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生死観の種々相 : 生死観研究のアプローチとして

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||生死観研究のアプローチとして|| 町 回 是

一 、 原 始 経 典 に み る 生 死 ハ プ ロ ロ ー グ ﹀ 三 、 正 法 眼 蔵 に み る 生 死 ︵ 透 脱 と 現 成 ﹀ 二 、 新 約 聖 書 に み る 死 と 生 ハ 犠 牲 と 復 活 ︶ 四 、 観 心 本 尊 抄 に み る 生 死 ハ 本 時 の 生 命 ﹀ 原始経典にみる生と死︵プロローグ﹀ 人生における最大の問題は﹁生﹂と﹁死﹂である事は云うまでもない。 ﹁ 生 き る こ と ﹂ ﹁ 死 ぬ こ と ﹂ の 見 極 め は 生 存観の根底である。曽て仏陀釈尊はそれを苦の真理︿苦諦﹀として教示され、同時にその生死からの離脱についても 教説をのこされている。即ちつきつめて云えば、死の凝視から生死観が生れてくると云与えよう。そして若し、宗教が 人生の根底の問題である生死について、何らかの処方築を提供して解決の糸口をもたらす機能をもっとすれば、宗教 は生死の問題について積極的に発言すべきであるう。 人聞は死によって生活機能が停止し、自己が消滅することに襖悩し、耐え難い苦悩を覚えるのである。若しも﹁生﹂ がいかなる手段を尽しても﹁死﹂によって抹殺されるのであれば、 ﹁生﹂そのものが無意味になることを痛感するの である。したがって﹁生﹂は、生きるに値するものと根拠づけるために、 ﹁ 生 ﹂ は ﹁ 死 ﹂ を 超 克 す る 原 理 が 必 要 と な 生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀ こうした人間存在に関わる問題に応えるものとして、人類文化の永い歴史の過程のなかで、 し、信仰の突践を通して、観念の体系を築いてきたのが生死観なのである。 人聞が智慧を尽 ろ う 。 生 死 観 と は 、 すでに見てきた様に ﹁ 生 き る こ と ﹂ たとえば仏教用語の す が た ﹁生死繋縛﹂と示される事から、迷いの世界・流転・輪廻の相を考 ﹁ 死 ぬ こ と ﹂ の 意 味 を 考 え る こ と で あ る 。 ﹁ 生 死 流 転 ﹂ 、 ﹁ 生 死 の 苦 海 ﹂ 、 ﹁ 生 死 煩 悩 ﹂ 、 えさせられる。又一方では﹁生死即混鍛﹂、 克を志向することも示唆されるのであ勺 ﹁ 生 死 解 脱 ﹂ 、 ﹁出離生死﹂などの仏教語が教示するように、生死の超 ﹁生死﹂と﹁出離﹂の問題は人間存在に関わる根本の課題である。而も﹁生死﹂と﹁出離﹂ の問題は、出離と生死に於て不二相闘にあるのであって、出離生死とか生死即浬梁・生死解脱でなければならない。 す で に 述 べ た よ う に 、 仏教の生死観は死の凝視から出発して、それを源泉として一切の教説は流れ出ていると云えよう。原始経典の最古 のものとされる﹃スッタニパlタ﹄

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− 包 間 勤

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︶ あ る い は ﹃ 法 句 経 ﹄ ハ 口 町

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邑巴に於ても、人聞は﹁死﹂ への存在であることを説き、死によって命終することを強調している。 い ま ﹃ ス ッ タ ニ パ l タ ﹄ の 偏 請 を 参 照 し て み れ ば 、 五 七 五 偏 ﹁ 生 れ た も の ど も は 、 死を遁れる道がない。老いに達しては、 死が来る。実に生あるものどもの定め は 、 こ の と お り で あ る ﹂ 0 五七六侮﹁熱した果実は早く落ちるおそれがある。それと同じく、生れたものどもは、死なねばならぬ。かれに は つ ね に 死 の 怖 れ が あ る ﹂ 。 五七八偽﹁若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は、必ず死に至る﹂。

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と 示 さ れ 、 また﹃ダンマパダ﹄の偏請の中でも 一二八偏﹁大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の 脅威のない場所は無い﹂。 一四八傷﹁この容色は衰えはてた。病の巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は ︽ 4 V 死 に 帰 着 す る ﹂ 。 と教示されるところである。而して古の侮請に於て、死の凝視は強く説くのであるが、それは決して人聞をして絶 望の深淵につき落すためのものではなく、生に対する執着を断ち切ることを説示することである。即ち﹁不生﹂を強 調することである。不死と云わないで不生と云う所に、すぐれて仏教の生死観があるのである。 も し 不 死 と い う 場 合 に は 、 ﹁死にたくない﹂とする肉体的消滅への恐怖と生に対する執着、 ﹁ 生 き た い ﹂ と す る 欲 望に繋縛されているのではないか。原始経典では﹁生﹂に対する執着を克服するために﹁不生﹂が強く説示されるの ﹃ ス ッ タ ユ パ l タ﹄によれば、不生を示すことで不滅への道があることを示している。 で あ る 。 七四六備﹁生存に対する愛執を断ち、心の静まった修行僧は、生の輪廻を超える。かれは再び生存を受けること 円 5 v が な い ﹂ 。 尚また﹃スッタニパ l タ﹄は、八二傷、五四七偏、五六九備の夫々の末尾文に於て、全く同形意文の傷諦をもって 結 ん で い る 。 生れることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存 ︽ 6 V Q F M w d 可 制 W﹀焚﹀を受けることはない。 生 死 観 の 種 々 相 ︵ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ﹀ 右の傷請のなかで﹁生れることは尽きた﹂。 ﹁再び生存を受けることはない﹂との表現は、きわめて素朴な表現で はあるが、それは﹁生﹂への執着の断絶であり、 ﹁ 生 ﹂ に 対 す る 欲 望 の 繋 縛 を 超 克 し よ う と す る 志 向 を 示 す も の で 、 を強調した八二億・五四七傷・五六九偏 向 す べ て を な し の偏請では、必ず﹁何々長者は聖者の一人となった﹂と結文して、生の執着を脱して人生に目覚めた聖者、 4 所作己弁 と げ た 人 ︾ の修行者として賞讃しているのである。 そ れ は 明 ら か に ﹁ 不 生 ﹂ ハ 旦 仰

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党﹀の強調である。而も﹁生﹂の﹁不生﹂ 原 始 経 典 の 説 示 は 、 文 字 通 り 素 朴 な 表 現 で あ り 、 後代の大乗経典にみられる煩瑛な教理や深遠な思想は少しもな し、

し か し 、 人 生 に 対 す る 鋭 い 凝 視 が あ っ て 、 素 朴 な 表 現 で あ る が 故 に 、 かえって読者をして深い洞察へと誘引し て、死の凝視と生の超克を通して、死を超越する理念を形成させ、不死の思想が獲得されるのである。繰返して云え き ょ う が い ば、死の超克とは、死の凝視と生の超越とによって得られる境界である。不生はそのまま不死ということになる。こ のようにして不生と不死とが連結されて、不生不滅の境界が成りたつのである。 中村元博士訳の﹃スッタユパ l タ ﹄ の 五 二

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偏 に 、 平 安 に 帰 し て 、 普 惑 を 捨 て 去 り 、 座 を 離 れ 、 ﹁ こ の 世 と 、 か の 世 と を 知 り 、 生 r、』’

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︶このような人がまさに︿道の人﹀ 右 の 備 の 中 で ﹁ 憤 広 岡 田

