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文化・文政期の対州(対馬)窯をめぐって

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(1)

文化・文政期の対州(対馬)窯をめぐって

その他のタイトル On the Taisyu (Tsushima) kiln in the Bunka/Bunsei Period

著者 泉 澄一

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 23

ページ 1‑42

発行年 1990‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/15995

(2)

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

江戸時代︑対馬島内で経営された陶窯︵府中・厳原近辺に数個所

あったが一括して﹁対州窯﹂とよんでいるので︑本稿でもその呼称

にしたがっておく︶について︑長い間︑文献史料による実証的研究

はまったく行なわれていなかった︒これまで対州窯及びその歴史に

ついてほ臆説の多い浅川伯教氏の﹃釜山窯と対州窯﹄︵彩壺会︑昭

和五年刊︶の記述のみを頼りに解説されてきているが︑長い間に臆

説も定説となってしまった例も多い︒私は昭和六十一年に出版した

﹃釜山窯の史的研究﹄︵関西大学東西学術研究所︑研究叢刊五︶の

中で明暦ー寛政年間の対州窯の歴史的変遷にも言及し︑対馬藩の藩

政史料である﹁宗家文書﹂をもとに従来の誤伝を正し︑民間窯とし

て独自の経営を行なっていた対州窯の盛衰を跡づけておいた︒

従来︑対州窯はとかく釜山窯の亜流のように考えられており︑た

とえば釜山窯の陶工頭らが対州窯を開き作陶を指導したような謬説

ほ じ め に

文化・文政期の対州

︵ 対

馬 ︶

ることにしたい︒ ﹁宗家文書﹂による史料調査

さえ行なっておればかような誤解はなかったはずである︒また対州

窯の製品についても従来は釜山窯とのかね合いから茶陶という観点

からしかのべられているに過ぎない︒しかし対州窯の製品は島内の

日用品としての需要のほか朝鮮への輸出品でもあったのだが︑かよ

うな事実についても︑私の調査以前には指摘されたこともなかった︒

これらはほんの一例にすぎぬが︑対州窯には単なる一離島の民間窯

として看過し得ぬ側面があり︑その全貌を知ることは近世の対馬島

史ばかりか日朝関係史の解明にもつながることなのである︒私は

﹃釜山窯の史的研究﹄出版後︑寛政期以降の対州窯について調査を

進めているが︑本稿では文化・文政(‑八

0

l ‑

︱ 1 0

)

期の対州窯

について若干の知見をのべてゆきたいと思う︒なお文政期に︑対馬

藩は伊万里焼焼成のため肥前国の田代領で幡窯を経営していた︒そ

れは本稿でのべる対州窯にもかかわっているが︑詳細は別稿でのベ がそのまま通説となっているのだが︑

窯をめぐって

(3)

註①現在︑文献上確認できるのは久田・志賀・立亀・小浦の各窯だがいず

れも

開窯

年は

よく

わか

らな

い︒

忠助による再興

志賀窯は厳原の久田道下︑志賀鼻の地に開かれていたが開窯年は

定かでない︒志賀窯に関するもっとも古い記録は対馬藩の﹁︵国元︶

表書札方毎日記﹂︵以下﹁国表毎日記﹂と略す︶享保十四︵一七ニ

① 九︶年五月二十八日条にあるつぎのような藩庁の書付がそれである︒

大庭弥次右衛門右者茶碗寵ーー召遣候人足只今迄ハ日庸一犀——仕候付諸事不勝手ニ

有之難儀仕候︒依之上方£下男二人問屋附十年切︱ー召抱度旨願

候付願之通被差免候︒已来茶碗鼈相仕廻候ハ︑遂案内片付候様ーー可仕旨被申渡候様―—旅人吟味方へ申渡。

これは志賀窯を経営する大庭弥次右衛門が﹁上方ふ下男二人﹂を

‑ 0

年切で雇い入れた<許可を求めてきたのに対し︑藩庁が承認を

与えた書付である︒文面に﹁志賀窯﹂を示すことばはないが︑関連

の記事を編集した﹁日帳書抜﹂によるとこれは志賀窯のことにまち

② がいない︒大庭弥次右衛門が﹁召遣候人足只今迄ハ日庸雇二⁝⁝﹂

と申し出ているので︑この窯がこれ以前より経営されているのは確

かだが︑それを伝える史料は管見の限り見当たらない︒この半年後︑ け 一︑志賀窯について

うにのべている︒ 弥次右衛門はさらに上方より﹁轄譴引﹂の職人を麗い入れたいむね藩へ申し出ている︒経営は順調だったようだが︑一三年後の寛保二

︵一七四二︶年︑弥次右衛門の不正が原因らしく廃窯となった︒

志賀窯はそのあと安永四︵一七七五︶年︑町人荒川喜右衛門が開

窯し︑安永八(‑七七九︶年︑荒川喜右衛門に代わって徒士の倉田

万兵衛が窯を差配し天明四︵一七八四︶年までつづいた︒その後藩

命をうけ御銀掛所下代の忠助が志賀窯の再興を図った︵享和元︵一

0

1 )

年に閉窯︶︒志賀窯の以上のような経過についてはすでに

﹃釜山窯の史的研究﹄の中でのべたが︑忠助による再興に関し若干

の史料を得たのでまずそれをみてゆこう︒

天明八ー寛政元︵一七八八ー八九︶年に延聘参判使︵朝鮮へ通信

使派遣の延期を申し入れる使節︶として釜山滞在中の家老・古川図

③ 書が︑在藩家老の平田隼人に送った書状の控があり︑寛政元年1

一 月

十九日付書状に志賀窯の再興をめぐって︑その間の事情をつぎのよ

一︑熔之儀当時志賀焼之外オ覚不相成︑尤施品高値︱ーも有之候得共御国産之品故成たけ御国内致通用候様有之。然者軽ぎ品——而

も朝鮮i入来候儀実︱ー不相好事︑殊︳一新碓仕立方被仰付候得者

猶以之事故茶碗・入子鉢・久利壺共二其外甑・花生・文鎮・置

︵大森︶物或ハ蓋茶碗同様御国渡当分被差止度︑就夫繁右衛門・右平i

申出候趣l一而者惣而朝鮮之碓之義御国内ー_不被遣直―—商売とし

て旅へ出し候様被仰付度旨申出︑其筋尤ーー相見へ候由右両人之

(4)

