学位論文
中国裁判制度 における再審 についての研究
―秦代か ら宋代までを中心に 一
兵庫教育大学大学院
学校教育研究科
教育内容・方法開発専攻
認識形成系教育 コース
社会系教育分野
M15146J
米 田成希
目次
は じめに・・・・
0・ 0・・・・・・・・・・・・
0・・・・・・・
1研究の背景・先行研 究・・・・
00・
・・・
0・・・・
00・
・・
1研究 目的・研 究意義・研 究方法・
100・
...・
・・・
002
第
1章
秦漢代の訴訟制度における再審・・・・・・・・
00・
・
03
第
1節
秦代の再審制度・・・・・・・・・・
0・00・
・・・
03
第
2節
『 漢書』「刑法志」及び漢簡か らみる漢代の再審制度・
006
第
2章
第
1節
第
2節
第
3章
第
1節
第
2節
魏晋南北朝期の訴訟制度における再審・・・・・・・・・
011
『 晉書』「刑法志」からみる晉代の再審制度・・・・・・
11『魏書』「刑罰志」からみる北魏の再審制度・・・ 00・
14
隋唐代の訴訟制度における再審・・・・・・・
0・・ 。・・
『隋書』「刑法志」からみる隋代の再審制度・・・・・・
『奮唐書』「刑法志」及び『新唐書』「刑法志」からみる
唐代の再審制度・・・・ 00・
0000・
・・・・・
00
2 2 2 228
第
4章
宋代の訴訟制度における再審
00・
・・・・・
0000・
037
第
1節
前代までに設 けられた再審制度の宋代における運用・ … 37
第
2節
宋代 に設 け られた再審制度・・・・・・
0000・
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46
幸
3た)りに
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参考 文献は じめに 研 究の背景 0先行研 究 日本における中国法制史に関す る研究者 には、仁井 田陸氏や滋賀秀三氏な どが挙げ られ る。仁井 田氏の研究には『 中國法制史』皓 波全書,1952年)がある。 そこでは中国における 古代か ら現代にかけての刑法(裁判制度・ 訴訟制度)及び民法(土地法・家族法な ど)の成立 と 発展について論 じられている。仁井 田(195'では、裁判制度に関する項 目の中で、民法 と刑 法 とい う二体系の中で裁判が行われていた ことや裁判所の組織系統、また民事に限つては 訴訟の受理 される期間な ど詳細な部分にまで 目が向けられている。訴訟制度においては、裁 判系統における「上告制」について見解を述べ られている。 しか し、仁井田氏の研究は主に 「民法」に重きを置いてお り、再審制度に関 しては触れ られていない。 滋賀秀三氏の研究には、同氏編著『 中国法制史 ―基本資料の研究』錬 京大学出版会,1998
0や
『 中国法制史論集 ―法典 と刑罰』僣」文社,2003年)な どがある。滋賀氏はそれ ら編著書 の中で、各時代における主要な法典や木簡や竹簡資料などを分析・考察 している。通史的か つ網羅的に中国の法制について述べ られているが、再審制度 については特に言及 されてい ない。 裁判制度・訴訟制度に限定 した研究には、石 田肇氏や長井千秋氏、籾山明氏な どが挙げ ら れ る。 石 田肇氏の研究「北宋の登聞鼓院 と登聞検院」(『中嶋敏先生古稀記念論集 上巻』,汲古書 院,1980年)では、「登聞鼓」と呼ばれる士庶 を問わず皇帝に対 して直訴をす る際に用いる太 鼓が門外に設 けられた制度に関 して、北宋時代を対象に「登聞鼓」の制に関わる登聞鼓院・ 登聞槍院の制度についてその変遷 を考察 された。「登聞鼓」の制に関 しては後述するが、こ の制度 も再審制度に大きく関わるものであるため先行研究 として挙げた。 この研究におい ては、登聞鼓院・ 登聞検院それぞれの管轄案件の違い・案件に対す る官吏の対応彼 書処理 な ど)や、両機関の連携について、その他関係す る諸制度の変遷 といつた登聞鼓院・ 登聞検 院に関 して詳細に考察が行われているが、北宋時代 を対象 としてお り、その前後の時代に関 しては特に言及 されていない。 長井千秋氏の研究 「宋代路の再審制度 ―翻異・別勘を中心に ―」(『前近代中国の刑罰』 京都大学人文科学研究所,1996年
)では、宋代に設けられた再審請求する際に行われ る 「翻 異」とい う行為 とその再審請求に対応す る裁判過程の中での「別勘」とい う過程について、 宮崎市定氏、徐道郊氏 といつた先人の研究に若干の補訂 を行つている。北宋期 と南宋期に区 別 し、先人の研究で述べ られてきたことを、『 宋會要輯稿』や『 続資治通鑑長編』などの史 料 を基に考察 されている。しか し、この研究においても時代を宋代に限定 してお り、その前 後の時代に関 しては特に言及 されていない。籾 山明氏の研究『 中国古代訴訟制度の研究』鯨 都大学学術出版社,2006`り では、睡虎地 秦墓竹簡の「法律問答」や張家山漢簡の「二年律令」な どを史料 として当時の訴訟制度にお ける手続 きや訴訟の一連の流れについて見解 を述べ、再審制度 に関す る用語の解説な どを 行 つている。しか し、再審制度 自体にはあま り言及 されず、時代 も秦漢代に限定 されている。 裁判制度に関連す る先行研究は、時代が限定 されてお り再審制度の通史的な変遷は述べ られてはいない。つま りこれまでには通史的・専門的な再審制度の研究は行われていなかっ た と考えている。 研究 目的 0研究意義 0研究方法 本研究の 目的は、中国の裁判制度における再審制度を通史的 0専門的に研究を行い、再審 制度 の特徴 と変遷 を明 らかにす ることである。 前述 したよ うに現在 日本においての再審制度についての通史的な研究は専門的に行われ ていないため、本研究では、秦代か ら宋代に至るまでの再審制度の基礎的概要を明 らかに し たい と考えている。再審制度に関連する文献・史料 を網羅的に収集 し、日本語に訳す ととも に解読を行ない、各案件資料の記述内容を分析 し、再審制度の特徴 0変遷 を明 らかに してい きたい。 その中で主 として内田智雄氏の『 詳註中國歴代刑法志』 “ J文社,1964年)及び『 詳誰績 中 國歴代刑法志』愴J文社,1971年)、 梅原郁氏の『 訳注 中国近世刑法志 上』輸1文社,2002年) 及び『 訳注 中国近世刑法志 下』伯J文社,2003年
)を
用いる。 内田智雄氏は同著 (1960(1971)の 中で、正史『 漢書』か ら『 新唐書』までの刑法志の項 目 に限定に して翻訳 してお り、梅原(200'(2009で
は、宋代以降の刑法志における記載に関 し て翻訳が行われている。これ らの翻訳資料を用い、正史の刑法志か らみた中国の通史的な再 審制度の発展 とその変遷を見て、補足的にその他資料を用いるとい う形で研究を試みる。 また、各代の裁判過程については詳細な研究が少ないため、詳細に判明 している宋代以外 の秦朝か ら唐代までの裁判過程については、日中民族科学研究所が編纂 した『 中国歴代職官 辞典』内の 「中国歴朝官制の概要」1を参考 とした。第
1章
