古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤
町
著者
斎藤 善之
雑誌名
東北アジア研究センター報告
号
4
ページ
23-50
発行年
2012-02-28
URL
http://hdl.handle.net/10097/53972
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と
通町・堤町
斎
藤
善
之
はじめに
東 北 学 院 大 学 の 斎 藤 で す。 私 は 宮 城 歴 史 資 料 保 全 ネ ッ ト ワ ー ク の メ ン バ ー と し て、 こ れ ま で 平 川 新 さ ん と と も に 各 地 の 史 料 調 査 な ど に も 関 わ っ て き ま し た。 そ う し た 関 係 か ら 今 回の通町歴史講座の企画にも加わらせていただいております。 さ て 本 日 は こ の 北 山 地 域 に お け る 江 戸 時 代 後 期 の 仙 台 城 下 町 の 商 業 流 通 の 様 相 に つ い て、 古 文 書 を ひ も と き な が ら お 話 を さ せ て い た だ き ま す。 と こ ろ で 本 日 使 う 史 料 は、 ほ と ん ど が『 仙 台 市 史 』 の 史 料 編 に 掲 載 さ れ て い る 史 料 で す。 『 仙 台 市 史 』 と い っ て も、 実 は 現在刊行中の新 『仙台市史』 でなく、戦後すぐに作られた旧 『仙台市史』 です。実は今回、 こ の 企 画 の 話 を う け て、 あ ら た め て 新 旧 の『 仙 台 市 史 』 を 読 み 直 し て み ま し た。 特 に 北 仙 台 地 域 と 仙 台 商 人 と い う 視 角 か ら 史 料 を 再 読 し て み た と こ ろ、 以 前 読 ん だ 時 に は 気 づ か な か っ た こ と に も 気 づ か さ れ ま し た。 そ こ で そ れ ら の 史 料 に よ っ て、 こ の 地 域 の 江 戸 時 代 の様子を再考してみたいと思います。
Ⅰ
仙台城下商人と流通独占体制の確立
1 流通独占体制の成立 ま ず 史 料 1( 24頁 ) を ご 覧 下 さ い。 こ れ は 寛 政 元 年( 一 七 八 九 ) に 仙 台 城 下 の 六 ろ く 仲 な か 間 ま 商 人 た ち が、 城 下 の 検 断 を 通 し て 出 し た 願 書 で す。 六 仲 間 商 人 と は、 木 も め ん 綿 ・ 絹 き ぬ ぬ の 布 ・ 古 ふ る 手 て ・ 繰 く り わ た 綿 ・ 小 こ 間 ま 物 も の ・ 薬 や く し ゅ 種 といった六つの商品を扱っている商人たちによって結成された仙台の 同 業 仲 間 組 織、 い わ ゆ る 株 仲 間 の こ と で す。 表 題 の 冒 頭 に「 木 綿・ 古 手・ 綿 布・ 小 間 物・ 繰綿・薬種」とあり、 これが六仲間を意味していることがわかりますが、 このうち「綿布」 は絹布の誤字とみられます。この史料の末尾には同じ順番での表記がありますが、そちら には「絹布」とあります。 この史料は、江戸時代中期に六仲間の商人らが自らの商売上の権利・商権を守ろうとし て藩に訴えたものです。以下、史料の表記に従ってその経緯をみていきましょう。 史料 1の傍線部①をみると次のようになります。まず話は「 貞 て い ざ ん さ ま お ん だ い 山様御代 」すなわち伊達 政宗の時代にさかのぼります。大町通やその他の町々が永く「繁昌」するための品々(方 策)を考えて上申するようにと、藩から大町 検 け ん だ ん 断 の青山出雲に対して下命があり、これを うけた青山は 「奥商人共」 が関東や上方から商品を直接仕入れることを以後 「 御 お 止 と め 下され」 すなわち禁止していただくとともに、彼らが御城下において諸仕入れをするよう、さらに 他領の商人に対しても「 問 と ん 屋 や 付 づ き 商売」すなわち六仲間に附属(従属)して商売をするよう 史料1 寛政元年(一七八〇) ・仙台城下六仲間の 願書 〈『仙台市史(旧) 』9資料篇2・66頁~〉 六仲間願状寫 〔小谷文書〕東北大學圖書館蔵 木綿古手綿布小間物 繰綿薬種右六仲間商人共 乍憚覚書ヲ以奉願上候 乍恐 ① 貞 山 様 御 代、 大 町 通 余 町 共 ニ 永 世 繁 昌 可 仕 品 〻 相 考 可 申 上 由、 大 町 検 断 青 山 出 雲 殿 江 被 仰 渡 候 ニ 付、 御 同人被申上ハ、奥商人共上方関東ゟ商賣物直仕入向 後御止メ被下、 御 城 下 ニ 而 諸 仕 入、 且 他 領 商 人、 問 屋 付 商 賣 仕 候 様 被 成 下 候 得 ハ、 一 統 賑 合 ニ 可 罷 成 趣 被 申 上 侯 ニ 付、 右之通被 仰付、上方関東ゟ直仕入之儀、拙者共仲 間 江 御 免 被 成 下 候 上、 寛 永 八 年 大 町 豊 後 様、 今 泉 山 城様ヲ以 御墨印被置候處、寶永年中大火之砌焼失 仕候儀、留 ニ 相記置申候 、 一 寛文七年、奥商人共、江戸上方直仕入御免被成下 度 由、 山 崎 平 太 左 衛 門 様 江 願 申 上 侯 處、 御 吟 味 難被成下旨、 被仰渡侯儀、留相記置申候 、 ②古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 にしていただければ、 「一統」の賑わいになるでしょうと上申したというのです。 す な わ ち 仙 台 城 下 町 を 繁 栄 さ せ る た め に は、 城 下 の 一 部 特 権 を 与 え ら れ た 商 人 た ち の み が 上 方 関 東 か ら の 直 接 仕 入 れ が で き、 領 内 の 商 人 ら は そ れ ら 城 下 特 権 商 人 か ら 商 品 を 購 入 し な く て は な ら な い と い う 流 通 の 仕 組 み を 作 る こ と を 藩 に 上 申 し て い る わ け で す。 こ こ で 「 奥 お く 商 しょう 人 に ん 」 と あ る の は、 仙 台 よ り も 北 の 地 域、 例 え ば 古 川 を は じ め と す る 在 町 の 商 人 た ち の こ と で す。 こ の 地 域 は 奥 お く ぐ ん 郡 と も 通 称 さ れ た こ と か ら、 こ の 地 域 の 商 人 を 奥 商 人 と 呼 ん で い た の で す。 ま た「 一 統 」 と い う の は、 こ こ で は 大 町 を 中 心 と す る 城 下 特 権 商 人 た ち の こ とでした。 さ て こ の 上 申 で す が「 右 の 通 り 仰 お お せ 付 け ら れ、 上 か み が た 方 関 東 よ り 直 じ か 仕 し 入 い れ の 儀、 拙 せ っ 者 し ゃ 共 ど も 仲 間 へ 御 ご 免 め ん 成 な し 下 さ れ 」 と あ り、 藩 か ら 承 認 さ れ た こ と が 分 か り ま す。 そ し て 寛 永 八 年 ( 一 六 三 一 ) に は、 大 町 豊 ぶ ん 後 ご と 今 泉 山 や ま し ろ 城 の 連 名 に よ る「 御 お 墨 す み 印 い ん 」( お 墨 付 き ) が 下 さ れ て い ま す。 た だ し 当 該 史 料 の 表 記 か ら、 こ の 承 認 が 藩 か ら の 仰 付( 口 頭 指 令 ) と 御 墨 印( 文 書 発 給 ) と の 二 段 階 で な さ れ た こ と、 と く に 後 者 に 年 号 が 記 さ れ て い る こ と な ど か ら、 両 者 の間には多少なりとも時間差があったことが窺えます。 す な わ ち こ の 御 墨 印 は、 伊 達 政 宗 の 没 年 が 寛 永 十 三 年( 一 六 三 六 ) で あ る こ と か ら も、 政 宗 が 与 え た 特 権 を 晩 年 に な っ て 改 め て 文 書 で 確 認 し た も の と も い え る で し ょ う。 し か し な ぜ そ れ が 必 要 に な っ た の か と 考 え る な ら ば、 当 時 の 社 会 経 済 情 勢 と 結 び つ け て 考 察 さ れ る べ き か と 思 い ま す。 例 え ば 御 墨 印 が 大 町 商 人 た ち に 下 さ れ る 少 し 前 の 寛 永 三 年 ( 一 六 二 六 ) に、 伊 達 政 宗 の 命 を う け た 家 臣 川 村 孫 兵 衛 の 指 導 に よ っ て 北 上 川 の 流 路 改 修 工事が竣工したという事実があります。 これによって北上川は水上交通路として整備され、 一 延 寶 元 年 他 領 商 人 共、 奥 筋 江 入 込 候 ニ 付、 佐 藤 庄 左 衛 門 様、 國 井 仲 左 衛 門 様 江 御 訴 訟 申 上、 御 境 目 々 々 湊 々 共、 御 吟 味 之 上、 御 停 止 ニ 被 成 下 候 儀、留相見得申候 、 一貞享貳年、右同断御座候、 一 同 五 年 他 領 商 人、 奥 筋 江 直 通 不 仕、 大 町 之 内 江 店 借商 賣仕候様被仰渡、且奥筋商人共、江戸上方 ゟ直仕入、 弥以仕間敷由、御觸被成下候儀、留 ニ 相見得申候 、 一享保十六年、右同断御座候、 一寶暦九年、右同断御座侯、 右之通、先年ゟ段々重キ御吟味を以、御引立置被下 置候段、誠以難有仕合奉存候、然處、 近 年奥筋商人 仕 入 登 り 年 増 不 足 ニ 罷 成 候 ニ 付、 仲 間 之 者 共、 不 商 連々困窮相禿、明店多罷成候、大町通之儀ハ、別段 御飾之御所柄御座候處、不相應之商賣躰相成 、乍恐 御 先 代 様 御 思 召 茂 不 相 立、 隨 而 御 町 之 者 共、 千 萬 歎 ヶ 敷 罷 在 候、 依 之 内 々 吟 味 仕 候 處、 気 仙 沼、 石 巻、 両 所 商 人 共、 江 戸 上 方 ゟ 下 り 船 江 萬 物 直 仕 入、 奥 在 々 江 渡 賣 仕 候 荷 高 莫 大、 近 郡 向 寄 之 商 人 共、 右 両 所 ニ 而 仕 入 仕 候 得 ハ、 先 以 御 仲 役 不 相 懸、 其 上 諸 雑 用 不 足 勝 手 ニ 相 成 候 間、 追 年 津 方 直 仕 入、 盛 ニ 被 行 候 唱 相 見 得 申 候 問、 仲 間 〆 り 人 之 者 ニ 、 折 入 吟 味 ③ ④ ⑤ ⑥
