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〈講演会記録〉2017年度近畿大学法科大学院講演会「裁判員裁判の現状と課題」

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1.はじめに

ご紹介いただきましたように,私は裁判員制度の制度設計に関わったもので すから,裁判員制度についてお話しする機会が多いのですが,裁判員制度が発 足して丸8年がたち,最近は裁判員制度への関心がいくらか薄れているとも感 じております。ということで,今日はこうしてお招きいただき,皆さんにお話 しする機会を与えていただいて,大変うれしい限りですし,厚くお礼申し上げ ます。 どうも最近は,年を取っているという自覚が足りず,お話しする機会を与え ていただいても,年寄りの繰り言になってしまう危険性があるのですが,せっ かく若い方たちにお聞きいただくのですから,最近の裁判員制度について何を 考えているのか,私が思っていたような形で裁判員制度が機能しているのかど うかについて,現在考えていることを少しお話しさせていただきたいと思って おります。

7年度近畿大学法科大学院講演会

日時 2017年10月28日(土)14:00~16:00 場所 近畿大学 東大阪キャンパスB館10階マルチメディア教室 テーマ 「裁判員裁判の現状と課題」 講 師 大出 良知氏(東京経済大学教授・弁護士)

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お手元にレジュメをお配りしています。と申しましても,不手際で,ご覧い ただいただけでは,どこからどこへ話が進むのかお分かりいただきにくいと思 うのですが,お話しする中でなんとかまとまりをつけさせていただきたいと 思っております。

2.裁判員制度導入の経緯

最初に,レジュメの「はじめに」と書いてあるところからお話を始めたいと 思うのですが,皆さんご承知のとおり,「はじめに」に掲げてありますのは, 裁判員法の第1条です。裁判員制度がどういう目的で用意されたものかという ことが書いてあります。最近は,どんな法律にも第1条で,その法律の目的や 理念が規定されるということになってきているのですが,この法律の第1条で は,「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」という書き 方がされています。 ただその後,裁判員制度の合憲性が争われたときに,最高裁大法廷が判決を 下したことがあり,資料にはそのときの判決文のままではないのですが,要約 的な文章を添えておきました。なぜこの二つを並べたかといいますと,裁判員 法第1条がこういう内容になるまでにかなり議論があったからです。 先ほど山本先生から「裁判員制度は我が子のようだろう」というお話をして いただきましたが,確かにそのような思いはあります。しかし,実は私は,検 討会のメンバーの中では,少数意見を述べることが多く,私の意見が制度設計 に反映された部分は決して多くありません,まだ議事録は公開されております ので,ご関心があればお読みいただきたいと思いますが,実は,最初から少数 意見になるだろうということが分かっていて委員になったということでもある のですが,その立場からしますと,第1条もこのような中途半端な規定では困 るというのが私の主張でした。

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何がどう問題なのかということは,必ずしもその大法廷の判決が対抗軸を提 示したわけではないのですが,実は最高裁もこの大法廷判決でかなり立場を変 えたと見えるわけです。何が中心的な部分かと申しますと,「憲法が宣言した 国民主権の原理のもと」にと述べているところです。すなわち,裁判員制度は, 主権者たる国民に依拠する制度である,とこの大法廷判決は述べていると考え られるわけです。 裁判員法第1条は,そこまで踏み込んだ規定にはなっていません。それは, 最高裁が,当初,国民の関与に極めて消極的な姿勢を示していたことを反映し ていたと考えられます。そして,その前提には,主権者である国民の負託に応 えているという発想はなく,裁判は専門家である裁判官の仕事だという発想し かなかったのではないかと思うのです。 ですから,この第1条ができるときの多数意見の発想は,専門家である裁判 官による裁判は,良好に運用されているという前提で,国民の関与の意味を考 えていたと申し上げてよいと思います。当時の裁判,特に刑事裁判が問題なく 機能してはいるものの,国民の理解が必ずしも得られているわけではないので, その増進を図るもの,あるいは信頼はされているけれども,さらに信頼を向上 させるために国民に参加してもらうというような意味で,裁判員制度を位置付 けるという発想だと思います。 しかし,私はそうではない立場でした。刑事裁判は,大問題を抱えていると 考えておりました。ですから,主権者である国民が関与することによって,事 態を是正しない限り,刑事司法制度の将来はないと考えていましたし,そのよ うな立場で,検討会にも参加しておりました。 そのように考えていました理由を,[1]の冒頭に書いておきました。裁判 員制度の導入へ道を拓くことになりました司法制度改革審議会が1999年に始ま り,その後近畿大学にもいらっしゃった佐藤幸治先生が会長を務められて,2  年をかけて司法制度改革について青写真を作り上げました。その改革へ向けて

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の議論の中で,刑事司法に関わっては,裁判員制度の導入とともにもう一つ重 要な課題がありました。それは,ご承知だと思いますが,被疑者国選弁護制度 の導入です。すなわち,被疑者にも国選弁護人をつけるという制度を導入する ことが同じ司法制度改革審議会の意見書に盛り込まれることになりました。 社会的には,裁判員制度の方がインパクトが強かったものですから,被疑者 国選弁護制度のことは何となく陰に隠れてしまったのですが,経緯としては被 疑者国選弁護制度を創設することの方がむしろ,刑事司法に関わっていた者に とっては第一義的な課題だったと申し上げてよいかと思うのです。

3.事実認定に関する疑問

その背景には,1999年に司法制度改革審議会が始まる10年以上前になります が,一番のエポックとして1983年7月15日の免田事件再審無罪判決がありまし た。相当前の話ですので,ご承知でない方もいらっしゃるかもしれませんが, 名前ぐらいはご存じかもしれません。死刑が確定していた免田栄さんという方 が,再審で無罪になるという事態に至ったのです。しかも,この免田事件だけ でなく,翌年の春には財田川事件で同じく死刑が確定していた方が無罪になり, その年の夏には松山事件でも死刑確定囚が無罪になりました。これは大変な事 態で,そんなことが先進国の日本の司法制度であってよいのかと世界的にも大 問題になっていたと申し上げてよいと思います。 ということで,刑事司法制度の改革ということでは,第一義的には被疑者弁 護の強化でありました。それは,そのような事態に関心を持った研究者や弁護 士の間では,最大の問題は捜査段階で無理な取り調べが行われ,虚偽の自白が 作り出されたことであるとも考えられたからでした。 ですから,捜査段階で虚偽の自白が作られるような環境をどう変えていくの かということを考えざるを得なかったわけです。そうして,身体を拘束された

