聖 書 マタイによる福音書 5:33~37 (第 17 講) 題 「なぜ誓ってはならないと言われたのか真意を知る」 (序)神にのみ向う信仰の本道に向かっているか * なぜ人間は、人に良く見てもらいたいという願望が強くあ るのでしょうか。この意味で人間は、欲の塊だと思わされ ることがあります。人を意識しすぎるし、自意識も過剰で あると思わされます。もちろんそれがすべて悪いというわ けではありませんが、ともすれば害となることがあるとい うことを忘れてはなりません。 * まだ衣、食、住、持ち物などであれば、美意識と言うこと で、愛嬌で済みますが、それが信仰にかかわる事柄となる ならば、愛嬌では済まされないのです。どういうことかと 言いますと、人を意識し過ぎるあまり、神に向かわず、人 に向いてしまい、信仰に害をもたらす結果になるからです。 もちろん、人に僅かも目を向けないと言うことは誰にもで きることではありません。ですから、信仰に害をもたらす ほどでなければ、それは問題ではありません。問題は信仰 に害をもたらすことになるかどうかということです。 * その害となっている姿がどんなものであるかを、この書の 後半において、イエス様は具体的に指摘しておられます。 律法学者やパリサイ人たちは、見栄で人目に付くように、 経札(ユダヤ人が祈祷の時に身につけたもので、それをひ もで結んでいる)を幅広く作り、その衣のふさを大きくし、 また、宴会の上席を好み、広場であいさつされることや、 人々から先生と呼ばれることを好んでいるとイエス様は指 摘なさいました。神に向かうはずの信仰姿勢が、彼らの信 仰から消えてしまっていたのです。(マタイ 23:5~7)
* なぜ彼らはそうしたかと言いますと、神の前に立たないで、 人の目だけを意識し、人から立派だと見てもらうことを快 く感じるようになっていたので、そのためにできるいろい ろな工夫をしたのです。これが信仰に害をもたらす結果に なっていましたから、彼らのことを、偽善な信仰者だと言 われました。偽善とは、舞台上で仮面劇を演じる役者のこ とを意味します。そこから、見せかけだけの人と言う意味 で偽善者と言われています。 * イエス様は、彼らのことを、見せかけを重んじる偽善者と 言われました。しかし彼らだけではありません。人間とい うのは、誰しも偽善を行いやすい要素を持っていると言え るでしょう。それが、自分を自分以上に良く見せたいと言 う願望として表に出てくるのです。主が預言者サムエルに 言われたお言葉に、こういうお言葉があります。「人は外の 顔かたちを見、主はこころを見る」と。(サムエル記上 16: 7)人は外に惑わされるが、主の前には内面まですべてが 明らかで、隠れてはいないと言っているのです。 * それでは私たちは、偽善を行いやすい要素を持っている者 として、どうすれば、人の目を気にする見かけ信仰に落と してしまわず、神にのみ向う信仰の本道に向かうことがで きるのでしょうか。イエス様は、ここにおいて、偽りの誓 いをしやすい人間の不信仰さに焦点を当てて語って行かれ るのです。このことを通して何を示そうとなさったのか考 えて見たいのです。 (1)見せかけの忠実な信仰を現そうとする心根 * これまで語られてきた内容は、十戒の大事な戒めを甘く受 けとめ、理屈をつけて、守りやすいものに引き落としてし
まっていた当時の律法の専門家たちの考え方を、神の御心 を無視した人間的な守り方に引き落として安心しているの が問題であると指摘され、律法が示しているレベルを、元 の神の御心に沿ったものに引き上げられ、それがいかに厳 しい内容であるかを示されました。それは、神が律法をお 示しになられた真意を明らかにされるためでした。 * 今日の箇所は、十戒の中ではないが、人間の目が神に向か わないで、人に向いている問題点を示そうとされ、律法の 細則とも言える神への誓願について取り上げられています。 これは、レビ 19:12 に「私の名により偽り誓って、あな たがたの神の名を汚してはならない」という戒めを、昔か ら、ユダヤ教において、それを要約し、偽り誓うなと言わ れてきたことを、ここに取り上げられたのです。 * その次に取り上げられたのは、民数記 30:2 の「もし人 が、主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようと誓 いをするならば、その言葉を破ってはならない。口で言っ た通りにすべて行わなければならない」という戒めと、申 命記 23:21~23 に「あなたの神、主に誓願をかける時、 それを果たすことを怠ってはならない。あなたの神、主は 必ずそれをあなたに求められるからである。それを怠る時 は罪を得るであろう。…あなたが口で言ったことは守って 行わなければならない」との 2 つの戒めを要約して、誓っ たことをすべて主に対して果たせと、ユダヤ教で言い表さ れてきた、この戒めを取り上げられたのです。 * 彼らが大事にしてきたこれらのことを、根底から覆すかの ようにイエス様はこう言われました。一切誓ってはならな いと、これは誓うことそのものが問題だと言われているの が分かります。どうして誓うことが問題なのでしょうか。
