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現代芸術の意味 : K.ハリーズの哲学的解釈に関する一考察

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(1)現代芸術の意味 一K.ハリーズの哲学的解釈に関する一考察一. 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科領域教育専攻 芸術系コース. M92703B 村松元子.

(2) 目次. はじめに. 1. 第1章 ギリシア哲学. 13. 第2章 キリスト教的世界観から近代へ. 28. 第3章 近代から現代へ. 36. 第4章 現代思想と芸術. 55. 第5章 現代芸術. 75. むすび. 85. 註. 90.

(3) はじめに (1) 私の記憶にある最初の絵は、マチスの赤い金魚鉢のある窓辺の 景色、ピカソの「アブサンを飲む女」、シャガールの女と牛の横 顔が描かれた青い絵の三枚である。 マチスとピカソは絵葉・書を持っていて、これを繰り返し見てい. たから覚えているのであろう。人だらけの非常に混みあった展覧 会場で、これらの絵を見たような記憶もおぼろげに蘇る。幼い私 は人々の間をするりと抜けて、真ん前でそれらの絵に向かい合っ て立っていたのではなかったか。殊にピカソの絵は、丸いテーブ ルに載ったグラスを前に、ほおづえをついた女の異様に骨張った やせた肩、引っつめた髪、ぼんやりとした眼差し、固く結ばれた 口元といったものが、今でもはっきりと思い出せる。それらは、. 越せたような赤い色調とあいまって、幼い私に、まだ知るべくも ない人生の悲哀とでも言うようなものを、語りかけてくるようで あった。. シャガールの絵は、いつも薄暗い寝室に張られていたポスター である。夢見るような大きな瞳の女と牛であった。二者は同じよ うな優しげな目をしていたような気がする。しかし幼い私にとっ ては、薄暗い中で青緑色の夜空にフワリと浮かぶ白い横顔は、少 しばかり恐いものであった。. マチスの絵には、大人になってから再び出会った。数年前ヨー ロッパへ行った際に、パリのポンピドウセンターで、思いがけず. 1.

(4) この絵と再会したのである。この絵を見た途端、私は幼い頃に一 度見たことをまざまざと思い出した。ところでその旅は、ミケラ ンジェロのシスティナ礼拝堂の天井画を初め、現地に行かなけれ ば見られない壁画を見ることを望んで企てた旅でもあった。しか しイタリアで、天井や壁を一面に埋める壁画、綿密に描きこまれ 一部のすきもないようなおびただしい数の宗教画に出会った後、. パリで、印象派以降の絵画に接したとき、実にほっとしたのを覚 えている。息をつくことができる感じと言おうか…。例えば決し て明るい内容の絵でなくとも、力強く奔放な筆触、明るい自由な 色彩は、軽やかで心を明るくさせるように感じた。この経験から、. なるほど私にとっての芸術の原体験は、20世紀前半の絵画なの だと気づいたことである。言わば最も馴染み深いものであり、無 意識のうちに私が芸術に関して考えるときの基盤となっているよ うである。. この三枚の絵との出会いが、私の芸術体験の始まりである。そ. の後、私はこのような20世紀前半の芸術と同時にそれ以前の芸 術も、体験していった。つまり様々な時代の芸術を同時進行的に 体験していったのである。クレーもミロも、シュールレアリスム も印象派も、複製でしか出会えなかったレオナルド・ダ・ヴィン チもミケランジェロもデューラーも、私にとってはほとんど並列 に現われてきた。. しかし、だからといって、芸術に対するイメージは、混乱しな かった。私の芸術に対するイメージは、これらの体験の中で、育 まれていった。これらの芸術は、見る私の情動を揺り動かすもの であった。人間とは何か、問いかけたり、提示するもののように 思われた。個々の作家の人間観、真実と思われるものが語られて. 2.

(5) いるようであり、芸術とは、作家の内面の表現、考えや感情の表 現なのだと思った。そして作品は、一つの小宇宙のように思われ た。それは、この世界の中にありながら、ひとつの独自な完成し た世界を形成している。しかも、現実の世界のそのままの再現で はなく、現実の世界では拡散している真実を、抽出して描いてみ せる。そのようなものに思われた。. ところが、全く無機的でまるでのっぺらぼうのような作品が、. 一方にあることに気づいたのは、いっごろのことだ5たろうか。 それはドナルド・ジャッドのような「ミニマル・アート」や「コ ンセプチュアル・アート」に出会ったときである。これらの作品 の前で、私は何の情動も揺り動かされない。私の視線は何を見れ ばいいのか解らずさまよい出す。興味は持続しない。もし作品が 小宇宙であると言う考えがそれほど的外れでないとして、これら の作品の宇宙には全く入り込めないのであった。. また、ハプニングやパフォーマンスといったものは、ただ無意 味なことに真剣に取りくんでいる愚行のように映るのだった。そ の行為が大仰であればあるほど、また大まじめであればあるほど、 狂気の沙汰のように思われた。人が「あの人は芸術家だから…」. と言うときには往々にして奇行をする人、の意味を含むことがあ る。芸術家とは、深遠を知る人、崇高な人、という意味と同時に、. そのようなふりをしているだけの変人とか奇人をも意味する言葉 になってしまったのではないだろうか。. しかしながら、よく考えてみると、芸術家が深遠を知る人、崇 高な人であると言う定義づけがなされたときに同時に、芸術家が 奇人であると言う考えも出てきたに違いない。つまり、一般の人 間には解らない超俗の境地に達している、ということである。. 3.

(6) 超俗としての芸術家のイメージは、そもそも何に由来するのか。. それは、後述するように古のギリシア人たちの詩人のイメージで ある。西欧においては、詩が諸芸術の根源と言われる。そして詩 人のイメージが、造形芸術家に適用されて定着したのは、せいぜ. いここ200年ほどの間のことである。 通常の人間には覗き見ることのできない深淵を垣間見る人は、. 一般の人からは狂気の人に見えるものだと言うことはプラトンに よって述べられる。 (ただし後で見るように、プラトンが、深淵. を垣間見る人として想定する中に造形芸術家は含まれていない。). 彼は、『パイドロス』において「ものの名前を制定した古人たち. もまた、狂気(マニア mania)というものを、恥ずべきものと も、非難すべきものとも、考えてはいなかった…いな、彼らは、. 狂気が神から授けられて生じるとき、これを立派なものと認めた …」、(『パイドロス』244C)と述べる。それは古人が、当時最. 高に立派な技術とされた未来の事柄を判断する技術に、このマニ アーと言う言葉を織り込んで「マンテイアmanteia」 (予言術= 狂気の術)と名づけたことからわかるのである。 「我々の身に起. こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは狂気を通 じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かっ て与えられる狂気でなければならないけれども」 (『パイドロス』. 244A)。予言者や詩人は神に懸かれた狂気の状態、我を忘れ た慌惚状態(ecstasy)の中で、神の言葉を語った。予言者は 「…その心の狂ったときにこそ、…数多くの立派なことをなし. とげたのであった。……神に慧かれたときの予言の力を用いて多 くの事柄を予言し、まさに来たらんとする運命のために正しい道 を人々に教えてやった」 (『パイドロス』244B)のである。そし. 4.