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早い時点で弁護士の援助を受けられるようにすることで虚偽の自白が生まれな い環境をつくる必要がある,そのために被疑者段階からの国選弁護制度を創設 するということが課題として浮上することになりました。 しかし,残念ながら立法当局がそのような動きに呼応するつもりがあるのか どうかさえ分からないという状況が続きましたので,1990年に弁護士の方たち がボランティアで当番弁護士制度をスタートさせることになりました。被疑者 国選弁護制度を作ろうとは思いましたが,制度を作るとなるとそう簡単にはで きません。それで,冤罪事件に直面した弁護士の方たちが,冤罪を生まないた めの最低限の条件づくりとして被疑者が弁護士の援助を受けられるシステムを, どういう形であれ,実現しようということで,イギリスの制度にならって始め たのが当番弁護士制度でした。 私の専門は刑事訴訟法ですが,その中でも再審問題を中心的な研究課題とし ており,皆さんと同じぐらいの年齢の頃ですが,誤判の救済や防止に一番関心 を持っていました。年寄りの繰り言にならならない程度に,なぜ私がそういう 問題関心を持ったのか申し上げますと,実は学生時代にさきほどちょっと申し 上げた再審事件である松山事件に巡り合ったからでした。 ということなのですが,実はその前に,松山事件に巡り合うきっかけとなっ た事件が別にもう一つありました。それは,別添レジュメのに書いておきま したが,八海事件という事件でした。この事件は1951年に起こりましたので, 皆さんにしてみれば大昔の事件であり,私にとっても相当昔の事件になるので すが,八海は山口県の地名です。この事件は,今となってはおよそ考えられな いことかもしれませんが,最高裁で3回審理されるという事態に立ち至ってい たのです。 1審は死刑を含む有罪で,2 審でも有罪判決が維持されたのですが,最高裁 で上告していた4名の死刑判決を含む有罪判決が覆されて差し戻されたのです。 そして,広島高裁の第1次差戻審では,その4名が無罪になりました。ところ

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が,検察側が上告して,第2次上告審では今度は無罪判決が覆されました。そ して,第2次控訴審では,改めて死刑判決を含む有罪判決になって,弁護側が それに対してもちろん上告しました。そして,1968年10月25日に,第3次上告 審で,最高裁が有罪判決を破棄して,無罪を自判しました。 私はその第3次上告審の判決の時に大学生で,少し,その救援運動に関わる ことになりました。なぜ関わるようになったかといいますと,第1次上告審の 際に作られた八海事件を扱った「真昼の暗黒」という映画をあらためて自主的 に上映するということが行われており,私の大学でも上映されました。その上 映に関わっていた親しい上級生がいまして,私自身必ずしも本意ではなかった のですが,誘われてその映画を見ることになりました。この映画は今でもまだ DVD で市販されているようですので,関心のある方はぜひご覧いただければ と思います。この作品が第1次上告審に影響したのではないかともいわれまし た。 その映画は,死刑になった主人公が,最初の上告審を前に面会に来てくれた 母親が帰っていく後ろ姿に向かって,鉄格子をつかみながら「まだ最高裁があ る」と叫ぶシーンが実に感動的だったのです。その映画を見て,何もしないわ けにはいかないとついつい思うことになりました。そうして,その上級生に連 れられて,新宿の街頭でビラまきなどをしていました。 私が映画を見たときには,最初の有罪判決で無期懲役を受けた被告人の方が, 第3次上告審で懲役15年の有罪判決が維持されてはいたのですが,保釈されて いまして,私の大学にも見えて,お話を伺うことになりました。本当に鬼気迫 るといいますか,無期懲役の判決を受けたということがあり,有罪が確定する かもしれない状況の中から保釈されて,無罪を訴えて全国を行脚していた方で, その方のお話を聞いて,どうしてこれが有罪なのか,なぜ3度も最高裁で審理 されなければならないのかを,私なりに考えさせられることになりました。 もう少し具体的に申し上げますと,被告人は当初5人いました。1 人はすぐ

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に捕まり,その人は確たる証拠があって本人も犯行を認めていました。ところ が,警察当局はその人が単独で事件を起こしたという自白を信用しなかったの です。なぜ信用しなかったのかといいますと,犯行現場に踏み込んだ警察官が 初動の時点で複数犯の事件だと判断していたということからはじまっていまし た。なぜ複数犯と判断したかといいますと,老夫婦が殺された事件だったので すが,ご夫婦の奥さんの方が鴨居から吊り下げられた状態で発見されたのです。 それが無理心中に見せかけるための偽装ということは直ぐに分かったのですが, その偽装は単独犯ではできないというのが警察の判断でした。死体は重いとよ くいわれますが,そういうことがあって鴨居から死体がぶら下がっている状態 が,無理心中でないとなれば,単独ではできないから複数でやったに違いない と警察は考えたのです。 裁判の過程で,その偽装が単独でもできることを弁護人は立証してみせまし た。そして,最初に逮捕された人が単独犯だったことはほぼ間違いないのです が,その人が単独犯という自白をして,証拠もそろっている状態だったにもか かわらず, 警察はその人に「1人でやったわけではないだろう。 誰と一緒に やったんだ。」と徹底的に追及したのです。追及されても, 最初のうちは単独 犯と言い続けていましたが,この間司法取引の問題などが出てきまして,非常 に厄介だと思っているのですが,裁判では誰かを仲間に引っ張り込めば自分の 罪を軽くすることができる可能性があるわけです。そこで,日頃一緒に遊んで いた仲間4人と一緒にやったと自白することになります。 しかも,その4名の中に主犯格がいることにしました。そして,その主犯格 の人が最初,死刑判決になったのです。単独犯行を自供したにもかかわらず, 最終的に複数犯を自白することになったその人は,1 審で無期懲役,控訴審で も無期懲役になりました。単独犯であれば多分,死刑は免れなかったはずです。 にもかかわらず,複数犯となり,主犯ではないということになり, 刑が軽く なったわけです。この人は,最初は上告していたものの,結局は上告を途中で

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取り下げて服役しました。 あとの4人が残って上告審を闘うことになったのですが,その4人は全て冤 罪を主張しています。そのときに映画ができて,ともかく最高裁で一度差し戻 されることになったわけです。差し戻された広島高裁では無罪になったのです が,第2次上告審で無罪の判決が破棄され,差し戻された広島高裁で再び有罪 になって,第3次上告審でようやく最高裁が自判して,無罪が確定したのです。 学生だった私からしても,なぜこんなことになっているのだ,刑事裁判は一体 何をしているのだろうと思わざるを得なかったわけです。 それはもちろん,被告人のお1人からお話を伺ったり,映画を見たりしたこ とが影響していたかもしれませんが,最終的に最高裁自体も私たちが考えてい たと同樣の理由で無罪にしていますし,しかも自判せざるを得なかったわけで す。そのようなことからすると,裁判官と呼ばれる人たちは一体何をしていた のだろうと思わざるを得ませんでした。専門家といわれる裁判官たちが,結果 的に見れば極めて単純で,学生の自分でもおかしいと思うような,しかもその ことを最終的に最高裁が認めざるを得ないようなことがなぜ起こったのか,不 思議でなりませんでした。 そのときに,さらに松山事件に巡り合うことにもなりました。どうも松山事 件もそういう類の事件ではないかと思われ,松山事件の方は本格的に救援運動 をお手伝いすることになったのです。調べてみれば調べてみるほど,この事件 もおかしな事件でしたが,こちらの事件は八海事件と違って確定している事件 だったのです。その時には,確定している事件がどんなに大変かをあまり考え ないで救援運動に加わったというところがありました。最初の段階では松山事 件がまだ八海事件のように最高裁で死刑判決がひっくり返って無罪になること もあるのではないかと思っていました。ところが,確定してしまっている事件 はそう簡単ではありませんでした。当時,再審が認められるということは,救 援運動をしている人たちの間でも夢のまた夢であり,とにかく死刑を執行させ

