中世 にお ける山城築城技術 の進歩 について
歴史学教室 錦 は じめ に=問
題 の 所 在 攻城戦 における「戦 いの場」の変化 を通 して,城
郭構造 の進化 を探 ることはで きない ものであろ うか。城郭研究 の基本が城跡=遺
構研究 にあることに異論 はないが,そ
れには一つの,し
か し決定 的な壁がある。城 は,創
築がいつであろうと,長
期 にわたって使用 され続 けた ものが多 く,お
のず と絶 えざる改修 の下 におかれていたため,い
まに残 る城跡 の殆 どは,結
局 の ところ戦国末期 のもの と考 えざるをえない ことである。ち そのような制約 をまとわ りつけた城跡 をもとに,中
世城郭の進化 を探 ろうとすれば,限
られた年 代 しか使われなか った城 を抽出 して,そ
れ らをもとに各時代 の城郭像 を描 きだす,
という方法 しか ない。近年,そうした方向で研究が進 め られている力部り,いかんせん上記の条件 を満 たす城 は極めて 少な く,さ
らに,遺
構が廃城時の状況 をそのまま示 しているとは限 らない,
とい う事情が付 け加わ る場合 もある。例 えば,後
に取 り上 げることになるが,山
城で は道 は比較的消滅 しやすい ものであ り,現
在 の登山道が往時のルー トそのままであるか どうか,明
らかでない場合 も多いのである。河ヽ 論 は,そ
うした難問 を乗 り越 える一つの方策 として,文
書史料 に現われた「戦 いの場」の推移のな かに,城
の構造 の変化 を見つけだそうとす る試みである0。 城 の構造 といって も様々な要素があるが,主
として考 えてみたいのは,山
城 にお ける道 と曲輪 の 関係である。一般 に,山
城で は「削平地 を尾根 に沿 って数多 く築 き並べ,下
の曲輪が落 とされれば, 後 ろの曲輪へ,そ
の曲輪が落 とされれば,さ
らに後 ろの曲輪へ,
といった曲輪 の前後関係 と量 に頼 つて防御す る」もの と理解 されている141。 その背後 には,引
記 されているわ けで はないが,登
り道 は それ らの曲輪群 を通過 してい く,
とする暗黙 の了解があるように思われる。そうでなければ,上
記 の機能 は十分 には発揮 しえないか らである。事実,『図説中世城郭事典』①な どを見 ると,そ
のよう な道が書 き込 まれた縄張図 も,少
なか らず見受 けられ る。 しか し,こ
うした通説的理解 は,す
でに 証明ずみの ことなのであろうか。 このような疑間を懐いた きっかけは,先年 の羽衣石城(鳥取県東伯郡東郷町)調査 にある0。同城 に は,中
心部か ら麓 に向か う数本 の緩やかな尾根があ り,そ
の上 に曲輪群が連 なって削平 されている が,現
在 ある2本
の登 り道 はどち らもそれ らの内部 を通 ることな く,「本丸」のす ぐ下 の段 に到達す るように付 けられているのである17j。 通説 に従 うな ら,我 々には道 は往時の ものが良好 に残 っている と見 えるけれ ども,実
は後世 の ものだ,と
い うことになろうが,そ
れでいいのか。 あるいは,曲
輪 勤 織12
錦織 勤:中世 における山城築城技術の進歩 について の機能や道の付 け方 についての通説 の方 に問題があるのか。遺構 の調査か らは解決が難 しい,こ
の 疑間 を解 く手がか りを得 たい とい うのが,本
稿執筆 の直接の動機である18J。 第1章
城 攻 め の 場 城 を攻 めるとき,城
の どの部分 をどの ように攻 めたのか。 まずその点 をみてい くのであるが,基
本的 には当時の軍忠状・ 感状・ 書状 な どの第一次史料 だけを用い,軍
記物 の類 は原則 として利用 し なかった。 また地域的 には中国地方 に限 り,時
代的には南北朝期∼織豊期 まで とした③。 巻末 の表1・ 2・3は
,そ
れぞれ南北朝期・ 室町期・ 戦国期 の攻城戦 の場 を一覧 にした ものであ る。 これ に関 して断ってお きたいのは,次
の4点
である。(1)1つ
の城 の1つの戦闘地点 に関 して は,複
数の史料がある場合で も lヶ 所 として扱 つた。(2)同
じ城で も,異
なる場所での戦闘 は,そ
れぞれ を lヶ 所 として数 えている。ただ,郡
山城の城 下での戦 いだけは,「諸 国」 と一括 して表現 した史料 もあるので, lヶ
所 とした(表3血
69)。(3)複
数 の項 目に亘 る表現 をしている場合 は,よ
り細 か く場所 を指 し示 している方 を採用 した。例 えば「大手 中尾」(表 l No18)は,広
い空間 を指す「大手」で はな く,よ
り狭 い地点の「中尾」(尾 崎)で採 ってい る。(4)「
戦 いの場」の項 目については,煩
瑣 になることを顧 みず,で
きるだけ史料 の言葉 をそのまま 用いることにしたが,表
3血
31「神辺表」だけは「麓」 に入れた。 表4は
,表
1・3の
「戦 いの場」 を分類集計 した ものである(表2の室町期 は4例
しかないので取 上 げなかった)。 以下,表
4の
分類項 目について,簡
単 に説明 してお きたい。1,大
手・ 揚手 「城郭用語辞 典」。ωによれ ば,大
手 とは「城 の表側,あ
るい は防御正面 の こと」で,「広い意味 に 用いる場合 と,正
面虎 口に至 るルー トを厳密 に規定す る用法」 とがある。表1の血1∼9は,お
おむ ね前者 の意味 に用い られてい るとみてよい。.
揚手 とは「城 の背面」 の ことで,表
1にNo10∼14の5例
がある。2,尾
頸・ 尾崎 (尾) 表1恥
15・16と表3血 1∼
15の「尾頸」(お くび)と
は,城
が緩やかな尾根や台地の先端 に築かれ た場合,そ
の尾根・ 台地 の付根 あた りを指す言葉である。その ことは,例
えば岩国城の図。1ち ある いは江美城 の図Qうな どによって明 らかである。尾頸 とい うのは,中
国地方の方言 らし く,他
の地域 にはあまり見当た らない し,安
芸 の国人が「八幡山西尾頸」と記 した場所 を(19ち 『太平記』で は「西 ヘナダレタル尾崎」といっている事例 もある(1→。尾頸 は弱点の一つであるか ら,築
城 の際 には細心 の注意 を払 って防御施設(堀切・ 土塁な ど)が構築 され るが,人
工 の堀切で は深 さに限界があ り,常
に攻撃 の対象 とされた。 表l No17「北頸」 は,「北の尾頸」 とい う意味 と考 え,こ
こに集計 した。 また表3 No16・17の「 ら ん とうの尾」。「小高丸」 も尾頸 に入れた。「 らん とうの尾」 について は,『角川 日本地名大辞典32
島根県』 は松江市法吉町の自鹿 山の麓 と推定 している。 しか し,毛
利方が仕寄穴 を掘 り,守
備側 も それ に応 じて「多賀丸 より横穴 をほ り候 て防」いだ とあるのだか ら,山
の麓で はなか ろう。 また, 尾崎で は仕寄穴 を掘 るほ どの足掛 りがあるとは思 えない。場所 は特定で きないが,ど
こかの尾頸で表
4
戦いの場の集計 戦 い の場 面 】ヒ朝 期 叫 国 期 件数i
合計 % 牛数 合 計 % 大 手 協 手 氏 厚 電 15_7 尾 崎 1 ふもと 山 手 5 一 1 一 キ 一 一 キ 一 一 一 一 一 1 一 7 23.3 1 一 6 一 8 一 5 一 5 一 7 一 4 一 3 一 3 一 2 一 1 一 一 7 一 1 一 1 麟 山 下 城 下 諸 国 It回 口 諸 国 仕 寄 岸 際崖 手 持 浜 一口 一 口 丸 一 屋 の 際 回 二 一塀 虎 日 木 戸 (日) 5 4 虎 日 上橋 切 岸 切 岸 9 塀 際 塀 足 水 手 3 曲 輪 外 撻__ F9 7 小屋左___ 二_:_三⊇ 九 天神丸 その他 抱 国 1 合 計 鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第46巻 第1号
(1995) はないか と推測 される。「小高丸」 とい うのは,白
鹿城 の尾頸 に当 る 標 高200m余
りの 峰 の こ とで あ る(10。「丸」といわれているところ か らす ると,何
らかの構築物があ った とみるべ きであろうが,そ
う だ として も白鹿城 の曲輪 というよ り出城的な もので,尾
頸 に分類す るのが妥当 と考 えた。 「尾」とは,「山の裾野 の延びた 所,ふ
もと,山
裾」(『日本国語大 辞典』)のことであるが,城
山の山 裾であるか ら,あ
る程度,急
な斜 面 となっていると想像 される。 そ の斜面の上 は「尾崎」 と呼ぶのが ふ さわ しい場所である(10。 尾での 戦 い とい うのは,お
