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光格天皇主催御会和歌年表― 享和期・文化期編

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ページ 127‑178

発行年 2019‑08‑31

URL http://id.nii.ac.jp/1160/00001977/

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光格天皇主催御会和歌年表

享和期・文化期編

盛 田 帝 子

要 旨

本稿は「光格天皇主催御会和歌年表―寛政期編」(『大手前大学論集』第18号)の続 編として、寛政13年(享和元年)(1801)~文化14年(1817)までに光格天皇が主催し た内裏和歌御会での光格天皇の御製、および文化14年の譲位後に光格上皇が主催した 仙洞和歌御会での光格上皇の御製を年表形式で示したものである。底本には、一部東 久世通岑が書写し、光格天皇歌壇の一員もしくはその周辺人物でなくては知りえない 情報が注記されている国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(請求記号:124-202)・

同所蔵『仙洞和歌御会』(124-202)を用いた。また代々御所伝受の保持者を輩出した 有栖川宮家伝来の宮内庁書陵部所蔵『御会和歌留』(請求記号:有栖-5081)によっ て校訂した。享和期・文化期は、光格天皇の歌人としての面に光をあてれば旺盛な宮 廷歌会の運営と門人へ御所伝受を行った時期であり、その他の文化面に光をあてれば 有栖川宮織仁親王から入木道伝受を相伝され、月次管弦御会を開始した時期でもあ る。践祚直後から光格天皇の後ろ盾として歌道等の教育を行ってきた後桜町上皇が文 化11年(1814)に薨去、その⚓年後の文化14年に譲位した後は、和歌御会・管弦に力 を入れつつも、仁孝天皇への教育等のため頻繁に内裏に御幸している。『光格天皇実 録』(ゆまに書房、2006年)等から出典を示して事項を引用し、それらの事柄と御会 の運営状況との関係性、享和期・文化期の光格天皇の動向を立体的に提示することを 試みた。

キーワード:光格天皇、宮廷歌会、欣子内親王、近世堂上和歌、御所伝受 大手前大学論集 第19号(2018)pp. 127-178

【T:】Edianserver/大手前大学/論集/第19号(2018)/盛田 帝子///

⚒ 校

⚓ 校

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一、享和期・文化期の光格天皇と御会和歌

本稿は、光格天皇が31歳であった寛政13年(享和元年)(1801)⚑月⚑日~48歳で あった文化15年(1818)⚔月21日までの御会和歌を中心とする年表を掲載する。

底本には国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(請求記号:124-202)・同所蔵『仙 洞和歌御会』(124-202)を用い、代々御所伝受の保持者を輩出した有栖川宮家伝来の 宮内庁書陵部所蔵『御会和歌留』(請求記号:有栖-5081)によって校訂した。

国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(124-202)文化11年本の遊紙表の左肩には「此 写筆者東久世通岑卿」と墨書されていることから、文化11年本は、江戸時代後期の公 卿で宮廷歌会の一員であった東ひがしみちみね(寛政⚔年生、嘉永元年没、57歳)の書写本 であることが知られる。その他の年の写本も光格天皇歌壇の一員もしくはその周辺人 物でなくては知りえない情報が注記されていることから、国立国会図書館所蔵『内裏 和歌御会』(124-202)(以下、国会本と記述)は宮廷歌会に出座していた者、もしく はその周辺人物によって書写された写本ということがいえるだろう。一方、宮内庁書 陵部所蔵『御会和歌留』(請求記号:有栖-5081)は、霊元天皇の皇子であった有あり

がわの

みやよりひと親王をはじめとして御所伝受の保持者を輩出した有栖川宮家伝来の写本で ある。有栖川宮家の歴代親王は宮廷歌会の一員として活躍したことから、和歌御会に 提出された和歌を取り集めて宮中で作成された和歌御会記録を書写していると考えら れる。例えば、国会本の光格天皇の御製の記録が題のみで白紙である場合も、有栖川 宮本には「後日御詠被出」と注記の上、光格天皇の御製が記録されている。このこと から、国会本は、和歌御会の終了直後に作成された和歌御会記録であるが、有栖川宮 本は御会終了後に、日をおいて光格天皇から提出された御製を記録した和歌御会記録 から書写されていることが知られるのである。

* * *

光格天皇の即位以来、光格天皇を見守り続けてきた後桜町上皇が文化10年(1813)

に崩御する。後桜町上皇は、内裏で行われる当座和歌御会始などの際には、女性であ りながら出座している。また、御会始以外にも、内裏で内々に行われた猿楽や能等の 際には仙洞から渡御していることが知られる。光格天皇は、文化⚒年(1805)10月に 御学問所を造営するが、文化⚖年(1809)12月、後桜町上皇の七十の算賀を行った際 には、上皇も内裏に御幸し、新たに造営された御学問所の南庭で舞楽を見物している。

