スポーツ運動学研究33
:
1
-
8
.
2020特別寄稿論文
運動学の道
渡邊
伸
文化学園長野保育専門学校
Der Weg d
e
r
Bewegungslehre
Noboru WATANABE
Zusammenfassung
Husserl begriff den lebendigen Leib mit dem Wort,,Biophysik"(l921). Das bedeutet den Leib, dereinerseits ein Ding ist,anderseits empfindend sich bewegt. Empfinden und Sich-Beweュ gen ist eigentlich eineEinheit.
Ph却omenologieist eineWissenschaft, die,,mich" aufklaren will. Die Wirklichkeit derEmpュ findungsqualiほtkann nur dem Empfindenden gegeben werden. Das istselbstversほndlich!Husュ serl reformierte den Empfindungsbegriff auf dem Weg des Riickgangesvonder mathematisierten Naturzum urspriinglichen sinnlichen. Die Reformation ist von dem psychologischen Begriffauf dem pathischen aufgetreten. Weizsacker driickt die Wirklichkeit cler Empfinclungsqualiほtmit franzosischem Wort,,nuanュ ce" aus. Es ist von gro13er Becleutung fiir die Empfinclungslehre, in eigenerPraxis subtileVerュ schieclenheitderEmpfinclungsqualitatmit Sicherheitspiiren zukonnen. はじめに 身体は感覚の場である。フッサールの「生活世 界」は身体感覚でできている。だからそれは感 覚世界である。この身体は生命のない物体ではな い。生きている身体は感じつつ動き動きつつ感 じる身体である。だから,感じることは精神とい われるものの働きではない。 運動学の方法に関する以下の論考では.これら のことが前提になっている。運動学の方法が問わ れねばならないのは,それによって運動学の学問 論的な位置が少しでも明らかになることが望まれ ているからである。科学的な思考との異質性もそ こから自ずと見えてくることになる。 運動学の道と題された本論考においてはまず 運動学の方法として現象学を捉えようとする。 そこから感覚論が運動学の方法であることを示 す。また,運動学の感覚論に関する論考において は,フッサールが指摘する感覚概念の変革とその 意義を示し,最後に感覚することの現実を記述し ようとするヴァイッゼッカーの「ニュアンス」に ついて考察する。これらの論考は運動学の方法論 を根底で支える基礎になると考える。
I. 方法としての現象学
1. 感覚質ということ 現象学は己事究明の学である。すなわち,わた し(ここでは本論の著者の渡追)自身が,たとえ ば感覚するということで実際に何をしているの か,知覚するということで何をしているのか, さ らに,わたしが運動するということで実際に何を しているのかを見極めようとすることを趣旨とす る。 感覚質は,それを感じているわたし以外の者 がそのわたしの感覚質を〈直接〉感じることは できないということ,これは自明である。わたし にとっての他人が同じ情況にいる場合でさえ,そ の他人が感じている感覚質を,わたしが直接感じ ているわたしの感覚質のように,わたしには感じ られない。同じ情況にいる両者にどんな交流が あったとしても,このことは変わらない。すなわ ち,他人の感じる感覚質はわたしにはわたしの感 覚質のように感じられないのである。このこと は,わたしにとって明らかなことである。感覚質 はわたしが感覚すること以外にその現実は与えら れない。 2. わたしの究明 フッサール (Husserl,E.) は,生きた身体の把 握自身の感覚に与えられる自身の身体について 記述するなかで,この「わたし」に関わって以下 のように書いている。 「独我論的な『世界の見方』においては,わた しにとってあらゆる外的事物は,それが経験され るように,物的な事物として経験されている。と いうのは,物的な事物として外的事物が構成さ れ,その外的事物はそのように経験の主題にな る。それに対して,わたしの身体に関しては,わ たしはわたしの身体をまた確かに物的な事物として統覚することができるがそしてまたわたし
の身体は,成長した自我において,物的な事物と して構成されてはいるが, しかしその身体にとっ て,わたしは身体学的な [somatologisch] 身体としての知覚を持つ。そして,この知覚は明らか
に先行していて,・作動している自我としてのわた
しにとうて:それ自休で最初のものであり:物的
な事物としてのわたしの身体を『知覚する
j
とい
う把握は第二のものである。わたしがわたしの身
体を他の事物と同様に純粋に事物として見なすた めには,人為的な態度と考察を必要とすること, そしてわたしにとって,わたしの身体は他の事物 と同様に事物と見なされているのであり,習慣的 に長くそのようなものとして構成されていている のではあるが, しかし一方で, この意味付与にお いては,わたしが機能することが何の役割をも 『果たして』いない。わたしはそれをすでに上で 示唆しておいた。わたしの身体の身体としての所 与性,機能する器官としての所与性は厳密に見れ ば物的な事物としてのわたしの身体の所与性に は基づけられてはいない。」 (Hua.XIV1
9
7
3
S
.
