問題の所在 脳科学者として、脳の研究に携わっている茂木建一郎は、『生きて死ぬ私』の中で以下 のように語っている。脳の研究そのものは、医学に関わりまた、コンピュータの開発に大 いに寄与し人間の生活を快適にする事に繋がるだろうが、彼としては、もう一つの関心が ある、と言う。「それは、人間の魂の問題、広く言えば、宗教的な問題である。脳の問題 をきわめていけば、最終的には人間にとって宗教的なものは何なのか、なぜ、人間は宗教 的なものを必要とするのかということが少しはわかってくるはずだ。私が日頃脳科学者と して研究を続けていることの動機の一つには、このような宗教的関心がある」。(1) 続いて 彼は、「宗教というと、科学と対立するもののように思われがちだが、私はそうは思わない。 宗教に関する私たちの思い、思想の全ては、私たちの心の中にある。その心は、脳の中の ニューロンの発火によって支えられている。現代の脳科学は、最終的には宗教もその視座 にとらえているのだ」、とコメントしている。 ここで茂木は、脳の研究は心の研究でありそれは人間の魂の問題や宗教の問題にもつな がってくる、という。それは宗教が「生きること、そして、死ぬこと」に関連して考えら れるからであろうが、この茂木の意見についての筆者の関心は、精神、心、宗教といった 問題は脳科学の研究経過においてどのような位置づけがなされているのかということなの である。それは具体的には以下のような問題意識として示され本論文の執筆動機になった のである。 本論文は、何か新しいことを生み出したことの発表ではない。言うなれば、これまで研 究されて来た脳科学の分野における発見や知識を、宗教(性)の立場からまとめ直そうと する試みである。その鍵は、人間の心は脳内現象である、という文章にある。確かに、外 界にある情報は五感を通して脳に入力され脳で情報処理され、あるものとして認識され る。ここで認識する主体は「私」であるが、この「私」もまた、脳内から出現してきたも のに他ならない。少なくとも「私」が意識しているものは全て脳の働きを通して出現して
人 間 存 在 の 宗 教 性
クオリアから見る人間観新 藤 泰 男
キーワード:脳内現象、意識、超越、クオリア、ニューロン、システムきたものである。「私」は脳内の産物でありながら、脳を通じて外界と接しており、それ 以外に外界と接する方法はない。外界ばかりではない。「私」というもの自体の分析や記 憶の中のものの組み替えや意味付けも含め、自ら納得する「私」の位置づけ、「私」らし さの設定や構築もすべて、脳内で処理される。「私」はこの脳と共に産まれ脳と共に生きる。 この「私」に所属している脳から「私」は出現したにもかかわらず、「私」はこの脳を用 いて「私」を内界と外界にわたしというものの可能性を人生の中で実現してゆく。そして 「私」は、脳と共に死ぬ。このように、わたしを巡る全ては脳の存在無しには考えられない。 では、意識は、また、「私」という意識はどのようにして出現したのか、意識する主体 はどのようにして生ずるようになったのか。これらの問への答えは脳にあるに違いない。 そしてその前に、そのような問を発するのも脳ではないのか。脳から出現した「私」の発 する問に脳は答えられないのか。それとも、意識や「私」という難しい問は何時か応えら れるであろうが、今はやさしい問題として扱い、自明のこととして話を先に進めようとい うのであろうか。 以上の問を問題意識として念頭に置きつつ、クオリアに焦点を絞り、クオリアにおける 超越の機能を探り、超越機能を持った人間存在の在り様を考察する。 1.クオリア―ユニークな質感 脳の中には、1000 億の神経細胞(ニューロン)があり、それら細胞間はシナプスとい う構造で結ばれており、神経伝達物質がそのシナプスを通し、やり取りされ、次の神経細 胞に活動が伝わってゆく。1000 億の神経細胞は、それぞれシナプス結合を介して、およ そ一万の神経細胞と関係を結んでいる、と言われる。(2)この神経細胞(ニューロン)間の、 そのままでは無目的で機械的な神経細胞同士の活動としてしか見られないのだが、このよ うな活動の中から、脳を統括する働きである「意識する私という主体・心」はどのような 方法で出現したのか。この問題に茂木は、次のように答えている。「チャーマーズが言う ように、クオリアをその本質とする意識の問題は、掛け値なしに難しい問題である。現代 の脳科学者は、物質である脳からいかに心が生まれるのか、その第一原理を理解していな い。