167一一『奈良法学会雑誌』第8巻3・4号 (1996年3月〉 八 論 説
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自由の客観的可能性と歴史の発展法則∞・完
平
目 次 序 言 第一章社会的統合の手段(以上第四巻二号) 第二章社会的統合と自由 第一節統合と自由の関係(第四巻三号﹀ 第二節政治的空間の規模(第四巻四号﹀ 第三章﹁統合史観﹂ 第 一 節 理 論 付基本思想(第五巻三号)ω
メカニズム(第六巻一号﹀ 局発展段階(第六巻三号) 第 二 節 検 証 付日本史の段階区分(第八巻一号及び二号) ∞世界史における若干の事実(本号)尾
透
第8巻3・4号一一168 白世界史における若干の事実 本節の始めに述べておいたように、検証の二番目は世界史の分野に関る。世界史においても、﹁統合史観﹂の妥当性 を実証することができるであろうか。そのような有力材料が存在しているであろうか。しかしこれについては、先に 指摘したように、答えは明らかである。却ち、﹁統合史観﹂の世界史(この場合は西洋史又は西欧史)における妥当性は 基本的・一般的には既に証明されていると言える。何故なら、前節の白において発展段階の基本形式を提示したが、 それは(主に﹀西欧史をモデルとしていたのであり、 西欧史の事実が﹁統合史観﹂の理論 ということは逆に言えば、 によって論理的・整合的に説明されえたということ、 つまり検証に他ならないからである。それはまだ(日本史とは異 なって﹀各国ごとの具体的な検証というレベルにまでは至っていないが、西欧として概括することには一定の合理性 があろう。現段階では、西欧各国の検証は今後の課題とせざるをえない。かくして、これまでの論考によって、理論 そのものについての基本的な検証は一応終えたとすることができるのである。 そこで、これから試みようとするのは、理論のヨリ細部に関する、即ち部分的・要素的な検証である。﹁統合史観﹂ を構成する部分的な要素理論を世界史の事実によって裏付けようとするのである。それは可能であろうか。しかしそ の前に、それら個々の諸理論を明確にしておかねばならない。それは既に前節句の始めにおいて十二の命題の形で総 括されているが、当面の基本的な検証のためには、それを更に要約する必要がある。その結果は││﹁統合史観﹂と は要するに経済 1 空間 l 統合 l 自由の四つのファクターの聞の綜合的な関係についての理論であり、そのいくつかの 個別的関係から成っている。従って、それらの関係について一つ一つ検証してみればよいということになる。その積
み重ねが理論全体の検証へとつながっていくであろう。 そうした諸関係は四つに大別することができる。そしてここでは、それらを次のような順序で取り扱う。第一に、 空間 l 統合の関係、第二に、空間 l 統合 l 自由の関係、第三に、経済 l 空間の関係、そして第四に、経済 l 統合 l 自 由の関係である。更に、各々の関係において検証すべき命題は、こう設定する。即ち、第一の関係については、
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帝 国というものは一つの統一国家(統合された政治的空間)と見なすことはできない、ω
小規模空間のほうが統合が容易 である、第二の関係については、ω
小規模空間は自由化(又は民主化)を生み易い、伸空間の拡大は強権化をもたらさ ざるをえない、第三の関係については、ω
経済発展は空間の拡大を生ずる、また第四の関係については、附経済発展 は自由化をもたらす、 という合計六つの命題である。 これらの命題が歴史的事実によって確かめられれば、 169一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則ω
﹁ 統 合 史 門 1 ) 観﹂の検証は更に前進を見ることになるであろう。ともあれ、以下それらについて順次検討していくことにする。 山帝国の外見性 既述の如く、政治的空間(国家)は人為的統合によるが、その基礎には自然的統合がなければならない。そうでなけ れば、統一的政治社会として安定的・継続的に存在することはできない。そして、自然的統合の諸要因の中で最も普 遍的且つ基本的であるのは、経済であり、従って、政治的空間の規模は経済的空間のそれによって規定される。これ が﹁統合史観﹂の論理であるが、そうであるとするならば、政治的空間の規模というものは経済発展に対応する形で 段階的に(原則として﹀拡大するものであるということになる。ところが実際の歴史においては、国家の広狭は必ずし もそうではない。それどころか、人為の如何により全く多様であり、発展段階から見て例外的なケ I スがいくらもあ る。そして特に目立つのは、帝国又は大帝国の存在である。それは﹁統合史観﹂の法則と明らかに合致していないよ第8巻3・4号一一170 うに見える。だとすれば、それは﹁統合史観﹂に対する反証となりうるのであろうか。そこで、この点についての説 明が求められるであろう。帝国の存在という事実が﹁統合史観﹂と矛盾するものではないということを、示さねばな らない。この問題に関しては、既に前節目同において言及し一般的な解答を与えておいたが、それを具体的な史実によ って検証してみることが必要なのである。 先に述べたように、私の基本的な論点は、帝国とは軍事力(権力)を唯一の統合手段として無理やり造り出された 一応のまとまりであるということ、また、そもそもそのかなりの部分が荒野や過疎地である(従ってまた、そうした所 においては有力な対抗勢力が育ちにくい)ことに加えて、その全領域にわたって実効的な統治が行なわれているわけでは なく、それ故、その版図の広大さは見せかけにすぎないということである。そこでは、中央(その支配者)と各地方 (その支配者﹀との聞に不安定な軍事的主従関係が成立しているにすぎず、非常に不統一であるし、そのため常に崩壊 の可能性が内在している。事実、もし帝国の諸制度が額面通りに機能しえたとしても、それは一時的であり、従って、 帝国の最盛期は常に短く、絶頂は同時に終末、又は衰退の始まりである。そして仮に中央集権的な形を示している場 合でも、単に地方官を派遣して税を徴収しているにすぎない。実際の行政は旧来の支配や秩序に依存しており、その 実態は(少なくとも人民レベルにおいては)全く分権的なのである。 そうであるとするならば、帝国の存在という事実は﹁統合史観﹂、その発展段階の理論を否定するものではないとい うこと、それらは両立しうるということになる。しかし前述の如く、そのような私の見方が当たっているかどうか、 歴史的事実であるかどうかを具体的に調べてみなければならない。ここでは、そのための(おそらく代表的な﹀事例と ローマ帝国、オスマン目トルコ帝国、モンゴル帝国、並びに中国の諸王朝を取り上げてみたい。 し て 、 ロ ー マ 帝 国 ローマ帝国は都市国家ロ l マから出発し、それが拡大したものである。そして、後者の都市国家たる
性格はその後も変わることがなかった。のみならず、属州も同様であり、従って、都市
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ヨ 同 ) が 帝 国 全 体 の ﹁ ロ 1 7 帝国においては、都市は初めから国家の基礎そのものをなしている。政治組織が本質的 に 都 市 中 心 な の で あ る 。 ﹂ 構成要素であった。 それでは、その都市によって帝国が如何に構成されていたのかと言えば、それは、 ローマと各地方都市との聞の個 171一一ー自由の客観的可能性と歴史の発展法則。1) 別的な条約に拠っていた。即ち、それによって両者が一つ一つバラバラに結びついていた。条約とは地方住民にロー マの市民権を不完全な形で分有せしめるものであったが、その具体的な内容は同一ではなく、従って地方都市同士の 聞の結びつきはなかったのである。所調﹁分割統治﹂であ前日それ故、ローマ帝国とはそうした多数の直接的結合の 集積に他ならず、全土を領域的に支配していたわけではなかっ前同時にまた、ローマは﹁地方的独自性の尊重﹂を 原則としたのであって、﹁被征服民の神、宗教、言語、愛郷心、政治区分をだいじにしたのである。﹂なるほど、総督 による領域的な属州政治もあったが、その在り方及びロ I マとの関係は都市の場合と本質的に異なるものではなかっ ( 孔 ) た。このような状態であったから、人々の生活を左右したのは個々の都市(キヴィタス﹀であり、かくして、 ローマ帝 国は二万的な国家、 一つの政治的空間とは言えないのである。その実態は移しい数の小国の集合であり、都市国家連?
