• 検索結果がありません。

言葉についての省察(3) : 言語哲学的研究

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "言葉についての省察(3) : 言語哲学的研究"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

言葉についての省察(3)

言 語 哲 学 的 研 究

-Philosophical Consideration on the Nature of Language (3)

Akitoshi Ohtsuka, Hiroya Suzuki, Kouichi Haishi

第6章ベンジャミン・リー・ウォーフ

    (Benjamin Lee Whorf)の説

1 人物にっいて  1897年にアメリカに生まれ、1941年に世を去っ た本業が保険会社の火災防止技師という異色の言 語学者である。

 イェール大学でサピーア(Edward Sapir

1884∼1939)の教えを受け、メキシコの古語であ るアズテク語やマヤ語、アメリカ・インディアン のホーピ語の研究に精魂を傾ける。  その過程での「言葉に優劣なし」という彼のヒ ラメキが今日、言語学の世界においてサピーア・ ウォ.’一フの仮説(the Sapir−Whorf hypothesis)と か、言語相対論(linguistic relativism)と呼ばれ るものである。  B・ウォーフは、マサチューセッツ州、ウイン スロップで、ハリー・チャーチ・ウォーフ(Hary Church Whorf)とサラ・エドナ・リー・ウォー フ(Sarah Edna Lee Whorf)の長男として出生す る。  ウォーフ家は、最初の清教徒移民の直後ぐらい の時期からマサチ=一セヅツ湾岸に住みついた旧 家である。  父親のハリーは一時マサチz. 一セッツ工科大学 (MIT)に籍を置いたほどの知的エリートのひ とりで、社会的には商業デザインの世界で成功し た人であった。同時に芝居の脚本も書けば、劇場 の演出もする、あるいは、地域の歴史、地質、動 植物などの写本に関する研究もするといった幅広 い教養人でもあった。  そのせいで、家の中は父親の集めた絵画や書 物、化学薬品、撮影用具、その他種々の蒐集物で 満ち溢れ、子どもたちにとって素晴しい刺激的な 環境となっていた。

 B・ウォーフは早くから絵を描くのが得意で

あったが、最も熱中したのは、化学薬品や染料な どについて実験することや写真を撮ることであっ た。  小学校からハイスクールまではウインスロップ で過ごすが、何事にもよく集中して成績も良く、 勇気と体力にかけては、弟たちをいじめっ子から 守ってやれるだけの頼れる兄貴でもあった。  6歳下の弟、ジョンとは、暗号の秘密を解く遊 びなどもよくしたが、弟がどんなに難しい暗号を 作っても、それを難なく解読してみせたという。  しかし、独りでいるような時には、読書に熱中 する少年でもあった。未知なるものへの好奇心や 夢はこの時期に培われたものであろう。  1914年にハイスクールを卒業してマサチュー セッツ工科大学に進学し、化学工学を専攻する。 在学中の成績は、決してぬきんでている方ではな かったという。  大学を卒業してからは、ハートフォード火災保 *教授 **教授 ***助教授 1

(2)

210 長野大学紀要 第23巻第3号 2001 険会社の火災防止技術老として1941年に他界する まで22年間にわたり勤務する。  化学工場の業界では有能な技師として広く評判 を呼び、大いに信頼されていたという。また、技 術者としての才能だけでなく、自分の会社に契約 をとるセールスマンとしての才能も抜群であった そうである。

 44歳という若さで世を去るまで、これがB・

ウォーフの表の仕事であり、本業であったが、そ れを1日8時間こなしながら、かたわらで、自分 の好きな言語学の研究に精魂を傾けたのであっ た。  その他にも、ハートフォード市に住むひとりの 市民としてハートフォード商工会議所の火災防止 委員会にボランティアとして参加し、活動してい たという。自分の職業としての専門分野の知識や 技術を生かしての社会貢献活動である。  B・ウォーフが言語学に眼を向ける発端はどこ にあったのかというと、少年の頃プレスコット (Prescott)の書いた「メキシコの征服(Conquest of Mexico)」を読んで、中央アメリカの前史時代 に深く興味を抱いたことに由来すると言われてい る。  その後、大学を出て、ハートフォードに住むよ うになって26か27歳の頃、科学と宗教の間に存在 する矛盾に次第に関心を寄せるようになり、宇宙 の進化についての聖書の記述と科学的説明の間に は一見喰い違いが見えるが、これを克服する鍵 は、旧約聖書を言語学的に精査して解釈すれば分 かるのではと考えるようになる。そして、ヘブラ

イ語の研究が必要だということに辿り着く。

1924年頃のことである。  しかし、B・ウォーフは、聖書の単なる翻訳に 関心があったのではなく、自分で真剣に考えてい たところは、人間や哲学の基本問題は、聖書の意 味論を新しく探ってみることによって解決できる のではというところにあった。  特に1924年にアントワーヌ・ファーブル・ドリ ヴェ(Antoine Fabre d’olivet 1768∼1825)によっ て19世紀初頭に書かれた「ヘブライ語再構(La     ク       ワ Langue hebraique restituee)」を読んで触発さ れ、以降言葉について書かれたものを更に広く、 かつ深く読むようになる。  その延長線上で、1857年に学問的研究のために 設立したワトキンソン図書館で豊富な図書を広く 渉猟しているうちに大規模なアメリカインディア ンの民族学、民間伝承、言葉などに関する蒐集物 に出会うという体験ををする。そして、再び、少 年の頃夢見たメキシコの古代文化や伝承に興味を 抱き始め、1926年には「アズテa語」、1928年から は「マヤ語」の勉強と研究を独力で開始する。い よいよ言語学者、B・ウォーフの登場である。  1928年のアメリカニスト国際会議でエドワード ・サピーア(Edward Sapir 1884∼1939)と出会 い、1929年から1930年の間にいろいろな会合でサ ピーアと話す機会を得る。  この出会いの結果、アメリカインディアンの言 葉の研究を発展させたいという意欲を益々つのら せることとなる。  サピーアは、当時、既にアメリカインディアン の言葉だけでなく、一般言語学の上でも、言語学 の世界においては、絶対の第一人者であった。B ・ウォーフの方もサピーアの著書である「言語 (Language)1921」などを読んで、サピーアの研 究や業績を十分承知していたであろうと思われ る。  1931年にサピーアがシカゴ大学からイェール大 学に移り、人類学の教授として言語学を教えるよ うになった時、B・ウォーフは、ただちにイェー ル大学でのサピーアの最初のアメリカインディア ンに関するコースに登録して教えを受けることに する。  1937年から1938年にかけてはサピーアの引き立 てによりイェール大学の人類学講師をも務めてい る。サピーアのB・ウォーフに対する学問上の期 待も大きかったのではなかろうか。  サピーアは、ユート・アステク語族についての 研究の拡充と、アズテク語と遠い親戚関係にある ホーピ語の研究を進めることをB・ウォーフに提 言する。  B・ウォーフは、幸運にも、ニューヨーク市で ホーピ語のネイティブ・スピーカー(その言葉を 母国語として用いている人)と接触することがで きた。  1932年の春以来、サピーアがB・ウォーフのた 2