仙台領北部(奥郡など)を貫く動脈として位置づけられました。これによって河口港とし て の 石 巻 は、 広 大 な る 北 上 川 流 域 圏 と 艜 ひらた 船 ぶ ね に よ り 一 層 緊 密 に 結 び つ け ら れ る こ と に な り ました。これは仙台城下と離れた地域のできごとのようですが、しかしこのできごとと城 下商人の動きとは連動していると考えるべきです。 それというのも北上川の河川改修により、上方や江戸から石巻へ帰る 廻 か い せ ん 船 が積んで来た 商品が、仙台城下(大町商人ら)経由でなく石巻から北上川を使って奥郡へ直接入ってい くルートが開通したこと、すなわち奥商人たちにとって非常に便利でコスト的にも安い流 通路が形成されたことを意味したからです。 いっぽう仙台城下の商人にとっては、北上川の改修事業は、自分たちを経由して奥商人 へ諸商品がもたらされるという仙台藩の基本的な流通構造に対する脅威となったと考えま す。この時期に改めて御墨印発給が求められたものは、基本的な流通構造の再確認が必要 とされていたことと関わるのではないかということです。 2 近世前期における流通独占体制の再編強化 次に史料 1の傍線部②をみると、寛文七年(一六六七)に至り、奥商人たちがそれまで 禁 止 さ れ て い た 江 戸 や 上 方 か ら の 直 じ か 仕 し 入 い れ を「 御 ご 免 め ん 成 な し 下 さ れ た く 」( 免 除 し て い た だ き たい) と藩に願い出たことがわかります。これに対し藩は 「 御 お 吟 ぎ ん 味 み 成 な し下され 難 が た き旨」 (検 討することはできない)として却下しています。すでに確立しつつあった城下商人たちの 独占特権に対して、奧商人たちが異議をとなえていたことがわかります。 さらに史料 1傍線部③の部分によれば、延宝元年(一六七三)に他領(藩領外)の商人 為 仕 候 處、 大 船 ゟ 夜 中、 密 荷 小 舟 ニ 而 忍 ニ 運 送 蔵 入 仕 置、 渡 賣 も 右 之 手 段 仕 候 様 子 ニ 相 見 得、 自 分 ニ 始 末 可 仕 様 無 之、 無 拠 仕 合 罷 在 候、 仍 而 憚 至 極 奉 存 候 得共、津方商人共之儀、萬々御吟味被成下度奉願上 候 、 奥 筋 商 人 共 之 儀 ハ、 御 定 之 通、 御 城 下 ニ 而 諸 仕 入商賣仕候様、御觸被成下度奉存候 、委細之儀、御 尋も御座候ハヽ、別紙ヲ以可奉申上候、先年ゟ段々 御 觸 御 座 候 而 御 停 止 之 儀 申 上 候 ハ、 遠 慮 至 極 奉 存 候 得 共、 當 時 之 通、 不 商 ニ 而 ハ、 拙 者 共 ニ 不 限、 御 町 中一統衰微可罷成与重々歎ヶ敷、前々重ク御吟味被 成 下 候 御 儀 も 御 座 候 間、 不 顧 憚 如 斯 奉 願 上 候、 以 上、 寛政元年 木綿 當番 十月廿一日 古手 同 絹布 同 小間物 同 繰綿 同 薬種 同 青山五左衛門殿 米川十右衛門殿 ⑦
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 ら が 奥 筋 に 入 り 込 む 事 件 が あ り、 こ れ を 城 下 商 人 た ち が 藩 に 訴 え て、 境 目 や 港 な ど で 調 査 が な さ れ、 そ う し た 行 為 の 禁 止 を 改 め て 申 し 渡 さ れ て い ま す。 な お 貞 享 二 年( 一 六 八 五 ) にも同様の事件があったとされます。 ち な み に こ の よ う な 動 き の 背 景 と し て、 時 期 が 重 複 す る 寛 文 十 一 年( 一 六 七 一 ) の 寛 文 事 件、 い わ ゆ る 伊 達 騒 動 が 想 起 さ れ ま す。 こ れ は 仙 台 藩 を 揺 る が し た 一 大 政 治 的 事 件 で し た が、 そ の よ う な 藩 の 混 乱 に 乗 ず る よ う に、 特 権 的 流 通 機 構 か ら 締 め 出 さ れ て い た 奥 商 人 や 領 外 商 人 ら が 禁 じ ら れ た 営 業 活 動 に 動 き 出 し た と 考 え る の は う が ち す ぎ で し ょ う か。 し か し こ の 時 期 に 藩 領 の 内 と 外 か ら あ た か も 呼 応 す る よ う に 独 占 的 流 通 機 構 を 突 き 崩 す よ う な 動 き が 顕 在 化 し た こ と は、 や は り こ う し た 大 き な 社 会 的、 政 治 史 的 状 況 を も ふ ま え て み ていく必要があるというのが私の考えです。 さてこうした動きに対して、 史料 1傍線部④によれば、貞享五年 (一六八八) に藩は、 「他 領 商 人、 奥 筋 へ 直 通 仕 ら ず 」 お よ び「 奥 筋 商 人 共、 江 戸 上 方 よ り 直 仕 入、 弥 い よ い よ 々 も っ て 仕 る ま じ き 由 お 触 れ な し く だ さ れ 」 と、 他 領 商 人 と 奥 商 人 の そ う し た 行 為 を 厳 し く 禁 止 す る と い う 通 達 が 重 ね て 出 さ れ ま し た。 奥 商 人 と 他 領 商 人 の 直 接 取 引 を 遮 断 す る と い う 従 来 の 方 針 を 一 層 徹 底 し た も の で す が、 注 目 さ れ る の は、 た だ 禁 圧 す る だ け で は こ う し た 行 為 を 根 絶 で き な い と み た の で し ょ う か、 「 大 町 之 内 へ 店 た な 借 が り 商 売 仕 り 候 様 仰 せ 付 け ら れ 」 と あ り、 奥 商 人 と 取 引 し た い 他 領 の 商 人 は、 大 町 に 店 借 り す れ ば や っ て よ ろ し い と い う 条 項 が 加 え ら れ て い る こ と で す。 藩 は、 領 内 外 の 商 品 流 通 に お い て 仙 台 城 下 を 経 由 さ せ る と い う 方 式 を堅持するうえで、そこに仲間外商人が参入できる余地をとったともみられます。 そ れ と と も に こ の 時 期、 仙 台 藩 の 流 通 機 構 に お い て 大 き な 動 き と し て 知 ら れ る で き ご と 史料 2 安永四年(一七七五) ・仙台城下大町商人 の願書 〈『 仙 台 市 史 ( 旧 )』 9 資 料 篇 2 ・ 4 8 頁 ~ 〉 大町三四五丁目肝入只野利右衛門願状寫 〔只野淳氏旧蔵〕 大 町 通 商 賣 物 之 儀 者 、 古 手 木 綿 呉 服 小 問 物 繰 綿、 右 五 品 ハ 壹 貳 三 四 丁 目 ニ お ゐ て 商 賣 可 仕 旨、 往 古 御 墨 印 大 町 江 被 下 置 候 處、 賓 永 年 中 大 火 之 節、 御 墨印ハ焼失仕候、 ( 中 略 ) 一 當 八 幡 堂 町 、 七 北 田 口 門 前 町 、 并 原 之 町 、 小 泉 河 原五軒茶屋 、 長 町 ハ、 御 城下續キ御郡方、右御門 前 町 共 ニ 、 右 場 所 ハ 御 町 之 同 前 ニ 辻 麻 店 同 様 ニ も 被成下、木綿ハ小切、古手ハときわけ物之類、商 賣 ニ 被 成 下 候 上 ハ、 木 綿 反 物 古 手 ハ、 着 類 大 町 通 に て 買 調 候 得 者 、 御 所 柄 賑 ニ 罷 成 候、 御 村 方 之 者 共、 多 く ハ 御 城 下 江 日 々 産 物 持 出 し、 商 賣 仕 候 ニ 付、 大 町 通 に て 買 調 候 共、 達 而 不 自 由 痛 等 ニ 罷 成 間 敷 候、 然 る 所、 御 城 下 出 口 并 端 々 ハ、 物 毎 下 直 ニ 御 座 候 由、 自 然 卜 申 觸 候、 全 躰 大 町 通 ゟ 仕 入 方 仕 候 義 ニ 御 座 候、 扨 又、 古 手 物 等 質 物 流、 御 城 下 ニ 而 買 出 候 共、 密 々 ニ 右 場 所 江 指 出 候 唱 等 御 座 候 處、右買出し商人共、質屋等ゟ買出し候共、壹丁 ② ③ ④ ⑤ ①