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

書面考合之上被申越候趣同意孟珠ハ、其段申進候得其上―—而旅

へ出し候︒請込所等夫々散々︱︱無之様被申渡候上追々孟友許i

取寄候様御取計可有之由被申越逐一承知候︒如何様左様︱ーも相

成候ハ、町人共一口之産業相立候様二も可相成、其上只今―—而さへ志賀焼持チ兼候様子―ー候得者朝鮮£茶碗類取寄御国中―—而

取遣候様相成候ハ︑弥以手詰リ可申︑新鹿焼出来立候ハ︑此茶

碗ハ強手―—而も可有之労御評議之通御同意存候間早く御差図有

之度

存候

一︑新鹿焼下代忠助と申者其筋存知候者と相聞候付仕据方近々御

差図ーー可被及由令承知候︒何卒々々町人共一口之産業とも相成

候様折角御差図方有御座度存候︒

右之趣為可申述如此御座候︒恐怪謹言︒

二月十九日

短い文面にもかかわらず︑この書状は当時の対馬島内の焼物に関

する諸事情を実によく伝えてくれている︒簡単なので若干判断しに

くい所もあるが記事の内容を順次個条書にしてみるとつぎのようで

ある

そのころ島内では志賀焼のほかには用い得るような焼物がない︒

9

⇔その志賀焼も﹁施品﹂で﹁高値﹂である︒

伺しかし志賀焼はなんといっても﹁国産︵単に島内産というだけ

でなく︑藩がてこ入れをしている︶﹂ゆえ︑なんとか島内のも

のに購入させるようにしている︒ 四たとえ﹁軽キ品︵日用雑品をさすものと思う︶﹂でも朝鮮から

輸入しているのは藩財政にとって好ましくない︵当時︑諸大名

や以酌庵和尚の希望で朝鮮焼物等を輸入しているが島内で用い

る日用雑器については史料的にかかる事実を確認できない︶︒

箇ことに志賀焼再興となれば茶碗・入子鉢・久利壺等の朝鮮焼物

の輸入は差しとめ︑大森繁右衛門︵家老︑このとき古川図書を

応援のため釜山に滞在中︶と右平︵不詳︶両人の申し出もあり︑

かかる朝鮮焼物はすべて島外へ商いに出すこと︒

因それについて販売不振などならぬよう売込先の手配などを十分しておくこと(江戸・京都・大坂•長崎屋敷等における商売を

さす

もの

と思

われ

る︶

紺かような手段をしてこそ﹁町人共一口之産業﹂が成り立つとい

うもので︑いまのように志賀焼を売りかねているようでは朝鮮

焼物の輸入などもってのほかである︒

@再興予定の志賀焼の茶碗は﹁強手﹂のものと思われるゆえ︑早

く開窯の許可を出すよう力添えをお願いしたい︵志賀焼はもと

もと﹁強手﹂の焼物だったようである︶︒

⑲つづいて第二項にはすでに﹁下代忠助﹂が﹁其筋︵作陶を︶存

知候者﹂と知られていて︑窯の﹁仕据方﹂を﹁近々﹂申しつけ

られることを期待しているとある︒倉田万兵衛が差配した志賀

④ 窯はすでに窯も細工場も﹁無益︱一取除﹂かれていたゆえ︑忠助

は改めてそれらを新設せねばならなかった︒その費用について

(5)

⑤ も忠助から藩へ見積りが出されていた︒そしてなお﹁新鹿焼﹂

が成功すれば﹁町人共一口之産業とも相成﹂ゆえ﹁御差図﹂を

願いたいと古川図書は再度書き加えている︒図書は御郡支配役

⑥ の家老として﹁農政御国産諸職方之儀﹂を担当していたので︑

志賀焼の再興によほど期待していたようである︒ところが釜山

行のため自分が指図し得ず仮支配役を勤めていた平田隼人にこ

の件を依頼したのである︒

では︑この書状によりながら対州窯や対馬における焼物事情など

について簡単にみておこう︒当時﹁オ覚﹂あるとされる志賀焼も

﹁薦品﹂で﹁高値﹂とあるが︑対馬の日用陶器の供給事情はよくな

い︒それはなにより対馬藩が長い間とりつづけてきたおよそつぎの

ような方策ゆえであって︑藩みずからが招いたことでもあった︒

日他国産の陶器をできるだけ島へ入れさせない︵対馬から銀の流

出を

防ぐ

ため

︶︒

⇔対州窯で﹁朝鮮焼物﹂に類似の製品を作らせない︵対州窯でか

かる製品を作らせることこそ他にない特色と思われるのに藩は

厳しい制限をしていた︒つまり対州窯の発展を阻害していた︶︒

それまで何度か久田・志賀などで開窯され︑いずれも永続きはし

なかったものの︑それらの中には島内の焼物需要に応えるぺくそれ

なりに工夫をこらした窯もあった︒たとえば正徳四(‑七一四年︶︑

大庭七郎右衛門・飯束市右衛門が久田あるいは小浦皿山に開窯した

⑦ いむね藩へ願い出たが︑開窯の条件に

る ︒

﹁国表毎日記﹂の安永九年五月八日条にみえる藩からの達には •伊万里焼物の類の「御国用雑器」を焼く。・焼物の代銀は対馬の実情に合わせ現物との交換も可︒

というような項目を入れている︒これに対し藩は﹁朝鮮焼物﹂に類

似のものを作らないことを条件に開窯を認めたが新窯の育成を図る

ようなことはまったくなかった︒むしろ藩は寵入れ・鼈出しの際に

検分を加え生業の邪魔すらしているようであった︒藩に申し入れを

し︑その検分を鼈出しの際だけにさせたのは大庭弥次右衛門だが︑

それまでは不必要と思えるような藩の干渉が行なわれていたのであ

ところが安永四︵一七七五︶年︑志賀に開窯を計画した荒川喜右

衛門は従来の対州窯とはまったく異なり︑

・藩の新渡方︵朝鮮及び釜山窯の焼物を管理する役所︶御用とし

て朝鮮焼風の焼物を作る︒•島内用はむろん朝鮮への輸出をも目的として伊万里焼を焼く。

という経営方針を打ち出した︒荒川喜右衛門の﹁茶碗焼仕立﹂ほ藩

から﹁国益之儀﹂と認められ︑開窯にあたって藩に資金を借りたが︑

その返済期限を延期してくれたほどであった︒四年後の安永八年に

はほぼ経営方針に近い成果をあげていたにもかかわらず︑なにゆえ

か喜右衛門は経営から退き︑先述のように倉田万兵衛が差配するこ

とになった︒ここに志賀窯は改めて藩窯に近い姿で継続することに

なったのである︒

(6)