(3)

めに取ってくれた少額の研究助成金を得て、彼 は、サピーアから手ほどきを受けた実地研究の方 法を利用しながらホーピ語の研究に熱心に取り組 んでいく。  B・ウォーフと彼のインフォーマント(調査対

象)とは、ニューヨークとウェザフィールド

(ウォーフが当時住んでいたところ)との間を訪 れ合うということをする。  アリゾナ州のホーピ族保護地域にしばらく滞在 する機会も得て、1935年までには、ホーピ語につ いての一応の文法書と辞書を完成する。  その過程の中で、B・ウォーフは「ホーピ語の 風変わりな文法は、ホーピ語の話し手が物事の知 覚や把握をヨーロッパ人とは違ったやり方でして いることを示すのではないか」という考えを抱き 始めていた。そして全体として言葉の違いそのも のが、物の見方そのものにまで影響を及ぼすこと を実証したのであった。 2 言葉の本質のとらえ方について  以下に述べることは、B・ウォーフのフィール ドワーク(実地調査)を踏まえたホーピ語を中心 とするアメリカインディアンの言葉に関する研究 に見え隠れする言葉というものに対するとらえ方 (言語観)を筆者たちなりに分析・抽出したもの である。 。 言葉は、文化であり、両者は共通の形而上学  (哲学)を秘めているものである。 。 言葉は、その構造と文法の中に、その民族の 文化と行動を投影するものである。 。 言葉は、宇宙的な規模のものを指すような表 現(世界観)や、それ自体の中にまだ体系化さ れていない哲学の基本的な前提を結晶化して表 わしているような表現を含んでいるものであ  る。 。 言葉は、一つの民族、一つの文化、一つの文 明によって担われている思想、ことによっては 一つの時代の思想すらも表わすものである。 。 言葉は、文化的な現象が特に緊密な構成体を なしている一つのまとまりである。 。 言葉は、厳密なパターン構成を有する心的機 能である。 。 言葉は、人間の思考や感情の媒体である。 。 言葉は、人間の思考を活性化し、方向づける ものである。 。 言葉は、用いること自体が複雑な文化体系の 利用を意味するものである。 。 言葉は、眼に見えない、姿のない思想の計り 知れない空白としか思えなかったさまざまな力 を、正確に焦点さえ合わせれば、たいていその  「真の姿」で映し出してくれる鏡である。 。 言葉は、人間の身体的な行動全体が象徴化  し、ついでその象徴性を次第に音声的手段に向 けることによって発達したものである。 。 言葉は、人間の行動や文化の一部であり、特 別なものである。 。 言葉は、途方もなく複雑な構造体である。 。 言葉は、複雑な暗示的構造を有するものであ  る。 。 言葉は、いずれの民族の言葉も複雑な網の目 のような前提を有するものである。 。 言葉は、いくら粗野な野蛮人の言葉であろう とも、その働きを記述するのに偉大な学者が一 生を研究に費さなくてはならないほど複雑なも のである。 。 言葉は、当然のことではあるが、それを母国 語とする人にとっては易しく思えるものであ  る。

3一

(4)

212      長野大学紀要 第23巻第3号 2001 。 言葉は、その目ざましい発達という点で思考 の発達と相まって人間と他の動物とを区別する  ものである。 。 言葉は、思考作用と密接に結びついていて、 思考過程に影響を与えるものである。 。 言葉は、人間の進化の産物である。 。 言葉は、どんなに粗野な野蛮人であっても苦 もなく無意識のうちに操作することカミできるも のである。 。 言葉は、世界中の民族全てにおいて優劣な  く、皆同格である。  少数の印欧語こそ言葉の進化の頂点に位置す るという主張は、ヨーロッパ人の偏狭な言語的 偏見に過ぎない。  要するに言葉は言葉である限り皆平等にとら えて当然のものである。 。 言葉は、人間が現実の社会生活に適応するた めの基本的な手段である。 。 言葉は、人間の現実世界の大部分を無意識的 に形づくっているものである。 。 言葉は、現実の反映である。 。 言葉は、人間が大体一定のやり方で聞いた  り、見たり、あるいは、経験したりする背景に あって働くある種の解釈である。 にせよ、他の行為に対して影響を及ぼすもので ある。 。 言葉は、人間が与えられた経験であるさまざ まな現象を日常的なやり方で分析、整理する場 合のある一定のやり方である。 。 言葉は、その場面や状況をある程度分析分類  し、その集団の言語習慣に基づいてほぼ無意識 のうちに築かれた世界の中に位置づける働きを するものである。 。 言葉は、それからの類推によって、ある一定 の型の行動をひき起すことがしばしばあるもの である。 。 言葉は、経験を解釈し、叙述するものであ る。 。 言葉は、思考の世界を規定し、人間の無意識 的な反応までをそのパターンにはめ込み、特定 の典型的な性格をつくりだすものである。 。 言葉は、人間の行動や文化と網の目のように 結びついているものである。 。 言葉は、文化と互いに影響し合いながら、ど ちらが先に来るというのでなく共に発達してき たものである。 。 言葉は、 である。 自然に一つの体系をなしているもの 。 言葉は、人間の住む客観的世界や社会的活動  。 言葉は、集団の精神を表すものである。 の世界を支配するものである。        。 言葉は、構造や意味、体系であれ、ゆっくり 。 言葉は、伝達や思考のための手段以上の存在   と変化するものである。 である。        。 言葉は、経験をいかに分析し、報告するかを 。 言葉は、人間の文化や心理と密接な関係をも   決める切り口や切り方である。 つものである。        。 言葉は、経験の諸項目の分類の仕方を暗示す 。 言葉は、文化的なものにせよ、個人的なもの   るものである。

      −4

(5)

。 言葉は、自然の分割の仕方を暗示するもので ある。 。 言葉は、運動、色彩、形態の変化という点 で、とどまるところを知らぬ自然のおもてをい かに分節するかを暗示する何かである。 。 言葉は、文化と同じように歴史を有するもの である。 。 言葉は、年齢的に幼児期を過ぎた正常な人で あれば、誰でも話すという形でそれを使用する  ことができるものである。 。 言葉は、それを使用することが無意識に自動 的に行なわれるものとして身についてしまって いる習慣である。 。 言葉は、単に考えを表明するだけの手段では なくして、それ自身、考えを形成するものであ  る。 。 言葉は、個人の知的活動、すなわち、自分の 得た印象を分析したり、自分の蓄えた知識を総

