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建築・庭園・絵画から見る英国的美意識の系譜 ー十八世紀を中心にー

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(1)

建 築

庭 園

絵 画

か ら

英 国

的美意 識

系 譜

世紀

斎  藤   信   平

要 旨  本 研 究ノ

トは

十八世 紀の英 国に おける独自の意 識立 とその変 遷 を研 究 するため に

大 まかにその流れ を辿っ たもの である

十八世 紀の英 国 は

その歴 史

E

初めて独 自の文 化 形 態を作 り

h

次に その文 化 を出 し た時 期で ある こ とは間違い ない 。 こ の英 国独 自の 文化と は どの よ う な ものであ り

また どの よう な経 緯で形 成 され

大 陸に影 響を与え る ま で に なっ たのか

文 化の受容 から発 信へ い かに変 化 してい っ たのか。 こ の ような テ

マ の も と にこ の ノ

トは作 成され た。

1

. 王

政 復 古 (

1660

思潮

 

英 国の美 意 識の

系譜

えると きに

、特

に十 七 世

紀後

期の英 国にお ける思 潮の流 れ を 明 確 に 理

し な け れば

十八世

の英 国 文 化 が 体 現 し た 美 意 識 を 理 解 す るこ と はで き まい 、 ま ず

ロ ッパ に お け る十七世

大 ま かに言っ て、

然 科 学が組 織 的にその

み を始め

学 問体系

立 し

「近 代 」 が 始 ま る 時 期であ るということがで きよう。 この 時 期の

が持つ

実 験や観 察の

入で あ り、

実 験 を

遂行

で きる

設備

条件

を 整 えた

場所

と しての実 験 室の設 置 」 が な さ れる こ と である。

1610年 1

7

日に ガ リ レ イ が

自作

の 天

望 遠 鏡で木 星の惑 星 を発 見し た こ と は

、無

限の

に たい

粋 な

仰 心 らか ら無 限 な る宇 宙の姿の 必 然 性 を導 き 出 した、 十六世 紀 的 な 学 問 的

姿 勢

代表す

る ジ ョ ル ダ

ブ ル

Giordano

 

Bruno

1548 − 1600)

念 的 な思

に よ る もの は な く 実 際の 観 測 からの結 果であ り

、当

時の プ トレマ イ オス

ア リス トテ レ ス の 天

動説

を 元に し た宇 宙 観 を

根底

か ら

覆す

重 大な

発見

であっ た。 ガ リレイはま た、 月に映る影の形 状 か ら、 地 球 が 球 体 で あることを 証 明 したの である。 ロ

カ ト リッ ク教 会 側の宗 教 改 革の 急 先 鋒イエ ズス

の ロ

マ 学 院の学 者 達 も、

っ た 望遠で 天空を

測 し

、1611年

界の

報告」

を 出版 し

ガ リレオの発 見 を 追確 認 してい るの で ある。 しか し、

1632

年にガ リレ イ が

世 界 体 系

をロ

マ で 出 版 する と同

に カ ト リッ ク

会に よっ て全て焼か れて い ま い、 罰金 を

わ さ れ

つ い に は

1633年

ガ リレイ は

教 裁 判で地 動 説 を放 棄 する に至るの で あ る

こう した 中で

近 代 的 設 備 を持っ た天 文 台が

コ ペ ンハ

ゲ ン

1637)、

パ リ (

1672)、

 76 33 

(2)

グ リニ ッ ジ (

1676

ベ ル リ ン (1700 )に設 置 さ れ

ま た 科 学ア カ デ ミ

が フ ィレ ン ッ ェ (

1657

)、 ロ ン ドン (

1662

パ リ (

1666

ベ ル リン (

1700

)に設 立さ れ る にい た るの で あ る

つ ま りこ の 十七世 紀は

近 代の

然 科 学 が 方 法 論と組 織 的 体 系 を確 立 した 時 代 なの で ある

 ヨ

ロ ッ パ にお ける こ う し た 自然 科 学に対 する関 心の高 ま りが

当 時 約

40

万 人の 人凵を擁 して い たロ ン ドン で は

新 しい 学 問と して の 「実 験 哲 学 」に関心 を持つ 人々 の 私 的 な集 会 を 形 成

るまで に なっ てい た。

1645年

ロ ン ドンでは

週 例

が もた れてお り、 また

オッ ク ス フ ォ

ドで も

48年

ご ろ か ら

F

オッ クス フ ォ

ド哲 学 協

会」

が例

を もち、 両 者の間に緊 密 な 連 絡がと られ

つ い に は

シテ ィ

の グ レシャ ム

カ レッ ジ (エ リ ザベ ス

世の財政 や貿 易 事 業 を 扱っ たト

マ ス

グ レ シャ ム (

1519 − 79

)の

志で

て ら れ た

。1666年

の ロ ン ドン大火 には 類 焼 を まのが れ た

現 在の シ ティ

NatWest

 

Tower

に おい て 開か れたロ ン ドンの 例 会に統 合さ れ るこ と となっ たの である

。1660年

に は内 規が

成さ れ

協 会の正 規 会 員の

55

名 を決 定 した。

1662

7H15

日 には協 会 設 立の 国 王 特 許 状が与 え られ

ブ ラウ ン カ

卿 を初 代 会 長として王 立協 会が公に活 動 を 開 始 する こ と になっ たの である

  十

ヒ世 紀 初 頭の 大 陸におい て は、 依 然 と してキ リス ト教の 教 義 を 理 性 的に弁 証 し よ う とす るス コ ラ哲 学が大 学の学 問 を 支 配して い た。 スコ ラ哲 学の圧 倒 的 な 支 配のもとにあっ た大 学 の で、 観 察 や 実 験とい っ た経 験 を 重ん じつ つ 自 然の 法 則 的 数 量 的 な解 明 をす る研 究 者の中 心 的

存在

が デ カル ト

Rene

 

Descartes

1596 − 1650

)であっ た。 デ カル トは、 しか し

引 力 を空 間に お け る物 体が持つ と して は説 明で き なか っ た。 彼は、 地 球に物 体 が 落 ちて くるのは、 地

の回

に よ る遠 心

側 に 圧

をかける た め

その 圧

に よっ て

中 空にある支 えの ない もの は地 球に押 さ れる と考 え たの である。 イング ラン ドに おい て

デ カル トの 自 然 哲 学 を

さらに発 展さ せ たのが

ニ ュ

トン

Sir

 

Isaac

 

Newton

1642

1727

あ り

1666

に は

積 分 法の原 理 を確 立 し

、1686

年 か ら

87

年にか けて 臣白 然 哲 学の数 学 的 諸 原 理 』の 原 稿 を 王 立 協 会に提 出 し、 天 体の運 行 を 万 有 引 力の 法 則に よっ て数 量 的に説 明 した 宇 宙 観 を 発 表し た。 こ こ に