(7) て詩人は、 「ムゥサの神々から授けられる神がかりと狂気」 (rパイドロス』245A)によって、神々の事蹟を物語った。 「こ. の狂気は、柔らかく汚れなき魂をとらえては、これをよびさまし 熱狂せしめ、心情のうたをはじめ、その他の詩の中にその激情を 詠ましめる。そしてそれによって、数えきれぬ古人のいさおを言 葉でかざり、後の世の人々の心の糧たらしめるのである」 (『パ. イドロス』245A)。詩人の語る過去における神々のありさま、英 雄の行ないは、彼らギリシャ人の祖先たちの行ないであり、その 記憶である。つまり、壮大な民族の叙事詩は祖先たちの行ないの 記録なのである。詩人は、彼がいなければ到底開かれることのな かった世界を開き、後世の人々に、自分たちの民族の始まりを記 憶に留まらしめた。 「もしひとが、技巧だけで立派な詩人になれ. るものと信じて、ムゥサの神々の授ける狂気にあずかることなし に、詩作の門に至るならば、その人は、自分が不完全な詩人に終 わるばかりでなく、正気のなせる彼の詩も、狂気の人々の詩の前 には、光を失って消え去ってしまうのだ」 (rパイドロス』 24. 5A)。謡うのにも技術は必要である。しかしいかに技術を弄して もそれだけでは何かがたりない。スピリットに欠けた詩しかつく. れない。凡庸なものを非凡にするのは、ムゥサの神々musesに 与えられる霊感、インスピレーションなのである。 「神から授け. られた狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なもの」. (rパイドロス』244D)なのである。そして神々の声を聞くこと ができる者は、神々によって選ばれるのである。. このようにプラトンは、詩人について述べる。しかし一方プラ トンは「詩人は実在realityから二段階へだてられている」(17). と言う。この世界の可変的なものは、実在一「真の意味において. 5.

(8) あるところの存在」 (『パイドロス』247C)一の不完全な模倣で ある。この可変的世界のものを写す詩人や芸術家は、 「模倣の模 倣者」 (17)にすぎないと言うのだ。プラトンが詩人を弁護する. のは、ただ詩人が神に葱依されて物語るという一点においてのみ である。詩人が自分自身ではなくなって、 「神と人間の中間者」. (17)になった時、人間の知らない世界を物語るがゆえである。. 造形芸術について、プラトンは、それは模倣の模倣であり、ま がいものであると決めつける。それらは、人々を実在に近づける よりも、むしろ無数の真実らしいもの、メタファーを造りだして 人々を惑わすとして否定的である。. しかし、プラトンの思想は、別の芸術観を生み出す可能性を持っ ていた。プラトンは、人間の魂は、この世に堕ちて肉体と結びつ く以前、真実在を観てきていると言う。かって観ているがゆえに、. この世のものを手がかりにして、真実在を想起することができる のだ。しかしながら、真実在を想起することは容易なことではな く、かの世界で観た記憶をじゅうぶん持っている少数の魂にしか なしえないことなのである。この可変的な世界のもののうちに宿 る美を見て、真実の「美」を想起することができるのは、このよ うな魂の持ち主なのである。ハリーズの考えでは次のようである。. 「プラトン自身rイオン』の中で示唆しているように思われるの だが、芸術家は、他の人間よりイデアの近くに住んでいて、この ため神々と人間の中間者としてふるまう力を持っているというこ とが可能ではないだろうか?芸術家とは、感覚的なものの中に現 われるイデアの存在を他の人間以上にはっきりと感知し、そして この自覚を、それ自体神性の光に照らし出されている芸術作品の 中に転移させる者ではないだろうか?」(18)。芸術家は自然を. 6.

(9) 単に写すのではなく、自然が由来する高次の美一真実在の美へ遡 り、表わすことに努めるのである。. だが、ギリシャ時代には、造形芸術は詩や音楽のように高く評 価されない。造形芸術は、ミューズ的なものとは見なされない。. それは、造形芸術がムゥサの神々musesの恩寵によることのな い非ミューズ的芸術であるからであろう。musesは人間を狂気. maniaに導く。だが、造形芸術にはそのようなmaniacなとこ ろがない。そもそも手や技術を使うことは、金儲けのための仕事 として価値を高くおかれなかったのである。. 創造creatioという概念は、ギリシャ時代にはなく、せいぜ いそこにあったのは、制作poiesisであった。 creatioとは、 元来キリスト教の神の創造一無から有を創り出す一を指す。無か らは何もつくりだしえない人間が行なう技は、すべて再創造re−. creation、もしくは作り換えtransformationでしかありえな い。創造と造形芸術が結びつき、造形芸術の価値が高まったのは、. 19世紀前半からである。それは、芸術内部の事情からではなく、 いわば外的要因につき動かされてのことであった。産業革命を契 機にして、造形芸術が、人間にとって独特の価値があるという考 えが出てきたのである。それまで造形芸術は、実利に関わるもの であるがゆえに高い価値をおかれなかった手仕事的な技として、. 他の手工的生産と同様に考えられていた。しかし、産業革命によっ て実際的日常的要求に関わる技術を、機械が肩代わりをするよう になる。すると、実利的に何のためにもならないようなものとし ての技術、造形活動が、機械的に同じようなものが作られるとい うのではない活動としてとりのこされ、かえって評価されること. になったのである。19世紀にかけて、神々に呼びかけられたも. 7.

(10) のとしての詩人のイメージが、造形芸術家にも敷術される。そし て一般に、 芸術家は、神に選ばれたもの、神の愛せしものamad. eusとなるのである。孤高の天才、天才と狂人は紙一重という芸 術家像が熱心に捏造され、超俗としての芸術家のイメージが定着 した。ここには、プラトンが、自身意図しなかったにも拘わらず 彼の思想から読み取られた詩人のイメージが、色濃く反映してい るのである。 芸術は、芸術自体で価値があり、芸術的真理を持 つという考えは、芸術が、政治的、宗教的、道徳的などの社会的. 要請から自由になり、芸術のための芸術として自律してきた19 世紀半ばからのものなのである。. 今日、我々が芸術に関して常識のように考えていることは、1 9世紀半ば以降の考え方にしかすぎない。そして、私自身の芸術. に対するイメージも、この200年ほどの間に少しずつ確立され てきた芸術観に基づいたものなのであった。. (2) 私にとって現代芸術とは、よく解からない芸術、私の芸術のイ メージからはみだした芸術のことであった。見るものの共感や感 情移入を拒否しているような、沈黙の作品、狂気に近く見える行. 為…。つまり、20世紀前半の絵画を最初の芸術体験として持つ. 私にとって、第2次大戦以降、殊に1960年忌以降のさまざま なムーヴメントが、いわゆる現代芸術という言葉の指し示すもの に思われた。. 本来、いっからの芸術を現代芸術と呼ぶのかは、はっきりとし ない。印象派以降とする論も、ダダ以降とする論もある。字義通 りに言えば、現代芸術という言葉は、現代に生み出される芸術を. 8.

(11) すべて指すことになるのだが、一般にはその中のある種の傾向、. いわゆる先鋭的なものを指す言葉として使われているように思わ. れる。小論で取り上げるK,ハリーズの著書においては、20世 紀初頭からの芸術、主に第一次大戦以降、即ちダダ以降のものを 現代芸術として取り扱っているようである。. 処で感情移入的な芸術観を持つ私が、大学時代専攻したのは日 本画であった。私が日本画を専攻した動機は、対象に即して描く ことでその本質へ、根源へ立ち帰るというところに魅かれたから であったろう。洋画においてなされる対象の剥奪や、無対象には. なじめなかった。当時の洋画は、19世紀後半の芸術を破壊し、 否定しつくすことに意義を見出しているかのようであり、それに ついていけなかったのである。大学内においても、当時居られた. 洋画の教授が、60年代の前衛美術の波の中で制作を展開してき た方達だったためか、新奇さのない制作は、意味を認められない かのような雰囲気があった。しかし私には、絵画表現に私自身が 託したいこと、それは素直に対象を描く中にこそ現われてくるよ うに思われた。そしてそれを日本画において試みようとしたので あった。私が絵画表現に託そうとしたものは、私自身が日々感じ るところの漠とした不安感、寄るべのなさ、そういったものであっ. た。それらは日常何らかの行為に没頭しているとき、或いは取り 紛れているとき、気がつかないのだが、しんとしていると微かに 聞こえだす音のように現われ、やがて私を包みこむ。それは、生 きることの基調音として常になり続けていて、静けさの中で、た だ、その姿を顕にするもののように私には感じられるのであった。. そしてこのような不安感、寄るべのなさは、私個人の主観的な情. 9.