6
1
)
([
]は本論著者の挿入) 身体学的に知覚されたわたしの身体は「それ自 体で最初のもの」(感覚による把握)であり物 的な事物としてのわたしの身体の知覚は「第二の もの」(科学における把握)でありそのために は「人為的な態度と考察を必要とする」というこ とと, さらに物的な事物としての(他者の身体を も含めた)身体という意味付与においては,「わ たしが機能することが何の役割をも果たしていな い」という分析は,身体に対しての感覚による把 握と科学(生理学)における把握の違いが強調さ れていると考えられる。現象学は己事究明の学, すなわち「わたし」とは何かと問いかける学問で あり,さしあたり運動学では,わたしの運動とは 何かを問うことになる。わたしの運動を内的に問 うことができるのは,上述のようにわたしだけで ある。しかし,そこにもわたしが見た,あるいは 出会った他者の運動が暗黙裡に関わっている。 上記のフッサールの記述は,「身体ー事物一移 入 心と身体の結びつき」と題されたテキストの 第 4 節,「他者経験による身体の自己経験の影響 わたしの身体の物的知覚に対する身体学的知覚の 擾先」というテーマにおける記述である。 この節のテーマにおける「他者の身体」の知覚 について,外的に与えられた物的な事物としての 他者の身体のなかに・・・作動する主体が表現されている (Hua.XIV,
1
9
7
3
S.60) という現象が次 のように分析されている。 「物的に知覚すれば他者の身体はわたしに とって物的な事物であり,それだけのものでしか ない。他者の身体は身体として付帯現前化に よってわたしに統覚されている。そこでは他者の 身体の特殊に身体学的な特異性が,わたしにとっ て付帯現前的にしかそこにはない。」 (Hua.XIV1
9
7
3
S
.
6
0
-
6
1
)
さらにその志向分析においては次のように述べ られている。「全き他の自我と自我の生が(それ がいかに未規定であっても)付帯現前化されてい ることは.この事物がそこで,わたしの身体との 類似のおかげで,その事物の動きが身体としての わたしの機能の動きとの類似のおかげで,付帯現 前的に把握されることと一つのことである。」(
H
u
a
.
X
I
V
1
9
7
3
S
.
6
1
)
上記の「わたしが機能すること」がこのように 分析されている。ここでの他者は,わたし以外の 不特定の他者を指しているのではなく,わたしが 見る,あるいはわたしが出会う他者のことを指し ている。科学的な研究においては,研究者自身は 無関心を装う傍観者でなければならない。それが 科学的研究の客観性を保証することになってい る。つまり,研究者自身は研究対象から除外され ていることになる。物的な事物として身体を研究 するのは上に挙げた生理学に代表されるよう に.科学的な研究から「わたし」が排除されざる を得ないことによる。 ヴァイッゼッカー (Weizsacker,v.V.) の研究の 対象も上記の「わたし」に関わっている。 「生命あるものを研究するには生命と関わり あわねばならぬ。生命あるものを生命なきものか ら導き出そうとする試みは可能かもしれぬ。しか しそのような企ては,これまで成功してこなかっ た。或いはまた.学問においては自分自身の生命 を無視しようとする努力も可能かも知れぬ。しか しそのような努力の中には自己欺II術が隠されて いる。」 (Weizsacker,v
.
V
.
1
9
5
0
S
.