秦漢代の裁判制度における再審 第1節 秦代の再審制度 本節では冒頭に本論文上における「再審」の定義を明示 した うえで、秦代の再審制度に関 して各種資料か ら分析・考察を試みる。 本来一般的に「再審」は、裁判において確定 した判決に対 して行われ る再度の審判のこと を指す。 日本では民事訴訟法の第四編2、 刑事訴訟法の第四編3で規定 している。 簡単な項 目を大まかに示す と、以下の表①のよ うにまとめることができる。 日本の刑 事訴訟法では、再審請求は結審後か ら認 め られ てい るが、本論文においては「再 審請 求」を、広 く各裁 判過程 の判決後 に行 われ る再度の審判 を要求す る行為 とい う意味 とし て取 り扱 い、その要求に対 して行われた さらな る審判 を 「再審」 として取 り扱 う。1975年
末か ら1976年
初 にか けて中国湖北省雲夢県西郊 で発見 された秦代の12個
の墓 の うち、一 ヶ所か ら発見 された竹簡 を睡虎 地竹簡 とい う。睡虎 地秦簡は、「編年記」。「秦律 十人種」な ど10種
に項 目分類 されている。その中で刑事案件や裁判案件が、主に記載 され てい るのは 「法律答間」、「封診式」である。 「法律答間」の中に以下のよ うな記載がある。 以乞鞠及鶯人乞鞠者,獄已断乃聴,且未断猶聴也。獄断乃之聴。4 表① 民事 訴訟 法 刑 事訴訟法 再審請求可能者 ・ 当事者①検察官
②有罪の言い渡しを行けた者
③②の法定代理人及び保佐人
④②の配偶者、直系の親族など
(②が死亡
0心神喪失状態の場合
) 再審請求期間 結審後∼5年
以内 結審後∼期限な し 再審 請 求 手続 き 及 び 再審 を行 う機 関 0各審級にお ける訴訟手続 きの 規定を準用。 ・再審の訴えは不服 申 し立てに 係 る判決 を した裁判所の管轄 に 専属。 。再審の請求は、原判決をした裁判 所が これを管轄。 再審請求の事由 民事訴訟法 第338条
を参照。 刑 事訴訟法 第435条
を参照。以て、鞠を乞い、また人のために鞠を乞 う者 は、断ぜ られた職 判が結審 した)後に受 理 を行 うのか。結審せず とも受理す るのか。結審 した後に受理 を行 う。 ここには 「鞠」(罪をきわめ治める)を求める場合は、裁判が結審 した後に受理す るとい う ことが記載 されている。 この部分に関 して籾山明氏は、籾 山(20005に おいて秦漢代の刑事 手続 きの復元す る中で言及 している。復元を行 う中で、籾山明氏は秦漢代の刑事手続 きの過 程は、①告訴 0告②逮捕 0勾 留・訊問③県・郷への照会④差押え⑤裁判 0再審 とい う
5つ
で あるとし、再審の項 目については 「乞鞠」をキーワー ド・根拠 として論 じている。 そ こでは、 「乞鞠(鞠を乞 う)」 とは文字通 り「鞠(罪状認0」 のや りなお しを「乞 う」こと、つま り は再審請求の謂である。6 と、定義 されている。 「乞鞠」の解釈には籾山氏のほかに、張晋藩氏も『 中国法制通史』帳 律出版社,1999年) の中で、 若 当事人不服,可以要求重申,秦律称力乞鞠。7 もし当事人が不服であるとき(判決に)、 重ねて審議す ることを要求でき、秦律では「乞 鞠」 と称 した。 と述べている。 睡虎地秦簡「法律答問」の記載及び前述 した両者の解釈か ら、紀元前の秦代において再審 の制度は、すでに裁判制度内に組み込まれてお り、結審 された判決が納得のいかないもので あつた場合、再審議を請求できる方法が設けられていたことが判明す る。 また、この 「乞鞠」とい う語は、前漢代に編集 され、周代の理想的な制度を記 した とされ る『 周礎』にも一部記載が見られる。 後漢のころに注琉 が加 えられた『 周證注疏』3には、以下のよ うに記 されている。 凡士之治有期 日。國中一旬。郊二旬。野三旬。都二月。邦國春。期内之治聴。期外不 聴。註口鄭司農云謂在期内者聴期外者不聴若今時徒論決満二月不得乞鞠。疏 口凡士之治 有期 日者即上郷士遂士之等獄訟成末於外朝職聴遠近節之皆有一旬二旬期 日期内聴期外 不聴者所以省煩息訟也。9士御 識人)の裁判 とい うものには期 日が存在す る。國中は 10日 。郊は20日。野は30 日。都では
3か
月。邦國は1年
(lヶ月)。 期限内であれば聴 き、期限外であれば聴かな かった。 註が言 うに、鄭司農が云 うには、期限内であれば聴 き、期限外であれば聴かなかった。 もし今 この時(後漢のころ)に無益の論が決 して しまった としても 3カ明 経 つて しまえ ば鞠を乞 うことはできない。疏が言 うに、士(知識人)の裁判 とい うものには期 日が存在 す る。郷士や遂士な どの獄訟 を司るものは朝廷外の職であ り、期 日が各行政区画の都か らの距離 (遠近)に
よって変化す るためそれに適応 した。すべてに10日や20日 など の期 日があ り、期 国内には聴 き、期 日外には聴かなかったのは煩雑 を省いて訴訟を終わ らせ るためであった。 訳 :筆者 ここには、「乞鞠(=再
審請求)」 の受理期間の設定について書かれている。 当時の裁判 は、訴訟が長引 くと裁判が煩雑になって しま うため、各行政区間と都 との距離に応 じて期 日 が設 けられてお り、その期 日に従 つて獄訟を担当す る役人が裁判を行つていた。再審請求に 関 して も請求できる期間は、裁判が結審 した後三か月以内のものでないと受理 されなかっ た ことが記載 されている。また、期 日などの細かいシステムが設けられていることか ら再審 制度は当時の段階ですでに機能 していた と考えられ る。 ここで『 周濃』の周王朝の理想的な制度を書き表 した とい う性質を考慮す ると、この制度 が実際紀元前の当時に行われていたか どうかは定かではない。しか し、再審制度の概念や、 再審制度 自体が紀元前の周代の訴訟制度の中で理想的なもの とされていた と考えることは 可能であろ う。睡虎地秦簡にも、具体的な再審案件は存在 しないが、秦律の記載及び『 周證』 の記載か ら、再審制度の成立は現段階では秦代、もしくはそれ以前であると考えられる。 5第
2節
『 漢書』「刑法志」及び漢簡か らみ る漢代の再審制度 本節では、漢代における再審制度について、『 漢書』「刑法志」及び漢簡に記載 されている 案件 を基に分析・考察 を行 う。 『 漢書』「刑法志」には、再審に関する記載 として以下のものがある。 今漢道至盛、歴世三百餘載、考 自昭宣元成哀平、六世之間、断獄殊死、率歳千餘 日而 一人耐罪上至右止、三倍有餘、(一中略■)今郡國被刑而死者、歳以萬数、天下獄二千餘 所、其冤死者多、少相覆獄、不減一人、此和氣所以未治者也。原獄刑所以蕃若此者、濃 教不立、刑法不明、民多貧窮、豪傑務私、姦不輛得、獄朴不平之所到也。10 いま漢の政道は極めて盛んで、世を経ること二百余年である。昭帝や宣帝か ら元 帝・成帝 。哀帝・ 平帝までの六代の間のことを考えてみるに、裁判の結果、殊死 とな つたものは、お うむね 。年に、人 口千余人につ き ‐人の割合で、耐罪以上、斬右止ま での刑 になるものは、その三倍あま りであつた。(一中略―)今、天下の郡国で刑 を う けて死ぬ ものは、毎年、幾万とい う数 に上 り、天下の獄は二千有余 ヵ所 もある。その うち無実の罪で死ぬ者が多いが、裁判のや りなお しをす る二_とJま少なく、その数が一 人 も減 らなか つた。天地にあまね く和気 がい きわた らないのは、 この よ うなことのた めである。刑罰が こんなに多いわけをたずねてみ るのに、それは礼教が確立 してお ら ず 、刑罰法律 が明 らかでな く、民が多 くは貧窮 で、勢力家は勝手気 ままな行いを し、 悪 事 を した者 を必ず捕 まえるとい うことにはな つてお らず、裁判が公正を欠 いてい る ところに、その原 因があるのである。 訳 :内 田智雄(1960pp.49‐50 当時 の社会 において、人 日のO.1%の人間11が殊 死(死刑)にな る犯罪 を起 こ し、耐罪(回復 可能 な肉刑)から斬右趾佑 足首の切断刑)までに該 当す る罪 を犯 した者 は、その三倍 もの件 数 が起 きてい るこ とが明 らか となつた。 そ うした世相の中で、裁判は如何 に行 われ ていた のか と言えば、下線部 にあるよ うに、多 くの人間が刑死 して行 く中で、冤罪が発生 してい るに もかかわ らず再審 を行 うことは少なかつた とある。「乞鞠」が実際 どの よ うに して行 われ ていたのかは、本 資料 では確認す ることができないが、「冤罪 で死刑 に処 された者 が 一人 も減 らなかつた」 とい う記述か ら、再審制度が うま く機能 していなかった ことが推測 され る。 で は、漢律において 「乞鞠」は どの よ うに規定 されているのだろ うか。1983年