は じめて

宇 宙 空 間に浮かぶ天 体 とい う宇 宙の概 念が明 確に され たこ とになる の で ある。 ちなみ に

ニ ュ

トン に

諸 原理」を出 版 する よ

その 全

用を

負担

し たの は、 ハ レ

彗 星周 期 を

76

算 出し た モ ン

ー Edmund

 

Halley

1656 − 1742

である

 こうした11r 、 政 治 理 念の面に おい て も英 国が 「近 代 」の 幕 開 けの場 と なるのである、

1688

前工 チ ャ

ル ズニ :の弟で ユ

685

年に即 位 し た

カ ト リッ ク信 者の ジェ

ム ズニ 世

James

II

(在 位

1885

 

 

88

世 継 ぎが でき たこ と な どに端 を 発して

英 国が カ ト リッ ク化さ れ る こ とに なる の で は とい う不 安 から名 誉 革 命 が 起こ る。 反王党 派の ホ イッグ 貴 族らの請 願に よっ て ジェ

ム ズニ

の娘

婿

オ ラニ エ 公ウィ リア ム

William

 

II

在位1689− 1702、

ウィ リア ム の 母メ アリは

チ ャ

ル ズ

世 0)娘

従っ て

ジェ

ムズニ世とは従 兄 弟関係で ある)が イン グ ラン ドの西の デヴォ ンに ヒ陸 し、 ジェ

ムズニ世は戦わず して フ ラ ン ス に逃 げ 出してしま

75t34

(3)

建 築

庭園

絵 画か ら見る英 国的 美 意 識の系譜

う。

ジェ

ムズニ世は

セ ン ト

ジェ

ムズ

に て オ ラ ンダ兵に捕 ら え られ、 ロ チ ェ ス タ

まで護 送 さ れ、 そこか らフ ラ ン ス へ

けて出 国したの である。 ジェ

ム ズニ 世の

然の 出 国 は

英 国の国

に重

な問 題 をひ き起こした。 王 党 派の貴 族は も ちろ んのこ と

ホ イ ッ グ貴 族の大 半 も国 室の断

共和

えてはい な かっ たの で ある

そ もそ も

か ら与 え ら れ た 王

放棄

な ど な さ れ る はず が な かっ た。 そこ で 、 ウ ィリアム と メ ア リ

信教

自 由 を

保証

、 「

権利

に署

して

共 同 統 治 を 行 うこ と になる の である

した がっ て

「名

誉」革命

とは

の歴

家の フ ィ ク ショ ンであ る。 こ の名 誉 革

の 理

となっ たの が ジョ ン

ロ ッ ク であると さ れてい の で ある。

 

ジョ ン

ロ ック

John

 

Locke

1632

1704

は近 代の認 識 論の

あ り経

験 論の

代表

者で ある。 『人 間悟 性 論 』 (

1690

)で、 ロ ッ ク は こ

張す

る。

心は

言っ て みれ ば 文 字 を まっ た く欠い た 白 紙で、 観 念は少しもない と

想 定

し よ

う。

これ が

人 間 を 何 も書い て い ない

紙にた と え たいわ ゆ る 「タ ブ ラ

ラ サ

tabula

 rasa

どこか ら心 は 理 知 的 推 理 と知 識の全て の材 料 をわ が ものに

る か

これ に

し て私 は

、・

語 で経 験 か らと答 える。 この

験に私 達の

切の知 識は根 底を

こ の

経験

か ら

の知 識 は 究 極 的に由 来 する。

こ こ に、 人 間は 生来の

観念

験に よっ て

々な観 念 を経 験に よっ て形

する と し

人 間は生 来 自 由 な

存在

であ り

その上 で

社会

束の 上に成 り立っ てい る とい

をしたの である, ロ ック はこ

主 張 する。 「自 然の状 態で存 在 する もの は、 誰の もの で もない 。 し か し、

そ れ に

労働

労 働

と な

。」

「自然共 通

えら れ てい る が、 人 間 は、 自 己の主 人で あ り、 自 己の 行

所有者

である ことに よ り

自 己の 中に財 産の基 礎 を持っ て い る。

己の生

とな

さ めのた め に

が用い た ものは

彼 自

のもの であ り、 他 者の もの で はない 。」こ の主張は 正 に、 近

代 資本

精神的

であ り

「人 間 は

理 性に従っ て生 き、 地上 に は共 通の

権威

を もつ こ とは な く

互い の 間で裁 判 を

限 を もつ 、 これ が 自然 な 状 態である」と述べ 、 社

は お 互い の間の

契約

によっ て成 立 する とし

社 会 契 約 論 を主

し た。 この よ

えは

スチ ュ ア

王 ジ

James

 

I (

在位1603

− 25)

唱 え 「王

神 授 説 」

な 考 えと は真っ 向 か ら対立 するの は当 然で ある。 人 間が

白紙

な ら ば

人間である国 王 も ま た 白 紙の状 態で生 ま れて くる の であ り

、神

が その 意 志で決めた もの では ない か らで ある。 チャ

ルズニ 世

Charies

 

II (

位1660

85

国庫

年 間

120

万 ボ ン ドの歳 入 が 必 要 だっ たとさ れ る。

1660

年の王政

復古

時 に は汲々と してい た国王 も

十 分 な 関税 収 入とフ ラ ン ス の財政

助な ど に よっ て

煩 瑣な議

を召

集す

る必

が な く

自己の財 政 を賄 える ようになっ たの であ り

絶 対 王 政の道 を 進ん だのである。 その よ

な 中で

自 由に政 治 活 動や経 済 活 動 を行 える よう な理論 的 体

をロ ッ クは作 り上げ たこ と になる。

ロ ッ ク は

然 状

に おける 人間の

権利

らか に歌い 上 げ た が、 その基 盤 にあっ たの は

神」

である。 ロ ッ ク に お ける自 然 状 態は神の前における個人の 平 等 を基 本 理 念 と して、 社 会にお け る 人 間 同 士の関 係 を理 性に基づ い た関 係と し てい る。 そ

 74 35) 

(4)

こで は

、神

造 物である人 間に対 す る絶 対 的 信 頼 を 前 提 とし てい る

な ぜ なら

神 その も のが 疑い を 差し挟 まない

であ り

その神の被 造 物た る 人閭も ま た絶 対 的 善だか らで ある。 こ こに

、神、 自

然 状 態、 理 性という 繋 が りが 明 確 化 され て

理 性に基づ く 人 間 関 係 が 神の意 志 を 実 行 するとい

神論

的理念が発生するc,」ロ ッ クの

社会

契 約 論は、 絶 対 主 義 王 政 とカ ト リッ ク

を押し進め るスチュ ア

ト王 室やその支 持 者の ト

党に対 峙 する ホ イッ グ党の理 論 的 支

となっ た と さ れ るの である。

 