おむね尾崎, そこか ら中核部へ伸びる尾根上で の こととみて よVゝ。 表3 No19∼ 20に加 えて(10,h18
の「小 白鹿」も「尾崎」に入 ると思わ れ る。村 田氏 の作図(注15参照)に よれば,小
白鹿 とは城か ら南 に伸 びる尾根 の先端 の高 ま り,標高113mの
地点(小白鹿 山)のことである。 旧『島根県史』。働で は,「小 白鹿丸 (ニノ城)」 とい う曲輪があった よ うに記述 されているが,最
も精密 な村 田氏 の図には山輪の記載 はな い。曲輪での戦 い とい うより,尾
崎での戦闘 とすべ きであろう。 3,υき、もと 山城 の「ふ もと」での戦い は数多 くみ られ るが,呼
び方 には様々な ものがあつた。 まず「山手」 について。表1血
19∼23と表3 No21。 山手 とは「山の方。山に近 い方。山のある地域」(『日本国語 大辞典』)である。攻城戦 は必ず しも城 の近傍で戦われた とは限 らず,城
か らかな り離れた場所での 戦闘 もしばしばあった。 そうしたなかで,城
の間近 まで迫 った ことを強調す るために「山手」 とい ったのであろう。「麓」「山下」「城下」(表l No24,表3 No24∼ 52)と ,「詰 回」「攻 口」(表3 No53∼64)は
,地
域的 には同 じところと考 えられ る。攻 口 とは「攻 めかか る所,攻
め入 る所」(『日本国語大辞典』)で,詰
錦織 勤:中世 における山城築城技術の進歩について 口も同義である。 その ことは,『太平記』巻18に「攻 メ」を「ツメ」と訓んでいる例があることや(19, 詰 口 と攻 口を互いに言い換 えているもの も若干 あること9°
,な
どによって確かめ られる。 なお「諸 口」(表3血
69∼ 71)と は攻 口が複数あるとき,そ
れ らを総称す る言葉 として用い られてい る。そう した攻 日・詰 口 となったの は,表
3 No69の郡 山城 の諸 国が,堀
縄手・ 鑓分・ 相合 口・祗園縄手等, いずれ も城下のあち こちでの戦 いだつた こと。1)などか らいって,城
の麓 の地であった とみて よか ろ う。′ 「口」 とした ものは表
3h65∼
68,い
ずれ も出雲の富田城 に関わ るものである。本丸 のある月山 の西麓 には,広
い台地が飯梨川 まで続いていて,そ
の部分 には塩谷 口・御子守 口・菅谷 口 という3 つの出入 口が設 けられているが,血
65と血67はそ こでの戦いであつた。血68の七 曲口 とは,尼
子滅 亡後,毛
利支配下での呼称 であ り,上
記3日のいずれかの ことと推測 され るが,詳
しくは不明であ る。血66の鐘尾寺 口 とは,鐘
尾の洞光寺 口の意で,同
寺 は城 の東側,新
宮谷の出日辺 にあったりう。 どれ も城 の麓 の地で,虎
口その ものでの戦い とい う可能性 も否定で きないが,も
う少 し広 く,攻
口 での戦い とみる方が よさそうである。 「仕寄」(しより,表
3血
80∼ 82)と は「敵城 を包囲・ 攻撃す る時 に設 ける臨時の塀・ 概 な どの構 築物。 また,そ
れを用いて攻 め寄せ ること」(『岩波古語辞典』)である。場所で はな く攻 め方 に関す る用語。本格的 にじっ くり攻 める攻 め方である。仕寄 の場所 は,例
えば表3配
80の鳥取城で は,城
か ら4, 5町
ほ どの近陣 に塀・堀・概 を設 けた とあ り°9,山
の麓であった ことがわか る9°。他の事 例 も同様であった と思われ る。 「岸際」 は表3 No22・ 23にみえる。h23に
は,羽
衣石城 の岸際で数百人 を討捕 った とあるが,別
の史料 には「去十三 日至2羽衣石1動申付候処,彼
衆中出合候間,及
2合戦1追崩,宗
徒之者百余討捕」 と見 えている90。 つ ま り, 8月
13日の戦いは,攻
め寄せた毛利方 に対 し城中か らも攻 めお ろして合 戦 とな り,(毛
利方が)主だった もの百余人 を討捕 った とい うものであった。岸際 とは,山
麓の崖 の 際(きわ)とす るのが妥当であろう90。 「岸崖」(表3血
93)も同様 の言葉 と考 えられ る。「小松城 の岸崖 に至 り,天
神山の衆,取
り詰むる の処,合
戦 に及 ばる」(天神 山の衆が,小
松城 の岸崖 に向かつて攻 め寄せた ところ,合
戦 となった) とい うのであるか ら,崖
を攻 め登 って戦 つた とい うので はな く,山
の麓での戦闘 と解す るのが 自然 である。 表l No25の「浜手」 とは,城
の麓 の浜手(「浜 の方,浜
辺」)での戦 いである。 続いて「固屋 口」(表 3 No72∼ 78)について。市村高男氏 の研究 によって°め,小
屋=固
屋 とは暫定 的な建物 を意味すること,山
城 の麓 にある根小屋 は城郭 の外郭 を構成す る要素であつた こと,そ
こ は攻城戦 の際には真 っ先 に攻撃対象 とされた こと,な
どが明 らかにされている。「固屋 口」というの は,麓
の固屋(館・ 根小屋)に始 まる城への登 り日 とい う意味である。そ こには堀・ 土塁や塀な どの 構築物があ り,激
しい争奪戦 の舞台 となった(表3血
75)。 なお,No78の
固屋 は「当 日,固
屋切 り崩 され(中略)敵城落去,ほ
どあるべか らざるの由(中略)本丸落去のご左右,あ
めや ま待 ち申し候」 と あることか ら,麓
の根小屋 の こととみ られ るので(2o,固 屋 口に含 めた。 「ニ ノ丸 口」(表 3 No79)について。 これ は例 えば,三
の丸か ら二の丸への出入 口の こと,な
どと 解せな くもないが,守
備側が「ニ ノ丸 口」に付 け置いた山県筑後守 らが働 いた とい うのであるか ら, 二の丸への登城 口 とす るほうが よさそうである。「ふ もと」 に分類 したのはそのためである。 なお,表
4「
ふ もと」の中の「塀際」 とは表3 No95であるが,こ
れについて は第5項
で述べ る。鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 46巻 第
1号 (1995) 15
4,虎
口 表3血
84∼ 86の「虎 口」(固口・ 小 日)とは城 の出入 国の ことである9の。「木戸」(表 l No26∼29, 表3 No83)は「城戸」とも書 き,城
門の ことである。 どち らも城の出入 日=城
門付近での戦いで,攻
口 。詰 口での戦 いに比べれば,城
にいっそう肉薄 した戦い とみて よか ろう。こ 表l No30の「土橋」 は堀 の一部 を掘 り残 して通路 とした ものをいい,城
の出入 口に当たる。三隅 城 は比高160m余
の山城であるか ら,大
手土橋 は山上で はな く麓 にあつた とみるべ きである。5,切
岸 表3 No87∼ 92の「切岸」 は「山城 の崖や堀 の斜面 を表わす語」(「城郭用語辞典」)であるが,中
国 地方の戦国期 の史料で は,切
岸 はおおむね堀 の斜面で はな く山城 の崖 を指 している。 その上部 には 塀や概があつたか ら,切
岸での戦 い は「塀際」の戦い とも記 された(表3血
92と血94)°°。ただ塀際 は,す
べてが切岸 の上 だったわけで はない。表3 No95の白鹿城 の記事 は「要害 より我 ら詰 口へ仕懸 り候 の ところ,す
なわち懸 け合い,城
内へ追込 み,塀
際 において敵討ち捕 る」とい うものであるが, 関連 して注意すべ き記事が『雲陽軍実記』に見 られ る。り。「 白鹿麓 に二の城戸 を堅めし大将 は常福寺 普門西堂(中略)普門西堂 の催 しに応 じ,忍
ぴ忍び兵糧 を城 中に入れて,木
戸 に四五百人閉籠 る」 と い う記述である。麓 に木戸(固屋)が設 けられてお り,人
数 はともか く,そ
こにはかな りの兵が立て 籠 っていた とい う点 は信 じて よか ろう。塀際 は詰 口に近い場所 にあつた とい う,No95の
記事か ら受 け取れ る印象 に,こ の記事 を重ね合せ ると,麓
の木戸 日の塀際 とす るのが妥当 と考 えられ る。「攻 め 上 る」とか「駆 け登 る」といつた言葉がないの も,「城内」が山の上 の曲輸で はない ことを示 してい る。 「塀足」(表3配
96・ 97)も,塀
際 とほぼ同義である。従 つて,こ
れにも切岸 の上 だけでな く,麓
の回屋の塀 もあった と考 えられ るが,血
97について はどち らか決 め難いので,ひ
とまず切岸 に分類 してお く。なお配96は,同
じ戦闘 を「切岸」 と表現 した ものがある(No91)から明 らかである。6,水
手 。曲輪 。その他 水手(表 3 No98∼ 100)と して1項