意識の問題が難しいのは、従来の科学と哲学、主観的な体験と客観的なデータといっ た区分を超えた地点から考えなければ、本質的なブレイクスルーをもたらすことは不可能 だからである。クリックとコッホの提案している、神経細胞の活動と意識体験の間の関連 性を見るという方法論では、おそらく本質的解決につながらないことは誰でも分かってい る」。(3) と同時に「一つ一つの素粒子には、心はない。一つ一つのニューロンにも、心はない。 脳の小さな部分を取り出しても、そこには心がない。心を生み出すのは、脳全体にまたがっ て、1000 億のニューロンが作り上げる、複雑で豊かな関係性である。つまり、心を生み 出すのは、脳というシステムなのである」(4) と言う。 部分部分それ自体にはないが、それら部分が一つのシステムとして相互に結び付いたと
き、それまで見られなかった働きが生じてくる、と言うのである。このことについては後 述するが、まず、クオリアについて考察する。 茂木健一郎はこのクオリアを以下のように説明する。(5)眠っている時には「私」はそこ に存在しないが、目が覚めるとシーツのひんやりとした感触、鳥の鳴く声等、さまざまな 質感(クオリア)を感じる「私」が出現する。目覚めと共に「私」はクオリアとの出会い が始まる。そしてクオリアに満ちた世界の中で過ごす。「コップの透明感も、舌に載せたチョ コレートの廿さも、薔薇の香りも、そこはかとない寂しさも、こみ上げる怒りも、確かに 覚えているのだが思い出せないというもどかしい感覚も、およそ意識の中でユニークな質 感として把握されるものは、全てクオリアである。私たちの意識は、クオリアのかたまり として世界の中に存在しているのである。」 ところで、茂木は、特に意識の対象にしないもの、つまり、特に意識せずとも私の視界 に漫然と入ってくる風景(もの)は、アウェアネス(awareness)と呼び、ただそこに私 の存在とは無関係にただあるものである。ところが、そこに何かに気づきハッとして意識 的にそれを自分とのかかわりの中で意味あるものとしてみようとする、そのような意識的 経験に伴う独特の感じは、クオリア(qualia)と呼ばれる(6)、と説明する。 また、心の表象との関わりでは以下のように説明する。 私たちの心に見えるものは、様々な表象、それを構成する様々なクオリアからなって いる。私たちは、外界に、確固とした、客観的な「世界」が存在すると考えがちである。 そして、そのような客観的存在としての外界を、目を通して、私たちというスクリー ンに投影しているのだと考える。ところが、本当は、自分の「心」の中に現れる様々 な表象、そのクオリアを通して外界を見ているだけなのかも知れない。私の心の中 には、見る、聴く、触れる、嗅ぐ、味わうという、五感の働きに伴う様々なクオリ アが現れては消えている。このような五感だけでなく、五感には分類できないような、 微妙な質感に満ちた様々な表象が私たちの心の中には住んでいる。それらを通して、 私たちは世界を、そして自分自身を把握している。このように考えると、私たちは、 外界を「見ている」というよりは、心に住まう様々な表象を通して「感じている」といっ た方が正確であるように思われる。私たちは、私たちの心にあるクオリアを通して、 私たち自身を、そして私たちの外に広がる広大な世界を「感じている」。つまり、心 に見えるものは、クオリアからできている、と言うことができるのである。(7) 私が私を自分として意識し、「私」という実体がここに存在していると思っているが実は、 存在しているのは、「私」の経験的意識であるクオリアのかたまりなのだというのである。 「クオリアのかたまり」とは以下のように解釈することが出来る。 「私」は、様々なものの中からわたしの嗜好的・傾向的基準でクオリアと判断したもの を選択している、つまり、自分にとって大切なものと判断したもので自分を作り上げてい