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ヨ﹂を﹁生死﹂と訳さないで﹁生と死﹂と訳されている事に注意したい。生の執着を脱 し、死の恐怖を出離し、欲望を超克して不生不滅の境界に入った人を﹁道の人﹂と呼んでいる。生と死の二元対立を 克服した修行者を称え、生死を超克することの可能生をも示唆しているのである。 さて不生不滅の熟語から想起されるものに竜樹の八不中道の思想がある。周知のように、八不中道思想は宗教的信

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仰を深めることを勧めるものではなく、むしろ哲学的思索ハ洞察﹀を深めるための論理思考である。少なくとも竜樹 の出現によって、大乗経典の思想が理論的に組織化され、初期大乗仏教の基盤を確立するうえに果した業績は測り知 れ な い 。 大乗仏教の生死観も竜樹によって確立されていくのである。その著﹃中論﹄に於て、般若経典に説かれる大乗空観 の立場を依拠としつつ、原始仏教以来の縁起説に対して独自の解釈を与えた。此処でもし生死観に則して云えば、後 世﹁八不﹂と称せられる中道理論を展開して、従来の固定観念を否定︵八不︶して、空の思想の体系化に努めたので あ る 。 いま﹃中論﹄の観因縁品の巻頭にみえる帰敬煩を参照してみよう。 生 も な く 消 減 も な く ・ 氷 遣 で も な ︿ 断 絶 で も な ︿ 不 生 亦 不 滅 不 常 亦 不 断 同 一 で も な く 種 々 で も な ︿ 来 る こ と も な く 去 る こ と も な い 不 一 亦 不 異 不 来 亦 不 出 す ぐ れ た 相 依 相 闘 の 原 還 を 敬 え た 無 用 の 諸 磁 鎗 を 滅 ぼ す 能 説 是 因 縁 善 滅 諸 戯 論 訟 は 仏 陀 を 敏 礼 す る 諸 制 院 を 数 え る 最 も す ぐ れ た 人 我 稽 首 礼 諸 説 中 第 一 仏 古の傷煩は、八不をもって諸法を否定する原理を象徴的に説示したものである。もし縁起︵相依相関﹀を基にして 云うならば︵その縁起とは﹀、それ自体の存在が有るとき

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発生も消滅もなく。それ自体の存在が無いとき H 発生す ることも出来なく、永遠に発生しない状態にとどまるのである。たとえば第一備の﹁不生亦不滅﹂の論理をみてみる ︽ 不 滅 ・ 常 住 ︸ に、空の思想を根底として、生と死に執着されることなく、まさに不生不滅︿

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﹀の主張なの である。生きると云う一辺のみに固執してはならず、また死ぬことの一辺だけに固執してはならないのである。 生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀ およそ大乗仏教の生死観は、竜樹の空思想を根底とした不生不滅の思想を基にしていると云ってよかろう。原始経 典から中論への過程で、宗教的信仰から離れ、また体験的宗教が逮ぜられて、専ら思索すること、哲学することに重 きがおかれるに至り、こと生死観にしても洞察的生死観が形成されていったのである。 筆者は先のプロローグを享けて、新約聖書に於ける生死観、道元禅師の生死観、日蓮聖人の生命観など、その特異 な生死観を考察してみたい。そして生死観の種種の相を考察することで、後日の生死観研究のためのアプローチとし たい。若しも出来うるならば哲学的生死観と宗敢的生死観の融合の道を見い出し、後日に稿を改めて﹁不生と往生﹂ ハ死の自覚とは﹀、不減と不生︵道元の不生と日蓮の永遠性﹀について考えてみたい。 詑 ハ 1 ﹀﹁生死﹂の原語は、原始経典に散見する。語意については中村元博士﹁仏教語大辞典﹂︵東京脅籍﹀を彦照されたい。水野 弘元博士編、﹁南伝大蔵経|総索引﹂によって、漢語の﹁生死﹂と、生死の付く語ハ生死流転・生の輪廻・生存など﹀を原語と 対 比 検 討 す る こ と で 、 原 始 経 典 に 於 け る 生 死 観 研 究 へ の 糸 口 と な る と 思 わ れ る 。 ︿ 2 ﹀ 山 口 恵 照 ﹁ 出 離 生 死 の 道 ﹂ ︵ 日 本 仏 教 学 会 年 報 四 六 号 ・ 昭 和 五 六 年 刊 ﹀ 参 。 ハ 3 ︶中村元博士訳﹁プッダのことば

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ス ッ タ ユ バ l タ ﹂ ︿ 岩 波 文 庫 ・ 一

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八 頁 ︶ ハ 4 ﹀ 中 村 元 博 士 訳 ﹁ プ ッ ダ の 真 理 の こ と ば ﹂ ハ 岩 波 文 庫 二 八 ・ 三 一 頁 ﹀ ハ 5 ﹀中村訳・註ハ 3 ﹀一三八頁。本文引用の侮舗を﹁南伝大蔵経﹂と対比してみると、﹁有愛を断ちて心鎮まれる比丘には生々 輪 廻 尽 き て 再 び 生 を 受 く る こ と な し ﹂ ハ 南 伝 大 蔵 経 第 二 三 巻 ・ 小 部 経 典 付 の 一 五 七 頁 ﹀ と あ る 。 ︿ 6 ﹀ 中 村 訳 ﹁ プ ッ ダ の こ と ば ﹂ ハ 岩 波 文 庫 二 四 ・ 九 八 ・ 一

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七 頁 ﹀ ハ 7 ﹀中村訳・註ハ 6 ︶ 九 頁 。 ハ 8 ﹀大正蔵経第三

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巻 ノ 一 、 ︵ 中 論 ・ 観 因 縁 品 ﹀ 一 頁 。

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新約聖書にみる死と生ハ犠牲と復活﹀

エルサレム郊外の丘 4 カ ル ヴ ア り オ ︿ の

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・ ヘ プ ラ イ 語 で 髄 憾 の 意 ﹀ に於ける人間イエズスの十字架上の犠 牲︿

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− m m 伺﹀、それは遠い歴史上の悲惨な出来事であり、同時に詠嘆涙して享けとめなければならない事実であ る 。 イエズスの苦閣にゆがんだ、丘の上に血が諺み、十字架上の最後の坤きが、歴史の時間を超えて、現在の自己の苦 悩と重なり合って、正に自己の罪の報いの相であると自覚できるならば、 キリスト者の﹁生﹂は、その﹁死﹂と結び ついて、罪の思いは堪え難い重荷としてのしかかるであろう。イエズスの犠牲は、常に現在のキリスト者の﹁生﹂に 対する激しい痛みでなければならないのである。 守 F イ ・ マ ル ヨ ・ ル カ − m ハ ヰ ・ イエズスの死︵犠牲﹀について、﹁四福音書﹂・ ︽ 謙 に ロ エ 巴 ﹁使徒行伝﹂の説示を見るとき、目を覆い耳を塞がしめる悲惨 な血の事実を知らされ、しかも弟子に裏切られた無惨のものであったことを教えられる。 新約聖書の中で明示する犠牲の模様を列記しておこう。 う ら ぎ 9 ユダの謀飯︿マタイおの

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ガリラヤから師イエズスに従って来た女達の離反︵マタイ幻のは ω ・ マ ル コ お の 必 ・ ル カ お の 必 ︶ 川民衆の侮蔑と噸笑ハマタイ舗の m w ・ マ タ イ 幻 の m a i m 却 ﹀

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﹀ 生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ︶

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生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀ 円 2 v 刷ゴルゴダ丘十字架上の酷刑︿マルコ日の

