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独占利潤の源泉について

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独占利潤の源泉について

 本稿は、私が昨秋︵一九五七年十月︶老けにした﹃独占資本主義のもとでの剰余価値の法則﹄︵京大﹃経濱論叢﹄第八十巻第 四号﹃神戸正雄博士八十歳祝賀記念論文集﹄︶ の補論である。目的とするところは、当時いうべくして言い残さざるをえなか った諸点を補足することである。  まず私はそこでヒルファーデイングの独占利潤論に論及し、彼は正しくもカルテル利潤の基本的な部分を生産過程から 説明しようとしているが、この説明をもって前後︸長しているとはいえず、それを流通主義的に動揺させている、といっ      でおいた。ここでは、この結論を敷宿することから始めたい。  問題は直接的にはヒルファーデイングが、カルテル価格はカルテル加盟諸企業の生産費のうち最高のものによって決定         されるという、すくなくとも一部分は彼自身の確認するところとなっていたカルテル価格の本来的な決定法則を、堅持す ることのなかったところに胚胎している。すなわち限界的な考え方の確立していなかったところがらして、彼はカルテル 利潤をカルテル化されていない企業の犠牲に還元して、つぎのごとく述べている。   カルテル結成は、まず第一に、利潤率の変化を意味する。この変化は、他の資本主義的妊産業の利潤率の犠牲において生ぜしめられ      独占利潤の源泉について      一

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独占利潤の源泉について 二 るものである。これらの利潤率の同一水準への均等化は、資本の移動によっては生じえない。なぜならば、カルテル結成は、まさに、 投下部面をめぐる資本の競争が阻止されていることを意味するからである。⋮⋮均等化は、自己のカルテルを結成するか、または結合 生産によってカルテル化を排除するかのいずれかにより、より高い利潤率に参加することによってのみ、おこなわれうる。⋮⋮しかし カルテル結成の前進がなんらかの原因によって排除されているとすれば、⋮⋮カルテル価格の引上げによって利潤率の引上げが実現さ れるのは、ひとえに、他の産業諸部門における利潤.率を引下げることによってである。ところで⋮⋮資本が髄小で、経営の分散がはな はだしい産業部門では、利潤率の社会的平均以下への低下の傾向がある。カルテル化は、この傾向の強化を、これらの部門における利 潤率の一層の押下げを意味する。この押下げがどこまで進みうるかは、これらの生産部面の性質にかかる。過度の押下げは、これらの 部面からの資本の流出をもって答えられるであろう。⋮⋮しかし、この資本はどこに向うべきかという問題は、資本投下の小さい他の 諸部面も岡様にカルテル化産業によって搾取されるので、ますます困難になる。そして、ついに、これらの産業では、外観上はなお独 立している資本家の利潤は純粋の監督賃金︵bβ窓魯範。ぎ︶となり、これらの資本家自身はカルテルの使用人となり、手工業の中問 親方に類する中間資本家︵N惹ω巨費匿嘗助鼠。。一霞︶または中間企業家︵N惹。・。冨薯暮Φ導窪ヨ。琶︶となる。⋮⋮大産業は、これに従属す        るにいたった小範囲の小産業の資本家から剰余価値の一部を奪って、彼らを単なる俸給に制限する。  右の所説が、平均原理に依拠して限界的な考え方を拒否する生産価格の理論を前提とするものであることは、同じ議論 をくりかえした次ぎの章旬からしても、明瞭である。        ④      ,   カルテル価格は、理論的には、結局、費用価格プラス平均利潤率に等しくなければならない。しかし、この平均利潤率そのものは変  化している。それは、カルテル化された大産業の場合と、これに従属するにいたった小範囲の小産業の場合とでは異なっており、⋮⋮  カルテル化された諸産業では上昇し、カルテル化されていない諸産業では低下する。⋮⋮カルテル価格は、カルテル化されていない諸  産業で価絡がそれらの産業の生産価絡以下に低落した額だけ、カルテル化された諸産業の生産価格以上に上昇するであろう。カルテル  化されていない諸産業に株式会社が存在するかぎりでは、価格は 図+N︵費用価格プラス利子︶以下には低下しえない。というのは  そうでなければ、資本の投下は不可能であろうからである。かくしてカルテル価格の引上げは、カルテル化不能諸産業における利潤率  の引下げの可能性に、その限界を見出す。非カルテル化諸産業の内部では、ここでは種々の投下部面をめぐる資本の競争が存続するこ         とによって、より低い水準への利潤率の均等化がおこなわれる。

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 ヒルファーデイングは、カルテル価格に生産価格の理論を適用することにより、カルテル化さ.れた生産部面における利    ● 潤率の上昇は、必然的に、カルテル化されない生産部面における利潤率の低落を随伴し、これによって相殺されることに よってのみ可能であると考えるもののようである。たしかにカルテル利潤は現実においては、すくなくとも一部分、カル テル化されていない生産部面における剰余価値の収奪に由来するところをもつ。そして、それによって、ヒルファーディ イグのいうごとく、たしかに﹁カルテル利潤の性格が変化する。それは不払労働から−剰余価値からfなっているが、         ]部分は他の資本家の労働者が生産した剰余価値からなって、いる。﹂  カルテル利潤のすべてをカルテル化されていない生産部面の犠牲に還元してきたヒルファLデイングが、右の章句では その﹂部分だけがそうした犠牲に由来すると見ているように思われるのは、注意さるべきである。それでは、カルテル利 潤のそれ以外の部分はどこから出てくるか。・性格が変化する以前のカルテル利潤は、一体どういうものであったのであろ うか。そういうものとしては、カルテルに加盟する諸企業がそれぞれの生産過程において生産する特別剰余価値以外のも        のを考えることはできないであろう。 、カルテル利潤の基本的部分としての特別剰余価値は、カルテルがその価格を特別に騰貴させることがなくても可能であ るはずである。もちろん事実上カルテルは、競争を制限することによって、その価格を、カルテルの存在しない場合以上 につりあげる傾向をもつ。しかし、それはどこまでも価値法則を通じてである。いいかえると、与えられた需要に対向す る生産量のための諸生産費のうち、最高のそれにお、いて価格が定まるよう、競争を制限し、生産量を調節することによっ         て.である。そのさい最高の生産費は通常アウトサイダーのそれに帰着するであろう。したがってアウトサイダーといえど も、競争圏内にとどまりうるかぎり、カルテルによって利潤の犠牲を強要されることはないはずである。もちろんカルテ ルによって保障される特別剰余価値の獲得によってカルテル加盟諸企業の利潤率が上昇するかぎり、アウトサイダーの利      独占利潤の源泉について      三

