技 術 的 に 見 た 城 山 と そ の 周 辺
山 崎 英 樹*
J 6 y a m a a n d i t ' s c i r c u m f e r e n c e i n v i e w o f t e c l l n i c a l p o i n t Hideki YAMAZAKI
Ge ogr aphi c a l f e a t ur e si n ci r c umf er e nc e ofZe nk63 iTempl ei nNaga noCi t yha s ma ny i nt er e s t i ng f a c t si nvi e w ofc i vi le ngl ne e r i ng hi s t or ya ndge ol ogy. Fori ns t ‑ anc e ,t heor i gi nofJ 6yamah i l l ,t heor i gi nofgul l yname dHo r i ki r i z a wa,r e c l a ma t i o n wor ksi nHa kos hi mi z uar e aa nds oon.
I nt hi spa pe r ,a ut he rexa mi ne d t opo gr aphi c a lma psa nd i ma gi ne d ol dt i mege o・
gr a pbi c a lf e a t ur es .Us i ngi t ,a ut he ri nve s t i ga t e d a bo beme nt i one df a ct st e c hni c al l y.
1 .
ま え が き長野市 の城山およびその周辺には,い くつかの興味をそそ られ る事柄がある.それ らを列 挙す ると,
(1)
城山丘陵の成因,
( 2 ) 同丘陵 のほぼ中央部に堀切沢があるのは地形的に不 自然なこと,
( 3 ) 堀切沢に より2分 された奴山丘陵の内,北部丘陵に裾花凝灰岩系の崩積土が多 く見 ら れるが,南部丘陵にはそれが少ないのは何故か.
( 4 ) 城山丘陵 と地附山 との間の箱清水地域は,かつて沼地であった とされ るが,その広さ や深 さは どの程度であったか,
( 5 ) 上記の沼を干拓す るために堀切沢が開削された といわれるが, この沢は全 く人工的な ものか,何故 この位置であるのか,
( 6 ) 堀切沢開削は何時,誰が実施 したのか.
これ らの事柄について各種の文献を参考 し,主 として地形図を検討することによって一応 の結論を導 くことが出来た.
2 .
城 山 に つ い て現在は善光寺の東側にある丘を城山 と呼んでいるが,古 くは横山 と称 していた ようである.
善光寺の掛 こあ るか ら誰い うとな く着光寺の横山 とい う呼び方が 自然発生 し,やがて簡単に 横山 とな り,丘だけでな くその周辺の地域をも含めて横山の呼び方が定着 し今に至 った もの
* 土木工学科 教授
原稿受付 昭和
6 2
年9
月2 9
日である.
この横山 とい う地名が歴史上 に表われるのは正中 2 年 ( 1 3 2 5 年) の文献である右岸拾遺 の 中の性海和尚行実に信州横山の人云々 とあるのが最初である. しか し善光寺が創建されたの は何時か不明だが,奈良時代初期に存在 したのは確実であるか ら,横山の名称 も既にこの頃 か ら使われていた と考えられ る.
室町時代に至 って村上氏の家臣杭山氏が, この地に城を構 えたことか ら,城山の名称が生 まれたが, この呼び方は明治時代になってか らといわれている.すなわ ち城山 とい う呼び方 はまだ新 らしいのである.
3 .
城山丘陵 の形状図 1 に城山丘陵 とその周辺の地形を示す.本図は昭和27 年に修正 されたもので,現在 とは 開発 の程度がかな り違 っていることに注意 されたい.城山丘陵は,長野盆地の西経部に位置 してお り,北北東か ら南南西にわたって横たわ り,長 さおよそ900m ,最大幅30 0mで,その
図
‑ 1
城 山 周 辺南端で急崖をなし北に行 く程なだ らかにな り,かつ細 くなっている.
また本丘陵 のほ ゞ中央部に堀切沢があ り, これに より丘陵は南北に 2 分割 されている.