か ら1984年
にか けて長江 中流域 の湖北省江陵張家 山で発見 された張家 山漢簡の 「二年律令」には、「乞鞠」について詳細な規定が記 されている。罪人獄已決、自以罪不当欲乞鞠者、許之。乞鞠不審、加罪一等、其欲復乞鞠、当刑者、 刑乃聴之。死罪不得 自乞鞠、其父 。母 。兄 。姉・弟・妻 。子欲為乞鞠、許之。其不審、 鯨為城旦春。年未盈十歳為乞鞠、勿聴。獄已決盈一歳、不得乞鞠。乞鞠者各辞在所県道。 県道官令・長・丞謹聴、書其乞鞠、上獄属所二千石官、二千石官令都吏覆之。都吏所覆 治、廷及郡各移芳近郡、御史・ 丞相所覆治移廷。12 罪人が、判決を受けた時点で、自ら罪の評価が不当であると考えて鞠 を乞わん とした 場合は、これ を許す。乞鞠の内容が不審であれば、罪一等を加 えるが、なお も鞠 を乞わ ん とすれば、刑罰 に相 当している者は、刑 を執行 した後にこれを受理す る。死刑 を犯 し た者は自ら鞠 を乞 うことはできないが、其の父・母 。兄 。姉・弟・妻 ,子 が代わ りに鞠 を乞わん とすれば、これを許す。もし不審であれば、鯨 して城旦春 と為す。年齢が十歳 に満たない者が他人のために鞠を乞 うても受理 しない。獄が決せ られて一年経過 した ら、駒を乞 うことはできない。鞠を乞 う者は各々居住地の県 。道に申し出る。県道の官 の令 。長・丞は謹んでこれを受理 して、絢を乞 う内容を書き記 し、獄案を所轄の二千石 官に上呈 し、二千石官は都吏にこれ を再審理 させ る。都吏の再審理 した結果は、廷及び 郡が各々近傍の郡 に文書を送 り、御史 0丞 相の覆治 した結果は廷に文書を送れ。 秦代における、「乞鞠」の条件は 「結審 された案件のみに限る」のであ り、その再審請求 期間は二か月 とされていた。漢律において も、「結審 された案件」 とい う項 日に変更は見 ら れないが、再審請求できる期間が一年にまで延長 された とい う変化が見 られる。 新たな条件 としては、再審請求内容に怪 しい点がある場合、罪が上がるとい うペナルテ ィ が課せ られる`点や、死刑 の場合は当事者以外の家人が再審請求す ることが許可 されたが、再 審請求内容に怪 しい点がある場合には、請求者がペナルティを負 うとい う点がある。また、 刑罰の重軽によつて請求母体が変わることも判明す る。これは王朝側か ら捉 えれば、再審を 行 うには多 くの人員を割 き、時間も有するため、確実性のある請求のみ を取 り上げるための 規定であることが推測 され る。しか し、民衆側か ら捉えれば、不審であった場合に課せ られ るペナルティが鯨刑伏 れ動 や城旦刑 (労役刑
)な
どであることか ら、条理的な請求は可能 であるが、不条理なものは避けるとい う意識が働いていたのではないだろ うか。 秦代における資料では具体的な「乞鞠」の方法については明 らかにな らなかつたが、ここ には官吏の対応 も含めて簡潔ではあるが記載が見 られた。「乞鞠」の受理か ら、案件 を回 し、 再審理を行い、審査結果が廷尉にまで送 られ る過程 をみ ると、制度 として整えられた形 とな つていることが分かる。 張家山漢簡の 「奏講書」には、漢代の22件
の裁判案件が記載 されている。その うちの案 件17は
、「乞鞠」が行われた案件である。案件17の
冒頭には、以下の文章が見えてくる。 13四月丙辰鯨城 旦講乞駒
,日
:故楽人,不
興士五(伍)毛謀盗牛,薙
以講為 興毛謀,論
鯨 講為城 旦。14 四月の丙辰 に靭城 旦の講は乞鞠 して言 うに、「楽人だつた とき、士伍 の毛 と共謀 して 牛 を盗んだ とい う毛の証告 を認 めて しまつた ことで、鯨城旦 となつた。」 大 まかに この 「乞鞠 」に至 るまでの背景 を要約す ると以 下の よ うになる。 士仁の毛 とい う者 が、済 邑で牛を盗んだ後 に、葉 県に赴 きその牛を売 りさばいた ことで金 を得 た。 しか し、そ こで売県の亭長(郷村 の長)の庚 に よつて告発 され 、この案件 はす ぐに薙 県で審理 され た。楽人 で ある講は汀「邑に住んでお り、士伍の毛に牛を盗んだ際に共謀 したの だ と証告 された ことで収監 され審問 された。被告 と証人は陳述 を し、裁判人は法廷調査 を行 った。 被 告の士伍の毛は士伍 の限 の牛 を盗み、他 の人 と一緒 に行 ったわ けではない と認めた。し か し、士伍の阪は牛を失 つていない と否認 した。す ると、毛は供述 を変 え、楽人である講 と 共謀 し盗んだのは士伍 である和の牛である とした。目撃者 によると、士伍 の毛一人が牛 を盗 ん だ とい う。別の証人 である士伍の和の証 言では、毛が盗んだ牛は確 かに和の ものだ とい う。 楽 人である講 は、毛が牛 を盗 んだ とされ る ときに彼 は咸 陽で兵役 に服 してお り、この事実 を 以 て毛の供述 を謳告で ある と した。士伍の毛は供述 を改 め、本案件の前に講 と共謀 しノ│■を盗 んだ のだ と言った。供述 を受 けす ぐに官 吏が毛 と講 を詰間 した。史の騰 は先入観か ら、牛 を 盗 んだのが一人ではない と し、共謀 したのだ と考えた。毛は鞭打ちに堪 えることができず講 と共謀 した とい う偽 りの供述 を した ことを認 めた。楽人の講は鞭打 ちにあつて も牛を盗ん だ こ とへ参加 した と認 めなかった。 しか し、耐 え られず最後には刑 を受けた。15 事件発生∼故獄(原審)力く下るまでの過程 ※太字二人物名 下線=地名 ・事件発生"・毛が済邑で牛を盗み、葉県でその牛を売り、金を得たことで庚が告発した。 ・審理の実施 ¨・審理は葉県で行われた。 ・関係者の陳述 供述①毛「Eの
牛を一人で盗んだ。」→証言①E「私は牛を盗られていない。J 供述②毛『講と共謀して和の牛を盗んだのだつた。」→証言②目撃者「毛は一人で盗んだ。」 →証言③和r盗まれた牛は私のです。J 供述③講「私は事件発生時、威麗で兵役に服していたので、毛の供述は証告だ。」 供述④毛「講と共謀したのは、本事件以前に牛を盗んだ時であつた。」 ・詰 間の実施 裁判 官 の騰 は、共謀したという予想の下で毛 。講 に拷 間を加 えた。 ・詰 間結 果 毛 は拷間に耐 えられず、証告 した事を認めた。 講 は拷 間を受 けても盗んでいないとしたが 、最終的に自証 し受刑したc楽 人だつた講は、拷 間に耐 え られ なか つた ことで刑鯨 城 旦)に服す るこ とにな ったので、 再審 請求 を行 つた。講 は死刑 に処 され るわ けではないた め、自分 自身 で「乞鞠」を行 つたが、 これ は「死刑 の場合には、本人以外 の家人でなければ乞駒で きない」、「既 に結審 してい る」 とい う
2つ