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

とあって︑志賀窯では有用の焼物を産していた︒

いうのはこういうことを指すのだが︑実際はこの書状がいうごとく

﹁施品﹂で﹁高値﹂だったようである︒ほぼ一

0

年間つづいた志賀

窯ではあったが天明四年︑倉田万兵衛が﹁薬種調方﹂に転じ朝鮮へ

渡ったため閉窯のやむなきに至った︒その志賀窯をまた開くため︑

それまでの経過︑今後の留意点などあれこれのべているのがこの書

状なのである︒

回箇肉は朝鮮焼物の輸入とその阪売についてのべているのだが︑

かようなことはこれまでまったく知られもしなかったし想像されて

もいなかった︒当時︑茶陶はおろか雑器に至るまで朝鮮焼物が輸入

されていたことが証明されたわけで︑今日に伝来する朝鮮焼物には

この手のものもあろうかと思う︒むろん︑これらは倭館で買い求め

られ対馬へ送られてくるのだが誰が担当し︑どういう手順で島内外

へ売られたのであろうか︒因の記事からみて商人まかせとは考えら

れず︑対馬藩みずからが輸入・販売を行なっていたと思われ︑勘定 ﹁オ覚﹂があると ﹁志賀茶碗鼈︳︳而焼出し之品仮成二御国用不差支程ーー有之⁝⁝﹂とあ

り︑

1

年後

の天

明︱

‑︵

一七

11

)年四月十九日条にみえる藩の達

の中

にも

(志賀)茶碗寵仕立方倉田万兵衛江御任被置専焼出唯今―—而者 ︑

宜仕

立伊

万里

碓ー

一見

紛れ

候程

︱ー

有之

︑既

ーー

御国

用朝

鮮売

買共

ーー

達候様形付ヶ候と相聞令連続志賀焼一色を以繁栄いたし候得者

格別之御国益御為事候︒

その中で忠助の器用さを﹁拮立能ク其筋

藩ではその手筋を認め新窯を作り﹁館︵釜山

⑧ 窯︶焼之形試として焼継﹂ぐように命じた︒まもなく忠助に代わっ

て実際に﹁焼継﹂いでいったのほ恵作だが︑忠助は一体どこで﹁其

筋﹂を身につけたのか︒

⑨ 忠助はかつて釜山窯で働いていた経験があったのである︒それは

多分

︑元

文︱

︱︱

ー寛

保=

︱‑

︵一

七三

l

四一

︱‑

︶年

︑小

寺小

十郎

・早

田貞

平両人が請け負って開いていた釜山窯ではないかと思う︒それが最

後の釜山窯だが忠助はそのころ二五

i ‑

‑ 0

歳ぐらいと思われ︑藩命

によったかどうかわからないが釜山へ渡り朝鮮焼の特色を会得した

荒川喜右衛門が開いた志賀窯にも勤め

りヽ

のである︒そしてその後︑

︑︑

﹁其

筋ー

一手

馴居

︵傍

点筆

者︶

られる︒忠助の志賀窯は古川図書が指示したころから四年後によう 焼成することだとわかる︒ニ

手馴

居候

﹂と

記し

今回の登用となったものと考え 筋﹂とは単なる﹁作陶﹂ではなく︑釜山窯の作品に匹敵するものを 果を伝える﹁国表毎日記﹂寛政四年五月二十八日条によると︑

﹁ 其

方の諸役が差配していたのかと思う︒いずれにせよ︑その実態はま

ったく不明であり︑今後の調査にまつほかない︒

第二項の忠助による志賀窯再興だが忠助はかなり老年で︑すでに

0

歳近かったはずである︒したがって再興後の志賀窯はまもなく

子の恵作が差配する︵後述︶が︑その恵作もすでに六

0

歳で

あっ

た︒

なぜかような高齢者に志賀窯の再興を任せたのかよくわからないが︑

忠助以外に﹁其筋存知候者﹂がいなかったからであろう︒再興の成

(7)

やく成果をみせた︒﹁新渡碓︵朝鮮焼物や釜山窯作品に近いもの︶﹂

の焼成に成功し︑それは藩の御用品となった︒だが︑結局は日用陶

器が高値となり享和元年に廃窯のやむなきに至ったのだが︑それに

ついてはこのあと四度目に開かれる志賀窯の史料でみることにし︑

以上で古川図書の書状をめぐる志賀窯再興に関する記述を終える︒

忠助・恵作による志賀窯が止んで一二年︑四度目の志賀窯開窯の計

画が出された︒﹁国表毎日記﹂享和四︵一八

0

四︶年四月九日条に

開窯の許可をめぐる詳細な書付が記録されているのでつぎにあげる︒

平田五左衛門

右者志賀於茶碗竃先年下代恵作江新渡向茶碗・茶器之類試焼数

ケ年被仰付候処年々御入レ銀相止て去ル庚申年御用焼被廃置︑

其跡町家分依望鼈・諸道具御借渡被下稽古焼為致候処銀力之取

繋ハ素細工手筋不功ーー付連続不致︑依之右恵作江為焼立候先年

之形を以再興之趣向五左衛門より心付之次第其役所へ申出︑尤取掛最初者入料も夫―—応入越候付銀拝借之儀をも委曲願出候。以前¢之御国産只今之形―—而者其伝来も全く廃シ恵作堅固之内

子共ハ素リ其外得方成者江相伝御国産令永続候様無之候而者終

‑︳

其形

相捨

リ候

︳︳

至古

キ御

国産

右之

侭︱

ーも

難被

打捨

置︑

此節

別段

御銀繰筋を以願出之内九拾文銭四貫目牛皮浜出別運上取立を以

拝借被仰付︑一鉢之差配をも被仰付候間心之及令出精御国産令 口平田五左衛門による開窯

連続候様一卜際可令心配候︒

T︑右拝借銀上納方焼出し初年者諸用費も有之と相聞候付九銭五百目丈上納―—被仰付翌年より七百目ツ、六ケ年ーー無相違可令上納候。万一不納之節ハ願出之通石麦を以皆納―—至候迄厳重―—御引取上納―—被仰付候。

一︑先達而恵作江為焼候御損銀之分年々銀百目ツ︑上納可致旨申

出候通無滞年々可令上納候︒

伺一、志賀―—建組有之細工小屋・鼈・諸道具――至有合之分者其侭――

御借渡被下候間損し修補もの等二至悉皆自分より可取調候︒

一︑焼立テ上品御用立候分ハ品︳一応先年相極リ居候御定直段通を ⇔ 

以御買上可被下︑其代銀者追而右拝借銀内納差引︱︱ブ年分勘定

相極候様可致候︑尤竃出之節ハ其役所手代一人ッ︑出張御用之

品々好悪吟味方被仰付候間其旨可相心得侯゜

一︑新渡向之品々井土器御用之品専焼立︑其餘雑品焼損二割物等 伺

市中︳一而勝手二売払方者素︑旅人相望候ハ︑其通可被仰付候問

鼈成就焼出候時分可申出候︒

一︑朝鮮江年々被差渡候上品年々碓伊万里i

相調

込︱

ー相

成リ

年分

出捨リ之御銀も有之事故︑新渡向成就之上右御調込ーー相成候上

品向︱一限全く自力を以焼出之工夫も付候ハ︑一卜簾之御国益ニ

付追年―—心掛も可致候。

右之通被仰付候間永続方格別精実二令差配候様被相達拝借銀

上納方取引等厳重可被取計候︒以上︒

̲ . ̲ ̲  

(8)

がわ

かる

︒ め ︑

以上

つまり諸方への遣物となる作品の備蓄ができたことよ

﹁九

拾文

その資 んだた 四月九日御勝手方支配

小野六郎左衛門

を得

ない

御勘定奉行所

右者新渡向茶器類焼法伝来を得︑先年志賀於茶碗鼈焼立申付其

後被廃候処︑此節平田五左衛門心付之品申出︑五左衛門差配被

仰付最前之形を以再興被仰付候︒依之右雇勤差免碓師二申付︑

是迄被下候下代並宛行をも被下候間焼出方令出精子共ハ素其外

得方成者江焼法相伝御国産令永続候様格別可精入旨可被申付候︒

御勘定奉行所

以上だが︑これは平田五左衛門の開窯願いに対し藩から出された

認可の趣旨と条件を記録したもの︒これによって寛政一︱︱

l +

︱ ︱ 一 年 ︑

忠助・恵作の営んだ志賀窯が請負制で﹁年々御入レ銀相止﹂

﹁去ル庚申︵寛政十二︶年御用焼被廃置﹂れ閉窯となったこと

つまり開窯の際藩から受けた借銀の返済及び運上銀の納

入が滞ったためで︑これまでは﹁今程新渡方御用多分御貯も相備居

⑩ 候付今一卜竃焼立候上﹂廃窯となったものとしかわからなかった︒

新渡

方御

用︑

り︑もっと現実的な理由があったのである︒廃窯後︑藩は鼈も道具

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

﹁御国産﹂とは忠助や恵作がもつ対州焼の技術を指すが

その﹁永続﹂はやはり藩にとって大事であった︒かつて寛政一︱

‑ l +

三年の志賀窯で恵作は忠助に代わりかなりの御用品を焼いたが︑そ

の技術が﹁永続﹂させねばならぬ﹁御国産﹂であり︑五左衛門が再

興したい﹁先年之形﹂であった︒そのため恵作の子へほむろん︑器

用の者へも恵作の技術を伝えさせるべく︑恵作を勘定方下代から

﹁播師﹂に任用した︒﹁勘定方下代﹂の宛行はそのまま支給された︒

かつて︵寛政一二年の志賀窯再興のとき︶の忠助と同じ待遇であった︒

かくて五左衛門は﹁古キ御国産﹂再興の承認をうけたが︑

金繰りにも藩から特別の配慮をうけている︒全額でどれほど申し出

たのかわからないが﹁願出之内九拾文銭四貫目牛皮浜出別運上﹂の

取立てを認められ︑開窯資金に充当することになった︒

銭﹂とあるのは対馬藩が指定した銀との両替相場の単位で銭九

0

文 四月九日御勝手方支配

小野六郎左衛門

恵作 御扉下代 類も希望のあった町家へ貸し焼物稽古をさせていたが︑資金もなくむろん素人細工で永続するものではなかった︒鼈や道具類は藩が所管していたようだが︑それを貸し運上を取るという方針であったら