ニ ュ

ト ンやロ ッ ク に

通し て言 えるこ と は、 「理 知 」reason の 時 代の到 来 とい うこ とで ある。 先に述べ たように

モ立

会の

立 や

ニ ュ

トンに よ る機 械 論 的 宇 宙 観

吏に は

名誉

吊:

命 、

ロ ッ ク の

これ らの 根 底にあっ たのは、 「理 知 」である。 ロ

カ ト リッ ク教 会は、 信 仰に基づ く絶

服従

前提

と し絶 対土政と不 可 分に結 びつ い てい たの に 対 し

英 国 国 教 会の低 教 会 派は 「理 知 」 を

とし

、教会

拝 も

人々 が理 解で きる言 葉で

行われるべ で 、 「物 事につ い ての 我々 の判

は 理

に よ る」と 主張 した。 ス チュ ァ

ト朝

末期

の 英 国におい て は科 学 的 な イデ オロ ギ

教 的な イデオ ロ ギ

が 「理 知 」で 結びっ き、 思 想 信 条の 面で近 代 社 会の基 盤 をつ く りあ げた

時代

なのである。

 

この よ

な思 潮を端 的に表 して い る のが

1711

3

8

日木 曜日 に出さ れ た

The

 

Spectator

でアディ ソ ンが述べ て い る言

であ る。 い わ く

it

 

is

 the chief  concern  of wise

man  

to

retrench  

the

 evils of 

lifb

 

by

 

the

 reasoning  of philosophy

it

 

is

 

the

 employment  of 

Fools

, to

multiply  

them

 

by

 

the

 sentiments  ofsuperstition

こ の よ うに

、哲学

による 理

に よっ て IE

を啓 く

こ とが

賢者

の使

で あることをロ ン ドン市 民に対 して述べ い るの で あ る。 さ らに

こ の

sentiments ’ こそ は大 陸に おい て 花 開い たバ ロ ッ ク美 術の 中 心 的 要 素の

つ で あっ た こ とを忘れて は な ら ない 。

時の 英 国 貴 族は、 その精 神 的 基 盤 を、 キリス ト教の教 義につ い ての学 問 的 論 証 を行っ て きたス コ ラ

学で は な く

人 間を完 成 さ れた統

体と して 捕らえ

個 々 が 自 由に

行動

、市

民が個人 と して政 治に参 加 した時 代であるギリシ ア

マ の 占 典に求 め た。 ホ イッ グ党の創 始 者

シャ フ ツベ リ

を祖父 にもつ 第三代シ ャ フ ッ ベ リ

は、 ロ ッ クを 家 庭 教 師とし

古 典 を収めた 哲 学 者であ り

、名誉革命

の ホイ ッ グ党の思 想 的 代 弁 者で あっ た。 彼 らホイッ グ の 主 張は、 英 国の立 憲 制

白 由

プロ テ ス タン ト

精神、宗

教 的

容で あ り

彼ら が敵 として見 な したの

カ トリッ クを 精 神 的 支 柱と し絶 対王政 を

い たフ ラン ス の ブル ボ ン

で ある。 英 国 人にとっ て 、 ル イ 十四世は専 制 政 治と絶 対 君主 その もの で あっ た。 そ して

そ こで花開い てい たの が

的なバ ロ ッ ク 芸 術で あっ た

。1685年

にルイ ト四世が 「ナ ン トの勅 令 」 を 廃 止 し

宗 教 的 政 治 的 自 由 を 失っ た フ ラ ン ス のプ ロ テ ス タ ン ト

ユ グ ノ

が大

して フ ラ ン ス か ら渡っ て くる とい う 事 件 が 起 こっ た。 こ の事 件に よっ て も、 英 国 民に とっ て、 ルイ

卜四 世 とは絶 対 主

王 政 とカ ト リッ ク に よっ て迫 害 を する専 制 君

t

とし か映ら な か っ たの で ある。 イン グ ラ ン ド銀 行が

120

万 ポ ン ドの資 金 を集めて経 済 活 動の基 盤 を 作 り

E

げ た

1694年

3

年 議 院 法が制 定 され、 議 会 制 民

 73 〔36》 

(5)

建 築

庭園

絵 画か ら見る英国 的 美 意 識の 系譜 主 主 義 が 確立 され る と

英 国

貴族

は国 王や教 会 か ら束 縛 さ れ ることな く 自 由に経

済活動

や政 治 を 行 うようになっ た。 この よ

な状 態にあっ て、 彼らの求め た

美意識

、 「

理 性 」 を 重ん じ

調和

」 を 基 礎 と した ギ リシア

マ の

典主

ら の

め る美 を

様式

と し て

る よ

になっ てい くの で ある。

2

英 国

的美 意 識

発 露

 

パ ッ ラ

ー デ

隆 盛

 

十 八 世 紀の英 国 文 化 あるい は英 国

建築

える にあたっ て は、 与 え た 影 響の大 き さと意

の重 要 性 か ら考 えて、 誰より も まずイニ ゴ

ー ・

ジョ

lnigo

 

Jones (

1573 − 1652)

げ な け ればならない。 イニ ゴ

ー ・

ジ ョ

ズ は

1573

7

19

、 ロ ン ドン の ウエ ス ト

ス ミ ス フ ィ

ル ドの バ

ソロ ミュ

ー ・

レ ス 教 会 (現 在、 ウエ ス ト

ス ミス フ ィ

の セ ン ト

ロ ミュ

病 院

の内

にあ り、 広 場の南 東にある)、 で洗 礼を

けた。 父 もイニ ゴ

とい

う名

、織

物 職 工で あっ た。 イニ ゴ

は セ ン ト

チ ヤ

ド ( テ ィにあるセ ン ト

ル寺 院の周 囲 を 指 す )で指 物 師の

に なっ た。 エ リ ザベ ス

の指 物 師は様々なデザ インや 工芸 作 品 を扱っ て い た。

1594− 5 年

弟 契 約 が あ け、

1597

年 か ら

1603年

の 間はイ タ リ アへ

っ てい た に違い ない よ

である。 フ ロ

レ ンス の メ ディ チ

廷にいたとされて い る。 彼は、

のた めの

風景

や衣 装 をデザ イン した。 彼はメデ ィチ家 宮 廷の全 般 的な芸

術的権

威 となっ たの である。

1603

年にはロ ン ドン に戻っ て い て

picture

maker として 記 録さ れ てい る。

1605年

か ら は画

あるい は装 飾 家 を し、

1605

年 か ら

1611年

まで は

、女

王アン

デ ン マ

ク王 女

主 催の仮 面 劇で衣 装や舞 台 をデザ インし

、女

王の

庇護

のもと にあっ た。

1613年

か ら

14年

に か

再 度 イタリア を

パ ッ ラ

デ ィ オ

Andrea

Palladio

1508 −

80

セ ル リ オ

Sebstiano

 

