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半田山城測量後記

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(1)

附   編

半 田 山 城 測 量 後 記

土 井 基 司

は じめに

半 田山城 は

,半

田山山塊 の西寄 り山頂

,標

高136mに 立地す る。F岡山市史』 や『日本城郭大剰 な どで わず か にその概 要 が紹介 されているだけで

,本

格 的 な調査 の手 は全 く入 っていなか った。

そ うしたなかで

,岡

山大学埋蔵文化 財調査研 究 セ ンターで は

,1989年

度 の「都 市近郊林(半田 山)の 自然特性 およびその環境保全機能 に関する研究」 の一環 として

,半

田 山城 の測量調査 を 実施 す る ことにな り

,セ

ンター職員が中心 とな り調査 した。調査 は石坂俊郎 が担 当 し

,成

果報

告 も石坂 が執筆 した。 ここで はその成果 に基づ いて

,関

連す る資料(遺

,文

,地

)を総合

的 に検討 しなが ら

,半

田山城 をめ ぐるい くつかの問題点 を提起 したい。

測量成果 (図 1)

測量成果 は一応報告 されているが

,大

学 内部 向 けの報告書 とい う性格 が強 いので

ここで改 めて もう

1度

報告 してお きたい。 内容 は

,石

坂 の報告 に全面 的 に依存 し

,部

分 的 に要約 す るに とどめた。

基本形態 は

,東

西方 向 に展 開す る連郭式 山城 で ある。郭 ご とに順次説 明す る。

山頂 を取 り込 む形で最高部 に主郭 を置 く。東西

55m,南

30mの

矩形 で

,山

頂 はその ほぼ中 心 にあた っている。 山頂周辺 は約

20m四

方が一段高 くな っているよ うに も見 え

,削

平 が徹 底 し

なか ったためか も しれないが

,城

内の中心 的施設 が存在 した可能性 もある。南東部分 は

,北

方 向か ら進入 す る林道 によって変形 してい る。

主郭 の東側 に

,一

段下 が って東第

1郭

(仮)を設 ける。南辺 を林 道 に破壊 されているため正 確 な規模 は不 明 だが

,東

14m,西

26n,東

西幅

14mほ

どの台形 だろ う。主郭 との標高差 は 約

4mで

ある。斜面 を削 りだ した結果

,東

辺部直下

,標

高差

4mで

も幅

4mほ

どの平坦面 と,

その東縁 にご く低平 なが ら土塁状 の高 まりが認 め られる。 ただ し北か ら進入す る山道 と重複 し てお り

,本

来 どお りの形状 とは断定 で きない。

主郭の西 には

2.5m下

が って西第

1郭

(仮称)が 隣接 す る。東辺

38m,西

29m,東

西 幅

13m

の台形である。主郭か ら西第

1郭

へ は

,現

,舌

状 のスロー プが張 りだ しているが

,西

1郭

か ら西接する西第

2郭

(仮称)へ も同じ状況 にあ り

,廃

城後

,後

世改変 されたもの とみてお きたい。

西第

1郭

か ら西へ

2m下

が って西第

2郭 ,さ

らにその北西部 と重複す る形 で

,数

10cm下 が っ

‑40‑

(2)

半 田山城波1量後記

豆オ

/

\ ぶ

.寸

̲ノ

μ

半 田山城 跡測量図

 (縮

尺1/1200)註(3)文献より

(3)