しい

平田五平衛門の開窯の趣旨の第一は﹁恵作堅固之内﹂に﹁御国産 ︒

令永続﹂ために﹁先年之形を以再興﹂したいというものである︒﹁恵

作堅固之内﹂というが︑恵作はこの年︵享和四年︶すでに古稀をむ

かえていた︒だが︑恵作が忠助から伝授された作陶の技術はいま生

かされておらず︑なおそれが後世に伝わらぬとあれば藩も考えざる

(9)

﹁年々銀百目ッ︑上納﹂するというから︑よほどその経営に見通し を六年間上納するこ

ととしている︵﹁九銭﹂というのも﹁九拾文銭﹂同様︑対馬藩独自

の銀遣いのときの両替相場単位である︶︒平田五左衛門は借入金の

返済という点からすれば今回の志賀窯を七年間経営・維持しなけれ

ばならなかった︒五左衛門にいかほどの算段があったのかよくわか

らないが︑万一のときは﹁石麦﹂をあて返済するむね申し入れてい

る︵米に代えて麦で払う意味と思われる︶︒また第二項では直接五

左衛門に関係のない前回︵寛政一︱

‑ i +

︱︱一年︶の志賀窯の損銀をも

を持っていたようである︒平田五左衛門についてほ今回の志賀窯に

関するほか﹁毎日記﹂等に記録はないが厳原の町人とみてまちがい

はなかろうと思う︒

第三項では先述のように寵や細工道具等が藩の所有であることが

わかる︒しかしその修補等は﹁悉皆﹂借用者の負担と決められてい

たらしい。第四•五・六項は作品に関する条件である。まず第四項

では﹁上品﹂で藩の御用品となり得るものは﹁先年相極リ居候御定

直段﹂で買いあげるとしている︒﹁先年﹂というのほ安永四︵一七

七五︶年︑荒川喜右衛門の志賀窯開窯のときで︑以来倉田万兵衛︑ ﹁九銭五百目丈﹂︑翌年からは をもって銀一匁と両替することをいう︒朝鮮から輸入した牛皮の﹁浜出︵対馬より積み出す際︶﹂の運上金︑すなわち銭四貫文をそれにあててもらっているが︑その返済方法は開窯に関する条件の第一項に示されている︒それによると初年度は諸費用も要することとて

﹁︵

銀︶

七百

目﹂

っていないことがわかる︒ 人の検分があり︑対馬藩の対州窯に対する姿勢と規制は少しも変わ されるように﹁新渡向之品々﹂と﹁土器御用之品﹂である︒

﹁新

忠助・恵作もこの方法を取ってきたものと思う︒こうして買いあげ

⑪ られた御用品が文化十四年の﹁印判帳﹂に記録される﹁忠助・恵

作・清次郎・又市﹂焼であろう︒志賀窯の作品の中心は第五項に示

向﹂ほ前述のように釜山窯作品に匹敵しうるものをいい︑それを焼

きつぐために今回の再興となったのだが︑藩ではやはりそれを阪売

の対象とさせていない︒五左衛門が自由に売り捌けるのは雑品・焼

損・ニ割物︵半端物のこと︶などにすぎなかった︒旅商人︵島外の

商人︶に売る場合も同様である︒また鼈出しの際には依然として役

最後の第六項では﹁上品﹂の伊万里焼物が相変わらず朝鮮へ輸出

されていること︑しかもその輸出が中継担当の対馬藩の収益にはな

っていないことが知られる︒かような﹁出捨リ之御銀﹂の節約を目

標に志賀窯で伊万里焼物の焼成を図ったのが荒川喜右衛門だが︑こ

のときに至るまで十分な成果がなく本場の伊万里から取り寄せてい

たのである︒荒川喜右衛門のときからすでに一︱

‑ 0

年をへてなおかよ

うな状況にもかかわらず︑藩はあまりその実態を把握していないよ

うに思われる︒ほとんど助成もせず︑いまなお﹁︵伊万里焼物の︶上

品向ー一限全く自力を以焼出之工夫﹂をし﹁一卜簾之御国益﹂を﹁心

掛﹂けよと申しつけているが︑この藩の姿勢も往古のままといえる︒

以上

の諸

条件

は約

一︱

‑ 0

年前︑志賀窯開窯の際に出されたものとほと

(10)

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

六月廿七日年寄中 んど変わらないが︑ともかく五左衛門を差配役として三年ぶりに志賀窯に火が入ることになった︒七

0

歳の老人とはいえ﹁碓師﹂とな

った恵作は再び活躍の場を得て作陶にはげむことになる︒そのこと

は漸時みてゆくことにして先に﹁国表毎日記﹂︵享和四年︶六月二

十七日条にある恵作への褒美の雷付をあげておこう︒

恵作

茶碗

焼下

白木綿壱疋

右者去辛酉年志賀茶碗鼈被廃候後直二其役所下代御雇被樅当年

迄四ケ年相勤候処此節又々茶碗鼈再興被仰付候付其役所勤差免候。然処右之者元来実直之者―—而前々其役所多年相勤候付功者

ニ有之︑諸事深切相勤候と相聞寄特之至候︒依之褒美として右

之通相与候︒此旨可被申付候︒以上︒

御勘定奉行所

寛政十︱︱‑︵享和元︶年︑志賀窯の閉窯で恵作はもとの勘定奉行所

の下代にもどっていた︒本務はむろん志賀窯での勤務もその人柄の

ごとく実直であったらしい︒この褒美もそのためだが恵作のかよう

な実寵さは終生変わらなかったようである︒

さてかくて開窯となった志賀窯だが︑このあとまったく記録がな

く経営の状況など不明というほかないのである︒しかし借入金の返

済もスムーズに行かず︑結局は経営不振のため損銀が増え閉窯寸前

に追い込まれていたことは確かである0

0

年近くも過ぎた文化十

年十二月二十四日の﹁国表毎日記﹂につぎのような勘定奉行所への売上候様申付候︒

くれ

る︒

達が

あっ

て︑

五左衛門が差配した志賀窯の︑その問の事情を教えて

公木弐疋

右者去壬子年其役所下代ふ幡下代︱︱召直親忠助口申者ふ得相伝新

渡方御備之品をも多数焼立用立候処︑此者儀今程及極老茶碗鼈

之儀も別紙︱︱相達候通当時見合候付多年之出精を称褒美として

右之通被下候。尤相応之弟子をも取立用立候ハ、跡々―—而為代

召抱――而可有之候。扱又吉田又市儀去ル申年依願右之場所―—而

自分か焼立居候と相聞候付又市江焼立令相伝断絶不致様可致候︒

偲而是迄之通御扶持被下之候間於令連続者追而申付方有之事︱‑

候︒此旨可被申付候︒以上︒

十二月廿四日

御勘定奉行所

”志賀茶碗鼈之儀初発か是迄御損銀七貫四百匁余―—及候由費成儀——付此節被廃度候得共、年来令連続候碓伝来相絶候而も不相済儀―—付被伺出候条々左之通被仰付候。

一︑当時茶碗鼈相見合去ル申年吉田又市依願右之場所相借自分£

鼈仕据当春ォ焼立候処相応二相見候付︑尚又下代恵作ヵ得相伝

不致断絶様可心得旨又市江可被相達候︒

一︑碍下代清次郎と申者此節御暇被下年分入用之土器向後此者ォ 年寄中

恵作 碓下代

(11)