Serlio

1475 − 1554

ス カモ ツ イ

Vincenzo

Scamozz

童(

1552− 1616)

らの建 築 を 学ん だの で ある,

後、1615年

か ら

1643年

国 王の 建 築 監 督 を 勤め るまで になっ たの で ある。

 

ジ ョ

ンズ が イ タ リア の メデ ィ チ

躍し

さ ら に再 度 イタ リ アへ 建 築 を 学び に行っ た とい

は、 イタ リア

ル ネサ ン ス

芸術

が イ ング ラン ド に

え た

響とい う側 面 か ら 見 れ ば

非常

に重

事実

であろ

。 当

の イタ リ ア は

美 術 史 か らす ればマ ニ エ リス ム

1520年

の ラ ファ エ ロ の死 を

っ て

ル ネッサ ン ス の

わ り と し

以 後マ ニ エ リス ム

様式

の時 代 とい う)か らバ ロ ッ ク (概 ね

十 六 世 紀 末 から十七世 紀 )へ と移 行 しつ つ あっ た時 期であ る

盛 期ル ネッサ ン スか らマ ニ エ リス ム を通 し てルネッサ ン ス芸 術の頂 点にあっ たミケ ランジェ ロが ロ

マ で

し たの が

1564年

の こ とで あ り

ジ ョ

ンズがメ デ ィチ家に仕え た とい

こと を考 えるな らば、 彼 が イタリア

ル ネサ ン ス の成 果 を 十二分に吸 収 し て イン グ ラ ン ド に

っ て きた とい っ て も過 言で は ない であろう。

 

ジ ョ

ンズの幾つ の重 要 な作 品 を た どる と次の ようになる。 彼は、

1616年

か ら

1635年

 72 (37) 

(6)

で グ リニ ジ に

ハ ウ ス (現 存 ) を手がけた.

1619

か ら

22年

に は当 時の王 宮ホワ イ ト ホ

にある 迎

賓館

バ ン ッ テ ィ ング

ス (ウェ ス ト ミン ス タ

に現

) を建

し た。

1631年

か ら

第三代ベ ッ ドフォ

ド伯エ ドワ

ラッ セ ル のエ ステ

コ ヴェ ン トガ

デ ン の 開 発に関わ る こ と に よっ て、 以後の ロ ンドンにお ける都

開 発の モ デ ル とも

言 う

き広

コ ヴェ ン ト

デ ン

ピ ア ッ ツ ァ を 建 設 した。 (ジョ

ンズ の

に な る セ ン ト

ル教 会は

1795

に焼 失

再 建

ま た、 建 築に は至 ら な かっ た が

1638

に は

英 国王の 宮 殿にふ さわ しい 壮 大 なホ ワ イ トホ

の デ ザ イン を残し た、 こ うして

ジョ

ンズ は イタ リ ア

マ ニ エ ス ム建

の 巨 匠パ

デ ィ作 風 を 英 国伝 え

1715

年 以後 英 国におい て後にパ ッラ

ディオ主 義が隆 盛 を

っ たときに

英 国にお ける古 典主義 建 築の と見 な される人 物 と なっ たのである。

 

十七世 紀の大 陸は

お しなべ てバ ロ ッ ク芸 術 が 席 巻した 時

である

前半

典主

に傾

し た フ ラン ス で も

、1650年

頃 イタ リ ア

バ ロ ッ クの 入を 経

する, イ タ リアの 彫

刻家

ベ ル ニ

Giovanni

 

Lorenzo  Bernini

1598 − 1680

フ ラン ドルの 画 家

ベ ン ス

Peter

 

Paul

 

Rubens

1577〜1640)。

オ ラ ン ダの [由

1

レン ブラ ン ト

Rembrant

 

Harmenszoon

Van

 

Rijn

1606〜1669)。

ヴェ ル サ イユ の構 想 を造っ たル

ヴォ

ー 1.

ouis 

Le

 

Vau

1612

70

) と 王の 意 志 を 忠 実 に実

し壮 大な

建 築

成 さ せ たマ ン サ

Jules

 

Hardouin

Mansart

1646〜1706)。

ヴェ ル サ イユ の大庭 園 設 計 者ル

トル

Andre  Le  

Notre

1613

1700

)。 これ ら は

い ずれ劣らぬ バ ロ ッ クの

巨匠

た ち である。 バロ ッ ク芸 術の特 徴 は な ん と

っ てもその

煽情性

あ るい は

的 空 間

にある。 大陸の バ ロ ッ ク芸 術は、 概 ね 絶 対 主 義 工 政 とロ

カ ト リッ ク教 会 とに不ロつ い てい た と さ れ るn 英 国に おい て は

グ レ シャ ム

カ レッ ジの 天 文 学 教 授であっ たクリス トフ ァ

ー ・

レン

Christopher

 

Wren

1632 − 1723

)の設 計になるセ ン ト

ル大 聖 堂 (

1675

1710

)や

軍人か ら

転 身

し建

家に なっ た ジョ ン

バ ンブラ

John

 

Vanbrugh

1664 −

1726 )設計の ブ レニ ム

パ レス 〈

1705

− 24)

などのはある に せ よ、

1642

年か ら始 まる清 教 徒 革 命や、

1688

年の名 誉 革 命の歴 史 的

事件

が示

とお り

英 国

貴族

対 主

王政と カ ト リッ ク教

を敵 視し

これ と不 可 分に結 びつ い たバ ロ ッ ク芸

を 英

国貴族 自身

の主

る芸 術

様式

にする こと はなかっ た のである。 そ こ に

るのは

、「

性」

に よ る世 界の理

である

芸 術 的にい え ば、 バ ロ ッ ク の煽 情 性や演 劇 性は 「理 性 」によっ て否 定 され

古 典 的 均 整 と調 和 ことが 「理性 」 を体現 する 「美 」 とな り得るの で ある。

1714

年に

Stuart

朝 最 後の女 王ア ンが 嫡 子の ない ま ま没 す る と

1701年

F

続 令に基づ き

ド イツ の ハ ノ

王 ジ

George

 

I

(在 位

1714 − 27

)が 王位に就い たc 〔ジ ョ

世の祖 母はエ リザベ スは

ジェ

ムズ

世の 娘で

フ ァ ル ツ フ リ

ド リッ ヒ に

い だ。)こ の 歴史 転 換 期にあ っ て、 英 国 貴 族は、 立憲 君 主 制 に よる議 会 制 民 主 主 義 とい う政 治 形 態 を 揺る ぎの の に し

文 化 的 経 済的卞

者と し て

1765年

ワ ッ トの

蒸気機

関の 発 明に始まる産業 革

に突 き進ん でい こ とになる。 そ し て、 こ

 71 (38) 

(7)