目設 けたが,その位置 は城 ごとにまちまちであるか ら,城
の部位 として同一 に考 えられ るとい うもので はない。 表3配
101∼ 107まで は,い ずれ も曲輪 を舞台 とした戦い とい うことで一括 した。ただ,No103の「小 屋丸」 とい うのは小屋のある曲輪 の意で,そ
こを堅固に守 つた ことを賞 した感状であるが,「旗 山」 が山城か平城か さえも不明なので,山
輪の内部での戦いなのか,そ
れ とも小屋丸への登 口でのoの
なのか,判
断で きない。恥105は,高
瀬城で「小高勢(瀬)」 と「ニ ノ丸」を焼 き崩 した とい う記事で あるが,こ
れ もニ ノ丸 とい う曲輪内での戦闘か どうか はつきりしない。 この2例
はひ とまず ここに 分類 したが,確
かな もので はない。 残 る5例
は確かに曲輪 に攻 め込んでい るが,その うち配107は現形=内
応 によつて攻 め落 とした と い う記事であるし,No101・102・104はいずれ も平城であるか ら,山
城での戦聞 とは区別 して考 えな ければな らない。No106は 「二三の丸 まで仕取 る」 とあるが,そ
の経過 まで は記 して くれていない。 つ まり,“普通 に"山
城 の曲輪内に攻 め込 んだ事例 は,意
外 に乏 しい とい うことになる。 「抱 日」(表3 No108)は,守
備 を受 け持 っている場所 という意味であ り,細
かな場所 については不 明である。錦織 勤 :中世における山城築城技術の進歩について
第
2章
城攻 めの場 の変化
第 1節 「尾崎」での戦い一南北朝期を特徴づけるもの一
最初 に取上 げるのは「尾崎」で の戦いである。表4をみると,「尾 崎」は両時期 とも3.3%と 2.8%で
, 数値 の上で は変化 はない といって よい。 しか し,内
容 に立 ち入って みると大 きな違 いがあった。 まず 戦国期 の3例
(表3血
18∼20)につ い て い え ば,血
19「宮 崎 尾」 と 血20「明神尾」 はどち らも城郭 そ の ものの尾崎で はないのである。 「宮崎尾」 とい うのは,尼
子が郡 山城 を攻 めるために構築 した陣山 (宮崎)の尾崎であつたし(寵城側の 毛利氏 の反撃)。か,「明神尾」とい うのは,標高568mの
絵下 山の北 に 延 びる二つの尾根 のうち,東
の尾 根 に矢野城があ り,西
が明神山で あるが,そ
の明神 山の尾根 とい う 意味である。明神 山は矢野城の尾 頸 に繋が る要衝で,守
備側の野間 氏 と攻撃側 の毛利氏 との間に激 し い争奪戦があつた山である。配18 の「小 白鹿」 も,距
離・ 位置関係 などでは異なるところも大 きいが, 未加工 の尾崎であつた とい う点で は(前章第2項
参照),明
神尾 と共 通 しているところがある。つ まり, 表4で
戦国期 の尾崎 を攻 めた事例 とした ものは,詳
し く見 ると未カロ 工 の尾崎か,城
その もので はな く攻撃側 の築いた陣山な どであった。逆 にいえば,念
入 りに普請 さ れた尾崎 を攻 めた,
とい う記事 は見当た らない とい うことになる。 しか し南北朝期 はそうで はなかった。表l No28は「大手 中尾」 とい うのであるか ら,間
違いな く 城 の尾根での戦 いである。 また,分
類上 は「木戸」 に入れたが,表
1配
16の益田城での戦 いは「北 尾崎 の木戸 を責 め破」るとあるか ら,西
側 の尾根 の先端部分(通称「尾崎丸」)に木戸があつて,そ
こ での戦 いだった ことがわか る。0(図1参
照)。 これを加 えると尾崎での戦 いは2例
,パ
ーセ ンテージ 図1
島根県・益田城図 益 田 城 縄 張 図 ︵現 状 ︶ :G F探訪ブックス [城6]山陰の城』 (小学館,1981年4月)よ り転載で
=
︲
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ロ
ザ
ら︲ 登 い 次 み 期 の 導 る 刷 火 Щ 電 洟 引 鞘 営む
北鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 46巻 第
1号 (1995) 17
で は6.7%と
い うことにな り,戦
国期 との差異 は無視で きない もの となる。 で は,南
北朝期 には尾崎か ら攻 め上 っているのに,.戦国期 になる となぜ攻 めな くなったのか。忘 れ去 られたのか。陣山や未カロエ の尾崎 は重要な攻撃 ポイン トとされていたのだか ら,忘
れ られたの で はない。常識的にいえば,尾
崎 は攻 めやすい場所 と思われ る。比高 はさほ ど高 くないし,い
った ん登 って しまえば見通 しが利 き,側面か らの攻撃 は考慮 しな くてよい とい う利点 もあるか らである。 それなのに,戦
国期 には山城 の尾崎 を攻 めた とい う事例 は,皆
無 に近いのである。 その理 由を明 らか にす るために,ま
ず南北朝期 の尾崎 はどうなっていたのか,そ
こに何があった のか を考 えてみ よう。重要なのは,先
にも触れた表l No27の益 田城 の事例 である。「かの城 に押 し寄 せ,北
尾崎の木戸 を責 め破 り,散
々 に合戦 を致す」 という記事か ら,南
北朝期 の益 田城 には,西
側 尾根 の北麓か ら尾崎 にた どりつ く登 り道があ り,そ
こには木戸があった と知 られ るが,地
形か らい って,道
はそのまま尾根上 を中核部分へ通 じていた もの と想像 され る。 表l No18の「大手 の中尾 において」 とい うの も,道
での戦 いだつた と考 えられる。軍忠状では自 らの軍忠 を誇 るために,よ
り困難 な場所での戦いを優先的に記す ものである。仮た尾崎の崖 をよじ 登 ったのであれば,「大手 中尾の切岸」 とい うはずである。 それなのに,「大手中尾」 としか記 して いないのだか ら,それ は尾根筋の道での戦いだった とみるべ きである。2例
しか挙 げえなかったが, 次 に述べ る点 を考慮す る と,一
般的に南北朝期 の山城で は,尾
根上 を登 る道が付 けられていた,
と みて差 し支 えない と思 う。 そ もそ も,登
山道 は尾根道 をとる場合が多かつたようである。藤井尚夫氏 は「山越 え道 には二種 類 の道がある。沢道 と尾根道であ」り,「尾根道 の方が高低差 は大 き くなるが,古
い道 はこの尾根道 の方が多いようである」 と述べてい る。理 由 として,見
通 しが利 くことと道 を維持 しやすい ことを 挙 げているが。め,そ
うした条件 は山越 え道 に限 らず,普
通の登山道 について も当て はまるはずであ る。南北朝期 の山城 は,多
くの場合,臨
時的に構 えられた ものであった°9。 従 って,道
に関 しては 既存 の道=尾
根道 をそのまま利用 した可能性が高い。戦国期 の陣山 も同様 で,こ
こで も道 を付 け替 えるほ どの普請 は望 むべ くもな く,既
存 の道=尾
根道 を利用 した もの と思われ る。戦国期で も,陣
山な どで は尾崎での戦 いがみ られたのは,そ
のためであろう。 このようにみて くると,南
北朝期 の山城や戦国期 の陣山で尾崎が攻 め られやすか ったのは,地
形 の本来的な特質か らだけでな く,そ
こに道があった という条件が重 なっての ことだ,
とい う結論 に た どりつ く。ただそのように主張す るためには,尾
崎 を攻 めな くなった戦国期 の山城 には,そ
うし た道がなかった ことが証明 されなければな らない。次 にその点 を考 えてみよう。 第2節
「切岸」での戦い-16世
紀前半 を特徴づけるもの一 着 目したいのは,「切岸」での戦 いである。表4によれば,切
岸での戦いは戦国期 にしか見 られな い。南北朝期 には,切
岸 とい う言葉がなかったわけで はないが,そ
こを攻 め登 った という記事 は見 当た らないのである。0。 ところで,戦
国期 に戦いの場 となった切岸 とは,山
城の どの辺 りにあった のか。山城 は,言
ってみれば,至
るところ切岸 なのであるが,問
題 の切岸 は多 くは城 の周辺部分, つ まり尾崎の辺 りのそれであったようである。 表3 No88に は,「有 田要害 に至 り出張候,当
手衆切 り懸 り候て,彼
の切岸 において戦功 を抽 んず」 とあるが,こ
れ は戦闘開始 とともに切岸 に取 りついた ように読 める。 この有田城攻 めに関 しては17 通 の感状が残 っていて,そ
のうち戦いの場所 を記す ものは7通
あるが,内
訳 は山下小溝2,切