* この語られた真意を知ることはとても難しいことです。神 は、人間の誓いを信用しておられないからなのか、それと も、形だけの誓いをしやすい人間のいい加減さを退けられ るためなのか、それとも、誓ってもそれを果たすことがで きない人間の不忠実さを見たくないと思っておられるから でしょうか。このお言葉だけではその意図するところがよ く分かりませんが、誓ってはならないと言われたのです。 * このように言われた背後にある思いは、当時の人々がごま かしの誓いをすることによって、いかにも神に対して忠実 な信仰を現しているかのように見せかけている事実を目の 当たりにしてこられたことがあると分かります。これは、 この後に語られた内容から、当時に人々は、神の名にかけ て誓ったならば、それを果たすことができなければ罪とな りますが、代用となるものに誓うならば、神に誓ったこと にはならないから、罪とはならないと考えるようになって いたごまかしの論理がまかり取っていた事実があります。 * ここに取り上げられている事例から見ると、神の名にかけ ず、天をさして誓ったり、地をさして誓ったり、エルサレ ムをさして誓ったり、自分の頭をさして誓ったりしていた のです。これであれば、誓いが果たせなくても問題とはな らないと考えるようになったのです。なぜそこまでごまか して誓いをしなければならなかったのでしょうか。 * その根底にあるのは、神に向かう思いよりも、人の目を気 にし、自分がいかに信仰深いかを、人によく見せようとす る思いから、ごまかしてまで誓いをしていたのでしょう。 ごまかしてまで、どうして人によく見てもらいたいと思う のでしょうか。それが肉の思いだと言うしかありません。 目が神に向いているかのように見せかけて、人に向いてい
るのです。私たち信仰者も、このことについて十分に気を つけなければならないと言えるでしょう。 (2)信仰告白と誓いとの間にある微妙な違い * この箇所は、何のために誓いをしてはならないと禁止され、 何を教えようとされたのか、これほど理解しにくい箇所は ないと言っていいでしょう。それ故、語られている意図を 考えて、解釈、補足、説明を加えなければ、言おうとされ ていることが全く伝わってこないでしょう。それを入れた 解釈訳を書いてみたいと思うのです。 (解釈訳) 神の名にかけて誓うことは信仰の忠誠心を示すこととし て重要であるが、信仰が伴わない口先だけの誓いであるな らば、誓わないようにすべきです。もし誓う必要があると 思って誓ったならば、全力で果たそうと心掛けよと、昔か ら言われてきました。しかし、私ははっきりと言います。 人間は口先犯罪人であるから、口の罪を放置しないために は、一切誓うことをやめなさい。誓うことしか神への忠誠 心を示すことができないと思ってはならない。まして、神 の名によって誓うなら必ず守らなければ罪になるからと考 えて、問題にならないように、天や地やエルサレムや自分 の頭をさして誓い、もし誓いを果たせなくても、神はそれ を罪とは見られないとごまかしの理屈をつけて安心しよう としてはならない。神をごまかせると考えることがすでに 罪である。誓わないで神に対する信仰の忠誠心を示すこと を、神は求めておられるのです。だから誓うよりも、神の 御心には間違いがなく、正しい。しかし自分の思いは誤り
の含んだものであると素直に言いなさい。それ以上言葉を 飾るのは、サタンから出た言葉だと思いなさい。 * ここでイエス様が言おうとされたことは、昔から、神の前 における誓いが大事だと言われてきている。しかし私はは っきりと言う。誓いを軽く考えるな。神は重く見ておられ る。誓いを守ることができなかったなら、あなたは罪に定 められてしまう。だから一切誓わないようにしなさい。黙 って従うことを心がけなさいと言われたのです。 * イスラエルの民を例にとって考えて見ましょう。彼らは、 驚くべき神の御力によってエジプトを脱出し、約束の地に 向かって進んでいく中、モーセは、神のお言葉を民に告げ ました。