(12) 緒であると同時に、後に見るような人間の存在そのものに関わる 不安であり、時代の人間に通じるものであることに今、気づくの であった。. 大学内の日本画と洋画のアトリエでは、全く異なった制作風景 が展開されていた。洋画において試みられていたことは、次に記 すような現代の西洋における芸術、絵画の潮流を反映したもので あった。破壊や否定による新奇さや面自さの追求。絵画はイリュー ジョンではなくイメージそのものであるという主張。外界の再現 描写を追放し、絵画という区切られた空間の中に世界を凝縮して 描くのではなく、絵画というものを世界の中に位置づけようとす る。その結果、それまでの絵画にあった中心、画面に描かれてい る世界の中心、要を捨て表面性に徹する方向に向かう。そして、. 反復、繰り返しによる構造や、ただ一色による画面も生まれてき た。絵画は、三次元を二次元に移し変えたものでなく表面そのも のであり、神聖なものではなく現実である。造形的な美しさより もコンセプトに重きがおかれる作品群。それらは、現代における 現実の開示を試みたもののようであった。. 芸術は、時代を反映する。それは作家が、常にその時代、時代 の真実と思われるものを、誠実に追求しているからであろう。そ れなのに、なぜ同じ現代にあって、こんなにも違う表現形式が併 存しうるのであろうか。. 次第に私は、現代美術界において、洋画の一見甚だしい多方面 の活動に比べて、日本画が、特殊な温床にあるのではないか、日 本画という枠の中で安住しているのではないか、という疑いを持 つようになった。批判的行為が現代美術においては多かれ少なか れ盛り込まれ、意味を訴えかけるのに対し、日本画は感情移入的. 10.

(13) で思考停止をさせるのではないか…と、自分自身の制作に対して も懐疑的になってしまうのだった。何を描けばいいのか、何のた めに描くのか、全く解からなくなってしまった。私の感じる不安 感や寄るべのなさなど、自己の内面の私的な感情、些細なことで、. そのようなものを表現することに何の意味もないように思われる のであった。. 今にしてみれば、個の問題も突き詰めれば普遍に通じるのでは ないか、ということを思う。人間が、それぞれに抱える思考や感 情、気分と言ったものは、ひどく個人的なことのようであって、 実は、歴史的な、その時代の抜き差しならない影響を受けている。. 各々の人間が、それを自覚していようが、いまいが。故に、私的 な問題や感情と思っているものも、実は、多くの同時代人に共有 されているものなのかもしれない。個の問題を真剣に見つめ続け れば、そこには、時代の人間に共通する問題が見えるのではなか ろうか。しかもそれは時代を超えて人間に共通な問題でさえある かもしれない。. また、日本画がゆるやかな変動しかしないことに関しては、そ の背後にある精神的な支えが東洋的なものであり、西洋的な流れ に与する洋画とは、同時代同地域にありながら必然的に異なって いるのだと思う。どちらが正しく、また誤りであるということで はなく、ただ異なっているということを認識し、両者存続の理由、 必然性があると思うのみである。. しかし、当時の私は、そのようなことには気づかなかった。そ して、いわゆる現代芸術と呼ばれるあの作品群が、何か意味深げ なこと、現代における真実なるものを語っているのに、私にはそ の語りかける言葉が解からないのだと思った。同時代の芸術の語. 11.

(14) る言葉が解からないというのは、どういうことだろう。. そもそもそれらの言葉を解読したいと思って、幾冊かの書物を 読むうちに出逢ったのが、カースチン・ハリーズの著書、「現代 芸術への思索一哲学的解釈一」である。ハリーズがこの著書で述 べることがすべて理解できたとは、到底言えない。しかし、それ にも拘らず私は、初めてこの本を読んだとき、強い衝撃を受けた。. だが、驚き、動揺すると同時に、共鳴もするのであった。何か大 切なことがわかりかけたような気がした。彼は繰り返し、人間と 世界、人間の生の意味について語り、現代芸術の意味を解釈する。 彼の現代芸術の未来に対する期待は、「純粋客観的な直感により、. あるがままの世界を受容する。諸物を現に存在するまことの姿と. して、つまりrealityとして、開示することをめざ」(277)す ような芸術の発展方向に向けられているようである。そしてそれ は、 「世界が我々に語りかける」のを「聴きとる」ことによって. 可能となる、と言うのだ。この、彼の述べる最終的な結論は、さっ ぱりわからなかった。彼の言葉はあまりにも魔術的に思われた。. 結局私は、彼の述べていることのほとんどは、理解できないまま にあった。何かが解りかけたようで解からないままに終わってい ると言う気持ちが消えなかった。しかもそのことは知るに充分値 することに思われた。この気がかりは消えず、今回当大学院へ来 たことを機会に、もういちど考えるために読み直してみたのであ る。彼の著書は、芸術の哲学的言説であると同時に、西洋哲学の 膨大な歴史を書いているものであることに、当時私は気づいてい なかったのである。. 12.

(15) 第1章. ギリシア哲学 (1). ハリーズは、 「現代芸術の出現をプラトン的・キリスト教的人 間観の崩壊作用の一つとして見る」(11)ことができることを主張. する。 r西欧におけるプラトン的・キリスト教的人間観の崩壊と. は、つまり神なき世界の出現であり、伝統的諸価値の無価値化と してのニヒリズムの到来にほかならない」 (276)と要約される。. そもそもハリーズのこの著書は、彼の学位論文 In a Strange Land;an exploration of nihilism,『見知らぬ土地で一ニヒ. リズムの探険』の一章を展開させたものだそうだ。彼は本著書の. まず第一部「歴史的序論」において、ヨーロッパの芸術史の流れ がプラトン的・キリスト教的人間観とその変貌によって深く規定 されている諸局面を照らし出しつつ、その崩壊作用の一つとして 現代芸術出現の必然性を明るみに出していく。そして、第二部 「主観性の美学」において現代芸術の哲学的解釈を展開する。ハ リーズは、現代芸術の「多様な動向は、根本的にはニヒリズムと. の対決の諸梱であり、人間存在の不条理に対処する生の根本的な 〈意味〉の探究」 (276)と解釈する。. 初めてハリーズの著書を読んだとき、私が強い衝撃を受けたの は、それまで無自覚に信じてきた人間性一人間を人間たらしめる ものとして私はそれを「精神」に見出していたのだが一を肯定す る考え方を、まるで覆すかのように揺さぶられたからであった。. 13.