があります。貞享二(一六八五)年十二月、 塩 し お が ま 竈 町の住民らに対し九ヶ条からなる藩令が出された こ と で す。 「 塩 竈 村 之 者 共 に 可 申 渡 事 」 と い う 表 題 で 出 さ れ た こ の 藩 令 は、 発 令 さ れ た 年 号 か ら 「 貞 じょう 享 きょう 特 と く れ い 令 」 と も 呼 ば れ ま す が、 そ の 内 容 は 塩 竈 町 人 に 対 す る 地 じ し 子 ・ 諸 役 の 免 除、 金 銭 の 給 与、 年 ね ん い ち 市 ・ 六 ろ く さ い い ち 斎 市 ・ 見 み せ 世 物 も の 興 こ う 行 ぎょう の 開 催 許 可、 商 人 荷 物・ 五 い さ ば 十集 ・材木船の塩竈入港の強制、海岸新田 の開発許可などからなり、どれをとっても塩竈に 対する大きな優遇措置ということになります。 【写 真】 なぜこのような藩令がこの時期に塩竈に対して 出されたのでしょうか。実はこれに先だって寛文 十年(一六七〇)には、塩竈と蒲生を結ぶ沿海運 河「 御 お 船 ふ な 入 い り ぼ り 堀 」が開削されたことで、それまでは 塩 竈 を 経 由 し て い た 諸 商 品 が 運 河 に 流 れ て し ま い、塩竈町が衰微するという事態をもたらしてい たのです。これは塩竈町を門前町とする鹽竈神社 の衰退にも直結することから、折しも領内主要寺 社 の 振 興 を 政 治 方 針 と し て い た 藩 主 伊 達 綱 村 に 目 江 持 出 し 商 賣 仕 候 筈 ニ 御 座 候、 先 年 御 近 在 ゟ 専 地 古 手 相 出、 壹 丁 目 江 指 出 し 賣 買 仕 候 由、 其 頃 ハ 本柳町通横町小前下迄、 辻 嫁(稼)々と申、大勢 並 居 さ ま 〳 〵 の 古 手 商 賣 仕 候 ニ 付、 御 城 下 江 日 々 ニ 罷 出 侯 炭 薪 賣 等、 壹 丁 目 江 入 組、 右 之 買 物 重 ニ 仕 候 ニ 付、 甚 賑 申 候 由 ニ 御 座 候、 近 年 ハ 却 而 右 躰 之商物持出し、商賣仕候者無御座候、右御郡方と 乍 申 茂 、 御 城 下 續 き に 御 座 候 間、 木 綿 ハ 反 物、 古 手ハ着類之分、被相留被下置、右 辻 麻同前小切と き わ け 物 之 類 計 之 商 賣 ニ 被 成 下 候 上 者 、 壹 丁 目 通 ゟ 如 古 来 之、 御 所 柄 賑 ニ 罷 成 候 御 儀 ニ 奉 存 候 間、 乍恐申上候御事、 一 津 方 并 奥 在 々 江 、 大 町 通 仲 間 ゟ 密 荷 等 〆 り 人 相 下 し 置 候 處、 可 罷 成 御 義 ニ も 御 座 候 ハ ヽ、 奥 在 々 江 被 相 下 候 御 足 軽 衆、 御 小 人 目 付 衆 成 共、 船 荷 等 江 立 入 候 様 被 成 下 候 上 者 、 常 式 共 ニ 御 威 光 を 以、 別 而 〆 り 罷 成 候 儀 ニ 奉 存 観 間、 右 立 入 密 荷 等 吟 味 仕 候様被相下度、乍恐申上候御事、 右之通入御役被召上候義、壹ヶ年中、都合仕候金高 之御儀、當前を以申上候時ハ、直仕入之商人共、相 痛候趣意御座候得共、全く相痛候儀ハ 有 (ママ) 御座、右繰 綿 問 屋 役 ニ 銀 四 匁 置、 数 拾 ヶ 年、 近 年 ニ 罷 成 御 運 上 (写真)貞享特令(小池曲江書) (鹽竈神社博物館蔵)
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 とっては、これを放置するわけにはいかず、貞享特令の発令に踏み切ったものと考えられ ます。そして商人荷物、五十集、材木の三種に限ってではありますが、これらを搭載した 船の塩竈港への入港が義務づけられたことは、領内流通構造に大きな影響をもたらすこと になりました。これは基本的には仙台城下の仲間商人に与えたのと同様の独占的特権の一 部を、塩竈に対しても分与したわけで、仙台城下と塩竈港町とが一体となった領内流通機 構への再編ともいえます。いずれにしても仙台領内の流通構造をめぐって、こうした一連 の動きが寛文から貞享年間にかけて急速に展開したわけです。 3 天明期における流通独占体制の弛緩 ここまでが近世前期の仙台藩の流通機構の確立過程ともいえる部分です。 史料 1にはさ らにその後の状況についても書かれていますので、見てみたいと思います。 史 料 1傍 線 部 ⑤ に よ る と、 「 近 年、 奥 筋 商 人 登 の ぼ り、 年 と し 増 ま し 不 足 に 罷 ま か り 成 な り 」 と あ り、 奥 商 人 が 年 々 城 下 町 に 取 引 に 来 な く な っ て い る と い う の で す。 そ の 結 果「 ( 城 下 ) 仲 間 之 者 共、 不 ふ 商 あきな い 連 れ ん れ ん こ ん 々 困 窮 きゅう あ い 禿 つぶれ 、 明 あ き だ な 店 多 く 罷 ま か り 成 な り 」 と し て、 奥 商 人 が 来 な い た め 城 下 の 六 仲間の商人らの売り上げが落ち、次第に困窮して潰れる者も現われ、空き店舗も増加して い る と い う の で す。 ま た「 大 町 之 儀 は 別 段 御 お 飾 かざり 之 の 御 お ん 所 ところ 柄 が ら 」、 す な わ ち 大 町 は 仙 台 の な か でも特に 「御飾り」 (シンボル) の場所であるにも関わらず 「 不 ふ 相 そ う お う 応 の 商 しょう 売 ば い 躰 て い あいなり」 と、 中心部にふさわしくない状態になっているとの認識があるわけです。 ど う し て そ う な っ た の か が 傍 線 部 ⑥ に 書 か れ て い ま す。 内 々 に 調 査 し た と こ ろ、 気 仙 相納、此度右入御役、大町通五品一躰之上納にも罷 成候、 勿 論 仲 御 役、 右 壹 ヶ 年 都 合 仕 候 得 者 、 莫 大 之 上 納 に ハ 候 得 共、 金 高 ゟ 之 儀 ニ ハ 御 座 候 處、 少 分 宛 之 御 儀 に 付、 在 々 商 人 共 相 痛 不 申 儀 ニ 奉 存 候、 猶 更 入 御 役 之 儀 ハ、 金 高 ニ 而 被 召 上 候 と 違、 荷 物 壹 駄 ニ 付 被 召 上 候 得 者 、 相 痛 候 儀 無 御 座 候 儀 と 乍 恐 奉 存 候、 且、 他 町 木 綿 店 之 儀、 大 町 江 仲 間 入 仕、 直 染 等 ニ 仕 候 に 付、 大 町 通 不 賑 ニ 罷 成、 明 店 数 拾 軒 ニ 及 候 間、 右 店 他 町 仲 間 共、 引 移 候 得 者 自 ラ 御 所 柄 賑 ニ 罷 成 候、 尤 御 門 前 町 并 長 町、 原 町、 小 泉 河 原 之 儀 者 、 御 城 下 續 之 儀 ニ 御 座 候 得 共、 右 木 綿 古 手 反 物 着 物 之 類、 商 賣 被 相 留 被 下 置 候 共、 右 店 々 之 儀 者 、 品 々 小 細 之 類 迄 商 賣 仕 候、 大 町 通 之 儀 者 、 木 綿 店 等 不 限、 五 品 之 商 賣 共 ニ 壹 品 一 通 之 商 ニ 而 、 余 商 賣 物 取 合 せ、 店 々 江 飾 立 商 賣 不 罷 成 御 所 柄 之 儀 ニ 御 座 候 間、 右 御 郡 方 共 ニ 御 城 下 御 町 之 辻 麻 店、 門 前 ニ 被 下 候 共、 小 細 之 物 商賣仕候間、相痛候品々も有御座間敷奉存候、左候 得 者 、 大 町 通 店 々、 格 別 之 賑 ニ 罷 成 候 儀 ニ 奉 存 候、 然 ら 者 猶 更、 入 御 役 被 召 上 候 共、 直 仕 人 仕 候 商 人 共、 相 痛 申 儀 者 無 御 座 候 儀 ニ 奉 存 候 間、 右 品 々 不 顧 憚、乍恐存寄を以如斯申上候、以上、 大町三四五丁目肝入
沼・石巻、両所の商人どもが、江戸上方より下ってくる船から 直 じか に万物商品を仕入れ、そ れを奥在々へ売り渡しており、その荷物高は 莫 ば く だ い 大 にのぼっているというのです。また近隣 関係の商人共も、気仙沼や石巻で仕入れると「 御 お 仲 すあい 役 やく 」(取引税)がかからず、 「 諸 しょ 雑 ぞう 用 よう 」 ( 諸 経 費 ) も 少 な く て す む た め、 こ れ を 有 利 と し て 年 を 追 っ て「 津 つ 方 か た 直 じ か 仕 し 入 い れ 」 が 盛 ん に 行われるようになっているというのです。 こ う し た 事 態 に 仲 間 商 人 た ち は、 「 仲 間 〆 し ま リ 人 」 す な わ ち 仲 間 か ら 取 締 員( 調 査 員 ) を 現 地 に 派 遣 し「 折 お り 入 い り 吟 味 」( 特 別 調 査 ) を 実 施 し た の で す。 す る と 気 仙 沼 や 石 巻 の 港 に 停泊している大船から夜中に「 密 み つ 荷 に 」を小舟で密かに運送し蔵入りさせるといった実態も あ っ た と い う の で す。 こ れ で は「 自 分 に 始 し 末 ま つ 仕 つかまつ る べ く 様 よ う こ れ 無 く、 よ ん ど こ ろ な き 仕 し 合 あ い 罷 ま か りあり」と述べて、もう仲間たちだけではどうにも手に負えないという実態を訴えて います。 最後にこういう津方商人どもは厳重に取り調べて欲しい、また奥筋商人どもへはお定め のとおり御城下にて諸商品を仕入れるようお触れを出して欲しいと願い出ています。最後 の部分では、このままの状態では、自分たち大町商人に限らず「御町中一統 衰 す い 微 び 罷 ま か り成る べくと 重 じゅう 々 じゅう 歎 な げかわしく」と訴えております。 ところで冒頭の表記の「近年」とはいつ頃のことなのでしょうか。おそらくはこの史料 が 書 か れ た 寛 政 元 年 か ら せ い ぜ い 十 年 く ら い 遡 る ま で の 間 く ら い で は な い か と 思 い ま す。 するとここで述べられていたのは、 ほぼ天明年間(一七八〇年代)ということになります。 以上をまとめると 史料 1は、仙台藩と仙台城下町が成立してから近世中期の寛政頃まで の流通構造の変容や商人勢力の変転について述べたきわめて興味深い史料といえます。江 只野利右衛門 安永四年 十一月 史料 3 天 明 二 年( 一 七 八 二 )・ 藩 の 奉 行 か ら の 申 し渡し 〈『 仙 台 市 史 ( 旧 )』 9 資 料 篇 2 ・ 6 2 頁 ~ 〉 伊達氏奉行申渡状寫 〔國典十八冊集〕 宮城県圖書館旧蔵 今泉孫四郎殿 外記 眞山杢左衛門殿 下野 将監 近 年 軽 者 妻 妾 等、 古 手 賣 出 候 者 江 副 合、 古 手 令 商 賣、 代 呂 物 古 手 店 江 令 持 参 候 義 も 無 之、 右 店 之 者 商 之 障 ニ 相 成 旨 申 出、 御 町 奉 行 相 達 候、 右 商 人 之 内 ニ ハ 諸 士 宿 守、 并 門 前 拝 借 屋 敷、 御 扶 持 人 借 屋 躰 之 妻 等之内にも有之候様相聞得候、全躰密賣之義、甚女 之 身 と し て 令 振 賣 候 義、 不 都 合 之 事 ニ 候 間、 以 来 訖 度相止候様相通候 、首尾可有之候、以上、 二月十七日 右 之 通、 辻 店 組 合 □ ニ テ 御 用 前 上 野 権 太 夫 方 江 申 来 候事、 天明貳年六月 ①