岸5 である・ 0。 もし切岸が山の奥深 い ところにあったのな ら,た
どりつ くまでに戦死・負傷 した もの も錦織 勤:中世 における山城築城技術の進歩について 数多 く
,感
状 にはおのず とそ うした事情が現われて くるはずである。血92の槌 山城 の切岸 に関 して も,別
の史料(381には「岸 まで彼 の衆罷 り出で候 ところに,吉
川衆罷 り上 られ,桐
しき矢軍」があつ て,そ
のまま「吉川衆切岸へ追い上 げ」た とある。城方が打 つて出たのに対 して,吉
川軍が矢軍(や い くさ)の末,そ
のまま切岸 に追い上 げた とい うのだか ら,そ
れ は尾崎 の辺 り以外 にはない。 地形か らいえば尾崎での戦 いであつたのにも拘 らず,切
岸 と記 されたのであるが,そ
の ことか ら は,戦
国期 の城郭で は,尾
崎 は切岸であつた こと,即
ち道がなかった ことがわか る。道のついた尾 崎があるのに,あ
えて切岸 を攻 め登 るとも思 えないか ら,一
般的 にそうなっていた とみていい と思 う。臨時的 に構築 された南北朝期 の城や,戦
国期で も陣山で は,道
を付 け替 えるような工事 はなさ れず,従
って尾根道 のままであつたが,戦
国期 の本格的な築城で はそうで はなかった。戦国期には 築城 の際 に道が付 け替 えられ,尾
崎 を通 らな くなっていたのである。 とはいえ,付
け替 えられた道が どのような ものであれ,登
るとい う点だけか らみれば,道
の方が 切岸 より容易であることは言 うまで もなか ろう。切岸での戦い とい うのは,崖
の途中で守備側 と攻 撃側が 白兵戦 を展開す るとい うもので はない。守備側 は塀・ 柵 の内側 に身 を潜 めなが ら,よ
じ登 っ て くる寄手 を攻撃 し続 けるのである。攻城軍 に とつて極 めて危険な選択であつた ことは明 らかであ る。なおかつ敢然 と行 な うには,敵
が よほ ど無警戒であつた場合 を除 けば,他
か ら(現実的 には道か ら)攻めるより切岸 を登攀す る方が まだしも容易である,
とい う条件がなければなるまい。つまり, 戦国期 に切岸か ら攻 めた事例が少なか らずあるとい う事実 は,反
対 に,道
か ら攻 め登 ることの困難 さを照 し出 していると考 えられ るのである。 尾根道で はない とすれば,谷
間か山腹 を通 るほかない。 それ は真上か ら見下 ろされる道である。 しか も尾崎 。尾根筋 には曲輪 も築かれていた。戦国期 の山城で は,道
を攻 め上 る攻撃軍 は,側
面上 方か らの攻撃 にさらされ続 けることが予想 され る。極 めて長い距離 に亘 って。 これ は攻 める側 に と って は,ま
ことに厄介 な ことである。い きおい,道
を攻 め登 ることには慎重 にな らざるをえな くな った もの と思われ る。 その結果,時
として切岸か らの攻撃が選択 され ることもあったのである。 あるい は,道
の終点 に当る虎 回の進化 も作用 しているので は,と
疑われ るか もしれない。だが, それには否定的にな らざるをえない。一昨年か ら昨年 にかけて,鳥
取県内に遺 る代表的な中世城郭 を30ヵ所余 り調査 したが,明
瞭な虎 日の構築 はほ とん ど認 め られなかった。特 に注 目され るべ きは, 大 山山麓地域 に特徴的な,台
地 の先端 を加工 したものや平地 の城 の遺構である。 それ らの防禦は人 工的な構築物 に依存す る ところが大 きい と思われるが,そ
れで も土塁 を切 つただけの,ご
く単純 な 虎 口しか見出せなかった°働。そのことか らす ると,こ
の地域で,虎
回の発達が攻撃 を切岸 に向かわ せた とは考 え難いのである。 第3節
尾頸での戦 い-16世
紀後半 を特徴づけるもの一 ところで,切
岸 を場 とす る戦 いは,戦
国期 を通 じて見 られたわけで はない。表5・6は
ともに表 4の戦国期 の事例 を整理 した ものである。表5は
年代分布 を示 したもの“ω,表
6は
16世紀 の前半 と 後半で,戦
いの場が どのように変化 したか をみようとす るものである。なお,16世
紀前半 の件数が, 表5で
は40件 なのに表6で
は39件,16世
紀後半 について も61件が60件 となっているのは,No91と96 お よびNo92と 94とをそれぞれ一つにまとめたためである(後述)。 まず注 目され るのは,「切岸」のほ とん どが16世紀前半 に属 していることである。表4には9例
み られ るが(表3血
87∼92・ 94・ 96・97),こ
の うち血91と 96およびNo92と 94は同 じ戦いの記事 なので, 集計上 は各1例
とすれば,正
味 は7例
になる。 ところが表6によれば,そ
のうち6例
は16世紀前半¬
鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 46巻 第1号 (1995) 19
表5
史料の年代分布 (戦国) の もので,後
半 には1件
しかない。 しか も,そ
の1件
も実 は1551年 の ものなのである(表3の配91・ 96)。 つ ま り,切
岸での戦 いはほば 16世紀前半 に集中 していて,後半 には見 られな くなるといってよい。 全体 に占める割合 も,15%余
りか ら2%弱
に激減 している。 それ は どうしてなのか。 16世紀後半 に,新
たに切岸が攻 めに くくなった状況が生 まれた と 考 える外 ないが,そ
れに関 して重要 なのは,16世
紀半 ばの畝状空堀 群 の出現である。畝状空堀群 とは,山
腹 に竪堀 と竪土塁 を交互 に並 べて築 いた もので,「山麓か ら攻 め登 って くる敵,つまり下か らの攻 撃 を阻止す るために効果絶大」な施設であった。近畿 。中部 。中国 地方で は,天
文10年代(1541∼ )から永禄年間(∼1570)を中心 に,爆
発的に拡がった とされている “う。すなわち,畝
状空堀群 の流行 と切 岸か らの攻撃 の消滅 とは,ほ
ぼ 同 じ頃に起 こっているのであり, 両者の間 になん らかの関係があ った ことは確実である。 という よ りむ しろ,畝
状空堀群 の効果 をこの数値が実証 してい ると言 う方が,適
切であろうか。 16世紀前半 には,切
岸か らの 攻撃が全体の15%を
占めていた。 それが後半 になるとみ られな く なったのであるが,そ
の分 はど こに向かったのであろうか。表 6をみて顕者なのは「尾頸」 と 「曲輪」の増加である。後者 に ついては,前
章第6項
で述べた ように, 7例
の うちに平城が3 例 あ り(表3血
101・ 102・ 104), また内応者 と城方 との戦 い も1 例 ある(No107)。残 る3例
につい て も曲輪 をどの ように命」圧 した か不明で,全
体 として,切
岸の 激減 と単純 に結 びつけることは で きない。一方,尾
頸か らの攻 撃 は,南
北朝期∼16世紀前半 ま で は,全
体 の8∼ 10%程
度 に止 まっていたのに,こ
の時期,急
に23%余
まで増カロして くるのは, 切岸が攻 めに くくなった ことの 仁 件 14新 % │、計 啄 0 一 0 一 0 汗 5︲ 一 52 一 53 竜 5 一 ︲5 一 1 4 . 6 一 3 , 9 一 0 ・ 9 再 1550 1560 1570 1氏寅n W 一 ︲5 一 ︲2 一 ︲7 15,7 13.9 11,1 1氏'7 不 明 7 7 合 計 表6 16世
紀の戦いの場 戦いの場 16世紀 前半 16世紀後半 件 数 合 計 % 件 数 合 計 % 厚 電 7_7 尾 崎 1 ふもと 山 手 1 一 4 一 1 一 1 一 4 一 7 一 3 一 1 一 一 一 3 一 一 0 一 6 一 4 一 1 一 一1 一 2 一2 一2 一 3 一 1 一 1 一 1 一 キ 一 一 一 一 一 一 一 一 一 55,0 繭 山 下正 口 以 詰 口 一 攻 口 旦 寄 諸 ■ 岸 際 固屋 口 二2邦旦 塀際 虎 口 _本夏_`旦】 虎 口 1 一 2 3 7.7 1 1 1.7 切 岸 切 岸 5 1 1 1,7 躍 際 1 6 塀 足 水 手 l 1 曲 輸 外 縫___
段 1 一 1 一 1 一 3 一 1 7 Jさ屋丸___ 二・三の丸 天神丸 その他 抱 口 1 合 計錦織 勤:中世 における山城築城技術 の進歩 について 影響 と考 えて よい と思 う。 16世紀後半 には「尾頸」 と「ふ もと」で
9割
近 くになる。尾頸以外か らはもはや,城
に肉薄す る ことが不可能 になっていたのである。それ は,攻