て西第

3郭

(仮称)が 展 開す る。西第

2郭

は東辺

27m,西

3郭

を除 く西辺

10m,東

西幅17m。 西 第

3郭

は西第

2郭

との標高差がわずかだが,東西

15m,南

13mの

方形 に見 え,一応分 けてお く。

西第

2郭

・西第

3郭

の下方 には

,東

を除 く三方 を囲 む腰 曲輪が設 けられる。上方 か らの崩落 土 が堆積 しているため

,明

確 な ライ ンは断定 しが たいが

,本

,幅

5〜

6m,上

方 との標 高差

2.5m前

後 と思 われる。

主郭 の南・北斜面 には

,最

2段

の大走 り状 のテラスが認 め られる。比較 的明 らかな北斜面 でみる と

,上

段 は

131m付

近 で

,幅

2〜

5m,主

郭 との標高差3m。 下段 は標高

128m付

近 で,

幅2〜

3m,上

段 との標 高差2.5m。 南斜 面 は崩落 が はげ しいが

,上

段 が標高 129〜

130m付

,下

段 は西寄 りに一部 だが

,標

127m付

近 に認 め られる。上段 と主郭 との標高差4.5〜

5m,

東半 はやや幅が広 く

,腰

曲輪 の可能性 もある。東 。西第

1郭

と南 ・北上段 テラスはそれぞれほ ぼ同 じレベルに位置する。その他 にも

,標

120m付

近 な どに断片 的 に平坦面が認 め られる。

郭以外 の施設 と して

,東

1郭

周辺 で

3条

の竪堀 が確認 された。幅3〜

5m,い

ず れ も上端 は標高

129m付

近 に達 し

,北

斜 面西側 の もの は標高

120m,同

東側 の もの は

117m,南

東斜面 の もの も

117m付

近 まで下 が っている。標高差

12m前

後 で ある。

以上

,半

田山城 は

,東

西 長

140m,南

北幅

70m以

,各

郭が主郭 を頂上 に稜 線上 に並 ぶ連郭 式 山城 で ある。竪堀 は

3条

認 め られたが

,堀

,土

塁 は確認 されなか った。角礫 が各所 に散在 す る ものの石垣 は認 め られなか った。虎 口

,井

戸 な どの諸施設 も不 明である。踏査 の結果

,城

の南斜面

,標

120mを

下 った辺 りか ら

,竪

堀状 の遺構 が

1条

延 々 と下 ってい るのが確 認 され たが

,城

に伴 うものか は確 かでない。

津島周辺の中世追跡 (図 2)

半 田山城 の歴史 的背景 を理解 す るため に

まず F岡山市埋蔵文化財分布地図」 をもとに して, 半 田山周辺 の中世 の遺跡 につ いて説 明す る。

は じめに城郭か ら述べ たい。 ほ とん どが山城 だが

,半

田山周辺 の城 の分布密度 はかな り高 い。

後 にふれるよ うに

,中

世 山陽道が通 い交通 の要衝 である

,旭

川西岸 の肥沃 な沖積 地 をひか えて いる

,戦

国時代後期

,松

田氏

,後

には三村・毛利氏対浦上・宇喜多氏 の勢力争 いの主 な舞台 と な った

,等

の要 因が考 え られる。

龍 ノロ山城

,船

山城

,妙

見 山城

,半

田山城

,鳥

山城

,蜂

矢城

,山

崎城 な どが 中世 山陽道沿 い に立地 している。龍 ノロ山城 をめ ぐる戦 いは数度 にわた って行 なわれてお り

また

,明

禅寺 山

城 の攻 防 を中心 とした「明禅寺合戦」 は

,備

前 における宇喜多直家 の覇権 が確 立 した戦 い とし て有名である。 しか し

,発

掘調査 な どによ ってその実態 の一部 で も明 らか にな っているの は, 富 山城 ぐらい しかない。

‑42‑

(4)

半 田山城測量後記

遺 跡 分 布 地 図

 (縮

尺1/75000

(国土地理院1/50000 岡山北部・南部 を縮小)

龍 ノロ山城 (戦

) 2 

船山城 (戦

) 3 

妙見山城 (戦

) 4 

半田山城 (戦

) 5 

烏山城 (戦)

蜂矢城 (戦

) 7 

山崎城 (戦

) 8 

富山城 (戦

) 9 

高柳城

 10 

城跡

 11 

岡山城 (戦国〜江戸)

12 妙禅寺城 (戦

) 13 

金山寺

 14 

寺院跡 (室

) 15 

堂敷山廃寺 (中

) 16 

清水廃寺 (中)

17 堂屋敷廃寺 (平安〜中世

) 18 

常円寺跡

? 19 

妙善寺 (福輪寺

?) 20 

石井廃寺 (奈良〜中世)

