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天和・貞享期の釜山窯と対州窯

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(1)

天和・貞享期の釜山窯と対州窯

その他のタイトル On the Pusan and Taishu (Tsushima) Kilns in the Tenna・Jokyo (Yedo) Period

著者 泉 澄一

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 18

ページ 13‑32

発行年 1985‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/16034

(2)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

・元禄十四年ー享保三年

の釜山窯についてその歴史的経過ほむろん︑釜山窯への注文・作陶

の過程︑作陶にかかわった陶エ︑またいわゆる判事茶碗の買入れ等

を明らかにし︑江戸時代における日本・朝鮮文化交流の一端をみて

︵延宝九年︶︵元禄元年︶きた︒本稿では時期的には﹁前

1 5 ﹂につづく天和元年ー貞享五年の

釜山窯とそれにかかわる諸問題を論考するが︑前論文と同様︑釜山

窯を主管した対馬藩の藩政記録﹁宗家史料﹂をもとに考察をすすめ

たい︒周知のように︑釜山窯はその間毎年開かれていたわけではな

い︒しかし︑閉窯期にも関連の史料が散見されるし︑年次を追って

みてゆくことにする︒また釜山窯に直接的な関係はないものの︑地 1 5

﹂とする︶に︑

・寛文期末?延宝九年 私は本研究所紀要第

1 2

3  

1 4 ︑

1 5 輯︵以下﹁前

1 2

3  

1 1  

天和・貞享期の釜山窯と対州窯

元対馬の窯︑いわゆる対州窯について管見し得た史料もあり︑これ

も年次を追ってみてゆきたい︒

対州窯についてはこれまでまった<歴史的研究が行なわれていな

︑ ︒

>

これまで対州窯に関する諸氏の解説等はすべて浅川伯教氏の

﹃釜山窯と対州窯﹄の記述・内容をそのまま引用したにすぎないも

ので︑管見の史料に則していえば対州窯はまった<誤解されている

としかいいようがない︒本稿では従来の誤まった見解に対し適宜訂

正を加え︑きわめて限られた期間の対州窯についてではあるが︑管

見の史料にもとづいて所説をのべて行きたい︒前論文にものべたが︑

対馬の宗家文庫史料は整理中のため管見に及ばないものもあり︑本

① 稿でも﹁表書札方毎日記︵表毎日記とする︶﹂を中心にし︑なお︑

釜山窯については貞享四年から釜山倭館を管掌した倭館館守による

② 毎日記︵館毎日記とする︑国立国会図書館蔵︶が現存するのでそれ

も合わせてみてゆくことにする︒

(3)

﹁表

書札

方毎

日記

﹂に

つい

ては

﹁前

1 5 ﹂

に説

明を

して

いる

倭館

館守

によ

る毎

日記

につ

いて

は﹁

前 1 3 ﹂

に説

明を

して

いる

この年の釜山窯については﹁前

1 5 ﹂の中でのべているが︑その後

関連の史料を検索しえたので若干ふれておきたい︒この年の開窯に

さいし﹁前

1 5 ﹂に延宝九年二月二十二日付︑倭館館守・浅井平右衛

門あてのつぎのような藩の訓令をあげておいた︒

一︑為茶碗焼中庭茂一︳一被差越候二付東莱釜山江御書翰被差添之

候︒如前々土薬等入念相調候様二可被申談候︒

この中に﹁東莱釜山江御書翰被差添之﹂とあるのは︑開窯にあた

り藩主より朝鮮側の日本外交の窓口である東莱府及び釜山鎖へあて

延宝九年辛酉不時遣朝鮮書

遣陶工書

朝鮮国東莱釜山両令公

妥求造陶器差遣陶工数輩所撰

貴国之陶匠且将土薪等物件送入子和館

統惟亮察不宣 閤下

日 本 国 対 馬 州 太 守 拾 遣 平 義 真 啓 書

た書簡で︑それはつぎのようなものである︒

① 自正月至五月

日 天 和 元 年

② ①  註

よるものである︒書簡は使者に託され朝鮮へ送られることになる︒

このときどうして藩の方で和文の控を書き落としたのか解しかねる

が︑真文の控がのこっていたのは幸いである︒書簡文の内容はきわ

めて簡潔でその要旨のみを記したものだが︑どの書簡も長短はあっ

ても内容的にはほぼ同様である︒要するに陶土・薬土・薪・諸道具

記されているように藩主が在国中であったため藩主よりの書筒が送

られ︑朝鮮側との間で書簡うけとりをめぐるトラブルはなかった︒ の支給︑朝鮮人陶工の応援を求めたものである︒この年は控にも注 藩では和文の控をのこす︒﹁遣陶工書﹂の真文はこの以酎庵の控に 国故御書簡二而被差渡候也︒此時之御書簡之和文拍書落有之候 ところで﹁遣朝鮮書簡﹂には必らず和文の控があり︑藩の朝鮮方

② による﹁和文控﹂にはつぎのようなメモがある︒

延宝九辛酉年二月朝鮮江為茶碗焼中庭茂三被差渡候二付如例従

朝鮮国細工人土薬薪小屋道具等無滞様被仰付候様ーーと東莱釜山

江以御書翰被仰越則茂三持渡候︒

殿様御留守之時者御年寄中之書簡にて被差渡候得共此時者御在

故如期記之置候也︒

遣朝鮮書簡はまず藩で和文の案文が作製され以酎庵へ送られ検

閲・校訂をうける︒つぎに以酎庵ではそれを真文︵漠文︶に翻訳し︑

書簡に認め︑封印のうえ藩へ送る︒その間以酎庵では真文の控を︑ 延宝九年辛酉二月

対馬州太守拾遣平義真 日

一四

(4)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

啓処迪吉良用慰浣燿造之請謹即依施詳

一 五

夜前幾度大右衛門方ぶ申越候ハ︑久田村︱︱而焼物被差免候国分 尚札就審六月五日の﹁表毎日記﹂につぎのような記事がある︒ 遠承 日

本 国 対 馬 州 太 守 平 公 閤 下

朝鮮国釜山念使閃

綺 奉 復

同 動止沖裕祈慰良深陶器請造已悉示意工匠物種並即依副天時向暖保重是希統惟崇在粛此不宣

辛 酉 年 三 月 日

東莱府使南益薫 華翰帯到憑諮春和 風便忽届 朝鮮国東莱府使南日本国対馬州太守平公閤下 益薫 天和三年癸亥朝鮮来書

陶器焚造回答 不時

奉復 ③ ところで以酎庵の書簡控である﹃本邦朝鮮往復書﹄には返書も収められているのでつぎにあげる︒

中庭

茂山

帰国

釜山餃使閃

この書簡控のはじめに﹁不時﹂とあるのは不時の使者のことで︑

開窯の通知を行なう使者が︑朝鮮との約条︵己酉約条︶によって派

遣される年例送使外のものであることを指している︒ところで東

莱・釜山へは天和元年二月同時に書簡を届けているのに︑返簡の日

付になぜ二年近くも差があるのか︒いささか解しかねるが︑ともか

く対馬藩の要請に対し開窯の諒承を伝えるものであり︑いわば保証

書にも等しいものである︒東莱府使の方は﹁エ匠物種並即依副﹂︑

釜山銀使の方は﹁謹即依施﹂と︑これも対馬側の書簡同様に要旨の

みを記したものである︒このように書簡では陶土の供給量あるいは

応援の陶工についてなど細部に至るとりきめはなく︑それは倭館館

守と東莱府使との交渉によっている︒その交渉がいかに困難なもの

であったか︑それは前論文にもふれているが︑

の交渉が第一の難関であった︒釜山窯では後期に至るほど朝鮮側か

らの陶土未調達は深刻なものがあり︑陶工の労苦も察せられる︒

この年の釜山窯の経過については﹁前

1 5 ﹂にのべたほか目下加え

ることはないが︑この年前後の対州窯について若干ふれておきたい︒ 順序自愛不宣

癸亥年正月

日 在東莱回帖此不更贅余翼

まず供給される陶土

(5)