合したりするための指針であり、手引きであ

 る。 。 言葉は、さまざまな印象の変転きわまりない 流れとして提示されている世界という自然を分 割し、概念の形にまとめあげ、現実に見られる ような意味を与えていく枠組である。 。 言葉は、測り知れないほどの古い時代から伝 えられてきたものである。 。 言葉は、ごく幼い頃に無意識のうちに身につ けるものである。   したがって人間は努力なしに話すことができ るのである。 。 言葉は、その背後に伝統的に「精神」と呼ば れてきたようなものを持っていないとは言いき れない存在である。 。 言葉は、シンボルとして王様にも似た役割を 果たすものである。  ある意味では意識のもっと深い層での過程の 表面を覆う刺しゅうのようなものであり、その  ように覆われた過程はいかなる伝達や合図、象 徴行為の行なわれる場合でも、その前提として’ 必要なものである。 。 言葉は、できごとの拡がりや流れをその人な  りのやり方で分節し、体系化する枠組である。  その理由は、母国語を通じてそのようにする ことにお互いの合意があるからであり、決して 自然そのものが全ての人にそう見えるように分 節されているからではないのである。 。 言葉は、使う際にはほとんど努力なしに自分 の用いている極めて複雑な機構に気がつかない でいるものである。 。 言葉は、どのような民族の言葉であれ、パ ターンからなる大規模な体系であり、かつ異 なっているものである。  その体系の中には、伝達をする場合の手段と  してだけでなく、自然を分析し、どの型の関係 や現象に注目するか、あるいは無視するか、そ  して、推論を媒介し、自らの意識の住み家を作 る際に人間が手段とする形式や範疇が文化的に 規定されて組み込まれているものである。 。 言葉は、連続した存在の拡がりや流れを人工 的に切りきざむものである。  ただし、その区分の仕方は、それぞれの民族 の言葉によって異なっている。 。 言葉は、語でなく、文である。  語が何を指すかは、それが用いられる文と文 法的パターンによって規定されるものである。 。 言葉は、経験や意味との関連において代数の X、Y、 Zのような性格をもつものである。 。 言葉は、物事を認識する際、背景にあって働  くものである。

(6)

214 長野大学紀要 第23巻第3号 2001 。 言葉は、今日では崩れて土と化しているもっ とも古い廃撞よりも遥かに古い昔にその進化の 過程を完了し、その誇らしげな完成した姿を もって、この地上のあちこちへと拡まったもの である。 。 言葉は、語い過程を通じて話し手にある種の 漠然とした心的感覚をもっと明確に意識させる ものである。  それによってそれ自身よりさらに低い面にお ける意識が現に生み出されることもある。とい  うように言葉は魔法のような性質の力を持って いる。 。 言葉は、不連続な語いの分節と、配列された パターン構造とから成り立っており、そのうち 後者の方が背景的な性格のもので、明白度の点 では劣るが、より破壊されがたく、普遍的な性 格のものである。 。 言葉は、人間が現実を理解する仕方と、人間 のそれに対する振舞い方に影響を与えるもので ある。

第7章S,1,ハヤカワ(S.LHAYAKAWA)

    の説 1 人物について  1906年、カナダのバンクーバーにおいて数少な い日系住民の子として誕生する。その後ロッキー 山脈の東、草原地帯の外れにある小都市カルガ リー市で初等教育を受ける。  幼い時分、家庭で日本語を教わるが、小学校へ 入学する頃からはほとんど英語の環境の下で育つ こととなる。  彼が8歳の時、両親は家庭教師をつけて日本の 文化と日本語を学ばせようとするが、本人がこれ に抵抗したがために、その成果は不首尾に終わ る。  1927年、マントバ大学を卒業、その後、モント リール大学にて英文学と哲学を学び、さらにウイ スコンシン大学で英米文学を学んで学位を獲得す る。  1936年にウイヌ1コンシン大学の教員となり、地 域の都市で講義をしている中に「世論と宣伝」と か「意味論」の研究に興味を持つようになってく る。

 1941年、「行動における言語(Language in

action)」を世に問い、一般意味論(General

Semantics)運動のリーダー的人物の一人として 活躍する。  1949年には、前著の改訂、充実版である「思考と

行動における言語(LANGUAGE IN THOUGHT

AND ACTION)を発行し、国際一般意味協会

 (The International Society for General

Semantics)の機関誌ETC(季刊)の編集長を

もつとめる。  彼が学問的な意味で最も影響を受けたのはアル フレッド,コージブスキーの一般意味論一非アリ ストテレス的体系一(General Semantics“non− Aristotelian system”of Alfred Korzybski)からで ある。  その他、意味論のOgden and Richards、言語

学者のLeonard Bloomfield、心理学者のJean

Piaget、言語病理学者のWendell Johnson、哲 学者のSusanne Langer、 Sigmund Freudを軸

とする心理学者や精神病理学者であるKarl

Menninger、 Karen Horney、 Carl R Rogers等 からも大きな影響を受けている。  こういった学問領域の人々に加えて、文化人類 学者であるBenjamin Whorfや、 Ruth Bendict. Margaret Mead等にも影響を受けている。

 彼は、意味論、記号論、言語学、哲学、心理

学、文化人類学、社会学(含態度調査、世論研究 等)、精神病理学、精神分析学、最新の心理療法、 生理学、神経学、サイバネティクス(cybernet− iCS)等の学問領域を統合して、人間の生きた言葉 と、実際生活の場の中でそれが人間相互のコミュ ニケイションにおいて果たすはたらきを研究し、 検証しようとしたのであった。  これが彼の主張する言葉の意味論的研究であ り、その大成が1949年に発行された「思考と行動

における言語(LANGUAGE IN THOUGHT

AND ACTION)」である。  意味論自体のとらえ方としては、ハヤカワ自身 6

(7)

直接的には次のように述べている。  「意味論は、人間の相互作用を言葉のコミュニ ケーションの機構を通して研究するものである。」  「意味論的洞察一即ち、人間の記号的行動と 記号的機能を通しての人間の相互作用の洞察」

