東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 一 一 はじめに 二 問題の設定 三 自律と他律 四 抑圧としての自己支配 五 他律としての自律 (以上、本号) 六 抵抗と批判 七 〈開かれること〉としての自律 八 結びにかえて
一
はじめに
「自 律」 ( autonomy )と は、さ し あ た り 簡 潔 に い え ば、語 源 と なるギリシア語( αὐτο-νόµος ,αὐτο-νοµία )の成り立ちのとおり、 「自 己 -立 法」 ( self-legislation )も し く は「自 己 -統 治」 ( self-government )を、ま た よ り 一 般 的 に は「自 己 -規 定」 ( self-de -termination )を 意 味 す (( ( る 。す な わ ち そ れ は、お お よ そ の と こ ろ、 人が自らのあり方を自分自身で決めること、いわば自ら考え行為 することを指すものといえる。 自律を個々人のあり方として把握するそうした捉え方は、とは いえ、よく知られているように近代以降のものである。古代ギリ シアにおいて自律は、まずはポリスの自己統治、その自治・自決 を指す概念であった。その後の西洋思想史にあっても基本的には 政治的・法的な概念として用いられていた自律は、ほぼ十八世紀 になってはじめて個々の人間のあり方に適用されることに な (2 ( り 、 その後はむしろ、おもにそうしたものとして倫理思想や政治思想 のなかで重要な位置をしめる概念となった。現在へと至るそのよ う な 自 律 概 念 の 形 成 に 大 き く 寄 与 し た の は、ま ず は、 「自 ら 課 し た法に従うこと」をすぐれた意味での自由とみなしたルソーの思 考であっ た (( ( が 、自律の概念をそのものとして主題化し、自律とい う 言 葉 を 哲 学 の 言 語 と し て 導 入 し た の は、い う ま で も な く、 「実 践理性」の「自己立法」としての自律を人間の積極的な自由とし て 規 定 し た カ ン ト で あ っ (( ( た 。そ し て、し ば し ば「道 徳 的 自 律」 論 文〈開かれること〉としての自律
―
アドルノにおける「自律」概念の再構成(上)―
麻
生
博
之
〈開かれること〉としての自律 二 277 の幅広い思考潮流から、その可能性や妥当性をめぐって多様な疑 問や批判が提起されている。それはたとえば、とりわけ理性的な 自己統治としての自律の概念に前提されている合理主義的な視点 や「確 固 と し た 透 明 な〈自 己〉 」と い っ た「自 己」像 に 対 す る 疑 念(それゆえまた身体や情動の要素がたんに抑制の対象とみなさ れ、等閑視されることへの異論)であり、あるいは、個人の自己 決定として自律が強く主張される場合に、そうした視点の背景を なし、またそこでの「自己」の捉え方に反映されている「アトミ ズム」ないし「過度の個人主義」へと向けられる疑問(したがっ てまた他者との関わり、ないし共同体や伝統との関係が軽視され 忘却されることへの批判)で あ ((( ( る 。 これらの疑念や異論は、ただし必ずしも、自律の概念そのもの を否定し、それを葬り去ろうとするものではない。自律概念に対 する批判や反論は、むしろしばしば、何らかのかたちで自律の概 念を再構成する試み、つまりたとえば、自律が有効なかたちで可 能となるための条件を吟味し再設定すること、あるいは、自律の 内実それ自体を再検討し定義しなおすことに結びついて い ((1 ( る 。近 年 で は た と え ば、自 律 の「手 続 き 的( procedural )理 論」を め ぐ る入りくんだ議論の応酬において提起されているさまざまな立場、 そしてまた(他者との関係や「相互承認」に着目し、そのなかで 自 律 概 念 を 位 置 づ け な お そ う と す る) 「関 係 的( relational )ア プ ローチ」と呼ばれる自律概念へのとりくみなど、多様な試みが活 発に行われて い ((1 ( る 。 本稿で意図するのは、自律概念のそうした再構成にかかわるひ ( moral autonomy )として整理されるカントのそれとは少し異な る自律の概念、いわばより緩やかな「個人の自律(人格的自律) 」 ( personal autonomy )へ と 実 質 的 に 焦 点 を あ て、そ の 価 値 を 強 く 主 張 し た の は、J ・ S ・ ミ ル で あ っ (( ( た 。「自 由 の 名 に 値 す る 唯 一の自由」をいわば個人の自己決定としての自律のもとに見出す ミルの 視 (( ( 点 は、その後のリベラリズムの思想潮流に強く影響を与 えるものとなった。 こうして今日、自律は、おそらくはあえていうまでもなく、自 己規定もしくは自己決定という、多様な文脈で尊重され擁護され る 個 々 人 の あ り 方 と し て、広 く 認 め ら れ る も の と な っ て い る。 「自 律 的 で あ る こ と」は、倫 理 的 な 観 点 か ら し て も、ま た 社 会 的・政治的な観点からしても、しばしばごく重要な位置づけを与 え ら れ て お (7 ( り 、そ れ ゆ え 自 律 は、た と え ば あ る 文 脈 で は、 「規 範 性」ないし「義務」の源泉をなすものとして主張 さ (8 ( れ 、また別の 文脈では、平等に尊重されるべき「人格」の決定的な特質となる ものとして把握されて い (( ( る 。 自律の概念に対する今日の受けとめ方は、しかしこれもまた周 知のとおり、けっして一面的なものではない。それを肯定し、積 極的に位置づけようとする多様な立場がある一方で、自律概念に 対してはこれまで、さまざまな疑念や批判がくり返し提示されて もきた。いわゆる決定論的な非両立論、つまり固い決定論の立場 から示される原理的な 異 ((1 ( 論 についてはここでは措くとしても、ご く雑駁にいって、共同体主義、多文化主義、フェミニズム、ケア の倫理、さらにはいわゆるポストモダンやポスト構造主義、等々
東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 三 法』には、認識論との関連で自由について論じた重要な一節があ る。そこから、ここでの主題にかかわる箇所を短く引いてみる。 ……哲学は、主体の意味定立的な自律という自由概念の呪縛 の な か で、そ う し た 客 体 へ の 自 由 を 失 っ て し ま っ た。 ( GS. (. ( ((1 ( 8 ) 「客体への自由」 ( Freiheit zum Objekt )とは、アドルノの思 考における鍵概念のひとつにあたり、しばしばヘーゲルの思考に 由来する概念として言及されるものである。ここではさしあたり、 「外 化」 ( Entäußerung )と い う こ と が ら と し て、あ る い は ア ド ルノ自身の言葉を用いれば、人が「自らの自我と自らの立場の絶 対 性 に 固 執 す る こ と」を せ ず に、 「留 保 な く」客 体 へ と「身 を ゆ だ ね る」よ う な あ り 方 と し て お さ え て お く こ と が で き ((1 ( る ( NS. IV-(. 2( 7; GS. (0. 7( 2 )。ただし、この箇所でまず着目しておきた い の は、む し ろ「主 体 の 意 味 定 立 的 な 自 律 と い う 自 由 概 念 の 呪 縛」 ( Bann des Freiheitsbegriffs, der sinnsetzenden Autonomie des Subjekts )という凝縮された一節のほうで あ ((1 ( る 。すなわちア ド ル ノ に よ れ ば、主 体 の「自 律」 、そ の 意 味 定 立 的 な 自 律 と は、 自由の概念がとらわれている「呪縛」にほかならない。世界に対 して受動的にかかわり、外部のものごとに応じて自らが変容を被 るのではなく、あくまで自己規定を貫き、世界に能動的にかかわ るような主体のありよう、そうした自律的なあり方として自由を 考えることは、じつは、哲学的思考がともすれば自らをそれに縛 とつのラディカルな試みとして、 Th・ W・アドルノの思考を位置 づけ、その主張の内実を明らかにすることである。つまり、自律 をめぐるアドルノの(ひとまずは逆説的にも映る)複雑な主張を ときほぐし、そのことを通じて、あらためて自律ということがら の核心について考えてみることである。先取りしていえば、アド ルノは自律概念の内実そのものを問いなおし、何ほどか確固とし た自己のあり方を前提とする自律、文字どおりの「自己」規定と しての自律を批判する。そして、むしろそのことによって、自律 の概念を「自己」への囚われから解放し、いわば既存のものでは ない何かへと呼応し「開かれる」というあり方のもとに、すぐれ た意味での自律の実質を見いだそうとしたといえる。まず次節で は、アドルノの思考そのものにそくして、あらためて問いを設定 することからはじめたい。