それぞれの最高標高は南部が建御名万富命彦神別社 ( 県祉)附近で 425 m,北部 は護国神 社附近で420 mである.
4 .
城 山 の 成 因プt /‑ トテク トニクスに よれは,原初地球の表面には巨大大陸である バ ソゲアのみ存在 し たが, これが中生代三畳紀に分離を始めて現在 のような 5 大陸に分裂 した.周知のように地 殻は数個のプレー トか ら成 り,各プレ‑ トは,それぞれマン トルの対流運動に よって独 自の 動 きをし,衝突を している. 日本はユーラシアプレー ト上にあ り, これに東方か ら巨大な太 平洋 プレー トと小形なフィ1 )ッピソプレ‑ トとが進んで きて衝突 し, もぐりこんでいる.そ のために 日本は全国的に大 よそ東か ら西方向‑圧縮 され続けている. 日本列島の原形が形成 され るのは新第三紀中新世になってか らだが, 日本の大陸側では海底火山が活発に活動 しグ 1 ) ‑ ソタフを厚 く堆硫 した.
この時代の長野近辺は,現在 の長野盆地の西綾部を境にして西側 と東側は異なった状態に あった.すなわち中新世初期は東側は海面下にあって海底火山が活動 していたが,西側は陸 上にあった らしい.中新世末になると盆地西縁部の構造線の活動が活発化 し,東側が隆起 し 西側が沈降 し海底火山活動が開始 した.その結東が裾花凝灰岩で, これは盆地西縁に沿 って 長 さ 30km,厚 さ1 .5km に及ぶ ものであ る.岩質は流紋岩質の凝灰岩 と凝灰角硬岩を主体 と
し,下郡層 と上部層の間に海成の黒色泥岩,砂岩,硬岩を狭在 している.
やがて鮮新世初期になると活動が弱ま り,東西両側共ゆっ くりとした隆起を行 っていた.
両側共に浅い海で砂硬が堆積 した.鮮新世末に至って西側が隆起 し,東側が傾動す るとい う 西上が り東落ちの逆断層運動が始まった.その結果,西側は陸地化 したが東側は一般に堆積 盆地が抜 くな り汽水化 してきた.
この逆断層運動は第四紀更新世に敢 しいが,継続的ではな く断続的に
3段階に発生 した.
第 1 活動期は前期更新世において,長野盆地酉綾部の西側が汲 しく隆起 して山地を形成 し, 火山活動が活発に行われ水内層や屋敷層が形成 された.やがて前期更新世末になると,隆起 が弱ま り休止す るが, この時に山地は水面付近 まで浸食 されて平坦化 した. これが地附山に 見 られる大略面であ り, この面上には粗粒堆積物や旧河道が残 されているのが見 られ る.
この頃は海は退いていて,長野付近は淡水性 の湖水であ り,盆地酉綾部の大蜂面上の凹地 に砂や シル トが堆積 したのが豊野層で,木屑は城山丘陵に よく見 られ,層厚約50 mある.
第
2活動期は,豊野層堆積後の更新世中期で西上 り充落ち逆断層が再発 し,そのため豊野 屑は大 きく摺 曲した.中期末になると活動がおさま り更新世後期にかけての寒冷期には,梶 花凝灰岩を起源 とす る砂硬を多 く含む疎層が約40 m堆研 した ( 南郷層) .
第
3活動期は,更新世後期においてである.南郷屑は摺 曲 していないが,一般に盆地側‑
300 ‑400 の単傾斜をなす ことか ら今回の活動は木屑堆積後に西側が隆起 した ことがわか る.
以上のように長野盆地西縁部における酉上 り東落 ちの逆断層運動は,連続的でな く断続的
に発生 し, しか も西側の山地部か ら盆地側に向って次第に新 らしい断層が発生 した ものであ
る.その結果,西縁部の地形は,各断層によりブロック状に分割 され,かつ西側程隆起が大
きいために盆地側に低 くなる階段状地形が形成 された. この階段状地形が浸食 されて丘陵 と なった もので,現状地形図を見 ると盆地西縁部には,大小の丘陵がほぼ同 じ標高のものが列 状 に適 って存在 し全体 として階段状 となっている.