21 賞田廃寺 (飛鳥〜中世

) 22 

幡多廃寺 (奈良〜中世

) 23 

散布地 (古墳 ・中世

) 24 

散布地 (古墳一中世)

25 散布地 (中

) 26 

首塚 (中

?) 27 

鹿田遺跡 (弥生〜江戸

) 28 

二 日市遺跡 (弥生〜江戸

) 29 

散布地 (古墳・中世)

30 備前国庁跡 (古代〜中世

) 31 

国府遺跡 (古墳後期〜中世

) 32 

操山202号遺跡 (貝,平安〜中世)

33 大塚山経塚 (中

) 34 

操山205号,206号遺跡 (貝,古代〜中世

) 35 

円山1号5号貝塚

 86 

「城」字名所在地

‑43‑

(5)

城郭以外では

,寺

院跡が多いのが 目立つ。中で も金山寺 は,「金山寺文書」 とい う豊富な古 文書が残 り

,岡

山の中世史を考 えるうえでの貴重な資料 となっている。 また

,半

田山南山麓 に

,福

輪寺 と呼ばれる寺があったと伝 えられ

,F源

平盛衰記』や F平家物語』 に,「福輪寺叶」

あるい1ま「福隆寺縄手」 としてその名があらわれる。伝承では福輪寺が 日蓮宗 に改宗 して妙善 寺になったとい う。妙善寺は松田氏の強い保護 を受 けた寺だが

,江

戸時代 にいったん断絶 し,

明治になって現在地に復興 した。そこが元来の所在地かははっきりしない。常円寺 は宅地開発 で地形が大 きく改変 を受け

,地

名からしかその存在 を窺えない。

中世の御野郡南部

,旭

川西岸のデルタ地域 には

,古

代からつづ く鹿田庄 をはじめ多 くの荘園 が存在 していた。荘園の様子が知れるような遺跡 は

,現

在の ところ

,岡

山大学鹿田キャンパス 所在の鹿田遺跡や

,二

日市遺跡 しか見つかっておらず

,考

古学的にその実態 を復元するまでに

はいたってVヽない。

その他 に

,岡

山大学津島キャンパスでは発掘調査が数地点で行 なわれてお り

,中

世の水田跡 が確認 されている。中世の津島村 は基本的には農村だった と考 えられる。

以上のように

,周

辺 に多 くの遺跡が存在するにもかかわらず

,中

世の御野郡の様子 は不明な 点が多 く

,考

古学か らみた

,開

発領主 とその支配拠点 としての居館

,山

城 との関係 は全 くと いっていいほどわかっていない。

文献上の中世津島周辺

中世の津島付近について様子がわかる史料 はほとんどない。わずかに軍記物語のようなもの があるだけである。

① 『源平盛衰記』F平家物語』

対象時期 よ り少 し古いが

,F源

平盛衰記』や『平家物語』 にこの辺 りについての記述がある。

その概略を説明 しよう。備 中国の出身で

,平

家の家人であった妹尾兼康 は

,倶

利加羅峠の戦い で破れ

,木

曽義仲軍の捕虜 となった。やがて義仲 は京より平家 を追い落 とし

,平

家 は屋島に逃

れた。義仲 はそれを追撃 しようと備前方面 に出陣 したが

,そ

の時兼康 は先陣の案内役 を申 し出 て許 された。 ところが

これは兼康の謀略で

,彼

は途中

,藤

野で監視役 を切 り殺 して遁走 した。

怒 った義仲 は大軍 を追 っ手 として差 し向 けたが

,兼

康 はわずかな手勢 を率い 「佐佐迫(篠の 迫)」 の城にたてこもりこれを防いだ。 しか し

,奮

戦かなわず落ちのびる途中戦死 した。

ここにでて くる佐々迫 の合戦のシー ンに,「福輪寺肝」 あるいは「福隆寺縄手」の名が登場 する。 この福輪寺縄手 は

,後

に詳 しく触れるが

,中

世山陽道の一部 と考 えられてお り

,現

在の 岡山大学津 島 キャンパ スの辺 りにあった と推定 され ている。 また佐々迫 の城 は

,文

中の

「 福輪寺附 を堀掘切て

,管

植逆母木引 きなどして

,馬

も人 も通難 く構 たり。」 とい う記述か

‑44‑

(6)