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ないために運動をしているという状況でした。ということで,再審の勉強をし てみようと大学院に行ったのですが,それは,そのような理不尽な状況をなん とか変えられないものかと考えたからでした。というのも,この松山事件も私 には極めて単純な事件に見え,なぜ死刑が確定してしまったのかと思われたか らでした。 あまり詳しいことを申し上げていると時間がなくなってしまいますので,最 少限のことだけ申し上げますと,松山事件は一家4人を殺して放火した事件で した。犯行が行われたのは夜中で,被告人は明け方の4時ごろに現場から帰る ことになっているのですが,火の手が上がるのを振り返って見ながら,ズボン に触ったらヌラヌラしていたというのです。凶器が何かについては争いがあっ たのですが,ともかく薪割りのようなもので,被害者4人を殺していますから 返り血を浴びており,当然着ていたジャンパーやズボンに血が付いていること に気付くことになりました。そこで,帰り道の途中にあった用水池で,ズボン とジャンパーを脱いで洗って,手で絞ってまた着てその近くの杉林で約2時間 ほど休んで帰ったわけです。自宅に帰って,家族がみんな寝ている中,自分の 布団に入ったのです。しかし,殺人事件を起こしてきたわけですから,本人と してみれば悶々として簡単には寝られないので,もんどりうったり,頭をかき むしったりしていました。そうしたら,自分が使っていた掛け布団の襟当てに 八十数群の血痕が付着したというのです。ズボンがヌラヌラするぐらい血が付 いたので,当然ながら頭や顔にも返り血を浴びています。顔は途中でズボンを 洗うときに一緒に洗ったというのですが,髪の毛はさすがに洗いませんでした。 それはそうです。場所は,東北の仙台の北で,事件は10月の半ばの明け方の寒 い時間帯に起きていますから,髪の毛を洗う人はいません。ですので,髪の毛 に残った血が,直接や手でかきむしったこともあって二次的,三次的に,襟当 てに付いて,八十数群の血痕になったというのです。 この襟当てに付いた血痕が重要な科学的証拠だということになり,死刑判決

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につながっています。ところが,事件が起こったのは10月18日ですが,この襟 当てがついた布団が押収されたのは,被告人が逮捕された後の12月8日になっ てからですし,家族の方のお話ですと,実はその布団は,被告人のものではな く,弟さんが使っていた布団だというのです。それがなぜか,鑑定に回したら, 八十数群の血痕が付いているという話になったのです。しかも,血液型はいろ いろと混ざってはいたけれども,被害者の血液型と一致したということになっ て,有名な法医学者の方が鑑定したこともあって,それが事件に由来する血痕 という話になり,科学的証拠になりました。自白は変転しているのですが,そ ういう証拠がある以上は死刑に間違いないという話になって,確定してしまう のです。 常識的にはどう考えてもおかしいわけです。救援グループが行っていた現地 調査の際には,必ず実験をしていたのですが,皆さんお分かりのように,いく ら返り血を浴びたからといって, 4 時ごろに事件を起こして6時近くに家に 帰って寝て,二次的,三次的といっても,布団の襟当てに血痕が八十数群も残 るような付き方はしません。当然,血粉になってしまい,血液が凝固しない病 気でもなければ,凝固して霧消してしまうのが普通なのですから,それが襟当 てに付着した後で鑑定に耐えられるような状態で残留するということは普通考 えられないわけです。 ところが,それで死刑になっているわけです。もちろんほかにも多くの疑問 があったのですが,この1点を取っても常識的に考えられないことでした。私 にしてみても,まさに八海事件でもそういう思いをしたのですが,松山事件で なぜそんなことで死刑が確定しているのか,しかも再審請求が1審で認められ ない,2 審でも認められない,そして私は,最高裁に特別抗告が行われている 時に,この事件に出会いましたが,最高裁でも認められなかったのです。第2 次再審請求になって,その途中で私は大学院に入って再審の勉強をすることに しました。

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ということで,私の一番の関心は,八海事件にしても松山事件にしても,な ぜそのような事実認定が放置されているのかということでした。別添の1の後 ろの方に書いておきましたが,ちょうどその頃,再審について松山事件と同じ ような事件,免田事件もそうですが,死刑が確定しているような事件で,本当 に刑事裁判で有罪にしたことが妥当だったのかが問題になるような事件がたく さんあり,再審についての関心も高まることになっていました。

4.合理的疑いを巡る問題

そういうこともあって,再審についていろいろと議論が始まり,私がちょう ど大学院に入った次の年に,皆さんも勉強していてご承知だと思いますが,最 高裁のいわゆる白鳥決定が出ました。白鳥事件という再審請求事件の特別抗告 に対して出された決定です。白鳥事件自体は再審を認められませんでしたが, 決定の総論が,重要な判断を示し,その後の再審問題の展開にとって非常に重 要な役割を果たすことになります。免田事件や財田川事件や松山事件が再審開 始となり,無罪になるきっかけになったのがこの決定だったと考えられていま す。 そうして冤罪事件の救済は,一定程度進展することにはなったのですが,な ぜ誤った死刑判決が維持されることになったのかということについて,具体的 に事態打開につながる解決策が示されたわけではありません。捜査の早い段階 に虚偽自白を取られないようにするという対策を講じる必要があるということ は分かっても,具体的な方策を機能するようにすることは容易ではありません。 さらに,裁判になって事実認定という場面で誤判を生まないシステムをどう作 ればいいのかということになりますと,さらにことは厄介で,なかなか議論が 進展するには至りませんでした。 死刑が確定した事件ということでは,その後の1989年にも島田事件が救済さ

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れたので,4 件の死刑確定事件が救済されました。それは確かに事態としては 白鳥決定があったからではあると思うのですが,私が見るところでは,そもそ もなぜ死刑が確定してしまったのか,すなわち,実体的には,なぜ白鳥決定が なければ救済されなかったのか全く分からないような事件なのです。白鳥決定 は,刑事裁判の鉄則として,裁判時の有罪立証に合理的な疑いがあれば無罪で あり,再審においても同樣に,確定判決の事実認定に合理的な疑いがあれば再 審を開始してもよいということにしたのですが,私に言わせれば,白鳥決定が 出たことによって救済された事件は,合理的な疑いがあるというレベルの話で はないと思われてなりませんでした。 免田事件の被告人は死刑囚で最初に救済された方ですが,この方は最終的な 再審の判決で無罪になったとき,どのような判決理由で無罪になったかといい ますと,アリバイがあるということでした。つまり,アリバイのある人が死刑 判決を受けていたということです。しかも,その認定の根拠になった証拠は, 死刑を言い渡した1審の段階から存在していました。松山事件も,先ほど申し 上げましたように,常識的には考えられないような証拠が,いかにも科学性を 備えているということで根拠にされていたにすぎません。最終的には,捜査当 局によるねつ造が疑われるという証拠に支えられていたということでした。で すから,合理的な疑いがあって無罪にしたというレベルでの話ではないと言わ ざるを得ません。白鳥決定が出たことが弾みになったとはいえるかもしれませ んが,実際には,明々白々な誤判事件が放置されており,その被告人を救済し なければ刑事司法が崩壊につながるとしか言いようのない事態に立ち至ってい たということでの救済であったと思えるのです。 ですから,刑事裁判の鉄則である合理的な疑いを超えるところまで検察官が 証明しなければ有罪にはできないというルールが,ここで具体的な中身をもっ て確認されることになったかというと,私はそうではなかったとしか思えない のです。ですから,誤判を防止する観点で見たときに,まず虚偽の自白を取ら