建 築

庭 園

絵 画 か ら見る英国的美 意 識の 系 譜 のハ ノ

朝 がは じ まっ た翌

年1715年

、英

国の建 築 が 明確にその 方

向性

、独

自の 道 を 進ん で ゆ く記

すべ き

と なるの である。

 

こ こ で、 対フラン ス との関

か ら英 国の歴 史 的 経 緯 を 追っ て み るこ と と

る。

1688年

誉 革

後、

フ ラ ン ス は亡

王 ジェ

ム ズ

ル ズニ

弟、

カ トリッ ク信 者。 母 親は ブルボン家 出

のヘ ン リエ ッ タ

マ ライアで、 ルイ 十 四 世の

母で

る。

の 王 位 回

援助

し て

、宿敵

ウィリ アム三世 治 下の英 国を

乱さ せ よ

とした。 ウ ィリ アムは、 オラ ン ダ共 和 国 長

となっ た

72年

か らル イ十四世 と

対決

して き たの である。 さ らに、 フラン ス国

を ラ イン

まで拡 大 しよう と して フ ァ ル ツ

の ル クセ ンブル グと、 有 名 なロ

レライが ある ラ イ ン

流域の

の地 方

を開

、英国

と 同 君 連 合にあるオラ ンダを

か し た の である。 ウ ィリ アム三世は、 ド イツ、 スペ イ ン と 同 盟 し、

1697

年 まで ウ ィリア ム 王戦

1689 −

97

)を続 行 し

ルイ 十四世の

図 を

折さ せ たのである。

1700

年に スペ イ ン

ハ プス ブル グ家の国 王カ ル ロ ス五世 が 嫡 子の い ま ま

ル イ 十四世は孫の ア ン ジュ

公 を 王

継 承 者に した。 これ に よっ て

、1701年

にスペ イン王 継 承 戦 争 (

1701 − 13)

勃発

し た

フ ラ ン スは ま た、 ジェ

ム ズ ニ世の 子ジェ

を イ ギ

を 支 援 した の で、 英 国

王ア ン

1702 −

14

は反フ ラン ス側に加わっ て

1702年第

二 回

フラ ン ス戦

始し た

こ の戦

ア メ リカや イン にお ける

面 的 な

民地

戦争

と なっ た

こ の時モ

ル バ ラ公チ ャ

チルが反フラン ス軍 総 司 令 官とな り、

1704年

ド イッの バ イエ ル ンにある ブレニ ム に おい てフラン ス

バ バ ア連 合 軍を

粉砕

、海

軍は ジ ブ ラル タルを 占領 し、 植 民 地 に おい て もイ ギ リスが 大 勝 したの で ある。

1713年

のユ ト レヒ ト

和約

に お い て

アン ジュ

公が フェ リペ 五 世として 王 位に と どまる こ とを 認め た が

、英国

ジ ブラルタル、 ミ ノ ル カ

島、

ミュ

フ ァ ン ドラン ド

ノヴァ

ス コ テ ィ ア

ハ ドソ ン湾 地 方 を 獲

i

得 し

植 民 地 を拡 大 し た。 国 内で は、 こ の よう な歴

的 経

これ に続 く

1721

年 か ら

42

年 まで の ウ ォ ル ポ

閣の長い

際平和

時代

に国 情は安 定 し

工業

商 業

貿 易は著 し く発 達 するこ と になっ たの である。 この

対仏戦

に よっ て英 国はヨ

い て重 要 な 役 割 を 果たす 国

とな り

さ ら に は

、帝

国のア イデ ンテ ィティを 強め る結 果 となっ たの で ある。

経済

繁栄

し、社

々 な レベ ルに お い て

消費

が増 大 し

出 版 文 化 を生み 出し

1695年検

法廃

)、

ハ ウスや劇 場

ク ラブ とい っ た 営 利 目的の都 市 施 設を発 達さ せ ていっ たのである。

 

さて、 こ の よ

な歴

史的経緯

の な かで

十八世 紀

半にお ける英 国

建築史

の上 か ら み る と 興味 深い のは英 国バ ロ ック の終 焉で ある。 対 フ ラ ン ス戦で武

げたモ

ル バ 公 爵

その戦 功に よっ て

ジョ ン

バ ンブ ラの設 計に よ る英 国 最 大のバ ロ ッ ク建 築の邸 宅ブ レニ ム

パ レ ス

Blenheim

 

Palace

1705− 24、

オッ ク ス フ ォ

ドの北 西

約10km

に位 置 する。 フ ラ ン ス 軍に勝 利 した戦 地

Blenheim

に ち な ん で

ら れ た。

えら れ、 女 工つ き庭 師 ヘ ン リ

ー ・

ワイ ズ が

240

万 坪におよぶ 壮 大 な 整 形 庭 園 を造 営し たの で ある。 この ブ レニ ム

設で英 国バ ロ ッ クは 最 高 潮に達 する。 しか し、 これ を

っ て

国バ ロ ッ クは

終焉

し、 英

70 (39)

(8)

貴族

の建 築

式パ ッ ラ

ディオ 主 義に道 を譲るこ とになるの で あ る

更に興 味 深い の は

この 壮 大なバ ロ ッ ク

園が

1764

年 か ら英 国 風 景 庭 園の

巨匠

ブ ラウ ンの

に よっ て英 国 風 景 庭 園に

えら れ る こ と にな ること である。 ブレニ ム

パ レスを もっ て

英 国バ ロ ッ ク建 築は終

ブ レニ ム の バ ロ ッ ク庭 園 も後に風 景 庭 園の 巨 匠ブ ラ ウ ンに よっ て英 国 風 景 庭 園 に生 まれ

わ る とい

のは 歴史の綾であろうか。 ち なみ に

こ のブレニ ム

パ レス は

、第

二 次 世

大 戦 中に英 国

首相

対 独 戦にあたっ て英 国 民 を 率い たサ

ー ・

ウィン ス トン

チ ャ

チル の生

である。

 

こ の時 期

卜八世

紀前半

に は

、「

ズ ン

1

が定 着 する時 期で も ある

「シ

ズン」 とは

英 国 議 会の

催期

不 定 期であっ た 議 会の 開 催 期 間 がこ の時 期

ほ ぼ十「

に始 ま り五月に は終 わる とい

ンが

定着

するのである。 つ ま り

貴 族 は 冬の 間 はロ ン ドンに 集い 、 昼は政 治 活 動に

夜は様々 な 娯

や クラ ブに

集 う

とい うパ タ

ン が 生 ま れたの で あ る。 しか も、 イン グ ラ ン ドの最 も過ごし や

季節

各 自

の領 地へ と戻 り、 カン ト リ

ハ ウ スや庭 園を造 営 し

狐 狩 りなどに興 じたの である

 

こ の よう な 中で 、

1715

年は、 英 国 建 築 史にとっ て大 きな意

を持つ

になるのである。 こ の

年、

コ リン

キ ャ ン ベ ル

Colin

 

