建 築
・庭 園
・絵 画
か ら
見
る
英 国
的美意 識
の
系 譜
十
八
世紀
を
中
心
に
斎 藤 信 平
要 旨 本 研 究ノー
トは、
十八世 紀の英 国に おける独自の美意 識の確立 とその変 遷 を研 究 するため に、
大 まかにその流れ を辿っ たもの である。
十八世 紀の英 国 は、
その歴 史E
初めて独 自の文 化 形 態を作 りh
げ、
次に その文 化 を輸出 し た時 期で ある こ とは間違い ない 。 こ の英 国独 自の 文化と は どの よ う な ものであ り、
また どの よう な経 緯で形 成 され、
大 陸に影 響を与え る ま で に なっ たのか.
文 化の受容 から発 信へ い かに変 化 してい っ たのか。 こ の ような テー
マ の も と にこ の ノー
トは作 成され た。1
. 王
政 復 古 (
1660
年
)
以
後
の思潮
英 国の美 意 識の
系譜
を考
えると きに、特
に十 七 世紀後
期の英 国にお ける思 潮の流 れ を 明 確 に 理解
し な け れば、
十八世紀
の英 国 文 化 が 体 現 し た 美 意 識 を 理 解 す るこ と はで き まい 、 ま ず、
ヨー
ロ ッパ に お け る十七世紀
は、
大 ま かに言っ て、自
然 科 学が組 織 的にその歩
み を始め学 問体系
を確
立 し、
「近 代 」 が 始 ま る 時 期であ るということがで きよう。 この 時 期の自
然科
学
が持つ特
徴は、
実 験や観 察の導
入で あ り、「
実 験 を遂行
で きる設備
と条件
を 整 えた場所
と しての実 験 室の設 置 」 が な さ れる こ と である。1610年 1
月7
日に ガ リ レ イ が自作
の 天体
望 遠 鏡で木 星の惑 星 を発 見し た こ と は、無
限の力
を持
つ神
に たいす
る純
粋 な信
仰 心 らか ら無 限 な る宇 宙の姿の 必 然 性 を導 き 出 した、 十六世 紀 的 な 学 問 的姿 勢
を代表す
る ジ ョ ル ダー
ノ・
ブ ルー
ノGiordano
Bruno
(
1548 − 1600)
の よう
に観
念 的 な思弁
に よ る もの では な く、 実 際の 観 測 からの結 果であ り、当
時の プ トレマ イ オス・
ア リス トテ レ ス の 天動説
を 元に し た宇 宙 観 を根底
か ら覆す
重 大な発見
であっ た。 ガ リレイはま た、 月に映る影の形 状 か ら、 地 球 が 球 体 で あることを 証 明 したの である。 ロー
マ・
カ ト リッ ク教 会 側の宗 教 改 革の 急 先 鋒イエ ズス会
の ロー
マ 学 院の学 者 達 も、自
ら作
っ た 望遠で 天空を観
測 し始
め、1611年
に「
ロー
マ学
院の 星 界の報告」
を 出版 し、
ガ リレオの発 見 を 追確 認 してい るの で ある。 しか し、1632
年にガ リレ イ が「
世 界 体 系』
をロー
マ で 出 版 する と同時
に カ ト リッ ク教
会に よっ て全て焼か れて い ま い、 罰金 を払
わ さ れ、
つ い に は1633年
ガ リレイ は宗
教 裁 判で地 動 説 を放 棄 する に至るの で あ る。
こう した 中で、
近 代 的 設 備 を持っ た天 文 台が、
コ ペ ンハー
ゲ ン(
1637)、
パ リ (1672)、
一
76 (33>一
グ リニ ッ ジ (
1676
)、
ベ ル リ ン (1700 )に設 置 さ れ、
ま た 科 学ア カ デ ミー
が フ ィレ ン ッ ェ (1657
)、 ロ ン ドン (1662
)、
パ リ (1666
)、
ベ ル リン (1700
)に設 立さ れ る にい た るの で あ る。
つ ま りこ の 十七世 紀は、
近 代の自
然 科 学 が 方 法 論と組 織 的 体 系 を確 立 した 時 代 なの で ある。
ヨー
ロ ッ パ にお ける こ う し た 自然 科 学に対 する関 心の高 ま りが、
当 時 約40
万 人の 人凵を擁 して い たロ ン ドン で は、
新 しい 学 問と して の 「実 験 哲 学 」に関心 を持つ 人々 の 私 的 な集 会 を 形 成す
るまで に なっ てい た。1645年
ロ ン ドンでは毎
週 例会
が もた れてお り、 また、
オッ ク ス フ ォー
ドで も48年
ご ろ か らF
オッ クス フ ォー
ド哲 学 協会」
が例会
を もち、 両 者の間に緊 密 な 連 絡がと られ、
つ い に は、
シテ ィー
の グ レシャ ム・
カ レッ ジ (エ リ ザベ スー
世の財政 や貿 易 事 業 を 扱っ たトー
マ ス・
グ レ シャ ム (1519 − 79
)の遺
志で建
て ら れ た。1666年
の ロ ン ドン大火 には 類 焼 を まのが れ た。
現 在の シ ティー
のNatWest
Tower
のあた りにあっ た。
)に おい て 開か れたロ ン ドンの 例 会に統 合さ れ るこ と となっ たの である。1660年
に は内 規が作
成さ れ、
協 会の正 規 会 員の55
名 を決 定 した。1662
年7H15
日 には協 会 設 立の 国 王 特 許 状が与 え られ、
ブ ラウ ン カー
卿 を初 代 会 長として王 立協 会が公に活 動 を 開 始 する こ と になっ たの である、
十.