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︶ 以上の新約にみえるイエズスの死は、まさに十字架上の酷刑の描写である。信頼する弟子の背信行為と逃亡、民衆 の瑚笑と侮蔑、異教司祭達の狼籍など、どの描写をみても十字架上に見捨てられた孤独の死である。 福 音 番 は す で に 見 た 様 に 、 イエズスの悲惨な死については克明に描写しているが、 その悲惨の相に対して涙する 者、イエズスの死を惜しむ者の姿は全く描かれていない。 z p l f z p l f . , 噌 ・ サ パ F9 晶 ︽ S V わが神よ、わが神よ、何ぞわれを捨て給いしゃ 死 に 喰 保 す る 時 間 古の痛切な響きをもっイエズスのことばが、十字架上の最後の叫びであるならば、それは﹁生の時間﹂を呼ぶもの お の の き であった。その死を戦標する生への執着であったが故に、 神は応えなかったのである。何故か。人聞に於ける時間 は、欲望・罪の具象であって、イエズスの死は、その罪︵生の時間﹀を断滅する神の摂理でなければならなかったの で あ る 。 ・新約聖書は十字架上の犠牲の意義を欝諒と説き示していくのである。イエズスは民衆の噺笑と残虐、弟子達の背信 門 人 間 ︾ の只中で犠牲となったが、これは始祖アダム︵﹀念日﹀の原罪を背負い、 俄悔することを知らない人聞に対する神の 怒りの激しさを、犠牲という厳しい審判の現実をもって知らしめるものであった。人間イエズスの肉体を籍りて、罪 一 回 限 り の 永 遠 の瞭罪の意味を教示されたのである。イエズスは自らの血と肉とをもって、神に対して犠牲を捧げ、 の大司祭の役割りを果されたのである。 此処でやや神学的に述べておきたい。周知のことであるが、新約に於ける﹁死﹂は、肉体的生命が自然に喪失する ︽5 v 現象としてではなく、死は罪に対する神の罰として解され、死はアダムの原罪によって此の世に入ったとする。原罪

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以来、人聞は罪と死の恐怖にさいなまれる事となり、人聞は罪と死の中に在ることになったのである。 向 ” 守 6 の 幻 ︾ ︵ テ + 句 ” ア ゲ E の ’ v 新約の説く﹁死﹂は、まさに罪の終極であり、永遠の滅びとして把握されている。だとすれば、人聞は﹁滅び﹂と ﹁ 終 極 ﹂ か ら 解 放 さ れ な く て は 、 ﹁生﹂の意義を見い出すことはできないのではないか。 ※ 西 ド イ ツ ・ 聖 オ ッ テ ィ リ エ シ 修 道 院 長 ・ ノ ト ケ ル ボ ル フ 師 講 義 ﹁ イ エ ズ ス の 犠 牲 ﹂ よ り ﹁ : : : イ エ ズ ス は 人 類 の 代 表 者 と な っ て 十 字 架 上 の 犠 牲 と な っ た 。 : : : 神 と 人 類 の 聞 に は 高 く 厚 い 障 壁 が 横 た わ っ て い た が 、 カ ル グ ア リ 旦 γ で 犠 牲 と な る こ と で 、 人 類 は 厚 い 壁 を 越 え る こ と が 可 能 と な っ た o イ エ ズ ス が 代 表 者 と な っ て 壁 を こ わ し た 。 イ エ ズ ス の 限 り な い 深 い 愛 が 示 さ れ た の で あ る 。 : : : 斯 る 神 秘 的 な こ と は 知 性 で は わ か ら な い 。 信 仰 を 深 め る こ と が 大 切 で あ る : : : ﹂ ご 九 七 九 年 九 月 十 日 、 聖 オ ッ テ ィ リ エ ソ 修 道 院 研 究 室 ・ ポ ル フ 院 長 講 義 よ り 按 粋 ﹀ い け に え よ み が え り イエズスは、十字架の犠牲

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喝な与と復活︵色。﹀

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巴とによって、人聞をして罪と死の束縛か 円 キ リ ス ト 者 ︾ ら解放したのであった。信仰者は復活︿廷り﹀の希望をもって死ぬことができるのである。新約聖書に於ける永遠の い の ち の ぞ み 生 命 の 希 望 は 、 逗魂不滅という観念的な信仰にあるのではなく、復活の信仰に基いているのである。十字架の犠牲 は、たしかに肉体的な死ではあったが、然しそれは炉か紗骨を滅ぼすものであった。而も﹁復活﹂という乳影以紘川町 ︽ 新 生 メ シ ア 思 想 ︾ ついて、新しい生の躍動を生むに至ったのである。 ハ テ 昆 F , p y ‘ FM 新約聖書が、人間存在に関わる生死の問題を説示しなかったならば、聖書は単なる宗教古文書として、言語学や歴 史考証の研究対象となったに過ぎないであろう。もしも新約聖書

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に 特 色 が あ る と す れ ば 、 その筒音

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﹀にあるとされる。福音とは救い・匙り・信仰の裏付けの教説であるが、 救いこそ、時代を超えて人類に共感を呼び覚まし、生死の問題に関しても根本的な解決の道を教えるものとして、信 罪と死からの 仰の伝灯をもやし続けてきたのである。 生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀ イエズスの犠牲と復活に関して、次のヨハネ福音書の教説が根底となっている。 父は我を愛し給う。それは我再び生命を得んために生命を捨つる故なり。 人これを我より取るにあらず、我みずから捨つるなり。我はこれを捨つる力あり、復たこれを得る力あり。我こ ︽ T V の 命 令 を わ が 父 よ り 受 け た り 。 こ の ヨ ハ ネ 福 音 書 の 教 説 を 享 け て 、 ロマ脅に収められるパウロの番簡文は、復活に対する永遠の教示であろう。 斯のごとく汝等もキリストの体により律法に就きて死にたり。これ他のもの、即ち死人の中より匙へらせられ給 ︽ 8 v いしものとなり、神のために実を結ばん為なり。 新約聖書に於ける復活の信仰とは、十字架の犠牲となった人間イエズスの死を受けとめ、その死は﹁神の摂理によ って、正しくキリストは死者の中から匙えり、眠りたる者の初穂となり給へり﹂と云うことであって、それは観念の 所産である霊魂不滅のことではなく、復活への道を開き給うたキリストによって、新しく創造されることである。 我らはバプテスマによりて彼と共に葬られ、その死に合せられたり。これキリスト父の栄光によりて死人の中よ ︽

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り匙へらせられ給ひしごとく、我らも新しき生命に歩まんがためなり。 ス の 魁 り の 教 説 は 、 さて筆者を含めて、キリスト信者ではない者にとって、復活の現象は知性的に容認できるものであるうか。イエズ キリスト信者にとっては信仰の根幹に触れるものであるが、筆者にとってそれは、歴史的事実の 限界ギリギリの現象として見ることが許されたるか否かにある。 永遠の生命は唯一の真の神に在す汝の遣わし給いしイエス・キリストを知るにあ勾 すなわち、復活は見えるのではなく、深められた信仰と、高められた霊性によって確信するものである。新約聖書

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円たしかさ︼? h o ょ う ︾ は、復活の事実の深さと、現実性を確信させようとしている。復活の信仰は、信徒に対する希望となり、苦悩に耐え る源泉となっているのである。 周知のように新約は全篇に於て、信仰と愛と希望の三つを三徳と称えるのである。終末を迎えて全てが消え去って も 信仰と希望と愛との三つは限りなくあらん。 と強く教示されるのである。イエズスによって体現された犠牲は、神に対する信仰と神の愛の深さとを、身をもっ て顕現したものであって、その愛に対する信仰が希望の根源となることを教示していよう。キリスト者は、神の愛の 中に交わり入ると信ずるとき、そこに永遠に変らない神に対する信仰と、自己が最善へと導かれるとの希望︵期待﹀ ハ 仏 教 に お け る 感 応 道 交 の 境 界 を 恩 わ し め る ︾ が湧きいでるのである。そして、復活のイエズス︿神の子キリスト﹀との生ける交わりにおいて、この希望が高めら れていくのである。ここにキリスト信者の﹁生﹂の基盤があるように思える。 註 ︿ 1 ﹀ 十 二 使 徒 の 一 人 ユ ダ 日 イ ス カ リ オ テ