8
3
/
3頁) 「学問において自分自身の生命を無視すること」 には「自己欺職が隠されている」という表現のな かに,学問研究において研究者としての「わた し」.生きている「わたし」が無視されることが 「自己欺職」であるという。この「自己」は研究 者(観察者)としての「わたし」の自己以外のも のではない。ここに上記のフッサールと同類の主 張を見ることができる。 ヴァイッゼッカーは『パトゾフィー (Pathosophie) 」においても同様の主張をしてい る。彼は.パトス的カテゴリーの「ねばならない (Mtissen) 」を解明する記述の途上で以下のよう に書いている。 < ュッセン「・・・〈せねばならぬ/必然〉が,人間を含め
た世界全体を支配している必然性の結果ではなく て〔パトス的範疇の〕ひとつの個別ケースにすぎ ず,それ以外にもいろいろ別のケースがたとえば〈してよい〉のケースが(さらに〈しヴょりと
ケネンすンる〉や〈できる〉などのケースも)あるとする
なら自然の必然性も多数例のうちの一例にすぎ ないことになり,それを免れることもありうるこ とになる。わたしは〔それを〕ときにはせねばな らないがいつもではない。さて,これらの帰結 の深刻さからとりあえず身を守ってくれる方策が ネガツイオーンひとつある。その方策とは否定である。それは
ほぽつぎのような形をとる。たとえばだれかが, 自分は「せねばならぬ/かならずする ichmu~J
ということもできるが, しかし別のときには「す る必要がない/かならずするとは限らないichmu6
nichu ということもできる, と主張するわ けだ。彼はこうして「人間は自由である」とい う言表と,それと相容れない『人間は自由でない』 という言表とのあいだで態度を決めなければなら なくなったとき,そこで発生するであろうディレ ンマ〔カントの純粋理性の第三の二律背反(「純 粋理性批判.I B472) に関連している〕を, まん テンボラリまと回避してしまう。ここでは人間を時間的に
ジーレン とらえて人間はときには自由だしときには自由 ではない, と主張するような必要もない。『人間 は』を単純に『わたしはj という言い方にかえる だけで十分である。そうすれば,〈わたしがわた しと論理的に合致していて〔同ーであって〕,こ の合致は永遠に続く〉などということを要求するのは,まった<余計なことになるのだから。この トリックの帰結するところは,要するに『私は論 理的ではない』と言ってもよいということであ る。それを称賛にすら結びつける根拠も山ほどあ る。」 (Weizsacker
1
9
5
6
S
.
7
1
/
100-101 頁)([]
は訳者挿入) 「『人間は』を単純に『わたしは』という言い方 にかえるだけで十分である。そうすれば〈わた しがわたしと論理的に合致していて〔同一であっ て〕, この合致は永遠に続く〉などということを 要求するのは,まった<余計なことになるのだか ら。」という文章に見られるこの「わたし」はヴァ ィッゼッカー自身のことである。そのヴァイッ ゼッカーが「わたしがわたしと論理的に合致し て」いないという。パトス的カテゴリーの Mussen が「人間を含めた世界全体を支配してい る必然性の結果」ではないというのは,パトス的 カテゴリーが科学的見方によって構築された世界 には現れない現象であることを意味している。 ヴァイッゼッカーにとって「人間」というのは単 なる概念である。パトス的に病むのは,具体的な 名前をもつ個人以外ではないからである。さら に, ヴァイッゼッカーにとって他者も同様に, ヴァイッゼッカーが出会った,さらに,これから 出会う可能性のなかにある具体的な名前をもつ他 者である。そして,「人間は」を「わたしは」と いう言い方にかえるということはこの具体的な 個人としての他者は,フッサールの主張と同様に ヴァイッゼッカーの「わたし」にのみ現れる現象 であることを意味している。 フッサールやヴァイッゼッカーの記述は,彼ら の「わたし」が感じていることの記述であること にもはや異論はないであろう。彼らが記述したこ とを読むわたし(渡邊)がその内容に共感できる 分だけ,わたし(渡邊)にも彼らと同類の経験が 宿っていると考えられる。その経験そのものを想 い出せなくても。 フッサールとヴァイッゼッカーの主張は,現象 学の研究が「己事究明」の学であることを意味し ている。運動学においては,「自己観察」が「他 者観察」とともに,形態学的運動研究の不可欠な 方法として示されている。 (Meinel,K
1
9
6
2
S
.