半田山城測量後記

,中

世 山城 のよ うな城郭 とい うよ り

,阻

塞 の よ うな もの と想定 されている。 因みに

,こ

の部 分 の記事 な ども参考 に して

,城

郭史研 究 において は

,平

安時代 末 か ら鎌倉 時代 の城 は阻塞 とか 切岸 の よ うな単純 な施設 を指 し

,鎌

倉 時代 末か ら南北朝時代 になってはじめて中世 山城 のよ う

な城 が成立する と考 え られている。

周 囲の景観 を文 中か ら復元する と

,福

輪寺縄手 の北 には険 しい半 田山山塊 がそびえ

,南

には

一面水 田が広が っていたよ うだ。水 田は沼 田 と表現 されている ことか ら

,湿

地状 の土地 と思 わ れる。佐 々迫北側 の津高郷 の谷 回は沼地が多 くあ った ら しい。

②『太平記』

『太平記」には,関 連する可能性がある記事が 2箇 所でてくる。

1つ

は ,巻

16「

西国蜂起官 軍進発事」の条 ,足 不

U尊

氏が九州におちのびた後の足利勢の巻返しの様子を述べた部分にでて くる

,「

備前には田井′飽浦 ,頓 宮 ,松 ,福 林寺の者共 ,石 橋左衛門佐を大将として甲斐川

,

三石二箇所の城を構へて船路 ,陸 路を支えんとす。 」という記事で, もう

1つ

は ,巻

38「

諸国 宮方蜂起事」の条,山 名時氏が備前・備中に侵攻した時 ,備 前の諸将が城にたてこもったまま

戦わなかった事 を記 した文中の「其の国の守護勢

,松

,河

,福

林寺

,浦

上七郎兵衛行景等

・…(略)…」の一文である。

このなかに「福林寺」氏 とい う豪族の名が見 られる。「福林寺」は「福輪寺」 と同音である し

,後

に述べるように

,妙

善寺の西隣には「福林寺」 という字名が実際存在する。 このことか ら

,福

林寺氏は

,津

島周辺 を根拠地 にしていた可能性が高い といえよう。

③ 『中国兵乱記』

F中国兵乱記』 は

,元

和元年 (1615),中 島元行が自己の体験 した合戦 とその功績 を著 したも のである。 したが って

,自

己の活躍 を誇張する傾向や

,記

憶 に頼 っているので不正確 な部分 も い くつかある。 しか し

,実

際に現場 に居合わせた人物の書 き残 したものとして

,そ

の資料的価 値 はかな り高い と思 う。

さて

,津

島周辺 の様子がでて くるのは,「明禅寺合戦」 に絡 む部分の記述である。 これは作 者の初陣の合戦で

,年

少だったこともあって

,永

禄10年 (1567)の この事件 を永禄

7年

の龍の口 山城 をめぐる合戦 と混同 している。だが

,そ

の内容 げ詳細で多 くの固有名詞がでて くるので,

津島近辺の状況がかな り詳 しく想像で きる。

備中を出陣 した三村軍は三隊に別れて

,明

禅寺山城

,国

府村方面 をめざ したが

,元

行 はその

うち半田山南麓を進んだ隊に属 していた。隊の先行部隊が旭川 を渡 った頃

,元

行 はちょうど津 島の辺 りを進んでいて

,後

方部隊の裏切 りにあった。その時の元行 と他の諸将の奮戦ぶ りが詳

しく描かれている。

その文 中に,「福輪寺の要害」,「妙善寺の砦」,「笹瀬山の城」,「津島七右衛 門の要害」,「

‑45‑

(7)

武山の峰の要害」

,な

どの 5つ の城 あるいは居館 と考えられるものが登場する。それぞれが現 在 のどこにあたるかは

,鳥

山城 と考 えられる「笹瀬山の城」以外確定 はで きない。 また,「津 島七右衛門」や「津島孫兵衛」などの人名が見え

,津

島辺 りを本拠 にする豪族 と思われるが, 具体的な人物像 は明 らかでない。ほかにも,「羽武の峰の尾崎」,「福輪寺山」,「福輪寺の首塚」,

「津島村千騎谷」 とい う地名が現われる。

半田山南麓の字名 (図3)

