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岡山大学埋蔵文化財調査研究センターの20年

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(1)

転.

ヽ`

11 1` │ヽ

―――

│. (ヽ ヽヽ れ

2008:年

3月

18日

岡 山大学埋蔵 文化 財調査研 究センタ

Archaeological Research Center,Okayama Un

and NattFe

(2)

岡山大学

目然と人門、

地中に理もれた命の対話

Dialogue between LIVES I Human and Nature

The Twenty Anniversary ofthe A【

rchaeological Reseach Center,Okayama University

20081年

3月

18日

岡山大学埋蔵文化財調査研 究センター

(3)

周年 を迎 えて

岡山大学長

吾二乗

葎予

:三

吉備 の国は、文化財 の豊富なところです 。造 山古墳 、鬼ノ城 、吉備津神社 、後楽 園などは全 国的

にもよく知られていますが、そうした著名な遺跡も孤立してのこされているわけではありません。一つ

の文化財のまわりに

1よ

、その他 の類似文化財や前後 の時代 につらなる関連遺跡がたくさんあるわけ

で、豊富な資料をつきあわせ、つなぎ合わせてようやく個々の文化財の歴 史的な意味あいが判 明す

るといわれます。

本学の校地 にも、

埋蔵文化財がのこされています。津 島地区の津 島岡大遺跡では縄文時代の集

落や弥生 時代 の水 田遺構 がひろく見 られ、鹿 田地 区には藤 原摂 関家 の「鹿 田庄」に関連するらし

い遺跡が含まれています。岡山平野の中心市地域 にあることから、往 時の生活跡がたくさん重なっ

ているわけでしょう。

さて、岡山大学では岡山県のみならず中四国における中核 的な総合大学の一つとしてさまざまな

分野の研 究を発展させ 、多彩 な教 育を展 開しているところです 。こうした教 育研 究活動 の推進 のた

めには、どうしても新 しい施設等の充実が不可欠な課題となります。現代 の建設事業と過去の文化

財 の保 護 はややもすれば対 立 的に考 えられがちですが、本 学では早 く昭和 62年 に岡山大 学埋 蔵

文化財調査枡 究センターを設置し、文化財保護法 の趣 旨に基づいて本学構 内における建 設事業と

埋蔵文化財の保護との両立を目指してきました。

本センターは、昨年

11月 26日

20周

年を迎えました。この20年 間、

構 内遺跡の発掘調査 を多数実

施するとともに、その成果を構 内遺跡発掘調査 報告としてつぎつぎに刊 行 し、その使 命を十分果た

してきました。法人化後、本学は新しい国立大学像の実現に向けて歩みつつありますが、埋蔵文化

財調査研 究センターも、これまでの実績を土 台にし本学 の教 育研 究事 業の推 進と文化財保 護のた

めに新たな歴史をきざむことが期待されています。とりわけ開かれた大学を実現するため、文化財を

通して大学と市民との交流を進めることはセンターの重要な課題の一つであると思われます。

20周

年記念誌 の刊行 にあたり、これまでセンターの事業 に尽力しあるいは支援された方々に深甚

の謝意を表するとともに、センターのますますの発展を祈念する次第です。

(4)

大学 における文化財の調査 と活用

岡山大学埋 蔵 文化 財調査研 究センター長 梶 原 憲 次

昨年

6月

、本センターの

20周

年記念事業として「自然と人 間、地 中に埋もれた命の対話 ― 岡山大

学埋 蔵 文化 財調査研 究センター20周 年発掘成果展― 」を岡山市デジタルミュージアムとの共催で

開催しました。会場が 岡山駅前という好条件もあり、多数の一般市民の方々が入場されました。あわ

せて開催した

2回

の講演会も満席となり、盛会のうちに展示・行事を終えることができたことに感謝申

し上げます。

本 センターでは、岡山大 学校 地 内の遺跡を発掘調査したあと、その成果を専 門的な学術 報告書

として刊行すると同時に、広く社会に向けて情報を発信するよう努めてきました。たとえば、毎年秋に

は「発掘成果展」を津 島地 区あるいは鹿 田地 区のいずれかで開催し、その折 に市民の参加をつの

って周辺遺跡を訪ねたり、小 。中学生を対象 にした土器作 りや石器作 りなどをおこなう活動を早 くか

ら実施してきました。また、センターの建物には、ささやかではありますが展示コーナーを設けています。

さらに、大学 院社会文化科学研究科考古学研究分野との協力により文化科学系総合研究棟

1階

設 けられている岡山大学考古 資料展示室においては、多 くのセンター発掘調査 資料 により岡山平

野の歴 史がたどられています。

従 来、文化財 といえば貴重な学術 資料 として保護を第

1に

考 える姿勢が強かったのですが、多 く

の市民が文化財にふれ歴史を考えてこそ、貴重な資料が生きるというものではないでしょうか。本学

には、旧陸軍第十七 師団司令部衛兵所、旧岡山医科大学 門衛所など国の登録有形文化財に登録

された施設ものこっています。文化財の公 開と活用についてはまだまだなすべ きことがあると思いま

すので、今後とも工夫を重ねていく所存です。

最後になりましたが、日頃から構 内遺跡調査に関してご指導・ご支援を賜っている文化庁、岡山県

教育委員会、岡山市教育委員会その他本学内外の関係機関・各位にあらためてお礼 申しあげます。

(5)

I

I.遺

跡の保護と岡山大学埋蔵文化財調査研究センター

20年

の歩み

… … … … …・… … … Ⅲ… … Ⅲ… … … 。(稲田孝 司

)01

E.自

然 と 人 間 、地 中 に 埋 も れ た 命 の 対 話

-20年

の 成 果 一

].岡

山平野 の成 り立ち

―………。

(池

田晋・山本悦世

)0ア

2.岡

大キャンパスに埋もれた津島岡大遺跡 と鹿 田遺跡 ・―………。

(山

本悦世

)09

3.水

とめぐみ一狩猟・採集 から農耕ヘ ー ・………・

(池

田晋

)ユ 1

① 貯蔵穴から水田へ 。一―………・

1]

② 縄文時代に農耕はあつたか………15

③ 開拓の時代のはじまり… … … …・

16

4.心

とい の リー 自然 へ の 畏敬 と命 ― ・―……… ……… ……。

(光

本順

)18

① 自然への畏敬 … … … …18

② こころとからだ … … … …・

19

5.荘

園 の 世 界 一 土 地 の 大 改 造 ― ・― ― … … …… … … …… … … … 。

21

① 自然地形から条里地割リヘ・… … … …・

(岩

崎志保 。

光本順・山本悦世)21

② 方角の異なる地割り、

「鹿田庄」。―… …… ………… ……… ………・

22

③ 屋敷地の登場と市場の賑わい 。一 … … … …… … … …… … … …

25

6.戦

い と人 びと一 岡 山大 学 にの こされ た戦 い の証 一 ・―…… …………。

(野

崎貴博

)33

① 戦いのはじまリー … … … …… … … … …・

33

② 太平の世の砲術―近世― ・― … … … …

34

③ 戦争の世紀ヘー近代―・― … … … …・― … … … …・

36

.岡

山 大 学 埋 蔵 文 化 財 調 査 研 究 セ ンター

20年

に関 す る資 料 編

].岡

山大学埋蔵文化財調査研究センターに関する規定・報告等 ―………

41

2004(平

16)年

度から現在までのセンター規程… … … 。

41

2004(平

16)年

度から現在までの運営委員会内規… ………… ……… …。

42

③ 198フ

(日

召和

62)年

度から

2003(平

15)年

度までのセンター規程中――…… …・

43

④ 1987(日 召和

62)年

度から

2003(平

15)年

度までの運営委員会規程――………。

44

⑤ 1987(日 召和

62)年

度から

2003(平

15)年

度までの自己評価委員会規程・――

-45

1996(平

8)年

度に行つた自己評価報告 。一 … … … …

45

2001(平

12)年

度から現在までの教員の任期に関する規則… ………

49

1999(平

11)年

度から

2000(平

12)年

度の動子の任期規程 ………

50

2000(平

12)年

度に定めた構内遺跡の発掘調査にかかわる安全管理 ・…………・

51

1999(平

11)年

度に定めた岡山大学津島地区の遺跡保護 ―… ………・

52

① 199フ

(平

成9)年 度に定めたセンターの将来構想 ― ― … … … …… … … … …

53

(6)