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 戸時代初期に誕生し続いてきた大町の独占体制が、中期以後になると次第に動揺してくる の で す。 そ の 象 徴 が 大 町 に 代 表 さ れ る 仙 台 城 下 を 通 ら な い 商 品 の 増 加 と、 仙 台 中 心 部 の 町々の衰退として現れていることが分かります。
Ⅱ
城下町の内部からの流通独占の動揺
1 端々町の商業と流通独占体制の動揺 史料 1で描かれていた大町に代表される仙台城下町の衰退は、奥商人や他領商人、そし て両者を繋ぐ気仙沼や石巻など港町商人の新たな商業活動から引き起こされてきたことが 述べられていました。しかし実はそればかりではなくて、仙台城下町の内部から、いわば 足元からもそうした動きが芽生えてくるのです。 史料 2( 27頁)は、そうした状況をうか がうことのできるこれまた興味深い史料です。 史 料 2は 安 永 四 年 ( 一 七 七 五 )、 大 町 三 四 五 丁 目 の 肝 き も い り 入 の 只 た だ 野 の 利 り え も ん 右 衛 門 が 訴 え た 願 書 で す 。 傍 線 ① ~ ⑤ を ご 覧 下 さ い。 史 料 の 冒 頭 に 五 つ の 地 名 が 並 ん で い ま す。 ①「 当 と う は ち ま ん ど う ま ち 八 幡 堂 町 」 と は 八 幡 界 隈 ( 青 葉 区 八 幡 )、 ② 「 七 な な 北 き た 田 口 ぐ ち も ん ぜ ん ま ち 門 前 町 」 と は 通 町 界 隈 ( 青 葉 区 通 町 )、 ③ 「 原 は ら 之 の 町 ま ち 」 とは原町界隈 (宮城野区原町) 、④ 「 小 こ 泉 いずみ 河 か わ ら 原 五 ご 軒 け ん 茶 ち ゃ 屋 や 」 とは河原町界隈 (若林区河原町) 、 ⑤「 長 な が ま ち 町 」とは長町界隈(太白区長町)をそれぞれ意味しているとみられます。これを地 図上(大正元年「最新版 仙台市全図」 )に示してみました( 32頁) 。地図の下地は大正期 のものですが、町の基本構造は江戸時代のものとそう大きくは変わっていないものと思わ れます。 史料 4 天明二年(一七八二) 「仲騒録」 菊田源兵衛一件 〈『 仙 台 市 史 ( 旧 )』 9 資 料 篇 2 ・ 1 3 8 頁 ~ 〉 仲 騒 録 仙臺市菊池武一氏所蔵 天保十四癸卯九月、東昌寺門前菊田源兵衛、太物古 手 呉 服 等、 同 處 ニ 於 テ 直 仕 入 商 賣 仕 度 段 願 申 出、 右 願 相 済、 既 ニ 御 下 知 ニ モ 罷 成 候 風 説、 青 山 五 左 衛 門 殿エ御呼出シノ上、仰談ゼラレ願申上候寫左之通、 申 談 度 儀 之 レ 有 候 條、 明 四 ツ 時 打 揃 罷 出 ラ ル 可 ク、 尤モ折入談度儀 ニ 候條、直々罷出ラル可ク候、以上 天保十四年卯九月四日 青山五左衛門 中井新三郎殿 岩井作兵衛殿 谷口惣兵衛殿 日野定兵衛殿 鈴木新八殿 佐藤助五郎支配人 太兵衛殿 壷屋新七殿 乍恐口上書ヲ以テ申上奉リ候御事 拙 者共仲間、太物古手呉服商賣罷在申候處、東昌寺 門 前 菊 田 源 兵 衛 儀、 此 度 太 物 古 手 呉 服、 同 處 ニ 於 テ ①こ の 地 図 を 見 る と、 こ れ ら 五 地 区 は す べ て 城 下 町 の 外 周 部 に あ り、 し か も 城 下 か ら 出 て 行 く 街 道 に 沿 っ た 場 所 で あ っ た こ と が 分 か り ま す。 例 え ば ① は 山 形 方 面 へ 向 か う 作 並 街 道 の 出 口、 ② は 盛 岡 方 面 へ 向 か う 奥 州 街 道 の 出 口、 ③ は 塩 竈 方 面 へ 向 かう塩竈街道 (利府街道) の 出 口、 ④ と ⑤ は 江 戸 方 面 へ 向 か う 奥 州 街 道 の 出 口 に あ た っ て い ま し た。 こ れ を 史 料 で は「 御 城 下 出 で 口 ぐ ち 并 ならび に 端 は し ば し 々 」 と も 表 記 し て い ま し た。 城 下 出 口 に あ る「 端 々」 ( 末 端 の ) 地 区 と い う こ と に な り ま す。 直社入、商賣志願金ヲ以、御免成シ下サレ度、願上 奉 候 事 ニ 粗 承 知 奉 候 處、 愈 風 唱 之 通、 御 免 成 シ 下 サ レ 候 義 ニ 有 ラ セ ラ ル 可 ク 哉 、 拙 者 共 商 賣 之 儀、 恐 ナ ガ ラ 貞 山 様 重 キ 御 墨 印 下 シ 置 カ レ、 御 思 召 ヲ 以 テ、 六 仲 間 立 テ 下 サ レ、 他 御 町 ニ テ 直 仕 入 相 成 リ 難 ク、 右 六 仲 間 商 人、 萬 代 不 易 連 綿 引 續 商 賣 罷 在 候 儀、 冥 加 至 極 有 リ 難 キ 仕 合 ニ 存 じ 奉 リ 候、 然 ル 處、 木 綿 商 人 大 町 ニ 数 組 相 置 カ レ、 先 年 御 城 下 御 町 方、 大 出 火 ニ テ 類 焼 仕 候 節、 諸 商 人 散 乱 仕 リ、 木 綿 商 人 共 モ、 他 御 町 ニ テ 商 賣 罷 在 候 處、 享 保 年 中、 願 申 上 候 砌、 以 来 ハ 大 町 ニ 限 リ 新 規 店 相 出 シ、 他 御 町 之 儀 ハ、 有 来 木 綿 商 人 共 店 相 仕 舞、 次 第 ニ 後 年 減 ニ 仕、 新 規 店 相 出 シ 度 モ ノ ハ、 大 町 へ 相 出 シ 申 ス 可 ク、其節仰セ渡シ置カレ、尤モ古手商人之儀ハ、壹 丁 目 壹 丁 株 ニ 成 シ 下 サ レ、 太 物 并 呉 服 商 賣 之 儀 ハ、 大 町 二 三 丁 目 ニ 限 リ、 直 仕 入 相 免 シ 置 カ レ 候 儀 ニ テ、御先代様重キ 御思召ヲ以テ、六仲間問屋立テ 下 シ 置 カ レ、 仕 入 ノ 義 ハ、 大 町 ニ 限 リ 相 免 シ 置 カ レ、 先 年 ヨ リ 六 仲 間 商 ノ 志 願 ヲ 以 テ、 他 御 町 ハ 勿 論、門前等エ相免サレ候儀御座無ク、連綿引續商賣 罷 在 候 儀 ニ 御 座 候 得 共、 大 町 通 之 儀 ハ、 段 々 御 見 聞 モ 成 シ 下 サ レ 候 通 衰 微 仕 リ、 分 テ 一 統 ト ハ 申 ナ ガ ラ、 去 巳 申 両 歳 ノ 凶 作 ニ 付 テ ハ、 犇 ト 罷 成 リ 閉 店 仕
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 ちなみに今回、焦点となっている通町から堤町にかけての地区は、②の「七北田口門前 町」と表記されている地区にあたります。ここはほかの四つの地区と合わせて、ともに問 題とされている地区なのです。 さ て 傍 線 部 の 続 き を み る と「 御 城 下 続 つ づ キ 御 お 郡 こおり 方 か た 、 右 門 前 町 共 に 」 と あ る よ う に、 こ の 五つの地区は、御城下続きながら実際の支配は御郡方でした。つまりこの地区の多くはい ずれも厳密にいえば町奉行の管轄する城下町ではなく、御郡奉行の管轄する村方だったの です。しかし「右場所は御町の同前に 辻 つ じ あ さ だ な 麻店 同様にも成し下され」とあるように、ここに は 城 下 町 と 同 様 「 辻 麻 店 」 な ど が 展 開 し て い た の で す 。「 辻 麻 店 」 と い う の は 聞 き 慣 れ ま せ んが、あるいは「 辻 つ じ と こ だ な 床店 」の誤字でしょうか。辻床店であれば、江戸の繁華街や場末町な どにごく一般的に見られた露天商や屋台商のような小さな店舗のことを言うことになりま す。 この五つの地区は、どうやらそうした零細な店舗が集積し、管轄上はあくまでも村方な がら、見た目には城下町と同じような町場の様相を呈していたわけです。また傍線によれ ば、 そ れ ら の 店 舗 で 扱 う べ き 商 品 と し て「 木 綿 ハ 小 こ 切 ぎ れ 、 古 ふ る 手 て ハ と き わ け 物 も の 之 の 類 たぐい 」 と さ れ ていました。