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     独占利潤の源泉について      四    ヘ  ヘ  ヘ  へ 潤率は相対的に低下するであろう。しかし、だからといって、カルテル利潤がアウトサイダーの犠牲に還元されるのは、 この揚合、いわれのないことであろう。  もっともヒルファrデイングが九ルチル利潤を流通過程に還元することになる場合、考察の対象としているのは、アウ トサイダーではなくて、まだカルテル化されていない産業部面である。しかしカルテル利潤をカルテル化されていない産 業部面における剰余価値の収奪に還元することは、基本的部分についていうかぎり、カルテル価格の本来的な決定法則か らして、同様に無理である。カルテル利潤の基本的部分は、くりかえし述べるごとく、カルテル内部における特別剰余価 値を基礎とするものであるからである。といって、もちろんカルテルが、カルテル化されていない産業部門を収奪するこ とのあるのを否定するわけではない。原料の購入と製品の販売とを通じてである。いいかえると、流通過程に蹄いてであ る。しかし流通過程におけるカルテルの収奪にして、不等価交換にもとつくものを捨象するならば、残るのは、それ自身        ヘ  へ が生産した剰余価値の実現部分でしかないであろう。カルテル利潤の生産ではなくて実現を問題にするかぎり、それはカ ルテル商品のすべての購買者からの搾取にもとつくといってよいであろう。しかし、この揚合にも、実現されるものは、 それにさきだって生産されているのでなければならない。  ヒルファーデイングも、あれこれ論じた後、ついに、カルテル利潤が基本的には、カルテル化していない産業部門の犠 牲によって説明さるべきものではなくて、それ自身の生産部面に起原するも、のであることを想起するにいたっている。す なわち彼はつぎのごとく明言している。  自由な競争は、改良された技術の採用による不断の生産拡張を強要する。カルテルにとっても、よりよい野望の採用はやはり利潤の 上昇を意味する。のみならず、カルテルはこれを採用せざるをえない。というのは、そうしなければ、アウトサイダーが新技術を自分 のものにして、カルテルにたいする新たな競留戦でこれを利用するかもしれないという危険があるからである。これが可能であるかど

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うかは、カルテルがつくりだした独占の性格にかかっている。その生産の自然条件をも独占したカルテルーたとえば鉱山シンジケー トのごとき一または、その生産が最高の有機的構成をしめす一したがって薪企業は銀行のみが融通しうるごとき異常な資本力を必 要とするのに、銀行はカルテルの意に反しては何もしょうとはしないようなーカルテルは、新たな競争にたいして最高度に保護され ている。そこでは技術の改良は一つの特別利潤を意味するが、これは競争によって結局消滅させられて商品の価格が低下せぎるをえな くなるというようなことのない特別利潤である。この場合には、改良された技術の採用は、消費者の利益にはならないで、かような強 靱に組織されたカルテルやトラストの利益になるだけである。しかし改良技術はより大量の生産を必至とし、それの販売はふたたび価       ⑨ 格の引下げを必要とし、引下げなければ消費の拡大が生じないということもありうるであろう。  ここでは、カルテルが薪技術による特別剰余価値を固定するための組織と見らるべき側面をもつということが、かなり 明確に観察されているといってよいであろう。もちろんカルテルにもいろいろあって、すべてがこういうものだとはいえ ないかも知れない。しかし、すくなくとも前進的なカルテルは、独占的剰余価値を保障するための組織としての一面をも つのでなければならない。 @@@@@@@ @一 @ 上掲拙稿 三一〇頁。 同     三〇九頁。 用H昌陶Φ圏蝕ロ瞬”国一μ塑昌N犀騨冒詳巴闇ω.POo㊨−P⑩O’ 岡崎次円鞘﹃金副直貝本論⋮﹄岩波文庫、 中、 一〇五−六頁。 原文には一.℃犀oq肩寡ざ塁鷲鉱切..とあるが、国。こ・言り。貯の誤りであろう。 団昌団霞蝕昌鱒些帥・O・ψPOO.訳一〇六−七頁。 卜.欝O.oΩ・薗臼⊃P bロ目●訳一〇六頁。 拙稿 三〇九1一〇頁。      . 伺  上。 閏淳霞象ロσq魍鉾費○●ω.P⑩ω.訳一︼○頁。 独占利潤の源泉について 五

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、 独占利潤の源泉について 山

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二  同様の弁証法はセレブリャーコフロコ.o魯㊦曾轟畠︵﹃現代資本主虫下の物価変動﹄一九三五年︶の適合にも論証されうる。ま ず彼の見るところによれば、独占企業の活動の原動力をなし、資本主義的独占の目的をなすのは、超過利潤の獲得である。 そして、この超過利潤を吸取るために、独占体は特殊のからくりによって、独占的生産物の価格をその価値1および生         産価格−以上につりあげるとともに、非独占的商品︵労働力をふくめて︶の価格を圧迫する。  この見解において、著者が独占を超過利潤の追求によって特徴づけようとしているのは、納得できる。しかし超過利潤 の獲得を価格操作の範囲内におしこめているのは、視野の偏狭をものがたるものといわなければならない。そのさいセレ ブリャーコフも﹁資本主義的独占は生産の集積過程の所産である﹂こと、そして﹁独占価格は帝国主義の生産諸関係の特 殊な表現である﹂ことを認めている。しかし彼はその場合にも独占価格と独占的超過利潤とを生産過程に連関づけるとこ          うがないのである。  念のために注意しておくと、独占が価格をつりあげる傾向があるといっても、その傾向がどの程度に実現するかは独占 の支配力に依存する。セレブリャーコフによれば、独占が最も強固な地位をしめているところでは、独占は最大の価格つ りあげを実現する。これに反して、独占的地位がより微弱なところでは、価格はいくぶんか低くなる。最後に、独占的地 位がまだ確立していないところでは、価格は生産価格の水準をこえることができず、ときとしては競争のためにそれ以下 に低落することさえある。なお同一の独占体も市場の相違によって支配力を異にすることがあるが、その場合には、いわ         ゆる差別価格において、上に述べた独占度の相違による価格差が設定されることがある。かくして独占的支配の強度に依 存して例外がないではないけれども、独占は一般的には価格をつりあげるものであるということができる。セレブリャi