 またハヤカワの「LANGUAGE IN THOUGHT

AND ACTION」の訳者である大久保忠利の解釈

によれば、「意味論」は次のようなものとなる。  「人間生活に最も大きな役割を果している言葉 について、人間が無意識に作用を受けているその 機能や、その用法について、これをはっきりと研 究の対象とする科学である。」  「言葉が、われわれ自身に、また他の人々に、 いかにはたらくかについての生きた知識を抽出す るための研究である。」  「一般意味論(General Semantics)は、特に言 葉と人間を研究の対象とする科学である。」  「一般意味論は、言葉(その他の)という記号 に対する人間の反応の研究である。」  「言語的記号(linguistic symboD、その他の記 号に人間がいかに反応するかを研究することであ る。」  等々のとらえ方もあるが、うがった見方をすれ ば、ハヤカワの言葉に関する意味論的研究や言語 学は、「実用言語学」や「臨床言語学」「応用言語 学」「言語生態学」、あるいは「プラグマティズム の言語学」とでも命名したほうが実体に即して は、ふさわしいようにも思えるのだが。 2 言葉の本質のとらえ方について  以下に述べることは、ハヤカワの大学教師、サ イコセラピスト、デザイン研究家、民衆音楽研究 家、ジャーナリスト、etc、家庭においては2児の 父という生活実践を踏まえた意味論的研究の叙述 7 の中に見られる言葉に対するヒラメキや洞察を筆 者たちなりに分析抽出したものである。 。 言葉は、人間のより良き生存にとっての有用 な手段である。 。 言葉は、社会、あるいは前の世代から人間個 人にタダで渡された財産である。 。 言葉は、人間がコミュニケーションをする際 の手段である。 。 言葉は、聞き手と話し手の間のコミュニケー ションの手段である。 。 言葉は、ある個人が自分の経験の補ないに他 の人の経験や神経体系を利用する際の媒体であ  る。 。 言葉は、動物の用いる僅かの限られた叫びに 比べて、極めて複雑な体系を有するものであ  る。 。 言葉は、人間の神経体系に起っていることを 表現したり、報告したりする手段である。 。 言葉は、元々は動物の呼び声より発展したも のかもしれないが、それより遥かに柔軟な構造 や働きを有するものである。  人間の神経体系に起っている非常に変化に富 んだ事柄を報告できるだけでなく、それらの報 告を報告することもできる。 。 言葉は、報告についての報告であり、叙述に ついての叙述である。  たとえば、ひとりの人が「川が見える」と言 えば、それを聞いたもうひとりの人が「川が見 えると言ってるよ。」と更にもうひとりの人に 伝えることもできる働きをするものである。 。 言葉は、人間個人々々が考えたり、聞いた  り、話したり、読んだり、書いたり、行動した  りする中に存在するものである。

(8)

216 長野大学紀要 第23巻第3号 2001 。 言葉は、他の人の経験や知識を学び、利用す るための手段である。 。 言葉は、先人の経験や知識という遣産を受け 継ぎ、そこを出発点として、それを更に進歩、 発展させるための手段である。 。 言葉は、人間が協調、協力する際に必要とさ れる手段である。 。 言葉は、人間関係のいろいろな事態において 意見の一致や賛成をもたらすのに必要とされる 手段である。 。 言葉は、人間の知識や経験をプールする大き な協同倉庫であり、すべての人に利用され得る ものである。 。 言葉は、社会的なものであり、人間の文化 的、知的協同を可能にするものである。 。 言葉は、人間の生活にとって欠くことのでき ない機構である。  われわれの人生は、同じ人間の過去の経験の 集積によって型にはめられ、導かれ、豊かにさ れ、充実したものとなっていくが、それをすみ ずみにわたって支えているのは、実は言葉や読 み書きの能力である。 。 言葉は、社会が活動するために必要とされる 努力の協同を達成可能にするものである。 。 言葉は、人間生活のあらゆる面、あらゆる事 柄に織り込まれているものである。 。 言葉は、知識を交換したり、伝来の知識を伝 えたりする手段である。 。 言葉は、聞いたり、使ったりすることによっ て、人間が気がついているかいないかはともか  くとして、常に人間自身に影響を及ぼすもので ある。 。 言葉は、ある言葉にまつわる無意識の仮想で あっても人間の行動に影響を及ぼすものであ る。 。 言葉は、その人自身の使い方と他の人が話し た時の受け取り方によって、その人の信念や先 入観、理想、抱負等を大きく形成するものであ る。  そして、それらは、意味論的環境と呼ばれる その人の生活する知的・道徳的雰囲気を構成す るものとなってくる。 。 言葉は、人間が森羅万象を表すために任意に 決めた記号である。 。 言葉は、ふたりかそれ以上の人間が互いに同 意して、何かを何かの代わりにすることにした 記号の一種である。 。 言葉は、人間同志が同意した記号の体系であ る。 。 言葉は、記号表示のあわゆる形式の中で最も 高度に発達し、最も精巧で、最も複雑なもので ある。 。 言葉は、事物ではなく、その象徴である。  それは、地図が現地そのものでないのと同様 の関係である。 。 言葉は、事物から独立したものである。 。 言葉は、人間が、両親、友人、学校、新聞、 書物、会話、講演、ラジオなどから知識の大部 分を獲得する際の不可欠の手段である。 。 言葉は、人間にとって客観世界や人生の地図 である。 。 言葉は、人間が、報告や報告の報告を通して 知識を受け取る際の手段である。 。 言葉は、人間が、報告からなされた推論や、 8

(9)

他の推論からなされた推論、推論の推論を受け 取る際の手段である。 。 言葉は、人間関係を円滑に展開するための不 可欠の手段である。 。 言葉は、子どもが5、6歳になるまでに道徳 や、地理、歴史、自然、人間、遊戯などについ てのまた聞き、またまた聞きの知識の蓄積がす べて集まって、言葉の世界として形成されるも のである。 。 言葉は、人間に伝えられる文化的遺産という 科学上の、また人間関係の社会的にプールされ た知識、すなわち、経験の地図である。 。 言葉は、ある音声と対応したある意味との結 びつきによって構成されているものである。   したがって、違った音声は、違った意味を持 つこととなってくる。 。 言葉は、人間が知識を交換するために行なう 記号的活動の手段である。

 基礎的な記号的活動は、人間が直接、見た

 り、音を聞いたり、感知したりしたことの報告 である。

 具体例

  「道の両端には溝がある」   「湖の向う側には魚はいないが、こちら側に  はいる」  次に報告の報告という間接的な記号的活動に  よる知識の交換がある。

 具体例

  「世界で最も長い瀧はローデシアのヴィクト  リア濠布である」   「新聞の伝えるところでは、エヴァンスヴa ルの近くの公道41号で大衝突があった」 。 言葉は、人間同志の信頼と同意を前提として 成立するものである。 。 言葉は、人間の行動の孤立した現象ではな  く、その背景をなす非言語的出来事の全体的な