るということなのである。「私」という高次な精神的存在としての呼び名を、<「私」を 通して意味あるものと意識されたクオリアの集大成>と変えたのだ。その目的は、「現代 の脳科学では、意識の中で<あるもの>として把握されるものの全てがクオリアであると 考えられている」(8) とあるように、<精神的存在>という抽象的な人間存在を、少しずつ 具体的なものに置き換え、ゆくゆくは科学の対象としたいのではないだろうか。いや、む しろそれは逆で、人間存在をどのように設定したら科学の対象とすることができるのか。 そのギリギリの線が、各自の独特な質感ではあるが、その概念化され一般化された「クオ リア」という用語なのである。 そこで次のように考えることもできよう。重要なのは、クオリアの内容ではなくて形式 であるということである。たしかに、クオリアの内容は各自の主観的体験により各自異な りそれぞれにユニークなものであるが、その各自の主観的体験は、一つの形式、クオリア という用語で一般化して表すことが出来る。つまり、各自の主観的体験がどれほどユニー クなものであっても、形式的に考えるならば、それぞれは「クオリアのかたまり」と呼ば れ、対象化されるからである。次にクオリアの超越性について考えてみよう。 2.志向的クオリアという超越的機能 クオリアには大きく分けて感覚的クオリアと志向的クオリアの二種類がある。(9) 前者 は、赤や緑といった色のクオリアは、そのユニークな質感自体として完結していて、さら に何かを指し示しているようには感じられない。視覚における透明感、ざらざらした感じ、 つるつるした感じなども同様である。「このように、ユニークな質感として完結し、志向 性という性質を持たないクオリアを、感覚的クオリアと呼ぶ」。後者の志向的クオリアとは、 「たとえば、あたたかいと言う言葉の意味が心の中で感じられる時、それは、何か(例えば、 陽当たりがよい縁側)を指し示しているように感じられる。このように、何かを志向して いるかのように感じられるクオリア」を指す。(10) この志向性は、単に情報を受け処理す るに止まらない積極的な心の働きである。この積極性には、物質という脳内に止まらない、 脳の諸機能を用いて意味あるものに向かう性質があると見ることができる。 志向性が、物質と比較した場合の人間の心の本質であるという説を唱えたのは、19 世紀にウィーンで活躍した心理学者、フランツ・ブレンターノであった。志向性を 持つからこそ、私たち人間の意識は、その志向する対象において、脳の中に閉じこ められることなく、広大な世界を把握することが出来る。志向性は、脳内現象であ る私たちの心が、脳の外に出るための “方便” なのである。(11) この志向性とは、自らを超えどこまでも思いを馳せることの出来る、自由な精神性を感 じさせるものである。すなわち、クオリアの有する超越性に他ならない。クオリアには、
当初からこの志向性(超越性)があったのか、それとも、進化の過程で獲得された生きる 知恵としての機能なのであろうか。茂木は、クオリアの超越性を次のように表現している。 「人間は無限自体を現実には体験し得ないが、“無限” という言葉によって、現実には存 在しない無限を志向することが出来る。志向性という形で、私たちの意識は、脳という限 定を超えることが出来るのである。」(12)そしてこの志向性は、同時に、メタ認知という機 能をも併存させている。 3.メタ認知という超越機能 -小さな神の視点 メタ認知とは何か、先ず茂木の説明を見よう。(13) 茂木は、かつて山寺に行ったとき、視野の中に同時に様々なものをクオリアとして把握 していることの不思議さに突然注意が向けられた事に言及し、「このように、自分がその ような形で世界を認識していること自体を、いわば外側から認識し直す心の動きを」メタ 認知と呼んでいる。 宇宙空間の全ての点において、あらゆる素粒子の状態が一斉に把握され、それらが一斉 に自然法則に従って変化していく。そのような世界像は、近代科学における「神の視点」 という暗黙の前提があって、初めて成立する。その一方で、私たちの意識体験の実際に即 した「小さな神の視点」は「神の視点」のような空間の至る所を一気にそのまま把握する 視点ではない。それは、「私」という特別な核の周りに中心化されて、その上で各領域の 神経活動の関係性を見渡すような視点である。「私」という特定の空間の点から、広がり を持った空間の様々な場所を観察するような視点である。 すなわち、あたかも脳の外に立つようにして脳内の神経細胞の諸活動の関係性を見渡す 意識が既に生まれていること、「そしてその意識の中で、さまざまな情報の同一性や意味が <クオリア>として成り立っていること、そのことを神経細胞の活動として説明する」(14) ことが必要になってきたのである。しかし実際には、認識の主体と客体とが別々に存在し ているわけではない。茂木の説明は以下のようである。(15) ここで大切なのは、前頭葉という認識の「主体」と後頭葉という認識の「客体」が 独立して存在しているわけではないということである。脳の中には、どの神経細胞 からどの神経細胞へも、せいぜい四つのシナプス結合を経由すればつながってしま うというくらい密な結合が存在する。前頭葉は後頭葉と独立して存在しているわけ ではない。両者は一体となって、脳という一つのシステムを作っている。 脳内現象としての「私」は、「主体」と「客体」が独立していない「主客非分離」の状 態にある。そのような主客非分離の状態から、「私が、心の中でつやつやとした赤いリン ゴというイメージを感じる」という認識の構造が生まれるのである。自分自身の一部をあ