の条件 を満た している。 さらに再審請求 を受 け、原審 にお ける関係者(毛や拷 間 を加 えた官 吏な ど)に対 して審間が 行 われ 、再審理の中で以下の結論 に至ってい る。 廷尉 兼謂済音夫 :薙 城旦講乞駒 日 :故柴人,居
済酎 中,不
盗牛,薙
以講為盗,論
鯨 為 城 旦,不
営。 覆之,講
不盗牛。16 廷尉 は済書笑に言つた。薙県の城旦である講が再審請求 して言 うに、楽 人であつた こ ろ、済酎 に居 り、牛 を盗んでいない。 しか し、県は講が盗んだ として鯨城 日_に処 した。 不 当であつた。 この判決 を覆す。講は牛 を盗んでいない。 乞鞠 ∼再審・新獄{新たに出た判決)が下され るまでの過程 ※太字=人
物名 ・ 乞鞠 謙城旦(入れ塁刑・労役刑)に服 していた講 は、再 審を請求した。 ・ 故獄の確認 “・関係者へ対する取調べ、事実確認の実施。 新事実①供述を二転三転していた毛は、取り調べ時に別の拷間を受けていた。(自白強要) 新事実②同様に講にも、供述の際に拷間が加えられていた。 新事実③新事実①②に関して、拷間を行つたことを官吏も認める。伊1罰の不適応} ・ 再審結果 裁判での誤りが認められ、講は有罪から無罪へと改められた。 ・ 名誉回復 講は労役刑を免除され、官として収容。 ・ 財産回復 売買されていた妻子も買い戻され、その際の取引金が講へと与えられた。 講 の判決 は 「乞掏」を行 つた ことで有罪 か ら無罪へ と改 め られた。 しか し、講は鯨城 旦に 処 されて しまってお り、更には妻子 も売 られ て しまっていた。判決が覆 った ことを受けて、 講 は労役刑 を免除 され官 と して収容 され た。また、妻子 も県官によつて買い戻 され 、その際 の代金 を講は与え られている。 今 回の案件 の場合は、肉刑(肉体 に対 して行 われ る刑)とい う回復 の見込めない刑 と城旦刑 (労役刑)に被 告人が服 している例である。この場 合において免 除で きる刑 は労役 に関 してのみで あるため、「隠官 に処す」(肉刑 は免除 され ないが、労役 は免除す る)とい う形 を とってい る。 また、家族や財産の回復 な ども図 られ てい る。 秦漢代 の再審 につ いて主 に「乞鞠 」をキー ワー ドと して、案件 をみて きた。秦漢代の再審 制度 は、い くつ かの条件 が設 定 され てい る中で、裁判 の当事者及び家人 に請求権 が与え られ ていた。特 に漢代 の再審制度は、秦代 の基本的な条件 を保 つたまま受 け継 がれてお り、「二 年律 令」の記載 内容 か ら新た に請 求方法や官 吏の対応 な ど詳細な部分が明 らか となった。し か し、「二年律令」で明 らかになった 「乞鞠」の詳細 な制度内容が秦代か ら継承 された もの で あ るか、漢代 に付 け加 え られ た ものであるかは判断材料が少 ないために明 らかにはで き てない。 よつて今後の検討課題 とす る。
第
2章
魏晋南北朝期の裁判制度における再審 第1節
『 晉書』「刑法志」からみる晉代の再審制度 本節では魏晋南北朝期における三国時代・晉代の再審制度について、『 晉書』「刑法志」 び先行研究0資料を基に分析・考察を行 う。 『 晉書』「刑法志」には、再審に関する記載の一つ として以下のものがある。 囚律有 告劾 、博覆、廟律 有告反逮受 、科有登聞道辞 、故分鶯告劾律。囚律有繋囚、鞠 獄 、断獄 之法,興
律有上獄 之事,科
有考 事報講,宜
別為篇,故
分為繋訊 、断獄 律。 旧来の囚律 には、告劾17ゃ伝覆18がぁ り、また腐律19に告反逮受"が
あ り、科 に登聞道 辞"が
あつた。そ こで これ を分離 して告劾律 とす る。 旧来 の囚律 には繋囚22ゃ鞠 獄23ゃ 断獄24の法規があ り、興律 に上獄25の事項があ り、科 に考事郎や報辞 7がぁ ったが 、それ らは別 に独立 の篇 にす るのが よい。 そ こで これ を分離 して繋訊断獄御 とす る。 訳 :内 田智雄(1960p.99 こ こには、晉代 とな り、これ までの囚律 が見直 され 、細か く分類・編制 された ことが記 さ れ て いる。大 きく告劾律(主に裁判・事実確認 が行われ る以前の過程 にお けるもの)と繋訊断 獄 律 職 判や調査等 の過程 に関す るもの)の二つ に分かれ たが、本論文において注 目すべ き部 分 は 「科"に
登聞道辞があつた。」 とい う点である。 登 間に関 して、内田智雄氏は「登聞 とは、反乱な どの よ うな非常の事件や緊急上奏すべ き 事 件 が発生 した場 合、お よび冤罪 を被 り窮迫 した場 合な どに、宮門外にある太鼓 を鳴 らして 急 を告 げ、直 ちにそれ を天 子 の上間 に達す ることをい う。」Юと述べてお り、 この制度が冤 罪 を被 つて しまった者 がその事実 を訴 える一つの方 法 と して捉 えてい るこ とが見 える。 ま た、仁井 田陸氏は 「民事上(いわゆ る田宅、婚姻、責負)の訴及び冤 を訴 える ときは、官吏な らば訴 える営人の属す るす る官司、庶民な らばその本籍地の官 司―縣一 に対 してまず提起 すべ きで あつて、その判決 に不服 の場合 は下級裁 判所か ら次々に上級裁判所 に上訴 し絣 皆 従 下始)、 遂 には王城 門外 の登聞鼓 をたたいて皇帝 に冤 を訴 える道 までが法律上ひ らかれて いないではなかつた(たとえば唐令).」 31と述べてお り、内田智雄氏 と同様 の見解 を持 つてい る こ とが分か る。 ここで両者 の見解 を見 る と、 どち らも登間の制度 は、「登聞鼓」 (首都 閲門におかれ た と いわれ る大鼓)を打つ こ とで皇帝へ直訴 で きる手段 であ る と捉 えていることが分か る。 当時 の審級 制度の中では、審級 の順序 を守 らない訴 えいわゆる越訴 と呼ばれ る行為は禁 じられ てい る。そのため、この登間の制度 は、皇帝 に直訴 をす る とい う点か らみて も審級制度 にお 11ける再審請求の最終手段であった。 登聞の制度が初めに資料に出て くるのは、晉代の泰始
5年
(269」→ の6月条であ り、『 晉 書』「帝紀 巻三 武帝」32には以下のようにある。 六月,郭
霙官督郭慶上琉陳五事以諌,言
甚切直,櫂
為屯留令。西平人麹路伐登聞鼓, 言多沃謗,有
司奏棄市。帝日:「朕之過也。」捨而不問。 (泰始5年
)6月 、郭の霙官を督す る郭虞は上疏 し五事を陳べ るを以て諌 め、言は甚 だ切直 し、櫂 して屯留の令 と為す。西平の人の麹路は登聞鼓 を伐 し、言は祗謗多、有司 は棄市と奏ず。帝、「朕の過な り。」 と日い、捨 して不問 とした。 泰始5年