2.岡

山 大 学 埋 蔵 文 化 財 調 査 研 究 セ ン タ ー 業 務 に 関 わ る資 料 。一 … … … …

56

① 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター義務一覧 ・― … … … …

56

② 調査一覧 ・― … … … …5ア

a発

掘調査 ・… … … …・

57

b試

掘・確認調査 ・― … … … …・

60

③ 調査地点 ― … … … …・

62

a津

島地区 ― … … … 。

62

b三

朝地区 。… … … …・

62

c鹿

田地 区 ・… … … …・

63

d東

山地 区・… … … …・

63

e倉

敷地 区 ・― … … … 。

63

④ 刊行物一覧 … … … …

64

a埋

蔵文化財調査室刊行物一覧 ― … … … …・

64

1)発

掘調査報告書 ― … … … …

64

│)調

査研究年報 。一 ― … … … …

64

b埋

蔵文化財調査研究センター刊行物一覧 ・― … … … Ⅲ

64

1)発

掘調査報告 ・― … … … …

64

il)調

査研究年報 。… … … …

65

キii)紀要 ・― … … … …・

65

)セ

ンター報 。―・… … … … …・… … … … …・― … …・… …・中 ― … … … … Ⅲ

66

v)そ

の他 … … … 。

66

⑤ 収蔵遺物一覧 ― … … … …6ア

a発

掘調査 ― … … … …・6ア

b試

掘・確認調査 。一 ― … … … …・

69

c立

会調査 。一 ― … … … …・

69

⑥ 自然科学 的分析一覧 … … … …。

70

a年

代測定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

70

b植

物珪酸体分析 。一 ― … … … …ア1

c花

粉分析 ・― … … … …・ア1

d植

物種子 … … … …・ア1

e植

物遺存体 … … … …・ア2

f動

物遺存体 ・… … … …ア2 g.樹 種 同定 ・― … … … …・ア2

hそ

の他 ・― ― … … … …・ア3 ⑦遺物 の保存処理(木製 品)・ … … … …

74

a外

吉[委託‖犬況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ア

4

bセ

ンター 内での保存処理 ・― … … … …・ア

4

① 展示会 実施状況 … … … …・ア

5

③教育面での受 け入 れ状況 ― … … … …

76

①科学研究費採択状況 。… … … …7ア ①施設 とスタッフの推移 ・… … … …・ア8 ⑫埋蔵文化財調査研究 センター運営委員 。調査研究専 門委員・教職員一覧 ・― … … … …・ア

9

裏表紙イラスト(上)稲 田 孝司 (下)伴 祐子

(7)

1遺

跡 は歴史のあかし―遺跡・ 遺物と埋蔵文化財

1789年 のフランス革命のあと、王や貴族たちが用いていた建物や豪華な調度品を、アンシアン・レジム

(十

日体制

)

を象徴するものとして破壊 しようとする動きがひろがりました。これに対 し作家のヴイクトル・ユーゴーは、たとえ王

や貴族が使用したものであってもそれらは歴 史の遺産であり人びと全体 の財産なのだから、と叫んで破壊しない

よう訴えました。日本でも明治維新あと、文明開化がもてはやされるなかで、古い建物や昔からの器物を打ち壊し

たり売り払ったりする風潮が強まりました。旧薩摩藩士で明治政府の高官であった町田久成は、歴代所蔵されて

きた旧物を保 護するよう政府に献策し、やがて太政官から古器 旧物保存 方の布告が出されることとなりました。

日本における近代 的な意味での文化財保護の行政は、ここから始まるといわれています。

戦後 の1949(昭 和24)年 、法 隆寺金堂壁 画の焼失がきっかけとなり、明治以来の文化財 関係諸法を統合した

文化財保護法が成立しました。この法律 は、考古学でいう遺物を埋 蔵文化財 と名付 け、遺跡を埋蔵文化財包蔵

地と呼んで、はじめて考古 資料を文化財 の一種 として法 的な保護の対象 としました。遺跡や遺物をなぜ別の呼

び方にするのかというと、この法律で保護するのは考古学の研 究材料ではなく、あくまでも国民共有の財産なの

だ、ということを明白にしておく必要があったからです。考古学という一学 問分野の利益のためにこの法規定が

あるのではない、国民全体 の利益 にかかわるものだから国民全体が埋蔵文化財 の保護に協力してもらいたい、

という主張が込められているわけです。

考古学 という学 問は、人類 の歴 史を研 究するうえで文献史とともに大切な役 割を担っています。とりわけ文字

のない時代 の歴 史は、考古学の資料と研 究なくしてほとんど解 明できないといっても過言ではありません。学問

研 究 はひろく人類 文化 に貢献 するものであり、考古 学もまた例外 ではないのですから、本 来は、法律 のなかでも

遺跡・遺物と呼び、考古資料 と表現しても少しもさしつかえないはずなのです。実際、イギリスやフランスの法律や

文化財行 政の文書では、考古学 という用話がひんばんに使われています。世界 的に見ると、文化財保護法にお

ける「埋 蔵文化財」といった用語 の使用はかなり特殊です。

もっとも現在の埋蔵文化財の調査は、考古学的な発掘調査が主体にはなるとはいえ、文献史。

人類学・地質学・

古生物 学 。

文化財科 学など多様な学 問分野との共 同作業としておこなわれる面が強くなりつつあります。したが

って、土木工事の前に実施される調査を考古学発掘 といわず、広い意味で埋蔵文化財 の発掘調査 とよぶ表現

方法が次第になじみやす くなっているのも事実です。

ともあれ、埋蔵文化財という造語を工夫するなどした先人の努力で遺跡・遺物に法的な保護の網がかかること

となりました。戦後の高度経済成長期から今 日まで開発事業で多 くの遺跡が失われたのですが、少なくとも工事

で遺跡を破壊 する場合 は、開発事業者の責任 で発掘調査を実施し、遺跡の記録を世 間に公表し後世にのこさ

なければならないという埋 蔵文化財行政の原則が確立されました。もちろん、遺跡地の土地所有者や開発事業

者 にはまず遺跡地での工事計画をできるだけ避け、地下遺構 を保護するような設計の工夫が求められることはい

うまでもありません。しかしそれでもなお地下遺構 に影響を与える工事をおこなわざるを得ない場合、次善の策とし

(8)

て事 前発 掘 調査 が実施 されることとなります(詳細 は文化 財 保 護 法 第6章 埋 蔵 文化 財 を参 照)。

岡山大学 で遺跡 の保 護が課題 になりはじめるのは1970年 代後半からのことですが、本学構 内遺跡 の問題も

以上のような戦後の全 国的な埋蔵文化財保護の歴史と密接に関連しながらおこりました。したがって本学におけ

る構 内遺跡の保護の仕方や発掘調査体制を考える場合 、文化財保護法に基づく全 国的な埋蔵文化財保護体

制とのかかわりを考慮 し、また岡山県教 育委員会や岡山市教育委員会 など所管 の文化財行 政機 関と緊密 に連

携していくことがとても重要になります。

a.構 内遺跡発掘調査の開始からセンター設立まで

岡 山大 学構 内における埋 蔵 文化 財 の調 査 は、岡 山市教 育 委 員会 が

1978(昭

53)年

に鹿 田地 区でおこなっ た立ち会 い調査 から始まります 。県 や市 の教 育委員会 による立会・試掘 調査 は、

1982(昭

57)年

まで続 きました。 本 格 的な発 掘 調 査 は、

1982年

に文・法 。経 済 学 部 講 義棟 北 側 の排 水 管 集 中槽 埋 設 工 事 にともなって文 学 部考 古 学研 究 室 がおこなった遺 跡 調 査 が最 初 の事 例 です 。当時 は小 橋 法 目黒 遺 跡 の調 査 と称 され 、現 在 、津 島 岡 大 遺跡 の第 1次 発 掘 調査 と位 置 づ けられています 。 本 学 における遺 跡保 護体 制 の整備 は、