地名の調査 にあたっては

,本

来地籍図などによった綿密な手続 きが必要なのだろうが

,今

回 は

,岡

山市役所資産税課 にある

,地

押図 と地番図によった。 まず地押図で地名 を調べ

,地

番 を

比較 して現在の地番図 と照合 し

,そ

れ と都市計画図を重ねて

,地

形図に地名 を投影 させた。

今回の調査の結果で もっとも注 目すべ きは「城」 という地名だろう。立地からいって

,山

に由来する というよ り居館 に関係すると考 えられる。後でも詳 しく検討するが

,そ

の位置か ら して

,半

田山城 と関連する居館の可能性がある。

つぎに日立つのは「常円寺」,「勧祥院」,「寺屋敷」,「法京寺」,「福林寺」,「十乗坊谷」など 寺院 に関係すると思われる地名が多 く存在することである。「福輪寺」が常円寺から十乗坊谷

にいたる場所の どこかにあったことをうかがわせる。

まとめ

以上

,測

量成果

,周

辺遺跡

,文

,地

名など

,半

田山城 に関連する事柄 をみて きた。以下で は

,こ

れらを総合的に検討 しつつ

,半

田山城の縄張 り

,福

輪寺縄手

,居

館 をめ ぐる諸問題 につ いて若千の見通 しを述べてまとめにかえたい。

①半田山城の縄張 り

測量図をもとに半田山城の縄張 りについて考 えてみたい。縄張 り図は城郭研究にとっては最 も基本 となる資料であ り

,復

元模式図 としての側面 と略測図 としての側面がある。未実測の城 の場合 は

,踏

査 によってその二面 を同時に表わさなければならないが

,測

量図が存在する場合

,復

元想定図 と考 えていい。 したがって

ここでは縄張 り図の作成 を以て縄張 りの復元 にか

縄 張 り図 を作 る前 に

,今

までの半 田山城 の縄張 りに関す る諸説 を紹介す る。

最初 の縄張 り図 ら しきもの は

,津

高郷土会 の略測 図で ある(図 4)。 城名 は戸 月城 あるい は都 月城 とされているが

,周

囲 の状況 か ら

,現

在 の半 田山城 を指 す よ うだ。 この図で は

,城

4段

の長方形が重 なる形で示 されている。大胆 に模式化 した図だが

,実

際 の形態 か らは まった くか け離 れている。竪堀等 の施設 につ いて は言及 して ないが

,井

戸 は

,北

側 山麓 に想定 している。

‑46‑

(8)

川 牛 ヰ ー

法京寺ウ

+国E爵澄帥麟型

﹈ ﹈ P     ・ 一 一 一

︑ 一 . . 出 一 婦 ・ ・ '  0       250m

1/7500尺図

 (縮

田字麓3名山山半

(9)

