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「石橋」考 : 『梁塵秘抄』三一四番を中心に

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「石橋」考 : 『梁塵秘抄』三一四番を中心に

著者 雨野 弥生

雑誌名 同志社国文学

号 82

ページ 25‑37

発行年 2015‑03‑20

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014359

(2)

﹁ 石 橋 ﹂

︱ 考

﹃ 梁 塵 秘 抄 ﹄ 三 一 四 番 を 中 心 に

雨 野 弥 生

一︑ はじ めに 何れ か清 水へ 参る 道︑ 京︵ 極く

︶だ りに 五条 まで

石橋 よ︑ 東 の橋 詰四 つ棟 六波 羅堂

︑愛 宕寺 大仏 深井 とか

︑其 れを 打ち 過ぎ て八 坂寺

︑一 段上 りて 見下 せば

︑主 典大 夫が 仁王 堂 塔の 下天 降り 末社

︑南 を打 ち見 れば

手水 棚手 水と か︑ 御前 に参 りて 恭 敬礼 拝し て見 下せ ば︑ 此の 滝は 様が る滝 の︑ 興が る滝 の水

︵新 日本 古典 文学 大系

﹃梁 塵秘 抄﹄ 三一 四番

*引 用文 中の 傍 線は 稿者 によ る

︑以 下同

︶ 現在 残っ てい る﹃ 梁塵 秘抄

﹄本 文中 でも っと も長 編の 今様 とし て 知ら れる

﹃梁 塵秘 抄﹄ 三一 四番

︵以 下︑

﹁三 一四 歌﹂ とす る︶ は︑ 五条 の﹁ 石橋

﹂が 謡い 込ま れる 点で も注 目さ れて きた

︒た とえ ば日 本歴 史地 名大 系﹃ 京都 市の 地名

﹄﹁ 五条 大橋

﹂の 項で

︑三 一四 歌を

根拠 に﹁ 平安 末期 には 石橋 が架 けら れて いた らし い﹂ と言 及さ れる ほか に︑

﹃図 説上 杉本 洛中 洛外 図屏 風を 見る

﹄キ ャプ ショ ン﹁ 五条 橋と 鴨川

﹂に

﹁木 の橋 とし て描 かれ てい るが 平安 時代 末期 の﹃ 梁塵 秘抄

﹄に は石 橋と して 登場 する

﹂と 解説 され る︒ また

﹃梁 塵秘 抄﹄ 以外 の文 学作 品に おい ても

︑﹁ 五条 橋﹂ 注釈 上で

﹃梁 塵秘 抄﹄ の

﹁石 橋﹂ は無 視で きな い存 在と なっ てお り︑

﹃古 事談

﹄︵ 新大 系︶ 三

八一 で﹁ 梁塵 秘抄 によ ると 平安 末期 には 石橋 であ った

﹂︑

﹃平 治物 語﹄

︵新 大系

︶中 巻﹁ 義朝 六波 羅に 寄せ らる る事

付け たり 信頼 落つ る事

並び に 頼政 平氏 方に つく 事﹂ の﹁ 五条 の橋

﹂注 で﹁ 梁 塵秘 抄二 に﹁ 何れ か清 水へ 参る 道︑ 京極 くだ りに 五条 まで

︑石 橋 よ﹂ とあ り︑ 当時 は石 造り であ った か︒ また

︑石 橋と なっ たの は︑ この 後の 造作 とも

﹂と 注さ れる

︒ま た︑ 辞典 類に 目を 移せ ば﹃ 角川 古語 大辞 典﹄

﹁い しば し︵ 石橋

︶﹂ の項 にお いて

︑﹁ 石造 の橋

﹂を さ

﹁石 橋﹂ 考

二五

(3)

す語 釈の 用例 とし て︑ この 三一 四歌 が挙 げら れる

︒ この よう に︑ 広い ジャ ンル にわ たっ て﹁ 五条 石橋 説﹂ の論 拠と な って きた

﹃梁 塵秘 抄﹄ 三一 四歌 であ るが

︑一 方で

︑当 の﹃ 梁塵 秘 抄﹄ 研究 にお いて は︑ この

﹁石 橋﹂ の解 釈は いま だ決 着を 見て いな い︒ 近年 の主 要な

﹃梁 塵秘 抄﹄ 研究 にお ける

﹁石 橋﹂ 注釈 を挙 げる と︑ 旧大 系で

﹁五 条橋 付近 か﹂

︑新 潮集 成・ 新大 系・ 新編 全集 で

﹁未 詳﹂

︑﹃ 梁塵 秘抄 全注 釈

﹄で

﹁石 づく りの 橋で もあ った か︒ 未詳

﹂︑ ビギ ナー ズ・ クラ シッ クス 日本 の古 典﹃ 梁塵 秘抄

﹄で

﹁本 今様 は︑

﹁石 橋﹂

﹁深 井﹂

﹁主 典大 夫が 仁王 堂﹂ など

︑現 在は よく わか らな い もの も含 まれ る﹂ とあ るよ うに

︑お おか た未 詳と され てい る︒ また

︑﹁ 五条 橋が 石橋 にな つた のは 徳川 時代 であ る︒

︵中 略︶ して 見れ ばこ の﹁ 石橋

﹂は 徳川 時代 の傍 注が 攙入 した もの と考 へら れる ので ある

﹂と され たの は荒 井源 司氏

であ るが

︑一 方で

︑特 に五 条橋 に注 目し

︑そ こに 王城 の境 界性 ない しは 結界 性が 映し 出さ れて いる こと を考 察さ れた 永池 健二 氏

は︑ この 五条 の﹁ 石橋 よ﹂ とい う記 述 につ いて

︑﹁

﹁五 条ま で︑ 石橋 よ﹂ とあ るか ら︑ 当時

︑鴨 川に 架か る 五条 の末 の橋 は石 橋だ った ので あろ う﹂

﹁い まは 本文 をも 尊重 して

︑ 石橋 が存 在し たも のと 解し てお きた い﹂ と︑ 少々 いぶ かし みな がら も︑ 文字 通り に五 条に 石橋 が架 かっ てい たと いう 説に 立っ てお られ る︒

﹃梁 塵秘 抄﹄ の﹁ 石橋 よ﹂ とい う記 述は

︑こ のよ うに 本文 尊重 の 立場 から

︑多 くは 文字 通り

﹁石 造り の橋 があ った か﹂ など とさ れ︑ 都市 史や 他作 品の 注釈 にま でも 波及 して きた が︑ 長ら く疑 問視 され てき た︒ もし 平安 末期 の段 階で