のご

とく

に考

え︑

﹁表毎日記﹂の史料が示すように︑厳原の久田窯は通説よりもはる

かに早い時期から行なわれている︒しかも久田窯の経営は藩とは関

係なく町人の経営によって行なわれている︒実はこの久田窯につい

④ てはこの時期をさかのぼる史料がある︒すでに紹介したものだが︑ それに頼りきっていたからである︒しかしこの 太兵衛・畑原平助今日焼物釜之ロヲ明候間︑御歩行目付相附候様二可申付之旨申越候得共︑夜中之儀二候間今日可申付之旨返事二申遣置也︒

右焼物釜之口明候二付而為見分御歩行目付壱人明日久田村江罷

越候様二被申付候得者︑大目付津江左太郎︳一申渡ス︒尤幾度大

右衛門方江も右之段手紙を以申遣ス︒

久田村二而焼物被差免候国分多兵衛・畑原平助昨日焼物釜之口

を明申候二付而︑御目付相附候様二と申候二付而御歩行目付重

田四右衛門申付久田江差越候処︑焼物之儀別而被仰付之外之物

無御座︑尤焼物仕候品々一色宛持参口付而悉見分仕候︒

とある︒対馬における窯業は︑これまで釜山窯が終わって︵享保三

年︶のち︑釜山へ派遣された陶工たちが厳原近辺に開窯したものと

考えられていたし︑それが通説となっている︒それは宗家文庫史料

という第一級の史料があるにもかかわらず︑関係者は釜山窯はむろ

ん対州窯についても文献上の調査・研究をまったく行なわず︑前述

のように浅川伯教氏の﹃釜山窯と対州窯﹄の記述・内容を金科玉条 そして二日後︑六月七日には

なお阿比留半左衛門は長崎役である︒ 明暦三︵一六五七︶年八月二十日の﹁表毎日記﹂にあるつぎの記事がそれである︒

久田村二而焼候焼物︑朝鮮焼と申候而長崎表二て商売仕リと之

風聞有之二付︑左様之商売仕者候ハ︑何物︱︱よらす留置候へ︒

但し焼物之そこー一久田と書付有之候ハ︑不苦候︒自然其通二無

之候て商売候ハ︑急度被留置此方へ案内有之様二と原熊之允方

迄申越︑但此方より渡り候阿比留半左衛門ー一其段申付ル︒

管見の限りこれより以前の久田窯、また他の対馬の窒~に関する史

料はない︒けれども通説とは異なり︑すでに明暦年間に長崎へ売り

出し︑しかもそれが﹁朝鮮焼﹂として通用するほどの焼物を作って

いたことがわかる︒残念ながらこの久田窯の経営状況︑その規模な

どがわからないがこれも町人によるものであることはまちがいない︒

それは藩の通達をうけている﹁原熊之允﹂が町奉行であるからで︑

焼物之そこ―—久田と書付有之候ハ、不苦候。

との藩庁の指示であるが︑﹁久田﹂と書かれた焼物が売られたかど

⑤ うか記録がなくよくわからない︒ただ浅川伯教氏は

自分はこの窯の跡で﹁久田﹂と高台に書いてある破片を拾った

から︑この窯を久田と云ったことは事実である︒

とのべているが︑これについては改めて窯趾の確認が必要と思われ

⑥ る︒なおこの窯趾についても氏は

厳原から久田村に行く途中︑土地の人が弘法様と言って居る小

一 六

(6)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

先ハ

御留

メ候

様ー

ーと

の儀

也︒

堂があるが︑其向って左の傾斜に小路を造った処がある︒此処

にその跡を残している︒

と書いているが︑のちにのべるように久田窯は経営者が変って何度

も行なわれているし︑またその規模も大きいようであり︑浅川氏が

指定する場所だけではあるまい︒いずれにしろ︑浅川氏の著書の記

述・内容を信じきっていた対州窯の実態については他の対州窯も含

めて根本的な再検討が必要である︒

この久田焼について翌明暦四年二月八日の﹁表毎日記﹂にはつぎ

のような記事がある︒

久田村之茶碗焼之儀当春ハ先御留メ被成候様ーーと町奉行両人方

ヘ手昏遣︑重而殿様御下向之刻ハ如何様共御意次第被仰付候条︑

なぜ﹁当春ハ先御留メ﹂というような藩の通達が出されたのかよ

くわからないが︑前年の﹁朝鮮焼と申候而長崎表ー一而商売﹂したの

が あ る い は こ れ に か か わ っ て い る の か も 知 れ な い

ところで天和元年六月七日の記事では目付役の見分のとき

焼物之儀別而被仰付之外之物無御座

とあるが︑作られる焼物についてほ制限があったようである︒

これはずっと後年︑正徳四年のことだが︑やはり町人の大庭七郎

右衛門・飯束市右衛門両人が藩へ久田と小浦︵いずれも厳原町︶の

両所に開窯の願いを出した︒その﹁口上覚﹂によると︑開窯の目的

は﹁御当地ー一而伊万里焼物之類焼出し﹂たいというものである︒そ

はな

いか

︒明

暦一

︳一

年︑

一 七

﹁朝鮮焼﹂と称して長崎で売り出し藩からク のとき︑藩より出された許可の覚書の中につぎのような一条がある︵

﹁表

毎日

記﹂

正徳

四年

八月

二日

条︶

一、朝鮮焼二似せ候而茶碗・茶入・香炉・花生•水指其外数寄

屋道具︑根付等之類堅ク焼出申間敷候︒若於相背者可為曲事候︒

尤竃出入之節ハ御目付被差添御改メ可被成候︒

これによると︑まず焼物は茶器であれば﹁朝鮮焼﹂に似せてはな

らないとしている︒朝鮮焼とはいわゆる﹁高麗・李朝﹂といわれる朝

鮮陶磁器のことではなく︑釜山窯の作品を指している︒むろん対馬

へは朝鮮の陶磁器は多く入った︒その大部分は対馬往来の訳官一行

が一種の利権として持ち込むもので︑いわゆる﹁判事茶碗﹂の到来

はこれによるものである︒しかし元禄期に入ると対馬側の密貿易に

対する強い取締りにより︑人参・端物などとちがって︑判事茶碗な

ど陶磁器はほとんど入らなくなった︒そのほか折に倭館滞在のもの

が朝鮮の人々から買い求め持ち帰る例があるが︑その数はきわめて

少ない︒ここにいう﹁朝鮮焼﹂とはこういうものを指すのではない︒

ところで対州窯で製陶の際︑なぜ﹁朝鮮焼﹂に似せてはならない

のか︒この禁制はこの正徳四年のときだけでなく︑その後享保十年

にも例がある︒その年︑町人乎川幸右衛門・小寺小十郎両人が﹁久

⑦ 田道︵厳原町︶大石滝之助娘屋敷二おゐて小竃を打﹂つ願いを出し

たときも︑まったく同様の一か条を入れて藩は開窯の許可を出して

いる︒したがって天和元年のときも︑恐らくこの禁制があったので

(7)