1
2
1
-
1
2
8
/
122-130頁) ]I .感覚論へ 上でも書いたように,現象学は「己事究明の 学」,すなわち「わたし」とは何かを明らかにし ようとする。そこから感覚論へは距離がないと 言っていいであろう。わたしにおいて現象する感 覚は,現象学においては,わたしがわたしの独自 の身体知によって作り出した感覚であると考える こともできるからである。感じることは感じてい る本人にしかその現実は与えられない。このこと は自明である。同じ事態を目の前にしている二人 がその事態を各々がどのように感じ,どのよう に評価しているかは,この二人にどんな交流が あったとしても互いに確認できない。したがっ て,感覚することを記述することができるのは, 必然的に感覚しているわたし以外ではありえな し‘゜
1. 感覚概念の変革(フッサール) また,現象学としての感覚論における感覚概念 は,フッサールによって「数学化された自然」か ら根源的な感覚世界(生活世界)へ帰還する発生 論において変革されている。以下,やや長くなる が,この変革に立ち入りたい。「日常に直観される環境で,現実に経験される
物体の感性的性質—物体それ自身において,そ
の属性として知覚される色彩,手ざわり,匂い,
温かさ,重さなど一が『感性的所与』
[
,
,
s
i
n
n
l
i
c
h
e
Daten‘‘] とか『感覚所与』 [.,Empfindungsdaten’']とたえず取り違えられて きたということは,ロックの時代以来の心理学的 伝統の悪しき遺産である。そしてこの感性的所与 とか感覚所与は,区別なく等しく感性的性質[
,
,
s
i
n
n
l
i
c
h
e
Qualiほten‘‘] と呼ばれ,少なくとも一 般には,それと全く区別されていない。そしてこ の区別が感じられているばあいにも,(その区別 をその特性について根本的に記述することはきわ めて必要なことなのであるが,それをしないで), 『感覚所与』が直接的な所与であるという,根本的に誤った考え方がある役割を果たしているの である―その点についてはなお触れることが あろう。そしてそこからただちに物体そのもの において感覚所与に対応するものが,数学的ー物 理学的なものととりちがえられるのをつねとする のであるが,この数学的ー物理学的なものの意味 の源泉こそ,いまわれわれが探究しようとしてい るものなのである。われわれは,真の経験を忠実 にいいあらわそうとしてこのばあいだけではな く,つねに,これらの性質において現実に知覚さ
れる物体の性質 [Q
u
a
1
i
ta t
e
n]
とか属性
[
E
i
g
e
n
s
c
h
aft
e
n] という言い方をする。そしてわれわれがこれらの属性を形態の内容的
充実 [F
i
.
i
1
1
en] と呼ぶばあい,われわれはこれ
らの形態もまた,物体自身の「性質j, しかも感 性的性質と考えているのである。ただしこの形態 は,〈共通に知覚されるもの〉であるから,〈独自 に知覚されるもの〉と違ってそれだけに属して いる感覚器官に関係するということはない。 〔〈共通に知覚されるもの〉と〈独自に知覚され るもの〉とはともにアリストテレスの用語。後者 は色彩の視覚,音の聴覚におけるように特定の 感覚器官によってのみ知覚される性質であるのに 対して,前者は多くの感覚器官によって共通に知 覚される性質—形態,運動と静止,大きさな ど。〕」(Hua.VI1
9
7
6
S
.
2
7
F.N.)
(<
〉はギリシャ 語の原語が書かれているが,省略した。) ここではまず,この脚注がどのような文脈のな かで,またどのような言葉に付されたものかを示 すことによってこの脚注の.われわれの運動学 にとっての意義をさらに明らかにしたい。この脚 注は,『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学j(
H
u
a
.