ヒ世 紀 初 頭の 大 陸におい て は、 依 然 と してキ リス ト教の 教 義 を 理 性 的に弁 証 し よ う とす るス コ ラ哲 学が大 学の学 問 を 支 配して い た。 スコ ラ哲 学の圧 倒 的 な 支 配のもとにあっ た大 学 の 外で、 観 察 や 実 験とい っ た経 験 を 重ん じつ つ 自 然の 法 則 的 数 量 的 な解 明 をす る研 究 者の中 心 的存在
が デ カル トRene
Descartes
(
1596 − 1650
)であっ た。 デ カル トは、 しか し、
引 力 を空 間に お け る物 体が持つ 力と して は説 明で き なか っ た。 彼は、 地 球に物 体 が 落 ちて くるのは、 地球
の回転
に よ る遠 心力
が外
側 に 圧力
をかける た め、
その 圧力
に よっ て、
中 空にある支 えの ない もの は地 球に押 さ れる と考 え たの である。 イング ラン ドに おい て、
デ カル トの 自 然 哲 学 をさらに発 展さ せ たのが
、
ニ ュー
トンSir
Isaac
Newton
(1642
−
1727
)
であ り、
1666
年
に は微積 分 法の原 理 を確 立 し
、1686
年 か ら87
年にか けて 臣白 然 哲 学の数 学 的 諸 原 理 』の 原 稿 を 王 立 協 会に提 出 し、 天 体の運 行 を 万 有 引 力の 法 則に よっ て数 量 的に説 明 した 宇 宙 観 を 発 表し た。 こ こ に、
は じめて、
宇 宙 空 間に浮かぶ天 体 とい う宇 宙の概 念が明 確に され たこ とになる の で ある。 ちなみ に、
ニ ュー
トン に「
諸 原理」を出 版 する よう
に促
し、
その 全費
用を負担
し たの は、 ハ レー
彗 星の周 期 を76
年と算 出し たエ ドモ ン ド・
ハ レー Edmund
Halley
(1656 − 1742
) である。
こうした11rで 、 政 治 理 念の面に おい て も英 国が 「近 代 」の 幕 開 けの場 と なるのである、1688
年、
前工 チ ャー
ル ズニ 国:の弟で ユ685
年に即 位 し た、
カ ト リッ ク信 者の ジェー
ム ズニ 世James
II
(在 位1885
一
88
)に世 継 ぎが でき たこ と な どに端 を 発して、
英 国が カ ト リッ ク化さ れ る こ とに なる の で は とい う不 安 から名 誉 革 命 が 起こ る。 反王党 派の ホ イッグ 貴 族らの請 願に よっ て ジェー
ム ズニ世
の娘婿
オ ラニ エ 公ウィ リア ムWilliam
II
(
在位1689− 1702、
ウィ リア ム の 母メ アリは、
チ ャー
ル ズー
世 0)娘、
従っ て、
ジェー
ムズニ世とは従 兄 弟関係で ある)が イン グ ラン ドの西の デヴォ ンに ヒ陸 し、 ジェー
ムズニ世は戦わず して フ ラ ン ス に逃 げ 出してしま一
75t34 )建 築
・
庭園・
絵 画か ら見る英 国的 美 意 識の系譜う。
ジェー
ムズニ世は、
セ ン ト・
ジェー
ムズ宮
に て オ ラ ンダ兵に捕 ら え られ、 ロ チ ェ ス ター
まで護 送 さ れ、 そこか らフ ラ ン ス へ向
けて出 国したの である。 ジェー
ム ズニ 世の突
然の 出 国 は、
英 国の国体
に重大
な問 題 をひ き起こした。 王 党 派の貴 族は も ちろ んのこ と、
ホ イ ッ グ貴 族の大 半 も国 室の断続
と共和
国化
を考
えてはい な かっ たの で ある。
そ もそ も神
か ら与 え ら れ た 王権
の放棄
な ど な さ れ る はず が な かっ た。 そこ で 、 ウ ィリアム と メ ア リー
が信教
の自 由 を保証
し、 「
権利
の請
願」
に署名
して、
共 同 統 治 を 行 うこ と になる の である。
した がっ て、
「名誉」革命
とは後
の歴史
家の フ ィ ク ショ ンであ る。 こ の名 誉 革命
の 理論
的後
ろ盾
となっ たの が ジョ ン・
ロ ッ ク であると さ れてい るの で ある。ジョ ン
・
ロ ックJohn
Locke
(1632
−
1704
)は近 代の認 識 論の祖
であ り経
験 論の代表
者で ある。 『人 間悟 性 論 』 (1690
)で、 ロ ッ ク は こう
主張す
る。「
心は、
言っ て みれ ば 文 字 を まっ た く欠い た 白 紙で、 観 念は少しもない と想 定
し よう。
」
これ が、
人 間 を 何 も書い て い ない白
紙にた と え たいわ ゆ る 「タ ブ ラ・
ラ サtabula
rasa」
である。「
どこか ら心 は 理 知 的 推 理 と知 識の全て の材 料 をわ が ものにす
る か。
これ に対
し て私 は、・
一
語 で経 験 か らと答 える。 この経
験に私 達の一
切の知 識は根 底を持
ち、
こ の経験
か ら一
切
の知 識 は 究 極 的に由 来 する。」
こ こ に、 人 間は 生来の観念
を持
たず
に経
験に よっ て様
々な観 念 を経 験に よっ て形成
する と し、
人 間は生 来 自 由 な存在
であ り、
その上 で社会
は約
束の 上に成 り立っ てい る という
主張
をしたの である, ロ ック はこう
主 張 する。 「自 然の状 態で存 在 する もの は、 誰の もの で もない 。 し か し、一
度
そ れ に労働
を加
えれば、
それ はその労 働を行
っ た者
の もの と なる。」
「自然は共 通に与
えら れ てい る が、 人 間 は、 自 己の主 人で あ り、 自 己の 行為
の所有者
である ことに よ り、
自 己の 中に財 産の基 礎 を持っ て い る。自
己の生存
となぐ
さ めのた め に彼
が用い た ものは、
彼 自身
のもの であ り、 他 者の もの で はない 。」こ の主張は 正 に、 近代 資本
主義
の精神的
支柱
であ り、
「人 間 は、
理 性に従っ て生 き、 地上 に は共 通の権威
を もつ こ とは な く、
互い の 間で裁 判 をす
る権
限 を もつ 、 これ が 自然 な 状 態である」と述べ 、 社会
は お 互い の間の契約
によっ て成 立 する とし、
社 会 契 約 論 を主張
し た。 この よう
な考
えは、
スチ ュ アー
ト朝
初代
の王 ジェー
ム ズー
世James
I (
在位1603
− 25)
が唱 えた 「王権
神 授 説 」の よう
な 考 えと は真っ 向 か ら対立 するの は当 然で ある。 人 間が白紙
な ら ば、
人間である国 王 も ま た 白 紙の状 態で生 ま れて くる の であ り、神
が その 意 志で決めた もの では ない か らで ある。 チャー
ルズニ 世Charies
II (
在
位1660
−
85
)
の国庫
は年 間
120
万 ボ ン ドの歳 入 が 必 要 だっ たとさ れ る。1660
年の王政復古
時 に は汲々と してい た国王 も、
十 分 な 関税 収 入とフ ラ ン ス の財政援
助な ど に よっ て、
煩 瑣な議会
を召集す
る必要
が な く、
自己の財 政 を賄 える ようになっ たの であ り、
絶 対 王 政の道 を 進ん だのである。 その よう
な 中で、
自 由に政 治 活 動や経 済 活 動 を行 える よう な理論 的 体系
をロ ッ クは作 り上げ たこ と になる。「
ロ ッ ク は自
然 状態
に おける 人間の権利
を高
らか に歌い 上 げ た が、 その基 盤 にあっ たの は「
神」
である。 ロ ッ ク に お ける自 然 状 態は神の前における個人の 平 等 を基 本 理 念 と して、 社 会にお け る 人 間 同 士の関 係 を理 性に基づ い た関 係と し てい る。 そ一
74 (35)一
こで は
、神
の被
造 物である人 間に対 す る絶 対 的 信 頼 を 前 提 とし てい る.
