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中金堂の歴 史

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Academic year: 2021

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中金堂の歴 史

(1)中

金堂 の創建

『興福寺流記』(以下 『流記』 と称す る

)に

よれば、興福寺 は、藤原鎌 足の妻の鏡女王が、鎌足の病気 平癒 を願 い建立 した山階寺 を濫傷 とし、都の移転に伴 い飛′鳥に遷 り厩坂寺 と号 し、平城遷都 に及んで現 在の地に遷 り興福寺 と号 した ものである。 しか し、山階寺・厩坂寺 ともに、『 日本書紀』には見えない。

また『続 日本紀』(以下 『続紀』 と称す る)には、四大寺 と呼ばれ る大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺の うち、興福寺以外の三寺つ いては、若千の問題 も含む ものの、飛′鳥・藤原地域か らの移転の記載がある のに対 し、興福 寺の創建 についての記載はない。『続紀』養老4(720)年10月丙申条に「始置i養民・造器及 造興福寺仏殿三司―。」とあるのが正史におけ る興福寺の初 見である① したが つて、『流記』の信憑性 と、『続 紀』 との整合が問題 となる。なお、『流記』には中金堂 その ものの創建 については記載がないが、中金堂 の記載 に上記の興福寺の縁起 をかけ ることか ら、中金堂の創建

=興

福寺の創建 と考 えて差 し支 えない。

まず、『流記』の信憑性 について。『流記』は平安時代後期成立だが、「天平記J「宝字記」「延暦記」等 の年号 を冠 した各時代 の資財帳 を引用 し、 その史料的性格 は「資財帳の集大成」 といえる (渋谷和貴子

「『興福寺流記』 につ いて」『仏教芸術』160、 1985)ので、『流記』の資財帳か らの引用には信頼 を置 く ことがで きる。前述の興福寺の由緒 と創建 は資財帳か らの引用部分 であ り、奈良時代 に、興福寺が山階 寺・厩坂寺 と移転 して きた起源 を持 ち、平城遷都問 もない時期 に創建 された、 とされていたことは確か である。氏族寺院で正 史に記載 され るものはほ とん どないことか らして も、『流記』の述べ る由緒は信頼 で きるであろう。

また、寺格や寺号 に関連 して、川原寺 (弘福寺)と のつなが りを見いだす見解 (加藤優 「興福寺 と伝 戒師招請」関晃先生古希記念会編 『律令 国家の構造』吉川弘文館、1989)も魅力的である。

創建 の時期 につ いて、「仏殿

Jは

通常金堂 をさす とし、『続紀』の「造興福寺仏殿司」 を中金堂造営官 司 とみ、 中金堂造営 をこの時期 まで遅 らせ る見 解 が あ る (藪中五 百樹 「奈 良時代 に於 け る興福 寺 の造営 と瓦」『南都仏教 』64、 1990)。『流記』

の 中金堂 の記載 には霊亀 〜養 老年 間成立 とされ る「 旧記」 の他 、「宝字記」「弘仁 記」 の三書が 引か れ、 いずれ に も養 老年 間につ いては言及が 無 く、和 銅 年 間 の創建 を語 るこ とな どか ら、史 料 上 は遷都 直後 の和 銅 年 間創建 とす る、通 説 の 妥 当性 が高 い とい え よ う。

(2)中

金 堂 の 被 災 と再 建

興福 寺 中金堂 院 は、七度 の火災 に遭 い、 その 度 に再 建 され て きた(『興福寺

 

第1期境 内整備 事 業 に ともな う発掘 調査概 報I』 お よび第2表

参 照)。最 初 の被 災 で あ る永承 元年 の火 災 と再 建 は、初 め ての再建 で、かつ摂 関政 治衰退 に とも ない、摂 関家が藤 原氏の精神 的 ・信仰 的支柱 で

︑牛 貧 4 症 笠 顎 ︐ 舞 鋪 酵 翌 語 蒙 蓼 乳 耐 中 全 食 魔      

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第2図 中金堂部分 (興福寺蔵)

(2)

あ る氏寺・興福 寺 を優 遇す るよ うにな る時期 と重 な った こ と もあ り、大規模 な再建 が行 わ れ た。 当時の人々 に も印象が強か った よ うで、

再建 工事 の エ ピソー ドが 『今 昔物語集』 に、

春 日社 に奉 じた願文 が 『朝 野群 載 』 にお さめ られ て い る。再建 の具気 的 な様 子 は 『造興福 寺 記ど に記載 が あ る。 『造興福 寺 記』永承三 年二 月一 日条 に、再 建供養 の ため の舞 台舗 設 の記事 が あ るが、