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マ帝国の滅亡は都市の林立という原状復帰をもたらしたのである。 合又は都市連合であった。だからこそ、 古 代目都市国家﹂段階の所以である。 なお、付け加うるに、?
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マに特有の統合促進手段として、 その完備された(まことに驚嘆に値する)道路網を指摘 することができる。それは極めて賢明な基本政策であった。それによって実質的な距離は縮小し、帝国の空間的規模 は外見より小さくなるからである。﹁ロlマがあの広大な領土を、生産性の低い農業段階の技術をもって、数百年に わたって︿曲りなりにも或る意味で)統一的に支配することが可能であった最大の秘密の一つは、 全帝国のすみずみま第8巻3・4号一一172 ( 日 ) で達した道路網の整備であったことはまちがいない﹂であろう。 オスマン日トルコは確かに専制君主政及び中央集権的官僚制を誇った。従って、あたかも一 つの統一的な政治的空間であるように見える。しかし、その骨格を成したのは、分権的傾向をもっ﹁軍事的封土制﹂ オ ス マ ン H ト ル コ 帝 国 で あ っ た し 、 一元的支配をめざす﹁州県制﹂も、中央地域以外では﹁決して完全な形で行なわれたわけではなかっ た。﹂﹁多かれ少なかれ現地人の自治を認める間接支配地域の占める割合が大き﹂く、支配形態は地域的・民族的に一 様ではなかったのである。 人々の生活を現実に規定していたのは、氏族(部族)共同体や村落共同体、 土着の首長や地方的な権力者であって、帝国の統治もそうした既存の秩序に依拠していた。中央地域ですら、 の社会組織をほとんどそのまま残していた点では変わりがない﹂のである。 つ ま り 、 また ﹁ 従 来 更にもう一・点。帝国はなるほど三大陸にまたがる広大な地域を領有していた。だが、その中央には地中海と黒海が 広がっている。 そ れ 故 、 ( 同 様 の こ と は 、 同 じ く 地 中 海 を 挟 む ロ l マ帝国に関しても当てはまるが)イスタンプルからの実効 距離は辺境地域でもそれほど長くなかったのである。このような地理的特殊性により、領域について割り引いて考え なければならないであろう。 モ ン ゴ ル 帝 国 モンゴル帝国は(註 2 でも言及したが)成立後ほどなく分裂した。それ故、 むしろ逆に、既に始めか ら﹁統合史観﹂の例証と言うべきであるが、それにしても、まことに驚異的な大帝国(世界帝国)である。 し か し 、 一見して判るように、その大半は無主・不毛の大地であり、押さえていたのは主要な都市や交通の要衝くらいであっ た。従って、実際の支配領域は名目より随分縮小されたものであったに違いない。また、征服の原動力になったのは、 遊牧民の特徴たる騎馬軍団(遊牧騎士団﹀であるが、その高度な機動性によって実質的な広さは更に縮まったであろう。 ︹ 却 ﹀ 広大な版図が騎馬(しかも、有名な汗血馬の)及び弓射のもつ圧倒的な軍事力に基づくものであることは、 そ し て 、
う ま で も な い 。 帝国の内部構造について見ても、それは、当然のことながら分立的・連合的であった。否もともと、帝国以前の段 階 ( チ ン ギ ス 汗 ウ ル ス H 部族国家)において既に、﹁各々一つの政治的経済的独立性を有する領主圏﹂に分化していたの である。況や帝国においてをやである。皇帝の直轄地はモンゴル本土だけであった。そして、帝国は﹁半独立的な領 ( 辺 ) ( お ) 国と尼大な属領﹂を抱えていたし、後者の統治は貢納等の義務と引き換えに土着の支配者に委ねられたのである。や がて成立した部分的な元にしても、その支配は浸透しなかった。徹底したモンゴル人優先・漢民族搾取の体制で、形 の上では統一的行政機構を敷いたが、異質な中国農耕社会の上に乗っかっただけであった。特に地方の統治は、地元 の豪族に任せたのである。 173一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則
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中国はそれ自体一つの大陸である。従って、そこに成立した統一国家は全て大帝国と言うことがで きる。即ち、秦・漢(前漢・後漢)・陪・唐・宋(北宋)・元・明・清、全てそうであろう。しかし、こうした諸帝国も 中 国 の 諸 王 朝 やはりいずれも外見的であり、真に統一されてはいなかったのである。 ただ、中国の場合は、 一般に他の帝国には見られない有利な条件が存在しており、そのため、歴史の歩みに伴って 一つの国家としての成立の基盤が多少とも形成されるようになっていった。その有利な条件とは、第一に、各王朝の ︹ 辺 ) 国土の主要部或は諸勢力の興亡の舞台が一貫して殆ど同一の地域(即ち黄河・長江流域を中心とする中国大陸)であった から、反復作用により歴史的蓄積が可能だったということである。また第二に、基本的な政治体制に変化がなく、更 に民族的にも、他の諸帝国に比べれば一体的であった。そして第三に、強力な北方民族の絶えざる脅威と侵略が刺激 となって、漢民族の形成と団結が促されたということがある。中国の諸王朝に関しては、これらの点を考慮に入れる 必要があろう。しかしながら、程度の差はあれ、外見性ということはどうしても否定できないのである。それでは、第8巻3・4号一一174 それは何処に現れているであろうか。 諸王朝は皇帝の下に各々の中央集権制度を設けた。それらはいずれも官僚制と郡県制又は州県制という特徴をもっ ( お ) が、そうした中央集権制は殆ど名目的であった。そして、それが仮に実効的であったとしても、その期間は非常に短 かかった。即ち、国家として安定し繁栄したのはせいぜい数十年であり、概して始めの間だけだったのである。 ( お ﹀ 具体的に見てみると!│まず秦は、始皇帝が十一年間に五回の地方巡幸をすることによってやっと秩序が保たれう る情況であった。そのため、彼の死後一年にして内乱状態に陥り、 四年後、従って合計たった十五年で誠んだのであ る。次の漢(前二
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二年より)は、﹁前漢末の混乱以来、豪族の勢力が決定的なもの﹂となるに至って、王葬の新(入 l 二三年)に分断された。その結果、後漢(二五 1 一 一 一 一O
年)は﹁豪族との妥協によって成立した:::いわば豪族の連合 ︹ 訂 ﹀ 政権的国家ともいうべきもの﹂であったし、当然の如く、 一世紀終わりから争乱状態となった。それは四世紀にもわ たる貌晋南北朝時代の分立抗昔の序幕だったのである。また前漢においても、中央集権的な統一が一応達成されたの ( お ) ( 叩 日 ) は武帝の時代のみであった。それ以前は、各地の封建諸王が﹁広大な領土人民を私有﹂する分権的体制(郡国制)であ り、それによって呉楚七国の乱(前一五四年)を招いたし、武帝の後は、社会不安と(官官・外戚らによる﹀内紛の続く 混乱期だったのである。続いて惰は、三O
年足らずしかもたなかったし、華やかな国際的文化を誇った唐も、政治的 には短命であった。即ち、唐の三世紀近い歴史のうち、盛んだったのは最初の半世紀にも満たなかった(中国を統一 より精確には、﹁すでに太宗治世のなかごろから社会状勢に ( 却 ﹀ 大きな変化が現われ、高宗時代にはそれがいっそうはなはだしくなったじ し た 二 代 太 宗 H 李 世 民 か ら 三 代 高 宗 の 前 半 ま で の 時 期 ) o 否 、 そして特に安史の乱以後の後半期は、節 度使の藩鎮化などにより分裂状態だったのである。またその広大な属地についても、始めから﹁住民の自治﹂に基づ く形式的・間接的な支配であった(罵際政策)。 お ま け に 、 ﹁唐の対外勢力はすでに高宗の末年から後退﹂し始めたのである。更に宋も、二代太宗の中国統一後半世紀にして弱体化したし、後半の一世紀半は華北を欠いた南宋であった。 次の元も、(先の﹁モンゴル帝国﹂においても触れたが﹀一世紀ももたなかったし、平穏だったのは世祖フピライ末期まで の 二