な ぜ なら、
神 その も のが 疑い を 差し挟 まない 絶対
的善
であ り、
その神の被 造 物た る 人閭も ま た絶 対 的 善だか らで ある。 こ こに、神、 自
然 状 態、 理 性という 繋 が りが 明 確 化 され て、
理 性に基づ く 人 間 関 係 が 神の意 志 を 実 行 するという
理神論
的理念が発生するc,」ロ ッ クの経
験論
と社会
契 約 論は、 絶 対 主 義 王 政 とカ ト リッ ク化
を押し進め るスチュ アー
ト王 室やその支 持 者の トー
リー
党に対 峙 する ホ イッ グ党の理 論 的 支柱
となっ た と さ れ るの である。ニ ュ
ー
ト ンやロ ッ ク に共
通し て言 えるこ と は、 「理 知 」reason の 時 代の到 来 とい うこ とで ある。 先に述べ たように、
モ立協
会の設
立 や、
ニ ュー
トンに よ る機 械 論 的 宇 宙 観、
吏に は、
名誉
吊:命 、
ロ ッ ク の経
験哲
学、
これ らの 根 底にあっ たのは、 「理 知 」である。 ロー
マ・
カ ト リッ ク教 会は、 信 仰に基づ く絶対
的服従
を前提
と し絶 対土政と不 可 分に結 びつ い てい たの に 対 し、
英 国 国 教 会の低 教 会 派は 「理 知 」 を盾
とし、教会
の礼
拝 も「
人々 が理 解で きる言 葉で」
行われるべ きで 、 「物 事につ い ての 我々 の判断
は 理性
に よ る」と 主張 した。 ス チュ ァー
ト朝末期
の 英 国におい て は科 学 的 な イデ オロ ギー
と宗
教 的な イデオ ロ ギー
が 「理 知 」で 結びっ き、 思 想 信 条の 面で近 代 社 会の基 盤 をつ く りあ げた時代
なのである。この よ
う
な思 潮を端 的に表 して い る のが1711
年3
月8
日木 曜日 に出さ れ たThe
Spectator
でアディ ソ ンが述べ て い る言葉
であ る。 い わ く、
‘
it
is
the chief concern of wise−
man ,to
retrench
the
evils oflifb
by
the
reasoning of philosophy ;it
is
the
employment ofFools
, to
multiply
them
by
the
sentiments ofsuperstition.
’
こ の よ うに、哲学
による 理知
に よっ て IEに
「
蒙
を啓 く」
こ とが賢者
の使命
で あることをロ ン ドン市 民に対 して述べ てい るの で あ る。 さ らに、
こ の’
sentiments ’ こそ は大 陸に おい て 花 開い たバ ロ ッ ク美 術の 中 心 的 要 素の一
つ で あっ た こ とを忘れて は な ら ない 。当
時の 英 国 貴 族は、 その精 神 的 基 盤 を、 キリス ト教の教 義につ い ての学 問 的 論 証 を行っ て きたス コ ラ哲
学で は な く、
人 間を完 成 さ れた統.
.
一
一
体と して 捕らえ、
個 々 人が 自 由に行動
し、市
民が個人 と して政 治に参 加 した時 代であるギリシ ア・
ロー
マ の 占 典に求 め た。 ホ イッ グ党の創 始 者第
一
代
シャ フ ツベ リー
を祖父 にもつ 第三代シ ャ フ ッ ベ リー
は、 ロ ッ クを 家 庭 教 師とし、
古 典 を収めた 哲 学 者であ り、名誉革命
以後
の ホイ ッ グ党の思 想 的 代 弁 者で あっ た。 彼 らホイッ グ の 主 張は、 英 国の立 憲 制、
白 由、
プロ テ ス タン ト精神、宗
教 的寛
容で あ り、
彼ら が敵 として見 な したの が、
ロー
マ・
カ トリッ クを 精 神 的 支 柱と し絶 対王政 を敷
い たフ ラン ス の ブル ボ ン朝
で ある。 英 国 人にとっ て 、 ル イ 十四世は専 制 政 治と絶 対 君主 その もの で あっ た。 そ して、
そ こで花開い てい たの が、
扇情
的なバ ロ ッ ク 芸 術で あっ た。1685年
にルイ ト四世が 「ナ ン トの勅 令 」 を 廃 止 し、
宗 教 的 政 治 的 自 由 を 失っ た フ ラ ン ス のプ ロ テ ス タ ン ト、
ユ グ ノー
が大挙
して フ ラ ン ス か ら渡っ て くる とい う 事 件 が 起 こっ た。 こ の事 件に よっ て も、 英 国 民に とっ て、 ルイ.