(269年)6月 、鄭(都である洛陽の北東に位置す る地助33の霙官を監督す る郭 虞は上訴 して五つの事柄 を陳べ ることで諫め、その言葉は正 しいものであったために、 抜擢 され屯留(洛陽の北に位置す る地域)34の県令 となる。西平(洛陽の南に位置す る地 域)35の麹路 とい う人物が登聞鼓を打つた。 しか し、そこでの言葉はあや しい部分が多 く、有司は皇帝に棄市にすべ きではないか と述べた。皇帝は 「朕の過ちであった(麹路 を棄死に処 した事)」 と言つたが、それ以上はこの件 を不間 とし取 りあげることはなか つた。 以上が正史における「登聞鼓」による再審請求の最初の記述である。正史における「登聞 鼓」の記載は、『 清史稿』 “より後の正史には見 られないため、「登聞鼓」の制度は清代 まで 行われていたことが現段階では推測 され る。 また、上記の『 晉書』「刑法志」の記載の他に、もう一点再審制度に関する記載が存在す る。そこには、 二歳刑以上、除以家人乞鞠之制、省所煩獄也。 二歳刑以上の ものに対 しては、罪人の家族か ら再審を請 うことができる制度 を取 り やめる。それは、裁判 を煩わ しくす ることを省 くためである。 訳 :内 田智雄(1960p.111 とある。 ここには、秦代から継続 していた再審請求制度の「乞鞠」の制の部分的な廃止について記 載 されている。 ここで挙げられる内容は、「二歳刑以上」 と判決が出ている案件に対 しての ものであるため、再調査請求の性質を持つ ものではないことがわかる。そこで一審判決後の裁判案件に関 しての制度的な変更事項 として捉えることとす る。 「乞鞠」の制度は、その制度上の性質 として再審請求を被疑者及びその家族 も行えるが、 死刑案件場合にだけ、「請求者が家族でなければな らない」 とい う条件が存在す ることは前 述の とお りである。 この部分的廃止によつて、「乞鞠」の制度上で再審請求を主張できるの は、死刑案件 を除き罪刑の重軽に関わ らず被疑者本人に限 られた ことが判明す る。 この制度の部分的廃止が行われた背景には、漢代の律(いわゆる旧律)の見直 し及び廃止が 行われた ことが挙げられる。「裁判を煩雑 に しないために」 とい う文言か らも見て とれ るよ うに、裁判 を行 う上において再審を請求す る声が多 く、そのすべてを全て受理 していると裁 判が円滑に行 えない状況になつて しま うほ どだつた と推測 される。 また、その他の要因 として登間の制度の誕生 も少なか らず影響があつたと考えられ る。そ の根拠 としては、晉代が興つて
4年
後(269年)とい う比較早い段階で、すでに登間の制度が 設 け られているとい う点や、「登聞鼓」を打つ ことで皇帝に直訴することが可能になつた と い う点にある。「乞鞠」を行 うためにはいくつか条件が存在 したが、仁井田陸氏が述べてい るよ うに、登間には冤罪を訴えるだけでな く、反乱な どのような非常の事件や緊急上奏すべ き事件が発生 した場合 にも打つ ことを認めているとい う側面を持 つているため、「登聞鼓」 を打つ人間に対す る条件や資格が設けられていた とは考えにくい。 つ ま り、「登聞鼓」が設けられているために、完全に家族か らの再審請求が禁止 された と は考 えられず、審級制度の最終手段 として 「登聞鼓」を設 けることで、裁判過程で細か く何 度 も再審請求が行われ ることを制限 し、裁判の煩雑化を防いだのではないか と考える。 さらに漢代における「乞鞠」の制度には、第一章第二節で前述 したよ うに「死刑の場合に は、本人以外の家人でなければ乞鞠できない」とい う条件が新たに設けられているが、死刑 の場合において も家族 の者 による再審請求が認め られなくなつたわけではな く、「登聞鼓」 を用いることでその主張ができる環境は残つていると考えられる。 結局のところ、「乞鞠」の制度における家族による再審請求の可能な案件の範囲が二歳刑 未満の案件に限 られ るとい う部分的廃止の背景にあるのは、細かな段階での再審請求を禁 止す ることで裁判過程での煩雑 を防 ぐとい う目的 と、それによつて死刑案件の再審請求が できな くなつたことに対 して、登間の制 とい う新 しい制度の誕生をもつて解消 させた こと にあるだろ う。当時の状況に応 じて制度を適応 させ、性質の類似す る既存の制度の見直 した こと及び新たな制度が施行 されたためと考えるのが妥当であろ う。 13第
2節
『 魏書』「刑罰志」か らみる魏代の再審制度 本節では魏晋南北朝期における魏代の再審制度について、『 魏書』「刑罰志」及び先行研究・ その他の資料を基に分析・考察を行 う。 まず、魏代において再審制度は どのように提 えられていたのか とい う点に着 目す る。『 魏 書』「刑罰志」には、 顕祖末年、尤重刑罰、言及常用側愴、毎於獄案、必令覆鞠、諸有囚繋、或積年不断、 群臣頗以鶯言 顕祖献文帝37の末年には、甚だ刑罰のことにお よぶ と、常にいたみ悲 しんだ。そ して 判決案が上奏 され るごとに、必ず再審 させた。未決で獄につながれているものの うちに は、なが年判 決が下されないものもあ り、群臣の中には、そのことをとやかくい うもの がかな りあつた。 訳 :内 田智雄(1960p.203 とある。 中国の審級制度における皇帝の位置づけは当然のごとく最上位である。つま り、判決が決 めに くい案件や、再審請求 された案件などを未決のままで置いてお くわけにはいかないた め、そ ういった案件を皇帝が最終的な判決を下す形 となる。しか し、上奏 されてくる案件に は、 これまでの調査内容や州県で調査を担 当 した官が どのよ うな判決が妥当であるかな ど の意見も付随する。そ うした意見が、正式な手順を踏んで正 しく下された ものであれば、下 の意見をそのまま判決に結びつけることができるため煩雑な点はない。だが、当時は厳 しい 拷間を行われていたこともあ り、苦 しみに耐えかねて、あ りもしない罪 を認めて しま うケー スもあつた と考えられ る。最終決定の立場にある皇帝は、そ うした要素も念頭に入れなが ら 再審 を執 り行っていた と推測 され る。 審級制度 において皇帝が最終的決定権を有 しているため、再審理・再調査を命ず ることが 記載 されてあつたことか ら、そ うした判断を下す理由として「厳 しい拷間の末にあ りもしな い罪 を認めて しま うケースも存在す る。」 と推測 した。 この推測の根拠 として、これに関連 した『 魏書』「刑罰志」内の当時の法律を取 り上げる。そこには、 律交、獄已成及決党、経所結、而疑有姦欺、不直於法、及訴寃柱者、得撮訊覆治之。 検使虎罪者、雖己案成、御史風弾、以痛謳状 ;或 拷不承引、依證而科 ;或有私嫌、強逼 成罪 ;家 人訴柾、辞案相背。刑憲不軽、理須訊鞠、既髪公正、豊疑於私 律文によれば、獄がすでにな り、また獄が決着 していても、所轄の官庁を経過す る際に、これまでの取 り調べが不正で法に忠実でない点があるとい う疑いが生 じた り、ある いはまた無実を訴え出るものがあつた りした場合には、これを訊問38再審す ることがで きる、とある。使者が罪に処 したのをさらに検べなおすわけには、すでに案が成つてい ても、その過程において御史
"が