レームが出たのも︑これにかかわっているものと思われる︒

釜山窯は対馬藩がみずから経営する藩窯だが︑有田・伊万里など

とはまったく異なり商品としての焼物を作る窯ではない︒管見の限

り︑対馬藩が釜山窯のものばかりか訳官から買い上げた﹁判事茶

碗﹂でも︑江戸あるいは上方などへ売り出した記録はない︒それら

はすべて献上用︑あるいは贈答・遣いものとして用いられたもので

あった︒これまで対馬藩が釜山窯の経営でいかにも大きな利益を得

たようにいわれているが︑勝手な推測による誤解である︒

厳原近辺は今日でも陶土の多い所で白土の産出もあり︑その当時

でも技術さえ伴えば﹁朝鮮焼﹂に類似の茶器もできたのである︒し

かし釜山窯は対馬藩が朝鮮の陶土・技術をもとにその独自性をほこ

るものである︒たとえ藩内の窯とはいえ︑いささかでもそれに類似

させ

かつ﹁朝鮮焼﹂と称することなど認められぬことであったと

思われる︒それゆえにこそ竃出しの際はもちろん︑焼成後も﹁焼物

仕候品々一色宛﹂差し出し目付の検分を受けているのだが︑これは

正徳・享保のときも覚書の中に規定されているのである︒しかも正

徳四年の開窯の目的に「御当地―—而伊万里焼物之類」を焼出すこと

を明確に記述しているにもかかわらず︑藩では禁制の一条を加えて

いた︒これは藩の長く変わらぬ基本方針であったといえる︒

なお明暦四年二月八日の記事には﹁久田村之茶碗焼﹂と記されて

いる︒これは釜山窯の場合も同様で︑派遣される陶工をさして﹁茶

碗焼某﹂とよんでいるが︑文字通り茶碗が作陶の主流を占めたから

ふ た 天 目 壱 ツ

猪口

薄茶天目

七ッ 八

六ツ

中 天 目 七 百 六 十

大天目 覚 七月二十八日 であろう︒つぎにこの久田窯の経営規模を示す天和二年の史料があるのでそれをみることにする︒

天和二年

以下あげる史料はすべて「表毎日記」に記される久田窒~に関する

もの

であ

る︒

す焼中天目

右之通今日す焼釜出し之分如此以上

戌七月十八日

右之書付大目付袖岡弥三郎持参仕ル︒ 覚

月十

九日

( = )  

千四百拾七

千四百五拾弐 下目付庄左衛門 浦上九兵衛 一 八

(8)

天和・貞享期の釜山窯と対州窯 八

月十

日 七月廿四日

右之通久田焼物釜令見分︒

一︑大天目

一︑中天目

一︑蓋茶碗

一︑

猪口

一︑すり鉢 千三百五十

右釜出之分

一︑すやき中茶碗

右者今日釜入分

一︑中茶碗

右者す焼釜出し

戌七月廿九日 覚

千四百六十 戌七月廿六日 千四百六十 五ツ中

大浦太郎左衛門印

長留甚左衛門 一︑薄手茶碗 一︑中天目

右すやき釜入之分

一︑中天目

右すやき釜出侯分

一︑中天目

一︑中茶碗

八ッ

千弐百舟八 八月廿五日 右釜出分

三十弐 二千九百八十九 覚 八月十三日

壱ツ 七百廿四 覚

月晦

日 以

六ッ

大浦太郎兵衛印

千五百四十四

︱ ︱ ︱ 十

覚 八月十二日 覚

千五百四十四

三十七

一 九 下横目源蔵 浦上九兵衛 長留甚左衛門 下横目伝五左衛門 浦上九兵衛

(9)

(表I)

① 

② 7月24日

目 茶 天 目 目 碗 中 中 目 目 天 天 目 目 碗 鉢 茶 き 碗 目 目 目 碗

焼 天 天 口 茶 た 天 天 茶 口 り 手 や 茶 天 天 天 茶

禾 す 大 中 皿 猪 薄 ふ 大 中 蓋 猪 す 薄 す 中 中 皿 中 皿 中 皿 中 皿 鉢

{

l

 

日 日 日 日 一 3 2 5 9 6

‑ ー月 月 月 月

2 ー

8 8 9  

⑩  

久田窯の製陶

⑥  

7月26日 7月29日 8月12日

︶ し れ し

出入出?•9

9

・ 分れ 出 釜 し れ 釜 釜 釜 し れ れ 鐸 鱈

5

饂 鯨 惰 豫 汲 鯉

5 5

9ー“‘,.‘`|,、1ー,ーJ1,‘i|_r—ーJ

68710185660604437443789323846130  個7 2 0 4   1 5 6 5 2 7   1 4 1 4 7 1 3 7 1 4 1 4 1 5 1 5 2 9 1 2 1 1 0  

久田茶碗竃口開申候付御歩行目付

原 作 一 ー 悶

とある︒この年︵天和二年︶の久田窯関係の記事は以上である︒覚 とあり︑つづけて十二月八日には 久田茶碗竃為見分御歩行目付長留甚左衛門・下目付壱人遣之候処︑助数千七拾仕込申候由申聞之︒ このあと十二月六日には 九月九日

一︑

百四十六

長留甚左衛門

(表II)

大 天 目 1350個

中 天 目 6368 

皿 178

鉢 13 

猪 口 8 

薄 手 茶 碗 6 

す り 鉢 5 

ふ た 茶 碗 1 

(不 明) 1070 

,  計 8999 

ての茶碗の意味で︑たとえば﹁ふた茶碗﹂とあるの な点もあるが︑これはおそらく﹁天目﹂が茶器とし 書に具体的な説明がないのでわかりにくい点もあるが︑久田窯の実態を知りうる貴重な史料なので以下検討を加えたい︒覚書の内容を整理するとつぎの表のようになる︒

表ーの中で明確なのは

I I

②の本焼き分

11

︵④⑤︶と︵⑥⑦︶の本焼き分

で︑①⑨⑩がどう処理されたのかやや不明瞭だが︑一応①⑨⑩もす

べて本焼きの過程を終え破損等ないものとすると︑天和二年の久田

窯の製陶数は表

I I

よう

にな

る︒

これがこの年の久田窯の製陶数のすべてかどうか︑この毎日記か

らだけではよくわからない︒また前年の久田窯の検

分の際にはこのような覚書がなぜ毎日記に記録され

ていないのかなどやや解せない点もある︒﹁覚書﹂

には茶碗と天目についても同様に扱うような不分明 二

0

(10)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

さて︑この久田窯の作陶の数量からみて︑従来の対州窯に対する

認識を根本的に改めなければならないと思う︒前述のように対州窯

は釜山窯が終わったのちその継続的なものとして開かれたかのごと

く考えられてきた︒しかし対州窯は藩のきびしい生産管理のもとに

はあったが︑釜山窯とはまったく別個の存在で︑早くからかなりの

生産体制をもっていたものと思われる︒それはこの天和二年に︑年

間九千個ほどの製陶実績をもっていることからも首肯できよう︒浅

⑧ 川氏は﹃釜山窯と対州窯﹄の中で︑対州窯は釜山窯が終わったのち

開かれたごとくにのべたあと

対馬の窯では主として朝鮮系統の茶器の類を御用窯としてやっ

て居

る︒

とのべているが︑何を根拠にいっているのであろうか︒対州窯︑少

なくともこの時点の久田窯は御用窯ではない︒また﹁朝鮮系統の茶

器の類﹂もいま実物がなく説明しがたいが︑久田窯の製品は茶器で

はあっても﹁朝鮮系統の茶器﹂ではあり得ないことは先述の藩の禁

制が証明している︒本焼はむろん素焼の際にも目付の検分は規定通

りに行なわれ︑かつ覚書が藩庁へ提出されるのであるから︑久田窯

では﹁朝鮮系統﹂以外の茶器しか作れなかったはずである︒

しかし︑この久田窯の作陶は内容的にはすべて茶器といってよか

ろう︒十二月六日の一

0

0

個をのけてみると︑九七︒ハーセントが

茶碗︵天目︶であり︑久田窯は茶陶窯といってよい︒これまでこの は飯用のものかと思われる︒

﹂と

ある

のは

ハ︑其節積方を以御運上井焼所之儀共二重而願上可申候︒ こにはつぎのようにのべている︒ 久田窯で︑このように茶器が生産されていることなどまったく知られていなかったし︑考えられてもいなかったのである︒釜山窯とは別個に久田窯はこのような技術と生産体制とをもっていた︒久田窯だけでなくその他の対州窯についても︑その歴史的な見直しはむろん︑あらためて陶窯としての評価を考えるべきだ︑と私は思う︒