たかもその外側に立ったかのように観察する、このような認識を「メタ認知」と呼ぶ。 あまりにも当然のように(?)持ち、使用している私たちの意識を分析すると、「メタ認知」 の機能、すなわち、超越的機能を用いていることが明らかになる。宇宙全体を見渡すこと はできないが「自分自身の一部をメタ認知し、自分の脳内の神経活動を見渡す “小さな神 の視点” はもっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する “小さな神の 視点” として成立している」。そして茂木はメタファーではあるが、「私たちの脳の中には、 小さな神が棲んでいる」と、意識の中には超越的機能があることを示唆している。(16) ここで用いられている「神の視点」とは、「科学における神の視点であり、この宇宙の 時空の中に存在する物質を見渡し、それらの物質が自然法則に従って変化していく様子を 見届ける、そのような視点」と茂木は説明している。(17) 以上のことから明らかなように、既に、「主観的な空間体験をする私という主体」が、脳 内現象として立ち上がっているのである。ここにクオリアの超越性が見られると同時に、 様々な不思議と驚異に支えられた「空間的・時間的な広がりを持った神経細胞の活動を統 合するメカニズム」(18)が必要とされてくるのであるが、そのシステムを次に考察すること になる。 4.脳内システムに見える超越性 前項で見てきたように、脳内の神経細胞の活動をあたかも脳外に立ち監察する「私」が 脳内現象として立ち上がっているのである。このことはどのように説明できるのか、その 過程を説明することは困難なことであるが、しかしながら、茂木の文章から、「立ち上がっ ている私」という「現実の意識体験の具体的な姿」をとにかく挙げてみることにしよう。(19) ・わたしたちは、生まれ落ちてからずっと、世界を「自分」の視点で見ている。 ・科学において「客観的なデータ」と言われるものも、もとをただせば主観的な体験に 基づいている。 ・いかなるクオリアも「私」という視点無しには存在し得ない。 ・人間は、原理的にはクオリアを通した主観的な体験しか与えられていないと言える。 いわゆる客観も、主観的体験の中から生み出されるものである。広大に見える客観的 な世界も、それを構成している材料は、私たちの意識の中に浮かぶクオリアである。 ・人間は、主観的体験のある部分を「客観的立場」と呼ばれるやり方で扱うことが出来 るに過ぎない。数やシンボルは、意識の中のクオリアのある側面をあつかう制度の一 つに過ぎないのである。 ・私たちは、自分の身体の周囲に広大な世界が広がっていることを知っている。自分が、 世界の中のちっぽけな存在にすぎないことを知っている。ただ私たちは、その広大な 世界を、「自分」に中心化された形でしか体験できないというだけのことだ。
このように、多くの神経細胞の活動からは、「私」がいかにして<脳内現象として立ち 上がり>主観的経験を働かすようになったのか、という道筋は見えない。しかも、観察す る自分自身の中をのぞき込む形でしか探求の方法は無いかのように見える。<神経細胞の 働きという物質的な活動>から<意識する精神的主体>への過程・「あいだ」をシステム という言葉で省き、超越させている。私たちは主観的経験の次元無しには成り立たない在 り方をしていることは明らかである。茂木は「意識を生み出す脳というシステム」の項で、 以下のような理解を示している。 たしかに、私たちの意識を生み出しているのは、脳の中のニューロン活動であるが、 現時点では、私たちの意識がニューロンの活動からいかに生み出されるかについて、 確実に言えることはとても少ない。ただ、一つだけ確実なのは、私たちの意識が、 脳のニューロンのネットワーク全体のシステム論的性質から生み出されているとい うことである。 例えば、私が意識の中で「赤い色」を感じたとする。