V
I
1976) 第9 節「ガリレイによる自然の数 学化」における項目の「b ガリレイ物理学の根本 思想。数学的全体としての自然」 (Hua.VI1
9
7
6
S.26/44頁)のなかに出てくる (9節は項目 a か ら項目]に細分されており,それぞれの項目に テーマがついている)。 また 9 節の冒頭には次の文が掲げられている。「ガリレイ的な自然の数学化によって新しい
数学の指導の下に自然自体が理念化されること
になる。現代的に表現してみれば, 自然自体が数 学的多様になるのである。このような自然の数学化は何を意味ずるのであ
ろうか。それを動機づけた思考過程はどのように
再構成されるのであろうか。」 (Hua.VI1
9
7
6
S.20/38頁) この文章からだけでは理解しにくいことではあ るが「自然の数学化」とは, 自然科学の対象と なる自然であると考えてよいであろう。その「自 然の数学化」を「動機づけた思考過程」を再構成 することすなわち,どんな動機から,どんな関 心から生活世界(感覚世界)の自然が数学化され た自然になってゆくのか,そのきっかけから「再 構成」するために,尊入的な位置にあるのが 9 節 であると考えられる。「再構成」 [rekonstruieren] は発生論にかかわることは言うまでもないだろ つ。 さらに, 9 節全体につけられた付論IIには以 下の文章が見られる。 「われわれにとってあまりにこの意味[科学的 な客観性という意味]が自明となっているので その根源的動機 [Ursprungsmotivation] と根源 的明証が問われなければならないような発生の産 物があることを明らかにすることは骨の折れるこ とではある。」(Hua.VI1
9
7
6
S
.
3
5
8
)
上にあげた脚注は, このような脈絡のなかで出 てくる以下の文章の中の一つの言葉につけられて いる。「もっとも,この純粋数学全体がかかわるのは,
単なる抽象性における物体と物体界,すなわち空
間時間性における抽象的な形態にすぎず, しかも それは,純粋に「理想的な」極限形態としての形態でしかない。しかし,具体的には現実的および
可能的な感性的形態はさしあたり,経験的感性的な直観において単に「質料」.すなわち感性
的充実 [sinnlichen
Fiille]
の「形式」としてわ
れわれに与えられるにすぎない。したがってそれ は,いわゆる「特殊な」感性的性質 (I)*[
,
,
s
p
e
z
i
f
i
s
c
h
e
n
"
Sinnesqualiほten りたとえば色と にお か音とか臭いなどのうちに,固有の程度性をもって現れるものなのである。」 (Hua.VI
S
.
2
7
/
46頁)この「特殊な」感性的性質という語に上記の脚
注がつけられている。数学化された自然の学問論 的な問題性に気づき,この数学化された自然から 生活世界(感覚世界)へと帰還し,この理念化を 根源的な感覚世界において動機づけたのは何で あったのかを解明しようとする発生論を素描しよ うとすることがこの 9 節の趣旨とみられる。この文脈のなかで「感性的所与」
[
,
,
s
i
n
n
l
i
c
h
e
n
D
a
t
e
n“] や「感覚所与」 [,,Empfindungsdaten"] と,「日常的に直観される 環境で,現実に経験される物体の感性的性質― 物体それ自身において,その属性として知覚され る色彩,手ざわり,匂い,温かさ,重さなど― が」絶えずとりちがえられ,区別されることな く「感性的性質」 [sinnlichenQualiほten] と呼ば れてきたというのである。またこの脚注には以下 のような記述も見られる。「そしてそこからただ ちに,物体そのものにおいて感覚所与に対応する ものが数学的ー物理学的なものととりちがえら れるのをつねとするのであるが,この数学的ー物 理学的なものの意味の源泉こそ,いまわれわれが 探究しようとしているものなのである。」 これらは,上で述べた 9 節の趣旨そのものであ る。上で引用したように,この脚注がつけられて いる言葉の記されている段落には,感性的性質は にお「・・・色とか音とか臭いなどのうちに,固有の
程度性 [Gradualiほten] をもって現れるものなの である。」とある。 以上のことから「感性的所与」とか「感覚所与」 は, まだ数学化や物理学化されていなくとも,そ の前提になるように概念化され,客観化されて 「もの」ように固定されてしまった感覚と考える ことができる。 「感性的性質」に関するこの脚注には,感覚概 念を変革するもう一つの契機が述べられていた。 これも発生論と関わる契機ではある。 「われわれは,真の経験を忠実にいいあらわそ うとして,このばあいだけではなく,つねに,これらの性質において現実に知覚される物体の性質
