享保六〜十四年(一七二一〜二九)対馬藩の御用人 勤仕前後の雨森芳洲とその周辺
その他のタイトル Amenomori Hoshu(雨森芳州) and the persons concerned during his secretary service for the feudal clan of Tsushima, Kyoho(享保) 6〜14 years
著者 泉 澄一
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 28
ページ 1‑30
発行年 1995‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/15985
対馬藩では府中︵現在の厳原︶に住む城下侍︵府士ともいう︶を
番方と役方に組織し番役と藩庁勤務にあたらせていた︒このうち役
方は表及び奥向の勤務にわかれ︑表向︵表廻り︑表勤ともいう︶に
ほ寺社奉行︑組頭︑大目付︑町奉行︑勘定役︑郡奉行︑船奉行︑送
使掛らがいてそれぞれの役所︵寺社方︑組頭方︑大目付方︑町奉行
所︑勘定方︑郡奉行所︑船奉行所︑送使方︶の部下を指揮し日々の
政務をとり行なっていた︒これに対し︑奥向︵奥廻り︑奥勤ともい
う︶には御用人をはじめ小姓︑医師らがいて藩主に近侍しなお宗家
の用務をとり行なっていた︒このうち御用人は直接政務にかかわり
ほしないが藩主のつとめを補佐し藩主と年寄中や諸役の間をとりも
ち藩政の中核となっていた︒本稿ではそのような御用人職にあった
雨森芳洲をみてゆくがこれまでこれに関連のある研究はまったくな
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
は じ め に
︵ 一 七 ニ
︱ ー ニ 九
︶
享保六 i 十四年
対馬藩の御用人勤仕前後の雨森芳洲とその周辺
い︒それは雨森芳洲といえば外交面の事蹟のみ注目されていたから
だと思うが芳洲の内政に関する著述などをみているとこの御用人時
代をもっと重視してしかるべきではないかと思う︒そこで本稿では
御用人・芳洲の行実を跡づけなお御用人職の実際にも眼を向けてゆ
くことにしたい︒また芳洲はかような要職にあったうえ当時年齢も
六十歳前後︑藩内で相応の人的関係もできていたと思われ芳洲の周
(1 )
辺にもできるだけ留意してゆくことにしよう︒なお本稿でも前稿同
様に対馬藩の表書札方︑奥書札方︑組頭方の各毎日記︵以下﹁表︑
奥︑組毎日記﹂と略記する︶に見える芳洲の勤仕記録をもとに正確
な芳洲像の構築を図ってゆくことにしたい︒
ところで雨森芳洲は儒学者として奥向に所属︵奥御番所が勤務場
所︶しその本務は﹁本業︵儒学︶︱‑付申たる御講釈又ハ御書簡等之
(2 )
読``ヽ書キ﹂すなわち藩主へ論語や孟子を進講し朝鮮と取交わす外交
書簡の読み書きであった︒そのほか文庫の書物掛︑漂着船の筆談役︑
泉
澄
家譜の編纂などにも従事していた︒だがこのようなことが理解され
ていなかったため長い間芳洲は朝鮮外交を担当した儒学者のように
みなされ参判使都船主や裁判としての渡釜もすべて外交の専門家ゆ
えの使行と評価されてきていた︒実は対馬から朝鮮へ派遣される使
( 3)
者のほとんどは外交より経済的な扶助が目的であり芳洲の場合もそ
の例外ではないのだがこれまでそのような説明はまったくなされて
いない︒また芳洲は朝鮮方の佐役として藩の外交を主宰したように
考えられているが朝鮮方は外交担当の役所ではなく︵後述︶芳洲が
( 4)
一時期勤めた朝鮮支配役の佐役もいわば支配役のプレーンであって
政策の立案などをしたのではない︒したがって従来のような外交一
辺倒の芳洲論はいまや根底から訂正の必要が生じてきているのであ
る︒このような基本的なことが長い間看過されかつ誤説が重出して
いたのは間違った先入観にもよるが畢党対馬藩の人事や機構等が十
分理解されていなかったことに原因があると私は思う︒実はそうい
う私自身藩政のかようなことを理解しうるようになってきたのは近
年のことなのだが本稿ではそのような藩政のあり方にも十分留意し
て論考を進めてゆくことにしたい︒
本章では御用人就任以前の雨森芳洲とその周辺について粗々みて
おこうと思う︒享保六年︑来島中の訳官一行の潜商が判明し芳洲は
厳罰を主張したが藩に受け入れられずために朝鮮方佐役の辞任を強
和 瀧 正 蔵
︵対 馬︶
<願い出た︒芳洲は﹁私平生奉存候所ハ御国当今之大息潜商之一件
(5 )
——而御座候」とのべるだけに藩が「存之外無何事」訳官を帰国させ
たことに承服し難い想いだったのである︒芳洲の申し出に対し藩で
はやむを得ず﹁年寄共より︵朝鮮通交のことを︶相尋候義^佐役相
務候節―—不相替無伏蔵存寄可申聞」
︵一 六九 八︶
日条︶と条件をつけたが元禄十一年から二十三年間つとめた朝鮮方
佐役を免じた︒芳洲は﹁御隣交永久之道﹂と考え朝鮮人に対しても
﹁御憐慇を可被加所ハ幾重︱ーも御憐慇を被加︑急度可被遊事ハ急度
被遊候而恩威明白﹂にするようこれまで愚見を申しあげてきたが
(6 )
﹁一事として同意之人ハ少く︑不同意之人ハ多有之候﹂と憤憑やる
方ない想いをのぺていて潜商事件が辞任の主因であることはまちが
(7 )
いないと思う︒一説には左の臀や腰の痛みゆえというがそれは参勤
(8 )
お供断りの理由であり︑またこの年家督を譲り隠居したためともい
(9
)
うが長男顕之允の奉公︵家督ではない︶は翌享保七年五月のこと︑
また隠居はもっとあとのことで両方とも佐役辞任とは関係あるまい︒
むしろ朝鮮方をめぐる諸事情の方が佐役辞任により関係あるように
︵一 六八 九︶
思われるので若千検討を加えてみよう︒元禄二年に創設された朝鮮
方は通交関係の記録を取扱かう役所だが長い間単独の部屋がなく不
便を強いられていたらしい︒﹁表毎日記﹂享保五年十月九日条にか
ような朝鮮方の移転を伝える記事があるのでつぎにあげる︒
山田源太郎 ︵﹁表毎日記﹂同年七月二十六
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
十月九日
勘定所
はじめに朝鮮方は﹁佑筆役所︱‑︱所ー一有之候而ハ⁝・:﹂とあって
その所在と職務を教えてくれる︒朝鮮方が佑筆役所に同居していた
のは職務が同じであるからでともに文書︑記録を取扱かっていたの
である︒だが双方の帳面が﹁入交﹂っていたのでは具合が悪く早く
から朝鮮方を独立させるべく算段したようだが﹁建候場所﹂もなく
覚
年寄中 右朝鮮方只今迄之通佑筆役所一所l—有之候而ハ殊外手狭_一有之
其上諸帳面入交考物等之節甚差支申候︒依之前以相応之場所御
座候ハ︑朝鮮方之義引分ヶ可申と仕候へ共建候場所も無之先役
ヵも被致延引候処︑幸大御納戸部屋空居候付彼方へ右両人引分
ヶ朝鮮方へ申付諸帳面入交無之様二仕度候︒尤彼方者手広御座
候付雨森東五郎︑松浦儀右衛門︑塩川常右衛門其外朝鮮方へ相
励候面々罷出候得者手番も宜御座候︒小使井炭木等之義者当時
紀事大綱之方i相兼候得ハ少之御物入も無之候付今月i右之部
屋江朝鮮方佑筆中引移候様ーーと申渡ス︒
朝鮮紀事大綱役御佑筆遣候紙只今ハ表御書札方之紙を遣候得共
今度朝鮮方役所御引分被成候付向後者右両役遣候紙等山田源太
郎︑和瀧正蔵方か通ィ帳を以請取候様二と役方へ可被申渡候︒
以上
︒
︵一 六八 九︶
元禄二年の創設以来とすれば三十年以上も同居がつづいていたので
ある︒ところが幸いにも大御納戸掛の部屋が空室となっていてそこ