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コフは書いている。  独占価格が形成されるところでは、それは価値以上の水準に定められ、またそこでは商品価絡は高心的傾向をたどる。独占が必ずし も最高価格を達成するものでないことは勿論である。けだし独占は不可避的に生産者たちの競争につきあたらねばならぬし、同様にま た需要量の減少のおこりうべきことを考慮にいれねばならぬからである。⋮⋮しかしいずれにしても、独占価格は生産価格より以上の 水準の孤山として形成される。すなわち、その価格で販売するときは、当該独占生産物のなかには含まれていない価値部分の領有によ って超過利潤が得られるところの価格として、また独占の麦配が強固になればなるほど、ますます力強く高騰的傾向をあらわしてくる 価格として、形成される。︹もっとも︺独占はつねに必ずしも絶対的に価格をつりあげうるものではない。独占価格は、一般的にいえば 価格水準の低下する諸条件のもとにおいても形成されることがしばしばである。しかし、それはつねに独占商贔の相対的騰貴を意味す るものであり、つねに生産価格以上の価絡つりあげと関連している。かくして価絡にたいする資本主義的独占の影響は、いずれにせよ          高謄的影響である。       ・  しかし独占価格によって実現される超過利潤は﹁独占生産物のなかには含まれていない価値部分の領有﹂にもとつくも のと、いってしまってよいか。そういう部分のあることは事実であろう。.しかし全部がそういうものであるとするならば、 独占利潤はすべて流通過程から出てくることになるであろう。いいかえると独占利潤は、利潤一般の揚合と異なり、剰余 価値の法則の支配をうけないことになるであろう。そういう見方は、独占価格を価値法則から絶縁する見方に相即する。 しかし独占価格が価値法則の支配から脱却しえないものであるとするならば、それに照応して、独占利潤もまた剰余価値 の法則の支配から脱却しえないところをもつのでなければならない。  セレブリャーコラは、独占はつねに必ずしも絶対的に価格をつりあげうるものではないとの主張をふかめて、独占価格 におよぼす価値法則の作用に論及している。いうところは、およそ、つぎのごとくである。iすなわち、独占は価格形 成の絶対的な支配者ではない。価格の変動は、帝国・仁義時代においても、.価値法則一およびその変形たる生産価格法則 独占利潤の源泉について 七

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     独占利潤の源泉について      八         −lIに支配される。それゆえ独占による価格のつりあげは、 一定の限界によって制限されている。 ﹁独占が価値法則およ び生産価格法則の作用にもたらす修正は、すべて、これらの法則をけっして排除するものではなく、それらのより一層の 発展であり、それらの基礎の上に立ってこそ初めて正しく理解できるのである。﹂なによりもまず、価値は依然として独占 価格にたいする一般的限界をなしている。価格総額は価値総額によって制限されている。独占価格は、価値総額のある程 度の分配がえや、価値以上への騰貴を実現するが、価値から解放されたり、その限界を突破したりすることのでぎるもの ではない。さらに価値の変化は、独占価格の変動の一般的傾向を決定する。労働生産力の変化にともなう価値の変化は、 結局、それに照応した独占価格の変動を招来する。たしかに独占企業はその商品を価値一ないし生産価格一以上に販 売し、非独占企業はその商品をそれ以下に販売する。しかし、それはいずれも一定の範囲内においてのみ可能である。独占 企業が価格をつりあげればつりあげるほど、ますますそれはアウトサイダーおよびその他の競争を刺戟する。価格の騰貴 のために、アウトサイダーの生産はますます有利となる。代用晶の生産と使用が増加する。のみならず、他の独占的企業 もまた問題の商晶の生産に進出してくる。他方、その商晶を購入する独占的企業は価格の高騰を敵視するにいたる。また、 それに原料を供給する独占企業も、その商晶の価格を引上げようとする。これらの競争の結果、価格の騰貴は法外なもの         となることはできないし、またそれぼど長続きすることもできないはずである。そのかぎり、価値法則は生きている。す なわち独占価格も合則性をもっていて、価値法則一および生産価格法則iを廃止しないばかりでなく、それに特殊の         発展と修正とを与えるにとどまるのである。  右のごとくセイブリャーコフは、独占価格が価値法則から完全に独立したものでないことを確認している。しかし彼 は、それにもかかわらず、独占価格の実現する超過利潤を、本質的には、生産過程において生産される剰余価値とは見て いない。独占によって価値法則に特殊の発展と修正とが与えられるといっても、それは単に、独占商品の価格を価値ー