[Qua
I
i
tat
en] とか属性 [Eigenschaf
ten] という言い方をする。そしてわれわれが,これらの性質を形態の内容的充実
[F
ti1
1
en] と
呼ぶ場合われわれはこれらの形態をもまた,物 体自身の「性質」, しかも感性的性質と考えてい るのである。ただしこの形態は〈共通に知覚され るもの〉であるから,〈独自に知覚されるもの〉 とちがって,それだけに属している感覚器官に関 係するということはない。」 ここには,訳者の注が入っているので分かりや すいが,個別の感覚器官に由来する感覚ではない 〈共通に知覚されるもの〉の例として形態が挙げ られている。形態は目で見るだけでなく,手で触 れてその内容的充実とともに知覚される。見る ことのなかに触覚的なことも反映される。さら に,人の気配や物腰,場の雰囲気など, また,身 体を取り巻く空間の方向など,感覚器官としてど こで感じているとは言いがたい漠然とした感覚が ある。これらは解剖学的に理解されている個別の 感覚器官に由来する感覚が後から混ぜ合わされた のではなく, もともと漠然と感じられていたので ある。むしろ,〈独自に知覚されるもの〉は解剖 学的に確認される感覚器官に由来するものとして 人為的に構築された感覚概念と考えてもいいので ある。 2. 「ニュアンス」(ヴァイッゼッカー) ヴァイッゼッカーは「ニュアンス」という語に よって,価値感覚を卒む具体的な感覚質の現実を 記述にもたらそうとする。ニュアンスという語そ のものはすでに日本語になっているので,特に説 明は要らないと思われる。感覚質の具体的経験の 本質的特徴をこの語によって示そうとしていると 考えられる。以下の引用文によってそのことが明 瞭になる。 「今や,ニュアンスがすべてを決定し,一方的 な方向しか持たない強さや弱さの概念よりも強い ものとなる。」 (Weizsacker1
9
5
6
S
.
1
5
7
/215頁) このことを説明するように次のように身近な 例を挙げて書いている。 「・・・対立しあっているニュアンスはプラスとマイナス,北極と南極のように違っているので はなく,そこにはいつも不均衡があってそれが 本質の違いを物語っている。 A と Bの強さの違 いが大きいか小さいかはたいしたことではない。 ほんのちょっとした力の差があればここで分析 した構造が発動する。それどころか差が小さけれ ば小さいほどニュアンスの及ぼす影響は印象的 なものとなる。双子の姉妹の片方に恋する人の選 択には,どんな作用が働いているのだろう。『スー プに髪の毛が入っている』〔よいと思っていたも のに欠陥が見つかっていやになる〕ときその結 果はどうなるだろう。」 (Weizsacker
1
9
5
6
S
.
1
5
7
-158/215-216頁) ヴァイッゼッカーのニュアンスは,この語に よって,束の間に現れては消えてしまう生きた感 覚質の現実に迫ろうとしている。概念で捉えられ る以前の,生きいきした感覚質はいわば「からだ が覚える」営みのなかで身につき,概念化される 以前に把握できるものとなる。むしろ,具体的な 感覚質をすでに言語によって客観的になっている 概念(例えば「赤」)でくくることによって感覚 質の現実としての個別性や具体性におけるニュア ンスが拭い去られてしまう。感覚質の把握はくり 返しのなかで一回ごとの差異や類似を発見しよう とする自己観察によって成り立っている。さら に,概念と感覚質の関係については以下の記述が ある。 「ニュアンスの人間学は,〔悟性の産物である〕 概念から出てきたものではなく,生の経験から, それも次のような生の経験から出てきたものであ る。ある人が裁判官として,あるいは医者として, あるいは教育者として真に人間的であろうとする 場合,その人は概念よりももっと多く感情に頼 る。つまり客観的な事実を法律や自然や倫理に インfン属する諸概念に照らして秤量したうえで,秤量
デラピリエン 不可能なものに,つまり主観的にしかその正体を 現さないような印象に従う。その場合,そういっ た諸概念の人間性を奪われた性質が逆に役に立つ ことがわかったりもする。つまり(対照の原理に よって)概念を用いることでニュアンスの非概念 性がかえってはっきり表れてくるということもあ る。しかし要点はやはり,非概念的なニュアンス をどうやって取り出すかのほうにある。その仕事 が望まれるわけであって〔概念との対比に頼る より〕もっと価値の高い仕事なのである。」(
W
e
i
z
s
a
c
k
e
r
1
9
5
6
S
.