城山丘陵 の堀切沢付近 の土質柱状図に よると本丘陵は,砂, シル ト,磯 の互屑か ら成 る豊 野層か ら成 り,全体 として北下が りに約 1 0 度懐いた地層 となっている. また県社や護国社周 辺 には裾花凝灰岩起源の疎が多 く ( 南郷層), 特 に 丘陵北部に裾花凝灰岩の崩積土が多量 に 存在す る. これ らか ら城 山丘陵が形成 されたのは南郷層堆積後の隆起に よるもので,第 3 活 動期 においてであろ う.
5.
城山周辺の地形地形図を見 ると城山周辺は,西側の地附山が急傾斜で立上 り,東側に城山丘陵が横たわ り 両者の間が平坦地 となっている.図‑ 1 か ら等高線のみ書 き出 したのが図‑ 2
(a), これを元 に して善光寺などの構造物が造 られる以前の地形を推定 し復元 したのが図 ‑ 2 ( 也) である.
さて前述のように西縁部の隆起は西側 よ り階段状に生 じたか ら,大峯山や地附山を含む地 塊 の隆起が停止 した後 あ る時間の経過があって城 山丘陵を含む地塊 の隆起が生 じた.そのた めに, この地塊の西側 (山側)は摩擦 のため凹部をな し,反対に東 の盆地側は丘 となった.
城 山 と西側山地 との問の平坦地は,菩光寺裳の湯福川を境 として南北に 2 分 され る.南側 は,善光寺,元善町,大門町な ど市街地部分で,明 らかに湯福川の扇状地であ る.北側は深 田町,箱清水,上松滝 の凹地であ る.
図 ‑ 2( a ) 現状国 (S2 7当時) 図 12( b )復原国 ( 湯福川は現状のまま)
6 .
城山丘陵 と堀切沢の形成本地域の主な水系は湯福川である.本川は湯福沢を急勾配で下 り,湯福神社付近を扇央 と してホースを振 り回す ように流路を変 えなが ら扇状地を形成 した.すなわち西側の地塊 の隆 起が激 しい時は扇状地の形成作用 も汲 しく・ ,隆起が停止 した後,城山を含む地塊の隆起が始 まると%・ 福川は行手を遮 られて流路を転々 と変えたであろ う.
図 ‑2( b ) を見ると湯福神社か らほ ゞ東に等高線が張 り出して城山丘陵南部にぶつか って いる. これは城山隆起以前には,湯福川が主 として扇矢か ら東‑流れ,城山 もその当時は流 域になっていたことを示す ものであ り,その結果,扇央か ら城山にかけて自然堤防が形成 さ れた ものである.
前述の ように盆地酉綾部の隆起は西側か ら階段状に逆断層を生 じなが ら行なわれたか ら, 至 る所で崩壊や地ヒ りが発生 したであろ う.現在の地附山が,地附山断層,山の神断層等の 多 くの断層に よりブロック状に分断 され,断層を境に して地層が逆傾斜 した り,古い崩積土 や崖錐が良 く発達 した不安定な山塊になっているのも, このような経過をへたためである.
さて,地附山が隆起 した時,東側の平地部に大量の崩抗土を もた らした ことは容易に想像 され る. これは現在の城山丘陵 の北部 と考 える.やがて城山一帯の隆起が始 まると,南側の 方が より高 く隆起 して地盤が北下が りに傾斜 したため,湯福川は流路を北に曲げ られ,先の 崩積土塊に突 き当 り,その裾に沿 って流れ隆起に負けない早さで浸食を続けたため,そ こに 谷が形成 された. これが堀切沢 の原形 と考えられる. しか も隆起速度が浸食力を上廻 った時 点で湯福川は, ここを流れることが出来な くな り,その水は深田町か ら上松に至 る窪地に湛 水 して沼 となった.満水 した後 も流入 し続ける水は,先に刻 まれた谷か ら罷れ出たであろ う
ことは後で述べるように等高線の状態か ら,そ こしか考え られないのである.