(16) 「精神」とは、人間独自の内的な活動であり、人間の生を意味あ. るもの、価値あるものに向かわせる所以のものである。そしてそ れは、 「精神」を思索する哲学者の考え方に従って、心とか魂と. 呼ばれたり、理性や悟性と呼ばれたりする。自分の生を意味ある ものにすること、よき生を目指すことが、人間にとって最も価値 あることと考えられてきたから、精神は「善」を志向するものと 考えられてきた。. ところがハリーズはその著書の中で、 「精神とは欲望の最高の あらわれ」にすぎず、 「精神こそが苦しみをあらわにし、かくし. て、それを措定する」q76)のではなかろうか、と言う考えを表 明する。精神によって人間は、価値ある生、意味ある生、そして 幸福へ導かれる、と思い精神を肯定していた私の素朴な考えは、 ハリーズの著書を読み進むうちにぐらぐらと揺り動かされた。. しかし、動揺すると同時に、上述のような精神に対する疑義を 生み出す基盤となった人間観、 「人間は、まさにその本性によっ て欠乏している」(175)という考えに共感を覚えるのでもあった。. そもそもまったく共鳴できぬものに衝撃を受けるはずもないだろ う。私自身のうちに、このような考え方に同調できる下地が全然 なかったとは言いきれない。ともあれ、西欧におけるこのような 人間観、即ち「よき生への意志」と「人間は本性によって欠乏し ている」という、一見、相矛盾するような考え方は、プラトン以 来今日に至るまで、連綿と西欧思想の根底に存在しているような のである。. 小論では、まずヨーロッパにおける人間観の変遷を、ギリシア にまで遡ってたどっていきたい。ハリーズは、 「現代芸術の出現. をプラトン的・キリスト教的人間観の崩壊作用の一つとして見る」. 14.

(17) (ll)のであるから、彼の現代芸術の解釈を理解する上で、この西. 欧の伝統的人間観を知ることは必須である。と同時に、ギリシア 時代から現代に至るまで、人間観の深宮に変わらずに流れている ものがある一:方、変貌を遂げたり、崩壊したものはいったい何な. のか、を明らかにしなければならない。そうすることによって初 めて、ハリーズの現代芸術の解釈の理解も可能となるのである。. 結論を先どって言うならば、プラトン的キリスト教的人間観が 告知し、現代の人間観に至るまで問題であり続けるのは、 「人間. の不完全性」である。人間の不完全性が常に問題である。不完全 性を克服しようと、人間は様々な理想像を作り上げてきた。崩壊 したのは、プラトンやキリスト教において見出されていた、模倣 されるべき理想像、普遍的超越者、絶対性への信仰、である。人 間が、その不完全性を自覚し、高度に自己一意識的になるにつれ、. 人間を超越する絶対者は見えなくなっていった。見えなくなるど は他でもない。見たものをそのままに信じられないということで ある。理想像が、偶像と化してしまう。. (2) 今日我々が、日常何気なく使用する言葉も、その起源をたどる ことによって、その言葉が内面に具えている意味を知ることがで きる。故にここで、先程私が無自覚に使っていた人間性という言 葉を反省してみる。今日用いる人間性、humanityという言葉は、. 元来ローマ人の用いたhumanitasというラテン語からからきて いる。 humanitasはhumanus (homo,人間)に由来する。 humanitasの意味は、’‘humanly,after the manner ef men”. である。ローマ人は、〈人間〉について考えたとき、人間の作っ. 15.

(18) た様々な制度constitutioにしたがって生きることが、人間ら しい生き方だと考えたのである。この「人間を人間たらしめるも の」として、人為的につくり出された制度的なもの、道徳、法律、 宗教、風俗、習慣、などをmores, iexと言う。 moresは moral.. の語源であり、1exはlawの語源である。ローマにおいて理想 とされる人間らしい生とは、moresや’lexを尊重して生きるこ となのであった。mores や1exという言葉は、ギリシア時代に、 nomosという語で理解されていたことがらに近い。 ギリシア時代に遡ると、人間性という言葉はまだ存在しない。 ソクラテス以前のいわゆる自然学者たちが熱心に研究したのは、. 自然physisであった。そして人間についてもまた、人間に自然 に備わっているいっさいのものを許容し、あるがままの人間を自. 然physisとして尊重した。 physis対nomosは自然対人為の意 味であり、ギリシャ時代においては永らく、physisのほうが上 位概念であった。physisという概念を、今日、その元の意味で 理解することは難しい。という、のも私たちはphysisをそのラ. テン語訳であるnaturaと全く同i義というふうに理解しているか らである。physisは生成消滅するものの全体のことで、人間自 身も含み、人間にはどうしょうもなく、人間の介入を許さない。. だから、 physisを全体として理解することはできない。だが. physisこそギリシア人にとって、自存するもの、真にあるもの だったのである。それに対しnomosは人間が作り出したもの、 反自然的であるという理由によって、否定的消極的にとらえられ. る一面もあった。nomosのほうが、人間にとってより大事である と考え始めるのは、大分時代を下ってからであり、その考えを思 想にまで纒めたのが、プテトンやアリストテレスである。彼らは、. 16.

(19) ポリスに住むものが人間であるとして、多勢の人間が共に生きて いく、つまり共同体を形成して生きていくことと、自然に即して 自然のままに生きる生き方とは相容れないと考える。アリストテ レスの有名な言葉に「人間は生まれつきポリス的動物である」と.. あるが、これはつまり人間は本性的にポリスに住むものであるこ. と、言い換えると人間のphysisからして、人間はノモス的生 き物だと言うのである。nomosに従って生きることが人間として より善く生きる生、人間らしい生だとする考え方は、ローマ時代 にも受け継がれていったのである。. 以上のことから、今日の人間性という言葉の由来は二重の意味 を持っていたことが解かる。それは、あらゆる人間的なもの、人. 間に自然に備わっているいっさいのもの(physis・本性)を意 味すると同時に、また人間を人間たらしめるもの(nomos・制度) をも指し示す。. 私が人間性という言葉で考えていたのは、後者の意味に近い。. 人間が社会的動物である以上、人間はそれぞれが己の自然の欲求 にのみ従って生きるのではなく、人間の本来の姿に相応しく人間 が作り出した決めごと、即ち nomosに従って生きざるをえない。 nomosをつくりだすのは人間の精神、理性である。 しかしその「人間を人間たらしめるもの」といった概念自体、 虚言で、人間性といったものが何に対して主張されるかによって、. 歴史的にその内容も定まったり、変化したりするのである。そし て時代の進みにつれて、人間を人間たらしめるもの、人間の理想 として措定されてきたものが片寄りすぎて、現に存在する人間と その欲求するところのものに合致しなくなってくると、かっての 理想を反省し見直す必要が生じる。理想に一つの対抗一理想が措. 17.

(20) 定され、等閑に付されていたものが、新たに注目され、対抗一理 想が理想にとって代わることもありうる。. このように言葉の意味を確かめていくと、人間を人間たらしめ るものという意味での人間性という言葉が指し示すものは、結局 人間に自然に備わっているあらゆるものを挙げることとなり、人 間性という言葉の二重の意味も一つに重なっていくように思われ る。 「人間性を尊重し、これを束縛し抑圧するものからの解放を. 目ざす思想」であるヒューマニズムについて、事典が次のように 説明する所以である。「人間が高貴:な意味における人間になりう. る道を探求するためには、人間が現実においてなんであるかの具 体的な知識の裏づけがなくてはならない。つまりありのままの人 間、自然における人間を許容し、尊重し、むしろ誇りとさえする 態度がヒューマニズムに不可欠のもう一つの要素なのである」 (『事典』l162)。. (3) こう考えてくるとハリーズの述べる「人間はまさにその本性に よって欠乏している」という言葉の意味は、あらゆる人間的なも の一或いはそれを、人間たらしめるもの、と言い換えても良いよ うに思われるが一のゆえに欠乏していると言うことらしい。だか らいっそう深刻である。. 人間は人間である限り全きものではない。人間は常に何かを欠 いていて、その欠けているものを欲する。欲するとは、彼と欲望 の対象との間に隔たりがあり、それを手に入れて自分を完全にし たいという本然的な傾向性の表れである。彼自身には欲望の対象 が欠けていると言うことなのであ.る。そもそも人間が欠乏した存. 18.