とにもかかわらず︑ほかにもこのような例が多い︒ 国一︑志賀定番として番手一人召置候得共此節相省キ恵作儀是迄之

通御扶持被下候事故見かし免申付候︒尤又市右差図方等可被相

逹候

一︑是迄御損銀二相成居候分不容易候得共此節払切被仰付候︒

右之通夫々可被取計候︒以上︒

以上だがこの達から不明の志賀窯の一

0

年間ばかりか︑これまで

わからなかった志賀窯のあれこれを知ることができる︒かつて寛政

三年忠助が開いた志賀窯に︑恵作は忠助から作陶の﹁相伝﹂を得て

翌年から﹁碓下代﹂として勤めていたことがわかる︒寛政四年忠助

が没したためであろう︒したがってそのときの志賀窯︵寛政一︱︱

l +

三年︶はほとんど恵作が差配していたのである︒寛政四年にほ恵作

も五八歳であり年齢的には忠助を継ぐに十分以上であった︒実は︑

⑫ この史料によってはじめて忠助と恵作が親子であるとわかったのだ

が︑これまでこのような基本的なことがわからないままであった︒

いや忠助や恵作の存在も知られていなかったし︑いわんや両人の志

賀窯での奉公など考えられてもいなかった︒幕末に近い対州窯のこ

ここにも記されるように恵作はこれまで﹁新渡方御備之品をも多

られたようで︑ 数焼立﹂て藩御用としている︒そしてその多くが藩の遣物等に用い

四年後の文化十四年︑新渡方の﹁印判帳﹂には恵作 十二月廿四日御勘定奉行所 年寄中

るように ま

な お 藩 で は

といわれる年となり﹁多年之出 ⑬ 焼の茶碗はわずか九三二個しか記録されていない︒恵作焼はこういう点からみても使い手のあるものだったようである︒その恵作もい

﹁極老︵当年七九歳である︶﹂

精﹂も認められたが︑﹁相応之弟子をも取立用立候ハ

︑﹂と注文に及んでいる︒その﹁相応之弟子﹂となるのがつづいて

⑭ 名を出す吉田又市である︒出自やこの以前の経歴など未詳だが︑文

その又市へ 面によると前年︵文化九年︶より自分から申し出て志賀に窯を築き

作 陶 に 携 わ っ て い る

︵ 恵 作 の 技 術 を

︶ 相 伝

﹂ す る よ

う申しつけているが︑後半にある勘定奉行所への書付の第二項にあ

事することになる︒ 又市は恵﹁︵又市の腕が︶相応一︳相見﹂えたからである︒

作が年寄って得た貴重な弟子だが︑このあと長く志賀窯で作陶に従

ところでこの壽付は平田五左衛門開窯の志賀窯を経済的理由から

﹁此節被廃度﹂と願い出た勘定奉行所に対し︑存続の判断を伝えた

ものである︒これによると今回の志賀窯はおそらく﹁初発ふ是迄﹂

五左衛門の算段通りに行かず︑結局この一

0

年問の差引合計が﹁損

銀七貫四百匁余﹂となったものと思われる︒しかしこの文面では五

左衛門が経営に携わっているようすはなく︑勘定奉行所が差配して

いたようにうけとれる︒五左衛門が開窯資金として藩から借入れた

﹁九拾文銭四貫目﹂と︑前回忠助差配の志賀窯の損銀﹁百匁ツ︑﹂

の返済がどうなったのか︑これではよくわからない︒ともかく開窯

以来慢性的な赤字経営がつづ含︑その間藩費から補助していた︵勘

10

 

(12)

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

内 御 茶 碗 拾 五 同 御 水 指 拾 う

但し

参ツ

蓋な

一 御 茶 碗

清次瑯焼

一︑御茶碗

一︑御碓入合 ように記録されている︒

五拾入 百弐拾入

参番 弐番 壱番 定方から支出︶ものと思う︒結局︑損銀を﹁費成儀﹂と判断したため廃窯案が出されたのだが︑﹁古キ御国産﹂が年来連続してきていることゆえ藩は損銀を棚あげにし︑条件付でその存続を命じたのである︒かつて乎田五左衛門が掲げた開窯目的の第一に﹁恵作堅固之内﹂に﹁御国産令永続候様﹂にしたいとあったが︑それだけはなんとかその目的を達しているゆえ藩も打ち止め難かったのであろう︒

存続のため藩が出した四項目の条件をみてゆこう︒第一項は吉田

又市への技術相伝を再度確認させているもの︒第二項だがこういう

事実はこれまでまったく知られていない︒清次郎の存在は確認され

⑮ ているが︑本項の記事から清次郎についてそのおおよそを知り得る︒

H

﹁罐下代﹂としてこのころ志賀窯に勤めていたこと︒

⇔﹁此節御暇被下﹂たこと︒

回今後︑年々藩入用の土器については清次郎より買入れること︒

清次郎がいつ﹁幡下代﹂を命じられ志賀窯に勤めたかわからない

が︑文化十四年の新渡方﹁印判帳﹂によると消次郎の作品はつぎの

なくその消息は不明というほかないのである︒

一︑御茶碗

一︑御茶碗

一︑御茶碗

一︑御茶碗

一︑御茶碗

一︑御硲入合

内御

花生

同御

水醜

同灰

はふ

ろく

同御

茶入

百四拾九入

これによると茶碗が計七五九個︑水指など計︱

1

1一個の在庫が確認

され︑その問いかほど御用品として使われたかわからないが恵作に

つぐほどの点数がある︒しかも藩御用品としてこれだけ確保されて

いるゆえ清次郎は単なる下働きの陶工ではない︒その前歴もわから

ないが恵作と同じ﹁碓下代﹂であり待遇なども恵作並みではなかっ

たかと思う︒志賀窯の存続に際し勘定方から所要経費の削減が打ち

出され︑そのため清次郎に﹁御暇﹂が出たのではあるまいか︒しか

し清次郎の作陶の技術ほ捨て難く︑藩では﹁土器﹂御用を命じたも

のと考えられる︒だが︑このあと管見の限り清次郎を伝える史料が

つづく第一二項もこれまでまったく知られることのなかった恵作と

︑御茶碗七拾入拾番1

拾五

九番 五拾入

八番

百拾五入七番 六拾四入六番 五

百弐拾六入四番

(13)