1
4
7
/202-203頁) 感覚質のニュアンスは「非概念的」であること が注目されねばならない。それを取り出すのは, 「〔概念との対比に頼るより〕もっと価値の高い仕 事」であるという。感覚質のニュアンスはそれを 感じている人にしか取り出すことはできない。感 覚質のニュアンスを感じるためには自身の感覚 質のニュアンスの微妙な差異に気づくことがなけ ればならない。感じていても感じていること自 体に気づいていないこともあるのだから。自身で も気づかないうちに場の雰囲気や同じ場に居る人 の「居かた」に動かされている自分に後から気が つくこともある。幼児の場合,気がつかないまま 雰囲気に動かされていることがほとんどである。 この, 自ら感じていることに「気づく」ことの問 題はあらゆる実践にとって大きな問題ではある。 さらに感覚質のニュアンスの特性のひとつと してヴァイッゼッカーが書いていることがある。 ジネ「...そのひとつは,生きもので感覚がはた
している優れた役割である。強さと弱さのニュア ンスは感覚的な現れで最もわかりやすい。そし インテンジテート エンプフィン てややもすると,強度/内包量それ自身が感 ドウングスクヴァリテート 覚 質であるかのように考える誤謬が広ま ることになる。このことに関してはすでに述べ たように量と質がたがいにたがいの条件になって いて一方がなければ他方も成立しえない,とい うのが正しい。これは個別化という普遍的な出来 事限定に伴って必ず起こる出来事の一例に過ぎ ない。だから個別化するということはいつもニュ アンスを区別するということであり.ニュアンス を区別するための限定では,感覚データ [eins
i
n
n
l
i
c
h
e
s
Datum] が概念的にとらえられている。 強い,弱いという場合でも同様なのである。」(
W
e
i
z
s
a
c
k
e
r
1
9
5
6
S.158/216頁)この文章は上で引用したフッサールの『危機 書」 9 節における脚注と同じ内容である。ヴァ ィッゼッカーはフッサールと同じように,自身の 生活世界(感覚世界)にいて感覚質の特性をニュ アンスという表現によってその本質的特徴を明ら かにしようとしているのである。上記フッサール からの引用文(上記の脚注がつけられている文 章)の「程度性」 [Gradualiほten] に注目すれば ヴァイッゼッカーが「ニュアンス」という表現を 用いていることも理解できる。 おわりに 運動学の重要な使命の一つには,同様に運動感 覚(動感)の概念化以前の生きた感覚質,主観的 で曖昧な上に,束の間に消え去る漠然とした感覚 質のニュアンスを把握することがある。むしろ, それがなければ感覚論の運動学は始まらない。 このような意味で,患者の病気の治療のため に,患者自身が感じていることのニュアンスを全 身で自らが追体験しようとするヴァイッゼッカー の医療実践は,生徒や選手そして障害者の動きか たを改善するために,その動きはもちろん,表情 やつぶやきのなかにさえ,その身体が感じている ことのニュアンスを,たとえ彼ら自身が気づいて いなかったとしても全身で追体験しようとする体 育教師やスポーツコーチ, またリハビリテーショ ンの指導実践と軌を一にするものである。運動学 にとって,他者の身体現象の解明は最も重要な課 題であるがそれは本論考で明らかにしたフッ サールやヴァイッゼッカーの感覚論が基礎になっ てはいるがさらに新たな論考が求められる。 文献