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したがって生産価格i以上につ■りあげ、価値総額の分配を変.化させることによって、労働力の価値や、小商晶生産者の つくりだす価値や、弱小資本家が収得するはずの剰余価値を収奪する可能性を与、換るというにとどまる。つまり彼の見る ところによれば、独占的超過利潤は本質的には流通過程における収奪に由来するのである。彼は明言している。  独占価格は、帝国主義段階におけるブルジョア的生産のもっとも深刻な諸対立の帰表現であり、その背後には必要価値の一すなわ ち労働力の価値の一部分の一独占的牧奪がかくされている。また、その背後には、小商品生産者のつくりだす価値の一部の強奪が存 在する。最後に、それは支配和独占者たちの利益のために他のあらゆる資本家たちの損失においてする剰余価値総額の重大な分配替え を反映している。’  独占価格の問題は、一面において、労働者階級や小商晶生産者や特に植民地および従属国の勤労大衆がつくりだす必要価値の一部分 を彼らから横奪する特殊な独占的牧奪による超過利潤獲得の問題である。独占価格の問題は、他面において、もっとも強大な独占者た ちの利益のために、個人資本家たちや、弱小独占諸団体の損失においてする資本家階級内部における剰余価値総額の分配替えの問題で  ⑰ ある。  これによって見れば、独占的超過利潤の源泉の第一は労働者の搾取であり、第二は小商品生産者、第三は弱小資本家の 搾取である。そして、それらの搾.取は、この著者の揚場、いずれも流通過程的な搾取にぽかならない。まず労働者の搾.取 について見るに、セレブリャーコフはおよそ亥ぎのごとく述べている。1産業資本主﹁義の諸条件のもとにおいても、労 賃は労働力の価値以下となる傾向をもっていた。資本主義的蓄積の一般法則は、労賃の労働力の価値以下への事実上の背 離を条件づけた。帝国主義時代には、この傾向は新しい段階に到達する。独占は、労働の強度を高めると同時に、労賃に たいする圧迫を強める。それは、労働者を団結した資本家の戦線に直面させ、増大する予備軍の脅威を利用し、低廉な労 働力を輸入したりなどすることによって、労働者から彼らがっくりだす必要価値のかなり多くの部分を奪いとる。他面に おいて独占は、消費者としての労働者に圧迫を加えることによってもまた、超過利潤をくみとる。労働力はその価値より

     独占利潤の源泉について’九

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     独占利潤の源泉について       一〇 もいちじるしく安く買われているのに、労働者の生活手段はその価値よりも高い独占価格で売られる。かくして労働者の 搾取は二面的であり、彼らはきわめて少額の最低生活費をうけとり、必要価値の一部分を失うが、彼らの失うぽかならぬ その必要価値の一部分ば、独占者たちの超過利潤に変化するのである。ちなみに、このような労働者搾取ば、後進諸国と       ⑱ くに植民地や従属国にまでおよぶ。  おもうに、独占資本の労働者からの搾取がこのような局面をもっことは、否定しがたい事実である。しかし労働者との 関係において、独占的超過利潤の源泉をもっぱら労働者と資本家との不等価交換に求めるというのは、事実に合致しない であろう。それでは、独占的超過利、潤は、労働者との関係においても、生産過程からではなくて、流通過程から出てくる 、ということになってしまう。現実には、そういう部分もある。しかし、それは本来的な部分ではない。独占利潤を剰余価 値の法則から把握するというためには、剰余価値そのものの場合における同じく、労働力が価値どおりに販売されても、       ヘ  ヘ  へ 労働者はやはり独占資本家のために特別の剰余価値を生産することができるし、また生産しなければならないということ       ⑲ を、論証する必要があるであろう。実質労賃に変化はないにしたところで、すなわち、その切下げがおこなわれることが ないにした乏ころで、独占資本が遂行する技術的改良は必要労働時閤部分を低下させることにより、剰余労働時間部分を        増大させうるのである。それに、独占的超過利潤をもっぱら労働力の価値以下での購入に依拠させるならば、独占資本の 搾取の前進的な  生産様式の発展にたいして進歩的な  側面は完全に黙殺されてしまうということにならざるをえな いであろう。もちろん、この側面を一面的に強調するのは反動である。しかじ、それを完全に黙殺してしまうというのは 非現実的である。  つぎに小商品生産者の搾取については、セレブリャーコフはつぎのごとく述べている。  小商品生産者、とくに植民 地および従属国の小商品生産者の収奪は、帝国主義体制のもとにおいて重大な意義をもっている。植民地および従属国に

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たいする独占的支配は、これらと本国とのあいだの不等価交換を条件づける。本国は、その商品を植民地や従属国に法外 に高い独占価格で売りつけると同時に、後者の生産する原料その他を二東三丈で捲ぎあげる。この搾取は、いろいろの形 の資本輸出によって加重される。しかし独占資本は、帝国主義国家そのものの内部における農民や手工業者にたいしても       ⑳ ほぼ同様の独占的収奪をおこなう。  おもうに独占的超過利潤が、現実においては、このような小商品生産者の収奪に由来する部分をもつことは、事実であ る。しかし、といって、小商品生産者の生産物を価値以下で購入したり、自己の生産物を彼らに価値以上で販売したりす ることがなければ、独占資本家は彼らから独占的超過利潤を収取することができないかというに、そうはいえない。小商 品生産者と独占資本家とのあいだに等価交換がおこなわれたところで、独占的超過利潤は成立しうる。けだし独占商晶は その価値そのものうちに特別剰余価値を1一層正確にはそれの固定された独占的剰余価値を一ふくむからである。こ の部分にかんするかぎり、小商品生産者からの独占利潤の収取は、彼らの生産した価値の横奪ではなくて、独占資本が自 己の生産過程において収奪した剰余価値の  購買者たる小商品生産者においての1実現にぽかならない。  最後に、弱小資本家の搾取についてセレブリャーコフの述べているところは、ぼとんど理論になって、いないといってよ い。彼がいっているのは、ただ、独占は、非独占的な一もしくは独占力の弱いi同一部門の他の諸.企業および同一国 の他の産業諸部門において生産される剰余価値の一部を掠取する鳳かりでなく、独占の十分に発展していない国々におい       ロ て生産される剰余価値の一部を掠取する、ということだけである。では、どうして、こういうことが可能なのか。そ.の点 については彼はなんの説明もなしていない。  おもうに、独占資本が剰余価値の分配にあたρて弱小資本より有利な地位にたち、その関係で超過利潤を取得するとい うことは、ありうることである。しかし弱小資本との関係において独占資本の取得する超過利潤を、すべて、劉余価値の      独占利潤の源泉について       一一