やがて大雨 のため湯福川の流路が変わ り扇欠か ら南方‑流れ るようになった.南方には, 港福川に比較 して大流量の裾花川があ り,隆起 した地塊を急速に浸食 していたので,湯福川 の出口か ら東南方向にかけての慣斜が北側 のそれ より大 きくなった.そのため湯福川は主 と してこの方面に流れ るようになった. このようにして階段状に隆起 した地塊は,裾花川の浸 食y こ湯福川の浸食が加わ り,現在の形の城山丘陵 と市街地 の扇状地が形成 されたのである.
7 .
箱清水沼 (仮称) について上記のようにして箱清水一帯の窪地に湛水 して沼が出来たが,本章ではこの沼の規模につ いて考察する.
地形図を見 ると旧道が地附山の東麓に沿 うもの と城山丘陵の西麓に沿 うもの との 2 本があ り, これ らは沼を取 りまいて東北部の上松で合流 している. もともと道は,人が通 り易い所 を歩 き続けた結果何時の間にか道 として固定す るものであ り,本件 も周辺の住人が沼に沿 っ て歩 き続けた踏み分け道が街道に発展 した もの と考えられ る.
この事か ら沼の大 きさ,水深等が推定される.すなわち 2 本の旧道は標高 4 0 3 ‑4 0 4m の間 を走 っていることか ら常水両はほぼ 4 0 3 m の標高であった と想定で きる. これ より沼の両横 は 1 7 4 . 5 1 0 m
2( 1 7 . 6 町) ,周長 1 9 5 0 m ,最深 4m 貯水量 2 9 2 , 0 0 0 m 8程度 となる.
上述のように, この沼を形成 したのは主 として湯福川であ り,それに山の神沢,北沢,鬼
沢の働 らきが加わ っている.湯福川が この沼に流れ込 まな くなった後 この沼に水を供給 した のは上記の 3 つの沢であった. これ らは平常は極めて少ない水量であるが,降雨時には短時 間で出水す る沢であ り,流入 した水は沼の水位を上げるが,かつての湯福川の流路であった 堀切沢から流出して沼の水位を一定 とした.すなわち人の手が加わ る以前の原堀切沢は標高 40 3m まで,すでに浸食 されていたと考えられる.現状の城山丘陵は南丘 と北丘 とに 2 分 さ れているが, これは本質的には人の手によってなされたのではな くて,原初か らすでに 2 分 されていたことを意味 している.
8 .
堀切沢について堀切沢とい う名称か らは,全 く人工的のものに思われるが, これ までの考察か ら分か るよ うに,その形成は殆ん ど自然の浸食作用に より行われたものである.沼の水位が上昇す ると この沢 より流れ出て,沼の水位を標高 4 0 3m に保 っていたものであろ う. この沼を干拓する ためには,木沢を開削する必要があるが以下にそれを考察す る.
本沢の沈路長は城山丘陵を横断 して約2 7 0m ,沢の終点 ( 三輪側)の標高3 8 6mで沼水面 と の落差1 7m 故, 自然流路の勾配は1 /1 6 となる.沢に沿 い 5 0m 間隔で横断面を とり, これに流 路勾配が一様であった として各断面に流路底を書 き入れ, これ より現在の沢の形 まで掘削 し た として土量を求めると 21 , 0 0 0m
3となる. この数字は,沼の最深部 ( 3 9 9 m)までの排水工 を考えてある.