古手のときわけとは、古手(古着)がさらにボロになったものを 解 ほど いて、ま だ使える繊維だけを集めた究極のリサイクル商品でした。城下町商人からすると、これら 五つの地区の商人とは、木綿なら端切れ、古手はときわけなど、城下町商人が扱わないよ う な 商 品 を 扱 う 商 人 と 位 置 づ け ら れ、 こ の よ う な 住 み 分 け を お こ な っ て さ え い る な ら ば 「 所 ところ 柄 が ら 賑 にぎわい に罷り成り」と、それぞれの地区の繁栄にも結びつくのだというのです。 ところで「御 村 む ら か た 方 之 の 者 も の ど も 共 、多くは御城下へ日々に産物持出し」 、あるいは「御城下へ日々 候 モ ノ 多 ニ テ、 偈 々 商 賣 仕 候 モ ノ ト モ ハ、 纔 ニ 外 之 レ 無 ク、 大 町 通 衰 微 仕 候 儀 ハ、 筆 紙 ニ 申 上 難 ク 候、 此段ハ至極歎ヵ敷御座候、右様之節場エ、志願金ヲ 以テ、此度源兵衛エ木綿等直仕入、御免成シ下サレ 候ハバ、一統右ノ振合ヲ以テ、諸方ヨリ願申上、御 免成シ下サレ候ハバ、拙者共何以テ家門相續仕ル可 キ哉、恐乍ラ 御先代様 御思召ヲ以、六仲間立テ下サレ候御趣意 モ空敷罷成リ、此段恐乍ラ御勘察成シ下サレ度存ジ 奉リ候、将又商道営居候方ヨリ、先年ヨリ調達金モ 仰 付 ラ レ、 近 年 ニ 至 リ 候 テ ハ、 天 保 六 年 ヨ リ 同 十 年 マデ御貸金、大凡貳萬両程仰付ラレ、右金調達候得 共、 今 以 テ 返 シ 下 サ ラ ズ、 其 他 御 國 産 方 ニ テ 為 替 成 シ 下 サ レ 候 分、 六 仲 間 商 人 手 前 ニ テ、 大 凡 金 四 萬 両 程取組ノ分、是又相渡サレズ、其上去年中少ナカラ ザ ル ノ 御 手 傳 金 モ、 仰 付 ラ レ 旁 ニ 付、 犇 卜 指 逼 リ 罷 在 リ、 常 年 ニ 至 リ 候 テ モ、 御 貸 上 金 両 度 仰 付 ラ レ、一ヶ度ハ返シ下サレ、亦以テ此度、急之御貸金 仰 付 ラ レ 候 ニ 付 テ ハ、 数 度 之 儀 ニ テ、 至 極 指 逼 リ 居 候 義 ニ 御 座 候 間、 商 躰 営 罷 在 候 義 ニ 候 ハ バ、 相 痛 居 候 ナ ガ ラ モ、 御 町 役 ノ 義 ニ テ、 非 常 ノ 差 略 ヲ 以 テ 調 達罷在候處、前書之通、源兵衛へ先年ヨリ御座無キ 志 願 金 ヲ 以 テ、 太 物 等 直 仕 入、 御 免 成 シ 下 サ レ 候
罷り出で候 炭 す み ま き う り 薪売 等、壱丁目へ入組み」あるように、近郊地帯の農民たちは毎日のように 野菜などの農産物や薪炭などの林産物を馬に付けるなどして城下町へ売り込みにやってき ていたので、帰りには大町通りなどに入り込み買い物をしていたというのです。そのため 大町に近い本柳町横町などには古手市が自然発生的に出現し、そこに古手商人が「 辻 つ じ 稼 か せ ぎ と申し大勢 並 な み 居 い 」 るといった状況もみられ、大町周辺は 「 甚 はなは だ 賑 にぎわ い申」 したというのです。 ところが近世中期になると、ここでみた「端々」五つの地区が隆盛となり、近郊の農民 た ち も ま た 城 下 へ の 行 き 帰 り に 通 過 す る こ れ ら の 場 所 が「 物 も の ご と し た 毎 下 直 ね に 御 ご 座 ざ 候 そうろう 由 よ し 、 自 然 と 申 も う し 触 ふ れ候」とあるように、そこでは何でも安いと自然と口コミで評判が広がり、近郊農 民たちは大町通りなどを離れてそちらに流れているというのです。そうなると本来は大町 通 り で 扱 わ な け れ ば な ら な い「 古 ふ る 手 て 物 も の な ど 等 質 物 流 」 な ど も、 「 密 々 に 」 つ ま り 密 か に こ の 地 区へ持ち出して売買する者まで現れるようになって、大町通りの衰退に拍車をかけている というのです。 そこでこの史料では、この五つの地区に対しては、城下続きとはいっても、木綿であれ ば反物、古手であれば着物などの取引は「 相 あ い と め 留 められ」すなわち禁止していただきたいこ と、 「 小 切 と き わ け 物 計 ばかり の 商 売 に 成 な し 下 く だ さ れ 候 上 は、 壱 丁 目 通 よ り 古 来 の 如 ご と く 御 所 柄 賑 に 罷り成り候」として、かつてのように住み分けして商売して賑わいを取り戻したいという のです。 なお最後の傍線部でも「御門前町 并 ならび に長町、原町、小泉河原」といった「端々町」の商 人たちについて、彼らには木綿・古手などの商売をせずとも 小 こ 細 さい の類の商売があるとして い ま す。 し か し 大 町 通 り は、 木 綿 店 に 限 ら ず 五 品 の 商 売 い ず れ も「 壱 い っ ぴ ん 品 一 ひ と 通 とおり 之 の 商 あきない 」、 つ ハ ヽ、 右 源 兵 衛 ニ モ 限 ラ ズ、 他 御 町 諸 門 前 ヨ リ 志 願 之義申上ベク、左候ハバ、拙者共商躰他御町へ奪ハ レ、 拙 者 共 渡 世 相 續 ニ モ 相 放 レ、 御 町 役 等 ハ 勿 論、 家門相續仕ルベキ様御座ナク、恐乍ラ 御先代様 御思召ヲ以テ、六仲間立テ下サレ、連綿商賣引續罷 在 候 義 ヲ、 志 願 等 ノ タ メ、 後 年 ニ 至 リ、 臨 時 ノ 御 吟 味 ヲ 以 テ、 相 免 セ ラ レ 候 義 ニ テ ハ、 永 續 仕 ル 可 キ 様 御座無ク候、恐乍ラ 御先代様 御思召ノ御趣意 モ 相 失 ヒ、 拙 者 共 渡 世 ニ 相 放 レ 候 儀、 至 極 歎 ヶ 敷 御 儀 ニ 御 座 候 間、 源 兵 衛 へ 志 願 等 ヲ 以、 木 綿 等 直 仕 入、御免成シ下サレ候義、御指留成シ下サレ、拙者 共 仲 間 永 續 仕 候 様、 御 吟 味 成 シ 下 サ レ 度 存 ジ 奉 リ 候、将又、時々御吟味ヲ以テ、志願金召上ラレ難ク 成 サ セ ラ レ ズ 候 ハ ヽ、 是 非 ニ 及 バ サ ル 義 ニ 御 座 候 處、 右 源 兵 衛 義、 何 程 志 願 金 差 上 候 訳 ニ 御 座 有 ル べ キ 哉、 右 金 高 仰 渡 サ レ 候 様 成 シ 下 サ レ 度、 右 金 高 ニ ムカヘ、尚又別テ吟味仕、申上候様仕ル可ク、此段 共恐憚ヲ顧ミズ、拙者連名ヲ以テ、此ノ如ク申上奉 リ候、以上 呉服 當番(印) 天保十四年九月 古手 當番 太物 當番(印) 青山五左衛門殿
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 まりそれを専門に扱っていて、ほかの雑多な商売物を取り合わせて店々を飾り立てるよう なに商売とは違う「 所 ところ 柄 が ら 」だというのです。 この主張には大町商人の特質がよく表れているように思われます。多様で雑多な商品で お客さんの目を引こうとする商売ではなく、大きく構えて重厚な一品の商品を扱うのが大 町通りの商人らの誇りであるというのでしょう。だからこそ端々町はそういうものには手 を出さず、小細な商品を取り扱うべきだというのです。 しかし仙台城下町ではこうした街道沿いの地区が、大町通りを脅かすほどの商業的の発 展を遂げていたのです。そして五つの地区は、本来大町で扱う商品も含めて手広く取引を おこない、物価の安さ、そしておそらく独占特権を与えられた大町商人とは異なる顧客対 応のよさなどでも庶民の支持をうけるようになっていたと考えられます。 ここで見てきたのは同じ城下であっても、周辺部ながら交通の便のよい場所に位置する 地区が急速に発展し、中心地区の商業を脅かす存在になっている事実です。そうした地区 と し て 五 つ の 地 区 が あ げ ら れ て い る わ け で す が、 そ れ ら は み な 城 下 町 か ら 抜 け る 街 道 に そって町場の賑わいが村方の領域に突出して拡張した部分でした。 実は同じ時期の江戸でも同様の事態がみられたことが知られています。すなわち近世後 期、江戸から出る街道に沿って町場が急速に成長していたのです。例えば東海道沿いの 品 し な 川 が わ 、中山道沿いの 本 ほ ん ご う 郷 、甲州街道沿いの 新 し ん 宿 じゅく 、奥州街道沿いの 千 せ ん じ ゅ 住 といった具合です。 さらに世界史的にみると同じ頃にフランスやイギリスに出現した「のみ(蚤)の市」が 想 起 さ れ ま す。 産 業 革 命 揺 籃 期 の 当 時 の ロ ン ド ン や パ リ に は、 市 街 の 外 れ に「 の み の 市 」 が 生 ま れ、 人 々 は そ こ に 出 か け シ ョ ッ ピ ン グ を 楽 し ん だ の で す。 「 の み の 市 」 と は、 そ の 浅井忠内殿 但シ折紙ヲ以テ申上奉リ候事 右へ青山殿末書之寫 東昌寺門前菊田源兵衛儀、此度太物古手呉服、同處 ニ 於 テ 直 仕 入 商 賣、 志 願 金 ヲ 以 テ 御 免 成 シ 下 サ レ 度、 願 上 奉 候 事 ニ 粗 承 知 奉 リ 候 處、 弥 風 唱 之 通、 御 免 成 シ 下 サ レ 候 御 儀 ニ 有 ラ セ ラ ル 可 ク 哉、 太 物 等 商 責之儀ハ、 貞山様重キ御思召ヲ以テ、六仲 門 (間) へ立テ下サレ、他 御 町 ニ テ 直 仕 入 相 成 難 ク、 右 六 仲 門 (間) 大 町 ニ 限 リ 直 仕 入御免成シ下サレ、商道掟立テ下シ置カレ候處、此 度右源兵衛エ志願金ヲ以テ、太物商賣御免成シ下サ レ候テハ、家門相續仕ル可キ様御座無ク候間、源兵 衛 エ 志 願 ヲ 以 テ、 木 綿 等 直 仕 入 御 免 成 シ 下 サ レ 候 義、 御 指 留 成 シ 下 サ レ、 永 續 仕 候 様 成 シ 下 サ レ 度、 尤志願金召上ゲラレズ、成サセラレ難ク御吟味候ハ バ、 源 兵 衛 儀、 何 程 志 願 金 差 上 候 訳 ニ 之 レ 有 ル 可 キ 哉、右金高仰渡サレ候様成シ下サレ度由、品々別紙 之 通、 太 物 古 手 呉 服、 右 三 仲 間 之 者 ト モ 申 出 候 間、 吟味仕候處、根元大町通ノ義ハ、恐乍ラ、 貞山様重キ 仰出サレヲ以テ、大町通リ向後引續申ベキ品々考申 上可キ旨、五左衛門先祖青山出雲仰付ラレ、之ヲ承