ところで︑このような茶器類は一体どこへ︑どのようにして出さ

れていたのか︒残念ながらこれに関する史料は管見のかぎり見当た

らない︒しかし明暦三年のようにある程度長崎等の他地方へ売り出

したことは考えられる︒また﹁表毎日記﹂に関連の記事を欠くのは︑

藩では運上銀が納入され︑﹁朝鮮焼﹂と詐称するようなことがなけ

れば︑販売に関してはあえて干渉はしなかったようにも思われる︒

運上銀についても正徳四年︑先掲の大庭七郎右衛門・飯束市右衛門による小浦・皿山での開窒~に関する「口上覚」にあるものだが、そ

御当地二而伊万里焼物之類焼出し候儀我々二御免被遊候ハ︑

地方へ申遣し功者を呼寄せ土之見分為仕︑焼物出来可申と存候

先述のようにこの﹁口上覚﹂の冒頭に﹁御当地二而伊万里焼物類

﹁朝鮮焼﹂とは異なる別個の焼物をつくるとい

う明確な条件を付けない限り︑藩の開窯許可が出なかったからであ

ろう︒これによると開窯許可が出れば﹁地方へ申遣し功者を呼寄せ

土之見分為仕﹂たいとしているが︑ここでも釜山窯とはまったく関

(11)

係のない対州窯の存在を証明している︒少なくともこの時期の対州

窯は藩の経営する釜山窯とはまったく別個のもので︑それは町人が

独自に開いたものであった︒陶土の鑑定に﹁地方の功者﹂をよびた

いとあるが︑有田・伊万里地方の陶工をさしているのであろう︒も

しこの対州窯にいささかでもその経営に藩のかかわりがあるとすれ

ば︑﹁土之見分﹂を﹁地方の功者﹂へさせることなどあり得ないこ

とであった︒このころにはまだ釜山窯は存在していたし︑その陶工

などにも﹁陶土﹂の検分ぐらいの才能は十分にあったはずである︒釜山窯ばかりか、釜山窯へ派遣された陶エも対州窒~にまったくかか

わりのない存在であったことはこれによっても証明されている︒な

ぉ﹁地方の功者﹂による﹁積方︵見積り︶﹂をもとに運上銀を定め

たいと藩へ申し出ているが︑いまこれ以上に史料がなく運上銀につ

﹁宗家文庫史料﹂の整理が終

われば︑あるいは勘定方記録の中に関連の記録の所在も考えられる

ので︑今後の課題としておく︒肝心の販売についてだが︑﹁口上覚﹂

をもう少しみてみよう︒

我々二御免被遊候ハ︑随分念入︑他国5

入来

之焼

物よ

り下

直︱

仕︑往々共二御国用相達申候様可仕候︒︵中略︶唯今迄ハ毎歳他

国5焼物船参リ候内︑弐三艘程も田舎下リ現銀を以売払申候︒我

々之儀ハ百姓衆拌之隙々二取置被申候技松︑又ハおこ・椎葺・い

りこ︑其外所之有合何色︱一而も心次第代銀差引可仕候︒︵後略︶

なにぶんこの史料が三十年ものちのものゆえ︑これによって天和 いてその後の過程等を説明しがたい︒ 二年当時の久田窯を考えるはいささか見当はずれかも知れぬが︑対馬の諸事情等はあまり変わっていないと思うので少し検討を加えた

まず生産された焼物は﹁御国用﹂つまり対馬島内での用達を目的

とすることを申し述べている︒その理由として﹁唯今迄ハ毎歳他国

ヵ焼物船参り候﹂といい︑そのうち﹁弐三艘﹂は田舎下りで︑それ

によって対馬がいらぬ出費を行なっているというものである︒

歳﹂というのがいつからのことか判断しがたいが︑少なくとも十年︑

二十年来ほどの事情をのべているものと思われる︒加えて到来する

﹁焼物船﹂のうち﹁弐三艘﹂は田舎下りというから︑対馬全体では

年間かなりの数の焼物が運ぴこまれていたことになる︒むろんこれ

らは日常的な雑器のことだが︑対馬ではこういうものは焼成できな

かったのであろうか︒明暦年間はともかく天和二年の久田窯は先述

の通り茶陶窯であり︑﹁他国の焼物船﹂が田舎へ持ち下るような日

常的な雑器とおぽしきものの製作はみられない︒この史料のみで考

えるのは早計にすぎるが︑明暦二年の﹁朝鮮焼﹂と称して長崎へ売

り出したり︑この天和二年に専ら茶器の焼成を行なう久田窯では日

常的な雑器は焼成されなかったのかと思う︒そのため対馬では日常

の陶磁器は島外からの供給に頼り︑それがこの正徳四年︑小浦・皿

山窯の開窯の理由となったものかと思われる︒

対馬は離島という環境であるため必要な生活物資の多くは九州等

からの海上輸送によらねばならない︒当然そこには運賃が加算され︑ ︑ ︒

﹁ 毎

(12)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

•長留藤左衛門 焼物船によって運ばれる陶磁器も高値にならざるを得ない︒覚﹂には﹁他国ぷ入来之焼物より下直二仕﹂とあるが︑それは当然のことといえ︑享保十年の平川幸右衛門・小寺小十郎の開窯願にもこのことを同じょうに申し出ている︒またその支払についての処置が現実的で︑これは藩にも消費者にも好都合であったと思われる︒「枝松•おこ・椎葺・いりこ、其外所之有合何色ー一而も心次第」で結構であるとのことだが︑現銀収入の少ない対馬の村々に対しこういう配慮ができるのは地元の窯の強味であろう︒間題は天和二年の久田窯の場合だが︑先掲の﹁表毎日記﹂のほかに関連の史料もなく