︑五 条の 橋が 石造 の橋 だっ たと すれ ば︑

﹁日 本の 本格 的な 石造 アー チ橋 は長 崎の 眼鏡 橋︵ 一六 三四 年︒ 橋長 二三 メー トル

︶︵

﹃日 本大 百科 全書

﹄︶

﹂と する 橋梁 史・ 技術 史的 な見 解と 矛盾 が生 じる

︒ま た平 安京 都市 史の 側か ら見 ても

︑天 正十 七︵ 一五 八九

︶年 に豊 臣秀 吉が 架橋 させ た三 条橋 をも って

︑平 安京 にお ける 石橋 の嚆 矢と して きた 一般 的な 理解 とも 整合 性が つか ず︑ すっ きり しな い︒ 仮に 五条 橋だ けが

︑平 安末 期に 早々 に石 橋の 形に され たの なら ば︑ それ はそ れで 都市 史全 体か らみ た意 義を 問い 直さ なく ては なら ない

︒ また

︑五 条橋 は︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ 後の 記録 をみ る限 り︑ 中世 を通 じ てた びた び洪 水で 流さ れて いる

︒さ らに

︑室 町時 代末 期に 描か れた とさ れる

﹃洛 中洛 外図 屏風

﹄に おい ては

︑五 条橋 は粗 末な 板作 りの 木橋 とし て描 写さ れて いる

︒仮 に︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ の院 政期 も早 々に 五条 橋が 石造 りと なり

︑そ れが 道行 の名 所と して 書き 付け られ たも のだ とす れば

︑そ の後 の時 代に 木橋 に逆 戻り して しま うの も︑ 少々 腑に 落ち ない

︒ 稿者 は以 前︑ 新聞 のコ ラム 上で この 問題 を取 り上 げ︑

﹃万 葉集

﹁石 橋﹂ 考

二六

(4)

の例 から

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄の 五条 の石 橋が

︑鴨 川に あっ た﹁ 飛び 石﹂ のこ とを 指す 可能 性が ある と指 摘し た

が︑ 限ら れた 紙面 上で の指 摘 にと どま って いる

︒そ こで 本稿 は︑ 資料 的根 拠に よっ て﹁ 石橋

﹂を 再検 証す るこ とで

︑三 一四 歌が 描こ うと した もの を読 み取 るこ とを 目的 とす る︒ 二︑ 五条 橋が 現れ る資 料か らの 検討 まず

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄が 成立 した と考 えら れる 時代

︑す なわ ち平 安 末期 の︑ 五条 橋の 状況 から 検証 する

︒五 条橋

︵清 水寺 橋︶ が現 れる

︑ 中古 中世 の文 学お よび 歴史 資料 を網 羅的 に抽 出し た拙 稿﹁ 五条 橋を とり まく 空間 認識 と文 芸

清水 の向 こう に見 える もの

﹂に より

︑ ひと まず 検討 する 年代 を平 安中 期か ら鎌 倉初 期に 限定 して 五条 橋が 資料 上に 出現 する もの を洗 い出 すと

︑以 下の もの が見 られ るが

︑い ずれ も﹁ 石橋

﹂が 石造 りで あっ たと 確定 でき る記 述は 見ら れず

︑ま た︑ 文脈 上︑ 五条 橋の 材質 を特 定す るに 足る 資料 も見 あた らな い︒

① 橋造 りた る聖 の︑ 河原 にて 橋の 会す べし と聞 きて 行き たれ ば︑

﹁制 あり とて 清水 にて なん する

﹂と 言ひ しか ば︑ うち 詣づ とて けふ をこ そ嬉 しき はし と思 ひつ れ渡 し果 てず はい かさ まに せ ん︵

﹃赤 染衛 門集

﹄三 二三 番︵ 和歌 文学 大系

︶︶

② 於清 水寺 橋︿ 河原

﹀︑ 有迎 講事

︑住 醍醐 山聖 人行 之云 々︑ 予

為結 縁参 向︑ 即帰 了︑

︵﹃ 水左 記﹄ 承暦 四︵ 一〇 八〇

︶年 十月 八 日条

︑史 料大 成︶

③ 清水 寺橋 供養 也︒

︵新 訂増 補国 史大 系﹃ 百錬 抄﹄ 保延 五︵ 一 一三 九︶ 年六 月二 十五 日条

④ 清水 寺橋

︒︿ 鴨川

︒﹀ 同六 月十 五日 癸酉 供養 之︒ 洛中 貴賎 知識 造之

︒少 僧都 覚誉 為□

□於 本寺 宝前 修之

︒︵ 群書 類従

﹃濫 觴抄

﹄ 保延 五︵ 一一 三九

︶年 六月 十五 日︵ 二十 五日 カ︶ 条︶

⑤ 水殊 深□

□□

□車 有恐

︑仍 渡清 水長 橋︑ 帰洛 之時 水減

︑仍 渡 河︑

︵増 補史 料大 成﹃ 山槐 記﹄ 保元 三︵ 一一 五八

︶年 七月 七日 条︶

⑥ 霖雨 及洪 水︑ 祇園 清水 寺等 橋皆 流損 了云 々︑

︵増 補史 料大 成

﹃兵 範記

﹄嘉 応二

︵一 一七

〇︶ 年六 月一 日条

⑦ 清水 寺に 詣で て︑ 深更 の時 帰路 せし む︒ 橋の 上に

﹁唯 円教 意 逆即 是順

︑自 余三 教逆 順定 故﹂ と云 ふ文 を誦 する 音あ り︒

︵新 大系

﹃古 事談

﹄巻 三 八十 一︶

⑧ 清水 寺へ 百日 参り て︑ 夜更 けて 下向 しけ るに

︑橋 の上 に︑

﹁唯 円教 意︑ 逆即 是順

︑自 余三 教︑ 逆順 定故

﹂と いふ 文を 誦す る声 あり

︒︵ 新編 全集

﹃宇 治拾 遺物 語﹄ 六十 五︵ 巻四 ノ十 三︶

⑨ 甚雨 洪水

︑東 洞院 北行

︑五 条東 自清 水橋 クゝ メ地 路也

︵国 書 刊行 会﹃ 明月 記﹄ 建仁 二︵ 一二

〇二

︶年 五月 十三 日条

﹁石 橋﹂ 考

二七

(5)

⑩ 辰時 許出 京参 日吉

︑︿ 粟田 口路 甚悪

︑仍 自清 水橋 方如 例向 クゝ メチ 方﹀

︵国 書刊 行会

﹃明 月記

﹄建 仁二

︵一 二〇 二︶ 年六 月二 十一 日条

⑪ 昔︑ 清水 の橋 の下 に︑ 薦に てあ やし の家 居せ る者 の︑ 昼は 市 に出 でて

︑さ かま たぶ りと いふ こと を立 てて

︑物 を乞 ひて 世を 渡る あり けり

︒︵ 新大 系﹃ 閑居 友﹄ 上 七︶

⑫ 風吹 雨澤

︒洪 水泛 溢︒ 四条

︒五 条等 末橋 流了

︒漂 没之 輩数 輩 云々

︒︵ 新訂 増補 国史 大系

﹃百 錬抄

﹄安 貞二

︵一 二二 八︶ 年七 月二

〇日 条︶

⑥お よび

⑫な ど︑ 水害 によ って 流出 した とい う内 容の 記事 から は︑ その 時点 の橋 が木 造で あっ たこ とが かろ うじ て想 像さ れる もの の︑ これ らの 資料 をも って 早急 に﹃ 梁塵 秘抄