二
問いの設定
―
アドルノにおける自律概念の二義性 自律の概念をめぐるアドルノの主張は、そのテクストに多少と も広くあたるなら、ひとまずはきわめて不整合なもの、あるいは 控え目にいっても、理解困難な二義性をはらんだものであるよう に映る。つまりごく単純化していえば、自律に対する端的な批判 と積極的な評価という相容れない二つの視点が、そこでは混在し たまま並行して存在しているように思われるのである。 まず一方で(とくに理論的なテクストにおいて)顕著であるの は、自律の概念に対する苛烈な批判である。たとえば『否定弁証〈開かれること〉としての自律 四 27( 因は、いうまでもなく複層的なものであろう。とはいえ、アウシ ュヴィッツを、絶滅収容所を可能にしてしまったひとつの要因と して、ナチスのプロパガンダ、あるいは反ユダヤ主義のさまざま な言説に対して自分で考え判断することをせずに、唯々諾々とそ れに従い同調してしまった多くの人びとのあり方があったことは 論を俟たない。そのかぎり、アウシュヴィッツの原理に逆らい、 その再来を阻むために、少なくとも個々人に対して求められるの は、外部から示されるものごと、既存の世界のありようにそのま ま同調し従属することなく、あくまで自分で考え行為すること、 そうした自己規定、自律の力であり、つまりは「自律的な主体」 ( das autonome Subjekt )となることである( cf. NS. IV-(( .(( )。 アドルノは同様の視点からまた、たとえば大学のあるべき改革に お い て 求 め ら れ る も の を「自 律 的 な 判 断 能 力」の 形 成 を め ざ す 「解 放 的 な 運 動」と し て( NS. IV-(( .( 00 )、あ る い は、 「民 主 主 義」の体制に不可避的に前提されるものを「自律的な人間」とし てくくり出してもいる( GS. 20. ((( f. )。 こうして、さしあたり限られたテクストを瞥見してみるかぎり でも、自律をめぐるアドルノの視点は、容易には理解しがたい二 義性をはらむものであるように見える。一方では、自律は自由の 反対物であり、それを自由とみなすことは虚偽にほかならないと いわれる。他方ではしかし、自律はアウシュヴィッツの再来を阻 止するための、あるいは民主的な社会の形成にとっての不可欠の 力である、そのようにもいわれる。こうしたアドルノの主張は、 ひとまずは端的に不整合であり、少なくともひどく混乱したもの りつけてきた呪縛である。ふたたびアドルノの言葉を引くなら、 「哲 学 は 罪 深 い 誤 謬 に よ っ て、自 由 を そ の 反 対 の も の へ、つ ま り 主 体 の 自 己 支 配 的 な あ り 方( Selbstherrlichkeit )へ と 委 ね て い る」 ( GS. 7. (( 0 )。自 律 は、あ る い は「主 体 の 自 己 支 配 的 な あ り 方」は、自由であるどころか、自由の「反対のもの」なのであり、 それを自由とみなすことは、哲学的思考の呪縛となってきた誤謬 なのである。 自律をめぐるこうしたごく批判的な視点は、しかしアドルノの 思 考 の 一 面 に す ぎ な い。ア ド ル ノ は 同 時 に ま た、 (理 論 的 な テ ク ストにおいてもそうであるが、とりわけ公衆に向けた講演等のな か で は、 )む し ろ 積 極 的 な 意 味 を も つ も の と し て し ば し ば 自 律 に 言 及 し て い る。 「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 以 後 の 教 育」と 題 さ れ た 講 演 から典型的な一節を引く。 アウシュヴィッツの原理に逆らう唯一本当の力とは、カント の言葉を使わせていただきますと、自律でありましょう。そ れは、反省し、自分で決定し、人に同調しない力のことです。 ( GS. (0. (7 ( ) 「アウシュヴィッツの原理」 、いわばアウシュヴィッツをもたら してしまった原理に逆らうための「力」となるのは、ほかならぬ 「自律」である。つまりは、 「反省し、自分で決定し、人に同調し ない力」 ( die Kraft zur Reflexion, zur Selbstbestimmung, zum Nicht-Mitmachen )で あ る。ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ を 引 き 起 こ し た 要
東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 五
三
自律と他律
はじめに少しだけふれたように、自律の概念はときに、位相を 異にするいくつかのタイプに区別されることがある。そしてまた、 アドルノが自律ということがらに言及する際も、とうぜんのこと ながら、文脈によってしばしば力点の置き方や着目する要素が異 なっている。とはいえアドルノの視点において、自律ということ がらのいわば最低限の意味としておさえられているのは、一般に 広く共有されているその基本的な規定そのものといえる。すなわ ち、自律として基本的に想定されているのは、まずは何より「自 己 規 定」 ( Selbstbestimmung )で あ る( NS. IV-(( .272 ; NS. IV-7. (( 8 )。つまりは、いわば「自分で」 ( aus sich heraus )考え決 定 す る と い う こ と( cf. NS. IV-(( .( 2( )、あ る い は 前 節 の 引 用 箇 所 に も あ っ た よ う に、 「反 省 し、自 分 で 決 定 す る」と い う こ と で あ る。そ し て ア ド ル ノ は、そ れ を「精 神 的 自 由」 ( geistige Frei -heit )と等置してもいる( NS. IV-(. (8 ( )。 自律の基本的な規定がひとまずはこうしたオーソドックスなも の と し て お さ え ら れ る 以 上、 「他 律」 ( Heteronomie )に つ い て も、 アドルノにあってはやはり、一般的な理解―
たとえば、何らか の「外的」で「疎遠」な力につき動かされ支配されるといったこ と が ((1 ( ら としてそれをおさえる理解―
とおおむね重なるかたちで 捉えられている。すなわちアドルノの視点においても、他律とは まず、 「外から」 ( von außen )措定され課されるものごとに依存 でしかないように思われる。しかし、である。そうした捉え方は、 じつはあたっていない。 本稿のはじめに示唆したように、自律概念をめぐるアドルノの 思考は、いわばその再構成に向けられたものといえる。つまり、 一方では自律の概念をあらためて検討に付し、しばしば自律とし て把握されていることがらに批判的な考察を加えながら、他方で は、むしろそのことによってこそ、自律ということがらの譲りえ ない核となる要素を救い出し、すぐれた意味での自律の概念をつ かみ出そうとするものである。アドルノの思考においては、自律 の概念をめぐる批判があって、実質的にはじめて、その積極的な 評価が可能になっているのである。 とはいえ、むろん以上のかぎりでは、アドルノが何を批判し、 何を救い出そうとするのかは、およそ判然としていない。まさに その点を立ち入って考察すること、つまり、アドルノの思考にあ って、自律の概念のいかなる点が批判され、そのことによってい かなる要素がどのようなかたちでつかみ出されようとしているの か、それを解き明かすことが、以下本稿の課題と な ((1 ( る 。次節では ただし、立ち入った考察に入るための準備作業として、まずはア ドルノの思考における自律のいわば最低限の規定をあらためてお さえ、そのうえでまた、自律と対をなす「他律」の概念について もアドルノの基本的な捉え方を確認しておくことにしたい。〈開かれること〉としての自律 六 27( 生 き る た め に は、 「与 え ら れ た も の に 適 応 し、そ れ に 従 属 す る こ と」 ( dem Gegebenen sich anzupassen, sich zu fügen )ができな ければならない。与えられた現実に対するそうした「適応」が意 味するのは、とりもなおさず「自律的な主体性」を抹消すること であり、つまりは、他律的に生きるということである。アドルノ の視点にあっては、現今の社会にあっても、そのように「適応へ の 、 つ ま り 他 律 的 な ふ る ま い へ の 強 制 」( Zwang zur Anpassung, zu heteronomem Verhalten )( GS. 8. (2 ( )が 貫 か れ て い る こ と に なる。 