(21) 在であるという見解を、最初に明確に表現したのはプラトンであ る、とハリーズは指摘する。 「人間はまさにその本性によって欠. 乏している」と言う言葉の意味は、プラトンに従うなら、そもそ も人間は欲望を持つ存在なのだと言うことなのである。. 欲望はギリシャ語では、エピテユミアepithymiaであり、こ の言葉の成り立ちは、epi−thymosである。 epiは、…に向かっ. てという意味を持つ前置詞であり、thymosは心を意味する。つ まり心が…の方へ向く、と言うのが、欲望epithymiaのもとも との意味である。心thymosの向く:方向は、自分にないもの、欠 けているものへである。自分に欠けているものを欲求することを、. プラトンのエ仏心スErosを例に説明しよう。 プラトンは、エロース論をr饗宴』において展開する。r饗宴』 の副題は一心について一である。もともとエロースErosはギリ シア神話における愛の神であり、また普通名詞として「愛」を意 味した。しかしプラトンは、エロースを、神一不死なるもの一と 死すべきものである人間との中間にある偉大な神霊(ダイモーン). とみなす。もとよりエロースは人間ではないが、美しいもの、善 きものを欲する。エロースが欲求するものであるならば、エロー ス自身は当然その欲求の対象物、すなわち美しいもの、善きもの を欠いていることになる。プラトンによれば「神はすべて、美し く、幸福」(『饗宴』202C)であって、欠けるところのない者で ある。かくて常に欠乏しているエロースは、必然的に神ではない。 つまり中間的存在というわけである。. ところでエロースは、美しいもの、よきものに対する憧れであ り、プラトンの説くように知は最も美しいものの一つであるから、. エロースは知を愛するものである。そしてさらに、よきものが単. 19.

(22) に今自分のものになるだけでなく、永遠に自分のものであること を目指すのである。従ってその欲求が実現されるためには、必然 的に不死であることを前提にしなければならない。エロースは不 死を目指す。死すべきもの、人間の本性は、 「永遠に存在し、不. 死であることをできる限りにおいて求める」 (『饗宴』207D). ものなのである。そしてこの不死獲得の方法は、死すべきものに あっては、肉体的な、或いは精神的な妊娠と出産によってのみ可 能である。妊娠と出産は「死すべきものである生物(bうちに不死 なるものとして内在している」 (『饗宴』206D)のである。. 不死なるものを恋求めるエロースの欲求は、ちょうど階段を使っ て上に上っていくようなものだとプラトンは説明する。欲求の質 の段階で最も低次のものは、肉体的な生殖であり、これは人間以 外の動物にも共通するものである。ここで実現される不死とは、 個としての不死ではなく、子の出産による子孫の存続である。 「古くなり去り行くものが、かつての自分と同じような別の新し. いものを後に残していくという仕方」 (r饗宴』208B)である。 これはしかし、不死なるもの、神的なものが「全く同じものとし て永遠にある、という仕方」 (『饗宴』208B)とは異なるもの で、とうてい不死性を獲得したとは言えない。もう一度繰り返す と、エロースが窮極的に求める不死とは、神の不死性、つまり同 じものの常住不変性なのであって、似たものが次々生成消滅する といったような、いわば擬似的な不死性とは全く違うからである。. このような低次のエロースをふまえてその上には、広い意味 での精神界の妊娠出面と、精神的不死と美の世界が現われる。肉 体的な生殖で満足しきれない者は、精神的な妊娠と出産を求める。. 肉体的な妊娠と精神の妊娠とはおのずから次元が違う。もし魂が. 20.

(23) 身籠もり産むにふさわしいものを身籠もった者は、魂の子供を生 まねばならないだろう。魂の子供はもはや肉体を持たず、言葉に よって子供であることを明かすより仕方がない。ここで言葉とは、. 語の最も広い意味で理解しておかなければならない。なぜなら魂 が生むにふさわしいものは、プラトンによれば「知恵ともろもろ の徳」(『饗宴』209D)だからであり、それらのものはそれぞれ に椙卸しい仕方で表現されねばならない。精神的な妊娠によって、. 多くの偉業や人間的に価値あるあらゆるものが生み出される。こ こで強調しておきたいのは、肉体的な妊娠は他の生物と共通のこ とであるから、それではまだ特に「入間的に価値あるもの」が生 み出されはしない、ということである。そして「人間的に価値あ るもの」例えば、詩、技術、法律等々、また愛する者のために、 或いは愛してくれる者のために死をも辞さない行為、英雄的行為、. これらのものは人間的に価値あるゆえに、人間たちによって時聞 を超えて、繰り返し賞賛される。つまり魂が身籠もったものは、 不滅性をそなえているのである。. 不死への愛、この愛への道の正しい進み方とは、次々と新たな もののすばらしさや美しさに目が開かれて、階段を上っていくと いったようなものである。この愛への道は、始めは肉体的な関心 から出発するかもしれない。例えば、ある一人の人間の肉体の美 しさに魅かれることから出発するかもしれない。確かに美しい肉 体は、人を魅了する。だが次第に人間は、多くの肉体における美 しさが同質のものであることに気づき、人間の関心は個々の肉体 の美からすべての肉体の美へ、つまり普遍の相における肉体の美 へと移っていく。このように具体的な美を越えて普遍の椙へ進む、. それは、精神的なものの働きだろう。普遍をとらえることができ. 21.

(24) る。それはたとえて言えば、精神が普遍を身籠もったというわけ である。このように普遍の相を身籠もると、人間は、肉体のうち に実現されている美よりも魂のうちに実現されている美のほうを より貴重なものとみなすようになるだろう。そして人間的に価値 のある様々な事柄が、魂のうちにある美の多様な実現形態である ことを知る。つまり「人間の営みや掟に内在する美を眺めて、そ れらが互いに同類であること」(『饗宴』210B)を精神は知った からである。その時には、人間は一つの美しい肉体をすべてと信 じて恋焦がれていた自分を、愚かしく思うに違いない。しかし、 不死への愛、欲求への進みはここでもまだ止まらない。確かに、. 法律や技術などを魂のうちにある美と見なすようにはなったけれ ども、それではまだ、技術とは何か、あるいは法律とは何か、と いう純粋知的な水準にはとどいていない。というのも、今言う法 律は、アテネの法律であり、スパルタの法律であるし、技術は実 際に何かを実現するという具体的な手段としての技術でしかない からである。それらがいかにみごとであり美しくても、なおまだ 具体的なものの域はでない。だから、人間は更に進んで普遍とし ての法律や技術、もしくはイデアとしての法律、技術に進まねば ならない。そこへの欲求が、窮極的な知的欲求ということになる。. その欲求を目指す努力が、学問mathesisなのである。このよう に人間はイデア的なものを求めようとしている。イデアへの欲求、. それがエロースの窮極的な姿である。イデア的なものの例をプラ トンは美のイデアで説明する。美のイデアは次のように説明され る。. 「それはまず第一に、永遠に存在して生成も消滅もせず、増 大も減少もしないものです。次に、ある面では美しいが他の. 22.