﹄の

﹁石 橋﹂ との 接点 を見 出す こと はで きな い︒ 三︑

﹃万 葉集

﹄に おけ る﹁ いし はし

﹂ 五条 橋が 文献 に現 れる 本文 中か ら橋 の状 況を 検証 する 方法 では

︑ 橋の 形状 にま で言 及で きな い︒ そこ で︑ ひと まず

﹁五 条﹂ とい う場 所を 離れ て︑

﹁石 橋﹂ とい う表 現の ほう に注 目し たい

︒な お︑ 該当 箇所 は竹 柏園 文庫 本で は﹁ いし はし よ﹂ と表 記さ れる

︒従 って

︑検 証の 手続 きと して

︑こ の表 記を 尊重 し︑ 以降

︑ま ずは

﹁い わは し﹂

など は検 討の 外に 置い た上 で︑

﹁い しは し﹂ と訓 じた 文献 によ って 論証 を進 める

︒ まず

︑﹃ 万葉 集﹄ には

﹁石 橋﹂ が数 例現 れる

︒た とえ ば一 一二 六 番は 以下 のよ うで ある

︒ 年月 もい まだ 経な くに 明日 香川 瀬々 ゆ渡 しし 石橋 もな し︵ 新編 全集

︶ 一一 二六 番歌 につ いて

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄に 比較 的近 い書 写と 考え ら れて いる 諸本 の訓 を検 討す ると

︑平 安時 代書 写と され る

﹁元 暦校 本﹂ で﹁ いし はし

﹂︑ また 同様 に平 安時 代書 写と 考え られ る﹁ 類聚 古集

﹂で も﹁ いし はし

﹂と 訓じ てい るこ とが 認め られ る

︒こ の一 一 二六 番の

﹁石 橋﹂ は︑ 代表 的な 注釈 によ れば

︑﹁ 川の 中に 置き

︑踏 み渡 る飛 び石

︵旧 全集

︶﹂

﹁川 を渡 るた めに 配置 した 飛び 石︒ ここ は 恋人 の家 に通 うた めの 石橋 でで もあ った か︵ 新潮 集成

︶﹂

﹁明 日香 川 のあ ちこ ちに 渡し て置 いた 飛び 石伝 いの 橋︵ 新大 系︶

﹂﹁ 川の 浅瀬 に 置き

︑そ の上 を踏 み渡 る飛 び石

︵新 編全 集︶

﹂﹁ 流れ の中 にい くつ か の石 を置 いて 作っ た橋

︵佐 竹昭 広ほ か校 注︑ 岩波 文庫

︶﹂

﹁川 を渡 る ため の飛 び石

︵伊 藤博 訳注

﹃新 版万 葉集

﹄︑ 角川 ソフ ィア 文庫

︶﹂ と あり

︑現 在の とこ ろ﹁ 飛び 石﹂ とし て解 釈さ れて いる

︒つ まり

︑平 安時 代に

﹁い しは し﹂ と訓 まれ た﹃ 万葉 集﹄ の例 が︑

﹁飛 び石

﹂と 解釈 され ると いう こと にな る︒

﹁石 橋﹂ 考

二八

(6)

同様 に︑

﹃万 葉集

﹄の 三二 五七 番は 以下 の本 文で ある

︒ 直に 来ず こゆ 巨勢 道か ら石 橋踏 みな づみ ぞ我 が来 し恋 ひて すべ なみ

︵新 編全 集︶ 本文 の訓 みを 検討 する と︑ やは り平 安時 代書 写と 考え られ る﹁ 元暦 校本

﹂﹁ 天治 本﹂

﹁類 聚古 集﹂ で﹁ いし はし

﹂と 訓じ られ てい る

︒こ の﹁ 石橋

﹂は

︑近 年の 解釈 によ ると

﹁川 の中 に点 々と 並べ 渡し た飛 び石

︵旧 全集

︶﹂

﹁浅 瀬を 渡る ため の飛 び石

︵新 大系

・岩 波文 庫︶

﹁川 の中 に点 々と 並べ 渡し た飛 び石

︵新 編全 集︶

﹂﹁ 飛石

︵角 川ソ フ ィア 文庫

︶﹂ とあ り︑ やは り﹁ 飛び 石﹂ と解 され る例 であ る︒ 特に

﹁類 聚古 集﹂ は﹃ 梁塵 秘抄

﹄と ほぼ 同時 期の 平安 後期 書写 と考 えら れて おり

︑そ こで も飛 び石 を﹁ いし はし

﹂と 訓ん だ例 があ ると いう こと から

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄に おい ても

︑﹁ いし はし よ﹂ の﹁ いし はし

﹂ が﹁ 飛び 石﹂ を指 して いた 可能 性は 充分 に考 えら れる

︒ 四︑ 万葉 集以 降平 安時 代ま での 文学 にお ける 石橋 の例 さて

︑こ こま では 平安 時代 書写 の﹃ 万葉 集﹄ の例 から

︑﹁ 飛び 石﹂ を指 すと 解釈 でき る﹁ いし はし

﹂の 例が ある こと を確 認し てき た︒ もち ろん

︑﹃ 万葉 集﹄ の﹁ いし はし

﹂に

﹁飛 び石

﹂と いう 意味 が見 られ るか らと いっ て︑ 即︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ の﹁ いし はし

﹂に も当 ては めら れる とは 限ら ない

︒そ こで 本節 では

︑慎 重を 期す るた め︑ さら

に︑ 平安 時代 のほ かの

﹁石 橋﹂ とい う語 から

﹁飛 び石

﹂以 外の 意味 も広 く検 討し た上 で︑ 最終 的に

﹃梁 塵秘 抄﹄ 三一 四歌 にお ける 妥当 な解 釈を 探り たい

︒ 四

一︑

﹁飛 び石

﹂の 意と 解釈 でき る﹁ 石橋

﹂例 管見 に入 った 平安 時代 の文 献に 現れ る﹁ 石橋

﹂の 語は

︑私 見に よ れば

︑大 きく 三つ の意 味に 分類 でき る︒ 以下 に︑ 一つ 一つ 確認 する

︒ まず その 一つ 目は

︑こ れま で見 てき た﹃ 万葉 集﹄ の例 と同 じく

﹁飛 び石

﹂を 指す と見 られ る例 で︑

﹃万 葉集

﹄の ほか に︑ 源順 によ る

﹃和 名類 聚抄

﹄︵ 承平 四︵ 九三 四︶ 年前 後成 立︶ など に見 られ る︒

「石 橋 爾雅 注云 矼︿ 音江 和名 以之 波之

石橋 也﹀

﹂︵ 高山 寺本

︶ 周知 の通 り︑ まず 中国 の辞 典﹃ 爾雅

﹄に よっ て意 味を 示し てか ら︑ 万葉 仮名 で日 本語 の読 みを 表し てお り︑

﹁い しは し﹂ と読 んで

﹁矼

﹂ すな わち 飛び 石の 意味 があ った とわ かる

︒な お高 山寺 本は

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄と ほぼ 同じ 院政 期の 写本 であ る︒ また

︑﹃ 類聚 名義 抄﹄

︵平 安末 期成 立︶ の次 の例 も︑ 飛び 石を 意味 する

﹁矼

﹂の 字が

︑﹁ いし はし

﹂と よま れて いる 例と して 挙げ るこ とが でき る︒ 「 矼

︵略

︶以 之波 之﹂

︵図 書寮 本

︶ 「 矼

︵略

︶イ シハ シ﹂

︵観 智院 本

﹁石 橋﹂ 考

二九

(7)