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     独占利潤の源泉について       一二 分配がえに帰着させてしまうのは、流通主義的偏向といわなければならないであろう。この偏向をさけるためには、我々 はどうしても、独占資本が弱小資本にたいして通常もっている生産技術上の優位ということを認めてかからなければなら ないであろう。  セレブリャーコフは、ストゥルーヴェが﹁大企業が少額の生産費で作業するため、価格が最高の生産費によって決定さ        れるだけ、それだけ大企業は差益を受けとる﹂といったのに反対している。また彼は、おなじ思想であるが、スペクター トルが﹁カルテルおよびトラストがアウトサイダーより少額の生産費および販売費で作業する﹂ところに﹁カルテルおよ        ゆ       びトラスト差益﹂を求めたのに、反対している。  セレブリャーコフの見るところによれば、アウトサイダー価格は独占価格より低廉であることを余儀なくされる傾向が    ある。もちろん、あらゆる部門にわたって、かついかなる時期にも、独占価格はアウトサイダー価格を上まわるといった わけのものではない。それどころか、アウトサイダーを駆捺するために、独占企業がその価格をアウトサイダーのそれ以 下に設定するということは、けっしてめずらしいことではない。しかし一般的な傾向としては、アウトサイダーは通常、 独占価格よりも低い価格によってのみ、その商品を販売することのできるものである。そして独占価格とアウトサイダー 価格とのこの開きを通じて、独占企業はアウトサイダ4企業からその剰余価値の一部分を収奪する。もちろん、独占的超 過利潤のこの源泉はけっして決定的にして最も重要なものとはいえないが、しかしそれでもなお無視することのできない       ものである。  しかし独占価格が一般的傾向としてアウトサイダー価格の水準以上につりあげられるというのは、事実に合致しないで はないか。アウトサイダーが劣弱な生産者であるかぎり、それの生産する商品の1価格ではなくて・i価値は、独占諸 企業の生産する商品のそれを上まわると見なければならない。してみれば、価値が価格を規則するかぎり、独占価格はむ

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しろアウトサイダー価格を下まわるのが一般的傾向であろう。もちろん独占体とアウトサイダーとの価値の相違が、その まま、それらの価格の相違となって現われることはないであろう。けだし二つの価値は、したがってこれに規制されるか ぎり二つの価格もまた、需給の均衡を前提するかぎり、高い方にむかって平準化される傾向があるからである。そのかぎ       ヘ   ヘ  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ り独占商品の価格は、それの本来の価値にくらべて、割高であろう。そして、その割高の部分が特別剰余価値を形成し、 実現されて超過利潤となる。剰余価値の法則を適用して独占利潤を説明する道は、これ以外にないように思われる。もち ろんアウトサイダー価格を上まわる独占価格が独占利潤をもたらすことのあるのを否定するわけではない。しかし独占利 潤をもっぱらそういう手法によって説明するのならば、価値法則や剰余価値法則の登展について語ることはやめにした方  ふ       カよし  しかし他方セレブリャーコフも、独占による価格つりあげの限界を認めて書いている。 ﹁﹃自由競争﹄は独占的支配お よび強力に重大な修正をもたらしている。アウトサイダーの競争はしばしば独占価格を破壊し、カルテルおよびトラスト をして独占価格の水準を低下せしめ、または、いずれにせよ、そのつりあげを妨げる。 [なお]独占団体内部の競争もま       ゆ た価格つりあげを制限するものである。﹂  もちろん、この認識は彼の場合にはまだ独占理論を前進せしめるにはいたつていない。彼はその後もあいかわらず前説 を固執している。 ﹁なるほど独占企業.がアウトサイダーの危険な競争にでくわすと、彼らは低廉な価格をもってアウトサ         イダーに対抗して斗上しなければならぬ場合もしばしばある。﹂ そして﹁一般にアウトサイダーの競争が、その他の方面 からする競争とならんで、独占価格のつりあげを抑制し、それに価値法則の支配を脱しえないように限界を与えるべき要 因としての役割をはたしていることは、疑いない。しかし独占企業がその地位を維持しているかぎり、彼らはその地位を        ・  ⑳ 利用して、その価格をアウサイトダーの価格以上にに高めることがしばしばありうるのである。﹂      独占利潤の源泉について       =二 ,

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     独占利潤の源泉について      一四        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  確認されているごとく、競争が独占を制限するとして、いいかえると独占が現実的には不完全独占でしかありえないと して、独占はこの制限をいかにして突破してゆくか。多くの入々とともに、この溢者の考えるごとく、流通過程の強力的 支配にむかうのも、 一つの行き方である。しかし、それにも限界がある。無理な廉売や投売が長つづきするはずはない。 とすれば、いちばん確実なのは、なんといっても生産部面へむかっていくことであろう。生産技術を改良し、生産費を低 下させることによって、競争力を増大していくことであろう。資本主義寒心占は、初めから、独占の端緒的にして基礎的 な形態であるカルテルでさえ、それ以上の独占組織はいうまでもなく、そういう生産過程をもっているのである。そして そのかぎり、独占的超過利潤は、単に流通過程的搾取にもとつくものではなくて、同時に生産過程的搾取にもとつく独特 の源泉をもつといわなければならぬ。 @@@@@@@@ ¢,y @@@ ヴェ・セレブリャーコフ﹃独占資本と物価﹄堀江邑一・団迫政夫訳、 一九三七年、ご四i五頁。 同  二八頁。 同   三六−七頁。       ・ 同  四六一四頁。 同  四八頁。 同五〇1五一頁。 同  五三頁。 同  六二頁。 同   六ニー三、 一 一七頁。 前掲拙稿 三一︼i二頁。 マルクス﹃資本論﹄第一巻第十章、青木文庫版㈲ 五三七−八頁。拙稿 三=ニー四頁。 セレブリャーコフ、前掲 六四−五頁。