いまは天和二年の久田窯のこれ以上に説明しがたい︒したがって︑

実績を確認しておくにとどめる︒

ところで前年天和元年開窯の釜山窯だが︑閉窯の時期が確認でき

ていない︒このとき釜山窯へ派遣されたのは中庭茂山・入江武左衛

門・松村軍右衛門・長留藤左衛門•藤川茂兵衛の五人だが、このう

ち入江武左衛門・長留藤左衛門・藤川茂兵衛の三人については藩の

奉公帳に釜山窯へ派遣の経歴が記されている︒入江武左衛門のそれ

は﹁前

1 5 ﹂にすでに紹介したが︑武左衛門ほ天和二年四月釜山から

国元︵対馬︶へ帰っているので︑前年からの釜山窯はそのとき終了

したものと記述しておいた︒その後の調査で長留藤左衛門・藤川茂

⑨ 兵衛についても奉公帳に同様の記事のあることがわかったので︑そ

の部分のみつぎにあげておく︒

﹁口

延宝九辛酉年正月二御奉公被召出︒ 藤川茂兵衛 天和元辛酉年二月

g

朝鮮御茶碗焼被仰付罷渡相勤︒

御常様御部屋番相勤︒

天和弐壬戌年打廻役五月

十I i

月迄

相勤

これによると藤左衛門は四月︑茂兵衛は五月より新役についてい

るので︑いずれもこの年四月には帰島したものと思われ︑このとき

の釜山窯は一年ほどの開窯であった︒

なお中庭茂山は茶湯坊主ゆえ奉公帳には記載されない︒また松村

軍右衛門は藩士ではあったが︑なぜか奉公帳にもれている︒なにぶ

んこの年の釜山窯については﹁表毎日記﹂にも記事が乏しく︑とくに天和二年ニ・―――•四月分は欠本となっているので、この間の事情

が不明なのはやむを得ない︒

国天

和︱

︱一

この年︑釜山窯は開かれていない︒ところで︑天和元年のところ

で掲げたが︑釜山窯開窯についての藩主書簡に対する東莱・釜山か

らの返簡がこの年になって届いている︒国立国会図書館所蔵の宗家

史料のうち﹃分類紀事大網﹄に収録される﹁陶エ被差渡候一件﹂に

よると︑この件についてつぎのようにある︒

一︑先頃御茶碗焼被差渡候御書翰之返翰掛判事持参候付則善左

衛門二相渡被差越相達候︒ 天和二壬戌歳四月ぷ翌亥八月迄

(13)

が﹁表毎日記﹂に記録されている︒ 親が助左衛門へ当日の行き先をただしたところ

ある

る︒このときは﹁茂山手﹂︑ というもので︑倭館館守への通達を控えたものである︒これについて﹁表毎日記﹂にはこの記事がない︒おそらく﹁朝鮮方毎日記﹂からの抜書きと思われるが︑この期のものは残念ながら欠本となっていて確認はむずかしい︒ともかく朝鮮側の釜山窯への実際的な対応については︑あらためて朝鮮側史料の確認の必要を痛感している︒

この年一︳一月二十四日︑城下の厳原で付火・盗人の事件がおこった︒

町内の助左衛門に嫌疑がかかり取調べが行なわれた︒助左衛門の友

人である虎之助︑長吉も訊問をうけた︒これに関し︑助左衛門の母

つぎのような返答

久田茶碗焼之所︱︱有之候大釜只今浜之辺︱︱有之候ヲ盗取可申由

内々申候事有之候間︑定而其所二可参と存候故⁝⁝︒

というものである︒これは久田窯に直接かかわる事件ではない︒た

だその事件が﹁久田茶碗焼之所﹂にあった大釜に関係あるだけだが︑ 以酎庵招請のことは前論文でも述べているのでここでは省略する

が︑この茶会で釜山窯の作品を贈ることは恒例化していた︒このほ

か以酎庵へは離任の際にも釜山窯の作品がほぽ同数ほど贈られるな

ど︑以酎庵を通じてそうとう数の茶器が京都へ将来されたことにな

つま

り中

庭茂

山(

‑︱

‑︶

によ

る作

品が

出さ

れ︑和尚の目利きによって選ばれ進呈された︒それらが京都の禅院

はじめ茶の湯界でどのような評価をうけ︑茶器としての扱いをうけ

ていたのか︒それは今後の問題だが釜山窯をめぐる︱つの課題でも 茶碗拾七・香炉五・茶入五・蓋置一ツ・水指弐ツ以酎庵へ被遣︒ 茂

山手

之御

焼物

出ル

る ︒ 月二十六日に行なわれた︒﹁表毎日記﹂にはつぎのような記事があ

右天和参年四月十一日蒻鰭ぢ衛門江遣

とある︒先述のように東莱府使からの返簡は﹁辛酉三月﹂の日付だ

が︑釜山衆使の方は﹁癸亥正月﹂となっている︒なぜ両者の返簡の

日付にこのような差があるのか︒この返簡はすでに閉窯されたのち

に対馬へ届いたものであり︑開窯の時期と返簡による開窯承認の時

期のずれが実際にはどう考えられ処理されていたのか︒ともかく︱︱︱

月ごろ両書簡を掛判事︵倭館担当の東莱府訳官︶がもってきたのを︑

当時参判使の都船主として渡釜していた青柳善左衛門が持ち帰った ﹁久田茶碗焼﹂がこの時期﹁固有名詞﹂として通用していたことを示している︒<どいようだが︑久田窯が釜山窯閉窯後のものでないいるのである︒ただこの年も久田窯が開かれていたかどうかは他に切の茶会の記事をみよう︒これは例年十一月中・下旬に宇治から到来した新茶で以酎庵和尚を馳走する藩の定式である︒この年は十一 つぎに毎年恒例の行事となっている以酎庵輪番和尚を招請するロ 史料がなくわからない︒ こ

とが

一見まったく無関係と思われるこの記事からも証明されて

ニ四

(14)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

一︑訳官渡海之節ハ糸・端物持渡候︒毎度被差留候得共必持渡

天和四年

一月十八日︑将軍綱吉の子・徳松の死去に際し︑その弔慰のため

訳官朴同知・韓疲知の一行が来島した︒前述のように訳官らが人

参•生糸・端物等をこのときも対馬へ持ちこむのだが、藩ではその

品々が多量であること︑釜山倭館での貿易価格とのバランスがとり

にくい点などを考慮し︑延宝年間からこれに強い制限を加えるよう

にな

った

訳官の来島にあたり藩ではそのつど﹁訳官記録﹂をのこしている

⑩ が︑延宝九年の﹁訳官記﹂から持ち渡り禁制に関するメモが必らず

記録され︑かつ佐須奈関所における荷改め・身改めも厳重をきわめ

るようになった︒しかし︑なにぶん外国の使者に対する荷改め・身

改めゆえ対馬側では朝鮮側の納得が得られるよう気をつかっている︒

この年の訳官行に際し前年の八月十五日付︑年寄中より館守平田

斎宮への訓令がある︒

一︑訳官罷渡候刻朝鮮人御法度物必持渡リ候︒若御法度物相背

候者訳官船荷改等被仰付︑又者相背候者日本人同罪二被仰付

筈ー

一先

申含置候間此旨弥可被申聞候︒I i

というもので︑これをうけた平田斎宮はさっそく東莱府の担当判事

をよび﹁右之趣東莱へ申渡︑都江早々注進仕候様﹂に申しつけてい

る︒十月十五日︑再び平田斎宮及び釜山滞在中の裁判平田所左衛門

らにつぎのような訓令が届いている︒

る ︒ いことも原因と思われるが︑

二五

また久田窯に関する記事もこのあと

候︒定而今度も可持下候間︑被致吟味於其元御代官方江売上

ニ仕候様二可被仕候︒此旨為可申逹如此御座候︒

しかし朴同知一行の来島にやはり諸品が持ちこまれ︑人参等は釜

山まで送って倭館での価格で買いあげている︒このとき茶碗など焼

物の持ち渡りはなかったらしい︒茶碗は人参などにくらべ隠しにく

このあと寛文十二年︵四二六七個︶︑

延宝三年︵九五五個︶のように大量の茶碗の持ち渡りはなくなった︒

つまり﹁判事茶碗﹂の将来はおそらく延宝三年以後はなくなったも

のと考えられる︒その点人参は長くのちまで持ちこまれていたが︑

訳官が自分の薬用に持参のものを帰国の際に対馬で売却する例もあ

った

この年釜山窯は開かれず︑ ︒

﹁毎日記﹂等にはみられない︒

⑮ 貞 享 二 年

この年から元禄・宝永年間にかけて釜山窯は継続的に行なわれて

いる︒まず﹁表毎日記﹂の六月十日の記事によるとつぎのようにあ

朝鮮表へ茶碗焼中庭茂山・宮川道二被仰付被差渡候二付而︑書

簡御調被下候様二と和文下書ー一手紙相派以酎庵へ為持遣之︑御

使清原九郎兵衛︒

このあと以酎庵の草案ができ清書もすみ︑六月十四日に以酎庵に

(15)