名の通り粗末で廉価な商品を零細な露天や屋台の商人が商っていたことから名付けられた ものです。パリのクリニャンクール ( Clignancourt )、 ロンドンのカムデンタウン ( Camden Town ) な ど は、 当 時 か ら 今 日 ま で 続 く 蚤 の 市 の 代 表 的 な も の で す が、 両 市 と も 現 在 も な お主力商品は古着が中心といわれます。ここでもまさに古着やときわけが商われていまし た。 そうした知見をふまえて改めて考えてみると、現在の仙台でも、この五つの地区という のは独自の個性というか勢いを持った町のように思われますが、 いかがでしょうか。八幡、 北仙台、原町、河原町、長町と、今でもいろいろな意味で中心部とは違った独自の 気 き っ ぷ 風 を 持った地区であると思います。ここで見てきた史料でも、城下の中心部にあたる大町通り は、藩の手厚い保護を受けてきたのに対して、これら五つの地区はむしろ中心部の商業勢 力や藩権力の抑圧を受けながら、庶民の力と蓄えた経済力でこれをはねのけ、自力ではい 上がってくるような逞しさをもった町々というイメージです。 ただし今回の史料はいずれも大町通りに結集する商人たちの主張にもとづいております ので、これを素直に読んでいくと五つの地区はあたかも不法な活動をおこなっているよう な印象になります。しかしこれはあくまで近世の仙台藩の経済政策からみれば、あるいは 中心部の大町通りの商人の側からみればこうなる、ということであって、近代になればま た市場経済の原理が貫徹するようになり、むしろ競争して値段が安い方にお客が行くとい う、 五 つ の 地 区 の 側 の 論 理 こ そ が 資 本 主 義 経 済 で の 基 本 的 ル ー ル に な っ て い く わ け で す。 興味深いのは五つの地区の側は、誰から言われたわけでもなく、日々の商いの取り組みと いうか実践の積み重ねのなかからそうした市場原理を生み出していったことにあります。 知奉リ、壹貳三四丁目ノ内、他領商人トシテ、問屋 六 人 立 テ 下 シ 置 カ レ、 右 商 人 上 方 ニ オ ヰ テ、 直 買 御 停 止 ニ 御 定 成 シ 置 カ レ 候 得 バ、 奥 商 人 御 城 下 エ 罷 登 リ、 買 調 申 候 ニ 付、 後 年 大 町 通 相 賑 可 キ ノ 旨 申 上、 奥 筋 御 界 目 御 格 式 仰 渡 サ レ 候 ニ 付、 他 領 商 人 問 屋 附 仕 リ、 奥 商 人 罷 登 候 様 ニ 右 出 雲 言 上 奉 候 通、 大 町 通 賑 ヒ、 上 方 ニ モ 之 レ 無 キ 講 ( マ マ ) 結 成 リ 家 作 等 相 出 候 ニ 付、遠近國々商人、御城下商ノ様子承リ及ビ、所望 ノ 金 銭 借 貸 相 圖 リ、 共 ニ 自 由 仕 候、 此 旨 恐 乍 ラ 上 聞 ニ 達 シ、 木 綿 絹 布 古 手 小 間 物 繰 綿 商 人 共、 大 町 ノ 外 指置カレ間敷由、寛永八年、御墨印下シ置カレ、商 物 他 處 仕 入 ノ 儀 ハ、 大 町 六 仲 間 商 人 限 リ 相 免 サ レ、 他 御 町 ニ テ 直 仕 入、 相 成 難 キ 商 道 ノ 掟 ニ 御 座 候 處、 此度右源兵術エ、木綿等直仕入、御免成シ下サル事 ニ 罷 成 候 ハ ヽ、 右 源 兵 衛 ニ モ 限 ラ ズ、 他 御 町 ハ 申 ス ニ 及 バ ズ、 諸 門 前 ヨ リ 志 願 ノ 義 申 上 可 ク、 六 仲 問 商 物之義ハ、先年ヨリ志願等ヲ以テ、相免サレ候義御 座無ク候、連綿引續キ商賣罷在、右六仲間トモ限ラ ズ 商 物 ノ 儀 ハ、 御 先 代 様 ヨ リ 御 町 々 毎 ニ 、 壹 株 ニ 付 ケ 下 サ レ、 夫 々 御 規 法 モ 立 テ 下 シ 置 カ レ 候 儀 ニ 御 座 候處、余事卜違ヒ、商物志願等ヲ以テ、御免シ下サ レ 候 事 ニ テ ハ、 指 當 リ 御 町 方 御 規 法 モ 相 崩 レ、 自 然 衰 微 ノ 根 元 ニ 罷 成 リ、 大 町 通 リ ノ 義 ハ、 余 事 ヲ 以 テ
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 そ の 意 味 で、 商 業 流 通 の 側 面 か ら 見 る と、 仙 台 城 下 町 は 中 心 部 と 周 辺 部 の せ め ぎ 合 い の 歴 史 と し て も と ら え ら れ、 そ の よ う な 観 点 か ら そ れ ぞ れ の 地 区 の 個 性 を 見 出 し て い く こ と ができます。 例えば、八幡町は城下の西に広がる 愛 あ や 子 し など作並街道沿いの村々と結びつき、 通 町 か ら 堤 町 は、 城 下 の 北 に 広 が る 七 な な 北 き た 田 や 松 森 方 面 な ど 奥 州 街 道 沿 い の 村 々 と つ な が り、 原 町 は 城 下 の 東 に 広 が る 塩 竃 や 利 府 街 道 方 面 と 結 び つ い て い ま し た。 そ し て 河 原 町 や 長 町 は 城 下 の 南 に 広 が る 六 郷・ 七 郷 や 日 に っ 辺 ぺ ・ 飯 田 な ど 奥 州 街 道 沿 い の 村 々 を 後 背 地 と し、 そ こ と の 繋 が り の な か で 展 開 し て き た わ け で す。 五 つ の 地 区 は、 城 下 の 入 口( 出 口 ) で 中 心 部 に 向 か う 人 々 を 待 ち 構 え、 彼 ら を 手 前 で 遮 断 し て 取 り 込 む と い う 地 の 利 を 生 か し、 発 展 を 遂 げ て い た の で す。 そ し て 通 町 か ら 堤 町 に か け て の 界 隈 も そ う し た 強 烈 な 個 性 を も っ た地域として立ち現れていたように思われるのです。 2 城下の女性たちの商業活動による流通独占の動揺 こ の 問 題 を 考 え る た め、 も う 一 つ の 史 料 を 紹 介 し た い と 思 い ま す。 史 料 3( 30頁 ) こ れ も江戸時代中期の天明年間、仙台藩の奉行が申し渡したお触れです。 冒 頭 に ま ず「 近 年、 軽 かるき 者 も の 妻 さ い 妾 しょう 等 ら 」 と あ り ま す。 「 軽 者 」 と い う の は、 後 半 に「 諸 し ょ 士 し 宿 しゅく 守 も り 并 門 も ん ぜ ん 前 拝 は い 借 しゃく 屋 や 敷 し き 、 御 お 扶 ふ ち 持 人 に ん 借 しゃく 屋 や 体 て い 之 の 妻 つ ま 等 ら 」 とあることから、武士身分であっても宿守、 拝 借 屋 敷、 借 家 と い っ た 屋 敷 を 拝 領 し て い な い ク ラ ス、 い わ ゆ る 軽 輩 の 者 た ち と み ら れ ま す が、 さ ら に 一 般 町 人 ら も 含 め て 考 え て よ い の で は な い か と 思 い ま す。 ま た「 妾 」 は 字 義 通りの 妾 めかけ というよりは、妻以外の女性一般を広く指していると思います。 史 料 に よ れ ば そ う し た 階 層 の 女 性 た ち が、 古 手 売 り の 商 人 た ち に 付 い て「 古 手 商 売 」 を 毎々申上置候通、至極相衰、明キ店多ク、御場所柄 不 相 應 之 者 而 已 住 居 罷 在 リ、 時 ノ 盛 衰 卜 ハ 申 乍 ラ、 至 極 相 衰 ヒ 引 立 ノ 身、 只 管 吟 味 罷 在 候 事 ニ ハ 御 座 候 得 共、 一 統 ノ 事 ニ テ、 此 段 ハ 至 極 歎 敷 事 ニ 御 座 候、 将御時之御吟味卜ハ申乍ラ、 御先代様 御思召ヲ以テ、六仲間立テ下シ置カレ候商物、志願 ヲ 以 テ 相 免 サ レ 候 事 ニ 罷 成 候 テ ハ、 都 テ 右 ニ 准 シ、 後年轉変仕候ハヽ、商人共子孫何ヲ以テ相續安堵仕 ル可キ哉、御用金等御座有ル節ハ、御膝元ノ御町商 人 共、 先 年 ヨ リ 抜 群 ノ 御 用 モ 相 立 チ、 近 年 ニ 至 リ テ ハ、 委 曲 紙 面 ニ 相 見 得 候 通、 御 町 方 一 統 御 用 金 ノ タ メ 相 痛 居 候 旨、 商 躰 営 居 ル 御 町 役 ノ 義 ニ 候 得 バ、 痛 ナガラモ相、右故至極相痛候義ハ、御見聞モ成シ下 サ レ 候 通 之 義 ニ テ、 商 道 之 営 ヲ 以 テ、 家 門 相 續 候 ハ 勿 論、 御 町 役 等 モ 相 勤 罷 在 候 義 ニ 御 座 候 處、 六 仲 間 商 物 之 義 ハ、 掟 モ 之 レ 有 リ、 他 御 町 ニ テ サ ヘ モ、 直 仕入相成リ難ク、況ンヤ諸門前ノ義ハ、素ヨリ直仕 入 等 ハ 吟 味 ニ 及 ハ ズ、 然 ル ヲ 此 度、 源 兵 衛 へ 直 仕 入 等御免成シ下サレ候ハヽ、其余諸門前ヨリ願申上ベ ク、 左 候 ハ バ 諸 門 前 ニ テ 諸 物 事 足 リ 候 方 ヨ リ、 大 町 通リへ罷越買調候者ハ之レ無ク、大町通リハ銘儀一 通 リ ニ 罷 成 リ、 大 町 通 衰 微 仕 候 義 ハ 眼 前 之 義、 根 元