この主観的体験に、V4 野の 赤い色に対して反応選択性を持つニューロン活動が寄与することは事実である。し かしこの時、「赤い色」という表象は、V4 野の単一のニューロン活動によって生じ たのでは決してなく、そのニューロンが脳というシステムの中で他のニューロンと 結んだ関係性の下に生じたのである。また、「赤い色」という主観的体験を生み出す ニューロンの関係性は、視覚野だけにとどまるわけではない。つまり、脳は、視覚 情報を視覚情報として処理することに終始しているのではない。脳は、最終的には、 環境から入ってきた情報に基づいて、動物が適切な行動をとるために存在している。 すなわち、視覚野で処理された視覚情報は、何らかの形で動物の運動に反映されな ければならない。(20) そのような統合のプロセスの中で、私たちの意識はどのようにして生まれてくるのか。 感覚の情報と運動の情報とを関係づけ、適切な行為を判断し、それを具体的な行動へと結 びつけるといった、「私」という「主体的な意識」は、ニューロンの関係性の中からどの ようにして生まれてくるのか、という問いにはまだ答えられていない。 5.意識に内包されている「超越の機能」 前述の文章に「私たちの生きた心を生み出すシステム、それは、1000 億のニューロン が織りなす、複雑で豊かな関係性(システム)である」とあったが、脳を構成する全ての 要素(材料)がそこにあってもそれらの材料を有機的に結合する働きは、何と名付けたら よいのだろうか。「関係性」といい「システム」というがどう言っても、それが「意味を持っ て起動する」ことが重要である。それら脳を構成する要素(材料)が全て揃ったときその
時いきなり、脳は有機的に起動する(生きる)ものなのだろうか。勿論、それは生きて働 きそれぞれの関係の中でそれぞれの持ち分を果たしながら活動するだろうが、それが活動 することと「それが心を持ち、主体的に生きる」こととは明らかに異なるのである。 そこには、「単に動くこと以上の事柄」が含まれている。つまり、それを構成する各部分 が連結し運動体とし機能していたとしてもそれはまさに機械的な運動にほかならない。し かし、そこに主体性が認められるということは、連結している全体以上の何らかの飛翔・ 超越が認められることであり、「小さなホモンクルス」(意識的に自らを動かそうとする、防 御的・攻撃的・価値的判断中枢)が想定されていることに他ならない。この事態を、リベッ トは以下のように説明している。(21) 「物質的な世界では、あるシステムが示した現象は、そのシステムを構成するサブユニッ トの特性には歴然とは現れていない可能性がある」として合成ベンゼンの例を挙げている。 そして「(有機溶媒などとして)ベンゼンが示した特性を、炭素原子や水素原子そのもの の特性から先験的に予測しておくことはできない。つまり、新しい特性が C6H6 の環状 システムから創発されたのである」と指摘している。それに続き、車輸の特性である回転 運動も車輪を作るために使用した素林の特性からは明らかにはならない、また、電流が流 れている導線の周りに生じる磁場も同様に、それらを作るために使った素材が特定の配置 をとることによって現れたもので、「そのシステムの中で創発された現象であり」、「シス テムの特性によっては、そのコンポーネントである部分には歴然とその特性が現れないも のもある」と指摘する。 以上のことは「脳という物質」にも見られる現象であり、「脳内の物質的な神経細胞の 適切な活動システムによってどういうわけか創発される現象」と、「主観的な意識経験」を、 実質上同様のものであるとしか考えられない。「しかし、現れた主観的な経験は物質的に 現れた現象と違って、どのような物質的な手段をとっても直接的な観察も計測も不可能で、 このシステムから創発された主観的な経験は、これを生み出した神経細胞の特性とは明ら かに異なる」と結んでいる。 ここに、システム特有の機能、システムを構成している諸要素・諸機能に還元できない、 前項に出現した「小さなホモンクルスの働き」がここでも観察されるようである。しかし、 「このように、主観的な意識経験を、自然界に存在する(物質とは)別の独特の根本的な 特性である」、と考えることができるが、このシステムには「主観的経験やアウェアネス そのもののほかに、主観的な経験の単一性と、神経細胞活動に影響を及ぼす潜在能力」が あるという。しかしこうした特性もまた、「主観的な経験を創発するミラーニューロンの 実体の中に顕著に現れているわけではない」としている。 このように我々があまりにも自明としている事柄こそ、驚くべきことであり不思議なこ とであり、原因結果の説明で済んでいるようであるが、実はそこには、プロセスが解明さ れないまま、次元を超えるという飛翔・超越が入り込んでいたのである。