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ユ ♀ は 銀 三 十 枚 と 接 吻 で 師 を 敵 に 売 っ た 。 そ の 謀 鍍 に つ い て 四 稿 音 密 は 生 々 し い 拙 写 を す る 。 た と え ば マ ル コ 福 音 書 中 に ﹁ 十 二 弟 子 の − 人 ユ ダ 、 や が て 近 づ き 来 る 祭 司 長 、 学 者 、 長 者 、 長 老 ら よ り 追 わ さ れ た る 群 衆 、 剣 と 俸 と を 持 ち て こ れ に 伴 う ﹁ M の 必 ﹀ ﹁ イ エ ス を 売 る も の 予 め 合 図 を 示 し て 云 う ﹁ わ が 接 吻 す る 者 は そ れ な り ﹂ こ れ を 捕 へ て 確 か と 引 き ゆ け ﹂ ︵ M の 必 ﹀ ﹁ 斯 て 来 り て 直 に 御 許 に 往 き ラ ピ ハ ヘ プ ラ イ 語 同 ω σ Z は 、 わ が 師 の 意

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鑑 者 注 ﹀ と 云 い て 接 吻 し た れ ば ﹂ ハ M の 必 ﹀ ﹁ 人 々 イ エ ズ ス を 手 を か け て 捕 う ﹂ ︿ M の 必 ﹀ と 。 ハ 2 ︶ 十 字 架 上 の 酷 刑 に つ い て 、 た と え ば マ タ イ 福 音 曾 に よ れ ば コ ニ 時 頃 イ エ ズ ス 大 声 に 叫 び て ﹁ エ リ ・ エ リ ・ ラ マ ・ サ パ ク タ ニ ﹁ ︿ 刷 出 ・ 巴

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S04 筆 者 訳 注 ﹀ と 云 い 給 う ﹂ ︵ 訂 の 必 ﹀ ﹁ イ エ ズ ス 再 び 大 声 に 呼 ば り て 息 絶 え た ま う ﹂ ハ 幻 の 印 ﹀ と み え る 。 ハ 3 ﹀註ハ 2 ︶ 参 。 生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀ ハ4 ﹀へプル書 2 の 口 、 4 の 時 。 ロ マ 書 3 の お 。 ︵5 ﹀ 原 罪 門 出 。 伺 号 m ロ 品 。 . 罪 の 起 源 は ア ダ ム の 罪 に 帰 せ ら れ て い る 。 ロ マ 番 に ﹁ そ れ 一 人 の 人 に よ り て 罪 は 世 に 入 り 、 ま た 罪 に より死は世に入りて人罪を犯し故に死はすべての人に及ベり﹂︿ 5 の 臼 ﹀ と あ る 。 罪 は ア ダ ム の 楽 園 追 放 の 故 事 か ら も 窺 う こ と が 出 来 る よ う に 、 人 聞 が 神 か ら 見 放 さ れ た た め に 人 聞 が 陥 ら ざ る を 得 な い 悪 報 で あ り 、 罪 は 個 人 的 か つ 社 会 的 で あ る 。 ︿ 6 ﹀ 復 活 両 国 O K F 民 O B S F ロ ロ ぬ と は 、 死 者 の 匙 り の 信 仰 の こ と 。 復 活 は 新 約 の す べ て で あ る 。 信 者 の 匙 り は 救 い の た め 、 不 信 者 の 匙 り は 審 判 の た め と さ れ る 。 信 者 の 腫 り は キ リ ス ト の 復 活 と 結 び つ い て い る 。 十 字 架 に 死 に 給 う た キ リ ス ト は 、 神 の 力 に よ っ て 匙 り ﹁ 眠 り た 者 の 初 穂 ﹂ ︿ 前 コ リ γ ト店の初﹀となり給うたとする。きて復活という、知性では解し得ない認識能力を超えた 事実について、新約型自では疑い得ない客観的事実となしている。一方キリスト信者は旧約聖書を典拠として

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パ ウ ロ 以 下 聖 宙 中 の 人 々

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数多くの目撃者を証人として数えている。斯る復活に関する証明法は、恰も零に対する無限大のように、また虚に対 す る 完 成 の 実 の よ う に

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縁起による空の説明のように

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歴史の内と外に立っているのである。たとえ千万人、何億人が疑い噸笑 しても、また復活の信仰の説得力が弱くとも、新約聖書は復活の深さと現実性を確信せしめ、復活信仰を貫くことを勧奨するの で あ る 。 ハ7 ﹀ヨハネ福音書

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の U J 問 。 ハ8 ﹀ロマ番 7 の 4 0 ハ9 ﹀コ HYγ ト 前 書 店 の 灯 。 ハ 叩 ﹀ ロ マ 書 6 の 4 0 ︵U ﹀ヨハネ福音番目の 3 0 ハ ロ ﹀ コ リ γ ト 前 書 胞 の 目 。 尚、本節の執筆にあたり次の文献を参考とした。岩本泰波﹃キリスト教と仏教の対比﹄ハ創文社︶。小塩力﹃聖書入門﹄ハ岩波 新 宮 ﹀ o 八木誠一﹃イエスと現代﹂ハ NHK プ ヲ ク ス ﹀ 。 川 崎 幸 夫 ﹃ 不 滅 と 不 生 ﹄ ︿ ﹁ 禅 の 本 質 と 人 間 の 真 理 ﹂ 創 文 社 刊 所 収 ﹀ 0 久 松 真 一 ﹃ 絶 対 危 機 と 復 活 ﹂ ︵ 創 文 社 刊 前 世 所 収 ﹀ 。

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正法眼蔵にみる生死ハ透脱と現成﹀

道元禅師は﹃正法限蔵﹄の開巻﹁弁道話﹂の中に於て 事 ハ ム カ PV 守 ダ ム 円 1 M 生死はすなわち浬撲なりと覚了すベし。いまだ生死のほかに浬梁を談ずることなし 0

と説いている。生死とは、生老病死の四苦の終始のことであり、 ﹁生死はすなわち浬擦なり﹂と説くは、仏教用語 の﹁生死即浬般市﹂と同意語である。生老病死の四苦と、四苦を超越した悟境︵浬繋︶とは、相容れない対境の世界で あるが、生死の迷界を解脱した仏の境界から観れば、生死の差別相を離れて浬柴なく、浬撲の平等心を離れて生死は す じ ・ 4 ち いかなる論理で教示するのであ ない、とするのが生死即浬撲の意であろう。道元禅師はこの対立する世界の統一を、 ろ う か 。 正法眼蔵の第九二巻﹁生死ノ巻﹂に於て、先の﹁弁道話﹂の説を敷祈されて次のように示されている。 生死のなかに仏あれば、生死な

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− − − 生 死 の な か に 仏 な け れ ば 、 生 死 に ま と わ す 。 : : : 生 死 す な わ ち 浬 撲 と こ ころえて生死としていとふへきもなく、浬撲としてねがふへきもなし。このとき、 ︽ 2 v 分 あ り 。 はじめしめて生死をはなるる ︽ 生 死 が 仏 で あ る 放 に 仏 だ け で あ る ︾ か っ さ ん ぜ ん ね な 泡 死 が 仏 で あ る 放 に 執 右の説示の中で﹁生死ノ中ユ仏アレパ生死ナシ﹂とは、爽山善会の一品録を借用したものであり、﹁生死ノ中ニ仏ナ 着 す る こ と な し ︾ 門 真 現 ︾ ケレパ生死ニ惑ハズ﹂とは、定山神英の語録の借用である。先師二人の語録を引用しつつ、生死そのものが浬撲の突 ︽ 真 理 ︾ 現であり、漫撲の他に生死があるのではない。又、生死がそのまま真理であるから、生死に迷い執着する何物も無い と 、 説 く の で あ る 。 生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ︶