(25) 面では醜いというものではなく、ある時には美しいが他のと きには醜いというのでも、ある関係では美しいが他の関係で は醜いというのでもなく、またある人々にとっては美しいが 他の人々にとっては醜いというように、ある所では美しいが 他の所では醜い、というものでもないのです。さらにまた、. その美は見る者に、何か顔のような恰好をして現われるもの でなく、また手や、そのほか身体に属するいかなる部分の形 をとって現われることもないでしょう。それに、何かある言 論や知識の形で現われることもなく、またどこかほかの何か のうちに、例えば動物とか大地とか天空とか、その他何もの かのうちにあるものとして現われることもないでしょう。か えってそれ自身、それ自身だけでそれ自身とともに、単一な 形椙を持つものとして永遠にあるのです。ところがそれ以外 の美しいものはすべて、いま述べたあの至上の美を次のよう なある仕方で分かち持っているのです。すなわち、これらほ かの美しいものが生成し消滅しても、かの美は決して大きく なったり小さくなったりせずいかなる影響も外から受けない という仕方です。」(『饗宴』 211AB) イデアとは、永遠に不変の存在である。美のイデアとは、 「ま. さに美であるところのもの」であり、それは現実の知覚像として そっくりそのまま現われることは決してない。我々の目に見える 個々の具体的なものは、常に変化し、消滅するものであるからだ。. しかし、この世の美しいものはすべて、このイデアを分け持って いるのであり、美のイデアが映し出されているもの、民謡なので ある。美のイデアは、我々が、ものを美しいと判別する時の判別 を成り立たせる原因、根拠である。美しいという判別の絶対的規. 23.

(26) 範・基準である。エロースはなぜ美のイデアに向かって上昇して いくのか。それは、視覚が我々の知覚の中で最もするどく、魂の 愛をよぶべきさまざまな徳性の中で、 「ひとり〈美〉のみが、最. も鮮明な知覚を通じて、最も鮮明に輝いている姿のままに、とら えること」ができ「最もつよく恋心をひく」 (『パイドロス』. 250E)からである。 イデアは、 「美」のみに限らず、我々が経験の中で認知するも ののすべてについてあるところのものである。 (例えば、「正義」 「節制」 「火」 「水」 「机」 「戦争」 「平和」等々)それらのイ. デアとイデアとの関係を統括し、それぞれの知覚像の根拠である イデアをさらに根拠づけているのが、 「善」のイデアである。. イデアという永遠不滅のものに接することで、死すべき存在で ある人間が、不死なるものの列に連なる。だが、プラトンは次の ように注意することも忘れてはいない。地上の諸々の具体的なも のとの接触から昇り始める不死への階段は、昇っていく道程の果. てに「突如として」(r饗宴』210E)究極的で絶対的永遠のイ デアに達すると言うのである。これは、きわめて神秘的な言い方 である。 「突如として」という言い力でプラトンは、地上の世界. とイデアの世界とが非連続であることを、従って後者が前者にお ける人間的努力では到達不可能なものであることを、示唆してい るのである。ここに至って「人間は本性によって欠乏している」. というハリーズの考えがプラトンに由来していたことが明らかに なる。. 繰り返すと、プラトンの考えでは、人間は恒常的なもの(魂) と、無常の物質(肉体)とからなる。人間は、存在、恒常性から、. 生成、変化へと転落した。それをプラトンは、魂が肉体の中に入っ. 24.

(27) たと説明する。肉体という無常性をおびた人間は、真の存在、つ まり恒常性から疎外されてしまった。従って人間は、恒常と無常 の中間にあり、人間それ自体恒常的なものと無常なものとの引っ 張りあいまたは緊張である。プラトンは、欠乏ということをその ような人間観から説明していく。プラトンは、永遠の実在として イデアを想起し、魂がかってそれを観ていたがゆえに想い起こせ ると言う。肉体を持つ人間に、イデアはもはや明瞭に見られなく. なったとは言え、それはなおも人聞に呼びかけて、満足の見出さ れない生成、絶えざる変化から恒常的なものへの脱出を求めさせ る、と言う。人間は、失ってしまった永遠、恒常性を目指して上 昇しようとする。それが、エロースという欲求なのである。そし て失った永遠を常に恋求めざるをえない人間は、その本性におい て欠乏しているということになる。. (4) 欲望とは、欠けたものを補って完全になろうとすることであっ た。しかし、プラトンの説くように人間に完全であることなど望 めるものではなかった。人間は、実現不可能なことを望む生き物、 本質的に満たされざる欲求として存在する欠乏せるものである。. この世のすべてのものは、無常であり、生成変化する。変化と は、時間(的経過)である。従って人間は時間的存在である。時 閻的存在である人間にとって、満足という状態は、人間の本質に 矛盾する。満足すると言うことは、満たされるということであり、. 従って、完全であるということである。完全なものは超時間的で ある。完全なものであるということと、変化とは矛盾対立する。 完全なものが変化する、それは不完全になることだからである。. 25.

(28) 人間にも束の間の満足ならば、何度でも体験できよう。いわば瞬 間的には、完全であることは可能かもしれない。しかし、その満 足は、すぐさま消えてしまう。ちょうど、満月がその翌日から欠 けだすように、温田にとって満ち足りた状態になることは、すな.. わち次の瞬間から欠けていくことなのである。束の聞の満足以上 のものを見出そうとする欲求は、彼の不完全性を自覚させること となる。欲求は、彼の不完全性の表れなのである。人間の窮鼠的 な満足への欲求は決して満たされることがない。自分が満たされ ない欲求であるということ、人間はおのれの不完全性の意識から 逃れることはできない。. 先に記したようにハリーズは、 「精神とは欲望の最高のあらわ. れ」と言う。それは、プラトンのエロースの段階で見たように、. 精神の欲求は、欲望の最高次の段階だということである。精神は 人間が何であるべきかを問い続け、あるべき姿を求める。そして この探求は、人間が人間である限り、今も変わらず人間の諸活動 の目標なのである。だが、欲求の実現が困難であり不可能である ことを人間は知り始める。人間はこの困難を苦しみとして意識す る。だが本質的に欠乏した存在である人間が、この苦しみを逃れ る術はない。 「精神こそが苦しみをあらわにし、かくして、それ (苦しみ)を措定するのではないだろうか?」 (176)とハリー. ズが述べる所以である。では、人間は、高次の欲求を持たなけれ ば幸せになれるのか?自堕落になることが、幸せへの道なのか? 人間が、精神的な生きものであるかぎりそんなことはありえまい。. プラトンの時代には確かに、精神(魂)は、頼むに足るもので あった。イデア的水準とはいえ絶対的な理想像が見出され、それ に向かう精神の努力は、それ自体人間的に価値あることだったか. 26.

(29) らである。上に見たように、精神(魂)はその本性である不死へ 戻ろうとする。それが、人間の持つ様々な欲求となって表われて きた。このような精神(魂)の欲求の全体を、人間精神の活動と いうふうに総括することができた。精神(魂)こそ頼むに足るも のという確信は、キリスト教世界においても変わることはなかっ た。イデアを求めることが、それ自体よきこと、価値あることで あったのと同様に、絶対者である神に帰依するということは、そ れ自体で幸福な生き方だったからである。. しかし次章に述べるように、近代以降次第に絶対的なものがな くなり、全てが椙対的なものになっていく中で、精神の存在が、. 矛盾をきたすようになるのである。価値ある生、意味ある生に向 かわせようとする精神の働きは、その欲求において、精神が、自 己矛盾に陥ることを、自分自身で気づいていくのである。. 27.