へ朝鮮方佑筆の山田源太郎︑和瀧正蔵の両人を行かせ同時に朝鮮方
の諸帳面も移動させるようにとのこと︒なお移転先は大きい部屋ゆ
え芳洲ら﹁朝鮮方へ相励候面々﹂もそこへ出仕するようにすれば都
合もよかろうとある︒その一人︑松浦儀右衛門︵霞沼︶は芳洲同様
に朝鮮方佐役の任にあり︑もう一人の塩川常右衛門は伊右衛門の子︑
竹松のこと︒成長して藩儒の一人となり真文書役のほか朝鮮方の諸
( 10 )
用をつとめている︒諸用とは享保一一一年からはじまった﹃分類紀事大
網﹄の編集︑あるいは翌享保四年に命じられた﹁御隣交御考用之書
抜﹂の作成などだがいずれも朝鮮通交にかかわる故事検索の基本的
記録となるもの︒また常右衛門は正徳六︵享保元︶年から二年間長
崎で﹁唐音稽古﹂にはげみそれらの力が買われ翌享保六年十二月に
は朝鮮方添役に任じられる︒この松浦儀右衛門︑塩川常右衛門の存
在が芳洲の佐役辞任の副次的な要因の︱つではないかと考えている
︵一 七
0
六 ︶
のだがまず松浦儀右衛門の方は宝永三年︑佐役となって十五年がす
ぎ十分の経験と知識を積んでいる︒つぎに常右衛門だが藩が芳洲︑
儀右衛門の後任にと考えていた人物︒本来の家業は藩校である小学
校の教師である︒それを朝鮮方御用に替え稽古を積ませたのだが常
右衛門は期待通りの成長をみせた︒芳洲は常右衛門の着実な成長と
実力をみて朝鮮方のこの後を儀右衛門︑常右衛門両人に委ねようと
考えたのが辞任の理由の︱つではないかと思う︒いま︱つは朝鮮方
への復帰を志し 応当面の問題は解決できた︒また朝鮮方で使用する用紙についても の独立が考えられる︒かねがね記録の重要性を主張してきた芳洲ゆ
え佑筆役所と同居しているような状況について早くからその改善を
支配役などに求めていたにちがいない︒ましてや朝鮮方の諸帳は通
交に関する故事先例や仕来りの参考書というべきものが中心ゆえ
﹁考物等之節﹂他役所の書類と混在していたのでは﹁甚差支﹂るの
は当然のこと︒何のため朝鮮方があるのかわからなくなる︒だがよ
うやく朝鮮方の役々も一所に参集しうるような部屋を割当てられ一
表書札方のものを流用していたが今後は朝鮮方の﹁通ィ帳﹂を用い
て斤定蔵から請取るようにとあり︑こういう点でも今回の移転で朝
( 11 )
鮮方が確立したといえるが芳洲にとってもこれが一つの区切であっ
たように思える︒人的な充実に物的な裏付けという要因も加わって
芳洲は潜商事件を機に朝鮮方から身を引き﹁本業﹂
たというのがことの真相ではないかと思う︒
ところで朝鮮方が通交関係の文書記録の作成と保管を主務とし︑
佐役は添役︑加役︑佑筆︑日帳付などを指揮し朝鮮通交の故事先例
等について支配役の諮問に答えまた進言するのを任務とするがこの
ことがまったく理解されていない︒朝鮮方の職務については﹃新対
( 12 )
馬島誌﹄の﹁職制機構一覧表﹂にも簡単ながら﹁朝鮮往来の文書を
掌る﹂と明記してあり改めてここでいう必要もないのだが︑近年朝
鮮方を外交担当の役所と誤解し佐役を勤めた芳洲を外交担当者ある
いは外交の実務家などとのべる著書や論考が多く︑またそれが国際 化の時流の中で世に受け入れられ定着しつつある︒もっとも﹃新対馬島誌﹄の説明ではその職務の詳細を知るのはむずかしく︑
﹁朝鮮方﹂の名前そのものが外交担当の印象を与えたことも確かだ
が主務さえ理解できておれば芳洲を外交担当者などと曲解しあらぬ
外交業績を強調することもなかったはずで︑これについては空論を
積み重ねていたというほかない︒今日︑対馬藩の藩政の人事や機構
は十分解明できているとはいい難く︑いま見たように朝鮮方はその
一例だがこのあと人事や機構の改編にも留意し藩政の根幹を見誤ま
らないようにしてゆこう︒
かくて芳洲は長い問つとめた朝鮮方佐役を辞任したがかような人
材をただ藩儒として勤仕させるだけではいかにも勿体なくそのこと
に気づいていた人物がいた︒享保期に入ると対馬藩の財政は逼迫し
( 13 )
︵一 七︱ 一︶
﹃長崎県史﹄によると正徳元年︑通信使の来聘にあたり幕府から金
︵一 七一 九︶
五万両を借りて急場をしのいだが享保四年のときも同様に金五万両
を借らねばならなかった︵しかし前回の返済残額などがあり享保四
( 1 4 )
︵ 一 七 二 0)
年の借金実高は金一万三七五
0
両で
ある
︶︒
同書
はま
た享
保五
年︱
︱︱
月︑藩が家中に示した倹約令︵﹁御家中達
経済状況を説明している︒この危機を打開するため実現はしなかっ
たが勝手支配の年寄・杉村采女がかつて郡奉行として功績あった陶
山庄
右衛
門︑
それに芳洲の登用を考えていた︒それを伝える﹁奥毎
日記﹂享保六年八月十三日条の記事をあげよう︒
一︑陶山庄右衛門義支配方佐役と被仰付雨森東五郎義御用人ニ 与頭方﹂︶をあげ苦しい
また
四
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
被相加奥表一致仕御倹約―—心を用我々共か丁寧―一致吟味候ハ、御為―—罷成候儀可致出来哉と奉存候付御案内申上候。此段可然
様二御披露頼存侯︒以上︒
︵ 年 寄
︶
杉村采女
右之書付入御披見侯処被仰出候趣左記之︒采女儀御留守之内御
︵大 浦︶
勝手向之儀忠左衛門同前―—被承候様ー一被仰付書付を以被申上候
趣一々御聴届被成侯︵中略︶東五郎儀ハ先頃訳官潜商之儀朝鮮
江申届候段可宜と之存寄を申出其存寄を御用不被成︑年寄中も
一同―—用ひ不申とて――一度迄書付を差出役儀を致辞退候而御前被
仰付を請不申已事を不被得佐役を被差免候吉=︱‑候得者只今用人——被仰付候とて請ヶ候筈ハ無之御前ヵも此節可被仰付事―—而無
之候︒依之両人之儀何レも被申出通ニハ不被遊侯︒御前思召者
右段々被仰述候通之御夏︳一候故御留守之間者忠左衛門同前ーー御
勝手向之儀を被承侯様ーー有之度儀と被思召侯︒︵後略︶
右被仰出之御書付古川繁右衛門︑井田四郎兵衛表江罷出采女
殿江相渡候処被仰出之趣承知仕候︒得と思慮仕重而御請可申
上と
之宴
也︒
これによると杉村采女が藩主︵まもなく江戸へ出立する︶の留守
中を案じ﹁勝手支配方︵藩会計を扱かう︑ふつうは支配方とよんで
いる︶の佐役に陶山庄右衛門︑御用人の一人に雨森芳洲を任用すれ
ば両人の働きで表向︑奥向が一致して倹約に心がけることができな 八月六日御用人中
ので
あろ
う︒
芳洲に負目を感じていたのである︒
五
お自分たち支配役がそれを十分に吟味しておれば藩の﹃御為﹄にな
るゆえ藩主にこの旨とりついでほしい﹂と御用人を通じて申し出た
ことがわかる︒庄右衛門︑芳洲両人の登用を考えるあたり采女の眼
も節穴ではない︒まさに窮余の一策といえる︒というのは庄右衛門
は当年六十五歳︑昨享保五年九月に﹁若殿様︵宗義如︶守役﹂の相
談役を命じられたがこの年二月病気のため辞任を願い出た︒だが藩
ではその見識を捨て難く﹁病中乍大儀﹂また﹁老人乍苦労﹂としな
がらも辞任を認めていない︵﹁表毎日記﹂同月十二日条︶︒かような
庄右衛門をこの苦難の時期に支配方の佐役に任じるのは酷というも
一方︑芳洲は十数日前︑七月二十六日に朝鮮方佐役を
辞任したばかり︒この両人の登用を願い出たのであるから窮余の一
策でなくてなんであろうか︒だが藩主はこれを認めなかった︒とく
に芳洲については佐役辞任を願い出たとき藩主のたっての依頼を断
わったほどゆえ承知するはずがなかろうとあり︑やはり潜商事件で
一方︑采女がこの決定を簡単に
承服しないと思ったのであろう︒藩主は御用人の古川繁右衛門︑井
田四郎兵衛を﹁表︵年寄詰の間と思われる︶﹂へ行かせ説得にあたら