津 丈

︹ 十 醐 甲

ついで

,F岡

山市史』政治編 に「半 田山の城」 として紹介 されている。

7段

の連郭式の城 と 考えてお り

,大

体現状の形態 に近いが

,最

西端の腰曲輪が描かれていない。竪堀等の施設 につ いての言及 はない。 このころは曲輪以外の施設 についての認識がまだ弱かったと思われる。

F日本城郭大系』第13巻は図面が示 されてないが

,縄

張 りについては F岡山市史』政治編 を基 本的に踏襲 している。単純縦列連郭の配置か ら

,戦

国後半 まで下るものではない と時期比定 し ている。

以上 の先行研究 を参照 しつつ測量結果か ら縄張 りを想定 してみよ う(図 6)。

上記

3者

とも本九 と考 えている頂部 の高 ま りは 下段 との比高差 もほ とん どな く

,独

立 した郭 とは

捉 え られない。 また西第

2郭

と西第

3郭

も本来 は 同一 の郭 とみて

,主

郭 と

,東

1郭 ,西

2郭

4段

か らなる連 郭式 山城 と推定 す る。 さらに,

東 。西第

1郭

が上段 の大走 りと連結 し

,西

2。

3郭

と下段 の大走 りも連結 して

,最

西端 の腰 曲輪

とともに

3重

に主郭 をめ ぐる構造 になっていた と 思 われる。竪堀 は

3条

のみで

,尾

根筋 に も堀切 が

確認 で きないが

これだけで は防御施設 としての 機 能が弱 く

,埋

没 して しまった可能性 が考 え られ る。水 利 施設 は まった くわか らない。 年代 は,

F日本城郭大系」 をこえる よ うな成果 はあが って お らず

,戦

国前期 以前 としかい えない。

②福輪寺縄 手

石坂 は幸R告 の考察 のなか で

と くに中世 山陽道 との 関係 を重視 し

,交

通 の要衝

に占地する城 と位置付 けて いる。つ まり

,半

田山周辺

の中世 山陽道 に該 当す る と 考 え られている福輪寺縄 手 と

,半

田山城が どうい う関 係 になそのかが大 きな問題

となろ う。

/

半 田 山城

 

略 図

(1)認

9炭献より

半 田山城

 

略図

(2)註

(1)文献より

/

圏目囲

‑48‑

(10)

ⅢⅢキ

《 I

Цヽゝ`ヽ

半田山城測量後記

き、

1

6oい

∞\出呟 埋︶ 国 離 鰹 琴 ヨ 田 斗   Φ国

̲

澱 韻

l

1哄

\ ペ

0

1鈍

‑49‑

(11)

福輪寺縄手 が どこにあ ったか は福輪寺 の所在地 とかかわ って くる。F岡山市史』古代編で は,

福輪寺 が 日蓮宗 に改宗 して妙 善寺 と改 めた ときに市場 の辺 りに移転 し

,そ

の跡が末寺 として常

円寺 にな った と推測 して いる。「寺屋敷」 な どの地名 をその証拠 としてあげて いる。現時 点で は

,そ

れ を否定す る材料 も肯定す る材料 もないが

,寺

院 に関係 する地名 は市場 や西坂 の周辺 に 多 く分布 してお り

,そ

の中の どこか に福輪寺 の中心があ り

,一

帯 に広 く寺域 を構成 していた と 考 えてお きたい。

つ ぎに古代 の計画古道 や条里制か ら推察 してみよ う。

足利健亮 は

,福

輪寺縄手 を

,国

府 の真 ん中 を横切 る直線道 の続 きと推定 し

,図

面 か らみるか

ぎ り

,現

在 の岡山大学津 島キ ャンパ スの北辺 を走 る道 をその名残 とみている。 しか し

この道 は平地 を横切 る計画古道 として は蛇行 しす ぎてお り

,ま

,F源

平盛衰記』 や F平家物語」 の 記述 か らす る と

,道

の左右 は水田 と思われるので

,山

裾 を走 る この道 はふ さわ しくない。

御野郡 の条里 の方 向 は

,国

府付近 の条里 の方 向 と一致 してお り

,国

府 を横切 る直線道 は条里 の一部 をな している。 したが って

,福

輪寺縄 手 もその条里 ライ ン

(E― F― G)に

沿 って走 って いた可能性が強 いだろ う(図 2)。 岡山大学津 島キ ャンパ スで は

,男

子学生寮予定地 および工学 部生物応用工学科棟予定地 の調査 で

まさにその条里 ライ ンにそ った大規模 な滞が検 出 された。

その濤 の脇 に1.5〜

2mの

間隔 を置 いて平行 して走 る幅

2〜 3mの

濤 が あ る。高重進 は

2つ

の 濤 には さまれた部分 を道 と提 えて

,こ

れ を福輪寺縄手 と推測 している。 しか し

,出

土遺物か ら,

この条里 の滞 は平安時代前半 を中心 とした時期 に機能 していた と思 われ、平安時代 の末 まで下 るか どうかは今 の ところわか っていない。男子学生寮予定地で は

,そ

の上層 で も同 じ位置 に幅 広 の畦畔が検 出 されてお り

,そ

れが福輪寺縄手 に相当する可能性 があるが

,時

期 が確 定 してお

らず断定 はで きない。正式 な報告書 が出る までは どち らが妥当かの判断 はつ きかねる。 いずれ に して も

, E― F― Gラ

イ ン上 に福輪寺縄手があった ことが推測 される。

③居

 