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生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ﹀ 禅師の右の主張は、禅師特有の表現であり、その主張の論理は思索的であり且つ難解である。 ﹃ 正 法 眼 蔵 ﹄ に お い て、直接に生死に関説している巻は、第二二巻﹁全機﹂と、第九二巻﹁生死﹂の二巻である。しかし生死というモチ ーフは他の諸巻でも言及されているところである。 ﹁ 全 機 ﹂ の 巻 に お い て ち ょ う と つ 生 も 生 を 透 脱 一 し 、 死 も 死 を 透 脱 す る な り ︾ と云い、また﹁生死﹂の巻に於て、 生死の中に仏あれば生死なし。 との教示は、道元禅師の生死観の要一舗である。そこで、右の二巻へと集約されていく生死観を全巻を通して見てゆ くと、以下の諸巻の中にモチーフを窺うことができる。即ち﹁弁道話﹂、 ﹁ 現 成 公 案 ﹂ 、 ﹁ 仏 性 ﹂ 、 ﹁ 身 心 学 道 ﹂ 、 ﹁ 行 仏 威 儀 ﹂ 、 ﹁ 海 印 三 味 ﹂ 、 ﹁ 空 華 ﹂ 、 ﹁ 怨 腹 ﹂ 、 ﹁ 有 時 ﹂ 、 ﹁出家功徳﹂などであ勺しかも禅師の生涯が、発心出家から天堂如浄の膝 ﹁ 行 持 ﹂ 、 ﹁ 画 餅 ﹂ 、 ﹁ 諸 悪 英 作 ﹂ 、 ﹁ 春 秋 ﹂ 、 ー寸 発 菩 提 心 ﹂ 、 コ ニ 界 唯 心 ﹂ 、 ﹁ 優 曇 華 ﹂ 、 下での参学参禅・身心脱落して帰郷、北越永平寺閥創、入寂に至る閥、それは行持現成そのものであった。随って畢 正法眼蔵の全巻が禅師の生死そのものであったとも云えよ 生の著﹃正法眼球﹄ は禅師の生涯の凝集と云ってよく、 ぅ

筆者の、道元禅師に於ける生死観考究の志向を前述のように見定めたうえで、以下、具体的に﹃正法眼蔵﹄に於け る 生 死 を 考 え て み た い 。 第二二﹁全機ノ巻﹂の冒頭に次の様な説示がみえる。

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諸仏の大道その究尽するところ透脱なり。現成なり。その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透 脱するなり。このゆゑに出生死あり。入生死あり、ともに究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり、ともに究 尽の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらすといふことなし。死の ︽ 6 v 全現成にあらすといふことなし。 そ の 説 示 を 意 訳 し て み れ ば 、 諸 仏 の 大 道 の 究 極 は 、 生 死 に 関 し て 、 相対的な観方を超えて絶対的な自由となること ︽ 絶 対 自 由 に な る こ と 、 脱 務 ・ 解 脱 す る こ と で 、 自 技 生については生を透脱し、死については死を透 であり、仏教の真理を現実のうえに実現することである。透脱とは、 意 滋 ・ 執 着 か ら 出 隠 す る こ と て あ る ぜ 脱することである。それ故に ﹁ 出 生 死 ﹂ ︿ 生 死 の 苦 悩 か ら 離 脱 す る こ と ﹀ が あ り 、 ﹁ 入 生 死 ﹂ ︿ 生 死 の 世 界 に 入 っ て 衆 生 の 救 済 に 尽 す こ と ︶ 、 ︵ 生 死 の 苦 悩 を 超 克 す る こ と 、 与があって、いずれも徹底した大道であるとされているのであ勺 ︽ 全 体 の 飽 力 ・ 仏 心 の 能 力 ︾ 先の﹁全機﹂巻頭に於て強く説示するところは、 ﹁ 捨 生 死 ﹂ ﹁ 度 生 死 ﹂ ハ 生 死 の 苦 悩 か ら 衆 生 を 済 度 す る こ ﹁ 透 脱 ﹂ と ﹁ 現 成﹂ということである o 禅師はその開示されている仏の世界の有様ハ方向と構造︶が如何にあるかを、い川博が最も切 実で現実的な問題とする生死を手掛りとして論じられたものである。まず﹁透脱﹂については、﹁生モ生ヲ透脱シ、 ︽生死の普悩を超脱する︾内生死の苦悩を脱却する︾ 死モ死ヲ透脱スルナリ﹂と論じ、端的に云えば﹁出生死﹂であり、﹁捨生死﹂ということである。次に﹁現成﹂とは、 諸仏の真実の教えの開示である。端的に云えば ﹁ 現 成 コ レ 生 ナ リ 、 生 コ レ 現 成 ナ リ 。 ソ ノ 現 成 ノ ト キ 、 生 ノ 現 成 − 一 ア ラ ズ ト イ フ コ ト ナ シ 。 死 ノ 現 成 − 一 ア ラ ズ ト イ フ 門 生 m M の苦闘慨にうごめく人々の為に尽す︾ハ生死の苦海から衆生すベでを敬う︾ コトナシ﹂と論じている。端的に云えば﹁入生死﹂ということであり、﹁度生死﹂と云うことである。 さらに﹁全機ノ巻﹂は次の様に示している。 このゆへに生は死を塁擬せず、死は生を塁擬せざるなり。尽大地、尽虚空ともに生にもあり、死にもあ勺 生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ﹀ ち 主 う と つ ︽ 疲 れ が 在 る と 窓 鎗 ・ 執 着 す る 心 を 来 て 去 る ︾ 内 身 心 が 自 由 自 在 と な る ﹀ ︽ と ら わ れ ず ︾ 道元禅師が特徴的に用いる﹁透脱﹂とは、脱脚することであり、脱落することの意味である。生死に執着せず、 内 わ だ か ま 9 な ︿ ︾ ︽ ぬ け て と お る ︾ 塁回収なく、透り脱けることである。即ち生死について云えば、生死脱落ということで、 自 我 意 識 か ら の 出 離 、 自我意 識が生ずる以前に脱落することで、仏教用語では﹁生死出離﹂とか﹁出離生死﹂と表現されることなのである。 生死の問題は、元々は釈尊の出家の動機とされており、その生死無常から解脱することが、修行の課題であった。 釈尊解脱の道は、龍樹の﹃中論﹄に依て不生不滅の浬梁に至る道が思索され、生死即浬撲を説く大乗仏教の成立とな っ た 。 こ の 生 死 即 浬 撲 の 理 念 は 、 中国禅の世界に於て実践陶治されていった。即ち、 中 国 禅 に あ っ て は 、 浬 般 需 ︵ 解 脱﹀することを修行の目的とするのではなく、坐禅参学そして作務などの日常の進退動作のすべてが解脱への道であ ︽ 正 し き 生 活 ︾ るとして、日常の行持を重視する修行を通して、生死即浬柴を現成していくことであった。道元禅師は、斯した現実 士一六三 l − 二 二 八 ︾ 的かつ実践的な中国禅に参学したが、殊に天童如浄の鉛鎚の膝下で参禅、宝鹿元年三二二五﹀の夏安居の終りに身 ひ た す ら 心脱落・脱落身心したのであった。こうした只管打坐に参禅した禅師にとって、その生死の問題は、生は只管に生 ひ と す じ 門 生 は 生 の 当 為 に ま か せ ︾ ︽ 死 は 死 の 当 為 に 於 て ︾ き、死は只管に死に、生は生として究尽し、死は死として究尽するものとなし、生は生に任かせ、死は死に任かす、 と云う生死究尽を説く、独自の生死観を教示するに至ったのである。 第九二巻﹁生死﹂の巻頭において、 生死のなかに仏あれば生死なし。またいはく、生死のなかに仏なければ生死に惑はす