このように他律と適応とが重ねあわせて把握される際、とくに 適 応 と い う こ と が ら と し て 想 定 さ れ て い る の は、 「既 存 の も の」 な い し「現 存 す る も の」 ( das Bestehende )へ の 適 応 で あ り、つ まりは、すでにある実定的なもの、既存の動かしえないものとし て与えられた何かに、従順につき従い、そのまま順応する、もし くは同化するようなあり方である。アドルノの言葉を用いていえ ば、 「既 存 の も の、与 え ら れ た も の へ の 同 一 化」と し て の そ う し た適応のあり方は、個々人が「目の前に見いだされるもの、実定 的 な も の( das Vorfindliche, Positive )を 超 え 出 る」こ と を「禁 じ る」の で あ り( GS. (0. (( 7; GS. 8. (( )、そ し て そ れ ゆ え に、い わ ば「実 定 的 な も の や 与 え ら れ た も の に 対 す る 諦 念」 ( NS. IV-(0. ((( )と し て、 「適 応 は、常 に 同 じ で あ る も の の 支 配( Herr -schaft des Immergleichen )を永遠化する」ことに結びつくもの となる( GS. (0. (( )。 こうしてアドルノの基本的な視点にあって、他律とはとりわけ、 し 従 属 す る こ と を 意 味 す る も の で あ り( cf. EzM. (07 ;NS. IV-(0. 2( 2; GS. 8. (72 )、し た が っ て、 「他 律 的 で あ る」と は た と え ば、 人が「自分自身で決めたように生きる( nach seiner eigenen Be -stimmung existieren )こ と が で き な い」と い う こ と に ほ か な ら ない( EzM. ((( )。 他律ということがらについてのアドルノの把握は、ただしその より具体的な実質の理解にかんしていえば、少し特徴的な視点と 結 び つ い て い る。そ れ は、他 律 と い う 事 態 を、と く に「適 応」 ( Anpassung )と い う こ と が ら(な い し は そ れ に 類 す る あ り 方) と強く重ねて理解する視点で あ ((1 ( る 。たとえば、戦後ドイツの「過 去の総括」にかかわる講演のなかでアドルノは、戦後もなお「生 きのびている」ファシズムをめぐって次のように述べている。 ファシズムは本質的に、主体のあり方から導き出すことはで きません。経済秩序が、さらにはそれをモデルとして一般に また経済組織が、依然として大多数の人びとを、自らは何も 手出しができない与えられた状況に従属させ、未成熟なあり 方にとどめています。大多数の人びとが生きようとするなら、 彼らに残されているのは、与えられたものに適応し、それに 従属することだけです。彼らは、民主主義の理念が訴えかけ る 当 の 自 律 的 な 主 体 性 を 抹 消 し な け れ ば な ら な い の で す。 ( GS. (0. ((( f. ) いわば潜在的にファシズムが存続している状況にあって、人が
東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 七 (一)自己支配としての自律 自律をめぐるアドルノの批判にあってまず顕著であるのは、こ れまで想定されてきた自律のあり方が、多くの場合、いわば「抑 圧」 ( Unterdrückung )と し て の 自 己 支 配 に 結 び つ く も の と し て 捉えられる点で あ (11 ( る 。アドルノはたとえば、カントにおける自律 の 概 念 を め ぐ り、 『否 定 弁 証 法』の な か で 次 の よ う に 批 判 的 に 論 じている。 ……意志の絶対的な自律は、おそらくは、内的自然に対する 絶対的支配と同じものであろう。……カントの道徳哲学は、 その構想の全体からして、自由の概念をただ抑圧としてしか 表わせない。 ( GS. (. 2(( ) カントが積極的な意味での自由としてつかみ出した「意志の絶 対 的 な 自 律」は、結 局 は「内 的 自 然 に 対 す る 絶 対 的 支 配」 ( abso -lute Herrschaft über die innere Natur )と同じものといわれな ければならず、それゆえまた「抑圧」を意味するものにほかなら ない。理性に裏打ちされたものとして自律が可能になるためには、 「自 然 的 な 衝 動( Impuls )」の 抑 圧 な い し「情 動( Affekt )の 抑 圧」 ( cf. NS. IV-(0. (08, ( 78 )が、つ ま り、た と え ば 外 部 の 世 界 や他者のあり方に応じてたえず揺り動く多様な衝動や情動に左右 されてしまうことなく、むしろそれらを厳しく制御し抑制するこ とができなければならない。 既存のものへの適応、実定的なものへの順応という意味で、外か ら課される何かに従属することを指していることになる。そして それゆえに、自律とは、既存のものごとに順応し従属してしまう ことなく、自ら考え、自己規定をなすこと、まずは少なくともそ うしたことがらを意味するものといえる。とはいえ、すでにとり 急いで確認したとおり、自律の概念をめぐるアドルノの思考は、 けっして単純なものではなかった。つまりアドルノは、自律とい うことがらをそのまま素朴に肯定するのではおよそなく、あくま でそれに厳しい批判の目を向けていたのであった。以下では、ま ずはこの点から、少し立ち入って考えてみることにする。つまり、 アドルノの思考にあって、自律の概念のいかなる点がどのような 意味で批判されるのか、続く二つの節ではそのことを確認してみ ることにしたい。
四
抑圧としての自己支配
自律の概念に対するアドルノの批判は、さまざまな論点にわた る入りくんだものである。ここでは、そのなかでとくに中心的な ものと思われる二つの論点に焦点をあて、それぞれについてなる べく簡潔なかたちで批判の要点を確認してみることにする。一点 目は、自律ということがらがある種の「抑圧」と重なるものとし て把握されることにかんする論点であり、二点目は、自律そのも のがいわば「他律」の要素をはらむものとみなされることにかか わる論点である。まず本節では前者について確認してみたい。〈開かれること〉としての自律 八 27( ように思われる。実際、自律をめぐるミルの思考にあっても、理 性 的 な 自 己 支 配 は ま っ た く 排 除 さ れ て い な い ば か り か、 「自 分 の 計画を自ら選択する」ためにはむしろ「推理や判断」 、「識別」と い っ た 理 性 的 な 諸 能 力、そ し て「堅 固 さ と 自 己 制 御」 ( firmness and self-control )が不可欠であるとみなされている。あるいはそ も そ も、 「自 ら 自 身 の 判 断 と 感 情 に も と づ い て 決 定 す る」た め に は、た と え ば 欲 求 と 衝 動 が「自 分 自 身 の も の」 ( his own )、す な わ ち 「 自 分 自 身 の 本 性 の 現 わ れ 」( expression of his own nature ) であるのでなければならず、そうしたものとはみなされえない欲 求や衝動、いわば「彼自身の感情や性格に一致して」いないもの は抑制され、退けられるべきことが、じつはあらかじめ暗に前提 となって い (11 ( る 。自律あるいは自己規定ということがらは、それが 可能であるためには、まずは一般に、何らかの意味で「自己」が、 つまり理性であれ性格であれ欲求であれ「自ら自身の」何かが存 在していることを前提としているのであり、したがって、そうし た自己と合致せずそこから逸脱するような衝動や情動、たとえば 外部のものごとや他者のあり方に応じて意図せざるふるまいを引 き起こすような衝動や情動は、そのつど抑制され、おさえこまれ るべきものであることに な (11 ( る 。 こうして、自律が広く自己支配と重なるものであることがひと まず認められうるとしても、しかしとうぜんながら、アドルノの 視点に対してはさらに疑問がさし向けられうるはずである。とり わけ問題は、自律が自己支配と、それゆえ抑圧と結びつくもので あるとして、そもそもそのことがなぜ批判されるべきなのか、と 自律ということがらを、このように強い意味での自己支配と、 それゆえまた抑圧と重ねあわせて捉えるアドルノの視点に対して は、しかしおそらくさまざまな疑問が生じうるであろう。まずさ しあたり問われざるをえないのは、アドルノのそうした視点のい わば範囲についてである。もう少し言葉を足してみる。たしかに 一 方 で、 「道 徳 法 則」に も と づ く 実 践 理 性 の 自 己 立 法 と い う カ ン ト に お け る 意 志 の 自 律 が、 (概 念 そ の も の と し て は 別 で あ る と し ても、 )現実の人間にあって可能であるためには、 「自らの情動を 抑制し、自らの激情を支配する」もしくは「自らのあらゆる能力 と傾向性を自らの(理性の)支配下におく」という「自己自身の 支配」 ( Herrschaft über sich selbst )を求める次第については、 カント自身の述べるところからも了解できるところであ ろ (1( ( う 。し かし他方で、もう少し緩やかな意味での自律、たとえばミルの思 考にも帰されうるような「個人の自律」についていえば、抑圧と しての自己支配といったことがらとはほとんど結びつきえないも のではないのだろうか。 むろんたしかに、アドルノのテクストにおいて自律が抑圧と結 びつくものとして論じられる際にしばしば問題とされているのは、 自律をめぐるカントの立論である。とはいえ、アドルノの思考に あ っ て 自 己 支 配 と い う こ と が ら は、 (本 節 で こ の あ と 言 及 す る と お り、 )広 く「自 然 支 配」 ( Naturbeherrschung )に 向 か う 態 度 全 般が不可避的にとらざるをえないあり方として想定されて い (11 ( る 。 しかもそればかりではない。ことがらとしても、自律と抑圧ない し自己支配とはそもそも結びあったものと考えられざるをえない
