教会全体による媒介と協 同作業を無視して, それだけで使徒の派遣に従うことはできない (111)。教会は,キリストを告知するという使徒的課題を担ってこの世 に派遣されている(112)。 しかもこのことは同時に教会が, この告知 を受け入れた人々の信仰の統一性をも配慮すべきであるという課題を もっていることを示している。 この課題を担っているのがいわゆる牧 会と共同体の生活指導である(113)。 しかし伝統的な意味での教職や 牧師職の概念は権威主義的な真理伝達を示唆しており, そこでは神学 的認識の暫定性に対する洞察がそこなわれやすい。特に牧師職の概念 は,教会員を牧会の対象としてだけ考える危険性を含んでいる。そこ では,一人一人がイエス・キリストと直接的に結びつけられているこ とから生ずる成人性が, そこなわれてしまう。 しかしそれにもかかわ

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らずわれわれは, この権威主義的な要素を性急に克服しようとするあ まり,告知の課題と教会員の信仰を守る課題とを混同してばならない。

後者の課題は前者の課題から生ずるのである(114)。

職制の基準は,教会の派遣と規定を特色づけている使徒性,公同性,

聖性, そして統一性にある(115)。教会の職制ば使徒的でなければな らない。 しかしそれは使徒の時代の制度に戻ったり,使徒の時代の状 態を保持するとの意味ではない。そうではなく, キリストの真理をす べての民に告知しようとする使徒の業を継承するとの意味である。

従って使徒性の故に,現在に対するキリストの意義を一層明瞭に表現 することを目指して,伝統的な生活様式や思惟様式を変えて行くとい うことが起こってくる(116)。また教会の職制は公同的でなければな らない。それは自らの認識形態と生活様式が暫定的なものであること を忘れずに,すべての時代とすべての世界に対して開かれていなけれ ばならない。つまり現在の柔ならずそれに先立つすべての時代とキリ スト教の将来に対して,従ってまだ非キリスト教的な世界に対して開 かれていなければならない(117)。教会の職制は聖性, つまりキリス ト教の自己同一性のために戦う勇気に規定されていなければならない (118)。そして教会の職制はキリスト者の統一のために奉仕しなければ ならない。 もちろんこの統一とは官僚主義的にう皐出された一様性で はなく,種々のキリスト教的な生活様式と思惟様式を,愛の精神に基 づいて相互に承認することを意味する。

第四節は,教会の職制の歴史的変遷と最高位の職制の問題性につい て論じている。古代教会において, キリスト教世界の統一性と教会の 使徒的根源との一体性を保持する役割を担っていたのは, 司教であっ

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た。司教は使徒継承によってこの一体性を保ち, 同時に可視的な中心 的存在としてこの一体性を代表していた。 しかし特に十七.十八世紀 以来, この一体性を吟味することば神学の任務となっている。バネン ベルクによれば神学は,組織神学や実践神学の諸学科と歴史批評学と を結びつけることによって, この課題を遂行しなければならない。 し かしこの結果, 司教の職制が全く無意味になってしまったわけではな く,次のような限定された意味をもっている。つまり司教は教会とそ の根源との一体性を代表しており, そのような仕方でこの一体性を現 実化する。従って司教制は今日の教会にとってもなお望ましいものな のである (120)。全キリスト教徒を代表する股高位の職制は,彼らの 統一性の意識に貢献する。 しかし強制的に作り出された画一性は,か えってキリスト教の統一性をそこなってしまう (121)。最高位の職制 は.教会員の願望に左右されない告知の職制という考え方から出てき たのであって, これをペテロとローマの司教との独特な結びつきから 説明する必要はない(122)。また最高位の職制は, その職務執行に関 して教会員の批判を受けなければならない(123)。教会の職制は,全 体としての教会に約束されているキリストの真理の保持に参与してい る(124)。しかし教会は,神の啓示としてのイエスの歴史の意義を.教 理によって最後的に確定することはできない。教会はその時々の暫定 的な形式を用いて, キリスト者の統一性の意識を強めることができる にすぎないのである(125)。

教会の職制は, あらゆる面でキリスト者の統一を指し示す機能を 担っている。 この機能を果すためにば,諸集団あるいは諸視点の統合 が必要となってくる(126)。教会の職制は, キリスト者の統一を代表

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するだけでなくそれを促進し, さらに各人を宗教的に成人させ為役割 を担っている。それは各人が信仰によって直接キリストと, またキリ ストを通して神と出会うことができるようにする役割であり, キリス ト者の統一とはこのような信仰における統一のことに他ならない (127)。教会の告知は,各人の種々の経験と傾向をキリスト教的伝統の 中心内容と統合することに,その独自な課題をもっているのである (128)。

第六節は按手礼の問題を取り扱っている。教会の指導的な職制それ 自体の場合と同じように,按手礼も単に人間的な選択と制度に基づく のではなく, それは按手礼を受ける者に神の派遣を伝達する。 しかし

これは必ずしも一定の職制の担い手によっての象按手礼が執行される ことを意味しない(130)。職制と結びついたカリスマは,すべてのキ リスト者に与えられている神の霊に勝ろものでばない。各職制は,復 活者による教会の派遣に基づいているかどうかを吟味して, この派遣 と結びついている神の霊の助けを祈り求めなければならない(131)。い わゆるcharacterindelebilisの教説がもつ真理契機は,按手礼を受け た人の人格全体が神の派通に基づいていること,従って彼の生涯全体 がこの神の派遺のうちにあることを明らかにしている点にある。しか しながらこの按手礼の行為は, それを受けた者に,他のキリスト者と は違った身分を与えるというわけではない。なぜならキリスト者はす べて,神の霊に与かることによって最高の聖別を受けているからであ る(132)。