 

その場所 につ いて 「当二仏 面 間̲。 立 二礼盤二脚 。 〈去 レ壇一許 丈。〉去三

第2表

 

中金 堂焼亡表

被災

永承 元年 (1046)12月24日 康平3年 (1060)5月 4日 嘉保3年 (1096)9月 25日 治承4年 (1180)12月28日 建 治3年 (1277)7月 26日 嘉暦2年 (1327)3月 12日 享保2年 (1717)正月 4日

永承3年 (1048)3月 2日 治暦3年 (1067)2月25日 康和5年 (1103)7月25日 建久5年 (1194)9月22日 正安2年 (1300)12月 5日 応永6年 (1399)3月 ■ 日 文政2年 (1819)9月25日

礼盤̲南 二許 丈。構 二立舞 台 。 〈南北 四丈八尺 。 東西三 丈八尺 。在 二檻 井南北階 。各 几去二金堂棚 三尺 。 前 十 日木工 寮所ェ結構̲也 。〉」 とあ り、基壇 か ら約一 丈の場所 に礼盤が あ り、 そこか らさ らに南 に二 丈の 場所 に舞 台が あ り、舞 台か ら二 尺 の所 に「金堂棚 」が あ った こ とが知 られ る。「金堂棚 」は、基壇 か ら二 丈七 尺 (約

8m)も

し くは三 丈三尺 (約

10m)に

あ った こ とに な る。「棚 」は通常 雨落溝 をさす と考 え ら れ るが、 この ように離れた雨落溝イよ考 えがたい。 そこで注 目され るのが、前回の調査 で確認 した前庭部 石敷S X7550の南端の見切石 である。見切石の基壇か らの距離は約

8mで

、「金堂棚」 とよ く一致す る。

このこ とか ら、S X7550は永承再建 の際にはすでに存在 していたことが明 らかである。

その後、嘉保3年の火災後の再建時に讃岐国か ら基垣外装用の凝灰岩 を取 り寄せ てお り、(『後二条師 通記』承徳3年3月 3日 条)、 これは同時期 に京都 で もしば しば用 い られた「白色現灰岩」であろう。確 実にこの時期 まで、基垣外装 は凝灰岩切石 を用いた壇正積 であった (遠藤亮氏の御教示 による)。

一般 に興福寺 は再建 の際に旧規 をよ く伝 えるが、中金堂について も同様 で、平家の南都焼討後の再建 時 も、東大寺が中国か らの新手法 を取 り入れたのに対 し、興福寺 は旧来の形態 を守 った とみ られ、室町 時代再建 の中金堂 も古代的な形態 を良 く伝 えている。 ただ し享保 の火災の後、文政の再建 の際には財政 難 などか ら、一 回 り小 さい仮金堂の建設が行 われた。近世 の興福寺 で注 目され るのは南円堂 の観吉信仰 で、現在境 内に立つ石灯籠が、 夕 く近世 の銘 を持 ち、かつ いずれ も南円堂への参道の石灯籠 として立 ち、

中金堂 を正面 としていないこ とは、中金堂 とともに被災 した南円堂の復興が素早かったことと相倹 って、

信仰 の形態 を表 し興味深い。

(3)廃

仏 毀釈 と復興

明治維新 に際 し、興福寺は全 山復飾 を願 い出 し、僧侶 は春 日社 の宮司 となった。明治5年に廃寺・寺 地は官有地 。さらに公園地 となった。廃仏毀釈の時勢の中、塀や子院は破却 され、主要 な堂合 も学校や 役所 に転用 され、 中金堂 も中教院等に転用 された。転用時の改造で床が張 られ、明治7年に床張 りの障 害になる須弥垣が取 り壊 された。 この取 り壊 し工事の時に奈良時代 の鎮垣具が出土 し、国の所有 となっ て現在東京国立博物館 に蔵 されている。 その後明治14年に興福寺寺号復活が認め られ、 中金堂の仏堂へ の復興工事が行 われた。 こうした工事 中の明治17年に、再 び鎮垣具が出土 し、興福寺 に所蔵 されている。

寺号復活時には敷地 は公 園地の ままとされたが、後に返却 された。 ただ し、塀等が破壊 されているた め、区画施設が乏 しく、奈良公 園 と一体 の状況である。破壊 を免れた堂合 は、解体修理等 を経 なが ら維 持 され、 中金堂 も基壇や須弥壇の改修が行 われた。南円堂の観音信仰 は今 日に至 るまで盛んである。

参照

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