文脈を背景や基盤として生きて働くものであ

 る。 。 言葉は、その意味のほとんど全てを辞書や定 義から習うのではなく、その言葉を、人生の実 際の状況に伴なって聞き、ある音声をある状況 と連合させて習うものである。 。 言葉は、外在的意味、すなわち外延と内在的 意味、すなわち内包とを有するものである。  外在的意味(外延)とは、言葉が代表してい て言葉で言い表わせないあるもの、すなわち、 事物のことであり、内在的意味(内包)とは、 人の頭の中に想起しているもので、頭の中であ る語の意味を他の語を使って言うような作用で ある。 。 言葉は、文脈の全体に基いて相手方に解釈さ れ理解されるものである。 。 言葉は、人間が下等な動物同様に餓え、恐 れ、淋しさ、勝利、性的欲求などの内的状態を 呼び声で表出するところから発展したものであ  る。 。 言葉は、感情を表出する前記号的要素と正確 な報告を送る記号的要素の混合したものであ  る。  多くの言葉は、苦痛の叫び、怒りに歯をむき 出す、友情を表わすために鼻をすり寄せる、喜 びに踊り廻る等の表出的身振りを等価のものと  して音声で置き換えたものであるが、これを言 葉の前記号的用法と呼んでいる。   こういった前記号的用法は記号的体系と共存  し、日常生活で用いられる言葉というものは、 それらが全く混合したものである。  言葉の持つ前記号的要素が最も明らかになる のは強い感情を表出する時である。   もし、人が歩道から不注意に踏み出した時に 自動車がやってきたら、「あぶないっ!」「気を つけろ!」「やい!」「どけっ!」、またはただの 叫び声を上げようと、その時に出した音声は、 警告するために必要な高い声を出したまでのこ 9

(10)

218 長野大学紀要 第23巻第3号 2001 とである。この場合、必要な感覚を伝えるの は、叫び声の高さと調子だけで記号としての言 葉ではない。  同様に鋭く怒った調子での命令は、同じ命令 を低い声で出すよりも、一般に、より早い結果 を出すことができる。  ここでは、音声の質自身が、使われた記号と は殆んど独立して感情を表出する力を発揮して いるのである。  その他、「また、いらっしゃい」と言っても、 声の調子で、お客が二度と来ないようにとの希 望を示すこともできる。  また、若い女性と散歩している時に、彼女が 「いい月ねえ」と、言ったら、その声色で、単 なる気象学的観察の報告をしているのか、それ ともキスを求めているのかがわかる。  幼い子どもは、母親の言葉を理解できるよう になる遥か以前に母親の声の中での愛、温情、 怒り等の感情を理解する。  そして大ていの子どもは、言葉の中にあるこ ういった前記号的感受性を残したまま育つもの である。  人によっては、年齢と共にこの感受性を一そ う磨き、直感力や他人より優れた能力を持って いることで周囲から信用される人となってく る。  こういった人たちの才能は、話し手の声の調 子、顔の表情、その他の内的状態の徴候を解釈         する業にある。こういう人たちは、何が言われ たかを聞くだけでなく、いかに言われたかまで 聞きわけるのである。結果として、言葉の前記 号的側面にまつわる情報まで活用してより正し い判断に導くことができるようになるわけであ る。 。 言葉は、話すこと自体を自分で聞いて楽しむ ためにも用いられるものである。  それは、人々がゴルフやダンスに興ずるのと 同じ理由によるものである。  子どもたちがワーワー言ったり、大人たちが お風呂で歌うのも同じように自分の声を楽しん でいるわけである。  こういったことも実は、言葉の前記号的側面 の活動であり、働きである。  時には大勢で一緒に声を上げて合唱したり、 斉唱したり、讃美歌を群唱したりすることもあ るが、これもまた言葉の前記号的側面のなせる 業である。 。 言葉は、一種の社交機能を果たす手段であ る。  典型的なものに社交的会話があるが、その性 格は大いに前記号的なものである。  例えば、お茶の会や晩さん会では、天候のこ  と、シカゴ・ホワイト・ソヅクス(球団)、トー マス・マンが最近出した本、イングリッド・ バーグマン(イギリスの有名な映画女優)の最 近の映画など、色々なことについて話をしなけ ればならない。  これらの会話に特徴的なことは、極く親しい 友人同志の間以外では、それらの話題について 話すことは、何か情報としての価値を有するほ どの重要な事項は余りないという点である。  しかも、そこでは黙っていることは失礼とさ れる。  また、挨拶や別れの言葉である「お早よう」  「いいお天気です」「皆さんいかがですか?」  「お会いできて嬉しいです」「また、こちらにお いででしたらお立寄り下さい」などは、本人が そう思っていなくても言わないのは社会的失策 とされる。  というように日常、言わないのは失礼だとい うので、あえて口をきく場合は無数にある。  各種の社会的グループは、それぞれの形式の こうした話し方を持っているものである。  そういうことで、「座談のやり方」とか、「お 喋べり」「ほめ合い」はアメリカ人の特に愛好 するところである。

 こういった社会的実践から、一般原則とし

て、次のようなことが言える。   「黙っていないようにすることも、言葉の重 要な機能である」  社会では人が何か「話すべきことがある」時 にだけ話す、というわけにはいかない。  この社会的会話である前記号的言葉は、動物

一10一

(11)

の叫びと同じく一種の行動である。  人はなんでもないことを話し合い、それに よって友情を築き上げる。  話の目的は、話しの内容の意味により何かの 知識を通達するというより、親交を深めるとい うことにある。  人間は、親交を結ぶための種々の方法を有し ている。一緒に食事をする、ゲームをする、共 に働くなど。話しを一緒にするというのもその 一つである。  ということになると、社交的会話においては 話を一緒にするということが第一の目標で、内 容は第二ということになってくる。  したがって、話題の選択にも原則が必要とさ れてくる。親交を結ぶことが目的であればお互 いに一致が直ちに得られる話題を注意して選ぶ べきである。  ふたりの初対面の人が互いに話しをする必要 を感じたとする。 A「良いお天気ですね」 B「良いお天気です」(一つの点で一致が得ら  れた) Arこの夏はお天気が続きますなあ」 Brよく続きます。春もようございました」(二  つの点で一致が得られた。第二の一致は第三  の一致を招く) A「いい春でした」(第三の一致に到達)  このように一致は話すことだけにあるのでな く、触発されて発表する意見にも見られる。  天候について一致が得られたら、次の一致に 進む。  「ここいらは農作物のよくできる地方だ」と か、「物価が上がって困る」とか、ニューヨーク は行って見るには良い所だが、住むには向かな い」とか。