東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 九 為するだけでなく、同時に人物と特殊な諸状況を顧慮して行 為すべきである、と告げています。カントにあっては、それ は他律であることになるでしょう。……おそらく適正さは、 いつも首尾一貫していないのです。 ( NS. IV-(0. (8 ( ) 適 正 さ、つ ま り エ ピ エ イ ケ イ ア と は、周 知 の と お り、 「正 義」 についてアリストテレスが論じるなかで、 「「合法的な正しさ」を 是 正 す る も の」と し て と り あ げ た 原 理 で あ り、 「あ る 特 定 の 状 況 に お い て 普 遍 的 原 則 を こ え る よ う な こ と が 起 こ っ た と き」に、 「個 別 的 な こ と が ら」を 顧 慮 す る か た ち で 法 を 是 正 す る「無 限 に 柔軟な」原理を意味 す (11 ( る 。アドルノはこの「エピエイケイア、す な わ ち 適 正 さ の 教 説」に か ん し て、 「そ れ を 抽 象 的 な 法 規 範 に 対 置した」ことはアリストテレスの「不朽の名誉」をなすと考える ( GS. (. (0 ( )。な ぜ な ら ア ド ル ノ の 視 点 に あ っ て、あ る べ き 倫 理 は、一方で理性にもとづく普遍的な視点を不可欠の要素として要 請するものでありながら、他方ではあくまで、個々の特殊な状況 や他者のあり方に呼応する衝動や情動にこそ根ざしたものとみな さ れ る か ら で あ り、そ れ ゆ え た と え ば、法 規 範 は、 「特 殊 な も の の 経 験」に そ く し て そ の つ ど 是 正 さ れ る べ き も の と な る か ら で あ (11 ( る ( cf. GS. (. (0 ( )。カ ン ト に お け る よ う に、自 己 支 配 を 貫 く こ とで自律的であることを求める視点からすれば、しかし、そのよ うに個々の特殊な状況や他者のあり方に呼応し左右されること、 つ ま り「人 物 と 特 殊 な 諸 状 況 を 顧 慮 し て」 ( in Ansehung der Person und der besonderen Umstände )ふるまうことは、むし いうまさにその点であろう。なぜなら、たとえば思考の歴史をふ りかえってみるなら、自己支配ということがらはそのものとして は、ス ト ア 派 や そ の 後 の さ ま ざ ま な 思 考 に あ っ て( 「自 己 自 身 の 主 人」を め ぐ る デ カ ル ト や ル ソ ー の 思 考 を 想 起 し て も よ (11 ( い )、い わば精神的存在としての人間のすぐれたあり方として、むしろし ばしば称揚されてきたものでもあるからである。アドルノはなぜ、 抑 圧 と し て の 自 己 支 配、 「内 的 自 然」に 対 す る 支 配 を 批 判 の 対 象 とするのだろうか。 (二)自己支配と倫理 この点にかかわるアドルノの思考は、これもまたさらに多様な 観点を含むものであるが、ここでは重なりあう二つの面にしぼり、 それぞれに分けて確認しておくことにする。まずその一方は、倫 理をめぐるアドルノの視点にかかわるものである。すなわち、自 律的であろうとし、自己支配を求めるあり方は、世界に応じて変 動するさまざまな衝動や情動を、あるいはまた他者のありように そのつど共鳴する「共感、同情、直接的なおもいやり」を抑圧す る こ と に よ っ て( cf. NS. IV-(0. (78 )、世 界 や 他 者 に 対 す る あ る べき関わり方そのものを抑制し、切り縮めてしまうことになる、 そのようにみなされるのである。たとえば、ある講義のなかでア ドルノは、アリストテレスにおける「エピエイケイア」について、 それを「適正さ」 ( Billigkeit )と訳しつつ次のように述べている。 アリストテレスのいう適正さは、ひとはただ法則に従って行
〈開かれること〉としての自律 一〇 2(( てしまうのである。 ( GS. (. 72f. [ ]は筆者) 「 文 明 化 」 の た め に 「 人 間 の 内 な る 自 然 ( Natur im Menschen ) を否定すること」は、やがて「自らの生の目的」 ( das Telos des eigenen Lebens ) そ の も の を 混 乱 さ せ 、 見 と お し が た い も の に し て し ま う。少 し 強 い か た ち で い い か え れ ば、 「人 間 の 自 ら 自 身 に 対 す る 支 配」は、 「潜 在 的 に は つ ね に、そ う し た 支 配 が ま さ に そ れ の た め に 行 な わ れ る 当 の 主 体 の 根 絶 で あ る」 ( GS. (. 7()。と は いえ、なぜだろうか。自己支配、内的な自然の支配は、なぜ「生 の 目 的」を 不 透 明 に し、 「当 の 主 体」の 根 絶 と い う あ る 種 の 逆 説 的な自己否定に結びつきうるとみなされるのだろうか。簡単に整 理しておく。 まず、人が自己保存に向けて「外なる自然」を支配しうるため に は、 「人 間 の 内 な る 自 然」を も 支 配 す る こ と が、つ ま り そ れ を 抑圧し、押し殺すことができなければならない。なぜなら、外部 の 自 然 を 支 配 す る た め に は そ も そ も、世 界 か ら「距 離 を と る」 ( distanzieren )こ と が 可 能 で な け れ ば な ら な い か ら で あ る( cf. GS. ( .(( )。た と え ば、労 働 と い う か た ち で 世 界 に 働 き か け、あ るいは世界について認識し思考するためには、いわば世界に密着 しそこに引き込まれてしまうことなく、むしろ世界から一定てい ど独立した位置を保つこと、何ほどか世界を俯瞰する視点をもつ ことができなければならず、そしてそのように「主体が客体から 距 離 を と る こ と」 ( GS. 8. (02 )が 可 能 で あ る た め に は、外 部 の 世 界のありようにそのつど感応し共鳴してしまう「内なる自然」を、 ろ「他律」にほかならず、まさにそうしたものとして抑制される べきことになる。問題はしかも、それだけにはとどまらない。自 己支配を求め、他者に共鳴する情動を抑圧するような態度は、い わば「他者たちの運命に対する無関心」となり、アドルノが「災 厄 の 条 件」と み な す「冷 淡 さ」 ( Kälte )と い う あ り 方 に、つ ま り 「そ れ な し に は ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ が 可 能 で は な か っ た で あ ろ う」 主体のあり方に結びつくことにも な (11 ( る ( GS. (0. (87f. ;GS. (. ((( )。 (三)自己支配の逆説 自己支配ないし抑圧ということがらを批判の対象とするアドル ノの思考は、ただし、以上のような観点に尽きるものではない。 ここでは、いわばもう少し原理的な視点についても確認しておき たい。それは、とりわけ『啓蒙の弁証法』以来、アドルノの思考 の ひ と つ の 核 心 を な し て い る も の で あ り、ひ と 言 で い え ば、 「自 己保存」のために「自然支配」を遂行する主体そのものが陥るあ る種の逆説に向けられた視点である。 『啓蒙の弁証法』における、 よく知られた『オデュッセイア』論から、関連する一節を引いて おく。 ……文明化をおし進めるあらゆる合理性の核心であるこの否 定[すなわち人間の内なる自然の否定]こそが、増殖し続け る神話的な非合理性の細胞である。つまり、人間の内なる自 然を否定することによって、外なる自然の支配という目的だ けでなく、自らの生の目的が、混乱し、見とおしがたくなっ