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年くらいにすぎなかった。しかも、その支配形態は各地の半独立的な行中書省が治める﹁一種の連邦制﹂であ ﹁分割統治﹂だったのである。最後に、清はともかく明(一三六八年より)も、政治の安定は靖難の変を挟んで三 り 代永楽帝までの(どういう訳か唐・宋と同じく)半世紀聞であった。 ー「 明 帝 国 つ 存 た 立 の のZ
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る詰的。)基 盤 Lー で あ る 里 甲 制 も ー「 l主 ゃくも十五世紀の三十1
四十年代には動揺して、農民の反抗運動が始ま﹂ かくの如く、諸王朝の安定期・繁栄期は悉く限られていたが、それだけではなかった。実は、そうした期間におい てすら支配の実効性は疑わしいものであった。 175一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則ω
つまり、中国は歴史を通じて常に根本的に不統一だったのである。そ ( 弘 ﹀ の理由は 1 1 既に漢の時代に大土地所有が活発化し、そこに成立した荘園制、また後には佃戸制が、近代に至るまで 社会の基本的な体制として存続・発展してきたからである。荘園を所有する豪族又は貴族が宗族を形成し、地方の実 権を一貫して握っていたのである。しかも、﹁これらは全国に分布して、ほとんどすべて小型の専制の形をとった。﹂ そして、各王朝の制度・政策はそれを(多少抑制はしても)否定するものではなかったはが有名な官僚制もそれを崩す ﹁郷村の自治を直接指導するのはその土地の勢力者であり、中央から派遣 される官僚も、その自治運営にはほとんど介入しなかった﹂のである。というより、、官僚制の整備と共に、豪族・貴 族又は新興地主階級(土大夫)自身が官僚の主な供給源(官戸・官僚地主)となっていった。これでは統一はありえない。 ことはできなかった。清代に至ってすら、 またそのことによって、中央においても彼らの聞の権力争いが絶えなかったし、国家財政は常に逼迫せざるをえなか ( 州 制 ) っ た の で あ る 。 このように、中国においては近代に至るまで、全土にわたって実効的な支配力をもっ中央権力は殆ど存在しなかっ第8巻 3・4号一一176 た。むろん、実効性の如何は程度の問題であるから、﹁存在しなかった﹂というのは言い過ぎであるかもしれないが、 日欧の基準からすれば、統合のレベルは非常に低かったのである。 但し、文明の進歩と共に潜在的な支配能力が高まるのは必然的であり、且つまた始めに述べた中国特有の有利な条 件の故に、確かに中国の場合、その統一国家形成は次第に前進した。特に、宋代の文人官僚政治から中央集権的統治 組織の確立が現実化し、明の太極洪武帝以降一応の水準に達した。 そして、とりわけ清朝の康照乾隆時代(中間の薙 正帝の時代も含む十七世紀終わりから十八世紀末まで)は、経済発展を基礎として中国史全体の最盛期と言ってよく、明 代から受け継いだ官僚制度も確立した。 しかも、領土の著しい拡大にもかかわらず(直轄領はそれほど変わらないが)、 かなり有効に統治しえた。従って、 ﹁近代に至るまで﹂というのは、問題があるかもしれない。しかし、少なくとも 民衆レベルにおいては国家権力の優位性は確立していなかったし、そもそも国家権力はまさに﹁近代に至るまで﹂民 衆の生活に浸透していなかったのである。 ﹁多くの民衆はほとんど役人を見ることなく生活していた。接触すればろ くなことのないことをよく知っており、政権のまわりに右往左往する役人たちとは別世界に住み、またそれを望んで いた。中国の専制政治とはそのような実態で成長していた。 農民にせよ都市住民にせよ、民衆は自分らでその生 活を守らねばならず、自分らで秩序を維持しなければならず、地域により職業により共同体を作って郷老などといわ (HH) れる長老を中心に自治を深めていった。それは生産から流通、消費の生活全般から警察や裁判に及んだ。﹂
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小 規 模 空 間 と 統 合 ﹁統合史観﹂によれば、政治的空間の規模と統合力とは反比例する。即ち、空間の規模が大きくなればなるほど統 合力は弱まるし、同じことだが、空間の規模が小さくなればなるほど統合力は強まる。このことをよく示している実例として、(数ある中から)ここではイギリスの封建制と絶対主義を取り上げてみたい。 封建制は西欧と日本の(所謂)中世に存在した根本的な体制であるが、 同じく封建制と言っても、 全く同一という わけではない。基本的な共通性はあるが、具体的な在り方は、当然のことながら国によって異なる。各国の封建制に は、それぞれの国情を反映した特質が認められるのである。そして西欧について言えば、 とりわけ大きな相違点(の 一 つ ﹀ と し て 、 イギリスの特殊性ということが一般に指摘されている。即ち、 イギリスの封建制は大陸諸国のそれに は見られない或る特殊な性質をもっていたというのである。確かに、これは当たっているであろう。 封建制においては、領主権は独立的且つ領域的であって、主君(封主﹀といえども臣下(封臣﹀の所領に介入するこ とはできない。それは、主従契約の階梯の頂点に立つ最高の主君、即ち国王もまた同様であり、従って、地方的・閉 177一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則
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鎖的な空聞が各地に成立することになる。 つまり、封建国家の構造は分散的・分権的たらざるをえないのである。そ れが封建制の一つの大きな特徴である。ところが、イギリスの場合は異なる。イギリス封建制は(封建国家としては﹀ 中央集権的な性格が強く、排他的な地方権力が十分な形で成立しなかったのである。例えば、国王はいくつかの重要 な非封建的・統治的権利をもっていたし、国王裁判権は広汎であった。或は、国民は私戦を禁止され、国王に対する 一次的・直接的な忠誠義務を負っていた。 つまり、封建国家でありながら、国家的統一性がかなり高かったのである。 それは何故であろうか。どうしてイギリスだけがそのような性質をもつことになったのであろうか。 この間題について考察する前に、国家的統一性ということの意味について正しく認識しておくことが重要である。 その意味は一様ではないからである。国家的統一或は統一的支配と言っても、それは国王の権力そのものが強いとい うことを直ちに意味するわけではない。即ち、それが国王の所領の(絶対的又は相対的な)広大さや軍隊の(絶対的又は 相対的な﹀強大さによるとは限らないのである。何故なら、本稿において自然的統合と人為的統合の区別ということ第8巻3・4号一一178 を強調しているが、国王の権力が強くなくても自然的統合によって国家の統一が達成されるということが、ありうる からである。イギリスの場合、まさにそれであるように思われる。そしてその自然的統合の要因は何かと言えば、最 ( M 叩 ) も根本的には、国土がかなり狭小であり且つ島国であるという地理的な条件であろう。孤立的な(とはいえ、島国にも かかわらず外部からの侵略・征服・移住は少なくなかったが)小規模空間ということが統一性・中央集権性の基礎であると 考えられる。従ってまた、 フランスやドイツにはないそうした条件がおそらくそれらとの相違をもたらしたのであ る