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セレブリャーコフ、払則掲 五五百ハ。 旨・O目㊦宥鴛。︾尾嗣言国8図8凶邸。鵠。習扇目。自①8陣国亭6P︽o昌●N9 セレブリャーコフ、前掲 二四頁。 目O嬉忍90き国。昌国暮。匿閏臼器鵠8霞=㊤8雪。起●喝哺9 同  六五一六頁。 四一一二頁。 一五六−七頁。 一八八頁。 三五七頁。 三五九頁。 Ψ 三 以上の議論にたいして、あるいは、マルクスの所説を根拠として、異論をさしはさむ入があるかも知れない。けだしマ ルクスは、 ﹁本来の独占価格は、商品の生産価格によっても、価値によっても規定されず、買手の欲望と支払能力とによ        って規定されている﹂と見るところがらして、それが実現する利潤について敦ぎのごとく述べているからである。  特定商品の独占価格は、他の商品生産者の利潤の一部を、独占価格をもつ商品に移譲するだけであろう。間接には種々の生産部面聞 での剰余価値の分配に揚所的擬乱が生ずるであろうが、だからといって、この剰余価値そのものの限界は変動しないであろう。独占価 格をもつ商晶が労働者の必要消費に入りこむとすれば、労働者が従来どおり労働力の価値を麦払ってもらう場合には、その商品は労賃 を騰貴させ、したがって剰余価値を減少させるであろう。その商品は労賃を労働力の価笹以下に圧下することもありうるが、それは労 賃がその肉体的最低限の限界をこえている限りにおいてでしかない。この場合には独占価格は、現実労賃︵すなわち労働者が同一分量       ⑬ の労働によって受けとる諸使用価値の分量︶と、他の資本家たちの利潤とからの控除によって、麦払われるであろう。     独占利潤の源泉について      一五

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     独占利潤の源泉について         、       一六  この議論をもってすれば、独占価格の実現する独占的超過利潤を、当該独占体の生産する特別剰余価値の固定したもの i独占的剰余価値iということで説明するのは、誤ということになるでもあろう。しかし、問題はそれぼど簡単では ない。まず、ここにいう独占価格は、ヒルファーディングの規定をかれば﹁任意に増加さぜられえない財の価格﹂を中心 としたものであり、自由競争価格の反対概念として、現在の用語をもってすれば、完全独占価格のことでなければならな い。けだし独占価格がもつぼら買手の欲望と支払能力とによって規定されるにとどまる恣意的なものとなるのは、任意に 増加させられえない財の価格を典型とするような、完全独占の場合以外には考えようがないからである。  従来、多くのマルクス・王義者は、このような性格をもったマルクスの独占価格概念をそのまま現代の独占に適用しよう        としてきたが、そして彼らが独占価格の理論化を断念してきたのも、このことと関係があるように思われるが、マルクス の概念の歴史的性格を吟味することなしに、そ江をそのまま現代に適用しようとするのは、 一種の教条主義にぽかならな い。  もちろん、現代資本主義の諸条件めもとでも、マルクスの独占価格概念が妥当しうる特殊の衿幅が考えられないではな い。というのは、トラストやコンビネーシ。ンやコンツェルンなどの形成によって一資本が一生産部門を完全に支配する にいたった黒光である。そういう場合には、マルクスの時代に考えられたような特殊の人為的ないし自然的条件に由来す       ヘ  ヘ  ヘ  へ る独占の場合に類似した一種の完全独占が成立する。完全独占のもとでは、個別的価値の社会的平均化の過程は止揚され る。個別的なものの平均化は、 一企業内部の私事にすぎなくなる。したがって、そこでは社会的なものと個別的なものと        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ   ヘ  ヘ  ヘ  へ の差額が、社会的平均的な価値およびそれに規制される価格と、優秀な生産諸条件にもとづいてそれ以下であることの可 へ  へ 能な個別的価値との差額が、特別剰余価値を形成することになるような社会的根拠は存在.しない。にもかかわらず、この 種の資本の生産物は独占価格をもつであろう。そのさい、この独占価格の実現する独占的超過利潤のすくなくとも一部分

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は、当該独占体の生産する特別剰余価値と見なさるべきものであるであろう。しかし、この場合には、そうした特別剰余 価値が独占的超過利潤に自己を実現すべぎ合理的な社会的根拠はないわけである。けだし、その独占価格は、生産の社会 的.必要という合理的な根拠にもとづいて決定されるものではなくて、主として買手の欲望と支払能力とのゆるすかぎり最 大限の利潤を実現するという恣意的な目的にもとづいて設定されるものであるからである。もし現代の独占価格がこうい うものであるならば、疑いもなく、それはマルクスの独占価格概念をもって呈せられうるであろう。  しかし現代を特徴づけるのは完全独占ではない。もちろん現代においても、マルクスの時代に考えられたような特殊の 人為的ないし自然的条件に由来する独占がないわけではない。しかし現代を特徴づけるのは、いうまでもなく、そうした 独占ではなくて、自由競争の結果として成立してくる大企業の独占である。しかも大企業の独占は、 一部分、はそれが成立 の由来からして、また一部分は、それにたいする社会的規制の結果として、完全独占にまで成長することを阻止誉れてい        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ る。つまり現代資本圭義を特徴づける独占は、不完全独占にぽかならないのである。したがってマルクスの独占価格概念 を、そのまま現代の独占に適用することは、誤りといわなけれぽならない。       ゆ  マルクスは、独占価格の考察は﹁乱塾価格の現実的運動を研究する競争論﹂に属すると明言している。この揚合、彼は 一体どのような独占価格論を予想していたであろうか。現在我々は彼の予想を推察することのできるような資料をもたな        い。しかし我々は、すばらしくも彼が競争は不可、避的に独占にみちびくことを洞察していたということを、知っている。 もし彼が十分の時間と余ヵとを与えられていたならば、必ずや競争が独占にみちびく過程を体系的に理論化したであろう が、それはおそらく﹁本来の独占価格﹂の理論とは異なったものであったであろう。  しかるにマルクスの独占価格概念をそのまま現代に適用するというのが、従来のぼとんどすべてのマルクス学者の常套 であった。たとえばスウィージーは、さきの引用章句に見られるマルクスの独占利潤についての示唆を一般化し、つぎの      独占利潤の源泉について      一七