 このようにして、新しい一致が得られる度

に、どんな平凡なきまりきったことであろうと も、初対面の恐怖と懸念は拭い去られ、友情の 可能性が増してくる。  更に話を進めるうちに、ふたりの間に共通の 友人があったとか、政治的見解や趣味・道楽で 共通だったとかいうことが明らかになり、友だ ちとなり、本物の交際と協同が始まることと なってくる。 。 言葉は、自分を相手の人にわかってもらい、 安心させる手段である。   これも言葉の前記号的用法の一つである。 。 言葉は、友情や親交を育む手段である。   これも言葉の前記号的用法の一つである。 。 言葉は、話をつなぐ手段である。   これも言葉の前記号的用法の一つである。  知り合いたちは特別に話し合うことがなくと も、話し合うことを好む。  同じ家に住む人々、同じ事務所に働く人々 は、大して用もないのにいつまでも話し合って いる。  その両方の場合とも退屈しのぎという目的も あるけれど、一つには、更にこれが重要なのだ が、話しをつないでおきたいのである。  人間は、話がつながっていなければ、縁がつ ながっていないような気がするものである。 。 言葉は、人間の儀式的行動において社会的結 びつきや一体感を再確認する手段である。   これも言葉の前記号的用法の一つである。  その言葉は、音声のお決まりの組合せで、知 識は伝達しないけれども、感情が(しばしば集 団の感情が)附随しているものである。  典型的な例は、宗教的儀式で、牧師か坊さん が何か述べるが、それは大てい集まっている 人々にわからない言葉である。(ユダヤ教では ヘブライ語、ローマ・カトリヅクではラテン 語、中国や日本の寺ではサンスクリヅト)、そ の結果、出席者には何の内容も通達されない。  それでもキリスト教徒が教会を出る時には、  どんなお説教だったかもうはっきりと覚えては いないとしても、「何か良かった」という感じ になっている。   「何が良かった」のかといえば、クリスチャ  ンは仲間のクリスチャンに、アメリカ人はアメ  リカ人に、フランス人はフランス人に、自分の 宗派の儀式に参加した結果、一そうの結びつき を感じるのである。それぞれの社会は、ある一

一11一

(12)

220 長野大学紀要 第23巻第3号 2001 組の言語的刺激に対して共通に反応するという このような絆によって結びつけられているわけ である。 (personal feelings)の雰囲気で、例えばブタに 対して「ああ、あの小屋でブウブウ言っている 汚ない、臭い動物か」など。 。 言葉は、社会の構成員を結びつける絆であ る。 。 言葉は、話し手が直接感情を表出する手段で ある。 。 言葉は、聞き手の感情に感化を及ぼす力を持 つものである。

 その場合における

①第一の感化的要素は、声の調子、その高

 さ、柔かさ、楽しさ、不愉快さ、発言の過程  における声量と抑揚の変化である。 ②もう一つの感化的要素はリズムである。   リズムとは、ある一定の間隔での聴覚的刺  激の繰り返しによる効果に与える名称であ  る。   リズムは非常に感化的で、人が注意を乱さ  れたくない時にさえも注意をとらえてしまう  働きをする。 ③音声とリズムに加えてもう一つの重要な感  化的要素は、快、不快の感情の雰囲気であ  る。   それは、あらゆる言葉に影響するものであ  る。 。 言葉は、その性質上用具的(instrumental) なるが故に、使われる目的によって、通達的内 包(informative connotations)と感化的内包  (affective connotation)を持ち得るものであ る。  通達的内包とは、社会的に同意された非個人 的意味(impersonal meanings)である。

 例えば、動物のブタを説明するのに「四つ

足、哺乳類の家畜で一般にブタ肉、ベーコン、 ハム、ラードを取るために農家で飼われるも の」というような場合、  感化的内包とは、それが惹起する個人的感情 。 言葉は、感情表出のすべてにわたって語の持 つ感化的内包をある程度利用するものである。  人が強く感動すると、その感情をそれにぴっ たりした感化的内包を持つ語(言葉)によって 表出する。

 その語の持つ通達的内包には注意を払わず

に。腹を立てた時、人を「オオカミ」とか、「ク マ」とか、「イタチ」とか呼び、愛する時には  「ハニー(密)」とか、「ハト」とか呼ぶ。 。 言葉は、すべてその使い方で、感化的性格を 帯びるものである。  ある人を「あの紳士」「あの人」「あの男」「あ いつ」「あの野郎」などと呼ぶことがあるが、そ の人は同じ人であり、そういった呼び方は、そ の人に対する他の人々の感情の差異を現わして いる。 。 言葉は、その感化的内包が、その社会にとっ て不快か、望ましくないかのために、使おうと する時にも使えず、むしろ注意して使うのを避 けなければならないというものも沢山あるもの である。  ある社会では、食うことについて語ることが 失礼となり、生理や性に関係のある言葉は、た とえ、僅かにそれを暗示する言葉であっても感 化的内包を伴っているというので使ってはいけ ないことになっている。  こういうものを「言語的タブー」と呼んでい る。 。 言葉は、われわれがひどく腹を立て、その怒  りを荒っぼく表出する必要を感じる時、荒れ 狂って家具をこわしたりする代用となり、感情 表出の危機に際して一種の安全弁の役をするも のである。 。 言葉は、人間にある行為を起こさせる手段で ある。

一12一

(13)

 「命令」とか「要求」とか「指令」とか呼ぶ ものは、言葉によってある事を起こさせるため の最も単純な方法である。  「この候補者は偉大な人物である」と述べて 他の人々に投票するように影響を与えるような 遠廻しの方法もある。 。 言葉は、人間の未来の活動を調整し、指導  し、影響を与える道具である。 。 言葉は、まだ現地が実在しないにもかかわら ず、その地図を作成可能とする道具である。 。 言葉は、あるべき現地の地図よりわれわれ自 身を導いて、未来の出来事にある予告可能性を 与えることができる道具である。 大きく変わるものである。  「ボーイ・スカウトは清潔で忠誠で勇敢であ る。」  「警官は弱い者の味方である。」  という説明は、あるべき目標を示したもの で、必ずしも「現在の状況」を述べたものでは ない。

 ところが、人は、こうした定義を描写的

(descriptive)なものと考え、そのため、ある ボーイ・スカウトが忠誠でなかったり、ある警 官が弱い者いじめだったりすると驚き、恐れて 幻滅を感じがちである。  そして、人は、「ボーイ・スカウトはこりご りだ」とか、「警官には呆れた」とか決めてし まったりするが、これは見る側の間違いであ る。 。 言葉は、未来の出来事の調整を可能にする道 具である。 。 言葉は、人間を社会で同意された行動の型  (patterns of behavior)である社会的公民的習 慣に従わせるための調整(control)の手段であ  る。 。 言葉は、何についても全てを言い尽すことが できないものである。  例えば、指令的な言葉に含まれた約束も「あ るべき現地(想定された現地)」の「あらまし」 の地図以上には出ないものである。  それどころか未来は、それらのあらましに予 期しないしかたで細目を描くことがある。時に は、未来は、われわれの想定する「地図」に全  く関係なく展開するかもしれない。しかも、約 束した出来事を実現しようとするわれわれのあ らゆる努力にもかかわらずである。   しかし、それはそれなりに指令が必ず未来に 完全に型をはめることはできないということの 理解は、われわれに不可能な期待を持ち、不必 要な失望を味わわないですませるという効用と  もなっている。 。 言葉は、意味のとり方によって、その作用が 。 言葉は、しばしば理解する側が意味を不適当 にとってしまい、そこで言われていないことま でも読み込んでしまう場合があるものである。 。 言葉は、感化的コミュニケーションの媒体で ある。   「私がオーディトリー・イマージネーション  (auditory imagination)と呼ぶものは、音節と  リズムに対する感じで、それは、思考と感情の 意識的なレベルのはるか下まで滲み透り、あら ゆる語に生気を与えている。それは、最も原始 的な忘れられた所に潜り込み、起源に立ち返  り、何かを持ち帰り、初めと終りを探し求め る。それは正に意味を貫いて作用し、あるい は、いわゆる意味を伴ない、古い、忘れられた ものと陳腐なもの、現行のもの、そして、新し いものとを融合させ、最も古めかしい精神と最 も文明的な精神とを驚かす。」