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れることを阻止することももちろん重要ですが,それだけでは誤判の防止には なりません。つまり,裁判所の事実認定ということになったときに,最終的に 有罪として要求されているレベルがどういうレベルなのか,鉄則といわれるも のがなぜ合理的な疑いを超えるレベルでの検察官の立証を要求しているのかと いうことを,詰めて考えてみるしか手がないのではないかと思われたのです。 つまり,自白を阻止するだけではなく,通常の公判審理になったときに,合 理的な疑いを超えるとはどういうことなのか。逆に言うと,合理的な疑いが残 るとはどういうことなのかを詰めて考えてみるしかないだろうということです。 ところが,そのことはなかなか具体的な形で進展しませんでした。 それにはいろいろな要素が絡んでいただろうと思います。合理的な疑い自体 が抽象的な概念ですから,それがどういうレベルのものと考えられるかを具体 的に示すということが,難しい問題だったことは間違いありません。それに, 同じ事件はありませんから,証拠関係も全て異なっているわけですから,それ ぞれの事件で合理的な疑いの中身は違っていると言われればそのとおりなので す。 ですから,抽象的概念である合理的な疑いによって,合理的な疑いを超える 有罪立証を要求してきたことになるわけですが,そのために法律家の人たちは, 私の見るところではそれぞれの立場に合わせて合理的な疑いのレベルを想定し ていたとしか思えません。弁護士と検察官と裁判官とでは,合理的な疑いを同 じ用語でイメージしていたとしても,具体的な中身のイメージは違っていたの ではないかと思われるのです。ですから,法律家である以上は誰でも,合理的 な疑いを超えたときに有罪にできるということは講学上の常識としては分かっ ていますが,本当のところ,そのイメージを具体的に詰めることができていた かといいますと,そうではなかったという感じがしてならないのです。 ということもあって,私としては裁判官たちが自分たちなりの合理的な疑い のイメージをもって有罪判決を下しているとしか考えられませんでした。素人

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でも分かるような疑問には結局こだわらないで有罪にしてしまうようなことが 起こっているとしか思えなかったのです。ですから,なぜ裁判官はそのような 誤りを犯すのかという疑問と同時に,いわゆる職業裁判官たちに裁判を委ねる のではない方法を考えるしかないのではないかと思っていました。おこがまし い話ですけれども,学生の私にも,一緒に救援運動をしてきた人たちにもおか しいと分かるような事件について何度も誤りを犯すような裁判官に事実認定を 任せておくことはできないのではないかと思ったのです。 八海事件でも最終的には無罪になりましたし,松山事件も難しいといわれて いた再審でもなんとか無罪になりました。しかし,それまでに誤りを犯した裁 判官たちの方がはるかに多かったわけです。しかも,有罪の根拠に疑問がある ということは, 事件について調べて救援に関わっていた人たちは,みんな分 かっており,分からなかったのは裁判所だけだったとしか言いようがありませ ん。ですから,被疑者国選弁護制度を作ると同時に,事実認定の場面でも,国 民的な感覚,端的に言えば国民の常識ということになるかと思いますが,裁判 を国民の判断に委ねるということを考えてみる必要があるのではないかと思っ ていたのです。 当番弁護士制度が始まったときには,私も及ばずながら,その展開をバック アップしていたのですが,それとあわせて司法制度改革審議会が始まることに なったときには,裁判への国民参加が実現できないかと思っていました。その ときはまさか私が制度設計の委員になるとは思っていなかったのですが,私と しては司法改革を行う以上,裁判に国民が参加し,国民の常識に従って判断す ることがあってしかるべきだと考えていました。ですから,審議会によって国 民が参加する制度を作ることは決められており,その制度設計ということでし たから,冤罪問題にそれなりに関心を持ってきた私のような者が審議に加わる ことも意味があるだろうと思って引き受けることにしました。 当時の雰囲気としては,私はそんなことはないと思っていましたけれども,

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一般の方たちの中では,国民が裁判に関わることは冤罪を生むことにつながる 危険性の方が高いと思っている人の方が多かったのかもしれません。研究者の 仲間にもそう考えている人が多かったのではないかと思います。そういう人た ちからは「冤罪問題をテーマに研究をしているのに,なぜ国民参加なのか」と 言われたこともあるのですが,私には,今までお話ししてきたことからもお分 かりいただけるように,職業裁判官よりも,健全な常識を持った国民の方が, よほど妥当な事実認定をする可能性があると考えていたわけです。

5.裁判員制度導入による事態の変化

それが別添のに書いておいたことにつながるわけですが,すぐに事態が変 わると思っていたわけではもちろんありません。その状況と申しますのは,先 ほど少し申し上げたように,合理的な疑いという抽象的な概念で,法律家それ ぞれの都合で中身を考えていて,それで何となく予定調和的にあうんの呼吸の ようなことで,建前としては合理的な疑いを超えないと有罪にはできないとみ んな納得している面があったということではなかったかと思います。具体的に それが詰められることはありませんでしたし,詰めることもできないと思われ ていたかもしれません。 しかし,国民が加わって裁判をするということになったとき,その抽象性を どこまで具体化できるかということが,すぐ問題になると考えていました。裁 判に加わる国民も「疑わしいときには被告人の利益に」という鉄則があるとい うことはご存知かもしれません。それが,合理的な疑いを超えた有罪の証明が ない限り,無罪にしなければならないという意味であること,すなわち犯罪の 証明がなければ無罪にするしかないということ,端的にいえば,その場合には 検察官が有罪立証に失敗したときも含まれるということはご承知いただけるか もしれません。