せている︒難局を乗りきる切り札と考えた庄右衛門︑芳洲の両人を
任用できず︑最後に采女が﹁得と思慮仕重而︵御勝手支配を︶御請﹂
すると答えたとあるが采女の胸のうちが伝わってくるようである︒
ところで庄右衛門︑芳洲がこのような采女の意向を知っていたであ
ろうか︒他に関連の記録もないが藩主の反応からみて藩主︑采女︑
6月
2 6 日
(7
t1
2月分は欠本︶ 巳刻︵殿様︶御書院江御出︑雨森東五郎被召出論語之
講釈御聴被成ル︒
昨日御講日ーー候処御嘉祥之御祝ーー付今日雨森東五郎罷
出於御書院論語之講釈仕御聞被成ル︒
雨森東五郎 差紙請取6月
2 5 日
上 人 参 壱 両
右者暑気之節毎度御講釈相勤苦労︱︱被思召侯︒俯而為服用被成
下と之御夏︑御用人中詰問江召寄達之︒
雨森東五郎罷出於御書院論語之講釈仕御聞被遊ル︒ 6月
1 7 日 月66日 月日55 享保7年 四月二十七日︑藩主は参勤のため留守︶︒ 理由で辞退していたものと考えられる︒ し下命があっても庄右衛門は年齢と病気︑芳洲は藩主の推測通りの く知らなかったのではないかと思う︒また藩主がこの案に賛意を示 御用人両人のみ関知していたものと思われ庄右衛門︑芳洲はまった
さて佐役を辞任した芳洲は隠居し公務も退いたようにいわれてい
るがそれほ史料によらぬ勝手な解釈というもので芳洲は現役の藩儒
として勤仕をつづけている︒そこで藩儒として勤仕の実例を享保七︑
八年の﹁奥毎日記﹂にみてみよう︵享保六年八月二十八日ー同七年
︵殿様︶御出︑大目付︑御勘定役︑ ︵御書院で表勤の挨拶︶右相済而奥御番所江雨森東五郎、松浦儀右衛門、奥廻之面々列座―—而御礼申上、披
︵御 用人
︶
露井田四郎兵衛︒ 御書院ー一おゐて雨森東五郎論語之講釈御聞被成︒︵
表が 終わ って
︶
御奥御番所江御出被成雨森東五郎︑松浦儀右衛門︑奥
廻之面々列座御礼申上ル︒
︵享保八年三月十五日ー同年十二月二十九日︑藩主は参勤のため
翌享保九年になると唐詩訓解講釈などもあり芳洲も多忙である︒
また藩主・宗義誠の学問も通り一遍のものとは思えない︒講日に不
都合があれば翌日に講釈をうけていてとくに好学の風評はないが義
誠の思わぬ一面を知ることができる︒
就任︵享保九年九月︶までつづく︒
家中の子どもの教育にあたっていた︒ かような芳洲の講釈は御用人いつから開いていたのかわか
らないが﹁表毎日記﹂享保八年十一月九日条につぎのような記事が
あり芳洲の公務外の一面を伝えてくれる︒
銀 六 枚 雨 森 東 五 郎
右者御家中之子共多勢為学問東五郎所ー一罷越侯付此節座廻リ
為修覆料御目録之通被成下候間可被申渡旨組頭へ書付を以申
渡ス
︒
雨森東五郎被下物之義以別紙申達侯外︱ーも芸術之致指南を其宅——弟子多勢罷出候人も有之候処東五郎計右之通被仰付候段外之格―—違ィ候様―—可相聞候得共東五郎義ハ多勢之諸生を導精を出
し教え宜所か諸生之進ミ迄も宜段相聞へ第一文芸之義者上ぎも
留守
︶ 2月朔日
享保
8年
1月
2 6 日
一方︑芳洲は自宅で私塾を開き 六
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
これは藩とは無関係の私塾に対する修覆料であって「外之格―—違ィ候様——相聞」とあるように異例である。とくに対馬には藩校の小
学校があってそれとのかね合いもあり︑また芳洲は﹁指南﹂が家業
でもなくこの対応にほ藩も苦慮したはずである︒家業といえば芳洲
は﹁儒者﹂の職種に所属し﹁指南﹂は鑓︑射芸︑軍学︑柔術あるい
は笛︑小鞍︑大鞍など武芸や技芸の師匠がそれにあたる︒指南が家
業であれば藩の公認ゆえ補助は当然だが芳洲の場合それには該当し
ない︒それゆえ﹁第一文芸之義者上ーーも思召之旨有之﹂と藩の文芸
重視の方針をのべそのうえで﹁東五郎義ハ多勢之諸生を導精を出し
教え宜所ふ諸生之進ミ迄も宜﹂と芳洲の努力による成果を理由にし
ている︒なお﹁多勢之書生﹂が﹁御家中之子共﹂であることが大切
で︑でなければ藩費から修覆料を捻出することはむずかしい︒﹁座
廻リ﹂の修覆料というが藩から出た珍しい手当といる︒
前後したが芳洲は長男・顕之允の学業に見切をつけ家業︵儒学︶
相続を断わっている︒そのため顕之允は一家臣として奉公すること
になり︵﹁表︑奥︑組毎日記﹂享保七年五月十九日条︶代わって次 与頭衆中 年寄中 思召之旨有之侯而以前より小学校迄被仰付たる程之事ーー候処近来不絶多勢罷出座廻リ之損しも有之段相聞へ殊——指南家業―—而も無之候故座廻リ修覆等之義ハ上ヵ被仰付筈之儀ーー候と之御吟味之上右之通被仰付候︒此段各為心得申達候︒已上︒
十一月九日
七
男の徳之允が家業を継ぐがあとでのべる︒一方︑芳洲は弟子の畔蒜
伯麟︑のちの朝岡一学を藩へ推晩している︒伯麟は多くの門弟で中
で大浦益之進︵号は栴硲︶と並ぶ俊秀である︒伯麟︵当年十七歳︶
は学問料として﹁毎歳黒米︵玄米︶拾五俵﹂をうけることになった
︵﹁奥毎日記﹂享保七年五月十九︑
六月
二十
九日
条︶
︒
六月二十八日条︒﹁表毎日記﹂
いうなれば長男に代えて門弟を藩儒候補に推薦
したわけだがこれはこと学問に関しては私情を入れず優秀な人材を
積極的に世に出した芳洲の一面を知ることができる一例であろう︒
もっとも藩儒になっても実力がなければ﹁朝鮮向之御用﹂を達する
ことはむずかしくあながち芳洲の公平さを強調することもないが当
︵一 七ニ ー︶
初藩では顕之允にそこまで求めていなかった︒前年の享保六年夏ご
ろ芳洲が最初に断りを申し出たとき藩は﹁顕之允義学問不得方と申——而も無之素リ年若ーー候故精出し候ハ、以後ハ朝鮮向之御用相達候程-—罷成間敷義無之候間随分精出させ候様こ(「表毎日記」享保
る︒その間芳洲は顕之允を督励したであろうが伯麟の成長がより著
るしかったというのが実状ではないかと思う︒そのうえ伯麟は顕之
允より約五歳も若くはるかに将来性があった︒結果的には芳洲の判
断は正しく伯麟は期待通りの藩儒となり朝鮮方の所用をつとめた︒
だが顕之允も御供頭︑江戸御供御使者番︑朝鮮横目頭などを勤めて
いてあえて芳洲の非情をいうこともなかろうと思う︒仁配信年五月
十六
日﹁
寅ノ
上刻
大町
⁝・
:ふ
出火
:・
・・
・浜
手迄
不残
焼失
︵焼
失家
数参
七年五月十九日条︶と顕之允の学問成就に猶予を与えていたのであ
(斜線は焼失地域)
百拾九軒)……但山手―—而ハ御使者屋、橋辺正左衛門(このほか五
軒︶此分ハ相残ル﹂と府中の大火が伝えられる︵﹁表毎日記﹂︶︒大
火のあと雨森顕之允らについて﹁北東之方所々相働⁝⁝﹂あるいは
﹁顧紀霜序相見候節相働⁝⁝﹂︵﹁表毎日記﹂五月二十七日条︶
とあり、顕之允は「無禄——而御奉公」(「奉公帳」)に出仕以来約一
年︑この働きも評価されたらしく約半年後の十一月朔日﹁御供頭﹂
てゆ
きた
い︒
︵享 保八 年︶
﹁表毎日記﹂にはこの年九月十八日条に︑
松浦儀右衛門 吉
川 金 吾 へ
に任命された︒なお大火の絵図が﹁表毎日記﹂︵五月十八日条︶に
あり延焼を免かれた元方役所︑橋辺正左衛門宅の所在がわかる︵上
図参照︶︒現在の西山寺の下だが使者屋︵訳官の宿舎などに用いた︶
の北隣に藩の私貿易を担当した元方役所があり︑小道を挟んで北側
に橋辺正左衛門宅があった︒正左衛門は﹁朝鮮人︳︳聞まかひ候ほと
( 15 )
の上手﹂と称えられた朝鮮語の達人・橋辺判五郎の長男でかつて芳
洲に師事し学者を志していたが病弱のため断念し能筆ゆえ﹃宗氏家
譜﹄の清書役などをつとめていた︒大火のため思いもかけず橋辺家