白恵作︑又市による志賀窯

と思

う︒

その役目を伝えてくれる︒その前に︑志賀窯には﹁志賀定番﹂とよ

ばれる﹁番手一人﹂が勤番していたが︑これも経費節減のため以後

廃止となったことが伝えられる︒かような番手の存在からみてもこ

の志賀窯ほ藩窯そのものといってよかろう︒さて恵作だが︑これま

で同様﹁罐下代﹂としての扶持ながら﹁見かし免﹂役を勤めること

⑯ になった︒﹁みかじめ﹂とは﹁監督官﹂のことで志賀窯を差配し使

用人を監督する役である︒それまでの﹁碓下代﹂とはまったく異な

り管理者としての立場に立つわけで責任も重い︒八

0

歳を目前にし

た恵作にとっては激務だが又市への﹁差図﹂等も怠らなかったもの

最後の第四項は先述したが損銀の﹁払切︵棚あげ︶﹂を指

示したもの︒藩として対州窯の育成を図っておればかような損銀の

肩代わりの必要もなかったのだが︑藩の対州窯に対する姿勢は常に

消極的であった︒あるいは民間窯である対州窯に釜山窯の技術が移

り︑それが他藩の窯に流出することを考慮したためかとも考えられ

るがいまよくわからない︒

かくて廃窯寸前にまで至った志賀窯であったが︑藩のてこ入れの

もと再出発となった︒実はその後の経営の状況などを伝えてくれる

史料に欠けるのだが﹁国表毎日記﹂を年次を追ってみてゆくことに

しよう︒まず翌文化十一(‑八一四︶年三月八日︑恵作についてつ

ぎのような達が出されているので同日の﹁国表毎日記﹂から抜粋し 患下代恵作

右者宝暦十三未年御麗下代申付︑明和二酉年銀掛所下代︱ー召抱︑

寛政四子年碓下代︱ー召置是迄五十四年︳︳及候処︑碓之儀親忠助

より得相伝新渡方御備之品多数焼立用立候処i下代順番之勤所

江多年不召仕難儀之筈︱︳候得共無其厭精︱︳入︑其前隣国筋田舎

等江召仕候節毎年用︳︳立︑就中安永元辰年御普請役下向之節引

切勤申付田舎廻村ーー召仕︑扱又同五申年俵物之宰領申付長崎江

召仕帰国之節不軽勤向心得宜次第も有之︒如右年数相勤候者稀

成次第︑今程八十歳ー︳及候由余命も無之身分是迄精︱︱入相勤候

段無相違相聞候付其段及沙汰︑年始・孟蘭盆御礼之節坊主之席

三月八日

可被得其意候

この藩庁の達はこれまでの史料以上に恵作の経歴︑勤務ぶり︑人

柄などを教えてくれる︒まず本年八

0

歳とあるゆえ恵作は享保二〇

︵一七三五︶年生まれとわかる︒父・忠助の年齢がわからぬが︑忠

︱︱‑︶年﹁御雇下代﹂として奉公以来これまで﹁五十四年﹂とあるが︑

﹁五十二年﹂の誤まりではないかと思う︒宝暦十一︳一年︑恵作は二九

歳で奉公したが以来﹁下代﹂のままであった︒文面によると下代の 助以上に長寿ではないかと思う︒

達の経歴では宝暦十三︵一七六

与頭衆中

御勘定奉行所 より御礼申上候様申付候︒此旨可被申付候︒以上︒

年寄中

よう

(14)

きなかったとある︒

えた

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

着席之次第

御 大 御 徒 小 馬 士 姓 廻 中 中 中

喪斗目麻上下着

表茶道

見届

゜ 医 師

御家中之面々年頭為御祝詞出仕︑御帳︱ー記︒

附札 それが五十二年に及ん 役所勤務にも順番があったらしい︒しかし恵作はその器用さが認められてか諸役所に﹁召仕﹂えられ︑ために一役所に長年の勤務がで

だがその人柄ゆえにそれを厭わずどの勤めも

﹁勤向心得宜﹂しく﹁是迄精ぎ人相勤﹂め︑

だのである︒それを﹁如右年数相勤候者稀成次第﹂と結んでいるが

現業に携わるものとてまことに﹁稀成﹂ことであったことと思われ

る︒藩ではこの長い恵作の労に報いるため﹁年始・孟蘭盆御礼﹂の

際︑藩邸へ赴き﹁坊主之席﹂より藩主にまみえ挨拶できる資格を与

つまり﹁坊主並﹂の地位を与えられたことになる︒恵作にと

ってまことに名誉なことであった︒管見の限り﹁御雇下代﹂がかよ

うな待遇を受けた例を見ないが︑これまた﹁稀成﹂ことであったに

ちがいない︒恵作のひたすらに実直な人柄がしからしめたものだが︑

志賀窯での﹁見かし免﹂役の勤務ぶりも想像にかたくない︒このあ

と達にあるごとく恵作は﹁年始・孟蘭盆御礼﹂の際には藩邸に参上

するが︑それは当日の﹁国表毎日記﹂に必らず記録される︒翌文化

十二年正月元日の記事からその部分をみるとつぎのようである︵傍

点筆

者︶

五左衛門拝借之土地此節返上焼物御用場―—被仰付又市 雲之間縁頬

~ ー―‑、、七

御 碓 ヽ 坊 中 古 滝 五

料 下 、 尾 藤 本 三

理 代 ヽ 主 利 友 最 方

人 恵 ヽ 八 七 蔵 御

, 

このように年二回記録されるが︑文化十五︵文政元︑

年七月十四日の﹁孟蘭盆御礼﹂のあと記名がない︒おそらく恵作は

翌文政一一年の正月を待たず没したものと思われるが︑とすれば享年

八四︑長寿の人であった︒

さて肝心の志賀窯だが︑この恵作の監督のもと又市が作陶をつづ

けていた︒﹁国表毎日記﹂文化十三年三月六日条につぎのような藩

庁の達が記載されている︒

吉田又市

右者於志賀幡物類稽古焼兼而被仰付置候処茶碗鼈之土地手狭︱‑

在之︑鼈打寵し且焼物御用等之節甚不勝手二候︒然処先般平田

五左衛門依願同所地続之場所拝借家居建込居︑昨今変宅跡今以

同人拝借地―—相成居候場所此節上之焼物御用場―—被仰付置被

下候様願出附札を以左之通相達ス︒

一八

一八

(15)

又市

一 焼

︑︳

御茶

九拾弐入壱番 が記録され︑その仕事ぶりの一端がうかがえる︒ の新渡方﹁印判帳﹂には恵作・清次郎についでつぎのように又市焼

同 屋 佐 敷 御 与 浅 役 仁 方 勘 頭

悶筐塁靡

右 兵 行

衛 衛 所 門 殿 殿

、‑ ‑

>

惹 鰐

これによると又市はこれまで﹁見かじ免﹂の差図のもと﹁稽古焼

兼而被仰付置﹂という評価しかうけていなかったが︑この時点で一

人立ちを認められたようである︒

盆﹂の挨拶には出ていたが恵作も八︱︱歳となり︑このころ隠居した

のかも知れない︒又市の藩庁への申し出は﹁竃の作り変えあるいは

御用品の注文があるとぎ手狭ゆえ︑地続きで目下空地である平田五

左衛門の借用地を焼物御用場として借りたい﹂というもの︒すでに

五左衛門は志賀窯から手を引き﹁変宅﹂しているゆえ藩庁では申し

出を認めこの達となった︒ところで注目すべきは又市がこの御用場

の﹁見かじ免﹂に任じられていることで︑これまでのような﹁稽古

焼﹂の職人ではなく窯の監督として作陶に当ることになるわけであ

る︒しかし又市はこのころかなり技術があったようで翌文化十四年

あるいは藩主への

江見かし免被仰付候︒

年寄中月六日 此旨可被相達候︒以上︒

﹁年始・孟蘭

一︑御茶碗 焼

一︑御碓入合 焼

内御花生拾弐

同御水指弐拾五

同御置物七ッ

一︑御茶碗 焼

一︑御茶碗 焼

一︑御茶碗 焼

一︑御茶碗 焼

一︑御茶碗 焼

免﹂になってその翌年の在庫調べゆえ︑この作品は恵作の監督をう

けて作陶したものがほとんどではないかと思う︒又市の作品もかよ

うに藩御用になり得て︑

はここに至って一応その

H

的を達したといえよう︒このあと又市は

長く志賀窯を差配し伊万里焼も手がけるが文政十二年まで史料がな

い︒その前にこれまでまったく知られることのなかった志賀の罐焼

の一例をみておこう︒﹁国表毎日記﹂文政四年三月二十七日条につ

ぎのような藩庁の書付があって志賀での作陶を伝える︒

荒川近右衛門

右者以前碓御国産之儀︱ー付朝鮮碓之形其外伊万里碓試焼をもい

たし見度志賀茶碗鼈稽古焼之跡再興之低依願被差免候処︑肥前 藩が目標とした﹁古キ御国産﹂の﹁永続﹂ 茶碗が計四七二個︑花生など計四四個の在庫がある︒ 七拾入八番 八拾入七番 五拾五入六番 四拾入五番 七拾入四番 参番