復書﹄にはこの書簡の控は収録されていない︒六月十八日には

朝鮮表江茶碗焼被差渡候付細工人藤川茂兵衛申付ル︒

とある︒藤川茂兵衛は﹁前

1 5 ﹂でも紹介したが能面打ち波多野重右

衛門の弟子で︑延宝九年に藩士︵徒士格︶に召しかかえられ︑その

あとすぐに釜山窯へ派遣されている︒本来能面打ちゆえ︑その器用

さが買われ今回も釜山窯への派遣となったものであろう︒

先にも掲げた﹃分類紀事大綱﹄の﹁陶工被差渡候一件﹂には先の

﹁表毎日記﹂六月十日条の記事が記載されているが︑つぎのような

倭館館守平田斎宮あての訓令も収録されている︒これはおそらく

﹁朝鮮方毎日記﹂から抜書きしたものと思われる︒

一、今度為御茶碗焼中庭茂一――•宮川道ニ・藤川茂兵衛被差渡候。

其元参着候ハ︑諸細工人井土薬薪等相揃早々細工取掛候様ニ

可被申付候︒委細茂三可申達候︒

右貞享二年六月廿九日平田斎宮遣

このあと中庭茂山らがいつ出立したのかわからないが︑また乎田

斎宮あてのつぎのような書簡の控がある︒

一︑為御茶碗焼中庭茂三被差渡候処︱︱先月十七日くちゃくと申

所︱一致参着︑翌十八日和館江廻着仕候由一段之儀二存候︒御

書翰掛判事を以東莱釜山へ被相渡細工人井土薬薪等早々入候様——被申渡候由得其意候。

右貞享二年八月三日平田斎宮遣 よって書契の上封も終わった︒しかし︑以酎庵による﹃本邦朝鮮往﹁くちゃく﹂がどこかよくわからないが︑翌日釜山へ着いている

ので釜山西方の加徳島付近であろうか︒おそらく十七日の朝方︑鰐

浦または佐須奈を出発し釜山へ向ったものと思われるが︑風向が悪

く﹁くちゃく﹂へ参着したものであろう︒対馬からの使者はすべて

釜山以外では上陸できず︑釜山以外の地に到着の際は当地の官吏に

﹁吹嘘﹂等を提出のうえ仮泊し︑あらためて釜山へ向うことになっ

ている︒釜山到着後︑藩主︵この年も在国中︶よりの書簡を東莱.

釜山へ渡し︑開窯についての交渉がはじまる︒その経過については

﹁毎日記﹂等に関連の記事がなく︑また開窯から作陶中のことにつ

いても不明というほかない︒

ところでこの年なぜ開窯となったのか︒翌貞享︱︱︱年四月十九日︑

⑪ 藩主義真が老中阿部豊後守に面接した際の覚書がある︒

拙後守被仰候朝鮮茶碗御焼せ候処二先年申入候︒今度御焼せ被成候哉︒御進

上被成候而可然候︒如何二も為焼申候︑今度之ハうす紀様二御

座候而出来不宜候へ共︑焼せ置候素焼御座候と申上候ヘハ弥御

進上被成可然由被仰候︒根付も少々為焼申候︒そハ物ー一当り候

而よハく有之而悪と申候︒緒メも為焼置申候︒そハ常之緒メニ

而御座候由申上候︒

藩主

は貞

享︱

︱一

年︱

︱︱

月参

勤の

ため

対馬

を出

立し

いた︒この﹁覚書﹂の内容は参勤にあたって将軍綱吉への焼物献上

についてのものである︒これによると藩主は帰国前に阿部豊後守か

ら焼物献上の指示をうけていたことがわかる︒この年四月九日藩主

二六

四月九日江戸へ着

(16)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

は対馬へ帰ったが︑釜山窯開窯は献上用の焼物作成のためであり︑

その間藩庁で諸手続きのあと六月十日以酎庵への書簡作製の依頼と

なったものと思われる︒

献上の要領等については︑延宝九年のものだがすでに発表してい

⑫ るのでそれを参照されたい︒このときの献上控は管見に及ばないが︑

茶碗のほか根付.緒メなども添えられたようであり︑

今度之ハうす紀様二御座候而出来不宜候へ共

とあるが︑一応献上の運びとなったものと思われる︒

﹁表毎日記﹂の十月七日条につぎのような記事がある︒

稲葉丹後守様御誂之朝鮮大墨舟八挺入箱井書状油紙包壱︵中略︶

相渡

ス︒

正通のこと︒のち老中をつとめている︒丹後守も父にしたがい茶の

湯に親しみ︑しばしば釜山窯へも注文を行なっているが︑朝鮮墨の

依頼からみてこの年も何らかの焼物の注文も行なっていたのではな

いか

と思

う︒

るものだが︑この年六月につぎのような記事がある︒

遣 薙 造 匠

f

東釜

有レ

書︒

稲葉丹後守とは淀城主で数寄大名として知られる稲葉正則の子︑

﹁覚

書﹂

には

ところで対馬藩儒であり朝鮮外交に活躍した雨森東五郎芳洲の編

修による﹃天龍院公実録﹄は︑この期のいわば対馬藩の正史にあた

釜山窯開窒~にあたって婚造匠すなわち陶工を派遣したというもの

で︑東莱・釜山から返簡も届いているとある︒さきに以酎庵による

仕 ゜

二七

﹁表

﹃本邦朝鮮往復書﹄に対馬からの書簡の控はないとのぺたが︑むろ

ん東莱・釜山よりの返簡も収録されていない︒しかし﹃天龍院公実

録﹄によれば返簡は藩庁へ届いている︒朝鮮側の開窯承認︑つまり

これは前論文にものべたが『天龍院公実録』の釜山窒~に関する記

事はすべてこのように簡単である︒﹁婚造匠﹂とのみあって陶工名

など一切記録していない︒いわんやその間の経緯などにもふれてい

ない︒釜山窯は江戸時代の日本にあって唯一の海外で開かれていた

陶窯であり︑他に類例のない特異な作陶を行なっていたからこそ将

軍への献上品にも使われたのである︒釜山窯が江戸時代の陶窯のな

かで稀有の存在であり︑またその特異性など雨森芳洲は十分に理解

していたと思われるにもかかわらず︑この﹃実録﹄における簡単な

記述はいささか理解しがたいものがある︒

貞 享

︱ ︱ 一 年

前年にひきつづいてこの四月まで釜山窯は開かれている︒

日記﹂四月十九日にはつぎのような記事がある︒

従朝鮮中庭茂三•宮川道二•藤川茂兵衛御茶碗相仕廻候而帰国

いつ茂山らが仕事を終え釜山を出立したのかわからないが︑閉窯

は一︳一月下旬ごろと思われる︒藩主はすでに一二月五日参勤のため対馬

を出立していたが︑先述の献上用の焼物をそれに間に合わせるのは 陶土等の供給についての諒解は得ていたのである︒

(17)