「まことに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら ば、あなたがたはすべての民にまさって、私の宝となる」 との言葉を述べると、民はみな共に応えて「われわれは主 が言われたことを、みな行います」と心から誓ったのです。 (出エジプト 19:5~8)しかし、その誓いの言葉は、い とも簡単にすぐに破られることになりました。 * こう考えて見ると、私たちが信仰の言葉を述べる時、すべ て誓っていると言ってもいいでしょう。私は今日から主を 第 1 に置いて生きていきます。心配しません。主が守り導 いて下さると信じています。など、その時々に私たちは主 に向かって誓っています。主はすべてそれを聞いておられ るのです。私たちも偽りで告白しているのではなく、そう ありたいと強く願って告白しているのです。しかし、現実 は何と多くの誓いを破っていることでしょう。 * だからイエス様は,昔から言われているように、頑張って 誓いを果たすことができるように向いなさいとは言われず、
一切誓ってはならないと言われたのです。これは、信仰の 告白をするなと言うことでしょうか。その時は信仰の思い が与えられて、今日から神に全き信頼を現して行きたいと 告白することは大事だと思わされるのに、一切誓うなとは どういうことなのでしょうか。 * ここではっきりと線引きしていなければならないことは、 信仰告白と誓いとの間には微妙な違いがあるということで す。信仰告白は、これから従って行きたいという強い願い と、その告白に沿って歩むことができるように主の導きが あると信じて向かうことですから、人間には肉の思いが潜 んでいて、信仰告白通りに突き進むことができるとは限り ません。しかし、それで神との間に結ばれた契約不履行と はならないのです。 * しかし誓いの場合は、神との契約を大事にする思いが根底 にあり、誓いをしたなら、必ず従って行きますという実行 が求められるのです。その誓いがもし破られるなら、契約 は不履行となり、契約から外れてしまいます。 * もちろん、だからと言って、適当な思いで信仰告白をする べきではありません。そこに主の助けがあると本気で信じ て向かう強い信仰的意志が必要です。それでも時には霊が 弱り、信頼し切れない姿を現すことがあるものです。誓い と信仰告白との微妙な違いを知った上で、一切誓ってはな らないと言われたイエス様のお言葉の意味するところを理 解する必要があります。 * 神との契約関係を破棄するほどの恐ろしさを持っている誓 いの意味を考えて見る必要があります。分かりやすい例え で言うならば、洗礼式において、神との契約関係の中にお いて頂く恵みを思い、生涯、主に従って行きますと誓いま
す。この誓いは、単なる信仰告白ではありません。キリス トの血がこの私のために流されたことを本気で信じ、この 信仰によって神との契約の中に入れて頂いたと信じて誓っ たのです。これが破られるなら、契約不履行になります。 この誓いを小さなものにしてはなりません。 (3)しかり、しかり、否、否と言われた真意は * イエス様は誓ってはならないと言われた後、あなたがたが 言うべき言葉は、ただしかり、しかり、否、否、であるべ きだ。それ以上に出ることは、悪からくるのであると言わ れたのです。何と難しい言い回しでしょうか。これは本当 だと思ったら本当だと受けとめ、嘘だと思ったら嘘だと受 けとめたらいいと言っている言葉です。 * しかしこれは、自分が本当だと思ったら本当にし、嘘だと 思ったら嘘だとしなさいと自分の判断力に沿って受けとめ なさいと言っている言葉ではありません。神との契約の中 に置かれている者として、一切誓ってはならないと言われ ている言葉のつながりから考えますと、しかり、しかりと は、神の御心を正しいとしなさい。否、否とは、自分の思 いをノウとしなさいという意味だと考えられます。 * 人間は、すぐに自分中心に物事を考えようとするところが ありますが、神の御心中心に考えることが、信仰者にとっ て立つべき位置になったのです。神の御心は正しい、自分 の思いはノウと言いなさい。それが信仰者のあるべき姿だ と言っているのです。自分が必死になって誓わなくても、 神の御心は成る。自分の思いは成らない。誓うことよりも、 神の御心の完全さを信じることだと言っているのでしょう。 * これ以上のことは悪から出ると言いました。口語訳や新改