(30) 第2章 キリスト教的世界観から近代へ (1) かつてヨーロッパでは、プラトン的キリスト教的人間観のもと に、人間の理想像が形づくられてきた。その像を人間は、神的な ものと表象した。その理想像は、人間にとって模倣するに値する ものであった。プラトンから中世までは模倣するべき理想像が見 出されていたのである。プラトンの世界観においては、存在する ものはすべて、何らかの形において、理想像を模倣すると考えら れる。存在するものとしての人間も決して例外ではない。アリス トテレスの言うように「人間は生まれつき模倣を好む」のであり、. 人間は総て、真似るに値するものを真似ることによって成長する のである。我々が認識できる世界は、「それ自体として存在する 世界」の写し、永遠に不変の、神的なものの似像なのである。 そしてキリスト教的世界観には、 「存在(いっさいのものに通. ずる最普遍者、超越者)はただあらゆるものにおいてさまざま内 実として類比的に開示される」 (『事典』24)という「存在の類 比」ana109ia entiS の思想が前提にある。 ana109ia entiSの. 思想は、 「アリストテレスの存在論に発し、トマス・アクィナス. において存在自体esse ipsum (すなわち神)の指示的把握の根 本方法とされた」 (『事典』24)。最も普遍的な超越者を頂点と. して、存在するものがすべて、超越者の普遍性を分有する程度に. 応じて階層秩序hierarchieをなす。かくて存在するものはすべ. 28.

(31) て連続する。キリスト教世界においては、 「最高の、純粋に叡智 的な存在領域」 (29)は神であり、人間は神に準じるものとして. の位置を占め、神と「神的なものをほとんど分有していないが故 に無にも等しい最低のもの」 (29)との間には隔たりがあるもの の「架橋できない裂目や深淵は存在しない」 (29)。神と人間は. 連続し、類比的関係にあるのだから、神が何であるかを考えるに は、人間に具わる神性から類推していけば良い。神という普遍を 人聞という個別から推論することができる。それは、神と人間の 神性の差が量的な差と考えられることによって可能であった。. 処がこの「存在の類比」の思想は、キリスト教神学の展開の中 で、放棄されねばならなくなる。キリスト教の神は絶対的なもの であり、比較を超えたものであるからだ。神と存在物の間には、 絶対的な種差がある。無限なものは{有限なものに約分できない。. 存在するものと神との間に絶対的な種差が存在するかぎり、この 世界の感覚的なもので、神を表わすことはできない。有限なもの の名称でしかない「被造的言語」によって無限な神のための名称 をいかにして見出しうるのか。有限なものにつながれている感覚 的イメージ、可視的なものの仲介を通して、神を表わしうるのか。. 人間と神の間には、「架橋できない裂け目」が存在する、という 考えも生まれる。. しかし、人間が全く神性を分有していないのならば、神につい て考えることも神の啓示を受けとることもできはしまい。神のこ とを考えられるのは、人間が神性を分有しているからにほかなら ない。アナロギアを否定する人々は、このことを、神の愛によっ て説明する。神は人間を神性を持ったものとして創った。人間が そういう存在として無から創られたのは、神の愛である。神は、. 29.

(32) 自らの創造した万有に、惜しみなく愛を与えている。最も完全な 神の与える愛に、差別などありようはずもない。然るにひとりひ とりの人間の差は、それぞれの信仰の差の問題であり、各人の神 性の差は、量的なものではなく質的なものなのである。人間は、. それまで自分がどれだけ神に近いかと考えるために神のほうへ向 けていた目を、そのような存在として創られた自分自身に向け始 める。人間は、自分の中の神性について考え始めるのである。 「神は世界のかなたにではなく、人間の内部に求められねばなら. ない。人間は…もっと直接的に、彼自身の存在の根底をなすもの として、神に出会う」(30)。 「存在の類比」の思想への懐疑とと. もに中世的な世界観が崩壊する。. 実は、このような思考へ人間を導く所以のものも、プラトン的 キリスト教的人間観は、内包していた。二つの人間観は、 「人間. の現状を、真の存在から引き離されているような状態と解釈する 点で一致する」 (20)のである。人間は「原初の状態」から「転. 落」してしまった。転落を、「現世への転落」と説明するプラト ンと、 「転落を現世における出来事」(21)一すなわち、アダム. の罪が、楽園を改変させて現世が出現した一と解釈するキリスト 教の違いはあるにせよ…。真の存在、原初の状態から転落した人 間は「おのれの不完全性の意識から逃れることができない」(16). のである。そもそも人間がそのようなものであると、プラトン的 キリスト教的人間観は告知していたのである。つまり人間は不完 全であることを教えていたのであるが、不完全性の自覚が深まる のが近代なのである。. 30.

(33) (2) デカルトの合理主義(思考する者の絶対性の主張)や遠近法 perspective (見る者の視点を中心に空間を統一しようとする企 て)などは、人間の不完全さを克服する試みとして、出てくる。. 思考する者の絶対性や見る者の視点の強調は、考える者、見る者 を中心に世界を変容させる(再構成する)ということであり「世 界が何よりも人間にとっての世界であるという自覚の一つの表現 である」(91)。これがハリーズの言う「第一の主観主義」の始ま りである。. デカルト的合理主義は、規則的で理解しうる人間世界をつくり 出し、世界をこのようなものとして見ることのできる人間は、か ってなかったほどくつろぐことができた。その時代は未だ「理性 を確信することが、人間を最も神に近づけるものを確i信ずること」. (4Dであった。神は理性そのものであり、人間の理性は、神に よって人間にあたえられた神性ともいうべきものだからである。 「有限で不完全なやり方で、人間の(神によって分かち与えられ. たものである理性による)思想は、神の思想に従う。人間の認識 は、神の認識のうちにその尺度を持っている」(41)認識が真理で. あるためには、つまり神の認識のイメージ、普遍であるためには 明晰、判明 clearly and distinctly でなければならない。明. 晰さと正確さに至るためには、具体的な認識経験にまつわる諸々 の特殊性、個別性を可能なかぎり除去しなくてはならない。. デカルト的な第一の主観主義における人間の位置は、神によっ て創られた世界の真中、つまり、中心に人間がいる、というもの であった。当時、世界のすべては神によって創られたもの、被造 物の連関と認識されていた。神の偉大さを証明するために被造物. 31.

(34) の連関を確かめようとした、ごく一部の特殊な才能を持った人間、. 天才たちが輩出した。彼らは、知的関心のおもむくままに被造物. の世界、即ち自然naturaを探求する。しかし彼らの探求は図ら ずも、神の言葉である聖書の記述と矛盾する事実を発見すること になり、何度確かめてもその事実に変わりがないことに驚くので. ある。すでに16世紀、コペルニクスが地動説を提唱していた (彼の著書は教会との摩擦を避けて死の直前に刊行された)が、. 17世紀においてケプラー、ガリレオ・ガリレイ、三ユートン、 といった人々によって、惑星の運動に関する法則や、落体の法則、. 慣性の法則、万有引力の法則などを発見、経験的事実の数量的分 析の科学方法が確立され、神学的宇宙論とは別の機械的宇宙論、 力学的宇宙論が構i築された。この宇宙論の見る宇宙は、聖書の説 く宇宙とは相反するものであった。. 神の言葉が絶対でないという事実の認識は、それまでの人間の 考え方、神の理性を絶対的なものとして目指そうとする考え方を 徐々に崩壊させる。人間の理性と神の理性は、別の次元のものと して分けて考えねばならない。神は信仰の対象であり、それと人 間の知的活動との次元を一緒にすることが迷信を生じさせるもと ではないのか、という考えが生まれる。 「世界を客観的・科学的. に見据えるという意味でのく知性的客観性〉」と、自己が世界の 中で目的や価値を選択する、 「自由意志によって善を選ぶという. 意味でのく意志的主体性〉との二元論、この二画面間の緊張を引 き受けると言う態度(デカルト主義)」 (『ギリシア』43)が、. 近代以降、人間のものの考え力の根幹をなすことになるのである。. だがしかし二元的なものは、やがて対立するものとなって、人間 の精神を脅かすことになるのだが、それはもっと後のことである。. 32・.