卜四 世 とは絶 対 主義
王 政 とカ ト リッ ク に よっ て迫 害 を する専 制 君t
とし か映ら な か っ たの で ある。 イン グ ラ ン ド銀 行が120
万 ポ ン ドの資 金 を集めて経 済 活 動の基 盤 を 作 りE
げ た1694年
に、
3
年 議 院 法が制 定 され、 議 会 制 民一
73 〔36》一
建 築
・
庭園・
絵 画か ら見る英国 的 美 意 識の 系譜 主 主 義 が 確立 され る と、
英 国貴族
は国 王や教 会 か ら束 縛 さ れ ることな く 自 由に経済活動
や政 治 を 行 うようになっ た。 この よう
な状 態にあっ て、 彼らの求め た美意識
は、 「
理 性 」 を 重ん じ「
統
一
」
と「
調和
」 を 基 礎 と した ギ リシア・
ロー
マ の古
典主義
的美
を彼
ら の求
め る美 を表
す様式
と し て採
用す
る よう
になっ てい くの で ある。2
.
英 国
的美 意 識
の発 露
一
パ ッ ラー デ
ィオ
主
義
の隆 盛
一
十 八 世 紀の英 国 文 化 あるい は英 国
建築
を考
える にあたっ て は、 与 え た 影 響の大 き さと意味
の重 要 性 か ら考 えて、 誰より も まずイニ ゴー ・
ジョー
ンズlnigo
Jones (
1573 − 1652)
を挙
げ な け ればならない。 イニ ゴー ・
ジ ョー
ンズ は、
1573
年7
月19
日 、 ロ ン ドン の ウエ ス ト・
ス ミ ス フ ィー
ル ドの バー
ソロ ミュー ・
ザ・
レ ス 教 会 (現 在、 ウエ ス ト・
ス ミス フ ィー
ル ドの セ ン ト・
バー
ソ ロ ミュー
病 院
の内部
にあ り、 広 場の南 東にある)、 で洗 礼をう
けた。 父 もイニ ゴー
という名
で、織
物 職 工で あっ た。 イニ ゴー
は セ ン ト・
ポー
ル ズ・
チ ャー
チ ヤー
ド (シ テ ィにあるセ ン ト・
ポー
ル寺 院の周 囲 を 指 す )で指 物 師の 徒弟
に なっ た。 エ リ ザベ ス朝
の指 物 師は様々なデザ インや 工芸 作 品 を扱っ て い た。1594− 5 年
に徒
弟 契 約 が あ け、1597
年 か ら1603年
の 間はイ タ リ アへ行
っ てい た に違い ない よう
である。 フ ロー
レ ンス の メ ディ チ家
の宮
廷にいたとされて い る。 彼は、仮
面劇
のた めの風景
や衣 装 をデザ イン した。 彼はメデ ィチ家 宮 廷の全 般 的な芸術的権
威 となっ たの である。1603
年にはロ ン ドン に戻っ て い て、
picture
−
maker として 記 録さ れ てい る。1605年
か ら は画家
あるい は装 飾 家 を し、1605
年 か ら1611年
まで は、女
王アン(
デ ン マー
ク王 女)
主 催の仮 面 劇で衣 装や舞 台 をデザ インし、女
王の庇護
のもと にあっ た。1613年
か ら14年
に かけ
て、
再 度 イタリア を訪
れ、
パ ッ ラー
デ ィ オAndrea
Palladio
(
1508 −
80
)
、
セ ル リ オSebstiano
Serlio
(1475 − 1554
)、 ス カモ ツ イVincenzo
Scamozz
童(1552− 1616)
らの建 築 を 学ん だの で ある,帰
国後、1615年
か ら1643年
国 王の 建 築 監 督 を 勤め るまで になっ たの で ある。ジ ョ
ー
ンズ が イ タ リア の メデ ィ チ家
で活
躍し,
さ ら に再 度 イタ リ アへ 建 築 を 学び に行っ た とい う事
実は、 イタ リア・
ル ネサ ン ス芸術
が イ ング ラン ド に与
え た影
響とい う側 面 か ら 見 れ ば非常
に重要
な事実
であろう
。 当時
の イタ リ ア は、
美 術 史 か らす ればマ ニ エ リス ム(
1520年
の ラ ファ エ ロ の死 をも
っ て、
盛期
ル ネッサ ン ス の終
わ り と し、
以 後マ ニ エ リス ム様式
の時 代 とい う)か らバ ロ ッ ク (概 ね、
十 六 世 紀 末 から十七世 紀 )へ と移 行 しつ つ あっ た時 期であ る。
盛 期ル ネッサ ン スか らマ ニ エ リス ム を通 し てルネッサ ン ス芸 術の頂 点にあっ たミケ ランジェ ロが ロー
マ で没
し たの が1564年
の こ とで あ り、
ジ ョー
ンズがメ デ ィチ家に仕え た という
こと を考 えるな らば、 彼 が イタリア・
ル ネサ ン ス の成 果 を 十二分に吸 収 し て イン グ ラ ン ド に帰
っ て きた とい っ て も過 言で は ない であろう。ジ ョ
ー
ンズの幾つ かの重 要 な作 品 を た どる と次の ようになる。 彼は、1616年
か ら1635年
ま一
72 (37)一
で グ リニ ッ ジ にあるクイ
ー
ンズ・
ハ ウ ス (現 存 ) を手がけた.1619
年
か ら22年
に は当 時の王 宮ホワ イ ト ホー
ル宮
にある 迎賓館
バ ン ケッ テ ィ ング・
ハ ウス (ウェ ス ト ミン ス ター
に現存
) を建設
し た。1631年
か ら、
第三代ベ ッ ドフォー
ド伯エ ドワー
ド・
ラッ セ ル のエ ステー
ト、
コ ヴェ ン トガー
デ ン の 開 発に関わ る こ と に よっ て、 以後の ロ ンドンにお ける都市
開 発の モ デ ル とも言 う
べ き広場
コ ヴェ ン ト・
ガー
デ ン・
ピ ア ッ ツ ァ を 建 設 した。 (ジョー
ンズ の手
に な る セ ン ト・
ポー
ル教 会は1795
年
に焼 失、
以後
再 建)
ま た、 建 築に は至 ら な かっ た が、
1638
年
に は、
英 国王の 宮 殿にふ さわ しい 壮 大 なホ ワ イ トホー
ル宮
の デ ザ イン を残し た、 こ うして、
ジョー
ンズ は イタ リ ア・
マ ニ エ リス ム建築
の 巨 匠パ ラー
デ ィオの作 風 を 英 国に伝 え 、1715
年 以後 英 国におい て後にパ ッラー
ディオ主 義が隆 盛 を誇
っ たときに、
英 国にお ける古 典主義 建 築の 祖 と見 な される人 物 と なっ たのである。十七世 紀の大 陸は
、
お しなべ てバ ロ ッ ク芸 術 が 席 巻した 時代
である。
世紀
の前半
は古
典主義
に傾倒
し た フ ラン ス で も、1650年
頃 イタ リ ア・
バ ロ ッ クの 侵入を 経験
する, イ タ リアの 彫刻家
ベ ル ニー
二Giovanni
Lorenzo Bernini
(1598 − 1680
)。 フ ラン ドルの 画 家ルー
ベ ン スPeter
Paul
Rubens
(1577〜1640)。
オ ラ ン ダの [由1
家
レン ブラ ン トRembrant
Harmenszoon
Van
Rijn
(
1606〜1669)。
ヴェ ル サ イユ 宮の構 想 を造っ たル・
ヴォー 1.