1982(昭

57)年

か ら本格 化 しました。岡 山大 学 施 設 設 定委 員会 のな かに埋 蔵 文化 財 保 護対 策検 討専 門委 員会 が置 かれたのは、

1982年

9月25日のことでした。翌

1983(昭

58)年

3月1日には岡 山大 学埋 蔵 文化 財 調査 室 設置 要項 が制定 され、同 日、上 記専 門委 員会 のもとで、室 長(兼任 )1名 、 助 手1名 (専任)、非 常勤 職員1名の調査 室が発足 しました。本 学 にはじめて埋 蔵 文化 財 発掘 調査 のための専任 職 員が 配 置 されたのです 。このことは、

1981年

の 医学 部 附属 動 物 実験 施 設新 営 工 事 の際 、行 政 当局 から遺 跡 があるという試 掘 調査 結 果 を通 知 されていたにもかかわらず事 前 調 査 なしに掘 削 工 事 がおこなわれた経 緯 があ り、本 学 における埋 蔵 文化 財 保 護体 制 の確 立 が 内外 から強 く求められていたこととも関連 がありました。 その後本 学構 内では、鹿 田地 区の附属 病 院外 来診療棟 改築 工事 など施 設建 設があいつぎました。翌

1984(昭

59)年

10月1日に調査 室助 手1名の増 員があったものの、鹿 田地 区の 附属 病 院管 理棟 改 築 、医療 短期 大 学 部 校 舎 新 築 、津 島地 区の男子 学 生 寮 改 築 など調査 面積 の大 きい発 掘 に対 応 しきれず 、

1987年

に入 って調査 体 制 強化 のために埋 蔵 文化 財 調査 室 を学則 設 置 のセンター組 織 に改組 す る協 議 が進行 しました。

b.セ

ンターの組織と施設

岡山大学埋蔵文化財調査研 究センターは、岡山大学埋 蔵文化財調査研 究センター規程

(岡

山大学規程 第48

)に

より1987(昭 和62)年

11月26日

に設立されました。高橋克明学長の決断でした。センターの基本方針は岡

山大学埋蔵文化財調査研 究センター管理委員会で決定され、運営委員会がそれを具体化し、センター職員が実

施に移すというシステムでした。2000(平 成 12)年

4月1日

の規程改正では管理委員会が廃され、その役割が部局

2岡

山大学情内における埋蔵文化財の調査体制

(9)

長会へ 移 されました。

2004(平

16)年

4月1日か ら本 学 が 国立 大 学 法 人 岡 山大 学へ 移 行 したのにともない、同日 付 で新 たなセンター規 程(岡山大 学 規 程 第

93号 )が

定 められました。この時 、センター長 が 法 人 の財 務・施 設担 当理 事(事務 局 長)の兼任 となり、新 たに副 センター長(専門的知識 を有 す る本 学 の教 授 )が 置かれました。 センター設 立 当初 の職 員 は、センター長1名 (兼任)と専 任 助 手 7名 、非 常 勤 技 術 補 佐 員 3名 の 陣 容 でした。

1999(平

11)年

6月1日に助 手1名が助 教 授 へ 振 り替 えとなり、

2003(平

15)年

度 末および

2005(平

17)年

度 末 にそれぞれ助 手 ポスト1が 削 減 となりました。

1999年

には「 岡 山大 学 学 内共 同利 用 施 設 における助 手 の任 期 に関す る規 定 」(同年3月25日付 け)の施 行 にともない、本 センターについても

1999年

度 以 後 の新 規 採 用 助 手 に任 期 制 が導 入 されます 。同規 定 は翌

2000(平

12)年

10月 26日に改 訂 され、「任 期 3年 、再 任 可(原則 として1 回、最大 2回 まで)」に条件 変 更がなされました。

2006(平 成18)年 度からは助教授・助手の職名変更がなされました。現在のセンター職員は、センター長1(兼

)、

副センター長1(兼 任

)、

専任准教授 1(調 査 室長

)、

助教

4(う

ち任期付 き2)で す。非常勤技術補佐員

1名

2006年 度末で廃止となり、パートタイム非常勤職員

6名

が出土遺物の基礎 的な整理作業等にあたっています。

センターの施設は、センター設立当初から津 島地区に置かれています。1991(平 成3)年 度には木器保存処理

施設がととのえられました。あいつぐ発掘調査 の結果、出土遺物 の量 は膨大 になっており、恒久施設の確保が課

題となっています。

c.大

学 構 内 遺 跡 を 大 学 自体 が 発 掘 す る こと の 意 昧

民 間開発事業者が遺跡地

(埋

蔵文化財包蔵地

)で

土木工事をする場合、文化財保護法第93条 の規定により

所管の市 町村 を経 由して都 道府県へ届 け出をおこないます。この届 け出に対 し、

都 道府県から工事前 に発掘調

査を実施する必要がある旨の指示があると、一般に開発事業者は県または市町村の教育委員会ないし教育委

員会 関連法人の発掘調査部 門に発掘調査

(報

告書刊行までを含む

)を

依頼し、調査経費を事業者が負担します。

教育委員会やその関連組織が発掘調査を担 当するのは、開発 事業者 にぶつう学術 的な調査能力がないという

理 由のほかに、

発掘調査 を公 的機 関が実施することにより、発掘調査 の学術 的な質と透 明性 を確保 しようとする

意味が含まれています。

岡山大学の構 内遺跡地において施設建設をおこなう場合 、岡山大学 は一面では開発事業者であり、

他面では

事前発掘調査 の実施者 となります 。これは、岡山大学 に考古学 の専 門研 究者が在籍 しており、学術 的な質と透

明性 が確保 される見 込みがあるところから、特殊 な例として認められています。構 内に遺跡地をかかえる全 国の

大学も、同様な扱いです。大学みずからが事前発掘調査を実施するシステムには、調査 の質と透 明性をそれだけ

確保 する責務がともないますから、建設事業と文化財調査 との区別を制度的にも明確 にしておく方が望ましいわ

けです。岡山大学 の場合 、

2004(平

成 16)年 度に国立大学法 人へ 移行 し、埋蔵文化財調査研 究センター長が

財務・施設担 当理事 の兼務となった際、新たに教授 職の副センター長が置かれることとなりました。施設建 設担

当部 門と埋 蔵文化財発掘 調査 部 門が緊密 に連携しつつも、一定 の緊張 関係 を保ちながらそれぞれの職務 分

(10)

担を明確にしておくことは、

大学の発展にとっても文化財保護にとっても有意義なことでしょう。

なお、

大学が教育委員会等と同様に土木工事にかかわる発掘・試掘・立ち会い等の調査を実施するといって

も、それらが所管教育委員会による行政上の指示のもとでおこなわれるものであることイ

まいうまでもありません。大

学に行政上の権限はなく、必要となった土木工事に対し、

全面発掘をおこなうのか、試掘調査をおこなうのか、立

ち会い調査を行うのか、あるいは発掘調査によって重要な遺構が発見された場合にどのような保護措置をとるの

か、といった判断は、基本的には行政機関が法制度に従っておこなうものです。

a.発

掘 調 査 の 実 施 お よ び 調 査 報 告 書 等 の 刊 行

構 内遺跡の発掘調査 は、2007年 度末までに津 島地 区の津 島岡大遺跡 において30次 、鹿 田地 区の鹿 田遺跡

において18次 、三朝地 区の福 呂遺跡において2次 の、計50次 にわたって実施しました。この他のフイールド調査と

しては、多数の試掘調査と立会調査が日常 的におこなわれています。なお、センター発足 当初の1989(平 成元

)