(35) この新しい宇宙論、即ち聖書によらない宇宙論の根底には「世 界の基礎には物質(物)があって、その物質一あるいは物質の構 成要素一が瞬間瞬間にさまざまの配置を形づくりながら全空間を 通じて拡がっているということ、このことを、世界・自然におけ る窮極的な事実とみなして前提するところの世界観」 (rギリシ ア』34)がある。彼らの築いた近代自然科学の基盤は、 「世界の. 物質的な窮極要素の時間・空間内における運動を数式によって線 描的に記述する作業」 (rギリシア』34)を基本的な方法とする。 自然科学的、もしくは人間の知性的関心が自然を見直すことに よって、神はもはや絶対者ではなくなる。コペルニクスやケプラー ガリレイ、ニュートンといった人たち自身は、自分たちの仕事が 世界の「調和」や「神の栄光」を示すことにあるという思想を持っ ていたにもかかわらず、その結果、、神の言葉が絶対でないという. ことを露呈させてしまったのである。自然科学の基本理念は、つ. いに18世紀以降になると「そうした神の支えを振り切って、そ れだけで純粋培養されるようになる」 (『ギリシア』34)、つま. り、神学的なバックアップを必要としなくなるのである。 彼らは、現象を普遍的に捉える為に、対象とするものの、時間・. 空間内における運動を、きわめて抽象的、純粋形式的な物理法則 の数式によって示すのである。その際、 「時間・空間の中のここ. にあるという陳述が、時間・空間のほかの領域との本質的な連関 なしにも(それ自体として)十分に確定した意味を持つことがで きる」 (『ギリシア』35)ように、対象を局限し、時空を超越し. た観察を行なうのである。時空を超越するものは、神である。 「あらゆる特殊性を止揚した普遍椙で運動を把捉」 (r世界』4). するために、彼らは「理想的観察者として運動の系の外にいる。. 33.

(36) ちょうど被造物全体としての世界を遥か下に脾睨して神が世界の 外にいるように」 (r世界』4)。個々の事象の特殊性、 「時空. 的証雑物を一切排除して、超時空的本質だけを捉える」為には必 然的に人間が「神の目で運動を観察する必要があった」(『世界』 4)のである。. 人間は、 「理想的観察者」として、 「世界を眺望できる地平に」. (r世界』4)立つ。人間は、世界のうちに含まれるものであり ながら、 「世界について考える主観としては、…人間は、或る意. 味で、世界を超えている。…そのような存在として人間は世界を 超越している」 (91)人間は「人間が世界の尺度として世界を超 越する」 (89)ことを意識する。. 裏返すとそれは、人間の理性が神と同等の位置を占めるように なる、ということでもある。人間の理性が神の位置に並ぶ。それ は、世界のすべてのものを人聞が意味づけたものと.して考えて良. い、ということである。言い換えると世界の諸事物を対象として 認識するということは、それらが人間によって意味づけられなけ れば、さしあたり何の意味もないもの、いわばニュートラルなも のと化す、ということである。かつて被造物(神に創られたもの). として無前提的に意味を認められていたものが、いまやその意味 を剥奪されニュートラルなものとなった。つまり世界はその実体 性を失い、 「世界は単なる現象 appearance の世界として現わ れる」 (89)。或いは世界はそれ自体では意味の無い、 「単なる 諸事実の集積に還元される」 (98)。. そのような無規定なものを意味あるものにするのは、人間の超 越論的な主観である。だが、そのことからひずみが生じる。人間 が神ならぬ身でありながら純粋な認識主観として神の地位に自分. 34.

(37) を置こうとすること、それは同時に、世界を対象一般に変質させ る。世界は、その地位を低下させられる。即ち「諸対象は主観の うちにその根拠を持っている」 (97)からであり、その限りで対. 象としての世界は主観に従属することになるからである。. 「より自己満足的で楽天的な時代」が続いた後やがて、「デカ ルト的楽天主義は、より激しい主観主義、第二の勢力にのし上がっ た主観主義に道を譲った。第一の主観主義は人間を世界の中心に するが、第二の主観主義は、入間が世界の尺度として世界を超越 することを認知させる」(89)のである。. 人間が神にとって代わって、神のように振舞いだした結果、人 間はもはや人間としての足場を持っていない、謂わば宙ぶらりん となる。. 35.

(38) 第3章 近代から現代へ (1) 第一の主観主義は、人間はどこにいるのかという場所、位置の 自覚であった。人間は世界の中にしか存在しえないが、その世界 の中心にいるのであった。. 第二の主観主義は、人間は世界の中に存在しつつ、しかも世界 について考える主観としては世界を超える、世界の外に出るとい う資格を得た超越論的主観を定立する。超越論的主観はやがて、. まさにポジティブな意味で「人間こそが万物の尺度なのだ」とい う権利の自覚になる。人間が自己自身に目覚めていった結果、超 越論的主観はヘーゲルのもとで、世界の尺度としての「絶対精神」. に包括される。人間が世界の中心にいて、しかも世界の全てを統 べるものとなりうるなら、人間はもはや神を必要とはしなくなる だろう。. デカルトに姶まる近代的主観主義、合理主義的思惟は、自然科. 学の発達ともあいまって18世紀のヨーロッパを風靡した啓蒙主 義の思想に継承せられていく。 (ただし小論では自然科学につい. ては論じない。)啓蒙enlightment、文字通り光によって暗闇 を照らすのであるが、闇一未知なるもの一を照明する力はもはや 神の光一威光一である必要はなく、人間の理性の光である。人間 は己自身の理性の光によって全てを隈無く照らしだして「見る」 ことを欲する。 r見る」ことと「知る」ことは、西欧において、. 36.

(39) ほぼ同義である。しかしそのことはまた、 「知性的認識」と「道 徳的実践」との緊張関係、 「知と信」の問題を提出することにな る。. 小論ではデカルト主義を継承した二元の対立とその統一の思想. 史の一例を18世紀中頃から19世紀初頭の「ドイツ観念論」で 跡付ける。近世の初頭以降、哲学の思想は、問題の取り上げ方、. 追求の仕方、更に解答を見出してゆく方向などにおいて、各国民 国家ごとに多様な様椙を呈し始めるのだが、ここに「ドイツ観念 論」を取り上げる理由は次のような事情である。小論はハリーズ の現代芸術への哲学的解釈を敷出しており、ハリーズは現代芸術 の出現をニヒリズムとの関連から述べる。ニヒリズムは、また、. 単に一国家の思想や政治的状況というに留まらず、20世紀の二 度の大戦からこのかた、全西欧を覆っている根本的な精神的状況 といっても過言ではない。ニヒリズムの直接の産みの親は近代的 主観主義であるが、ニーチェによれば、プラトン以来の西欧形而 上学の思想の歴史、或いは思想の運動そのものがニヒリズムへの 必然的な道程だったのである。哲学の歴史において、西欧形而上 学はプラトンに始まり、ヘーゲルのもとで完成する。ニーチェは、 ヘーゲルによって神は死んだと言うのである。そこで本章では、. ヘーゲルに至るまでのドイツ観念論一ドイツ観念論には、神的絶 対者への関心が常に働き続けている一にニヒリズムに陥らざるを 得ない思惟の経緯を見ることにする。. デカルトの没後、半世紀余り後に生まれたカントは、理論と実 践(知性と意志)の対立を学説の表面に出し、知と信をひとまず 分離すると同時により高次の次元での和解を試みる。彼の三つの. 37.

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