ouisLe
Vau
(1612
〜
70
) と 王の 意 志 を 忠 実 に実行
し壮 大な建 築
を完
成 さ せ たマ ン サー
ルJules
Hardouin
Mansart
(1646〜1706)。
ヴェ ル サ イユ 宮の大庭 園 設 計 者ル・
ノー
トルAndre Le
Notre
(1613
〜
1700
)。 これ ら は、
い ずれ劣らぬ バ ロ ッ クの巨匠
た ち である。 バロ ッ ク芸 術の特 徴 は な ん と言
っ てもその煽情性
あ るい は劇
的 空 間性
にある。 大陸の バ ロ ッ ク芸 術は、 概 ね 絶 対 主 義 工 政 とロー
マ・
カ ト リッ ク教 会 とに不ロ∫分に結びつ い てい た と さ れ るn 英 国に おい て は、
グ レ シャ ム・
カ レッ ジの 天 文 学 教 授であっ たクリス トフ ァー ・
レンChristopher
Wren
(1632 − 1723
)の設 計になるセ ン ト・
ポー
ル大 聖 堂 (1675
−
1710
)や、
軍人か ら転 身
し建築
家に なっ た ジョ ン・
バ ンブラJohn
Vanbrugh
(1664 −
1726 )設計の ブ レニ ム・
パ レス 〈1705
− 24)
などの例はある に せ よ、1642
年か ら始 まる清 教 徒 革 命や、1688
年の名 誉 革 命の歴 史 的事件
が示す
とお り、
英 国貴族
は絶
対 主義
王政と カ ト リッ ク教会
を敵 視し、
これ と不 可 分に結 びつ い たバ ロ ッ ク芸術
を 英国貴族 自身
の主義
主張
を体
現す
る芸 術様式
にする こと はなかっ た のである。 そ こ に共
通す
るのは、「
理性」
に よ る世 界の理解
である。
芸 術 的にい え ば、 バ ロ ッ ク の煽 情 性や演 劇 性は 「理 性 」によっ て否 定 され、
古 典 的 均 整 と調 和 ことが 「理性 」 を体現 する 「美 」 とな り得るの で ある。1714
年にStuart
朝 最 後の女 王ア ンが 嫡 子の ない ま ま没 す る と、
1701年
のF
.
位相
続 令に基づ き、
ド イツ の ハ ノー
バー
王 ジョー
ジ.
一
・
世George
I
(在 位1714 − 27
)が 王位に就い たc 〔ジ ョー
ジー
世の祖 母はエ リザベ スは、
ジェー
ムズ・
世の 娘で、
フ ァ ル ツ 伯フ リー
ド リッ ヒ に嫁
い だ。)こ の 歴史 転 換 期にあ っ て、 英 国 貴 族は、 立憲 君 主 制 に よる議 会 制 民 主 主 義 とい う政 治 形 態 を 揺る ぎの ない もの に し、
文 化 的 経 済的卞導
者と し て1765年
ワ ッ トの蒸気機
関の 発 明に始まる産業 革命
に突 き進ん でい くこ とになる。 そ し て、 こ一
71 (38)一
建 築
・
庭 園・
絵 画 か ら見る英国的美 意 識の 系 譜 のハ ノー
バー
朝 がは じ まっ た翌年1715年
は、英
国の建 築 が 明確にその 方向性
を出
し、独
自の 道 を 進ん で ゆ く記念
すべ き年
と なるの である。こ こ で、 対フラン ス との関
係
か ら英 国の歴 史 的 経 緯 を 追っ て み るこ と とす
る。1688年
の名
誉 革命
直後、
フ ラ ン ス は亡命
王 ジェー
ム ズ(
チ ャー
ル ズニ世
の弟、
カ トリッ ク信 者。 母 親は ブルボン家 出身
のヘ ン リエ ッ タ・
マ ライアで、 ルイ 十 四 世の叔
母であ
る。)
の 王 位 回復
運動
を援助
し て、宿敵
ウィリ アム三世 治 下の英 国を攪
乱さ せ よう
とした。 ウ ィリ アムは、 オラ ン ダ共 和 国 長官
となっ た72年
か らル イ十四世 と対決
して き たの である。 さ らに、 フラン ス国境
を ラ イン河
まで拡 大 しよう と して フ ァ ル ツ(
現在
の ル クセ ンブル グと、 有 名 なロー
レライが ある ラ イ ン川中
流域の間
の地 方)
侵略
を開始
し、英国
と 同 君 連 合にあるオラ ンダを脅
か し た の である。 ウ ィリ アム三世は、 ド イツ、 スペ イ ン と 同 盟 し、1697
年 まで ウ ィリア ム 王戦争
(
1689 −
97
)を続 行 し、
ルイ 十四世の意
図 を挫
折さ せ たのである。1700
年に スペ イ ン・
ハ プス ブル グ家の国 王カ ル ロ ス五世 が 嫡 子の ない ま ま没
し、
ル イ 十四世は孫の ア ン ジュー
公 を 王位
継 承 者に した。 これ に よっ て、1701年
にスペ イン王 継 承 戦 争 (1701 − 13)
が勃発
し た。
フ ラ ン スは ま た、 ジェー
ム ズ ニ世の 子ジェー
ムズを イ ギリス王位に認め、
その王位
回復
を 支 援 した の で、 英 国女
王ア ン(
1702 −
14
)
は反フ ラン ス側に加わっ て1702年第
二 回対