Campbell

1676

1729

)が

「ウ ィ トルウ ィウス

ブ リ タ ニ クス

を 出 版 す

。彼

その中で

典主義の本

物事

の価

、真

に 理性の に よっ て判

定す

こ と にある と し、 建 築の 基 盤は 占 典にあ り、 古 典 第

一・

級の解 説 者は

ウ ィトル ウィス

Vitruvius (

世紀

で あっ た と述べ た。 近 世に お い て イタリア の建

築家

アン ドレ ア

Andrea

 

Palladio

1508 − 80

)とい う才 能 ある註 解 者に引 き継が れ、 イ ギ リスに おい て イニ ゴ

ー ・

ジ ョ

ンズが この

が りを理 解し た と キャ ンベ ルは述べ た。 これ をパ ッ ラ

デ ィオ主

とい

。 こ の パ ッ ラ

デ ィオ 主義に よっ て、 「美 」 と 「理 性 」 を 明 確 に結びつ け た 英 国

の時

代精神

表明

さ れ たこ と に な るの であ るc

 

くしく も

1720年代

は カ ン ト リ

ス の

建築

ムとなっ た時 期であるu チュ

スチュ ア

ト朝の建 造 物 を 建て替 えよう と する動 きが

、名誉革命

代後

族た ちの問 で起こっ たの である。 こうい う 貴 族たちにはちょう どい い時 期に 「ウィ ト リウ ィ ウス

ブ リ タニ カス』 が 出 版 さ れ、 英 国の カ ン トリ

ハ ウ スが 立 派 な 厂建

築」

と な

りう り

こと を 示 し た の で あっ た。 ホ イッ グの第二 世代は

ス チュ ア

ト王 朝とロ

マ 教 会

そ して外 国 産の もの に対し て強い

を持っ てい た

建 築 的に い え ば

こ の

50

年 間の宮 廷 様 式、 つ ま り、 レ ン の作 風とバ ロ ッ ク様 式 を 嫌 悪 したの で あるu パ ッラ

デ ィオ主 義は

、.

度 定 式 化さ れ ると

ホ イッ グ

党貴

族の

二 匿代の

意 識を体 現 する様 式 となっ たの で ある。 こ の ように して

1715

年か ら

24

年にかけて

キ ャン ベ ル は

英国の パ ッ ラ

デ ィオ主

てが依

する こ と に な るモデル を作 り上 げ

概 念 を 英 国タイプ と して提 示 し た の であっ た。 い わ ば

この 時 期の 建 築に おい て初めて英 国 的美 意識 を明確に体現 し た 建築 物 が 建て られるこ と になっ たの である。 69(4〔〕1

(9)

建 築

庭 園

絵 画か ら見る 英 国 的美意 識の系譜

3

英 国 風 景 庭 園

成 立

 

英 国に おける

建築

的 美 意 識の発 露にあい まっ て

、真

国のオ リ ジナルな 美 が 完 成 さ れ る。 これ が 英 国 風

庭 園で あ る。 し か し、 風 景 庭 園の 成 立はも ちろ ん

審美

的な概

ば か りが 先 行 してい た わ けで は ない

王 政

復古

は、

に並

道 を通

こ と が 非 常に は や っ た。 また、 敷 地 内に盛ん に植 樹が な さ れ る よ

になっ た。 これ は、 個 人の財 産が

全さ れ る ことに よ る政 治 体 制に対 す る 信 頼 と

貿 易の

益 を

軍に

材 を提

供す

るとい

二 つ の

意味

があっ たの で あ る。 並 木の流 行 は

1720

年頃

まで

く。 小 郷 士は自宅の 正 面の フ ァ サ

ド か ら

本の並

を通 すよ

にな り

大 地 主 は 巨 大 な網 目状の並

の 中 心に居 を構 えたの であ る。 これはこれで

つ の

意 識を

現 して い る と見て

ることが できよう そ れ ぞ れの並 木 道は、 囲い 込 まれた土 地 に対 する完 全 なる所 有 権 を誇 示 してお り

複雑

な 網 目は大 邸

の 近 隣の 土 地の独 占 を 主 張し てい るの で ある。 中 心 軸となる並

道は

小ぶ りの邸 宅や庭 園の 中 心 線となっ たの である。

広い

目状の並 木は、 周 囲の景 色に対 する

配を表 現し てい た こ と になる。 し か し

1700

年ごろ大地主 と地 方の郷士 の問に重 要 な 区 分が出 現

る。 大 地 主 は 国 政に

直接

従っ て、 エ ステ

トの

直接

的 経 営に は関 与 しな かっ た。

1720

年 頃 まで には 大 地 主は

農業

をする建 物や場 所 を 敷 地か ら遠

く離

し てい て、 これ 見よが し の

沢 な風 景の 中に住ん でい 。 小 郷士 階

は農 業や内

生 産に

直接

的に参 加 してい っ たの である。 従っ て彼 らの家は

園と明 確に は分 け られて はい なかっ たのである。 小 郷 士 階 級の

地 は相 変わ らず 装 飾 的 庭 園 と 生 産 基 盤となる果 樹 園や池 な どが混

し たの で あ る。 これ は

に よっ ては 「

然 な

」様式

の プロ ト タイプ とも見 なさ れ る が

む し ろ こ れ は装 飾である よ

済 性 や 有 効 性 とい っ たよ り現

実的

な対 応だ っ たの で ある。

 

この よう な地 方の エ ス テ

トで の

化の中で

1709

に かの ホイッ グ 貴 族 第三

シャ フ ッ

ー ・

ア シュ レ イ

 

Antheny

 

Ashley

 

Cooper

1671− 1713

の よ

に 述べ て い る。 「私の内 部に育っ てい る

然の物に対 する情 熱 を もはや

える こ とは でき ない 。 そこ では

人間の芸 術や うぬ ぼ れ や

まぐれ が 自然の 原 初の 状

入する こ とで、 その真の秩

を だめ に して い るに過 ぎ ない 。 荒々 しい

岩、

苔む した洞 穴

イレギュ ラ

なグロ ッ ト

滝の しぶ き

こ れ ら はみな 荒々 しさとい

う魅力

を もっ て 自然 をよ り

現しなが ら

より人 を 引 き付 け、 取 り澄ま し た庭 園の フォ

マ ルな まがい 物をこ えて偉 大 さ を もっ て 現 れるの である。

の 言 葉 は 神 と 自然 状

と 理性 を 結びつ け た ホ イ

に表してい る。 ク ラ

クの 言

と お り、 ル

トルの 庭 園

ヴェ ル サ イユ )独 裁 政 治と

に対 する人 間の絶 対 的 支 配 を

象徴

する ようになっ たのであ り、 英

国風景庭

園のイレ ギュ ラ

性 は 立 憲 君 主 政

、 自

然 と人 間の同 調 を

徴 するの で ある。 さ らに

パ ッ ラ

デ ィオ主

義建築

と風 景 庭 園の

を明 確に し、 その美 意 識 を

る と

ヘ ンリ

ー ・

 68 41 

(10)