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従来、イギリス封建制の集権性の原因は国王権力そのものの強大性に求められてきた。即ち具体的には、 ノ ル マ ン 王朝の征服者としての性格と、農業の後進性による領主権の不完全性にである。しかし、それらは本質的な原因では ないであろう。 まず前者について言えば││それを象徴するのは、ウィリアム一世による一O
八六年の﹁ソ I ルズベリ!の誓い﹂ で あ る 。 2-ゃ 、 a、
中 h , 刀 イギリスでは(おそらく自然的統合により﹀早くから国王と人民との結びつきが強かったのであり、そ れに先立つアングロ・サクソン時代の十世紀初めに、国王に対する一般臣民の誠実の宣誓がなされた。 ( 必 ﹀ の直接的な結合は伝統的なものであって、ウィリアムはそれに依拠したのである。またノルマン時代、封建勢力を撃 肘する公的・統一的な地方行政組織が確かに機能した。ところが、それもアングロ・サクソン時代の継承であった。 つまり、両者 かくの如く、既に﹁十1
十一世紀のイングランド王権は、地方統治と軍制の面で集権的ともいうべき組織を実現しつ つあった﹂のであり、それ故、﹁ノルマン・コンクエスト後のイングランドを特徴守つけた集権的封建制の前提は、-( 日 ) コンクエスト以前から形成されつつあった﹂と言うことができるのである。 次に後者について言えば l │ │ イギリスでは農業生産の未発達により所領が分散的であり、なるほど諸侯の領域的な支配権ハ特に流血裁判権﹀が成立しなかった。従って、国王の優位が生じたというわけである。しかし国王も、最大と はいえ一領主であり、条件は同じであろう。領主が領主の故に弱体であるならば、国王もまたそうであるはずである。 つまり、国王と諸侯の聞の相対的な力関係は、両者に共通する要因によっては当然変わりえないのであ石町 このように、イギリス国王の権力が強大であったのではない。その所領と財政及び軍事力が卓絶していたわけでは ない。自然的統合が基本的に存在しているが故に統治し易く、ために一見強大であるように見えるだけである。その 実態は、臣民全体にまとまりがあり、且つその一体的な臣民と国王との心理的距離が短かいということである。従つ 17!ト←自由の客観的可能性と歴史の発展法則
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てそれは、臣民の側に対しても国王の側に対しても、それぞれ対照的な二つの結果をもたらす。まず臣民について言 えば、彼らは国家意識が強く一致団結し易いから、王の政策に対応して服従・協力と拒否・反抗のいずれの態度をも とりうる。つまり、封建領主たちは普段は従順で協調的だが、王が自分たちの利益に反する方針を打ち出した場合に は、逆に強固な反対勢力を形成しうるのである。そして同様のことは、国王の側についても言える。即ち彼において も、臣民と近接しているということは、彼らの意志を或る程度受け容れざるをえなくなる反面、自らの意志も通し易 いということなのである。 これが当時のイギリスの情況、君臣関係の状態である。もしそうでなければ、つまり国王の権力が大陸諸国のそれ マグナ・カルタ(二一一五年﹀以来の先進的なイギリス憲政史はどう理 より強大であり支配的であったとするならば、 解されるのであろうか。例えばオクスフォード条令や模範議会、或は人民による一二回もの国王廃位などは、如何にし て説明されうるのであろうか。強大な王権は立憲制・議会制と相容れない。反国王的な後者と国王中心的な中央集権 ( 邸 ) ﹁統合﹂しかないであろう。国王の専横に対して国民の権利を確 制というこつの対立的な事実を説明しうるものは、 保するコモン・ロ I の体系、それを次第に形成していったイギリス身分制議会の(早くもマグナ・カルタの五O
年 後 に 始第 8 巻 3 ・ 4 号~邑180 まる)歴史は、明らかに国民的統合の賜物なのである。 そもそも、イギリスの中世議会は大陸の議会にはない特殊な性格をもっていた。それは第一に、大陸が地方議会中 心であったのに対
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、全国議会が確立していたということである。そして第二に、イギリス議会は課税の諾否のみな らず立法や行政についても一定の権利を有していた刃更に第一二に、村 l 郡 l 州という自治的地域共同体(これは同時に 国王の中央支配の単位・基盤でもある﹀に基づく﹁非都市地域の代表制﹂(それによる州代表)が存在したのであり、しか も、そのような地域代表制は州代表と都市代表の結合により一一三一0
年代には議会の中に事実上庶民院(コモンズ)を 形成するに至ったのである。こうしたイギリス特有の議会の在り方、その統一性及び民主性は、上述したイギリス国 家の特質をまさに反映しているであろう。後者が事実であることは、議会においても一不されているのである。 かくして、イギリスの封建制には、狭小な島国という条件に基づくその統合の高さによって、中央集権的・統一的 という非﹁封建的﹂な性格が見られた。﹁非封建性﹂の原因は国王と封建貴族の聞の権力関係にあるのではなく、政 治的空間の規模からくる統合の如何にあったのである。そして、こうしたイギリス国家に対する空間的規模の根本的 な規定性は、更に別の証拠によっても裏付けることができる。その証拠とは、十五世紀末のテュI ダ l 朝に始まる絶 対王政である o イギリスは絶対主義についても大陸諸国とは異なった特徴をもっているが、その原因もやはり封建制 の場合と同じ論理で説明することができるのである。 イギリスの絶対王政は(前項において既に言及したが)あまり絶対的ではなかった。即ち、国王権力の支配は大陸ほど には浸透しなかったのである。それは何故であろうか。 前述のように、イギリスは地理的条件の故に自然的統合が発達しており、従ってその封建制は中央集権的・統一的 であったが、それは決して中央権力が強大であるということではなかった。逆に、自然的統合の発達は人為的統合の必要性を減らすから、王権に対して議会の力が強かったのである。このような情況は当然絶対主義にも受け継がれた。 これが原因なのである。 そのため、イギリス絶対王政においては、絶対主義の根本的なメルクマールである﹁軍隊(国王直属の常備軍)と官 僚﹂が整備・強化されることはなかった。まず、軍隊は無きに等しかった。存在したのは、国王の身辺警護の部隊と 郷土防衛の民兵隊くらいであった。次に官僚についても、国王の直轄支配はロンドン周辺に限られ、地方行政は殆ど、 無給の治安判事となった土着のジエントリ(中間身分の名望家層﹀によって基本的に代行された。しかもその治安判事 絶対主義の最盛期であった十六世紀後半のエリザベス朝において逆に(急激に)拡大したのである。他方 の 権 限 は 、 181ーー自由の客観的可能性と歴史の発展法則。1) また、議会も健在であった。議会は大陸諸国の絶対王政下では事実土廃止されてしまったが、イギリスでは相変わら ( 日 ) ず(一般に協調的ではあったが﹀その機能を発揮し続け、しばしば国王の方針を覆したのである。それどころか、その地 位は逆に高くなった。即ち、ジエントリが庶民院の少なくとも(狭義のジエントリ、即ち郷紳だけでも﹀過半数を占めて いたが、そうした﹁議会が、ことに庶民院が、絶対主義時代をとおして、若々と地歩を堅め、枢密院や貴族院の干渉