の所在などが判明したが以後細かいことだがこういう点にも留意し
雨森東五郎娘
右縁組願之通被仰付候︒
とあって芳洲の一女の結婚が伝えられるがこれ以上に関連史料もな
︵享 保八 年︶
<詳細を知り難い︒また若千前後するがこの年三月︑芳洲夫人の
兄・小川加賀右衛門が茄気のため夜番の免除を願い出て認められて
いる︒加賀右衛門も当年六十二歳︑以後夜番の免除願いが享保十一
︵一 七二 四︶
年末までつづく︒享保九年に入ると芳洲の次男で家業をつぐ徳之允
が松浦儀右衛門の養子になっている︒﹁表毎日記﹂四月十八日条に
よる
と︑
八
とあって藩の許可が出ている︒藩では原則として五十歳以下のもの
に養子を認めていないが儀右衛門が病弱のこともあって承認された︒
また徳之允は文平と改名し翌月には唐音稽古を認められ︵﹁表毎日
記﹂享保九年閏四月二十一日条︶約二年間長崎に滞在する︒一方︑
芳洲に関しては論語や唐詩訓解の講釈のあい間につぎのような記事
がみられる︵﹁表毎日記﹂享保九年五月三日条︶︒
黒米
拾俵
人蔓二両
︵宗 義真
︶
右 者 頃 日 天 龍 院 様
譜 ﹄
︵宗 義倫
︶
霊光院様御両代之御実録仕立差上候付今
日於御書院ー一東五郎江御読せ被成御聞被遊ル︒尤年寄中御通シ
被成ル︒相済而御実録仕立差上候付為御褒美黒米拾俵之御目録
︵御 用人
︶
於御前井田四郎兵衛相渡之︒人参者数日致苦労候付被成下御目
録同前ーー相渡此節致苦労侯と之御意有之︒年寄中井東五郎江御入被成候跡ー一而御吸物―—而御酒被成下ル。
両実録の草稿の完成は約十年前の正徳四年だが推敲を重ね清書を
終えて先月藩へ提出した︒芳洲も多忙である︒両実録は﹃宗氏家
︵第声一代︶︵第二十二代︶︵第二十代宗義成までを叙述︶のあと真︑義倫時代の藩史を
芳洲が編集したもので後代の実録の手本となったもの︒原史料が随
所に用いられ記録を重んじた芳洲の面目を窺い知ることができる︒
対馬藩の御用人勤仕前後の雨森芳洲とその周辺 雨森東五郎 右者儀右衛門実子無之遠方ー一罷在侯親類中二も家督相続可仕相
︵ マ マ
︶
応之者無之︱ー付東五郎次男徳允養子ーー仕度旨双方ヵ以書付願出
候︒儀右衛門義未五拾歳二小罷成候得共前々例も有之候二付願
之通被仰付候問可被申渡旨組頭江以書付申渡ス︒
居 ﹂
九
庄
頼を寄せた藩主が財政的危機に際したって御用人への登用を希望し 一人で諸記録に史料を求め編集するのは大変だったと思われるが藩でもその労を多としているのがわかる︒
︵一 七二 四︶
本章から御用人・芳洲をみてゆくことにしよう︒享保九年十月二
雨森東五郎
右者御用人原熊之返代リ被仰付候︒年長ヶ苦労ーー候得共可相勤
之旨被仰出候間可被申渡候事︒
老練の原熊之返が﹁若殿様近習役﹂になりその後任となったわけ
だが芳洲とて﹁年長ケ﹂といわれる年齢︵五十七歳︶である︒その
間の事情を説明した史料などはないが論語等の講釈を通じ芳洲に信
たのではないかと思う︒また佐役辞任から三年︑芳洲の方にも強硬
な姿勢に若干軟化の兆がでてきたのかとも思う︒また九月十六日︑芳洲が畏敬していた陶山庄右衛門が「六拾八歳老衰仕候由―—而隠
︵﹁表毎日記﹂同日条︶した︒あるいはこのことが芳洲に︑
右衛門に代わって奉公を覚悟させたのかもしれない︒
十月二十八日条には︑
﹁表
毎日
記﹂
雨森東五郎御用人役被仰付候付御盃被成下ル︒
とある︒いわば藩主の信任をうけたわけで芳洲の約四年半に及ぶ御 て
いる
︒
十五日の﹁表毎日記﹂にはその就任についてつぎのように記録され
用人時代がはじまった︒ところで芳洲は奥勤ゆえ奥向以外︑つまり
表向の役職には就任できないことになっている︵表︑奥勤の兼職は
宗義真の時代から禁じられていて管見の限りでは享保十二年八月︑
御用人の古川繁右衛門が印判役を兼ねた例があるのみ︶︒その奥勤
の役々をみると御用人を先頭に大目付︑勘定役︑藩儒︑馬廻之小姓︑
同医師︑小姓︑納戸掛︑元方役︑作事掛︑庭掛︑日帳付︑御側歩行︑
磯掛︑茶湯坊主がいて芳洲は奥勤の筆頭にあり藩政の要にいたとい
える︒もっとも御用人は芳洲一人ではなく先任に古川繁右衛門︑井
田四郎兵衛︑難波左吉がいて計四人であった︒御用人に限らず藩政
を掌る諸役はおおむねニー四人となっていて合議制を基本としてい
る︒ところが御用人はたえず藩主に近侍し奥向諸役を支配しなお表
向の諸役と連係を保たねばならず﹁年長ヶ﹂た芳洲には激務であっ
たはずである︒﹁表毎日記﹂十一月七日条には︑
ク御銀山役原熊之允御役替へ被仰付候︱ー付井田四郎兵衛被仰付
レ︒
ク雨森東五郎御駕籠之組支配被仰付ル︒
とあって御用人の支配する役儀交替が伝えられる︒御用人は分担し
てつぎのような奥向に属する組などを支配していた︒
御納戸銀︑御銀山︑御膳方︑御賄方︑御茶道方︑御茶湯道具︑
御草履取組︑御持筒組︑御駕籠組︒
芳洲はこのうち今回の駕籠組をはじめとして︑銀山︵享保十年十
二月二十六日より︶︑草履取組︵享保十二年六月七日より︶を支配 していた︒御用人の支配する組のうち草履取︑駕籠組から和館及び佐須奈の関所に下横目を一人ずつ出さねばならずその人選も組支配の役目である︵これを組下横目とよぶが鉄砲︑旗︑道具︑厩の各組にも和館及び佐須奈関所ヘ一人ずつ割当てられている︶︒そのほか出仕日に運上銀などの納入があれば納戸支配の年寄ともども納戸蔵で立ち会い員数の確認など行なっている︒こうしてみると御用人ほ表︑奥の諸役のうちでもっとも多忙な役職ではなかったかと思う︒御用人ならではのつぎのようなこともある︒﹁奥毎日記﹂享保十年
正月
二十
一日
条に
︑
今夜八ッ過キ時分御腹御痛ミ被遊候由被仰出候︳一付早速御番医
高雄祐庵︑東五郎致同道御居間江罷通︑祐庵御様鉢相伺散薬両
︵ 侍 医
︶
度差上候処少々御和キ被遊其内古森泰庵申遣追付泰庵罷出御様
鉢相伺御煎薬両度差上候処段々御快方︳一被成御座候也︒
とある︒この日は偶々芳洲が宿番にあたっていた︒御用人には夜番
があり藩主の不例などがあるとその苦労は並み大低でない︒幸い番
医︑侍医の手当ですぐ快方に向かったが御用人は藩主の身辺に絶え
ず注意しておかねばならなかった︒かような公務の合い間︑年の暮
の﹁表毎日記﹂十二月十九日条につぎのような記事がみられる︒
1 0
雨森顕之允江
早田式左衛門娘
︵他
三組
︶
右之通縁組仕度旨願出候付則願之通被仰付候旨組頭中江申渡
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
右ハ五ケ年以前朝鮮方添役と被仰付候処朝鮮江も折々被指越段
段役功も参
御用︳ー相立候付松浦儀右衛門同前ーー朝鮮方佐役被l J
仰付候︒儀右衛門申談念を入可相勤候事︒
とあって越常右衛門の朝鮮方添役から佐役への昇任が決定している︒
約四か月前の﹁表毎日記﹂閏四月十三日条に﹁文学之筋心掛候得共
不得︱︱有之﹂とて常右衛門から添役辞退の申し出があり藩が﹁今程功者―—罷成御用も達ッ候段被聞召上候」ゆえ「其身文章相応ーー相働
侯様ことそれを退けている記事がある︒常右衛門自身は﹁文学之
筋⁝⁝不得﹂というがすでに朝鮮方に欠かせない存在になっていた︒
享保六年四月︑幕府から朝鮮の薬材鳥獣草木の調査依頼があり藩は
常右衛門にそれを命じた︒常右衛門は書記︑絵師とともに約一年半
和館に滞在して調査にあたり幕府にそれを報じた︒そのことで常右
衛門は幕府から褒美として﹁時服﹂をうけている︒この調査報告が
認められ享保八年八月に藩から﹁海東青︵朝鮮の鷹のこと︶﹂のこ
とで再度朝鮮行を命じられている︒これではとても﹁文学之筋
. . . . . .