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     独占利潤の源泉について ような独占利潤論をつくりあげている。 一八  個別企業にかんするかぎり、競争から独占への移行は利潤の増加をともなう。実際これが独占の全目的である。しかし社会の労働力 によって生産さ.れる総価値は、けっして独占の形成によって増加せしめられない。したがって独占者の超過利潤は、祉会の他の成員の 所得からの聖意の移転という性質をもつ。⋮⋮要するに、超過利潤は他の資本家たちの剰余価値からの控除であるか、労働階級の労賃 からの控除であるか、のいずれかである。しかしながら一般的にいって、与えられたいずれの時と所においても、労賃は、最低生活標 準と社会的に認められる水準に引寄せられる。労働組合はこの結果の怨讐における最も有力な動因の一つである。そして結合運動の時 代までに組含はすでに十分発展しているので、独占的超過利潤によって惹起される労賃からの控除は急速に回復されるであろうと考え るのが合理的であるように思われる。もしこの推論が有効であるならば、独占者の超過利潤は主として彼の同輩資本家たちのポケット       ⑲ から出てくるということになる。  これが現代独占資本主義のもとでの独占的超過利潤の説明を目的としたものであるのならば、それは、これだけでは説 明することのできない多くのものを残すであろう。それは、なかんづく、現代独占資本主義のもとでの技術黒垂と経済進 歩を説明することができないであろう。スウィージーは、独占が形成されても、剰余価値の社会的総量には変化がないと 前提しているけれども、独占が特別剰余価値の生産をおこなうとすれば,この前提は早まりであろう。そして現代の独占 は、技術革新によって特別剰余価値を生産し、それを固定㌧て、労賃の切下げや、他の資本家からの剰余価値の収奪とい った流通過程的手法とは異なった方法による独占的超過利潤の源泉となすところがあるのである。こうした理論は、マル   ヘ  ヘ  ヘ クス主義者の伝統からすれば、おそらく異端に見えるでもあろう。しかし私は、マルクスの剰余価値論を現代に生かす道 は、これ以外に考えようがないように思う。  ここで想起されるのは、同様にマルクスの理論を現代独占の理解に生かそうとする平瀬巳之吉教授の試みである。教授 の試みは、マルクスにおける二つの独占価格の区別を基礎として砺る。それによれば、マルクスのいう本来の独占価格は

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      ⑲ ﹁通常の意昧での独占﹂価格一教授によれば我々がさきに参照したマルクスの独占価格概念もこれにかかわる一から 区別されるが、その区別の基準は、個別的にも総体的にも価値や生産価格と一致しないで、長きにわたってそれらを超過 し、それらを運動の一般的限界とすることもなげれば、平均利潤の形成にも参加せず、それゆえその超過利潤は労賃や他 の利潤へのくいこみという国民所得もしくは剰余価値の巣なる再分配からでなく、むしろ価値と価格の一致が破れたとこ        ⑳ うに成立するような独占価格であるかどうかである。  しかし私にはこの解釈は納得できない。けだしマルクスは﹁独占価格を云々する揚合には、我々は総じて、生産物の一 般的生産価格によって規定される価格にも、価値によって規定される価格にもかかわりなく、買手の購買慾と支払能力に        ⑳ よってのみ規定されている価格を意味する﹂と明言しているからである。・  のみならず、私は、教授の所説ではマルクスの﹁本来の独占価格﹂が現代の独占に適用されうると考えられている点に 一層大きな疑問を感ずる。広益的な考証はおいて、そういう無理は現代の独占の理解に大きな破綻を暴露せざるをえない ように思われる。一教授は﹁本来的独占価格は誰が支払うのか。いうまでもなく買手である。しかし買手の購買力はど こから出てく.るか﹂と問うて、答えている。        も  も  し  も   今日は資本の生産という資本主義そのものの宿命的な至上命令によって体制的な過剰生産の時代である。商品は販売不能で、市場に  は滞貨が生じている。この滞貨の存在のために、商品はただに価格低下だけでなく価値廃棄をこうむる。そこで滞貨の本来の価値と商  品の価値廃棄とに対応するだけの流通界に存在する貨幣が、独占価格を支払うべく動員吸牧される。⋮⋮このように過剰生産という体  制的現実と貨幣という機構とを通して、本来的独占価絡は支払われる。さしずめ、他人の利潤や賃銀にくいこんで成立する通常の意味  での独占価格とは、別物である。もしくは、それへの一追加である。いうまでもなく、このような本来的独占価格による超過利潤は、  流通利潤である。しかし、それはもはや資本家相互のだましあいや狡智にかかる一時的偶然的な超過利潤ではなく、体制的機構的な超       @       ・  過利潤である。 独占利潤の源泉について 一九

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     独占利潤の源泉について      二〇  おもうに独占価格の実現する超過利潤が、過剰生産にもとつく滞賀の−価値廃棄分をふくめたi本来の価値に対応 する流通貨幣量のうちから支払われるのならば、それはやはり他人の利潤や労賃から支払われるということになりはしな いか。けだし商品の廃棄された価値部分は、結局、その商晶の生産に従事する資本家の利潤か、労働者の労賃か、もしく はその両方にくいこんで、これを減少せしめずにはおかないであろうからである。したがって﹁本来の独占価格﹂を﹁通 常の意昧での独占﹂価格から区別すべき理由はない。教授自身も﹁本来の独占価格﹂のになう超過利潤を流通利潤にほか ならないと見ている。もっとも教授は、この流通利潤はもはや﹁資本家相互のだましあいや狡智にかかる一時的偶然的﹂ なものではなくて、 ﹁体制的機構的﹂なものだとしている。独占利潤を一時的偶然的なものとしてでなく恒久的体制的な ⋮ものとして理論づけようとする着眼そのものは、非凡といわなければならない。しかし完全独占を前提しないかぎり、流 通利潤は恒久的ではありえないであろう。不完全独占のもとで独占利潤が恒久的でありうるためには、それは単なる流通 利潤にとどまることを止めねばならぬ。かくして、独占を単に価格論の問題と考え、価値論の段階から  いいかえると 生産過程の考察から一はじめてこれを問題にしなおすことのないかぎり、独占理論の前進は期待できないであろう。な        ヘ  へ るぼど教授においても、過剰生産が独占の欠くことのできない要因と考えられている。しかし、それはまだ流通主義的な ヘ  ヘ  へ 貨幣的経済理論の立場においてでしかない。このような考え方からは、せいぜい]部分、独占の成立は説明できても、そ れの発展は説明できないであろう。というわけで、当面の論点にかんするかぎり、平瀬教授のマルクス解釈も私にはけっ         して生産的であるようには思われない。  以上、マルクスの概念にとらわれて、彼の精神を生かすことを怠っているかぎり、理論の進歩は期待できない所以を明 かにしてきたのであるが、最後に、念のためにつけくわえておくと、だからといって私は、現代の独占を考える場合に、 マルクスの概、念が全然やくだたないなどというのではない。ぐりかえし述べてきたごとく、私は、現代資本主義を特徴づ