年度には、半 田山演 習林 、

香 川県本 島地 区、鳥取県 三朝地 区など本学の関連施設における埋 蔵文化財の分布

調査を実施しました。

発掘調査 等の成果の公 表については、2007年 度末までに発掘 調査報告書を津 島岡大遺跡 関係 で18冊 、鹿

田遺跡 関係で

5冊

福 呂遺跡 関係で

1冊

まとめ、1983(昭 和53)年 度分から

2000(平

成 12)年 度分までの

F岡

大学構 内遺跡調査研 究年報』

18冊 (1号

18号)、

2001(平 成13)年 度分から2006(平 成18)年 度分までの『岡

山大学埋蔵文化財調査研 究センター紀要』

6冊

を刊行しました。

『岡山大学埋蔵文化財調査研 究センター報』

は年

2回

刊行しており、

2007年 度末で39号

(一

部合併号あり

)を

数えます。この他、1997年 度に

10周

年記念誌『今、

よみがえる古代― 岡山大学埋蔵文化財調査研 究センターの

10年

一 』を、2007年 度に

20周

年記念誌である本書

をまとめ、発掘調査 の成果を一般 向けに解説しました。

岡山大学 は多 数 の大学 院研 究科・学部・共 同利用施設等からなる総合 大学であり、多様 な研 究分 野を擁 し

ています。これまでの埋蔵文化財の発掘調査や整理作業にあたっては、文学部 。

理学部 。

医学部・農学部・環境

理工学部等の研 究部 門から種々の協力・支援を受けてきました。そうした共 同研 究の成果については、発掘調

査 報告書や年報 。

紀要 に随時掲 載してきたところですが、大学構 内遺跡 の発掘調査 を大学 自身の手で実施す

る利点はこうしたところにもあります。

bi橋

内 遺 跡 に 関 す る 新 た な 知 見 と 市 民 へ の 普 及

1997(平 成9)年 度までの発掘調査成果については上記

10周

年記念 誌 に述べ られています。それ以後 の

10

年 間における主な調査 成果としては、津 島地 区では現事務局棟 。

創 立五十周年記念会館・文化科 学系 総合研

究棟 など、キャンパス中央部の遺跡 内容が明らかになったことがあげられます。文化科学系総合研 究棟建設地

では、

縄 文時代から弥生時代 に流れていた自然の川があらわれ、

杭 を打って護岸をしたり堰 を築いて水を引いた

3厠

山大学構 内遺跡 にお

Iす

る発掘調査の成果

(11)

継鰍

賦悩 黙離

g純

索丘

:薫臨ニ

‰ 壌

ましたざ

1娃

│〆

ムで開催しました

(同

ミュージアムとの共催

)。

あわぜてだ未効

田、古代・中世 のにぎわい」、17日1ま「津 島、自然 のなか の縄 文 人」とV〔手冴

演がありました。

l i■

■■

本学構内遺跡発掘調査に関するこれまでの成果については、

上記の「

20年

の発掘成果展」で網羅的に集成。

展 示 したところであり、本 書 の第 Ⅱ部 にその内容 が収 録 されています ので、詳 しくはそれを参 照 願 います 。

1993(平

5)年

2月25日か ら「 岡 山大 学 埋 蔵 文化 財 調 査 研 究 センター 自己評価 委 員 会 規 定 」が 施 行 され 、

1996(平

8)年

10月4日。11月12日にセンター自己評価 委 員会 が 開催 されました。この 自己評価 委 員会 で承 認さ れた報 告 には、「将 来 の改 善・改 革へ 向けた方 策 」としてセンターの省 令 設 置化 が掲 げられ、その具体 化 のため に当時 の文 部省 が進 めていたユ ニバーシティ・ミュージアム構 想 を本 学 でも具体 化 すべ きだとする方 向が示 され ました。ユ ニバ ーシテイ・ミュージアムを構 想 す る課 題 は、センター設 立 10周 年をひかえて作 成された文 書「 岡 山 大 学埋 蔵 文化 財 調 査 研 究 センターの現 状 と将 来構 想 について」

(1997(平

9)年

1月29日岡 山大 学埋 蔵 文化 財 調査 研 究 センター管 理 委 員会承 認)においてさらに具体 的 に述 べ られとところです 。

1999(平

11)年

度か らは文 学 部・理 学 部・医学 部 。埋 蔵 文化 財 調 査研 究 センターなど学 内

13部

局か ら委員・ オブザーバ ーが参 加 して「 岡 山大 学 総合 研 究博 物館(仮称 )構 想 検 討 会 」がつ くられ、センターの枠 を越 えた全 学 的な推 進 運動 が活発 化 しました。同検 討 会 は、

1999年

度 には教 育研 究学 内特 別経 費 の交付 を受 け、冊子『岡 山大 学 自然 と人 間の共 生 博 物 館 ― 新 しい大 学 博 物 館 をめざして一 』を刊 行 して具 体 的な構 想 を明 らか にす る とともに、学 内学術 標 本 のデータベ ース作 製 を実 施 し、その成 果 を『岡 山大 学 自然 と人 間の共 生博 物 館 一 新 し い大 学博 物 館 をめざして一 、資料 。研 究 編 』に収 録 しました。

2000(平

12)年

4月に決 定 され た「

21世

紀 の 岡 山大 学構 想 」では、大 学 図書館 の整備 とともに大 学博 物 館 の設 置 が学 術 情 報 基 盤 の整 備 項 目としてとりあげら れました。

2000(平

12)年

■ 月30日・12月 22日に、埋 蔵 文化 財 調 査 研 究 センターの2回 目の 自己評価 がおこなわれま 濁

4自

己評価・外部評価と将来構想

(12)

I.遺 跡の保護 と岡山大学埋蔵文化財調査研究センターの

20年

した。この折 には外 部 評価 も合 わせ て実 施 し、外 部 評価 委 員として岡 山県教 育 委 員会 文化 課 長・岡 山県古 代 吉 備 文化 財 センター所 長・岡 山市教 育委 員会 文化 課 長 の3氏 が委 嘱されました。ここでも大 学博 物館構 想 の推 進が 掲 げられたのです が、その後 、文部科 学省 におけるユニバーシティ・ミュージアム設置方針 に変更があり、目標 は未 達成 のままとなっています 。国立 大 学法 人化 により埋 蔵 文化 財 調査研 究 センターの省 令 化 の 目標 は意 味がなくな ったのですが、本 学 における研 究科 。学 部を越 えた総合 的な博 物館 の設 立 はなお意義ある課 題と考えられます 。

1999(平

11)年

9月 29日、岡 山大 学埋 蔵 文化 財 調 査研 究 センター管 理 委 員会 において「 岡 山大 学津 島地 区 東北 隅地域 の遺 跡保 護 について」が承 認されました。これは、津 島 岡大 遺跡 第3次 。15次・