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を排して、国政におけるイニシアティヴをに、ぎるようにな刀てくる﹂のである。 イギリスにおける封建制の非封建性(中央集権性)及び絶対主義の非絶対性(分権性﹀という基本的な特質の 原因について考察七てきた。それらは本来互に矛盾する事実である。つまり、封建制が普通より中央集権的であれば、 それを引き継いだ絶対主義も普通より更にいっそう中央集権的、即ち絶対的であるはずだからである。従って、二つ の事実を一貫した論理で説明するのは困難である。しかしそれにもかかわらず、それらは同種のものの連続した段階 であるから、統一的に説明されなければならないし、またされうるはずである。それは如何にして可能か。上述した 以 上 、 ように、解明の鍵は﹁統合﹂にある。二つの事実の共通の成立基盤は、自然的統合の存在ということ以外にあるまい。第8巻3・4号一一182 孤立的小規模空間という客観的条件がそれらの事実を生んだのである。 ゆ小規模空間と自由化 既述のように、小規模空間は自然的統合を容易にし、従って、人為的統合の必要性を減ずることによって自由の可 能性を大きくする。そうであるならば、 一般的な歴史発展に先んじて早い段階で自由化(民主化﹀の進んだ政治的空間 は小さかったはずだということになろう。 つまり、古代や中世において既に相当の自由を実現していた早熟な政治体、 また近代でも初期のそれは、 いずれも小規模であったに違いないと想定されるのである。だが、これは事実であろう か。歴史的に実証されうるであろうか。 答えは、イエスである。歴史をふり返って見れば直ちに明らかなように、近代になるまで、自由な政治体は全て都 市であったし、近代においても、先駆したのは小規模国家であった。大規模国家でこのような例は少なくとも近代以 前では皆無であるし、現代に至つでもなお、民主的な(単一の空間としての﹀大規模国家は、存在しているとしても稀 である。具体的に言えば、古代において自由であったのはギリシアとロ 1 マの都市国家であり、中世においては北欧 の自由都市とイタリアの都市国家、また近代において自由化の早かったのは、 スイス・オランダ・イギリスであった。 これらはいずれも確かに小規模空間なのである。以下、それらについてもう少し詳しく見てみよう。 まず、ギリシアのポリスについて。それがアテナイを筆頭に古代民主主義の華を咲かせたことは、よく知ら 古 代 れている。ギリシア全般に当初王政であったものが、おそらく前八世紀半ば或は前七世紀前半くらいまでには貴族政 に変わ
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更に、﹁長い移行過部︺を経て前五世紀前半に民主政が実現したのであるが、その基礎には経済発展があ っ た 。 アテナイに関して見れば、 その民主化は前七世紀から前六世紀にかけてドラコン(﹁立法者﹂)の立法やソロン︿﹁調停者﹂)の改革によって開始され、同世紀末のグレイステネスの改革による制度的確立、 民会優位のル l ル化を経明後半のベリクレス時代に頂点を迎えるが(完全兵士一勝、この数世紀は同時に経済的な発 展の時期だったのである。その問、ギリシア経済の基本である農業の生産力が増大した。それに加えて商工業も、前 八世紀以来の植民地建設︿﹁大植民運動﹂)に基づく地中海・黒海沿岸の貿易と、前七世紀後半のリディア王国での貨幣 鋳造に始まる交換経済の普及とにより、急速に発達しが w そして、前五世紀末アテナイはベロポンネソス戦争の敗北 によって衰退期に入ったにもかかわらず、前回世紀末まで民主政の形態を維持したが、その基礎にもやはり前回世紀 における経済の回復があったのである。かくして、経済的繁栄のもたらす自然的統合力がアテナイの民主化を推進し 前五世紀前半における 存続せしめたことは、明らかであろう。 183一一自由め客観的可能性と歴史の発展法則
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、それだけではなかった。もし経済発展だけで民主政が生まれるものなら、民主政は古代においても世界の 各地で見られたはずだからである。従って、民主政に好都合なギリシア特有の条件が別に存在していたに違いない。 それは言うまでもなく、ポリスという生活形態であり、その政治的空間としての小規模性である。ギリシア人は同一 民族としての共通性をもち、しかも相互に交流しながら、(連邦・地域的統合・同盟などはあったもの的)一つの国家を形 成せず、前八世紀頃から一貫して多数のポリスを維持し続けた。その主な原因としては、起伏に富んだ山岳地、入り くんだ海岸、多くの盆地、亜乾燥地帯という地理的な特質、及びそれからくる、ブドウ・オリーグなどの果樹栽培や ヤギ・ヒツジなどの牧畜(穀作も行なわれ丸山﹀という産業的な特質が考えられ一やそれらによって、ギリシア人はそ の安全や生活のために強大な統一国家を樹立する必要がなかったのであり、それが民主政の根本的な基礎となったの である。そしてそうしたポリスは、(相対的に巨大であったアテナイとスパルタも含めて﹀面積において小さかっただけで はない。そこでは、政治に参加しうる人間の数も非常に限られていた。このような二重の小規模性が民主政を可能に第8巻3・4号一一184 ( 打 ) したのである。 次にロ l マ に つ い て 。 ローマの政治(共和政)もギリシアのそれと並び称せられているが、前者もまた後者と同じ経 過を辿った。即ち、王政から貴族政、更にその民主化へという流れである。しかも興味深いことに、両者は時期的に ロ l マが貴族政に移行したのは前六世紀末(から前五世紀初めまでの間)であるが、 も接近している。 やがて平民によ る改革闘争が始まり、前五世紀前半の護民官及び(それを議長とする)平民会の設置を皮切りに、前三世紀初めのホル テンシウス法の制定に至って共和政は完成したのである。そしてまた、そうした民主化の基礎に経済的発展のあった こと(それは、ギリシアに近く且つ地中海の中心に位置するという地理的環境によって大いに促進された)、 の み な ら ず 、 都 市 国家たることによって(二重の﹀小規模性の条件を満たしていたことも、ギリシアと同様であった。 こ の よ う に 、 ローマはギリシアとよく似ているが、 しかしその民主化は限定的であった。それはギリシアの民主化 と違って途中でスト?プしてしまった。 たのである。ギリシアの﹁民主政﹂に対し戸 I マはあくまで﹁共和政﹂と呼ばれているように、その実態は名門・有 ローマの貴族はギリシアのそれより平民との階級的格差がはるかに大きかっ 力者による政治であった。元老院を中心として始めは貴族(宮
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、後には新貴族(ロc
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巾凹)が、事実上政治を支配 したのである。 それでは、そのような相違は何によってもたらされたのであろうか。 ローマが共和政に止まった基本的な原因は、 何処にあったのであろうか。それもまた、空間と統合の理論によって説明することができる。即ちそれによれば、空 聞の拡大による強権化(の圧力)である。 ( 初 ) も﹀その支配領域を著しく拡大してしまったということが、民主化を妨げたに違いない。 ローマが(それ自体は依然として非領域的市民団体としての都市国家でありながら ローマは前回世紀より勢力 拡張に乗り出し、前三世紀前半にはイタリア半島を支配下においたのであり、それは(前述した﹀共和政の完成時期と一致している。そのような領土の拡大が統合に対してマイナスに作用し、それが貴族支配を温存することになってし まったのである。 ともあれ以上のように、ギリシアとロ l マは共にその小規模性と経済発展(古代資本主義?﹀に基づいて、古代とし ては異例の自由化・民主化を実現した。しかしそのことに関しては、一つの重大な事実を指摘しておかないわけには いかない。それは何かと言えば、 よく知られた奴隷制である。それによって、小規模性と経済発展のもつ機能や効果 が更に大幅に高められたのである。 185一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則