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とはいっても,国民にとってはそのような鉄則があるというだけでは判断は できないわけです。合理的な疑いとは何なのか,合理的な疑いを超えるとはど ういうことなのかということが問題にならざるを得ません。法律家がプロとし て何となくあうんの呼吸で理解しているというだけで済まされるわけではあり ません。具体的に国民が納得できるような説明が行われないと判断できません。 そうなると,まさにこの鉄則が刑事裁判の片面性を象徴するものだということ を,内実として理解できるような説明をせざるを得ないことになるはずだと, 私は予想していました。そうでなければ,結局は裁判官との合議が成立しない ことになってしまいかねないからです。 ですから,裁判所は,この鉄則について裁判員に説示を行うことが必要です。 この説示は法廷では行われていないようですが,私は検討会では,公開の法廷 できちんと裁判員に原則を含めて説示をすべきだと主張したのですが,通りま せんでした。しかし,いろいろ伺ったり,傍聴してみますと,評議室では裁判 所が,刑事裁判の鉄則について口頭あるいは文書で必ず説明されていると伺っ ています。あるいは法廷でも,弁護人が最終弁論で,裁判員の方たちに求めら れている判断はこういうことだということで,刑事裁判の鉄則の意味を弁護人 の立場から説明することが多くなっているといわれています。 問題は,それが,個別の事件に即して具体的に説明されるようになっている のかということですが,その点を検証することはそう簡単ではありません。今 日は最終的にはその点に関わることを申し上げられればと思っているのですが, そうはいっても結局は抽象的な概念をどこまで具体化できるかということであ り,個別性があることですから,どう申し上げるのが妥当かについては議論の 分かれるところかと思います。 そもそも事実認定問題に,研究者の立場から口を差し挟むのはタブーだとい われた時代がありました。職業裁判官の方たちからは,「研究者が証拠も見て いないで事実認定について云々することはできないだろう」とも言われたりし

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ました。私が存じ上げているある高名な研究者の先生からも,再審に関わる発 言は慎重にならざるを得ないといったお話を伺ったことがあります。つまり, 再審は事実認定の是非を問題にするわけですから,いくら誤判からの救済だと いっても,証拠も見ていない者が事実認定が誤っている,誤っていないと議論 するのは危険だという感覚で見ていた方が多かったのだろうと思います。 とはいいましても,再審事件が問題になってきた状況の中で,記録を読むこ とも含めて,事実認定に研究者が関わることが必要だという雰囲気はできてき ましたし,事件記録を手に入れて,裁判官とそう変わらない検討を行うという ことも珍しいことではなくなりました。それと,事実認定問題を考える際に重 要なことは,刑事裁判の片面性です。つまり,「有罪判決が正しい」「無罪判決 が間違っている」と言うのは,危険な部分があるのはそのとおりです。合理的 な疑いを超えた証明があったかどうかを判断するためには,確かに全記録を見 なければわからない可能性が高いからです。しかし,「有罪判決が間違ってい る」「無罪判決は妥当だ」と言うことは,場合によっては記録全部を見なくて も言えることだと考えます。有罪認定に合理的な疑いがあればいいからです。 それが刑事裁判の片面性だと私は考えています。 ですから,新聞などにコメントを出すときにも,私は「有罪判決が妥当だ」 というコメントは出しませんが,有罪判決に疑問があるとは言います。なぜな ら,合理的な疑いがあるということは,記録全部に当たらなくても言えること があるからです。松山事件であれば,襟当てにあれほど多くの血痕が付着する はずがないということだけでも,合理的な疑いと考えられますし,八海事件で も,弁護人が実際に首吊りの実験をしてみて,1人でも鴨居から死体を吊すこ とができるということが示されたことを考えれば,上告を取り下げた被告人以 外には,有罪を支える証拠が自白しか存在しなかったことはあまりにも不自然 であり,そのような観点からは合理的な疑いがあったと考えられます。 裁判に国民が参加することが, そのような刑事裁判の持つ片面性,つまり

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「疑わしいときには被告人の利益」という鉄則をより具体的で分かりやすいも のにしていくことにつながると考えたわけです。

6.審理内容の変化

最初のレジュメに戻っていただきますと,真ん中の部分は皆さんが調べられ ればお分かりになることでして,お話しをする枕として裁判員裁判の現状につ いて最低限のことを申し上げなければならないと思って用意した部分ですので, ご覧いただくということで省略させていただき,ここからは5ページの後半以 降に関してお話しさせていただこうと思います。 「[5]審理内容の変化」と書いておきましたが,先ほど裁判員裁判の導入に よって期待できることとして申し上げたような原則的な審理が,どのように進 んできているのかということです。口頭主義・直接主義の進展はお聞きになっ ていると思いますが,できる限り調書を排除して,証人尋問を多用するといっ たことを中心にいろいろな配慮が行われてきています。その流れで,先ほど申 し上げたように,裁判所としては,刑事裁判の鉄則を国民が理解できるような 形で示さなければならなくなり,口頭あるいは文書で,裁判所からも,場合に よっては弁護人からも告知されることになっています。 となれば,もちろん理解できなければ質問が出るということにもなると思い ます。評議の席あるいは準備段階で,合理的な疑いと言っている限りは抽象的 であることは間違いないわけですから,参加した裁判員から裁判所に,具体的 にどのような場合が該当するのかという質問が出るのは当たり前だと思います。 そのような場合に,どう説明するのかについて,裁判所もいろいろ模索してき たと思われますし,弁護士会も考えてきました。日弁連が考えた案を別添2の ④にあげておきました。裁判員裁判が実際に始まる前の2007年ですが,合理 的疑いを次のように言い換えることを提案しています。「常識に照らして有罪

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であることに少しでも疑問がある」場合は無罪にしなければならないとしてい ます。 常識自体はそれぞれの常識で構わないということになるわけですから,国民 が社会生活上涵養してきたバックグラウンドに従って,有罪であることに少し でも疑問がある場合ということになると思います。であれば,二次的,三次的 に襟当てに八十数群も血が付くことは普通考えられないというのが常識だと思 いますし,1人でも人を吊り下げることができることを証明して見せているの であれば,単独犯でもできないわけではなく,そのことで自白しか証拠のない 複数犯と考えるのはおかしいということになると思うのです。 ですから,裁判員裁判については,素人がやっているということでいろいろ と批判されることもありますが,裁判官3人の常識に比べれば,6 人といえど も裁判員の常識の方がよほど豊かで広い視野を提供することになるのではない かと思います。そのような意味で,「常識に照らして有罪であることに少しで も疑問がある」というのは,一つの言い方としてよく考えられた案だと思って います。 それとほぼ時を同じくして最高裁も,どのような場合に有罪としていいのか, 逆に言えばどういう場合に無罪にしなければならないのかということについて, 具体的な判断を示すようになりました。最初に出されたのは日弁連とほぼ同じ 時期で,2007年の第一小法廷の決定でした。手製の爆発物を郵送して,離婚訴 訟中だった妻の母親を殺そうとした事件です(最一小決定平成19年10月16日刑 集61巻7号677頁)。最終的には有罪を認めることになるので,合理的な疑いが あるときには無罪だという方向とは逆の方向からの定義ですし,まだ中途半端 なところがあったのではないかと思いますが,「健全な社会常識に照らして, その疑いに合理性がないと判断される場合には有罪にできる」という言い方を していました。この定義では,「健全な社会常識」とは一体どういうことなの か,「健全な」あるいは「社会常識」という一般化された内容を要求すること