撃すべ き尾頸のない山城で は,攻
め込 める場所が ない とい うことで もある。 そうした事情 と,16世
紀後半 になって稲苑・ 麦薙な どの戦法がめだつて くることとは,無
関係で はない と思われ る。山本浩樹氏によれば・ り,中
国地方での稲薙・麦薙 は, 初見 は備後国神辺での天文17年(1547)のもの(表3血
31)で あるが,そ
の他 は16世紀後半 の6例
であ る。史料 の残存 の密度 とい うことを考慮 に入れて も,16世紀後半 に集中 してい ることは明瞭である。 山城 の構造が進化 し,城
に詰 め寄 ることさえ困難 になったため,敵
を城か ら誘 い出すのに有効 な , 稲薙 とい う戦法が盛 んになった とみることがで きよう。 一つ補足 をしてお きたい。本章第1節
の末尾 に,南
北朝期 に尾崎が攻 め られやすかつたのは,そ
こに道があつたためで,戦
国期 に攻 めな くなったのは道がな くなったか らと書いたが,そ
れ は正確 で はなかつた。正 し くは次のように言わなければならない。16世紀前半 にはなお尾崎(切岸)を攻 め ていたのだが,そ
れが尾崎で はな く切岸 と記 されていただけだつた,尾
崎が攻 め られな くなったの は,道
がな くなっただけで はな く,切
岸 に竪堀が連 なるようになる,16世
紀後半 になってか らだつ た,
と。 む す び に か え て 一 山城 構 造 の 進 化 につ い て 一 これ まで述べて きた ところを,城
の構造 の変化 とい う点 に絞 つて振 り返 ってみ よう。南北朝期 の 山城で は,麓
か ら尾崎 に登 り,そ
めまま尾根筋 を行 くように道が付いていて,道
の要所 には木戸 を 設 けて守 りを固めるとい う構造であつた。ところが戦国期 の山城 の道 は尾根道で はな くなる。自然 , 山腹か谷 あいを通 ることになるが,そ
れ は始終,上
方か ら見下 ろされ続 ける道であつた。多くの場 合,尾
根 には曲輪が造成 されていたか ら,寄
手 はそ こに配置 された守備兵か らの攻撃を受 け続 ける ことになる。同時 に,城
か ら出撃 した守備側 との戦闘 も覚悟 しなければな らない。道 を攻 め登 るこ とは,南
北朝期 よりも格段 に困難 になっていた と想像 され る。16世紀前半 に,切
岸での戦いが全体 の15%ほ
どみ られ るのは,道
を攻 め登 ることの困難 さと,尾
崎 の切岸 を登攀す る危険性 との'ヒ較 の 中で,後
者 を選 んだ結果なのである。 16世紀 の半 ばになる と,切
岸 の加工 に新 たな技術が開発 され る。畝状空堀群である。 もちろんそ れだけが もた らした もので はなか ろうが,切
岸 を攻 め登 ることも不可能 になっていつた。そこで増 えていったのは,尾
頸か らの攻撃である。尾頸か ら攻 めること自体 は南北朝期か らみ られるが,そ
れ まで10%以
下 だつた ものが,16世
紀後半 には全体 の23%余
を占めるようになってい く。それ は, 道か らも切岸か らも攻 めに くくなったことの裏返 しなのである。 中国地方の山城 を考 える上で,山
城 の進化が,こ
うした道の付 け方 の工夫 と竪堀 の進歩 によつて もた らされた,
と考 えられ ることはとりわけ重要である。言 うまで もな く,こ
れ まで述べて きた と ころは,虎
口や馬出 。折邪 な どの進歩がなかつた ことを論証した もので はない。 しか し,鳥
取県内 の主要な城郭30箇所余 りを調査 した ところで は,虎
口は土塁 を切 つただけの単純 な ものがせいぜい でぁった し,馬
出・ 折邪 な ども見当た らなかつた。数 は少ないが広島・ 島根での調査経験 に照 して も,『図説中世城郭事典』(前出)の縄張図 をみて も,そ
うした印象 は変 わ らない。 そうだ とす る と,・この地方の中世 山城で は,虎
口に注意 を向ける前 に,道
を機能的 に取付 ける一 一道 をで きるだけ長 く取 り,そ
の間 に,上
方の曲輪や道か ら攻撃 し続 けるように造作す る一一 こと 出 ︲騨 捌 q l l 珂 一 ︱ 明 剌 脅 男 , ︱ I H u I L も ョ .鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第46巻 第
1号 (1995) 21
と,切
岸 を登 りに くくす るために,竪
堀(畝状空堀群)を整備す ることにこそ,ま
ず神経 を集中 して いた といえるので はないか。大胆 に省略 していえば,と
りあえず この2つで,守
れ る城 は造れたの である。 しか し,平
城が重要な役割 を果す関東 な どで は,状
況 は異なる。守備方 と攻撃方 は,幅
わずか数 十 メー トルの堀・ 土塁 を隔てただけで向 き合 つているのである。橋・ 土橋 を渡 って攻 めて くる敵 を 防 ぐには,虎
口・ 馬出な どの設計がすべてを決す る。 また上塁 もそれほど高 くはで きない。山城 の 切岸 に比べれば貧弱 きわ まるか ら,折
邪や曲輪相互 の援護関係 な どが死命 を制す ることになる。関 東の中世城郭が,そ
うした方向で顕著な進歩 を見せたのは当然の ことであつた。 しか し,中
国地方 の山城 はそ うで はなかったのである。 関連 して注意 を要す るのは,上
述 の山城 の特質か らすれば,山
城 は,近
世城郭 に見 られ るような, 曲輪 を一つ一つ通過 しなが ら中核 に迫 ってい くとい う構造 をとらない,
とす る仮説が導かれ ること である。 この点か らも,近
世城郭 を典型 として据 えられた視点 によって は,少
な くとも中国地方の 山城 はす くい とれない と言い うる。残念 なが ら,い
まの段階で,そ
れに代わ るような研究 の視点 を 提示す ることはで きないが,
とりあえず,今
後 の調査が山全体,
とりわけ道 のあ り方 にまで及ぶ必 要があることだけは,強
調 してお きたい律°。 江 (1)こ うした問題点については,村田修三氏「中世の城館」(『講座 日本技術の社会史6
土木D,日 本評論社,1984 年10月)などで指摘 されている。 同上。 史料か ら中世城郭の構造 を読み取 ろうとする試みとしては,阿蘇品保夫氏「文献 に見 られる九州の中世城郭」(『日 本城郭大系』別巻I,新
人物往来社,1981年 4月),市村高男氏「中世城郭史研究の一視点一史料 と遺構の統一的 把握の試み」(『中世東国史の研究』,東大出版会,1988年 2月),千田稔・ 小島道裕・ 前川要氏著『城館調査ハ ン ドブック』(新人物往来社,1993年10月),中沢克昭氏「中世城郭史試論」(『史学雑誌』102編11号,1993年 ■月) など。 千田氏等注 3書,37∼8頁。同様の見解 は村田氏注 1論文,188貢 にもみえる。 全 3巻,新
人物往来社,1987年 4月 ∼ 7月 。 1990年度か ら始 まった東郷町による調査。報告書 は『東郷町文化財報告書 第 9集 羽衣石城址』(鳥取県東郷町 教育委員会,1993年 3月)。 前注書。なお注 5書 の羽衣石城の項 には,吉田浅雄氏による略測なが らも精密な図がある。 なお,本稿要旨の一部 については,「南北朝期の山城の特質について」(松岡久人氏編『南北朝遺文 中国四国編』 〈以下『南』と略称〉第六巻,月報,1995年1月 )でも述べたが,デ
ータの使い方に多少違いがあるので,合せて 参照 していただければ幸 いである。 (9)南北朝期の史料 は『南』第一巻∼第六巻 に拠 り,それ以後のものについては各種の刊行 された史料集か ら収集 し た。10
『日本城郭大系』別巻H(新人物往来社,1981年 5月)。10
注10書第14巻(新人物往来社,1980年 4月),山口県・ 岩国城の項。tD
注11書および注 5書,鳥取県・江美城の項。10
建武 3年 (1386)5月 6日,三
戸頼顕軍忠状案(『大 日本古文書 毛利家文書』1526号,『南』348号)。10
巻20。 日本古典文学大系『太平記』(以下,すべてこれによる)二,310頁 。10
注 5書,島根県・真山城の項,村田修三氏作成の縄張図。10
『邦訳 日葡辞書』では,尾
崎(をさき)イま「山や山脈の先端,頂」 とされている。 ω ⑬ 0 9 0錦織 勤:中世 における山城築城技術の進歩について l171 なお三本松城(石見)に関 して,「三本松の萱尾に至 り責め懸かる」 という史料がある(天文24年(1555)8月 4日, 益田藤兼感状,『萩藩閥閲録』く以下『閥』と略称〉遺漏 5の
1,石