⑭ すでに紹介したものだが天和元年の﹃新渡焼物印判帳﹄には初期

の釜山窯以来の各陶工の手になる作品とその在庫数をあげている︒

陶器別による在庫数は表

m

のよ

うに

なる

松浦氏への書簡には﹁茶碗新古共二⁝⁝有合不申﹂とあって︑対

馬には︱つの茶碗も残っていない旨伝えられている︒いま仮に﹁新﹂

茶碗︵貞享ニ・三年の作品︶はすべて献上用として江戸へ送ったと

して︑﹁古﹂は本当になくなっていたのであろうか︒天和元年から 問

題が

ある

紺 貞 享 四 年

この年も釜山窯は開窯となった︒ 肥前松浦氏への書簡からもうかがえる︒六月二十五日︑平戸の松浦肥前守の家老から﹁肥前守様へ朝鮮新渡之茶碗御望二被思召候﹂との書簡が届いた︒翌二十六日その返事を乎戸へ送っているが﹁表毎日記﹂の記事によると

肥前守様朝鮮新渡之茶碗御望之由ーー御座候得共︑公儀為献上妥

元へ有之候茶碗新古共︱︱先頃江戸表へ指越有合不申候︒

という断わりの返事をしているのである︒ここにも前年以来の釜山

窯が﹁公儀為献上﹂であったことを記している︒がそれより﹁妥元

ヘ有之候茶碗新古共︱‑⁝⁝有合不申候﹂という断わりの理由の方に 幕閣への遣いもの用としてのものと思われる︒それはつぎにあげる と

ある

は むずかしかったものと思う︒このあと五月十九日の﹁表毎日記﹂に

江戸表へ被遣候御茶碗櫃十六︑船改役大森橘右衛門召寄相渡ス︒

一櫃にどれほど収めたのかわからないが︑すべて献上用︑ 全部払底したとすれ

くなったことになる︒実際はそうではなかった︒詳細は省くが︑天

和元年までのいわゆる﹁古﹂茶碗等はこのときも藩庫に保管されて

いたのである︒松浦氏はかつて寛文七︑十年には﹁朝鮮陶土﹂の調

達を依頼したり︑釜山照の焼物にも深い関心を示している︒中世以

来︑宗氏と松浦氏は懇意の間柄であるのみか︑松浦氏は隣島の壱岐

を領有し対馬とは殊のほか関係も深い︒この松浦氏の申し出を断わ

ったのはいささか理解しがたいが︑このころから藩では釜山窯初期

の作品を保存する方針をとりはじめたものかと思われる︒

ぎのようにある︒

(表皿)

﹁表毎日記﹂四月二日条にはつ

朝鮮へ為茶碗焼御茶道宮川道二細工口用藤川茂兵衛被差渡候旨

善左衛門井味木丹立を以申渡之︒

善 左 衛 門 と は 組 頭 で あ っ た

田茂で士藩は衛兵川中藤。門衛左善あ

る た め 組 頭 方 の 差 配 下 に あ り

、 田 中 善 左 衛 門 か ら 申 し 渡 さ れ て い る

茶 碗 4163 

判 事 茶 碗 26366 

香 炉 2981 

皿 1031 

茶 入 341 

徳 利 142 

鉢 134 

壺 88 

水 指 61 

水 翻 48 

花 入 23 

そ の 他 139 

35496個

碗・

判事

茶碗

計︱

1 0

五二九個はすぺてな ば︑表

m

に あ る 茶

貞享三年までの五年

間に︑﹁古﹂茶碗が

(18)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

五月

︑遣

︱︱

婚造

匠↓

東釜

有レ

書︒

またつづいて五月十一日付の館守幾度大右衛門あてのつぎのよう のである︒味木丹立は茶道方支配︒宮川道二は茶湯坊主ゆえ丹立から申し渡しをうける︒﹁表毎日記﹂によれば四月晦日東莱・釜山への書簡もととのい︑道二は五月十三日年寄の平田直右衛門より日和次第出船するよう命令をうけている︒また﹁陶工被差渡候一件﹂に

一︑御茶碗焼二被差渡候宮川道ニ・藤川茂兵衛誓旨申付︑東莱

釜山江之御書翰井館守両改役江之書状渡之︒

右貞享四年五月十三日日帳

と︑このあと道二と茂兵衛は誓旨血判を行ない︑書簡等をうけとっ

ている︒誓旨血判については﹁前

﹂でふれたので省略するが︑釜

1 5

山渡航の際必らず行なうものである︒

一︑宮川道ニ・藤川茂兵衛被指渡候︒如例御書簡御添被成候ニ

付右両人江差越候間︑参着次第御書簡被相渡早速御焼物二取

掛候様二催促被致尤二存候︒

この年四月十六日︑藩主は参勤を終え対馬へ帰った︒この年の開

窯もあるいは貞享二年のように将軍への献上焼物作製のためであっ

たかと思われる︒また﹃天龍院公実録﹄には貞享二年のときとまっ

たく同じように

二九

﹁毎

とのみ記されている︒この以後いつ宮川道二らが対馬を出立したの

か︑また開窯とその間の作陶経過等も記録がなく不明だが︑釜山窯

は以降元禄・宝永年間にいたるまで継続する︒なおこの年から倭館

館守による﹁毎日記﹂が残存しているが︑この年には関連の記事は

茶碗焼細工人藤川茂兵衛病気ーー付帰国仕候︒依之為代松村弥平

太申付ル︒御細工大分有之日数込可申旨宮川道二方5

申越

候付

大工壱人相添差渡候様二と小田孫六へ申渡也︒

延宝五年にはじめて釜山窯にかかわって以来︑弥平太は十年ぶり

の釜山行であった︒以後弥平太は元禄時代の釜山窯を担っていく陶

工となる︒前年七月十三日﹁表毎日記﹂によると︑参勤お供として

江戸滞在中の弥平太が﹁絵御細工被仰付苦労仕候二付黒米弐俵﹂を

藩から成し下されている︒弥乎太は貞享二年七月︑組頭方書手に任

命されているが︑能筆でもありよほど器用の人であったらしい︒そ

のオが長く釜山窯で活躍する素地になったものと思われる︒

記﹂には﹁御細工大分有之﹂とあるが注文がよほどあったらしい︒

そのため﹁大工﹂を一人送るよう手配しているが︑これも器用のも

のを選んだのであろう︒

弥平太がいつ釜山へ出発したか不明だが︑五月二十八日送使役で な訓令も控えられている︒ これはたぶん﹁朝鮮方毎日記﹂によるものであろう︒これによる

貞享五年

五月二十一日﹁表毎日記﹂につぎのような記事がある︒

はつぎのような控がある︒

見ら

れな

い︒

(19)

つづいて翌二日には あった弥平太の跡役が任命されているから︑そのころ渡釜したと思

前後したが︑この年二月二日﹁表毎日記﹂に中庭茂三からのつぎ

のような口上覚が控えられている︒

乍恐口上之覚

私江被成下置候御扶持之義︑世悴茂兵衛御扶持二御振替被遊被

仰付被下候者難有仕合可奉存候︒某義年罷寄候付恐多申上事ニ

御座候得共奉願上候︒口口様被仰付可被下候以上︒

中庭茂三印

中庭茂三も茶湯坊主であったので茶道支配の味木丹立へこれが出さ

れたのだが︑この申し出は組頭高勢八右衛門へ送られ元禄二年十二

月十日︑藩より承認された︒茂兵衛は茂一︱一の兄の子で︑幼少のとき

茂一︳一の養子となったものである︒﹁年罷寄候付﹂自分がうけている

扶持を茂兵衛にふりかえてほしいというものだが︑茂一︳一の年令は定

かでない︒なお茂一︳一の扶持高は﹁四人扶持︑切米六石五斗﹂という

ものであった︒

この年から﹁館毎日記﹂に釜山窯関係の記録が出はじめる︒まず

十一月一日につぎのようにある︒

御茶碗焼︱︱被遣候長留藤左衛門今朝船5

上リ

被申

ル︒

内野森左衛門など同道二而被罷出︑身改行規如常相済︒ 正月廿八日味木丹立殿

われ

る︒

とあ

る︒ 様集立候而御注文可掛御目之由被申聞ル︒ 候者︑今度藤左衛門便二焼物注文沢山︱‑`申来リ候由案内︑如何 御茶碗焼衆宮川道ニ・松村弥平太・長留藤左衛門被罷出被申聞