ンが 述べ い る ように

それ ら は

建築

と その周 りの 「対 照 性の状 態 」に ある。 建 造

は レ ギュ

であ り

庭 園は イレギュ ラ

であるべ きである。 これ が

、古

典主

威が実 行 さ れる

ときの美となるの で あ る。

 

こ の英 国 独 白の 風 景 庭 園の 成 立の過 程で重 要 な

意味

を もつ のが

ホイッ グ貴族バ

リン ト

ン伯リ チ ャ

ボ イル

Richard

 

Boyle

169

 

4 −

 

1753

)と ウ ィリア ム

ケン ト

William

 

Kent

1685

1748

)の 出 会い で ある と さ れ る。 バ

リン トン伯は、 自らパ ッ ラ

デ ィ

則っ た館チ ジッ ク

1725

開始 ) を建 築 し

ケン トは英 国庭 園

上 に その名 を残 すラ ウ シャ ム

Rousham

を造 園し た か ら である。 バ

リン トン伯は、 当 時の

族の 習い に則 り

1714

か ら

15年

にか けてイ タ リアヘ

ツ ア

に 出 か け て行っ た。 さ らに、

1719

年 再 びイタリアへ

い た。

回 はパ ッ ラ

デ ィオ を 学び彼につ いての

用な 情 報を

めるた めで あっ た

。彼

パ ッ ラ

ディオ 主議の実 践 者で あ り

ホ イッ グ的 美 意 識 を }導 して いた 人

で ある。 ウィリア ム

ケ ン トとは最 初に イ タ リア へ 行っ た 時に合っ てい た。 バ

リン トン

ハ ウ ス の装 飾 画を描か せ るため に

1719

年の末にケ ン ト を 英国に連れ帰 り

二 人の関 係は

48年

にケン トが 死ぬ まで続 くの で あ る

 

も う

入 風 景 庭 園の

に重 要 な 役 割 を 果た し たの が

、詩

人 ア レグ ザ ン ダ

ー ・

Alexander

 

Pope

1688

1744

)である。 彼は

ウェ ス ト ミン ス タ

か ら西

13km

テム ズ河 畔 ト イッ ク ナム

Twickenham

に居を

独 自の 庭 園 観に よっ て風 景

園の祖 と も言 うべ き庭 園 を 作 り上 げたの で ある

。彼

の 頭にあっ たの は、 「心 地のよい 複 雑さ 」 と 「人 工的 野趣

である。 彼は

1720年

に テ ム ズ

畔の この 地に

庭 園の レ イア ウ トを 始めたの で あ る

ケ ン トの提 唱 した風 景の よ

に庭 を 「描 く」 とい う考 えは明ら か に ポ

プの

影響

である と さ れてい るの で ある

 

英 国 風 景 庭 園の 成立を

える ヒで重 要 な 点は

ケン トが画 家で あっ た ように

古 典 主

絵 画の理想 的 風

画が与 え た 影 響である。 理 想 的 風 景 画 とい

の は、 十九世 紀の 英 国風 景 画の よう な

あ る が ま まの 自然 」を描い たもの で はない 。 自然 を 基礎と し て はい る が現 実の 自然 にまさ る理 想の風 崇で ある とい

で 理想 的 な風 景 画 なの である。 こ こに描か れる風 景は

入 念に選 択 さ れ、 精

に よっ て形 成 され

絵 画の規 則に則っ た

風 景 とい う 「構 成 」 なの で ある。 英 国 貴 族 が 理 性 を己の

精神

的 支 柱 とし均 整と調

の中に美 を 見 出 し パ ッ ラ

ディ オ主 義を彼らの

建築様

式 とし た ときに、 絵 画に おい て調 和 と均 整の美 を 表 現 して い る と み な さ れ 人気を

した の が 、 イタ リ ア で制 作 活 動 を した

フ ランス

典主 義 風 景 画 家ニ コ ラ

Nicoras

 

Pusan

1594 −

1665

) と ク

ロ ラ ン

Claude

 

Lorrain

1600〜82

) だっ た

の フ レ

ム となる前 景の樹

木、沈

み行 く夕日か ら発せ ら れ た金 色の光

これを 反 射 する 穏や か な

躍 動 する羊や鹿の 群 れの前 景。 こ れ ら は み な クロ

ニ コ ラ

プ ッサ ン らの イ タ リ ア風 景 画の巨 匠た ち か ら

響 を 受 けた風 景 画 家のキャ ン バ ス に繰 り返 し 現れ るモチ

フ となるので

る。 そ して、 こ の モチ

フは

ス タ ウ アヘ ッ ド

Stourhead

(ハ 67(42)

(11)

建築

庭 園

絵 画か ら見る英 国 的美 意識の系譜 ン プ シャ

〉で行われ た よ うに

絵 画の

か ら

際に 三次 元の庭 園の

景と して立体

に移さ れてい の で ある。 クロ

ロ ランの

影響

は、 風 景 庭 園、 風 景 画 を 通 して、 十 九 世 紀の英

国風 景

画の巨 匠コ ン スタ ブルにまで及ぶ の である

 

に おい て も

、絵

画に おい て も古 典 主 義 的 美 意 識が

席巻

し た

代にあっ て、

1738

年に英 国 風 景 庭 園 史にお ける記 念

碑的庭

園が ケ ン ト に よっ て作 ら れる。 それ が ラ ウ シャ ム

Rousham

 

Park

ッ クス フォ

ドシャ

ー)

である。 その特 徴はなんとい っ て

その

イレ ギュ

」 性 に あ る 。 整 形 庭 園の基

、広

大で平坦 な 土 地に中 央 軸 線 を 中心に シン メ ト リ

直線

的に壮 大 な広 が り を持つ のに

ラ ウ シャ ム の特 徴はその 曲

入 と配 置 の イレギ ュ

性 に あ る 。 また

この

曲線

美」

がある とす る 態 度 は、 画 家ホ ガ

スが世に

問 う

の 分 析 』 (

1753

年 )の態 度 と 共 通

る もの であ り

フ ラ ン ス の ロ コ コ様 式との関 連 も 言 われ る が

明ら かに十八世 紀 中 頃の 英 国民

美意

の 反 映で あることに は違 い い 。

 