強 く弾劾 して、そのため、ひ どい目にあわ されて、あ らぬ罪に承服 させ られた り、あるいは拷間にかけて も罪 を承服 しないので、証拠で罪を 科 した り、あるいは私的な感情をもつて、強迫 して罪を作 りあげた りす ることがあ り、 また、家族のものが無実であることを訴え出て くるが、その申し立て と判決文 とが相反 していることがあるか らである。刑罰は慎重にすべきものであ り、改めて取 り調べをす るのが当然である。そ うす ることが公正であるか ら、どうして私曲40の疑いがあろ う力、 訳 :内 田智雄(1960pp.231‐232 とあ り、当時の法律が再審を行 うことに対 して肯定的な姿勢を示 してお り、なおかつその原 因が官員の行 う調査 0訊 問過程において生 じているとい う、正式な手順が踏まれないまま間 違 つた判決が意図的に下され るなど、官員の不正についても記載があることか ら、当時の調 査過程において一つの判決を詳細に吟味す ることは非常に重要なことであると推測 され る。 だか らこそ、「また、家族のものが無実であることを訴え出て、その申し立て と判決文 とが 相反 していることがあるか らである。刑罰は慎重にすべきものであ り、改めて取 り調べをす るのが当然である。」 とあるように、民の声に耳を傾 け慎重な決定を下す ようにすべきだ と い う考えが主張され実行 されたのであろ う。 魏代における再審を行 うべきだ とい う捉 え方は、裁判を煩雑にす るとして「乞鞠」の制度 を部分的に廃止 した二国の魏代の再審に対す る捉 え方 とは根本的な違いが見て とれ る。そ れは、上記のよ うな国の編纂によつて記 された正史にも取 り上げ られ るほ ど、官員による誤 つた判決や意図的に作 り上げられた調査や判決が当時の社会で蔓延 していたか らなのか も しれない。 では、当時の刑事案件における調査過程や判決に至るまでの過程は、どのよ うに規定 され ていたのだろ うか。『 魏書』「刑罰志」には、以下のよ うな記載がある。 其年六月、兼廷尉卿元志、監王靖等上言、検除名之例、依律文、獄成謂虎罪案成者、 寺謂犯罪運弾後、使覆検鞠證定刑、罪状彰露、案署分両、獄理是成、若使案雖成 、雖已 申省、事下廷尉、或寺以情状未蓋、或逮駕撻鼓、或門下立疑、更付別使者、可従未成之 條 その年(514年)の六月、兼廷尉卿41の元志や廷尉監2の
王靖たちが、次のよ うに上奏 し た。「除名の事例を検べてみ るのに、律文によれば『獄、成る』 とは、罪に処する案の 成つた場合をい う。これは、罪を犯 し弾劾を経たのち、使者が調べなお し、訊問 し証拠 を調べて刑 を定め、罪状が明 らかで、判決の文案 と署名がはつき り整 って、そ こで始めて審理が完了す る、とい うことである。もし使者の案が成つた として も、判決理由書が すでに尚書省に上申せ られ、その事件が廷尉に下げわた された段階で、あるいは廷尉の 役所が、事件の実態が十分に吟味 されていない と考えた場合、あるいは民が天子の行列 をとどめるとか、登聞鼓 を打ち鳴 らす とか して訴え出た場合、あるいは門下省が疑義の 申 し立てをした場合、天子が改めて別の使者 にその事件の取調べを申 し付けた ときは、 『 案いまだ成 らず』 とい う条項によるべきである。 訳 :内 田智雄(1960p.229 前半部分か ら見えて くることは、案件の審理が完了 したことを「獄、成 る」といい、それ に至 るまでにはい くつかの過程 を経なければな らないとい うことを、除名43とぃ ぅ具体的な 事例 を挙げ説明 している。犯罪が行われてか ら弾劾(調査 と訊問)を経て、上級機関の人間が 改めて調査 し、証拠をもつて罪刑に当てはめる。それを文書にまとめ、署名がそろつた段階 を以て審理が終了す るとある。後半部分は 「獄、成 る」の後、その審理に対 して疑義を示す 人間が出てきた場合は 「案いまだ成 らず」 となることが示 されている。 「獄、成る」の後に、その審理を上級機関に送 り、そこで調査が尽 くされていないとい う 判断を受けた時、民が 「登聞鼓」な どの方法を用いて訴え出てきた場合や天子が再調査を命 令 した場合は、その審理が認め られないことが判明す る。 魏代の再審制度に対す る肯定的な姿勢は、こうした公正な判断を下すための徹底的な調 査の過程や細やか且つ厳格な規定の裏付けがあつたか らこそだ と考える。 次に登間の制度が魏代に入 り、 どのよ うに行われたのかについて見ていきたい。『 魏書』 「刑罰志」には、以下のよ うな記載がある。 諸州國之大辟、皆先講、報乃施行、開左懸登聞鼓、人有窮寃則樋鼓、公車上奏其表。 もろもろの州や国における死刑の場合は、みなまず天子に伺いをたて、その答報があ つてか ら施行す る。宮門の左側に登聞鼓をかけ、無実の罪 をこうむ り訴えるすべのない ものがあれば鼓を打ち、公車 “がその上書を上奏す ることに した。 訳 :内 田智雄(1960p.195 ここに記載 されている内容は、前節で述べた内田智雄氏 と仁井 田陸氏の登間に関す る見 解 の根拠 となる記載である。ここには「登聞鼓」が冤罪 を被 つた場合に用いられることが記 されているが、具体的な条件等の記載が見 られ るわけではなかつた。現時点では「登聞鼓」 を用いるための条件側 罰の重軽や媒体な ど)は存在 しないもの として考えている。また、そ の前文には死刑案件にのみ とい う条件付きではあるが、天子(最高権力者)に意見を聞いてか ら執行す るとい う裁判制度に対する慎重 さが うかがえる記載 も見受けられ る。 内田智雄氏 と仁井田陸氏は上記の記載か ら、「登聞鼓」は冤罪を主張する際に用いられ る
もの とい う意 見 を出 してお られ る と推測 され るが、前述 の とお り登聞 の制 は晉代 にはす で に設 け られていた。 また筆者は、登間の制は冤罪を主張す る場合だけでなく、恩赦 を求めるためにも用い られ た と考えている。その根拠 として、以下の記載に注 目してみたい。『 晉書』「巻七十 列博第 四十五 茫江」45には、 時廷尉奏殿 中帳吏郡廣盗官鰻三張
,合
布二十匹,有
司正刑棄市。廣二子,宗
年十二, 雲年十一,黄
幡樋登聞鼓乞恩,辞
求 自没為尖官奴,以
贖父命。尚書郎朱嘆議以為天下之 人父,無
子者少,一
事遂行,便
成永制,擢
死罪之刑,於
此而弛。堅亦同嘆議。時議者以 廣為鉗徒,二
見没入,既
足以懲,又
使百姓知父子之道,聖
朝有垂恩之仁。可特聴減廣死 罪為五歳刑,宗
等付霙官為奴,而
不為永制。堅駁之日:「自淳朴溌散,刑
辟例作,刑
之 所以止刑,殺
之所以止殺。雖時有赦過宥罪,議
獄緩死,未
有行小不忍而軽易典刑者也。 且既許宗等,宥
廣以死,若
復有宗比而不求贖父者,豊
得不擦絶人倫,同
之禽獣邪 !案 主 者 今奏云,惟
特聴宗等而不為永制。臣以為王者之作,動
開盛衰,噸
笑之問,尚
慎所加, 況於國典,可
以徒店 !今 之所以宥廣,正
以宗等耳。人之愛父,誰
不如宗?今
既居然許宗 之請,特
末訴者,何
獨匪民 !特 聴之意,未
見其益 ;不 以為例,交
興怨議。此為施一恩於 今,而
開萬怨於後也。」成帝従之,正
廣死刑。 とあ り、その大意 を訳す と、 時に廷尉が殿 中の帳吏である郡廣が官の慢 を3帳
、合わせて布30匹
を盗んだ として 奏上 し、有司は律文通 り棄市にすべきだ とした。廣には二人の子供がお り、宗が13歳
、 雲が11歳であつた。その子 らが黄色の旗 を立て登聞鼓を打ち、自らを官の奴隷 となる ことで父の命 を救 うよ う恩赦を乞 うた。尚書郎の朱咲が意見 して言 うには、「世の中に いる父には子がない者は少ない。恩赦 を与えると永制(慣例)と な り、死罪の罪 を恐れ、 緩 くなつて しま う。」 とい う。疱堅は、朱咲の意見に賛同 した。 時に議論す る官僚(堅、嘆以外の官)は、「廣を錯徒 として二人の子 どもを取 り上げ奴 隷 とすればこれで懲 らしめた とこにな り、人民には父子の道 を知 らしめられ、朝廷に対 して恩を感 じさせ ることができる。特別に廣の死罪 を五歳刑 に減 じ、宗 らを官に付 して 奴隷 となることを許 し、これを永制(慣例)には しない」 と述べた。 堅が反論 して言 うに、「物事が刑罰な くとも治まつていた風俗が失われてか ら、刑罰 が生まれた。刑 を執行す るのは刑 を行わないためで、死刑 があるのは死刑 を行わないた め(そ うした犯罪を起こさせないため)である。時に恩赦で罪を許す ことがあつても、獄 において議論 して死罪を減ず るとして も、小 さい事柄で本来の規則 を変えられてはい ない。かつすでに宗 らを許 し、廣の死罪 を許せば、もし宗 らと同様な事件の場合で父の 贖を求めない子があつたな ら、どうして人倫 を断ち捨て、獣の類 と同 じではない と言え 17るのか。そ うみなされて しまいます