なお

︑図 書寮 本は

︑周 知の とお り書 写は 永保 元︵ 一〇 八一

︶年 を 遡る もの では ない とさ れる

︒一 方︑ 観智 院本 の書 写年 代は 建長 三

︵一 二五 一︶ 年で

︑こ の二 つの 写本 の間 に﹃ 梁塵 秘抄

﹄が 成立 した こと にな る︒ つま り︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ 成立 年代 の前

・後 とも に︑

﹁い し はし

﹂は

︑﹁ 飛び 石﹂ の意 味を 保持 し続 けて いる とひ とま ず考 えて 良い

︒従 って

︑成 立時 期が 図書 寮本 と観 智院 本の 間に あた る﹃ 梁塵 秘抄

﹄に おい ても

﹁い しは し﹂ に﹁ 飛び 石﹂ の意 味が あっ たと いう 蓋然 性は

︑非 常に 高い とい える

︒ 四

二︑

﹁石 の階 段﹂ の意 と解 釈で きる

﹁石 橋﹂ 例 とこ ろで

︑主 に平 安時 代成 立と 見ら れる 文献 中の

﹁石 橋﹂ を見 渡 すと

︑明 らか に﹁ 飛び 石﹂ とは 解釈 でき ず︑

﹁石 の階 段﹂ と解 せる 例が 見ら れる

︒仮 に︑ これ まで 見た

﹁飛 び石

﹂を 第一 義と した 上で

︑ 以下 に挙 げる

﹁石 の階 段﹂ であ ろう と解 せる 例を

︑第 二の 語釈 とし てお く︒ 第二 の語 釈﹁ 石の 階段

﹂と 解せ る例 には

︑ま ず﹃ 新撰 字鏡

﹄︵ 僧 昌住

︑昌 泰年 間︵ 八九 八~ 九〇

〇年

︶に 成立

︶が ある

︒院 政期 の天 治元

︵一 一二 四︶ 年書 写で ある

﹁天 治本

﹂で は︑

「磴 丁鄧 反︑ 登也

︑橘 階也

︑石 波志

﹂ とあ り︑

﹁登

﹂﹁ 階﹂ とあ るこ とか ら︑ 階段 状の もの とい う意 識が あ

ると 認定 でき る︒ また

︑﹃ 蜻蛉 日記

﹄中 巻に おい て︑

「一 丁の ほど を︑ いし ばし おり のぼ りな どす れば

︑あ りく 人こ うじ て︑ いと くる しう する まで なり ぬ︒

﹂︵ 喜多 義勇

﹃全 講蜻 蛉 日記

﹄底 本は 宮内 庁書 陵部 桂宮 本︶ とあ るの も︑ 文脈 から

︑飛 び石 では なく 階段 状の もの とい える

︒ しか しな がら

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄三 一四 歌の 本文 に戻 ると

︑﹃ 梁塵 秘 抄﹄ の例 は﹁ 石橋

﹂の あと

︑鴨 川を はさ んだ

﹁東 橋詰 め﹂ に行 く文 脈と なっ てお り︑

﹁石 橋よ

﹂が 鴨川 の河 原の

﹁階 段﹂ を指 すと は読 み取 りに くい

︒そ こで

︑こ の﹁ 石橋

﹂第 二の 意味 であ る﹁ 石段

﹂の 意味 は︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ の解 釈上 では 排除 して 良い と考 えら れる

︒ 四

三︑

﹁小 さな 石の 架け 橋﹂ の意 と解 釈で きる

﹁石 橋﹂ 例 とこ ろで

︑平 安時 代の 文献 には

︑こ れま での よう な﹁ 飛び 石﹂ や

﹁石 の階 段﹂ とい う意 味で は解 釈で きな い例 もあ る︒

﹃権 記﹄ 寛弘 八

︵一

〇一 一︶ 年九 月五 日条 には

﹁又 依警 固間 陣座

□小 庭有 平張

︑々 々之 中立 胡床

︑官 人等 可候 也︑ 宣理 自平 張参 進︑ 又出 入之 時踏 石橋 二三 足︑ 先例 踏片

□ 失錯 非一

︑事 了大 臣退 出自 敷政 門︑ 右大 臣留

□後

︑内 大臣 共 出︑

︿違 例云 々︑

﹀左 大臣 於宣 仁門 下被 示︵ 略︶

﹂︵ 増補 史料 大

﹁石 橋﹂ 考

三〇

(8)

図ઃ 『年中行事絵巻』より「左近 陣図」

(中央公論社『日本の絵巻』より転載)

成︶ とい う文 中に

﹁石 橋﹂ が見 られ る︒

﹃日 本国 語大 辞典

︵ジ ャパ ンナ レッ ジに よる

︶﹄ 第二 版で は︑

﹃権 記﹄ のこ の文 を﹁ いし ばし

︻石 階︼

︶石 でつ くっ た階 段︒ 石段

︒い しの はし

︒い しの きざ は し︒

﹂の 用例 とし て挙 げて いる

︒し かし なが ら︑ この

﹃権 記﹄ に出 てく る﹁ 石橋

﹂と は︑ 階段 状の もの では なく

︑た とえ ば﹃ 年中 行事 絵巻

﹄別 本巻 二﹁ 左近 陣図

﹂に 見ら れる

︑小 さな 板状 の石 を架 け渡 した 橋と して 解釈 でき るの では ない か︒

﹃年 中行 事絵 巻﹄

﹁左 近陣 図﹂

︵図

ઃ︶ では

︑右 手前 に︑

﹁石 橋﹂ と書 かれ た︑ 小さ な石 の架 け 橋が 描か れる

︒﹁ 石橋

﹂と いう 書き 込み は︑ 必ず しも 作図 と同 時期 のも のと は限 らな いが

︑陣 座周 辺を 描い た院 政期 の図 にこ のよ うな 形状 の橋 が渡 され てい るこ とは

︑平 安時 代の 儀式 中に 見ら れる

﹁石

橋﹂ を考 える 上で

︑参 考に なる

︒ 古記 録を 見て いく と︑ この よう に︑ 庭や 内裏 にあ った 小さ な石 の 架け 橋で はな いか とい う例 が散 見さ れる

︒た とえ ば︑

﹃小 右記

﹄の 治安 元︵ 一〇 二一

︶年 二月 二十 一日 条で は︑

﹁余 即着 陣南 座︑ 只仰 史令 進例 文並 硯等

︑⁝ 史致 任撤 筥退 出之 間於 石橋 下落 笏︑ 居筥 取加 笏退 出︑ 大夫 也︑ 挿腰 笏往 古不 落 事也

︑﹂

︵大 日本 古記 録︶ とあ り︑ 陣か ら史 が退 出す る際 に︑ 史が 石橋 のと ころ で笏 を落 とし たこ とが うか がえ る︒ これ と同 様︑ 陣よ りの 退出 で史 が同 じ経 路を とる 例は