      T・S・エリオヅト

  このような影響が感化的コミュニケーション である。 。 言葉は、協力して社会を作ろうとする人々の 間の愛、友情、公共性等が確立する前にまず必 要とされるある人と他の人の間に流れる一脈の 共感性(sympathy)を育む媒体である。

一13一

(14)

222 長野大学紀要 第23巻第3号 2001 。 言葉は、場合によっては、人間に催眠術的効 果を及ぼすものである。  耳ざわりの良い演説、長々とした話、もった いぶった態度というものは、話の内容にかかわ  りなく、聞く人に対して結果において感化を及 ぼすものである。  印象的な言葉で綴られた説教、演説、政治的 雄弁、文章、美文を、読んだり聞いたりしてい る時には、われわれは批判的であることを全く やめて、話し手・書き手が思う通りに、興奮し たり悲しんだり喜んだり怒ったりしていること が多い。   まるで蛇使いの笛に魅せられた蛇のようにわ れわれは言語的催眠術の音楽的章句に支配され ている。 いる。 後者を可能にする要因は本が読めることであ り、その基盤となる言葉を身につけていること である。  人々は、新しく記号的経験を積む毎に、人間 と事件への洞察力が豊かになってくる。  われわれが成熟した読者なら、読書のたびに われわれは進歩する。世界が広くなり、想像力 を働かせれば、さらに世界が広くなる。それに つれて、われわれの頭の中の「地図」は、多く の異った状態、異った時代の人間の性格と行動 の実際の「現地」のより充実したより正確な図 となる。さらに、われわれの洞察力は増し、到 るところの人間同胞への共感性を与えるものと なってくる。 。 言葉は、われわれが互いに知識を交換し、観 察したことをプールし、人類の環境を集団的に 調整できるようにする媒体である。 。 言葉は、人間が環境から経験によって得た知 識と感情を音声記号的再現に結晶したものであ る。

。 言葉は、人間の記号的経験(symbolic

experience)を豊かにする最高の手段である。

 実際、良い文学を読んだ人々は、読めない

人々、読もうとしない人々よりも、より多くよ  り豊かに人生を生きたことになる。  読書は他の人々が人生についていかに感じた かをわれわれに感じさせる。たとえその人々が 何千マイル離れた所、何百年前の人々であろう とも。われわれは自分のみのただ一つの人生し か生きられないと考えることは正しくない。わ れわれは本を読みさえすれば、望むままに更に 幾つもの人生でもどんな種類の人生でも生きら れるのである。 。 言葉は、外在的世界と人間の内面的世界をつ なぐ媒体である。 。 言葉は、記号的経験(symbolic experience) という代償経験(vicarious experience)を可能 にする手段である。  人間が「生きる(1iving)」ということは、「自 分の人生を生きる」ことと、「他人の人生を書 物の中で生きる」こととの二つの意味を持って 。 言葉は、人間が知識を蓄積し後々の世代の 人々に渡すための記号や手段である。  書かれた記号である文字や書物は、その典型 である。 。 言葉は、人間の心理的緊張を緩和、調整する 手段である。  不幸な体験をしたような場合、そのことを同 情的な友人や、仮想的な同情的読者、または自 分自身にでも口に出して言ったり、文章に書い たりして訴えれば、耐えられるようになるもの である。もし、われわれの言葉による記号化  (表現)が適切で十分であれば、不幸な体験に よる緊張は、言葉によって調整され、おさまっ てくるようになる。

 誰でも知っている通り、激しく怒った時に

は、長々と無作法な言葉を吐き出すと気持が緩 和されるということがある。 。 言葉は、社会的なものであり、あらゆる話し 手には聞き手が伴なうものである。  その結果の一例として、ある発言が話し手の 緊張を緩和するとすれば、聞き手にも同様の緊

一14一

(15)

張があれば、それも緩和されることとなってく る。 。 言葉は、詩や文学作品を味わったり作ったり することを通して、人々に心理的健康と平衡  (equilibrium)を保たせるものである。 。 言葉は、それを使う人々の心に魔法的なしか たで影響を及ぼすものである。 。 言葉は、人々の考えを型にはめ、感情を通  じ、意志と行動を導くものである。 。 言葉は、生き物であり、絶えず変化している ものである。  つまり、言葉は、静止した客体ではなく、力 動的な過程である。 。 言葉は、全て人間の経験の抽象である。  ただし、抽象のレベルには低いレベルから高 いレベルの抽象に到るまでいろいろな段階があ るものである。 。 言葉は、社会と呼ばれる相互同意の広大な網 の目(vast network of mutual agreements)を つなぐ媒体である。 。 言葉は、人間自身の外在的秩序と内的秩序を つなぐかけ橋である。 。 言葉は、人間が自分の経験を外在的に知るだ けで満足しないで自分の見たり、感じたりした ことを自分に語らずにいられない性向を満足さ せる手段である。 。 言葉は、自分の経験を一つの一貫性ある全体 に秩序づける総合的活動である。 。 言葉は、物事についての話し、話しについて の話し、話しについての話しについての話し、 というように色々な抽象のレベルで用いられる ものである。 。 言葉は、世界についてのわれわれの画像に秩 序を与えるものである。 。 言葉は、人間の神経体系と、その外側の何か との相互作用(interaction)をバックアップ゜す る媒体である。 。 言葉は、発音、綴り、語彙、文法、文構成法 等の要素から構成されるものである。 。 言葉は、人間の経験の代数的抽象記号であ  る。 。 言葉は、出来事を予告したり、仕事を運んだ  りするために有用な抽象記号である。 。 言葉は、言葉について定義し、説明、叙述で  きるものである。 。 言葉は、低いレベルの抽象から高いレベルの 抽象へ、反対に高いレベルより低いレベルへの 自由な移動を可能にする媒体である。 。 言葉は、不断の流動状態にある世界を意味の まとまりという断面毎に切り取って記号によっ て抽象したものである。 。 言葉は、人間と現実の間の案内となるかわり に、障壁ともなり得るものである。 。 言葉は、正確には、二度と同じ意味を持たな いものである。 。 言葉は、人間に時間と努力の経済をもたらす ものである。 。 言葉は、人間の持つ抑圧された心的内容を解 放する表現媒体である。 。 言葉は、人間の経験する現地の地図である。 。 言葉は、現地ではなく、あくまでも現地を示 す地図に過ぎないものである。