17次

等 の発 掘 調査 成 果により津 島地 区東 北 隅地域 に縄 文 時代 を主 とする遺構 が濃 密 に埋 もれていることが判 明したため、隣接 する未

発掘地約

17,000ド

を「遺跡保護 区」に設定し、地下遺構 の損壊に至るような新たな施設建設を計画しないよう求

めたものです。そして同年

12月 22日

、施設設定委員会において施設長期計画配置図の遺跡録護区の範囲を明示

することが了承されました。

本学では1982年 以来50次 におよぶ発掘調査 がなされましたが、いずれも調査後、遺跡 は建設工事で消滅して

います。文化財保護法は所有者が文化財をできるだけ大切に保護するよう求めています。その意味で、遺跡保護

区の設定は文化財保護の積極 的なこころみといえます。埋蔵文化財が濃密 に分布する地域を建設工事からはず

すことは、多額の発掘調査経費がかかることからも、合理 的な判 断といえそうです。しかし文化財保護法に基づく

史跡指定とイ

よ異なり、遺跡保護区のような学内措置はあくまでも大学の自主性と良識によって保たれるものです。

構 内遺跡の保護措置が将来もながく維持され、可能ならば遺跡公 園として整備し、

学生や教職員そして周辺住民

の学習の場、憩いの場になることが期待されます。

大学 は施設建 設にともなって事前発掘調査 という法的な義務を呆たさなければならないのですが、仮に事前発

掘調査を教育委員会等に委託した場合 、高額の調査経費を負担しただけで大学には何も残らないわけです。大

学 自身で埋 蔵文化財を発掘調査 することにより、学 内諸研 究分野の共 同研 究を推進し、発掘調査 の成果を学術

的に活用するとともに、一般市民にもひろく成果を発信して大学と市民との豊かな結びつきを構築することができま

す。こうした利点は、すでにセンターの

20年

間で十分実証ずみの内容です。将来、本学の大学博物館が設立され、

遺跡整備がなされるなどした場合には、岡山大学の

1牛

単な知寧

1祟

r´牽ョ

高くなるに違いありません。岡山大学

埋蔵文化財調査研究センターが次の

10年

に向かって果たさなければならない役割は、ますます大きくなるのではな

いでしょっか。

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(13)

1岡

山平野の成り立ち

① 岡山平野の地層

岡山平野の地下は、どうなっているのでしようか

?

下の図は、

北は半田山から南は児島半島

(▲

北から▲南

)ま

での、地層断面を模式図的に示したものです。

黒色の地層

(泥

え層

)は

かつてそこが陸地で、

植物が生い茂っていたことを示しています。約

2万

年前の氷河

期の只中、

海水面は今よりずっと低かったのです。

完新世

(約1万

年前∼

)に

なると、気候はしだいに温暖化し、かつての陸地は海に沈んでいきました。旭川

などが運ぶ土砂が海を埋め立て、

新しい岡山平野ができはじめるのは、

縄文時代中期後半頃

(約4,500年

)

からです。

キロ山

津島キヤンパス

Jヒ 中 世 の 地 表 面 鹿 田キ ャ ンパ ス

弥生時代後期の地表面 姶良舜沢 (AT) ∪ 約2:,000年 前 rO忌 O D ※深さは水平置離の約1011倍に拡大しています 5 km 0色 nS Oつ 0

鈴木茂之

2004「

岡山平野における最終氷期最盛期以降の海水変動」

『OKAYAMA University Earth Science RepOrts』 Vo!.1l No.l pp.33‐

37を

も と

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(14)

② 岡山平野の遺跡 と海岸線の復元

岡 山平 野の中央 部 には、旭 川が南流 しています 。津 島岡大遺跡 と鹿 田遺跡 は、その旭 川の西岸 にのこ

された遺跡 です 。津 島岡大遺跡 は、北狽

1に

半 田山丘 陵を背 にし、その南側約

5 kmの

位 置 に鹿 田遺跡 があ

ります。

現在 の海岸線 は、近世以 降の干拓などによって、津 島岡大 遺跡から約

1lkm南

となっていますが、津 島岡

大遺跡 に「縄 文人」がムラをつくった頃はどのあたりにあったのでしょう。左 図のピンク色が示す縄支時代の

縄文時代の海岸線 遺 跡 分 布 は、津 島 岡大 遺 跡 周 辺 に限 ら れています 。それ に加 えて、周 辺 遺 跡 の 調 査 成 果 を参 考 にす ると、海 岸 線 は現 在 よりはか なり北 の津 島 岡 大 遺 跡 か ら 南 に

lkm程

度 まで、入 りこんでいたこと が予 想 されます 。 その後 、鹿 田遺 跡 にムラがつ くられ始 める弥 生 時代 には、平 野 はどれ くらい広 がっていたのでしょう。オレンジ色 が示 す 弥 生 時代 の遺 跡 は、その数 や分 布 域 に おいて縄 文 時代 から大 きく変化 しており、 平 野 部 の南側 に向 けて分布 域 を拡 大 し ています 。その南 限 は鹿 田遺 跡 周 辺 を 示 しており、付 近 に海 が 近 いことが 考 え られます 。ただし、鹿 田遺 跡 では弥 生 時 代 の水 田の存 在 が確 認されている点や、 現 在 の地 形 図 にのこされる地 形 の乱 れ などを参 考 にす ると、当 時 の海 岸 線 は、 少 なくとも鹿 田遺 跡 か らさらに

lkm前

後 は南 に下 っていると予想 されます 。 津 島 岡大 遺 跡 か ら鹿 田遺 跡 まで約4

km程

度 。その 間 の平 野 が縄 文 時代 後 期 か ら弥生 時代 中期 までの約

2000年

の 時を経 て形 成 されていったことが窺 われ ます 。 0 1 日 : 日

(15)

211岡

大キヤー

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パスに埋も

│れ

.津

島向大遺跡と鹿―

1遺

岡 山平 野 を南 北 に流 れる旭 川 。津 島 岡大 遺 跡 と鹿 田遺 跡 は、その西 岸 域 に位 置 す る岡 山大 学 津 島キャンパ スと庇 田キャンパスの地 中に眠っています 。

① 津島同大遺跡

自 然 に と け 込 む 縄 文 人 の 生 活

半 田山の山裾 にあたるこの地にムラができたのは、今から約4000年 前 にさかのばります。周 囲に広がる豊

かな自然からは、さまざまな生活の糧が得られていました。

住居の近くと

こは、川辺にドングリを蓄えた穴がつくられていました。ずらりと並ぶこうした貯蔵穴の中にのこさ

れたトチやカシの実の山は、森のめぐみの豊かさを語っているようです。津 島岡大遺跡に接するように位置す

る朝寝鼻貝塚では、ヤマトシジミも貝塚となって埋もれています。さまざまな道具を作り出す石器の材料も、まと

めて置いた状態でのこされていました。自然を活かし最大限に利用した縄文人の知恵が、いろいろなところに

見え隠れしています。

また、出土した色鮮やかな装身具は、当時の人びとの姿を紡彿とさせます。水銀朱で鮮やかな赤色に彩ら

れた櫛や耳飾り、そして緑色の光沢を放つ石製の指輪は、身体を飾る人びとのときめきをも伝えてきます。

田 を 拓 き 稲 穂 み の る

弥生時代から始まる田んぼでのたゆみない営み。

「津 島ムラ」の人びとの新たな取り組みは、かつてこの地

に生活していた縄支人の生活を、大きく変えていきます。

発掘調査 によって、地 中から姿を現した水 田の畦畔や用水路 。古 くは、

水稲 農耕が日本列 島に伝わった早

い時期までさかのぼることができます。その後、明治に至るまで作られ続けるなかで、水 田の面積は徐々に大き

くなり、水利施設も整備されていきます。平安時代 になると、

水 田の区割 りは地形に沿った不規則なものから、

東西南北を意識した方形の地割リヘ と整えられます。

また、洪水の爪痕ものこされています。こうした痕跡は、さまざまな苦労のなかで土地に向き合う人びとのたく

ましさを伝えてくれます。

命 と 向 き 合 つた 戦 い の 痕 跡

こうした田園風景も、

1907(明

40)年

に始まる旧日本陸軍の屯営地設営工事によって、大きな変貌をとげ

ます。山はきり崩され、

津島キャンパス内は厚さlmに およぶ盛土によって覆われ、

現在の地形ができあがりまし

た。わずかにのこされたトロッコ軌道の跡は、当時の人びとの懸命な労力を示す証人といえるでしょう。

その後、

1945(昭

20)年

まで、

この旧日本陸軍屯営地では、多くの若者が兵隊として暮らし、戦地へ向

かっていきました。現在にのこる当時の建造物には、

その記憶が刻まれています。

1947(昭

22)年

には新制

岡山大学となり、

21世

紀に羽ばたこうとする現在の岡山大学を、

この遺跡は見守っています。

(16)