︑そ の後 の 記録 にも 見ら れ︑ たと えば

﹃岡 屋関 白記

﹄嘉 禄元

︵一 二二 五︶ 年二 月三 日条 にも 著陣 にお いて

「則 史退 去︑ 史渡 石橋 之程 取笏

︑﹂

︵大 日本 古記 録︶ とあ る︒ 時代 はさ らに 下る が﹃ 深心 院関 白記

﹄建 長七

︵一 二五 五︶ 年六 月二 十五 日条 にお いて も

「退 出︑ 史渡 石橋 之程 取笏

︑﹂

︵大 日本 古記 録︶ とい う︑

﹃岡 屋関 白記

﹄と ほぼ 同文 があ り︑ 著陣 にお いて 史が 陣を 退出 のの ち︑ 石橋 を渡 ると いう 経路 は︑ 平安 時代 から 鎌倉 時代 を通 じて 固定 して いる と見 られ る︒

﹃岡 屋関 白記

﹄﹃ 深心 院関 白記

﹄に あ るよ うに

︑石 橋を 渡る とこ ろで 笏を 取り 直す とい うの が本 来の 式次

﹁石 橋﹂ 考

三一

(9)

第と なっ てい ると ころ であ りな がら

︑﹃ 小右 記﹄ のほ うで は笏 を落 とし てし まっ たと いう こと にな るだ ろう

︒先 ほど の﹃ 年中 行事 絵 巻﹄ に戻 ると

︑こ の﹁ 石橋

﹂も

︑陣 から の退 出経 路上 に渡 され てい ると 見ら れる

︒﹃ 年中 行事 絵巻

﹄で みる 限り

︑小 さな 板状 の石 を架 け渡 した 橋と いう 形状 であ った と考 えて 良く

︑形 は飛 び石 でも 階段 状で もな いこ とか ら︑ これ は︑ 平安 時代 の﹁ 石橋

﹂の

︑第 三の 意味 と分 類す るこ とが でき よう

︒ なお

︑平 安時 代の 古記 録に 見ら れる

︑儀 式中 の﹁ 石橋

﹂が

︑必 ず しも 全て

︑第 三の 意味 の﹁ 小さ な石 の架 け橋

﹂だ った とは いえ ない

︒ たと えば

﹃愚 昧記

﹄承 安元

︵一 一七 一︶ 年正 月七 日条 では

﹁内 弁召 式部 丞︑ 々昇 石橋 参上

︑膝 行進 兀子 辺︑ 内弁 以左 手給 下名

︑﹂

︵大 日本 古記 録︶ とあ り︑ 石橋 は﹁ 昇﹂ るも のと なっ てい る︒ ここ まで 見て きた 古記 録で

︑石 橋を

﹁渡

﹂と あっ たの とは 異な る︒ これ につ いて は︑

﹃江 家次 第﹄ 巻一

﹁元 日宴 会﹂ の下 名の 式次 第に

﹁二 省丞 来立

︑︿ 近代 昇自 階不 可然

︑壇 下置 少石 踏之 昇也

︑﹀

︵増 訂故 実叢 書︶ と割 注が あり

︑元 来は 壇の 下に 置い た﹁ 少石

﹂を 踏ん で昇 って いた が︑ 階よ り昇 るよ うに なっ たと いう 変遷 があ った よう であ る︒ さて

︑こ のよ うに

︑資 料的 根拠 によ って

︑平 安時 代の 文献 に見 ら

れる

﹁石 橋﹂ を︑ 第一 に﹁ 飛び 石﹂

︑第 二に

﹁石 の階 段﹂

︑第 三に

﹁小 さな 石を 架け 渡し た橋

﹂に 分類 した 上で

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄に 戻る

︒ 三一 四歌 の﹁ 石橋

﹂は

︑ど の意 味と なる であ ろう か︒ 前述 のよ うに 第二 の意 味は 三一 四歌 の文 脈か らは 排除 され

︑ま た︑ 鴨川 の川 幅か らし て第 三の 意味 も考 えに くい

︒蓋 然性 が高 いの は︑ 第一 の﹁ 飛び 石﹂ の意 味と 考え られ るで あろ う︒ 平安 時代 の文 献を 検す る限 り︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ の﹁ いし はし

﹂と は︑

﹁飛 び石

﹂を 意味 して いた 可能 性が 高い

︒ 五︑

﹃宇 治拾 遺物 語﹄ の﹁ 石橋

﹂例 の再 検討 さて

︑こ こま での 検討 で︑

﹃万 葉集

﹄の 平安 時代 の写 本や

︑平 安 時代 の文 献に 見ら れる

﹁石 橋﹂ を総 合的 に確 認し た結 果か ら︑

﹃梁 塵秘 抄﹄ の解 釈の 上で は︑

﹁飛 び石

﹂が もっ とも 当て はま るこ とを 確認 して きた

︒こ こで 次に

︑院 政期 の﹁ 後﹂ の文 献に も﹁ 石橋

﹂と いう 言葉 に﹁ 飛び 石﹂ の意 味が 読み 取れ る例 を挙 げる

︒﹁ 飛び 石﹂ の意 味が 院政 期の 後ま で通 底し て継 続的 に見 られ るこ とを 確認 して おき たい

﹃宇 治拾 遺物 語﹄ 五七 話﹁ 石橋 の下 の蛇 の事

﹂で は︑ 雲林 院の 菩 提講 に行 く途 中︑ 女が

﹁石 橋﹂ を踏 み返 した とこ ろ︑ 石の 下の 蛇が 解放 され

︑女 の後 をつ ける とい う話 が展 開す る︒

﹁石 橋﹂ 考

三二

(10)

﹁こ の近 くの 事な るべ し︒ 女あ りけ り︒ 雲林 院の 菩提 講に

︑大 宮を 上り に参 りけ る程 に︑ 西院 の辺 近く なり て石 橋あ りけ る︒ 水の ほと りを 二十 余り 三十 ばか りの 女︑ 中結 ひて 歩み 行く が︑ 石橋 を踏 み返 して 過ぎ ぬる 跡に