半 田山城 は有事籠城型 山城 で あ り

,そ

れ に対応する 日常生活 の場

,居

館 が どこか に存在 した はずである。居館 と山城 が必ず しも近接す るわけではないが

,半

田山城が比較的小型 の城 であ り

,そ

の支配領域 はそれほ ど広 くない と思 われるので

,居

館 は麓付近 にあ った可能性 が非常 に 高 い。

最 も有力 なの は

,先

述 の よ うに「城」地名が残 る地 区である。 ただ し

,こ

こは

,半

田山の南

斜面 が麓近 くで傾斜 をゆるめ

,な

だ らか に南 にのびた低丘陵の

,東

側 の一段低 くな った平坦地 に相 当す る。水 田地帝 よ りは少 し高 くなっているが

,あ

ま り適 した場所 とは言 えない。 む しろ,

西 に接 す る「勧祥 院」 の辺 りが最適 で はなか ろ うか。現状 で は ここに居館跡 を想定 してお く。

半 田山城 が都 月坂 を見下 ろす交通 の要衝 に位 置 す る ことは否定 しが たい事実 だが

,都

月坂 を

‑50‑

(12)

半田山城測量後記

押 さえるための城 か どうか は検討 を要 す る。在 地 の小領主単独 の力 で幹線道路 である山陽道 の 一角 を押 さえるのは不可能 に近い。 それ を維持 するためには

,か

な りの広域 を支配す るよ うな 有力国人や大名の戦略的展望が必要である。そのような城 に しては半 田山城の規模 は小 さす ぎる。

また

,郭

の規模 な どか ら考 えて

,常

時兵 が駐屯 し通行 す る物資

,人

間 を上 か ら監視 して

,流

を管理 していた とも考 えがたい。そ うい う機能 は居館 のほ うに求 め られるべ きだろ う。

居館 の位置 を「勧祥 院」 と仮定する と

,先

に推定 した福輪寺縄手が

,都

月坂 にむか って屈 曲 しつつ上 ってい く

,そ

の入 り口にあたる ことになる。つ まり

,中

世 山腸道 の交通 の要所 に立地 しているわけである。開発領主 としての性格 か ら

,水

利 の管理 に有利 な場所 に居館 が位置 して いる ことが多 いが

,流

通 を管理する ことを重視 した領主 も存在 した可能性があ り

,こ

の場合 は

それ に相当するのか もしれない。市場 とい う地名が まわ りに広が っているの も

,そ

うい った性 格 を うかが わせ興 味深 い。

以上

,長

々 ととりとめのない話 をつづ けたが

,筆

者 の未熟 さゆえ

,全

くまとま りのない内容 になって しまった。測量調査 を担当 し

,か

日頃か らこのよ うな問題 について熱心 に研究 さ れていた

,石

坂氏 が本来執筆すべ きところを

,氏

の転 出によって急邊私が担 当する ことになっ たため

,泥

縄 の感 は否 めないが

,な

に とぞご容赦願 いたい。

本文 を執筆す るにあたって

,角

田茂

,出

宮徳 尚

,久

野修義

,石

坂俊郎 の各氏 には貴重 なご助 言 ・ ご指導 をいただ き

また

,近

藤義郎

,高

重進

,新

納泉

,山

本悦世

,絹

川一徳

,若

林卓

,大

橋 かお りの各氏 か らは多大 なるご助力 を得 た。末筆 なが ら

,記

して感謝 したい。

(1)巖

津政右衛門

  1964 (2)出

宮徳尚

    1980 (3)新

納泉・

    1990

石坂俊郎 ほか

「第一編 中世 第六章 岡山平野の豪族たち

 

二 市域にある城跡」F岡山市 史』政治編

 

巖津政右衛門編

「岡山県

 

半田山城」F日本城郭大系」第13巻 広島・岡山

西本省三・葛原克人編

 