このように、後桜町上皇は頻繁ではないが、折にふれて内裏に御幸しており、光格天 皇に懇切丁寧な歌道教育を行い、女性歌人を育て、宮廷歌会の運営を補佐してきたが、

七十の算賀の⚔年後の文化10年(1813)閏11月、崩御する。翌文化11年(1814)⚔月、

光格天皇は、後桜町上皇の御遺物である桃園院宸翰(一箱)、七十賀の際の御賀月次

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御屏風 文化六年(一双)を将軍徳川家齊へ贈っている。

次に幕府との関係について述べたい。享和⚔年(1804)⚑月28日の和歌御会始(題

「詠陽春布徳」)で、光格天皇は「春のひかりへだてなければおく山のおどろの下も雪 やとくらむ」と詠んでいるが、この光格天皇の御製について正親町公明は「謹所感唱 也、是後鳥羽院在位之間聖製云、おく山のおどろ□

(ママ)下もふみわけてみちある世ぞと人 にしられむ、とありしに思召よせられけむ」(「公明卿記」、『光格天皇実録』第三巻に よる)と述べている。光格天皇は、後鳥羽天皇の「奥山のおどろが下もふみわけて道 ある世ぞと人に知らせん」(新古今和歌集・雑中・1635番)(奥深い山のいばらの下も 踏み分けて正しい道が行われているということを人々に知らせよう)という歌を本歌 としているというのである。承久⚓年(1221)、後鳥羽上皇が討幕の兵をあげた、い わゆる承久の乱で朝廷方は大敗。後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流され、幕府の 絶対的優位が確立したといわれる。後鳥羽天皇の時代は、朝幕関係の非常に緊張した 時代だったが、そのような中で後鳥羽天皇は、正しい政治を行おうという決意表明と 読める歌を詠んだのである。さて、光格天皇は、この後鳥羽天皇の和歌を本歌としな がらも、今の御代はいばらの下の雪も溶けるくらい平和で穏やかであるという感慨を 述べている。後鳥羽天皇の時代と比較して、享和⚔年頃の幕府との関係を、比較的穏 やかに感じていたのではないだろうか。文化⚗年(1810)11月には、徳川治紀が光格 天皇に大日本史を進献しており、文化11年に光格天皇が後桜町上皇の御遺物を将軍徳 川家斉に贈っていることからも、享和期~文化期の幕府との関係は、比較的穏やかで あると光格天皇が認識していた可能性がある。

第三に宮廷和歌への取り組み。光格天皇は比較的安定した幕府との関係の中で宮廷 和歌を領導し、充実した歌壇運営を行った。御会和歌に注目すると、年初の和歌御会 始や当座和歌御会始、⚓月の柿本神影供、⚗月の七夕御会、⚙月の重陽御会、月次の 和歌御会、当座御会、水無瀬宮御法楽和歌、聖廟御法楽和歌など、実に旺盛に宮廷歌 会運営が行われている。和歌御会始や七夕御会には、中宮欣子内親王や東宮恵仁親王 の御歌も記録されており、宮廷歌会における女性歌人(大すけ、督のすけ、宰相のす け、按察使のすけ、新典侍、勾当内侍、右兵衛のないし、命婦伊よ、命婦伊賀、女蔵 人紀伊、女蔵人上野)や次期天皇となる恵仁親王の歌人としての存在がクローズアッ プされてくる時期でもある。数多い和歌御会の開催で、臣下達は必然的に多くの和歌 を詠むこととなるが、光格天皇は、その臣下たちの和歌添削を行いつつ門人を育成し、

以下のように門人達に御所伝受を相伝している。(( )内は光格天皇の年齢)

〇享和⚓年12月⚕日(33)、久世通根に天仁遠波伝受を相伝

〇文化⚑年⚓月⚘日(34)、飛鳥井雅威に伊勢物語伝受を相伝

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光格天皇主催御会和歌年表 ― 享和期・文化期編

【T:】Edianserver/大手前大学/論集/第19号(2018)/盛田 帝子///

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⚓ 校 ⚓ 校

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〇文化12年⚔月27日(45)、関白一条忠良に天仁遠波伝受を相伝

〇文化13年⚙月⚒日(46)、庭田重嗣に天仁遠波伝受を相伝

第四に、儀式の再興については、文化⚙年(1812)⚖月、御学問所に出御した光格 天皇が、久しく中絶していた石清水・賀茂等の臨時祭再興の事について仰せられ、文 化10年(1813)⚓月には石清水臨時祭を再興、文化11年(1814)11月には賀茂臨時祭 を再興している。

第五に管絃の重視について述べておこう。享和⚓年(1803)⚑月24日に内裏で行わ れた御会始で光格天皇は「禁中」の題で「百敷や三の席の遊びこそおさまる国のすが たなるらめ」と詠んでいる。宮中で詩・和歌・管絃の遊びが行われている時代は、国 がよく治まっている理想的な時代であるという。この御製の通り、光格天皇の30代