︑踏 み返 され たる 橋の 下に

︑ 斑な る蛇 のき りき りと して ゐた れば

︑石 の下 に蛇 のあ りけ る とい ふ程 に︑ この 踏み 返し たる 女の 尻に 立ち て︑ ゆら ゆら と この 蛇の 行け ば︑

︵略

︶こ の女 の尻 を離 れず 歩み 行く 程に

︑雲 林院 に参 り着 きぬ

︒﹂

︵新 編全 集︶ 諸注 とも

︑﹁ 石橋

﹂に は特 に何 の注 記も され てお らず

︑文 字通 り

﹁石 造り の小 さな 橋﹂ のよ うに 受け 取ら れか ねな い箇 所で ある

︒ しか し︑ ここ で注 目し たい のは

﹁石 橋を 踏み 返﹂ す直 前に

︑﹁ 中 結ひ て歩 み行 く﹂ とい う女 の様 子が わざ わざ 書か れて いる こと であ る︒

﹁中 結ひ て﹂ は︑

﹁衣 が足 にま つわ りつ かな いよ うに

︑衣 を少 し 引き 上げ

︑腰 の辺 に帯 を結 ぶ着 方︵ 新編 全集 注︶

﹂︑

﹁衣 を少 し引 き 上げ て帯 を腰 の中 程に 結ぶ こと

︵新 大系 注︶

﹂と され るが

︑な ぜ︑ そん な仕 草が わざ わざ 描か れる ので あろ うか

︒ ここ で﹁ 石橋

﹂が

︑文 字通 りの

﹁石 を架 け渡 した 橋﹂ では なく

﹁飛 び石

﹂の 意で あっ たと 考え てみ れば

︑女 は飛 び石 を渡 る前 に︑ 石と 石の 間の 飛距 離を 考え て﹁ 中結 ひ﹂

︑つ まり 帯を 締め 直し たと いう こと にな り︑ この 箇所 の文 脈は

︑よ り鮮 明に なる

︒仮 にも し︑

単に

﹁板 状の 石を 架け 渡し た橋

﹂で あれ ば︑ 歩幅 がさ ほど 変わ ると は思 えず

︑こ こで 敢え て﹁ 中結 ひ﹂ と書 かれ た文 の意 味が 通り にく くな って しま う︒

﹁飛 び石

﹂を 前に して

︑歩 幅が 広が るこ とを 想像 した から こそ

︑女 は衣 を引 き上 げた ので あろ う︒ この よう に︑

﹁石 橋﹂ の解 釈を 厳密 にす るこ とで

︑﹃ 宇治 拾遺 物語

﹄の この 場面 の映 像も

︑よ り具 体的 にな る︒

﹃宇 治拾 遺物 語﹄ の本 文は

︑そ れ以 前の

﹃宇 治大 納言 物語

﹄な ど の表 現が 書承 され た可 能性 も高 いが

︑こ の﹁ 石橋

﹂を

﹁飛 び石

﹂と する 解釈 が︑ 本説 話に おい ても 受け 継が れ当 ては まる こと から

﹃宇 治拾 遺物 語﹄ 以前 の成 立で ある

﹃梁 塵秘 抄﹄ の時 代に おい ても

︑ 石橋 を飛 び石 とす る意 味は 保持 され てい たと 考え られ る︒ 六︑

﹁よ

﹂の 意味 から 見た 本文 解釈 とこ ろで

︑こ の三 一四 歌で

︑﹁ いし はし よ﹂ の﹁ いし はし

﹂が 飛 び石 だと する と︑ それ は本 文解 釈に どの よう に波 及す るの か︒ この

﹁石 橋よ

﹂は

︑仮 に石 造り の橋 であ れば

︑﹁

︵立 派な

︶石 橋だ なぁ

﹁︵ なん と︶ 石橋 があ るよ

﹂と いう 詠嘆 とし ての ニュ アン スで も通 る が︑ 飛び 石と する 場合

︑ど のよ うに 解釈 され るか

︒こ こで

︑国 語学 の成 果を 援用 して 本文 を検 討し たい

﹃日 本国 語大 辞典

﹄︵ 第二 版︶ の整 理に よれ ば︑ 間投 助詞

︵終 助詞

﹁石 橋﹂ 考

三三

(11)

に分 類さ れる こと も︶ の﹁ よ﹂ には

︑大 まか に二 つの 意味 があ ると され る︒ 一つ は︑ 文中 の用 語や 終止 した 文・ 体言 止め の文 を受 けて

﹁感 動を こめ て聞 き手 に働 きか け︑ また 念を 押す のに 用い られ る﹂ 用法 で︑ もう 一つ は︑

﹁体 言を 受け て︑ 呼び 掛け を表 わす

﹂用 法で ある

︒し かし なが ら︑ 三一 四歌 の文 脈で は︑ 石橋 に向 かっ て呼 びか けて いる とは 考え にく い︒ 残る は詠 嘆か

︑念 押し の用 法で ある

︒ もし 仮に

︑﹁ 石橋 よ﹂ の﹁ よ﹂ が詠 嘆の 意と なる には

︑先 に述 べ たよ うに 三一 四歌 自体 が石 橋を 目に した 直接 体験 的な 文脈 とな ろう が︑ 三一 四歌 には

﹁愛 宕寺 大仏 深井 とか

﹂の

﹁と か﹂ とい う語 が現 れ︑ これ は﹃ 梁塵 秘抄

﹄の 成立 年代 から 考え て例 示並 列の 用法 では なく

︑﹁ 不確 実な 想像 また は伝 聞を 表す

︵日 国第 二版

︶﹂ 用法 と考 え られ る︒

﹁と か﹂ は︑

﹁不 確か な引 用﹂ から

﹁例 示並 列﹂ へと 変化 し たこ とが 知ら れ︑ ここ は近 年の 岩田 美穂 氏の まと めに よれ ば﹁ 話者 自身 が直 接は っき りと は知 らな いが