第八章「人間の形成に対する教会の貢献」ば「人間の救済のたぬの 教会の派遣」(第一節), 「宗教的問題設定の明確な形態」(第二節), 「生

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象徴の神学( 1) 31

活空間の宗教的統合」 (第三節), 「象徴としての教会」 (第四節)の四 節から構成されている。

教会はイエス.キリストを「第二のアダム」つまり新しい人間とし て証言してL,る。 こればイエスの出来事が全人類の救いにかかわって いることを指している。従って教会の制度と活動ば, 人間存在の全体 性にかかわるようにしなければならない(133)。人間存在の全体性ば すでに決定的な仕方で現存しているわけではなく, 人間の活動におい てさらに生活領域全体に潟いて表われてくる。 しかもこの活動もある いは生活領域も, それ自体だけで全体性と統一性をもたらす力をもっ ていない。それらは信仰においてはじめて現存するのであり, この意 味で教会の制度や活動は, 人間の全体性と深層にかかわるような宗教 的性格をもたなければならない(134)。 イエス・キリストぱ復活した 新しい人間としてわれわれに出会われる。従って真実な人間性を形成 するのに必要なのは, 自然のままの素質や欲求を発展させることでは なく, 人間存在につきまとう過ちと自己中心性から解放されることで ある。それゆえ教会は. あらゆる形の人間の特殊な可能性の絶対化と 自己満足に抵抗して,信仰と希望と愛へと回心するように呼びかける (135)。教会ば,回心への呼びかけと新しい人間性に関する幻と経験に よって,すべての生活領域を宗教問題へと引き込桑, そうすることに よって'教会が人間存在の全体性にかかわっていることを証示する。教 会はこの全体性をとらえるために, 自らの理解の特殊性を絶えず克服

しようと努めるのである(136)。

人間存在の問題を宗教問題としてとらえようとする場合には,反省 と宗教的実践という二つの視点から検討することが必要である。 この

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反省とは, 自己確信.対話を通して得られる共通の確信,宗教教育,宗 教問題を扱う種々の学科(例えば宗教心理学,宗教社会学,宗教哲学 など),比較宗教学,そして歴史学的反省と組織神学的反省とを結びあ わせた神学を,その内容としている。他方宗教的実践は,個人の祈り,

対話,歌などから公の礼拝までを内容としている。理論的反省と宗教 的実践ば,区別ばできるが分離できない関係にある(138)。われわれ の生活がきわめて明白に宗教問題として表われてくるのば, 自らの宗 教的独自性を意識しつつ,祭儀を遂行するときである(139)。人間の 宗教的規定ば,公の礼拝に潟いての象自らにふさわしい祭儀的表現を 見出すことができる。 もちろんこの表現は象徴的でありうるにすぎな い。神の国における人間の救いは,礼拝の中にの悪明確に臨在するの である(140)。 この礼拝の中心ば聖餐にある。それはメシアとの食卓 の交わりという神の国の交わりを象徴的に先取りしている(141)。祭 儀に含まれているこの象徴的連関に猫いて,芸術活動は人間の全体性 に触れることができる。つまりわれわれは芸術体験に含まれている主 観性を克服する機会をもつことができるのである(142)。

祭儀は, それが硬直化して日常生活から切り離された領域となって しまうならば,宗教的意義を失ってしまう。それは, 日常生活の多様 な局面と結びついて.統合的な仕方でこの局面に働きかけるときにの 糸,本当に人間存在の全体性を象徴的に示すことができる。教会の諸 制度は,個人的ならびに社会的生活連関におL、て, この出来事を促進 するために存在する(143)。結婚式や葬儀といった一連の制度化され た行為,個人的な宗教的助言, さらに宗教的動機からうまれた団体へ の参加といったものは,個々人の生活を宗教的に統合することに役

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象徴の神学(1) 33

立っている(144)。教会は,公共の福祉や正当な権利の要求のために 働くことによって,礼拝の中に象徴的な仕方で臨在している神の支配 の社会的次元を実証する。 しかし例えば病人の看護や社会復帰のたぬ に行われる教会の活動は, ,、ンディキャップを負った人々に対する愛 の業であるだけでなく,次のような課題を暫定的に代理して、,る。つ まりそれはもともと社会全体の責任に属し,そして出来るだけはやく 社会全体が引き受けるべき課題である。教会は, このようにおろそか にされたままである社会の課題を受けとめることによって,既存の社 会が神の国の義から離れていること, しかも宗教的視点が人間存在の 社会的次元に妥当することを明らかにする(145)。宗教的実践が宗教 的なものとして遂行されるためには,次のような認識を必要とする。そ れは,すべての生活領域を貫徹するとともに統合する真理についての 認識,つまりイエス●キリストのうちに啓示された神についての認識 である。世俗的な領域が自覚的な礼拝生活から離れるようになればな るぼど. またこれと反対に礼拝生活が全体的な生活から離れて.些細 なことに熱中するようになればなるほど,宗教的な問題設定を反省的 にしかも理論的に明らかにすることが大切になってくるのである (146)。

第四節は「象徴としての教会」を論じている。到来しつつある神の 支配は,礼拝という象徴的行為のうちにすでに現臨してL、る。 しかし それだけでなく教会共同体それ自体が, 到来しつつある神の支配の臨 在的象徴である。従って教会は自らが告知する希望を, 自らの現存在 において, つまり教会員と職制の担い手の態度と組織を通して, 明ら かにするように配慮しなければならない(147)。キリスト教共同体が

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