Ⅱ.自然 と人間、地中に埋もれた命の対話

-20年

の成果 ―

② 鹿 ■遺跡

ムラができるのは、弥生時代 中期、約2100年 前です。その後 中世まで、住居跡や井戸が数多く発見されて

います。ムラは一時的な衰退を経ながらも、この地では約1500年 の長きにわたって、日常生活の場が続いたの

です。

自然 に寄 りそうムラの暮 らし

弥生時代∼古墳時代のムラの中には、

住居の近くに乳児の墓がつくられています。大きな壼形土器に遺骸を

納めて、

鉢で蓋をして埋葬されています。かろうじてのこった乳歯は、

その幼子が

3ケ

月に満たずしてなくなったこ

とを語ってくれます。子供の死に向かう思いはどのようなものだったのでしょう。コントロールできない自然への畏

敬の念。大量に出土する土器のなかには、

「まじない」を思わせる遺物が数多く見つかっています。

海岸近くにつくられた一つのムラの生活。そこには人びとの自然へのおもいが眠っています。

荘園のせ界 一土地の大改造一

平安時代には、

鹿田キャンパスの土地景観は、

弥生時代の起伏に富んだものから、

平坦な地へと姿を変えます。

自然地形を無視し、自らの都合で自然をコントロールしながら、地割りを行おうとする人びと。そうした土地開発で

荘園はできあがっていきます。

鹿田の地にひらかれた「庇田ピ」も、

そうした荘園の一つです。

鹿 田遺跡の中央には、際立って大きな丼戸や建物群が棟をそろえて建っていました志敷地の端で見つかった

橋の跡は、

物資流通の主要ルートであったことを、

誇らしげに語りかけてきます。文字資料やまじないの道具の品

は、

荘 園管理に関わりの深い地であり、

京の都 と強くつながる、

そんなムラの存在を窺わせます。平安時代末∼

鎌倉 時代に、ムラはさらに姿を変えます。溝で区画された屋敷地が、

敷地内に計画的に配されていきます 。そし

て鹿田遺跡の東側、現在の旭川西岸周辺には「市」がたっていたことを、鎌倉時代に結かれた「荒野庄絵図」

が教えてくれます。遠隔地から運び込まれたる物資。人びとの往 来や猿 回しなどの芸能民がこの地を訪れた

足跡。生き生きとしたにぎわいが伝わってきます。人びとの営みの力強さを、地下にのこされた遣構や遺物がささ

やいています。そして、間もなく平安貴族の荘園である「鹿田庄」が終焉を迎えることも。

,

摂政・関白を輩出する藤原摂関家の氏長者が、代々受 け継ぐ 日亀出 産刊

「藤原家の殿下渡 り領」の一つである。藤原氏 にとつて特 に 重要で格の高い荘園であり、文献史料 にたびたび登場する。

命 の科学

時代 は下って、

1922(大

11)年

には、医科 大 学校 が建 設されます 。今 にのこる煉瓦建 物や門などの一部 は、近 代 化 遺 産 として国の登 録 文化 財 に指 定 されています 。こうした建 造物 から、当時の医学校 にかける人 びとの期待 が忍 ばれます 。その伝 統 が 岡山大 学へ と続 いていくのでしょう。

さ あ 、あ な た 七

lt中

に 埋

Itれ

た 命 と 封 言舌 し て み ま せ ん か 。

(17)

3水

とめぐみ二猾猟・ 採集から農耕ヘー

縄 文 時代 中期後 半

(約

4500年 前)以 後、旭川が上流から運んでくる土砂で埋まりながら、岡山平野はしだい

に広がっていきました。津 島キャンパスの地下からは、縄文人・弥生人の生活の痕跡がそのような土砂でパックさ

れた、良好 な保存状態でしばしば見つかります 。最初 に人が住みはじめた確 かな痕跡 は、縄 文時代後期

(約

4000年 前

)の

ものです 。ここでは、縄 文時代 から弥生 時代 の生活様式の変化が、人と自然との関わりをどのよう

に変えたのか、ナ

H辺 の景観の変化をたどりながらみることにしましょう。

いつの時代も水 のめぐみは私たちの暮 らしに欠かせないものです。弥生時代 の本格 的な農耕 のはじまりは、

人 間が旧石器時代以来つづけてきた狩猟と採集を柱 とした暮 らしはもちろん、人 間と自然との付 き合いかたをも

変 えるものでした。縄 文人 は、半 田山や旭 川がもたらす森や水 のめぐみを巧みに利用していました。一方、弥生

時代 に大 陸から水稲 農耕 が伝 わると、人びと

1ま

森 をきり、田畑を拓 くことで豊かさを求めるようになりました。自然

と一体になって息づいていた縄文人にくらべ 、弥生人は積極 的に自然と対話し、時には立ち向かうようにさえなっ

たのです。現代の私たちと自然環境との関わりの根源は、弥生時代にはじまるといえるのかもしれません。

① 貯 蔵 穴 か ら水 田ヘ

縄文時代の自然と暮らし

縄 文時代後期 頃の津 島キャンパス周辺には、旭川の支流がいくつも流れこんでいました。下 図の風景画

は、半 田山から見下ろした当時の景観を、これまでの調査成果をもとにナ

‖の流路や土地利用を復元して、描

いたものです。ムラは川にはさまれた微 高地上を中心に営まれていたようです。津 島キャンパスの北東部

(環

境理工学 部周辺

)で

は、2軒 の住居跡を含む多 くの遺構が密集した状況で見つかっています。川辺には貯

蔵穴を設 け、森 で集 めたドングリを貯 えていました。そのほか、ナ

Hの 流れに沿って打ち込まれた杭 列

(文

」 ・ ,rl t 、1、 Fと ぃド滝卜」`ll:斗 tうとを '11: (復原 図:伴祐 子) │―

編文時

1代

後期頓

01岸

島キャン不嘉爵理I

(18)

科 学 系 総 合 研 究 棟 )や 、ムラは ず れ で焚 き火 をした痕 跡(事務 局 本 部棟 、附属 図書 館 、総合 情 報 基 盤 センター、創 立

50周

年 記 念会館など)も見つかっています。 ムラとその周 囲 に広 が る暮 らし の場 、そして自然 環 境 の 関係 が 発 掘 調 査 であきらか になってい る点 は、学術 的 にも重 要 な成 果

です。

遺跡 か らは石 の矢 じり

(石

)や

、絹 につけるた

めのおもり

(石

錘 )が 見つかります。これらの道具類

は、

縄文人が貯蔵穴から見つかるドングリのほかにも、

狩 りや魚捕 りといったさまざまな活 動 によってこのム

ラでの生計 を立てていたことを想像 させます 。津 島

キャンパス周辺 は、半 田山と旭川の支流からのめぐ

みを享受することのできる、住みやすい土地だった

のでしょっ。

これらの収穫物 は、土器で煮炊きして調理してい

たと考えられます 。縄 文時代 のあいだにはさまざま

な器形 の上器が作 られましたが、基本 となったのは

深 鉢 です 。深 鉢 の表面 によく見 られる黒 いススは、

食物 の煮炊 きに用いられた際についたものでしょう。

土器のなかには東海・北 陸地方など、遠方との交流

をうかがわせるものもあります。

貯蔵穴の使用法

津 島 岡大 遺 跡 に暮 らした縄 文 人 の生 活 をよく物 語 る遺構 に貯 蔵 穴 が あります 。彼 らは、川辺 にほった 穴 にドングリ(アラカシ・イチイガシなど)や トチの実 を たくわえていました。密 閉した状 態に保 っておくことで、 虫や乾 燥 か ら防いで、生 のまま保 存 す る工 夫 だった ムラの広 がる微 高地 と川 辺 に並 ぶ貯 蔵 穴 (津島岡大遺跡15次:新技術研究センター) 津島岡大遺跡6次・5次 中:工学部生物機能 工学科棟 下:大学院自然科学 研究科棟 貯 蔵 穴 の使 用 状 況 (上)と 出上 したア ンペ ラ(中)。ドングリ(下)

(19)