!案
の議論す る者が今奏上 して言 うには、宗 らの 意見を聞き、これを永制(慣例)には しないと述べている。皇帝が作つたものは国家の存 亡にかかわるものであ り、顔 を しかめる間も、笑 う間も慎重に しなければならず、まし てや国典においていたず らに損な うことができよ うか !今 廣が許 され るには、宗 らを 処す ると官は言つている。子の父に対す る愛で宗に及ぶ者はいない。今宗の要求を許せ ば、将来同 じよ うに訴えるものをどうして匪民 と言えよ うか !特 にこの案件を許す こ とで国家に対する利益はない。永制 としなければ恨みが生 じて しま う。今一つの恩を与 えれば、後に多くの恨みを残 します。」成帝は堅の意見に従い廣を死刑に した。 訳 :筆者 となる。 これまで登間の制度 を利用す る条件の解釈 としては、審級制度上での最終的な再審請求 手段 として捉 えていた。 しか し、上記の事例の内容を見ると、「登聞鼓を打つ こと→再審・ 再審理請求」ではなく、「登聞鼓を打つこと→減刑 請求」 としての意味合いが新たに判明 し た。これは、これまで参考に してきた内田智雄氏や仁井 田陛氏の解釈 とは異なる側面を持つ てい る。 これまでの 「再審0再審理請求」 とい う解釈には、「冤罪」であるとい う条件が付 随 していたために、審判機関に対す る批判 とい う要素 も含まれていた と仮定できるが、新た に判明 した 「減刑 請求」 とい う解釈には 「恩赦 を求める」 とい う要素が含 まれていた。 上記の案件における減刑請求が認められなかつた要因は大きく2点
ある。まず、これは あくまで推測の域 を脱 しないが「帳吏である郡廣が官の慢を盗み…」として大意を訳す と、 この人物が殺人な どよ りも比較的軽い「盗み」とい う犯罪で棄市(死刑)となつていることか ら、盗んだ官の戦が非常に重要なものであ り、皇帝か ら与えられたものだか らではないか と 考え られ る。皇帝が与えた貴重なものを盗む とい う行為は、広い意味で謀反罪(皇帝への反 逆罪)と して捉 えられ る。そのためこの案件は、皇帝の威厳 をそこなつた案件 として考えら れ、恩赦 を求めた としてもその減刑 請求は認 め られなかった と推測す る。 そ して、原文にもあるよ うに、ここで恩赦を特例 とい う形で認めて しま うと他の者か らの 非難 が生 じるのは必須だか ら恩赦 を行わなかつた と考えられ る。同 じよ うな境遇 にある者 は、廣だけがなぜ恩赦が認められ るのか と不満に感 じるのは当然のことであ り、そ して この 減刑請求を認めて しまえば、儒家思想の下で、子が親のために恩を乞わなければ人 として認 め られない とい う風潮 さえも生 じて しま う。 これ らの点か ら減刑 請求が認め られなかった。 上記の列博における記載では、減刑請求は認 められなかったが、ここで減刑請求が成功 し たケースを見てみ る。『 魏書』「巻九十二 列博 長孫慮」46には、 母因飲酒、其父真呵叱之、誤以杖撃、便即致死。真為縣囚執、虎以重坐。慮列辞尚書 云:「父母念争、本無餘悪。直以謬誤、一朝横禍。今母喪未獲、父命旦夕。慮兄弟五人、 並各幼稚。慮身居長、今年十五、有一女弟、始向四歳、更相鞠養、不能保全。父若就刑、交墜溝墾、乞以身代老父命、使嬰弱思孤得蒙存立。」尚書奏云:「慮於父為孝子、於弟為 仁兄。尋究情状、特可衿感。」高祖詔特恕其父死罪
,以
従遠流。 あ る男性 が、妻が酒 を飲 んだ ことを恨み、彼女 を懲 らしめよ うとし、まず怒鳴 りつ け、 その後杖 で殴 つた。結果 、打 ち所 が悪 く妻 を殺 して しまった。彼 にはは じめ極刑 の判決 が 下つた。しか し、彼 の十五歳 になる息子が、朝廷 に上書 し、自分 には四歳 の妹 がお り、 母親 が死 亡 した今 、父 まで死ぬ と、兄妹二人は生 きていけない と訴え「身 を以て老父の 命 に代 えん [自分 が父の代 わ りに罪 を受 けます]」 と請求 した。孝文帝 は、考慮 した結 果 、 この子供 の孝行 の情 を哀れ に思い、父親 の罪 を死罪 か ら追放 に改 めた。 訳 :大 原 良通(200947 とあ る。 この案件 は、親へ の恩赦 を求 めるために「登聞鼓」による直訴の形式で再審請求が行われ たケースであ る。この案件は、男性が 自分の妻 を殺す とい う事件 を犯 した ことに対 して極刑 が 下 され 、母親 が死 亡 した今、その子供が 自分た ちだけでは生 きていけない とい うことを訴 えた。その訴 えを聞き、孝文帝は、子 どもたちの請求 を受 け入れ極刑 か ら追放 に改 めた。減 刑 請求 を行 い、子 どもの希望通 り極刑 が免ぜ られ てい る ことか ら減刑 請求 が成功 したケー スで あることは明 白である。 上記 二つの案件で共通す る点は、 どち らも極刑 が下 された者 の子 どもが減刑請求 を行 つ た とい う点にある。その子供 らの行為 は、どち らも親へ の孝行の側面が見 られ 、儒家思想 の 下で は正 しい行為だ と捉 え られ る。 しか し、一方は思赦 を認 め られ減刑 が図 られ、他方 はそ れ が認 め られ なか った。そ うした違 いが生 じた要因には、大 きく2点
あ る と考えている。 1′点目は、時代の違 いである。減刑請求が認 め られ なかつた案件 は晉代の ものであ り、認 め られた案件 は北魏の ものである。晉代は再審制度 に対 して、前述 した よ うに晉代では裁判 を煩雑に しないよ うに と、「乞鞠」の制 を部分的廃止 し、再審制度 よ りも円滑に裁判 を行 う ことを優先す るとい う否定的な部分があるが、その反 面魏代においては、再審制度 に肯定的 な姿勢を示 している。こ うした案件 の決定には、各工朝の考 え方が大 きく作用す ると考 え ら れ る。2点
日は、犯罪 の重軽や公的 な ものであ るか私的 な ものであるか とい う点 であ る。「登聞 鼓」による減刑請求が認 め られ た案件は、あ くまで一家族内の中で生 じた ものであ り、殺人 事件 とはいえ直接的に国家 に影響 を及 ぼす よ うな ものではない。しか し、認 め られ なかった 案件 は、殺 人事件 よ りは比較的罪 の軽 い盗み を働 くとい う事件であつたが、盗んだ ものが皇 帝 に関わ るものである とい うところが大 きなポイ ン トとなる。前述 した よ うに、そ うした皇 帝 に関わ るもの を盗む とい う行為 は、広 く捉 える と謀反罪 として も考 えられ る。皇帝はそ う した 自らの威厳 を損 なわれ るよ うな行為 を した者 の罪 を許す とい うことはあ りえない と考 え られ る。 19こ こで、 も う
1点