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になるので,その中身が必ずしも明確ではないといった批判を受けることにな りました。 また,「反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうもので はなく」ともいっていますが,その「全く」も疑問で,反対事実が存在する疑 いがあれば,合理性に疑いがあると言っていた学説もあるのですが,それだけ では足りないということになるようですから,一歩踏み出して説明しようとい う姿勢を示した点では評価できる判断だったといえますが,なお検討の余地が あったと思います。 さらに,2009年の裁判員裁判が始まる直前になりまして,これも有名な事件 ですのでご承知かと思いますが,痴漢冤罪事件の判決がありました(最三小判 決平成21年4月14日刑集63巻4号331頁)。防衛医科大学の教授だった方が東京 の小田急線で女性に痴漢を働いたとして1審,2 審で有罪になり,最高裁では 破棄自判無罪になった事件です。その判決では補足意見ですが,さらに踏み込 んで,「単なる直感による『疑わしさ』の表明の域にとどまらず」,つまり単な る直感ということですから,何となく変だ,おかしいということでは足りない けれども,「論理的に筋の通った明確な言葉によって表示され, 事実によって 裏付けられたもの」であれば合理的な疑いなのだという言い方をしていました。 ですから,前述の判例からさらに一歩踏み込んで,無罪にしていい場合につい て具体的に方向性を示したことになります。合わせて,「いわばグレーゾーン の証拠状況」, 皆さん勉強していてお分かりのように,挙証責任の説明の際に よく言われることですが,真偽いずれとも判断できない場合,有罪とも無罪と も言えない場合,端的に言うと有罪には疑問が残る場合といっていいと思いま すが,そういうグレーゾーンにあるときは無罪にしなければならないというこ とをもあらためて確認しています。特に被害者の言うことだけを聞いて,前述 のような疑いに目を向けないのは駄目だと言っているわけですが,そのように 一歩踏み出して破棄自判をしました。 しかし,この判決は無罪意見が3人,有罪意見が2人という大変な激論だっ

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たのです。私の見るところでは,極めて原則的な判断によって有罪を破棄した と思うのですが,最高裁内部では,かなり激論の末,3 対2というきわどい数 字で無罪にしたのです。しかも興味深いのは,有罪意見を書いた1人は刑事裁 判官出身だったということです。もう1人は,弁護士出身の方なのですが,な ぜ弁護士出身の方が有罪意見に与したのかは,分かりませんし,次に紹介する 判決では態度が変わっており無罪説に与していました。 それは,同じ小法廷が,さらに一歩踏み込んだ合理的な疑いに関する問題提 起が行った判決です(最三小判決平成22年4月27日刑集64巻4号233頁)。大阪 母子殺人放火事件ということで皆さんご承知かもしれません。情況証拠による 証明という場合にも,合理的な疑いを超えることが必要であることを確認する とともに, さらにその意味を敷衍して,「被告人が犯人でないとしたならば, 合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難で ある)事実関係が含まれていることを要する」と,一歩踏み込んだのです。逆 説的な言い方になっているので分かりにくいですが,端的に言いますと,例え ば犯人でないならば衣服に被害者と同じ血液型の血が付いていることは通例考 えられないので,そのような場合には,犯人ということでなければ説明がつか ないことになるので,合理的な疑いを超えたと考えられると言うことでしょう。 そのようなことがあるかどうかをきちんと確認しろということです。 かなり具体的な証拠関係のところで合理的な疑いを考えてみる必要があると いう言い方になっています。しかもさらに,この判決にも補足意見が付けられ ています。その補足意見を書いた方は弁護士出身ですが,先ほどの痴漢冤罪事 件のときにも多数派を構成していてやはり補足意見を書いた方です。補足意見 は,「多数意見よりは有罪の可能性が高いと考えるが, 私を除いても複数の裁 判官が合理的疑いが残るとの見解を採っている。そのような状態で,私は有罪 の確率が高いとは思うが,無罪だという多数意見に従わざるを得ない」という 言い方をしたのです。このときは4対1,この方を除くと3対1で無罪意見が

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強かったということでしょう。ですから自分も多数説に従うということで,最 終的に4対1で逆転無罪にしました。 4対1の1は誰かというと,痴漢冤罪事件でも有罪を主張していた刑事裁判 官出身の最高裁判事でした。ですから,同じ小法廷で2件続けて無罪になった ケースで,刑事裁判官出身の方が有罪を主張し,反対意見を書いたのです。私 は,元裁判官だった親しい方と,この二つの判決をどう読むのかいろいろ議論 したときに,「私が見るところでは最高裁は頑張って二つとも無罪にしたが, 現場の刑事裁判官たちは有罪意見を書いた裁判官を支持している可能性はない か」と聞きました。そうしましたら,その方は親しい現役の裁判官たちに聞い てくださって,「あなたの言うとおりだ。 現場は有罪判決を書いた裁判官を支 持している方が多いようだ」という話でした。もちろんそれがどの程度の範囲 のことかは分かりません。しかし,現役の刑事裁判官達の中には,合理的な疑 いについてかなり高いハードルをイメージしている方が間違いなくいたという ことですから,なかなか厄介な話ではあります。 この事件はどのようなケースであったか簡単に申し上げますと,義理の娘と その子どもを殺して放火したとして義理の父親が起訴された事件です。父親は, いろいろ経緯があって家を出て所在を隠していた娘を探していたのですが,最 終的に身を隠していたマンションの一室で娘とその子供を殺害し,放火したと いうのです。本人は無罪を主張していたのですが,1 審と2審は有罪でした。 本人は,居場所を突き止めていなかったと主張しましたが,有罪判決では見つ けていた可能性が高いとされました。その居場所を突き止めていた証拠として 挙げられていましたのが,マンションの階段の踊り場にあった灰皿の中にあっ た一本の吸い殻です。その吸い殻から被告人の DNA と同じ DNA が発見され たのです。それで1審は無期懲役でしたが,2 審は死刑でした。しかし,最高 裁は,娘が父親の使用していた携帯灰皿を父親の家から持ち出していたことが 証拠上確認できているため,その中に入っていた吸い殻を踊り場の灰皿に捨て

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た可能性を否定し切れないと言ったのです。つまり,父親の DNA が検出でき る吸い殻があったからといって,その吸い殻がいつ誰によって捨てられたのか を証明できない限り,疑問が残ると言わざるを得ないということで,その点に ついての確認を求めて死刑判決を破棄しました。 確かにその吸い殻自体はいつ捨てられたものか分からないですし,娘が捨て た可能性もあるとなったときには有罪にするわけにはいきません。これがまさ に刑事裁判の鉄則に従った判断だといわれればそのとおりだと思われるわけで, この最高裁判決は非常に重要な役割を果たしたと思います。 ということで,最高裁で今,どのような議論が展開されているかということ も気になるところですが,先ほど申し上げたように,現場の裁判官たちが,そ のような最高裁の動きに呼応するような動きを見せているかどうかが実は問題 でした。その点でいきますと,鹿児島地裁で言い渡された判決があります(平 成22年12月10日 http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/076/081076_ hanrei.pdf)。これには検察官が控訴しましたが,途中で被告人が亡くなってし まったため,1審の無罪判決のまま終わってしまったのですが,実はこの無罪 判決が,最高裁の大阪母子殺人放火事件判決を受けた典型的な判決になってい たと思います。 この事件は,裁判員裁判で検察側が死刑を求刑していましたので,有罪にな れば裁判員裁判では最初の死刑事件になるかもしれないといわれていました。 それで,気になりまして,当日は鹿児島まで出かけて何とか傍聴券を手に入れ 傍聴することができました。内容的には,先ほど申し上げた最高裁の判断など を前提にすれば,無罪の可能性も十分にあり得ると思っていましたが,それま での裁判所の感覚からしますと,有罪になるかもしれないと思っていたからで もありました。 この事件は老夫婦が自宅で金属製のスコップで頭や顔面等を多数回殴打され て殺された強盗殺人事件です。被告人は70歳になる高齢者でしたが,なぜその