~40代に当たるこの時期には、盛んに和歌御会が行われ、管弦御会では、琵琶、筝を 演奏し、文化12年(1815)⚘月以降は、毎月のように管弦御会を催している。

文化14年の譲位後も仙洞で管弦の遊をたびたび行い、筝や笛の演奏を行っており、

歌道と同様管絃についても力を入れていたことが知られる。なお、享和⚓年(1803)

⚓月19日には、有栖川宮織仁親王より入木道伝受を相伝されていて、書道においても 修養を怠っていなかったことが知られる。

文化14年(1817)⚑月24日、光格天皇は在位中最後の和歌御会始を行う。小御所に 出御し、「毎年愛花」という勅題で「ゆたかなる世の春しめて三十年余り九重のはな をあかず見し哉」と、充実した在位時代を振り返っての御製を提出し、文化14年

(1817)⚓月22日に桜町殿に行幸し、皇太子恵仁親王に譲位、24日に太上天皇の尊号 を受けた。

最後に仁孝天皇への教育について述べる。仁孝天皇即位後の文化14年⚕月24日の内 裏和歌御会始には、光格上皇も出詠している。文化14年⚗月⚗日の内裏七夕御会、文 化15年⚑月24日の内裏和歌御会始にも光格上皇が出詠している。光格上皇は譲位後、

文化14年(1817)⚓月26日の内裏への御幸始を皮切りに、⚔月13日・27日、⚕月⚘日・

24日、⚗月⚘日・14日・20日、⚘月17日、⚙月⚘日・18日と頻繁に内裏に御幸している。

⚙月21日には仁孝天皇の即位の礼のために内裏に御幸、その後も10月16日・22日、11 月10日・23日・24日と内裏に御幸し、12月11日には女御藤原繁子入内のために御幸。

その後、12月16日・27日、文化15年⚑月⚔日・⚗日、⚒月⚕日・11日・21日、⚓月⚒日・

26日、⚔月⚕日・20日、⚕月16日・26日、⚗月14日、⚘月20日、⚙月15日、10月⚕日・

19日・27日と内裏に御幸し、11月10日には内裏で仁孝天皇に大嘗会神饌の伝授を行い、

11月17日は仁孝天皇の大嘗祭御習禮のために御幸、21日は大嘗祭のために御幸してい る。その後も11月22日・23日・24日、12月⚕日・24日と頻繁に内裏に御幸して仁孝天

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皇への指南などを行っている。

仙洞での和歌御会に関しては、文化14年(1817)⚕月18日に柿本社に参拝し、仙洞 御所で譲位後初めての和歌御会始を行い、その後、和歌当座御会始、水無瀬宮御法楽 和歌、聖廟御法楽和歌、柿本神影供を行っている。また、文化15年(1818)10月⚖日 には、歌道において、父典仁親王とともに光格天皇への指導者的役割を果たしてきた 閑院宮美仁親王が薨去している。

二、凡例

一 国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(請求記号:124-202)・同所蔵『仙洞和歌御会』

(124-202)を底本とし、宮内庁書陵部『御会和歌留』(有栖-5081)を参照して、校訂した。

一 御会名、歌題、諸役名、光格天皇の和歌翻刻は、全て原文通りとした。ただし、光格天皇 の和歌については、読みやすさを考えて、濁点を付した。また割注は〔 〕で括っている。

一 底本の注記、および光格天皇の伝記的事項は出典を示して太字で表記した。

一 内裏で行われた御会に、仙洞から後桜町院、また東宮や女房が出詠している場合には、備 考にその旨を記した。

一 その他、特記すべき事項は備考に記した。

一 出典は、以下のように略した。

国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(124-202)→ 国会本内裏 国立国会図書館所蔵『仙洞和歌御会』(124-202)→ 国会本仙洞 宮内庁書陵部所蔵『御会和歌留』(有栖-5081) → 有栖川宮本

『光格天皇実録』第三巻 → 光格天皇実録

三、使用した文献および参考文献

国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(寛政13年~文化15年)(請求記号:124-202)

国立国会図書館所蔵『仙洞和歌御会』(文化15年)(請求記号:124-202)

宮内庁書陵部『御会和歌留』(有栖-5081)

監修 藤井譲治 吉岡眞之『光格天皇実録』第三巻(ゆまに書房、2006年)

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光格天皇主催御会和歌年表 ― 享和期・文化期編

【T:】Edianserver/大手前大学/論集/第19号(2018)/盛田 帝子///

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光格天皇主催御会和歌年表享和期文化期編 13 31 13 31 13 31 13 1131 13 1631 13 1931 13 2131 13 2431 〕、 〕、 〕、 〕、 〕、 〕、 〕、 〕、 〕、 〕、 〕、

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