以上の よ うに判決結果 の差異 に関係す るか ど うかは定かではないが、 恩赦 が認 め られ た北魏 のケー スにお いて恩赦 が認 め られ るこ と とな つたで あろ う仮説 を述 べ てお きたい。 その仮説 とは、「家を存続 させ る」 とい う考えが働 いたのではないか とい う もので あ る。 北魏代 の恩赦 が認 め られ たケースで は父親 が母親 を殺 した こ とを咎 め られ て お り、父親 が刑 を執行 され命 を落 とせ ばその子供た ちは両親 を失 つた こととな り、子の主張 通 り生 きてい くことは非常 に困難 とな る。つ ま りそれは家が滅ぶ ことを意味す る。対照的 に 恩赦 が認 め られ なかつた晉代でのケー スでは、母親 の存在 が明確 ではな く、仮 に母親 が存命 で あれば家が失われ る とい う可能性 は低 い。皇帝は決定 を下す際 に「家の存続」とい う観点 を考慮すべ き要因 として捉 えていたのではないだ ろ うか。 以 上の よ うに、どの よ うな基準で恩赦 が与 え られ ていたのかは定かではないため、この点 に関 しては検討課題 と したい。 これまで『 魏書』「刑罰志」をは じめとする資料を用いて、北魏における再審制度につい て考察を行つてきた。しか し、当時の中国は王朝が一つだけ存在 していたわけではない。1ヒ 魏が華北を統一す る439年
か ら隋が再び中国を統一す る589年
の間には、中国の南北に王 朝が並立 してお り、この時期には華南に宋 をは じめ とした4つ
の王朝が興亡 している。 以下、南朝における再審制度 について案件 を基に、その在 りよ うについて見ていきたい。 『 宋書』「巻五十七 列博第十七 茶廓」毬には、以下のようにある。 宋菫建、鶯侍中49、 建議5Kl以鶯「鞠獄51不宜令子孫下酔2明言父祖之罪、店教53傷情54、 莫此鶯大。自今但令家人興囚相見55、 無乞鞠之訴、便足以明伏罪、不須責家人下辞。」朝 議 “咸以鶯允、従之。 宋の朝廷が建て られ、侍 中であるものが、建議(朝廷や会議で 自分の意見を述べる)の 中で、「罪を裁 き、刑 を行 う場合、子孫の言葉か ら父祖の罪を明言す ることは適 当では ない。それは教えを破 り、心を痛めることである。これに勝 るものはない。これか らは、 家人 と囚人を対面 させないまま、再審請求の訴えをさせ ることはな く、乞鞠が無ければ 即ち囚人に一度決 まつた罪に服 させ、家人の訴えを責めるべ きではない。」 と述べた。 朝議はみなこの意見をもつて正 しい とし、これに従 う。 上記の内容を見ると、「乞鞠」 とい う言葉か ら、南朝においても「乞絢」の制が用い られ ていたことが判明す る。二歳刑以上の再審請求を認めない とい う晉代での部分的廃止の影 響 を受けているか否かはここでは判断す ることができない。しか し、裁判において儒家思想 を重んず ることは「子孫の言葉←中略■)心を痛めることである。」記載か ら判断でき、北魏 と 共通 した考え方を持つていると考えられ る。 「乞鞠」の制は南朝の宋代においても制度 として残つていることが明 らか となつたが、 『 宋書』の中で「登聞鼓」に関 しての記載は見 られなかつたため、宋代において「登聞鼓」が設置 されていたかどうかは現時点では判断 しかねるため今後の課題 としたい。 また、その他の南朝の再審に関す る記載は、梁代の再審制度に関する記載が、『 隋書』「刑 法志」内にあ り、 この案件に関 しては次章で後述す る。 ここまで、魏晋南北朝期における再審制度の在 りよ うについて主に『 晉書』及び『 魏書』 をもとにその変遷や内容について見てきた。 大 きな変化としては、秦代に設けられ漢代にも受け継がれ変化 してきた「乞鞠」の制に対 して晉代に部分的廃上が行われた点及び登間の制が新たに設けられた点の二点が挙げ られ る。漢代に入 り、「乞鞠」の制に追加事項が適用 され、死刑案件の場合に限 り被疑者の家族 の者が再審請求をす ることを認 めるよ うになつた。そ うした変化が生 じたが、三国魏代に入 り旧律の見直 しが行われたことによ り、裁判 を煩雑に しないために、二歳刑以上(二年の労 働刑以
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案件に対す る家族か らの再審請求を認 めなくなつた とい う変化が生 じた。 この 変化 に伴つて被疑者本人が再審請求できるのは死刑案件以外の もの、家族が再審請求でき るのは二歳刑未満の案件 とな り、死刑案件 については再審請求 をす ることが不可能な形 と なって しまった。 しか し、登間の制が設けられ、皇帝に直訴 とい う最終手段ではあるが、死 刑案件についても再審請求が可能 となつた。 登間の制度は、『 魏書』「刑罰志」の記載を根拠 として、内田智雄氏や仁井田陸氏は、「登 問鼓」は冤罪 を主張す る際に用い られ るものであるとい う考えを述べているが、「登聞鼓」 は冤罪の主張だけではなく、恩赦を求める「減刑請求」のケースでも用い られ ることが判明 した。また 「減刑請求」は、皇帝の考えや臣下か らの助言、罪の重軽、また公的であるか私 的であるかによつてその決定が左右 され ることが案件か ら明 らか となつた。 しか し、南朝宋代の記載か らは、再審に関 しての制度的変化は見 られなかった。 21第
3章
隋唐代の裁判制度における再審 第1節
『 隋書』「刑法志」か らみる隋代の再審制度 本節では隋代 における再審制度について、『 隋書』「刑法志」を基に分析・ 考察を行 う。 隋が589年
に中国を統 ヽして以降、その治世の中で訴訟制度における再審制度はどのよ う に捉 えられ、そ して行われていたのだろ うか。 まず、隋が中国を統一す る以前、南朝梁代の案件で『 隋書』「刑法志」の中に記載 されて いるものを取 り上げてお く。以下の記載は南朝におけるものであるが、『 隋書』内に記載 さ れているため、ここで取 り上げることとした。第2章
第2節
では、『 宋書』「列博 茶廓博」 の案件を基に、南朝においても「乞鞠」の制が設けられてお り、儒家思想の下で再審請求す べ きであるだ とい う考えがあつた と考察を行つた。梁代に関 しては どのよ うに捉えられて いたのだろ うか。 三年人月、建康女子任提女、坐誘 日営死、其子景慈封絢辞云、母賓行此、此時法官虞 檜虹啓俗、案子之事親、有隠無犯、直男證父、仲尼鶯非、景慈素無防閑之道、死有明 日 之糠、陥親極刑、傷和損俗、凡乞鞠不審、降罪一等、豊得避五歳刑、忽死母之命、景慈 [ヨLカロ,甲ЧPr。 三年人月に、建康の女子の任提女 とい う者が、人を誘拐 したなどで死罪に該当するこ とになつた。その子の景慈は、お上の取 り調べに答えたことばの中で、母が確かにそれ をやつた、といつた。この時、法官の虞僧虹は書をたてまつって次のようにいつた。「思 うに、子が親につかえる場合、親の罪を隠す ことはあつても、親子の道を犯す ことはあ り得ない。むか し、直蒻が父の罪 を証言 したのを、孔子は道に反することとした。景慈 は 日ごろ親が罪に陥るのを防ぎ止める方法を講ぜず、死刑 にされよ うとい う時に、明白 な証拠だてを している。親 を極刑 に陥れ ることは、和気 を傷つけ風俗をそこな うもので ある。およそ家族の願 い出による再審の結果、犯罪事実が不明確な場合には、罪一等を 降す ことになっている。それなのに、罪一等を降 して五歳刑 にできる道をとらずに、死 刑になる母の命 をおろそかにす ることが許 され よ うか。景慈には刑罰 を科すべ きであ る」 と。そこで詔 して景慈を交州に流 した。 ここに至ってまた徒流の刑ができた。 訳 :内 田智雄(1970pp.30‐31 この案件は、梁代の天監3年
(504イ→ におけるものである。法官である虞僧虹は、被疑者 の7・である景慈が孝行の念 を待たないが故に再審請求をせず、更には親の罪 を証言 し極刑 に陥れ ようとしたことに対 して刑罰 を科すべきだ と皇帝に対 し進言 してお り、それによ り景慈 に刑 罰 を科 した こ とが記載 され てい る。 梁が