東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 一一 ての自ら自身をいわば押し殺してしまう可能性を潜在させている。 自己支配と重なるものとしての自律は、まさにそれゆえに批判さ れるべきものとなる。自律の概念に批判を向けるアドルノの思考 のうちには、ただし、本節のはじめに示唆しておいたとおり、少 なくともさらにもう一つ、大きな論点を確認しておくことができ る。自律そのもののもとに「他律」の要素を指摘するその論点に ついて、節をあらためて考えてみることにしたい。
五
他律としての自律
これまで自律として想定されてきたことがらは、じつはそのも のが他律の要素をはらむものである。そのように主張し、いわば 「自 律 の 内 的 組 成 に 混 ざ り 込 ん だ 他 律」 ( GS. (. 2( 8 )を 摘 出 し よ うとするアドルノの思考は、とはいえやはり、さまざまな入りく んだ観点を含むものである。そのためここでも、いくつかの特徴 的な要点をとり出し、ひとまずそれを大きく二つの観点に―
い わゆる「個人の自律」にかかわるものと、カントが考えたような より強意の自律にかかわるものとに―
分けつつ整理をしておき たい。まずは前者からはじめることにする。 (一)個人の自己規定と他律 すでに言及したとおり、しばしばミルにおける自由の概念がそ の典型とみなされる「個人の自律」とは、いわば個人の自己規定 ないし自己決定を指すものである。既出のミルの言葉をもちいて つ ま り は 多 様 な 衝 動 や 情 動―
と く に「ミ メ ー シ ス 的 衝 動」 ( mi -metischer Impuls )と呼ばれる身体的衝動―
をたえず抑制し、 あ る い は そ の 充 足 を「断 念」す る こ と が で き な け れ ば な ら な い ( cf. GS. (. 7( )。 とはいえ、そのように抑圧されるもの、つまり内的な自然とし ての多様な衝動や情動は、自然支配を行う当の主体にとって、じ つは不可欠のものでもある。なぜなら、あらためて考えてみれば、 そ う し た 主 体 も や は り 「 生 け る も の 」( das Lebendige ) で あ る か ら で あ る( GS. (. 7( )。つ ま り は そ れ 自 身 が ま た、世 界 と 接 触 し、 何ほどか連続している身体的な存在であり、あるいは身体に根ざ した衝動や情動のうえにこそある存在であるためである。そうし た「生けるもの」としての主体は、世界に呼応する多様な衝動や 情動に何ほどか身をゆだね、それを充足することがおよそなくな るとすれば、たとえば「幸福」を感じることも不可能になるばか り で な く( cf. GS. (. 82f. )、そ も そ も 生 存 す る こ と 自 体 も 困 難 に な ろう。それゆえに自己支配は、ある種の自己否定に通じうるもの となる。すなわち、自然支配のために、世界のあり方に感応する 内なる自然の抑圧をおし進め、さまざまな衝動や欲求の充足を断 念 し て ゆ く こ と は、少 な く と も「潜 在 的」に は、 「生 け る も の」 としてのその主体の基盤を掘り崩し、それをいわば窒息させてし まうことにもなりうるのである。自己支配、内的自然の抑圧は、 可能性としてはつねに、逆説的な自己否定に結びついている。 抑圧としての自己支配は、一方では、世界や他者に対するある べ き 関 わ り 方 そ の も の を 抑 制 し、他 方 で は、 「生 け る も の」と し〈開かれること〉としての自律 一二 2(7 よる決定なのではなく、じっさいにはむしろ、他者たちとの社会 的な関係、あるいは世界との関係のなかで可能になり、それによ ってもたらされる外的な諸要素にもとづいた決定であることにな る。個人の自律の概念をめぐってしばしばなされる 批 (1( ( 判 とも重な る こ う し た ア ド ル ノ の 主 張 は、 『否 定 弁 証 法』の 次 の 一 節 に も 示 されている。 それ自体で存在すると思われている主体はそれ自身において、 そうした主体が自らをそこから引き離すもの、つまりあらゆ る諸主体の連関によって媒介されている。この媒介によって、 主体はそのものが、自らの自由の意識からすればそれであろ う と は 欲 し て い な い も の に な る。つ ま り 他 律 的 に な る。 ( GS. (. 2(( ) 「そ れ 自 体 で 存 在 す る と 思 わ れ て い る 主 体」 ( das vermeintlich ansichseiende Subjekt )は、じっさいには「あらゆる諸主体の連 関」によって「媒介」されている。それゆえに、そうした主体の ありようは、じつはむしろ「他律的」である。個人の自己決定と して現われるものは、じっさいには純然たる「自分自身」による 決定とはいえないのであり、いわば他律的なかたちでこそ可能に な っ て い る。個 人 の「決 断」の う ち に は、 「外 的 な 現 実、と り わ け社会的な現実のおびただしいモメントが入りこんでいる」ので あ る( GS. (. 2( 2 )。し た が っ て、に も か か わ ら ず 個 人 の 自 律、そ の自己決定ということが積極的に、何か実体的なものとして語ら い え ば、そ れ は す な わ ち、 「自 ら 自 身 の 判 断 と 感 情 に も と づ い て 決定する」ことを意味する。そうした自己規定が可能であるため には、ただしいうまでもなく、それにもとづいて選択し決定を行 う 何 か、た と え ば「衝 動」 、「欲 求」 、「感 情」 、「好 み」 ( prefer -ence )、 「性 格」 、「意 見」 ( opinion )、 「判 断」等 々 が「自 分 自 身 の もの」 ( his own )であることが不可欠で あ (11 ( る 。つまり、あくまで 「自 分 自 身 の」欲 求、好 み、意 見 等 々 に よ っ て 選 択 を 行 い 決 意 す ること、そのことが前提となっている。 アドルノの視点からすれば、しかしそうしたものとしての自律 は、じつはきわめて疑わしいものであり、文字どおりの意味では 不可能である。それどころか、個人の自律とみなされているもの は、いわば他律的なかたちでこそ可能になっている。そのように アドルノは考える。なぜだろうか。端的に、マルクスの言葉にそ く し て い え ば、 「人 間 の 本 質 は、そ の 現 実 の あ り 方 に お い て は、 社会的諸関係の総体( das ensemble der gesellschaftlichen Ver -hältnisse )で あ (11 ( る 」か ら で あ る。あ る い は、ア ド ル ノ 自 身 の テ ク ス ト か ら 引 け ば、 「自 我 の 内 容 は す べ て 社 会 に、あ る い は 端 的 に 客体への関係( die Beziehung zum Objekt )に由来している」 ( GS. (. (7 ( )か ら で あ る。つ ま り、 「純 粋 な 自 己( Selbst )と は ひ と つ の 抽 象 物 で あ る」 ( ibid. )の で あ っ て、さ し あ た り「自 分 自 身 の」欲 求、好 み、意 見 等 々 と し て 現 わ れ る も の は、あ く ま で 「社 会 的 諸 関 係」に よ っ て、も し く は「客 体 へ の 関 係」に も と づ いて形成されている。それゆえ、自分自身の欲求や好み等による 決定と思われることがらは、文字どおりの「自分自身のもの」に