開削工事について検討す る.工事は全て人力であ り,掘削は鍬や鋤を,運搬にはモ ッコを 用 いた.豊野層掘削の歩掛を残土処理を含めて 1 . 5 人 / m
3とみれば,総人工31 , 50 0 人 となる.
1日当 りの稼動人数を1 0 0 人 とす ると延べ31 5 日を要す る.雨天など工事休止 日を加えて約 1 年 の工期である.稼動人数を 20 0 人にすれば半年に短縮できるが, これだけの人数は動員可 能であったか どうか疑問である.
つぎに施工法についてみ ると,全掘削を継続 して一時に実施する工法は困難であるか ら, 段階的な工法が採用された ことであろ う.すなわち ( 1 ) 水が流れぬ ように湖畔部を少 し残 し て,下流の沢を掘 り下げる.( 2 ) 湖畔部を切 り崩 して水を落す.( 3 ) 沼の水位が低下 して耽れな くなったら下流を掘 り下げる. このように して排水状況を見なが ら工事を進めた と思われる 掘削を深 くしておいて一時に放流することは危険だ し,下流々域に水害を及ぼす恐れ もある か ら避けたことだろ う.
貯水量約2 9 万 m8を放流す るのに必要な時間を略算 してみる.放水 口を 0 . 3×2m とし, 幅厚堰の公式を用いて毎秒当 りの流量を求めると 0 . 7m
3となるか ら,沼を干すのに要す る時 間は
116時間で
紛 5日間 となる.なお この値は沼の最深部まで一気に排水す る場合のもので あ り現実には,前述のように段階的に実施 された と考 える.表‑ 1 に標高 1m間の貯水量 と 流出時間を示 した.なお放水 口の深さを 0 . 3m としたのは鍬や鋤で 1 回に掘削できる深 さか
らきめたものである.
9 .
堀切沢開削の時代鎌倉幕府は頼朝を始め代々社寺の保護に力を尽 しているが,北条時損は善光寺信仰に厚 く
弘長 3
年(1 2 6 3 )には,水内郡深田郷内で買い求めた水田を,善光寺の不断経衆1 2 人および
不断念仏衆 1 2 人に対 して,それぞれ 5 反歩ずつ合計 1 2 町歩を寄進 して後生を祈 らせている ( 吾妻鏡) . このことか ら,時頼 の時代には既に深田郷には立派に収狂の出釆 る水田が1 2 町歩 以上あったことが分かる・ただ し当時の 1 反歩は360 坪故時疏寄進の 1 2 町歩は現在 の1 4. 4 町 歩 ( 1 42, 560 m2 )にあた ることに注意する必要がある.
箱清水村の石高は,慶長 6 年 (1 60 1 )の朱印状に よると27 4 石で,約 200 年後の天保 5 年 (1 834 ) の天保郷帳の苗 も同額 となっている. この石高か ら耕地面積を推定 してみ よう.石 高割出には,上田 1 石 5 斗,中田 1 石 3 斗,下 田 1 石 1 斗 の割合が用い られたが, これはか な り甘 く実際には倍近い収畳があった程故 1 反当 りの石盛を中田 として換算すれば 21 .1 町歩 となる.
図‑ 1 か ら標高 40 4 m の等高線に田まれた地域の面積 ( 現在殆んどの水田が この範囲にあ る)を測定す ると 21 4, 000m
2( 21 .6 町)で,上記の値 とほぼ一致 している. このように耕地 両柄が江戸初期か ら昭和にかけて差がない ことか ら,本地域は江戸初期には開発 されつ くし ていた.衣‑ 1より標高 401 m 範囲内両群
は 64, 350m℡( 6 .5 町)であ り, これに北条 時折寄進の1 4.4 町を合計す ると 20 .9 町 とな り,江戸期 の耕地面杭 と一致す る. このこ とか ら次のように考えられる.すなわち, 時折 の時代には標高 401m の稚田内は沼で あった とす ることである.つま り,最初に 沼の 干拓を 計画 ・実施 して 沼水面を 標高 403 mか ら 401 mまで低下 させた結果 ここに 約1 5 町の水田を得ることが出来た.水位を
表
‑ 1 沼の標高と諸債
計
い 7 4・ 5 1 0 I 2 91 ・ 8 2 5 I 1 1 6 これまで下げるに 必要な掘削土星は 約300
m8であるか ら掘削に高す る人工数は1 .5×30 0‑450 人, 1日当 りの稼動人工50 人で 9日間で 可能 となる.その後,鎌倉〜江戸にかけての300 年の間に 401 m の干拓が実施 されて6.5 町の 水田を得た ものであろ う.