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ける不完全独占のもとでの独占的超過利潤の基幹部分は、当該独占体の生産する特別烈無価値によって説明さるべきであ ると思う。しかし、その丁合にも、独占的超過利潤のす.べてがこのような特別剰余価値によって説明さるべきものではな い。そのなかには、すくなくとも一区分、さきに参照した章句のなかでマルクスが述べているごとく、︸労賃からの控除や 他の資本家の利潤からの移譲などによって説明さるべき部分がふくまれているはずである軌その点、私は、たとえば最近 ミークが、つぎのごとくいっているのに異論をさしはさむものではない。    ﹁人為的ないし自然的独占﹂がマルクスの時代におけるよりもはるかに広汎かつ強力となっており、かの独占力の・所有がますます利        る  も   へ  潤維持および拡大の﹁経済外的﹂方法とよんでよいであろうものの使用と結びつきつつある世界においては、利潤の唯一の源泉が資本家  によって雇用される労働者の剰余労働であると考えることは、もはや私には合理的であるようには思われない。たとえば、いまでは、  若干の独占資本家によって受けとられる趨過利潤の一部分が、本来的に、重商主義時代を特徴づける旧﹁譲渡利潤﹂に似たものと見な         さるべき、多くの場合がある。  現代の独占がはたしてマルクスの考えたような入為的ないし自然的独占の拡大強化として捉えられうるものかどうかと いう点にまつわる疑問をくりかえさないことにすれば、私はこの議論の大筋についてはあえて異論をさしはさむものでは ない。しかし同時に私は、準じ著者がつぎの事実に注目しているのに多大の興味をおぼえるものである。   独占は競争の終焉を意味するものではなく、ときとして︵たとえば価格戦争中は︶競争の強化を意還しさえする。そして現実の競争  が軽微であるときでさえ、潜在的な競争の恐怖は、多くの場合、独占者をして、その価格を、﹁正常﹂もしくは﹁平均﹂利潤率よりも       ⑱  はるかに多くを彼に与えることのない水準に維持させるであろう。  ミークがまだ注目するにいたっていないのは、現代における独占と競争との関係にしてこういうものだとすれば、その 競争は利潤の源泉についても独占体をして、単に経済外的方法に依拠していることを、いな主としてこれに依拠している ことをさえ、不可能ならしめるであろう、という事実である。くどいようであるが、独占体相互間の激烈な競争を残して      独占利潤の源泉について       一二

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     独占利潤の源泉について       二瀬        ヘ  ヘ  へ 不完全独占として特徴づけられうる現代的独占の取得する超過利潤のすべてを、完全独占の場合に可能であるような流通 過程的ないし経済外的な搾取によってのみ説明するのは、誤りである。そういう部分がけっしてないわけではないが、基 幹的な部分はそれ自身の生産過程をもつのでなければならない。そして現代資本主義の基本的矛盾が暴露されうるのは、 そこからである。 ⑫ マルクス﹃資本論﹄第三巻 第四十六章、青木文庫版㈱  一〇七七頁。 働同 第五十章、訳⑬=﹁=ニー四頁。 ⑭ 国忌電象凝18.葺こω。P。。①.訳 一〇一頁。 駒 国帥罵霞幽ぼ璽一瓢9り02■障。。①。訳 一〇一i二頁。男自●の宕霧Nざ目ぎ日冨。著。隔O騨覧雷房=︺Φぐ殴書巨①昌昌お轟9薯.鵯OI奨ド ⑯ マルクス﹃資本論﹄第三巻 第四十五章、訳⑬ 一〇七七頁。 ⑳同 第一巻第二十三章第二節、第二十四章第七節。 働 ω署Φ。奨●oワ臥け二琶■PNM−障Nω. ⑲ マルクス﹃資本論﹄第三巻 第十章、および第四十五章、訳㈲ 二九五頁および⑱ 一〇六八頁。 ⑩ 平瀬己之吉﹃経済学における古典と近代﹄⋮九五〇年、三七九−四〇〇頁。 ⑳ マルクス﹃資本論﹄第三巻 第四十穴章、訳⑬ 一〇九二頁。 ⑫ 平瀬、上掲 四〇一、四〇三、四〇四頁。       ・ ⑬ 平瀬教授の見解について、私はもう一点、独占理論の体系的位置にかんするそれについて疑問をもつ。教授においては、マルクス  の﹃資本論﹄は独占の理論をいれうる構造を本質的にもたないと考えられているようである︵上掲三〇〇頁および三九〇頁以下︶。  いま、その詳細を検討している余裕がないし、またその場所でもないが、ご言だけ私見をさしはさんでカくと、 ﹃資本論﹄は独占の  理論をふくむような体系にまで発展ないし拡充されうるであろうし、またされなければならないであろう。 ﹃資本論﹄とは別個独立  に独占の理論を構成するというのは、、レユムペータi的であって、マルクス的ではない。 ⑭戸P冨①。FoD貯臼Φ。・ぎ窪①巨蓼。霞日冨。曙。旧く巴ま=89琶・P。。UIM。。9 ⑮H竃Pサ団。。①・ 噛

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