六拾五入弐番 一 四

﹁見

かじ

(16)

三月廿七日

仁位格兵衛殿

なにぶん荒川近右衛門が長期間つづけてきたというこの碓焼につ

いてはこれがはじめての史料で︑他に関連の史料もなく年紀等につ

いても判断がむずかしい︒また文面にも理解し難い所があるが︑又

市の志賀窯などとのかかわりもあり最初から漸次みてゆこう︒まず

荒川近右衛門だがこの書付が町奉行あてであるので︑厳原の町人で

あることはまちがいないと思う︒またあえて推測するなら荒川近右

衛門はかつて安永年間に志賀窯を開いた荒川喜右衛門の子で︑父・

喜右衛門の業を嗣いだのではないかと考えられる︒その理由をのベ

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

年寄中 内江度々罷越製作方密ーー相考帰国之上所々之土性をも吟味取集︑又々伊万里江持越其職之者_一取入為致試焼候処土性宜由―—付職人薦下鼈其外諸道具共全新規之取設ーー付多分之入料を色々心朧を砕令出精候付︑初而於御国白手碓為出来一鉢之取設成就︳一至候処不馴之儀︳一而調・不調も有之︒雑費莫太ーー相嵩身上及活脚無是非他江譲渡候と相聞候処其形子今連続則御国産と相成居候︒近右衛門儀御国益二原キ既身上及活脚候をも不相厭一廉之御国産を仕起候者︑偏同人精張故二叩子今令連続居候者不一卜形事ニ候処是迄及数十ケ年其段御沙汰も無之︑其比罐吟味方加役在勤之人i此節委曲申出候品も有之候付︑右御国益を成候次第を

被称商売筋心付等申出候ハ︑吟味之上可被及御沙汰候︒此旨可

被申渡候︒以上︒

一 五

たとえば陶土の

のため﹁水碓﹂を使うが︑志賀には近くに急坂を流れ落 まず書付の後半部に﹁︵御国産を︶子今令連続居候者不一ト

形事一︳候処︑是迄及数十ケ年⁝⁝﹂とあり︑この碓焼が﹁数十ケ

年﹂前から行なわれているとあること︒単に﹁数十ケ年﹂では不正確だが一応「――-•四十年」と考えてみよう。荒川喜右衛門が志賀窯

を開いたのが安永四︵一七七五︶年︑それを安永八︵一七七九︶年

に倉田万兵衛がひき継いだ︒約四

0

年前︑経営はまず順調であった

のに不調法があったのか喜右衛門は志賀窯から身を引いた︒かかる

不都合があって近右衛門に﹁喜右衛門子﹂と記述がないのかと思う︒

志賀窯は倉田万兵衛が継いだが︑近右衛門はそれとは別に後年﹁朝

鮮碓之形其外伊万里碓試焼﹂の父業を嗣ぐべく﹁志賀茶碗竃稽古焼

之跡﹂へ再興を願い出たのではあるまいか︒それがいつのことか碇

と定め難いがここにいう﹁数十ケ年﹂とは喜右衛門の隠退以来を表

現しているものと考えられる︒

つぎに近右衛門が﹁初而於御国白手罐﹂を焼出すことだが︑そも

そも対馬で伊万里焼を作り朝鮮への輸出計画を最初に出したのは荒

川喜右衛門である︒近右衛門がみずから肥前へ﹁度々罷越﹂︑

作方﹂ばかりか﹁土性﹂の吟味まで行なったうえ伊万里職人をよび

作陶に及んだのは︑父の遣志を成就するためではなかったのかと思

う︒近右衛門はその伊万里罐を焼くため喜右衛門にゆかりの志賀の

地を選んだが︑かつて喜右衛門からそこが罐焼の諸条件に適うこと

からうす﹁墾納︵碓で陶石を砕

くこ

と︶

を聞いていたのであろう︒ よ

う︒

﹁ 製

(17)

及活脚﹂とあるが︑やはり伊万里で焼成するようなわけにはゆかな

かったようである︒かくて近右衛門の新窯はいったん譲渡されたが れでは経営も苦しい︒書付には 達しているのである︒近右衛門は﹁所々﹂の土を採取し伊万里職人に吟味してもらい試焼をしそのうえで職人を対馬へよんでいるが︑﹁鼈其外諸道具共﹂はすぺて﹁新規﹂に取設けたものであるという︒むろんこの新﹁鼈﹂は志賀に築いたものだが︑目下作陶中の又市の窯との競合はなかったのであろうか︒というのほ恵作・又市の窯でも伊万里碓の焼成を行なっていたからで︑それは後年まで長くつづく︒藩の考えがよくわからないが︑﹁一廉之御国産﹂ともなれば問題はなかったのかもしれない︒周到な計画のうえ碓焼に入ったのだが万事に﹁不馴﹂が影響し︑生産に﹁調・不調﹂の差が大きく︑こ

「雑費莫太―—相嵩」、ために﹁身上 スにのせるため資金援助等を申し出てくれば︶﹂応じてよいむね通 ちる小川︵現在名は恵美須川︶がある︒またなにより志賀は海岸に近く焼物の積み出しに便利であった︒以上のようなことから伊万里碓の焼成は荒川近右衛門がはじめてとりくんだのではなく︑父と思われる喜右衛門の業を嗣いだものと考えたい︒

さて近右衛門の努力と成功︑その一方で身上泊脚に及ぶ過程は書

付にのべてあるのでふれないが︑対馬で最初の﹁白手罐﹂焼成に

﹁播吟味方加役在勤﹂の者が注目し︑藩庁へその﹁委曲﹂を報じた

とある︒その背景にはこの﹁白手罐﹂が﹁御国益を成﹂すとの判断

があったからだが︑藩庁では﹁商売筋心付等申出候ハ︑︵商業ペー

︑ ︒

四月七日 達 ︒

なお﹁其形子今連続則御国産と相成居﹂るとあり窯は存続していた

らしい︒しかしこのあと藩の援助の有無も︑はじめて本格的な﹁白

手碓﹂と評価された近右衛門の志賀窯も︑記録がなく不明というほ

かないのである︒ただ又市の志賀窯のように藩窯でなかったことは

確かで︑近右衛門も藩から﹁みかじめ﹂などに任命された形跡もな

一方︑吉田又市の志賀窯だが先述の﹁焼物御用場﹂借用から︱︱︱︱

年間︑まったく関連の史料がない︒しかし碓焼が継続していたこと

は確かで﹁国表毎日記﹂文政十二(‑八二九︶四月二十七日条につ

ぎのような記事がみられる︒

可被

得其

意候

吉田又市

︵ 摂

右者先年依願御国産御茶碗被仰付置候処接州大坂出生伊三郎と申者皿山荒仕事功者之者―—付雇入御免之儀願出左之附札を以相

見届候︒接州大坂生伊一二郎と申者皿山荒仕事功者二有之︑雇

入之儀願出願之通雇入被差免候︒此旨可被申渡候︒以上︒

年寄中

大目付中船改麟麟中

これは﹁皿山荒仕事功者﹂である大坂出身の職人・伊一ー一郎の﹁雇

願御免﹂の達だが︑対馬では島外のものを雇う場合必らず藩の許可

が必要であった︒周知のように対馬は産米の少ない島で︑

一 六

ために藩

(18)