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まったく無関係なものとして構想されている。自律とはむし ろ、純 粋 実 践 理 性 の、あ る い は「知 性( Intelligenz )と し て の わ れ わ れ の 意 志( Wille )」す な わ ち「わ れ わ れ の 本 来 の 自 己( ei -gentliches Selbst )」の 自 己 立 法 で あ り、換 言 す れ ば、道 徳 法 則 という「定言的」な、つまりは意志の客体ないしその対象からは 端的に独立したかたちでもたらされる法則、それゆえまたすぐれ て「普 遍 性」 ( Allgemeinheit )を そ な え た 法 則 に よ っ て こ そ 可 能 になる形式的な自己規定で あ (11 ( る 。そしてそれゆえに、現実の人間、 つまり一方では知性でありながら、他方では同時に感性的な存在 であり、感情や傾向性につき動かされもする人間にあっては、自 律 は あ く ま で「強 制」 ( Nötigung )と し て 意 識 さ れ る も の に な る のであって、そうした自律が可能となり、意志が道徳法則に「服 従 す る」こ と が 現 実 に な さ れ う る た め に は、 「自 己 束 縛」 ( Selbst -zwang )が、あ る い は す で に 言 及 し た と お り、 「自 己 支 配」が 必 要と な (11 ( る 。 カントが考える強意の自律はこのように、いわばすぐれて理性 的で形式的なものである。それは、あらゆる感性的な衝動や感情 から、あるいはまた特定の欲求や思考の内容から独立したかたち で な さ れ る 自 己 規 定 で あ り、そ の か ぎ り そ こ に、知 性 と し て の 「本 来 の 自 己」に と っ て 外 的 な 要 素、つ ま り 他 律 的 な 要 素 が 混 入 するといったことはありえないはずである。アドルノはしかし、 ま さ に そ う し た 意 味 で の 自 律 に も、 (あ る い は む し ろ そ れ に お い て こ そ、 )拭 い が た く 他 律 の 要 素 が は ら ま れ て い る と 考 え る。な ぜか。その理由はまず、カントが構想した自律が、現実の人間に れ る と す れ ば、そ れ は ま さ し く「イ デ オ ロ ギ ー」 、つ ま り ア ド ル ノの定義にしたがっていえば「社会的に必然的な仮象」でしかな いことに な (11 ( る ( cf. GS. (. 2(( ,( 07 )。 個人の自己決定として想定される自律はじつはある種の抽象に すぎず、むしろそこには他律的なあり方が看取されなければなら ない。こうしたアドルノの主張に対しては、しかしさっそく次の ような疑問が生じうるように思われる。すなわち、ミルが考えて いたような個人の自律の概念については、かりにアドルノの指摘 が当てはまるとするとしても、しかしカントが考えたような意味 での自律の概念には、それはまったく妥当しないのではないか、 たとえばそのような疑問である。というのも、カントにおける自 律 と は、 「純 粋 実 践 理 性」の 自 己 立 法 と い う も っ ぱ ら 形 式 的 で 理 性的な自己規定を意味しているはずだからであり、したがってそ れ に お い て は、 「外 的 な 現 実」の モ メ ン ト の 入 り こ む 余 地 は そ も そもなく、つまりは「他律」の要素はいっさい封じられているよ うに思われるからである。アドルノはしかし、そうは考えない。 アドルノの視点からすれば、カントが考えた独特な意味での自律 にあっても、やはり「他律」の要素が強く伴われているとみなさ ざるをえない。その次第を次に確認しておこう。 (二)内面化された他律 周知のとおり、カントにおいて自律の概念は、感性的な衝動や 欲求、好みといったもの、ないし「傾向性」とは―
それらが自 分自身(現象としての自己)のものであるかどうかにかかわらず〈開かれること〉としての自律 一四 2(( 再生産しているのであり、まさにその点でそれ自身が他律的にな っている、そのようにみなす視点である。カントの自律概念をめ ぐるこうした視点は、ただしこれもよく知られているように、ア ドルノの思考に限定されるものではない。たとえば比較的早い時 期のヘーゲルが、これとほぼ重なる批判を、しかもおそらくはよ りわかりやすいしかたで行っている。すなわち、カントが構想し たような「人間の意志の自律」に従う者、つまり「自らの義務の 命 令 に 服 従 す る 者」は、じ つ は 自 由 で あ る ど こ ろ か、 「主 人 を 自 ら の う ち に も ち、し か も 同 時 に、自 ら 自 身 の 奴 隷( sein eigener Knecht )で あ る」の で あ り、結 局 は 他 律 的 な あ り 方 に 陥 っ て い る。い い か え れ ば、 「衝 動、傾 向 性、情 動 的 な 愛、感 性、等 々 と いった特殊なものにとっては、普遍的なものは必然的かつ永遠に、 疎遠なもの( ein Fremdes )、客体的なものである」のであって、 それゆえ現実の人間からすれば、普遍的な道徳法則にもとづく自 律のあり方には、よそよそしい「客体性」が、すなわち「実定性、 他律」がどこまでもつきまとっているので あ (11 ( る 。 (三)自己の堅固さと適応 カントの思考がそのひとつの典型となる強意の自律の概念は、 自己支配というかたちを実質的にとらざるをえないものであるが ゆえに、いわば内面化されたかたちでの他律となっている。この ように捉える視点は、ただしアドルノにあってはさらに、いくつ かの特徴的な観点と結びついてもいる。本節の最後に、そのひと つ を 少 し 急 ぎ 足 で 確 認 し て お く。す な わ ち そ れ は、 (と り わ け カ あ っ て は、 「強 制」と し て 意 識 さ れ る よ う な「自 己 支 配」と い う かたちをとることに あ (11 ( る 。これまでもときに批判の対象となって きたこ の (11 ( 点 に関連して、アドルノはたとえば道徳哲学をめぐる講 義のなかで次のように述べている。 ……カントのもとで絶対的に措定されている強制、つまり形 式的な原理として絶対的に措定されている強制は、カントに あってそう思われているように無条件なものであるのではな く、そのものが条件づけられたものであるということ、その ことを否定することはできません。 ( NS. IV-(0. (2 ( ) カントにあって「形式的な原理として絶対的に措定されている 強 制」 、換 言 す れ ば、理 性 的 で 形 式 的 な 自 己 規 定 と し て の 自 律 が 現実の人間においてとるあり方である「強制」は、じつはけっし て「無 条 件 な も の」で は な く、む し ろ「そ の も の が」あ く ま で 「条件づけられたもの」 ( ein Bedingtes )、制約されたものである。 つ ま り は、何 ほ ど か 他 律 的 な も の で あ る。 「い わ ゆ る カ ン ト 的 な 自律のただなか」には「他律的なもののモメント」が潜んでいる のである( ibid. ;cf. GS. (. 2( 8; NS. IV-(. ((( )。 こうしたアドルノの主張において、その中心に位置しているの は次のような視点である。つまり、カントが考える自律は、さま ざまな衝動や情動をもつ現実の人間にあっては自己「支配」とい うかたちをとるものとなる以上、いわばその内的構造のうちに、 「支 配 / 従 属」と い う 自 他 の 対 立 を 前 提 と し た 関 係 を 持 ち 込 み、
東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 一五 ることが不可欠となるためである。たとえばカントの言い方にそ くしていえば、 (もちろんその超越論的観念論からすれば、 「本来 の自己」は「見えざる自 己 (11 ( 」 なのであり、それに経験的な性質を 当てはめることはできないとはいえ、少なくとも現実の意志のあ り 方 と し て、 )「揺 る ぎ な き 決 意」 ( unwandelbarer Vorsatz )、 「確固たる決心」 ( feste Entschließung )、 「確固たる心術」 ( feste Gesinnung )等 が、自 律 的 で あ ろ う と す る 主 体 に は 求 め ら れ る こ とに な (11 ( る (自律的であるために自己制御と「堅固さ」の必要性を 論じるミルの視点を想起することもできよう) 。 自律的な主体のあり方として想定されるそうした硬さや堅固さ は、しかし「生けるもの」としての主体そのもののもとには、じ つは見いだすことができない。なぜならそうした現実の主体は、 いわば否応なく到来する世界や他者のありようにそのつど情動的 に呼応してたえず変容してゆくことが避けられないからであり、 あるいはまた(少し強引にヒュームの言葉にそくしていうなら、 ) 人が自分の内部に見いだしうるのは、たとえば「苦や快、悲しみ や喜びといった情念や感覚がつぎつぎと継起する」ありさまでし かないからで あ (11 ( る 。硬さや堅固さというあり方がじっさいに見い だされるのは、むしろあくまで「外部の世界」においてであり、 そこで人が出くわす「主体自身でないもの」 ( das nicht Subjekt -eigene )の も と で の こ と で あ る( NS. IV-(( .2 (( f. )。つ ま り、そ うしたあり方がまず経験されるのは、外部の世界において人が突 きあたる既存のもの、ともかくも現にある事物のあり方としてで あ り、す な わ ち、 「私 た ち が そ れ に 対 し て ま っ た く 無 力 で あ る ント的な)自律のために求められる意志、あるいは主体のあり方 そのものが、元来ほかならぬ「他律」によって、とりわけ(すで に第三節で確認しておいたような)既存のものへの「適応」とい う意味での他律によって成立している、そのようにみなす観点で ある。アドルノの思考のひとつの基底をなすものともいえるこの 観点について、たとえば歴史と自由を主題としたある講義のなか では、次のように述べられている。 ……強い自我としての意志を特徴づけるまさしくこれらの性 質や硬さは、私たちがそれに対してまったく無力であるよう なものの硬さ、不可入なあり方という性質にそくして、その も の が 生 み 出 さ れ、獲 得 さ れ て い る の で す。 ( NS. IV-(( . 2(( f. ) 「強い自我としての意志」 ( der Wille qua starkes Ich )を特徴 づ け る 性 質 と な る の は、 「硬 さ」 ( Härte )で あ り、あ る い は「堅 固 さ」 ( Festigkeit )で あ る( NS. IV-(( .2 (( )。そ し て い う ま で も なく、硬さや堅固さというそうした性質こそ、自律ということが らにおいて主体に求められるあり方となる。というのも、現実の 人 間、 「生 あ る も の」と し て の 主 体 に あ っ て、自 律 が 成 り 立 ち う るためには、いわば「一瞬一瞬の情動によって変転し、あちこち に つ き 動 か さ れ て し ま う」 ( NS. IV-(( .2 (( )よ う な あ り 方 は た え ず抑制されることができなければならず、それゆえむしろ、何か しら堅固な、確固たる自己のあり方が可能なものとして想定され
〈開かれること〉としての自律 一六 2(( あり方への適応に、その起源をもっている。まさにこの意味で、 自律のために想定される主体のあり方は、そのものが他律によっ て可能になっている、そういわれなければならない。 こうしてアドルノの視点にあっては、しばしば想定される意味 での自律、つまり何かしら堅固な自己のあり方、自己固有のあり 方を前提とし、自己支配と重なりあうものとなるような自律の概 念は、さまざまな点からいくえにも批判の対象となる。それは、 世界や他者に対するあるべき関わり方を切り縮め、 「生けるもの」 としての自ら自身を窒息させる可能性を潜在させるものであるだ けでなく、じつはそのものが他律の要素をはらみ、むしろ内面化 されたかたちでの他律となっている。そしてそもそも、そうした 自律において求められる主体のあり方そのものが、現存する事物 のあり方への適応という意味での他律によって成り立ちうるもの でしかない。 自律をめぐるアドルノのこうした多岐にわたる批判は、しかし 本論のはじめに触れたとおり、けっして自律の概念そのものを無 効とし、葬り去ろうとするものではない。むしろアドルノは、こ れまでしばしば想定されてきた自律のあり方を批判するそのこと を通じて、自律ということがらの積極的な可能性をかたちづくる 諸要素を救い出し、すぐれた意味での自律の概念を探りあてよう とするのである。とはいえ、それでは、何がそうした諸要素とな り、いかなるものとして自律の概念があらためて構想されるのだ ろうか。次節以降では、そのことをいくつかの論点にそくして考 え て み る こ と に す る。ま ず 次 節 で は、と り わ け「抵 抗」な い し ( keine Macht haben )ようなもの」における「硬さ、不可入な あり方」 ( das Harte, Undurch d (1( ( ringliche )としてである。硬さや 堅固さという性質は、外部の世界における既存の事物のありよう として、はじめて経験されうるものにほかならない。 そしてまさにこの点においてこそ、自律的な主体のあり方その ものが他律によって、もしくは適応によって成立しているとみな しうることになる。なぜなら、自律において主体に想定されるあ り方となる硬さや堅固さ、すなわち「強い自我としての意志」を 特徴づけるそれらの性質は、むしろ外界における既存の事物の硬 さ、そ の 不 可 入 性 に「そ く し て」 ( an )、あ る い は そ れ に な ら っ て、はじめて「生み出され、獲得されている」からであり、換言 す れ ば、そ う し た あ り 方 は、 「生 け る も の」と し て の 主 体 が、現 存する事物のもとで経験するその堅固さへと同化すること、つま り は「経 験 を 行 う 意 識 に と っ て 外 界 が も つ 不 可 入 性」に 対 す る 「ミ メ ー シ ス」 ( GS. (. (8 ( )に よ っ て、は じ め て 成 り 立 つ こ と に な る も の だ か ら で あ る。 『啓 蒙 の 弁 証 法』の 言 葉 を も ち い て い え ば、硬 く 堅 固 な も の と み な さ れ る 主 体 の あ り 方 は、 「自 然 の 硬 直 し た あ り 方( Starrheit )を 模 倣 す る」こ と、い わ ば「死 せ る も のへの同化」 によって、 すなわち 「死せるものへの適応」 ( Anpas -sung ans Tote ) に よ っ て こ そ 可 能 に な っ て い (11 ( る ( GS. (. 7( ,20 (f. )。 (た と え ば、 「鏡 像 段 階」を め ぐ る ラ カ ン の 視 点 に お い て、 「私」 の形成にはある種の「疎外」が前提されているとみなさ れ (11 ( る のと 構 造 的 に は 同 様 の 意 味 で、 )硬 く 堅 固 な 自 己 の あ り 方 は、逆 説 的 にも、外部のものへの同一化に、つまり外部の「死せる」事物の
東京経済大学 人文自然科学論集 第一四四号 一七 ( () Christman, “Autonomy ”, p. (( 7; cf. John Christman & Joel Anderson, “Introduction ”, in J. Christman & J. Anderson ( eds. ), Autonomy and the Challenges to Liberalism, Cam -bridge University Press, 200 (,p. 2. ( () John Stuart Mill, On Liberty ( (8 (( ), in Utilitarianism and On Liberty, Blackwell, 200 (, p. (7. /『自由論』 (塩尻公明・木村 健 康 訳)岩 波 文 庫、一 九 七 一 年、三 〇 頁。な お、 『自 由 論』で は「自 律」と い う 言 葉 は そ れ 自 体 と し て は 用 い ら れ て い な い が、 同 書 に お け る ミ ル の 思 考 に あ っ て は 実 質 的 に、強 く「自 律」の 概 念 に 焦 点 が 当 て ら れ て い た と い え る。例 え ば 以 下 も 参 照。 Richard J. Arneson, “Mill Versus Paternalism ”, in John Stuart Millʼs Social and Political Thought : Critical Assessments, ed. by G. W. Smith, Routledge, Vol. 2, ((( 8, pp. 2( 7-2 (( . ( 7) Cf. Christman, “Autonomy ”,p. ((( . ( 8) Christine M. Korsgaard ( with G. A. Cohen [ et al. ]; ed. by Onora OʼNeill ), The sources of normativity, Cambridge Uni -versity Press, (((( ,pp. (8-20, (( ,( 0( . /『義務とアイデンティ テ ィ の 倫 理 学』 (寺 田 俊 郎 ほ か 訳) 、岩 波 書 店、二 〇 〇 五 年、二 一 -二二、一〇七、一二二頁。 ( () Gerald Dworkin, The Theory and Practice of Autonomy, Cambridge University Press, (( 88, pp. (0-(( ,( 0( ,(( 0-((( . ( (0)こ う し た 原 理 的 な 異 論 と そ れ に 対 す る 反 論 に つ い て、た と えば以下を参照。 Bernard Berofsky, “Autonomy without Free Will ”,in James Stacey Taylor ( ed. ), Personal Autonomy, Cam -bridge University Press, 200 (, pp. (8-8 (; Marina A. L. Oshana, “Autonomy and Free Agency ”,in Ibid., pp. (8 (-20 (. ( (() Christman & Anderson, “Introduction ”, pp. (-(; cf. Catrio -「批 判」と い う こ と が ら の も と に 自 律 の ひ と つ の 積 極 的 要 素 を 見 いだそうとするアドルノの視点を確認しておくことにしたい。 