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− − − 生 死 す な は ち 浬 撲 と こころえて、生死として厭うへきもなく、混撲として願うへきもなし。このとき、 ・・・︽ 9 ︾ : : こ の 生 死 は 、 す な は ち 仏 の 御 い の ち な り 。 はじめて生死を離るる分あり こ の ﹁ 生 死 ノ 巻 ﹂ は 、 ﹃正法眼蔵﹄の諸巻中、最も短文であり且つ平易な和文で書かれているが、その巻題が示す

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i v ・ ? と ノ 、 、 ﹃正法眼蔵﹄全巻にみえる生死観の要諦を説示している。禅師は﹁生死ノ巻﹂の巻頭で、 ︽ ゃ れ 生 死 と か 、 ゃ れ 混 然 と 、 心 に 執 泊 窓 織 す る こ と を 超 え る ︾ 英の二人の先師の語録を挙げて、生死と浬撲の脱落を説き、特に﹁生死ハ仏ノ御イノチナリ﹂として、 爽山善会と定山神 生 死 即 仏 心 ・ 生死即浬柴なることを教えられる。 さて﹁生死ハ仏ノ御イノチナリ﹂と教示することは、本巻の根幹であるばかりでなく、 ﹃ 正 法 限 蔵 ﹄ の 基 本 的 生 死 観でもある。即ち﹁仏の御いのち﹂とは、個々の人間の生死の問題を包みこんだ、万人に普ねく生死観の教示であっ て、道元禅師の限りない慈悲行をみる思いがする。 いう時間意識が流れていよう。即ち﹁有時ノ巻﹂ げ え レトモ而今ナリ﹂。﹁時ハ飛去スルトノミ僻会スヘカラス﹂と説く所である。 ︽ 大 自 然 の い の ち @ 仏 の 永 遠 の い の ち に 包 み 己 主 ね て い る ︾ ︵過現未﹀を超えて、仏の生命の中に生かされていると云うのである。生命が永遠であることを、 に 於 て ゅ う じ し き ん ︵ 叩 ︾ 第 二

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巻﹁有時﹂に於て特徴的に主張する﹁有時の而今﹂と 官キ γ ﹁ 彼 方 − 一 ア ル ニ ニ タ レ ト モ 而 今 ナ リ ﹂ 。 ﹁ 彼 処 ニ ア ル ユ ニ タ ︽ 自 ら の は か ら い を 超 絶 し て ︾ つまり、今此処に在る私は時間の流れ また﹁仏の御いのち﹂との教示する思想的背景には、 時間的に表現すれ ば﹁永遠の今﹂と云うことになろう。生死無常なる自己の生命のはたらきは、仏の生命の大きなはからいであり、本 ︽ 生 死 の 苦 海 の 中 で 苦 悩 す る 人 聞 は ︾ 仏の働きによる所である。即ち、生死無常なる自己は、そのまま、どこまでも仏の大いなる生命に連らなった生命で あることを確めるべきであろう。 ﹁生死ノ巻﹂はさらに続けて ︽ 現 在 の 明 滅 ・ 瞬 間 ︶ 生はひとときのくらゐにて、 ︽ 過 去 ︾ す で に さ き あ り 、 円 未 来 ︾ の ち あ り 、 か る が ゆ え に 仏 法 の な か に は 、 生すなわち不生とい に生きたらはたたこれ生、減きたらはこれ滅にむかひて、 のちあり。これによりて減すなはち不滅という:::かるかゆへ ︽ U ︾ っかふへしといふことなかれ、ねかふことなかれ。 う。滅もひとときのくらゐにて、またさきあり、 生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ﹀ ︽ 生 き た い ・ 死 に た く な い 、 と 侠 悩 し 感 う の は ︾ と教示するのであるが、惟うに生死の世界を往来するものは、この現実の生身である。 包 − p a F A T ︽ 過 去 ︾ ︽ 未 来 ︾ ︽ 明 減 す る 時 々 ︾ ﹁生ハ一時ノ位イニテ己ニ先キ有リ後チ有リ﹂と云い、また﹁滅モ一時ノ位イニテ亦先キ有リ後チ有リ﹂と説い ひ と と き ﹁死﹂というならば全てが死であるとする。随って一時一時の生を集積し そこで禅師は語気を強め て 、 て 、 ﹁ 生 ﹂ と 云 う な ら ば 全 て が 生 で あ り 、 た全分の﹁生﹂は﹁不生﹂なのであり、全分の﹁死﹂は﹁不滅﹂として現成するのである。この故に禅師は﹁生キ来 ︿ 感 い を 吹 き と ば し て し も う ︾ ﹁死来タラパ只コレ死﹂と究尽することだとされている。そして、生の一時、死の一 ラパ只コレ生﹂として究尽し、 時を只管に究尽する行持を勧奨するのである。つまる所、只管打坐の参禅参学の修証の修、証上の修を勧説されてい る の で あ る 。 註 ハ 1 ﹀大正蔵八二巻・﹁正法限蔵﹂第一、弁道話・一八頁。寺田・小野校訂﹁道元﹂上・日本思想大系ロ・岩波書店刊・ニ三頁。 ︵2 ﹀大正蔵八二巻﹁正法限蔵﹂第九二・生死ノ巻・三

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五 頁 。 ︿ 3 ︶ 大 正 蔵 八 二 の 一 の 一 六 七 頁 ︵ 全 機 ノ 巻 ﹀ ︵4 ︶前註書三

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五 頁 。 ︵5 ︶河村孝道﹁正法限蔵に於ける生死観の租々相﹂︿日本仏教学会年報四六号・ニ七四頁︶ ︿6 ︶大正蔵八二の一の一六七頁︵全機ノ巻﹀。寺田・小野校訂﹁道元﹂上・二七五頁。 ︿7 ︶菅沼晃編﹁道元辞典﹂ハ﹁全機﹂の項一二九頁﹀東京堂刊。 ハ 8 ︶大正蔵八ニの一の一六二頁﹁全機ノ巻﹂。また﹁身心学道ノ巻﹂に於ても﹁いまだ生をすてざれども、いますでに死をみ る 。 い ま 死 を す て ぎ れ ど も 、 い ま す で に 生 を み る 。 生 は 死 を 塁 擬 す る に あ ら ず 、 死 は 生 を 塁 擬 す る に あ ら ず ﹂ ︿ 大 正 蔵 八 二 の 一 の 一 六

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頁 ﹀ と 示 し て い る 。 ︿ 9 V 註 ハ 2 ﹀ 参 。 ハ 叩 ﹀ 大 正 蔵 八 二 巻 の 一 ︵U ﹀ 大 正 蔵 八 二 巻 の 一 ﹁ 正 法 限 蔵 ﹂ 第 二

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有 時 ノ 巻 ・ 四 五 頁 。 ﹁ 正 法 限 蔵 ﹂ 第 九 二 生 死 ノ 巻 ・ 三

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五 頁 。

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観心本尊抄にみる生死︵本時の生命﹀

日蓮聖人の御文書を拝読すると、生死観の種々相とそれへの対応が懇説されている。たとえば、輪廻転生に基く生 死。業報因果。人生無常感に基く生死。俄悔滅罪に基く生死。生命の尊厳性の強調。臨終感。永遠の生命観などであ る