る ︒ 市田代︶にも皿山があるが︑ここにいう皿山はそれではない︒ むろん厳原にも皿山があり︵後述︶︑対馬藩の田代領︵現在は鳥栖 ﹁皿山﹂とは対馬では伊万里近辺あるいは伊万里焼を指している︒ 送られるのである︒さて伊三郎が巧みな﹁皿山荒仕事﹂だが︑まず などが許可されると藩庁から大目付︑船改役また町奉行あてに達が 糧の確保につとめていた︒したがって︑この例のように職人の居留 では旅人吟味役を置いて島外者の入島及び居留に絶えず注意し︑食

文化

・文

政期

の対

州︵

対馬

︶窯

をめ

ぐっ

﹁土揉み﹂ある山荒仕事﹂とは伊万里焼にかかわる荒仕事をいい︑

いは﹁火仕事﹂など特殊な力仕事を指すものと思う︒でなければわ

ざわざ大坂出身の伊三郎を雇い入れる必要はなく︑単なる力仕事で

あれば対馬の職人でまかなえるほずである︒これは畢党︑対馬で伊

万里焼を焼成するからであり︑のちにのべるが立亀窯でも事情は同

じであった︒伊三郎はそれまで伊万里近辺で職についていたものと

思う︒かくて又市の志賀窯が操業中であり︑なお新規に皿山職人を

雇い伊万里焼を焼成していたことが知られる︒つづいて翌文政十︱︱︱

' ︵ 一 八

︱ ︱

1 0 )

年正月二十四日の﹁国表毎日記﹂にも同様の記事がみ

られる︒志賀窯の状況を知り得る史料ゆえ煩をいとわずつぎにあげ

吉田又市

右者志賀茶碗鼈之儀火仕事︳︳候得者人少︳︳而者難相成︑折柄平

戸生長次郎と申者元来皿山仕立之もの︳︳而功者在之︑雇入為相

拌度此節志賀茶碗鼈雇請御免被仰付被下候様願出候付左之通附

﹁ 皿

てい

る︒

九月晦日

与頭衆中/

札を

以相

達︒

正月廿四日

年寄中

可被

得其

意候

・ 一 七

上方へ志賀窯の製品を積み出して 見届候︒平戸生長次郎と申者皿山仕事功者︱ー有之︑雇入之義願之通被差免候︒此旨可被相達候︒以上︒

年寄中

大目付中

船改麟碑中

この長次郎も﹁皿山仕立之もの﹂とあるゆえ伊万里近辺で修行し

職についていたものと思われる︒志賀窯ではかように﹁皿山⁝⁝功

者﹂を雇い入れるが肝心の﹁御国産﹂にはどのように対応していた

のか︒実は次章でのべる立亀窯でも志賀と同様の傾向であったが︑

本来の対州焼の所産についてほ史料もなくいまこれ以上にのべ難い︒

前後したが前年︵文政十二年︶︑

いる記録がある︒﹁国表毎日記﹂九月晦日条につぎのように記され

吉田又市

右者志賀茶碗鼈より焼出候紅椿口三俵丈為試上方筋江差登度浜

出御免之儀願出附札を以左之通相達︒願出之碓当節試之事故無運上―—而浜出被差免候。重而多数浜

出候様相成候節者運上方相達品可有之候︒此旨可被申渡候︒

以上

(19)

御勘定奉行所︶可被得其意候

船改麟麟中

ここに﹁為試﹂とあるゆえ︑又市が志賀窯を差配するようになっ 忠助のとき志賀焼を大坂へ積み出し﹁相手を求売払七﹂

︵ 猪

今 回 の

﹁ 紅 緒 口

﹂ だ が

︑ こ れ も 伊 万 里 焼 か と 思 う

︒ 又 市 か ら 運 上 免 除願いが出ているのだが︑藩窯であればかような運上とは無関係の はずゆえ︑志賀窯の経営はやはり請け負いであったように思われる︒

志賀窯はこのあと幕未までつづいたようだが

︵註

⑭参

照︶

︑ 査 は ま だ そ こ ま で 及 ん で い な い

︒ 以 上 で 一 応

︑ 文 化

・ 文 政 期 の 志 賀 窯に関する記述を終え︑次章で立亀窯をみてゆくことにしたい︒

註①﹃釜山窯の史的研究﹄

p m

② 註

① 同

p

m

③大韓民国国史編纂委員会蔵︵﹁記録類﹂

N C l ‑

︱︱

︱七

九︶

④ 註

① 同

p

m

⑤前註に同じ︒

⑥国元・御郡奉行﹁毎日記﹂天明八年二月十九日条︒

⑦ 註

① 同 書

p 6 7 3

0

⑧ 註

① 同 書

p 1 8 7

0

⑨﹁御尋御答﹂︵家督を嗣いだ藩主が将軍に面謁のとき︑藩政に関する

将軍の何十条かの質問を想定し︑あらかじめ答を作成したもの︑文化ー

天保期のものと思われる︒大韓民国国史編纂委員会蔵︵﹁記録類﹂地四

0

六五︶︶につぎのような一条がある︒これによって忠助がかつて釜山 私の調 た例がある︒

てからこれが最初の﹁上方筋﹂への積み出しのようである︒

かつて 窯で働いていたこと︑恵作が子孫︵註⑫参照︶であること︑志賀窯では茶陶を中心に作陶していることなどが判明する︒なおこの史料によって恵作︵えさく︶とよむこともわかった︒御尋対州二而近来称敷茶碗焼出候由何と申者焼候哉︒何鉢之品二而も

出来

候哉

御答以前於朝鮮和館茶碗を焼出侯もの4子孫恵作と申者其伝を得居候

時其形を専焼出候付仮成二相見申候︒何品二而も焼候二而も無御

座︑多茶碗・花生類之品御座候︒

⑩ 註

① 同

p

m

⑪ 註

① 同

p

m

⑫註①同書執筆の際にはこのことがわからず﹁忠助が恵作と改名した﹂

としている︒ここに改めて訂正をしておく︒

なお浅川伯教﹃釜山窯と対州窯﹄の第七章第二節︑﹁⇔久田窯﹂の項

此窯に関係した人には早田恵作と云ふ人の名が残って居る︒この人の

作ったものには﹁恵作﹂と四角の印を捺したものがある︒

と記し︑なお﹁挿絵46﹂にその印を載せている︒恵作の印は浅川氏が実

見したものと思うが︑この久田窯の説明ほ桟原家に伝えられた覚書︵明

治末年ごろのもの︶によっている︒早田恵作なる人物は管見の限り実在

せず︑桟原氏が伝承も不確かとなっていた恵作を誤まって久田窯と結び

つけ

たも

のと

思う

⑬ 註

① 同 書

p 8 0 3

0

⑭﹃釜山窯と対州窯﹄第七章第四節﹁吉田又市及び其子孫﹂に又市の出

自・略歴︑又市の子孫として久右衛門・同愛助・同康人のことを先述

︵註⑫参照︶の桟原氏の覚書をもとにのべているが︑浅川氏は吉田又市

と桟原氏を強引に結びつけ事実をゆがめている︒

十分な調査を行なっていないが現在判明している範囲でつぎにこれを

正しておく︒浅川氏は又市の出自について︑

一八

参照

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