州 より山県半七取帰)。 萱尾 という尾(尾崎)で ある可能性 も考 えたが,この時の戦いはおおむね大手の回屋口である喜時雨(きじゅう)口の周辺で行なわれてお り(『津和野町史』第 1巻,津
和野町史刊行会,1970年 8月 ,528頁 ∼530頁),そ れ以外に尾崎 を攻めた一隊があっ た とは考 えに くい。萱尾 はこれ以外に見えないことも勘案 し,単
なる地名 として除外することにした。10
復刻版(名著出版,1972年 4月),第八編,446∼7頁。10
『太平記』二,235頁 。なお,注
10「城郭用語辞典」239頁参照。90 1例
をあげれば,表
3 No61で「攻口」 とされていた ところが,同年 2月 8日,大内義興感状写(「萩藩譜録」真鍋 長兵衛安休,『広島県史 古代中世資料編V』)では「詰口」と記 されている。なお,両
様見 られるものについては, 表 3で はどちらか一方だけを取上げている。90
『史跡毛利氏城跡 保存管理計画策定報告書』(広島県吉田町教育委員会,1988年 3月)。 9か 『角川日本地名大辞典32
島根県』,桑原英二氏『まぼろしの戦国城下町』(同氏発行,1974年12月)。90
寛永21年(1644)11月11日,山県長茂覚書(『大 日本古文書 石見苦川家文書』151号)。90
念のためにいえば,秀
吉の陣地 は山続 きの太閤ガ平 にあつた。 12rDl 欠年(天正8=1580)8月 19日,吉
川元春書状(『閥』74,粟屋縫殿72)。90
高橋正弘氏『因伯の戦国城郭一通史編―』(同氏発行,1986年11月)159貢。 側 注 3所 引論文。90
「固屋」での戦いも史料上 には数多 く見出される。例 えば天文23年(1554)6月 ■日,毛利元就・ 隆元連署感状写 (『閥』巻31,山 田吉兵衛 1)の「蔵重固屋切崩時,敵
討捕候」のように。 しかし,こうした「某固屋」とは「某城」 と同義で,城
の部位 を示す ものではない と考 えて,表
3に は採 らなかった。90
史料上の「虎口」には,「ここう」(危険な場所)の意味のものがあるが,そうしたものは除外 した。例 えば,文明 17年 (1485)11月 3日,山名政豊感状(『閥』89,田 総惣左衛門17)など。00
『太平記』二,巻18,243頁,建
武 4年 (1337)2月 の金崎城での戦いに「大手。揚手十万騎,切
岸ノ下,塀際ニゾ 付タリケル」 とある。 この塀際 は切岸の下にあったようであるが,No94に ついては本文のように考 えるべ きであ る。00
松陽新報社出版部,19■年,102頁 。なお同書 は軍記物ではあるが,序
言に「天正八年庚辰二月隠子藤原静楽軒編 著,行
年八十七歳,試
老筆」 とあるか ら,ほぼ同時代の述作である。 Gか 宮崎尾については,宮崎の尾崎 という意味ではな く,単
なる「宮崎尾」 という地名ではないか との疑い もあるか もしれない。 しかし,「宮崎敵陣」という表現(『閥』41,志賀茂右衛門 8な ど)のものがあ りなが ら,他
方,「宮崎 中尾J(『閥』80,岡吉左衛門 6)や 「宮崎之尾」(『閥』85,三戸六郎右衛門 1)な どとしたものがあることなどか ら,地
名 としては基本的には宮崎で,その尾崎 という意味の「宮崎尾」 と理解 した。00
村田修三氏「中世益田氏の居館 と七尾城」(『歴史手帖』17-12,1989年12月)。00「
中世城郭か らの発見」(『歴史読本』1988年8月 号)75買。尾根道が維持 しやすかったことについては,ほかに高 取正男氏 『日本的思考の原型』(平凡社,1995年 3月)91頁。 例 えば,注3『城館調査ハ ンドブック』29頁など。 『太平記』には,次のような記事がある。①「城 ノ北二当タル石壁ノ数百丈饗エテ,鳥モ物 り難キ所 ヨリゾ登 リ ケル」(巻2,106頁,笠
置城),②「堀 ノ中,切岸ノ下マデ攻付テ,逆木 ヲ引キノケテ打テ入ラン トシケレドモ」 (同右,115頁),③「切岸ノ高サ堀 ノ深サ幾程モナケレバ,走懸テ屏二着 ン事ハ,最安 ク覚ケレ共」(同右,■7買), ④「切岸 ヲ裏ラン トシケル処 ヲ,屏
ノ中ヨリ究党ノ射手」(同右,204頁,以上,赤坂城),⑤「大手・揚手十万騎, 同時二切岸ノ下,房
際ニゾ付 タリケル,城
中ノ兵共是 ヲ防ン為二,木戸 ノ辺迄 ヨロメキ出タン共」(巻18,243∼4 頁,金ケ崎城)。 しかし① は城方の無警戒 に乗 じて忍び込んだ という記事,②∼④ は堀の斜面のことであり,⑤も 切岸 を登ったというものではな く,山城の切岸 を攻め登ったという記事 はない といってよい。 いずれも毛利幸松丸か元就の感状で,表3 No40・ 88以外のものは,次の通 りである。『閥』19の児玉四郎兵衛3, 同69の井上新左衛門1・2,同
80の井上作左衛門2,同
93の井上右衛門6。や 二宮俊実覚書(『大 日本古文書 吉川家文書別集』561号)。 例 えば
,注
5書 に図を載せている,槻
下館・石井垣城・ 尾高城 。江美城(吉田浅雄氏作図)など。そのほか富長城 (西伯郡名和町)や土居城(西伯郡江府町,これについては吉田氏 より縄張図を借用 した)でも同様である。 い ② ④硼 ⑩ ④ 鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 46巻 第
1号
(1995)80
戦いの日付がわかつていないものは文書日付のところに入れた。多少の年代的ズレはあるが,大勢は眺めうるも のと思う。なお,表
3 No16は年欠であるが,白鹿城での戦いなので永禄 6年(1563)のものとし,No20は 天文24年 (1555)の矢野城攻めの記事なのでそのように扱った。 例 えば,注
3『城館調査ハ ンドブック』166∼170頁。 「放火・稲薙・ 麦薙 と戦国社会」(『日本歴史』521号,1991年10月)。 例 えば中井均氏「中世城館跡調査の成果 と課題」(『考古学ジャーナル』353号,1992年10月)1こ窺 えるように,山 城調査 はようや く崖=切岸にまで注意が向 く段階になって きたが,まだ道にまでは及んでいないようである。 (後記) 本研究 は,1990年 の東郷町による羽衣石城の曲輪分布調査,1992・ 3年度の鳥取県教育委員会による鳥取県内中世城 郭予備調査,この 2つ の調査に従事 した過程で構想 したことが核 になっている。そのことを銘記するとともに,後者 の調査に対 して,精密な縄張図を快 く貸与 された吉田浅雄氏に,この場 を借 りて深甚なる謝意を表 したい。 (1995年4月30日受理)表
1
南北朝期の戦いの場 No 城 郭 名 所 在 地 比 高(m) 戦いの場 記 事 戦 い の 日 文 書 名 文 書 日 付 典 拠 1 高 津 城 石見(益田市高津町) 大 手 凶徒高津与二長幸高津郷小山構城郭楯籠之問・・ 押寄当城,於 大手依致散々攻戦 1336.01.1〔 吉川経明軍忠状 建武3年1月日 首川 (南235) 2 福 山 城 備中(岡山県都窪郡) 標高302 大 手 於備中国福山城大手,懸先致合戦,追落候了 1386,05,1〔 吉川経時軍忠状案 建武3年6月16日 吉川 (南378) 小 松 城 伯着(西伯郡会見町) 大 手 馳向小松城大手致合戦忠節 1336,06,m 出雲国造舎弟貞教 軍忠状 建武3年7月 日 千家 (南 428) 4 敷 山 城 周防 (防府市牟礼) 大 手 於大手懸先,切入城内 1336,07,04 吉川経明軍忠状 建武3年7月 日 吉川 (南432) 賀 年 城 長関(阿武郡口東町) 大手 於賀年城致警回・・ 寄来賀年城之間・・ 自大手打出,凶徒・ 追落 1337,05,22 虫追政国軍忠状 建武4年5月 日 益田(南614) 豊 田 城 石見(益田市横田町) 大 手 押寄豊田藤二郎致員城・・ 以下凶徒,為後巻寄来之間,翌日十 九 日於大手致度々□□ 1340,08,19 益田兼見軍忠状 暦応3年3月27日 益田(南995) 7 三 隅 城 石見(那賀郡三隅町) 大 手 於三隅城之大手,致日々夜々合戦 1348,08,24 君谷実祐軍忠状 貞和4年9月 日 閥43,出羽源八(南1669) 8 鳥屋尾城 石見(那賀郡三隅町) 大 手 押寄鳥屋尾城之大手合戦・・ 同夜半駕先城内責入 1348,08,28 君谷実祐軍忠状 貞和4年9月 日 獨43,出羽源八(南1670) 9 猿喰山城安芸 (山県郡千代 田 町) 標高791 大手(障山) 楯籠猿喰山城之間,同八 日,御発向時,御敵等 自彼両城打出, 道祖多尾陣取之間,為大手致散々合戦 1350.06,08 吉川実経軍忠状 観応1年 7月27日 吉 川 (南1847) 矢 野 城 安芸(安芸区矢野町) 賜 手 於矢野城一族相共,為西錫手,自廿三 日至子同廿六 日致合戦之 忠 1335,12,23 三戸頼顕軍忠状案 建武3年 5月 6日 