一15一

(16)

224 長野大学紀要 第23巻第3号 2001 。 言葉は、現地や現物の抽象である。 。 言葉は、人間が自分自身について作る地図で ある自己概念を形づくる媒体である。 。 言葉は、人間社会の相互作用を活性化するも のである。 。 言葉は、人間生存の基礎的機構に必要とされ る種族内の広い協同を可能にするものである。 。 言葉は、人間の持つ神経システムの能率を高 めるものである。 。 言葉は、人間の関心を広め、認識の感受性を 高めるものである。 。 言葉は、使い方によっては武器とも凶器とも なり得るものである。 。 言葉は、使い方によっては、意思の不統一と 衝突を起こしたり、または、それを激化させた  り、協同が不可能だという信念を固めたりする 働きをもするものである。 。 言葉は、知識を分かち合い、同情と理解を深 め、人間の協同を可能にする手段である。 。 言葉は、人間の経験に豊かな意味と、関連性 を満たしてくれるものである。 。 言葉は、人間が経験の中に何を見出すかを感 知する意味のネットワークである。 。 言葉は、人間を導く外在モデルである。 。 言葉は、人間の生活の抽象モデルである。 。 言葉は、経験を意味の織り物に変える媒体で ある。 。 言葉は、複雑な人間性の地図を描くことので きる媒体である。 。 言葉は、意味のある経験を二重、三重に拡 げ、感化していく媒体である。 。 言葉は、人間の経験の抽象的、科学的一般化 を促進する媒体である。 。 言葉は、人間が自身の幸福と生存のために、 できるだけ多くの人から知識を得ようとし、ま た自分の知識に価値があると思う時にはできる だけ広く人々にそれを広めようとする際の手段 である。

引用・参考文献

1 エドワード・サピーア(Edward Sapir)著 泉井久 之助訳:「言語 ことばの研究(LANGUAGE An Introduction to the Study of Speech)」 全254頁、紀 伊国屋書店 1957年 2 ジョン.B.キャロル(Carro11, Jhon B)編B.L. ウォーフ (Benjamin Lee Whorf)著、池上嘉彦 訳:「言語・思考・現実(Language, Thought and Reality)1 全345頁 講談社学術文庫 講談社 1993年 3 ルイス・マンフォード(LEWIS MUMFORD)著、  「技術と人類の発達 機械の神話(THE MYTH

OF THE MACHINE TECHNICS&HUMAN

DEVELOPMENT) 河出書房新社 1977年 4 C.クラックホーン(Clyde Kluckhohn)著 外山 滋比古、金丸由雄訳:「文化人類学の世界 人間の鏡  (MIRROR FOR MAN)」 講談社現代新書 全229

頁講談社昭和46年

5 C.クラックホーン(Clyde Kluckhohn)著、光延 明洋訳:「人間のための鏡(MIRROR FOR MAN)」  全272頁 サイマル出版会 6 (1)フィリップ・ボック(PHILIP K.BOCK)著、江   淵一公訳:「現代文化人類学入門(一)(MODERN   CULTURAL ANTHROPOLOGY an introduc−   tion)」講談社学術文庫 全197頁 講談社 昭和   53年  (2)フィリップボック著、江淵一公訳:「現代文化   人類学入門⇔」講談社学術文庫 全316頁 講談   社 昭和52年  (3)フィリヅプボック著、江淵一公訳:「現代文化

一16一

(17)

 人類学入門⇔」講談社学術文庫 全311頁 講談  社 昭和52年 (4)フィリップボック著、江淵一公訳:「現代文化  人類学入門四」講談社学術文庫 全211頁 講談  社 昭和52年 7 S.1.ハヤカワ(S.1.HAYAKAWA)著、「思考  と行動における言語」(LANGUAGE IN THOUGHT AND ACTION」 全299頁 岩波現代叢書 1951年 8 J.B.キャロル(Jhn B. Carroll)著、詫摩武俊訳: 「言語と思考(LANGUAG AND THOUGHT)」 全199頁 岩波書店 1972年 9 F.P.ディ.ニーン(Francis P. Dinneen)著、 三宅 鴻、山中桂一、秋元実治共訳:「一般言語

学(AN INTRODUCTION TO GENERAL

LINGUISTICS)」 全606頁 大修館書店 1973年 10 」.T.ウォーターマン(John Waterman)著、  上野直蔵・石黒昭博訳:「現代言語学の背景  (Perspectives in Linguistics)」 全158頁 南雲堂 1975年 11ディヴィッド・E.クーパー(David E. Cooper)  著、大出 晃、服部裕幸共訳:「ことばの探究 その  哲学的分析(PHILOSOPHY AND THE NATURE  OF LANGUAGE)」 全422頁 紀伊国屋書店 1976 年 12 G.A.ミラー(George A. MiHer)著、無藤 隆・  久慈洋子訳:「入門 ことばの科学(LANGUAGE  AND SPEECH)」全195頁 誠信書房 1993年 13  1nternational Encyclopedia of Linguistics  VoluMe1全429頁、 Volume2全440頁、 Volume3  全456頁、Volume4全482頁、 New York Oxford  「OXFORD UNIVERSITY PRESS」 1972 14鈴木孝夫著  「ことばと文化」

 頁岩波書店1993年

岩波新書 全207 15 鈴木孝夫著:「教養としての言語学」 岩波新書  全239頁 岩波書店 1996年

一17一

参照

関連したドキュメント

この 文書 はコンピューターによって 英語 から 自動的 に 翻訳 されているため、 言語 が 不明瞭 になる 可能性 があります。.. このドキュメントは、 元 のドキュメントに 比 べて

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

2021] .さらに対応するプログラミング言語も作

しかし,物質報酬群と言語報酬群に分けてみると,言語報酬群については,言語報酬を与

わかりやすい解説により、今言われているデジタル化の変革と

今回の調査に限って言うと、日本手話、手話言語学基礎・専門、手話言語条例、手話 通訳士 養成プ ログ ラム 、合理 的配慮 とし ての 手話通 訳、こ れら

析の視角について付言しておくことが必要であろう︒各国の状況に対する比較法的視点からの分析は︑直ちに国際法