︑聞 いた こと があ る︑ 見た こと があ ると いっ た不 確定 的な 意味

﹂が 年代 的に 該当 する と考 えら れる

︒ つま り︑

﹁過 去に 見聞 きし たこ とを 他者 に伝 える とい う文 脈で 用い られ

︵岩 田氏

︶﹂

︑伝 聞的 な気 持ち が働 いて いる とい える ので ある

︒ そこ から

﹁よ

﹂の 意味 は︑ ある 人が 一人 称的

・体 験的 に石 橋を 見て

﹁石 橋だ なぁ

﹂﹁ 石橋 があ るよ

!﹂ とい うよ うに 感動

・詠 嘆を 表し た もの では なく

︑他 者へ の﹁ 念押 し﹂ の意 味︑ すな わち

﹁石 橋が ある

よ﹂

﹁石 橋で すよ

﹂と いう ニュ アン スで ある と考 えら れよ う

︒ なお

︑﹁

⁝で すよ

﹂と 念押 しす る意 の﹁ よ﹂ にあ たる 例は

︑以 下 のよ うに

﹃梁 塵秘 抄﹄ の前 後の 時代 にわ たっ て見 られ る︒ 『 紫式 部日 記﹄

﹁い ま一 間に ゐた る人 々︑ 大納 言の 君︑ 小少 将の 君︑ 宮の 内侍

︑弁 の内 侍︑ 中務 の君

︑大 輔の 命婦

︑大 式部 のお もと

︑殿 の宣 旨よ

︒﹂

︵新 編全 集︶ 『 源氏 物語

﹄︵ 紅梅

︶﹁ その ころ

︑按 察大 納言 と聞 こゆ るは

︑故 致仕 の大 臣の 二郎 なり

︑亡 せた まひ にし 衛門 督の さし つぎ よ︑

︵新 編全 集︶ 『 今昔 物語 集﹄

︵巻 三ノ 二十 一︶

﹁仏 ノ宣 ハク

︑﹃ 其ノ 女コ ソハ 汝 ガ家 ノ屎 尿ノ 穢浄 ツル 女ヨ

︒﹄

﹂︵ 新大 系︶ 『 増鏡

﹄︵ 第二

・新 島守

︶﹁ 我こ そは 新島 もり よ隠 岐の 海の 荒き 浪か ぜ心 して 吹け

﹂︵ 旧大 系︶ 外村 南都 子氏

をは じめ とし てこ れま でに も指 摘が ある よう に︑ 三 一四 歌は 寺社 への 参詣 の旅 を謡 う道 行歌 謡で あり

︑﹁ 何れ か清 水へ 参る 道﹂ と始 まる こと から いっ ても

︑道 中で 見落 とし ては いけ ない 地点 を盛 り込 んで いる と考 えら れる

︒三 一四 歌の

﹁石 橋よ

﹂は

︑京 の北 側か ら鴨 川に 並行 して 下っ てく る中 で目 に見 える 物を 歩行 者の 視線 を想 定し なが ら描 き出 して いる とい える が︑ 歩い てい るだ けで は見 落と しが ちな 石橋

︑す なわ ち飛 び石 を渡 らな いと なら ない こと

﹁石 橋﹂ 考

三四

(12)

を︑ 念押 しし てい るの では ない だろ うか

︒ この 石橋 を見 落と して しま うと

︑清 水に 行く ため の洛 外へ の出 入 り口 から 外れ るこ とに なる

︒﹃ 梁塵 秘抄

﹄で は﹁

〇〇 へ参 る道

﹂型 の歌 謡が 五首 ある が︑ 三一 二番 の﹁ 下り 松﹂

﹁実 らぬ 柿の 木﹂

︑四 一 九番 では

﹁七 曲﹂

﹁崩 坂﹂ とい った

︑名 前か らし て﹁ 奇異 な形

﹂あ るい は﹁ 険路

﹂が 想像 され る︑ いわ ば異 空間 を踏 み越 えて

︑霊 験所 にた どり つく 点が 特徴 的で ある

︒こ れら は︑ 道中 で鑑 賞す べき 立派 な名 所・ 景物 とい うよ り︑ 洛中 から 出た 後に 見落 とし ては なら ない 目印 とし て機 能し てい る︒ 見慣 れな い異 形を 想起 させ る名 称に よっ ても

︑う っか り見 落と さな いよ うに 注意 喚起 する 意識 があ ると いえ よう 橋 ︒ が流 れて しま った 後に 残さ れた 橋の 支石 の連 続︑ すな わち 飛び 石を

﹁い しは し﹂ と表 現し たも のと 想像 すれ ば︑ この 石橋 は︑ うっ かり 見落 とし がち な形 状で ある ばか りで なく

︑﹁ 崩坂

﹂﹁ 下り 松﹂ の よう に︑ 本来 的な 姿か らす れば 異形 であ り︑ 非日 常を 踏み 越え て行 く印 象を も持 たせ る︒ そし てそ れは

︑都 の人 々に とっ て︑ 歌枕 のよ うな おぼ ろげ な遠 景で はな く︑ 名実 とも に存 在の 実感 が共 有さ れる 都の 身近 な﹁ 実景

﹂と して の異 空間 であ った

七︑ まと め 本稿 では

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄三 一四 歌の

﹁五 条ま で いし はし よ﹂ に つい て︑ 主に

﹃万 葉集

﹄か ら鎌 倉初 期頃 まで の文 献資 料を 用い て︑ 再検 討を 行っ た︒ 平安 中期 から 鎌倉 初期 の五 条橋 界隈 が現 れた 文献 資料 から は︑ 管見 の限 り五 条橋 の材 質に 触れ た資 料は 見あ たら ず︑ 何度 か流 され てい るの で石 造り では ない こと が推 測で きる 程度 であ り︑ 院政 期の 五条 橋の 材質 を確 定す る根 拠と はな らな い︒ そこ で︑ 文献 上で

︑﹁ いし はし

﹂と いう 訓み の側 面か ら検 討を 行う と︑

﹃梁 塵 秘抄

﹄に 近い 平安 時代 の書 写と 考え られ る﹃ 万葉 集﹄ に︑

﹁飛 び石

﹂ を意 味す ると 考え られ る﹁ いし はし

﹂と いう 訓の 例が 見出 され る︒ また

︑﹁ 石橋

﹂と いう 言葉 が現 れる 平安 時代 の文 献を 洗い 出す と︑ それ らは およ そ︑

﹁飛 び石

﹂﹁ 石の 階段

﹂﹁ 小さ な石 を架 けた 橋﹂ の 三種 に分 類で きる

︒五 条橋 界隈 の状 況か ら推 測す るに

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄ の﹁ 石橋

﹂は

︑い わゆ る石 造り の石 橋で はな く︑ この 三種 のう ちの

﹁飛 び石

﹂の 意で あっ た蓋 然性 が高 い︒ また

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄の 時代 の 後に あた る﹃ 宇治 拾遺 物語

﹄に も︑

﹁飛 び石

﹂と 解釈 した ほう が良 いと 見ら れる

﹁石 橋﹂ の例 が見 られ

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄成 立の 時代 の

﹁石 橋﹂ とい う語 に﹁ 飛び 石﹂ の意 味が 存在 して もお かし くな い︒ 助詞

﹁よ

﹂﹁ とか

﹂の 意味 から も︑ ここ では 道行 歌謡 なら では の

﹁石 橋﹂ 考

三五

(13)

﹁第 三者 に土 地の 情報 を伝 えよ うと する 意識

﹂﹁ 念押 しす る意 識﹂ が ある と考 えら れる

︒よ って

︑﹃ 梁塵 秘抄

﹄が 謡っ た﹁ 石橋 よ﹂ は︑ 見落 とす こと がで きな い五 条の 飛び 石を

︑都 から 清水 へ向 かう ため の経 路の 目印 とし て︑ また 参詣 のた めに 踏み 越え なけ れば なら ない 隘路 とい うイ メー ジを も内 包し つつ