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ギリシアとロlマの輝かしい政治的達成は奴隷制を、又は(奴隷制の概念規定の如何によっては)少なくとも隷属的労 働に対する収奪の機構を、前提としていた。つまり、奴隷の生産活動に部分的又は全面的に依拠することによって、 特権的な有閑階級(基本的に土地所有者且つ戦土)が政治に参加することができたのである。それは二つの重要な事柄を 意味している。即ち一つは、これは先に言及したが、政治への参加者 ( H 市民権をもっ﹁市民﹂)が非常に少数であった ということであり、もう一つは、彼らは全て生活の問題から解放された自立的な人々、従ってまた精神的に余裕があ り階級的に同質的な人々(とりわけギリシアの場合﹀であったということである。 この二つの要素は根本的に、 非 常 に 高度な自然的統合、それ故自由の可能性を生み出すのみならず、直接的にも討論と合意、従って民主政の運営にとっ てまことに都合のよい条件を構成するであろう。まさにここに古代民主主義(及び共和主義)の可能根拠があったが、 しかしそうした要素は、普通には存在し難い特殊な情況、極めて稀な偉倖である。つまり、古代民主主義は奴隷制と いう代償或は犠牲を払うことによって初めて実現した、限定的で特殊な民主主義であり、無理をした民主化なのであ る。それ故、古代のもつ限界というものがやはり認められるのであって、古代民主主義は決してギリシア人とロ l マ 人の特異性によるものでも偶然的・例外的なものでもない。それは十分に合法則的・合理的な現象なのである。第8巻3・4号一一186 中世は封建制の時代であり、社会は身分制によって厳格に規制されていた。従って、政治的・経済的な自由 は民衆には一般に存在しなかったが、しかし都市においてはそうではなかった。都市は、農業を基本とする封建制、 中 世 その領主的土地支配の枠外にあったからである。それ故もともと、商工業者たる市民は聖俗の都市領主から特許状を 得て一定の自由を認められていたが、更に彼らは、経済力の上昇によって、またそれに基づく皇帝・国王との結合を ( 幻 ) バックに、権利を強化し拡大したのである。その結果十一世紀頃になると、北イタリアやブランドル地方・フランス 北部に自治権を獲得する都市が現れ、以後十二・三世紀にかけて、プロヴァンス地方・フランス南部・スペイン・ド ( m m ) ( ω ) イッ、更にはイギリスなどに自治都市が続々と誕生していった。そしてとりわけ、ドイツの主要都市は政治的独立性 を有する自由都市(帝国直属自由都市又は帝国都市﹀となったし、またイタリアの諸都市は、一段と独立的な、周辺の農 村地域をも包括する都市国家を形成したのである。 都市国家はイタリア独自の形態であり、従って、中世都市はアルプスの北と南で二つの種類に分かれる。だがいず ( 川 出 ) れにせよ(とはいえ、南欧都市より北欧都市のほうがその性格は強いが)、都市の内部においては﹁宣誓共同体﹂ 又はコミ ュ lンとしての自治が行なわれた。経済的には、封建的なギルド体制であるから、自治と言っても、都市貴族化した 大商人の寡頭政であったが、誓約者は身分的に平等であったし、﹁法の属地主義の原理﹂が貫かれていた。そしてそ うした、経済的実力に基づく共和政治の下で、下層に位置する手工業者や小売商人は市政参加の運動(ツンフト闘争) を展開したのであり、それを通じて民主化が進展したのである。 そこでその原因であるが、不自由な、荘園法の中世世界の中で、都市は何故特別な都市法に基づく自由な政治的空 間たりえたのであろうか。何故﹁封建社会における特殊なミクロコスモス﹂たりえたのであろうか。それは、古代の ギリシア・ロ!マと同じく、 一つは経済発展の故、もう一つは領域と人口における小規模性の故であり、更に付け加
えれば、その両方による階級的同質性の故である。それらによる高水準の自然的統合が根本的な原因なのである。 都市はその商品生産と貨幣経済によってハ自足的・閉鎖的、従って停滞的な封建経済の中にあって﹀発展し、経済的実力 187一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則
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をもっていた。従って、外的には、即ち都市の対外的関係について言えば、封建勢力も都市の経済力の抱え込みを図 るべく一定の自由(特権)を賊与せざるをえなかった凶ドまた内的には、即ち都市の内部運営について言えば、経済 発展とハそれに伴う﹀商工の利害の緊密悩ピよって或る程度の民主化が進んだのである。そして、小規模性がそれらを 決定づけた。都市は﹁例外なく﹂市壁によって外部から臆断された、基本的に平和な特殊空間であり、それ故非常に 狭く、最大でも二キロ四方くらいであっM
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且つまた、必然的に人口も少なく、当時数百人から数千人が一般的であ ったし、地域の中心都市でも二万くらい、﹁十万以上の町は中世を通じてほんのこっか三つくらいしか︺なかった。 こうした条件が内的民主化をもたらし、またそれによる統一と団結、従ってまた﹁愛郷心の熱烈さ﹂が、対外的闘争 力を高め自由を獲得せしめたのである。 ところで、この小規模性ということに関して、 一つの興味深い事実がある。先に古代のギリシアとロ l マ に つ い て 、 それらの聞の規模の相違が民主政と共和政の別れ自になったということを指摘したが、ちょうどそれと同じような対 比関係が北欧都市(ドイツ自由都市)と南欧都市︿イタリア都市国家)の聞にも成立するのである。即ち、北欧都市にお いて共和政が維持され民主化が進行したのに対し、南欧都市はより寡頭的であり、貴族政や君主政も見られた。また、 後者においてはしばしば内部の対立・抗争が激化し、権力の移行が生じたのである。この原因は何か。南北における 好対照は何に基づくのであろうか。それは、古代の場合と同じく規模の問題であろう。つまり、北欧都市が人的結合 体として一都市に止まったのに対して、南のイタリアでは、ハ都市自体も大きかったが﹀都市を核とする領土国家として 成立し、また闘争を通じて拡大したのである。こうした大規模化が都市共同体の動揺や変質の根本原因であると言え第8巻3・4号一一一188 ( 郎 ﹀ L I 民 ﹀ h
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これまで述べてきた古代と中世においては、自由化・民主化は特殊な条件の下での稀な現象であった。しか し近代になると、資本主義経済の発展を基礎に、それは次第に一般的となる。自由で民主的な政治は(或る程度の) 近 代 大規模空間においても成立するようになり、それの成立可能な規模の限界は飛躍的に拡大した。しかしこうした近代 においても、小規模の優位ということはやはり見出される。それは時期の点である。始めに指摘したように、近代の 国家で自由化の先鞭をつけたのは、 いずれも小国文は島国のスイス・オランダ・イギリスだったのである。スイスと オランダは、十四・五世紀の封建王政から絶対王政の時代にあって、属国ながらも共和政(都市・州の自治)を敷いて いた珍しい国であり、 オランダは一五八一年の独 スイスは一四九九年のパ l ゼルの和約により神聖ロ I マ 帝 国 か ら 、 立宣言(公認は事実上一六O
九年の休戦条約)によりネ l デルラント連邦共和国としてスペインから、それぞれ独立した。 また、イギリスが議会の伝統と十七世紀の二つの革命によって世界の自由化・民主化をリードしたことは、言うまで もないであろう。そこで、イギリスの政治的先進性に関しては周知の事実であるから、スイスとオランダについて概 観 し て お く 。 まずスイスについて。 スイスは長年ドイツ(神聖ロ!?帝国)の支配下にあったが、そのうち三つの森林州が誓約同 盟を結び、それが二三ニ一年﹁事実上独立した共和国﹂となった。そしてその後次第に、加盟する州が増加し、十四 世紀半ばに八州、十六世紀初めまでに十三州になったのである。名目上の統治者たるハプスブルク家との抗争がなく なる完全な独立には、上述の一四九九年まで更に一七O