た前後するが﹁表毎日記﹂八月九日条によると︑
之 ︒
越常右衛門 顕之允︵当年二十七歳︶の妻となった式左衛門の娘だがその名を
詳かにしない︒式左衛門その人は馬廻格︵高百九十八石︶の侍で享
堡︱︱ー七年︑藩主の子女︵お千代︑富之允︶附に任じられていたが
このころすでに老年のようで享保十六年に隠居を許されている︒ま
雨森東五郎 不得﹂などとは思えず藩では逆に常右衛門の実力を確信していたのである︒釜山で朝鮮側の役人などを相手に行なう動植物の調査は並み大抵のことでなく︑また二度︑計約一年九か月の和館滞在で常右衛門は朝鮮語もかなり理解していたのではないかと思う︒こういう点でも常右衛門は芳洲の後任として申し分のない人材であった︒常右衛門はこのあと藩命にしたがい佐役をつづけ松浦儀右衛門の没︵享保十三年九月朔日︶後は朝鮮方の中心的存在となるがそれは別稿
での
べる
︒
る︒藩邸における正月行事のため御用人は多忙であ
︵一 七二 五︶
享保十年に入
る︒元日は包丁初めの行事があり包丁人に﹁御前︳一おゐて御祝儀被
下之︑雨森東五郎渡之﹂︵﹁奥毎日記﹂︶とある︒このあと藩主に表
廻りの面々の挨拶があり︑終わって﹁奥廻リ之面々御礼﹂があって
御用人以下役名が記されている︒芳洲は御用人中に含まれているが
勘定役のあとに藩儒として松浦儀右衛門の名がある︒翌二日条には
つぎ
のよ
うな
記事
があ
る︵
﹁奥
毎日
記﹂
︶︒
右者当年江戸御供―—可被差加候。其旨可被申渡侯。且又兼而被
仰出候通御用人役今壱人可被差加候間人柄之義致吟味被相伺候
︵ 古 川
︶
︵ 難 波
︶
様︱ーとの御事被仰出表江繁右衛門︑左吉罷出申達ル︒御年寄中
御請取申上候ハ奉畏候︒御用人役之儀重キ役ーー御座候間人柄之
儀叩店叩閂仕候節申談候上可申上と之御請也︒
藩主は三月参勤のため出立するが芳洲にその御供を命じている︒
記﹂にあるのでみてみよう︵正月十五日条︶︒
︵享保九︑一七二四︶右者去年以来学文料被成下学芸精出相勤申候︒然処雨森東五郎
願出候者其身此度江戸御供被仰付罷登候付其内長崎江遣置松浦
文平同前毎日南京寺江罷越唐音稽古為仕度候間壱人分之旅籠月
切銀被成下候ハ、居所ハ文平壱所―—罷上候様__可申付由願上候。
辿も唐音稽古不仕候而難叶事︱ー御座候間東五郎願之通此節長崎
江被遣候得者宿代下人等も雑作も無御座候故長崎江被差越稽古 畔蒜伯麟 藩主義誠は芳洲を信頼し御用人に不可欠の人物と考えていたようでなお江戸滞在中も芳洲の講釈を希望していたようである︒前︵享保六年︶は臀や腰の痛みゆえお供を辞退したが今回は御用人ゆえ断るのはむずかしい︒ところで芳洲は江戸行の間︑弟子・畔蒜伯麟を長崎へ行かせ唐音稽古をさせたいと申し出ている︒伯麟の学問的成長は著しかったようで昨享保九年五月から学問料︵黒米拾五俵︶に加え﹁筆墨料﹂として毎年﹁銀八枚宛﹂を受けることになった︒そのため芳洲は伯麟の﹁学問増長﹂を口上書に認め藩へ申請している︒藩ではその真偽を松浦儀右衛門に確め検討のうえ仁位弥三郎︵芳洲の弟子で藩襦候補の一人︶の宛行︵三人扶持三石と筆墨料銀八枚ずつ︶に準じ伯麟への支給を決めた︵﹁奥毎日記﹂享保九年五月︱︱︱日条︶︒伯麟の学オもだがそれを伸ばすため芳洲が機を失せず藩へ学問料や筆墨料の宛行を求めているのも目を引く︒今回の長崎派遣もよほど伯麟のオを見込んでのものと思うが関連の記事が﹁奥毎日 被仰付如何可有御座候哉︑奉伺候︒
︵古 川︑ 御用 人︶
右伺之通被仰出表江繁右衛門申達ル
藩財政逼迫の折から芳洲の申し出も遠慮勝ちで次男の松浦文平の
宿所に同居させることを条件にしている︒それゆえ旅籠代も一人
分︑滞在費として月切銀︵何匁か不明だが筆墨料程度かと思う︶の
みの要求である︒ちなみに文平の長崎滞在には﹁上下三人旅籠︑月
御合力銀拾五匁﹂さらに宿代も加えられていて伯麟の比ではない︒
しかも文平はまだ奉公前で身分的にほ伯麟と同じだが義父の松浦儀右衛門が藩へ強く申し入れ塩川常右衛門の長崎滞在(享保―
R~ ―――
年︶と同格の待遇にさせたのである︒また文平は船中でも﹁上棚﹂︑
博多から長崎までは﹁書籍等も持越候故継馬二疋﹂を許されている
︵﹁表毎日記﹂享保九年八月十九日条︶︒もっとも文乎の将来を藩が
確信していたからであろうが実父が芳洲︑義父が儀右衛門︵霞沼︶
の余沢はやほり大きいというべきであろう︒藩では伯麟に唐音稽古
をさせることでその長崎行を認めた︒伯麟にとっては絶好の機会で
あった︒伯麟は文平の手引きをうけ唐音稽古に励んだことと思うが
それを伝える記録はない︒文平と伯麟が宿所とした﹁南京寺﹂は興
︵享 保元
﹁宗家文書﹂における同寺の初見は﹁表毎日記﹂正徳
福寺
のこ
と︒
年︑一七一六︶六年五月二十三日条で塩川常右衛門︵当時は伊右衛門︶の唐音稽古
をめぐる年寄中の覚書の中につぎのようにある︒
︑
︑
︑
︑
︑
⁝⁝於長崎公儀向差支無之罷成義︱ー候ハ︑南京寺へ相頼寺之
︑︑
︑︑
内之長屋——而も借候而居住仕侯ハ、稽古之為―一も可宜旨願出侯。
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
︵長 崎聞 役︶
此段ハ平田幸右衛門へ申遣
︑︑
︑︑
︑︑
ハ南京寺之境内―—而令借宅差置候様ーーと申越候間彼地―—而承合
之上如何様共可申渡候⁝⁝︒︵傍点筆者︶
これによると常右衛門は﹁公儀︵長崎奉行︶さえ認めてくれるな
ら唐音稽古のためにもよいので南京寺の境内にある長屋に住みた
い﹂と藩へ申し出ている︒藩では長崎聞役にそれを打診させ﹁公儀
向差支無之﹂との回答を得たわけだが南京寺ほ住居の場であって稽
古のそれは別である︒この覚書のはじめに︑
︵長 崎︶
彼地之義商人計居住仕候地二叩候故侍格之者も通詞中之参会ニ
︑︑
︑
も差支其上唐人屋へ侍之出入御禁ッ被成⁝⁝候故彼地逗留中短髪仕無刀——而稽古ー一罷出度……。(傍点筆者)
と常右衛門の申し出があって稽古は唐人屋で行なわれたことがわか
︵一 六八 九︶
る︒唐人屋は元禄1一年に完成した唐人屋敷のことだがかつて芳洲も
そこで上野玄貞︵唐通詞と思われる︶に唐音を学んだはずである︒
だが芳洲の場合︑興福寺を宿所とした記録はない︒申し出の内容か
らみて常右衛門がはじめての例と思われ文平もそれにならった︒し
たがって常右衛門も文平も稽古のため興福寺から唐人屋敷へ通って