更に ラウ シ ャ ム は 造 園の 基

本的概念

を大 き く変 えた意 匠が も

ら れて い る。 そ れ が 「沈め垣 」 (

ha

ha

入 である。

ハ ハ 」は十 七 世 紀 末には 試み られた 例が

し か し

そ も そ も 造 園は

「エ ン の 園

つ の

源を持 ち、 本 来 その 閉 鎖 性につ ま

り 「

こ と」に意

た せ て きた芸 術

様式

である。 し かし、 ケン トは 造 園 理 論 と哲

・審

見 地か ら

ハ ハ

用 し 、 庭 園と隣接 する空

を 遮

断す

る こ とな く連 続 し た 広 が り と して 表 現 するこ とに よっ て

、古典

風 景 画 家たちが

い て きた理 想 的 風 景の空 間の 「構 成 」 を 意 図 的に造 園に

取 り

込ん だ とい え るの で あ る。 英 国 初

ウ ォ ルポ

ル の 末 子

第 四 代 オ ッ クス フ ォ

ド伯 ホレ ス

ウォ ルポ

Horace

 

Walpole

は 十八世

中頃

に国

内外

の庭 園 を広

く見

て 回っ た人 物で あるが

ケ ン トの 庭 を見 た

1770

トは

を飛

、 そ し て

自然

界がすべ て 庭で あると見て

っ た

と記述 してい る とお り

ケ ン トは こ の

1730年

代に

その

の た どる道

明確

につ く りあ げ たのである。

 

こ の英

国風景庭

様式

を 確立 し、 多 くの庭

が けたのが、 ラン ス ロ ッ ト

ブ ラ ウン

Lancelot

 

Brown

1716

− 83)、

ケ イパ ビリティ

ブラ ウンである。

彼の 口

、「

この 土地には ケ イパ ビ リ テ

っ た。

)彼

1740年

代に はその力 量 が 知れ

、1751

年に ロ ン ドンに

える まで になっ た。 ブラウンが ブレニ ム の 造 園 を

るのが

1764年

の こ とである。

グライム川 を 堰 き止 め 広 大 な 人工

り出 し そ れ に よっ て巨 大な石

を半 分ほ ど水 没 させ

庭 園の

と なっ てい い た並 木 を まば ら な

立 と し、 ブ ラウ ン

ク ラ ンプ と

ば れ る密 集 した木立 を 配 置 するこ とに よっ て

、 自

然の ま まと い っ た

印象

える

風 景 庭 園 を 作 り出し たの である。 その 後、 風 景 庭 園は当 時の

ピ ク チュ ア レ ス ク」 趣

と あい まっ てロ マ ン主義へ 移 行 する大 き な 思

流 となっ て い くの で あ る。

6643

(12)

4

世紀英 国絵

の /

1

大 巨匠

ホ ガ ー

レ ノル

 

十八世 紀 英 国 文化 を 考 える 上で

英 国

絵画

が果た し た役 割 も、 建 築や庭 園に匹 敵 する重 要 な意

を 持つ 。 英 国におい ては、 肖像 画は描か れ た ものの 、

国の 画

の描 く

、古

典や聖 書 に題 材 をとっ た高 尚 なテ

マ を

っ た歴 史画は重 要 視 さ れ ない 傾 向にあっ た

ル ネッサ ン ス 期の大 家の絵 画を

コ レ クシ ョ ン と して直 接 収 集 したの で ある。 中で も

ス チュ ア

ト朝 第 二代の{ チ ャ

ル ズ

ー・

1625 − 49)

絵 画に通 じた大 収 集 家で あっ た。 王の コ レ ク シ ョ ン になっ た画

ラ フ ァ エ ロ

Raffaello

1483− 1520)、

テ ィ ツ ィ ア

Tiziano

1477

− 1576

テ ィ ン ト レ ッ ト

Tintoretto

1518 − 94

>、 ホル バ イ ン

Holbein

1465

− 1524)、

ベ ン ス

Rubens

1577

− 1640

)などの巨 匠た ち である。 バロ ッ ク の 巨 匠ル

ベ ン スは

1629

年 6

月か ら1630

3 月にか けて英 国に

滞在

イニ ゴ

ー ・

ジ ョ

ンズの

に な るバ ンケ ッ テ イ ン グ

スにか ける絵 画の依 頼を

け てい るのである。 (こ の絵はバ ン ケ ッ テ イン グ

ス に現 存 する。)

 

自国の 画 家 を軽 視 する傾

に あっ て

十八世 紀 前 半に絵 画に おい て

英 国的 美 」 を 真に表 現 すること に成 功 するの はウ ィリア ム

ホ ガ

William

 

Hogarth

1697

1794

)である。 ホ ガ

スは

その

当時存在

してい た英 国の 肖像 画の

伝統

を発 展さ せ

英 国の 生活や文 化に

ざし た

の 英 国絵 画 を 創 出 した。 彼 も 始め は

油彩

画に よ る肖 像 画 を 描い て い た。 し か し

油 彩 画に よ る

入で は家 族 を

養う

ことはで き ない と し

彫 版 画に して広 く

般に 流

さ せ る ことに よっ て莫 大 な収 入 を得たの で あ る

彫 版 画 第

作の 「売 春 婦

代 記

1732乍

発刊

されて ときに彼は約

2000

ポ ン ドを 手にすることになっ たの で ある。 (

1688年

、一

家 族

5

人 で

に最 低

40

ポ ン ド必 要。

ホ ガ

基 本 を 曲 線い た

こ れ はフ ラ ンス の ロ コ コ 芸 術と通 ずるもので あ る が

ケ ン トの ラ ウシ ャ ム の う ねる小 川 「リル

とい い

曲 線の 中に 美 を 求める姿 勢は十八世

英 国 民の信 条とい っ て しま え ば 簡

単で あるが

『美の分 析

に おい て 明

に曲線 美 を絵 画 論の基 本に 置いた こ と は 重要で あ る。

 

ホ ガ

ス の 特 徴はなん とい て言っ て も その 社 会 性や道 徳 性 ある。 彼は

、絵

画を

に芸 術 作 品 と し て鑑 賞 するとい よりは、 社 会の 教 化や道 徳と絵 画を結び

絵 画 を 市 民の 教 化に 役 立てようと し たので あ る。 芸 術 を 特 権 的 な 階 級の 高 尚な 趣味 とし て捉 える の で はな く

絵 画と社 会を直

的 に結びつ けて考えるこ の 姿 勢

ま さに レ八世 紀の英国 な ら で はの態 度 であ り、 十八世 紀 英 国が

既 に

本 主 義 的 経 済 活 動 を基 礎と し た 近

的市 民 社 会と して歩み 始め た証

である に違い い の であ る

 

ホ ガ

ス の 道 徳 性 と対照 的 位 置に ある画 家 が

ジ ョ シ ュ ア

レノ ル ズ

Sir

 

Joshua

Reynolds

1723− 93

)である。 レ ノル ズ は

1768

年ロ イアル

ア カ デ ミ

セ ッ ト

ハ ウ ス に創 設 さ れ たときの初 代

長で あ る。 ホガ

スがアカデ ミッ クな 教 育を

け てい ない

 65 〔44

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