たとえば、無常生死観が説示されている有名な御文書の一節を鎖仰してみれば、 日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命は無常也。出ツる気は入る気を待ツ事なし。風の前の 箆、尚警にあらず。かしこきも、はかなきも、老イたるも、若きも定め無き習ヒ也。されば先臨終の事を習って 円 I V 後 に 他 事 を 習 フ べ し と 思 ヒ て : : : 。 と説示されている。この消息文は、妙法尼が夫の臨終の有様を身延山の回避聖人に報じてきたのに対する返書であ っ て 、 ﹁臨終一大事御書﹂とも通称されている消息で、人生無常感に立脚して命終に臨む死の直視を大事とされてい る。人生の最大事は死であることを強調されている。 さて本節の主題は、当身の大事とされた観心本尊抄にみる生死を考察するにあるから、ひとまず無常感を基にした 日常的な生死、自然的な生死観は外にして、此処では形而上の宗教的生死観を問題としてみたい。 日蓮聖人の生死観を考察してゆくと、末法を超克する宗教理念と、御自身の機悔滅罪思想とが表裏の関係をなして いる様に思える。東海の辺土に貧窮下賎として生をうけながらも、法華経信仰とその弘通を使命とすることに歓喜さ れ、忍難色読の道を歩まれたのである。 生 死 観 の 種 々 相 ︿ 町 田 ︶

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生 死 観 の 租 々 相 ハ 町 田 ︶ 既に経文のごとく、悪口罵晋万杖瓦磯数数見按出と説れて、かかるめに値候こそ法華経をよむには候らめと、 し 、 よいよ信心もおこり後生もたのもしく候:::日蓮は日本国東夷東条安房国海辺の栴陀羅が子也。いたずらにくち 門 2 v ん身を、法華経の御故に捨まいらせん事あに石に金をかふるにあらずや:::。 何に況や日巡今生には貧窮下賎の者と生れ、蹄陀盟継が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたる様なれど も、身は人身に似て畜身也:::我今度の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の 三悪を脱れんずるなるべ

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− − ・ 。 と述べて、法難と滅罪の相関について法悦の涙をながしつつ言及され、しかも﹁此経文は日蓮が身なくば殆ど仏の 妄語となりぬベ

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とまで法華経色読の体現を自負され、法華経行者の自覚を吐露されている o さて、右に拝読した 御文書は、日蓮聖人の栴陀羅宣言の書とも称せられ、自ら無冠の民を宣言して赤裸々な姿をみせるのである。筋陀羅 の宿業の重科を背負った身が、仏の金言法華経を値過開法・色読できたことは、小石を金に替える程に法悦歓喜して 身に余るのである。重科の身を投棄して俄悔に身をふるわせ、この自己が宿業と汚潤にまみれ在ることを認め、忍難 色読に全てを投.けして忍恕を希望求する姿こそ、赤裸に生きたいとする宗教的実存の姿であったのである。 ︽ 土 ︾ また﹃富木殿御返事﹄に於て かかる少身の身にて候べきか。又数数見積出ととかれて、度々失に ︽S ︾ あたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。 法華経の御故に過去に頚をうしないたらば、 と、法華経行者の自覚と誇りとを内に秘めつつ、俄悔滅罪の法悦感をあふれさせているのである。俄悔に生きると い の ち は、仏の生命の閲顕をめざし、真撃に生きる祈りの姿である。俄侮に於て自己を新たにし、さらに新たなる人生に立

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み ち の り ち向う旅立ちでありたい。日蓮聖人に於ける俄悔滅罪とは、生死の道程を一歩一歩と仏性の閲顕をめざして歩まれた 英 姿 で あ っ た 。 此処で繰返して、法華経色読と時間論との関わりに於て生死観について云えば、法華経の忍難弘通することによっ ︽ 法 懇 経 中 の 予 官 ︾ て、未来から顕現してくる法難を色読体現して、上行再誕の自覚となった。そのことは、本化地涌の菩薩の滅後の弘 教普顕を今まさに体現したのであり、霊山会上の虚空会へと遡り、久遠本仏の釈尊へと直参することであった。そこ に、未来から現在へと顕現してくる法難と、煩性栴陀羅の日蓮を超越して、霊山会上の境地にまで遡る時間をみるこ とができる。この煩性的人間︿日蓮﹀が、時聞を超えて上行菩薩へと遡り、さらに久遠本仏の生命に直参すると云う 門 的 枠 絶 対 時 間 ︾ ことは、日常の論理では矛盾する現象であり、時間の逆行である。しかし純粋に永遠なる本仏の生命を思念するので あれば、時間倒錯の概念︿時間否定の論理﹀が噂入されなければならない。 日蓮聖人は端的に次の様に教示されている。 e ’ ” ’ 以 = 凡 夫 正 像 末 − 為 レ 正 ︵ 観 心 本 尊 抄 ・ 七 一 四 頁 ﹀ デ J カ ノ 以 − − 末 法 始 − 為 − − 正 中 正 − ︿ 前 向 抄 ・ 七 一 四 頁 ﹀ テ , 丸 以 = 末 法 − 為 レ 正 正 法 中 以 − − 日 蓮 一 為 レ 正 ︵ 法 華 取 要 抄 ・ 八 一 一 一 一 頁 ﹀ 在世本門末法之初一同純円也ハ観心本尊抄・七一五頁﹀ と﹁末法ヲ以テ正トナス﹂︵末法為正﹀の理念を確固として示される。末法︵当今﹀を正︵在世﹀となす論理が成 り立つためには、明かに時間を遡行する論理が認められなければならない。 ﹃法華取要抄﹄のなかで、所謂﹁逆読法 華﹂の要文として知られる一文は教唆に富んでいる。 生 死 観 の 種 々 相 ︵ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ︵ 町 田 ﹀ ・ 乱 − 安 楽 行 − 勧 持 提 婆 宝 塔 法 師 ぜ 次 = 畏 之 比 一 一 減 俸 衆 生 − 為 レ 本 : ・ ・ 沼 の説示から理解されるように、逆次に読むとは、滅後の流通分の立場から在世正宗分へと遡行することであって、 日蓮聖人は受持信行の色読を媒体して、久遠の生命を末法にたぐり寄せたのである。自己の忍難色読を踏まえて、特 に逆読法華の立場を強調されるのである。繰返して云えば、逆説とは、如来滅後の立場から読むこと、 つ ま り 末 法 当 今の日蓮の立場から読むことを意味している。 久遠本仏の末法流通の本願 ︵ 今 留 在 此 の 良 薬 ﹀ を見極めることであ り、その色読によって﹁在世の本時﹂を﹁末法の今時﹂へと手繰り寄せ、久遠本仏の生命に直参したのである。 ﹃ 種 種 御 振 舞 御 書 ﹄ に お い て 在世は今に在り、今は在世な均 v と 簡潔に語調を整えて表現されるところである。 日 蓮 聖 人 は 、 如来寿量品で閲顕されている久遠本仏の生命を ﹁本時﹂と呼称するのであるが、周知のごとく、法華経従地涌出品に於て﹁我今説実語、汝等一心信、我従久遠来、 教化是等衆﹂と、本仏の生命の悠遠なることをほぼ明かし︿略開レ近顕レ遠﹀、寿量品に至って﹁我突成仏己来、無量 ハ 本 仏 久 遣 の 世 界 は ︾ 無辺、百千万億、那由他劫﹂と、その生命の永遠なることを開顕し︿広関近顕逮てその悠遠なることは﹁是諸世界、 ︽広︿、途︿、深く﹀︿計算の飽力を超えている︾︻思考の飽カを超えている公 9 V 無 量 無 辺 、 非 算 数 所 知 、 亦 非 心 力 所 及 ﹂ と 教 説 さ れ る ご と ︿ 、 無 始 の 久 遠 か ら 無 終 の 永 遠 に 亘 る 生 命 な の で あ る 。 日蓮聖人はこの二つの説相を依拠とされ、たとえば﹃法華経取要抄﹄のなかで次の様に論じられるのである。 本門有=二心二涌出品略閲近顕遠前回味並迩門諸衆為レ令レ脱也。二涌出品動執生疑一半並寿盈品分別功徳口間半 ク テ 晶 日 口 問 己 上 一 品 二 半 名 − 一 広 閲 近 顕 逮 − 。 一 向 為 − 議 後 一 也 : : : 法 華 経 本 門 来 = 至 略 開 近 顕 逮 − 自 = 華 厳 − 大 菩 薩 二 乗 大 党 天 帝