いたのである︒なお唐人屋敷へ侍の出入りは禁制ゆえ常右衛門はそ
のままでは入館できなかった︒常右衛門の家業は﹁小学校師﹂だが
侍格としては馬廻︵高百五十石︶でむろん帯刀もしていたからである。それゆえ常右衛門は長崎滞在中「短髪仕無刀——而」過ごしてい
( 1 6 )
た︒松浦文平︑畔蒜伯麟も同様であったと思うがなおそれは長崎に 公儀向差支無之弥無別条訳ーー候ハおける若き日の芳洲の姿でもあったかと思う︒唐人屋敷における唐音稽古あるいは興福寺内での下宿などは今日的に見れば中国への留学にも等しい体験といえるだろう︒こうしてみると芳洲をはじめ対馬藩の藩儒たちは異国を知ることの少ない江戸時代にあって朝鮮はおろか中国の人にも肌身で接しその学問や文化を体得した特異な知識人の一派といえるのではあるまいか︒そしてこのような芳洲をはじめとする特異な藩儒たちの一派を対馬における実学主義の学統とよんでもよいのではないかと思う︒
芳洲の江戸行にともない御用人の補充が年寄中へ伝えられている︒
年寄中の返事に﹁御用人之儀﹂は﹁重キ役ーー御座候﹂とあってそれ
が藩政の枢要の職であり﹁人柄︵適任者︑不適任者︶﹂が藩政に直
接影響するとある。そのため筆頭家老•平田隼人の帰国(藩主の長
子・三四郎が失明したため次子・弥一の嫡子成を幕府に報じる使者
として上府している︑まもなく帰国する︶次第相談のうえ決めると
のことだが二月二十八日︑中原伝蔵が御用人に任じられた︒伝蔵ほ
それまで船改役︑船奉行︑郡奉行︑勘定役︑朝鮮一代官などを歴任
し藩政の内外に通じていて適任者の一人︑このあと享保十四年七月
まで御用人を勤める︒芳洲は出立︵三月十九日︶前にまた弟子のこ
とで藩へ願い出ていて﹁奥毎日記﹂二月十四日条につぎのようにあ
る ︒
町人
大浦
九郎
兵衛
悴
徳太郎
右者
雨森
東五
郎方
︳︳
而学
文仕
候処
学芸
得方
ーー
有之
︱ー
付只
今廃
学
之 ﹂
仕候而者修行差支ー一罷成候間江戸表江召連指南仕度由東五郎願
出候付道中旅籠銭︑乗掛馬被成下︑於江戸表ハ壱人扶持ー一月御
合力被下召連候様ー一被仰付如何可有御座候哉︑勿論追而^芸術
次第如何様ーーも可被仰付候得共先此度ハ東五郎御供往来仕ル間
之儀ーー候︒此段奉伺之候︒以上
右伺之通被仰出表江東五郎申達ル︒
この大浦徳太郎が伯麟と並ぶ俊秀益之進のことで伯麟同様に対馬
出身︒対馬藩が自前で育成する藩儒候補ゆえ芳洲の申し入れも受け
入れやすい︵塩川常右衛門は対馬生まれだが父の伊右衛門は大坂か
ら招かれた︒松浦文平と同様の出自である︶︒徳太郎は当年十四歳
︵正徳二年生まれ︶︑むろん奉公前だが道中の旅籠銭及び乗掛馬︑
また江戸滞在中は毎月﹁壱人扶持﹂の宛行を与えられ芳洲もまずは
安心したことと思う︒藩では﹁追而ハ芸衡次第:・⁝﹂と徳太郎の芸
術︵学問成就のこと︑稽古を必要とするものは芸術とよばれてい
る︶に期待を寄せているが伯麟とともにその期待に応えるようにな
る︒芳洲も対馬へ定住以来三十年近くなり後進育成の成果が見えは
じめたといえるだろう︒かくて芳洲︑徳太郎の師弟は三月十九日︑
藩主の参勤行にしたがいともども対馬を立った︒対馬帰着は半年後
の十月三日である︒芳洲留守中の八月三日︑明け方より大風雨で
﹁御城之内御屋敷其外所々役所番所井御家中寺社町家共郵敷破損有
︵﹁表毎日記﹂同日条︶とあるほど府中の被害は大きかった︒
芳洲の自宅ではそれ以上であったらしく約一月半後の﹁表毎日記﹂ 白米拾表料雨森東五郎︵
他二
名︶
右者去月︳︱‑日大風雨之節居宅及破損住居難成候付石米拝借之儀
願出候︒今程別而御差支之時節ー一候へとも其分戸も難被差置候
付御目付見分之上右之通前借被仰付ニケ年二御引取被成候間仮
成ぎも早々致修補当難相浚候様可被申渡候︒
﹁住居難成﹂とあるゆえかなりの被害だが藩では目付に状況の検
分︑確認をさせ蔵米の前借を認めている︒白米拾俵ゆえ二年の返済
期間だが借米が多ければ十年以上にも及ぶ年賦返済となる︒だが藩
士や家業人には救貧を目的に扶助の制があり江戸の勤務月数を基準
に朝鮮へ使行させ所務︵功労金ともいえる臨時収入︶与えていた︒
藩士たちはその所務で借銀などを一括返済するのがこのころ通例に
なっていたのである︒いま芳洲は江戸勤務中だがなお組頭や御用人
には所務の多い裁判に任命されるのが慣例となっていて芳洲もその
泣
例にもれなし今回の前借は二年で返済だがこのころ芳洲は三年前︵享保七年︶朝鮮方から借りた銀一︳一貫目を﹁年麦拾俵﹂ずつ︵十五
年賦と思われる︶で返済していたゆえ借銀︑借米が重複したことに
なる︒苦しい家計に災害が追討ちをかけたに等しい︒思わぬことで
芳洲の借銀︑借米生活を垣間みたが藩士の多くもほぼ同様の経済状
態で
あっ
た︒
江戸から帰国後も多忙な日々がつづくが﹁奥毎日記﹂十一月朔日 九月十五日条につぎのような記事がある︒
一 四
いる
︒
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
条につぎのような記事がある︒
今日木坂八幡宮江御社参︑御発駕︒
ク御留守中御奥御番人左記之︒
雨森東五郎︑野村三五平︑印束沢右衛門︑原左忠太
右二人ツ︑一昼夜交代︒
龍田六左衛門︵以下奥茶道まで十四人︶
右一人ツ︑一昼夜交代︒
右之通木坂御社参御留守中御番被仰付ル︒但御台所廻リ者常
之通
相勤
ル︒
木坂八幡宮︵現︑上県郡峰町木坂にある︶は対馬国一の宮で宗家
の崇敬が厚く折々に藩主の社参があるのはそのためである︒ところ
で藩主が留守中とはいえ奥御番に疎漏がないようきめ細かく当番表
が作成されている︒奥御番の責任者が御用人の芳洲なのだが台所に
至るまで奥廻り全体に目を配らねばならないのである︒だが奥向の
面々には苦労に対する配慮もなされていてこの日﹁御発駕被遊候為
御祝奥廻リ詰合之面々江煮肴ー一御酒御振廻被成ル﹂とありまた藩主
帰着後の十一月四日条には芳洲に鯛などの﹁被成下﹂が記録されて
﹁奥毎日記﹂十一月二十五日条に毎年この時期に行なわれる
ロ切茶会の記事がある︒茶会には外交文書を掌った以酎庵の輪番僧
︵このときは相国寺松鵬庵の蘭谷祖芳長老︶を招くのを恒例として
いたが﹁御料理半ーー御用人雨森東五郎罷出御口上申達﹂とあって芳
覚
一五
洲が芳長老に招請の挨拶をのべている︒輪番僧には詩文にすぐれた
人物もいて芳洲とは共通の話題もあったことと思うが残念ながらか