︑謡 い込 まれ たも のと 考え られ る︒ 注

① 底本 では

﹁京

﹂の 下に 空白 があ るが

︑本 稿で は従 来の 説に 従い

﹁京 極 くだ り﹂ と解 釈す るこ とと する

﹃図 説上 杉本 洛中 洛外 図屏 風を 見る

﹄小 澤弘

・川 嶋将 生︑ 河出 書房 新 社︑ 一九 九四 年

﹃梁 塵秘 抄全 注釈

﹄上 田設 夫︑ 新典 社︑ 二〇

〇一 年

④ ビギ ナー ズ・ クラ シッ クス 日本 の古 典﹃ 梁塵 秘抄

﹄植 木朝 子編

︑角 川 学芸 出版

︑二

〇〇 九年

﹃梁 塵秘 抄評 釈﹄ 荒井 源司

︑甲 陽書 房︑ 一九 五九 年

⑥ 永池 健二

﹁︿ 王城

﹀の 内と 外

今様

・霊 験所 歌に 見る 空間 意識

︵﹃ 日本 歌謡 研究

﹄第 二七 号︑ 日本 歌謡 学会

︑一 九八 八年 七月

︑後 に﹃ 逸 脱の 唱声

歌謡 の精 神史

﹄︵ 梟社

︑二

〇一 一年

︶に 所収

︶︒ なお

︑こ のほ か五 味文 彦氏 も三 一四 歌に つい て﹁ 石橋 とは あっ ても

︑石 です べて が出 来て いた ので はな い﹂ とす る︵

﹃梁 塵秘 抄の うた と絵

﹄文 春新 書︑ 二〇

〇二 年︶ が︑ 具体 的な 形状 につ いて

︑そ れ以 上に は言 及さ れて いな い︒

⑦ 二〇

〇六 年七 月二 十一 日﹁ 全国 農業 新聞

﹂掲 載の 拙稿 コラ ム﹁ 弁慶 と 牛若 丸﹂

︒な お︑ 石橋 が飛 び石 を指 す可 能性 につ いて は︑ その 後︑ 植木

朝子 氏の

﹁書 評 永池 健二 著﹃ 逸脱 の唱 声 歌謡 の精 神史

﹄﹂

︵﹃ 奈良 教 育大 学 国文 研

究と 教育

三五 号︑ 二〇 一二 年三 月︶ があ り︑ 本稿 とは 少々 立場 を異 にす る部 分も ある もの の︑ 石橋 を﹁ 石を 飛び 飛び に置 いた もの や平 たい 一枚 石を 渡し たも の﹂ とす る解 釈の 可能 性に 言及 して おら れる

︒あ わせ て参 照さ れた い︒

﹃説 話・ 伝承 学﹄ 一六

︑二

〇〇 八年 三月

⑨ 佐佐 木信 綱編

﹃原 本複 製 梁塵 秘抄

﹄好 学社

︑一 九四 八年

⑩ 以下

︑﹃ 万葉 集﹄ 諸本 の書 写年 代は 岩波 文庫

﹃万 葉集

﹄二

︵佐 竹昭 広・ 山田 英雄

・工 藤力 男・ 大谷 雅夫

・山 崎福 之校 注︑ 二〇 一三 年︶ 巻末 所収 の﹁ 諸本 解説

﹂に 従っ た︒

﹃元 暦校 本万 葉集

﹄勉 誠社

︑一 九八 六年

﹃類 聚古 集﹄ 臨川 書店

︑一 九九 二年 発行 縮刷 新版

⑬ 注⑪

・⑫ に同 じ︒ また 天治 本は

﹃校 本万 葉集

﹄巻 七︵ 岩波 書店

︑一 九 七九 年︶

﹃和 名類 聚抄

古写 本声 点本 本文 およ び索 引﹄ 馬淵 和夫

︑風 間書 房︑ 一九 七四 年

﹃図 書寮 本類 聚名 義抄

本文 影印 解説 索引

﹄勉 誠出 版︑ 二〇

〇五 年再 版発 行

﹃天 理図 書館 善本 叢書

類聚 名義 抄 観智 院本

法﹄ 八木 書店

︑一 九 七六 年

﹃古 語大 辞典

﹄巻 末付 録解 説︑ 小学 館

﹃新 撰字 鏡 増訂 版﹄ 京都 大学 文学 部国 語学 国文 学研 究室 編︑ 臨川 書 店︑ 一九 七九 年

⑲ 日本 の絵 巻︑ 中央 公論 社︑ 一九 八七 年︑ 九四 頁

⑳ 岩田 美穂

﹁例 示並 列形 式と して のト カの 史的 変遷

﹂︵

﹃日 本語 複文 構文 の研 究﹄ ひつ じ書 房︑ 二〇 一四 年︶

﹁石 橋﹂ 考

三六

(14)

﹁よ

﹂の 役割 につ いて は森 野崇

﹁平 安時 代に おけ る終 助詞

﹁よ

﹂の 機 能﹂

︵﹃ 秋草 学園 短期 大学 紀要

﹄第 十一 号︑ 一九 九四 年︶

︑富 岡宏 太﹁ 対 象事 態の 提出 中

古和 文に おけ る体 言下 接の 終助 詞ヨ につ いて

﹂︵

﹃國 學院 雑誌

﹄二

〇一 四年 五月

︶︒

﹁中 世歌 謡と

“修 行の 道行

早歌 を中 心と して

﹂﹃ 日本 歌謡 研究

﹄ 一九 九四 年三 月

︹付 記︺ 本稿 は︑ 二〇

〇六 年七 月二 十一 日掲 載﹁ 全国 農業 新聞

﹂拙 稿コ ラ ム﹁ 弁慶 と牛 若丸

﹂︵ その 後︑

﹃異 界百 夜語 り﹄

︵堤 邦彦 氏・ 橋本 章 彦氏 編︑ 三弥 井書 店︑ 二〇 一四 年︶ に所 収︶ を基 とし

︑大 幅に 改稿 した もの であ る︒ 成稿 にあ たり

︑第 六回

﹁都 市風 俗画 研究 会︵ 人間 文化 研究 機構 連携 研究

︶﹂

︵二

〇一 四年 十一 月八 日︑ 於日 本女 子大 学︶ にお ける 発表 の席 上︑ 大高 洋司 氏︑ 小島 道裕 氏︑ 真島 望氏

︑藤 川玲 満氏 はじ め出 席者 の諸 先生 方よ り貴 重な ご意 見を

︑ま た別 途︑ 植木 朝子 氏︑ 舘野 文昭 氏︑ 嶋本 尚志 氏︑ 杉山 俊一 郎氏 より もご 教示 を頂 いた

︒ご 意見 を賜 りま した 先生 方に

︑あ つく お礼 申し 上げ ます

﹁石 橋﹂ 考

三七

参照

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を世に間うて一世を風塵した︒梅屋が﹁明詩一たび関って宋詩鳴る﹂

ると︑上手から士人の娘︽腕に圧縮した小さい人間の首を下げて ペ贋︲ロ

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十四 スチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法 十五 エチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法

石石法石o0 000  一川一こ第石川石こ律第石川石田耳溢剖痔│浬剖満剖b 

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