お こ な っ て い る と い う の で す。 「 代 し ろ 呂 物 も の 、 古 手 店 だ な へ 持 参 候 義 も こ れ 無 く 」 の 部 分 は 少 し 分 かりにくいですが、正規の古手店に商品を通すことなく商売をしているということで、つ まりは無許可営業をしているということでしょう。これが「店の者商いの 障 さ わ りにあい成る 旨」とあるように古手店の商売の障害になっているというのです。 仙台城下でも足軽層の人々が内職稼ぎをしていたことはよく知られていますが、この史 料では、その妻女らが副業あるいは内職として古着の売買に従事していたことが問題とさ れています。彼女たちの商いはどう見ても店舗商いではなく、持ち歩ける程度の一反、二 反といった商品を訪問販売によって売り歩くタイプのものだと思います。ですから一人あ たりの売上金額はそれほど大きなものでなかったでしょうが、どうやらその人数が少なく ないらしく、結果として大町の商売を脅かすほどの存在になっているというのです。こう した事態に対し藩の奉行は、 「女之身として 振 ふ り う り 売 せしめ候義、 不 ふ 都 つ 合 ご う の事」として「以来、 きっとあい 止 と ど め候様」と禁止を申し渡しています。 今でもそうですが、女性は商いにおいて大きな力をもっています。行商のおばさんたち とか市場の女性たちとか、いずれも男性を凌ぐ勢いで商いにたずさわっていますが、この ように女性と商いの繋がりは遙か古くからの伝統的なものであったことが窺えます。こう した繋がりは、藩の奉行の禁令で断ち切れるものであったのかどうか、これらのお触れが どれだけの効果をもったものかはおおいに疑問が残ります。 仙台城下町の中心部としての大町は、商業特権が与えられ、自分から頭を下げて商業活 動をしなくてもよい売り手市場、いうなれば殿様商売の状況が長年続いていました。かた や五つの地区のように、抑圧されながらも自ら商売を繰り返すなかで、やがて大町通りの 商 物 之 義 ハ、 御 町 方 ニ 預 リ 候 ヲ、 諸 門 前 へ 商 道 ヲ 奪 ハ レ 候 テ ハ、 大 町 通 リ ニ 限 リ 候 訳 ニ 之 レ 無 ク、 御 町 方 一 統 衰 微 之 根 元、 全 躰 ニ 於 テ、 相 當 仕 ラ ザ ル 義 ニ 御座候、六仲間之儀ハ、 御先代様 御 思 召 ヲ 以 テ 御 墨 印 下 シ 置 カ レ、 油 綿 引 續 居 候 ヲ、時之御吟味ヲ以テ、右源兵衛へ太物相免サレ候 事 ニ テハ、恐乍ラ 御先代様 御思召エモ相當仕ラズ、商人共業躰之商物ヲ、諸門 前 へ 相 免 サ レ 候 テ ハ、 何 ヲ 以 テ 家 門 相 續 仕 ル 可 キ 哉、 此 段 深 ク 御 勘 弁 成 シ 下 サ レ 度 存 ジ 奉 リ 候、 将 又、去巳申之凶歳以来、一統卜ハ申乍ラ、御町方犇 卜 相 痛 候 ニ 付 テ ハ、 人 気 モ 穏 カ 成 ラ ズ、 畢 竟 ハ 面 々 商 躰 ノ 営 モ 行 届 キ 兼 ネ、 其 上 近 年 ニ 至 リ 候 テ ハ、 時 々 調 達 金 仰 付 ラ レ 候 ニ 付 テ ハ、 尚 更 人 気 モ 手 前 ニ オ ヰ テ、 夫 々 教 諭 モ 仕 置、 人 気 取 ナ ダ メ 居 候 節 場、 御先代様 御思召ヲ以テ 御墨印下シ置カレ、六仲間商道掟立 テ 下 サ レ、 子 孫 萬 代 不 易 卜 何 レ モ 相 心 得 罷 在 候 ヲ、 此 度 志 願 金 等 ヲ 以 テ、 商 物 相 免 サ レ 候 事 ニ 候 ハ ヽ、 御 法 令 モ 相 失 ヒ、 後 年 何 様 ニ 罷 成 ル ベ ク 哉、 面 々 商
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 商 人 特 権 を 脅 か す ま で に な る 商 人 た ち が 現 れ て く る の で す。 近 世 の 城 下 町 の 商 業 を そ う い う ふ う に 見 て い く と、 地 域 の 構 造 も こ れ ま で と は ま た 違 っ た 側 面 が 見 え て く る よ う に 思 い ます。 近 世 初 期 に お い て は 仙 台 城 下 は 誕 生 し た ば か り で あ り、 城 下 町 内 外 の 流 通 網 も 未 発 達 で あ っ た と み ら れ、 大 町 通 り へ の 優 遇 政 策 は そ う し た 事 情 も あ っ て と ら れ た も の と み ら れ ま す。 し か し 近 世 中 期 に い た り 流 通 経 路 も 成 熟 し て く る な か で、 必 然 性 が あ る 所 に は 自 然 発 生 的 に 新 し い 流 通 路 が 次 々 と 出 来 て い き ま す。 石 巻 や 気 仙 沼 か ら 奥 郡 へ、 あ る い は 城 下 の 端 々 町 を 経 由 し て 周 辺 農 村 と 城 下 町 が 結 び つ く、 さ ら に 女 性 た ち に よ る 小 商 い の 積 み 重 ね に よ る 掴 み ど こ ろ の な い よ う な 商 売 の ネ ッ ト ワ ー ク が、 非 常 に 濃 密 に 張 り 巡 ら さ れ 始 め る の で す。 こ こ ま で 見 て き た 3つ の 史 料 は、 こ う し た 状 況 を 象 徴 的 に 表 す 事 例 だ っ た と い え ます。
Ⅲ
通町・菊田源兵衛と流通独占体制の動揺
こ こ で は 近 世 後 期 の 仙 台 城 下 町 の 流 通 構 造 を 考 え て み た い と 思 い ま す。 と く に 今 回 の テ ー マ で も あ る 通 とおり 町 ちょう を 代 表 す る 商 人 で あ っ た 菊 き く 田 た 源 げ ん 兵 べ え 衛 を と り あ げ て み た い と 思 い ま す。 こ の 菊 田 源 兵 衛 に つ い て は、 仙 台 市 博 物 館 の 菅 野 正 道 さ ん か ら 史 料 の ご 教 示 を 賜 り ま し た。 ま ず 菅 野 さ ん が 書 か れ た 文 章 を 引 用 し た い と 思 い ま す。 ( 菅 野 正 道「 仙 台 城 下「 町 人 列 伝 ⑦ 酒 造 業 で 財 を な し、 社 会 奉 仕 に も 尽 力 し た「 菊 田 源 兵 衛 」」 〈 仙 台 商 工 会 議 所 月 報 『飛翔』二〇〇九年九月号〉 ) 躰 ニ 相 放 レ 候 方 ヨ リ、 商 人 共 一 統 騒 立 チ、 此 上 弥 々 相 免 サ レ 候 ハ バ、 大 町 通 リ 商 人 共 一 統 ノ 騒 動 ニ モ 罷 成 リ、 此 段 ハ 拙 者 共 ニ 於 テ モ 至 極 歎 敷、 勿 論 此 上 何 程 ノ 御 用 金 仰 付 ラ レ 候 テ モ、 商 人 共 業 鉢 ニ 相 放 レ 候 節 ニ 御 座 候 得 バ、 調 達 仕 ラ セ ベ キ 様 モ 御 座 ナ ク、 大 町 商 人 共 危 急 ノ 節 場 ニ 御 座 候 間、 恐 乍 ラ 商 人 永 續 サヘモ仕居候ハバ、自然、 上之御用モ相立候義モ 御座候間、右源兵衛エ志願金ヲ以テ、太物等相免サ レ候儀ハ、御指留成シ下サレ、 御先代様 御思召之御趣意モ相立、六仲門(間)基本モ相立チ 永續仕候様、御別段ノ御吟味成シ下サレ度存ジ奉リ 候、 且 又、 志 願 金 召 上 ラ レ ザ ル 御 吟 味 ニ 成 サ セ ラ レ 難 ク 御 座 候 ハ バ、 如 何 様 騒 立 チ 候 モ、 是 非 ニ 及 バ ス 候間、金高仰渡サレ候様成シ下サレ度、別紙差添此 ノ如ク ニ 相達申候、以上、 天保十四年九月六日 浅井忠内 青山五左衛門 猶 以 テ、 諸 門 前 ニ テ 古 着 下 品 ノ 品、 并 太 物 等、 大 町 問屋ヨリ仕入商賣仕リ、差支有無ノ義、天保十二年 十 月 中、 吟 味 聞 届 成 サ レ、 右 品 諸 門 前、 前 ニ テ 商 賣 仕 候 テ ハ、 商 道 掟 ニ 差 支 候 間、 相 免 サ レ ザ ル 様、 御菊田家は酒造を営む旧家で、中でも天明五年(一七八五)生まれの源兵衛が傑出した人 物でした。源兵衛が家を継いだ当時、菊田家の家業は下降線をたどっていましたが、質素 倹 約 を 旨 と し て 経 営 に 取 り 組 ん だ 源 兵 衛 は、 家 業 の 立 て 直 し に 成 功 し ま し た。 こ の 当 時、 仙台藩は酒造に厳しい規制を加えており、藩の許可がなければ、酒造を営むことはできま せんでした。 また許可を得ても、多額の営業税を藩に納める必要があり、不作の時などは、 しばしば酒造自体が禁止されることもありました。 そうした制約があるにもかかわらず、多くの人々が藩に献金などをして酒造業への参入 を 望 み ま し た。 ど う も、 江 戸 時 代 に お い て 酒 造 業 は、 相 当 も う か る 商 売 だ っ た よ う で す。 菊 田 家 が 間 口 九 間 の 間 口 を 持 つ 大 店 で あ っ た の も、 酒 造 業 の 利 幅 が 大 き か っ た こ と を 物 語っていると言えるでしょう。 酒 造 業 で 財 を 成 し た 菊 田 源 兵 衛 の 活 躍 は、 本 業 に と ど ま る も の で は あ り ま せ ん で し た。 