注 * 本 稿 で 文 献 を 引 用 す る 際 の 出 典 の 示 し 方 に つ い て、ま ず ア ド ル ノ の テ ク ス ト に か ん し て は 注( (()を 参 照。そ れ 以 外 の テ ク ス ト に か ん し て は、そ の つ ど 注 で 出 典 を 示 す。な お そ の 場 合、邦 訳 書 の あ る も の は な る べ く そ の 該 当 頁 数 を あ わ せ て 示 す が、訳 語については必ずしも邦訳書と一致していない。 ( () Cf. John Christman, “Autonomy ”,in Roger Crisp ( ed. ),The Oxford Handbook of the History of Ethics, Oxford University Press, 20 (( ,p. ((( ;Rosemarie Pohlmann, “Autonomie ”,in His -torisches Wörterbuch der Philosophie, Hrsg. von Joachim Rit -ter, Schwabe, Bd. (,(( 7( ,S. 70 (. ( 2) Cf. Christman, “Autonomy ”, pp. ((( -(( 7; Pohlmann, “Au -tonomie ”, S. 70 (ff. ; J・B・シュナイウィンド『自律の創成』 (田 中 秀 夫 監 訳) 、法 政 大 学 出 版 局、二 〇 一 一 年、七 頁、七 〇 九 頁。 ( () Jean-Jacques Rousseau, Du Contrat social ( (7 (2 ), Galli -mard, (((( , p. (87. /『社 会 契 約 論』 (作 田 啓 一 訳) 、『ル ソ ー 全 集』白水社、第五巻、一九七九年、所収、一二六頁。 ( () Immanuel Kant, Kritik der praktischen Vernunft ( (788 ), in Kantʼs gesammelte Schriften, Hrsg. von der Königlich Preu -ßischen Akademie der Wissenschaften, Bd. V, S. (( . /『実践理 性 批 判』 (坂 部 恵 ・ 伊 古 田 理 訳) 、『カ ン ト 全 集』岩 波 書 店、第 七巻、二〇〇〇年、所収、一六九頁。
〈開かれること〉としての自律 一八 2(( は 若 干 の 補 足 を 加 え て お く。ま ず、こ の 概 念 と ヘ ー ゲ ル の 思 考 と の 関 連 に つ い て い え ば、ア ド ル ノ の 講 義 録 の 何 人 か の 編 者 が 指 摘 し て い る よ う に、 「客 体 へ の 自 由」と い う 言 葉 そ の も の は、 ヘ ー ゲ ル の テ ク ス ト の な か に(ま っ た く そ の ま ま の か た ち で は)見 い だ す こ と が で き な い( cf. NS. IV-(. (( 0; NS. IV-(( .( 02 )。た だ し、い う ま で も な く、 「客 体 へ の 自 由」と い う 概 念 そ の も の は、ヘ ー ゲ ル に お け る「外 化」の 概 念 と 強 く 結 び つ く も の で あ り、そ れ ゆ え ま た、ヘ ー ゲ ル の 思 考 に お け る「自 由」の ひ と つ の 側 面 に あ た る も の と い え る。な お、と く に ア ド ル ノ の 認 識 論 に お い て「客 体 へ の 自 由」と い う こ の 概 念 が 担 い う る 意 味 に つ い て 詳 し く 考 察 し た も の と し て は、以 下 を 参 照。 Andrea Kern, Freiheit zum Objekt. Eine Kritik der Aporie des Erkennes, in Honneth ( Hrsg. ), Dialektik der Freiheit, Suhrkamp, 200 (,S. (( ff. ( (()こ こ で「意 味 定 立 的」 ( sinnsetzend )と い う 語 が 用 い ら れ て い る が、 「意 味 定 立」 ( Sinnsetzung )と い う 概 念 は ア ド ル ノ の テ ク ス ト で 用 い ら れ る こ と は ほ と ん ど な く、ア ド ル ノ の 思 考 に お け る 鍵 概 念 と は み な し え な い。ま た、ア ド ル ノ が こ こ で、 「意 味 定 立 的」と い う 語 に 関 連 し て 誰 の ど の よ う な 思 考 を 念 頭 に お い て い る の か に つ い て も(こ の 引 用 箇 所 の 前 後 の 文 脈 を ふ ま え て も)判 然 と し な い。 「意 味 定 立」と い う 語 そ の も の に つ い て い え ば、た と え ば ニ ー チ ェ が、 「事 実 そ れ 自 体」と い っ た 想 定 を 批 判 す る 文 脈 に お い て、い わ ば「事 実」の 成 立 の た め に 不 可 欠 と な る 作 用 と し て 言 及 し て い る( Friedrich Nietzsche, Kritische Studienausgabe, Hrsg. von G. Colli und M. Montinari, de Gruyter, Neuausgabe, Bd. (2, S. (( 0 /『権力への意志(下) 』 (原 佑 訳) 、『ニ ー チ ェ 全 集』ち く ま 学 芸 文 庫、第 一 三 巻、一 九 na Mackenzie & Natalie Stoljar, “Introduction :Autonomy Re -figured ”, in C. Mackenzie & N. Stoljar ( eds. ), Relational Au -tonomy, Oxford University Press, 2000, pp. (-(2. ( (2)た と え ば ア ク セ ル ・ ホ ネ ッ ト は、自 律 概 念 へ の 諸 批 判 に 対 す る 応 答 の あ り 方 を、次 の よ う な 三 つ の タ イ プ に 分 類 し て い る。 す な わ ち、批 判 を 徹 底 し て 自 律 の 理 念 を す べ て 無 効 に す る も の、 批 判 を 受 け 止 め な が ら も 古 典 的 な 自 律 の 理 念 を 維 持 す る も の、 批 判 を 正 当 に 評 価 し て そ れ に 適 合 す る か た ち で 自 律 の 理 念 を 再 構成するもの、である。 Axel Honneth, Das Andere der Ge -rechtigkeit, Suhrkamp, 2000, S. 2( 8f. /『正義の他者』 (加藤泰史 ほか訳) 、法政大学出版局、二〇〇五年、二六二 -二六四頁。 ( (() Cf. Christman, “Autonomy ”, pp. (( 8-70 (; Mackenzie & Stoljar, “Introduction :Autonomy Refigured ”,pp. (( -2 (. ( (()ア ド ル ノ の テ ク ス ト か ら の 引 用 は 基 本 的 に、全 集( The -odor W. Adorno, Gesammelte Schriften [= GS. ], Suhrkamp )、 お よ び 現 在 刊 行 中 の 遺 稿 集 に 収 め ら れ て い る 講 義 録 ( Nachgelas -sene Schriften, Abt. IV, [ = NS. IV. ],Suhrkamp ) か ら 行 い 、 文 中 に 略 号 ・ 巻 数 ・ 頁 数 の み を 示 す 。 た だ し 、 そ れ ら に 収 め ら れ て い な い 講 演 等 の テ ク ス ト を 含 む も の と し て 次 の 文 献 を 用 い る が 、 こ れ に つ い て も 引 用 に あ た っ て は 文 中 に 略 号 ・ 頁 数 の み を 示 す。 Theodor W. Adorno, Erziehung zur Mündigkeit, Suhrkamp ( Taschenbuch ), (( 7([= EzM. ]. なお、邦訳書があるテクスト に つ い て、そ の つ ど 訳 書 の 該 当 頁 を 示 す こ と は 省 く が、本 稿 (た だ し 次 号 に 掲 載 予 定 の(下) )の 末 尾 に 提 示 す る 文 献 一 覧 に おいて、訳書の書誌情報をまとめて示す。 ( (()こ の「客 体 へ の 自 由」に つ い て は、本 稿 の 主 題 に か か わ る 範 囲 で、後 ほ ど あ ら た め て 少 し だ け ふ れ る こ と に な る。こ こ で