ようなことほ記事にはない︒記録にみる限り茶湯や茶道具に関心の
乏しい芳洲だったが﹁奥毎日記﹂十二月七日条をみると芳洲が志賀
窯︵府中の久田道下に所在︶の認可を﹁表﹂へ伝えている記事があ
る︒すなわち平川幸右衛門と小寺小十郎の両人が久田道の﹁大石瀧
之助娘屋敷﹂で﹁燭仕リ度由相願﹂出て藩主の判断を待っていたの
である︒翌八日年寄中から町奉行へそれが伝えられている︵﹁表毎
日記﹂︶がこの開窯願いは表︵年寄中︶で吟味のうえ奥へ送られ時
宜をみて御用人が藩主へ取次ぎ藩主の裁可は再び御用人から年寄中
へと伝えられたのである︒何の変哲もないことだがこの﹁表←奥←
藩主←奥←表﹂の過程をみていると藩主を中心とした藩政の仕組み
がよくよみとれる︒また﹁奥毎日記﹂が政策等にかかわる藩主への
伺あるいは藩主の判断などを記録していて単に宗家奥向の諸事だけ
を伝える日記ではないこともわかる︒これに較べ﹁表毎日記﹂は藩
政記録の中心となる日記にはちがいないが政策を執行させるため年
寄中から諸役への伝達記事を主としそれが決定に至る経緯にはまっ
たくふれていない︒こうして見るとそのような経緯を伝えているの
ほむしろ﹁奥毎日記﹂の方で藩政の根幹を知るにはこれが必見の記
録であることに気づく︒﹃新対馬島誌﹄は奥書札方を﹁奥向の記録
( 18 )
儀礼を掌り︑祐筆︑日帳付の役を置き﹂と簡単に説明しているが
﹁毎日記﹂の内容からみて奥書札方はもっと藩政の枢要に近くまた
御駕
籠組
佐次兵衛 改
右者先年於江戸表御駕籠之者︳︳被召抱廿ケ年余相務其後高寿院
様御門番相務候処老衰仕候故御門番も被差免為御救御米壱斗ツ
︑被成下候処ーー極老之者にて経営不罷成候付壱人扶持ツ︑被成
下候様二麒出候︒不限此者ケ様之軽キ御奉公相勤候者致老衰候
得^御救扶持被成下候様ーー候処此者之儀ハ先年御駕籠組&高寿院様御門番——被仰付候刻代人とても相立不置由ーー侯故只今介抱
之者も無之と相聞候間重而御駕籠之者御定人数令不足候節代人
十二月十三日 被相抱候ハ︑右左次兵衛代人を無失念様ーー可被召抱候︒其間者御救扶持壱人扶持も被成下候︒尤代人相立候ハ︑只今迄之御救扶持ハ其節御引可被成候間兼而其旨可被申付置候︒已上︒
年寄中
雨森東五郎殿
これは芳洲が駕籠組を支配しているからだが覚書をみていると藩
の人的な管理は﹁軽キ御奉公相勤候者﹂にまで及び終身的な福祉も
用意していることがわかる︒まず佐次兵衛の経歴をみると﹁駕籠之
覚
があると私は考えている︒
﹁表毎日記﹂十二月十三日条に年寄中から芳洲にあてた元駕籠組
の老人に対する扶助の覚書がある︒御用人の組支配の用務また老人
福祉の実際もよくわかるのでつぎにあげておこう︒ 高度な実務を取扱ったように思われいま一度検討し直してみる必要者﹂として江戸で召抱えられ二十余年勤めたあと高寿院︵宗義真夫人︑前藩主宗義方の母︑その居所に因んで瀧か隊様とよぶ︶居所の門番となったが老衰ゆえ勤務を免じられ﹁御救御米壱斗ツ︑﹂の給与を受けていた︒だが﹁極老之者﹂ゆえ給米だけでは生活できず
﹁壱人扶持ツ︑﹂に増額してほしいとの申し出である︒ところが藩
では佐次兵衛のような﹁軽キ御奉公相勤候者﹂が﹁極老﹂に至った
場合﹁御救扶持﹂を受けられるよう手当をしているとある︒但しそ
のためには﹁軽キ御奉公﹂から転じる場合代人を残しておかねばな
らなかった︵その代人の宛行分から﹁御救扶持﹂を賄うのであろ
う︶︒だが佐次兵衛はなぜかそれをせずに﹁高寿院様御門番﹂に転
じ勤務御免となったいま﹁御救扶持﹂の権利を失なってしまってい
た︒そこでその佐次兵衛に扶持回復の処置を構じるよう命じ駕籠組
に欠員が生じたとき佐次兵衛の代人を優先するよう念を押したもの︒
そして仮に﹁御救扶持﹂を支給するが代人が出れば駕籠組からそれ
を出すよう組支配の芳洲に指示しているのである︒対馬藩の福祉対
策をみていると幼児や貧窮民をもその対象としまた折々に長寿者へ
米麦を贈っている例もあって暖か味を実感することが多い︒この佐
次兵衛一件もかような暖か味のある老人福祉の一例だが今日にも通
じるものがあり一考あってしかるべきことのように思う︒このあと
佐次兵衛に関する記録はないが指示通り支給されたことと思われる︒
年の暮十二月二十六日︑芳洲は銀山役を命じられ﹁奥毎日記﹂には
つぎ
のよ
うに
ある
︒
一 六
対馬藩の御用人勤仕前後の雨森芳洲とその周辺 雨森東五郎︵
古川
︑御 用人
︶
右ハ松尾杢為代御銀山役被仰付候段被仰付候付繁右衛門申達
レ︒
先任の松尾杢が裁判となり芳洲が後任となったのだがこのころ稼
働していた露野銀山は﹁令衰微候上一両年ハ出鉱甚出劣候﹂︵﹁奥
毎日記﹂享保十年1一月二十一日条︶という有様で数百人の人夫の処
遇が問題となっていた︒銀山役は他と異なり人夫や道具の管理の用
務が多いためか盆︑暮の見合銀︵手当︶を支給されていた︒たとえ
ば﹁奥毎日記﹂享保十一年七月九日条には︑
金子弐百疋雨森東五郎
右者御銀山方兼帯相務候付孟蘭盆之為御見合可被成下候哉︒
右之通奉伺候︒以上︒
︵中 原︑ 御用 人︶
右伺之通被仰出表江伝蔵申達ス︒
とあるが年二回﹁金子弐百疋﹂ずつの支給であった︒だが銀山役の
用務も繁多でその気苦労も察せられる︒
本章では享保十一
i ‑
︱一年︵一七二六ーニ八︶における芳洲の御用
人勤務をみてゆこう︒﹁奥毎日記﹂正月二日条に︑
︵年 寄︑ 御納 戸支 配︶
御納戸蔵御蔵開之御祝有之ーー付杉村采女︑古川繁右衛門︑雨森
東五郎罷出︑三献之御祝被成下ル︒
とあって芳洲ほ納戸蔵の蔵開きに立ち会っている︒納戸蔵は藩主の
一 七
雨森東五郎 用銀などを納めるいわば奥向の心臓でありその開閉には必らず御用人を立ち会わせていた︒﹁表︑奥︑組﹂各毎日記の二月十六日条に芳洲の御用人辞任願いが記録されているが詳しい﹁奥毎日記﹂の記事をあげる︒
雨森東五郎御役御断之口上書御年寄中ヵ差上候付則御前江差上
入御披見︑左記之︒
︵享 保九
︑一 七二 四︶
私儀不存寄去々年結講成ル御役儀被仰付誠以難有次第奉存侯︒
何とそ精力を尽し御厚恩之万一を奉報度存罷在候処諸事不調
法︱一御座候段ハ申二小及︑第一去夏以来精神抜ヶ切ど候様ニ
覚江近年ハ健忘症之ことく有之差当リ候事をも失念仕候︒大切成ル御役儀一日——而も相務候段冥加恐敷奉存候。初是乍恐
不得止御役之御断申上候︒
二月十四日
︵ 組 瀬
︶
大浦兵左衛門殿
︵ 組 頭