年近くを要したが、既に十四世紀から共和政であった。但し、 共和国は対照的な森林州と都市州を抱え、統一的な政治機関をもたず、 一つの国家というより﹁各州相互の盟約の集 合体﹂であった。そのため、地域により政治体制は異なり、共和政と言っても、人民集会によるデモクラシー、都市( 川 山 ) 貴族の寡頭支配、ギルド市政が混在していたのである。従って厳密には、近代における国家的規模での自由化の例よ りも、むしろ(前述した)中世における自由都市や都市国家の例として見たほうがよいのかもしれない。しかし、 八一年のスタンス協定に示されているように、スイス人という一定の国民意識、スイスという一定の国家意識が早く から形成されていたという面も見逃せないのである。 四 次にオランダについて。 更に東フランクの統治の後、 フランスのブルゴ i ニ ュ 家 ( ブ ル グ ン オランダはフランク、 ド公領)、次いでハプスブルク家(オ l スト日ア、続いてスペイン﹀の支配を受けた。そのため、前述のように、完全な独 立は十六世紀の終わりまで待たねばならなかった。しかしスイスと同様、それ以前から自治的だったのである。 ﹁ ネ ーデルラントは中世以来英・独・仏の中間にあって、強力な王戟支配の真空地帯を形成し、ことに諸都市は多くの自 189一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則
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治と特権を享受し、自由を侵害する君主権力の増大に激しく抵抗してきた。﹂即ち、伝統的に﹁自由な空気﹂が存在 し た の で あ る 。 オランダが政治的にほぼ統一されたのは、十五世紀のブルグンド公領時代であるが、その頃既に多くの州には議会 があり、加えて一四六四年には全国議会も召集された。また、 ハプスブルクの支配(一四七七年から)と言っても、執 政がいるだけで、オランダは独自の法・権利を認められ、﹁帝国とゆるやかな連合体を形成して﹂いる状態であった。 そして更に、全国議会の権限は(イギリスの﹁大憲章﹂に匹敵する)﹁大特権﹂の承認(七七年﹀により抜本的に強化され、 そうした共和的自治はオーストリアのカ I ル五世の統治(一五O
六 i 五五年)を通じて定着したのである。 その後スベ インのフェリベ二世の圧政があったものの、逆にそれを契機に、名実ともに共和国としての独立を迎えることになる。 共和政と言っても、 その実態は独立以後も中世自由都市と同じく都市貴族(門関市民)の寡頭制であった。 但 し 、 ま た興味深いことに、 ス イ ス に 似 て 、 強力な中央政府機関を欠く(ウィレム三世の如き有能な総督のいた時代はともかく﹀第8巻 3・4号ー一一190 ﹁徹底した地方分権﹂即ち﹁州主権﹂の体制であ一明 ( 削 ) ﹁七州(邦﹀の単なる連合体﹂であった。そして実は、更にそれ ら各州のレベルにおいても同様であって、
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ていたのである。つまり、もともと小国である上に、実質的な政治空間はよりいっそう小さかったということになる。 ﹁最終的には州議会を構成する貴族の団体や各都市が主権的地位を占め﹂ オランダ及び先のスイスに共通するこうした情況は、この時代の(島国ではなく﹀大陸における自由化の条件、従って またその困難さを物語っているであろう。 こ の よ う に 、 スイス・オランダ、それにイギリスは、国民国家的な規模(少なくとも形式上﹀における自由化で先駆 したが、これら三国がいずれも小規模空間であったこと、おまけに連邦制的であったり島国であったりしたことは、 決して偶然ではあるまい。明らかに、それらによる自然的統合の高さが早期の自由化をもたらしたのである。 では、自由化のもう一つの要因である経済発展についてはどうであろうか。三国の自由化には、それも作用したの であろうか。オランダとイギリスについては、言うまでもあるまい。オランダ(ブランドル及びネ I デ ル ラ ン ト ) は 、 北 ( 凶 ) イタリアと共に中世におけるヨ l ロ V パ経済の拠点であった。その中心は、ブルージュ(﹁北のヴェネツィア﹂﹀を代表 ハ m v とする南部のブランドル地方(ベルギー﹀であったが、 北部も先進地帯であり、 いであったので、南北ともに多くの自治都市を生んだのである。またイギリスも、絶対王政の重商主義政策もあって 毛織物工業の(特異な農村工業としての﹀発達を基礎に台頭し、十七世紀初めにはオランダとヨーロッパの覇を競うま でになった。そして特にイギリスの場合、ブルジョアジーに加えてジエントリ・ヨlマンと、経済発展によって広汎 な中産階級の生成・成長のあったことが見逃せない。それに基づく国民的一体化が、真に国民国家的な規模での自由 十五世紀頃からは南部を逆転する勢 化の基礎となったのである。他方スイスにおいては、都市州についてはともかく、経済発展の効果は顕著ではない。 それよりも、全体に山岳地帯であるから、山々があたかも海の役割を果たし、多くの島国的小空聞を成立せしめたということが大きいであろう。しかし、スイスはヨーロッパの中央に位置し南北の幹線商業路が走っていたので、やは りかなりの繁栄も見られたのである。 凶空間の拡大と強権化 政治的空間の拡大は自然的統合の低下をもたらす。前者は、それが経済発展に裏付けられ経済的空間の拡大に基づ いている場合でも、やはり人為的であり急激であるから、後者は一般に避けられない。そしてそうである以上、それ は人為的統合の強化を必要とするが故に、強権化が生ずることになる。これが﹁統合史観﹂の一つの論理であったが、 これについては如何にして実証されうるであろうか。そのような強権化は基本的には(先に理論的に提示した)各発展 191一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則。~ 段階の前期の体制、即ち﹁村落共同体﹂の共有制、﹁都市国家﹂の王政・貴族政、﹁分邦国家﹂の封建制、﹁国民国家﹂ の絶対主義に該当するから、順当な事例が豊富にある。しかしここでは、それとは別の特殊的ケ1スとして、古代ロ ーマの帝政化と分裂という事実を取り上げてみたい。 先述のように、 ローマの共和政が完成したのは前三世紀初めであったが、その輝かしい偉業も永くは続かなかった。 ポエニ戦争が終了すると内乱が起こるようになり、護民官グラックス兄弟らの努力も空しく、前一世紀半ばには、一ニ アウグストゥス(オクタヴィアヌス)に 頭政治という体裁の下にカエサルらの独裁が成立する。そして前二七年には、 よって帝政(従ってまた官僚制)へと移行していくのである。それは始めのうち﹁第一の市民(又は第一人者)﹂百三
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に よ る 元 首 政 吉 江 口 門 戸 苦 言 田 ) と い う 形 を と っ た が 、 ( 川 ) よ る 動 乱 ( ﹁ コ 一 世 紀 の 危 機 ﹂ ) を 経 て 、 二世紀の終わりからの覇権争い、分離化傾向、外敵の侵入などに る 。 即 ち 、 三世紀末のディオクレティアヌス帝により更に専制君主政S
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吉 田 ﹀ に 変 わ ﹁主にして神﹂なる皇帝の下における﹁中央集権的な官僚制的国家﹂である。しかし、それでも帝国の統第8巻 3・4号一一192 一