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被告人が起訴されたかといいますと,侵入したと思われる網戸が破れていて, その網戸に付着していた肉片の DNA が被告人の DNA とほぼ一致し,同じ場 所のガラス戸の割れた破片に被告人の指紋が発見されていました。それから, 強盗殺人ですから室内が散々荒らされているのですが,その中にあった整理ダ ンスとその周辺にも被告人指掌紋が付着していました。指紋があり, DNA が 一致する肉片があれば,それまでの裁判所の判断であれば,それだけで有罪に なる可能性が高かったと言って良いでしょう。 ところが,判決は無罪でした。ある著名な作家の方が,公判を傍聴されてい て,地元のマスコミの人たちに「自分がこれまで裁判を傍聴してきた経験から すれば,これは有罪だ」とおっしゃっていたらしく,地元のマスコミの人たち の多くも有罪ではないかと思っていたようです。ですから,無罪判決には驚い た方が多かったようです。 弁護人は肉片や指紋について,捜査当局のねつ造であると主張していました。 しかし,判決は,ねつ造を否定しました。となると,ねつ造ではないのに,な ぜ指紋・指掌紋があり,肉片が付いていたにもかかわらず,有罪にしなかった のかということになります。それは,先ほどの吸い殻と一緒です。つまり,確 かに指紋が付いていたし,肉片が付いていたけれども,その他の事情と合わせ て判断すれば,この殺人事件を犯したときに付いたものだという証明はなく, それだけでこの事件の犯人だとは言えないと判断したのです。 その他の事情として判断材料になっていますのは, 遺体を見ると100回以上 もスコップを激しく振り回して殴打したと考えられるところ,70歳の被告人に, そのような殺害方法が可能だったのか,またそのような殺害方法に伴う痕跡が ない,また強盗殺人ということになっていますが,盗まれていないお金が残っ ていたりもしているということです。そのようなことがある以上は,指紋や肉 片が残っているというだけでは有罪にできないと判断したのです。 これは,先ほどの大阪母子殺人事件の最高裁判断を踏襲するものですし,さ

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らに,敷衍して,「有利な情況証拠や, 犯人であれば発見されるであろうと考 えられる痕跡が発見されないことなどの消極的な情況証拠も取り上げるべきだ」 ということで,消極的に判断されるべき証拠関係にも配慮した判決になってい ます。つまり有罪にする方向だけではなく,無罪にする方向での証拠をどこま できちんと精査するか,それで疑問が残っている限りは有罪にできないという ことだと言っていいと思います。現場の裁判官たちの中には,先ほどのような 最高裁の有罪意見を書いた裁判官に連なる人たちもどうやらいそうだったので すが,この判決は,裁判員が加わった裁判所の判断が,方向を変えつつあるの ではないかと思わせる判決でもあったと申し上げて良いかと考えています。

7.裁判員裁判の運用状況

7~8ページには,実は私が傍聴していた事件で無罪になったケースについ て書いておきました。2014年の1年間をかけて,北は札幌から南は那覇までの 裁判所の裁判員裁判36件の全公判を傍聴して歩きました。それで先ほど山本先 生がご紹介してくださったように,「我が子を見るような」ということにもな るのかもしれませんが,ともかくも裁判員裁判がどういう実情にあるのかを見 てきました。 実情を知るために傍聴するとすれば,全公判を傍聴しないと意味がありませ ん。しかし,皆さんもそうだと思いますが,3 ~4日ある公判の全日程を傍聴 することはなかなか難しいと思います。特に大学教員をしている人間はほとん ど傍聴できていないと思います。そうだとすると,事実認定については,裁判 員裁判がどこまで期待に沿うことをしているのかは分からないと言わざるをえ ません。もちろん見たからといってすぐに分かるかという問題はあるのですが, 直接主義,口頭主義が徹底されると,傍聴席にいてもその事実認定の適正性は, チェックすることが可能になると思いますし, できなければおかしいと私は

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思っていまして,ともかく1年間で36事件の全公判を傍聴してみたということ です。その全体の概要は「季刊刑事弁護」という雑誌に簡単に報告してありま すので,ご覧いただければと思います(80号197頁以下,81号120頁以下,82号 141頁以下)。 その36件傍聴したうちの2件が無罪だったのです。これは確率的にかなり高 い方だと思います。36件ですから,無罪判決に巡り合うことはないかもしれな いと思っていました。ただ,無罪主張は結構あって,他に3~4件ありました。 しかし,いずれも有罪ということで,最後の方になって2件の無罪と巡り合い ました。 具体的にはまず,神戸地裁の放火事件の判決です。2 人しかいない部屋の中 で出火して,片方が火種になる灯油をまいたことははっきりしているのですが, どちらが火をつけたか,しかも放火のつもりで火をつけたのかどうかが分からな いため無罪になったというケースです(平成26年11月19日 http://www.courts. go.jp/app/files/hanrei_jp/864/084864_hanrei.pdf。前掲刑事弁護82号事件)。 もう一つはさいたま地裁の殺人放火事件の判決です。これは養父母を殺害し て放火したということで立件された事件です。被告人は両親が遺体となって横 たわっているのを,自宅のことですから夜中に目撃していると供述しています。 そして,約1日空いた翌日の夜中の午前2時14分ごろに火の手が上がり,自宅 が燃えています。 遺体を発見した後,被告人はどうしたかといいますと,呆然としてしまい救 急車を呼んだり,警察に通報したりしていませんでした。被告人は,両親は病 気がちで,特に母親が認知症を患っていたこともあって,父親が悲観して,母 親を殺して無理心中をしたのだろうと思ったというのです。そして,しばらく 時間が経ってしまってからは,警察に通報すると自分が殺したのではないかと 疑われかねないと思ったため,自殺するしかないと思って車で自殺場所を探し て自宅を離れたところ,その後自宅が火事になりました。焼跡からは,灯油が