6.クオリアを支える継続性 ― 物質の中の私秘的存在 茂木はまた、「クオリア自体も、さまざまなコンテクストを反映する、外界からの刺激 に条件づけられた神経細胞の自発的活動によって生じる。それにもかかわらず、あるクオ リアは常にそのユニークな質感とともに、まさにそのクオリアとして感じられる」(22) と 言う。すなわち、小学生、中学生、高校生そして成人してからも、晴れた空の<青のクオ リア>や砂糖の<甘さのクオリア>は、いつも同じクオリアとして感じられているという。 つまり、「私」はダイナミックにどんなに変わっても、それらのクオリアは「私」の中では、「基 本的に同じ、ユニークな<あるもの>であることとして感じられている」というのである。 ここで強調されていることは、「私」が「私」で有り続けることが出来るのは「私」の 不変性ではなく、「私」が感じる「クオリアの同一性」にある。すなわち、「空の青さ、砂 糖の甘さ・・・風がほほをなでる感触。これらのクオリアが、劇的に変化していく「私」 の中で、同一のユニークさを維持しているからこそ、「私」は、変化していくにもかかわ らず、世界を、そして自分自身を、継続性の中に把握し続けることが出来る」(23) という のである。このようにクオリアを手掛かりとして意識を捉えようとする試みは、以下に述 べる「物質系の中の私秘的存在」の項 (24) にも示されている。 すなわち、粒子それぞれに公共性があったとしても、その一方で、それぞれの粒子にとっ てしか意味を持たない「相互作用という関係性」が生じ、「粒子 A、粒子 B というそれぞ れの “個物” そのものは公共的だが、個物の間に結ばれる関係性は、この二つの個物だけ に閉じられた、私秘的なものである。ここに、徹底して公共的な存在であるかのように見 える粒子における、私秘的なものへの契機がある」というのである。意識の中に現れるク オリアは、数や方程式では表現できないものではあるが、だからこそ、意識を従来の科学 的世界観の中に位置付けることは困難に感じられたわけであるが、「そのような数量化で きない質感は、実は粒子と粒子の間の相互作用にすでにその萌芽があるのかもしれない」 として茂木は、意識のもっとも原始的な萌芽を「粒子間の私秘的相互作用」に可能性を見 ている。クオリアを通して物質と精神との間が解明される可能性がここにあると見てよい のかもしれない。 まとめとして 以上の事柄を宗教の観点から見ると以下のようになろう。 その前に、筆者の宗教理解に触れておこう。宗教とは、ティリッヒの言うように(25)、 精神生活の特別な機能では全くない。たしかにその精神的機能として、倫理的機能、認識 的機能、美的機能そして感情的・情緒的機能を持つが、それら精神的機能の何かに還元さ れてしまうことはない。それは人間精神のあらゆる機能の「深み」に関わっているもので ある。「深み」の意味するところは、宗教的次元は人間の精神生活における最後的、究極的、
無制約的なものを指し示し、人間精神のあらゆる創造的諸機能のなかにあらわれるという ことである。すなわち、倫理的領域の中には「倫理的要求の無制約的真剣さ」として、認 識の領域には「究極的な実在を求める情熱的な願望」として、美的領域には「究極的な意 味の表現を求める無限の憧憬」としてあらわれ、そして感情的・情緒的領域において人は「無 制約的に関わるものにより心打たれる」というように、宗教の働きは、人間の精神生活そ れ自体の根底に関わっているのである。この意味で、人間の存在の仕方は「宗教的」なの である。このような宗教理解では、宗教とは何かある形をとった宗教集団やその教義及び 儀礼を指すのではなく、そのような具体的な形・諸宗教を生み出す基になった働きを指す。 そこで、宗教ではなく宗教的次元あるいは宗教性という言葉を使用したほうがより正確に その内容が伝えられるであろう。 さて、これまでの考察によれば、現在の脳科学では、クオリアというユニークな質感、 超越の機能を持つ志向性、メタ認知、これらの諸機能を<当然あるもの>と前提して、物 質間の仕組みや経過を「脳内におけるダイナミックなシステム」という<運動の大枠>で、 「意識する主体」の出現を構造的に説明している。