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スルヤ J F テ F J 門 担 釈 日 月 四 天 龍 王 等 位 隣 − − 妙 覚 − 叉 入 − − 妙 覚 位 − 也 : : : 為 = 誰 人 − 演 = 説 広 閲 近 顕 述 寿 量 品 − 乎 。 答 日 寿 量 品 一 品 二 半 白 ν 噌 f p

始 至 − − 干 終 − 正 為 = 滅 後 衆 生 − 。 滅 後 之 中 末 法 今 時 日 蓮 等 為 也 。 ︾ 法華経の本門正宗分に説示された久遠の生命に関するこつの説相、略閲近顕速は釈尊在世の衆生の得脱を示された 門 法 措 中 経 漏 出 品 ︾ もの。広開近顕速は滅後の衆生の得脱を示したものである。若し日蓮聖人の教示に随えば、略開近顕遠段で示された ﹁略久遠の生命﹂とは、釈尊の在世の現在に立たれた永遠の生命を説いたものである。広開近顕遠段で示された﹁広 ハ 過 去 ︾ 円 未 来 ︾ 久遠の生命﹂とは、無始の久遠から無終の悠遠を苧んた久遠本時の生命を説いたものである。つまり、釈尊は、有限 の自己一人に対する人格︵始成の覚者︶信仰ではなく、 釈 尊 が 悟 ら れ 、 誰もが倍り得る永遠の生命︵久遠実成の生 命﹀への信仰を勧め、次元を高められたのである。 日蓮聖人は、寿量品で閲顕された久遠本仏の世界︵生命﹀のことを、特に本時と呼称する。そしてその久遠本仏の 生命︿性格﹀について、たとえば﹃観心本尊抄﹄に於て次の様に信解せられている。 我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也。 いま﹁無始ノ古仏﹂と云う﹁無始﹂とは、古仏︿久遠本仏﹀が無始と云うことであって、伽耶始成の釈迦が無始と 云うのではない。若しも久遠本仏が時間的に﹁無始﹂であるならば、未来も﹁無終﹂であらねばならない。しかも特 に、日蓮聖人が単に﹁無始古仏﹂と云わないで、古仏の冠頭に﹁五百塵点﹂という天文学的数値を籍りて表現する意 味は、伽耶始成の歴史上の釈尊の寿命が永遠と云うのではなく、無始の昔に仏陀となられたその寿命が久遠だと云う ことである。歴史的時間を超えて、無始︿久遠の過去︶無終︵永遠の未来︶ の常住不滅の存在たる久遠本仏を開顕 し、その本仏の生命である﹁本時﹂のなかに生きたいと願ったのである。 生 死 観 の 極 々 相 ︿ 町 田 ﹀

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生 死 観 の 種 々 相 ハ 町 悶 ﹀ 日蓮聖人が本仏の生命である﹁本時﹂について、美事に表現しているのは、 ﹃観心本尊抄﹄中の所調、四十五字法 体 段 の 条 り で あ る 。

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J ナ p a − − 号 屯 品 唾 今 本 時 裟 婆 世 界 離 三 ニ 災 一 出 − 一 四 劫 − 常 住 浄 土 。 仏 既 過 去 不 ν 滅未来不 ν 生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間 也 。 この四十五文字の一条は、法体段と称せられて御書中でも特に本仏釈尊の久遠常住を教示した一節として重要視さ れている。右の法体段中、とくに問題となる所は冒頭の﹁今本時﹂の三文字が意味する時間観である。すでに述べた 様 に 、 ﹁本時﹂が久遠本仏の生命を意味するならば、その﹁本時﹂を絶対時間とか、宗教的純粋時間と表現すること が 許 さ れ よ う 。 て 、 次に﹁今本時﹂の冠頭の﹁今﹂は、一体なにを意味するのであろうか。若しも そ の ま ま そ の ま ま ﹁今が即本時﹂と読み、また﹁本時が即・今﹂と読むことが許されるならば、その読み方を敷街して、我々の立 ﹁ 今 本 時 ﹂ の内容の読み方につい っている今︿裟婆︶が其のまま本時であり、叉、本時が其のまま現在︵裟婆﹀であると、読めるのではないか。 以 上 の 事 か ら 、 ﹁今本時﹂とは、久遠本仏の生命︵絶対時間﹀に包みこまれた﹁今﹂と云うことになる。即ち﹁今 本時﹂の﹁今﹂は、久遠の過去から永遠の未来へと、悠遠かぎりない永遠の相下に観られた﹁今﹂である。そしてこ の ﹁ 今 ﹂ が 、 ﹁ 本 時 ﹂ と 云 わ れ る の は 、 ﹁今﹂の永遠の相を示したに他ならないのである。 日蓮聖人の生きる﹁今﹂は、末法の当今︵裟婆﹀であり、 そ れ は そ の ま ま 、 本時の世界︵久遠本仏の生命︶ で あ る

﹁今﹂に生きるとき、生死を超えて﹁本時﹂の世界に参入するのである。若し宗学の用語を借りれば、即身成仏 ・ 裟 婆 即 寂 光 の 相 な の で あ る 。

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生死を超えることを教唆されている。それは本仏の世界に生かされているとの﹁信﹂の確めであり、時間と空間を超 日蓮聖人の生死観︵観心本尊抄にみる﹀は、単に生死について言及したものではなく、法華経の忍難色読によって えた本有の世界ハ無始無終の本仏の生命︶の中に、自己が同時同居しているとの確信である。ハ昭和白年日月 8 日 稿 ﹀ 註 ハ 1 ﹀ ハ 2 ︶ ハ3 ﹀ ハ4 ﹀ ︵ 5 ﹀ ︵ 6 ﹀ ︵ 7 V ハ 8 ﹀ ︵9 ﹀ ︿ 叩 ﹀ ︿ 日 ﹀ ︿ ロ ︶ 妙 法 尼 御 前 御 返 事 ・ 定 遺 一 五 三 五 頁 。 佐 渡 御 勘 気 抄 ・ 定 遺 五 一

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頁 。 佐 渡 御 密 ・ 定 遺 六 二 ハ 頁 。 註 ︵ 3 ﹀ 参 照 。 富 木 殿 御 返 事 ・ 定 遺 五

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三 頁 ・ 真 蹟 。 法 華 取 要 抄 ・ 定 遺 八 一 三 頁 ・ 真 蹟 。 種 種 御 振 舞 御 番 ・ 定 追 九 七 一 頁 。 援 本 ・ 岩 本 訳 注 ﹁ 法 華 経 ﹂ 中 巻 三 一 二 一 良 。 註 ︵ 8 ﹀ 中 巻 ・ 一 二 J 一 三 頁 。 法 華 取 要 抄 ・ 定 遺 八 二 二 J 八 一 四 頁 。 観 心 本 尊 抄 ・ 定 逃 七 一 二 頁 ・ 真 蹟 。 註 ハ U ﹀ 参 照 。 生 死 観 の 種 々 相 ︵ 町 田 ﹀

参照