フラ ン ス戦争
を開
始し た。
こ の戦争
は、
ア メ リカや イン ドにお ける全
面 的 な植
民地戦争
と なっ た。
こ の時モー
ル バ ラ公チ ャー
チルが反フラン ス軍 総 司 令 官とな り、1704年
の南
ド イッの バ イエ ル ンにある ブレニ ム に おい てフラン ス・
バ バ リア連 合 軍を粉砕
し、海
軍は ジ ブ ラル タルを 占領 し、 植 民 地 に おい て もイ ギ リスが 大 勝 したの で ある。1713年
のユ ト レヒ ト和約
に お い て、
アン ジュー
公が フェ リペ 五 世として 王 位に と どまる こ とを 認め た が、英国
は、
ジ ブラルタル、 ミ ノ ル カ島、
ミュー
フ ァ ン ドラン ド、
ノヴァ;
ス コ テ ィ ア、
ハ ドソ ン湾 地 方 を 獲i
得 し、
植 民 地 を拡 大 し た。 国 内で は、 こ の よう な歴史
的 経緯
の中
で、
これ に続 く1721
年 か ら42
年 まで の ウ ォ ル ポー
ル内
閣の長い 国際平和
の時代
に国 情は安 定 し、
工業、
商 業、
貿 易は著 し く発 達 するこ と になっ たの である。 この対仏戦
に よっ て英 国はヨー
ロ ッ パ におい て重 要 な 役 割 を 果たす 国家
とな り、
さ ら に は、帝
国のア イデ ンテ ィティを 強め る結 果 となっ たの で ある。経済
は繁栄
し、社会
の様
々 な レベ ルに お い て消費
が増 大 し、
出 版 文 化 を生み 出し(
1695年検
閲法廃
止)、
コー
ヒー
ハ ウスや劇 場、
ク ラブ とい っ た 営 利 目的の都 市 施 設を発 達さ せ ていっ たのである。さて、 こ の よ
う
な歴史的経緯
の な かで、
十八世 紀前
半にお ける英 国建築史
の上 か ら み る と 興味 深い のは英 国バ ロ ック の終 焉で ある。 対 フ ラ ン ス戦で武勲
を挙
げたモー
ル バ ラ公 爵は、
その戦 功に よっ て、
ジョ ン・
バ ンブ ラの設 計に よ る英 国 最 大のバ ロ ッ ク建 築の邸 宅ブ レニ ム・
パ レ スBlenheim
Palace
(1705− 24、
オッ ク ス フ ォー
ドの北 西約10km
に位 置 する。 フ ラ ン ス 軍に勝 利 した戦 地Blenheim
に ち な ん で名
づ けら れ た。)
を与
えら れ、 女 工つ き庭 師 ヘ ン リー ・
ワイ ズ が240
万 坪におよぶ 壮 大 な 整 形 庭 園 を造 営し たの で ある。 この ブ レニ ム宮
の建
設で英 国バ ロ ッ クは 最 高 潮に達 する。 しか し、 これ をも
っ て英
国バ ロ ッ クは終焉
し、 英一
70 (39)国
貴族
の建 築様
式パ ッ ラー
ディオ 主 義に道 を譲るこ とになるの で あ る。
更に興 味 深い の は、
この 壮 大なバ ロ ッ ク庭
園が、
1764
年 か ら英 国 風 景 庭 園の巨匠
ブ ラウ ンの手
に よっ て英 国 風 景 庭 園に作
り変
えら れ る こ と にな ること である。 ブレニ ム・
パ レスを もっ て、
英 国バ ロ ッ ク建 築は終焉
し、
ブ レニ ム の バ ロ ッ ク庭 園 も後に風 景 庭 園の 巨 匠ブ ラ ウ ンに よっ て英 国 風 景 庭 園 に生 まれ変
わ る という
のは 歴史の綾であろうか。 ち なみ に、
こ のブレニ ム・
パ レス は、第
二 次 世界
大 戦 中に英 国首相
を務
め、
対 独 戦にあたっ て英 国 民 を 率い たサー ・
ウィン ス トン・
チ ャー
チル の生家
である。こ の時 期
、
卜八世紀前半
に は、「
シー
ズ ン1
が定 着 する時 期で も ある.
:
「シー
ズン」 とは、
英 国 議 会の開催期
間を指
し、
不 定 期であっ た 議 会の 開 催 期 間 がこ の時 期、
ほ ぼ十「月
に始 ま り五月に は終 わる という
パ ター
ンが定着
するのである。 つ ま り、
貴 族 は 冬の 間 はロ ン ドンに 集い 、 昼は政 治 活 動に、
夜は様々 な 娯楽
や クラ ブに集 う
とい うパ ター
ン が 生 ま れたの で あ る。 しか も、 イン グ ラ ン ドの最 も過ごし やす
い季節
に各 自
の領 地へ と戻 り、 カン ト リー
ハ ウ スや庭 園を造 営 し、
狐 狩 りなどに興 じたの である。
こ の よう な 中で 、
1715
年は、 英 国 建 築 史にとっ て大 きな意味
を持つ年
になるのである。 こ の年、
コ リン・
キ ャ ン ベ ルColin
Campbell
(1676
−
1729
)が、
「ウ ィ トルウ ィウス・
ブ リ タ ニ クス』
を 出 版 する。彼
は、
その中で古
典主義の本質
を「
物事
の価値
を、真
に 理性の 力に よっ て判定す
る」
こ と にある と し、 建 築の 基 盤は 占 典にあ り、 古 典 第.