天保の飢饉に際しては、飢えに苦しむ人々に粥を与えたり、救援資金を藩に提供したりし ています。屋敷近くの北山から城下の北西へ向かう道がぬかるみやすく、人々が難儀して いることから、私財を投じて道路改修を何度も行うなど、源兵衛は社会奉仕にも熱心に取 り組んだのです。 ま た 源 兵 衛 は 学 問 を 好 み、 家 の 近 く に あ る 東 昌 寺 で 座 禅 を 組 む こ と も し ば し ば で し た。 弘化二(一八四五)年、 『善悪種蒔鏡』という仏教思想に基づく飢饉対策書を千部印刷し、 人々に配ったのも、源兵衛の人となりを伝えるものと言えるでしょう。 一方で源兵衛は堅物なだけの商人ではありませんでした。仙台城下では呉服などを扱う には、 「仲間」 と呼ばれた同業組合に加入する必要がありました。しかし、源兵衛は 「仲間」 吟味成シ下サレ度、其節相達置候儀モ御座候間、念 ノ為メ此段モ相達申候、以上、 其二 東昌寺門前菊田源兵衛義、此度太物古手呉服、志願 金 ヲ 以 テ 直 仕 入 仕 リ、 同 處 ニ 於 テ 商 賣 仕 度 願 上 ゲ 奉 リ 候 事 ニ 粗 ボ 承 知 奉 リ、 弥 々 風 唱 之 通、 御 免 成 シ 下 サ レ 候 御 儀 ニ 有 ラ セ ラ ル ベ ク 哉、 太 物 等 商 賣 之 儀 ハ、 貞山様重キ御思召ヲ以テ 御墨印下シ置カレ、六仲間立テ下シ置カレ、他御町 ニ テ 直 仕 入 相 成 リ 難 ク、 右 六 仲 間 大 町 商 人 ニ 限 リ 御 免成シ下サレ、商道掟立テ置カレ候處、此度源兵衛 エ志願金ヲ以テ、太物等直仕入御免成シ下サレ候テ ハ、拙者共家門相續仕ルベキ様御座無ク候間、源兵 衛志願ヲ以テ、直仕入御免成サレ候義、御差留成シ 下サレ、拙者共仲間、家門永續仕候様、御吟味成シ 下サレ度存シ奉リ候、且又、志願金等召上ラレズ成 サ セ ラ レ 難 キ 御 儀 ニ モ 有 ラ セ ラ レ 候 ハ バ、 金 高 仰 セ 渡サレ候様成シ下サル義、其品々申上奉リ候處、 源 兵 衛 ヨ リ 指 上 ゲ 奉 リ 候 志 願 金 六 百 拾 両 ニ 之 レ 有 リ 候 處 、 御 時 柄 ノ 義 ニ 候 間、 何 分 勘 弁、 拙 者 共 仲 間 ニ テ、過分御貸上金調達仕候様、品々御呼出ノ上、仰 渡 サ レ 承 知 奉 リ、 吟 味 仕 候 處、 拙 者 ト モ 仲 間 ノ 義 ②
古文書に見る仙台城下の商業情勢の変容と通町・堤町 に加入せずに藩外から仕入れができるよう藩に願い出て許可を得ています。これは 「仲間」 の反対にあって藩の許可は撤回されますが、旧態にとどまらずに新しい経営方法を模索し ようとする源兵衛の気質をここに見ることができるのです。 ここに掲載されている写真は、通町二丁目にある旧菊田家の屋敷です。東昌寺門前の検 断を勤めたことから検断屋敷とも言われている建物です。仙台城下では間口六間の屋敷が 一軒前とされて基本間口となっていますが、そのようななかで間口九間という大きな屋敷 を 有 し て い た 菊 田 家 は、 城 下 町 の 町 人 の な か で も 突 出 し た 存 在 で あ っ た こ と は 間 違 い ありません。 こ の 菊 田 家 に つ い て の 史 料 が 史 料 4( 31 頁 ) で す。 『 仲 騒 録 』 と い う 記 録 で、 こ の 表 題 は「 六 仲 間 を 騒 が せ た 記 録 」 と い う よ うな意味だろうと想像します。 ま ず 史 料 の 冒 頭 部 分 で す が、 東 昌 寺 門 前 の 菊 田 源 兵 衛 が、 太 物、 古 手、 呉 服 等 を 同 所 に お い て 直 仕 入 れ し て 商 売 し た い と 願 い 出 た こ と が 記 さ れ て い ま す。 こ れ は す で に み て き た よ う に 藩 に よ っ て 禁 止 さ れ た 行 為 で し た。 し か し 源 兵 衛 は あ え て そ れ を 藩 に ハ、先紙面 ニ モ品々申上奉リ候通、 御先代様 御思召ヲ以テ 御墨印下シ置カレ候御趣意モ、空敷罷成候義、至極 歎 ヵ 敷 義 ニ 御 座 候 間、 拙 者 共 相 痛 居 候 節 場 ニ 御 座 候 得 共、 非 常 之 差 略 仕 リ、 冥 加 ノ 為 正 金 貳 百 五 拾 両、 御 國 産 方 へ 為 替 ニ 罷 成 居 候 分 金 四 百 五 拾 両、 取 合 六 百 五 拾 両 ノ 高 ニ 献 金 奉 リ 候 間 、 右 源 兵 衛 ハ 勿 論、 後 世 拙 者 共 仲 間 商 賣 之 品、 此 末 諸 門 前 申 ス ニ 及 バ ス、 他 御 町 ヨ リ 如 何 様 ニ 願 申 上 候 共、 決 シ テ 直 仕 入 商 賣 相免サレズ、 御先代様 御思召ヲ以テ、御墨印下シ置カレ、六仲 問立テ下サレ候基本相立、萬代不易、拙者トモ仲間 永續安堵仕候様、御憐愍之御吟味成シ下サレ度、恐 憚 ヲ 顧 ミ ズ、 拙 者 共 連 名 ヲ 以 テ、 此 ノ 如 ク ニ 申 上 奉 リ候、以上、 天保十四年九月 呉服仲間 當番(印) 古手仲間 當番 太物仲間 當番(印) 青山五左衛門殿 浅井忠内殿 右へ青山様末書成シ下サレ候寫 東昌寺門前菊田源兵衛義、此度太物古手呉服、同處 ③
願い出て「願いあい済み、既に御下知にも罷り成り候風説」と、すでに許可を得ていると いう噂があるというのです。そこで大町代表の青山五左衛門が呼び出されて、その間の事 情が申し渡されました。こうして始まった一件は、確かに大町商人を巻き込む騒ぎとなり ました。 史 料 を 読 み 進 め て い く と、 源 兵 衛 は 伊 達 政 宗 以 来 大 町 に 与 え ら れ て き た 商 売 の 特 権 を、 このたび「 志 し 願 が ん 金 き ん 」つまり上納金を支払うので大町でなく自分に許可して欲しいと藩に願 い出ているのです。いっぽう藩もこの時期になると財政窮乏が顕著となり、上納金の申し 出に心が動いたようです。それで大町商人たちは大変だと動き始めることになります。 もし源兵衛が直仕入れを認められるならば、他の門前町からも同様の願いが出されるこ とになりかねず、 そうなれば諸門前町にて事が足りてしまい 「大町通りヘ 罷 まかり 越 こ し 買 か い 調 ととのえ 候者」 な ど い な く な っ て し ま う で あ ろ う と い う の で す。 こ れ は「 大 町 通 衰 す い 微 び 仕 候 義 は 眼 が ん ぜ ん 前 の 義 」 と危機感を募らせた大町商人たちは、 「源兵衛儀、 何 な に ほ ど 程 志願金 差 さ し あ げ 上 候 訳 わ け にこれ 有 あ るべく 哉 や 」 と、源兵衛が申し出た志願金がいくらなのかを調べそこから対策を練ろうします。 やがて「源兵衛より指上げ奉り候志願金、六百拾両にこれ有り候」と、志願金が六一〇 両 で あ る こ と が 判 明 し ま す。 そ こ で、 大 町 商 人 た ち も こ れ に 対 抗 し て「 冥 みょう 加 が の 為、 正 しょう 金 き ん 弐 百 五 拾 両 」、 す な わ ち ま ず 現 金 で 二 五 〇 両、 さ ら に「 御 国 産 方 ヘ 為 か わ せ 替 に 罷 成 居 候 分 四 百 五 拾 両、 取 合 六 百 五 拾 両 の 高 に 献 金 」 と し て、 藩 の 御 国 産 方 へ 為 替 に し て あ る 分 の 四五〇両と合わせて六五〇両(実際の合計値は七〇〇両)を献金することにします。源兵 衛の献金より四〇両(計算値では九〇両)上回る金額でした。ただし現金は一部で残りは 国産方との為替分を相殺勘定しています。これで何とか源兵衛の願いは却下してほしいと ニ 於 テ 直 仕 入 商 賣、 志 願 金 ヲ 以 テ 御 免 下 サ レ 度、 願 上 奉 候 事 ニ 粗 ボ 承 知 仕 候 處、 弥 々 風 唱 之 通、 御 免 下 サ レ 恨 御 儀 ニ 有 ラ セ ラ ル ベ キ 哉、 太 物 等 商 賣 之 儀 ハ、 貞山様重キ 御思召ヲ以テ、御墨印下シ置カレ、六 仲 間 立 テ 下 サ レ、 他 御 町 ニ テ 直 仕 入 相 成 リ 難 ク、 右 仲 間 大 町 商 人 ニ 限 リ、 直 仕 入 御 免 成 シ 下 サ レ、 商 道 掟立テ下サレ候處、此度右源兵衛へ志願ヲ以テ、太 物等商賣御免成シ下サレ候テハ、家門相續仕ルベキ 様之レ無ク候間、源兵衛へ志願ヲ以テ、木綿等直仕 入御免下サレ候義ハ御差留下サレ、永續仕候様御吟 味成シ下サレ度、尤モ志願金召上ラレズ成サセラレ 難 キ 御 吟 味 ニ 候 ハ バ、 源 兵 衛 義、 志 願 金 指 上 候 訳 ニ 之レ有ル可キ哉、右金高仰セ渡サレ候様成シ下サレ 度旨、品々太物古手呉服、右三仲間當番トモ、品々 申 出 候 ニ 付、 相 達 仰 達 セ ラ レ 候 處、 御 奉 行 様 仰 セ 渡 サ レ 候 ニ ハ、 源 兵 衛 方 段 々 吟 味、 臨 時 之 筋 ヲ 以 テ、 御免成シ下サレ候哉卜、大躰御吟味モ相据リ居リ候 程ノ義、然レバ唱々承申上候迚、相扣ラルベキ様モ 之 レ 無 キ 筋 ニ 候 得 共、 金 高 仰 渡 サ レ 度 申 上 候 上 ハ、 源 兵 衛 調 達 高 相 出 シ 候 見 詰 ニ テ、 申 上 候 訳 ニ モ 之 レ 有ル可 ク哉、左候ハバ、 源 兵衛ハ金六百五拾両差上 候 由、 願 出 居 候 事 ニ 之 レ 有 ル 旨 、 仍 テ ハ 此 度 ノ 源 兵 ④