毛利 (南347) 長 田 城 伯善(西伯郡大山町) 揚 手 伯)N馳 向長田城,於揚手致合戦忠 1336,06,19 出雲国造舎弟貞教 軍忠状 建武3年7月 日 千家 (南 428) 木 村 山巨見 揚 手 御敵引退木村山構城郭,同十二 日打寄彼城郭 ,於揚手“致散々 合戦 1339,07,12 小笠原貞宗代武田 弥二郎入道軍忠状暦 応2年8月20日 庵原 (南 881) 因 島 清後 賜手 於当国因島,為大館右馬亮殿大将,構城郭楯範之問,今年四月 五 日発向彼城,警図揚手 1343,04,0〔 三吉覚弁軍忠状 康永 2年5月21日 備後藪 (南 1266) 1イ 猿喰山功 安芸 (山県郡千代田 町) 標高791 翔手(障山) 盾範猿喰山城之間,同八 日御発向之時,御敵等 自彼両城打出, 直祖多尾陣取間,為揚手,致忠節 1350,06,0〔 逸見大阿代子息有 朝軍忠状写 観応1年7月日 小早川証文 (南 1851) 矢 野 城 安芸(安芸区矢野町) 尾 頸 矢野城合戦之時,押寄西尾頸商矢庫本,捨身命軍忠 1335,12,23 尼智阿代朝倉仏阿 軍忠状 建武3年6月 25日 熊谷 (南383) 日 浦 山 安 芸(安芸 郡 海 田町) 338尾 頸 同十七 日合戦時,浜手懸先,同廿 日於揚手北尾頸,致散々合朝 1338,03,20 三戸頼覚軍忠状案建 武5年3月25日 毛利 (南 740) 魂 醇 彗 中 母 蒔 再 前 耳 ざ E 雛 漑 導 瑯 辞 ○ 騰 学 再 も づ A に1__凱
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__4J― 」 一 ―― ― ― ― 一 ― ― ― lい ヽ^Er_1士 _と _.●1-No 城 郭 名 所 在 地 比高 (m) 戦いの場 記 事 戦いの日 文 書 名 文 書 日 付 典 拠 17 矢 野 城 安芸(安芸区矢野町) 北 頸 今月廿三 日押寄安芸国天野 く矢野〉城迄畢,同廿六 日於北頸搬 軍忠 1335,12,23 波多野景氏軍忠状 建武2年12月 30日 黄薇古簡集 (南212) 18 福 屋 城 石見 (江津市有福温 泉町) 尾崎 (大手 中尾) 取巻福屋城,日夜軍忠之処,同九月一 日,於大手中尾,合弟¨ 被射通 1341.09,01 逸見大阿代子息有 朝章忠状写 暦応5年6月18日 小早川証文 (南■73) 黒 谷 城 石見(益田市柏原町) 210 山 手 当国上黒谷城郭 に今月十 日大将軍御発向候之間,御共仕,山手 打向,致合戦 1336,05,10 久利赤波妙行代公 房軍忠状 建武3年5月 12日 石見久利 (南357) 高 津 城 石見(益田市高津町) 山 手 同日高津城致山手合戦 1340,08,19 三井資基軍忠状 暦応3年8月25日 閲65,三 井善兵衡(南994) 豊 田 蒻 百見(益田市横 田町) 山 手 発向子石州豊田城,小山陣取¨豊田公藤二郎以下凶徒,夜討… 十九日,自山手御敵追払 1340,08,1 平子親重軍忠状 暦応3年10月日 三浦 (南1021) 22 木 束 域 石見(澪賀郡弥栄村) 山手 解寄木東城西山手,抽御方之勢,致散々合戦 1346,07,30 内田致景代内田致 世軍忠状写 貞和2年8月日 永 田秘 録 所 収 内 田 (南 1478) 福 屋 城石見 (江津市有福温 泉町) 山 手 同甘五 日・・ 同夜兼見大石城山手致先懸,同廿六 日夜彼城没落 畢 1366,07,25 益田兼見軍忠状 貞治5年9月 3日 益 田 (南3489) 板 屋 河石 見 麗 三隅凶徒等楯範板屋河・・追落敵徒等,入替彼城支要害之処・ 寄来之間,下合麓,致散々合戦 1341,08,01 安宮彦二郎入道教 元軍忠状 暦応4年8月 5日 安富 (南1097) 河上孫三 郎入道城 郵 石 見 浜 手 河上孫二郎入道城郭,於浜手小笠原又太郎長氏相共致軍忠候畢 1337.07,12 小笠原貞完代桑原 家兼軍忠状 建武4年7月 25日 庵原 (南638) 2( 矢 野 城 安芸(安芸区矢野町) 木 戸(大手) 自大手木戸,切入城内処,親家被射左股畢 1335,12,2( 周防親家軍忠状 建武3年5月 7日 吉川(南349) 益 田 城 石見(益田市七尾町) 木戸(尾崎) 押寄彼城,資破北尾崎木戸,致散々合戦 1336,07,21 藤原兼茂軍忠状写 延元1年7月26日 閥121,周布 吉 兵 衛 (南 426) 日 浦 山安芸(安芸郡海田町) 木戸 至子同廿日,自西木戸責上,致合戦忠 1338,03,20 周防親重軍忠状 建武5年3月27日 吉川(南743) 生 回安芸 (豊田郡瀬戸田 町) 木戸 口(六 手) 御敵構城郭於生 回島,令楯範之間,今月四 日先押寄彼城,於大 手木戸 口致合戦,同六 日,令追落凶徒 1342,10,04 小早川氏平軍忠状 写 康永1年 10月 20日 吉川家中井寺社(百 1203) 三 隅 城 石見(那賀郡三隅町) 土橋(大手) 令発向三隅城,於大手と橋切所懸先陣,致散々合戦 1348,04,09 内田敦世軍忠状写 貞和 4年4月 日 永 田秘 録 所 収 内 田(南 1635) 孤 聟 > 憮 蝉 司 報 装 郵 灘 鵡 眸 > 滸 ・ 辞 ゅ 摯 熙 韻 、 ⇔ 餅 鴻 ]ド 中 ︵毬 綱 ︶ ∞ 伽 備考 :典拠欄の( )内はr南北朝遺文コ中国・ 四国編の文書番号である。「戦いの日」の欄のmiとは,晦日の意味である。以下,表2・ 3でも同 じ。
表
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室町期の戦いの場 屯城 郭 名 所 在 地 比高 (m) 戦いの場 記 事 戦 い の 日 文 書 名 文 書 日 付 典 拠 1 日 高 城 安芸(安芸郡語刈町) 麓 日高城麓重見将監在所依為切所,敵肝要抱候間・・ 及合戦 1452,■8,24 平賀弘宗小早川盛 景等注進状写 (事徳1)関 8月24 日 小 早 川 証文368 2 甲 山 城 備後(庄原市山内町) 諸 国 敵出張之時防戦・・ 殊於 自要害之詰 日,親類被官或討死,或被 疵 山名政豊感状 文明7年6月20日 山内127:閥13,山内縫殿 189 3 法勝寺城 伯者 (西伯郡法勝寺 町) 攻 口 於 伯 州 法勝 寺 城 賀 口合 戦 之 時 1480,09,14 山名政豊感状 文明12年10月5日 閥89,田総惣左衛Fヨ14 4 古高山IIn 安芸(三原市高坂町) 攻 ロ 就高山城攻口開陣 小早川元平書状写 案 (文明7)4月■ 日小 早 川 証 文 202 備考 :典拠欄の「小早川証文」・r山内コ は「大 日本古文書 家わけ文書Jの各家文書。「閥コ はr萩藩閥閲録コ。 「戦いの日コの欄の年月日が不明の場合はZで表わ し,閏月は■で表わ した。以下,表3でも同 じ。 魂 離 彗 中 号 蒔 再 村 専 か E 雛 溶 雛 蔚 辞 ⑤ 蒔 学 再 0 ラ ヘ蛇 城 郭 名 所 在 地 比 高(m) 戦いの場 記 事 戦 い の 日 文 番 名 文 書 日 付 典 拠 1 草 山 土雲(能義郡広瀬町) 尾 頸 雲州陣取退硼,於陣山尾久備,敵相付之処,井上与三右衛門尉 同前に返合 1543,05,07 毛利元就・ 隆元遵 署感状案 天文12年 5月12日 毛利283の5:閥109,三 戸惣右衛門6 2 頂 崎 城 安芸 (東広島市高屋 町) 尾 頸 於去月四 日高屋頭崎尾頸合戦 1551,09,04 毛利元就・ 隆元避 署感状 天文20年10月2日 閥80,井上 作 左 衛 門 8 3 志 川 滝 山 城 清後(福山市加茂町) 尾頸・ 構際 志河切取候時,尾頸至構際,初度 に相付鑓仕候 1552,07,23 毛利元就・ 隆元連 署感状 天 文21年7月28日 間28,渡辺太郎左衛関3 4 矢 野 期 安芸(安芸区矢野町) 尾 頸 矢野要害尾顕明神山切崩候時 1555,04,11 毛利元就・隆元連 署感状 天文24年 4月28日 獨130,渡辺仁右衛F日3 5 宮 山 功 美作(其庭郡落合町) 標高450 尾 頸 宮山尾頸為山見,諸勢打出候之処,従城中出はり候条,及戦追 閉 1579,12,11 小早川隆景書状 天 正7年12月 11日 獨119,児玉勘左衛門1 6 岩 屋 瘍 美作(久米郡久米町) 尾 顕 以岩屋尾頚高仙一城被取付候 1580,11,04 小早川隆景書状 天正8年■ 月23日 閥100,児玉惣兵衡75 7 労己 尾 功 因幡 (鳥取市岩本) 尾 頸 皮城湖へ差出,尾頸計地統也,筑前守殿夜中に彼表御出馬,有 毛顕之手充・・ 自身ハ城之尾崎際へ船 フ寄 1581,07,zz 山県長茂覚書 寛永21年 ■月■ 日石 見 吉 川 151 8 忍 山 功 備 中(岡山市 上 高 田) 標高240尾 頸 城山於尾頸敵一人被討捕候 1582,05,21 吉川元春書状 (天正10)5月23日 岡家文書29(岸田論文) 9 岩 山 カ備 中 尾 頸 敵今朝今保川 を打渡障取候,岩 山中間六七町に候,明日尾頸可 取詰調機迄候 小早川隆景善状 0〔正10)4月 13日 閥125,宍戸藤兵衛15 不 明 不 明 尾 頸 今夜者 はけ山の尾頸へ火 を数多 ともしそろて,お とか し候,あ を武略仕候 菓書状 (永禄6年3月) 閥52,兼重五郎兵衛6 幸 山 城 備中(都窪郡山手村) 標高164 尾 頸 隆景其外方角之国衆之事者,幸山尾頸福山に陣候 吉川 元 長 書 状 写 (天正10)4月24日 巨見吉ナIЮ8 松 山 城 石見(江津市松川町) 標高143 毛頸 尾頸 とうとこと申山に御陣被成候・・ 城 より罷出候,就夫此方 衆篠か丸 と申山へ取上,共まま初口切懸,則時に切崩 二宮俊実覚善 永 禄5年 吉 川・ 別 561 宮 尾 城 安芸(佐伯郡宮島町) 毛頸 宮之城 はや殊外 よはり候て見 え候 よし申候,尾頚之堀 ははや は や悉 うめ候 由申候 毛利元就書状 天文24年 9月27日 獨10,堅田安房244 14 猿 掛 城 安芸(高田郡吉田町) 尾 頸 多治比於尾頸 郡山城諸 国合戦注 文 (天文10年1月1〔 日) 毛利287 松 尾 功安芸 (高田郡美土里 町) 尾 頸 於上庄松尾要害尾頸抽戦助 毛利興元感状 永正13年 2月29日 関90,粟屋七郎右衛門2 表3 戦国期の戦いの場 刑 聟 澪 報 蝉 叫 報 装 章 灘 韓 齢 ヌ ・ 畔 妙 摯 報 鴻 卜ω 餅 糾 ]” 帥 ︵8 絨 ︶ や ﹃
焔 城 郭 名 所 在 地 比高 (m) 戦 い の場 記 事 戦 ゝの日 文 書 名 文 書 日 付 典 拠 白 鹿 城 出雲(松江市法吉町) 標 高 154 尾 (らん と うの 尾) 被成御取詰候時,らん とうの尾 より仕寄穴 を御掘せ被成候,敵 もまた多賀丸 より横穴 をほ り候て防 き候,互に堀寄敵の横穴 に 行相 姓氏未詳軍忠付立 欠年月日 閥83,福聞彦右衛門閉 白 鹿 城 出雲(松江市法吉町) 標高154 小 高 丸 於白鹿小高丸合戦之時,太刀打衆 に差続罷越候 1563,10,13 毛利元就書状 (永禄 6)10月18日 閥64,二宮太郎右衛門1 1 白 鹿 城 出雲(松江市法吉町) 標高154 小 白鹿 至白鹿執懸,小白鹿切取,其外諸丸固屋以下,不残焼崩候,甲 丸一所 に相極候 1563,08,13 毛利元就書状 (永禄6)8月15日 閥■9,福井十郎兵衛19 郡 山 蛎 安芸(高田郡吉田町) 尾(宮崎尾) 於宮崎尾,敵障切崩 1541,01,13 毛利元就感状 天文10年 1月14日 閥44,信常太郎兵衡6 矢 野 城 安芸(安芸区矢野町) 尾(明神尾) 矢野於明神尾鑓仕,御感状在之 圭元将軍忠覚善 天正2年5月25日 閥39,桂善左衛門3 郡 山 城 安芸(高田郡吉田町) 山 手 於 山手 郡山城諸口合戦注 文 (天文10年 1月13 日) 毛利287 日 和 城 石見(邑智郡石見町) 岸 際 於石州 日和要害岸窮穿鑓事 1557 05,02 杉原盛重感状 弘治3年5月 2日 知 新 集,山代 孫 右 衛 門 1(広島県史・ 県外) 羽衣石城 伯者(東伯郡東郷町) 岸 際 羽衣石岸際迄相動,宗徒之者数百人討捕候・・ 無残令放火稲薙 1580,08,13 吉川元春書状 (天正8)8月15日 獨115,湯原 文 左 衛 門64 松 尾 城 安芸 (高田郡美土里 町) 麓 於横田松尾要害麓合戦之時 1516,07,17 毛利興元感状 永正13年 7月 21日 閥・遺4の1,伊予八幡 神主河野肥前守2 赤 穴 城 出雲(飯石郡赤来町) 麓 赤穴要害麓動之時,被矢疵 1542,06,07 大内義隆感状 天 文 ■ 年8月24日 関46,大庭源大夫10 2( 鹿 野 蒻 因幡(気高郡鹿野町) 麓 於鹿野麓,宗勝被遂合戦候,悉皆以其方行粉骨被得大利候 1564,07,22 毛利元就感状 永禄7年8月 2日 閥46,小寺忠右衛門41 富 田 域 出雲(能義郡広瀬町) 標高183 麓 資営田城麓中須,敵付送,既此方者共難儀之処及合戦 1566,04,21 毛利元就・ 輝元連 署感状 永禄9年5月 5日 閥11,浦 図 書86:小早 川・浦86 不 明 不 明 麓 打廻被仰付候処,要害余依被差上,依城内 も罷出被及合戦 1566,05,24 毛利元就書状 (永禄9)5月 25日 閥124,平賀九郎兵衛3 不 明 不 明 盟 至敵城麓,足軽被差遣,打廻被仰付候,少々敵難罷出候 7zzz,04,18 桂元忠書状 欠 年4月19日 閥153,悪喜右衛門6 松 山 城 備中(高梁市広瀬) 標高480 麓・ 放火麦 薙 広瀬固屋之事一着之上,打 続松山麓 まて放火麦薙悉被申付候 宍戸隆家書状 (天正3)3月27日 関88,山内源 右 衛 門 14 神 辺 城 備後(深安郡神辺町) 麓(稲薙) 神辺表稲薙之儀 毛利元就・ 隆元連 署書状 (天文 17カ)7月10 日 間 77,馬屋原九右衛門2 高 瀬 城 出 雲(簸川 郡 斐 川 町) 麓廻稲薙 新山・ 高瀬麓廻稲薙之儀,無残所申付候 毛利輝元・ 小早川 隆景連署誉状 (元亀 1)9月5日 閥55,国司与一右衛門13 ] ∞ 酪 醇 彗 ︻ 番 蒔 再 村 耳 が E 導 鴻 導 薄 禽 ○ 蒔 琲 再 も ラ ヘ
Nc 城 郭 名 所 在 地 比高(m) 戦いの場 記 事 戦 い の 日 文 善 名 文 書 日 付 典 拠 右 田 岳 周防(防府市下右田) 標高18〔 麓 今度右田岳罷籠辛労候,然処山口築山之敵退散候而,当城麓羅 通之刻,罷下付送数度及防戦 毛利輝元感状 (永禄12)10月晦 日 獨19,児玉四郎兵衛15 熊懸要害不 明 麓 今日熊懸要害麓へ相動,得勝理候,敵小勢にて罷出候 FAN田経通書状 欠年 8月13日 吉 川407 金 山 城安芸 (安佐南区祗園 町) 麓 今度於金山麓防戦之刻,両度被矢疵之由 田原親董感状 天文10年 4月26日 足立悦雄1(広島県史・ 県外) 不 明 不 明 麓 敵障麓罷出,敵弐人討補 福原貞俊等連署書 状 (天正10)5月 27日 閥50,飯田与一左衛門13 〕7 忍 山 城 備中(岡山市上高田) 標高240 麓 城山麓 にて敵壱人被討捕之 二宮就辰・ 佐世元 祝連署暮状 (天正8)9月 28日 閥80,岡吉左衛F珂37 新 山 朔 出要(松江市法吉町) 標高256 麓 新山・ 高瀬麓廻用 薙之犠,無残所申付候 毛利輝元・ 小早川 隆景連署書状 (元亀1)9月5日 間55,国司与一右衛門 1 】ヽ鍛 治 屋 備中(岡山市足守) 麓 資鍛治屋山麓,其方中間通路切仕 毛利lLH元書状 (天正10)5月 7日 閥 80,岡吉左衛門17 有 田 城安芸 (山県郡千代田 町) 山下 小 溝 武田刑部少輔有田要害発向之時,於山下小溝鑓被仕 1517,10,22 毛利元就感状 永正14年10月 28日 閥93,井上右衛門7 長台寺城 伯着 (米子市新出) 標高281 山 下 長台寺於山下,片山一所進藤源次郎深田敵討捕之由 1563,u12,1 小早川隆景書状 (永禄6)閏12月10 日 閥31,山田吉兵衛 8 鬼 ク 城 因幡(八頭郡若桜町) 山 下 尼子居城鬼城於山下,及合戦 1575,08,29 草刈重継一所衆軍 忠状 天正3年9月18日 獨34,草刈太郎左衛門 8 石 米 美作 (久米郡) 山下 河端居城,石米於山下防戦 1583,08,18 草刈重継一所衆軍 忠状 (天正 ■)9月 1日 閥34,革メ1太郎左衛門24 龍 ノロ城 備前 (岡山市祗園) 標高257 山 下 去廿 日於沌口山下及合戦 2zz7,07,20 浦 上 宗 景 暮 状 欠年 7月24日 閥・遺5の 2,イ Wil権左 衛門1 亀 石 備中(賀陽郡) 山 下 於亀石山下敵討捕 毛利輝元書状 (天正10)5月23日 間80,岡吉左衛門20 テ賀要害 臆前(御津郡御津町) 山 下 伊賀要害山下迄悉討果 吉川元春書状 (天 正8)1月6日 閥■5,湯原文左衛門145 1, 跡 和 美作(久米郡中央町) 山 下 今度琲和 え打渡,倭文動之時,於城山山之下敵一人被討捕 粟屋元秀書状 天正8年2月23日 獨50,飯田与一左衛門17 1に 神 辺 蒻 備後(深安郡神辺町) 城 下 六月十八 日・ 同廿 日,於村尾城下合戦之時 1548.06.1〔 大内義隆感状 (天文 17)12月 10日 吉,I1508 須 々 万 周防 (徳山市須々万 本郷) 城 下 元就其口令在障之犠候問・・於須々万磨城下 ,敵十二人討捕候, 同於町野口,山口衆・・士余人討捕候 1556 09.22 毛利隆元書状 (弘治2)9月25日 閥35,同曽沼二郎二郎12 刑 聟 ≫ 報 蝉 叫 報 残 章 沸 鵡 眸 > ・ 畔 ゅ 摯 報 拙 卜 ω 鰈 鴻 いド 中 ︵8 誤 ︶