一・
級の解 説 者は、
ウ ィトル ウィスVitruvius (
前
一
世紀
)で あっ た と述べ た。 近 世に お い て イタリア の建築家
アン ドレ ア・
パ ッ ラー
ディオAndrea
Palladio
(1508 − 80
)とい う才 能 ある註 解 者に引 き継が れ、 イ ギ リスに おい て イニ ゴー ・
ジ ョー
ンズが この繋
が りを理 解し た と キャ ンベ ルは述べ た。 これ をパ ッ ラー
デ ィオ主義
という
。 こ の パ ッ ラー
デ ィオ 主義に よっ て、 「美 」 と 「理 性 」 を 明 確 に結びつ け た 英 国貴
族の時代精神
が表明
さ れ たこ と に な るの であ るcくしく も
1720年代
は カ ン ト リー
ハ ウス の建築
ブー
ムとなっ た時 期であるu チュー
ダー
朝や スチュ アー
ト朝の建 造 物 を 建て替 えよう と する動 きが、名誉革命
の.
一
世代後
の貴
族た ちの問 で起こっ たの である。 こうい う 貴 族たちにはちょう どい い時 期に 「ウィ ト リウ ィ ウス・
ブ リ タニ カス』 が 出 版 さ れ、 英 国の カ ン トリー
ハ ウ スが 立 派 な 厂建築」
と なりう り
こと を 示 し た の で あっ た。 ホ イッ グの第二 世代は、
ス チュ アー
ト王 朝とロー
マ 教 会、
そ して外 国 産の もの に対し て強い嫌悪感
を持っ てい た。
建 築 的に い え ば、
こ の50
年 間の宮 廷 様 式、 つ ま り、 レ ン の作 風とバ ロ ッ ク様 式 を 嫌 悪 したの で あるu パ ッラー
デ ィオ主 義は、.
一
度 定 式 化さ れ ると、
ホ イッ グ党貴
族の第
二 匿代の美
意 識を体 現 する様 式 となっ たの で ある。 こ の ように して、
1715
年か ら24
年にかけて、
キ ャン ベ ル は、
英国の パ ッ ラー
デ ィオ主義
の 全てが依存
する こ と に な るモデル を作 り上 げ、
パ ッ ラー
デ ィオの概 念 を 英 国の館のプロ トタイプ と して提 示 し た の であっ た。 い わ ば、
この 時 期の 建 築に おい て初めて英 国 的美 意識 を明確に体現 し た 建築 物 が 建て られるこ と になっ たの である。 69(4〔〕1建 築
・
庭 園・
絵 画か ら見る 英 国 的美意 識の系譜3
.
英 国 風 景 庭 園
の成 立
英 国に おける
建築
的 美 意 識の発 露にあい まっ て、真
に英
国のオ リ ジナルな 美 が 完 成 さ れ る。 これ が 英 国 風景
庭 園で あ る。 し か し、 風 景 庭 園の 成 立はも ちろ ん審美
的な概念
ば か りが 先 行 してい た わ けで は ない。
王 政復古
以後
は、敷
地内
に並木
道 を通す
こ と が 非 常に は や っ た。 また、 敷 地 内に盛ん に植 樹が な さ れ る よう
になっ た。 これ は、 個 人の財 産が保
全さ れ る ことに よ る政 治 体 制に対 す る 信 頼 と、
貿 易の利
益 を守
る海
軍に木
材 を提供す
るという
二 つ の意味
があっ たの で あ る。 並 木の流 行 は1720
年頃
まで続
く。 小 郷 士は自宅の 正 面の フ ァ サー
ド か ら一
本の並木
を通 すよう
にな り、
大 地 主 は 巨 大 な網 目状の並木
の 中 心に居 を構 えたの であ る。 これはこれで一
つ の美
意 識を表
現 して い る と見て取
ることが できよう。 そ れ ぞ れの並 木 道は、 囲い 込 まれた土 地 に対 する完 全 なる所 有 権 を誇 示 してお り、
並木
の複雑
な 網 目は大 邸宅
の 近 隣の 土 地の独 占 を 主 張し てい るの で ある。 中 心 軸となる並木
道は、
小ぶ りの邸 宅や庭 園の 中 心 線となっ たの である。一
方
広い網
目状の並 木は、 周 囲の景 色に対 する力
と支
配を表 現し てい た こ と になる。 し か し、
1700
年ごろ大地主 と地 方の郷士 の問に重 要 な 区 分が出 現す
る。 大 地 主 は 国 政に直接
関与
し、
従っ て、 エ ステー
トの直接
的 経 営に は関 与 しな かっ た。1720
年 頃 まで には 大 地 主は農業
生産
をする建 物や場 所 を 敷 地か ら遠く離
し てい て、 これ 見よが し の贅
沢 な風 景の 中に住ん でい た。 小 郷士 階級
は農 業や内国
生 産に直接
的に参 加 してい っ たの である。 従っ て彼 らの家は、
装飾
的庭
園と明 確に は分 け られて はい なかっ たのである。 小 郷 士 階 級の敷
地 は相 変わ らず 装 飾 的 庭 園 と 生 産 基 盤となる果 樹 園や池 な どが混在
し たの で あ る。 これ は、
見方
に よっ ては 「自
然 な」様式
の プロ ト タイプ とも見 なさ れ る が、
む し ろ こ れ は装 飾である より
は経
済 性 や 有 効 性 とい っ たよ り現実的
な対 応だ っ たの で ある。この よう な地 方の エ ス テ
ー
トで の変
化の中で、
1709年
に かの ホイッ グ 貴 族 第三代
シャ フ ッベ リ
ー
伯ア ン トニー ・
ア シュ レ イ・
クー
パー
Antheny
Ashley
Cooper
(
1671− 1713
)は次の よ
う
に 述べ て い る。 「私の内 部に育っ てい る自
然の物に対 する情 熱 を もはや抑
える こ とは でき ない 。 そこ では、
人間の芸 術や うぬ ぼ れ や気
まぐれ が、 自然の 原 初の 状態
に進
入する こ とで、 その真の秩序
を だめ に して い るに過 ぎ ない 。 荒々 しい岩、
苔む した洞 穴、
イレギュ ラー
なグロ ッ ト、
滝の しぶ き、
こ れ ら はみな 荒々 しさという魅力
を もっ て 自然 をよ り表
現しなが ら、
より人 を 引 き付 け、 取 り澄ま し た庭 園の フォー
マ ルな まがい 物をこ えて偉 大 さ を もっ て 現 れるの である。」
クー
パー
の 言 葉 は 神 と 自然 状態
と 理性 を 結びつ け た ホ イッ グの審
美観
を 明確
に表してい る。 ク ラー
クの 言う
と お り、 ル・
ノー
トルの 庭 園(
ヴェ ル サ イユ )は独 裁 政 治と自
然に対 する人 間の絶 対 的 支 配 を象徴
する ようになっ たのであ り、 英国風景庭
園のイレ ギュ ラー
性 は 立 憲 君 主 政治
と、 自
然 と人 間の同 調 を象
徴 するの で ある。 さ らに、
パ ッ ラー
デ ィオ主義建築
と風 景 庭 園の 関係
を明 確に し、 その美 意 識 を確
認す
る と、
ヘ ンリー ・
ウー
ト一
68 (41)一
ンが 述べ てい る ように
、
それ ら は建築
と その周 りの 「対 照 性の状 態 」に ある。 建 造物
は レ ギュラ
ー
であ り、
庭 園は イレギュ ラー
であるべ きである。 これ が、古
典主義
的権
威が実 行 さ れるときの美となるの で あ る。
こ の英 国 独 白の 風 景 庭 園の 成 立の過 程で重 要 な
意味
を もつ のが、
ホイッ グ貴族バー
リン トン伯リ チ ャ
ー
ド・
ボ イルRichard
Boyle
(169
.