︶
浅井与左衛門殿
︵ 組 頭
︶
杉村帯刀殿
此段被聞召届御役被差免被下候
ハ︑難有可奉存候︒読``︑書キ之事ともーー無覚束存候得共夫故
被召出候私事ーー御座侯故何とそ養生仕足腰之立候間者被仰付
次第相務度念願奉存候︒此趣御序之刻宜被仰上可被下候︒以
上 ︒
雨森東五郎印
右者御用人役被仰付置候処去夏以来精神乏罷成御役難相務候由——而以書付御断申上候付達御聞候処御断之趣尤思召候。併未極老と申―—而も無之候故此節者難被差免候間乍苦労相務候様ーーと
の御事︳一付被仰出之趣御年寄中へ即
m
﹄闊
記達
ル︒
右之通申渡候処御請申上候ハ段々結購︳一被仰付候上押返し御断
申上候も却而恐多奉存候付先御請申上候︒乍然年罷寄候得ハ物
覚等無座候付先々又々御断申儀も可有御座候間其節ハ被差免被
下候様︳一兼而被聞召置被下候様︱ーと之趣御請申上候間其段御序
︵大 浦︑ 月番 家老
︶
ーー申上候様︱ーと忠左衛門殿被仰聞候付其段御前江伝蔵罷上リ
申上
ル︒
以上である︒辞任の第一の理由は本人がいうように﹁去夏以来精
神抜ヶ切>候様ーー覚江⁝⁝﹂にあり︑それに至る原因は御用人就任
以来の激務というほかなくやはり老体にこたえているのであろう︒
たと
えば
一︱
四日ごとに夜番があり藩主や宗家の一族に異変があれ︱
l
ば休息もとれなくなる︒毎日の勤務に加え藩主の社寺参詣等に騎馬
で従うこともあり朝鮮方佐役の勤務とはまったく異なっていた︒ま
た半年に及ぶ参勤お供もあり芳洲は休む間もなかった︒辞任が許さ
れれば﹁読ミ書キ﹂の本務は﹁足腰之立候間者被仰付次第相務度﹂
むねのぺているゆえ﹁健忘症之ことく有之﹂はずがなく今日的にい
えば極度の過労なのである︒藩では芳洲がとくに病気でもないゆえ
「未極老と申——而も無之」としか判断できず「乍苦労相務候様」に と藩主の申し渡しである︒またこの財政危機に芳洲を辞任させるわけにはゆかないのであろう︒その代わり芳洲は﹁先々又々御断﹂したときは﹁差免被下候様二﹂と藩主へ伝えてもらい先の約束をとりつけた形にしている︒しかし辞任を撤回するまで紆余曲折があったようでその間の事情を翌日(+七日︶条の﹁組毎日記﹂にみてみよう ︒
東五郎儀去十四日右之口上書差出候ーー付務所違候由︳︳て今日i
役所へも罷出不申遠慮仕候段申聞候付則御年寄中へ申達候処御
︵ 大 浦
︶
︵ 対
月番忠左衛門被仰渡候者他国之儀ハ何様二も有之候得かし︑御
も有之︑已来之碍二も罷成候︑不及遠慮国之儀ハ前々仕来9i 馬 ︶
候故罷出可相務候︒御返答之像ハ追而可被及御沙汰と之御事ニ付則手紙―—而東五郎方へ申遣ス。亦々書付を以御返答迄^出勤
之儀被差許被下候様ぎと申出候得共即日右之通被仰出候付此書
付ハ御返し被成候︒已来為考此所︱ー相記し置也︒
芳洲は十四日に辞任願いを提出︵組頭方へ出したものと思う︶の
あと﹁務所違候︵辞任願いを出したので詰番所は自分の勤務場所で
はない︶﹂といい欠勤してしまったのである︒そこで月番家老の大
浦忠左衛門へ連絡したところ﹁他藩のことはともかく対馬藩では辞
任願いを出したからとて遠慮の必要はなく勤務せよ︒藩主からの返
答あり次第連絡する﹂とのことゆえ組頭方から芳洲へ伝えている︒
だが芳洲からは再度藩主の返答があるまで出勤は遠慮したいむね報
じてきた︒それに対し組頭方では即日出勤するよう伝えその手紙を
一八
対馬
藩の
御用
人勤
仕前
後の
雨森
芳洲
とそ
の周
辺
あるのでそれをみよう︒﹁奥毎日記﹂とは別に御用人も日々の行事 芳洲へ返したとある︒芳洲︑忠左衛門どちらのいい分ももっともで判じ難いが結局藩主の返答をもとに忠左衛門が詰の間で芳洲に会い説得して一件は落着した︒﹁組毎日記﹂はこの経過を記したあと﹁已来為考此所︱ー相記し置也﹂と注記するが対馬藩の記録にはこのような理路整然とした記述に加えかような後考のための注記が随所に見られ感心させられることが多い︒それは畢党佑箪方や日帳付役に心付ある優れた人材の多かったことを示すものだが学問や文芸を重視した藩の方針がこういうことにも反映しているといえるだろう︒その方針を担っていた芳洲がかかわっているゆえ組頭方でも慎重に対応したのかと思うがこれもまた役々の事務処理能力の高さを示す一例であろうと思う︒芳洲は結局二月十七日から勤務にもどったよ
︵年 寄︑ 朝僻 支配
︶
右松浦儀右衛門仕立候書物―—而杉村采女被差上、東五郎取次
御前江差上ル︒
とある︒儀右衛門の代表作である﹃朝鮮通交大紀﹄が芳洲の手で藩
主に渡されているが奇縁というべきことで儀右衛門も満足だったに
ちがいない︒なぜなら﹃朝鮮通交大紀﹄の内容はむろん編集の労苦
を真に理解してくれる人物といえば芳洲が一番だったからである︒
同書はこののち朝鮮通交にかかわる中心的な参考文献として藩に具
︵享 保十 一年
︶
備せられ幕府へも一部届けられている︒この年︑御用人の毎日記が うだが﹁奥毎日記﹂三月朔日条に︑
朝鮮通交大紀 御提重
一 九
雨森東五郎 などを記録していた︒当番の指示で日帳付が記録したものと思うが内容的には﹁奥毎日記﹂に類似している︒その六月六日条に︑
右者御一字被成下候︱︱付奉祝差上之︒
とあり芳洲が藩主︵宗義誠︶から名前の一字︵誠の字︶を与えられ
ている︒以来芳洲は﹁誠清﹂と称するようになるが藩主の信頼を得
ていた証左をこういう点にみることができる︒六月十八日︑将軍の
嫡子家重の立儲を祝し来島した訳官に対し宴席があり訳官の謝辞に
芳洲が応じている︒むろん御用人として藩主の使いをしたものだが
︵一 七一 九︶
芳洲にとっては享保四年の通信使以来久方ぶりに接した朝鮮の使節
でありそれなりの感懐もあったことと思うが関連のある記録はな
い︒六月二十八日条に朝鮮への渡航をめぐってつぎのような記事が
ある
宝永三丙戌年旅人吟味方御法被仰出候節町人之嫡子者格別二男 ︒
以下朝鮮渡被差留置候︒然処近年朝鮮御余官︳︳附渡候者無之差
支其上朝鮮詞申候者寡候故以来信使之節通詞甚可差支と奉存候︒
依之前々通町人二男以下勝手次第朝鮮渡被差免朝鮮詞心掛稽古
仕候様―—被仰付候ハ、段々朝鮮詞覚候者多成以来之為宜可有御
座奉存候︒勿論吟味方御法之内差支候儀ハ其後御弛メ被成候儀
も有之候故右之通被仰付如何可有御座候哉︑奉伺之候︒
右之通被相伺候処伺之通被仰出ル︒
︵一 七
0六 ︶
二十年前の宝永一二年十一月︑対馬藩では食糧の自給を図って島外