しかし、「私」という独自性を持った個 人はいかにして生じるのかはいまだに不明である。「私」は、クオリアの捉えかた、志向 性を働かせる超越の仕方、そして、メタ認知の方法という、物質の運動と精神的存在であ る主体との「あいだ」で生じている。この「あいだ」(26)で、ユニークな人格を持った人 間精神の全領域 = 意識する「私」・心(?)が生成され出現する。(27) そして同時に、人 間は「ただそこに在る」のか、それとも「何らかの方向性を持つ在り様」をしているのか、 このような問いを発する人間の存在の仕方・在り様を筆者は、前述の意味で、<宗教性> と呼ぶのである。 註 (1) 茂木健一郎『生きて死ぬ私』徳間書店、1998,p.171ff (2) 茂 木 健 一 郎『 心 を 生 み 出 す 脳 の シ ス テ ム ー「 私 」 と い う ミ ス テ リ ー』NHK ブ ッ ク ス、 2001,p.21 茂木健一郎『脳内現象―〈私〉はいかに創られるか』NHK ブックス、2004,p.25 (3) 『脳内現象』 p.27,28 (4) 『心を生み出す脳のシステム』 p.11 (5) 『脳内現象』 p.25 (6) 前書、p.49,50 (7) 茂木健一郎『心が脳を感じるとき』講談杜、1999,p32ff (8) 『脳内現象』 p.24 (9) 前書、p.77 (10) 同上 (11) 前書、p.76 (12) 同上。「言葉の意味に伴う志向性には、超越性と呼ばれる性質がある。…」 (13) 前書、p.68
(14) 茂木健一郎『脳の中の小さな神々―〈私〉はいかに創られるか』NHK ブックス、2004,p.249 (15) 前書、p.254ff (16) 前書、p.259 (17) 『脳内現象』 p.42 (18) 前書、p.45ff (19) 前書、p.28ff (20) 『心を生み出す脳のシステム』 p.26ff (21) ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』下條信輔訳、岩波書店、2005(2004)、p.191ff (22) 茂木健一郎『意識とは何か』―〈私〉を生成する脳』筑摩書房、2003,p.177 (23) 前書、p.178 (24) 『脳内現象』、p.222ff (25) パウル・ティリッヒ「人間精神の一機能としての宗教か」(1955)、『ティリッヒ著作集第四巻』 白水杜、1979,p.48ff (26) 多田富雄十河合隼雄「対談 脳から離れて」河合隼雄総編集『講座心理療法第四巻』岩波書店、 2000,p.201ff ここで多田は「生物学ではそういう中心のない原理で成立しているしくみがい くつか見つかってきている」という発言がある。本稿で使用されている、「関係性」、「あいだ」 と関わらせてみると、興味深い。 (27) 染谷昌義「探求 心 / 脳の哲学の未来 生態学的観点から」『岩波講座哲学 05 心 / 脳の哲学』 岩波書店、2008,p.105ff 染谷の「生態学的観点」からの考察は、「関係性の構造」を探る上に も今後とも参考になる。 参考・引用文献 カール・R・ポパー、ジョン・C・エクルズ『自我と脳上』西脇与作訳、思索杜、1986(1977) カール・R・ポパー、ジョン・C・エクルズ『自我と脳下』大村祐・西脇与作共訳、思索杜、1986(1977) D・ボーム『全体性と内蔵秩序』井上忠・伊藤笏康・佐野正博、青土杜、1986 「宗教と科学」基礎文献日本編、岩波講座宗教と科学別巻 1、1993 茂木健一郎 『生きて死ぬ私』 徳間書店、1998 茂木健一郎 『心が脳を感じるとき』 講談杜、1999 茂木健一郎 『心を生み出す脳のシステム― 「私」というミステリー』NHK ブックス、2001 茂木健一郎 『意識とは何か ―〈私〉を生成する脳』 筑摩書房、2003 茂木健一郎 『脳内現象 ―〈私〉はいかに創られるか』 NHK ブックス、2004 ジェフリー・M・シュウォーツ、シャロン・ベグレイ 『心が脳を変える』吉田利子訳、サンマーク出版、 2004 V・S・ラマチャンドラン『脳の中の幽霊、ふたたび―見えてきた心のしくみ』山下篤子訳、角川書店、 2005 ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』下條信輔訳、岩波書店、2005(2004) 『岩波講座哲学 05 心 / 脳の哲学』岩波書店、2008 河合隼雄総編集『講座心理療法第四巻』岩波書店、2000