ヤマグワ

コ ィ 碁 ´ 視す ゛

ようです。カゴ状の編み物

(ア

ンペラ

)を

下に敷いてドングリを入れた例や、まれに上器の中に入れて県存し

た例もあります。粘土や石でふたをすれば天然の冷蔵庫のできあがりです。

貯蔵穴のなかの土からは、ドングリを主とする堅果類以外にもじつにさまざまな植物の種が見つかります。

果実が食用にできる植物の代表的なものは、野生のイチゴ

(ナ

ワシロイチゴ

)や

ヤマブドウ、ヤマグワ、雑草メ

ロンなどです

(上

写真

)。

これらの種は、保存していたものというより、貯蔵穴を埋める際にまぎれこんだものと

考えられますが、当時の食卓や植生のようすを知る手がかりと

こなります。

水 稲 農 耕 の は じま りと 弥 生 時 代 の 暮 ら し

弥生 時代 の本格 的な水稲 農耕 のはじまりによって、津 島キャンパス周辺の景観と人びとの暮らしはどのよ

うに変わっていったのでしょうか。次頁上 図は、弥生 時代前期 頃

(約

2700年 前

)の

半 田山ふもとの景観を復

元したものです。旭川の支流が入り込んでいる点は、縄文時代 と変わりません。しかし、川辺には水 田が広

がるようになり、土地利用は大きく様変わりしました。キャンパス内で水 田の広がりが確認されたのは、附属 図

書館 。

新技術研 究センター・工学部周辺

(生

物機能工学科棟 、情報工学科棟

)な

どです。この時期のムラは、

すこし南側 に位 置する津 島遺跡

(岡

山県総合グラウンド内

)で

見 つかっています。また、文化科学系総合研

究棟 の地下からは、堰 が見 つかっています。西にのびる水路の方面にも水 田が広がっており、そこに水を引

いていたのでしょっ。

弥生時代前期 の水 田は、

1区

画の面積 が

2∼ 8m2と

現代 のものと比べ ると非常に小さく、形も不揃いな点

(20)

″拶 1,ィ_!' Wギム 惚 渤 番 (復原 図:伴祐 子)

が大きな特徴です

(右

上図

)。

機械を用いた大規模工事のできない時代の、

もともとの地形傾斜を利用して、

水田に水をいきわたらせる工夫だったのでしょう。用水路がほとんどみつからないため、

雨水を利用した水田

/ F ′ ● イ ー イ ち ′ た 肝 一

だった可能性もあります。

弥生時代後期

(約2000年

)に

なると、

面積 は

3∼20mつ

とやや大きくなります。

人工の用水路が通され、区画も整ってき

ます

(次

頁上 図

)。

同時期 の水 田は、岡

山平 野 の各 地 で見 つかっており、岡 山

市 百 間川遺跡群 の広 大 な水 田地帯 は

よく知られています。

初 期 の水 田づ くりの苦 心 は、秋 には

豊かな稔 りとなってかえってきました。多

彩な自然利用を行った縄文人とは異なり、

弥生 時代 の四季 の生活 は、

稲作 を中心

に編みなおされていったのでしょう。

土器 は、煮炊きをする奏、料理を盛る

高杯 や鉢 のほか、

稲籾 の貯 蔵容器だっ

たと考えられる壷が定着します。収穫 を

弥生 時代 前期 の水 田 (津島岡大遺跡3次 。15次・12次) 上:新技術研究センター、下:附属図書館

(21)

祝うお祭 り用 の上器もあったで

しょう。

鍬や鋤といった農具も、弥生

時代 の最初 の頃は木で作 られ

ていたものが、終わり頃には鉄

器に代わっていきます。

弥 生 時代後 期 の水 田(津島岡大遺跡) (津島岡大遺跡3次 。15次:新技術研究センター)

② 縄文時代 に農耕 はあつたか

津 島岡大遺跡から出土した縄文時代後期 の上器の胎土には、イネのプラント

・オパール

(ガ

ラス質の細胞

)

が含まれていました。総社市南溝手遺跡からは籾の痕がついた土器片がみつかっており、縄文時代後期から

すでにイネがあった可能性があります。

弥生時代 の石製の穂摘み具と似た摩減の痕をのこす石庖丁状の石器、土掘り具とされる石鍬が多くみつ

かることも、

縄文時代 の植物栽培の存在を裏づけるものかもしれません。

とはいえ、縄文時代後期以前の遺跡から水 田が見つかった例は現在のところありません。イネを栽培してい

たにしても、弥生時代以後とは異なり、当時の生活の根幹をなしていたわけではなさそうです。

藝 土 器 片 中 からみつ かったイネの プラントオパ ール (津島岡大遺跡5次 、縄文時代後期) 打製石庖 丁:穂摘具 (鹿田遺跡1次 、弥生時代) 石庖 丁状 の石 器 (津島岡大遺跡21次 、縄文時代後期) 縄文農耕に関連する資料

(22)

鋲 寄

蛤鶯∵

や ヽ 空 血 対 ぺ →   ゞ ヤ半 く   ヽ , ゴ

哉【サヌカイト

原産地

f:二

砂岩・粘板岩含む蛙積岩

軍口結晶片岩含む変成岩

板 状のサヌカイト剥片の集積 (津島岡大遺跡15次:新技術研究センター、縄文時代後期)

③ 聞拓 の 時代 の

Iよ

じまり

石器から鉄器ヘ

弥生 時代 に水 田が定着 していく背景 には、自 然へ の新 たな挑 戦 を可 能 にす る道 具の導入が ありました。朝鮮 半 島から鉄器がもたらされたの です。 津 島岡大遺跡では縄文時代 以来、近 くでは半 田山の細粒砂 岩を用いて石鍬 を、遠方では瀬戸 内海をはさんで約

30kmの

香 川県でとれるサヌカ イトを材料 に石鏃などの道具を作っていました。 製鉄技術 のなかった日本列 島では、鉄の入手 には遠 方との交易が不可欠でした。鉄器の導入 は、便 利 さをもたらしただけでなく、それまでの石 器材料 を媒介 とした隣接 地域 との交流 に、新 た な地域 。人 間集 団との交流をつけくわえることで、 当時の社 会に大きな変革をもたらしたにちがいあ りません。 (津島岡大遺跡19次 、弥生∼古墳時代)

(23)

水 と の た た か い

水稲農耕の導入は、

水を管理する工事のはじまりでもありました。

津鳥岡大遺跡では、

縄文時代後期に川岸に抗を打ち込む工事をしており

(下

図の左上写真

)、

この時期

のものとしては全国的にも珍しい例です。しかし、堰で人為的に流れを変えて、微高地に水をひきはじめるの

は弥生時代前期になってからです。堰は川幅のせまくなる場所の浅瀬がわに、流れに直交するかたちでつ

くられています

(下

図の下2枚 写真

)。

堰と水をひきいれる水路とは、約7mと 少しはなれていますが、

堰のつ

くりだす水圧に押されるかたちで、淵がわの水が流れこむ仕掛けになっていたようです。古代

(10∼

H世

)

の水路には、さらに複雑な水の管理がうかがえます

(下

図の右上写真

)。

水路には主水路と副水路があり、

主水路に打ち込まれた杭列は、副水路に水を押し上げるとともに、水流を蛇行させて勢いを調整する役割も

果たしていたようです。

水際に打ち込まれた杭は、時代によって加工方法に違いがみられます。縄文時代のものは枝を払ったり、

焼きを入れたりした簡素なもの。杭先の焼き入れには防腐効果があったようです。弥生時代のものは、大陸

から伝わった伐採用の蛤刃石斧で、伐り出してきたのでしょう。杭自体にもずっしりとした重量感が加わります。

古代の抗ともなると、鉄器の鋭い切れ味を残す加工痕が見られます。

古代 の水路(津島岡大遺跡6次:工学部生物機能工学科棟) 弥 生 時代 の堰 (津島岡大遺跡23次:文化科学系総合研究棟) 縄文時代の杭列(津島岡大遺跡23次)