訳では、悪と訳していますが、文法的には悪とも訳せるし、 悪しき者とも訳せる言葉だと言います。ですから、新共同 訳やフランシスコ会訳では、悪い者と訳し、サタンを指し ています。おそらく意味の上から行くと、サタンを指して いると見た方がいいでしょう。サタンは私たちの内に入っ て悪い言葉を吐き出そうとしていると言っているのです。 * ヤコブ書では、このサタンの内住がどんなに恐ろしい状態 であるか、次のように言っています。「舌を制し得る人は、 ひとりもいない。それは,制しにくい悪であって、死の毒 に満ちている」と言いました。(ヤコブ 3:8)サタンは私 たちの内側でせっせと死の毒を製造し、私たちの口から出 てくるように働いていると言えます。 * ですから、私が口にすべき言葉は、神の御心は完全であり ますが、人間の思いは不完全で、その違いは天と地ほどの 違いがあります。(イザヤ 55:8,9)こういうだけで十 分ですと言うのです。それでは、何も誓うな、何もしゃべ るな、ただ黙して主の御心だけを思えと言っておられる意 図であることが分かるのです。 * それでは、信仰者は何も誓うべきではなく、何もしゃべる べきではないのでしょうか。勘違いすべきではありません。 サタンの導きのままに口を開いて、口の罪を犯すのではな く、ごまかしの誓いをするのではなく、神の導きを頂いて 信仰告白し、霊が育てられていくことによって、口から賛 美と信仰に溢れた言葉が出てくるようになります。同じ口 から賛美と呪いとが出てくるとも言われているのはこの意 味です。霊が育っていけば、サタンが吐き出そうとする呪 いは抑えられ、神への思いの方が勝り、賛美が出てくるよ うになるのです。
(結び)新しい人間として頂いた信仰認識の重要さ * イエス様は、一切誓ってはならない。あなたの口から出る 言葉は、しかり、しかり、否、否、であるべきだと言われ たことがここに語られている大事なポイントでありました。 なぜ人間は誓いをするのか、それは神に対する忠誠心を示 すためであります。しかしごまかしの誓いではその忠誠心 を示すことはできず、かえって、神をごまかせると考える ことがすでに罪だと見られていることを決して忘れてはな らないのです。 * 生涯主に従います。決して疑いません。どこまでも信頼い たします。私はあなただけを主と仰ぎます。という信仰を かけた誓いを守ることができない肉の弱さを持っているこ とを、私たちはまず認識していなければなりません。その 上で、主のあわれみを求めつつ、それでも神に対する忠誠 心を示したいと誓うのです。 * しかし、一切誓ってはならないとイエス様は言われました。 それよりも、ただ神の御心は完全で正しい、それに比べて 自分の思いは不完全で問題ありと認識し、その信仰に生き なさいと言われたのです。 * これは、人間の弱さを知り尽くされたイエス様のお言葉で あるとつくづく思わされます。救われても、サタンはなお 私たちに内住していると考えるべきです。サタンの怖さを 知る者となっていなければ、すぐに足をすくわれてしまい ます。それではどうすればいいのでしょうか。 * 信仰を持って救われたにもかかわらず、私たちには、サタ ンの内住という事実が残っていることを認識し、放置して いれば口からは死の毒が吐き出され、自分の信仰が危険に さらされるだけではなく、周りの兄弟姉妹に対しても、毒
を吐き出し、悪い影響を与えることになります。この地上 に生きている間は、この事実から逃れることはできません。 * それでは、救われてもサタン人間だと言うことでしょうか。 もちろんそうではありません。神のものとされ、神の子と しての身分を与えられた最高の人生とされたのです。その 時に頂いた信仰認識が確かにされてさえいれば、サタンの 支配する人間から、神に支配して頂く新しい人間に変えら れたことが分かります。(使徒 26:18) * 勘違いするべきではありません。神に支配して頂く新しい 人間とされたからと言って、私たちの内からサタンの内住 が完全に処理されたのではありません。大きな爪痕を残し ていますから、口の罪、神を意識するよりも人間の目を意 識する思いを出してきます。再び自分の支配下に治めたい と働き続けているのです。 * ここで、新しい人間として頂いた信仰認識が重要になって くるのです。サタンの内住と対抗できるように,キリスト は私たちの内側に聖霊を送って下さり、サタンの働きを抑 え、霊の思いが育てられていくように、聖霊が私たちの内 になお残っているサタンの働き場を壊し、神用の建物に形 造って下さっているのです。 * この信仰認識さえあれば、私たちは再びサタンの内住に恐 れる必要がなく、それに勝る聖霊の内住によって,サタン の残して行ったものを少しずつ処理し、自分の思いは不完 全で問題があっても、神の御心が完全で正しいと告白して いるならば、口の罪を放置することなく、神よりも人間の 目を意識するという信仰の逆流にも、襲われることがなく なるのです。