新人物往来社

「半田山城跡の測量調査」路F市近郊林(半田山)の自然特性およびその環境 保全機能に関する研究(Ⅳ)』 平成元年度岡山大学教育研究学内特別経費研究 成果報告書

(4)巖

津政右衛門ほか

1968 

『富山城跡第 1次調査報告』

 

岡山市教育委員会 巖津政右衛門

  1969 

『宮山城跡第 2次 調査報告」

 

岡山市教育委員会

,水内昌康ほか

(5)一

般に「福輪寺縄手」 と俗称されており

,本

文でも支障のないかぎりこれを用いる。

(6)山

本悦世ほか

  1988 

「鹿田遺跡I』 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第 3冊

 

岡山大学埋蔵文化財 調査研究センター

山本悦世ほか

  1990 

『鹿田遺跡I』 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第 4冊

 

岡山大学埋蔵文化財

‑51‑

(13)

 

調査研究センター

(7)出

宮徳尚

    1985 

「岡山市二 日市遺跡」F日本考古学年幸悶

35 

日本考古学協会

(8)A松

岡かお り

  1987「 2発

掘 調査 ① 学生 部男 子学 生寮 改 築 に伴 う発掘 調査(津島北 地 区 AV00'01区)」『岡山大学構内遺跡調査研究年報5』

 

岡山大学埋蔵文化財調 査研究セ ンター

土井基司 1989 「

2発

掘調査

 

②工学部生物応用工学科校舎新営に伴 う発掘調査(津島北地 区AV・AW04・ 5区)」『岡山大学構内遺跡調査研究年報6』

 

岡山大学埋蔵文 化財調査研究センター

(9)青

井若太郎

   1941

(10)(1)文献 に同じ (11)(2)文献 に同じ (12)(3)文献 に同じ (13)巖津政右衛 門

  1962

(14)足利健亮

    1974

ただし,畦畔ではなく畝状遺構が検出されており,畑の可能性もある。

F史蹟及び古蹟』横井村誌十輯之内第五輯

 

津高郷土研究会

「第六編 平安時代

 

第一章 平安時代の仏教

 

 

福隆寺跡」F岡山市史』

古代編

 

巖津政右衛門編

「吉備地方における古代山陽道・覚え書 き」F歴史地理学紀要J16号

 

歴史

地理学会

(15)石田

 

    1962 

「第四編 岡山市域の条里」F岡山市史』古代編

 

巌津政右衛門編 (16)(8)A、 (8)BIこ同 じ

(8)A報告文中では河道 として認識 されているが

,規

,形

,位

置か らみて

,(8)B報

告 の濤 と同 一の濤 と考 えるのが妥当だろう。

(17)高

 

    1990 

「第2章 吉備 と律令体制の成立 第4節 山陽道」「岡山県史』第三巻 古代

岡山県史編纂委員会

(18)(2)文献 に同じ

(19)出宮徳尚氏のご教示 による。

(20)久野修義氏のご教示 による。

(21)城館 と市場の有機的関係 は,地名考証などから指摘 されている。

谷重豊季

    1989 

「中世加賀 。能登地域 における「町」 について一歴 史地理学的アプローチ ー」F金沢大学文学部地理学報告』第5号

参考文献

『岡山市史』政治編

 1964 

巖津政右衛門編

「岡山市史』古代編

 1962 

巖津政右衛門編

F日本城郭大系』第13巻 広島・岡山

 1980 

西本省三・葛原克人編

 

新人物往来社

F岡山市埋蔵文化財分布地図」 1988  岡山市教育委員会

『岡山県史』第二巻 古代 Ⅱ

 1989 

岡山県史編纂委員会

『岡山県史』第四巻 中世

1 1989 

岡山県史編纂委員会

F岡山県史』第十九巻 編年史料

 1988 

岡山県史編纂委員会

F源平盛衰記』F平家物語』F太平記』はこれによる。

F新釈備中兵乱記』 1987  カロ原耕作編著

 

山陽新聞社

『中国兵乱記』はこれによる。

F岡山県の考古学』 1987  近藤義郎編

 

吉川酸文館

『土木』講座・日本技術の社会史 第六巻

 1984 

甘粕健ほか編集

 

日本評論社

‑52‑

参照

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