(24)

4心

といのリー 自然への畏敬 と命―

キャンパスに生きた縄 文人や弥生人は、自然と人 間に何をおもい、

何をいのったのでしょうか。

自 然

弥生時代 は、豊かな自然 の命 を受 け取 るための、新 たないのりを生み出しました。岡山大 学のキャン

パスからは、水 田の水 口にささげられた壷や赤色文様の土器などが発見されています。豊作へ のいのり

1よ

、時代

を通して発展していきました。

人 間

縄 文 時代 と弥生 時代 は、人 間の命へ の独特 の感性 がつちかわれた時代 でもあります。縄 文社 会 にと

って、

「美」が重要であったことは精巧なアクセサリーの存在が物語 ります 。弥生人の心 は、性 的な象徴 である石

棒 や、顔を強調 する人面線刻 土器など、からだを表わす造形 品のなかに見 出されます。人 間観 や世界観 は、社

会 の移 り変わりのなかで変化 しました。また子 ども用の構

(土

器棺

)か

らは、命 の尊さへ のおもいが、時代の作法

で表現されたことを教えてくれます。

① 自然 へ の畏敬

水国のまつり

弥 生 時代 の はじめごろ、津 島キャンパスでは農 耕 が 開始 され ました 。水 をいか に制 御 す るか― 自然 と の新 たな関係 のはじまりでもありました。 水 を田んぼにひくために、川 には堰 が作 られました。 その堰 と導 水 路 との 間か らポツリと出上 したのが 、小

型の壺です。据え置かれたかのように出土したこの

壼は、水 回のまつりで使われたものと推定できます。

自然をたくみに利用しながら堰を築いた弥生人は、ま

つりを成功させることによって、豊かなみのりを確かな

ものとしたかったのでしょう。

うつ わ と い の り

弥生土器は、

ふだんの食事の場だけでなく、ムラで

執 り行 われる農耕 のまつりの場 でも活躍 しました。 弥生時代 中期 中頃には、物を高く捧 げるための台(器 台

)が

、九 州をのぞ く西 日本 において出現 します 。まつ りの後 は、他 の道 具 とともに埋 められることもしばしば でした。 捧 げものを入 れる容 器 には、壷 がよく選 ばれました。 津 島岡大遺跡 では、赤 い顔料を「ノ」字形 に塗った、め ささげられた小型壺 (津島岡大遺跡23次:文化科学系総合研究棟) 穴 に埋 められた土器 (鹿田遺跡1次:医学部附属病院外来診療棟)

(25)

ずらしい直口壷

(弥

生時代後期

)が

発見されています。

この直 口壺 は穴の中から出上しました。同じ穴からは、壼の底の

大きさ・形状がよく一致する高杯 がみつかっています。岡山市百 間

川原尾 島遺跡から出土した、直口壷と高杯形の台とが一体となった

土器にも、よく似た彩文がみられます。津 島岡大遺跡の彩文つきの

直 口壷も、高杯 を器 台のように利用しながら、捧 げられていたものと

考えられます。

まつりと

こ使用されたうつわには、わざと小さく作られたミニチュア品

もあります。手づくねによるものと、ていねいなつくりのものに分けられ

ます。ミニチュア品は弥生時代の後半から多くなる傾向がみられます。

自然 に対するいのりの作法 は、

新 たなうつわが考案される中で発

展していきました。

こころ とか らだ

縄文時代の装い

津 島 岡大遺跡からは、縄 文 時代後期(約

4000年

前)のアクセ サリーとして、櫛1点と耳飾 3点 、指輪1点が出土しています 。

櫛 は、歯の部分を失っていますが、のこっている漆と水銀朱が

塗られた部分から、

優 美なすがたをうかがわせる資料です。岡

山県内では、この資料のほかに

1例

が知られるのみです。

指輪 は、

石を加工したものです。女性の小指にようやく入るほ

どの大きさです。石製の指輪は、

全 国的にみても珍しいものです。

耳飾は、

耳たぶに開けた穴に装着する、

ビアス形式のものです。

耳飾の装着 自体が、通過儀礼などのまつりと深く結びついていた

とも考えられています。

これらのアクセサリーについては、西日本では女性が身に着け

ることが一般的だったようです。また、だれもが身に着けられるも

のでもなく、特定の人物の装いだったものと考えられます。

人形土製品と石棒一弥生時代前期―

弥 生 時代 の はじめには、縄 文 文 化 の流 れを引 く、性 的象 徴 をクローズアップしたか らだの表 現 がみられます 。 津 島 岡大 遺 跡 か らは人形 土 製 品と石 棒 が 出土 しています 。 彩 文 の直 口重 と高杯 (津島岡大遺跡10次:保健環境センター) 上:櫛(5次、大学院自然 科学研究科棟) 中:耳 飾 (左:5次 、大学院自然科 学研究科棟 右:15次、新技術研究セ ンター) 下:指 輪(3次、新技術研 究センター) 縄文 時代 の装身具 (津島岡大遺跡) 人 形 土 製 品 は 、女 性 の 胸 をあ らわ す と考 え

(26)

られる2つ の突起 が貼 り付 けられており、縄 文 時代 の上偶 の系 譜 を引 きます 。 石 棒 は、男性 の生殖 器 を模 したものです 。西 日本 における石 棒 の生 産 地 である徳 島県 で産 出されたと推 定 される結 晶片岩 でできており、遠 方 か ら持 ち込まれたものです 。

分銅形土製品一弥生時代 中期∼後期―

左 右 にえぐりをもつ特 徴 的 な形 か ら、分 銅 形 土 製 品 と呼 ば れ ています 。岡 山県 を中心 に、中 国・四 国地 方 、近 畿 、北 陸ま で広 が るまつ りの道 具 です 。岡 山大 学 キャンパスをはじめ、岡 山県 南 部 の弥生 人 は、とりわけこの土 製 品を好 みました。 分 鋼 形 土 製 品 には、バ ラエ テイに富 む顔 や 、太 い眉 などが 描 か れ 、形 自体 もか らだの表 現 と考 えられます 。性 的な象 徴 で はなく、顔 や眼 を重 視 す る中 国地 方 の銅 鐸 と似 ています 。顔 や 眼 に、特 別な価 値 を見 出す 思想 が、中国地

方にひろがっていたようです。

縣 面一 弥生 時代 後期 ∼終末―

弥生 時代 も終 盤 になると、日の周 辺 や頬 に何 本 も線 を入 れた顔 の表現 が、九州から東 海、関東 にか けて広 まります 。

こうした顔の中の線は、魏志倭人伝にみられるイレズミでは

ないかとする説があります。イレズミであるならば、

倭人伝の

記述から、この文様をもつ資料は男性の可能性があります。

鹿田遺跡から出土した高杯には、

2体 の顔が描かれてい

ます。そのうち、上の1体 は、顔の左半分のみがのこってい

たものですが、限の下に3本 のイレズミ状の線がみられます。

人面線刻土器 (鹿田遺跡1次:医学部附属病院外来診療棟) また、津 寺 遺跡(加茂小 学校)でも、岡 山市教 育委 員会 の調査 によって、鹿 田遺跡 の資料 とよく似 たイレズミ状 表現 をもつ土製 品が発 見 されています 。

死者へ のいのり

弥 生 時代 後 期 の土 器 棺 は、壼 や 高杯 などを使 って 棺 にしたものです 。遺 骸 を入 れ る身 の部 分 と、蓋 か ら なります 。土 器構 は、おもに子 ども用 です 。 鹿 田遺 跡 の上 器 棺 か らは、乳 児 の歯 が みつ か りま した。大 人 と子 どもで墓 地 の場 所 が 区別 され てお り、 両 者 でいの りの内容 がちがっていたようです 。 分銅形土製品(鹿田遺跡) │●

取り除かれ

た壷の 口

/

./″

│ 土器棺(鹿田遺跡1次:医学部附属病院外来診療棟)

参照

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