4 −
1753
)と ウ ィリア ム・
ケン トWilliam
Kent
(
1685
−
1748
)の 出 会い で ある と さ れ る。 バー
リン トン伯は、 自らパ ッ ラー
デ ィオ主義
に 則っ た館チ ジッ ク・
ハ ウス(
1725
開始 ) を建 築 し、
ケン トは英 国庭 園史
上 に その名 を残 すラ ウ シャ ムRousham
を造 園し た か ら である。 バー
リン トン伯は、 当 時の英
国貴
族の 習い に則 り1714
か ら15年
にか けてイ タ リアヘ グラン ド・
ツ アー
に 出 か け て行っ た。 さ らに、1719
年 再 びイタリアへ赴
い た。今
回 はパ ッ ラー
デ ィオ を 学び彼につ いての有
用な 情 報を集
めるた めで あっ た。彼
は、
パ ッ ラー
ディオ 主議の実 践 者で あ り、
ホ イッ グ的 美 意 識 を }導 して いた 人物
で ある。 ウィリア ム・
ケ ン トとは最 初に イ タ リア へ 行っ た 時に合っ てい た。 バー
リン トン伯 は、
バー
リン トン・
ハ ウ ス の装 飾 画を描か せ るため に、
1719
年の末にケ ン ト を 英国に連れ帰 り、
以後
二 人の関 係は48年
にケン トが 死ぬ まで続 くの で あ る。
も う
一
一
入 風 景 庭 園の創
世記
に重 要 な 役 割 を 果た し たの が、詩
人 ア レグ ザ ン ダー ・
ポー
プAlexander
Pope
(1688
−
1744
)である。 彼は、
ウェ ス ト ミン ス ター
か ら西へ 約13km
にある テム ズ河 畔 ト イッ ク ナムTwickenham
に居を構
え、
独 自の 庭 園 観に よっ て風 景庭
園の祖 と も言 うべ き庭 園 を 作 り上 げたの で ある。彼
の 頭にあっ たの は、 「心 地のよい 複 雑さ 」 と 「人 工的 野趣」
である。 彼は1720年
に テ ム ズ河
畔の この 地に、
庭 園の レ イア ウ トを 始めたの で あ る。
ケ ン トの提 唱 した風 景の よう
に庭 を 「描 く」 とい う考 えは明ら か に ポー
プの影響
である と さ れてい るの で ある。
英 国 風 景 庭 園の 成立を
考
える ヒで重 要 な 点は、
ケン トが画 家で あっ た ように、
古 典 主義
絵 画の理想 的 風景
画が与 え た 影 響である。 理 想 的 風 景 画 という
の は、 十九世 紀の 英 国風 景 画の よう な「
あ る が ま まの 自然 」を描い たもの で はない 。 自然 を 基礎と し て はい る が現 実の 自然 にまさ る理 想の風 崇で ある とい う点
で 理想 的 な風 景 画 なの である。 こ こに描か れる風 景は、
入 念に選 択 さ れ、 精神
に よっ て形 成 され、
絵 画の規 則に則っ た、
風 景 とい う 「構 成 」 なの で ある。 英 国 貴 族 が 理 性 を己の精神
的 支 柱 とし均 整と調和
の中に美 を 見 出 し パ ッ ラー
ディ オ主 義を彼らの建築様
式 とし た ときに、 絵 画に おい て調 和 と均 整の美 を 表 現 して い る と み な さ れ 人気を博
した の が 、 イタ リ ア で制 作 活 動 を した、
フ ランス古
典主 義 風 景 画 家ニ コ ラ・
ブ ッ サン
Nicoras
Pusan
(
1594 −
1665
) と クロー
ド・
ロ ラ ンClaude
Lorrain
(1600〜82
) だっ た。
視
覚
の フ レー
ム となる前 景の樹木、沈
み行 く夕日か ら発せ ら れ た金 色の光、
これを 反 射 する 穏や か な水
面、
躍 動 する羊や鹿の 群 れの前 景。 こ れ ら は み な クロー
ド・
ロラ ンやニ コ ラ・
プ ッサ ン らの イ タ リ ア風 景 画の巨 匠た ち か ら影
響 を 受 けた風 景 画 家のキャ ン バ ス に繰 り返 し 現れ るモチー
フ となるのであ
る。 そ して、 こ の モチー
フは、
ス タ ウ アヘ ッ ドStourhead
(ハ 67(42)建築