箱清水村の戸数は, 寛永 ( 1 62 4)〜 天和 ( 1 68 1 ) まで20 戸, 元禄末 (1 700 )30 戸, 天明 ( 1 78 1 )〜幕末 ( 1 867 )60 戸であったか ら人 口は 1 戸当 り5‑ 6 人 と見て大差 な く,天和 3 年 (1 683 )1 1 7 人,明和 2 年 (1 765 )300 人の記録がある. これ より塀推 して,江戸以前の戸 数は20 戸足 らずであろ うし,そ こか ら得 られる労働人 口は50 人程度 と思われる. この位の小 人数では大量の土工事は一挙に実施出来ないことか らも,本沼の干拓は一時に行なわれたの ではな く,上記のように 2 度に分けて実施 された と考 える方が無理がな く自然である.
1 0. 堀切沢の開削若
草光寺は,善光寺を中心 として鐙鋳川か ら北側の善光寺町,箱清水,上松を含む地域すな わち善光寺筒の領主であった.領主 としてほ, 自領を豊かにす るために水田の開発に興味を 持つのは当然であることか ら,寺の裏側にある 20 町歩 もの沼の干拓を計画 し実施 したのは, 善光寺 自身であろ う.
本来,僧侶は民衆の現世の様 々な苦難を救済す るために道を拓 き,橋を架け,井戸を掘 る
などの土木技術を身につけていたものである.奈良時代 の行基は有名であ り,平安時代での 空海 も溜池を修復 してお り,鎌倉時代においても東大寺の重源のように僧侶は種々の土木事 業に尽力していた. このような背景か ら,善光寺の僧に も沼の干拓を計画実施できる者が居 た と考 えても不思議ではない.工事が行なわれた時代 としては,善光寺が奈良時代初期に建 立 されたこと,奈良〜平安時代にかけては行基をは じめ多 くの僧が諸国を廻 って土木工事を 行な うなど,僧侶が積極的に土木工事に関係 していた状勢を考慮すると,奈良時代か ら遅 く とも平安末期には既に干拓 されていた と考えられ る.工事に当っては善光寺の隷属的立場に あった箱清水地域の農民が主 として動員されたことであろ う.
あ と が き
筆者はよく善光寺や城山丘陵付近を散歩す るが,その都度疑問に思 うことであった.それ は細長い城山丘陵のほ ゞ巽中で最 も横幅の広い場所で丘陵を南 と北に其二つに割って流れる 堀切川の存在である. これは昔箱清水地域にあった沼を干拓するために開削されたもの とさ れているが,人工的なものとすれば位置が不 自然である.何故丘陵を断ち割 る必要があった のか,他に適地はなかったのか,誰が何時実行 したのか等の疑問が湧いて来 る.本地域の地 形図の等高線の配置を観察 している内に,堀切沢は湯福川に よって大半形成 されたものであ ると推論 し得た.その他の事柄については文献を参考に しなが らまとめた ものの推測の域を 出ない ものが多 く大変歯揮い思いを している.
本文をまとめ るに際 し,赤羽貞幸氏 と小林計一郎氏の論文を主 として参考引用させていた だいた. ここに記 して両氏に深 く感謝申し上げる.
参 考 文 献