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-維持することはできず、三九五年遂にロ!マは東西に分裂するのである。このように、ロ 1 マ の ( 共 和 政 以 後 の ) 歴史は漸次的な強権化の過程であった。 では、どうしてそうなったのであろうか。何故共和政は帝政(元首政)へと変化し、 そして更に専制化したのであ ろうか。また、それにもかかわらず何故分裂してしまったのであろうか。それは、 ローマの版図の拡大過程をふり返 って見れば明らかであろう。版図の拡大と政体の変化とが見事に対応しているからである。 ラテン人の都市国家として出発したロ 1 7 は、前回世紀から対外進出を開始した。そして前三世紀前半までに、ィ ロ l マ市民権の賦与、及び同盟条約という仇♂支配下においた。 タ リ ア 半 島 ︿ の 諸 都 市 ﹀ を ほ ぼ ( 植 民 、 お そ ら く 、 そ れ が当時のロ l マにとっての、共和政を維持するための適正規模の限界であったと思われる。しかるに、ポエニ戦争(前 二 六 四 l 前 一 四 六 年 ) を 始 め と し て 、 マケドニアやシリアとも戦い、前一一一一一二年までの聞にシチリア・サルディニア・ コルシカの三島とイタリア対岸のカルタゴ、 及び地中海北岸地域(スペインから小アジアに至る)を獲得した。それに よって、総督形式の属州統治が開始され展開されると共に、 地中海をロ l マ の 内 海 ( ﹁ 我 ら の 海 ﹂ ) と し た が 、 ま さ に それと殆ど同時に、 ローマは前三O
年までの一世紀に及ぶ内乱の時代(﹁内乱の一世紀﹂)に突入するのである。それは( m
﹀ 前六O
年からの三頭政治を経て帝政の成立によって収拾された(﹁ロ l マ の 平 和 ﹂ ) 。 そ の 聞 は 第 二 の 領 土 し か し ま た 、 拡大期となったのであり、それが後の専制化と分裂の根本原因になったのである。即ち、三頭政治と初代皇帝アウグ ストゥスの時代に、ヵエサルのガリア征服を始めとしてヨーロッパ中部からバルカン・小アジアへと斜めに南下する 形で北側に領土を広げ、南側もアフリカ北部を得たが、それがやがて重荷になったのである。やはり帝政化の際と同 様、専制化の前に二世紀終わりから約一世紀に及ぶ動乱の時代が挟まるが、その引き金になったのは二世紀頃からの 第三の拡大、つまり東欧と中東への進出であり、それによって過大な膨脹は決定的となった。こうした無理な拡大(既述の如くその実態は都市国家連合的であるが、空間の拡大には違いない)が統合力を弱め、専制化をもたらしたのであり、そ れでもなお国家統一は不可能だったのである。このことは、ディオグレティアヌス帝による四分統治、テオドシウス 帝による二分割の試みがまさに物語っているであろう。 このようなロlマの強権化の歩みをもう少し詳しく見てみると 111 最初の契機は第一次ポエニ戦争の勝利による前 ﹁ここに海外領支配が始められたが、征服地経営の果実の大部分が指導層の手に入 二四一年のシチリア合併である。 ったので、それを契機に共同体の分解が急激にすすんだにしかるに征服は進行したので、﹁しだいに拡大していった 海外領に比して支配共同体であるロlマ都市国家の相対的壊小化に対処して、支配共同体成員を拡大してこれに答え 193-一自由の客観的可能性と歴史の発展法則。1) 即ち、前九一年からの同盟市戦争の帰結として﹁イタリア同盟諸市市民へのロlマ市民権付与﹂を行 なったが、これは﹁支配共同体のイタリアへの拡大﹂を意味したのである。従って当然、﹁戸lマ支配共同体の内部 の動揺と分解はつづき、共同体内部の支配層の権力的優位を構成原理とする新しい共同体構造への編成がえが進行し た。それは、有力武将・政治家を頂点とし一般市民の多く::を底辺とする幾つものピラミッドの並立であり、それ ょ う と し た ﹂ o らピラミッド頂点聞の抗争が共和政末の内乱であった。﹂そして更に、﹁内乱に勝つためには各武将は自己のピラミッ ド底辺をできるかぎり拡大せざるをえず、底辺はロ l マ支配共同体の枠をこえて属州にまでひろげられ﹂たのであり、 結局﹁元首︿プリンケプス)政︿いわゆる帝政)の成立とは諸多ピラミッドの巨大な単一ピラミッドへの吸収であった﹂ のである。このように見てくるならば、国家の膨脹が直接的に、また、財の増大と競争の激化を通じて必然的に階級 ( m ) 分化・格差拡大をもたらすが故に間接的に、統合を破壊することによって帝制を生んだことが判るであろう。しかる に、その後も領土拡張は続き、それに伴ってロlマ市民権も漸次拡大していったし、元老院においても属州出身議員 が次第に増加していった。そして遂に、三世紀初めのカラカラ帝に至って帝国の全ての自由民にロlマ市民権が賦与
第8巻3・4号 194 されるようになったのであり、これが三世紀末ディオグレティアヌス帝からの専制君主政を生んだのである。 ローマの政治的変遷はその政治的空間の拡大に対応している。ローマはその空間的小規模性と経済的 以 上 の 如 く 、 繁栄を基礎に共和政を樹立したが、自然的統合という客観的基礎を欠く過度の領土拡張によって元首政、更には専制 君主政へと強権化し、やがて分裂してしまったのである。空間の拡大による強権化のまさに好例であると言えるであ ろ う 。 矧経済発展と空間の拡大 人類の歴史を通じて政治的空間は次第に拡大してきた。その原動力となったのは経済発展であるというのが、 統 合史観﹂の見方である。経済発展による経済的空間の拡大、それがやがて政治的空間の拡大をもたらすというのであ る。そのような拡大は大規模な仕方では歴史上三回、即ち﹁村落共同体﹂から﹁都市国家﹂、﹁都市国家﹂から﹁分邦 国家﹂、﹁分邦国家﹂から﹁国民国家﹂へという形で行なわれたし、また更に現在、その延長として﹁国民国家﹂から 超国家的な﹁地域的連合﹂への移行も一部で進みつつあると考えられ、従って、具体的実例は数限りなくある。ここ では、その中からドイツの統一という事実を取り上げてみよう。その根底に果たして経済発展が認められるであろう 力、 周知の如く、ドイツは東フランクを改名した神聖ロ i マ帝国に由来する。そして、その神聖ロ I マ帝国は十世紀半 ばから十九世紀初めのナポレオン戦争に至るまで命脈を保ったが、皇帝権力は一貫して弱体であり、殆ど名目的な存 在にすぎなかった。始めから国内は分裂を極め、十七・八世紀には一二百余り、十九世紀に入ってなお三十にも及ぶ封 建的な帝国等族の領邦、 殆ど主権国家に等しいその存在(領邦国家)によって寸断されていたのみならず、 国内外の
君侯による超国家的な領有のために国境も不明確であった。従って必然的に、帝国独自の官僚機構・財源・軍隊とい ったもの、即ちおよそ統一国家に不可欠の根本的要素さえ(概して﹀欠けていたし、議会や裁判所も殆ど機能してい ︿ 問 ) なかったのである。そうした情況の下ようやく統一への動きが出始めたのは、ナポレオン戦争による刺激を受けてか 一八一五年のウィーン会議に基づいて結成されたドイツ連邦は、むしろ神聖ロ I マ帝国以上に分 らである。しかし、 ( 凶 ﹀ 権的であった o かくして、統一が具体化したのは、 一八四八年フランス二月革命の余波を蒙った三月革命以後であり、 一八七一年普仏戦争に勝利した後のドイツ帝国︿但し、それは﹁歴史上に例のない特殊 実際に国家統一が完了したのは、 ( 印 ) な性格﹂をもっており、当初はまだ国家連合的性格が残ったが)の成立によってだったのである。 それでは、どうしてドイツでは永い間分裂が続き、またどうして十九世紀半ば頃から統一が可能になったのであろ 195-一一自由の客観的可能性と歴史の発展法則。~ うか。分裂については、神聖ロ l マ帝国の領域が広大すぎたこと、 及び(それとも関連するが﹀ヨーロッパ中央に位置 するため多民族的であり、諸外国との接解・交流・抗争なども活発であったことという基礎的な悪条件が、まず指摘 されうる。そしてそれに、宗教改革が加わった。 ﹁ ル タ l 主義はドイツの分裂を助長し﹂、 ( 問 ﹀ 統一を不可能にした地方分権主義﹂を生んだのである。しかし根本的には、やはり経済に原因がある。十六世紀初め ﹁何世紀にも亙ってドイツ 頃、ライン都市やハンザ同盟都市を中心にドイツは﹁ヨーロッパ商業の生命線﹂であった。しかし、地理上の発見が ﹁ドイツを殆ど一夜にして没落させ﹂た。﹁その影響は一二