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まかれた形跡が見つかっていて,放火の可能性が高いとされていました。しか し,被告人は,火事になったということは,自殺しきれずに1週間ほど経って, 悶々としてうろうろしていたところ,遠方で発見され,警察で取り調べを受け ることになって知ったというのです。 従前であれば,その弁明は通らない可能性が高かったのではないかと思いま す。よく利用されてきた消去法ということになれば,両親が死亡したと思われ る時間帯に同じ家にいた可能性があるのは被告人しかいませんし,無理心中か どうかをはっきりさせるのはかなり厄介です。それに,時刻は明確ではありま せんが火が出る直前まで被告人が家にいたことになっているからです。 裁判所の審理過程はどうなったかといいますと,火が出たのはいつかという 特定から始まったといっていいと思うのですが,午前2時1~2分ごろに新聞 配達の人が来ています。その人は火が出ていることを一切目撃していませんし, 火が出ている気配も感じていません。ほかに証拠がありませんから,検察官も そのことを前提にしています。ところが,2 時24分には消防署に通報がありま したし,火が出ているのを見た目撃者が何人かいまして,2 時14~15分には火 が出ていたことになっています。被告人の言い分からすれば,その時には既に 家を出ていたことになるのですが,それは,新聞配達の人が,その日被告人が 乗って出た車が,いつも入れてある車庫に入っていなかったことで確認してい ます。 としますと,結局,放火したのは被告人である可能性はなくなります。近く にいたことは被告人が持っていた携帯電話の位置情報で確認されていることに なっていますが,家にいたという証明にはなっていません。母親は,死因から 殺されたことは確認されていますが,父親の死因は明確ではなく,2 人とも殺 害された可能性もないわけではないのですが,父親が母親を殺して自分も自殺 したという無理心中の可能性を否定する証拠もありません。 ということで,自殺の可能性が残っている以上は,殺人とは言い切れません。

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放火についても,被告人が現場にいたという証明はないのですから,いずれも 合理的な疑いが残っていて,被告人は無罪という判断を判決はしています(平 成27年3月3日 LEX/DB 25505963。前掲季刊刑事弁護82号事件)。 控訴審がどうなるかが気になっていましたところ,たまたま控訴審の判決言 い渡し期日が,これは本当に偶然だったのですが,分かったものですから,判 決を聞きに行きました。そうしましたら控訴審では,新たに事実調べを行って おり,父親は自殺したのではなく,他殺であるとして,1 審は,殺人だとは言 い切れないとした点で事実誤認を犯しているものの,殺人だとしても被告人が 犯人だとは言い切れないという結論でした。放火についても,新聞配達が来て から後の約15分間に何者かが侵入して放火したという可能性は否定し切れない として,いずれも無罪にしました(東京高裁判決平成28年6月7日 LEX/DB 25542967)。 二つ目の事件の控訴審の判決も含め,いずれも極めて原則的な判断だといっ ていいと思います。一つ目の判決は一審で確定したのではないかと思いますが, 私としては二つ目も当然控訴審の無罪判決で確定すると思いました。1 審が無 罪で2審も無罪ですから,通例であれば確定するのではないかと思います。と ころが,検察は上告し,現在最高裁に係属中です。結果が気になるところでは ありますが,ともかく,事態は,そこまで動いてきていると言えるのかもしれ ません。 歴史的に形成されてきた刑事裁判の鉄則が,裁判員裁判の導入によってよう やく,一般的,抽象的にこうだとはなかなか言い切れないにしても,具体的な 判断の現場で定着しつつあるのかもしれません。ということで,なかなか論定 しにくいことではありますが,そこにも裁判員裁判導入の意義が示されている ように私は思っています。

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8.結びにかえて

時間もなくなってきましたので,8 ページにある「結びにかえて」に可能な 範囲で触れて締め括りとさせていただきたいと思います。裁判員裁判は取りあ えず順調に機能しているのではないかと一般的にいわれていると思います。た だ,関心がどこまで維持されているかというと,話題性がだんだん薄れてきて, 新聞などで取り上げられる機会も少なくなってきている感じがします。そのた め,せっかく導入された裁判員裁判への国民の参加意欲が後退するということ になっていないかということが気になるところです。 しかし,その点では,確かに画期的に何か事態が改善されているということ はないのですが,悪化しているわけでもありません。裁判員裁判への参加意欲 や,裁判・司法への興味・関心は,徐々に高まっています。裁判員として裁判 員裁判に参加した人に,裁判員に選ばれる前に参加してみたいと思っていたか どうかを尋ねている調査結果でいえば, 参加してみてもいいと思った方が, 徐々にではありますが増えているのです。 それから, 裁判員として裁判に参加した人の感想では,「非常によい経験と 感じた」「よい経験と感じた」が徐々にですが増えています。裁判員裁判への 参加意欲では,「参加したい」「参加してもよい」「あまり参加したくないが, 義務であれば参加せざるを得ない」を含めると,徐々に増えています。横並び 程度ではありますが,減ってはいない状況です。そのようなことから見ますと, 決して皆さんが関心を持っていないとか,極端に意欲が失われているわけでは ありません。 ただ,最高裁も裁判員候補者の辞退率が上昇していることや出席率が低下し ていることは気になっているようでして,この間,調査していたようです。つ い最近なのですが,10月3日に「裁判員制度の運用等に関する有識者懇談会」

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が開かれており,その調査結果の報告がありました。議事録自体はまだ公開さ れていないのですが,少なくとも辞退率が上昇して出席率が低下している要因 を調査した原因分析報告書は, ウェブサイトに載っています(http://www. saibanin.courts.go.jp/l2/17_05_22_bunsekigyoumu.html)ので,ご覧いただ ければと思います。 その中でいろいろなことが可能性として指摘されています。裁判員裁判に対 する国民の関心の低下が,辞退率上昇と出席率低下に寄与している可能性は否 定できないとされています。ただ,関心の低下といっても,本当に関心が低下 しているのかどうかは必ずしも明確にされているわけではありませんし,関心 低下の原因が示されているわけでもありません。私が推測するところでは,例 えば守秘義務の内容やストレス障害の問題,それから暴力団関係事件や,長期 にわたる審理が行われる危険性,死刑を言い渡さなければならない問題,せっ かく自分たちが判断したものが上級審で破棄されて差し戻されてしまうといっ た問題。それから,福岡であったように暴力団が接触してきたといったことが 積み重なって低下している可能性はあると思うのですが,どれも明確にこうだ といえるものではありません。としますと,参加してみたいという意欲が決し て減ってきているわけではないのですから,やはり多くの皆さんに関心を持っ ていただく努力が必ずしも十分ではないことが問題だということではないか考 えざるを得ません。 その点では,広報宣伝の実情をもっと見直してみたり,傍聴環境を整備して みたりする必要があるのではないでしょうか。特に傍聴に行ってみて思います のは,裁判所はそれぞれ努力されて,いろいろと横断幕を出したり,のぼりを 立てたり,DVD を貸し出したりしているのですが, それでも地域の方たちが 傍聴に行く環境になっているかというと,必ずしもそうではないと思います。 皆さんにしても,勉強していると裁判員裁判を傍聴することはなかなか難しい だろうと思います。ですから,裁判員裁判を土日や夜間に行ったり,今はテレ

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ビも多チャンネル時代に入っているわけですから,テレビを使って模擬裁判を 徹底的に流したりすることで,関心を持って見てもらえば,裁判員裁判とはこ ういうもので,参加することに意味がありそうだし,専門家でなければできな い話ではないということが分かっていただけると思っています。 ということで,非常に雑ぱくな話になってしまいましたが,皆さんにも改め て関心を持っていただいて,これから実務家として裁判員裁判に立ち会うこと があれば,ぜひ大いに常識を発揮していただいて,妥当な判決を生むべくご努 力いただきたいと思います。長時間にわたってご清聴いただきありがとうござ いました。

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