とあって︑まず長留藤左衛門の派遣は﹁焼物注文沢山二申来﹂った

ための応援であることがわかる︒藤左衛門は館着に際し﹁身改行規﹂

をうけているが︑これは禁制品の所持等の検査で館着のみならず乗

船の場合も全員に行なわれるものである︒藤左衛門は寛文十年奉公

と同時に釜山窯へ派遣され︑その後延宝九年まで一︳一度茶碗焼をつと

めた︒七年ぶりの釜山窯への派遣だが︑このあと元禄初期に松村弥

平太とともに釜山窯で活躍する︒

道二ら三人が館守を訪ね﹁焼物注文﹂の報告をしたのは︑朝鮮側

ヘ陶土等の要求のためであろう︒﹁如何様集立候而﹂とあるのはお

そらく訳官へ督促して陶土を早く搬入させることをさしているもの

と思う︒年のくれ十二月二十六日の﹁館毎日記﹂に

御茶碗焼宮川道ニ・松村弥平太・長留藤左衛門江戸表ヵ御注文

之焼物帳面︱︱書付持参被入披見︑御焼物之様子承候︒

﹁江

5御注文之焼物﹂とあるのが藤左衛門があらたに持

ってきたものであろう︒この年四月から藩主は参勤のため江戸にい

たが︑その間に出された注文が届いたものと思われる︒館守に注文

の内容をみせているのは︑これもまた陶土にかかわることかと思う︒

﹁御焼物之様子﹂つまり作陶の状況等を館守へ話しているので作業

は進んでいたらしい︒年が朋け正月十八日には館守が窯まで出かけ︑

1 0  

(20)

天和

・貞

享期

の釜

山窯

と対

州窯

に天和・貞享期の釜山窯と対州窯の史的経過をみてきた︒なにぶん

この時期までは毎日記の記事以外に釜山窯・対州窯にかかわる記録

はきわめて少ない︒これは単に釜山窯・対州窯にかかわる記録だけ 以上︑前論文等と同じように対馬藩の藩政日記︵毎日記︶をもと

む す び に か え て

﹁御茶碗其外細工物﹂を検分している︒これはたぶん竃出しに際し︑

注文焼物等の状況を見に出かけたものと思う︒

註①大韓民国国史編纂委員会蔵︒②右同︒③右同︒

④﹁釜山窯︵前半期︶の陶エとその作品をめぐって﹂︵﹃大和文華﹄第六

六 号

︶ ︒

⑤﹃釜山窯と対州窯﹄

pu

OO

⑥ 右 同 書

PU

OO

⑦﹃

表書

札方

毎日

記﹄

⑧註⑤同書

p 2 4 6

0

⑨宗家文庫蔵︒⑩註①に同じ︒

⑪註①に同じ︒

⑫﹁宗家史料﹃延宝九年朝鮮焼物献上之覚帳﹄をめぐって﹂︵﹃関西大

学東

西学

術研

究所

創立

三十

周年

記念

論文

梨﹄

︶︒

⑬泉澄一編﹃宗氏実録﹄日︵清文堂刊︶に収録︒⑭註④に同じ︒

のぞ

む︒

でなく︑対馬藩の藩政史料は全体的にみて天和・貞享ころまでは記

録そのものが少なく︑またまとまっていない︒これが元禄に入ると

毎日記も各役所ごとに記録され︑内容も格段に充実してくる︒これ

① はすでに長正統氏がいみじくも指摘されたことだが︑そのころに藩

政機構がととのい各役所ごとに日記・記録も整備されるようになっ

史料そのものが以上のような状況の中で︑天和期の対州︵久田︶

窯の実績をみることができたのは大きな収穫であった︒本論でのベ

たように︑対州窯史についてはこれまでまった<研究がなく︑大き

な誤解のまま今日に至っている︒浅川伯教氏らは文献史料によらず︑

伝存する焼物やその様式などから判断しているのだが︑これがすで

に根拠のないことは明白であろう︒これを基盤に対州窯に関する研

貞享二年の釜山窯は将軍への焼物献上のための開窯であった︒

② ﹁宗家史料﹃延宝九年朝鮮焼物献上之覚帳﹄をめぐって﹂でのべた

と︑老中堀田正俊を通じて献上無用をいい渡されたことがあった︒

その後︑阿部豊後守正武が老中となって方針が変わり茶碗献上が復

活したのである︒この貞享二年の開窯はその趣旨にそったものだが︑

前掲論文ではその間の経過にもふれているので参考にされることを 茶碗などハ日本二も多キ物︱︱候゜ ように︑延宝八年︑網吉の将軍就任時︑ 究も一歩進めたいと願っている︒ たからである︒

(21)

本稿で延宝三年訳官将来の﹁判事茶碗﹂を九五五個と記したが︑

③ 

﹁ 前

1 5

﹂では不明としておいたもので︑その後︑﹁訳官記録﹂によ

って判明したものである︒残念ながらその他の訳官将来の焼物数は

大方不明である︒

﹁はじめに﹂で宗家文庫史料︵記録類︶が目下整理中のため管見

に及ばないものがあることはのぺた︒それだけでなく︑いまだ藩政

機構が解明されていないため︑実は釜山窯を管掌した部署もわかっ

ていない︒また記録の整備にともない︑それがどこで︑どのように

まとめられていたのか︑こういう基本的なことが不明のままだが︑

今後こういう点にも注意をむけたいと思う︒

最後に︑すでに一部記したが︑釜山窯へ派遣された藤川茂兵衛の

④ ﹁大古御徒士奉公帳﹂の記事をあげておく︒

一︑延宝九辛酉年正月二御奉公被召出︒

一︑天和弐壬戌年打廻役五月5

十月

迄相

勤︒

一︑同三癸亥年御立山目付十月5

四月

迄相

勤︒

一︑貞享三丙寅年不寝番六月5

八月

迄相

勤︒

一︑同四丁卯年朝鮮御茶碗焼被仰付罷渡翌辰年帰国︒

一︑元禄弐己巳年船改役四月朔日£翌午年四月廿一日二交代被

仰付

一︑

元禄

一︳

一庚

午年

六月

ーー

朝鮮

御茶

碗細

工被

仰付

罷渡

︑同

七甲

年十

二月

帰国

藤川茂兵衛

④  ③ ② ① 註

一︑同九丙子年御茶碗細工被仰付朝鮮表へ四月二罷渡︑翌丑四

月二

帰国

﹁日

鮮関

係に

おけ

る記

録の

時代

﹂︵

﹃東

洋学

報﹄

第五

十巻

︶︒

﹃関

西大

学東

西学

術研

究所

創立

三十

周年

記念

論文

集﹄

大韓民国国史編纂委員会蔵︒

宗家文庫蔵︒

参照

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